2012年10月29日

◆竹島「密約」のあった時代

渡部 亮次郎


韓国のビジネスマン(政治経済学博士)が日本語で「竹島密約」という本を書き、2008年11月、東京の出版社「草思社」から出版した。韓国が「独島」と称して両国間で領有争いが収まらない「竹島」について(共に領有を主張しない)という密約があったことを喝破する本である。

この事実は韓国でも広く知られているので韓国政府も大衆も共に焦っている動機でもあるらしい。

「竹島密約」とは、1965(昭和40)年6月、日韓基本条約が締結された際、先立って1月11日、日本側河野一郎国務大臣と韓国の丁一権国務院総理との間に結ばれた秘密の取り決めを指す。公式に明らかにされた事の無い文字通り「密約」なのだ。

当時、この事実を日本側でオフレコで河野氏から聞かされていた政治記者は4人いたが皆死去し、生き残りは私だけになってしまった。

著者のジャーナリストはロー・ダニエルさん。2008年の夏、突然の来訪を受け、東京中央郵便局の8番スポットで初対面し、その後江東区内のレストランで焼酎を酌み交わしながら、当時を偲んだ。

平成6年2月  Ph.D.(マサチューセッツ工科大学)
平成18年9月 (社)東アジア平和投資プログ
平成21年6月(財)未来工学研究所 研究参与
平成23年4月日文研外国人研究員就任(〜平成24年3月)

ダニエルさんは既に2007年3月19日発売の韓国の総合雑誌「月刊中央」(中央日報社発行)4月号に概要を発表。

それを基に産経新聞が2007年3月20日付けで「竹島棚上げで合意」国交正常化前”密約“存在韓国誌が紹介と言う見出しで、「日韓が領有権を争っている竹島(韓国名独島]に関し、両国はお互い領有権の主張を認め合い、お互いの反論煮は異議を唱えないとの”密約“があったーーと報道。

更にこれに基づいて鈴木宗男代議士が竹島密約に関する質問主意書(平成19年3月26日提出)を提出。日本政府は「合意があったとは理解していない)と答弁、一応否定している。

ダニエルさんによれば、端的に言って、日韓の国交正常化のために領土扮を永久に「棚上げ」する「未解決の解決」が中身である。直接かかわったのは日本では河野一郎、その秘書的存在だった宇野宗佑代議士(後に首相)、嶋本謙郎読売新聞ソウル特派員の各氏、韓国は丁一権、金鐘ラク(金鐘泌の兄)。

さらに密約を承認した佐藤栄作首相と朴正煕大統領の計7氏。

この事実をダニエルさんに教えたのは中曽根康弘元首相で、2000年6月のこと。ダニエルさんは驚きをもって裏付け取材に奔走、私のところにも来て事実を確認した。

密約は永年遵守されていたが、1993(平成5)年に第14代大統領に就任した金泳三には引き継がれなかった。それで金泳三大統領は突如「倭(日本)の奴の悪い行儀を治す」と公言して「わが領土独島」にあらたに接岸施設を作り「密約」を無視して今日に及んでしまった。

元々1951(昭和26)年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約では竹島・独島は、日本が韓国に返還すべき領有権の中に含まれなかった。これを外交の敗北と受け取った大統領李承晩は日本では「李ライン」と呼ばれる「平和線」を一方的に宣言し、その領域の中に竹島を入れた。ここから争いが始まった。

しかし1961(昭和36)年5月16日、軍事クーデターによって政権を奪取した朴正煕大統領が目標とする「韓国の明治維新)を成就するためには両国関係の正常化と日本からの資金導入は不可避だった。

そのために韓国ではタブーだった「親日」を敢えて恐れない朴氏とその姪の夫である金鐘泌(韓国中央情報部長)は新しい日韓外交の幕を開けた。

そこでまず1962(昭和37)年11月に池田勇人内閣の外務大臣大平正芳氏と金鐘泌氏との間に「大平・金メモ」が作成され、残るは竹島・独島の帰属問題となった。

とはいえ金鐘泌の失脚、日本側の窓口大野伴睦自民党副総裁の急死で交渉のエンジンは冷えた。

そこで登場するのが河野一郎氏である。池田首相の懇望で大野後継を受諾。代行者に元秘書で衆議院議員に当選してきたばかりの宇野宗佑氏を指名。

韓国側は金鐘泌氏に代わって兄の金鐘ラク氏(韓一銀行常務)が宇野氏のパートナーとなった。彼が朴大統領とは革命同志であり且つ日本語を話せる日本通であったからである。この間実質的に両者の連絡役を務めたのは当時、読売新聞ソウル特派員だった嶋元謙郎氏である。

嶋元氏は植民地統治時代に「京城日報」の編集長だった父のもと、中学校まで通った韓国通だったから、朴政権の日本側コンサルタント役を務め、大統領の側近からは「VIP」と称されていた。このことは私に河野さんも認めていた。

宇野・金両氏の作業は順調に進み1965(昭和40)年1月11日、ソウルの某財閥オーナーの邸で河野一郎作成による「メモ」に丁一権総理が署名。直ちに朴大統領の裁可を得た。嶋元記者は逐一メモをとっていた。

宇野氏は嶋元氏を伴ってソウル南部にある米軍基地から特別回線を使って東京の河野氏に報告。それを河野氏は折からワシントンに滞在中の佐藤首相に報告した。「竹島密約」成立の瞬間だった。

かくて日韓基本条約は6月22日に調印されたが、既に閣外に去っていた河野氏は表に立つことのないまま、7月8日夜、腹部大動脈瘤破裂の為急死した。67歳だった。

韓国ではその後、朴大統領が部下に射殺された。竹島密約文書を自宅に保管していた金鐘ラク氏は身の危険を感じた。だから1980年5月17日に連行される前にメモを焼却した。

日本側ではメモの作成を逐一、椎名悦三郎外務大臣に報告されていたが、韓国側では外務部長官は勿論中日大使にも知らされなかった。だから日本外務省には残っているはずだが外務省は否定している。

日韓間に「密約を交わせる時代があった」と悲観的に回顧する以外にないのは残念なことだ。月刊誌「自由」1980年10月号から転載。2012・9・7

◆竹島「密約」のあった時代
渡部 亮次郎

韓国のビジネスマン(政治経済学博士)が日本語で「竹島密約」という本を書き、2008年11月、東京の出版社「草思社」から出版した。韓国が「独島」と称して両国間で領有争いが収まらない「竹島」について(共に領有を主張しない)という密約があったことを喝破する本である。

この事実は韓国でも広く知られているので韓国政府も大衆も共に焦っている動機でもあるらしい。

「竹島密約」とは、1965(昭和40)年6月、日韓基本条約が締結された際、先立って1月11日、日本側河野一郎国務大臣と韓国の丁一権国務院総理との間に結ばれた秘密の取り決めを指す。公式に明らかにされた事の無い文字通り「密約」なのだ。

当時、この事実を日本側でオフレコで河野氏から聞かされていた政治記者は4人いたが皆死去し、生き残りは私だけになってしまった。

著者のジャーナリストはロー・ダニエルさん。2008年の夏、突然の来訪を受け、東京中央郵便局の8番スポットで初対面し、その後江東区内のレストランで焼酎を酌み交わしながら、当時を偲んだ。

平成6年2月  Ph.D.(マサチューセッツ工科大学)
平成18年9月 (社)東アジア平和投資プログ
平成21年6月(財)未来工学研究所 研究参与
平成23年4月日文研外国人研究員就任(〜平成24年3月)

