2014年03月10日

◆わたなべりやうじらう

渡部 亮次郎


幼稚園。生まれ育った秋田県旧八郎潟沿岸に、昭和10年代は無かった。昭和17(194)年3月、小学校(当時は国民学校)に入学するに先立って、同居していた父方の祖父が、私の名前の書き方を教えるという。日露戦争のラッパ手だ。

驚いた。私の名前は「わたなべ りやうじらう」だと祖父は言うのだ。あとで考えれば「旧仮名づかい」だったから、祖父は正しい。だが、「りやうじらう」だなんて。「りょうじろう」って呼ばれてるじゃないか、可笑しいよ、と抵抗したが駄目だった。

仕方なく祖父は、いきなり漢字での名前を教えてくれた。渡部亮次郎。お前の前に生まれた男の子があったが、生まれてすぐ死んだ。琢次郎といったという。私は実際は三男だと知った。

学校では、1年生なのに、名前をいきなり漢字で書いたので珍しがられた。だが、それで終わらなかった。3年生の時、女の先生が「お前たちは開戦の詔勅を知らないだろう」と言う趣旨のことを言って、「百姓の子せがれ」は馬鹿にされたと思った。

私は4つ上の兄に頼んで、「開戦の詔勅」を暗誦。翌日、先生の鼻を明かしてやった。百姓の子倅」は意地っ張り。これを秋田弁では「意地くされ」と言った。

中学3年のとき、大学を出たばかりの女性が国語教師として赴任してきた。始めに黒板に真自目と書いた。私は「まじめとは真面目と書くのでは」と主張。先生は翌日から来なくなった。

NHKの記者に合格したが、故有って、新人研修は受けなくとも良い、すぐ地方の現場で働きたまえ、と大館から仙台中央放送局に発令された。だからNHKの誰からも文章の書きかたを習っていない。文章がズバズバと直明に切り込むような調子に偏ったのは、NHK式を習っていないからだと思う。

NHKの国会原稿を聞いていると「あでもない、こうでもなくて 成り行きは不透明だ」となる。大奥みたいで不愉快になる。責任のない原稿。恰好をつけているだけのNHK方式。

百姓の子倅の「意地くされ」は今では相当くたびれては来たが、治ってはいない。

ケチをつけられると、いちいちハラがたつ。メルマガの記事に著名な新聞記者各位の記事が載るのをさして「有名人記事を掲載して体裁を整えている」という「反応」があった。

私は有名人だから載せているのではない。友人たちが、その後有名人になっただけの話である。後輩でも優れた感覚の所有者だと見れば優先するだけ。たとえば産経の阿比留瑠比さんのように。

他人にケチをつけることを趣味にしている人がいるそうだから、無視したいがハラが立つ。「意地くされ」は治らない。

◆園田直のサバイバル論

渡部 亮次郎


園田直(そのだ・すなお)は昭和59(1984)年の4月2日に70歳で死んだ。九州・天草の村長から代議士となり、衆議院副議長、厚生大臣、官房長官、外務大臣2期、再度厚生大臣に続いて3期目の外務大臣を務めた後3年して死んだ。病名は腎不全。

ところでこの人は、戦場11年もいた。しかも日本陸軍落下傘部隊第1期生、天雷特別攻撃隊(いわゆる神風特攻隊)隊長を経験した。

そのかん中国、東南アジアで銃撃戦を体験し、最後の特攻隊では原爆を積んだアメリカの艦船に体当たりすべく飛び立つ予定だったが天候不良に阻まれ、では17日に飛べ、と言われたが15日に敗戦、万事休すであった。

その経歴を見て気づくのは彼ははじめから「死」を求めて戦っていたことである。それなのに生き延びたのだ。それだからこそ、戦場においていかに死の恐怖を乗り越え、いかに部下を統率すべきかをよく聞かされた。

私がNHK政治記者を辞めて彼の秘書官になったのは、そういう彼の戦争哲学に酔わされたためだった。秘書官になってからは出張先の外国のホテルのスイートで、従いてきた外務省の役人が夜は勝手に遊びに出掛けたあと、自身、酒を呑めないものだから、大酒呑みの私に自らウイスキーの水割りを作ってくれながら話をした。初め、私は42歳、彼は65歳であった。

 1.ジャングルで道が2股に分かれている。右に行こうか、左にしようか。部下たちが一様に注目する。私も判断がつかない。私が敵だったらどうするかと考えると、来て欲しい道は来て欲しいように整えるだろう。

そうだ整備されてない道を行こう。それが正しかった。良い道の先では敵が待ち構えていた。初めはそれが判らず失敗した。それで会得した。だから失敗を恐れちゃいかん。

代議士になってすぐ今で言う不倫を野党の女性代議士と起し、相手を妊娠させた。どうするか。事態から逃避できないわけじゃないが、あえて妻と離婚しこの代議士と結婚した。

随分非難されたが、選挙区の女性は好意的だった。事件への対処の仕方が真面目だ、というものだった。そのせいか以後も落選しなかった。

2.逃げる時は一番先に逃げなきゃいかん。2番目は撃たれる。トーチカ(ロシア語。コンクリートで堅固に構築して、内に銃火器などを備えた防御陣地=広辞苑)にこもって敵と対峙する時がある。

膠着状態だな。最後にいざ出て逃げようとした時、初めに出た人は助かるが、2番目の奴は必ず足を撃たれる。相手は あ、逃げた、撃てというが、今まで長い事、待っていたものだから、あ、と一息ついちゃうんだね、一番の奴はそれで逃げられるが、二番手は足を撃たれる事になる。

だから何でも逃げる時は一番先に逃げなきゃ駄目さ。戦場では日中条約を遅疑逡巡する福田さん(当事の首相)のような人の態度はダメだ。遅疑逡巡していては戦争は出来ない。

部下の信頼を得られない。それと、弾というのは逃げる奴を追ってくるような気がするよ。弾に対してこちらが向かっていけば弾が俺を避けたよ。

 3.野戦では、弾の流れが見えているうちは大丈夫だよ。見えなくなったらコトだ。そうだろう、こっちに向かっている弾は点になるもの。点になって初めて緊張すればいいんだ。初めから構える事はないのさ。部下にバカにされるよ。

戦争とか喧嘩とかは常時、緊張しているわけじゃない。いわゆる戦機というものが必ずある。その時だけ緊張すればいいのさ。あとは風の吹くまで待とう風車。

 4.どんなに今のようなコンピューターが付いたって、大砲の射手は連続して同じ着弾点に命中さすことは不可能だよ。だから、さっきの弾の炸裂した穴に飛び込めば、弾には当たらない。「弾に向って進めば弾がよけてくれる」と言ったな。一番良くないのが逃げること。

