2012年03月17日

◆か゜、き゜、く゜、け゜、こ゜

渡部 亮次郎


生まれ在所の秋田弁と東京弁にたった1つ、共通点がある。それが鼻濁音とくにガギグゲゴである。関西地方出身の演歌歌手はこれが殆どできない。

都はるみ(京都)、谷村新司(大阪)、渡哲也(兵庫県)らに鼻濁音は出ないし、或いは気をつけて出さないようにしているかもしれない。

ガギグゲゴに発音の仕方が2通りあると知ったのは小学校(国民学校)3年か4年の時だった。時はアメリカ空軍B29による都市への空襲が険しくなったころ。

大阪から秋田の片田舎に疎開してきた女子児童が教科書を読まされたところ、ガギグゲゴが全く鼻にかからないガギグゲゴだったのだ。

鼻濁音(びだくおん)とは、日本語にあって、濁音の子音(有声子音)を発音するとき鼻に音を抜くものを言う。濁音同様濁点を以て示されるのが普通である。

濁音と表記上の違いはないが、専門分野では鼻濁音であることを強調するため、「か゜」、「き゜」、「く゜」、「け゜」、「こ゜」のように半濁点で書く場合もある。濁音との間に意味上の差異は無い。

大別すれば、日常的に鼻濁音を使うのは共通語の基盤となった東京方言が話される地域を中心として東日本から以北に拡がっており、一方で近畿、四国や中国地方以西の地域ではほとんど使われない。でも八代亜紀や大川栄策は出るがなぁ。

ただし、もちろん両親、特に母親の出身地の違いや周囲の環境など様々な原因による個人差は存在する。

昨今では東京周辺でも、中年より下の世代では多くが鼻濁音を使わなく(あるいは「使えなく」)なってきており、若者に於いてはそれが特に甚だしい。これは全国的な傾向で、鼻濁音は現在、日本語から失われてゆく方向にあるようである。

最近はNHKのアナウンサーでも鼻濁音の出ない人が男にも女にも居る。大学に入ったときフランス語の教授から鼻濁音が素晴らしいと褒められてフランス語に熱中したことのある身としてはやや寂しいことである。

地方、それも訛の酷い秋田県出身でありながらNHK記者としてラジオやテレビへの出演を余儀なくされたため、押入れに録音機を持ち込んだり、アクセント事典をヒマさえあれば読むなど苦労した。芸者に訛を指摘されて掻いた恥もある。先輩古澤襄さんによると未だに秋田弁丸出しだそうである。

園田直さん(故人)に頼まれた原稿を手渡したら、一読のあと秘書さんを呼んで「これ、なおしておけ」といったのでムッとしたが「直す」は天草(熊本)弁ではあるものの、然るべき場所にものや人を置くという古語でもあった。

また公明党が衆院に初めて進出した時に大阪出身の書記長に放送討論会の出演交渉をした。「考えておきまっさぁ」というので2-3日後に尋ねたら「断ったではないですか」。考えておくは大阪弁では断りの言葉だったのである。なんとも。

標準語(ひょうじゅんご)は、ある民族、共同体、国家、組織、場などで標準となる言語とある。日本語においては明治政府により関八州の東京方言(征夷大将軍徳川家城下町の中流家庭の言葉)を基礎にして「標準語」を作成する政策がとられた。

これは主に官公庁の発行する各種の文章というかたちで実施された。

そのうちもっとも代表的で、革新的であったのは、小学校における国語の教科書である。これに文壇における言文一致運動が大きな影響を与えて、現在の標準語の基が築かれた。

明治期に標準語制定を任された役人の「苦闘」を描いた井上ひさしの作品が 『国語元年』である。読んだことがあるが、評定の中で京都弁が標準後になりかけたことがある。

標準語と類似のものに共通語があるが、厳密には同じものではない。共通語がその地域内で意思疎通を行うための便宜的な言葉であるのに対して、標準語とは人為的に整備された規範的な言葉を指す。

日本語においては、もともと共通・標準となる日本語のかたちを標準語という用語によってあらわしていたが、ある時期から共通語に言い換えられるようになった。

これは「標準」という言葉に強制のニュアンスがあるという理由によって、主に教育関係やマスコミにおいて用語の交代が行われたものであるから、注意を要する。

歴史的には国民国家成立時に方言および少数言語を廃止するため、主方言または主言語を基に国語として作成、強制使用されてきた。特にフランスの絶対王政時に打ち出したされたフランス語の標準語化政策において顕著である。英悟排除の思想の源もここにあるか。

日本語の標準語の大きな特徴は、それが圧倒的に書記言語偏重であることであって、口頭言語については、発音、イントネーション、アクセント等の面でまだ固定した規範が完全に成立しているとはいいがたい。

かつてはNHK のアナウンサーがこの「教科書のための言葉」に近い日本語を話すとされた時期もあったが、現在のNHK では地方に焦点が当てられてアナウンサーによる画一的な標準語がかつてほど重視されなくなってきているため、放送メディア上でこのような規範を追求しようという傾向は以前よりは弱まっている。

また規範的な標準語と東京弁は混同される傾向にある。実際は東京弁は関東方言の一種でしかなく、標準語で「〜してしまう」を「〜しちゃう」等々と転訛して居る。

しかるに、アナウンサーや俳優らメディア関係者たちは平気で東京弁を用いているのが現状である。洋画に日本語の吹き替えをする時や、テレビに出ている外国人の言動を翻訳する時でさえ、標準語ではなく東京弁で編集される場合がほとんどである(例「やっちまったよ。」「しょうがねぇだろ。」など)。

日本語における書記言語偏重は、標準語形成期に音声メディアが未熟であったこと、江戸時代から識字率が高く日本語が伝統的に筆記言語を重んじる伝統を持っていたこと、言文一致運動が新聞記事における臨場感あふれる報道や小説を書くための文章をつくるという目的意識に支えられていたこと、などがその理由としてあげられる。(参照:フリー百科
「ウィキペディア」)

2012年03月14日

◆84でまだ走る山田敬蔵

渡部 亮次郎


米ボストン・マラソンの優勝者山田敬蔵は秋田県民の誇りだ。

私は彼の出身地大館市に記者として1年間駐在しながらチャンスなく未だに面識は無い。既に84歳で、さすがにフル・マラソンからは引退したようだが、未だに走る事は止めていない。

山田敬蔵 やまだ けいぞう、1927(昭和2)年11月30日 ―は、日本のマラソン選手。ヘルシンキオリンピック男子マラソン日本代表。

秋田県大館市出身。現役時代の所属は同和鉱業花輪鉱業所。1952(昭和27)年、戦後の日本が初参加となったヘルシンキオリンピックに、マラソン日本代表として出場し、25位。

翌1953(昭和28)年4月20日ボストンマラソンにおいて優勝。記録は2時間18分51秒。当時世界最高記録とされた(のちに距離不足が判明している)。

ボストンマラソン(Boston Marathon)は、毎年4月にアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンで開催される、マラソン大会。第1回オリンピックの翌年、1897年に開催され、オリンピックに次いで歴史の古い大会で、2010年4月現在開催されているマラソン大会開催数では世界一。

誰でも走れるわけではなく、参加には参加資格タイムをクリアしている必要がある。

日本人では、瀬古利彦が2回優勝している(1981年・1987年)。このほかの日本人優勝者としては、
田中茂樹(1951年) 2:27:45
山田敬蔵(1953年) 2:18:51
浜村秀雄(1955年) 2:18:22
重松森雄(1965年) 2:16:33
君原健二(1966年) 2:17:11
采谷義秋(1969年) 2:13:49
がいる。

このうち、田中・山田・浜村の走ったコースは後に距離不足が判明し、いずれも記録抹消の憂き目を見ている。山田の記録は当時世界最高記録とアナウンスされていた。

女子での日本選手の優勝はまだない(過去最高順位は1992年に出場した山本佳子の2位)。ただし、日本出身で米国籍を取得したゴーマン美智子が1974年と1977年に優勝している。

