2015年01月22日

◆マルクスに染まらず

渡部 亮次郎



1954(昭和29)年4月に法政大学へ入ったら、大内兵衛総長が「新聞は朝日、雑誌は世界を読むように」と訓示があった。これは入るべき大学を間違えたと思った。

なるほど次の日からの講義のすべてがマルクスに終始した。これは駄目だと秋田に帰った。しかし、両親は社会党員だから話が通じない。とにかく隣近所への見栄えもある、来年、違う大学を受けなおすと言っても経済的余裕が無い、と言われて泣く泣く戻った。

<大内兵衛 おおうちひょうえ 1888〜1980 大正・昭和期の経済学者・財政学者。労農派マルクス主義の理論的指導者で、1938年には人民戦線事件で検挙されて東京帝大を休職した。戦後復職し、49年に定年退職。

50(昭和25)年から法政大学総長をつとめ、マルクス主義の立場から平和・憲法擁護運動の理論的根拠をしめして大きな影響をあたえた。

兵庫県淡路島に生まれ、1913年(大正2)東京帝国大学を卒業し、大蔵省勤務をへて19年に東京帝大助教授となる。翌年発行人をつとめていた雑誌「経済学研究」に掲載した森戸辰男同大助教授の論文がもとで森戸とともに起訴されて休職処分となった。

22年特赦により復職し翌年教授に就任。財政学を専門とし、その教科書として30年(昭和5)に出版した「財政学大綱」は、科学的社会主義の観点から財政学をとらえなおしたもので高く評価された。> Microsoft(R)「エンカルタ」


田舎では犬は自分の食う分の重さを背負えない、と爺さんに教え込まれたが、マルクスは人間は自分が食う以上のものを稼ぐ。雇った資本家はその稼ぎの余剰分を搾取する、と教える。

しかし人間は欲に駆られて生きて行く動物である。稼ぎに追いつく貧乏無しと言うじゃないか。生きている限り働くのが人間の務めと教えられて育った。オレはマルクスは止めた。

だから法政大学の4年間は参考書らしきものを図書館か下宿で読んで過ごした。小説はあまり読まなかった。夜になると焼酎を飲んだ。私鉄駅のガード下で。

マルクスの「資本論」は政治や経済の教科書ではない。あれはお経だ。信ずる奴は騙されるが、信じない奴にとっては端(はな)から聞く耳を持たない。だからソビエトのように1度は騙されても70年ぐらいしか保(も)たない。予想通りだった。

社会党に在って小作人の僻み根性の代表だった佐々木更三から仇敵のように疎まれた江田三郎。彼は「構造改革論」の主張者として歴史に残る。参院議長だった江田五月の父親である。記者時代、1年だけ担当した。

1960年総選挙のころから、江田は構造改革論を社会党の路線の軸に据えようとした。これは、日本社会の改革を積み重ねることによって社会主義を実現しようという穏健な考え方で、これまで権力獲得の過程があいまいであった平和革命論を補強しようというものであった。

しかし、労農派マルクス主義に拘泥する社会主義協会がこれに反発し、江田と彼を取り巻く、若手活動家たちの台頭を恐れた鈴木茂三郎・佐々木更三らも構造改革論反対を唱えるようになった。

1962年、栃木県日光市で開かれた党全国活動家会議で講演した際、日本社会党主導で将来の日本が目指すべき未来像として

アメリカの平均した生活水準の高さ

ソ連の徹底した生活保障

イギリスの議会制民主主義

日本国憲法の平和主義

をあげ、これらを総合調整して進む時、大衆と結んだ社会主義が生まれるとした。いわゆる江田ビジョンである。これが新聞報道されると、話題となり、江田は雑誌『エコノミスト』にこの話をもとにした論文を発表し、世論の圧倒的な支持を得た。

しかし、社会党内では、従来の社会主義の解釈を逸脱するものとして批判され、江田は書記長を辞任して、組織局長に転じた。

この中で江田ビジョンですら「徹底した生活保障」としてソ連を目標の一つとしたが、ソ連は1991年12月25日に大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、同時に各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦は解体され消滅した。

ソ連による「壮大な実験」が失敗した事により日本社会党もほぼ消滅したではないか。

私の父は秋田県で若いときから小作争議の先頭に立ち、戦前から社会主義者だったらしい。従って戦後は率先して日本社会党員として奔走していた。母も同調していた。

しかし私は社会党が農民の暮らしを楽にする政党と言うなら村中が党員になるはずなのに、投票すらしない。社会党の主張は何時まで経っても実現しない、これは宗教団体に過ぎないと反発した。

それでも大学では労働運動史や賃金論を一所懸命学んだが、ついに運動に走らずに済んだ。卒業が1958年だったので「60年安保」に巻き込まれることも無く済んだ。既にNHK仙台で記者として働いていた。

しかし、人生の終盤に至って考えれば、要するに私は人に説得されない性格のようであって、先輩や周辺も初めから匙を投げていたのかもしれない。

併せて父母や法政大学が反面教師になってくれて助かったのかもしれない。


   

2015年01月21日

◆中国にウォシュレット?

渡部 亮次郎



中国人は用便中を他人に見られて平気だ。それに手は滅多に洗わない。日中国交回復のための田中角栄首相の同行しての初訪中(1972年9月)。

このとき万里の長城行きの取材バスに乗り遅れて、特別車を仕立てて後を追いかけたら、天安門から5分も走らぬ北京市内で、肥え桶を担ぐ人に出合って驚いた。まさか日本人記者が来るとも知らずに共産党は通行を許可したのだ。

しかし、次の場面では、それこそ仰天した。万里の長城に登り始めるところにある公衆便所である。仕切りが全く無い。体育館みたいな広さの床に四角い穴が何十もあけられ、人々は他人に尻穴を見せながら用を足すのである。しかも手を洗う水はどこにも無い。

そういえば、街の食堂で料理人はトイレに立っても、事後に手を洗わない。おそらく、中国では水が少ないので、手洗いの習慣が無いのだろう。

そういう中国で、どれほどかは知らないが、用便後、便座にすわったままで尻を洗える「ウオシュレット」が売れているというから、やや驚きだ。改革・開放が尻にまで及んだか。驚き以外の何物でもない。

洗った尻は汚れていないのだからと、ますます手を洗わなくなる事を恐れて、出来ることなら、中国へは行きたくないものだ。

「ウォシュレット」は、TOTOが販売する、温水洗浄便座の登録商標及び商品名である。しかし、世界では日本しか普及していなかったから、大臣に随行して外国出張を重ねていた外務大臣秘書官の時代は携帯水洗器を持ち歩いたものだ。

TOTOのウオシュレットは発売が1980(昭和55)年6月。以来、2005年6月には累計販売台数が2000万台を突破した。

2006年10月現在、中国・香港・台湾・韓国・ベトナム・シンガポール・インド・ドバイなどの中東地域・アメリカ・カナダで販売されている。

『頂門の一針』常連執筆者平井修一さんが紹介するワシントン・ポストの記事によると、インドでは人口のおよそ半分の6億6500万人がトイレに不自由しているというから、TOTOの市場は世界にまだ相当残っているわけだ。

最近のアメリカやヨーロッパの方面での実際の普及状況はわからない。古くて歴史を誇るホテルではどうだろうか。古くからビデ完備だったパリのオテル・クリヨンでもウオシュレットを取り付けたろうか。

「ウオシュレット」は温水洗浄便座では高いシェアを誇り、INAX(同社の名称はシャワートイレ)や他社製の同種類のものも含め、「ウォシュレット」と呼ばれるほど定着しているが、ウォシュレットの名称は先に述べた如くTOTOの登録商標(日本第1665963号)であるため、注意が必要だ。

TOTOは1960年代に米国からの輸入によって温水洗浄便座(ウォッシュエアシート)の販売を行っていた。主に病院向けに医療用や福祉施設用に導入されていたものである。

1969年にはこれを国産化したが、当時は販売価格も高く、なおかつ温水の温度が安定しないために火傷を負う利用者もいた。

男装で有名だった女流作家が、ビデを使ったらなんと熱湯が出てきて大火傷をした。係りが呼び出されて謝罪したが、男装なのに、あそこは男性でなかったのかと、帰り途で2人で大笑いしたという話を耳にしたことがある。

TOTOは独自に研究開発を進め、清潔好きな土壌を持つ日本での普及が見込めることなどから、1980年に2機種の設定によって発売を開始した。

特に、肛門位置などの数値データは存在していなかったので、社員などの協力を得てデータを収集し、噴出位置を設計するという工夫をこらした。

温水貯蔵式でおしり洗浄のほか、乾燥と「ウォームレット」の機能である暖房便座機能を持つ「Gシリーズ」(Gはゴージャスの意)と、水を瞬間式で温水にし、おしり洗浄と暖房便座機能に絞った「Sシリーズ」(Sはスタンダードの意)の2種類がある。

以後現在まで基本モデルはこの2種類で、これにコンパクトシリーズが1993年以降追加されるようになった。また、便器の大きさによって、レギュラー(標準)サイズとエロンゲート(大型)が用意されている。

