2012年03月06日

◆他人に教える難しさ

渡部 亮次郎


日本に生まれれば自然に覚えるのは日本語である。しかも田舎に生まれれば田舎弁を覚える。私の英語はニューヨーク訛りで日本語は秋田訛りだ。アメリカ語は50を過ぎてから強制的に覚えたものだから、日に日に忘れてゆく。

これについては14歳までに覚えた言語は死ぬまで忘れない、という研究があるそうで、私の場合は18歳まで秋田で過ごしたから、直ったようでも秋田訛りはどこかに死ぬまで残るだろう。
 
後輩の1人の高級官僚。財務省にトップで入ってすぐケンブリッジに留学。3年勉強してIMF(在ワシントンDC)に赴任を命じられた。本場で英語を3年も勉強して行ったのにアメリカの英語が3日ぐらいは全く理解できなかった。

アメリカ語はアメリカ語であって厳密には英語とはいえないから当然だった。しかも国力の差からして今後、世界の言語を左右するのは英語ではない、アメリカ語なのである。そういえばニュージーランドの「英語」は3日ぐらい分からなかった。

日本は明治政府になった時、政府が「標準語」を制定した。作家井上ひさしの著作によれば、その時「東京山の手の言葉」が標準語と決まったが、わずかの差で京都弁が標準語になるところだったそうだ。

ところでアメリカ語には標準語が無い。移民の国だから当然であろう。しかも本場イギリスに至っては階級によって訛りが違うというのだから厄介だ。

日本で今の英語教育は「話せる英語」を政府から強いられているように思うが、そういう政府の役人自体、何を以て英語となすか、分ってはいない。

ケネディー大統領時代に発足したのが日米教育文化交流会議=CULCONが日米文化交流の原点なのだが、日本では主導権を外務省に握られ、アメリカのパートナーである教育省は共和党政権になると常に廃止の憂き目に遭うから力が無い。

私も何回かワシントンでのCULCONに出かけたが会議はしばしば地下室で開かれる始末だった。政府が異文化交流に関心を示さずカネを出し渋るからである。

最近は開催されているかどうか、ニュースにすらならない。このことからしても日本における英語教育の責任は教師一人ひとりの肩に架かっていると言わざるを得ない。

英語教師にはそれだけ自由があり、楽しいということでもある。ただ英語教師に願いたいのは、生徒に対して、君たちになぜ、今、英語を習わせるのかを最初に説明してやってほしい。「今の頭脳は柔軟で覚えやすいから」と。


2012年03月03日

◆アリナミンがあったなら

渡部 亮次郎


子供のころ「函館大火」を歌ったレコードがあり「あの時、オートバイがあったなら、こんな苦労はせずともえ」と唄っていた。それに倣えば「日露戦争にアリナミンがあったなら、脚気で?外も苦労せずに済んだのに」だ。

脚気を巡る日本の海軍と陸軍の争いは、ビタミンB1の発見(鈴木梅太郎)によって、あっさり海軍の勝利で決着した。黴菌説を譲らず、明治天皇から嫌われた陸軍軍医総監森 林太郎(森 鴎外)は「死後、皇室から如何なる沙汰があっても拒否せよ」と悪たれ遺言をして死んだ。

文学の世界ではこの遺言が謎とされているが、医学の面で見れば単純明快。脚気栄養説の海軍軍医総監高木兼寛は明治天皇に陪食を3度も賜ったが、陸軍の森には1度も無い。明治天皇も脚気になったが,高木のいう栄養説を聞いて治ったからである。

陸軍がその後、脚気について、どのような対処の仕方をしたかは詳らかでないが、そもそも明治37−8年の日露戦争で戦死者に匹敵するぐらいの脚気死者を出したのだから、以後も脚気対策には神経を使ったものと思われる。

日露戦争で徴兵したのは農村、山村、漁村の次男、三男。長男は除外。徴兵たちは実家では年に盆と正月しか食えなかった白米飯が只で食えると言うので夢中で食った。おかず代は現金で支給されたが、実家へ仕送りした。結果、脚気にみな掛かった。

実家では雑穀や米糠に漬けた沢庵を食べてビタミンB1を十分摂取していたが、軍隊に沢庵は無い。それにビタミンB1の豊富な豚肉もまだ食べる習慣がなかった。いずれ誰も脚気がビタミンB1欠乏症とは知らない。

陸軍は大阪発祥の薬会社「武田薬品」に対して、脚気治療薬の開発を要請していた。それで完成したのが、いまも疲労回復剤として売れている「アリナミン」。ただし発売は戦争中じゃ無く、軍が無くなって7年も経った昭和27年。「泥縄」もいいところだった。

ビタミンB1誘導材の形であれば高吸収率を維持したまま体内で再合成されることが明らかとなったのが戦後になってからだったから仕方が無い。化学合成する手段の開発とともに昭和27年に発売されたわけ。

当時、いまだに少なからず脚気患者が居たことと疲れに効果があるという宣伝文句が合わさって、当時から爆発的に売れた商品となった。隆盛期の昭和30年代は武田薬品工業の利益の半分をこの商品から捻出していたとも言われる。

2012年03月01日

◆正義に味方せぬのがマスコミ

渡部 亮次郎


マスコミ不信がこのところ激しい。逆説を言えば、人々のマスコミ依存がそれだけ激しい、とも言える。だが、マスコミとは所詮儲け仕事。身勝手なんだから信頼なんかしてはいけない。

昔は「社会の木鐸(ぼくたく)」と誉めそやした。広辞苑によれば、「世人を覚醒させ、教え導く人」とある。昔、中国で法令などを人民に知らせる時に鳴らしたのが「木鐸」で、木製の舌のある鉄製の鈴だった。

私が世間に出た昭和30年代までは日本でもマスコミのことをそういって批判したり、反省を求める「識者」がいた。また批判されればマスコミも少しは反省したような顔をした。

だが民放が本格的になっ来るにつれて,もういけません。ニュースにしろ番組にしろ視聴率こそが彼らの収入を左右するのだから、「映像(絵)」にならない物は取材対象でなくなった。

例えば政治である。経験上、政治こそは、夜、密室で決められるから絵にはならない。したがってテレビは政治家の料亭への出入りの撮影にこだわる。映像と音声を同時に捉えるにはカメラとマイクで押しかけることになる。騒動だ。だがここでは真相からは離れている。

真実はつかめない。近いところを手短に喋ってくれる政治家にレンズもマイクも集中する。順序立てて論理的に話してくれても話の長い政治家は敬遠だ。

ニュースの枠は短いのだから、見出しだけを並べたような喋りをしてくれる政治家が画面を独り占めにすることになる。小泉が首相として世の中を振り回せたのも「ワンフレーズ」人間だったからだ

テレビにかじりついているような視聴者はこれで騙されてしまう。

なぜなら、見出しを並べたような喋りは真相の上っ面をなでただけだから、事態はニュースとやや違って動く。だからニュースを一旦は信じた人は「騙された」という批判をしたくなる。