また、ボストンマラソン優勝者は優勝年から50年後の大会に招待される。田中茂樹は2001年にボストンマラソン前日の交流レースに出場。山田敬蔵は2003年にフルマラソンに出場、山田は4時間10分11秒で70歳以上の部で5位であった。

山田は1995年から毎年出場しており、2007年までに17回出場、1998年から2001年まで70歳以上の部を4連覇している。チーム・ホイトも参加した。

優勝時活躍の様子は、1954年大映によって「心臓破りの丘」と題して映画化された。映画は、監督木村恵吾、脚本須崎勝弥、主演根上淳である。主演の根上淳は既に鬼籍だが歌手ペギー葉山の夫だった。

山田はその後もボストンマラソンには1953年、1957年、1975年、1976年、1995年からは毎年出場しており、1998年から2001年は70歳以上の部を4連覇している。2003年にはボストンマラソン優勝50年を記念して招待選手として出場している。

また、優勝年の1953年にちなみ、ゼッケン番号1953は永久欠番となっており、出場時には山田のみがこの番号を付けることが許されている。2007年大会も4時間24分07秒のタイムで完走している。

1961年の秋田国体炬火リレーの最終走者である。2007年の秋田わか杉国体でも炬火リレーの走者(最終走者の直前の走者)となった。現在でも各地のマラソン大会に招待選手として参加しており、その健脚を披露している。

2009年7月、81歳でフルマラソンから引退を表明した。

故郷である秋田県大館市の名誉市民であり、大館市では、山田敬蔵の栄誉を讃えて毎年4月29日に山田記念ロードレース大会を開催している。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
                       2012・3・11

2012年03月13日

◆トウ小平時代の中国

渡部 亮次郎


日中国交回復の直前の頃、最早下火になっていた文化大革命は、毛沢東の死と共に終結した。その後、毛沢東の隠し子といわれた華国鋒が毛沢東の後を継いだが、浮き上がっていた。

1978年8月に日中平和友好条約締結交渉のため訪中した園田外相に随行。会談には私も加わった。この種の会談には政務の秘書官は加えないのが通例なのに加われた。彼が既に中央権力を失っているなと感じた。果たして、この年12月の第11期3中全会でトウ小平が実権を掌握した。

トウ小平時代の中国は、政治体制は中国共産党による一党独裁体制を堅持しつつも、市場経済導入などの経済開放政策を取り、中華人民共和国の近代化を進めた。

なるほど、経済の改革開放を進めるには資金と技術が欠かせないが、さしあたりそれを供給できる国は日本しかない。だからあれだけ遷延させた日中平和友好条約の締結交渉が急転直下、調印となったのも、ここにわけがあったのだ。

当時の日本大使館は、トウの復活が、今後の日中関係に決定的な変化をもたらすという情報をとれていなかったし、本省の中国課に分析能力は無かった。独り外務大臣園田直だけは秘密ルートから情報がはいってい
た。

その結果、経済の改革開放が進み、「世界の工場」と呼ばれるほど経済が急成長した。一方、急激な経済成長とともに貧富差の拡大や環境破壊が問題となっている。

資金は専ら軍備の強化に使われ、海軍が強化され、その先に尖閣諸島と称する日本領土が邪魔をしているものだから「尖閣諸島は元から中国領」と言い出した。

中国政府は、中華人民共和国の分裂を促すような動きや、共産党の一党体制を維持する上で脅威となる動きに対しては強硬な姿勢を取り続けている。1989年の六四天安門事件や2005年の反国家分裂法成立などはその一例である。

1989年の六四天安門事件は、民主化要求の大規模政治運動であったが、当時ソビエト連邦(ソ連)ではミハイル・ゴルバチョフ書記長により、経済の自由化のみならず、政治の自由化まで推し進められようとしていたが、?小平の自由化は経済に限定されていた。

1985年にゴルバチョフが北京を訪れた際、世界はゴルバチョフを賞賛するとともに、トウ小平の改革開放路線を中途半端なものとして批判した。この空気は、国内にもくすぶり、共産党員の中にも「政治開放が必要」との声も上がるほどであったが、その延長線上で天安門事件が起こる。

トウ小平は、天安門広場に集まった学生に戦車と銃を向け「経済は開放しても、共産党独裁は変えない」という強いメッセージを示した。1988年にベトナム支配下の赤瓜礁を制圧する(赤瓜礁海戦)。

ソ連が崩壊したのは、その2年後の1991年である。国家の維持と繁栄という視点からすれば、トウ小平の選択はゴルバチョフを凌駕したといえる。その後、経済の開放を強力に推し進めた結果、国民の生活水準は大きく飛躍した。

今でも、沿岸都市部と内陸農村部での経済格差は大きなものがあるが、内陸部の農村の生活は王朝時代から貧しく、電気も水道もない生活を近年まで続けてきたため、現在はその当時に比べれば雲泥の差のある生活を送るにいたっている。

このため、都市部との格差が大きいからといって、その格差を糾弾する強い意識は生まれてはこない。昨今、市場経済を至近に見るにつけ、民主化すればするほどに、貧富の差がなくなるどころか、拡大してゆく現実を国民は知ってしまった。このため、かつての「民主化要求」はもはや革命の動機にはなっていない。

地方政府の役人(共産党員)の腐敗や職権の濫用が多いことが問題となっている。特に改革開放政策開始後は、満足な補償もないままに土地を強制的に収用したり、法的根拠のない税を徴収したりすることが多い。

生産手段を国有化しながら経済活動は自由化すれば、共産党幹部を賄賂で篭絡した方が問題は早く解決する。だから「汚職」は構造的なもので、増えこそすれなくなる事は絶対にない。

地方政府の対応に不満を持った農民や労働者は中央政府へ訴え出たり、場合によっては暴動を起こしたりしており、大きな社会問題となっている。政府高官でも汚職を行った者に対しては死刑が適用・執行されており、2000年には成克傑(元全国人民代表大会常務副委員長)が収賄罪で、2007年には鄭篠萸(元国家食品薬品監督管理局長)が収賄罪でそれぞれ死刑が執行されてはいる。

しかし「欲」は人間の根源的なもの。汚職は永遠・不滅。長嶋のいう巨人軍である。

中華人民共和国の司法に関してはいくつかの問題が内外から指摘されている。中華人民共和国の警察などでは中華人民共和国政府(中国共産党政府)を非難する者に対しては動きが敏速ですぐに逮捕を行い、密かに拷問での自白強要を行っているとも言われている。

司法も裁判所の制度も日欧米の諸外国と大きく異なっている。死刑の場合は判決後数日以内と、迅速に決行されるケースが多い。控訴する権利は与えられてはいるものの実際に控訴で逆転できるパターンはわずかである。

反政府運動の首謀者から汚職といった他人に暴力を振るったり生命の危機に直面させない罪などでも、死刑判決即決行に該当する。チベット解放運動家はよく処刑されていた。

人権擁護団体アムネスティ・インターナショナルでの報告によると、パンチェン・ラマの生まれ変わりと言われた少年を政治犯として逮捕(パンチェン・ラマ2世問題)した。

また同団体の報告によると、2004年で全世界で執行された死刑囚の数の9割以上(約3400人)が中華人民共和国である。死刑に処する罪も多く、現在もほんの一部ではあるが、凶悪犯の処刑を一般人に公開したり政府のテレビ番組内で生中継などをしていることがある。

処刑方法はほとんどが銃殺刑であるが、遺体の器官移植がよく行われるため、器官に傷つけない程度で銃殺されることが多い。最近は中華民国(台湾)の死刑施行方法を取り入れて、薬物で麻酔した上で銃殺するケースも増えてきた。

特に地方の人民法院の裁判官について、質に難があるという指摘がある。裁判中に裁判官が携帯電話でしゃべり出し、審議が中断されるという事例や[3]。また、賄賂を要求することも多く、断ったら会社の設備を破壊され営業不能となった上、押収品を勝手に他者に渡す、といった事例まである。

インターネットへの検閲行為(「ウィキペディア」)

中国国内では、インターネット上のウェブページで、反政府や同盟国の北朝鮮を中傷するページを閉鎖、または回線を切断させたりしていることが多い。

2004年(平成16年)11月には検閲されていない違法なインターネットカフェ1600店あまりを摘発し、更にはネット上で政府を非難する自国人を逮捕しメールの文章も検閲内容として規制されている。

