2012年04月27日

◆国の領土拡張戦略による尖閣奪取

渡部 亮次郎


尖閣諸島に関する歴代政府の出方はあまりに弱腰だとして、巷間「日中間に密約があるのでは無いか。そうでなければこの弱腰は理解できない」というものである。

たとえば、ある一流商社マンは最近、私のメルマガ「頂門の一針」で次のような論を展開した。

<尖閣諸島については、日本と中国の外交当局のあいだに、公然の密約があるはずだ。

 (1) 日本人は尖閣諸島に立ち入らず、自衛隊も駐留させない。

 (2) 中国人は尖閣諸島に立ち入らず、中国共産党軍も駐留さ  せない。

 (3) 領土の帰属は、本気で議論することは避ける。

 (4) 以上の代償として中国はxxxxxxxすること (ないしxxxxxxxしないこと)。

日本の外交当局がラクをしたいがために、日本側が百歩しりぞいた密約が結ばれているにちがいない。

そう考えないと、尖閣諸島についての日本政府の異常な弱気さが説明できない。

自国領なのに、自国人が上陸することを取り締まる日本政府。密約なしにはありえないことだ。

密約の相手方は中国政府当局だが、中国はいまや公然の二重権力の軍国主義国家で、政府のコントロールがきかない共産党軍が経済利権にまで踏み込んで勝手に行動する。

共産党軍が密約を破るたびに、中国外交当局はああだこうだと言い訳をしてきたろうが、日本側がものわかりのよすぎるお人よしなものだから、中国外交当局すらいまや密約を守る必要がないと考えるに至ったというのが、今日の状況だ。

密約を洗い落して、常識あるパワーポリティクスの世界に引き戻すことが、国家間の関係を成熟させることになる。

約は、日米間にだけ存在するのではない>。

密約があるとして密約だからして確認は不可能だ。少なくとも福田赳夫内閣が1978年8月に日中平和友好条約を締結した際、帰属確認を迫った外務大臣・園田直に対し、トウ小平副首相(当時)は「棚上げは」提案したが「合意」はしていない。

1978年10月23日、日中平和友好条約の批准書交換のため訪日していた中国のトウ小平国務院常務副総理は、日本記者クラブで行われた会見の席上で、「尖閣諸島を中国では釣魚島と呼ぶ。名前からして違う。確かに尖閣諸島の領有問題については中日間双方に食い違いがある。国交正常化の際、両国はこれに触れないと約束した。

今回、平和友好条約交渉でも同じように触れないことで一致した。中国人の知恵からしてこういう方法しか考えられない、というのは、この問題に触れるとはっきり言えなくなる。こういう問題は一時棚上げしても構わない、次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」と述べた。

田中角栄首相も園田外相も「合意」した事実は無いにもかかえあらず中国側は「合意」を既成事実化したしまった。あれ以後、両国は「棚上げ」以上の行動はとっていない。中国側が武力を背景に挑発を繰り返すことによって「既成事実化」に焦っているというのがげんじょうではないか。

「ウィキペディア」によれば、 中国共産党は、清がロシアその他の列強に領土を奪われた経験から、軍事的実力のない時期に国境線を画定してはならないという考え方をもっている。

中国とインドの事例(中印国境紛争)では、1954年の周恩来とネールの平和五原則の合意および中国国内のさらなる安定を待って、インドが油断している機会を捉えて、1962年11月、大規模な侵攻により領土を拡張した。

当時、キューバ危機が起きており、世界がそちらに注目している中での中国による計算し尽くされた行動であった。

軍事的優位を確立してから軍事力を背景に国境線を画定するという中国の戦略の事例は、中ソ国境紛争などにも見られ、その前段階としての軍事的威圧は、東シナ海および南シナ海で現在も進行中である。

日中国交正常化時の中国側の領土棚上げ論は、中国に軍事的優位を確立するまでの猶予を得るための方便ともいえる。2011年現在、中国人民解放軍の空軍力は、日本、韓国、在日在韓米軍を合計したものに匹敵し、インドを含むアジアで最強であり、その急激な近代化がアジアの軍拡を誘発している。このように尖閣問題の顕在化は、中国の軍事的優位がも
たらしたものといえる。

また1971年に地下資源が発見されてから、中国と台湾は領有権を主張しはじめた。例えば、地下資源が確認される以前の1970年に刊行された中華人民共和国の社会科地図において南西諸島の部には、"尖閣諸島"と記載され、国境線も尖閣諸島と中国との間に引いてあった。

しかし、地下資源が確認された以後の1971年の版では、尖閣諸島は"釣魚台"と記載され、国境線も日本側に曲げられた。

中国および台湾は尖閣諸島を「固有の領土」であるとの主張を繰り返している。政府レベルでは中国・台湾ともに話し合いでの問題解決を主張しているが、実際には相互に事前通報する取り決めが日中政府間で結ばれている排他的経済水域(EEZ)内はおろか、尖閣諸島周辺の日本の領海内で中国人民解放軍海軍の艦船による海洋調査が繰り返されていたり、
台湾および香港の中国人活動家の領海侵犯を伴った接近が繰り返されている。

このような実力行使に対して日本政府はことあるごとに抗議しているが、台湾側は民間抗議船の出航を禁止するなどの措置をとっているものの活動家が漁船で出航するなど取り締まれない場合もある、中国側はそれを無視している。

地元八重山諸島の漁民によれば、日本の排他的経済水域(EEZ)内の尖閣諸島近海で操業していると、中国の海洋調査船にはえ縄を切断されたり、台湾の巡視船から退去命令を受けたりと中台双方から妨害されている。

台湾漁船が多く操業しているうえ、自分達が中国の漁業取締船に逆に拿捕される危惧があることを訴えている。

日本は憲法で国際紛争の解決の手段として話し合いで解決したいと望むしかないから情けないかぎりだ。

国連は国連憲章第6章で紛争の平和的解決を定めており、軍事的手段による解決を否定している。

特に安全保障理事会は、武力による紛争解決を図った国に対する軍事制裁などを定めた国連憲章第7章に基づく行動を決めることが出来る。しかし、当事者のひとつである中華人民共和国は常任理事国であるため拒否権をもっている。

第27条3項は『その他のすべての事項に関する安全保障理事会の決定は、常任理事国の同意投票を含む9理事国の賛成投票によって行われる。但し、第6章及び第52条3[18]に基く決定については、紛争当事国は、投票を棄権しなければならない。』としており、仮に中国が武力による尖閣諸島問題の解決を図った場合、賛否すら表明することが出来なくなる。

日本の国内には民間レベルで灯台の建設を進めたり、定住しようとする計画もあるが、日本政府はそれを押し留めている。外務省が中国に対して弱腰であるという意見も存在するのは当然だ。

たしかに中国が軍事力でアメリカのそれを上回ったと判断した時、尖閣は収奪される。オリンピックの9年後に、ファッショ国は滅びるという加瀬英明原則を信じたい。       2012・4・25--
渡部 亮次郎

◆中国の領土拡張戦略による尖閣奪取

渡部 亮次郎


尖閣諸島に関する歴代政府の出方はあまりに弱腰だとして、巷間「日中間に密約があるのでは無いか。そうでなければこの弱腰は理解できない」というものである。

たとえば、ある一流商社マンは最近、私のメルマガ「頂門の一針」で次のような論を展開した。

<尖閣諸島については、日本と中国の外交当局のあいだに、公然の密約があるはずだ。

 (1) 日本人は尖閣諸島に立ち入らず、自衛隊も駐留させない。

 (2) 中国人は尖閣諸島に立ち入らず、中国共産党軍も駐留さ
  せない。

 (3) 領土の帰属は、本気で議論することは避ける。

 (4) 以上の代償として中国はxxxxxxxすること
  (ないしxxxxxxxしないこと)。

日本の外交当局がラクをしたいがために、日本側が百歩しりぞいた密約が結ばれているにちがいない。

そう考えないと、尖閣諸島についての日本政府の異常な弱気さが説明できない。

自国領なのに、自国人が上陸することを取り締まる日本政府。密約なしにはありえないことだ。

密約の相手方は中国政府当局だが、中国はいまや公然の二重権力の軍国主義国家で、政府のコントロールがきかない共産党軍が経済利権にまで踏み込んで勝手に行動する。

共産党軍が密約を破るたびに、中国外交当局はああだこうだと言い訳をしてきたろうが、日本側がものわかりのよすぎるお人よしなものだから、中国外交当局すらいまや密約を守る必要がないと考えるに至ったという
のが、今日の状況だ。

密約を洗い落して、常識あるパワーポリティクスの世界に引き戻すことが、国家間の関係を成熟させることになる。

密約は、日米間にだけ存在するのではない>。

密約があるとしても密約だからして確認は不可能だ。少なくとも福田赳夫内閣が1978年8月に日中平和友好条約を締結した際、帰属確認を迫った外務大臣・園田直に対し、トウ小平副首相(当時)は「棚上げは」提案
したが「合意」はしていない。

1978年10月23日、日中平和友好条約の批准書交換のため訪日していた中国のトウ小平国務院常務副総理は、日本記者クラブで行われた会見の席上で、「尖閣諸島を中国では釣魚島と呼ぶ。名前からして違う。確かに尖閣諸島の領有問題については中日間双方に食い違いがある。国交正常化の際、両国はこれに触れないと約束した。

今回、平和友好条約交渉でも同じように触れないことで一致した。中国人の知恵からしてこういう方法しか考えられない、というのは、この問題に触れるとはっきり言えなくなる。こういう問題は一時棚上げしても
構わない、次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」と述べた。

田中角栄首相も園田外相も「合意」した事実は無いにもかかえあらず中国側は「合意」を既成事実化したしまった。あれ以後、両国は「棚上げ」以上の行動はとっていない。中国側が武力を背景に挑発を繰り返すことによって「既成事実化」に焦っているというのがげんじょうではないか。

「ウィキペディア」によれば、 中国共産党は、清がロシアその他の列強に領土を奪われた経験から、軍事的実力のない時期に国境線を画定してはならないという考え方をもっている。

中国とインドの事例(中印国境紛争)では、1954年の周恩来とネールの平和五原則の合意および中国国内のさらなる安定を待って、インドが油断している機会を捉えて、1962年11月、大規模な侵攻により領土を拡張し
た。

当時、キューバ危機が起きており、世界がそちらに注目している中での中国による計算し尽くされた行動であった。

軍事的優位を確立してから軍事力を背景に国境線を画定するという中国の戦略の事例は、中ソ国境紛争などにも見られ、その前段階としての軍事的威圧は、東シナ海および南シナ海で現在も進行中である。

日中国交正常化時の中国側の領土棚上げ論は、中国に軍事的優位を確立するまでの猶予を得るための方便ともいえる。2011年現在、中国人民解放軍の空軍力は、日本、韓国、在日在韓米軍を合計したものに匹敵し、インドを含むアジアで最強であり、その急激な近代化がアジアの軍拡を誘発している。このように尖閣問題の顕在化は、中国の軍事的優位がもたらしたものといえる。