「解散」を巡る当時の麻生首相の動き。映像を追っていただけでは判断を間違う。彼は「解散」をするために総理の座についたが解散を渋ったような印象を与えてしまったから不人気のままか解散をせざるを得ない珍しい宰相になってしまった。

勿論「百年に1度の経済不況」対策に専念したためでもある。だから財界には人気がある。しかし当面の役には立たない。

どうせ「解散」すれば任期は無くなる(再選不可能)から解散を延ばせるだけ延ばした方が得策、と進言した大幹部がいた。テレビはもちろん新聞もこの情報をつかめないままに過ぎたが。

簡保の宿問題。従業員の解雇を阻止するためには郵政の側に真実があった。だから麻生は鳩山邦男総務相を事実上、罷免して解決するしかなかった。

だが麻生自身がこのからくりの説明を怠ったために、マスコミの誤まった報道に世論が走ってしまい、支持を失ってしまった。世論操作のミスは大きかった。

マスコミの中には、何が何でも保守大連立実現のためには、この際、麻生を犠牲にして、まず民主党政権を作る必要があるとの考えから、新聞紙面を麻生打倒の政略にした大新聞もある。

「社会の木鐸」という矜持を完全に捨ててしまっている。それを知らずに従(つ)いて行った読者こそ、いい面の皮というべきだろう。都議選で民主支持に流れたという3割という自民党支持者は「騙された」と、いつか気付くだろう。

私の主宰するメイル・マガジン「頂門の一針」の読者には宮里藍とか石川遼といった人気若手ゴルファーを煽て挙げ、終いに駄目にすると、テレビ局を激しく貶し、投書してくる読者が少なからずいる。

私も同感だから投書は採用するが、じつは空しい気がしている。なぜなら民放にとって高い視聴率の取れる映像を作ることこそが目的であって、偉大なゴルファーを育成することとは全く関係ないことなのである。

それを止めてくれ、選手をスポイルしないでくれといっても、民放としてはゼニになる映像がそこに存在するから撮影するのであり、決して彼らをスポイルする気はない。スポイルされたら、それは本人の責任であってテレビ局は次なる「絵」を捜すだけである。

具体例は挙げれば切りの無いほどある。だが挙げ続けても無意味だろう。本質は共通しているのだから。まぜならマスコミはミーハーを煽って新聞、雑誌を売りつけ、テレビ・ラジオは「1億総白痴化」が達成してこそ「儲け」られる「商売」をしているに過ぎないからだ。

偉そうなことを言うようだが、筆者自身、今日ほど無責任でなかった時代の「公共放送」(?)NHKに政治記者を最後に約20年在籍した経験がある。当時ですら「ここに長居したら人生を失う」と悟って41歳で転身してしまった。後悔はしていない。(文中敬称略)


2012年02月28日

◆ものは言い様(よう)

渡部 亮次郎


「奴は仕事はよく出来るが大酒呑みだ」と「奴は大酒呑みだが仕事はよくできる」、あんたが人事課長だったら、どっちを採用するかね、と問われたら、どうしますか。

○仕事はよく出来る
○大酒呑みである

要素はこの2つ。どちらを最初に言うかだけである。当然、後者、つまり、大酒呑みだけど仕事はよくする、といわれた方を採用するに決まっている。そう、ものは言いようなのだ。

秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)さん(故人)が出張先のホテルで諭してくれた話である。彼は特攻隊「天雷特別攻撃隊」の隊長(パイロット)として死ぬはずが、突然、敗戦になって「死に損なった」という人。

それまで陸軍落下傘部隊第1期生、パイロットなどとして、1935年から野戦に11年いた猛者である。しかし士官学校を出ているわけじゃないから、戦争の最先端では相当、苦労したようだ。

それだけに、人間研究が進み、世間を渡る智恵が集積された。冒頭の話も、戦場での体験に基づくものだった。問題にする要素は2つしかないが、どれを先にいうか、後にするかで運命は暗転するというのだ。

別のところでも書いたのだが、戦場では士官学校を出た若者が隊長として着任する。いきなり戦闘に巻き込まれ、若者は興奮する。飛んでくる敵弾に身を曝そうとする。士官学校ではそう教えられて来たからだ。

しかし、弾の撃ち方ぐらいは習っただろうが、撃たれ方は習ってない、当然だ。それが着任早々、撃たれかかって舞い上がる。古参兵たちにしてみると、隊長戦死とは不名誉なことだから「隊長殿、其処では危のう御座います」と叫ぶ。隊長、名誉に拘わると思うものだから、逆に更に危険な地点に出ようとする。困った。

そこで園田さんが出て行って言った。「隊長殿、其処では敵情がよく見えません、どうぞこちらへ」と叫んで岩陰に案内したら、隊長殿、ふっと息を吐いた。

記者時代から12年の付き合いを経て秘書官になった。記者時代は政治家といえども対等な付き合いをした。私は生意気な記者ではなかったが、実力者の河野一郎さんが、毎日曜の昼ごろ、リンカーンでアパートに来て、下から「亮次郎、競馬行こう」と叫んだものだ。

園田さんはその河野派の一員だから、私のほうが威張っていたかも知れない。だが秘書官となれば従者だから、立場は逆転。ところが外国へ出張すると、夜は大臣は孤独になって私が勝つ。

外務省の役人は皆、夜の巷に出かけるから、残りは私と2人だけ。私は酒呑みだが、大臣は下戸。そこで夜は立場が逆転し、大臣が私の水割りを作り、昔話を聞かせる、という場面になるわけだ。

ドアの外には警視庁から附いてきてくれた警護官が立っているが、大臣は気を利かせて、彼をも招き入れて、警察用語で言うところの「教養」の時間となる、という風だった。

園田さんは実は痛がりで小心な少年時代だったそうだ。そこで剣道に励み7段という高段者だった。加えて代議士になってから合気道もやり8段だった。これに居合道8段、空手(名誉)も加えると二十数段という武道家だった。

しかも武道の呼吸を政治に生かしていた。自民党では国会対策委員長を2度も務めて名を高めた。その功績の理由は合気道にあった。野党がいきり立っている時は説得しても無駄。相手が落ち着いた頃を見計らって説得して初めて効き目がある、これは合気道だ、というのだ。

上がる手を無理に抑えようとすれば相手は抵抗するが、手は何時までも挙げたままで居られるわけがない。やがて下がってきた時にこちらの手を添えて下げてやれば相手はつんのめって転ぶよ。タイミングを間違えたら転ぶ相手が転ばずに、こちらも怪我をする。

こんな話を色々と山ほど聞いた。どれだけ実になっているか全く自信はないが。

「若者並み頑張るのだから立派だわね、おじいちゃんなのに」と後輩の女性に言われて立腹した。生まれて初めておじいちゃんと言われたからだ。

「よく頑張るわね、現役がかなわないわね」と言って欲しかった。それを思って冒頭の話を思い出したのだ。ものは言いよう。間違うと命がかかる。

2012年02月26日

◆二・二六事件 ににろくじけん

渡部 亮次郎


今から76年前の1936(昭和11)年2月26日、官僚・財界とむすぶ陸軍統制派を倒して天皇に直結する政治体制をつくる「昭和維新」を計画し、陸軍皇道派の青年将校たちがおこしたクーデタ。