ダニエルさんは既に2007年3月19日発売の韓国の総合雑誌「月刊中央」(中央日報社発行)4月号に概要を発表。

それを基に産経新聞が2007年3月20日付けで「竹島棚上げで合意」国交正常化前”密約“存在韓国誌が紹介と言う見出しで、「日韓が領有権を争っている竹島(韓国名独島]に関し、両国はお互い領有権の主張を認め合い、お互いの反論煮は異議を唱えないとの”密約“があったーーと報道。

更にこれに基づいて鈴木宗男代議士が竹島密約に関する質問主意書(平成19年3月26日提出)を提出。日本政府は「合意があったとは理解していない)と答弁、一応否定している。

ダニエルさんによれば、端的に言って、日韓の国交正常化のために領土扮を永久に「棚上げ」する「未解決の解決」が中身である。直接かかわったのは日本では河野一郎、その秘書的存在だった宇野宗佑代議士(後に首相)、嶋本謙郎読売新聞ソウル特派員の各氏、韓国は丁一権、金鐘ラク(金鐘泌の兄)。

さらに密約を承認した佐藤栄作首相と朴正煕大統領の計7氏。

この事実をダニエルさんに教えたのは中曽根康弘元首相で、2000年6月のこと。ダニエルさんは驚きをもって裏付け取材に奔走、私のところにも来て事実を確認した。

密約は永年遵守されていたが、1993(平成5)年に第14代大統領に就任した金泳三には引き継がれなかった。それで金泳三大統領は突如「倭(日本)の奴の悪い行儀を治す」と公言して「わが領土独島」にあらたに接岸施設を作り「密約」を無視して今日に及んでしまった。

元々1951(昭和26)年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約では竹島・独島は、日本が韓国に返還すべき領有権の中に含まれなかった。これを外交の敗北と受け取った大統領李承晩は日本では「李ライン」と呼ばれる「平和線」を一方的に宣言し、その領域の中に竹島を入れた。ここから争いが始まった。

しかし1961(昭和36)年5月16日、軍事クーデターによって政権を奪取した朴正煕大統領が目標とする「韓国の明治維新)を成就するためには両国関係の正常化と日本からの資金導入は不可避だった。

そのために韓国ではタブーだった「親日」を敢えて恐れない朴氏とその姪の夫である金鐘泌(韓国中央情報部長)は新しい日韓外交の幕を開けた。

そこでまず1962(昭和37)年11月に池田勇人内閣の外務大臣大平正芳氏と金鐘泌氏との間に「大平・金メモ」が作成され、残るは竹島・独島の帰属問題となった。

とはいえ金鐘泌の失脚、日本側の窓口大野伴睦自民党副総裁の急死で交渉のエンジンは冷えた。

そこで登場するのが河野一郎氏である。池田首相の懇望で大野後継を受諾。代行者に元秘書で衆議院議員に当選してきたばかりの宇野宗佑氏を指名。

韓国側は金鐘泌氏に代わって兄の金鐘ラク氏(韓一銀行常務)が宇野氏のパートナーとなった。彼が朴大統領とは革命同志であり且つ日本語を話せる日本通であったからである。この間実質的に両者の連絡役を務めたのは当時、読売新聞ソウル特派員だった嶋元謙郎氏である。

嶋元氏は植民地統治時代に「京城日報」の編集長だった父のもと、中学校まで通った韓国通だったから、朴政権の日本側コンサルタント役を務め、大統領の側近からは「VIP」と称されていた。このことは私に河野さんも認めていた。

宇野・金両氏の作業は順調に進み1965(昭和40)年1月11日、ソウルの某財閥オーナーの邸で河野一郎作成による「メモ」に丁一権総理が署名。直ちに朴大統領の裁可を得た。嶋元記者は逐一メモをとっていた。

宇野氏は嶋元氏を伴ってソウル南部にある米軍基地から特別回線を使って東京の河野氏に報告。それを河野氏は折からワシントンに滞在中の佐藤首相に報告した。「竹島密約」成立の瞬間だった。

かくて日韓基本条約は6月22日に調印されたが、既に閣外に去っていた河野氏は表に立つことのないまま、7月8日夜、腹部大動脈瘤破裂の為急死した。67歳だった。

韓国ではその後、朴大統領が部下に射殺された。竹島密約文書を自宅に保管していた金鐘ラク氏は身の危険を感じた。だから1980年5月17日に連行される前にメモを焼却した。

日本側ではメモの作成を逐一、椎名悦三郎外務大臣に報告されていたが、韓国側では外務部長官は勿論中日大使にも知らされなかった。だから日本外務省には残っているはずだが外務省は否定している。

日韓間に「密約を交わせる時代があった」と悲観的に回顧する以外にないのは残念なことだ。月刊誌「自由」1980年10月号から転載。2012・9・7


2012年10月26日

◆「君が代」完成記念日

渡部 亮次郎


国歌「君が代」は1999(平成11)年に国旗及び国歌に関する法律で公認される以前の明治時代から国歌として扱われてきた。

この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代になってイギリス歩兵隊の軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンが薩摩琵琶歌「蓬莱山」から採って作曲を試みたが海軍に不評。

海軍から「天皇を祝うに相応しい楽曲を」と委嘱された宮内省が雅楽課の林廣守の旋律を採用(曲はイギリスの古い賛美歌から採られた)。

これにドイツ人音楽教師エッケルトが和声をつけて編曲。1880(明治13)年10月25日に海軍軍楽稽古場で試演された。だから10月25日が「君が代」完成記念日とされている。

明治2(1869)年に当時薩摩藩兵の将校だった大山巌(後の日本陸軍元帥)により、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと言うフェトンの進言をいれて、大山の愛唱歌の歌詞の中から採用された。

当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている。

九州王朝の春の祭礼の歌説というものがあり、説得力はある。九州王朝説を唱えるのは古田武彦氏で、次のように断定している。

<「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおとなりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県志賀島の志賀海神社の春の祭礼の歌である。

「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。

この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知らず」「読人知らず」の形での掲載をした>

文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集初編』(明治21(1881)年発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、幻と言われる2番が存在する。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで うごきなく常盤かきはにかぎりもあらじ」

「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで かぎりなき御世の栄をほぎたてまつる」

後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している。

明治36(1903)年にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が代』は1等を受賞した。

後は専ら国歌として知られるようになった『君が代』だが、それまでの賀歌としての位置付けや、天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた(明治憲法による)という時代背景から、戦前にはごく自然な国家平安の歌として親しまれていた。

敗戦で事情は全く変わった。日本国衰退を目指すアメリカ占領軍は。それまで聖職者とされてきた教職員に労働者に成り下がって権力に抵抗させるべく日教組を結成させた。

占領した沖縄では国旗の掲揚と君が代の斉唱を禁止したことでも明確なように、マッカーサーの本心は日の丸掲揚と君が代斉唱に反対であった。日本国民が一致団結、再度、アメリカに挑戦することを恐れたのである。

それを組合の統一闘争精神に掲げたのが日教組なのである。いつの間にか天皇を尊敬する事とか君が代を歌うことが戦争に繋がると論理を摩り替えて、正論を吐く校長を自殺に追い込んだといわれても反論できないような状況を招いたのである。

君が代支持の世論を背景に平成8年(1996年)頃から、教育現場で、当時の文部省の指導により、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に『君が代』の斉唱の通達が強化される。

日本教職員組合(日教組)などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張した。先生の癖に論理のすり替えの得意な人が日教組に所属する?
平成11年(1999年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺し、君が代斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する教職員との板挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。