Yahoo!などのアメリカ企業も政府の検閲に協力している。こうした企業に対しては、国際的に多くの人々が、中華人民共和国国内での言論の自由を奪っていると非難している。

しかしながら、Googleはかつて中国中央政府の"要請"で検閲に協力していたが、2009年(平成21年)12月にGoogleのサービスである『Gmail』が中国国内からハッキング攻撃を受けたとして、態度を急速に硬化。

インターネット上での"フィルタリングサービス"を一方的に『解除』を宣言、中央政府との関係が悪くなった結果、Googleは中国から"移動"し、香港にてGoogle谷歌のサーバーを"稼働"させ、中央政府支配地域から"撤退"した。

こうしたネット文化の進展にともない、中国政府はネット規制システム「金盾」をバージョンアップさせた。非常に巧妙化されたシステムであり、一見、巧妙に規制されているとは考えづらい構成となっている。

その一方で、そうした検閲、規制を回避するためのシステムも一部で配布されているとみられ、傲游などがその典型である。中国政府はネットに関する取り締まりを日々強化しており、毛沢東やトウ小平の時代のような、報道規制、情報規制を目指しているとみられる。
                 2012・3・10

2012年03月10日

◆残っていた東京大空襲の跡

渡部 亮次郎


東京大空襲(とうきょうだいくうしゅうは、第2次世界大戦中にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾使用の大規模爆撃の総称。以下「ウィキペデア」を案内人にして、67年前のきょうを振り返る。

通常の戦略爆撃は軍需産業を主に狙うものであるが、この空襲は、軍需産業だけでなく、むしろ女性や子供、老人など多数の非戦闘員も狙っていた点が最大の特徴である。

東京は、1944年11月14日以降に106回の空爆を受けたが、特に1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月25日の空襲は大規模であった。通常「東京大空襲」と言った場合、特に規模が大きかった1945年3月10日に行われた空襲を指すことが多い。

大学受験のため秋田から夜行列車で上京したのは昭和29(1954)年2月。文京区内の住宅地にはまだまだ沢山の空き地が残り、あちこちに門柱が倒れていた。1945年3月10日の大空襲から9年しか経っていなかったのである。

空襲の経緯1945年3月9日以前の空襲

空襲を行ったB-29戦略爆撃機1942年4月18日にアメリカ軍によるドーリットル空襲が行われ、東京にも初の空襲があった。1944年7月、サイパン島などマリアナ群島をアメリカ軍が制圧し、ここが日本本土空襲の基地となった。

同年11月24日、軍需工場である北多摩郡武蔵野町(現在の武蔵野市)の中島飛行機工場に対する初の戦略爆撃による空襲が行われた。

それ以降、空襲が続き、1945年1月27日には有楽町・銀座地区が標的になり、有楽町駅は民間人の死体であふれた。

アメリカ軍は日本家屋を再現した実験場を本土に作り、大規模な延焼実験を行っている。実験用に建てられた日本家屋は、室内の畳を日系人の多いハワイからわざわざ取り寄せるなどして精巧に作り上げられた。

これらの実験によってクラスター焼夷弾開発の参考にされるなど、東京大空襲を初めとする日本本土への無差別爆撃の際、効果的被害を与えることに成功している。

この頃の爆撃はレーダー照準を用いた高度精密爆撃であったが、爆撃失敗も多かったため、後に夜間低空爆撃へと変化していった。

それまでの爆撃とは異なり、3月10日の大空襲は低高度・夜間・焼夷弾攻撃であった。その目的は、市民の生活の場である木造家屋が多数密集する下町の市街地を、そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。

この攻撃についてアメリカ軍は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点なっているためと理由付けしていた。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の三個航空団であった。

1945年3月9日夜、アメリカ軍編隊が首都圏上空に飛来した。22時30分(日本時間)にはラジオ放送が中断され警戒警報が発令された。

ところが、その警戒警報は一旦解除される。同編隊が房総半島沖に退去して行ったためである。これにより生じた軍民双方の油断を突くかのように、3月9日から3月10日へと日付が変わった直後の0時7分、爆撃が開始された。

爆撃は325機ものB-29爆撃機(うち爆弾投下機279機)によるもので、0時7分に深川地区(現在の江東区)へ初弾が投下されたのを始まりにその後城東地区(現在の江東区亀戸あたり)にも爆撃が開始された。

0時20分には浅草地区や芝地区(現・港区)に対する爆撃も開始された。爆撃による火災の煙は高度15000mの成層圏にまで達し、秒速50m以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れた。

アメリカ軍が東京大空襲の実施を3月10日に選んだ理由は、延焼効果の高い風の強い日であることと、3月10日が日本の陸軍記念日である事に因んでいるという説が有力である。

ただしこのことがアメリカ側の資料で確認されているわけではない。

陸軍記念日。

戦前の日本では、3月10日であった。これは、1905年3月10日に、日露戦
争の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領し
て奉天城に入城した日である。

1945年3月10日の東京大空襲は、この陸軍記念日を狙って実施されたという説がある。当時の日本で、この記念日にアメリカの大規模な攻撃があるとの噂が流布しており、この噂が後になって事実であるかのように出回っていた。日本には事実とする書籍や資料が存在するが、アメリカ側の資料では確認できない。

東京大空襲の爆撃のために各B-29には通常の約2倍の搭載量である6tもの高性能焼夷弾が搭載されていた。ほぼ全ての機銃および弾薬を爆弾投下機の多くから降ろしてまで、焼夷弾の搭載量が最優先されたのである。

その背景には、その時点で日本には貧弱な防空能力しか残されていないことが見抜かれていたことが挙げられる。この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1783tにものぼった。 午前2時37分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は解除された。

当夜の被害が拡大した原因は、以下の各要因が複合したものであった。とりわけ強い冬型の気圧配置という気象条件による強い季節風(空っ風)は直接・間接に大きな影響を及ぼした。

もともと精度に劣る防空警戒用レーダーの精度がますます低下していた。強い季節風によってレーダーのアンテナが揺さぶられたためである。

これにより、編隊の確実な捕捉、編隊の企図の把握に支障が生じ、空襲警報の発令が極端に遅れた(発令されたのは初弾投下8分後の3月10日午前0時15分)。なお、アメリカ軍機はウインドウを大量に散布するなどしてレーダーによる捕捉に対抗した。

「低空進入」と呼ばれる飛行法が初めて大規模に実戦導入された。この飛行法ではまず、先行するパス・ファインダー機(投下誘導機)によって超低空からエレクトロン焼夷弾が投弾された。

その閃光は、攻撃区域を後続する本隊に伝える役割を果たした。その本隊の爆撃機編隊も通常より低空で侵入した上、発火点によって囲まれた領域に向けて集束焼夷弾E46を集中的に投弾した。

この爆撃の着弾精度は、高空からの爆撃にくらべて高いものであった。さらに後続する編隊が爆撃範囲を非炎上地域にまで徐々に広げた。当初の投下予定地域ではなかった荒川(当時は荒川放水路)周辺やその外側の足立区や葛飾区、江戸川区の一部にまで焼夷弾の実際の投下範囲が広げられた。

これにより、被害が一層拡大した。これは、早い段階で大火災が発生した投下予定地域の上空では、火災に伴う強風が生じたため、低空での操縦が困難になったためでもあった。

投下された爆弾(焼夷弾)が当時の日本家屋を焼き払うために最適化されたものであった。強い北西の季節風によって火勢が煽られ延焼が助長された。これら複数の要因が重なり被害が拡大した。

なお、この爆撃において投下された爆弾の種類は、この作戦で威力を発揮した新型の集束焼夷弾E46(M69)を中心とする油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾などである。

有名なのはゼリー状のガソリンを長さ約50cmの筒状の容器に詰めたナパーム弾である。この焼夷弾は、投下時には各容器が一つの束にまとめられており、投下後に空中で散弾のように各容器が分散するようにされていたため、「束ねる」という意味を込めて「クラスター焼夷弾」と呼ばれた。