内大臣(天皇補佐の宮内官)斎藤実・教育総監渡辺錠太郎・大蔵大臣高橋是清らを殺害。

一時は議事堂を中心とする政治・軍事の中枢部を制圧したが失敗におわった。

大雪の2月26日早朝、皇道派青年将校がひきいる歩兵第1・第3連隊、野戦重砲兵第7連隊、近衛(このえ)歩兵第3連隊約1500名の部隊が、次々に政府要人の官邸や私邸をおそった。

栗原安秀中尉ら約300名は首相官邸にふみこみ、岡田啓介首相と誤認して秘書の松尾伝蔵を射殺し、坂井直中尉ら約150名は内大臣私邸で斎藤実を射殺した。

さらにその一部は陸軍教育総監私邸で渡辺錠太郎を、また中橋基明中尉ら120名は大蔵大臣私邸を襲撃して就寝中の高橋是清を射殺した。

安藤輝三大尉ら約200名は侍従長官邸で鈴木貫太郎侍従長に重傷をおわせている。こうしてクーデタ軍は午前9時ごろまでに陸相官邸や警視庁をはじめとする官庁街のほとんどを占拠して29日まで制圧した。

当初、真崎甚三郎・荒木貞夫・香椎浩平ら陸軍首脳は反乱部隊に同情的な態度をしめしたが、28日天皇の強い意志をうけて占拠撤収をもとめる「奉勅命令」を発し、翌日戒厳司令部が反乱軍を包囲して武装解除した。

検挙された青年将校らは、7月に開かれた弁護人なしでの非公開の特設軍法会議で17名に死刑が、翌年8月には事件の首謀者とみなされた超国家主義者の北一輝・西田税(みつぎ)にも死刑判決がくだされた。

この事件を利用して皇道派を一掃した陸軍首脳の梅津美治郎・武藤章ら統制派や石原莞爾は、広田弘毅内閣の組閣に介入し、陸海軍大臣を現役の大・中将にかぎる軍部大臣現役武官制(→ 軍部大臣武官制)の復活をはかるなど陸軍による強力な集権体制をきずいた。

筆者は生後、僅か1か月半。事件を知る由もない。ずっと大人になってから本を読んで知った。

Microsoft(R) Encarta(R) 2006. (C) 1993-2005 Microsoft Corporation.
All rights reserved.による。2012・2・25
<産経抄>2月26日

昭和11年、二・二六事件を起こした部隊は、首相官邸や警視庁などとともに三宅坂の上方一帯を占拠した。今の国会議事堂正門に向かって右手の辺りだ。当時は陸軍省、陸軍参謀本部、陸相官邸などがあり、「三宅坂上」は軍中枢の代名詞のように恐れられた。

▼だから決起した青年将校たちにとって「昭和維新」を成功させるためには真っ先に押さえる必要があったのだ。彼らの作戦本部や軍との交渉や駆け引きの場ともなった。つまりあの「昭和の大事件」のメーン舞台が「三宅坂上」だったのである。

▼だが戦後、陸軍省も参謀本部も解体され、跡地は憲政記念館や庭園、それに議事堂の一角となった。事件の痕跡はまったく見当たらない。陸軍省などがここにあったことを示す標識すらもない。「平和主義」のもと、事件も「三宅坂上」もきれいに消し去られたのだ。

▼代わりに「三宅坂」の代名詞で呼ばれていたのが旧社会党だ。昭和39年、坂に面して社会文化会館が建設され、党本部となった。「空想主義」「何でも反対」との批判はあったが、一定の支持を集め、自民党や官僚にとってはこちらも怖い「三宅坂」だった。

▼しかし平成8年、党名を社民党に変えたころから分裂を繰り返して党勢はやせ細る一方だ。支持者も大半は民主党に流れた。党本部もメンテナンスを怠ったため老朽化が進むが、資金不足で建て替えもままならない。移転もやむなくなっているようだ。

▼党自体も衆参10人の小所帯なのに、相変わらず内紛を繰り返している。このままでは存続も危ぶまれそうだ。「三宅坂」も「三宅坂上」のような歴史から抹殺されかねない。党の中身もメンテナンスしておくべきだったのだろう。

2012年02月25日

◆明日もコロッケ

渡部 亮次郎


コロッケもまた田舎少年には東京で合って初めて知る「おかず」だった。戦前の秋田の田圃に揚げ物のあるわけが無い。大学の食堂で初めて知った。恥かしい話だ。

女房貰って嬉しかったが、出てくるおかずは毎日コロッケでうんざりという趣旨の歌。都会では肉屋の店頭で、揚げながら売っていたものらしい。歌は、要するに女房は料理をしない、という意味になる。

東京でも今や肉屋は次々に姿を消していて、コロッケはスーパーやデパートへ行かなければ求められなくなった。母親に用を言いつけられた小学生が、受け取った店頭で、熱々のをつい1つにかぶりつくという風景は見られなくなった。

コロッケは、揚げ物料理の1つ。ホワイトソース(ベシャメルソース)や茹でたジャガイモを潰したものを俵型や小判型に丸め、小麦粉、卵、パン粉を衣としてつけ、ラードなどの食用油で揚げたもの。カロリーは鶏卵=80キロカロリーに対して120キロカロリーある。

挽肉や蟹肉など魚介類やタマネギのみじん切り等野菜を加熱し混ぜる場合が多い。 ホワイトソース(ベシャメルソース)を使ったものはクリームコロッケと呼ばれ、カニクリームコロッケなど具材の名が冠されることもある。

豚カツなど他のカツレツ、フライ料理と同種の料理法だが、既に中身に火が通っているため2度揚げする必要がない。ジャガイモはほくほくした男爵イモが相性がよい。盛り付けの際には、千切りキャベツを付け合わせとして盛ることが多くある。

コロッケは一般的な家庭の味でもあるが、ウスターソース等をかけて食べる洋食料理であり、精肉店で持ち帰り用惣菜として古くから販売されている極めて庶民的な惣菜でもあった。

揚げたてが格段に美味しく、買ったその場で食べることもあったそうだ。勿論冷めても十分美味しい。都会ではスーパーやデパートで揚げる前のものを売っている例が多くなった。もちろん面倒だから揚げたものを買って行く人が圧倒的に多い。

コロッケ単体ではなく、料理に加えて使用する例も多々見られる。たとえば、コッペパンなどに挟んだサンドイッチはコロッケパン、蕎麦やうどんにコロッケをのせたものはコロッケ蕎麦・コロッケうどん、カレーライスにのせたものはコロッケカレーと呼ばれる。

日本のイタリア料理店でライスコロッケと呼ばれるコロッケは、シチリア名物のアランチーニen:Aranciniという料理である。

日本にどのようにコロッケが登場したかは、あまり明らかになっていない。1つの有力な説には「コロッケ」という名前は、フランス料理の付け合せであったクロケット(仏:croquette)が転じたものであるというものがあるが、フランスのクロケットはミンチにした魚肉やとり肉などを混ぜたクリームコロッケに近い物が主流である。