そのうちに部下たちも心得たものだ、みんなそうするようになって1人も戦死者が出なかった。逆にいえば人生、同じ失敗を2度繰り返すのはかなり難しいものだということでもあるね。

 5.ある時、士官学校出の若い隊長が着任した。いやに張り切っとる。ダダダダダ。いきなり敵が撃ってきた。隊長、あがってしまった。「あれは敵か、味方か」そればっかり。士官学校では銃の撃ち方は習ってきたが撃たれ方は習うわけがない。

それが着任と同時に撃たれたのだから舞い上がって仕舞うのは当然だ。事はあるが撃たれた事はない。ところが、こっちだってどっちの弾かわからん。でたらめに「あれは味方でございます」といってやったらフッとため息をついてたっけ。まだ22か3だものね。

角さんが幹事長、私が国対委員長のとき佐藤総理が法案の採決強行が遅いと角さんをどなりつけたらしい。おまえ何とかなだめてくれと言うからなだめてきた。

「総理、今日は仏滅、明日は大安」と言ったら総理は「そうか」と納得した。角さんが「ほんとにそうか」と聞くから「わしゃ知らん」と言ってやった。要は総理が採決の延期を納得すればいいわけだから、理屈はいらん。

 6.ある隊長は銃撃戦のさなか、先頭に立とうとするが、戦死されて困るのはこっちだから、みんなは「隊長、そこでは危のうございます」と言うばかり。士官学校出が危ないと言われて引っ込むわけに行かない。ますます弾に身を晒そうとする。

仕方ないから出て行って「隊長、そこじゃ戦況が良く見えません、どうぞこちらへ」と岩陰に案内したらため息をついていた。そんなもんさ。誰でも怖いものは怖いんだよ。

 7.角栄は俺のことを「俺は人を殺した事は無い」と言う。殺したくて殺す奴なんかいないよ。殺さなければ殺されるから殺すんだ。戦争好きなんているのかね。

 8.人間は何時死ぬか分からないから生きていられるんだよ。癌で余命幾許も無いと宣告されて自殺する人居るじゃないか。すぐ死ぬのに。特攻隊でも「明日出動」の命令がくだった途端、クビを吊る奴がいたよ。何時死ぬか分からないから生きていられるんだとつくづく思ったね。

逆に言えば明日とわかってなお生きている奴は大変なものだ。オレはそこらに落ちているちり紙を拾い、他人の鼻をほほにこすり付けていた。それに「生」を感じ取ったのだろう、と思い返すね。

最後に国会対策も女口説きも戦争と同じ、違うところは弾と口説と言ったので、顔を見た。戦争は人間をかくも鍛えるものか。ガン治療の蓮見ワクチンの蓮見博士から「喉頭ガンの疑い濃厚です」と診断された帰り、車の中では高鼾だった。真実は糖尿病による腎臓の機能低下を死神が捕えたのだった。

田中角栄は国民要求の最大公約数を即座に実行して人気を得た。園田氏の頭脳は同じぐらい良かったが、ただ言ったりやったりすることに奇策が多かったので、並みの人は従(つ)いていけなかった。だから派閥を作れなかった。日本の政治家として唯一最大の欠陥だった。
          

2014年03月09日

◆1億総白痴化は成った 

渡部 亮次郎


<1億総白痴化(いちおくそうはくちか)とは、社会評論家の大宅壮一(故人)がテレビの急速な普及を背景に生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗な物であり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いが強い。

元々は、1957(昭和32)年2月2日号の「週刊東京」(その後廃刊)における、以下の詞が広まった物である。

「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億総白痴化』運動が展開されていると言って好い。」

又、朝日放送の広報誌『放送朝日』は、1957年8月号で「テレビジョン・エイジの開幕に当たってテレビに望む」という特集を企画し、識者の談話を集めた。ここでも、作家の松本清張が、「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない。」と述べている。

このように、当時の識者たちは、テレビを低俗な物だと批判しているが、その背景には、書物を中心とした教養主義的な世界観が厳然としてあったと考えられる。

書物を読む行為は、自ら能動的に活字を拾い上げてその内容を理解する行為であり、その為には文字が読めなければならないし、内容を理解する為に自分の頭の中で、様々な想像や思考を凝らさねばならない。

これに対して、テレビは、単にぼんやりと受動的に映し出される映像を眺めて、流れて来る音声を聞くだけである点から、人間の想像力や思考力を低下させるといった事を指摘しているようである。>『ウィキペディア』

都会でもいわゆる井戸端会議を聞くとも無く聞いていると、テレビが放った言葉や映像はすべて「真実」と受け取られて居る。だから納豆を朝夕食べれば痩せる、といわれれば、ちょっと考えたら嘘と分りそうなものなのに、納豆買占めに走ってしまう。

識者はしばしばマスメディアが司法、立法、行政に次ぐ「第4の権力」というが、実態は、マスメディア特にテレビを妄信する視聴者と称する国民の「妄信」こそが4番目の権力ではないのか。

手許に本がないので確認できないが、若い頃読んだものに「シオンの議定書」と言うのがあり、権力(政府)がヒモのついた四角い箱を各家庭に配置し、政府の都合の良い情報で国民を統一操作するという条項があった。

<シオン賢者の議定書
『シオン賢者の議定書』(しおんけんじゃのぎていしょ、The Protocolsof the Elders of Zion)とは、秘密権力の世界征服計画書という触れ込みで広まった会話形式の文書で、1902年に露語版が出て以降、『ユダヤ議定書』『シオンのプロトコール』『ユダヤの長老達のプロトコル』とも呼ばれるようになった。

ユダヤ人を貶めるために作られた本であると考えられ、ナチスドイツに影響を与え、結果的にホロコーストを引き起こしたとも言えることから『最悪の偽書』とも呼ばれている。

1897年8月29日から31日にかけてスイスのバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議の席上で発表された「シオン24人の長老」による決議文であるという体裁で、1902年にロシアで出版された。

1920年にイギリスでロシア語版を英訳し出版したヴィクター・マーズデン(「モーニング・ポスト」紙ロシア担当記者)が急死(実際は伝染性の病気による病死)した為、そのエピソードがこの本に対する神秘性を加えている。

