2015年03月23日

◆”日本”で一喜一憂する韓国の不思議

黒田 勝弘



韓国は毎日のように日本、日本、日本だ。日本のことが気になって気になって仕方がないという風景だ。よく、世論調査の結果に出るように「いちばん嫌いな国は日本」が本当なら、これはたまらなく不愉快だろう。

「われわれはもう日本の属国ではない!」「日本のことなどもう見たくも聞きたくもない!」と叫ぶに違いない。

今年は韓国が日本の統治から解放されて70年。しかし「日本のことはもういい」という声はどこからも上がらない。「日本離れできない韓国」とは筆者が10年ほど前に書いた本のタイトルだが、相変わらず日本、日本、日本なのだ。

20日の韓国紙の1面トップも「敗戦70年ぶりに安倍(晋三首相)が米議会で演説」(中央日報)である。韓国では日本の首相が訪米して議会で演説するという話に異様な関心を示している。「安倍演説実現」に対しては、いまいましい雰囲気がありありで、ついでにミシェル・オバマ米大統領夫人の日本訪問にも嫉妬(?)がうかがわれる。

安倍首相の米議会での演説への関心は、歴史への反省に言及するかどうかなのだが、日米は70年前に戦争したのだから当然、そうした歴史には触れるだろう。関係ない韓国が騒ぐのは、慰安婦問題で日本に反省させようということだが余計なことだ。

そこまでの関心と“干渉”は日本人の反韓感情を刺激するだけということが分かっていない。

韓国(のマスコミ)は日米関係が深まることに、どこか不安と嫉妬を抱いているように見える。

結果的に安保関係で日本の役割が増大することに伝統的な警戒心を働かせるということは分からないでもないが、この地域の安全保障問題で日本抜きの米韓安保協力はありえないという現実を見ようとしない。

先ごろシャーマン米国務次官が米国内の講演で「政治指導者が過去の敵を非難することで安上がりな拍手を受けることは難しいことではない」と述べたと大騒ぎしたのもそうだ。

特定の国を挙げたわけではないのに、韓国で一斉に不満と非難の声が上がったのは、韓国のことを言われたと思ったからだ。この裏には、過去にこだわった韓国の対日外交に米国が不満と批判を抱いているという話が伝わっていたことがある。

韓国マスコミは「日本の肩をもった」と嫉妬(?)する前に、米国向けに慰安婦問題などで日本非難に熱を上げるという、日米韓3国関係の中での自らの特異さ、異様さを振り返ってみるのが先だろう。

先に大騒ぎしたメルケル独首相の訪日では「歴史で日本に厳しく注文」などと我田引水して大喜びしたが、これも不思議だ。韓国はもう十分に大きく強い国になったのだから、日本のことで一喜一憂することはないと思うのだが。

いや、韓国への日本の影響はいまだそれほど大きいのだろうか。その意味で最近の一喜一憂の中で韓国側に最もショックだったといわれているのが、安倍首相の国会演説や外務省のホームページなどで、韓国を「日本と自由民主主義などの価値を共有する国」と明示しなくなったことだ。

これは「反日無罪」をはじめ日本批判なら何でもありという韓国の対日姿勢に対する日本人の嫌気の反映である。日本と価値を共有する米国も韓国のそういうところにいらだっているのだ。(在ソウル)

産経ニュース【緯度経度】2015.3.21(収録:久保田 康文)

◆「三猿」中国特派員

渡部 亮次郎


中国にいる日本の特派員は「真実」を取材する自由がない。知ったことを自由に送信する自由も無い。常に言動を中国官憲に監視され、牽制され、二六時中、本国送還に怯えている。「見ざる 言わざる 聞かざる」。特派員だけれども記者ではない?

実は容共国会議員たちが日中国交回復以前に結んでしまった日中記者交換協定に縛られていて、実際、国外退去処分を体験しているからである。殆どの評論家はこのことを知らず「日本のマスコミは中国にだらしない」と非難する。

中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局長・柴田穂氏が、中国の壁新聞(街頭に貼ってある貼り紙)を翻訳し日本へ紹介したところ1967年追放処分を受けた 。この時期、他の新聞社も、朝日新聞を除いて追放処分を受けている。

80年代に共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後、処分を受けた。

90年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道した」などとして、当局から国外退去処分を通告された例がある。読売新聞社は、記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している、としている。

艱難辛苦。中国語を覚えてなぜマスコミに就職したか、と言えば、中国に出かけて報道に携わりたいからである。しかし、行ってみたら報道の自由が全く無い。

さりとて協定をかいくぐって「特種」を1度取ったところで、国外退去となれば2度と再び中国へは行けなくなる。国内で翻訳係りで一生を終わる事になりかねない。では冒険を止めるしかない。いくら批判、非難されてもメシの食い上げは避けようとなるのは自然である。

日中記者交換協定は、日中国交再開に先立つ1964(昭和39)年4月19日、日本と中国の間で取り交わされた。国交正常化に向けて取材競争を焦った日本側マスコミ各社が、松村謙三氏ら自民党親中派をせっついて結んでしまった。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」。

(1)日本政府は中国を敵視してはならない
(2)米国に追随して「2つの中国」をつくる陰謀を弄しない
(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない
すなわち、中国政府(中国共産党)に不利な言動を行なわない

日中関係の妨げになる言動を行なわない・台湾(中華民国)独立を肯定しないことが取り決められている。違反すると、記者が中国国内から追放される。これらの協定により、中国に対する正しい報道がなされていないわけだ。

新聞・TV各社がお互いに他社に先んじて中国(北京、上海など)に自社記者、カメラマンを常駐させ他社のハナを明かせたいとの競争を展開した結果、中国側に足元を見られ、屈辱的な協定にゴーサインを出してしまったのである。しかも政府は関与していない。国交が無かったから。

1964(昭和39)年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志(早大出身)事務所は、その会談において、日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。

会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員と廖承志・中日友好協会会長。この会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。

1968(昭和43)年3月6日、「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が発表され、LT貿易に替わり覚書貿易が制度化された。

滞中記者の活動については、例の3点の遵守が取り決められただけだった。

当時日本新聞協会と中国新聞工作者協会との間で交渉が進められているにも拘わらず、対中関係を改善しようとする自民党一部親中派によって頭越しに決められたという側面があるように見える。しかし実際は承認していた。

日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどと今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。

以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを禁じられた。

田中角栄首相による1972年9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)が発表され、日中両国間の国交は正常化した。

1974年1月5日には両国政府間で日中貿易協定が結ばれ、同日には「日中常駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)も交わされた。しかし日中記者交換協定は全く改善されていない。

対中政策は、以前と異なって中国の大学で中国語を学んだ「チャイナスクール」によって独占されているから、協定を変えようと提案する動きなど出るわけが無い。

かくて現在に至るまで、中国へ不利な記事の報道や対中ODAに関する報道は自粛されている。

2015年03月22日

◆「きりたんぽ」怖い

渡部 亮次郎


今やご存知のように秋田料理「きりたんぽ」は殆ど「全国区」になったが、味は全く落ちてしまった。地元秋田では、空港や主要駅で「土産」として通年販売する都合上、潰した飯の中に「防腐剤」を入れ始めたので、「コメの秋田」の美味しさは全く無くなった。

同じ秋田県でも、山形や宮城県に隣接する県南では、きりたんぽは食べない。あれは県北のもの。昔は南部藩だった鹿角郡が発祥の地。あの辺に暮らした熊の狩猟師「またぎ」が作り出したもの、といわれている。だが、私は秋田県人の癖に、県北に住むようになるまで全く知らなかった。

昭和33(1958)年6月、NHK秋田放送局大館市駐在通信員になって、大館市内に下宿し、いろいろな取材を始めた。

大館警察署の取材は早朝4時に起きて行く。勿論、他社は誰も来ていない。管内の火事、交通事故の一報が沢山入っている。そのなかから適当なものを、それなりの文章にして、秋田放送局へ電話で送稿。

受けるのは、当直のアナウンサー。大体新人だ。だが、ローカル放送は午前6時。その前の5時は仙台から東北地方全域向けの放送。そこでアナウンサー殿に頼んで仙台に吹き込んでもらう。

仙台の報道課には記者が泊まっている。デスクが昨夜仕組んでいったニュースはすべて昨日までのもの。大館発の交通事故や火事は唯一のきょうの「ニュース」だ。かくてNHK仙台発の午前5時の「管内ニュース」は、 毎朝「大館発」だらけ。面白かった。

そのうちに忘年会のシーズンになった。各社の記者は老人ばかり。出世は止まっているから、官庁や商工会議所にたかって酒を呑むことばかり考えている。

こちらは「明日」に望みを賭けている身だから、「たかり」は避けたい。だが、まだ民放記者の駐在の無い時代。宴席からNHKが欠けると目立つとかで、「そこは付き合い」と引っ張られる。