また1971年に地下資源が発見されてから、中国と台湾は領有権を主張しはじめた。例えば、地下資源が確認される以前の1970年に刊行された中華人民共和国の社会科地図において南西諸島の部には、"尖閣諸島"と記載され、国境線も尖閣諸島と中国との間に引いてあった。

しかし、地下資源が確認された以後の1971年の版では、尖閣諸島は"釣魚台"と記載され、国境線も日本側に曲げられた。

中国および台湾は尖閣諸島を「固有の領土」であるとの主張を繰り返している。

政府レベルでは中国・台湾ともに話し合いでの問題解決を主張しているが、実際には相互に事前通報する取り決めが日中政府間で結ばれている排他的経済水域(EEZ)内はおろか、尖閣諸島周辺の日本の領海内で中国人民解放軍海軍の艦船による海洋調査が繰り返されていたり、台湾および香港の中国人活動家の領海侵犯を伴った接近が繰り返されている。

このような実力行使に対して日本政府はことあるごとに抗議しているが、台湾側は民間抗議船の出航を禁止するなどの措置をとっているものの活動家が漁船で出航するなど取り締まれない場合もある、中国側はそれを
無視している。

地元八重山諸島の漁民によれば、日本の排他的経済水域(EEZ)内の尖閣諸島近海で操業していると、中国の海洋調査船にはえ縄を切断されたり、台湾の巡視船から退去命令を受けたりと中台双方から妨害されている。

台湾漁船が多く操業しているうえ、自分達が中国の漁業取締船に逆に拿捕される危惧があることを訴えている。

日本は憲法で国際紛争の解決の手段として話し合いで解決したいと望むしかないから情けないかぎりだ。

国連は国連憲章第6章で紛争の平和的解決を定めており、軍事的手段による解決を否定している。

特に安全保障理事会は、武力による紛争解決を図った国に対する軍事制裁などを定めた国連憲章第7章に基づく行動を決めることが出来る。しかし、当事者のひとつである中華人民共和国は常任理事国であるため拒否
権をもっている。

第27条3項は『その他のすべての事項に関する安全保障理事会の決定は、常任理事国の同意投票を含む9理事国の賛成投票によって行われる。但し、第6章及び第52条3[18]に基く決定については、紛争当事国は、投票を棄
権しなければならない。』としており、仮に中国が武力による尖閣諸島問題の解決を図った場合、賛否すら表明することが出来なくなる。

日本の国内には民間レベルで灯台の建設を進めたり、定住しようとする計画もあるが、日本政府はそれを押し留めている。外務省が中国に対して弱腰であるという意見も存在するのは当然だ。

たしかに中国が軍事力でアメリカのそれを上回ったと判断した時、尖閣は収奪される。オリンピックの9年後に、ファッショ国は滅びるという加瀬英明原則を信じたい。       2012・4・25



2012年04月26日

◆「尖閣」から身を隠す米国

渡部 亮次郎


「尖閣」問題にアメリカは如何なる態度をとってきたか。調べる為に「ウィキペディア」にあたってみた。

その結果言える事は安保条約も有りながら、何よりも中国への刺激を避けることを最優先に考えており、私から言えば「アメリカは尖閣問題から常に身をかくそうとしている」との印象である。

1972年5月に、アメリカ・ニクソン政権でキッシンジャー大統領補佐官の指導の下、ホワイトハウス国家安全保障会議において「尖閣諸島に関しては(日中などの)大衆の注目が集まらないようにすることが最も賢明」とする機密文書をまとめた。

同年2月に訪中に踏み切ったニクソン政権にとって歴史的和解を進める中国と、同盟国日本のどちらにつくのかと踏み絵を迫られないようにするための知恵だった。

この機密文書には、日本政府から尖閣諸島が日米安保条約が適用されるかどうか問われた際の返答として「安保条約の適用対象」と断定的に答えるのではなく「適用対象と解釈され得る」と第三者的に説明するように政府高官に指示している。

2009年3月、アメリカのオバマ政権は、「尖閣諸島は沖縄返還以来、日本政府の施政下にある。日米安保条約は日本の施政下にある領域に適用される」とする見解を日本政府に伝えた。

同時に、アメリカ政府は尖閣諸島の領有権(主権)については当事者間の平和的な解決を期待するとして、領土権の主張の争いには関与しないという立場を強調している。すなわち、アメリカ政府は、尖閣諸島に対する日本の「施政権」を認めているが「主権」については不明にしている。

1996年9月15日、ニューヨーク・タイムズ紙はモンデール駐日大使の「米国は諸島の領有問題のいずれの側にもつかない。米軍は条約によって介入を強制されるものではない」という発言を伝え、10月20日には大使発言について「尖閣諸島の中国による奪取が、安保条約を発動させ米軍の介入を強制するものではないこと」を明らかにした、と報じた。

この発言は日本で動揺を起こし、米国はそれに対して、尖閣は日米安保5条の適用範囲内であると表明した。米国政府は1996年以降、尖閣諸島は「領土権係争地」と認定(「領土権の主張において争いがある」という日中間の関係での事実認定であって、米国としての主権に関する認定ではない)した。

その一方では、日本の施政下にある尖閣諸島が武力攻撃を受けた場合は、日米安保条約5条の適用の対象にはなる、と言明している。この見解は、クリントン政権時の1996年米政府高官が示した見解と変わらないとされる。

ブッシュ政権時の2004年3月には、エアリー国務省副報道官がこれに加え「従って安保条約は尖閣諸島に適用される」と発言し、それが今でも米政府関係者から繰り返されている。

ただし「安保条約5条の適用」は米国政府においても「憲法に従って」の条件付であって米軍出動は無制限ではない(条約により米国に共同対処をする義務が発生するが「戦争」の認定をした場合の米軍出動は議会の承認が必要である)ことから、「尖閣諸島でもし武力衝突が起きたなら初動対応として米軍が戦線に必ず共同対処する」とは記述されていない
(これは尖閣諸島のみならず日本の領土全般に対する可能性が含まれる)。

むろん「出動しない」とも記述されていない。第5条については条約締改時の情勢を鑑み本質的に「軍事大国日本」を再現することで地域の安定をそこなわないための米国のプレゼンスに重点がおかれているものと一般には解釈されている。なお、米国の対日防衛義務を果たす約束が揺るぎないものであることは、累次の機会に確認されていると日本の外務省は主張している。

2011年11月14日、フィールド在日米軍司令官は日本記者クラブで会見し、尖閣諸島について日米安全保障条約の適用対象とする従来の立場を確認しつつも、「最善の方法は平和解決であり、必ず収束の道を見つけられる。軍事力行使よりもよほど良い解決策だ」と述べ、日中関係改善に期待を示した。

尖閣諸島の主権に限らず、領土主権の認定は、主権認定に関する条約が締結されていた場合には、国際法上、行政権限ではなく国会の権限が優先するというのが通説である。

つまり、サンフランシスコ平和条約に米国政府が調印して米国議会が批准(国会で承認)している以上、オバマ政権の行政府としての政治的判断や政治的発言がどのようなものであっても、それは条約の更改や廃止や破棄として国会の承認(批准)を経たものでないから、条約更改や廃止、破棄としての法的効果は生じていない。

国際法上、米国の国家責任としての尖閣諸島の主権に関する認定は、議会によって条約の更改や廃止、破棄などの決議がされない限り、あくまでもサンフランシスコ平和条約2条に帰結する。


なお、米国政府(行政府)が尖閣諸島の主権が日本にあることを明言しないことは、尖閣諸島の主権が日本にないことを主張したものとはいえない。

つまりブッシュ政権もオバマ政権も、米国政府として「領土権の主張争いには関与しない。」と言っているのであって「尖閣諸島の主権は日本にはない」と主張したことはない。

もっとも、もしそのような明言を米国議会の承認なしにすれば、米国議会が批准した条約、条文を行政府が国会承認の手続を経ず恣意的に変更するわけで、それは明白な越権行為であり米国憲法違反になる。

2010年9月に起こった尖閣諸島中国漁船衝突事件の際は、ヒラリー・クリントン国務長官は、日本の前原誠司外務大臣との日米外相会談で、「尖閣諸島は日米安全保障条約第5条の適用対象範囲内である」との認識を示し、同日行われた会見でロバート・ゲーツ国防長官は「日米同盟における責任を果たす」「同盟国としての責任を十分果たすとし、マイケル・マレン統合参謀本部議長は「同盟国である日本を強力に支援する」と表明している。

2012年04月25日

◆お助け橋・「新」大橋

渡部 亮次郎

今住んでいる東京・江東区から車で隣の中央区(銀座や東京駅)に行くには両国橋か新大橋で隅田川を渡るしかない。電車だと錦糸町から地下へ潜る総武快速線で東京駅までたった8分。但し東京駅で地上に出るまで5分はかかる。

車だと2Km走って新大橋で隅田川を渡れば日本橋と銀座だ。

最近のマスコミは江東区も墨田区も「下町(したまち)」と呼ぶが、戦前(古いネ)要するに60年以上前の東京で下町とは日本橋、京橋、神田、下谷、浅草までで、墨田、江東は括って「墨東(ぼくとう)」と呼ばれ、陰では「川向こう」と蔑まれていた。

余談だが「川向こう」には韓国という意味もある。日本海を川に見立てるからである。

確かに江東区には猿江、墨田区には押上(お仕上げ)、向島(むこうじま)など、この地域が大昔は海だったことを裏付ける地名が残っている。低層の湿地帯だったものを徳川家康が運河を開鑿したり土盛りをしたりして住宅地に仕立てた。

時代がぐっと下って、バブルがはじけたあたりから墨東には高層マンションが林立するようになった。とくに錦糸町駅周辺の変貌は目覚しい。時計精工舎の工場跡地には45階のマンションが2006年に完成した。

また錦糸町駅周辺の再開発も進んでマンションや高層ビルが建った結果、両国の花火は我が家からは見えなくなって久しい。

東京中のゴミを棄てているのが江東区地先の東京湾。そのあたりにもマンションが林立し、戦後わずか25,000だった江東区の人口はいまや 48万人。少子化が叫ばれる中で臨海地に小学校が新たに開設される始末。

都心に極く近い割に土地代の安いところに建った高層マンションだから若いカップルが殺到するように江東区へ移転してくるからこうなった。こちとら老人は被害者、所得税の3倍の住民税をとられている。

話を橋に戻す。隅田川に多くの橋が架かっているが、新大橋はなんで「新」なのか、旧がどこにも見当たらないが。それが田舎者。すぐ上流にかかっている両国橋がもとはただの「大橋」だった。だから1つ下流は新大橋。

新大橋(しんおおはし)は、東京都道・千葉県道50号東京市川線(新大橋通り)を通す。西岸は中央区日本橋浜町2丁目・3丁目、東岸は江東区新大橋1丁目(元安宅町)。付近地下に都営地下鉄新宿線が通る。