ソビエト時代になると発禁本とされた。現在、大英博物館に最古のものとして露語版「シオン賢者の議定書」が残っている。>『ウィキペディア』

議定書は19世紀最大の偽書とはされたが、19世紀末に既にテレビジョンの装置を予測し、しかもテレビを通じた世論操作を描いていたのだから、偽書を作った人物なり組織は天才的というほかは無い。

実際、日本では昭和28年のテレビ本放送開始とともに、大衆は力道山の空手チョップを通じて、電波の魔力にしびれていたが、あれから数十年、いまでは「テレビこそ真実」という妄想を抱くに至った大衆と言う名の「妄想」が権力と化している。

たとえばテレビがそれほど普及していなかった時代、政治を志す人間にとって知名度と言うものが、最大のウィークポイントとされた。名前を有権者にどれだけ知れ渡っているかが、勝敗の分かれ目であった。

しかし、今ではそれはテレビに出演することで大半を解決できる。まして出演を繰り返すことが出来れば「露出度満点」でたちまち知名度は上がる。大衆がとっくに白痴化してしまって「テレビは真実」と妄想しているから万全だ。

かくて政治はテレビ制作者に合わせた政治を展開するようになった。国会の予算委員会がNHKテレビのタイムテーブルどおりに運営されていることを見るだけで明らかであろう。

その実態に気付きながら自身は気付いてないフリをして5年間も政権を維持したのは、誰あろう小泉純一郎氏である。

成果が上がらないまま、大衆の人気が落ちてくると、テレビは「総理の支持率が落ちた」と放送し、大衆は更にテレビを信じて支持率を下げる、という何とか循環に陥りながら気付かない。自分自身で考えることを何故しないの。

なんで支持しないか、テレビがそういっていたから。どこがいけないかなんて、私分らない、テレビに聞いて、が実態じゃないか。

このように、大宅壮一や松本清張の指摘したテレビによる「1億総白痴化」はとうの昔に完成しており、日本と言う国はテレビに振り回される低級国家に成り下がってしまっているのだ。

したがって政治は真実からはなれてテレビを妄信する大衆の白痴状態に合わせた流れを辿ってゆくはずである。また若いも中年も思い描くと言う「痩せればもてる」信仰がある限り、関西テレビがいくら止めても「痩せる偽情報」はどっかのテレビから永遠に流れるはずである。

2014年03月08日

◆何日まで「皆さんの」NHKか

渡部 亮次郎


東京の街を見回して気の付くことだが「喫茶店」が殆ど姿を消し、新たに登場したのが単身客相手のコーヒー屋だ。友達同士、喫茶店に入って音楽で癒しながら話に興じると言うことが無くなった。コーヒー屋では自分だけを癒している女性や男性を目にするが、話し込んでいる客は皆無だ。なんとなく「孤独」でパーソナルな時代になった。

企業や団体で、慰安旅行が忌避されてもはや久しい。会社の上役や同僚といること自体が「ストレス」であるから、温泉宿で一緒に酒を呑んでもストレスがたまるだけ。

だからストレスが溜まったら、こっそりコーヒー屋に一人で入り、独りで癒すのだろうか。団体を忌避し、孤独が癒しになる時代が到来したのだろう。

そうかと思うとNHKはいつまでも「皆さんの」を叫んでいる。ラジオ深夜便では午前4時の直前「何時でも何処でも安心をお届けするNHKラジオ。NHKのラジオとテレビの放送は皆さんの受信料で作られています」とコマーシャルを必ず放送している。

あれを聴くと「皆さん」というグループか階層かがあって、その人たちの出す受信料なる資金で、番組がNHKじゃない他の場所で制作されているのだ、と聞える。NHKが制作しているのではなく別の会社によって制作「されて」いると。

「あなたの払って下さる受信料で私共が番組を作っているのです。ですから受信料は必ず払って下さるよう御願します」とは聞えない。

聞えないコマーシャルは無駄。誰一人これに気が付かないというのだからNHKには人が沢山いるようで、「誰もいない海」なのだ。

日本でも、初め、ラジオの放送が始まった時、それは高価であって、番組は各家庭で家族一緒に茶の間で楽しむものだった。だからNHKも聞いているのが「あなた」ではなく「みなさん」だった。

だが、いまやテレビもラジオも一人ひとりで視聴する時代になっている。パーソナルなものに変化したのである。喫茶店がなくなったと同様、放送は家族団らんの道具ではなくなったのである。

だからNHKの呼びかけは「皆さん」から「あなた」に切り替えなければ時代遅れなのである。NHKは「みなさまの」から「あなたの」NHKにならなければならなくなっているのである。

あるいはNHKの経営陣はNHKを受信していないのかも知れない。少なくともラジオ深夜便の午前4時直前の「コマーシャル」を聞いてないのだろう。NHKには人はいるが「皆さん」から「あなた」に変えられる人材はいないからなぁ。
(元NHK政治記者・元外相秘書官・元厚相秘書官)

2014年03月06日

◆阿る人を侮る中国人

渡部 亮次郎


だとすれば、沖縄県・尖閣諸島について日中間の「係争地」との持論を伝えに訪中した鳩山由紀夫元首相は軽蔑される為にわざわざ訪中したことになる。東大出に馬鹿が案外多いと言うのは単なる噂じゃなかった、と言うことか。

私が秘書官として仕えた園田直(そのだ すなお)外務大臣は、就任に先立って「言っておくことが2つある」と言った。中国についてだった。折から日中平和友好条約交渉の真っ最中だったからだろう、と思って聞いた。

<中国人は阿(おもね)る人間を軽蔑する。だからゴマすりをしてはいけない。もう一つ。政治家が儲け話を持ちかけると軽蔑される。絶対しちゃいけない>

園田氏は大東亜戦争を含めて戦場で11年を過ごしたが、そのほとんどは中国大陸だった。スパイ行為をして掴まり、路上に落ちていた牛の糞を口に突っ込み狂人と思わせて難を逃れたこともあった。

そうした体験から割り出した「中国人」分析だったのである。だから北京における対中交渉でも下手(したて)に出る事は一度もなかった。「だから交渉を有利に纏めることができたのだ」と自負していた。

それはそうかも知れない。田中訪中のときの高島益郎条約局長が良い例だろう。日中国交正常化に先立つ両国交渉で高島氏は周恩来を相手に筋論を展開。周恩来は激怒した。しかし陰では「ああいう気骨のある外交官をわが国にも欲しいものだ」と言う話。