ただしジャガイモをつぶした物にパン粉をまぶして揚げて作ったクロケットのレシピもある。またオランダ名物で有名なクロケット(kroket)と呼ばれる料理もある。

こちらはホワイトソースでできたものの他ジャガイモで作られたものもあり、ジャガイモコロッケの起源ではないかとの憶測は多いが、フランスからオランダにクロケットが伝播したのが1909年とされ、日本のコロッケの普及時機に比すると信憑性は薄い。(en:Croquet (food))

日本におけるコロッケの普及には、カレーライス、肉じゃがと同様、大日本帝国海軍の糧食として採用され、艦艇乗組員の間で人気のメニューになったことが大きいといわれている。

特に、戦前に大湊警備府があった青森県むつ市では、北海道の道南で栽培された男爵イモで作ったコロッケが『海軍コロッケ』の元祖であるとして、横須賀のカレー、舞鶴や呉の肉じゃがに対抗して、コロッケによる街興しを行っている。

小説家、村井弦斎が明治36年(1903年)に発表した当時の大ベストセラー「食道楽」にコロッケのレシピが掲載されている。 1917(大正6)年に益田太郎冠者の『コロッケの唄』が大流行し、大正時代にはカレーライス、豚カツと並び3大洋食として既に人気があったとされる。

くだくだと綴ってきたが、いまや家庭の中はそれぞれに「多忙」.夕餉の湯気などはトウの昔で、コンビニ弁当を、せめて電子レンジで温めて、それでお終い、という家庭も多いらしい。

コロッケの歌どころではない、今日もコンビニ弁当、明日もコンビニ弁当という昨今なのだ。

(参照=ウィキペディア)

2012年02月23日

◆ウィルス性肝炎

渡部 亮次郎


2007年1月22日に義兄をC型肝炎による肝臓癌で喪った。彼の73歳の誕生日の前日だった。発症は42歳のとき。医者の説明から俺の人生は50代で終わる、と覚悟したそうだ。

死ぬ前の月、つまり2006年12月8日に浦安のホテルに招待されて懇談した。死ぬ兆候なんか全く無い状態だったが「70過ぎまでこれたのは、珍しくインターフェロンが効いたからなんだ」と言っていた。

B型、C型肝炎の場合、徐々に肝臓の繊維化が進み、肝硬変に至り肝癌が発生することがあるのは今や常識だから、義兄は早くから覚悟を決めて肝炎との闘いを続けながら洋酒の輸入商を営んできたのである。

それから20日たった12月27日夕方、都内の彼の本社で会った。明日から孫など一族郎党を連れて北関東のホテルで年末年始の休暇を取るのだ、とうれしそうだったが、顔は真黄色、明らかに肝機能悪化に伴う黄疸が始まっていた。それでも翌日は車を運転して出かけたという。

密かに心配していたら、正月空けの4日に連絡があり、只今港区内の大きな病院に入院との知らせ。黄疸がひどくなったので帰路は運転を代わってもらって来たとのこと。

かかりつけの病院で担当医も決まっていたから、早速、黄疸の手当てにかかったが、腹水が溜まり始めた。それを抜き取ったところ、当然、腎臓の機能が低下。時折、意識混濁。かくて入院18日後 死去してしまった。

急なことで死に目には会えなかった。幸い痛みを訴えることも無く、安らかな死に顔だった。

死亡診断書。死因は腎不全。その原因は肝臓癌、その原因はC型肝炎。私は20年近く前に友人を59歳で肝炎で亡くしており、これで周りの肝炎犠牲者は2人となった。

昔、長く日本医師会長を務めた故武見太郎氏に話を聞いたことがある。「きみ、21世紀は肝臓の時代ですよ。肝臓が様々なウィルスに攻撃される」と聞かされたが、当に人類は要の肝腎をウィルスに曝されて、まだ医学は殆ど無力の状態、と言わざるを得ない。

ウィルス性肝炎とは肝炎ウィルスが原因の肝臓の炎症性疾患のことを指す。急性肝炎と慢性肝炎および急性肝炎の劇症化した劇症肝炎に分けられる。

現在知られているウィルス性肝炎には以下のものがある。

A型肝炎
B型肝炎
C型肝炎
D型肝炎
E型肝炎
F型肝炎
G型肝炎
TT型肝炎

このうち、日本での肝炎の原因のほとんどはA型、B型、C型である。

主な感染経路は

A型・E型は汚染された食べ物や水で。

B型は血液媒介・親子(垂直)・性行為(水平)。

C型はウィルスの混入した血液を介したもの(輸血や集団予防接種の注射針の回し射ち、刺青など)である。C型の性行為での感染、母子感染は稀である。

アメリカではB型肝炎の予防接種を受ける事が義務付けられている。

殆どのC型肝炎感染者は医療行為が原因で感染と推測される(上記の注射針が主因と考えられる)。

非A非B型(現在のC型)肝炎ウィルスに感染すると肝癌などに進行する危険性が疫学的に示されている。義兄は輸血を受けた経験が無いといっていた。何かの予防注射というのも記憶がない、とも。

慢性肝炎:自覚症状に乏しい事が多い。B型、C型肝炎の場合、徐々に肝臓の繊維化が進み、肝硬変に至り肝癌が発生することがある。

C型慢性肝炎ではインターフェロン(α or β)、PEG-インターフェロン、リバビリン+(インターフェロン or PEG-インターフェロン)といった治療法がある。ウィルス量・型、年齢、性別、貧血の程度などにより治療法を選択する。

肝癌。B型肝炎では推定10%前後、C型肝炎では推定25%前後と高率に肝癌を発症する。義兄はこの25%に引き込まれたのだった。あれから5年が過ぎた。

2012年02月22日

◆「支那」は次官通達で禁句

渡部 亮次郎


私のメルマガ「頂門の一針」に読者から投書があった。

<渡辺はま子のヒットソングを挙げると、まず昭和15年の東宝映画「蘇州夜曲」の主題歌「支那の夜」でしょうが、「ウィキペディア」でも「支那」という言葉は使いたくないのでしょうか。

「渡辺はま子」の検索では出てきませんね。「支那の夜」で検索すると出てきますが。

私は、子供の頃、父がこの歌が好きでよくレコードを聞いておりましたので、しっかりと記憶しております。

戦後「支那」という言葉がタブーになりましたので、「支那の夜」を聞く機会がなくなってしまい残念に思っておりました。

渡辺はま子が亡くなった夜かそのあくる夜か、NHKで渡辺はま子の追悼番組がありましたが「支那の夜」は最後まで放送してくれませんでした。(剛)>

NHKは「ラジオ深夜便」で09・7・6にも「日本の歌・こころの歌」で渡辺はま子を特集したが、「支那の夜」には一言も触れなかった。支那(しな)と言いたくないのである。