1982年には、当時話題のタレント・戸川純を起用したCMで、コピーライター仲畑貴志による「おしりだって洗ってほしい」のキャッチコピー(第2弾コピーは「人の、おしりを洗いたい」)、その独特のCM中の歌によって一気に知名度を高めた。

CMについては、初回の放映時間がゴールデンタイムであったことより、視聴者から「今は食事の時間だ。飯を食っている時に便所の宣伝とは何だ!」などとクレームが入り、おしりという言葉を使用したことなどについても批判されたが、それを乗り越えるだけのインパクトがあった。

以後、すべてのラインナップで着座センサーを導入した(それまでは着座していなくても温水が噴出した)。ふたの自動開閉や便器洗浄、さらには消臭、脱臭、芳香の機能の搭載にも成功した。

ウォシュレットを装備した一体形便器(商品名「ネオレスト」「Zシリーズ」など)の登場、また住宅用に限らず公共施設やオフィス、ホテル用のラインナップも整備された。

抗菌・防汚にも配慮がなされ、ノズル部分は肛門から跳ね返ってきた温水が周囲に掛からないような角度(43度、ビデは53度)に設定されており、格納時やおしり洗浄前にノズルを温水で洗浄する機能も付属している。

また、おしり洗浄とビデ洗浄では吐水する配管も変えられている。他にも、省エネルギーにも配慮して節電機能を設けたほか、操作部も一部機種では壁付けの別体リモコンの採用で使いやすくするなどの改良が加えられている。

また2005年10月には音楽のMP3再生機能が備わったウォシュレットが発売されるなど、多機能化が進んでいる。このようなトイレの多機能化は日本独特のものであり、世界的にはこのような便座はまだ普及しているとはいえない。

歌手のマドンナが2005年に来日した時、彼女は「日本の暖かい便座が懐かしかった」とコメントしている。

しかし、マドンナの発言から類推するところ、アメリカでの急速な普及は想像できない。ヨーロッパ各国でも同様ではないか。日本人は、極端と言われるほどに清潔好きなのだ。

1998年には累計販売台数1000万台を突破したが、この頃から多くの便器で装備するようになり、以後7年で倍の2000万台に達した。他社製品も含めれば、普及率は6割程度まで伸び、新規に建設されるオフィスビルでも標準的に取り付けられるようになっている。

2015年01月20日

◆NHK毛虱物語

渡部 亮次郎



NHKは41歳の冬まで19年間を記者として過ごした職場だが、最近は不祥事続きで料金を払わない視聴者が増えたそうで、組織としては落ち目である。学生たちの就職希望ランキングから滑り落ちることおびただしいものがあるそうだ。なんでこんな事にと思い巡らすうちに仲間が毛虱(けじらみ)と呼ぶ人物に思い当たり、あの男こそが真犯人だと気付いた。たった1人の人物こそがNHK転落の犯人なのである。

30年近くも前に途中退職した身だから、彼に面識は無い。私の目から見て実に全うな人物と思う後輩は彼のことを「毛虱(けじらみ)」と言って軽蔑し、一切、交際しない。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、<毛虱は吸血昆虫で成虫の大きさは1mm〜2mmで肉眼的には、陰毛の毛根にしがみついている時は「シミ」に、陰毛を移動中には「フケ」にしか見えないため、発見には苦労する。

成虫は陰毛の毛根にフック状の鈎爪で身体を固定して皮膚から吸血する。卵は陰毛に粘着している>。

なるほど云い得て妙である。社内の出世頭の陰部に寄生し、栄養を蓄え、主の力をひけらかして己も出世して行く。出世が始まると虎の威を借る狐宜しく威張り散らして頂上を目指す。

≪虎が狐をとらえて食おうとしたところ、狐が「自分は天帝の使いだから、喰うと天帝に背くことになる。その証拠に自分の後についてきて御覧なさい」という。

一緒に行くと百獣が自分を怖れて逃げるのを知らず、愚かにも狐の言葉通りだと思ったと言う。「戦国策--楚策」にある寓話による≫

彼が何故「狐」でなく「毛虱」かと聞いたところ、出典はその昔のシマゲジ騒動にあった。

<政治記者出身の島桂次は1989年4月、NHK会長に就任。任期中は衛星放送の本放送を開始したり、NHKエンタープライズなどの関連会社を活用した商業化路線を進めたりした。

島会長によるNHK商業化路線は、NHKに民間の手法を導入することによって番組の質を向上させ、受信料に頼らない経営で国際的なメディア戦争に生き残ろうとしたとの評価がある一方、金儲け第一主義で公共放送のあり方を歪め、2004年から相次いだ不祥事の元凶をつくったとする批判もある。

1991年4月、放送衛星の打ち上げ失敗の問題を巡って、国会の逓信委員会で滞在場所について虚偽の答弁をしたことが問題となり、7月に会長職を引責辞任した。ちなみに問題を追及したのは当時逓信委員長だった野中広務である。

会長辞任後1996年6月23日、急性呼吸不全のため死去。68歳。>フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

毛虱氏はこのとき、野中氏と組んで、島追放に大いに実績を挙げた。解説者によると島氏は後輩の海老沢勝二氏に寝首を掻かれる恐怖感に駆られ海老沢氏を理事の地位から外郭団体の社長に追放。そこで海老沢氏は島氏に敵意を持ったとされる。事実かどうかは分らないが、普通はそうなる。

その時、毛虱氏は海老沢側近となり、島への復讐劇を演出、遂に成功する。その時、当然ながら海老沢氏の恥部を把握、いうなれば海老沢褌の中で毛虱として生息し始めたのである。海老沢氏は会長として復活。毛虱氏を寵愛せざるを得なくなった。

担当は国会。NHKは政府の監督を受け、予算を国会に握られているため、その対応の指揮をとる部局の存在意義は高く、責任者たる毛虱氏の存在は大きかった。そこで事件が起きた。というよりも毛虱氏の自作自演である。

朝日新聞がすっぱ抜いた番組改編事件。女性団体が2000(平成12)年12月、慰安婦問題を取り上げた民間法廷を開催。NHKが翌01年1月、特集番組でこの法廷について放送したが、内容について事前に安倍官房副長官(当時)と中川昭一氏が容喙して変更させたとするもの。

インテリがNHKに番組内容の変更を事前に求めたら如何なることが起きるかを知悉しているから、そのようなことをあの2人がやれるわけが無い。それをしもやる目的もないし、度胸も無い。

田中角栄はやった。政権批判を続ける政治記者渡部亮次郎が邪魔なので口実を設けて地方へ左遷するよう竹下登氏を通じてNHK政治部長に申し入れ、NHKは渡部の辞表を受理せず、大阪に飛ばした。それ1回きりである。

ところが毛虱氏は狐への変身を図った。予算案の説明に行ったら安倍官房副長官(当時)と中川昭一氏が、あの番組を批判していたよ、と局内に流した。ありもしないことをでっちあげて番組制作部局を脅したのである。毛虱が狐に化けた瞬間だった。

政界や国会の事情に疎いディレクターたちは震え上がり、担当者は狐を虎と思い込み朝日新聞に垂れ込んでしまった。裁判まで起こされ、2007年1月29日には東京高裁でおかしな判決まで出され、200万円の損害賠償を命じられ、上告する騒ぎになっている。

事件の後、毛虱氏はとうとう理事(役員)に上り詰めたが、虎(海老沢)が途中退陣したため狐も途中で辞めた。しかし己の欲望のためにはNHKの組織なんかどうなってもいいとする毛虱式の風潮はNHKの内部に広く深く蔓延した。モラルとは一朝にして崩れる。一大不払い運動を招き寄せる結果となって今に至る。

しかも毛虱氏は虱らしく退職後も今度は外郭団体に潜りこんだ。流れてくる情報では好き勝手をやって職員を腐らせている。毛虱氏本人に犯人意識は無いから、自分がNHK周辺にいる限りNHKが衰退して行くことを知らない。だから私も毛虱氏の本名も顔も知らない。


     

2015年01月19日

◆したたか大阪人服部良一

渡部 亮次郎



大阪出身の作曲家服部良一(はっとり りょういち、1907年10月1日―1993年1月30日)は、日本の作曲家、編曲家、作詞家(「村雨まさを」名義で作品を出している)。大阪府大阪市平野区出身。

ジャズで音楽感性を磨いた、和製ポップス史における重要な音楽家の一人と「ウィキペディア」。名曲「青い山脈」「東京ブギウギ」を残した大作曲家だが、戦時中、内務省の検閲を欺いた「大物」とは誰も書かない。

「夜のプラットホーム」は戦後の昭和22年に発表され、大ヒットしたが、実はもともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。

1939年(昭和14年)公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷が吹き込んだ。だが、戦時下の時代情勢にそぐわないと内務省の検閲に引っかかり、同年に発禁処分を受けた。理由は「出征する人物を悲しげに見送る場面を連想させる歌詞がある」だった。