この時私は田中角栄首相に同行しながら、会談の期間は日本側代表団に近付くことが一刻も許されなかった。したがって以上の話は帰国後に聞かされて話である。

ところが「頂門の一針」2851号(1月18日)によれば訪中した鳩山氏のは徹底した阿り。鳩山元首相は「国賊」=小野寺防衛相が語った。

<小野寺五典防衛相は17日夜、BSフジの番組に出演し、「尖閣諸島を係争地と認めることが大事だ」との鳩山由紀夫元首相の中国での発言について「日本にとって大きなマイナスだ。言ってはいけないが『国賊』という言葉が一瞬、頭をよぎった」と述べ、強く非難した。

防衛相は「係争などなく(尖閣は)固有の領土なのに、中国側は、日本の元首相はこう思っていると世界に宣伝し、いかにも係争があるかのように国際世論がつくられてしまう」と懸念を示した。>時事通信 1月17日(木)22時37分配信

<鳩山元首相 尖閣は「係争地」と発言 古澤 襄

訪中した鳩山元首相は、北京で楊中国外相と会談、「日本政府は『領土問題は存在しない』というが、歴史を眺めれば分かる話だ。今係争が起きていることは事実で、お互いに認めることが大事だ。領土問題は存在しないと言っていたら、いつまでたっても答えは出ない」と述べた。

日本政府の見解を真っ向から否定し、「棚上げ論」についても中国側の主張におもねったことになる。もっとも鳩山氏が希望していた習近平氏との会談は実現せず、中国側が鳩山氏の訪中が日中間の関係改善につながると期待していないことを物語っている。

<【北京=川越一】「個人の立場」で訪中している鳩山由紀夫元首相は16日、北京で賈慶林全国政治協商会議主席、楊潔●(=簾の广を厂に、兼を虎に)外相らと会談した。終了後、記者団に対し、沖縄県・尖閣諸島について日中間の「係争地」との持論を伝えたことを明らかにした。

鳩山氏は「日本政府は『領土問題は存在しない』というが、歴史を眺めれば分かる話だ。今係争が起きていることは事実で、お互いに認めることが大事だ。領土問題は存在しないと言っていたら、いつまでたっても答えは出ない」と述べ、日本政府の見解を真っ向から否定した。

「棚上げ論」についても中国側の主張におもねった。

賈氏らは鳩山氏の発言に同意したという。ただ、鳩山氏が希望していた習近平国家副主席との会談は実現せず、中国側が鳩山氏の訪中が日中間の関係改善につながると期待していないことを物語る。

中国側が鳩山氏を招待したのは、親中的な同氏に自国の立場を吹き込み、特使派遣を検討する安倍晋三政権に圧力をかけるのが目的だ。17日、江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」に鳩山氏を招くのも、歴史問題に絡み同氏を利用する狙いがうかがえる。(産経)>

鳩山発言は「わが国の立場と相反」と官房長官が批判 古澤 襄

菅義偉官房長官は17日の記者会見で、北京で中国要人と会談した鳩山由紀夫元首相が沖縄県・尖閣諸島について日中間の係争地との認識を伝えたことに関し「わが国の立場と明らかに相反する発言で極めて遺憾だ」と述べた。

「日本の首相をされた方の発言として非常に残念だ」とも語り、鳩山氏の言動を批判した。

鳩山氏は16日に北京で賈慶林全国政治協商会議主席や楊潔●外相と会談し、沖縄県・尖閣諸島を日中間の係争地とする持論を展開。その後、記者団に「係争が起きていることは事実で、お互いに認めることが大事だ」と語った。(●は簾の广を厂に、兼を虎に)(産経)2013.01.17 Thursday name : kajikablog

昔の人はよく言った。「バカにつける薬は無い」
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2014年03月05日

◆恐怖が貫禄を作る

渡部 亮次郎


私が秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)氏は神風特攻隊長として決死の出撃寸前、敗戦になった為生き残った人だった。昭和20(1945)年8月13日、北海道千歳基地を飛び立つべきところ、悪天候の為?17日に延期。ところが15日に敗戦。

助かったのですね、と言ったら「違う、一旦死を決意していたから、死ななくても良いと言われた途端、腰が抜けたよ」と言っていた。

とにかく日中事変の頃を含めて計11年、戦争の現場にいた。

進軍(徒歩)の途中、途が2手に分かれている。右に進むべきか左にすべきか。必ず悪路のほうに進んだ。良い道の先では敵が待ち構えている危険があった。そういう体験があったのである。

帰還して国会議員になって間もなく野党の独身婦人議員と恋仲になって妊娠がばれた。直ちに4人の子供を抱えた夫人と離婚、野党議員と結婚した。堕胎と言う道もあったのにといったら「困難な途を敢えてえらんだのだよ」。

なるほど選挙区の女性たちには評判が良く、選挙地盤が固まっていない時期だったにも拘らず落選はしなかった。死ぬまで14回連続当選の実績を残した。

1980年代前半までの日本の国会議員たちの大半は従軍体験を持っていた。中曽根康弘氏だって海軍主計中尉だった。田中角栄氏も陸軍2等兵でノモンハン事件に狩り出されている。

死ぬか生きるか。人間は死を覚悟した時貫禄が出来る。園田氏を観察していると、政治のどんな場面でも恐怖を感じる風はなかった。戦争で死ななかった人間が政治で死ぬわけが無いと、いつでも楽観していた。

そうした目で平成の政界を見ると、政治家に戦争体験の無いのは勿論、「失敗」の経験も少ない。受験だって「塾」で防備していて「貫禄」をつける暇も無い。

失敗で挫折を多く味わったのは小沢一郎氏ぐらいだ。だから菅も仙谷も面と向かって小沢には対決できない。仙谷は俺の合格した司法試験を小澤は落ちた、だから俺のほうが上と威張るが、落ちた小沢の貫禄にはたじたじでは無いか。

貫禄を得るためと言って戦争をする事は不可能だが、失敗を重ねた方に貫禄が出来る事は間違いないと勝手に考えている。ただし宇宙人にこれは適用できない。鳩山由紀夫氏は総辞職を失敗とすら考えていないようだから?(再掲)

2014年03月03日

◆ちゃんちゃら可笑しい英訳

渡部 亮次郎


永野重雄という日本財界の四天王の一人は、実に激しくも気さくな人だった。仕えた園田直が官房長官から外務大臣に転出したとき財界に園田後援会を作ってくださり、毎月の懇親会に秘書官の私も加えるように気配りして下さった。

渡部君、ボクが会社(新日本製鉄会長)から常務会の決裁無しに持ちだせる金額を知ってるかい?たった5万円だよ。これじゃ彼女の手当てにもなりゃしない。と、終いには秘密を打ち明けるようになった。