問題は「料亭」だ。1軒しかない。「芸者」もそこにしか出入りするところが無い。スポンサーは変われど、料亭も芸者も毎晩同じ顔ぶれ。しかも料理は決って新米で出来た「きりたんぽ」。

毎日、毎晩「きりたんぽ」だから、終いには「きりたんぽ怖い」になってしまった。あれから60年近くが過ぎたが「きりたんぽ怖い」は治らない。それなのに、先日、銀座の呑み屋で出されたから、びっくりした。

2015年03月21日

◆粋そのもの西条八十(やそ)

渡部 亮次郎



西条八十は早稲田大学仏文科の教授でありながら、童謡「歌を忘れたカナリヤ」から「とんこ節」「芸者ワルツ」まで数多くの作詞を通じて日本の歌謡界に君臨した粋人である。

文末にリストを掲載しますが、戦前、戦中、戦後と筆者が歌わなかった歌はないくらい、歌謡界に尽力している。それでいて本人は音痴だったと子息らは明かしている。

「有楽町で逢いましょう」(フランク永井)の作詞をデパート社長から依頼された宴席でのこと。「なんですか、最近の歌は。とんこ節、なんて下品なんでしょう」と社長。「あれは私の作品です」。

それは失礼しました。それよりひどいのは芸者ワルツですと社長が嘆けば八十「あれも私の作詞です」と。結局「有楽町で逢いましょう」は弟子の佐伯孝夫が担当した。ちなみに作曲はシベリア抑留帰り「異国の丘」の吉田正。

「トンコ節(昭和24年)

作詞:西条八十
作曲:古賀政雄
唄:久保幸江・加藤雅夫、

あなたのくれた おびどめの
達磨の模様が チョイト気にかかる
さんざ遊んで ころがして
あとでアッサリ つぶす気か
ネー トンコトンコ

言えばよかった ひとことの
何故に言えない 打明けられない
バカな顔して また帰る
恋は苦しい おぼろ月
ネー トンコトンコ

こうしてこうすりゃ こうなると
知りつつこうして こうなったふたり
ほれた私が 悪いのか
迷わすお前が 悪いのか
ネー トンコトンコ

ゲイシャ・ワルツ 昭和27年(1952年)
作詞:西条八十
作曲:古賀政男
歌唱:神楽坂はん子

(一)
あなたのリードで 島田もゆれる
チーク・ダンスのなやましさ
みだれる裾も はずかしうれし
芸者ワルツは 思い出ワルツ

(二)
空には三日月 お座敷帰り
恋に重たい 舞い扇
逢わなきゃよかった 今夜のあなた
これが苦労の はじめでしょうか

(三)
あなたのお顔を 見たうれしさに
呑んだら酔ったわ 踊ったわ
今夜はせめて 介抱してね
どうせ一緒にゃ くらせぬ身体

(四)
気強くあきらめ 帰した夜は
更けて涙の 通り雨
遠く泣いてる 新内流し


戦時中は「軍歌」も多く作詞した。

若鷲の歌

作詞 西条八十
作曲 古関裕而
歌手 霧島 昇


若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く

燃える元気な 予科練の
腕はくろがね 心は火玉
さっと巣立てば 荒海越えて
行くぞ敵陣 なぐり込み

仰ぐ先輩 予科練の
手柄聞くたび 血潮が疼く
ぐんと練れ練れ 攻撃精神
大和魂にゃ 敵はない

生命惜しまぬ 予科練の
意気の翼は 勝利の翼
見事轟沈した 敵艦を
母へ写真で 送りたい

西條 八十(さいじょう やそ 1892(明治25)年1月15日 ー 1970(昭和45)年8月12日)は、日本の詩人、作詞家、仏文学者。

親戚に外交官の石井菊次郎、久保田貫一郎がいる。長男の西條八束は陸水学者。長女の三井ふたばこ(西條嫩子)も詩人。漢字表記は旧字体の西條が正しい。

東京府出身。1898(明治31)年、桜井尋常小学校に入学。松井喜一校長に影響を受ける。旧制早稲田中学(現早稲田中学校・高等学校)在学中に吉江喬松と出会い生涯の師と仰ぐ。

吉江に箱根の修学旅行で文学で身を立てたいと打ち明け、激励を受ける。中学時代に英国人女性から英語を学んだ。正則英語学校(現在の正則学園高等学校)にも通い、早稲田大学文学部英文科卒業。

早稲田大学在学に日夏耿之介らと同人誌『聖盃』(のち『仮面』と改題)を刊行。三木露風の『未来』にも同人として参加し、1919(大正8)年に自費出版した第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立した。

後にフランスへ留学しソルボンヌ大学でポール・ヴァレリーらと交遊、帰国後早大仏文学科教授。戦後は日本音楽著作権協会会長を務めた。1962年、日本芸術院会員。

象徴詩の詩人としてだけではなく、歌謡曲の作詞家としても活躍し、佐藤千夜子が歌ったモダン東京の戯画ともいうべき『東京行進曲』、戦後の民主化の息吹を伝え藤山一郎の躍動感溢れる歌声でヒットした『青い山脈』、中国の異国情緒豊かな美しいメロディー『蘇州夜曲』、古賀政男の故郷風景ともいえる『誰か故郷を想わざる』『ゲイシャ・ワルツ』、村田英雄の男の演歌、船村メロディーの傑作『王将』など無数のヒットを放った。

王将は作詞、作曲 船村徹、歌 村田英雄の3人とも将棋を全く指せなかった。

また、児童文芸誌『赤い鳥』などに多くの童謡を発表し、北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された。薄幸の童謡詩人・金子みすゞを最初に見出した人でもある。


名前は筆名ではなく、本名である。両親は、苦しいことがないようにと、「苦」に通じる「九」を抜いた「八」と「十」を用いて命名した。

天麩羅屋経営で糊口をしのいでいた時期がある。

森村誠一の小説『人間の証明』の中で、『ぼくの帽子』(『コドモノクニ』)が引用された。1977年に映画化の際、引用されたセリフはキャッチコピーとして使われ、有名となった。なおテレビドラマは、4度製作放映された(2009年8月現在)。

1967年に作詞した「夕笛」は舟木一夫によって歌われ、最後のヒット曲となったが、三木露風の「ふるさとの」に酷似していたことから一時盗作騒ぎになった。八十は「露風本人の了解を得ていた」と弁明し、露風の遺族も特段異議を申し立てなかったため、真相不明のまま終息している。

担当編集者の回想に、宮田毬栄『追憶の作家たち』(文春新書、2004年)があり、第2章に晩年の八十が描かれている。著者は友人の詩人大木惇夫の次女である。 

主な著作

『西條八十全集』 (全17巻 国書刊行会刊 1991年-2007年)

『西條八十著作目録・年譜』 (中央公論事業出版 1972年)
同刊行委員会、西條八束編 

研究書・著作
『アルチュール・ランボオ研究』(中央公論社 1967年)
『西條八十自伝 唄の自叙伝』(人間の記録29:日本図書センターで再刊、1997年)
『女妖記』(中公文庫で再刊 2008年) 自伝的小説集

詩集(象徴詩・純粋詩)
『砂金』(1919年、自費出版)(復刻:日本図書センター、2004年)
『見知らぬ愛人』(1922年)
『美しき喪失』(1929年)
『一握の玻璃』(1947年)

詩集(その他)

『空の羊』
『少女純情詩集』 (国書刊行会で復刻、1984年)
『水色の夢』
『西條八十詩集』 (角川春樹事務所:ハルキ文庫で再刊、2004年)ISBN4758430942

訳詩集
『白孔雀』(1920年)
『世界童謡集』 水谷まさる共訳 (冨山房百科文庫で再刊、1991年)

『かなりあ』(『赤い鳥』1918年11月号)
『肩たたき』
『鞠と殿様』
『お月さん』
『水たまり』
『西條八十 名作童謡西条八十…100選』上田信道編 (春陽堂書店、2005年)


歌謡曲(流行歌)

『当世銀座節』(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1928年)
『お菓子と娘』(作曲:橋本国彦、1929年)
『東京行進曲』(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1929年)

『鞠と殿さま』(作曲:中山晋平、歌唱:平井英子、1929年)
『愛して頂戴』(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1929年)
『唐人お吉の唄(明烏編)』(作曲:中山晋平、歌唱:藤本二三吉、
1930年)

『アラその瞬間よ』(作曲:中山晋平、歌唱:藤野豊子1930年)
『この太陽』(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1930年)
『女給の唄』(作曲:塩尻精八、歌唱:羽衣歌子、1931年)