これを一つのきっかけとして日教組の意図とは反対に『国旗及び国歌に関する法律』が成立した。法律は国旗国歌の強制にはならないと政府はしたものの、反対派は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉唱・掲揚を推進する保守派との対立は続いている。

平成16年(2004年)秋の園遊会に招待された東京都教育委員・米長邦雄(将棋士)が、(天皇)に声をかけられて「日本の学校において国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言し「やはり、強制になるということでないことが望ましいですね」と言われている。

なお、天皇が公式の場で君が代を歌ったことは1度もないと言われている。成人前の家庭教師ヴァイニング夫人による何がしかを勘繰る向きがないわけではない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2012年10月21日

◆老人でも軍隊を知らず

渡部 亮次郎


戦争をテレビ中継で観る時代。昭和11(1936)年生まれの76歳ですら、戦争に征かず、軍隊の実態を全く知らない。だから戦争に反対も賛成もする資格すらないといわれても文句が言えない。

陸軍で言えば師団とか旅団、連隊といわれて、その規模が全く想像できない。小隊、中隊、大隊といった言葉は劇映画で耳にするも、何人ぐらいで編成されるものなのか見当もつかない。

もともと私の世代は柔道、剣道すら知らない。高校に入学した当初はまだアメリカの占領軍がいて、それらを禁止していたからである。あの掛け声が斬込み隊を連想させるからだといわれた。その代わり野球が奨励された。

小(国民)学校入学が、対米戦争の始まった翌年。戦争中はアメリカの艦載機に追いかけられたり、近所の石油タンクの爆撃に震えあがったり、空腹を抱えて逃げ回っているうちに、国の歴史始まって以来の敗戦。

8歳上の男児は予科練や満蒙開拓に動員されて、大半が戦死した。こちらは一寸幼かったから生き延びた。

当然、海軍のことも全く知らない。軍艦と戦艦の区別すら知らない。巡洋艦も駆逐艦の区別が分からない。潜水艦と空母ぐらいは映画を観て知っているだけ。

国連とは、小沢氏に依れば、民主党が最も頼りとする国際組織らしいが、一寸違うんじゃないか。The United Nations だから連合国としか訳せない。どう頑張っても国際連合にはならない。

加盟する際、日本外務省が意識して誤訳したのである。内訳は第2次大戦の戦勝51カ国が1945年6月に結成した「組合」にすぎない。

それが、日本ではいつの間にか「国連中心主義」とかの政策が出てきて公的な国際組織と誤解するようになって今日に至っている。

誤解している人は精神科医に診て貰った方がいいらしい。国連には中心が無い。それなのに国連中心主義を唱える歴代日本政府もまた精神科医の診察が必要なのだ。

国連は世界統一の国会でも裁判所でもない。単なる組合なのだ。そんなものを重視するのは日本だけだ。裏で舐められ、世界で2番目に大金を取られている。

その昔、ある閣僚は「国連は田舎の商工会議所みたいなものだ」と本当のことを言ったら、佐藤栄作首相は、彼をクビにした。あのときから日本は「国連病」にかかってしまった。へんな結論になってしまった。


2012年10月19日

◆だまこもちも怖い

渡部 亮次郎


だまこもちは、秋田県の郷土料理。潰したご飯を直径3センチほどに丸めたもの。だまこ、やまもちとも呼ばれる。主に鍋の具材として用いられ、だまこもちが入った鍋はだまこ鍋と呼ばれる。

五城目(ごじょうめ)町において、1959(昭和24)年に三笠宮崇仁親王が同町でだまこ鍋を食べ、称賛したことを契機に、町を代表する料理として扱うようになった。

うるち米の飯を粒が残る程度に潰し、直径3センチほどの球形にする。家庭によってはこれに塩を振ったり、煮崩れを防ぐため軽く火で炙ったりする。鶏がらの出汁に醤油や味噌などで味をつけ、鶏肉やねぎ、セリ、ごぼう、きのこ(マイタケ等)の具と共に煮る。

これらの調理方法はきりたんぽ鍋とほぼ同じであるが、棒状にして表面を焼くきりたんぽと違い、だまこは団子型で(基本的には)焼かない。

旧八郎潟周辺の地域が発祥とされ、ここで生まれ育った私は少年のころから、厭というほど食べさせられた。昔は八郎潟で獲れたフナなどの魚が使われ、味付けには主に味噌が用いられた。しかし八郎潟の干拓により魚が減ったために、現在の鶏を使う形に変化していった。

なお八郎潟町周辺にはだまこの原型と考えられる「つけご」という料理がある。潰した飯を箸で一口大にちぎって、かやきの汁に浸して食べる。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

八郎潟の魚は只だったから、家庭で撮る蛋白源は鮒か鯰。海の魚は高価だから子どもの口には全く入らなかった。肉と言えば飼っている鶏を潰すしかなかった。生まれて初めて豚肉を食べたのは中学2年のとき。刺身を食べたのは30歳近くなってから、握り寿司は60歳になってからだった。

少年時代からステーキやトンカツが食べられる境遇だったら、もっと背丈が伸びていただろうと残念に思うことがある。死んだ兄もそう思っていたに違いない。県立秋田高校を3年間1番で通しながら大学へ行けるカネが鳴く、地方の新聞記者で一生を終えた。享年81。 2012・10・18

2012年10月15日

◆福田赳夫さんの命日

渡部 亮次郎


福田赳夫さんが「角福戦争」で田中角栄氏にあえなく敗れた時、福田派担当の記者(NHK)だったが、命日が7月5日とは事典で調べて分った。1995(平成7)年に90歳で亡くなった。慢性肺気腫は、夫人にも隠れて吸った永年の煙草のせい?

1976年12月、内閣総理大臣に就任されたとき、私は田中角栄総理による大阪左遷から東京国際局へ帰還直後。その1年後の改造で、官房長官園田直(そのだ すなお)さんから、朝、国立(くにたち)の自宅へ掛かってきた電話で官房長官秘書官就任を承諾。

およそ1時間かけて電車で永田町の総理官邸に到着してみたら、あろう事か、全閣僚が辞任した中で園田さんだけが居残って、しかも外務大臣に横滑りしていた。私はいまさら引き返しもならず、外務省で秘書官なるものを始めた。

大臣秘書官は、大臣が任命するものではない、とは知らなかった。総理大臣が任命して、俸給額だけが大臣によって決められる。したがって、形式的には、私は福田さんから招かれて外務大臣秘書官になったことになる。

さりとて辞令は誰かが総理官邸から貰ってきてくれたし、とくに就任挨拶にも出向かなかった。1977〔昭和52〕年11月29日のことだった。

翌年7月に入り、あさってからボン〔ドイツ〕でのサミットに出発すると言う12日の朝6時半、園田さんは目白の田中角栄邸を訪れた。

記者はまだ誰一人居なかった。門前の警察官が告げ口しない限り、福田さんの耳にははいらない行動である。サシの会談は2時間に及んだ。

名目は大詰めに来ていた日中平和友好条約の締結をどうするかについて、「先輩総理」に仁義を切るという園田さんの申し入れによるもので、連絡役を務めたのが外務政務次官愛野興一郎氏。田中派だったのが幸いし
た。

2人がサシで会談したのは、角福戦争(1972年)以来約6年ぶりのこと。いわゆる「大福密約」を取り仕切った2人ではあるが、ゆっくり話し合う事はそれまで無かった。なんだかこの時点で福田総理再選の目が消えた
ように思う。