なにしろ持った段位が得意の柔道や囲碁など交えて64段。武道の段位30段の園田も真っ青の大物だった。広島で。裁判官を父とする10人きょうだいの次男として育った。

その永野さんが財界の幹部を引き連れてモスクワのクレムリンに乗り込んだ。当時の日ソ経済協力推進のためである。昭和40年代のことだ。確か共産党書記長のブレジネフと会談した。通訳はモスクワ駐在の日本大使館員。

「そんなこと、解決は簡単、朝飯前です」までは良かったが「ちゃんちゃら可笑しい」の言葉でエリートは詰まってしまった。ちょっとした江戸弁だが、若い人はもう余り使わなくなった言葉。

エリートは舞い上がった。だから永野さんが「そんなことをしたら、こちとら、臍(へそ)で茶を沸かす」と言ったとき、意味が理解できないまま直訳してしまった。

臍で茶をどうやって沸かすのか。堅物のブレジネフが真顔で聞いてきた。往生したのは永野さん。「可笑しい」のたとえで言っただけなのに、通訳が真意を知らぬまま直訳したから場が白けてしまった。「あの時は参った」としみじみ述懐していた。

永野さんは男兄弟6人中5人が東大、1人は東北大という優秀な兄弟。「だがボクは殆どを柔道ですぎたね」。

いろいろな曲折を経た後、製鉄業界に入り、敗戦後、先輩たちがクビを並べて公職追放になったため46歳の若さで日本製鉄の常務。そのご日本製鉄は進駐軍により八幡製鉄と富士製鉄に分割されるが、のちに合併により新日本製鉄として再出発、会長になった。

通訳はみな秀才だが、世の中の酸い、甘いには通じていない人が多い。勉強は出来るが、常識に欠ける人物は古今、東西を問わないのでは無いか。「海千山千」を知らない通訳に私自身、往生したのはワシントンでだった。

海千山千 意味
長い年月にさまざまな経験を積んで、世の中の裏も表も知り尽くしていて悪賢いこと。また、そういうしたたかな人。▽「海に千年、山に千年」の略。海に千年、山に千年棲すみついた蛇は竜になるという言い伝えから。


 

2014年02月28日

◆ゴーストップ事件

渡部 亮次郎


ゴーストップとは交通信号機を指す。戦前、戦中はこう言ったようだ。昨今、日本には言論不自由時代なぞ無かったと思い込んでいる人が毎日、増えてゆく。

それだけ若い人に比べて老人が少なくなっているのだろう。それが自然だからどうでもいいが、アメリカとの戦争に負けるまでは日本は言論の自由はなかった。だから敗戦が良かったというのでは絶対に無いが。

戦前、戦中は何かというと「そんなことを言うと憲兵に捕まるぞ」と目上の人に注意された。憲兵って?という若い人のために「ウィキペディア」で調べていたら、脱線。関連して「ゴーストップ事件」が出てきてしまった。

ゴーストップ事件(天六事件ともいう)は、1933(昭和8)年に大阪市の天六(てんろく)交叉点で起きた出来事、およびそれに端を発する日本陸軍と日本警察の大規模な抗争のことである。

満州事変後の大陸での戦争中に起こったこの事件は、軍部が法律を超えて動き、国家の統制がきかなくなるきっかけの一つとなった。

発端

1933年6月17日午前11時40分頃、大阪市北区の天神橋筋6丁目交叉点で、慰労休暇中の陸軍第4師団第8連隊第6中隊の中村政一1等兵が信号無視をしたとして、交通整理中であった曽根崎警察署の戸田忠夫(中西忠夫)巡査が注意し、天六派出所まで連行した。

その際中村1等兵が「軍人は警官の命令には従わない」と反論した為つかみ合いの喧嘩になり、互いに負傷、中村1等兵は鼓膜損傷全治3週間、戸 田巡査は全治1週間の怪我を負った。

この時、騒ぎを見かねた見物人が大手前憲兵分隊へ通報し駆けつけた憲兵隊 の伍長が中村を連れ出してその場は収まるが、その2時間後、憲兵隊は 「公衆の面前で軍服姿の帝国軍人を侮辱したのは断じて許せない」として 曽根崎署に対して抗議した。

当時、第8連隊の松田連隊長が不在であったため、上層部に直接報告が伝わって事件が大きくなり、平和的に事態の収拾を図ろうと考えていた曽根崎署の高柳博人署長の考えもむなしく、21日には事件の概要が憲兵司令官や陸軍省にまで伝わっていた。

この後の当事者の事情聴取で、戸田巡査は「信号無視をし、先に手を出したのは中村1等兵である。」と、逆に中村1等兵は「信号無視はしていないし、自分から手を出した覚えはない。」と両者まったく違う主張を繰り返した。

軍部と内務省の対立

6月22日、第4師団の井関大佐が「この事件は一兵士と一巡査の事件ではなく、皇軍に拘る重大な問題である」と声明した。

それに対して粟屋仙吉大阪府警察部長も「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官である。陳謝の必要はない」と言明した。6月24日の寺内寿一第4師団長(寺内正毅の息子)と縣(あがた)忍大阪府知事の会見も決裂した。

この結果、問題は寺内と粟屋という軍部と警察(すなわち内務省)との対立の様相を示す。

この議論は平行線を辿り、また、新聞と雑誌もこれを「軍部と警察の正面衝突」などと大きく報じたことによって過剰なほどの騒ぎとなった。

「天皇陛下の軍隊」に対して「天皇陛下の警察官」を自任する警保局を中心とする内務官僚たちは新たな政治勢力として意識され、「新官僚」(後の新々官僚とは別物)と呼ばれた。彼らは主に1910年代に東大を上位の成績で卒業し、中堅の幹部に昇進していた者たちであった。

7月17日、中村1等兵は戸田巡査を相手取り、刑法第195条(特別公務員暴行陵虐)、同第196条(特別公務員職権濫用等致死傷)、同第204条(傷害罪)、同第206条(名誉毀損罪)で告訴した。

8月24日、事件目撃者の1人であった高田善兵衛が憲兵と警察からの度重なる厳しい事情聴取に耐え切れず自殺、国鉄吹田操車場内で轢死体となっ
て発見された。

また、この事件の処理に追われていた曽根崎署長の高柳は疲労で倒れ入院したが、7月18日その一報を知った寺内は井関に「事件で心痛のあまり病状が悪化すると気の毒なので、適当にお見舞いするように」と伝えたとの逸話がある。しかしその10日後、高柳は逝去した。