作詩 奥野椰子夫  作曲 服部良一
1 星はままたき 夜ふかく なりわたる なりわたる
 プラットホームの 別れのベルよ  さよなら さようなら
 君いつ帰る

2 ひとはちりはて ただひとり  いつまでも いつまでも
  柱に寄りそい たたずむわたし  さよなら さようなら
  君いつ帰る

3 窓に残した あのことば  泣かないで 泣かないで
  瞼にやきつく さみしい笑顔  さよなら さようなら
  君いつ帰る

昭和13年の暮、東京・新橋駅で出征兵士を見送る歓呼の声の中に、柱の陰で密かに別れを惜しむ若妻の姿。それに心を打たれた都新聞学芸記者奥野椰子夫。

作詞家としてコロムビアに入社して翌年1月に「夜のプラットホーム」として書きあげ、服部良一が作曲、淡谷(あわや)のり子が吹き込んだのだったが、発売禁止。

だが、曲に愛着をもつ服部が一計を案じた。検閲官を欺こうというのである。レコードが輸入盤なら検閲を潜られる制度だったので、2年後の1941年(昭和16年)、「I'll Be Waiting」(「待ちわびて」)というタイトルの洋盤で発売した。

作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。

R.ハッターこそは良一・服部が苗字をもじって作った変名で、ヴィック・マックスウェルは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていたドイツ系のハーフの男性の変名だった。

策略はまんまと当り、この曲は洋楽ファンの間でヒットした。当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カロ楽団によってレコーディングされた。

このとき服部は、やはり先に発売禁止になった「鈴蘭物語」(作詞藤浦 洸, 唄淡谷のり子)を「Love‘s Gone(夢去りぬ)」作曲R・ハッターとしてB面に収録。人々はこれも外国曲として愛好した。内務省は服部にしてやられたのである。

肝腎「夜のプラットホーム」は検閲の無くなった昭和22年、二葉あき子が歌って大ヒット。それまでの歌手活動の中、ヒットはあったものの大ヒット曲のなかった二葉にとっては待ち望んでいた朗報であった。

「夢去りぬ」の方は霧島昇が歌いなおして、これまた大ヒットした。

服部良一は大阪の本庄で土人形師の父久吉と母スエの間に生まれた。小学生のころから音楽の才能を発揮したが、好きな音楽をやりながら給金がもらえる出雲屋少年音楽隊に一番の成績で入隊する。

1926年にラジオ放送用に結成された大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団。ここで指揮者を務めていた亡命ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテルに見出され、彼から4年にわたって音楽理論・作曲・指揮の指導を受けた。

1936年(昭和11年)にコロムビアの専属作曲家となった。やがて、妖艶なソプラノで昭和モダンの哀愁を歌う淡谷のり子が服部の意向を汲みアルトの音域で歌唱した『別れのブルース』で一流の作曲家の仲間入りを果たす。

その後ジャズのフィーリングをいかした和製ブルース、タンゴなど一連の和製ポピュラー物を提供。淡谷のり子は『雨のブルース』もヒットさせ「ブルースの女王」と呼ばれた。

その後、霧島昇・渡辺はま子が共演し、中国の抒情を見事に表現した『蘇州夜曲』、モダンの余韻を残す『一杯のコーヒーから』、高峰三枝子が歌った感傷的なブルース調の『湖畔の宿』(発売禁止)など、服部メロディーの黄金時代を迎えた。

だが、大東亞戦争中は不遇。戦後は大活躍した。古賀政男がマンドリン・ギターを基調にした洋楽調の流行歌から邦楽的技巧表現を重視した演歌のスタンスへと変化したのに対し、

服部良一は最後まで音楽スタンスを変えることなくジャズのフィーリングやリズムを生かし、和製ブルースの創作など日本のポップスの創始者としての地位を確立した。

日本のポップス界隆盛の最大の功労者である。曲自体も歴史的価値は別にしても今日でも全く魅力を失っていないものが多く、その意味では海外のクラシックやスタンダード・ポップスの巨人と並べて語るべき存在ともいえる。日本レコード大賞の創設にも尽力した。

1993年1月30日、呼吸不全のため死去。享年85だった。死後、作曲家としては古賀政男に次いで2人目の国民栄誉賞が授与された。なお『青い山脈』を歌った藤山一郎も国民栄誉賞を受賞している。

2007年12月30日、第49回日本レコード大賞にて特別賞を受賞。

息子は作曲家の服部克久と俳優の服部良次がおり、孫に服部隆之(服部克久の長男)、バレエダンサーの服部有吉(服部良次の息子)がいる。妹は歌手で服部富子(故人)。

出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年01月18日

◆誕生直後に2・26事件発生

渡部 亮次郎



1月13日で79になった。79年前、1936年のこの日に雪国秋田の八郎潟沿岸の米作農家の寝床で誕生した。渡部慶太郎・鈴江の次男だが三男として届けられた。次男琢次郎が夭折していたためである。次男のピンチヒッターだ。

今年の誕生日は成人の日の翌日の火曜日だったが1936年には月曜日だった。私のあとに妹2人、弟1人が生まれて姉と兄とを合わせて6人きょうだい。全員生存といいたいが兄誠一郎が2012年に死んだ。

私が生まれて約1ヶ月後、有名な「2・26事件」が起きた。皇道派青年将校によるクーデタである。以下、世界大百科事典第2版からの引用である。

1936年2月26日に起こった皇道派青年将校によるクーデタ。満洲事変開始前後から対英米協調・現状維持的勢力と,ワシントン体制の打破をめざし国家の改造ないし革新をはかる勢力との抗争が発展。

さらに後者の最大の担い手である陸軍内部に,国家改造にあたって官僚・財界とも提携しようとする幕僚層中心の統制派と,天皇に直結する〈昭和維新〉を遂行しようとする隊付青年将校中心の皇道派との対立が進行した。

1934年士官学校事件による皇道派の村中孝次(たかじ)・磯部浅一の免官,35年7月皇道派の総帥真崎甚三郎教育総監の罷免,8月相沢三郎中佐による統制派のリーダー永田鉄山軍務局長の斬殺殺などで,両派の対立は激化の一途をたどった。

皇道派青年将校は,拠点である第1師団の満州派遣が決定されると,現状維持派の政府・宮廷の要人および統制派の将領を打倒する〈昭和維新〉の決行につきすすんだ。

36年2月26日早暁,皇道派青年将校は歩兵第1・第3連隊,近衛歩兵第3連隊など1473名の兵力を率い(ほかに民間人9名が参加),おりからの降雪をついて,要人を官邸または私邸に襲撃した。

栗原安秀中尉の部隊は首相官邸で首相秘書の松尾伝蔵予備役陸軍大佐を殺害,これを岡田啓介首相と誤認した(岡田は女中部屋の押入れに隠れ,翌日弔問客にまぎれて脱出した)。

坂井直(なおし)中尉の部隊は斎藤実内大臣と渡辺錠太郎教育総監を,中橋基明中尉の部隊は高橋是清蔵相をいずれも殺害し,安藤輝三大尉の部隊は鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせた。

また野中四郎大尉の部隊は警視庁を,丹生誠忠(にゆうよしただ)中尉の部隊は陸相官邸付近をそれぞれ占拠し,襲撃を終えた他の部隊とともに鵬町区南西部の政治・軍事の中枢を制圧した。

さらに栗原らは反軍的とみなした東京朝日新聞社を襲って,活字ケースをひっくり返した。このほか河野寿(こうのひさし)大尉らの別働隊が湯河原滞在の牧野伸顕元内大臣を襲撃したが失敗し,牧野は脱出した。

村中,磯部らは川島義之陸相に面会を強要し,国家改造の断行を迫った。真崎,荒木貞夫大将,香椎浩平(かしいこうへい)東京警備司令官らは決起に同情的態度をとり,決起を容認するかのような文言の陸相告示が出され,クーデタ部隊は〈警備部隊〉に編入。

さらに27日午前3時東京市を区域とする戒厳令の施行によって〈鵬町地区警備隊〉となり,兵站給養をうけた。しかし青年将校らは軍首脳部の〈善処〉をあてにして,蜂起後の計画を明確に立てておらず形勢の逆転を許した。

 36年2月26日早暁,皇道派青年将校は歩兵第1・第3連隊,近衛歩兵第3連隊など1473名の兵力を率い(ほかに民間人9名が参加),おりからの降雪をついて,要人を官邸または私邸に襲撃した。

栗原安秀中尉の部隊は首相官邸で首相秘書の松尾伝蔵予備役陸軍大佐を殺害,これを岡田啓介首相と誤認した(岡田は女中部屋の押入れに隠れ,翌日弔問客にまぎれて脱出した)。

坂井直(なおし)中尉の部隊は斎藤実内大臣と渡辺錠太郎教育総監を,中橋基明中尉の部隊は高橋是清蔵相をいずれも殺害し,安藤輝三大尉の部隊は鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせた。