ついでだから、この会談で角さんが園田さんに述べた事を、私は園田さんから聞いてメモしてあった。紹介しておこう。

!)首相退陣(1974年12月〕を決意した直接のきっかけは、健康状態の悪化にあった。モノが2重に見えるほどになっていた。

!)退陣に際し後継に椎名悦三郎を「指名」しようと決意していた。

!)ところが、佐藤栄作元総理が「指名はするな」と言ってきた。佐藤はその頃は田中に買収されていたのではなく昭和電工に買収されていた。そこで椎名には後継者選びを委ねることにした。

!)後継者について、感情的に福田には渡したく無かった。彼はオレの政権が苦しくなった時に、蔵相を辞めて、首吊りの足を引っ張った。大平のことが気になった〔椎名に委ねれば、大平が指名されることは無くなる。

!)福田のあとは大平だ。中曽根はモノになるまい。大平のあとは1万石大名の背比べで混沌とするだろう。

福田総理、園田外相らは7月13日午前9時、羽田空港から日航特別機で出発。パリに2泊したあと、ボンのパレ・シャンブルグでのサミットに臨んだが、園田外相は不機嫌だった。

この頃から福田さんは「世界が福田を招いている」と言って総裁再選出馬をちらつかせるようになった。これを感じての園田さんの不機嫌は、密約破りとなり、立会人としては誠に苦しい立場になるからである。

園田さんから密約の経緯を知らされている私は事情は良く分かるが、福田さんから密約のことは一切聞かされていない福田側近は、福田再選態勢作りに積極的でない園田氏を次第に非難し始める。総理秘書官になっていた長男の康夫さんから何度も赤坂の料亭に呼び出されて「説得」されたが、私としては如何ともし難かった。


2012年10月14日

◆脅威?張子の虎?中国空母

渡部 亮次郎


戦中世代(76)歳ではあるが、戦争に行ったことは無いので、軍事知識の欠如においては戦後世代と全く同然である。師団、旅団の区別は分からないし、軍艦のことなど全く分からない。秘書官として仕えた外務大臣園田直は、野戦に11年もいたという猛者。時々、話が理解できなくて困ったものだ。


今回、尖閣諸島のことでもめているさなか、中国がこともあろうに航空母艦を就航させたと聞いて、驚いたが、艦載機が少ないとか、守ってくれる艦船がまだ無いから、さしあたりの脅威は無いとか、安心材料も報道されている。

そうした中産経新聞系列の「夕刊フジ」が「中国空母、日本に脅威?それとも張り子の虎?」と以下のように報じた。(2012.09.24)

<日本政府による沖縄県・尖閣諸島の「国有化」に対する、中国側の対抗・制裁措置が激化するなか、中国初の空母が近日中に正式就航することが分かった。また、北京の人民大会堂で9月27日に予定されていた「日中国交正常化40周年記念式典」も延期された。

これは尖閣強奪を画策する中国による、政治や経済、軍事、文化面での複合挑発なのか。巨大空母が、日本恫喝に利用される可能性も指摘されている。

「空母の就役は、中国が今後、諸島の領有権問題を解決し、海洋権益を維持するために重要な影響と作用を及ぼす」中国紙によると、中国の軍事専門家はこう語っているという。

中日友好協会幹部が「諸般の事情で、当面(記念式典を)延期する」と北京の日本大使館の担当者に通告してきた23日、くしくも、遼寧省大連の港では、中国海軍に空母を引き渡す式典が行われた。

同空母は、旧ソ連時代にウクライナで「ワリヤーグ」として建造が始まったが、ソ連崩壊に伴い建造が中断した。その後、中国が「海上のカジノにする」と称して購入。2002年に大連港に到着し、05年ごろから改修作業が始まった。今年8月から10回の試験航行を重ねてきた。

中国海軍の艦船として最大、満載排水量6万7000トン。全長約305メートル。ロシアの艦載用戦闘機「スホイ33」をまねた中国の艦載戦闘機「殲15(J−15)」など約40機を搭載するという巨大空母が、東シナ海に配備されれば、日本人の心情も穏やかではない。

人民解放軍の強硬派、羅援(ラ・エン)少将は先月、同空母を「釣魚島号」と命名することを提案しており、中国の意図を感じてしまう。

ただ、この空母にはいくつかの欠陥が指摘されている。

まず、設計段階で予定されていた蒸気タービンエンジンが積まれず、出力(馬力)が弱い船舶用ディーゼルエンジンが搭載されているため、「艦載機に十分な揚力を与えられないのでは」(日中関係筋)という指摘だ。

さらに、米海軍空母のようなスチームカタパルト(空母から航空機を射出する機械)がなく、スキージャンプ式の艦首で艦載機を自力発艦させるため、「きちんと発艦できるのか。中国は『訓練用空母』としているのは、実は『張り子の虎』なのでは」(同)という見方すらある。

これに対し、軍事評論家の世良光弘氏は「中国を甘く見ない方がいい」といい、こう解説する。

「もし、艦載機が発艦・着艦できないなら、訓練用空母にもならない。世界中に恥をさらすことになる。『殲15(J−15)』は発艦・着艦できるはずだ。

先日、甲板に水兵が並んでいる映像を見たが、かなり訓練されている。(能力は多少劣っても)中国空母が東シナ海に配備されれば、日本の安全保障には脅威になる。今後、中国は新たに空母2隻を完成させるといわれており、数年後には、この脅威はもっと大きくなる。日本はもっと警戒すべきだ」

■中国の空母開発 中国は1980年代から海洋進出を重視し、空母建造の研究開発を続けてきた。国防省は昨年7月、ウクライナから購入した空母「ワリヤーグ」を訓練などに使うと説明。

空母計画を初めて公式に認め、領海や海洋権益の保護の必要性を指摘した。遼寧省大連で改修した「ワリヤーグ」の試験データは国産空母の開発に利用。上海の造船所で2隻が新造されるとみられている。>

2012年10月13日

◆偽者だった金日成

渡部 亮次郎


金日成が偽者だったこと、金正日の生地が実は白頭山なんかで無い事は、はたして定説化しているといえるか。いや、初耳だと言う人のほうが圧倒的に多いのではなかろうか。嘘は何時までも繰り返すと真実になってしまうのだ。

ある日本の外務大臣経験者が、生前、口癖のように言っていた。北朝鮮の今の金日成というのは別人じゃないのかね、本物はとっくの昔に死んでいるはずだよ、と。

この人は、日華事変から大東亜戦争に掛けて11年間もアジア各地で戦っていたという猛者で特に満洲(今の中国東北部)での戦歴が長かった。

彼によると、金日成は昭和10年代に既に50代であったはず。激しい抗日戦を仕掛けてきていたが、1945年8月15日までには死んだとされていた。

ところが1948年9月9日に成立した朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の初代首相として登場したのが死んだはずの金日成だったので偽者だとピンと
きたというのである。

日本外務省外交資料館などの編集による「日本外交史辞典」の金日成の項では「この人の経歴については、不明な部分がおおく、いわゆる4人目の金日成といわれるが・・・」と逃げを打ちながら「普通に言われる経歴に従って」として「まとめて」いる。

ところが、ここに大変なことを経験してきたライター萩原遼(ペンネーム)が登場する。昭和12年、高知県生まれの日本共産党員。長じて朝鮮語に通じ、日本共産党の機関紙「赤旗」の平壌特派員となるが、国外追放処分に遭った後、退職。