最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1693年)12月7日である、隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。

江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたという説がある。

当時の橋は現在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰とした。

橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいる。


「初雪やかけかかりたる橋の上」
「ありがたやいただいて踏むはしの霜」

新大橋は急流のため何度も破損、流出、焼落が多く、その回数は20回を超えた。幕府財政が窮地に立った享保年間に幕府は橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、

町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に永享元年(1744年)には存続を許された。

そこで、維持のために橋詰にて市場を開いたり、寄付などを集めるほかに、橋が傷まないように当時は橋のたもとに高札が掲げられ、

「此橋の上においては昼夜に限らず往来の輩(やすら)うべからず、商人物もらひ等とどまり居るべからず、車の類一切引き渡るべからず(渡るものは休んだりせず渡れ、商人も物乞いもとどまるな、荷車は禁止)」とされた。

その後、明治18(1885)年に新しい西洋式の木橋として架け替えられ、明治45(1912)年7月19日にはピントラス式の鉄橋として現在の位置に生まれ変わった。

この時の設計監理には東京市の技術陣が当たったが、鉄材は全てアメリカのカーネギー社の製品が使われている。これは、明治の末においても未だ我が国の鉄材の生産量が乏しかったためと考えられる。
http://www.meijimura.com/visit/s55.asp

竣工後間もなく市電が開通し、アールヌーボー風の高欄に白い花崗岩の親柱など、特色あるデザインが見られた。そのため貴重な建築物として、現在愛知県犬山市の博物館明治村に中央区側にあたる全体の8分の1、約25mほどが部分的に移築されて保存されている。

戦後、修理補強を行いながら使われていたものの、橋台の沈下が甚だしく、橋の晩年には大型車の通行が禁止され、4t以下の重量制限が設けられていた。昭和52年に現在の橋に架け替えられた。

現在の橋の概要 構造形式 2径間連続斜張橋  橋長 170.0m幅員 24.0m  着工 昭和51年  竣工 昭和52年3月27日 施工主体 東京都  設計 中央技術コンサルタンツ 施工 石川島播磨重工業

歌川広重がその最晩年に描いた名所江戸百景の中に、新大橋は「大はし あたけの夕立」として登場する。ゴッホが特に影響を受けたとされるこの絵は、日本橋側から対岸を望んだ構図である。

「あたけ」というのはこの新大橋の河岸にあった幕府の御用船係留場にその巨体ゆえに係留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸(あたけまる)にちなんで、新大橋付近が俗にそう呼ばれていたからである。

また斎藤月岑の江戸名所図会には「新大橋、三また」として描かれている。「三また(三股、三派)」とは神田川、隅田川、堅川の合流点のことで、新大橋のすぐ上流側であるが、この中州部分は月見、花見、夕涼み、花火見物の名所であり、全盛期には江戸一番の繁盛を見せたといわれる場所である。

新大橋は関東大震災や東京大空襲の際にも隅田川の橋がことごとく焼け落ちる中でも唯一被災せず、避難の道として多数の人命を救ったため、「人助け橋(お助け橋)」と称される。

現在でも橋の西詰にある久松警察署浜町交番敷地裏に「大震火災記念碑」、および「人助け橋の由来碑」があり、付近にある水天宮の御神体もこの橋に避難して難を逃れたと言われている。2007・04・07

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
それ以外の参考資料:
http://www.asahi-net.or.jp/~zr8t-iskw/shinoohashi.htm

2012年04月24日

◆尖閣で騙し続ける中国

渡部 亮次郎


日中国交正常化するとき、1972年9月、田中角栄首相と周恩来の首脳会談で両者が尖閣諸島の帰属問題を話し合ったという発表はなかった。

この時、私はNHKの記者として田中首相に同行したが、会談内容を発表する官房長官二階堂進は「内容は一切発表できません」と繰り返した。

しかし、最近の「ウィキペディア」によると、

<9月27日:日中国交正常化交渉のため中国を訪問した田中角栄内閣総理大臣と周恩来国務院総理との第3回首脳会談の中で、田中角栄が尖閣諸島について問うた。

周恩来は「尖閣諸島問題については、今回は話したくない。今、これを話すのはよくない。石油が出るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない。」と述べている。

これより1年前の1971年7月28日、日中国交正常化交渉の一環として北京で行われた竹入義勝衆議院議員(公明党)と周恩来国務院総理との会談の中で、周恩来が「尖閣列島の問題に関心がなかった」としたうえで、「石油の問題で歴史学者が問題にした」と述べ、中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのは、付近に眠る石油資源が目当てだったことを認めている。

この件は、2010年9月30日に行われた衆議院予算委員会の尖閣諸島中国漁船衝突事件に関する集中審議で取り上げられている(質問者は富田茂之衆議院議員)。

この周恩来の発言は、日本政府の「中華人民共和国政府の場合も台湾当局の場合も1970年後半、東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及び、はじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものです」とする主張を証明するものである。

なお、この会談を記録した中国側の資料では、会談内容が省略されているため「石油の問題で歴史学者が問題にした」に関する部分が記載されていない。

1978年8月8日、福田赳夫内閣で官房長官から外務大臣に横滑りしていた園田直(すなお)が日中平和友好条約締結への最終交渉のため、特別機を仕立てて訪中。私は記者から彼の秘書官に転じていて随行した。

これに先立ち4月、約100隻の中国漁船が尖閣諸島に接近し、領海侵犯、領海内操業を行った。

5月11日には日本の右翼団体「大日本赤誠会」の「尖閣諸島領有決死隊」上陸。日章旗を掲揚。

尖閣諸島の帰属問題では、自民党内でも石原慎太郎ら青嵐会(せいらんかい)が中心で、「帰属問題を解決しない限り、園田外相には平和友好条約には調印させない」と息巻き、福田首相を突き上げていた。

こうした情勢を受けて園田大臣はトウ小平副首相と会談した際、「4月の約100隻の中国漁船による領海侵犯もんだいもあり、この際帰属問題をはっきりさせたい」と提議した。

するとトウ小平はすかさず「この問題は今は棚上げしたい。互いに次世代が知恵をだすだろう」と逃げを打った。園田はなおも食いついたがトウは逃げるばかりだった。

トウはその後、条約の批准書交換のために黄華外相に同行して、この年の秋、日本を初訪問。日本記者クラブで行われた会見の席上で、

「尖閣諸島を中国では釣魚島と呼ぶ。名前からして違う。確かに尖閣諸島の領有問題については中日間双方に食い違いがある。国交正常化の際、両国(田中首相と周恩来総理)はこれに触れないと約束した。

今回、平和友好条約交渉でも同じように触れないことで一致した。中国人の知恵からしてこういう方法しか考えられない、というのは、この問題に触れると、はっきり言えなくなる。

こういう問題は一時棚上げしても構わない、次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」と述べた。

だが周恩来もトウ小平も完全に日本政府を騙したのだ。「知恵」なんて少なくとも中国は出さず、とにかく領有の既成事実化だけを焦って、いまでは武力をちらつかせて日本を脅しにかかっている。
文中敬称略             2012・4・22

2012年04月22日

◆おらゴム長と織田信長

渡部 亮次郎


「おら(俺の)ゴム長と織田信長」は親戚の秋田芸人大潟八郎の間違え節の一節。その伝で行けば敗戦直後に歌手(故人)の淡谷(あわや)のり子はどこか田舎で「ズロースの女王」と宣伝ビラに書かれたのは間違い節だ。

ズロース drawers 「広辞苑」女性用の下ばき。股間部をおおい、太もも丈のゆったりしたもの。

ブルース(blues)は、米国深南部でアフリカ系アメリカ人の間から発生した音楽のひとつ、またはその楽式。19世紀後半頃に米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー(労働歌)などから発展したものと言われている。

アコースティック・ギターの弾き語りを基本としたデルタ・ブルース、バンド形式に発展したシカゴ・ブルース、ロックと融合したブルース・ロックなど、時を経て多様な展開をしている。

しかし日本の場合「ブルース」というと、前記のブルースに影響を受けた淡谷のり子、青江三奈らに流れを発する、「哀しい雰囲気でムードのある歌謡曲」をさす場合の方が多い。

「別れのブルース」「伊勢佐木町ブルース」といったように、歌謡曲や演歌などでタイトルに「ブルース」がつく曲はおおむね、音楽的にはブルースとは別物である。

マイナーブルースに近い構成のものもあるが、メロディーの音階がブルーノートスケールではなく演歌ペンタトニックスケールなどの違いがある。

これらには歌詞が物悲しいことと、アレンジにサックスを多用しているという共通点しかない。

淡谷のり子が本邦初めてブルースと付く名の「流行歌」を歌ったのは昭和12年の春、ソプラノの声をわざと煙草で潰して唄った「別れのブルース」である。作詞藤浦洸で、作曲の服部良一に無理に頼まれて唄った。

窓を明ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える
夜風 潮風 恋風のせて 今日の出船は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの 切なさよ

胸にいかりの 入れずみほって やくざに強い マドロスの
お国言葉は 違っていても 恋には弱い すすり泣き
二度と逢えない 心と心
踊るブルースの 切なさよ

この「別れのブルース」が中国戦線からヒットした。「別れのブルース」は横浜本牧のチャブ屋街をモチーフにし、バンドホテルを舞台にしている。チャブ屋とはいわゆる売春窟である。

淡谷のり子は以後、ブルースと付く何曲も唄い「ブルースの女王」と呼ばれた。

雨のブルース(1938年)
想い出のブルース(1938年)
東京ブルース(1939年)
満州ブルース(1940年)

戦後は
嘆きのブルース(1948年)
君忘れじのブルース(1948年)
遠い日のブルース(1963年)

ところがブルースをブルーズと濁って(正式に)発音したのは1回目の「別れの・・・」時だけで、なぜか以後はすべて濁らずに唄っている。

ブルースの本来の発音はブルーズで、作為的にbluezと綴られる事もある、と解説書にはあるのだから、日本のブルースはブルースでは無いというのは本当だろう。

本当のブルーズが日本では、1970年代にブームが起こった。 1971年、B.B.キングが初来日を果たす。 1973年にスリーピー・ジョン・エスティスの「スリーピー・ジョン・エスティスの伝説(The Legend of SleepyJohn Estes)」がオリコン・チャートに食い込む大ヒットとなる。

1974年、「第1回ブルース・フェスティバル」開催。同フェスティバルは第3回まで開催され、エスティスを始めロバート・ロックウッド・ジュニア&エイセズ、オーティス・ラッシュらの来日が実現した。

日本でも京都、大阪を中心にウェスト・ロード・ブルース・バンド、憂歌団など、ブルース・バンドが登場。日本の独自のブルース・シーンが形成されて行く。

日本のはブルースではないブルース。間違え節の落ちである。
参考:ウィキペディア  誰か昭和を思わざる 
http://www.geocities.jp/showahistory/music/singera01.html
(再掲)