支那事変の始まったのは小生の生後1年の1937年。事変など知らずに育ち、対米戦争では田圃の中で艦載機に狙われて草むらに隠れた。

長じて特派員として北京に飛んだが、すでに「支那」でなく中華人民共和国になっており、爾来「支那」に無関心で来た。大方もそうであろう。

「ウィキペディア」は、
<支那(しな)は、中国または「中国の一部」を指して用いられる、王朝や政権の変遷を越えた、国号としても使用可能な、固有名詞の通時的な呼称。本来、差別用語ではないが、何らかの圧力などにより、差別語とみなされる場合が殆どである>と説明している。

詳しく調べてみると「何らかの圧力」とは、敗戦と共に加えられた「中華民国」(蒋介石)からの「圧力」だった。

大東亜戦争で日本の敗戦後は戦勝国陣営である中華民国政府からの呼称をめぐり「支那」を使うなという圧力がかかった。これを承けて日本外務省は1946(昭和21)年に事務次官通達により日本の公務員、公的な出版物に「支那」呼称は禁止され、その代わりに「中国」の呼称が一般化されるようになった。マスコミもこれに準じた。

現代の日本で「中華人民共和国」を指しての「支那」、「支那人」という言葉は半ば死語と化しており、一般的には中国、中国人という呼称に取って代わられている。

学術用語や「支那そば」は「中華そば」という言い換え語がすでに一般化している。また、「沖縄そば」を支那そばと呼称していた時期もあるが、これも今日ではほとんど使われない。

「東シナ海」等の、国家のことではなく地域のことを指す場合や「支那事変」などの歴史用語として用いられている場合はある。

中国では、世界の中に中国を客観的に位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く永く使われていた。早くから異文化に学んだ仏教徒の間では特にその傾向が顕著である。

また清の末期(19世紀末―1911年)の中で、漢人共和主義革命家たちが自分たちの樹立する共和国の国号や、自分たちの国家に対する王朝や政権の変遷をこえた通時的な呼称を模索した際に、自称のひとつとして用いられた一時期がある。

日本では、伝統的に漢人の国家に対し「唐」や「漢」の文字を用い「から、とう、もろこし」等と読んできた。明治政府が清朝と国交を結んでからは、国号を「清国」、その国民を「清国人」と呼称した。

支那という言葉は、インドの仏教が中国に伝来するときに、経典の中にある中国を表す梵語「チーナ・スターナ」を当時の中国人の訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによる。「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。

日本においては、江戸時代初期より、世界の中に中国を位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く使われていた。これは中国における古来の「支那」用法と全く差がない。江戸後期には「支那」と同じく梵語から取ったChinaなどの訳語としても定着した。

日本人が中国人の事を支那人と呼ぶようになったのは江戸時代中期以降、それまで「唐人」などと呼んでいた清国人を「支那人」と呼ぶべきとする主張が起こり、清国人自身も自らのことを「支那人」と称した事に因む。

戦前・戦中は中国人を日本人に敵対する存在として、「鬼畜米英」などと同様に、「支那」が差別的ニュアンスと共に使用される場合もあったが、「支那」自体が差別語であったわけではない。

しかし、戦後、中国人・台湾人が差別的ニュアンスとともに使われることもあったことへの反撥を表明するようになってからは、差別語であるという感覚が生じた。(再掲)


2012年02月21日

◆八郎潟干拓の裏表

渡部 亮次郎


八郎潟(はちろうがた)は秋田市北方約29kmに位置し、北緯40度、東経140度の経緯度交会点を中心に、東西12km、南北27km、総面積22024haの半かん湖で琵琶湖に次ぐ日本第2の湖であった。

水深は最深部でも4・5mに過ぎず湖底は平坦で大部分が軟弱な泥土で覆われており、湖岸各所では古くから小規模の干拓や埋立が行われていた。

私の実家は潟の東海岸で水稲単作農業を営みながら、淡水魚を漁獲する貧しい農家だった。父方の祖父の話によると、自身が日露戦争に陸軍として招集され、満洲で戦っている間に家督を継いでいた兄が氷上漁業中遭難。ために自身が復員後、替わって家督を相続した。

その長男が私たちの父慶太郎だった。当然の如く農家を継ぎ、3男3女をもうけたが、若い頃から八郎潟干拓運動に奔走、田圃にいることは少なかった。このため、姉やわたしが幼いうちから労働力として動員されたものだ。

潟の開発計画は古くから立案され、安政年間に渡部斧松が八郎潟疎水案を樹てたのをはじめ、明治5年に秋田県令の八郎潟開発構想。

大正13年に農商務省の八郎潟土地利用計画・昭和16年に内務、農林両省の八郎潟利用開発計画・八郎潟干拓計画等が作成されたがいずれも実施に至らなかった。

戦後、食糧危機がその極に達した時、八郎潟は再び開発の対象となり、昭和23年には農林省が干拓事業を計画したが財政その他の事情により実現しなかった。

その後、昭和27年秋田市に農林省八郎潟干拓調査事業所が設置され、昭和29年にオランダのヤンセン教授及びフォルカー技師の来日。それを契機とする世界銀行調査団及び翌年におけるFAO調査団の現地調査等により、事業の有効性が内外に認められることとなった。

計画は潟の80%を延長51・5Kmの堤防で取り囲んで、中の水を日本海に掻き出し、底を乾燥させて水田にするというもの。

昭和31年には農林省の事業計画が完成し、昭和32、年遂に国の直轄事業として「国営八郎潟干拓事業」着工の運びとなった。

昭和33年には起工式が行われ、同年試験堤防を施工するほか西部干拓地が干陸された。

昭和34年以降、堤防をはじめとする各種工事は最盛期を迎え、防潮水門は昭和36年、新生大橋は昭和37年、南部及び北部排水機場は昭和38年に完成した。

昭和38年中央干拓堤防もほぼ完成し、正面堤防では最終締切を行って中央干拓地のポンプ排水を始めた。

昭和41年全面干陸に伴い道路・用水路・排水路等中央干拓地内工事が最盛期を迎え昭和43年導流堤が完成し、これより干拓の基幹建設工事はほとんど完了した。

昭和39年10月、新村「大潟村」が誕生し昭和40年八郎潟新農村建設事業団が設立されて、中央干拓地の農地整備・農家住宅・役場・学校・上下水道の諸施設及び農業用施設の建設その他の事業が進められた。

昭和43年秋には第1次入植者により初稲が収穫され、引き続き昭和45年度の第4次まで入植者460戸と、昭和49年度第5次入植者120戸で計580戸(その後昭和53年度に県単玉川9戸)が入植した。

周辺干拓地は、昭和41、42年の両年度において竣功し、中央干拓地は昭和48年、52年の両年度において竣功した。

ここに、着工以来20年の歳月と852億円の巨費を投じた世紀の大事業も昭和52年3月に全面完了した。

八郎潟地区の概要

八郎潟22,024haのうち、中央の15,666ha及び周辺の1,573haが干拓地で、残りの水面は調整池、東部承水路及び西部承水路です。

調整池は船越水道に設けた防潮水門により日本海からの海水を遮断し、淡水化して干拓地及び一部周辺既耕地の用水源となっています。

また、周辺流域688Km2からの流出水は、調整池及び承水路で一時調整し防潮水門から船越水道を経て日本海に排水しています。

中央干拓地は延長51.5kmの堤防で囲み、地区内の排水は、中央幹線排水路に設けられた南部排水機場及び北部排水機場と支線排水路に設けられた方口排水機場で排水されています。