その後米国ワシントンに滞在、国立公文書館に秘蔵されている北朝鮮の文書160万ページを3年がかりで読破した。その結果を「朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀」(文芸春秋)として刊行。

この中では朝鮮動乱はやはり北が仕掛けたものだったこと、マッカーサーはそれを事前に知っていたが、韓国には知らさなかったことを明らかにした。

更に改題した「朝鮮戦争と私 旅のノート」(文芸春秋文庫)で偽者金日成の経緯を明らかにしているのである。

ソ連(当時)軍幹部らによると、金日成の本名は金成柱。名乗っていた仮名が金一星(キムイルソン)と発音が金日成将軍と一緒なだけ。日本軍に追われてソ連のハバロフスクに逃げ、息子金正日もそこで生まれた。

多くの生き証人がいる。特に金正日に母乳を与えていた女性は北京に健在である(2000年4月10日現在)という。

それなのに金星一を金日成将軍だと偽って北朝鮮建国の日に平壌に連れて行ったのはソ連である。

だが50歳以上のはずが壇上の首相は僅か33歳の若造だったので「偽者だ!」と人々は叫んで帰りかけたものだという。また息子をわざわざ生地をハバロフスクではなく白頭山としたのは、そこが聖地であり、将来の後継者として権威付けるためだったという。 
初出 2011・10・11


2012年10月11日

◆自公で安定多数、民主惨敗1/3議席に

杉浦正章

 

解散・総選挙の期日はともかくとして、衆院選挙の情勢をここで分析しておく必要がある。筆者の分析によると自民党が議席を倍増する潮流となっており、公明党と合わせて安定多数を上回る見通しとなって来た。一方民主党は現在の245議席を大きく減らして3分の1程度となる大惨敗。日本維新の会はあらが目立って急速に人気がしぼんでおり、中規模の野党にとどまりそうだ。
 

選挙の潮流を占うにはまず大新聞の世論調査が何と言っても決め手となる。選挙が接近してくるとこの調査も当たる確率が濃くなってくるがのだ。まず朝日の最新調査では衆院比例区の投票先でも、自民が30%(9月の緊急調査は23%)に伸び、民主の17%(同15%)を引き離した。維新の会は比例区投票先では4%だった。


読売は自民が36%(同31%)、民主が18%(同14%)となった。前回2番目だった維新は13%(同16%)に下がり、3番目となった。いずれも自民党が民主党の倍という流れとなっており、維新が急速に力を落としている。自民党は総裁選で新総裁を選出して勢いが加速され、民主党は代表選の足の引っ張り合いとそれに続く内閣改造の失敗で低落が加速された。
 

民主党惨敗の流れは鳩山由紀夫、菅直人の2代にわたる政権の大失政とマニフェストの虚偽性判明で落ちるべくして落ちた。いみじくも経団連会長・米倉弘昌の「民主党政権は失望の3年間だった」という発言がすべてを物語っている。3年前に風が吹いて3倍増の議席を獲得した面影はかけらも見られない。


308議席は一つの党が獲得した議席数としては過去最多であった。また比例区の得票も2984万票を獲得し、日本の選挙史上で政党名の得票としては過去最高を記録した。それが筆者の分析では100議席を割って70〜80議席まで落ちる。まさに3倍増が3分の1になる方向だ。没落を象徴する注目の選挙区は自民党が五輪銅メダリストの堀井学道議(40)を立てて「元首相落選」を狙う、鳩山の北海道道9区だ。鳩山は厳しい戦いを強いられており予断を許さない。
 

一方自民党は、折からの尖閣諸島をめぐる中国の暴挙で右バネがますます働き、ただでさえ復調気味の党勢に勢いがつき始めた。現在の117議席を倍増する勢いだ。230〜240議席を獲得する可能性が出てきた。この議席は公明党が30議席は固いことから、自公連立で260〜270議席となる。これは安定多数を意味する。与党がすべての委員長を独占し,かつ各委員会の半数以上の委員を獲得できる議席数である252議席を上回ることになるからだ。
 

台風の眼は依然維新の会だが、夏頃には何と110議席獲得などと言うほら吹き男爵がいたものだが、筆者の予想通りブームには翳りが生じている。大阪市長・橋下徹は発言のたびに中央政治への見識の無さを露呈させており、自らが立候補しない事も含めてマイナス効果を生じさせている。


しかし自民党にはじき飛ばされても、弱り目の民主党を蚕食する力は残っているだろう。恐らく関西を中心に50議席前後を獲得する可能性がある。最近橋下はいったん袖にしたみんなの党への接近姿勢を見せている。確保した衆参議員7人の能力を見て、既成政党の力を借りなければ国会の対応が出来ないと判断してのことだろう。みんなの党が20〜30議席を取るだろうから、選挙後に院内会派を結成する可能性がある。そうすれば野党第1党を民主党と競い合うかもしれない。
 

哀れをとどめるのは小沢一郎が率いる「国民の生活が第一」だ。現在の37議席を大きく減らして10議席前後がいいところだろう。小沢自身が落選することはまずないが、幹部の山岡賢次、東祥三も危うい。もちろん小沢チルドレンやガールズはほとんどが“落人”となる。
 

繰り返して示される民主党政権のはちゃめちゃさに、“風”のみで投票行動を起こした、「衆愚の浮動票」が、ようやく選挙の恐ろしさを知った3年間であった。こともあろうに東日本大震災という未曾有の災害と原発事故への最低の対応として跳ね返ったのだ。1票の大切さを有権者はかみしめる必要がある。


<今朝のニュース解説から抜粋>  (政治評論家)

2012年10月10日

◆機械の黴菌(ウィルス)

渡部 亮次郎


コンピューターのウイルスのことである。私の送った付属文書にウイルスの付いている危険性があるとニフティから警告してきた、と忠告を受けた。これまで何度もウイルスの被害に遭い、被害を及ぼした。

そこでウイルスバスターを取り付けて、しょっちゅう「防御」と「退治」に努めてきた。それなのに、ああそれなのに。酔っていた勢いもあって、言ってはならない言葉で反発したら、ひどくこちらが恐縮する破目になった。極めて反省している。

結果は、「付属文書のタイトルが長すぎるため」、と岩手県立大学の学生さんの調べで分かった。そういえば相手はかなり以前から「あなたのファイルにはウイルスが棲みついているようだ」と言って来ていた。

ほったらかしていたが、今回、機械も我慢ならず警告を発したのかもしれない。こんな始末だから、パソコン1年生はまだまだ、騒動と波紋を広げながら迷惑を撒き散らして行くことだろう。悪しからずお許しください。失敗は成功の基といいますからね。

パソコンを本格的に始めたのは、66歳になった10年前の1月からである。何年も前に東京の秋葉原(本来はあきばはら、と読んだもの)で買ったが、ほったらかしてあった。いまさら頭を馴らすのは厭だった。

若い人たちの使う用語の意味がさっぱりわからない。いちいち聞いてみると訳が違っているとしか思えない言葉ばかりであった。早い話が「投げた」。

こんなことはゴルフでもそうだったし、テニスでもそうだった。ここでは用語ではなくプライド。なにを今更、腰を低くして若い者に教わりたくない。それだから、ちっとも上達しないからますます厭になって「投げた」。

だが、パソコンは家人がどんどん上手くなっているらしく、外国に住んでいる友人と「メイル」とやらで簡単に瞬時に、いうなれば「手紙」をやり取りしている。

年賀状や暑中見舞いも色つきのものをいろいろ作っている。そのうちに「無職」になった私の名刺まで作ってくれた。これは便利だ。それで終わると思っていたら、根が野次馬だから、ポツリポツリと自分で敲きだした。やってみると、若いころテレタイプで原稿を打っていた時の記憶が蘇ったらしく、メイルを打つのはよっぽど早い。