『侍ニッポン』(作曲:松平信博、歌唱:徳山?(たまき)、1931年)
『ルンペン節』(作曲:松平信博、歌唱:徳山?、(たまき)1931年)
『わたしこの頃変なのよ』(作曲:町田嘉章、歌唱:四家文子、1931年)

『銀座の柳』(作曲:中山晋平、歌唱:四家文子、1932年)
『天國に結ぶ戀』(作曲:松平信博、歌唱:徳山?(たまき)・四家文
子、1932年)
『涙の渡り鳥』(作曲:佐々木俊一、歌唱:小林千代子、1932年)

『東京音頭』(作曲:中山晋平、歌唱:小唄勝太郎・三島一声、1933年)
『佐渡を想えば』(作曲:佐々木俊一、歌唱:小唄勝太郎、1933年)
『サーカスの唄』(作曲:古賀政男、歌唱:松平晃、1933年)

『来る来るサーカス』(作曲:古賀政男、歌唱:淡谷のり子、1933年)
『十九の春』(作曲:江口夜詩、歌唱:ミス・コロムビア(松原操)、1933年)
『祖国の護り』(作曲:村越国保、歌唱:小野巡、1934年)

『勝太郎子守唄』(作曲:佐々木俊一、歌唱:小唄勝太郎、1936年)『花言葉の唄』(作曲:池田不二男、歌唱:松平晃・伏見信子、1936年)『戦友の唄』(『同期の桜』の元歌、作曲:大村能章、歌唱:樋口静雄、1938年)

『旅の夜風』(作曲:万城目正、歌唱:霧島昇・ミス・コロムビア、1938年)

『悲しき子守唄』(作曲:竹岡信幸、歌唱:ミス・コロムビア、1938年)
『支那の夜』(作曲:竹岡信幸、歌唱:渡辺はま子、1938年)

『東京ブルース』(作曲:服部良一、歌唱:淡谷のり子、1939年)
『純情二重奏』(作曲:万城目正、歌唱:霧島昇・高峰三枝子、1939年)
『誰か故郷を想わざる』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇、1940年)

『春よいずこ』(作曲:古賀政男、歌唱:藤山一郎・二葉あき子、1940年)
『お島千太郎旅唄』(作曲:奥山貞吉、歌唱:伊藤久男・二葉あき子、1940年)
『熱砂の誓い(建設の歌)』(作曲:古賀政男、歌唱:伊藤久男、1940年)

『蘇州夜曲』(作曲:服部良一、歌唱:霧島昇・渡辺はま子、1940年)
『愛馬花嫁』(作曲:万城目正、歌唱:ミス・コロムビア・菊池章子・渡辺はま子、1940年)
『そうだその意気』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇・松原操・李香蘭、1941年)

『高原の月』(作曲:仁木他喜雄、歌唱:霧島昇・二葉あき子、1942年)
『若鷲の歌』(作曲:古関裕而、歌唱:霧島昇・波平暁男、1943年)
『風は海から』(作曲:服部良一、歌唱:渡辺はま子、1943年)

『湖畔の乙女』(作曲:早乙女光、歌唱:菊池章子、1943年)
『麗人の歌』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇、1946年)
『悲しき竹笛』(作曲:古賀政男、歌唱:近江俊郎・奈良光枝、1946年)

『旅の舞姫』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇、1947年)
『三百六十五夜』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇・松原操、1948年)
『恋の曼珠沙華』(作曲:古賀政男、歌唱:二葉あき子、1948年)

『トンコ節』(作曲:古賀政男、歌唱:久保幸江・加藤雅夫、1948年)
『青い山脈』(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎・奈良光枝、1949年)
『花の素顔』(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎、1949年)

『山のかなたに』(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎、1950年)
『赤い靴のタンゴ』(作曲:古賀政男、歌唱:奈良光枝、1950年)
『越後獅子の唄』(作曲:万城目正、歌唱:美空ひばり、1950年)

『角兵衛獅子の唄』(作曲:万城目正、歌唱:美空ひばり、1951年)
『こんな私じゃなかったに』(作曲:古賀政男、歌唱:神楽坂はん子、1952年)
『娘十九はまだ純情よ』(作曲:上原げんと、歌唱:コロムビア・ローズ、1952年)

『ゲイシャ・ワルツ』(作曲:古賀政男、歌唱:神楽坂はん子、1952年)
『丘は花ざかり』(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎、1952年)
『伊豆の佐太郎』(作曲:上原げんと、歌唱:高田浩吉、1952年)

『ひめゆりの塔』(作曲:古関裕而、歌唱:伊藤久男、1953年)
『哀愁日記』(作曲:万城目正、歌唱:コロムビア・ローズ、1954年)
『白鷺三味線』』(作曲:上原げんと、歌唱:高田浩吉、1955年)

『ピレネエの山の男』(作曲:古賀政男、歌唱:岡本敦郎、1955年)
『この世の花』(作曲:万城目正、歌唱:島倉千代子、1955年)
『りんどう峠』(作曲:古賀政男、歌唱:島倉千代子、1955年)

『娘船頭さん』(作曲:古賀政男、歌唱:美空ひばり、1955年)
『別れたっていいじゃないか』(作曲:上原げんと、歌唱:神戸一郎、1956年)
『しあわせはどこに』(作曲:万城目正、歌唱:コロムビア・ローズ、1956年)

『王将』(作曲:船村徹、歌唱:村田英雄、1961年)
『絶唱』(作曲:市川昭介、歌唱:舟木一夫、1966年)
『夕笛』(作曲:船村徹、歌唱:舟木一夫、1967年)

『芸道一代』(作曲:山本丈晴、歌唱:美空ひばり、1967年)
『乙女はいつか星になる』 1972年、ツームストーンズの歌で、自主制作による限定盤シングル(オーミック N-501)として発売。

西條八十の遺作に西田陽一が作曲した1985年発売の乙女隊のデビューシングル。1993年に「西条八十生誕100周年記念曲」として牧奈一慶が作曲し、飛鳥あおいが歌った別の楽曲もある。

「天國に結ぶ戀」「ルンペン節」 この2作は、作詞者が柳水巴になっているが、西條八十の変名である。

小説

1924年(大正13年)3月「少女倶楽部」読みきり『はかなき誓』から、1960年(昭和35年)11月「なかよし」連載『笛をふく影』まで、少女雑誌に多くの少女小説を連載し、多く刊行され大人気を博した。

『人食いバラ』 ゆまに書房で復刻、2003年、解説唐沢俊一
 
校歌
「西條八十全集 第10巻」(歌謡・民謡3/社歌・校歌)収録作品に
『早稲田中学校・高等学校第二校歌』(西條自身の母校の校歌である)
『横浜市立大学校歌』
『横浜市立鶴見工業高等学校校歌』
『藤沢市立藤沢小学校校歌』
『富山県立富山中部高等学校校歌』
『茨城県立下館第一高等学校校歌』
『富山県立桜井高校』
『日出学園(千葉県)園歌』
『姫路市立琴丘高等学校校歌』
『岡山県立倉敷工業高等学校校歌』
『高岡市国吉小学校校歌』
『北海道立北海道池田高等学校校歌』
『小松島市立小松島中学校校歌』
『滋賀県立近江八幡商業高等学校校歌』
『兵庫県立加古川西高等学校校歌』
『練馬区立石神井東小学校校歌』
『私立桜丘中学・高等学校校歌』
『平和生命保険株式会社 社歌』
未収録作品には、
『明治大学校歌』(「児玉花外」作詞とされているが、西条の作である)

軍歌
『若鷲の歌』
『同期の桜』
『戦友の唄(二輪の桜)』
『桜進軍』
『比島決戦の歌』
『決戦の大空へ』
『乙女の戦士』
『そうだその意気』
『祖国の護り』
?『学徒進軍歌』
『ああ梅林中尉』

(「ウィキペディア」)


2015年03月20日

◆ボルシチの無い理由

渡部 亮次郎



ロシア料理ではボルシチが美味しいといわれているので、その昔モスクワを訪れた際に捜したが、高級レストランには無かった。あれは家庭料理だからである。

ボルシチは赤蕪を主とし、肉、野菜を多くしたロシア風スープ。夏の短いロシアでは野菜は勿論、野菜屑までも有効に食べてしまおうと考えて出来たスープなのである。高級レストランで出すわけが無い。まして訪問時期が真冬とあっては、益々出るわけがない。

このとき泊まったのはモスクワ市内にあるクレムリンの第1号迎賓館。朝からトマトと胡瓜が山のように出た。真冬のロシアでトマトと胡瓜、なぜだ。雪の中で石油を燃やして育てた野菜。歓迎のしるしなのだ。

そうかと思うとフランス人は食用カタツムリつまりエスカルゴが大好きだ。エスカルゴと言う名のレストランがパリにはあった。注文したら一皿に12個も盛ってきた。東京では6個なのに。そういえば北京には北京ダック専門レストランがあった。