使用された焼夷弾は当時の平均的な爆弾とは異なる構造のものであった。つまり、通常の航空爆弾では、瞬発または0.02〜0.05秒の遅発信管が取り付けられており、破壊力は主に爆発のエネルギーによって得られる。

しかし木造の日本家屋を標的にそのような爆弾を用いても、破壊できる家屋が爆風が及ぶ範囲のものに限られ、それを免れた家屋は破壊されず散発的な被害にとどまってしまう。

そこでアメリカ軍は、市街地を火災により壊滅させるため、爆発力の代わりに燃焼力を主体とした焼夷弾を用いることとし、その焼夷弾も日本家屋に火災を発生させるために新たに開発した。

まず、投下時に確実に日本家屋の瓦屋根を貫通させるため、上述した形状が選ばれるとともに、空中での向きを制御する吹流し状のものも個々の容器に取り付けられた。

これにより、各容器が家屋の内部に到達して内部から火災を発生させる確率が高められた。なお、都内では当時すでに燃えにくい素材で建物を補強するなどの対策がなされていた(関東大震災を教訓にしたものであった)。

しかし、防火性のある瓦屋根を貫いて建物の内部で着火剤を飛散させる仕組みのこれらの焼夷弾の前ではその対策は無力であった。この焼夷弾の開発の参考にされたのは、ドイツによるロンドン空襲において回収された不発弾であった。

爆撃の際には火炎から逃れようとして、隅田川に架かる多くの橋や、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人も多かった。

しかし、火災の規模が常識を遥かに超えるものであったため、至る所で巨大な火災旋風が発生し、あらゆる場所に竜の如く炎が流れ込んだ。そのため、避難をしながらもこれらの炎に巻かれて焼死してしまった人々や、炎に酸素を奪われて窒息(ちっそく)によって命を奪われた人々も多かった。

また、川に逃げ込んだものの冬期の低い水温のために凍死する人々も多く、翌朝の隅田川・荒川放水路等は凍死・溺死者で川面が溢れていたという。

これら水を求めて隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ避難した集団の死傷率は高かった一方、内陸部、日光街道・東武伊勢崎線沿いに春日部・古河方面へ脱出した人々には生存者が多かった。

この爆撃に先だってアメリカ軍は関東大震災(1923年)における被害実態を事前に徹底的に検証しており、木造住宅の密集する東京の下町が火災被害に遭いやすいことをつきとめていた。

この成果を上述の爆弾の選定や攻撃目標の決定に反映させたため、東京大空襲の被害地域は関東大震災の延焼地域とほぼ一致し、かつ大震災時を上回っている。

4月13日には王子・赤羽地区を中心とした城北地域が、翌15日には大森・
蒲田地区を中心とした城南地域が空襲・機銃掃射を受け死傷者4004人、
約22万戸もの家屋が焼失した。

さらに5月25日には、それまで空襲を受けていなかった山の手に470機ものB29が来襲した。皇居も被災し宮殿が焼失した。これにより死傷者は7415人、被害家屋は約22万戸と3月10日に次ぐ被害となった。

また当時、東京陸軍刑務所に収容されていた62人のアメリカ人捕虜が焼死している(東京陸軍刑務所飛行士焼死事件)。

3月―5月にかけての空襲で東京市街の50%が焼失した。また、多摩地区の立川、八王子なども空襲の被害を受けている。その後、空襲の矛先は各地方都市に向けられていく。

防空戦に出撃した機体の一つ 三式戦闘機 飛燕八丈島のレーダーは機影を捉えていたが、日本列島では猛烈な風のために本土防空隊は迎撃に出撃することができずにいた。

その後爆撃隊がサイパンへの帰還中に迎撃可能となり爆撃隊を迎撃した。その際の戦果と陸軍の高射砲部隊の戦果を合わせて12機を撃墜、42機を撃破する戦果を挙げた。

5月25日に464機のB-29が来襲した際は、26機撃墜、86機撃破と本土空襲の中で最も大きな損害を与えた[2]。なお、この時墜落機の搭乗員の一人が逃亡途中で警防団員を射殺、逮捕された後に処刑されている(東京上野憲兵隊事件)。

米軍にとっての空襲当初1944年11月24日にヘイウッド・S・ハンセル准将の指揮により始められた日本本土空襲は、軍需工場、製油所などの目標地点のみを攻撃する計画であった。なぜならハンセルは非戦闘員である一般市民を巻き込む無差別爆撃に対して非人道的だという感情を抱いていたからであった。

しかし、元々米軍による日本本土空襲は、戦闘員同士の通常の戦闘では米軍側の被害も多く出るので、それを回避しつつ日本の降伏を早めることが狙いであった。

そのためには「軍需工場のみならず、軍需工場の労働者の家や使用する道路、鉄道を破壊することが効果的だ」というヘンリー・H・アーノルド大将の意を受けて、翌年の1945年1月21日にカーチス・E・ルメイ少将と交代した。

ルメイは大規模な無差別攻撃を立案、その手始めに東京 を選んだ。 ただし、かなりのリスクを背負っていた。それは、

1.燃料節約のためB-29は編隊を組まないで、単独飛行にしたこと。コースを外れる危険性があった。
2.低高度(高度7000〜8000ft,)からの焼夷弾を投下する。日本上空の強い風を避け、目標を絞りやすいが、対空砲火や日本の戦闘機の標的になりやすい。
3.爆撃の効果を上げるために搭乗員を減らしてまで、焼夷弾や燃料の搭載量を増やした。迎撃に遭遇しても反撃できなかった。
というものであった。

このルメイの立案の低空飛行に兵士が難色を示すと、ルメイは葉巻を噛み切って「なんでもいいから低く飛ぶんだ」と言ったという。空襲時の東京を空から一定の時間おきにスケッチするため高度1万mに留まっていた飛行機もあり、帰還後ルメイはそのスケッチを満足げに受け取ったという。

「この空襲が成功すれば戦争は間もなく終結する。これは天皇すら予想できぬ」、「我々は日本降伏を促す手段として火災しかなかったのである」とルメイは証言している。

一方で、「もし、我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた」とも語っている。

被害規模当時の警視庁の調査での被害数は以下の通り。
死亡:8万3793人
負傷者:4万918人
被災者:100万8005人
被災家屋:26万8358戸

なお人的被害の実数はこれよりも多い。上記の被害数の死者数は、早期に遺体が引き取られた者を含んでおらず、またそれ以外にも行方不明者が数万人規模で存在するためである。民間団体や新聞社の調査では死亡・行方不明者は10万人以上と言われる。

わずか一回の空襲で東京市街地の東半分、実に東京35区の3分の1以上の
面積(約41km2)が焼失した。

ちなみにアメリカ側の損害は、撃墜・墜落が12機、撃破が42機であった。

◆これほどの大物が居た

渡部 亮次郎


名古屋市には、その中心に、100m道路がある。道幅100mの道路が東西南北に走っている。もちろんその100mの道幅そのものが、自動車の走行の為の道幅ではない。道幅100mの間には、公園もあれば、テレビ塔もある。

名古屋も戦後直後は、空襲でこの辺りも焼野原となった。戦後の混乱の時期に、市の幹部は、まず道路を設定した。その時に、未来に備えての道幅100mの道路を設定したのである。

さて、なぜ道幅100mの道路を名古屋の中心に東西南北に走らせたか?である。

戦後の焼野原を見ながら、どんな火災が起きても、延焼を食い止め、名古屋全域が焦土と化さないように名古屋の中心のタテヨコに幅100mの空間(道路)を作ったのである。

一方、将来来るはずの自動車社会を見越して東京中心部の設計をしたのが岩手県人後藤新平(ごとう しんぺい)綽名「大風呂敷」である。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。

特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と、環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小をされながらも実際に建設した。

当初の案では、その幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので、自動車が普及する以前の当時の時代では受け入れられなかったのも無理はない。

現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付近に見ることができる。上野と新橋を結ぶ昭和通りもそうである。日比谷公園は計画では現在の何倍もあったそうだ。

また、文京区内の植物園前 、播磨坂桜並木、小石川5丁目間の広い並木道もこの計画の名残りであり、先行して供用された部分が孤立したまま現在に至っている。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っているといって良い。