たまたま数年前、アメリカのシリコンヴァレーでノート型パソコンを開発していたという人と知り合って技術的なことをスローペースで教わることが出来た。スローペースが良かった。そこでパソコンを買い替え、本格的に取り組むことになった。

メイルをやりだして遭遇したのが、ウイルスである。ある時、なんだか助平そうなタイトルのメイルが入っていたので開けたら騒動であった。それ以来、シリコンヴァレー先生の指導で、ウイルスバスターを取り付けたりした。

また東京理科大の学生の出張指導(有料)が有ったりして、新聞、雑誌、ホームページ″などへの寄稿のほとんどはメイルで届けることが出来るようになった。

また、私は様々な人から一般的でない情報をたくさん戴くようにもなって原稿書きに役立てている。

こうして、私のパソコン生活は遅まきながら、遅々とではあるが、進行している。郵送しかない原稿でもマス目に活字で打って渡せるようになったから、誠に好都合である。

高校の同期生の東京での集まりには毎年50〜60人が集まるが、パソコンをやっているのは2割ぐらいだ。そのほかの周りを見ても70歳台前半までの先輩が限界。私の兄なぞはFAXすらやっと買ったぐらい。パソコンはつけないで終わるだろう、といったら今年7月に死んだ。

ところで、パソコンという文明の利器を使うようになって、つくづく実感することが「必要は発明の母」ではなく「失敗は成功の基」である。操作方法をいくら記憶しようとしたり、ノートに書き取っても、すぐ忘れるが、失敗すればそのことだけは必ず覚える。

子供の時から、どうしたら失敗せずに成就することが出来るかばかりを考えてきた人は、いつの間にか失敗を恐れるようになってはいまいか。入試教育も失敗を如何にしたらしないで済むかに的を絞っているようだ。

もっとも入試なんてなものは、一回通過すれば良いだけのものだろうから、それで良いのかもしれない。しかし、学んだことが知識として「身」に付き方は少ないだろう。仮に身に付いたとしても知識は多いが知恵は少ない子供のような大人になる。問題のキャリア官僚にはこのてが多い。

そこへ行くと失敗したことは、とても辛い記憶になって残るから、変な話、強烈に記憶する。だから、私の仕えた外務大臣・園田直(すなお)氏は外務省の若いキャリアに「失敗を恐れるな」としつこく言っていたが、キャリアたちは馬耳東風(聞き留めず)だった。

そのことを今になって私もようやく理解できた。だからこの原稿のタイトルは「失敗しなけりゃ成功しない」にしようと思ったが、またウイルスと間違われたら困るので簡単にした。

2012年09月29日

◆トウ小平のタン壷


渡部 亮次郎

記者の同年兵・岩見隆夫さん(毎日新聞)が22日の紙面で故園田直の外相時代の事績について触れられた。

<1978年の日中平和友好条約の締結交渉がある。当時の福田赳夫首相は政権発足時から条約締結を決意し、初の組閣(76年12月)で鳩山威一郎(参院員)を外相に起用した。背景に中ソ対立がある。福田は、

<ソ連が「親ソ的な人物」として評価していた鳩山一郎氏の長男を起用することで、日中条約締結はソ連との敵対関係を生み出すことを意図するものではない、というサインをソ連に送ったわけだ>(著書「回顧90年」)と書き残した。

さらに1年後の内閣改造で、外相を鳩山からベテランの園田直に代え、締結交渉を全権委任した。園田は78年4月訪中の段取りをする。

その矢先、中国漁船が大挙して尖閣諸島に押しかけ、日中間に暗雲が垂れこめた。園田は、

<無視こそ最大の主張>という態度を貫き、終始沈黙を守る。

8月訪中、園田は北京の人民大会堂で中国の実力者、トウ小平副首相と向かい合うと、攻勢に転じた。ガーッとのどを鳴らしながら、足元のたんつぼにペッとたんを吐き、

「ところで、あんた、年いくつ。あ、それなら、私より10年下だな」

などと言う。この時、園田64歳、トウ73歳、園田一流のハッタリだ。漁船事件を難詰、トウから、

「ああいうことは絶対やらない。いままで通り20年でも30年でも放っておけばいい」 と日本の実効支配を認める発言を引き出した。条約は締結、園田外交の成功だった。>

これにはちょっと間違いがある。

このとき私はNHK記者から転じた秘書官として同行していた。昭和 53(1978)年8月10日午後4時30分(現地時間)人民大会堂でのことである。

待っていると、廊下でテレビカメラ用のライトが眩しくつき、とても小柄な老人が歩いてきた。私の肩先ぐらいしかない。まさに小平だ。眼光も鋭くない。3度の失脚と復活という艱難を潜り抜けて来たにしては恬淡とした雰囲気をただよわせているではないか。

両者は会議室で並ぶようにして着席。

いきなりトウが発言。「あんた、幾つだね」。日本でなら考えられないほどの失礼さ。「64です」「あ、私より10歳下だね」園田を飲み込もうとしている。

じつは主題の日中平和友好条約交渉は峠をこしていた。わがほうの主張を中国側が全面的にうけいれ、もう調印を待つばかりだった。

トウ副主席との会談では特定の議題は無かった。東京から訓電してきた尖閣諸島の帰属問題も、園田は、はじめは持ち出す気はなかった。昔から日本に帰属していることがはっきりしているものを、改めて持ち出す事は却って自信がないと受け取られることを恐れたのだ。

ところが痰壷に盛んに痰をはくわ、トシを聞いてくるわで気が変わった。ちょうど痰が出てきた。だがこっちの足元には壷が置かれていない。そこでカーツとやったあと、トウ小平の足元へ歩いて行ってペツとやったあと、きりだした。

そうしたら即座にトウ副主席が遮るように、この前(4月に大量の漁船が押しかけた)のような事は2度とさせない。この件(帰属)は将来の世代にまかせよう。彼らには良い知恵があるはずだから、と言明。これが真相である。

尖閣列島の帰属問題についてはそもそも国交正常化時の昭和47(1972)年9月、田中角栄首相のほうから持ち出した・ところが周恩来総理はこのことについてはここで話したくないと拒否。

これをトウ小平は1978年10月の来日時、日本記者クラブでの会見で1度目の「棚上げ合意」といい園田との会見を2度目の合意と決め付けた。

田中訪中にはNHK記者として同行したが、一連の会談内容については滞在中、一切の発表はなかった。6年経ったあとのトウ小平発言で初めて知った次第だった。

果たして後世の世代は予想される知恵があったか。なかった。単に中国が軍備の近代化に成功。日本を武力的に恫喝するだけの力を得た途端、恫喝し始めただけである。トウはこれを見越していたのだどうか。

アメリカCIAも元々と日本の主張の確かさを支持していた。しかしオバマ民主党政権の腰は引けている。日本もまた、野田首相は理屈をこねるのは上手いが戦争覚悟なんてできていないから、早い話、絶望的ではないか。

ふと、考える。日中平和条約を締結するとき、すでにトウ小平は毛沢東の死後だからかねての主張どおり、日本の資本と技術を頼りにした経済の資本主義化を構想していた。だからこそ条約の締結を急いだのだ。