また、かんがい用水は、干拓堤防に設けられた取水口19ヶ所から取入れ、全長94kmの幹線用水路から供給しています。道路は総合中心地を通って、周辺市町村に通ずる3本の一級幹線道路(現県道)を基幹として、地区内を循環する道路網を配置しています。

圃場は、大型機械による合理的な作業を可能とする一区画1.25haに整形されました。

中央干拓入植者は全国から募集され、1年間の訓練後1966(昭和41)年から1978(昭和53)年まで6回にわたり延べ589戸が順次入植し営農を開始し、1戸当たりの配分面積は15haとなっています。

また周辺干拓地は、八郎潟周辺農家に増反地として配分されています。

集落整備については、農家住宅および各種施設が整然と建設され、1964(昭和39)年10月に地方自治体として「大潟村」が誕生しました。

大潟土地改良区ホームページによる。

http://member.ogata.or.jp/~dokai/contents/kantaku/kantaku.html

<八郎潟干拓は最終的には、米の増産を目指していたが、工事開始直後から始まった減反政策によって失敗した計画という見解もある。特に環境の方面では、湿地の喪失を嘆く向きもある。

かつては汽水湖だったため、シジミが多く採れていたが、近年は干拓とともに淡水化されたため、その収量は減少している。冬期間は凍った湖面上でワカサギ釣りがよく行われているが、ブラックバスなどの外来魚の流入で在来種の減少が確認され、その対策が行われている。

反面、ブラックバス等の増加で近年は県外の釣り愛好家から注目され、夏になると観光客が多数訪れている。

名前の由来 八郎潟の名称は、人から龍へと姿を変えられた八郎太郎という名の龍が、放浪の末に棲家として選んだという伝説に由来するとも言われる。ただし伝説においても、今や八郎太郎はこの湖には滅多に戻らないとされてい)。

また、戦後斎藤隆介によって、八郎潟の由来について独自の解釈にて描いた児童文学作品『八郎』が執筆され、小学校の国語科の教科書に採用されたことがある>
「ウィキペディア」。2012・2・17


2012年02月19日

◆瀬島さんの津軽海峡冬景色

渡部 亮次郎


<元大本営参謀で元伊藤忠商事会長の瀬島龍三氏が2007年9月4日午前0時55分、老衰のため都内の自宅で死去した。95歳。富山県出身。

富山県の農家で生まれ、陸軍士官学校、陸軍大学に進学。太平洋戦争時、大本営参謀、終戦直前に関東軍参謀になった。終戦後はソ連軍の捕虜となってシベリアに連行され、1956年に帰国するまで抑留生活を送った。

58年、伊藤忠商事に入社。わずか4年で取締役に就任、石油部門への進出や、いすゞ自動車と米ゼネラル・モーターズ(GM)の提携仲介を手掛けるなど伊藤忠が総合商社に脱皮するのに貢献した。

副社長、副会長を経て78年に会長に就任し、87年から特別顧問、2000年から理事。

1981年に当時の中曽根康弘行政管理庁長官から臨時行政調査会への就任を依頼され、伊藤忠の会長を退いて臨調委員(土光臨調)に就任。「臨調の官房長官」として国鉄などの民営化に腕を振るった。

2007/09/04 02:52 【共同通信】>


瀬島氏の死に触れて、抑留遺児となった畏友古澤襄(ふるさわのぼる)氏は4日の同氏ブログの中で「敗戦後、ソ連極東軍司令官ワシレフスキー元帥と停戦交渉を8月19日にジャリコーウオ戦闘司令所で行ったが、秦彦三郎中将(総参謀長)に随行したのが瀬島中佐であった。

交渉といっても一方的なものであったと草地氏は回顧している。この8月19日をめぐって、いわゆる瀬島疑惑が生まれている。」ことを語っている。   
http://blog.kajika.net/

若い頃、NHK政治部で担当した河野一郎氏の次男洋平氏(のち衆院議長)の夫人(故人)が伊藤忠本家のご出身だったことから、大本営参謀から伊藤忠商事に入社した人物「瀬島龍三」の事は河野さんからよく聞かされていた。

しかし初対面は、私が大阪勤務から引き揚げた昭和51年秋ごろで、読売新聞政治部の外山四郎さん(故人)の紹介で、東京・神楽坂の料亭の一室ではじめて会った。

いかめしい容貌を想像していたが全く雰囲気が違った。中肉中背、ごま塩頭の温和な「おじさん」。これが大本営参謀で、シベリア抑留11年の猛者とはとても思えなかった。

アコーデオンとギターのバンドを呼んでの歌になった。当時はまだカラオケが無かった。そこで瀬島さんが歌ったのは、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」だったが、下手で吃驚した。

聞けば若い頃、香港攻略に先立って、状況把握(スパイ}のため偽夫婦となってもらった婦人が津軽出身の女性だった。シベリヤから帰還してすぐ故郷を訪ねたが既に「石(墓)の下だった」。

阿久悠作詞、三木たかし作曲

2.ごらん あれが竜飛岬 北のはずれと
見知らぬ人が指を指す
息で曇る窓のガラス ふいてみたけど
はるかにかすみ 見えるだけ
さよならあなた 私は帰ります
風の音が胸をゆする 泣けとばかりに
ああ 津軽海峡・冬景色

その後瀬島さんが石川さゆりから直接歌謡指導を受けたと聞いたが、練習後の歌を聴く機会のないままに終わった。

<旧制富山県立砺波中学校、陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校を次席(首席は原四郎)で卒業。陸軍大学校を首席で卒業し、昭和天皇から恩賜の軍刀を賜る。>「ウィキペディア」

出身地富山県の隣の金沢の連隊に配属され、連隊旗手を勤めさせられた。「名誉な事ではあるが、在任中、童貞は守るというのが不文律。お勤めが終わったら金沢の花街(いろまち)で“公式筆おろし"なんだ。不潔でやりきれない、その足で犀川に入り洗ったよ」

「シベリアでは壁塗りをやらされた。天井を塗るんだけど、塗って梯子を降りた途端、バタツと落ちるんだ。又塗るけど、下りてきたら又落ちる。その繰り返し。

或る時、突然落ちてこなくなるんだ。知らぬうちにコツを体得したんだろうね。(だから人生も、なんていう説教はナシだった)。

「伊藤忠商事では社員の自殺事件は皆無です。それはその仕事に最も詳しい奴を本部長に据え、社長が副本部長になって奴を支えるから。奴の命令は社長命令だから奴が悩む事は無い。これは大本営の智恵です」