潰したニンニク片にまぶしただけのカタツムリ。食通には上等な味とされていて、精力材」として食べる人もいるようだ。

昔、九州のどこかでは、温泉の排水を利用し、南米のアルゼンチンから輸入したエスカルゴを養殖して成功したという話を聞いたことがある。温水が効いた。池にキャベツの葉などを投げてやると猛然と食いつく。その大音たるや、とてもカタツムリの立てる音とは思えなかったそうだ。なるほど勢力材かもしれない。

アジアの精力材はニンニクだが、ニューヨークでは断然牡蠣(かき)だ。今夜、オイスター・バーでどうですか、というのが口説き文句になっているほど。マンハッタンの中央駅の地下に大仕掛けの牡蠣専門レストランがあり、いつでも満席だ。

広いアメリカ。東西南北、年中、どこかの海で牡蠣はとれる。日本のように「R」の付く月以外は食べてはいけないなんてことはない。わが郷里秋田のかいがんでは8月半ばに天然牡蠣をとるが。

ニューヨークのオイスター・バーは不景気を知らない。この駅の鉄道創業者が大の牡蠣好きだったことから、牡蠣専門レストランを地下に開業させたのだという。

2015年03月17日

◆「新型インフル」で死んだ法皇

石岡 荘十


インフルエンザというか、「はやり風邪」の記述を歴史の中にたどると、今で言う「新型インフルエンザ」はじつは昔から繰り返し起きていたことがわかる。だからいまさら「新型」というネーミングは「いかがなものか」と首をかしげる感染症や公衆衛生の専門家が少なくない。

南北朝時代を描いた歴史物語、「増鏡」にこんな記述がある。

「ことしはいかなるにか 、しはぶきやみはやりて、ひとおおくうせたまふ」「しはぶき」は咳のことだから「咳をする病で多くの人が死んだ」ということだ。また、「大鏡」には、1000年前の寛弘8年(1011年)6月、一条法皇が「しはぶきやみ」のため死亡したと書かれている。

ずっと時代を下って享保18年(1733年)、大阪市中で33万人が流行性感冒にかかり、2,600人が死亡。この流行は江戸へ蔓延し、人々は藁人形で疫病神を作り、鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らし、はやし立てながら海辺で疫病神を送った、とある。

これらの出来事は、いずれも6月、7月の暑い季節に起きており、疫学的に証明されたわけではないが、どうも、寒い時期に起きるいわゆる季節性の風邪とは違うようだ。

さらに、江戸時代には天下の横綱・谷風がはやり風邪にかかり本場所を休んで、連勝記録が止まってしまった。世間では「谷風もかかったはやりかぜ」と怖れ、四股名にひっかけて、はやりかぜのことを「たにかぜ」と呼んだそうだ。

天保6年(1835年)の「医療生始」という書物には「印弗魯英撒(いんふりゅえんざ)」の言葉が早くも見える。

そして1918年春から翌年にかけて、第1次世界大戦の最中、海の向こうではアメリカに端を発した史上最悪のインフルエンザ「スペイン風邪」がヨーロッパに持ち込まれて猛威をふるい、やがて全地球に蔓延する。

感染者は当時の全地球人口の三分の一の6億人、いろいろな説があるが死者は5000万人に達したといわれる。日本では、大正7年のことだ。当時の人口5500万人に対し最新の研究では死者は48万人に達していたと推定する説もある。当時の新聞の見出しはこうだ。

「西班牙風邪遂に交通機関に影響(東京朝日新聞 大正7年10月31日)」。「電信事務も大故障(読売新聞 大正8年2月6日)」---。

スペイン風邪については↓。
http://www.melma.com/backnumber_108241_4570052/

これらは明らかに、季節性のインフルエンザとは違った。スペイン風邪の病原体が「新型インフルエンザ」と同じA型インフルエンザH1N1と分かったのは、1933年になってからのことである。

つまり、いま問題になっている新型インフルエンザはじつは「新型」でもなんでもなく、「旧型」のリバイバルなのである。その後1997年、アラスカの凍土の中から発見された4遺体から、肺組織の検体が採取され漸くスペイン風邪の病原体の正体が科学的に裏付けられた。

スペイン風邪だけでなく、6月や7月の湿気の多い梅雨のむし暑い季節に流行った「しはぶきやみ」もじつはいまの新型インフルエンザのご先祖様の仕業だったかもしれない。

「新型インフルエンザは時々現れる。1580年以来10〜13回パンデミック(世界規模の蔓延)が発生している」(国立感染症研究所の岡部信彦情報センター長)のである。

アジア風邪は1956年に中国南西部で発生し、翌年から世界的に流行した。ウイルスはA型のH2N2亜型である。H、Nの詳しい説明は素人には手に負えないのでここでは省くが、新型インフルエンザH1N1の親戚筋、「いとこ」か「はとこ」だ。死者はスペインかぜの1/10以下であったが、抗生物質の普及以降としては重大級の流行であった。

40年ほど前、前回の「パンデミック」である香港風邪(H3N2)が1968年に発生。6月に香港で流行を始め、8月に台湾とシンガポールに、9月には日本に、12月にはアメリカに飛び火する。結局、日本では2,000人、世界では56,000人が死亡したと言われている。日本では3億円事件のあの年である。

10年前、1998年にも香港風邪が流行った。このときはH3N2ウイルスだったが、アジア風邪(H2N2)のフルチェンジだったといわれる。

一昨年2007年に流行ったAソ連型インフルエンザの先祖は、30年前の1977年のソ連風邪(H1N1)だ。因みに、ソ連と名前が付いているが、“原産地”、つまり発祥地は中国だといわれている。1977年5月に中国北西部で流行をはじめ、同年12月にシベリア、西部ロシア、日本へ、さらに翌年1978年6月にはアメリカへと飛び火。

ウイルスがスペイン風邪と同型だったということで、研究室に保存されていたスペイン風邪のウィルスが何かの理由で漏れ出したという憶測もあるくらいよく似ている。

これらスペイン、香港、ソ連の風邪は、いずれも近年も流行を繰り返しているA香港型インフルエンザのご祖先、鳥インフルエンザから変異した新種のウィルスによるものだといわれている。

「新型インフルエンザ」とは、人間はまだ感染したことがない新種のインフルエンザのことを言い、新種のウィルスであるため、人間にとっては免疫が働かないとされているが、じつは中にはリバイバル、ちょっと“化粧直し”をして姿を現すものもあることがわかる。

いま大騒ぎしている新型インフルエンザは英語では‘Swine Flu’という。

‘New Type Influenza’などとは言わない。「新型」とまったく別のインフルエンザのような印象を与えるネーミングをしているのは日本だけのようだ。いま流行っているのはブタ由来のインフルエンザなのだが、死亡率が高く本当に怖いのは鳥由来のインフルエンザ(’Avian Flu’ Bird Flu’)である。

過去にも何度か鳥インフルエンザの“震源地”となった中国大陸の関連情報について業界では、今ひとつマユツバだという見方もある。ことによったら香港風邪のリバイバル型が周辺国を窺っているかもしれない。

軍事的な脅威ばかりが声高に議論されているが、ウイルスに対する警戒を怠ってはならない。2009.11.24

2015年03月16日

◆「お富さん」で大学生

渡部 亮次郎



まだカラオケなどない昭和29(1954)年、「お富さん」の明るく小気味よいテンポは、手拍子だけで歌えるということもあって、会社帰りの一杯飲み屋、酒宴の席では必ずといっていいほど歌われ、「宴会ソング」の定番として広く庶民に浸透していった。

その勢いは子ども達にも波及し、「♪いきなくろべえ〜 みこしのまあ〜つに」と意味もわからず歌っていたものだ。

このことは、その歌詞の内容から「子どもが歌うには問題がある」として、教育委員会やPTAから異論があがり、小学生が歌う事を禁止する自治体も出るなどちょっとした社会問題にまで発展した。

もっとも、子ども達にとっては意味などわかるはずもなく、いや、大人でさえも、この歌舞伎を題材に求めた歌は歌舞伎ファンでない限りは理解できなかった。

とにもかくにも、作曲者の渡久地(とくち)政信氏は「みんなで楽しく飲んで歌える歌をつくりたかった」と述懐しているので、その狙いは見事的中したのである。

この年の4月、上京して大学入学。なかなか下宿が見つからず、親戚で不愉快な思いをしたもの。遂に絶縁状態となって今日に至っている。冨さんは苦い歌である。

お富さん

歌 春日 八郎
作詩 山崎 正  作曲 渡久地政信

昭和29年

1 粋な黒塀 見越しの松に
  仇な姿の 洗い髪
  死んだ筈だよ お富さん
  生きていたとは お釈迦さまでも
  知らぬ仏の お富さん
  エーサオー 玄治店(げんやだな)