関東大震災。1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ沿いの断層を震源とするマグニチュード7・9による大災害。南関東で震度6 被害は死者99,000人、行方不明43,000人、負傷者10万人を超え、被害世帯も69万に及び、京浜地帯は壊滅的打撃を受けた。(以下略)「この項のみ広辞苑」

新平は関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。

それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、30億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約2年分)。ために財界などからの猛反対に遭い、当初計画を縮小せざるを得なくなっ
た。

議会に承認された予算は、3億4000万円。それでも現在の東京の都市骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評価されている。11%!に削られながら。

三島通陽の「スカウト十話」によれば、後藤が脳溢血で倒れる日に三島に残した言葉は、「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。

後藤新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちのNHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長。

陸奥国胆沢郡塩釜村(現・岩手県奥州市水沢区吉小路)出身。後藤実崇の長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の親族に当たり、甥(義理)に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和子、哲学者の鶴見俊輔をもつ。椎名さんは新平の姉の婚家先に養子に入った。

母方の大伯父である高野長英の影響もあって医者を志すようになり、17歳で須賀川医学校に入学。同校を卒業後、安場が愛知県令をつとめていた愛知県の愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。

ここで彼はめざましく昇進し、24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。この間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助を治療している。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。

1882年(明治15)2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも、病院・衛生に関する行政に従事することとなった。

1890年(明治23)、ドイツに留学。西洋文明の優れた一面を強く認識する一方で、同時に強いコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、1892年(明治25)12月には長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任した。

1893年(明治26)、相馬事件に巻き込まれて5ヶ月間にわたって収監され、最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり、一時逼塞する破目となった。

1883年(明治16年)に起こった相馬事件は 突発性躁暴狂(妄想型統合失調症と考えられる)にかかり 自宅に監禁されさらに加藤癲狂院(てんきょういん)や東京府癲狂院に 入院していた奥州旧中村藩主 相馬誠胤(そうまともたね)のことについて
忠臣の錦織剛清(にしごおりたけきよ)が 「うちの殿様は精神病者ではない。

悪者たちにはかられて病院に監禁された。」 と、告訴したことに始まった。 結局この騒ぎは1895年(明治28年)に 錦織が有罪となって終結することになった。

1898年(明治31)3月、台湾総督となった兒玉源太郎の抜擢により、台湾総督府民政長官となる。そこで彼は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で、経済改革とインフラ建設を進めた。こういった手法を、後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している。

それは、社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって、現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというものであった。

また当時、中国本土同様に台湾でもアヘンの吸引が庶民の間で常習となっており、大きな社会問題となっていた。これに対し後藤は、アヘンの性急に禁止する方法はとらなかった。

まずアヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許制として次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功し、アヘン患者は徐々に減少した。

総督府によると、1900年(明治33年)には16万9千人であったアヘン中毒者は、1917年(大正6)には6万2千人となり、1928年(昭和3)には2万6千人となった。

なお、台湾は1945年(昭和20)にアヘン吸引免許の発行を全面停止した。これにより後藤の施策実行から50年近くかけて、台湾はアヘンの根絶に成功したのである(阿片漸禁策)。

こうして彼は台湾の植民地支配体制の確立を遂行した。台湾においては、その慰撫政策から後藤は台湾の発展に大きな貢献を果たした日本人として、新渡戸稲造、八田與一等とともに高く評価する声が大きい。

1906年、後藤は南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら、台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。

また、満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄内に調査部を発足させている。東京の都市計画を指導するのはこの後である。

その後、第13代第2次桂内閣の元で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(1908年7月14日-1911年8月30日)、第18代寺内内閣の元で内務大臣(1916年10月9日-1918年4月23日)、外務大臣(1918年4月23日-1918年9月28日)。

しばし国政から離れて東京市長(1920年12月17日-1923年4月20日)、第22代第2次山本内閣の元で再び内務大臣(1923年9月2日-1924年1月7日)などを歴任した。

鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でたまらない」と揶揄された。しかし、今日のJR九州の肥薩線に、その名前を取った「しんぺい」号が走っている。

1941 (昭和16) 年7月10日、本土(下関市彦島)と九州(当時、門司市小森江)をむすぶ、念願の日本ではじめての海底トンネルが貫通した。この日貫通したのは本坑道で、それより先39年4月19日には試掘坑が貫通している。

新聞はこの貫通を祝っているが、関門海峡の海底を掘って海底トンネルをつくる構想ははやくも1896年(明治29)ころからあり、当時夢物語のようなこの話を実現化へ向けて進言したのは、鉄道院総裁の後藤新平だったとつたえている。[出典]『中外商業新報』1941年(昭和16)7月10日晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。

1929年、遊説で岡山に向かう途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。72歳。

虎ノ門事件(摂政宮裕仁親王狙撃事件)の責任を取らされ内務省を辞めた正力松太郎が読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった後藤は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わずに貸した。

その後、事業は成功し、借金を返そうとしたが、もうすでに後藤は他界していた。そこで、正力はその恩返しとして、新平の故郷である水沢町(当時)に、新平から借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、1941年に日本初の公民館が建設された。今は 記念館になっているようだ。

後藤は日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日本連盟の初代総長を勤めている。後藤はスカウト運動の普及のために自ら10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。

彼がボーイスカウトの半ズボンの制服姿をした写真が現在も残っている。制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕らの好きな総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニコ」と歌声が上がったという。

後藤はシチズン時計の名付け親でもある(彼と親交のあった社長から新作懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を贈った)。

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2012年03月09日

◆ブタニクの特売日です

渡部 亮次郎


「今日はブタニクの特売日です。午後3時から何々町の」と言ったところで市役所の車の声は聞えなくなった。本人は言ったと思っているかもしれないが、こちらは言われていない!

車はスピードを出している。のんびりと豚肉の特売日を宣伝しても、市民に情報を確実に届けていなかったら、放送、広報はしなかったと同じでは無いか。

東京湾岸の都立公園。散歩道に沿って看板が立てられた。「ローラースケートはご遠慮ください」と書いてあるが。スケーターは見もせず、すいすい。

スケーターに立ち向かうような方向で看板を立てるべきなのに彼らの走る方向に沿って横に立ててあるからスケーターが横を向かなければ、看板は見えないのだ。およそ意味のない看板。カネはかかっている。東京都の予算だ。

NHKの広報。どうかしている。皆様のNHKと言われると、少なくとも私以外の人と思ってしまう。「NHKの番組は皆さんの聴取料で作られています」と言う。「皆さん」と言う集団があって、それが支えているように思う。私が納める必要は無いと。

なぜNHKの番組は「あなたの聴取料で作られています。宜しく」と言えないのだろうか。時代が変わったのに気付いていない。時代の変化に気付かないジャーナリスト。そんなの要らない。

「豚肉の特売、2丁目の加藤肉屋です。今日は豚肉の特売日です」と言えば済むことをわざわざ済まないように広報すること、NHKと同じだ。

2012年03月07日

◆わたなべりやうじらう

渡部 亮次郎


幼稚園。生まれ育った秋田県旧八郎潟沿岸に、昭和10年代は無かった。昭和17(194)年3月、小学校(当時は国民学校)に入学するに先立って、同居していた父方の祖父が、私の名前の書き方を教えるという。日露戦争のラッパ手だ。

驚いた。私の名前は「わたなべ りやうじらう」だと祖父は言うのだ。あとで考えれば「旧仮名づかい」だったから、祖父は正しい。だが、「りやうじらう」だなんて。「りょうじろう」って呼ばれてるじゃないか、可笑しいよ、と抵抗したが駄目だった。

仕方なく祖父は、いきなり漢字での名前を教えてくれた。渡部亮次郎。お前の前に生まれた男の子があったが、生まれてすぐ死んだ。琢次郎といったという。私は実際は三男だと知った。

学校では、1年生なのに、名前をいきなり漢字で書いたので珍しがられた。だが、それで終わらなかった。3年生の時、女の先生が「お前たちは開戦の詔勅を知らないだろう」と言う趣旨のことを言って、「百姓の子せがれ」は馬鹿にされたと思った。