だからあの時、尖閣の帰属に今後発言しないと約束しないならば日中平和友好条約の締結は延期する、と日本側が強硬に出たらどうなっていただろうか。歴史に「イフ」はないか。2012・9・23

2012年08月08日

◆日中条約には黒衣がいた

渡部 亮次郎


NHK国際局副部長から福田赳夫首相命で外務大臣秘書官に発令されて驚いたのは、田中、三木両政権でお手上げになっていた日中平和友好条約に関する首相・外相間の懸隔の大きさである。

福田首相は壁が高く厚いというが、園田外相は、俺が北京に行って明日にでも調印すると意気軒昂なのである。勿論「情報」は在中国大使館から外相を通じて首相に伝えられるわけだから、認識は一致しているはずなのにである。

そのうちに気づいた。剣道の弟子が早朝、目黒の大臣私邸を訪ねた日に意気軒昂となることである。このことを園田氏は政務秘書官たる私にも絶対説明しない。

説明しないなら元記者たるもの、独自で取材するばかりである。

取材の結果分かったことは、剣道の弟子は中国語がペラペラ。園田が官房長官当時からその都度、多額の工作費を持たされて北京を訪問、中国政府要人の消息を取材して大臣に報告していることが分かった。

父親が鉱山学の権威。終戦後も中国政府の要請で北京にとどまり、鉱石採掘の指導にあたり、昭和30年ごろまで北京に在住した。

この人物を中国に派遣するについては初めから福田首相は了承していた。なぜなら首相私邸に呼び出し、官房長官立会いのもと、首相から中国行きを要請したのは政権発足直後の1977年正月4日だったからである。

中国で彼は主として誰と面会しているのか。廖承志だ。彼は日中国交正常化以前に訪日した際、園田(無役)と箱根で会談した仲である。

<廖 承志(りょう しょうし、リャオ・チョンヂー、1908年9月25日 -
1983年6月10日)は中華人民共和国の政治家。

1949年の中華人民共和国の建国以降中国共産党の対外活動の責任者を務め、日本との関係では特に1962年に高碕達之助との間で取り交わした覚書に基づくLT貿易を開始した人物として知られる。中日友好協会では1963年の設立時から死去まで会長の任にあった。

日本生まれの日本育ちで、廖の話す日本語は「江戸っ子」なみのベランメ
エ調も話すことができるほどであり、1972年の日中国交正常化交渉では
首脳の通訳として活動、中国共産党史上最高の知日家として中国外交陣における対日専門家育成の基礎を作った>。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

時あたかも中国はそろそろトウ小平の時代になりつつあったが、中国の日本大使館ではトウへの接触の手立てがなかった。

トウ氏は1977年7月の第10期3中全会において、国務院常務副総理、党副主席、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に正式に復帰。翌8月に開催された第11回党大会において、文化大革命の終了が宣言される。トウ小平は文革で混乱した人民解放軍の整理に着手するとともに、科学技術と教育の再建に取り組み、同年、大学統一入学試験を復活させる。

廖承志氏はトウとは昵懇の仲。廖承志氏に会えばトウの動きも考えていることも判明する仕掛けだ。この結果、日中平和友好条約の締結をめぐって敷居を高くしていた中国政府はトウの要請を容れて「早期締結」にカジを切り替えていることなど手に取るようにわかるわけだ。

この情報を掴んでいる園田はこれを福田首相には伝えていないようだ。私は両者の会談には立ちあっていないからわからない。しかし条約締結の見通しについての両者の懸隔が大きすぎるのは、大使館情報にしか接していない首相と、直接中国政府情報に接している外相との差の大きすぎること。驚きの毎日だった。

日中平和友好条約の締結は田中首相・周恩来首相による1972年9月の日中共同宣言に盛られていた「約束」だったが、両国の関係強化を歓迎しないソ連(当時)との絡みが有り、田中、三木両政権でも実現していなかった。

続く福田内閣で官房長官となった園田直(すなお)は1年後には外務大臣に横滑りし、その政務秘書官に私が発令されたのだった。

トウ小平の周辺情報を掌握している外相、まったく握っていない外務省事務当局。外務省からの情報しか知らない福田首相。首相と外相の見解の懸隔を批判するマスコミ。昨日までマスコミに在籍したわたしとしては、この内部事情を親しい記者に教えてやりたい衝動にしばしば駆られた。だが最後まで秘匿できた。

1978年8月8日、園田を先頭にした日本側交渉団は特別機で羽田を出発。締結成就を信じているのは「園田さんが北京に来てくれさえすれば調印確実」というトウ小平からの黒衣伝言に接している園田のみ。事務当局は半信半疑だった。

問題の黒衣の名前は明らかにしない。いずれ条約締結まで北京を訪問した回数は「13」に達した。私より若くご存命である。

当時の中国課長田島高志さんは、その後ミャンマーとカナダの大使をつとめて退官されたが、ご健在で「頂門の一針」を愛読者である。しかし今日のこの記事には驚かれたことだろう。2012・8・5

2012年08月07日

◆ビタミンB1を思う

渡部 亮次郎


1882(明治15)年12月、日本海軍のある軍艦は軍人169名を乗せて、東京湾からニュージーランドに向け、272日の遠洋航海に出航した。

ところがこの航海中、誰一人として予想もしなかった大事件が降ってわいた。なんと169名全員が、脚気にかかり、うち25名が死んでしまったのだ。

(この点について、2006年5月14日の産経新聞は海軍兵学校生徒を含む乗組員は397人で、脚気にかかったのが169人と報じて「全員」ではない、としている)。

この、洋上の大集団死亡という大事件は、当時の日本列島を震撼させた。屈強な海の男達の死。なぜだ。この不慮の大事件が、ビタミンB1の欠乏によるものだとは、この時点ではまだ誰も気づいた人はいなかった。

ビタミンB1の存在が発見され、栄養学的、学術的な解明がなされたのは、このあと28年の時をまたなければならなかった。

しかし、かねてから軍人達の脚気の原因は、毎日食べる食事の内容にありとにらんでいた人に、高木兼寛という人物がいた。彼は当時、海軍にあって「軍医大監」という要職にいた。

高木兼寛(たかぎ かねひろ)

宮崎県高岡町穆佐(むかさ)に生まれ、イギリスに留学し帰国後、難病といわれた脚気病の予防法の発見を始めとして日本の医学会に多大な貢献をした研究の人。

慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらには宮崎神宮の大造営などの数々の偉業を成しとげた。

<白米食から麦飯に替えて海軍の脚気を追放。1888(明治21)年、日本で初の医学博士号を受ける。>(1849-1920)(広辞苑)

高木軍医大監は、この事件をつぶさに調査した結果、次の航海で軍艦乗組員を対象に大規模な "栄養実験" を行うことによって、脚気の正体を見極めようと決意した。

脚気による集団死亡事件から2年後の1884(明治17)年、こんどは軍艦「筑波」を使って、事件が起こった軍艦と同一コースをたどった実験が始まった。

高木大監自らもその軍艦に乗りこみ、兵士達と起居、食事を共にした。高木まず、乗組員の毎日の食事に大幅な改善を加えた。これまでの艦の食事は、どちらかというと栄養のバランスというものを考える余地がなく、ただ食べればよいといった貧しい「和食」だった。

高木は思い切って「洋食」に近いものに切り替えた。牛乳やたんぱく質、野菜の多いメニューだ。よい結果が明らかに出てきた。287日の航海の間に、おそれていた脚気患者はわずか14名出たのみで、それも軽症の者ばかり。死者は1人も出なかったのだ。