2 過ぎた昔を 恨むじゃないが
  風も沁みるよ 傷の跡
  久しぶりだな お富さん
  今じゃ呼び名も 切られの与三(よさ)よ
  これで一分じゃ お富さん
  エーサオー すまされめえ


3 かけちゃいけない 他人の花に
  情かけたが 身のさだめ
  愚痴はよそうぜ お富さん
  せめて今夜は さしつさされつ
  飲んで明かそよ お富さん
  エーサオー 茶わん酒


4 逢えばなつかし 語るも夢さ
  誰が弾くやら 明烏(あけがらす)
  ついてくる気か お富さん
  命みじかく 渡る浮世は
  雨もつらいぜ お富さん
  エーサオー 地獄雨

「お富さん」は春日八郎のために作られた歌ではない。作曲者である渡久地政信はこの曲を岡晴夫のために用意していた。ところがその岡晴夫はキングとの専属契約を解消してフリーになってしまったのだ。そこで社内で代替歌手を検討した結果、春日八郎でということに決まった。

春日八郎は苦労の末、ようやく2年前に「赤いランプの終列車」をヒットさせ、その後もそこそこの売上げを上げてはいたものの、まだ社内では絶対的な立場ではない、いわば新人歌手同様の扱いであった。

急遽、自分に回ってきた「お富さん」はもともとは他人の歌。しかも普段馴染のない歌舞伎がテーマということもあって、とまどいは隠せなかったが、逆にそれが功を奏したのか、変な思い入れもなく、肩の力が抜けたその歌声は軽快なテンポと妙に噛み合っていた。

テスト盤の社内での評価は上々で、手応えを感じ取ったキングはキャンペーンにも力を入れた。代替歌手ということを逆手にとって、歌手名と曲名を発表しないまま、ラジオや街頭宣伝をするなどのアイデアで徐々にリスナーの興味を引いていったのだ。

当時の世相ともマッチて空前の大ヒット。下積み生活の長かった春日八郎はこの時すでに29歳、だが、回ってきたお鉢は運まで運んできたのであろうか、この曲によって押しも押されもせぬ人気歌手となった春日八郎は、その後もヒットを続け、昭和を代表する歌手となったのはご存じの通り。

この歌の歌詞は、歌舞伎の有名な演目である「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)の一場面「源氏店」(げんじだな)から題材を得ている。それまでの春日八郎の歌の傾向からすれば、いや、というより、バラエティに富んだ流行歌が数多く存在した歌謡曲全体を見渡しても非常に珍しいテーマであった。

この芝居で最大の見せ場が「源氏店」の場で、他人の妾であったお富さんと許されぬ恋に落ちた与三郎は相手の男にばれてメッタ切りにあい、お富さんは海に落ちた。九死に一生を得た与三郎は3年後、松の木が見える黒塗りの塀の家で死んだはずのお富さんと出会うというシーン。

そこで与三郎の「しがねえ恋の情けが仇」の名セリフが出てくるわけだが、山崎正の歌詞はこの部分を実にうまくメロディにはめ込んでいる。

尚、歌舞伎では「源氏店」(げんじだな)となっているが、これは実際にあった江戸の地名「玄治店」(げんやだな)(現在の東京都中央区日本橋人形町あたり)の漢字読みに当字をしたものだ。

前年の昭和28年あたりから、久保幸江、榎本美佐江などによって芽を吹きはじめていた「お座敷歌謡」「宴会ソング」は、この「お富さん」によって見事に昇華し、後に登場する三波春夫の「チャンチキおけさ」、五月みどりの「一週間に十日来い」などに結実するのである。

渡久地政信は奄美大島の出身。あのイントロの独特のリズムは琉球音楽を取り入れたもの。永く愛され続けた「お富さん」は、そのアイデア溢れるオリジナリティで春日八郎の歌として定着し、スタンダードとしてリズムとサウンドは残っても、今、あえて歌舞伎を意識する人は少ない
だろう。

春日八郎

●本名:渡部 実

●大正13年10月9日生まれ 1991年10月22日没
●福島県・会津出身

旧制中学を中退し13歳で歌手を目指して上京。東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)声楽科に学び、新宿「ムーラン・ルージュ」などでアルバイトしながら歌手活動を始めたが、太平洋戦争に突入。兵役を経て戦後再び上京。

長い長い苦闘の末に昭和23年、キングレコード新人歌謡コンクールに合格。作曲家、江口夜詩に師事し、昭和24年正式にキングレコードの専属歌手となる。

最初の芸名は歌川俊。ようやくプロ歌手としてスタートしたものの、先輩歌手の前座ばかり、相変らず鳴かず飛ばずの下積み暮しが続き、いたずらに年月だけが過ぎていくだけかに思えた昭和27年、「赤いランプの終列車」がヒットした。

「雨降る街角」「街の灯台」とスマッシュ・ヒットを続け、昭和29年の「お富さん」の大ヒットで人気が定着。三橋美智也、若原一郎とならんで「キング三人衆」と呼ばれた。続く昭和30年には「別れの一本杉」がまたまた大ヒットしてその地位はゆるぎないものとなった。

玄治店は幕府の典医であった岡本玄冶法印(おかもとげんやほういん)の屋敷の事で、現在の東京都中央区日本橋人形町あたり、そのことからこの周辺を玄治店(げんやだな)と呼ぶようになった。なお、この地域には芝居関係者も多く住んでいた。人形町3丁目交差点には「玄治店由来碑」が建立されている。

2015年03月12日

◆ホルモン料理は明治から

渡部 亮次郎



日本で朝鮮料理の普及は中華よりもやや遅く、李人稙が1905(明治38)年に上野に韓山楼という店を開いているが、客のほとんどは朝鮮人であり、李が間もなく朝鮮に帰国してからは消滅した。

日本併合後には日本に来る朝鮮人が増加し、1938(昭和13)年の東京市には朝鮮料理店が37軒出来ていた。そこで出されたのは戦後の焼肉を中心とするものではなく、伝統的朝鮮料理だった。

「焼肉」が「韓国料理」だと最近の韓国人は力むが、嘘だ。韓国で焼肉を食っていたのは併合時代の日本人だけで、日本人は朝鮮人に焼肉(牛肉)も砂糖は絶対食べさせなかった。このことは私が昭和48(1973)年6月、日本担当相の招きで韓国を訪問した際、同相から聞かされた。

滞在中、実はそろそろ韓国料理に飽きが来た頃を見計ったように「明日は大和焼きにしましょう」という。大和焼きなんて日本では聞いたことがなかったからいずれ日本的な料理だろうと期待した。

ところが、当日行って見ると「焼肉」ではないか。驚く私に大臣が説明したのが「日本併合当時、我々には牛肉も砂糖も食わさなかった日本人。牛肉に砂糖醤油をまぶして食べていた」という。

「だから焼肉は朝鮮料理ではなく大和焼き。恨みのこもった料理ですよ。解放(独立)直後、大韓民国の1人当りの砂糖消費量は世界一になったものです」。

確かに敗戦後、大阪の闇市で残留韓国人の始めたのが焼き肉やホルモン(放るもん)焼きだったから、焼肉は韓国料理説が定着した感じがあるが、真相の一端は以上の通り。

さて、ホルモン料理の歴史は、明治時代に遡る。

明治期の神戸の牛屠畜従事者の回顧によれば、屠畜場に残された内臓肉は彼らの重要な副収入源であった。

1906(明治39)年の「神戸新聞」には屠畜場周辺地域で、粗末な大鍋で切り刻んだ臓物を煮込んだものが1皿1銭という格安で出されており、店の前を通っただけで異臭がした。だが、夕方からは千客万来であった。

やがて内臓肉は専門業者を通して流通するようになり、都市部では屠畜場周辺以外にも低価格の肉料理として広がりはじめるが、決して一般的ではなかった。

1920年代には一時的にだが「精力が増進する料理」という意味の「ホルモン料理」の店が出来、卵、納豆、山芋などと並んで動物の内臓を出す店が出来た。

1930年代になると、一般向けにも広まった。例えば大阪難波の店「北極星」を営む北橋茂男は、1936年(昭和11年)頃に牛の内臓をフランス風の洋食「ホルモン料理」として提供し、1937(昭和12)年には「北ホルモン」の名で商標登録を出願している。

当時を知る人によると北橋は石川県出身。その縁で大政治家永井柳太郎と親しかった。大阪に出て大衆食堂「パン屋の食堂」で当て,難波にビルを建設、永井の命名で洋食「北極星」を開店、成功を収めた。