また野中四郎大尉の部隊は警視庁を,丹生誠忠(にゆうよしただ)中尉の部隊は陸相官邸付近をそれぞれ占拠し。

襲撃を終えた他の部隊とともに鵬町区南西部の政治・軍事の中枢を制圧した。さらに栗原らは反軍的とみなした東京朝日新聞社を襲って,活字ケースをひっくり返した。

このほか河野寿(こうのひさし)大尉らの別働隊が湯河原滞在の牧野伸顕元内大臣を襲撃したが失敗し,牧野は脱出した。

村中,磯部らは川島義之陸相に面会を強要し,国家改造の断行を迫った。真崎,荒木貞夫大将,香椎浩平(かしいこうへい)東京警備司令官らは決起に同情的態度をとり,決起を容認するかのような文言の陸相告示が出され,クーデタ部隊は〈警備部隊〉に編入。

さらに27日午前3時東京市を区域とする戒厳令の施行によって〈鵬町地区警備隊〉となり,兵站給養をうけた。しかし青年将校らは軍首脳部の〈善処〉をあてにして,蜂起後の計画を明確に立てておらず形勢の逆転を許した。

天皇は重臣殺傷に激怒し,海軍も激しく反発,杉山元(はじめ)陸軍次官,石原莞爾(かんじ)作戦課長らの陸軍主流はカウンター・クーデタの方向に結集した。

27日〈占拠部隊〉撤収の奉勅命令が下され,28日〈反乱部隊〉武力鎮圧の命令の下達により,29日約2万4000の大軍が反乱軍を包囲し,戦闘態勢をとるとともに,ラジオ放送や飛行機のビラなどで帰順を勧告した。

青年将校らは奉勅命令に動揺し,目的をよく知らされないまま連れ出された下士官・兵士は〈兵に告ぐ〉の呼びかけをうけて続々と帰順,青年将校らは逮捕された。また皇道派の理論的指導者北一輝および西田税(みつぎ)らも逮捕され,クーデタは失敗した。

陸軍首脳部は当初反乱を容認するかのような措置をとった失態を隠し,事件に対する非難をそらすため,青年将校らを極刑に処す方針をとり,一審制・非公開・弁護人なしの特設軍法会議で,7月5日17名に死刑の判決を下し,12日うち15名を処刑,翌37年8月19日北,西田,村中,磯部を死刑に処した。

この間〈粛軍〉人事により皇道派系分子は一掃され,寺内寿一(ひさいち)陸相ら新統制派が陸軍主流として実権を掌握し,事件の威圧効果を利用して広田弘毅内閣の組閣に干渉,軍部大臣現役武官制復活など軍部の政治的発言力の著しい強化をもたらした。

結局,統制派的勢力は,皇道派のクーデタを利用したカウンター・クーデタにより,皇道派を環(ほふ)るとともに対英米協調的勢力を屈伏させ,圧倒的優位を築いたのである。


2015年01月17日

◆ボルシチの無い理由

渡部 亮次郎


ロシア料理ではボルシチが美味しいといわれているので、その昔モスクワを訪れた際に捜したが、高級レストランには無かった。あれは家庭料理だからである。

ボルシチは赤蕪を主とし、肉、野菜を多くしたロシア風スープ。夏の短いロシアでは野菜は勿論、野菜屑までも有効に食べてしまおうと考えて出来たスープなのである。高級レストランで出すわけが無い。まして訪問時期が真冬とあっては、益々出るわけがない。

このとき泊まったのはモスクワ市内にあるクレムリンの第1号迎賓館。朝からトマトと胡瓜が山のように出た。真冬のロシアでトマトと胡瓜、なぜだ。雪の中で石油を燃やして育てた野菜。歓迎のしるしなのだ。

そうかと思うとフランス人は食用カタツムリつまりエスカルゴが大好きだ。エスカルゴと言う名のレストランがパリにはあった。注文したら一皿に12個も盛ってきた。東京では6個なのに。そういえば北京には北京ダック専門レストランがあった。

潰したニンニク片にまぶしただけのカタツムリ。食通には上等な味とされていて、精力材として食べる人もいるようだ。識者によればカタツムリは陸にいる「貝」なのだそうだ。

昔、九州のどこかでは、温泉の排水を利用し、南米のアルゼンチンから輸入したエスカルゴを養殖して成功したという話を聞いたことがある。温水が効いた。池にキャベツの葉などを投げてやると猛然と食いつく。その大音たるや、とてもカタツムリの立てる音とは思えなかったそうだ。なるほど精力材かもしれない。

アジアの精力材はニンニクだが、ニューヨークでは断然牡蠣(かき)だ。今夜、オイスター・バーでどうですか、というのが口説き文句になっているほど。マンハッタンの中央駅の地下に大仕掛けの牡蠣専門レストランがあり、いつでも満席だ。

広いアメリカ。東西南北、年中、どこかの海で牡蠣はとれる。日本のように「R」の付く月以外は食べてはいけないなんてことはない。わが郷里秋田の海岸では8月半ばに天然牡蠣をとるが。

ニューヨークのオイスター・バーは不景気を知らない。この駅の鉄道創業者が大の牡蠣好きだったことから、牡蠣専門レストランを地下に開業させたのだという。

2015年01月16日

◆インスリンに思う

渡部 亮次郎



日本の政界の糖尿病が登場するのは確かに1945年の敗戦後である。「オラが大将」の子息で山口県知事もした田中龍夫元文部大臣は公務の合間を縫って日に何度も注射のため医者に通っていた。

田中角栄、大平正芳、伊東正義、園田直、田中六助皆糖尿病が元で死んだ。脳梗塞、心筋梗塞、腎不全、網膜症、癌を併発するのが 糖尿病患者の末路だからである。

1921年7月30日にインスリンが発見され、人類に測り知れない恩恵をもたらした。欧米ではすぐに患者自身が自己注射が始まった。だが日本では「危険」を理由に医者の反対で厚生省が許可しなかった。患者の中には日に3度も医者通いを余儀なくされた。

仮に自己注射が許可されていれば、医療器具業者は競って注射器の簡略化や注射針の改良に取り組んだ筈である。だが厚生省(当時)の役人たちは日本医師会に立ち向かおうとはしなかった。

わたしが秘書官となって厚生大臣として乗り込んだ園田直は1981年、敢然として自己注射を許可した。その結果、注射器はペン型となり、針も世界一細い0・2ミリになって殆ど無痛になった。

だがとき既に遅し。園田本人は自分の決断の恩恵に浴することなく腎不全に陥り、僅か70歳で死んだ。1984年4月2日の朝だった。

糖尿病は多尿が特徴なので、長い間、腎臓が原因と考えられていた。糖尿病最古の文献はB.C1500年のエジプトのパピルスに見られる記述だ。日本で記録のある最も古い患者は藤原道長である。

「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだ、平安時代中期の公卿である。康保3年(966年)―万寿4年12月4日(1028年1月3日))62歳薨去した。

当時としては意外な長生きである。糖尿病を放置した場合、実際より10年は短命になるとされているから、当時としては大変な長命というべきだろう。それにしても満月のような権勢も病には勝てなかった。

昔から糖尿病の尿は甘く糖分を含んでいる事は良く知られていたが膵臓がどのような働きをしているか、どれほど重要な臓器か不明の時代が長く続いた。

突如、1869年にLanngerhans島が発見された。それから20年たった1889年、ドイツ人のMeringとMinkowskiは史上初めて、犬の膵臓を摘出したあと、高血糖と尿糖が出現することを発見し、やっと膵臓と糖尿病が切っても切れない関係があることを証明した。

その後ジョンズホプキンズ大学のOpie博士が、このランゲルハンス島は内分泌器官であり、糖尿病が関係することを明らかにした。膵臓のランゲルハンス島から出ているのがインスリン。それが少ないとか、全く出ないのが糖尿病と判りだしたのだ。

そこからインスリン発見の物語は更に後である。

人類に測り知れない恩恵をもたらしたインスリンの発見物語の主人公はBanting &Bestの2人のカナダ人である。苦しい実験を重ねてインスリンを発見したのだがこの2人は当時全くの無名だった。

Frederick Bantingは1891年、カナダの農家に生まれ、1916年トロント大学医学部を卒業し医者になった。

ある日彼は「膵臓結石で膵管が完全に閉ざされた症例」ー膵臓の腺細胞は萎縮しているのにランゲルハンス島だけは健全であったーという論文を読んだ。

それなら結石の代わりに手術で膵管を縛ってしまえばよいと彼は考えた。

膵管を縛るという考えは天才的な閃きだった。彼は自分のアイディアを実すべく、トロント大学の生理学者 Macleod教授を訪ねた。このとき、助手として学生のC.H.Bestを推薦された。

早速実験が始められた。膵管結縛の手術は難しく、内分泌を抽出するのはさらに難しい。

彼らは1921年7月30日に初めて抽出エキスを犬に静脈注射してみた。効果は覿面だった。そこで彼らはこの物質をインスリンと命名した。

しかしこのBantingとBestの苦心の作も、まだまだ不純物が多く、実用には耐えなかった。その後安全に血糖を下げることが可能になったのは生化学者 Collips博士が、粗雑な抽出物を人間の使用に耐えるように精製した結果だった。