2012年04月18日

◆死に損い心臓脚気

渡部 亮次郎


中学3年の夏、野球部の合宿中、グラウンドで突然、意識を喪って昏倒。担ぎ込まれた病院で「心臓脚気です」と告げられた。

<しんぞうかっけ beriberi heart

ビタミン B1欠乏症(脚気)によって心臓の機能が障害された状態。ビタミン B1が欠乏すると,心筋のエネルギー代謝も障害されて,血液の拍出量が低下し,心不全に陥る。

この結果,各種の神経症状とともに,頻拍,血圧低下,浮腫,呼吸促迫などの症状がみられるようになる。重症になると心臓肥大を伴うようになり,わずかな運動でも急に胸苦しくなる。このような状態を〈脚気衝心〉といい,死亡することもある。

ビタミン B1を補給すると急速に回復する。日本では第2次大戦中から戦後にかけて発生したが,栄養状態の改善によってほとんどみられなくなった。>世界大百科事典

担任の先生が毎日、教員室でビタミンB1を注射してくださったので1週間ぐらいで回復した。先生は医師法違反だったろうが、とにかく私は死を免れた。

野球で勝つ為に合宿までしていたのだが、3学期には高校入試を控えていた。そこで野球の疲れを早く回復させるためにと、砂糖を大量になめた。

疲労はなるほど早期に回復したが、砂糖が分解する為にはビタミンB1を大量に消費すること、つまり甘味料の大量消費はビタミンB1欠乏症たる「脚気」を招くことを知らなかったのである。

日本では戦後、アリナミンが発明されたことにより、脚気は知る人のない病となったが、最近、息を吹き返している。

<1954(昭和29)年3月、アリチアミンの内服薬「アリナミン錠」が、翌年3月には注射薬の「アリナミン注」が発売された。ともに従来のビタミンB1剤に見られない優れた効果をしめした。その効果によってアリナミンは、治療薬・保健薬として医学界にも社会にもひろく歓迎され、また同業他社をおおいに刺激した。

1968(昭和43)年までに11種類のB1新誘導体が発売されたのである。アリナミンとその類似品の浸透により、手の打ちどころがなかった潜在性脚気が退治されることとなった。

国民の脚気死亡者は、1950(昭和25)年3,968人、1955(昭和30)年1,126人、1960(昭和35)年350人、1965(昭和40年)92人と減少した。

しかし、1975(昭和50)年には脚気が再燃した。原因には砂糖の多い飲食品や副食の少ないインスタント食品といったビタミンの少ないジャンクフードがあることが分かった>(「ウィキペディア」)。


2012年04月17日

◆公選断念して首相になれた中曽根

渡部 亮次郎


首相公選制(しゅしょうこうせんせい)は首相を国民が選挙によって直接的に選ぶ制度である。

イスラエルでは1992年から2001年まで首相公選制を導入していたが、現在(2011年)実施している国は存在しない。

日本では中曽根康弘が若い頃主張し、全国の鉄道沿線に看板を建てていたが、日米安保条約反対と首相公選論を言わなくなったところで、自民党内で首相候補とようやく認められて、実際総理総裁になった。

知事を辞めて大阪市長になった橋本徹が最近唱えだした。これを世間は「自分が手っ取り早く首相になる為の便法だろう」と冷たい。そのあたり私には逆に橋下が若い頃の中曽根にみえる。

私が河野派担当した頃の中曽根は、「これは自分の為ではない」と言っていた。あるいは、国民の人気は絶大ながら党の元老吉田茂元首相に阻まれている河野一郎を首相にするため、といったこともあったかもしれないが、河野自身は彼を死ぬまで信用してなかった。

首相職を設置する国家では議会による選出かが一般的である。しかし、国民の多数が首相就任を望む人物が必ずしも首相に就任するとは限らず、国民の意思と乖離する可能性がある。

首相公選制は首相を選挙により直接的に選出することで、国民の意思に基づいた首相による行政運営が行われることを主眼とする。

敗戦後、最初に首相公選論を提唱したのは、1945(昭和20年12月に幣原内閣の憲法問題調査委員会において「憲法改正に関する意見書」を提出した野村淳治東京大学名誉教授であるといわれる。

その後、中曽根康弘が1961年に直接の国民投票による首相公選制度を提唱したことで広く知られるようになった。

2000年に発足した森内閣が自民党の一部の幹部の話し合いで誕生したこと(五人組)から、導入意見が一時盛り上がったことがある。

元首相の小泉純一郎は2001年6月26日に「首相公選制を考える懇談会」を開催し、首相公選制など、総理大臣と国民との関係を検討し、具体的提案をすることとした。2002年8月7日には12回にわたる会議の結果を踏まえ「首相公選制を考える懇談会」報告書が小泉に提出された。

首相公選制に積極的な意見としては次のような点を根拠として挙げる。

派閥、政治抗争、政情不安定などの要因はイギリス型の議院内閣制が日本に適合しないことに起因する。

国会と政府、議院と大臣との関係を断ち切り、派閥政治・族議員政治・国対政治の弊害を克服し、強力な首相権力の下で政治的統合を図ること
ができる。

首相の任期が保障される制度をとる場合には安定的な政権基盤による政権運営が可能となる。

民意を統合するもので主権在民の原理を前進させるものである。国民の政治意識・責任感を向上させるものである。

議会における野党側も首相候補を擁立できる。

国会議員に限らず民間人など幅広い人材を発掘することができる

ただし、立候補の資格要件については議論がある。

国民が選挙戦を通じて指導者としての資質をみる機会をうむ。

首相公選制に消極的な意見としては次のような点を問題点として挙げる。

日本国および日本国民統合の象徴である天皇の地位と衝突する(#天皇制
との関係における問題)。

立法部と行政部の関係が疎遠なものとなり両者に不一致を生じたときに
国政の停滞を生じる(#議会制との関係における問題)

派閥、政治抗争、政情不安定などの要因が議院内閣制によるものとみるのは的外れである。

これらの問題の根因と考えられてきた問題は議院内閣制(内閣制度)の問題ではなく政党あるいは官僚機構にある(中選挙区制度、政党の利権共同体としての体質、派閥抗争、内閣と与党の二元構造、党運営上の平等主義、政権交代の欠如、官僚機構の分担管理原則、予定調和的な政策形成など)との指摘がある。

大統領制のアメリカとは政治的伝統や諸条件が大きく異なる。

イギリス型の議院内閣制が日本に適合しないという主張に対しては、イギリス以上にアメリカとわが国とでは政治的・社会的・経済的に異なるとの指摘がある。

ポピュリズムに陥り煽動的政治家の出現を招くおそれがある。


このほか議会が首相に対するチェック機能を果たせなくなり首相の強権的政治に陥るおそれがあるのではないかとの指摘もある。

国民による直接選挙により国政の最高指導者が選出されるとき、その指導者は極めて強い正統性を帯びることになる。アメリカ合衆国大統領のように、通常、共和制をとる国では大統領が元首とされる。

日本で首相公選制を採用する場合、国民が直接選出した公選首相と国民統合の象徴である天皇との関係が問題点として指摘される。

公選首相は国民を直接代表する地位にあるため必然的に大統領的な性質を帯びるものとなり、日本国及び日本国民統合の象徴であり事実上元首としての役割も担っている天皇の地位と矛盾するのではないかという問題がある。

首相公選制を採用する場合、首相も議会も国民からそれぞれ直接的に選出されることになることから、首相と議会多数派が一致するという保証はなくなり、首相の所属政党と議会の多数政党が異なるねじれ現象が常態化して国政の停滞を招くのではないかとの問題がある]。

首相が議会内に安定的な基盤を有しない場合には、立法権を有する議会との対立から国政が立ち行かなくなるのではないかとの懸念である。

問題はなかなか解決案を見出せないだろう。

関連して考えるのだが、今の小選挙区制実施の経緯を思い出す。記者時代の他社の友人たちは「政界の悪の根源たる派閥を解消するためを優先した考えも持ち主が多く、選挙制度審議会の委員になって、これを主張した。

現場の政治家たちも、これに引きづられてあっという間に小選挙区制が実施された。これに対してわたしは選挙区が狭隘化する結果、輩出する政治家が小粒になることを理由に反対したが、委員じゃなかったので意見は無視された。

それが最近になってよう焼く現実のものとして当の議会もようやく自分で気づき、考えるようになった。喜ばしい。敬称略 2012・4・14
       出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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2012年04月16日

◆「大紀元」を知ってますか

渡部 亮次郎


大紀元(だいきげん、英: The Epoch Times)は、新聞とインターネットを報道媒体とする華僑系報道機関である。

2000年5月、ニューヨークで“中国共産党言論統制を突破する”華人たちによって設立された。2011年1月現在、新聞では9ヶ国語、ウェブサイトでは17ヶ国語でそれぞれ各国支局により運営されている。

日本では東京都台東区に事務所を置き、中国語版を2001年、日本語版を2005年から発行している。

数年前、私は東京での社員集会に招かれて講演したことがある。社員の多くは来日後「反共」になった中国人女性が大部分だった。

アメリカ国内に11の支社を持ち、日本やカナダ、イギリス、ドイツなど、世界30カ国にグループ社がある。

ワシントンD.C.やニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ボストン、カナダ、オーストリア、香港、台湾では日刊で、他の国・地域では週刊で発行している。

全世界での中国語版の発行は週120万部。他に英語版、ドイツ語版、フランス語版、ロシア語版、韓国語版、日本語版を発行。

紙面およびウェブサイトで、「中国共産党の圧力に屈せずいかなる検閲も受けていない」ことを売りにしており、「中国国内では発信されない自由民主に基づく視点」で、中国時事や文化記事を中心に報道している。

中国大陸以外で生活する中国人向けに記事は書かれており、中国共産党の内政や外交問題を報道し続けている。特に中国共産党に対する報道姿勢は非常に批判的である。

特に中国大陸における法輪功迫害問題(例:大量虐殺罪と拷問罪で中国前江沢民国家主席がスペインおよびアルゼンチン裁判所で民事告訴されるなどについては、他メディアが取り上げない事実を報道している。

他にもチベット民族、ウイグル民族やモンゴル等の少数民族に対する虐殺や人権蹂躙に関する問題、中国共産党員の国外スパイ活動、中国大陸の環境問題、中国の民主化運動などについて盛んに報じている。

『九評共産党(共産党についての九つの論評)』という社説を発表したこの中で大紀元は中国共産党の暴政を糾弾し、同党の解体要因を指摘した。

九評共産党について中華民国元総統・李登輝は、「人も山河もみな、本源へ帰る。奥の細道にたたずむ平安のみなもとを希求するすべての人々に、この本を薦める」と評価し、「道徳的覚醒を促す」と出版社博大書店へメッセージを送った。

中国臓器狩り問題 の追究に熱心だ。2006年3月、中国人ジャーナリストR氏は大紀元の単独取材の中で、東北部の瀋陽市近郊にある大型刑務所に数千人の法輪功学習者が監禁され、当局が彼らを殺害した後、販売目的で臓器を摘出している事を暴露した。