「ホルモン」についてはまた、女性向け雑誌『料理の友』には1936(昭和11)年から年1度のペースで内臓料理が「ホルモン料理」として特集された。1940(昭和15)年2月号では牛や鶏の内臓のバター焼きなどの調理法が掲載されている。

また、1936(昭和11)年には日本赤十字社主催で「ホルモン・ビタミン展覧会」として講演や料理実演が行われている。また、1920年代には東京で豚の内臓を串に刺してタレで焼いた「やきとり」が売られ始め、1940年頃には労働大衆の食として人気を博した。
出典:『ウィキペディア』

2015年03月11日

◆不気味な「ボリュームゾーン不況」

平井 修一



マクドナルドの苦戦が著しい。1月の既存店売上高は前年同月比28.7%減となり、小生が経営者なら「ギャーッ」と悲鳴を上げて卒倒するところだ。前年を下回るのは13カ月連続だという。ケンタッキーフライドチキンもここ数年、右肩下がりだとか。

若い頃はマックもケンタも好きで、子供を連れてよく行ったものである。「マックでお昼にしよう」と買い物に付き合わせたのだが、中学生になるともうこのエサでは引っかからなくなってしまった。

以来ご無沙汰気味だが、チキンはコンビニで温かいものを売っているし、ハンバーガーはトーストサンドで代替できるから不自由はしない。それにしてもマックの落ち込みは激しすぎる。世の中は不景気なのか、それとも飽きられたのか。

2月の景気ウォッチャー調査(内閣府)によると、現状判断DIは、前月比4.5ポイント上昇の50.1となった。 家計動向関連DIは、小売関連が上昇したこと等から上昇した。企業動向関連DIも雇用関連DIも上昇した。先行き判断DIも前月比3.2ポイント上昇の53.2となったから、「景気は、一部に弱さが残るものの緩やかな回復基調」(同)ということだろう。

それならマックは飽きられたということなのか。週刊現代3/14日号「『ボリュームゾーン不況』とは何か?いま、この国の経済が大きく変わろうとしている」が示唆に富むというか、何やら不気味かつ不吉だ。以下引用する。

<いま経営者たちは新しい問題に頭を抱える。たとえヒット商品を生み出しても、その寿命が極端に短期化しているため、従来のビジネスモデルがまったく通用しなくなってきている。

商品のライフサイクルの短さは、「電気製品であればもって一年、食品などはせいぜい数ヵ月でヒット商品の寿命が終わってしまうほど」(企業のマーケティング事情に詳しいコア・コンセプト研究所代表の大西宏氏)。しかもそうしたブームの超短期化が、最も需要が豊富なマス市場、つまりはボリュームゾーンで巻き起こっているから、ただ事ではない。

そうした巨大市場で、昨日まで売れていたヒット商品がまったく売れなくなるという事例が最近頻発。

たとえば、日本マクドナルド。いままさに「リュームゾーン不況」に足を取られ、苦境にもがいている。客離れが止まらない同社の大不振は、昨年夏に発覚した期限切れ鶏肉問題が原因と言われるが、本質は違う。同社社員が言う。

「これまでうちは、チーズバーガーなどの定番の主力商品を大量に販売することで成長してきた。ところが最近は、そのボリュームゾーンの嗜好が飽きられているのです。

前社長の原田泳幸さんは『お客に常に驚きを与えろ』と声を大にして、『メガマック』など次々と奇抜な新商品を出すことでお客をどうにかつなぎとめていた。しかし、現在のカサノバ社長が時代のスピード感についていけなくなると、一気に不振に落ち込んだ。そうなると定番商品からも一気に客が引いていった。

消費者の飽きが早くなったのと同時に、一度離れたお客を取り戻すのがこれまでの何倍も難しくなっている。だから、一度始まった客離れはどんどん加速し、悪循環が止まらないのです」

企業幹部たちが「売れ続ける商品などない前提でビジネスをやっている」と口を揃えるように、企業にとって厳しいのは、「ボリュームゾーン不況」に対抗する術がないことにある。

元ジョンソン・エンド・ジョンソン社長で国際ビジネスブレイン代表の新将命氏も言う。

「この時代の『勝ち組企業』は『価値組企業』。新しい価値を提供し続けなければ生き残れない。ヒット商品が出たら、すぐに次のことを考えなければならない。経営者が安心している暇など、1秒もありません」

そもそもヒット商品の寿命の短期化はいまに始まったことではない。年々、ジワリジワリと進んでいたが、ここへきて一気に加速してきたのにはワケがある。「消費の『コンビニ化』が拡大しているのが大きい」と、セブン-イレブン・ジャパンOBで法政大学大学院教授の並木雄二氏は言う。

「いま消費者にとって一番身近な消費の場所はコンビニですが、そのコンビニは毎週新商品を100アイテムほど投入するほどの『改廃』を頻繁に行っています。

コンビニとしては新しい商品を常に入れ続けないと消費者に飽きられるからやっているわけですが、消費者はこのコンビニ消費に日常的に触れる中で、新しい刺激がないと満足しなくなってしまった。

コンビニが与えてくれる新鮮さを、ほかのあらゆるものに対して求めるようになってきたことが『ボリュームゾーン不況』の背景にあると思います」

より速く、より多くのヒット商品を生み続けることでしか生き残れない厳しい時代が幕を開けた。しかも、「『ボリュームゾーン不況』はまだ始まったばかり。これからますます深刻になっていく」とエコノミストの吉本佳生氏は指摘する。

「ボリュームゾーン不況がどんどん広がっていく中で、企業間の競争はますます熾烈になっていきます。これからは体力を奪われた企業から順に新しい商品を作る力がなくなっていくでしょう。

そうなると、消費者からすれば、いまはたくさんの選択肢から商品を選べる状況にありますが、その選択肢が減っていくことになる。結果として、魅力的な商品が減ることになるので、消費者はますますモノを買わなくなる。

そしてそれが経済全体を冷え込ませ、ますます企業は体力を奪われるという出口のない負の連鎖に入って行くわけです。企業にとっても、消費者にとっても、日本経済全体にとってもマイナスのことですが、もうその連鎖は始まってしまっている」

商品の寿命が短くなるにつれ、企業の寿命もどんどん短くなっていく。ひいてはそれが、日本経済全体の寿命を蝕んでいく。突然巻き起こった市場の激変は、いま日本経済の根本を大きく揺さぶろうとしている>(以上)

小生は物欲があまりない、と言うか、買い物が苦手であり、たとえば発泡酒ならコレ、ワインならコレと決めており、非常に保守的だ。逆にカミサンは新しいものに飛びつく。飛びついても長続きしないで、1週間後には他のものに浮気する。買い物に刺激を求めているのだろう。

この浮気性にボリュームゾーンがズブズブにはまっており、企業はそれに右往左往させられているというわけだ。「常に驚き」を与え続けないと客が離れていく。

メーカーにとって店舗の棚に商品を置いてもらわなければ話にならないから、ライバルとは棚争奪戦“スペース戦争”を繰り広げることになる。店舗としては売れるもの、儲かるものを置きたい。新商品が出ると刺激を求め
る浮気者が手を出すから売れる→スペース拡大→さらに売れる→定番になる。

これが理想なのだが、定番にならずに短期で飽きられて売上が減少し、またぞろ「新商品開発→売れる→スペース拡大→飽きられる」を繰り返すことになる。まるでシーシュポスの神話だ。

無駄と言えば無駄、虚しいと言えば虚しい。しかし、それを続けないとトップグループから脱落し、やがては倒れてしまう。資本主義の新たな成長 or 存続モデルを高3レベル以上の識者には提案してもらいたいが、今どきピケティに感動している程度では所詮無理か。異才、出でよ!
(2015/3/10)

2015年03月09日

◆「日中」を渋った福田総理

渡部 亮次郎


私にとって8月15日の敗戦記念日と共に忘れ難いのは8月12日である。1978年のことだ。耳をつんざくような北京・釣魚台の迎賓館の蝉の合唱。

その夜、人民大会堂での日中平和友好条約の署名式。少し興奮したか、園田直外務大臣は自分の名前を大きく書きすぎて、相手の黄華外交部長が署名のスペースを捜して一瞬、戸惑ったのを私は見ていた。

互いに署名した条約書面を交換したあとシャンパンで乾杯したら、園田さんはグラスをぶつけすぎて、上着の右袖口がすっかり濡れてしまった。「(締結できなかったら死ぬ覚悟で行くから)代えの洋服はもたないでくれ」と一張羅で来た。えぃ、ままよ。薄いグレイの右袖はシャンパンが次第に黒いしみのように広がっていった。

人民大会堂は6年前にも入っていた。1972年9月25日。梅原龍三郎描く「北京秋天」そのもの、それこそ抜けるような青空の下、北京空港に降り立ち、その夜には周恩来総理の歓迎宴に同行記者団80人も招かれて、人民大会堂なるどでかいビルでニクソン大統領は断わったという「海鼠の醤油煮」をご馳走になった。