1923年のノーベル生理、医学賞はBantingと教授Macleodに決定した。

2005年の国際糖尿病連合の発表によると、アメリカ人のなんと20%が糖尿病の疑いありで、60歳以上の老人に限れば20%強が糖尿病に罹患している。

アメリカに住む白人種に限っても糖尿病患者は確実に8%を越え増加の一途を辿っている。

21世紀が進行し始めるとヨーロッパとアメリカという、今までは罹患率が極めて少ないと言われていたコーカソイド人種全体に糖尿病が一気に蔓延しはじめた。

これはアメリカの高脂肪、高蔗糖、高エネルギー食がグローバル化し、ヨーロッパもその例外でない事をしめしている。

19世紀末までコーカソイドである白人種たちは国によって糖尿病発症率が低かった。しかしこれから20年以内にはヨーロッパもアメリカも糖尿病激増で悲鳴をあげるだろうといわれている。

1000年はおろか数百年前にDNA の中に眠っていた遺伝子が社会環境の激変で目覚めたのである。さらに遺伝子とは関係なく運動不足も大いに影響している。

2004年、アメリカでゲノム研究者が2型糖尿病(中年に発症)の遺伝子を発見したことが報じられた。これは飢餓遺伝子とは関係ないと考えられている。

日本人の場合、江戸も中期以降になると、庶民の間でも1日3食の食習慣が成立したが、明治維新までウシも豚も常食として食べる習慣が全くなかった。つまり高血糖の原因となる高カロリー、高タンパク、高脂肪食とは無縁な栄養学的にはかなり貧困な食生活が300年以上続いたのである。

一方、1850年ごろからヨ−ローパ人は大量生産方式の牧畜産業勃興と発展により肉食が一般市民階級に広く普及した。日本人が反射的に頭に思い描くヨーロッパ風の肉中心の食事スタイルの成立だ。

それでも当時ですら日本人比べるとヨーロッパ人の体格は立派であったのだから、その後の食生活の100年が生み出した肉体的格差は想像以上の結果を生んだのだ。

日本では第2次大戦後、それも戦後20年たって、やっと高エネルギーと高脂肪食をとりいれた結果、糖尿病が急上昇で増加した。わずか30年から40年の食生活の変化だ。

日本人の中に眠っていた飢餓遺伝子が飽和脂肪の刺激を受けて目覚めた結果である。世界中の人類に共通の現象で別段、驚くべきことではない。経済の高度成長と糖尿病患者の趨勢は同一だ。

だから中国では物凄い勢いで糖尿病患者が増えている。精々鶏を食べていたものが、1切れでその何倍ものカロリーのある牛肉を食えば、報いは当然、肥満と糖尿病など生活習慣病である。毛沢東語録にはない。

出典:さいたま市大島内科クリニック「インスリン発見物語」
http://members.jcom.home.ne.jp/3220398001/discovary/index.html  
 文中敬称略 

2015年01月15日

◆スギ花粉症が治った

渡部 亮次郎



東京の川向う(隅田川左岸)に住んでいるが、ここには杉など1本も植わっていない。それなのに10年ほど前、突然杉花粉症にかかって苦しんだ。遠く多摩地方の杉林から飛んでくる杉花粉にやられたのだ。

それが突然に治った。医者も珍しがる珍現象だと思うが、それは今、密かに流行っている植物性乳酸水が効いた以外に考えられない。

私の花粉症は毎年2月末から3月初めに始まっていた。朝からくしゃみ、涙目、水っ洟の連続。偶然乗ったタクシーの運転手さんに教えられて、数年後にはある種のホルモン剤を注射して防止していたが、2007年は症状が全く出なかった。これはこの年が花粉の飛散量が極端に少ない年という気象庁の説明どおりで、良かったと合点していた。

ところで今年。例年になく花粉の飛散量は多量との予報。だからホルモン注射にそろそろ行こうと覚悟していたが,1度もくしゃみをせぬうちに気がつけば既に梅雨。もはや花粉症はシーズンそのものが終わっていた。つまり、いつの間にか私の杉花粉症は全快していたのである。

1度かかったら一生治らないのは糖尿病と同じといわれている花粉症。それから脱出出来た事例がここに出来したのである。何もしないのに、治った。くしゃみも、涙目も、水っ洟もどこかへ飛んで行ってくれた、良かったよかったと、梅雨入りの日に祝杯を挙げた。それにしても何故?

はたと膝を打った。一昨年から日にグラス1杯ずつ飲み始めた植物性乳酸水。血糖値抑制に効くと聞いて呑んでいるが、そういえばこれはアトピーにとても効果があると聞いていた。だから花粉症にも効いたのではなかろうか。

だが医学的に証明されているわけでは無いから宣伝するわけには行かない。仮にも元厚生大臣の秘書官が薬事法違反の片棒を担ぐわけには行かない。だがそれ以外に納得できる事実は無いのだから、話題ではあるだろう。

スギ花粉症になるのは日本人では5人に1人。東京都知事石原慎太郎さんもそうだと告白していた。

日本でスギ花粉症の症例が報告されたのは全く新しい。東京オリンピックの前年昭和38(1963)年である。記録を言えば栃木県日光の杉並木が植えられたのは17世紀だから、杉花粉は17世紀から飛んでいた。しかし杉花粉症が発症したのは20世紀も後半だ。300年の間、日本人は花粉症をなぜ発症しなかったのだろうか。

これについて東京医科歯科大学名誉教授藤田紘一郎氏はNHKラジオなどに出演して「17世紀の日本人は回虫にかかり、いろんな細菌がいましたから、それがアレルギーを抑えていたのです。

ぜんそく、花粉症、アトピーは1950(昭和25)年には全くなかった。それが1965(昭和40)年以降急激に増え出した。1950年の回虫感染率は62%でした。回虫の感染率が5%を切った1965年から増えだしたわけです」と断言している。

さらに藤田氏は驚くべき事例を挙げてサナダムシの効き目を説明しているのだ。

<15歳の女の子ですが顔がアトピーでタダレて人前にも出られず、3度自殺しかけたというのです。そこで、私にサナダムシで治療して欲しいというのです。

その子にサナダムシを飲ませ、ナオミと名前をつけ、お腹にナオミちゃんがいるんだから勝手に自殺してはいけないと諭しました。その後彼女はだんだんアトピーが治り早稲田大学に入りました。

西洋医学の功績が非常に大きいのは、1つの原因を1つの物質で治すということだと思います。たとえば、糖尿病はインシュリンの分泌が足りないから起きますので、インシュリンを与えればよいということです。

西洋医学で手をつけられないのは免疫のバランスが重要因子である疾患です。アレルギーとガンは免疫の両極端にあります。日本癌学会は何十億円と使って研究していますが、ガンの発生を止めることはできていません。

アレルギー学会も何十億円と使っていますが、毎年アレルギー患者が増えています。今こそ、東洋医学的な発想が必要です。東洋医学とは個人個人のバランスを見る学問です。

西洋医学では風邪を引けばみんな同じ薬が出ますが、東洋医学では脈をとり、舌を見てその人がどのようにバランスが崩れているかを見て、そのバランスを正しくすることによって病気を治そうということです。

西洋医学的な考え方で足りないことは「自然治癒力」という概念です。それをもっと大切にしなければなりません。自然治癒力とは、自然の中で生きてきた力です。

私たちは地球上で40億年生きています。抗生物質が発見されて高々100年ですが、もう限界が出ている。自然治癒力、たとえば皮膚常在菌というのは皮膚に棲んでいて皮膚を守っている。

腸には腸内細菌が百兆個もいて、腸内環境を正しく保っているのです。女性の膣の中にはデーデルライン乳酸菌という細菌がいて膣を守っている。

寄生虫はみんな悪者かというとそうではないのです。人の寄生虫は人の中でしか子供を産めないわけですから、人の寄生虫は人を大事にするわけです。

寄生虫、ウイルス、細菌というのは独りでは生きられない。必ず宿主が必要です。だから、その宿主は大事にする。

人の腸内細菌は人を守っている。これまでの研究では寄生虫だけでなく、いろんなウイルス・細菌もアレルギーを抑えていることが分かっています>。

私の植物性乳酸菌が杉花粉症にどうやってどのように効いたかが医学的に証明されなければ宣伝してはいけない話ではある。だが花粉症に対する抵抗力がついていたからこそ治ったのである。おそらく昨年、飛散量云々ではなく既に治っていたものと思われる。


     

2015年01月14日

◆「喧嘩は済みましたか」

渡部 亮次郎



「喧嘩は済みましたか」と開口一番言ったのはかの毛沢東。田中角栄日本首相に対してである。角栄氏、ノモンハン事件で陸軍に召集された事はあったが、中国を訪れたのは初めて。それがいきなり国家主席の開口一番が「喧嘩」だったから驚いたに違いない。

1972(昭和47)年9月27日、未明のことである。釣魚台の迎賓館で寝ているところを起こされての「表敬訪問」、しかも事務方の随員や通訳の同行は不可。外相大平正芳、官房長官二階堂進の3人だけでの「表敬」。