同問題が世界に明るみになった後、カナダの著名人権弁護士デービッド・マタスと、カナダ政府元内閣大臣デービッド・キルガーは中国の臓器狩り問題について調査依頼を受け、2007年7月、法輪功学習者が生きたまま臓器を摘出されるというショッキングな内容を含んだ報告書「血塗られた臓器狩り」を発表した。

この問題は世界のメディアや人権団体が注視している。この件でアルゼンチンやオランダ、スペインなどで江沢民らを「人道に対する罪」で起訴する動きがある。

受賞  2005年8月、アジア系アメリカ人ジャーナリスト協会の全国報道賞、アジア・アメリカ問題ネット報道部門で優秀賞を受賞。 2005年9月、カナダ全国マイノリティーメディア協会の2005年メディア賞を受賞。

2006年4月20日、アメリカのホワイトハウスで行われた中国の胡錦濤国家主席の歓迎式典で、大紀元の女性記者・王文怡(ワン・ウェンイ)が式典中、ジョージ・ブッシュ大統領の目前で胡錦濤を批判する発言(中国共産党による臓器狩り問題に対して抗議する内容)を叫んだとして、国際問題になった。

その後、大紀元はアメリカ政府に謝罪し、王記者は解雇された。2012・4・9

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://www.epochtimes.jp/

2012年04月13日

◆鰰寿司で死人出た昔

渡部 亮次郎


<トリカブト中毒か、長男と父死亡=山菜と誤り食べる―北海道

7日午後9時20分ごろ、北海道函館市釜谷町の漁業沢田繁さん(71)方で、夕食に山菜を食べた沢田さんら3人が嘔吐(おうと)などの症状を訴えていると119番があった。

漁業の長男繁信さん(42)が間もなく死亡し、重体だった沢田さんも8日夜に死亡した。建設作業員の次男貴信さん(41)は、命に別条はないという。

道警函館中央署は、別の山菜と誤って猛毒を含むトリカブトを食べたとみて経緯を調べている。

同署によると、繁信さんは7日に山菜を採って帰り、「ニリンソウなので、おひたしにするとうまい」と話し、午後5時半ごろ家族で夕食として食べたという。

一家は5人暮らしで、山菜を食べなかった沢田さんの妻(65)と長女(44)は無事だった。> 時事通信 4月8日(日)22時33分配信

子供の頃、郷里秋田では、田植え時、田圃で昼時に食べた鰰(はたはた)の飯寿司が原因の集団食中毒がおきて県内各地から悲報が伝えられたものだ。農村でも上水道が普及した現在では全く聞かれなくなって幸いである。

ボツリヌスという地上最強の毒がある。以下「ウィキペディア」による。

ボツリヌス毒素の致死量は体重70kgのヒトに対しA型毒素を吸入させた場合、0.7?0.9μgと考えられており、ボツリヌス毒素1gの殺傷力は約100万人とも言われる(ちなみに青酸カリは経口投与の場合5人/g)。自然界に存在する毒素としては最も強力である。

この毒は海のヘドロに棲んでいて、日本海を遊弋しながら成長する鰰の下腹に付着する。それをだいたまま鰰は産卵のため初冬の秋田沿岸二接近する。漁民はそれを掬って捕獲、市販する。

「秋田名物、八森(はちもり)鰰、男鹿で男鹿ブリコ」と唄われる所以である。ブリコとは鰰が排出した卵のこと。噛めばプリプリと音がするところから秋田弁ではブリコになった。

勿論、私は現場をみたことはないが、産卵の海域ではブリコに掛ける雄の精子で水面が白濁するそうだ。

時は12月。農家のひとたちは鰰を大量に買い入れて来年春の田植え時の昼飯かわりにすべく飯寿司を大量に漬け込む。そうやって寝かした飯寿司を田圃で食べたら、間もなくみんながバタバタと倒れた。集団食中毒事件の発生である。

外した雨戸に載せて医者に担ぎこむが、意識は確りしている。

<ボツリヌス毒素は主に四肢の麻痺を引き起こす。重篤な場合は呼吸筋を麻痺させ死に至る。その他、複視・構音障害・排尿障害・発汗障害・喉の渇きがみられる。一方、発熱はほとんどなく、意識もはっきりしたままである>。

私の子供のころはこうした事故というか事件というか、集団で、数人か十数人が死んだというニュースが新聞で報じられた。テrビはまだなかった。

研究によると、鰰の下腹に付着したボツリヌス菌は悪いことに飯寿司のように発酵したところが大好き。大繁殖する。100度の熱で死滅するのだが、それでは飯寿司ではない。

だから綺麗な水でよくよく洗って菌をながしてから漬ければ問題はないのだが、井戸生活の農村では水をじゃぶじゃぶ使わなかったから、ボツリヌスは飯すしの中で大繁殖していたのである。

中毒例

日本では、飯寿司(いずし)、熟寿司(なれずし)、切り込み(きりこみ)などの郷土料理による中毒が北海道・東北地方を中心に報告されている(E型による)。

東北の農村とはいえ、上水道は殆ど100%と普及した為、鰰寿司を漬ける時は念をいれて洗ってから漬け込むようになったので、昔のような例は全く聞かなくなった。

私も時々、秋田県内の専門店からとりよせて焼酎の肴にしている。年中無休で販売されている。

1984年、熊本県で製造された真空パックの辛子蓮根を食べた36人(1都12県)がボツリヌス菌(A型)に感染し、内11名が死亡した。原料のレンコンを加工する際に滅菌処理を怠り、なおかつ真空パックし常温で保管流通させたために、土の中に繁殖する嫌気性のボツリヌス菌がパック内で繁殖したことが判明した。

2006年12月8日厚生労働省は、井戸水の飲用から宮城県の0歳男児に乳児ボツリヌス症が発症したと発表。

同省によれば、飲料水による同症が確認されたのは世界で初めてとのこと。乳児ボツリヌス症は、国内では1986年千葉県での初発例以来約20例(生後1〜9ヶ月)の報告がある。しかし半数以上は、はちみつを食べて発症したケース。

患者宅の井戸水から検出されたボツリヌス菌の汚染源は特定されていない。またどのような飲料水について、乳児ボツリヌス症の発症リスクが高いのかは必ずしも解明されていない。

対象の井戸に亀裂があり、雨天時に水が濁っていたことから、この井戸固有の問題であり、全ての井戸・地下水が問題となっているものではない。

2012年3月24日、鳥取県米子市の60歳代夫婦が岩手県宮古市のハニー食品が製造する「あずきばっとう」を食べてボツリヌス菌に感染した。

ボツリヌス菌による食中毒の発生は5年ぶりで厚生労働省は12年3月26日注意を呼びかける文書を全国の自治体に送った。

ボツリヌス菌(学名:Clostridium botulinum)は、クロストリジウム属の細菌である。グラム陽性の大桿菌および偏性嫌気性菌。土の中に芽胞の形で広く存在する。

菌は毒素の抗原性の違いによりA〜G型に分類され、ヒトに対する中毒はA,B,E,F型で起こる。A、B型は芽胞の形で土壌中に分布し、E型は海底や湖沼に分布する。

ボツリヌスの語源はラテン語のbotulus(腸詰め、ソーセージ)であり、19世紀のヨーロッパでソーセージやハムを食べた人の間に起こる食中毒であったためこの名がついた。

ハムやソーセージに発色剤として添加される硝酸塩は、発色作用よりもボツリヌス菌の繁殖を抑える目的で使用されている。

1896年、ベルギーの医学者エミール・ヴァン・エルメンゲム (Emile van Ermengem) により発見・命名された。2012・4・8

2012年04月11日

◆鰰寿司で死人出た昔

渡部 亮次郎


<トリカブト中毒か、長男と父死亡=山菜と誤り食べる―北海道

7日午後9時20分ごろ、北海道函館市釜谷町の漁業沢田繁さん(71)方で、夕食に山菜を食べた沢田さんら3人が嘔吐(おうと)などの症状を訴えていると119番があった。

漁業の長男繁信さん(42)が間もなく死亡し、重体だった沢田さんも8日夜に死亡した。建設作業員の次男貴信さん(41)は、命に別条はないという。

道警函館中央署は、別の山菜と誤って猛毒を含むトリカブトを食べたとみて経緯を調べている。

同署によると、繁信さんは7日に山菜を採って帰り、「ニリンソウなので、おひたしにするとうまい」と話し、午後5時半ごろ家族で夕食として食べたという。

一家は5人暮らしで、山菜を食べなかった沢田さんの妻(65)と長女(44)は無事だった。> 時事通信 4月8日(日)22時33分配信

子供の頃、郷里秋田では、田植え時、田圃で昼時に食べた鰰(はたはた)の飯寿司が原因の集団食中毒がおきて県内各地から悲報が伝えられたものだ。農村でも上水道が普及した現在では全く聞かれなくなって幸いである。

ボツリヌスという地上最強の毒がある。以下「ウィキペディア」による。

ボツリヌス毒素の致死量は体重70kgのヒトに対しA型毒素を吸入させた場合、0.7?0.9μgと考えられており、ボツリヌス毒素1gの殺傷力は約100万人とも言われる(ちなみに青酸カリは経口投与の場合5人/g)。自然界に存在する毒素としては最も強力である。

この毒は海のヘドロに棲んでいて、日本海を遊弋しながら成長する鰰の下腹に付着する。それをだいたまま鰰は産卵のため初冬の秋田沿岸二接近する。漁民はそれを掬って捕獲、市販する。

「秋田名物、八森(はちもり)鰰、男鹿で男鹿ブリコ」と唄われる所以である。ブリコとは鰰が排出した卵のこと。噛めばプリプリと音がするところから秋田弁ではブリコになった。

勿論、私は現場をみたことはないが、産卵の海域ではブリコに掛ける雄の精子で水面が白濁するそうだ。

時は12月。農家のひとたちは鰰を大量に買い入れて来年春の田植え時の昼飯かわりにすべく飯寿司を大量に漬け込む。そうやって寝かした飯寿司を田圃で食べたら、間もなくみんながバタバタと倒れた。集団食中毒事件の発生である。

外した雨戸に載せて医者に担ぎこむが、意識は確りしている。

<ボツリヌス毒素は主に四肢の麻痺を引き起こす。重篤な場合は呼吸筋を麻痺させ死に至る。その他、複視・構音障害・排尿障害・発汗障害・喉の渇きがみられる。一方、発熱はほとんどなく、意識もはっきりしたままである>。

私の子供のころはこうした事故というか事件というか、集団で、数人か十数人が死んだというニュースが新聞で報じられた。テrビはまだなかった。

研究によると、鰰の下腹に付着したボツリヌス菌は悪いことに飯寿司のように発酵したところが大好き。大繁殖する。100度の熱で死滅するのだが、それでは飯寿司ではない。

だから綺麗な水でよくよく洗って菌をながしてから漬ければ問題はないのだが、井戸生活の農村では水をじゃぶじゃぶ使わなかったから、ボツリヌスは飯すしの中で大繁殖していたのである。