<山崎豊子の小説『不毛地帯』の主人公・壱岐正中佐、『沈まぬ太陽』の登場人物・龍崎一清のモデルであるともいわれ、『二つの祖国』では実名の記述が見られる。保守層を中心に支持者が多いが、証言が誠実でないとして批判もされていて、評価が分かれる人物である。>「ウィキペディア」

「不毛地帯では女房が事故死するらしいんだ。だからパーティーなんかに女房を連れて行くと、こっそり、再婚はいつですか、なんて聞かれちゃってね、弱ったよ」。

奥さんも先ごろ亡くなられたが。2・26事件(1936年2月26日}の総理官邸で岡田啓介総理と間違われて射殺された松尾大佐の長女だった。

「軍人として果たせなかった国家建設の夢を実際に政治に反映させてみたい。竹下登、加藤六月など若いのにいい奴がいますよ」

「私は相談には乗りますが中曽根のブレインなんかでは断乎としてありません」

しばらくして外務大臣園田直が瀬島さんを「参謀格」に据えたため、瀬島さんは会社の仕事を投げ打って外務省に通ってきて下さった。

そうした事から秘書官退職後の私の身の振り方を真剣に心配してくださった。しかし、晩年は年賀状も来なくなっていた。瀬島さんを否定的に捉えた共同通信社社会部『沈黙のファイル―「瀬島 龍三」とは何だったのか』に私の名前が登場したためと諦めていた。

2012年02月18日

◆墜ちる人工衛星

渡部 亮次郎


1977年11月、NHK国際局(当時)副部長から福田赳夫内閣の外務大臣(園田直=そのだ すなお)の秘書官に発令された。NHKとは体質が合わないと思っていたので、喜んで応じた。

翌年1月に初外遊に同行、モスクワに向かった。まだ健在だった「ソ連」との外相定期協議に出席したもの。

そこから帰国。あさってからは中東各国歴訪に出発だと覚悟を決めて羽田空港に着陸した途端、有田外務事務次官が飛び込んできたから驚いた。「ソ連の人工衛星が墜落して来る」との報告。

人工衛星の墜落は現在では珍しいことではなくなったようが、その時は初めてのことだったので驚いたわけだ。

「それでどうしますか)と大臣。

有田さんは落ち着いたもの。「まだ墜落予想地点が分かりませんから、地点が確定するまで“極秘"にいたします」で終わり。マスコミといえども○○○桟敷。発表はそれから1週間後ぐらいだった。

結局、カナダ国内の山地に墜落が確定したからだった。その時はイラン、アラブ首長国連邦、サウディアラビアなど石油産油国を回っていたので記憶がはっきりしない。

いずれにしても外務省が握る外交機密は、政府が発表しないかぎり国民は知らない、ということなのだ。官房長官のオフレコ懇談などで洩れる事はあるが、それ以外に洩れることは殆ど無い。

そういう観点からすると毎日新聞政治部記者(当時)西山太吉氏によって引起された、沖縄返還に絡む「外務省機密漏洩事件」は特殊な例だった。女性事務官が絡んだものだったからである。

<佐藤栄作内閣下、米リチャード・ニクソン政権との沖縄返還協定に際し、公式発表では米国が支払うことになっていた地権者に対する土地原状回復費400万ドルを、実際には日本政府が肩代わりして米国に支払うという密約をしているとの情報をつかみ、毎日新聞社政治部の西山が社会党議員に漏洩した。

政府は密約を否定し、逆に、東京地検特捜部が、起訴状において、西山が情報目当てに既婚の事務官に近づき酒を飲ませた上で性交渉を結んだと述べ、情報源の外務省女性事務官を国家公務員法(機密漏洩の罪)、西山を国家公務員法(教唆の罪)で逮捕した。

これにより、報道の自由を盾に取材活動の正当性を主張していた毎日新聞はかえって世論から一斉に倫理的非難を浴びることになった。

西山が逮捕され、社会的に注目されるなか、密約自体の追求は完全に色褪せてしまった。また、取材で得た情報をニュースソースを秘匿しないまま国会議員に流し公開し、情報提供者の逮捕を招いたこともジャーナリズムの上で問題となった。

この事件の後、西山の所属した毎日新聞社は、本事件での西山のセックススキャンダル報道を理由とした不買運動により発行部数が減少し、全国紙の販売競争から脱落。また、オイルショックによる広告収入減等もあり、1977年に一度倒産した。

以後、大手メディアの政治部が国家機密に関わる事項についてスクープするということがなくなった(リクルート事件をスクープしたのは政治部ではなく社会部)。

裁判においては、検察側は国家機関による秘密の決定と保持は行政府の権利及び義務であると前提付けた上で、報道の自由には制約があると主張し、国家公務員法の守秘義務は非公務員にも適用されると主張した。

また、報道の自由がいかなる取材方法であっても無制限に認められるかが争われたが、前掲の理由により最終的に西山に懲役4月執行猶予1年、女性事務官に懲役6月執行猶予1年の有罪が確定した。

なお、一審判決後、西山は毎日新聞を退社し、郷里で家業を継いだ。

< 2005年4月 、西山が「国家による情報隠蔽・操作が容易にできることを裁判を通じて国民の前に明らかにする」として国家賠償請求を東京地裁に提訴。

2010年4月9日 。密約訴訟判決。東京地裁(杉原則彦裁判長)は「国民の知る権利を蔑ろにする外務省の対応は不誠実と言わざるを得ない」として外務省の非開示処分を取り消し、文書開示(本当に存在しないなら“いつ” “誰の指示で” “どの様に”処分されたのかも)と原告一人当たり10万円の損害賠償を国に命令。

西山は文京区民センターでの講演『知る権利は守られたか』でこの判決を「歴史に残る判決」と評価し、「われわれが裁判を起こして今回の判決を導き出していなければ、外務省の外部有識者委員会による報告書が密約問題に関する唯一の解明文書となり、国民の知る権利は封殺されていただろう」と述べた。

なお、行政訴訟では一審で勝訴したものの事件には関係ないため自身の有罪判決は変わらないが再審請求は「全く考えていません」>
                    < >内は「ウィキペディア」

2012年02月17日

◆八郎潟干拓に奔走した父

渡部 亮次郎


2008年は亡父慶太郎の「生誕100年」だったが、後を継いだ筈の妹婿の倒産で生家も人手に渡ってしまったいま、そんなことを口にしたのは早くに実家を出た実兄と私だけだった。

明治40年、旧八郎潟東岸の貧農に生まれた父は自分の自作田を増やすためには、水深僅か4mの八郎潟の全面干拓しかないと若い頃から考えていたらしく、敗戦と共に運動を本格化させた。

具体的には水田のあらゆる作業を妻子に押し付け、秋田県庁や時には農林省(当時)に陳情を繰り返すことだった。お陰で私は一人前の百姓に成長しながら県立秋田高校に合格した。

一学年150人という小さな学校から8人が合格したが、百姓の倅は私1人だけだった。しかも野球部のキャプテン。余りの疲労を早く回復させようと砂糖を無制限に飲み込んだら心臓脚気になって気を失った。砂糖を消化するためのビタミンB1欠乏症だったのだ。