終結

最終的には、事態を憂慮した昭和天皇の特命により白根竹介兵庫県知事が調停に乗り出し、11月19日に和解が成立した。

11月20日、当事者の戸田と中村が仲介した大阪地方検事局の和田検事正の官舎で会い、互いに詫びたあと握手して幕を引いた。和解の内容は公表されていないが、警察側が譲歩したものだというのが定説となっている。

事件の影響

結局この事件は軍と警察の面子の張り合いにすぎなかったが、解決を一番喜んだのは師団長の寺内だったという。この後、現役軍人に対する行政措置は警察ではなく憲兵が行うこととされるようになり、軍部が法を超えて次第に国家の主導権を持つきっかけのひとつとなった。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』008・03・10執筆 (再掲)


2014年02月27日

◆スキーの出来ぬ雪国男

渡部 亮次郎


秋田生まれといえば、れっきとした雪国男といわれるが、事情があってスキーが全くできない。東京・向島生まれの家人は出来るそうだ。

雪国で生まれ育った証拠に、手と足に霜焼の傷跡がケロイド状に残っている。11月で霰(あられ)や雹(ひょう)が降り始めると、手足が霜焼で腫れ、ところどころ破れて傷になる。どうもビタミン不足が齎す栄養不良症らしい。

夕方、気温が低下すると傷は痛みだし、薬を付けるべく膿で張り付いたガーゼを剥がすのが一苦労。洗面器に張った湯に漬けてから剥がした。痛かった。これだけでも雪国は嫌いだ。

少年当時は対米戦争中。南洋から輸入していたゴムがアメリカの潜水艦に沈められるから、冬になってもゴム長は何処にも売っていなかった。学校での「配給」だけで、長距離通学の私には優先的に配給になった。

だから、その大切なゴム長をスキーの金具でこすったりする事は父親に厳禁された。再生ゴムはとても弱くて、中に入れた藁が靴を破って出たぐらい。スキーをはかないまま敗戦を迎えたが、迎えた頃はスキーへの興味も失くしていた。

ところが、仮にスキーの履ける状態だったとしても、スキーの上手くなるはずはなかった。家の周囲は何処まで行っても水田ばかり。坂というものが無いのだから、スキーで滑り降りるところが無いのだ。

それを知らずに、後年、友人が来て、いきなり国立公園八幡台の頂上へ行き、一緒に滑り降りようという。相手は東京生まれながらスキーが出来る。雪国生まれの私をスキーができないなんて思ってない。あれは高所恐怖症でNYの世界貿易センタービルの最上階でキンタマが上がった時より怖かった。

尤も田圃のはるか先にある旧八郎潟は、冬は氷結するからスケートなら上手でしょう、と迫られた。スケートは滑れる。だがこれを履いたのは雪を払った田圃の上であって、八郎潟ではない。

冬の八郎潟はなるほど氷結するが、強風によりところどころに氷結した山が出来ているのでスケートどころではないのだ。しかも春が近付くと氷は割れる。

父方の祖父の兄は氷上漁業中、氷は大きく割れて流されて溺死した。日露戦争から凱旋した祖父は止むを得ず次男ながら家督を相続、孫に私が生まれてという次第。

そういうわけで高所恐怖症から登山嫌いの私は、夏も冬もレジャーには縁遠い次第。決して都会っ子では無いのに田舎が苦手なのである。そういうわけで今回のソチ・オリムピックは全く観なかった。

2014年02月26日

◆中国軍が尖閣強襲を計画

古森 義久


中国人民解放軍がわが尖閣諸島への攻撃をかける準備に着手した、という情報です。アメリカ海軍の現役幹部から出た話です。

<「中国は尖閣諸島強襲の準備を始めた」波紋を呼ぶ米海軍現役軍人の発言>

中国人民解放軍が尖閣諸島の奪取を目的とする日本との短期で敏速な局地的戦争の準備を進めている・・。

こんな情報が米国海軍の現役軍人から明らかにされた。

どの国の軍隊でも常に最悪の事態を想定して、作戦準備をするというのは普通だが、わが日本が実際に攻撃を受けるというシナリオには真剣な関心を向けざるを得ない。

最初にこの情報を明らかにしたのは、米国海軍の研究機関「米国海軍研究所(USNI)」のネット機関紙「USNIニュース」に2月18日に掲載された記事である。その記事がさらに「ワシントン・タイムズ」(2月20日付)に、ビル・ガーツ記者の解説とともに報じられた。

それ以来、ガーツ記者の同記事はスクープ報道として注視され、米国の他の大手メディアも後追いという形で同じ内容を報じるに至った。日本やイギリスのメディアでも転電された。

ガーツ記者は軍事や防衛など国家安全保障を専門分野とするベテランのジャーナリストである。特に中国の軍事動向に詳しく、国防総省や中央情報局 (CIA)、国家安全保障局(NSA)などを情報源として多数のスクープ記事を長年にわたり発信してきた。だから彼の記事は特に注目されるのである。

■台湾に加えて日本も軍事行動の標的に

この気になる情報を当初のUSNIニュースの記事から紹介しよう。その報道の骨子は以下のようなものだった。

・米海軍太平洋艦隊の諜報情報作戦部副部長のジェームズ・ファネル大佐は、2月13日のサンディエゴでの会議で、「中国人民解放軍は最近、東シナ海で日本の自衛隊を撃滅する戦闘に備えるという新たな作戦命令を上部から与えられた」と述べた。(つづく)
2014.02.26 Wednesday name : kajikablog

2014年02月25日

◆ジョン万次郎の帰国

渡部 亮次郎


遭難後、アメリカで英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学び、やがて船員達の投票により副船長に選ばれたジョン万次郎が、1851年(嘉永4年)、日本へ帰国を果たしたのが1月3日である。

中浜万次郎 なかはままんじろう 1827〜98 ジョン万次郎として知られる。土佐の中浜浦(高知県土佐清水市)の漁師の家に生まれ、1841年(天保12)14歳のとき、カツオ漁に出て遭難し、鳥島(→ 伊豆諸島)に漂着。無人島の生活143日にして、アメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号に救助された。

船号にちなんでジョン・マンの愛称でよばれた万次郎は、その利発さを船長に愛され、マサチューセッツ州の捕鯨基地ニューベドフォードに伴れた。

この地の学校を優秀な成績で卒業後、ふたたび捕鯨船に乗って働き、ドレーク海峡や喜望峰を越え、太平洋、大西洋、インド洋を巡航、鎖国時代の日本人としては珍しい世界体験をしている。