私は4つ上の兄に頼んで、「開戦の詔勅」を暗誦。翌日、先生の鼻を明かしてやった。百姓の子倅」は意地っ張り。これを秋田弁では「意地くされ」と言った。

中学3年のとき、大学を出たばかりの女性が国語教師として赴任してきた。始めに黒板に真自目と書いた。私は「まじめとは真面目と書くのでは」と主張。先生は翌日から学校に来なくなった。

NHKの記者に合格したが、故有って、新人研修は受けなくとも良い、すぐ地方の現場で働きたまえ、と大館から仙台中央放送局に発令された。だからNHKの誰からも文章の書きかたを習っていない。文章がズバズバと直明に切り込むような調子に偏ったのは、NHK式を習っていないからだと思う。

NHKの国会原稿を聞いていると「あでもない、こうでもなくて 成り行きは不透明だ」となる。大奥みたいで不愉快になる。責任のない原稿。恰好をつけているだけのNHK方式。

百姓の子倅の「意地くされ」は今では相当くたびれては来たが、治ってはいない。

ケチをつけられると、いちいちハラがたつ。メルマガの記事に著名な新聞記者各位の記事が載るのをさして「有名人記事を掲載して体裁を整えている」という「反応」があった。

私は有名人だから載せているのではない。友人たちが、その後有名人になっただけの話である。後輩でも優れた感覚の所有者だと見れば優先するだけ。

他人にケチをつけることを趣味にしている人がいるそうだから、無視したいがハラが立つ。「意地くされ」は治らない。

2012年03月06日

◆他人に教える難しさ

渡部 亮次郎


日本に生まれれば自然に覚えるのは日本語である。しかも田舎に生まれれば田舎弁を覚える。私の英語はニューヨーク訛りで日本語は秋田訛りだ。アメリカ語は50を過ぎてから強制的に覚えたものだから、日に日に忘れてゆく。

これについては14歳までに覚えた言語は死ぬまで忘れない、という研究があるそうで、私の場合は18歳まで秋田で過ごしたから、直ったようでも秋田訛りはどこかに死ぬまで残るだろう。
 
後輩の1人の高級官僚。財務省にトップで入ってすぐケンブリッジに留学。3年勉強してIMF(在ワシントンDC)に赴任を命じられた。本場で英語を3年も勉強して行ったのにアメリカの英語が3日ぐらいは全く理解できなかった。

アメリカ語はアメリカ語であって厳密には英語とはいえないから当然だった。しかも国力の差からして今後、世界の言語を左右するのは英語ではない、アメリカ語なのである。そういえばニュージーランドの「英語」は3日ぐらい分からなかった。

日本は明治政府になった時、政府が「標準語」を制定した。作家井上ひさしの著作によれば、その時「東京山の手の言葉」が標準語と決まったが、わずかの差で京都弁が標準語になるところだったそうだ。

ところでアメリカ語には標準語が無い。移民の国だから当然であろう。しかも本場イギリスに至っては階級によって訛りが違うというのだから厄介だ。

日本で今の英語教育は「話せる英語」を政府から強いられているように思うが、そういう政府の役人自体、何を以て英語となすか、分ってはいない。

ケネディー大統領時代に発足したのが日米教育文化交流会議=CULCONが日米文化交流の原点なのだが、日本では主導権を外務省に握られ、アメリカのパートナーである教育省は共和党政権になると常に廃止の憂き目に遭うから力が無い。

私も何回かワシントンでのCULCONに出かけたが会議はしばしば地下室で開かれる始末だった。政府が異文化交流に関心を示さずカネを出し渋るからである。

最近は開催されているかどうか、ニュースにすらならない。このことからしても日本における英語教育の責任は教師一人ひとりの肩に架かっていると言わざるを得ない。

英語教師にはそれだけ自由があり、楽しいということでもある。ただ英語教師に願いたいのは、生徒に対して、君たちになぜ、今、英語を習わせるのかを最初に説明してやってほしい。「今の頭脳は柔軟で覚えやすいから」と。


2012年03月03日

◆アリナミンがあったなら

渡部 亮次郎


子供のころ「函館大火」を歌ったレコードがあり「あの時、オートバイがあったなら、こんな苦労はせずともえ」と唄っていた。それに倣えば「日露戦争にアリナミンがあったなら、脚気で?外も苦労せずに済んだのに」だ。

脚気を巡る日本の海軍と陸軍の争いは、ビタミンB1の発見(鈴木梅太郎)によって、あっさり海軍の勝利で決着した。黴菌説を譲らず、明治天皇から嫌われた陸軍軍医総監森 林太郎(森 鴎外)は「死後、皇室から如何なる沙汰があっても拒否せよ」と悪たれ遺言をして死んだ。

文学の世界ではこの遺言が謎とされているが、医学の面で見れば単純明快。脚気栄養説の海軍軍医総監高木兼寛は明治天皇に陪食を3度も賜ったが、陸軍の森には1度も無い。明治天皇も脚気になったが,高木のいう栄養説を聞いて治ったからである。

陸軍がその後、脚気について、どのような対処の仕方をしたかは詳らかでないが、そもそも明治37−8年の日露戦争で戦死者に匹敵するぐらいの脚気死者を出したのだから、以後も脚気対策には神経を使ったものと思われる。

日露戦争で徴兵したのは農村、山村、漁村の次男、三男。長男は除外。徴兵たちは実家では年に盆と正月しか食えなかった白米飯が只で食えると言うので夢中で食った。おかず代は現金で支給されたが、実家へ仕送りした。結果、脚気にみな掛かった。

実家では雑穀や米糠に漬けた沢庵を食べてビタミンB1を十分摂取していたが、軍隊に沢庵は無い。それにビタミンB1の豊富な豚肉もまだ食べる習慣がなかった。いずれ誰も脚気がビタミンB1欠乏症とは知らない。

陸軍は大阪発祥の薬会社「武田薬品」に対して、脚気治療薬の開発を要請していた。それで完成したのが、いまも疲労回復剤として売れている「アリナミン」。ただし発売は戦争中じゃ無く、軍が無くなって7年も経った昭和27年。「泥縄」もいいところだった。

ビタミンB1誘導材の形であれば高吸収率を維持したまま体内で再合成されることが明らかとなったのが戦後になってからだったから仕方が無い。化学合成する手段の開発とともに昭和27年に発売されたわけ。

当時、いまだに少なからず脚気患者が居たことと疲れに効果があるという宣伝文句が合わさって、当時から爆発的に売れた商品となった。隆盛期の昭和30年代は武田薬品工業の利益の半分をこの商品から捻出していたとも言われる。

2012年03月01日

◆正義に味方せぬのがマスコミ

渡部 亮次郎


マスコミ不信がこのところ激しい。逆説を言えば、人々のマスコミ依存がそれだけ激しい、とも言える。だが、マスコミとは所詮儲け仕事。身勝手なんだから信頼なんかしてはいけない。

昔は「社会の木鐸(ぼくたく)」と誉めそやした。広辞苑によれば、「世人を覚醒させ、教え導く人」とある。昔、中国で法令などを人民に知らせる時に鳴らしたのが「木鐸」で、木製の舌のある鉄製の鈴だった。

私が世間に出た昭和30年代までは日本でもマスコミのことをそういって批判したり、反省を求める「識者」がいた。また批判されればマスコミも少しは反省したような顔をした。

だが民放が本格的になっ来るにつれて,もういけません。ニュースにしろ番組にしろ視聴率こそが彼らの収入を左右するのだから、「映像(絵)」にならない物は取材対象でなくなった。

例えば政治である。経験上、政治こそは、夜、密室で決められるから絵にはならない。したがってテレビは政治家の料亭への出入りの撮影にこだわる。映像と音声を同時に捉えるにはカメラとマイクで押しかけることになる。騒動だ。だがここでは真相からは離れている。

真実はつかめない。近いところを手短に喋ってくれる政治家にレンズもマイクも集中する。順序立てて論理的に話してくれても話の長い政治家は敬遠だ。

ニュースの枠は短いのだから、見出しだけを並べたような喋りをしてくれる政治家が画面を独り占めにすることになる。小泉が首相として世の中を振り回せたのも「ワンフレーズ」人間だったからだ