お気づきのように田中首相は、先立つ自民党総裁選挙に当って「日中国交即時回復」を訴えてライバル福田赳夫を蹴落として、9月25日、北京入りを果たし、直ちに首相の周恩来と「国交正常化共同声明」の案文を巡って「喧嘩」を続けてきた。

「喧嘩」が済んだので毛沢東の「引見」が許されたわけだった。しかし随員も通訳も連れてゆけなかったから、関係者の殆どが死亡した現在、「証人」は中国人通訳だけである。

私はNHKを代表して田中首相に同行していた記者だったが、毛沢東の「引見」は知らされず、夜が明けてからいきなり、カラー写真を手交されて初めて知った次第。

それはともかく毛沢東はじめ中国人は「喧嘩」抜きの和平はあり得ないと考えていることである。ところが日本人は「和をもって貴しとなす」とばかり「隣国」との関係は常に平和でなければならないと考え勝ちである。

民主党政権では菅首相も仙谷官房長官(いずれも当時)も「平和状態」をいつも望む余り、中国への「刺激」を悉く避け、結局「事なかれ主義」に陥ってしまっていた。中国に嫌がられながら「尊敬」されているのはただ一人前原外相(当時)のみである。

中国人は利権が好きだ。だが利権を求めて中国訪問をする政治家を最も軽蔑するのも中国人である。

日中正常化交渉の時、日本側の条約局長はとうとうと原則論を展開して周恩来首相を怒らせた。しかし周は陰では「わが方にもあれぐらい骨のある奴がいたらなあ」と局長を褒めちぎった。

詰まり中国人は、なびいたり媚びたりする相手は軽蔑したり舐めたりするが心の底では徹底的にバカにする。船長を即時釈放しろといったらすぐ釈放した菅首相、仙谷官房長官は、表面的には歓迎されているが、心底では「骨の無い奴らだ」と軽蔑されているのである。

<【北京=大木聖馬】中国外務省の胡正躍・外務次官補は21日、記者会見で、前原外相の日中関係に関する一連の発言について、「なぜこんなに(ブリュッセルでの首脳会談で合意した関係改善を)刺激するのか。(前原外相の発言は)深く考慮するに値する」と述べ、今月末のハノイでの日中首脳会談の調整に影響を及ぼしていることを示唆した。

胡次官補は、ハノイでの首脳会談開催について、「ふさわしい条件と雰囲気が必要」とした上で、前原外相が 16日に「(首脳会談開催の)ボールは向こう(中国)にある。開催時期は焦らなくてもいい」と発言したことについて、

「中日関係の改善には共に努力しなければならない。なぜ焦らなくてよいのか。なぜ中国にボールがあるのか」と批判。「こんなにも絶えず、両国関係を傷つけ、弱め、破壊することに耐えられない」と非難した。(読売)>

これに驚いて菅や仙谷らが前原を抑えさせようと言うのが中国側の狙いだが、実際に前原外相を抑えたり、前原自身が萎縮したりすれば心の底から「くだらない政治家」とバカにされるだろう。

以上は多少の取材経験と、軍隊時代、中国戦線で経験の深かった故園田直(外相3期)の遺言的警告である。

「尖閣問題棚上げ」を提案してきた中国は、これで日本を油断させ、そのうちに実効支配体制を完成し、どうしても尖閣は勿論沖縄も奪取するハラである。菅や仙谷は余りにも中国人を知らなすぎる。

特に仙谷は日本的法体系で中国人を考えることを直ちにやめなくてはならない。

2015年01月13日

◆「お前の女房は元から俺のもの」

渡部 亮次郎



わが国の尖閣諸島に対して突如として中国が領有権を主張し始めたのは1969(昭和44)年のことだった。佐藤栄作内閣の頃だったが、わが国メディアは無視した。

後日、外相秘書官になった時、この間の事情を外務当局に質したところ「自分の女房をオレのもんだ、と連日叫ぶ事は恥ずかしいじゃない」と諭された。世界の常識ではそうだろう。

だが中国にかかると全く違う。「あんたの女房は美人で金持ち。だから昔から俺のものだったのだ」というのである。餓鬼の論理、ならず者の理屈だ。だから外交課題には適さない。

理不尽を力で通そうとするのは布告なき宣戦とでも呼ぶしかない。菅首相、仙谷官房長官、前原外相ら(いずれも当時)は、ここが判っていない。

しかも中国は昔は尖閣の海底に眠る石油とガスが欲しくて悪たれたが今や違う。尖閣の辺りを自由に航行できなければ、目指す太平洋支配が可能にならないので、一段と態度が強硬になってきているのである。

それなのに、日本のいう「冷静な話し合い」などに応じるわけが無い。応じていたら野望が挫かれかねない。

菅首相や仙谷官房長官らは、すべて「事は大きくしたくない」から「穏便」ばかりを口にし、すべて下手に出れば大きくならないと決めているようだ。

しかし、日中平和友好条約の締結交渉に従った少ない経験からするところ、日本人と根本的に違っていて、当方が1歩譲歩すれば2歩踏み込んでくる。

事はロシアをして北方領土問題にも関連するから、政府は命がけで踏ん張らなくてはいけない。

ところでジャーナリスト水間政憲氏が明らかにしたところに依れば、中国は7〜8年前から東京・神田の古書店で中国の古地図を買いあさって、今では出回らなくなった。(「週刊ポスト」2010年10月15日号」。

それは「工作」に当って「証拠」となる北京市地図出版社1960年発行の「世界地図集」第1版を地上から消す為であった。この地図では尖閣諸島は日本の領土として、確り日本名の「魚釣島」「尖閣群島」と表記されているからである。

「この地図はたった1冊、日本外務省中国課が所蔵している」と水間氏。「政府はただ東シナ海に領土問題は存在しない、と言うだけでなく、この地図を中国に証拠として突きつけるべきだ」とも。

それを受け入れる中国では無いだろうが、おまえの女房はいい女房だから昔からオレのもんだったというごろつきの一時的な口ふさぎには役立つかもしれない。

2015年01月12日

◆ジャガイモで命拾い

渡部 亮次郎



16世紀に南米からヨーロッパにもたらされたジャガイモは当初はその見た目の悪さ(現在のものより小さく、黒かった)からなかなか受け入れられずにいた。

さらに民衆は、ジャガイモは聖書に載っておらず、種芋で増えるという理由で「悪魔の作物」として嫌った。

しかし、ヨーロッパで栽培される主要な作物よりも寒冷な気候に耐えること、痩せている土地でも育つこと、作付面積当たりの収量も大きいことから、17世紀にヨーロッパ各地で飢饉が起こると、各国の王はジャガイモの栽培を広めようとした。

とくに冷涼で農業に不適とされたアイルランドや北ドイツから東欧、北欧では食文化を替えるほど普及した。

またアメリカ合衆国など北米地域や日本などアジア地域にも普及し、ジャガイモが飢餓から救った人口は計り知れないといわれる。

2005年にはジャガイモの原産地の一つであるペルーが国連食糧農業機関(FAO)に提案した「国際イモ年(IYP International Year of Potato)」が認められ2008年をジャガイモ栽培8000年を記念する「国際イモ年」としてFAOなどがジャガイモのいっそうの普及と啓発を各国に働きかけた。

<イングランド>

ジャガイモがヨーロッパにもたらされた当初、ヨーロッパには芋という概念が無かった。そのため、芋というものを食べると分かるまで、本当は有毒である葉や茎を食用とする旨が書かれた料理本がイングランドで出版され、それを真に受けたイングランド人がソラニン中毒を起こした。

<アイルランド>

アイルランドでは栽培の容易さや収量の為だけではなく、征服者のイングランド貴族が熱心に勧めたことにも原因があった。ジャガイモの栽培を増やして農民がそれを食べるように仕向ければ自分達が収奪する麦の分量が増えると考えてのことである。

結果としてアイルランドでは主食としてジャガイモが非常に重要になった。このため1840年代にジャガイモの疫病がヨーロッパに蔓延した際に、ジャガイモに依存していたアイルランドではジャガイモ飢饉が起こり、大勢のアイルランド人が北アメリカに移住することになった。


その移民の中に後に第35代アメリカ合衆国大統領になるジョン・F・ケネディの曽祖父・パトリックがいたのはよく知られている話である(ケネ
ディはパトリックの次男の孫、すなわち4代目である)。


<ドイツ>

ドイツ料理にはジャガイモが多用される。ドイツでジャガイモが普及したのはプロイセンである。プロイセンの支配地であるブランデンブルク地方は南ドイツなどとは違い寒冷で痩せた土地が多くしばしば食糧難に悩まされた。

そのため荒地でも育つジャガイモは食糧難克服の切り札とみなされ、フリードリヒ大王が栽培を奨励した。しかし、他のヨーロッパ諸国同様、不恰好な外見から人々から嫌われた。そのためフリードリヒ大王は自ら範を垂れ、毎日ジャガイモを食べたという。