中毒例

日本では、飯寿司(いずし)、熟寿司(なれずし)、切り込み(きりこみ)などの郷土料理による中毒が北海道・東北地方を中心に報告されている(E型による)。

東北の農村とはいえ、上水道は殆ど100%と普及した為、鰰寿司を漬ける時は念をいれて洗ってから漬け込むようになったので、昔のような例は全く聞かなくなった。

私も時々、秋田県内の専門店からとりよせて焼酎の肴にしている。年中無休で販売されている。

1984年、熊本県で製造された真空パックの辛子蓮根を食べた36人(1都12県)がボツリヌス菌(A型)に感染し、内11名が死亡した。原料のレンコンを加工する際に滅菌処理を怠り、なおかつ真空パックし常温で保管流通させたために、土の中に繁殖する嫌気性のボツリヌス菌がパック内で繁殖したことが判明した。

2006年12月8日厚生労働省は、井戸水の飲用から宮城県の0歳男児に乳児ボツリヌス症が発症したと発表。

同省によれば、飲料水による同症が確認されたのは世界で初めてとのこと。乳児ボツリヌス症は、国内では1986年千葉県での初発例以来約20例(生後1〜9ヶ月)の報告がある。しかし半数以上は、はちみつを食べて発症したケース。

患者宅の井戸水から検出されたボツリヌス菌の汚染源は特定されていない。またどのような飲料水について、乳児ボツリヌス症の発症リスクが高いのかは必ずしも解明されていない。

対象の井戸に亀裂があり、雨天時に水が濁っていたことから、この井戸固有の問題であり、全ての井戸・地下水が問題となっているものではない。

2012年3月24日、鳥取県米子市の60歳代夫婦が岩手県宮古市のハニー食品が製造する「あずきばっとう」を食べてボツリヌス菌に感染した。

ボツリヌス菌による食中毒の発生は5年ぶりで厚生労働省は12年3月26日注意を呼びかける文書を全国の自治体に送った。

ボツリヌス菌(学名:Clostridium botulinum)は、クロストリジウム属の細菌である。グラム陽性の大桿菌および偏性嫌気性菌。土の中に芽胞の形で広く存在する。

菌は毒素の抗原性の違いによりA〜G型に分類され、ヒトに対する中毒はA,B,E,F型で起こる。A、B型は芽胞の形で土壌中に分布し、E型は海底や湖沼に分布する。

ボツリヌスの語源はラテン語のbotulus(腸詰め、ソーセージ)であり、19世紀のヨーロッパでソーセージやハムを食べた人の間に起こる食中毒であったためこの名がついた。

ハムやソーセージに発色剤として添加される硝酸塩は、発色作用よりもボツリヌス菌の繁殖を抑える目的で使用されている。

1896年、ベルギーの医学者エミール・ヴァン・エルメンゲム (Emile van Ermengem) により発見・命名された。2012・4・8

2012年04月09日

◆「東京遷都」は法令上ない

渡部 亮次郎


都を京都から東京に移す(遷都)ことを決めた勅語、法令は何処を捜しても無い。ただ明治天皇が、いわば勝手に主(徳川家)のいなくなった江戸城にやってきて、いつか、そのまま居付いてしまった。それについてきた側近や薩長もなんとなく江戸にいついた。既成事実の継続の結果「遷都」が行なわれたものと、誤解している国民が大部分な事は事実だ。

以下「ウィキペディア」による。

「東京奠都」と「東京遷都」の語の使い方を巡っては議論がある。一義的には「奠都」は都を定める事を表すのに対して「遷都」は都を移す事をいうが、実質的にはほぼ同じ意味である。

もともと奠都の語は、明治28年(1895年)に京都市が延暦13(794)年の平安遷都を「平安奠都千百年記念祭」と称して祝っているように遷都と同じ意味で広く用いられる言葉である。

明治31(1898)年に東京奠都30周年を記念して出版された『奠都三十年』(『太陽』第4巻第9号臨時増刊)のなかでは、東京も京都も帝都であるとしつつ東京遷都という表現も同時に見られ、京都は依然帝都で、政治上の必要から江戸にも帝都を定めたのだから遷都と言うことは妥当ではないとする声(井上頼国)も紹介された。

その後、大正期に入った大正6(1917)年、東京奠都の本格的な研究を岡部精一が初めて著し、そのなかで「東京の奠鼎(奠都)は遷都にあらず」とし、遷都の発表はなく、今日に至るまで都を東京に遷されたのではなく、東京は京都とともに並立して帝都の首都であることは明らかであるとした。

続いて大正8(1919)年、東京市役所の発行した『東京奠都』も、東京奠都は京都留守居官の廃止で完了したが、「その名義に於ては、いつまでも東西両京の並立で、遷都といふ事は、つひに公然発表せられたことはなく」、「京都も一の帝都であるが、事実に於て遷都の事はいつのまにか行はれてゐた」とした。

これらの考え方によると、東京奠都に関しては都を移す「遷都」を語を避け、京都と2つ帝都としたのだから都を定める「奠都」と称すべきであるとされる。

現代では一般に「遷都」の語は首都移転の意味にも使われ、「首都が東京に移った」などとも表現される。『京都の歴史』第7巻は、2度目の東幸(明治2年3月)の際の太政官を東京に移す発表を事実上の遷都宣言とし、事実上の首都の座を東京にわたしたとしている。

佐々木克(平13、2001)は、「遷都」より「奠都」が実態を適切に表現するものであったかもしれないとし、京都は都であることを否定されなかったとしながらも、京都が政府機関の置かれる帝都(首都)として復活しなかったため、「奠都」よりも「遷都」が実態を正確に表現しているとしている(同書では首都移転を「遷都」として「東京遷都」が主張さ
れている)。

以上のように東京奠都を首都の問題と絡めて論じられることもあるが、現在に至るまで法令上「首都」の定義・規定がなされておらず(第142回国会衆議院特別委員会)、日本における従来の「みやこ」(都・京)と「首都」の関係は定かでない。


首都建設法

1950年(昭和25年)には、東京都を日本の首都として新しく計画することが明確に定められた「首都建設法」が制定された。同法は、当時数多く制定された特別都市建設法の一つである。

首都建設法(昭和25年法律第219号)

第十二条 東京都の区域により行う都市計画事業については、東京都が国の首都であることにかんがみて必要と認めるときは、建設省、運輸省その他その事業の内容である事項を主管する行政官庁がこれを執行することができる。(後略)

首都圏整備法(現行法)

首都が東京都であることを明記した首都建設法は廃止されたが、その理由は東京都が首都でなくなったからではなく、あくまで同法の目的(首都の建設)が達成されたため、整備の対象を「首都」から「首都とその周辺地域」に広げるための発展的なものであり、後継法である首都圏整備法とは連続性、一体性を有するものである。

そのため、別途に廃止法を制定するのではなく、首都圏整備法の附則により廃止する形を採った。

首都圏とは「首都+圏(その周辺地域)」であるところ、首都圏整備法は「首都」部分を前身法で既に首都と定めた「東京都」と明確に定めることで、その変更に国会の議決を義務付け、「その周辺地域」部分は下位法令(政令)に委任することで、国会の議決なく柔軟に変更できる余地を残す形で、前身法の首都の定義を継承している。
首都圏整備法(昭和31年法律第83号)

(定義)

第二条 この法律で「首都圏」とは、東京都の区域及び政令で定めるその周辺の地域を一体とした広域をいう。
附則

(首都建設法の廃止)
4 首都建設法(昭和二十五年法律第二百十九号)は、廃止する。

               引用・執筆:2012・4・7

2012年04月07日

◆戊辰戦争を知らずに老いる

渡部 亮次郎


私は大学まで出る事が出来たが、戊辰戦争のことは中学・高校はもちろん、大学でも近現代の日本史を教わる事は無かった。政府の方針だったのだろう。

そこで、ある日、自分で学ぶことを決意した。NHK記者になってから秋田、大館、仙台、盛岡に合計6年間駐在したが、生まれ在所の秋田とは、なんとなしの違和感が、いつも感じられた。

大館駐在の際は、隣の鹿角郡をも担当したが、大館に対する敵意みたいなものすら感じた。あの郡は元は盛岡藩だったが、戊辰戦争で割譲されたのだった、と後で知った。

高校を出るとき、仙台にある東北大学にだけは進みたくなかった。これも戊辰戦争以来、秋田人は仙台を敵視する風習が子供にまで浸みていた
からだろう。

そういう戊辰戦争なのだが、今となっては「ウィキペディア」を丸呑みする以外に簡単な手段はない。

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 -1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。

明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められる
こととなった。

以下の日付は、断りのない限り旧暦で記す。

江戸時代の日本は徳川幕府と諸大名による封建国家であったが、戊辰戦争を経て権力を確立した明治新政府によって行われた諸改革(明治維新)により、近代的な国民国家の建設が進んだ。

戊辰戦争は研究者によって次のように規定されている。 「日本の統一をめぐる個別所有権の連合方式と、その否定及び天皇への統合を必然化する方式との戦争」(原口清)、「将来の絶対主義政権をめざす天皇政権と徳川政権との戦争」(石井孝)

石井はさらにこれを次の三段階に分けた。

 1.「将来の絶対主義的全国政権」を争う「天皇政府と徳川政府との戦争」(鳥羽・伏見の戦いから江戸開城)

 2.「中央集権としての面目を備えた天皇政府と地方政権“奥羽越列藩同盟”との戦争」(東北戦争)

 3.「封禄から外れた旧幕臣の救済」を目的とする「士族反乱の先駆的形態」(箱館戦争)

薩摩藩など新政府側はイギリスとの好意的な関係を望み、トーマス・グラバー(グラバー商会)等の武器商人と取引をしていた。

また旧幕府はフランスから、奥羽越列藩同盟・会庄同盟はプロイセンから軍事教練や武器供与などの援助を受けていた。いずれの陣営とも外国の軍隊の直接派兵を要請することはなかったため、欧米列強による内政干渉や武力介入という事態は避けられた。

慶応3年(1867年)10月14日に江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は日本の統治権返上を明治天皇に奏上、翌15日に勅許された(大政奉還)。慶喜は10月24日に征夷大将軍職の辞任も朝廷に申し出る。

朝廷は上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会議召集までとの条件付ながら緊急政務の処理を引き続き慶喜に委任し、将軍職も暫時従来通りとした。

つまり実質的に慶喜による政権掌握が続くこととなった。慶喜の狙いは、公議政体論のもと徳川宗家が首班となる新体制を作ることにあったと言われる。

しかし、予定された正式な諸侯会議の開催が難航するうちに、雄藩5藩(薩摩藩、越前藩、尾張藩、土佐藩、安芸藩)は12月9日にクーデターを起こして朝廷を掌握、王政復古の大号令により幕府廃止と新体制樹立を宣言した。