テレビにかじりついているような視聴者はこれで騙されてしまう。

なぜなら、見出しを並べたような喋りは真相の上っ面をなでただけだから、事態はニュースとやや違って動く。だからニュースを一旦は信じた人は「騙された」という批判をしたくなる。

「解散」を巡る当時の麻生首相の動き。映像を追っていただけでは判断を間違う。彼は「解散」をするために総理の座についたが解散を渋ったような印象を与えてしまったから不人気のままか解散をせざるを得ない珍しい宰相になってしまった。

勿論「百年に1度の経済不況」対策に専念したためでもある。だから財界には人気がある。しかし当面の役には立たない。

どうせ「解散」すれば任期は無くなる(再選不可能)から解散を延ばせるだけ延ばした方が得策、と進言した大幹部がいた。テレビはもちろん新聞もこの情報をつかめないままに過ぎたが。

簡保の宿問題。従業員の解雇を阻止するためには郵政の側に真実があった。だから麻生は鳩山邦男総務相を事実上、罷免して解決するしかなかった。

だが麻生自身がこのからくりの説明を怠ったために、マスコミの誤まった報道に世論が走ってしまい、支持を失ってしまった。世論操作のミスは大きかった。

マスコミの中には、何が何でも保守大連立実現のためには、この際、麻生を犠牲にして、まず民主党政権を作る必要があるとの考えから、新聞紙面を麻生打倒の政略にした大新聞もある。

「社会の木鐸」という矜持を完全に捨ててしまっている。それを知らずに従(つ)いて行った読者こそ、いい面の皮というべきだろう。都議選で民主支持に流れたという3割という自民党支持者は「騙された」と、いつか気付くだろう。

私の主宰するメイル・マガジン「頂門の一針」の読者には宮里藍とか石川遼といった人気若手ゴルファーを煽て挙げ、終いに駄目にすると、テレビ局を激しく貶し、投書してくる読者が少なからずいる。

私も同感だから投書は採用するが、じつは空しい気がしている。なぜなら民放にとって高い視聴率の取れる映像を作ることこそが目的であって、偉大なゴルファーを育成することとは全く関係ないことなのである。

それを止めてくれ、選手をスポイルしないでくれといっても、民放としてはゼニになる映像がそこに存在するから撮影するのであり、決して彼らをスポイルする気はない。スポイルされたら、それは本人の責任であってテレビ局は次なる「絵」を捜すだけである。

具体例は挙げれば切りの無いほどある。だが挙げ続けても無意味だろう。本質は共通しているのだから。まぜならマスコミはミーハーを煽って新聞、雑誌を売りつけ、テレビ・ラジオは「1億総白痴化」が達成してこそ「儲け」られる「商売」をしているに過ぎないからだ。

偉そうなことを言うようだが、筆者自身、今日ほど無責任でなかった時代の「公共放送」(?)NHKに政治記者を最後に約20年在籍した経験がある。当時ですら「ここに長居したら人生を失う」と悟って41歳で転身してしまった。後悔はしていない。(文中敬称略)


2012年02月28日

◆ものは言い様(よう)

渡部 亮次郎


「奴は仕事はよく出来るが大酒呑みだ」と「奴は大酒呑みだが仕事はよくできる」、あんたが人事課長だったら、どっちを採用するかね、と問われたら、どうしますか。

○仕事はよく出来る
○大酒呑みである

要素はこの2つ。どちらを最初に言うかだけである。当然、後者、つまり、大酒呑みだけど仕事はよくする、といわれた方を採用するに決まっている。そう、ものは言いようなのだ。

秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)さん(故人)が出張先のホテルで諭してくれた話である。彼は特攻隊「天雷特別攻撃隊」の隊長(パイロット)として死ぬはずが、突然、敗戦になって「死に損なった」という人。

それまで陸軍落下傘部隊第1期生、パイロットなどとして、1935年から野戦に11年いた猛者である。しかし士官学校を出ているわけじゃないから、戦争の最先端では相当、苦労したようだ。

それだけに、人間研究が進み、世間を渡る智恵が集積された。冒頭の話も、戦場での体験に基づくものだった。問題にする要素は2つしかないが、どれを先にいうか、後にするかで運命は暗転するというのだ。

別のところでも書いたのだが、戦場では士官学校を出た若者が隊長として着任する。いきなり戦闘に巻き込まれ、若者は興奮する。飛んでくる敵弾に身を曝そうとする。士官学校ではそう教えられて来たからだ。

しかし、弾の撃ち方ぐらいは習っただろうが、撃たれ方は習ってない、当然だ。それが着任早々、撃たれかかって舞い上がる。古参兵たちにしてみると、隊長戦死とは不名誉なことだから「隊長殿、其処では危のう御座います」と叫ぶ。隊長、名誉に拘わると思うものだから、逆に更に危険な地点に出ようとする。困った。

そこで園田さんが出て行って言った。「隊長殿、其処では敵情がよく見えません、どうぞこちらへ」と叫んで岩陰に案内したら、隊長殿、ふっと息を吐いた。

記者時代から12年の付き合いを経て秘書官になった。記者時代は政治家といえども対等な付き合いをした。私は生意気な記者ではなかったが、実力者の河野一郎さんが、毎日曜の昼ごろ、リンカーンでアパートに来て、下から「亮次郎、競馬行こう」と叫んだものだ。

園田さんはその河野派の一員だから、私のほうが威張っていたかも知れない。だが秘書官となれば従者だから、立場は逆転。ところが外国へ出張すると、夜は大臣は孤独になって私が勝つ。

外務省の役人は皆、夜の巷に出かけるから、残りは私と2人だけ。私は酒呑みだが、大臣は下戸。そこで夜は立場が逆転し、大臣が私の水割りを作り、昔話を聞かせる、という場面になるわけだ。

ドアの外には警視庁から附いてきてくれた警護官が立っているが、大臣は気を利かせて、彼をも招き入れて、警察用語で言うところの「教養」の時間となる、という風だった。

園田さんは実は痛がりで小心な少年時代だったそうだ。そこで剣道に励み7段という高段者だった。加えて代議士になってから合気道もやり8段だった。これに居合道8段、空手(名誉)も加えると二十数段という武道家だった。

しかも武道の呼吸を政治に生かしていた。自民党では国会対策委員長を2度も務めて名を高めた。その功績の理由は合気道にあった。野党がいきり立っている時は説得しても無駄。相手が落ち着いた頃を見計らって説得して初めて効き目がある、これは合気道だ、というのだ。

上がる手を無理に抑えようとすれば相手は抵抗するが、手は何時までも挙げたままで居られるわけがない。やがて下がってきた時にこちらの手を添えて下げてやれば相手はつんのめって転ぶよ。タイミングを間違えたら転ぶ相手が転ばずに、こちらも怪我をする。

こんな話を色々と山ほど聞いた。どれだけ実になっているか全く自信はないが。

「若者並み頑張るのだから立派だわね、おじいちゃんなのに」と後輩の女性に言われて立腹した。生まれて初めておじいちゃんと言われたからだ。

「よく頑張るわね、現役がかなわないわね」と言って欲しかった。それを思って冒頭の話を思い出したのだ。ものは言いよう。間違うと命がかかる。

2012年02月26日

◆二・二六事件 ににろくじけん

渡部 亮次郎


今から76年前の1936(昭和11)年2月26日、官僚・財界とむすぶ陸軍統制派を倒して天皇に直結する政治体制をつくる「昭和維新」を計画し、陸軍皇道派の青年将校たちがおこしたクーデタ。

内大臣(天皇補佐の宮内官)斎藤実・教育総監渡辺錠太郎・大蔵大臣高橋是清らを殺害。

一時は議事堂を中心とする政治・軍事の中枢部を制圧したが失敗におわった。

大雪の2月26日早朝、皇道派青年将校がひきいる歩兵第1・第3連隊、野戦重砲兵第7連隊、近衛(このえ)歩兵第3連隊約1500名の部隊が、次々に政府要人の官邸や私邸をおそった。