<フランス>

フランスでは、王が王妃にジャガイモの花を飾って夜会に出席させると、貴族は関心を持った。 しかし食用としては他の国々の例に漏れず、当初は民の間で嫌われた。

ジャガイモを国に広めたいと思った王は一計を案じ、自分が作らせたジャガイモ畑に昼間だけ衛兵をつけて厳重に警備した後、夜はわざと誰も見張りをつけなかった。

王がそこまで厳重に守らせるからにはさぞ美味なのだろうと考えた民の中から、夜中に畑にジャガイモを盗みに入る者が現われた。結果的に、王の目論見通りジャガイモは民衆の間に広まって行ったという話が残っている。


<北朝鮮>

北朝鮮では、90年代の後半から食糧危機が発生したが、この時政府(朝鮮労働党)は「ジャガイモ農業革命」を提唱してジャガイモの生産拡大を、同時に種子改良(種子革命方針)、二毛作方針を徹底した。

朝鮮中央放送では「偉大なる指導者金正日同志は、ジャガイモは白米と同等であるとおっしゃった」などと報道しており、平壌にはジャガイモ料理専門店が開店したとも報じている。

行き過ぎた二毛作によって、土地の栄養分が不足する事態も発生しているといわれているが、白米に比べて、気候や土地に依存せず大量に生産できるジャガイモにより(連作障害などによる弊害もあるが)、北朝鮮の食料危機はある程度の解決をみた。

2015年01月11日

◆末期ガン患者の「在宅ケア」

毛馬 一三



末期ガン患者の治療などの「緩和ケア」を如何に進めるかが、いま大きな社会問題になっている。行政・医療機関・開業医が、末期ガン患者を在宅でサポートするため、如何にして有機的な連携を取れるかという課題だ。


しかしその連携だが、決して円滑だとは言い難い。医療機関で治療を受けている末期ガン患者が、<自宅で痛みをコントロールし自分らしい人生の最後を過ごしたい>と思ったとしても、現状は医療機関と地域ケアの軸となる開業医との取り組みが希薄な上、肝腎の「在宅ホスピス」専門開業医の不足が障害となっているからだ。


そんな中、大阪北千里で、医療法人永仁会・千里ペインクリニック主催の「在宅ホスピス」の在り方を考える「勉強会」と「家族の会」とを兼ねた初会合が開かれた。出席者はスタッフを含め80人を超える予期以上の参加者に上った。


「千里ペインクリニック」は、「痛みの専門クリニック」の外来部門と、24時間・365日往診部門の「在宅ホスピス」を併設した診療所で、関西で数少ない「在宅ホスピス」を運用する診療所の1つだ。そして注目のこの「在宅ホスピス」部門では、2004年6月の開業以来ガン患者の在宅治療に当っている。

さて注目は、まず「在宅ホスピスとは・・」と題して医療法人永仁会の松永美佳子理事長の講演だった。

それによると、
<@ 在宅ホスピスの意義A家と病院の違いBチーム医療の重要性とサポート体制C延命の利点・欠点D在宅移行時の障害E入院に比べて費用は軽減F家と病院の違いG在宅ホスピスの課題などを軸に、医療現場での感激や悩み、それに病院との連携、経営維持の課題など現場で直面している諸問題についての分かりやすい解説だった。

特に「在宅ホスピスの意義」では、
☆最後まで自分らしい人生が送れる。☆残された時間を有意義に使える。☆家族の絆が強くなる。☆家族が死の受容をしやすい。☆みなが死について考える機会となる有意義性が顕著だと強調された。


また「家と病院の違い」の点では、点滴・各種ドレーン(体内の液を管で排出)の管理・人工呼吸など、(病院で行う手術・副作用の強い化学療法以外)殆ど家で出来ると、在宅ケアの実情を説明。


締め括りの「在宅ホスピスの課題」は、患者のためには、より早い時期からの病院との連携が不可欠であることを指摘することだった。>


会合はつづいて、在宅ホスピスを利用した家族の声を聞く「在宅ホスピスの体験発表」に移り、体験談を披瀝した。


この中で、末期ガンで夫を亡くした2人が、<在宅ケアに当ってくれた医師・看護師さんからの支えで、生前夫と心穏やかにゆっくり話が出来、なすべき事がすべて出来た。「在宅ホスピスの大切さ」を知ったし、この経験を広く伝えたい>と語った。


ところで問題はまだ山積している。医療機関と開業医の連携問題もその一つだ。大阪厚生年金病院では、医師・看護師・ソーシャルワーカーなどによる「緩和ケア対策チーム」が結成された。


大阪厚生年金病院と連携できる開業医のピクアップを、地域性や能力などの点から選定する作業に取り組む一方、ばらばらに実施している院内緩和ケアの現状を一本化する対策が進められている。主要医療機関も動きは大きい。


北千里で始った「緩和ケア現場」のささやかな運動が、他の診療所や医療機関にも波及して、「痛みで苦しむ患者の救済」に発展することを願っている人たちは多い。 (加筆修正:再掲)

2015年01月10日

◆スパイは普通のおっさん

渡部 亮次郎



スパイがスパイらしく見えたら、それは失敗だ。平和ボケ日本人は「あんなに子供たちにも優しかったおじさんがスパイだなんて信じられない」というが、そう信じさせるのがスパイの初歩なのだ。

2006年7月初旬に起きた北朝鮮によるテポドンなどの発射事件では、各国スパイの活躍による様々な情報収集が攻防の前提になった事は当然である。

スパイと売春婦は人類史上,最も古典的な職業といわれるくらいだから、人間が、派閥であれ、自治体であれ、国家であれ、集団を維持して行くための必要不可欠の情報人間がスパイなのだ。

20世紀に入るや、科学と技術の進歩により、人工衛星や盗聴器、インターネット等、様々なスパイ機器が前面に出てきたが、所詮、心を読まなければ、相手の抱いている意図の真相を把握できない以上、スパイの需要は益々高まっている。

スパイ (Spy) とは敵対勢力などの情報を得るため、合法違法を問わずに情報入手や諜報活動などをする者の総称である。工作員(こうさくいん)間諜(かんちょう)、間者(かんじゃ)、密偵(みってい)とも呼ぶ。

“スパイ”と呼ぶのは敵方の者のみで、味方の者はエージェント(代理者)と称する言い方もある。

政治・経済・軍事機密・科学技術などの情報をいち早く入手することは戦時・平時を問わず戦略上重要であり、この種の行為は古代から行われてきた。世界各地の神話や古文書にもしばしば描写される。日本の忍者やお庭番もスパイの範疇に属する。

SPYは、espy(見つける、探し出す)と同じで古期フランス語でespion(見張る者)の意味がある。espionage(諜報活動:現仏語)の語源。印欧語で「見る」を意味する語幹「spek」に由来する。

近代以降、各国はスパイ網を組織化・巨大化させ、諜報活動を繰り広げた。特に第2次世界大戦後の東西冷戦期には、世界各地で激しいスパイ活動が行われ、多くのスパイ事件が発覚してもいる。


この状況は、米ソ2極体制が終結した現在でも変わってはいない。一般に、法律で取り締まりの対象になるスパイは内部情報を持ち出す関係者で、その情報を買い取る外国政府の情報機関員(大使館に所属し外交特権を持つ書記官・駐在武官をしていたりする)は「ケースオフィサー」という。

小説、映画の影響により派手な活動が連想されがちであるが、古典的表現である「外套と短剣」に表されるように、実際のスパイは実に地味な活動をしている事が多く、本来別の存在である。

忍者や007シリーズ等、大衆向けに膾炙したフィクションが先入観の原因と考えられる。このような破壊活動などは実際には軍特殊部隊によって行なわれている。

あるいは、よくありがちな敵組織に潜入して情報を得るというのも特に大国の間では極めて少ない。なぜなら、基本的に情報公開されているため、合法的に調べれば目的の情報というのは意外に簡単に得られるからである。

しかも、そのようなリスクを犯す方法よりも、目的とする情報がある機関の職員に、異性の諜報員が近づき、恋愛感情につけ込んで情報の取得を頼むケースの方が圧倒的に多い。上海総領事館事件は耳新しい。

スパイをテーマとした小説や映画、漫画などは、冷戦期に盛んに送り出されたものの、近年はやや下火になりつつある。

また危険な任務が多いのに基本的に給料が安い(ケースオフィサーは公務員 内通者に至っては報酬が贋金で支払われたりする事も)為、現在の先進国に限って言えば人気がなく進んでやろうとする人間は稀である。

プロ野球のスコアラーが、次の対戦相手の戦力・戦術分析の為に試合を観戦したりする事から、「スパイ」と表現される事もある。企業における産業の技術情報などのスパイ行為については産業スパイと言う。

戦争を放棄した日本はなぜか諜報活動を自ら放棄したのはおろか、他国のスパイを取り締まる法律も放棄した。スパイ天国である。北朝鮮による拉致事件が大手を振って展開された所以である。国民はまだ目が覚めない。

日本を舞台にした戦後のスパイ事件としては、韓国大統領に当選するはるか以前に韓国の政治家金大中氏が韓国の工作員に東京で拉致され、日本海に沈められそうになりながら母国に運ばれて解放されるという事件が大き
い。