やがて乗組員の選挙によって副船長に選ばれたが、鎖国日本の外国船撃退が、各国の捕鯨仲間に評判が悪いことを憂い、帰国を決意。

捕鯨の収入と、ゴールドラッシュに湧くカリフォルニアで働いて得た資金で、捕鯨船アドベンチャラー号を買い入れ、1850年12月27日にホノルルを出発、翌51年(嘉永4)1月3日、沖縄の摩文仁(まぶに)海岸(糸満市)に接岸した。

長崎奉行および土佐藩の取り調べを受けた後、藩士に登用されて中浜姓を名のる。万次郎の見聞は、取り調べにあたった河田小竜を通じて後藤象二郎や坂本龍馬にも影響を与えたといわれる。

その後、幕府に招聘されて江川太郎左衛門の手付(秘書役)となり、英語教授、外交文書翻訳などを務めた、1853年のペリー提督の来航の際は、徳川斉昭をはじめとする攘夷派は、万次郎がアメリカのスパイをするのではないかと懸念し、通訳に起用することに反対した。

しかし1860年(万延元)、日米修好通商条約の批准書交換のための遣米使節には通弁(通訳)主事に選ばれ、咸臨丸で活躍した。多感な青春時代にアメリカを体験した中浜万次郎(ジョン万次郎)は、当時稀有(けう)な国際的な視野を持った教養人だったといえる。

艦内での万次郎の存在は大きく、実質的には万次郎が指揮をとっていた。咸臨丸にはアメリカの測量船のジョン・M.ブルック船長らが便乗し、航海の技術指導をしたが、ブルックはその航海の様子を日記につけていた。

咸臨丸において、旧暦2月24日、艦長勝 海舟はサンフランシスコを前にして自信が無くなり、秘かに万次郎に相談をかけた。万次郎は航海上のこと一切を任せてくれるならば、無事着港を引受けると答え、勝は彼に一任
する。

26日カリフォルニヤの山を見、勝は大いに悦(よろこ)び卓絶な航海術には実に感心したと述べた。この話は中浜東一郎が父万次郎の直話とことわっている。勝のことだからこのような事があったに違いない。

距離の測定。万次郎がホノルルから帰国の途につき、琉球近くなった時、ある島を望遠鏡でとらえた。船長は10浬くらい、万次郎は15浬くらいと言う。

しからば測量しようと、オクタントで測量したところ十五浬あったという。  オクタントは原理は同じく六分儀の前身で、90°まで測れる。(略)

万次郎はのち薩摩藩で軍艦操縦や英語の指南役をつとめ、明治政府では開成学校の英学教授となった。

プロイセン・フランス戦争(1870〜71)には、大山巌らとともに視察のためヨーロッパに派遣されたが、その後は病弱を理由に官途を辞した。

2000年(平成12)にアメリカの古書店で万次郎を救出したジョン・ホーランド号の乗組員ライマン・ホームズの航海日記が見つかった。その中には救出された時の様子や船での生活が生き生きと書かれており、万次郎研究の貴重な資料といわれた。(c) 飯田嘉郎
Microsoft(R) Encarta(R) 2006から引用。

ジョン万次郎は、英語を憶えた際に耳で聞こえた発音をそのまま発音しており、現在の英語の発音辞書で教えているものとは大きく異なっている。

ジョン万次郎が後に記述した英語辞典の発音法の一例を挙げると、「こーる」=「cool 」・「さんれぃ」=「Sunday」・「にゅうよぅ」=「NewYork 」等。

実際に現在の英米人にジョン万次郎の発音通りに話すと十分意味が通じる(多少早口の英語に聞こえるが、正しい発音に近似している)という実験結果もあり、ジョン万次郎の記した英語辞書の発音法を参考に、日本人にも発音し易い英語として教えている英会話教室もあるらしい。この項の出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・01・01

2014年02月23日

◆これほどの大物が居た

渡部 亮次郎


名古屋市には、その中心に、100m道路がある。道幅100mの道路が東西南北に走っている。もちろんその100mの道幅そのものが、自動車の走行の為の道幅ではない。道幅100mの間には、公園もあれば、テレビ塔もある。

名古屋も戦後直後は、空襲でこの辺りも焼野原となった。戦後の混乱の時期に、市の幹部は、まず道路を設定した。その時に、未来に備えての道幅100mの道路を設定したのである。

さて、なぜ道幅100mの道路を名古屋の中心に東西南北に走らせたか?である。

戦後の焼野原を見ながら、どんな火災が起きても、延焼を食い止め、名古屋全域が焦土と化さないように名古屋の中心のタテヨコに幅100mの空間(道路)を作ったのである。

一方、将来来るはずの自動車社会を見越して東京中心部の設計をしたのが岩手県人後藤新平(ごとう しんぺい)綽名大風呂敷である。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。

特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と、環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小をされながらも実際に建設した。

当初の案では、その幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので、自動車が普及する以前の当時の時代では受け入れられなかったのも無理はない。

現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付近に見ることができる。上野と新橋を結ぶ昭和通りもそうである。日比谷公園は計画は現在の何倍もあったそうだ。

また、文京区内の植物園前 、播磨坂桜並木、小石川5丁目間の広い並木道もこの計画の名残りであり、先行して供用された部分が孤立したまま現在に至っている。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っているといって良い。

関東大震災。1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ沿いの断層を震源とするマグニチュード7・9による大災害。南関東で震度6 被害は死者99,000人、行方不明43,000人、負傷者10万人を超え、被害世帯も69万に及び、京浜地帯は壊滅的打撃を受けた。(以下略)「この項のみ広辞苑」

新平は関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、30億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約2年分)。

ために財界などからの猛反対に遭い、当初計画を縮小せざるを得なくなった。議会に承認された予算は、3億4000万円。それでも現在の東京の都市骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評価されている。11%!に削られながら。

三島通陽の「スカウト十話」によれば、後藤が脳溢血で倒れる日に三島に残した言葉は、「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。

後藤新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちのNHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長。

陸奥国胆沢郡塩釜村(現・岩手県奥州市水沢区吉小路)出身。後藤実崇の長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の親族に当たり、甥(義理)に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和子、哲学者の鶴見俊輔をもつ。椎名さんは新平の姉の婚家先に養子に入った。

母方の大伯父である高野長英の影響もあって医者を志すようになり、17歳で須賀川医学校に入学。同校を卒業後、安場が愛知県令をつとめていた愛知県の愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。

ここで彼はめざましく昇進し、24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。この間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助を治療している。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。