記念写真で私の目の前に立った周恩来総理の頭はちじれっ毛だった。国全体を根底から揺すった紅衛兵による文化大革命はほぼ終息していたが、共産主義政権のマスコミ対処方針が変っていたので興味深かった。

<「近距離記者と遠距離記者があるんです」と説明されて日本側の記者一同は唖然とした。田中首相に同行する記者・カメラマンたちを集めての事前の説明会で、外務省報道課の担当官が言うのである。 記者・カメラマンを首脳に近寄れる範囲、4メートルが近距離記者とすると、遠距離記者は何メートルかい。それが20メートルなんですと、係官は言ったように記憶している。

近距離記者はしかも各社1人に限ると2度目のショック。3度目のショックは記者団機が首相機とは別で、首相機に同乗できるのも各社1人というのであった。

それから本当にびっくりしたのは、NHK政治部長はNHKを代表する近距離及び同乗記者に、それまで角福戦争の敗者・福田赳夫の担当記者だった私を指名した事であった。

角さんとは話をしたことも無い。官房長官・二階堂進についても同様。また外相・大平正芳とも話を交わした事も無いから、ただ機内で3人を交互に監視しているしかなかった。

角さんに沈思黙考しろというのは無理だが、それにしても大平外相の沈黙ぶりは異常だった。中国との下交渉など知る由も無いから、どうしたのかな、ぐらいにしか考えなかった。

大平は台湾との訣別をどう処理するかを考えあぐんでいたのだと、後で知った。北京空港からわれわれは何台かのバスに揺られてホテルに入れられた。首相たちはと言えば、迎賓館で面会謝絶だという。なんだ近距離も遠距離も無いじゃないかと毒づいてみたが、それっきり。>(ネットメディア大阪「百家争鳴」)

このとき、かのケ(とう)小平は島流し中。日本からカネと技術を徴発しての工業、農業、国防、科学技術の近代化(四化)はまだ話題にもなっていなかった。毛沢東が存命中だから、文化大革命失敗で全権力の掌握は出来ていなくても、共産党内は原理原則派が中心をなしていた。

だから共同声明で謳った日中平和友好条約の締結もすぐに可能だと田中総理もそう理解して帰国したが、ソ連(当時)との接近を警戒する中国が、条約の中に「この条約は覇権を求めるものではない」と明記するよう要求し続けたため、6年間も締結できなかった。

福田内閣を作り、自ら官房長官に就任した園田直氏は岸信介元総理の差し金により総理官邸を1年で追われたが、何しろ福田密約内閣の密約当事者であってみれば、福田総理としては閣内No.2の外務大臣として処遇するしかなかった。

園田氏はその間の事情を世間に明らかにするわけに行かなかったので、懸案の日中条約の締結に自ら当たるためとのポーズをとった。しかし肝腎の福田総理は締結に消極的で、条約が出来ても園田に政府代表の資格をなかなか与えようとしなかった。

多分、この頃の福田赳夫総理は「2年」の密約を一方的に破ろうとしており、 そのためには条約の締結という既成事実は「花道」として引退に結び付け られるのでは、と警戒したものであろう。

それはともかく、6年間も筋張っていた中国が「覇権条項」に見向きもせずに条約締結をさながら慌てるように急いだのは、現実主義者のケ(とう)小平の再度の復活があった。園田氏が若い頃に結んだ廖承志氏のルートからは「園田さんが来てさえくれれば間違いなく締結する」とさえ言ってきたものだ。

今考えてみれば4つの近代化の課題に加えて経済の改革開放体制の実施のためには、日本の協力、特に莫大な資金と技術の導入は不可欠である以上、条文の区々たる文言に拘っている時間的余裕はなかったのだ。しかし、福田総理に上がる在北京日本大使館の情報には残念ながら、そこまで突っ込んで分析した情報は皆無であった。

敗戦と共に日本は独立国家を目指すよりは、貧乏と戦争さえなければ幸せとでもいうインポテンツ国家に成り下がった。このため国家生存のための情報を収集する体制を捨ててしまった。

外務官僚上がりの総理吉田茂が外務省からスパイ機能(人員)と予算を取り上げてしまったのである。そこでわが外務省はアメリカからのいわば2次情報の分析ばかりやっているから、結果はどこかの絵描きと同じで、出来上がったものは「模写」ばかりである。

ソ連の崩壊と共に中国が「中華」に舵を切り替えて対日友好をとっくに捨ててしまったのに、未だに対中友好を推進しようと馬鹿の一つ覚えのような姿勢をとり、心ある人たちをして叩頭外交、属国外交と切歯扼腕させているのは、この「2次情報外交」にあるためである。絵描きだけでなくジャーナリストと称する物書きも「引用」を続けていると、結果が「盗作」として結実するのとそっくりである。最近は大学教授にも多くなった。


   

2015年03月08日

◆クラシックは新しい

渡部 亮次郎
 

「べートーヴェンは何かを語っているし、モーツアルトははしゃいでいる」と私は思う。

今の人は知らないだろうが、SP(standard play)版のレコードとは1枚に3分半しか録音されてない。もちろん裏面にも3分半録音されているが、その都度ひっくり返さなければならないから面倒だ。

クラシックの長い作品だと10枚で1曲なんていうのがあった。そのころからわずらわしさを感ぜずにクラシックを聞いていたというのは昭和1桁生まれの人たち。

SPがLP(long play)に変わるのは敗戦後しばらく経ってからだった。私は1950年を過ぎて高校に入った頃、ショパンの軍隊ポロネーズをLPで、生まれた初めて聴いた。

友人が「隠れて兄貴のレコードを持ち出してきた」と言った。ピアノの音にこれほど身を乗り出して聴く自分を発見して驚いた。高校で「音楽」は選択科目だったが選択しなかった。よく音楽教室からレコードで音楽が聞こえてきて授業が耳に入らなくなったものだ。

50年経って聴きなおすとあれはモーツアルトのセレナード「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」だったのだ。永年、刺身や寿司を食べずに大損をしたように、私は音楽でも読書でも他人に引けをとり実に貧しい半生を送ってきた、と臍を噛んでいる。

私の幼少期は「流行歌」という名の演歌と共にあって、クラシックとは全く無縁だった。家の周囲は見渡す限りが田圃。東の遠くに出羽丘陵が連なっていた。西側には男鹿半島の山2つ。だから学校で「写生」の時間に困ったものだ。描くものがどこにも無いのだから。

家の向かいに1歳上の少年がいて蓄音器と「種板」つまりレコードを持っていた。もちろん兄たちの持ち物。それを2人で鳴らして遊んだ。蓄音器はぜんまい式だった。

東海林太郎、霧島昇、伊藤久男、藤山一郎,渡邊はま子、ディック・ミネといった人たちのものばかり。今で言う元祖演歌の主たちである。擦り切れるまで聴いた。

やがてHNKのラジオ歌謡が流れ始めてそれに馴染んで行った。のど自慢の県大会に出て「チャペルの鐘」を歌ったが、チャペルってなんだか知らなかった。東海林太郎が秋田中学(旧制)の大先輩、上原敏が同じ秋田の人とは子供の頃は知らなかった。

いかなる因縁かラジオ会社のNHKに入り、やがてそれはTV会社になったが、配属された部門はニュースそれも政治関係だったから音楽には縁が無くて過ぎた。

30を過ぎた頃、新宿の飲み屋で演歌師のアコーデオン伴奏で歌ったら客の1人に「あなた、歌手になりませんか」と言われた。著名なコーラス・グループのマネージャーだった。政治記者が演歌歌手デビュー、面白いが冗談でしょう。

50を過ぎてCDというものが流行りだした。1枚3、000円で60分とか70分録音されている。これはいいというのでCDのコレクションができた。3,000枚ぐらいはある。だが気がついてみればそれらはみな演歌だ。

ある日突然、頭の中でモーツアルトが鳴った。20代の終わりごろ岩手県盛岡市でNHK交響楽団が聞かせてくれた曲。頭の中で何十年ぶりかでなぜか鳴り響いたのである。調べたらそれはピアノ協奏曲20番であった。

小島新太郎さん(ケーブル・パーソンズ社長・故人)によるとクラシックはまずメロディーの美しさが人間をひきつける。それからリズム、ハーモニーの美しさがわかればクラシックの虜になる、という。器楽はだから言葉が分からなくても理解できる。

その点、歌曲は言葉が分からなければ本当の理解は出来たとは言えない。言われればその通りである。20番のメロディーを美しいものとして頭が記憶していたらしい。

だから頭が「美しい音楽だな」と記憶すればその曲が好きになり、何度でも聴きたくなるそうだ。そうやってレパートリーが増えて行く。だとすれば芸術を好きになるためには経済力が親になければならないことになる。