新体制による朝議では、薩摩藩の主導により慶喜に対し内大臣職辞職と幕府領地の朝廷への返納を決定し(辞官納地)、禁門の変以降京都を追われていた長州藩の復権を認めた。

慶喜は辞官納地を拒否したものの、配下の暴発を抑えるため二条城から大坂城に移った。経済的・軍事的に重要な拠点である大坂を押さえたことは、その後の政局において幕府側に優位に働いた。

12月16日、慶喜は各国公使に対し王政復古を非難、条約の履行や各国との交際は自分の任であると宣言した。新政府内においても山内容堂(土佐藩)・松平慶永(越前藩)ら公議政体派が盛り返し、徳川側への一方的な領地返上は撤回され(新政府の財源のため、諸侯一般に経費を課す名目に改められた)、年末には慶喜が再上洛のうえ議定へ就任することが確定するなど、辞官納地は事実上骨抜きにされつつあった。

新政府内で孤立を深めた薩摩藩は、旧幕府勢力と戦端を開くことを欲し、各地で騒擾工作を行った。江戸市中においても薩摩藩士及び彼らと通じた浪士により放火・強盗などが繰り返され、江戸の町は混乱に陥った。

12月23日には江戸城西ノ丸が焼失するが、これも薩摩藩と通じた奥女中の犯行と噂された。同日夜、江戸市中の警備にあたっていた庄内藩の巡邏兵屯所への発砲事件が発生。

これも薩摩藩が関与したものとされ、老中・稲葉正邦は庄内藩に命じ、江戸薩摩藩邸を襲撃させる(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。この事件の一報は、江戸において幕府側と薩摩藩が交戦状態に入ったという解釈とともに、大坂城の幕府首脳のもとにもたらされた。

一連の事件は大坂の旧幕府勢力を激高させ、勢いづく会津藩らの諸藩兵を慶喜は制止することができなかった。慶喜は朝廷に薩摩藩の罪状を訴える上表(討薩の上表)を提出、奸臣たる薩摩藩の掃討を掲げて、配下の幕府歩兵隊・会津藩・桑名藩を主力とした軍勢(総督・老中格大河内正質)を京都へ向け行軍させた。

臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫(薩摩藩主島津茂久)奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸
臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候。

慶応4年1月2日(1868年1月26日)夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、事実上戦争が開始される。

翌3日、慶喜は大坂の各国公使に対し、薩摩藩と交戦に至った旨を通告し、夜、大坂の薩摩藩邸を襲撃させる。同日、京都の南郊外の鳥羽および伏見において、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態となり、ここに鳥羽・伏見の戦いが開始された。

両軍の兵力は、新政府軍が約5000人、旧幕府軍が約1万5000人と言われている。

新政府軍は武器では旧幕府軍と大差なく、逆に旧幕府軍の方が最新型小銃などを装備していたが、初日は緒戦の混乱および指揮戦略の不備などにより旧幕府軍が苦戦となった。

翌1月4日も旧幕府軍の淀方向への後退が続き、同日仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍と為し錦旗・節刀を与え出馬する朝命が下った。薩長軍は正式に官軍とされ、以後土佐藩なども新政府軍に参加した。

逆に旧幕府軍は賊軍とされることにより、佐幕派諸藩の動揺を招いた。1月5日、淀藩は賊軍となった旧幕府軍の入城を受け入れず、旧幕府軍は淀城下町に放火しさらに八幡方向へ後退した。

1月6日、旧幕府軍は八幡・山崎で新政府軍を迎え撃ったが、山崎の砲台に駐屯していた津藩が旧幕府軍への砲撃を始めた。旧幕府軍は山崎以東の京坂地域から敗北撤退し大坂に戻った。

この時点では未だに総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、1月6日夜、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却した。これは敵味方を問わず慶喜の敵前逃亡として認識された。

慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。

5日、山陰道鎮撫総督西園寺公望及び東海道鎮撫総督橋本実梁が発遣された(西国及び桑名平定)。7日、慶喜追討令が出され、次いで旧幕府は朝敵となった。

9日、長州軍が大阪城を接収、大阪は新政府の管理下に入った。同日東山道鎮撫総督に岩倉具定が任命された。

11日、神戸事件が起こり条約諸国と新政府が対峙するが、交渉は成立し25日に条約諸国は局外中立宣言を行った。20日、北陸道鎮撫総督高倉が発遣された。

幕府及び旧幕府勢力は近畿を失ない薩長を中心とする新政府がこれに取って代わった。また旧幕府は国際的に承認されていた日本国唯一の政府としての地位を失った。

また新政府の西国平定と並行して東征軍が組織され、東山道・東海道・北陸道に分かれ2月初旬には東進を開始した。

西日本及び東海地方では、新政府軍と佐幕派諸藩との間ではほとんど戦闘が起きず、諸藩は次々と新政府に降伏、協力を申し出た。

鳥羽・伏見の戦中の5日、新政府は橋本実梁を東海道鎮撫総督に任じ、東海道沿いの佐幕藩として新政府に警戒されていた彦根藩へ進軍させた。

ところが彦根藩はすでに尊王に藩論が転換しており9日東海道軍は大津にて桑名藩の征討に移った。22日に四日市に東海道軍が到着すると桑名藩は戦わずに開城した。

藩主の座を追われた松平定敬は国許には帰らず箱館まで戦争を続けた。尾張藩は20日、藩主の父・徳川慶勝の命により粛清が行われ、藩論は勤皇に一本化された。大垣藩は鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍に属していたが、東山道軍の先鋒となった。

すでに鳥羽・伏見の戦中の5日、新政府は西園寺公望を山陰道鎮撫総督に任じて薩摩・長州藩兵を添えて丹波国に進軍させていた。これは佐幕派の丹波亀山藩の帰順及び鳥羽・伏見に敗戦した場合の退路の確保を目的としたものだったが、園部藩・篠山藩・田辺藩・福知山藩などが次々と新政府軍に降伏。

そのまま丹後国に入り宮津藩を開城させたのち、因幡国を通って出雲国に進み、2月下旬には佐幕派の松江藩をも降伏させ、山陰を無血で新政府の傘下に従えた。

公議政体派から倒幕派へ転換した土佐藩が中心となり、丸亀藩・多度津藩が協力して、讃岐国の旧幕府方高松藩に進軍。戦意を喪失した高松藩側が家老2名に切腹を命じ、正月20日に降伏に及んだ。

27日には残る伊予松山藩も開城し、四国は新政府支持に統一された。

長州藩兵が上京の途中の正月9日に備後福山藩領に侵入し、家老三浦義建及び御用係関藤藤陰に勤王の誓詞を提出させた。また新政府の征討令を受けた備前藩が15日に備中松山藩に派兵するが、執政山田方谷は城を無血開城した。

姫路藩は藩主酒井忠惇(老中)が慶喜とともに江戸へ脱走して留守だったが、在藩家臣が降伏した。

正月14日、長崎奉行河津祐邦は秘かに脱走し、佐賀藩・大村藩・薩摩藩・福岡藩などの諸藩により長崎会議所が構成され、治安を担当した。新政府からは沢宣嘉が派遣され、九州鎮撫総督兼外国事務総督に任ぜられて長崎に入った。

日田代官所にあった西国郡代の窪田鎮勝は17日に脱走。周辺諸藩が接収し、閏4月には日田県が設置された。老中小笠原長行を世子とする唐津藩は討伐の対象となったが、松方正義がこれを抑え、藩主小笠原長国が長行との養子関係を義絶するとともに降伏を願い出た。

天草の幕府領も程なく薩摩・肥後藩によって接収されている。他の佐幕派高鍋藩・府内藩も降伏。鳥羽・伏見の戦いで敵対した延岡藩も4月に藩主内藤政挙が上京して許された。

江戸へ到着した徳川慶喜は、1月15日、幕府主戦派の中心人物・小栗忠順(小栗上野介)を罷免。さらに2月12日、江戸城を出て上野・寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志のないことを示した。

一方、明治天皇から朝敵の宣告を受けた松平容保は会津へ戻った。容保は新政府に哀訴嘆願書を提出し天皇への恭順の姿勢は示したが、新政府の権威は認めず、武装は解かず、求められていた出頭も謝罪もしなかった。

その一方で松平容保は、先の江戸での薩摩藩の騒乱行為を取り締まったため新政府からの敵意を感じていた庄内藩主・酒井忠篤と会庄同盟を結成し、薩長同盟に対抗する準備を進めた。旧幕府に属した人々は、あるいは国許で謹慎し、またあるいは徳川慶喜に従い、またあるいは反新政府の立場から会津藩等を頼り東北地方へ逃れた。

新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍した。

旧幕府軍は近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)をつくり、甲府城を防衛拠点としようとした。 しかし東山道を進み信州にあった土佐藩士・板垣退助、薩摩藩士伊地知正治が率いる新政府軍は、板垣退助が率いる別働隊が甲州へ向かい、甲陽鎮撫隊より先に甲府城に到着し城を接収した。

甲陽鎮撫隊は甲府盆地へ兵を進めたが、慶応4年3月6日(同3月29日)、新政府軍と戦い完敗した。近藤勇は偽名を使って潜伏したが、のち新政府に捕縛され処刑された。

一方、東山道を進んだ東山道軍の本隊は、3月8日に武州熊谷宿に到着、3月9日に近くの梁田宿(現・足利市)で宿泊していた旧幕府歩兵隊の脱走部隊(衝鋒隊)に奇襲をかけ、これを撃破した。

府に進軍した新政府は3月6日(同3月29日)の軍議で江戸城総攻撃を3月15日とした。しかし条約諸国は戦乱が貿易に悪影響となることを恐れ、イギリス公使パークスは新政府に江戸攻撃・中止を求めた。

新政府の維持には諸外国との良好な関係が必要だった。また武力を用いた関東の平定には躊躇する意見があった。江戸総攻撃は中止とする命令が周知された。

恭順派として旧幕府の全権を委任された陸軍総裁の勝海舟は、幕臣山岡鉄舟を東征大総督府参謀の西郷隆盛に使者として差し向け会談、西郷より降伏条件として、徳川慶喜の備前預け、武器・軍艦の引渡しを伝えられた。

西郷は3月13日(同4月5日)、高輪の薩摩藩邸に入り、同日から勝と西郷の間で江戸開城の交渉が行われた。なお交渉した場所は諸説あり、池上本門寺の東屋でも記録が残っている。翌日3月14日(同4月6日)、高輪の薩摩藩邸で勝は

慶喜は隠居の上、水戸にて謹慎すること

江戸城は明け渡しの後、即日田安家に預けること

等の旧幕府としての要求事項を伝え、西郷は総督府にて検討するとして15日の総攻撃は中止となった。結果、4月4日 (旧暦)(同4月26日)に勅使(先鋒総督橋本実梁・同副総督柳原前光)が江戸城に入り、慶喜は水戸にて謹慎すること

江戸城は尾張家に預けること

等とした条件を勅諚として伝え、4月11日(同5月3日)に江戸城は無血開城され、城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれることになった。