1882年(明治15)2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも、病院・衛生に関する行政に従事することとなった。

1890年(明治23)、ドイツに留学。西洋文明の優れた一面を強く認識する一方で、同時に強いコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、1892年(明治25)12月には長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任した。

1893年(明治26)、相馬事件に巻き込まれて5ヶ月間にわたって収監され、最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり、一時逼塞する破目となった。

1883年(明治16年)に起こった相馬事件は 突発性躁暴狂(妄想型統合失調症と考えられる)にかかり 自宅に監禁されさらに加藤癲狂院(てんきょういん)や東京府癲狂院に 入院していた奥州旧中村藩主 相馬誠胤(そうまともたね)のことについて

忠臣の錦織剛清(にしごおりたけきよ)が 「うちの殿様は精神病者ではない。悪者たちにはかられて病院に監禁された。」 と、告訴したことに始まった。結局この騒ぎは1895年(明治28年)に 錦織が有罪となって終結すること
になった。

1898年(明治31)3月、台湾総督となった兒玉源太郎の抜擢により、台湾総督府民政長官となる。そこで彼は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で、経済改革とインフラ建設を進めた。こういった手法を、後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している。

それは、社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって、現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというものであった。

また当時、中国本土同様に台湾でもアヘンの吸引が庶民の間で常習となっており、大きな社会問題となっていた。これに対し後藤は、アヘンの性急に禁止する方法はとらなかった。

まずアヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許制として次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功し、アヘン患者は徐々に減少した。

総督府によると、1900年(明治33年)には16万9千人であったアヘン中毒者は、1917年(大正6)には6万2千人となり、1928年(昭和3)には2万6千人となった。

なお、台湾は1945年(昭和20)にアヘン吸引免許の発行を全面停止した。これにより後藤の施策実行から50年近くかけて、台湾はアヘンの根絶に成功したのである(阿片漸禁策)。

こうして彼は台湾の植民地支配体制の確立を遂行した。台湾においては、その慰撫政策から後藤は台湾の発展に大きな貢献を果たした日本人として、新渡戸稲造、八田與一等とともに高く評価する声が大きい。

1906年、後藤は南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら、台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。

また、満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄内に調査部を発足させている。東京の都市計画を指導するのはこの後である。

その後、第13代第2次桂内閣の元で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(1908年7月14日-1911年8月30日)、第18代寺内内閣の元で内務大臣(1916年10月9日-1918年4月23日)、外務大臣(1918年4月23日-1918年9月28日)。

しばし国政から離れて東京市長(1920年12月17日-1923年4月20日)、第22代第2次山本内閣の元で再び内務大臣(1923年9月2日-1924年1月7日)などを歴任した。

鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でたまらない」と揶揄された。しかし、今日のJR九州の肥薩線に、その名前を取った「しんぺい」号が走っている。

1941年(昭和16)7月10日、本土(下関市彦島)と九州(当時、門司市小森江)をむすぶ、念願の日本ではじめての海底トンネルが貫通した。この日貫通したのは本坑道で、それより先39年4月19日には試掘坑が貫通している。

新聞はこの貫通を祝っているが、関門海峡の海底をほって海底トンネルをつくる構想ははやくも1896年(明治29)ころからあり、当時夢物語のようなこの話を実現化へ向けて進言したのは、鉄道院総裁の後藤新平だったとつたえている。[出典]『中外商業新報』1941年(昭和16)7月10日

晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。1929年、遊説で岡山に向かう途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。72歳。

虎ノ門事件(摂政宮裕仁親王狙撃事件)の責任を取らされ内務省を辞めた正力松太郎が読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった後藤は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わずに貸した。

その後、事業は成功し、借金を返そうとしたが、もうすでに後藤は他界していた。そこで、正力はその恩返しとして、新平の故郷である水沢町(当時)に、新平から借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、1941年に日本初の公民館が建設された。今は 記念館になっているようだ。

後藤は日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日本連盟の初代総長を勤めている。後藤はスカウト運動の普及のために自ら10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。

彼がボーイスカウトの半ズボンの制服姿をした写真が現在も残っている。制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕らの好きな総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニコ」と歌声が上がったという。

後藤はシチズン時計の名付け親でもある(彼と親交のあった社長から新作懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を贈った)。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』再掲。

2014年02月22日

◆国語は義務教育で詰込め

渡部 亮次郎


未曾有で始まった麻生「首相」の漢字誤読は長崎原爆忌での「しょうせき」(傷跡)で終止符を打った。直後、自分で打った「解散」の結果「首相」でなくなって、いくら誤読してもだれも振り向かなくなった。

しかし世間には誤読のタネはいくらでもある。直後、海外在住の評論家女史から配信されたメルマガに「日本を『せき巻き』している」という文章があった。前後の関係から、あきらかに席巻(せっけん)の読み方を知らずに年老いたものと知れた。何冊も著書が有り、新聞にも時折、評論を寄稿している有名人でも、おそらく中学時代に席巻を習わず、評論を書くようになってから使うようになったための誤読かと同情した。

そうかと思うと、教育関係のある会合に出たら、最近、歴史教科書の版元になって名を挙げた評論家が「先生、なぜこういう子供を『いくむ』ようになったのでしょうか」と下問。

聞かれた亡国立大学の副学長女史、暫く考えて「いくむ」が育(はぐく)むと分かって、すらりと答弁。評論家は「はぐくむ」と勉強しなおすチャンスをまた失った。

田中角栄は学歴の無い首相だったが、この種の誤読は一切無かった首相でもあった。尋常小学校の漢字教育が徹底していたからではない。若くして世に出て、徒手空拳、使うべき文字は自分で納得のいくまで自分で叩き込んだためである。

外国の大学に2つも入った麻生太郎は、小中学校で漢字教育を十分うけずとも高校、大学を通過できる「環境」にあったから、漢字使用に伴うある種の痛痒を感じないまま過ぎてしまった。経営者としても国会議員としても先祖の七光りがあって、政治家の頂点に立ってしまった。

かくて首相として活動してみたら、漢字を十分使えない器である事を暴露、人気ガタ落ちになってしまった。政界にはこれからまだまだ2世3世が登場してくる。彼らは日教組の「ゆとり教育」を受けて育っている。漢字教育も「ゆとり」だろうから、第2、第3の麻生が間違いなく出現する。

すべからく、漢字教育は脳みその柔らかな義務教育の間に徹底的に教え込まないと、我々は天にツバする如く政治家の演説にのけぞり続ける事になる。(文中敬称略)
2009・08・29執筆