昔、小島さんを先頭にして欧米のケーブル・テレビ事情を視察したことがあるが、その時のある青年は旅行中、レシーバーを両耳から離さなかった。毎日まいにちモーツアルトを聞き続けていたのである。モーツアルトってそんなにいいですか、いいですねえ。

私は60を過ぎるころモーツアルト、チャイコフスキー、ラフマニノフ、ベートーヴェンなども聴くようになった。面白いことにクラシックを聴きなれると演歌は薄っぺらく感じられて聴かないようになる。

人には演歌もクラシックも聴くといっているが、どうも耳は別のように思えてくる。クラシックは本だが、演歌は雑誌のようだ。しかもモーツアルトははしゃいでいるし、ベートーヴェンは演説をしているように重い。

モーツアルトの時代は宮廷音楽家が小さな部屋に集められた小人数の客を前にいわば温和しい音楽で済んだが、ベートーヴェンの時代になると一般大衆を大きな会場に集めての演奏となったから、ジャジャジャジャーンといった耳目を集める音楽の時代となった。

まさに演説するような音楽になったのではないか。勿論、作曲家自身の性格も反映されるだろう。チャイコフスキーはホモがばれて秘密法廷で自殺を強要されて毒をあおったとか。しかし数々の美しいメロディーはホモゆえの美しさだろうか。

1951年ごろ、毎朝、通学列車を降りると秋田駅で必ず鳴っていたのは彼の名作ピアノ協奏曲第1番だった。すさんだ世相に逆らうように駅構内にクラシックを流す職員があの当時の「国鉄」にはいたのだ、秋田に。

それにしてもこれら大作曲家に匹敵する作曲家が20世紀以後出現しない理由は何だろう。失われたのはメロディーかリズムかハーモニーか或いはそのすべてか。現代というものが美しい音楽を生み出させない何かのエネルギーを発散しているのか。いずれクラシックはいつまでも新しい。

2015年03月07日

◆金持ちはケチ(吝嗇)だから金持ち

渡部 亮次郎



「金持ちが金にこだわらないと考えるのは貧乏人の考えることだ」と諭(さと)したのは故田中角栄である。その大した遺産を相続した金持ちが真紀子なのだから、真紀子はケチで当然である、と角栄は教えているようなものだ。

昔から世間は人間は得意技で失敗すると教えてきた。得意技にその人間は慢心するから、つい油断と隙ができるのである。貧乏から出発して巨万の富を築いた角栄も得意技のカネ造りを立花隆に暴かれて、首相の椅子を投げ出した。それから云ったのが貧乏人の考え云々の科白である。

「なぜなら金持ちはカネを放さない、ケチだから金持ちになるんだ。金持ちはカネが好きだ。いくらあっても足りない。だから金持ちほどカネにこだわり、カネを欲しがる者はない。

それを金持ちはカネに鷹揚だろうと考えるのは貧乏人の考えることだ。お前のように手にしたカネをすぐ使ってしまうような者は絶対カネ持ちにはなれないよ」。 直話である。

角栄が貧乏に育ったとは周りがいっていることで、本人は如何に貧しかったかなど説明したことはない。父は馬1頭を売って大学にやらしてくれたと鈴木宗男は云ったが、角栄にその種の逸話はない。

しかし上京後、どうやってカネを作ったかは、時々語った。とくに金脈が「文芸春秋」に暴かれての記者会見で「たとえば他人の土地の隣に土地を買い、石油缶を終日叩けば、隣の人は逃げだしてその土地が安く手に入る」と明かした。もう辞めざるを得ないとはいえ、総理大臣たるものの語ることではなかった。しかし真実だった事は間違いない。

そうやって田中家に財産が残った。真紀子の稼いだものは鐚(びた)1文ありはしない。真紀子は稼ぎ方を知らず、これをただ守って行くしかない。それなのに相続税という名のカネがまるで泥棒のように私から富を奪って行く。

それを補う筈だった数々の会社もなんだか赤字続きでさっぱりだわ。家計を維持し、元総理大臣家の体面を保つための現金収入がどこかにあるの、ないわ。

秘書なんて私の使用人よ、月給をいくらやろうが、やるまいが、私の自由じゃないの。ネコババはこうして成立した。まさに金持ちはカネが必要だったのである。

莫大な(と思うのは貧乏人の考えだが)遺産を相続した真紀子が秘書の月給をねこばばするわけがない、と考えたのは貧乏人の考えだったのだ。

だから真紀子としては証拠の書類などある訳もなく、仮にあったとしても絶対公開することはできないのである。大泣きして辞めたことのある社民党の女性代議士と同じ罪を犯しながらまともに罰せられないのは、自民党内にまだ角栄の怨念が棲みついているからである。

そう考えると、国会にはカネ持ちといわれる人はたくさんいるから、秘書給与のねこばばは、ほかにももっとあるはずで、暴かれることを恐れた先生から突如穴埋めのカネを時ならぬボーナスとして受け取った秘書もいたかもしれない、と考えるのも貧乏人の考えかな。 (敬称略)

2015年03月05日

◆良識ある沖縄の人々に尋ねたい

田久保 忠衛



何もいまに始まったことではないが、東京と那覇とのやり取りを観察していると、うんざりする意味で「沖縄疲れ」に陥る。米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に対して翁長雄志知事は「新基地建設反対」を唱え、沖縄防衛局が辺野古沿岸部の海底に設置したコンクリート製の大型ブロックが「サンゴ礁を傷つけている。前知事時代に県が岩礁破砕を許可した区域外の設置だ」と注文をつけ出した。あらゆる手段で移設を阻止するという。

2月22日には与那国島で自衛隊配備の是非を問う住民投票が実施された。幸いにして受け入れは認められたが、中学生以上の未成年者と永住外国人に投票権を与える、異常な投票であった。

記憶に新しいのは石垣市、竹富町、与那国町1市2町の中学校教科書採択地区で、竹富町だけが決定に反した行動を取り、国はコントロールできなくなった。

国家の専管事項である外交、防衛、教育、エネルギー政策などの枠を沖縄だけがはみ出しているにもかかわらず、誰もが口に蓋をしている。

日本における米軍基地の負担が沖縄に集中してきたとの「東京」の罪の意識と、その心理を結果的に利用してきた「那覇」の葛藤に根本の原因がある。

日本が国際社会の中で自らが置かれた立場をいかに知らないかは、1990〜91年の湾岸戦争で資金の提供以外に血も汗も流そうとせず、各国から奇異の念を抱かれたことで痛いほどに感じたはずだ。安倍晋三政権は日本を「普通の国」にしようと努力しているところだが、沖縄も「普通の県」を目指してほしい。

まるで独立した国の指導者

翁長知事が先の県議会で読み上げた所信表明演説の目玉は辺野古移設反対だけだった。「沖縄を取り巻く現状の認識」の項目には、日本がどのような方向を目指し、その中で防衛の第一線に位置する沖縄がどうあるべきかには全く触れていない。

沖縄県尖閣諸島の領海に中国の公船が入っている現状も、北朝鮮の脅威も知事の念頭には全くないらしい。

一方で、これまでの沖縄県知事の中には、基地問題などで米政府と直接交渉するためワシントンを何回か訪れた人物もいた。あたかも、沖縄は日本から独立した琉球国の指導者であるかのような言動には、日米両国にも首をかしげた向きは少なくなかったろう。

翁長知事も4月にワシントンに県駐在員として平安山英雄氏を派遣する。2月25日付の沖縄タイムス紙のインタビュー記事を読んだが、「名護市辺野古の新基地建設反対、米軍普天間飛行場の危険性除去は翁長知事の重要政策だ」との質問に対し、平安山氏は「知事の公約と政策を実現するため、しっかりと手伝いたい」と答えていた。

これは沖縄の伝統、文化や県産品の対米PRとは性格が違う仕事だ。平安山氏は琉球国の駐米大使になったつもりなのか。

沖縄国際大学で2月15日に「道標求めて−沖縄の自己決定権を問う」とのテーマによるシンポジウムが開かれた。姜尚中聖学院大学長は1854年に琉球国と米国との間で結ばれた琉米修好条約や琉球併合(「琉球処分」)を起点に、沖縄の自己決定権をめぐる問題を抱えた他地域との連帯によって問題を普遍化していくべきだと述べた(琉球新報2月16日付)そうだ。

辺野古移設に抗議する県民集会の記事は地元2紙によって派手に伝えられているが、「政府」と書けばいいのになぜ「日本政府」と表現し、「日本人警備員がゲート前に集合」などと不可解な言葉を使用するのか。   
              (たくぼ ただえ 杏林大学名誉教授)
                産経ニュース【正論】2015.3.4

  

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