栗原安秀中尉ら約300名は首相官邸にふみこみ、岡田啓介首相と誤認して秘書の松尾伝蔵を射殺し、坂井直中尉ら約150名は内大臣私邸で斎藤実を射殺した。

さらにその一部は陸軍教育総監私邸で渡辺錠太郎を、また中橋基明中尉ら120名は大蔵大臣私邸を襲撃して就寝中の高橋是清を射殺した。

安藤輝三大尉ら約200名は侍従長官邸で鈴木貫太郎侍従長に重傷をおわせている。こうしてクーデタ軍は午前9時ごろまでに陸相官邸や警視庁をはじめとする官庁街のほとんどを占拠して29日まで制圧した。

当初、真崎甚三郎・荒木貞夫・香椎浩平ら陸軍首脳は反乱部隊に同情的な態度をしめしたが、28日天皇の強い意志をうけて占拠撤収をもとめる「奉勅命令」を発し、翌日戒厳司令部が反乱軍を包囲して武装解除した。

検挙された青年将校らは、7月に開かれた弁護人なしでの非公開の特設軍法会議で17名に死刑が、翌年8月には事件の首謀者とみなされた超国家主義者の北一輝・西田税(みつぎ)にも死刑判決がくだされた。

この事件を利用して皇道派を一掃した陸軍首脳の梅津美治郎・武藤章ら統制派や石原莞爾は、広田弘毅内閣の組閣に介入し、陸海軍大臣を現役の大・中将にかぎる軍部大臣現役武官制(→ 軍部大臣武官制)の復活をはかるなど陸軍による強力な集権体制をきずいた。

筆者は生後、僅か1か月半。事件を知る由もない。ずっと大人になってから本を読んで知った。

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All rights reserved.による。2012・2・25
<産経抄>2月26日

昭和11年、二・二六事件を起こした部隊は、首相官邸や警視庁などとともに三宅坂の上方一帯を占拠した。今の国会議事堂正門に向かって右手の辺りだ。当時は陸軍省、陸軍参謀本部、陸相官邸などがあり、「三宅坂上」は軍中枢の代名詞のように恐れられた。

▼だから決起した青年将校たちにとって「昭和維新」を成功させるためには真っ先に押さえる必要があったのだ。彼らの作戦本部や軍との交渉や駆け引きの場ともなった。つまりあの「昭和の大事件」のメーン舞台が「三宅坂上」だったのである。

▼だが戦後、陸軍省も参謀本部も解体され、跡地は憲政記念館や庭園、それに議事堂の一角となった。事件の痕跡はまったく見当たらない。陸軍省などがここにあったことを示す標識すらもない。「平和主義」のもと、事件も「三宅坂上」もきれいに消し去られたのだ。

▼代わりに「三宅坂」の代名詞で呼ばれていたのが旧社会党だ。昭和39年、坂に面して社会文化会館が建設され、党本部となった。「空想主義」「何でも反対」との批判はあったが、一定の支持を集め、自民党や官僚にとってはこちらも怖い「三宅坂」だった。

▼しかし平成8年、党名を社民党に変えたころから分裂を繰り返して党勢はやせ細る一方だ。支持者も大半は民主党に流れた。党本部もメンテナンスを怠ったため老朽化が進むが、資金不足で建て替えもままならない。移転もやむなくなっているようだ。

▼党自体も衆参10人の小所帯なのに、相変わらず内紛を繰り返している。このままでは存続も危ぶまれそうだ。「三宅坂」も「三宅坂上」のような歴史から抹殺されかねない。党の中身もメンテナンスしておくべきだったのだろう。

2012年02月25日

◆明日もコロッケ

渡部 亮次郎


コロッケもまた田舎少年には東京で合って初めて知る「おかず」だった。戦前の秋田の田圃に揚げ物のあるわけが無い。大学の食堂で初めて知った。恥かしい話だ。

女房貰って嬉しかったが、出てくるおかずは毎日コロッケでうんざりという趣旨の歌。都会では肉屋の店頭で、揚げながら売っていたものらしい。歌は、要するに女房は料理をしない、という意味になる。

東京でも今や肉屋は次々に姿を消していて、コロッケはスーパーやデパートへ行かなければ求められなくなった。母親に用を言いつけられた小学生が、受け取った店頭で、熱々のをつい1つにかぶりつくという風景は見られなくなった。

コロッケは、揚げ物料理の1つ。ホワイトソース(ベシャメルソース)や茹でたジャガイモを潰したものを俵型や小判型に丸め、小麦粉、卵、パン粉を衣としてつけ、ラードなどの食用油で揚げたもの。カロリーは鶏卵=80キロカロリーに対して120キロカロリーある。

挽肉や蟹肉など魚介類やタマネギのみじん切り等野菜を加熱し混ぜる場合が多い。 ホワイトソース(ベシャメルソース)を使ったものはクリームコロッケと呼ばれ、カニクリームコロッケなど具材の名が冠されることもある。

豚カツなど他のカツレツ、フライ料理と同種の料理法だが、既に中身に火が通っているため2度揚げする必要がない。ジャガイモはほくほくした男爵イモが相性がよい。盛り付けの際には、千切りキャベツを付け合わせとして盛ることが多くある。

コロッケは一般的な家庭の味でもあるが、ウスターソース等をかけて食べる洋食料理であり、精肉店で持ち帰り用惣菜として古くから販売されている極めて庶民的な惣菜でもあった。

揚げたてが格段に美味しく、買ったその場で食べることもあったそうだ。勿論冷めても十分美味しい。都会ではスーパーやデパートで揚げる前のものを売っている例が多くなった。もちろん面倒だから揚げたものを買って行く人が圧倒的に多い。

コロッケ単体ではなく、料理に加えて使用する例も多々見られる。たとえば、コッペパンなどに挟んだサンドイッチはコロッケパン、蕎麦やうどんにコロッケをのせたものはコロッケ蕎麦・コロッケうどん、カレーライスにのせたものはコロッケカレーと呼ばれる。

日本のイタリア料理店でライスコロッケと呼ばれるコロッケは、シチリア名物のアランチーニen:Aranciniという料理である。

日本にどのようにコロッケが登場したかは、あまり明らかになっていない。1つの有力な説には「コロッケ」という名前は、フランス料理の付け合せであったクロケット(仏:croquette)が転じたものであるというものがあるが、フランスのクロケットはミンチにした魚肉やとり肉などを混ぜたクリームコロッケに近い物が主流である。

ただしジャガイモをつぶした物にパン粉をまぶして揚げて作ったクロケットのレシピもある。またオランダ名物で有名なクロケット(kroket)と呼ばれる料理もある。

こちらはホワイトソースでできたものの他ジャガイモで作られたものもあり、ジャガイモコロッケの起源ではないかとの憶測は多いが、フランスからオランダにクロケットが伝播したのが1909年とされ、日本のコロッケの普及時機に比すると信憑性は薄い。(en:Croquet (food))

日本におけるコロッケの普及には、カレーライス、肉じゃがと同様、大日本帝国海軍の糧食として採用され、艦艇乗組員の間で人気のメニューになったことが大きいといわれている。

特に、戦前に大湊警備府があった青森県むつ市では、北海道の道南で栽培された男爵イモで作ったコロッケが『海軍コロッケ』の元祖であるとして、横須賀のカレー、舞鶴や呉の肉じゃがに対抗して、コロッケによる街興しを行っている。

小説家、村井弦斎が明治36年(1903年)に発表した当時の大ベストセラー「食道楽」にコロッケのレシピが掲載されている。 1917(大正6)年に益田太郎冠者の『コロッケの唄』が大流行し、大正時代にはカレーライス、豚カツと並び3大洋食として既に人気があったとされる。

くだくだと綴ってきたが、いまや家庭の中はそれぞれに「多忙」.夕餉の湯気などはトウの昔で、コンビニ弁当を、せめて電子レンジで温めて、それでお終い、という家庭も多いらしい。

コロッケの歌どころではない、今日もコンビニ弁当、明日もコンビニ弁当という昨今なのだ。

(参照=ウィキペディア)