高木軍医大監は快哉を叫んだ。「オレの考えは間違っていなかった」と。以上の実験的事実に基づいて、日本海軍は、そののち「兵食」を改革した。

内容は白い米飯を減らし、かわりにパンと牛乳を加え、たんぱく質と野菜を必ず食事に取り入れることで、全軍の脚気患者の発生率を激減させることに成功した。

一躍、高木軍医大監の名が世間に知れ渡った。今日では、脚気という病気はこのように、明治の中期頃までは、大きな国家的な命題でもあったわけ。皇后陛下も脚気を患って困っておられたが、高木説に従われて快癒された。明治天皇は高木を信頼され、何度も陪食された。

この頃、陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)はドイツのパスツール説に従い「脚気細菌説」を唱え続けたばかりか、高木を理論不足と非難し続けた。

脚気にならないためには、たんぱく質や野菜を食事に取り入れることが有効であることはわかったけれど、それらの食品の含有する栄養素の正体については、ほとんど解明されていなかった。これは前にも触れた通り。

栄養学の研究は、ヨーロッパでは19世紀の半ば頃から盛んに行われ、たんぱく質のほか、糖質、脂質、それに塩類などを加えて動物に食べさせる、飼育試験が行われていた。

だが、完全な形で栄養を供給するには、動物であれ人間であれ、「何かが足りない」 というところまでがようやくわかってきたにすぎなかった。その何かとは、今日の近代栄養学ではあまりにも当たり前すぎる「ビタミン」「ミネラル」のこと。当時はしかし、その存在すらつかめていなかった。

日本でビタミン学者といえば、鈴木梅太郎博士。米ぬかの研究でスタートした鈴木博士が、苦心の研究を経てビタミンB1を発見したのは1910年、明治43年のこと。陸軍兵士が脚気で大量に死んだ日露戦争から5年が経っていた。高木海軍軍医大監の快挙から、実に28年もかかっていた。

鈴木梅太郎博士は最初は「アベリ酸」として発表し、2年後に「オリザニン」と名付けた。このネーミングは、稲の学名オリザ・サティウァからつけたものと伝えられている。

しかし世の中は皮肉なもので、鈴木博士の発見より1年遅い1911年、ポーランドのC・フンクという化学者が鈴木博士と同様の研究をしていて、米ぬかのエキスを化学的に分析、「鳥の白米病に対する有効物質を分離した」と報告、これをビタミンと名付けてしまった。

ビタミンB1の発見者のさきがけとして鈴木梅太郎の名は不滅だが、発見した物質のネーミングは、あとからきたヨーロッパの学者に横取りされたような形になってしまった。

それにしても、言い方を換えれば、明治15年、洋上で脚気のため命を落とした25名の兵士の死が、28年を経て、大切な微量栄養素の一つ、ビタミンB1の発見につながったと言うべきで、その意味では彼らは尊い犠牲者というべきだ。 (以上は栄養研究家 菅原明子さんのエッセーを参照)

私が思うには、日本人が宗教上などの理由から、4つ足動物を食べる習慣の無かったことも原因にある。特に豚肉はビタミンB1が豊富だが、日本人は明治天皇が牛肉を食べて見せるまでは絶対に4つ足を食さなかった。

脚気は日本でしか罹患しない脚気だったが、江戸時代から「江戸わずらい」と言われたように、東京の風土病と疑われた時期もあった。

2012年08月05日

◆タンゴの源流に立つ

渡部 亮次郎


死んだ兄がタンゴ狂なものだから、子供の頃から聞かされた。あまり上品じゃないと嫌う人もいる。そんなこととは無関係に、私はあのリズムに息が苦しくなってくる。散歩の時もタンゴは聴かない。

ミロンガなど複数の音楽が混ざり合って19世紀半ばにブエノスアイレス近辺で生まれたとされる。

日本では、タンゴがヨーロッパに渡って変化したものをコンチネンタル・タンゴ(コンチネンタル=大陸の=ヨーロッパの)ないし「ヨーロッパ・タンゴ」と呼び、それに対して元来のものをアルゼンチン・タンゴと呼んで区別することがある。

タンゴは、今から約140年前に、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの港町ラ・ボカ地区から始まった。スペインやイタリアからの貧しい移民のフラストレーションのはけ口として酒場で、日頃の不満を歌にし、単身赴任の男性達が酒場で荒々しく男性同士で踊ったのがタンゴの始まりと言われる。その後、娼婦を相手に踊られるようになり、男女で踊る形式が確立されたといわれる。

首都ヴェノスアイレスのボカ地区は、古くから港があった地域で、ヨーロッパから来た移民たちは、こ の地で、新しい第1歩を踏みしめた。19世紀終わりごろのラ・ボカは、イタリア、スペイン系を中心とした、ヨーロッパからの移民や、アフリカ系の人々など様々な人種の人々であふれていた。

タンゴは、そういった環境の中、様々な文化の混合によりブエノスアイレス南部(ラ・ボカ、サンテルモ地区)で生また。

ラ・ボカ地区では、カミニート、ボカ・ジュニオールス・スタジアム などを訪れることが出来る。しかし・・・「ラ・ボカ地区は、中心街から少し離れると、あまり雰囲気の良くない地域もあります。そういった地域にはあまり近づかないようにしてください。(中心街には、警察官も多く立ち安全が保たれております)」と観光案内は呼びかけている。

私がここを訪れたのは1981(昭和56)年の8月上旬、南半球に位置するヴェノスアイレスでは真冬とあって深い雪に包まれていた。外務大臣を福田、大平内閣で務めた後、鈴木善幸内閣の途中から厚生大臣(2度目)として入閣した園田直さんが、この年の5月18日からまたまた外務大臣に鞍替え。

7月中旬にカナダのオタワでのサミットに参加。22日に一旦帰国したあと29日、再度機上の人となり南米歴訪の旅となった。アルゼンチンに入ったときは日本を離れて10日も経っており私ですら疲れを覚えていた。

まして重篤な糖尿病患者の大臣は腎臓の機能が極端に悪化。連続して100メートルは歩けない、という状態を無理しての外遊(事実このあと11月30日の退陣後間もなく人工透析を受け始め、これから3年後、1984年4月2日、腎不全のため70歳で死亡したのだ)。

アルゼンチンはドイツのナチの残党が逃げ込んだ国としても知られていた。アイヒマンの追跡劇が当時は有名だった。

ヴェノスアイレスには2泊した。1976年3月に軍事クーデターで政権の座に就いたデビラ大統領を表敬したところ、自民党を輸出して、下さらんか、といわれて笑ったが、アルゼンチンの経済状況は悪化していたのである。

折角だと言うので夜はタンゴを聴きに小さな店に入った。翌日は雨だったが、タンゴ発祥の地とされるカミニートと訪れた。カミニート (Caminito)はスペイン語で小道の意。 タンゴの名曲でもある。ブエノスアイレスには、この曲に因んだ細長い公園があるのだ。

折からの雨。タンゴの始まりに思いを馳せているうちに園田さんの余命があまり長くないことに思いがいたり涙が止まらなくなった。案内して来てくれた大使館の人が怪訝な顔をしていたのは当然である。

園田外相の外遊はこの後もう1回あった。メキシコのカンクンで開かれた南北サミットへの出席。

11月30日午前11時に臨時閣議が招集され、内閣改造のための辞表とりまとめで辞職、外務省に戻って記者会見。公式な場に姿を見せた最後だった。死ぬ前は糖尿病に伴う眼底出血のため全盲になっていた。