私は昭和48年6月ごろ、東京で反朴政権活動を展開する金大中について、在日韓国大使館の金在権公使に質問したことがある。そしたら金公使は「そのうち何とかなりますよ」と不気味に笑った。

私は直後に大坂へ転勤になって問題から遠ざかったが、同年8月8日に事件は起きた。金大中が何者か(韓国中央情報部=KCIA説が有力)により東京都千代田区のホテル・グランドパレス2212号室から拉致されたのである。

もともと金大中は1971(昭和46)年の大統領選挙で民主党(当時)の正式候補として立候補。軍事独裁を強いていた民主共和党(当時)の候補・朴正煕現役大統領(当時)に挑戦。敗れはしたが、わずか97万票差までの肉薄だった。

朴正煕は民主主義回復を求める金大中に危機感を覚えざるを得なかった。大統領選直後、金大中が交通事故に遭った。あきらかに暗殺工作だった。

股関節の障害を負った。その後、金大中も危機感を覚えたのか日本に逃亡し、日本、アメリカを中心に民主主義運動を行っていたさなかの拉致事件だったのだ。

朴正煕は金大中が国内に居ないことを利用し、国内に戒厳令を発令した。その頃、私はソウルを訪問した。閣僚も高官も夜12時前には帰宅した。スパイは夜動くから、捕まえやすいとのことだった。丁度その頃、朴正煕の側近であった李厚洛(イ・フラク)中央情報部(KCIA)長が平壌を訪問し、平壌の金英柱組織指導部長と会談した。

逆に金英柱部長の代理として朴成哲第二副首相が同年5月29日から6月1日の間ソウルを訪問して李厚洛部長と会談し、7月4日には南北共同声明を発し祖国統一促進のための原則で合意した。

この歴史的会談によって李厚洛の韓国国内の評価は一気に高まり「ポスト朴正煕」との噂さえ囁かれるようになった。

そんな中、首都警備団長尹必?(ユン・ピリョン)将軍が李厚洛との談話で漏らした失言(「大統領はもうお年だから、後継者を選ぶべき」)に激怒した朴正煕は、両人ならびに関係者を拘束し徹底的に調べ上げるように命じた。

しかし、ここで側近から造反者が出たように見られるのは朴政権にとって痛手となるため、李厚洛は釈放された。こうして朴正煕の機嫌を損ねた李厚洛は、何とか名誉挽回に朴正煕の政敵である金大中を拉致する計画を立てるに至ったのである。

1973年8月8日昼頃、東京のホテル・グランドパレス2212号室で金大中は同ホテルに宿泊していた梁一東韓国民主統一党(当時)党首に招かれ会談した。

午後1時19分ごろ、会談を終えた金大中は2212号室を出たところを何者かに襲われ、空部屋だった2210号室に連れ去られる。犯人グループは、エレベータで地下に降りる途中、金大中にクロロホルムを嗅がせて意識を朦朧とさせた後、ホテルから車で関西方面(神戸)のアジトに連れて行き、その後、船で神戸港から出国したと見られる。

朦朧とした意識の中「『こちらが大津、あちらが京都』という案内を聞いた」と金大中は証言している。金大中は「船に乗るとき、足に錘をつけられた」と後日語っている。

しかし事件を察知したアメリカの通報を受けて自衛隊が拉致船を追跡し、照明弾を投下するなどして威嚇したため、拉致犯は殺害を断念し釜山まで連行、解放したとされている。

金大中自身、日本のマスコミとのインタビューで、甲板に連れ出され、海に投下されることを覚悟したときに、自衛隊機が照明弾を投下したと証言している。

拉致から5日後、金大中はソウルの自宅近くのガソリンスタンドで解放され、自力で自宅に戻った。

警視庁はホテルの現場から金東雲・駐日韓国大使館一等書記官(金東雲は変名、本名は金炳賛)の指紋を検出し、営利誘拐容疑で出頭を求めたが金は外交特権を盾に拒否。日本政府は金東雲に対し日本では初となるペルソナ・ノン・グラータを発動、間もなく特権に保護されて帰国した。

この事件の責任を取って李厚洛は中央情報部長職を解任され、日本国内での反朴運動が高まった。その運動の中から総連系に唆された文世光(ムン・セグァン)が朴正煕殺害を決行し、陸英修(ユク・ヨンス)大統領夫人が死亡した(文世光事件)。この事件の責任をとって警護室長朴鍾圭(パク・ジョンギュ)が解任された。

その後、中央情報部長に就任した金載圭の、警護室長に就任した車智?(チャ・チチョル)に対する反感から、10・26事件(朴大統領暗殺事件)がおき、朴政権の滅亡とその事件を率先して調査した全斗煥の台頭を生むきっかけとなった。

後年(2006年2月5日)、1973年11月2日に行われた田中角栄首相(当時)と金鍾泌首相(当時)との会談の内容を収めた機密文書が韓国政府により公開され、日韓両政府が穏便に事を済ませ政治決着を図ろうとしていたことが明らかになった。

第二次世界大戦前には「ゾルゲ事件」が起きたが、国民は敗戦後の極東軍事裁判で明らかにされるまで全容を知らなかった。ドイツ人のジャーナリスト、リヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge,1895年10月4日 -1944年11月7日)が日本を舞台にして繰り広げたスパイ事件のことである。これについては別に執筆したので省略する。

アメリカとの戦争を始めるに先立って日本陸軍はアメリカ本土にスパイを放った。新庄 健吉(しんじょう けんきち、明治30年(1897年)9月30日- 昭和16年(1941年)12月5日)である。

新庄は陸軍経理学校教官・支那派遣軍経理部員・企画院調査官等を歴任し、階級は陸軍主計大佐に至る。情報将校としてアメリカの国力を詳細に調査し、戦争の見通しについて報告書を作るなど情報分析能力が注目された。

新庄の死後日米開戦当日に行われた葬儀に駐米大使館職員が参加していた事が最後通牒の遅れた原因とする説がある。

明治30年9月農業新庄竹蔵の三男として生まれ、京都府立第三中学校を経て大正4年12月主計(会計・給与などを担当する軍人)候補生となる。

陸軍派遣学生として昭和3年3月東京大学経済学部を卒業、大学院を昭和5年3月に修了するなどインテリに養成される。

昭和12年8月主計中佐に進み、昭和16年1月参謀本部からアメリカ出張を命ぜられた。任務は対米諜報である。アメリカの国力・戦力を調査し、来る日米戦争の戦争見通しを立てる事であった。

所謂スパイであるが、4月に到着以後、非合法な活動は伴わず一貫して公開情報の収集にあたった。公開されている各種統計等の政府資料から資材の備蓄状況等を割出し日本との国力差を数字に示した。

諜報が目的である事から駐在武官府等の在米陸軍機関では活動せず、エンパイアステートビル7階の三井物産ニューヨーク支店内に事務所を開いた。勿論身分を三井物産社員と偽装してである。

元々アメリカは新庄が調査せずとも世界一の工業生産力を誇っているのは明々白々であったが、調査の結果導き出された数字は重工業分野では日本1に対してアメリカ20、化学工業1対3で、この差を縮める事は不可能とあった。

これらの調査結果を日本の参謀本部に報告書として提出するが、渡米から、3ヶ月働きづめだった新庄は、ワシントン市にあるジョージタウン大学病院で開戦直前の12月4日急性肺炎を併発し没する。45歳だった。

新庄の葬儀が最後通牒の遅れた事に関係するという説が、ノンフィクションライターである斎藤充功の著書に記されている。

12月4日に逝去した新庄の葬儀は12月7日、日本時間では12月8日にあたる。12月8日は日本が海軍の戦力を以って真珠湾を攻撃した日であり、後には開戦記念日と呼ばれる。

この日日本はアメリカに対し最後通牒を行いその通告文をアメリカ国務長官コーデル・ハルに渡す事を予定しており、その日時は12月8日午前3時現地時間で12月7日午後1時を定刻としていた。

攻撃の前に予め開戦の意志を伝えるというのが目的であったが、定刻を過ぎてもその最後通牒は行われず、真珠湾攻撃は午後1時15分(日本時間8日午前3時15分)に始まる。

日本からの文書を翻訳・浄書するのが遅れた為などの言い訳があるが、この事から騙し討ちと呼ばれる。予てからその原因は大使館職員の怠慢であったと言うのが定説であるが、斎藤の調べでは来栖三郎・野村吉三郎両駐米大使らの葬儀出席が原因と言う。

新庄の葬儀は現地時間で午後に行われ、磯田三郎駐米陸軍武官以下陸軍将校はもとより、複数の大使館職員や来栖三郎・野村吉三郎両駐米大使が参加しており、その来栖・野村大使らは葬儀が終ってから国務省に向ったと言うのだ。

ハル国務長官に最後通牒を手渡したのは午後2時20分、1時間20分の遅れだった。しかし、こうした事実も国民は戦後になって初めて知らされた。しかも関係者はなにごとも無かったかのように事務次官や大使に出世した。

      

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