後に政治記者となって、昔農林大臣だった河野一郎を担当したら、陳情に来た父の名前を覚えていた。「キミはワタケーの息子か」。

八郎潟の漁業で暮らす人たちからは「ワタケー 馬鹿ケー」と言われたものだ。

八郎潟(はちろうがた)は、かつては琵琶湖に次いで日本第2位の広さ(220km2)を誇っていた。鮒、鯰、鰻、など沿岸住民の蛋白源の補給湖でもあった。しかし干拓により大部分の水域が陸地化された。陸地部分が大潟村となっている。

秋田県西部、男鹿半島の付け根に位置した。もともとは海と繋がった「汽水湖」であったが、八郎潟防潮水門によって締め切られており、残存湖は淡水になっている。

琵琶湖に次いで日本で2番目の広さだった八郎潟では、戦後、食糧増産を目的として干拓工事が行われた。あの頃は現在の米余り現象など想像する人は皆無だった。

工事は私が大学入学で上京したあとの1957年に着工。干拓国オランダから招かれたヤンセン教授が指導にあたった。20年の歳月と約852億円の費用を投じて約17,000haの干拓地が造成された。ヤンセンの名を突然、思い出した。父の口から、しょっちゅう出たので60年経ったのに記憶していた。田圃入りを拒否した兄は知るまい。

1967年から入植を開始。全体の事業は1977年に竣工した。

それとは別に父ら沿岸農家は沿岸に広がっていた葦谷地を入手、開墾によって水田を造成、そこそこの増反を果たしたのだった。妹婿に悪意はなかったろうが、この田圃も担保に取られて無い。

干拓工事によってできあがった土地に全国から公募された入植者が入植し、1964年10月1日に秋田県で69番目の自治体として、大潟村(おおがたむら)が発足した。

最終的には、米の増産を目指していたが、殆ど直後から始まった減反政策によって、干拓そのものを「失敗した計画」とする人たちもいる。特に環境の方面では、葦谷地という湿地(魚の産卵地と汚水の浄化)喪失を嘆く向きもある。「環境」重視の昨今なら八郎潟は生き残ったろ。

「他所者」の村との合併を望む周辺町村はなく大潟村は「村」のままである。

かつては汽水湖としてシジミが多く採れていたが、近年は干拓のために淡水化され、その収量は撃減している。夏はシジミを採取するために水潜りで水泳を自然に覚えたものだ。懐かしいなぁ。

冬期間は今も凍った湖面上でワカサギ釣りがよく行われているが、ブラックバスなどの外来魚の流入で在来種の減少が確認され、その対策が行われている。

反面、ブラックバス等の増加で近年は県外の釣り愛好家から注目され、夏になると観光客が多数訪れている。
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八郎潟の名称は、人から龍へと姿を変えられた八郎という名の龍が、放浪の末に棲家として選んだという伝説に由来するとも言われる。ただし伝説においても、今や八郎はこの湖には滅多に戻らないとされている。

父の遣ったことだから文句はいえないが、嘗ての八郎潟を失い、生まれた家を失い、私は二重に故郷喪失感を深くしている。「帰省」は無くなった。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2012年02月15日

◆放るもんはホルモン

渡部 亮次郎


首都ソウルの繁華街、明洞(ミョンドン)には焼肉店の看板がひしめき合い、24時間営業の店も登場している。1人当たり3万〜4万ウォン(約3〜4千円)も出せば十分にお腹が満たされる。

最近では、競争の激化により肉質をアピールするために韓牛と掲げる店が増えている。

最近の韓国ではアメリカからの牛肉輸入許可に反対して、就任したばかりの大統領の辞任要求まで掲げられているが、韓国の「食」のイメージとして一般的な“キムチ”のほか“カルビ”などの焼肉料理に代表される牛肉が韓国の食生活に広く浸透し始めたのは、ここ20年程のことといわれている。

私は1973年6月に韓国を初めて訪れた際、朴政権の閣僚から「明日は大和(やまと)焼きをご馳走します」といわれ、てっきり和食を期待して行って見たら大阪で予て盛んだった「焼肉」を裁ち鋏で切り分ける店だったのでちょっと驚いたものだ。

なぜ韓国焼肉料理を「大和焼き」というのか。日本人が遺して行ったレシピだったからである。軍事クーデタにも加担したこの閣僚の説明によれば、併合時代の日本人は現地人に牛肉と砂糖を食べさせなかった。牛肉を砂糖醤油にまぶした牛肉の「焼肉」を現地人が食べたのは1945年の「解放」後である、と。

韓国人が「解放後」まず群がったのは砂糖だった。だから韓国の砂糖消費量は人口当たりで世界のトップに躍り出たそうだ。併合時代の日本人の悪業を聞かされたようで厭だった。

日本での焼肉は戦後、大阪で始まった。やがて韓国人たちが「放るもん)=棄てる物」の牛の内臓を「ホルモン」と名づけて「精力」のつくものとして売り出し、遂に語源が分からないぐらい、全国的に普及させた。大阪勤務3年、猪飼野で「通」になった。

ところで、韓国ではその後、牛肉需要は、1988年のソウルオリンピック開催に伴う国内経済の発展が、大きな影響を与えた。

1980年代当時の1人当たりの年間牛肉消費量を見ると、わずか2.6kgであったものが、90年には4.1kgに増加し、2000年には8.5kgとこの20年間で3倍以上の伸びを見せている。

2001年1月には、韓国の牛肉市場が自由化されたことで、米国などからの牛肉の輸入量増加が見込まれており、消費量はさらに拡大して行くものと見込まれている。

しかし、一方では、輸入牛肉に対抗して国内各地で「高級肉」としての韓牛(韓国原産の肉牛)の積極的な品種改良や育成が進められている。

韓国で韓牛肥育が本格的に開始されたのは、1970年代に入ってからだ。その後、経済の急激な成長を背景に、国内各地では積極的な生産基盤の整備が進められている。

最近では、京畿道(キョンキドウ)、江原道(カンウォンドウ)など北部地域を中心に、輸入牛肉に負けないための韓牛のブランド化も始まった。日本の「和牛」の遺伝子を用いた品種改良が盛んだ。将来は「そんな事実は無い」と否定するだろう。

ソウルから南へ約60km、京畿道安城(アンソン)市で200戸の韓牛肥育農家を束ねる「韓牛会」会長の禹(ウー)さん。自らも 350頭の韓牛を肥育し、「韓牛会」としては年間2,000頭を出荷する。

平均出荷体重は約650〜700kg、大手百貨店との契約により販路は安定している。最近の韓牛価格の上昇で、農家の生産意欲も高まっており、100頭以上を肥育する大規模経営が増えてきた。韓牛に対する消費者の信頼感を維持することが大切と訴えている。

韓国では、現在、国内に114ヵ所のと畜場が設置されているが、枝肉市場を併設しているものは、わずか14ヵ所となっている。このうち6ヵ所が農協により運営され、残り8ヵ所は民間での運営となっている。

参考:韓国政府発表資料