同日、慶喜が水戸へ向けて出発した。4月21日(同5月13日)には東征大都督である有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城して江戸城は新政府の支配下に入った。

慶応4年(1868年)4月11日に行われた江戸城無血開城に従わぬ旧幕臣の一部が千葉方面に逃亡、船橋大神宮に陣をはり、閏4月3日(5月24日)に市川・鎌ヶ谷・船橋周辺で両軍は衝突した。

この戦いは最初は数に勝る旧幕府軍が有利だったが、戦況は新装備を有する新政府軍へと傾き、新政府側の勝利で幕を閉じた。

この戦いは、江戸城無血開城後の南関東地方における最初の本格的な戦闘(上野戦争は同年5月15日)であり、新政府側にとっては旧幕府軍の江戸奪還の挫折と関東諸藩を新政府への恭順に動かした点での意義は大きい。

江戸城は開城したものの旧幕府方残党勢力は徳川家の聖地である日光廟に篭って兵を募り、そこで新政府軍と戦うつもりで大量に江戸を脱走、下野国日光山を目指していた。

一方、時を同じくして当時下野国で起きていた世直し一揆を鎮圧するために東山道総督府が下野国宇都宮に派遣していた下野鎮撫香川敬三(総督府大軍監)は、手勢を引き連れ日光道中を北上中、武蔵国粕壁で下総国流山に新撰組が潜んでいる噂を聞き有馬藤太を派遣して近藤勇を捕縛した。

近藤は板橋に送られたが、香川はそのまま行軍を続け宇都宮に駐屯した。世直しが沈静した直後の4月12日、大鳥圭介は伝習隊、幕府歩兵第七連隊、回天隊、新撰組など総勢2,000人の軍隊を引き連れて下総国市川を日光に向けて出発。

途中松戸小金宿から2手に分かれ、香川の駐屯する宇都宮城の挟撃に出立した。これを聞いた宇都宮の香川敬三は、一部部隊を引き連れてこれを小山で迎え撃った。

兵数と装備で勝る旧幕府軍はこれに勝利、4月19日には宇都宮で旧幕府軍と新政府軍勢力が激突した。

翌日には旧幕府軍が宇都宮城を占領するも、宇都宮から一時退却し東山道総督府軍の援軍と合流、大山巌や伊地知正治が統率する新政府軍に奪い返され、もともと目指していた聖地日光での決戦に備えるべく退却した。

徳川慶喜が謹慎していた上野・寛永寺には、江戸無血開城によって江戸の治安を統括する組織として認定されていた旧幕府勢力・彰義隊があった。この存在は幕府主戦派から“裏切り者”呼ばわりをされていた勝にとって、一定の成果ではあった。

しかし実際は彼らは新政府への対抗姿勢を示し、新政府軍兵士への集団暴行殺害を繰り返した。江戸城会談での当事者となった西郷隆盛は、勝海舟との関係から彰義隊等への対応が手ぬるいとの批判を受けた。

大総督府は西郷隆盛を司令官から解任し、長州藩士・大村益次郎を新司令官に任命。5月1日、大村は旧幕府による江戸府中取締の任を解いた。

仙台藩藩主・伊達慶邦らにより奥羽列藩同盟が樹立された2週間後の5月15日(同7月4日)、新政府軍は彰義隊を攻撃し上野戦争が始まった。兵砲学者出身の大村益次郎は佐賀藩が製造した新兵器・アームストロング砲を活用し、彰義隊を狙い撃ちにした。彰義隊はなす術もなく崩壊し、上野戦争はたった1日で新政府軍の圧勝となった。

文久の改革後、京都守護職及び京都所司代として京都の治安を担当していた会津藩主松平容保及び桑名藩主松平定敬は、京都見廻組及び新撰組を用い尊王攘夷派の弾圧を行い、尊王攘夷派・後の新政府の怨嗟を買っていた。また鳥羽・伏見の戦いにおいてこの両藩は旧幕府軍の主力となり、この敗北によって朝敵と認定されていた。

また江戸薩摩藩邸の焼討事件での討伐を担当した庄内藩は、新政府によって会津藩と同様の処置がなされることを予期し、両藩は以後連携し新政府に対抗することとなった(会庄同盟)。

両藩はそれぞれ蝦夷地に領地を有し、密かにこれをプロイセンに割譲するかわりに援軍を要請しようとしたが、普仏戦争直前で余裕のなかったビスマルクにより断られている。

慶応4年(1868年)1月17日、鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府は仙台藩に会津藩への追討を命令した。しかし仙台藩は行動しなかった。

2月25日、庄内藩は使者を新政府に派遣した。新政府は徳川慶喜あるいは会津藩に対する追討軍への参加を要求し旗幟を鮮明にすることを迫ったが、使者は軍への参加を拒絶した。

会津藩も嘆願書で天皇への恭順を表明したが、新政府の権威は認めず謝罪もせず武装も解かなかった。これらの行動を会津の天皇への“武装・恭順”なのだと主張する説もある。しかし新政府へ対してはこの行為は“武装・敵対”でしかなかった。

3月22日、新政府への敵対姿勢を続けていた会津藩及び庄内藩を討伐する目的で奥羽鎮撫総督及び新政府軍が仙台に到着した。主要な人物としては総督九条道孝・副総督沢為量・参謀醍醐忠敬・下参謀世良修蔵・大山綱良を数えることができる。

3月29日、仙台藩・米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩及び庄内藩への追討が命令された。

4月19日、藩主伊達慶邦の率いる仙台藩の軍勢は会津藩領に入り戦闘状態になった。一方で仙台藩は3月26日、会津藩に降伏勧告を行い4月21日に一旦合意に達した。

会津藩が武装を維持し新政府の立ち入りを許さない条件で松平容保が城外へ退去し謹慎すること及び会津藩の削封という内容だった。4月23日、沢為量及び大山綱良の率いる新政府軍は庄内藩を攻撃した。しかし庄内藩が勝っており閏4月4日、庄内藩が天童城を攻め落とした。

4月19日(閏ではなく閏4月1日以前の事件)、関東で大鳥圭介らの率いる旧幕府軍が宇都宮城を占領した。この報が東北に伝わると仙台藩では会津藩・庄内藩と協調し新政府と敵対すべきという意見が多数となった。

閏4月4日、仙台藩主席家老但木成行の主導で奥羽14藩は会議を開き、この状態での会津藩・庄内藩への赦免の嘆願書を提出した。要求が入れられない場合は新政府軍と敵対し排除するという声明が付けられていた。

会津藩・庄内藩は恭順の姿勢を見せていなかったため閏4月17日に新政府は嘆願書を却下した。奥羽14藩はこれを不服として征討軍の解散を決定し、藩の決定として新政府軍への宣戦布告のない殺戮が始まった。

閏4月20日、仙台藩で藩家老の命令によって世良修蔵が殺害され、続いて新政府軍部隊も殺害された。九条総督・醍醐参謀らは仙台城下に軟禁された。

これと並行して仙台藩・米沢藩を中心に、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書のための会議を新政府と敵対する軍事同盟へ改変させる工作が行われた。

赦免の嘆願書は新政府によって拒絶されたので天皇へ直接建白を行う方針に変更された。 閏4月23日、新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された。

さらに後に25藩による奥羽列藩盟約書を調印した。会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成された。

奥羽列藩同盟には、武装中立が認められず新政府軍との会談に決裂した長岡藩ほか新発田藩等の北越同盟加盟6藩が加入し、計31藩によって奥羽越列藩同盟が成立した。なお、会津・庄内両藩は列藩同盟には加盟せず会庄同盟として列藩同盟に協力した。

ここに旧幕府とも新政府とも異なる軍事同盟が誕生したが、これは天皇への嘆願目的の各藩のルーズな連合であり、また、恭順を勧めるための会議が途中で反新政府目的の軍事同盟に転化したため、本来軍事敵対を考えていなかった藩など各藩に思惑の違いがあり、統一された戦略を欠いていた。

6月に上野戦争から逃れてきた孝明天皇の弟輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)が、列藩同盟の盟主として据えられた。当初は軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請されたが、6月16日に盟主のみの就任に決着した。

仙台藩と会津藩には輪王寺宮を「東武皇帝」として即位させる構想があったが、輪王寺宮の即位の有無は議論がある。なお、仙台藩主・伊達慶邦は征夷大将軍に、会津藩主・松平容保は征夷副将軍に就任する予定であった。

新政府から派遣された奥羽鎮撫総督府は庄内藩を討つため沢為量及び大山綱良の率いる新政府軍を仙台から出陣させた。しかし本間家からの献金で洋化を進めていた庄内藩は戦術指揮も優れていたため新政府軍を圧倒した。

その後列藩同盟の成立に際し、仙台に駐屯していた世良修蔵を始めとする新政府軍は仙台藩によって殺害され九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らは軟禁された。

新政府は仙台藩によって軟禁状態にある九条総督救出のため佐賀藩士・前山長定(前山清一郎)率いる佐賀藩兵及び小倉藩兵を仙台藩に派遣した。

閏4月29日、前山の新政府部隊が船で仙台に到着すると、この両藩は薩長両藩ではなかったために仙台藩は軟禁していた鎮撫総督府要人を前山の部隊に引き渡した。

5月18日、前山と救出された総督府の一行は盛岡藩に到着した。藩主南部利剛は1万両を献金したが態度は曖昧なままだった。

続いて7月1日、総督府一行は久保田藩に入った。久保田藩は平田篤胤の出身地という影響もあって攘夷派が勢力を保っていた。総督府一行は庄内藩討伐のために仙台に居らず生存していた沢為量及び大山綱良ら総督府残存部隊と合流した。

次に沢為量副総督は分隊を率い弘前藩説得のために弘前藩に入ろうとしたが、弘前藩の列藩同盟派によって矢立峠は封鎖された。そのため奥州鎮撫総督府及びその部隊は久保田藩にとどまることになった。

久保田藩の新政府への接近を察知した仙台藩は久保田藩に使者7名を派遣した。しかし九条総督軟禁時に仙台藩に同僚らを殺害されていた大山綱良・桂太郎らの説得もあり、久保田藩の尊皇攘夷派は7月4日、仙台藩の使者と盛岡藩の随員を全員殺害した。

こうして久保田藩は奥羽越列藩同盟を離脱して東北地方における新政府軍の拠点となった。

久保田藩に続いて新庄藩・本荘藩・矢島藩・亀田藩が新政府軍に恭順した。新庄藩の新政府軍への恭順に対して庄内藩は7月14日、新庄藩主戸沢氏の居城・新庄城を攻め落とした。

庄内藩の軍勢は久保田城の目前にまで迫ったが、列藩同盟の中核となっていた米沢藩・仙台藩が降伏したため一斉に領内へ撤退した。

9月22日、会津藩が降伏して「東北戦争」の勝敗がほぼ決すると、9月24日、庄内藩は降伏した。盛岡藩は列藩同盟と新政府側のどちらの陣営に属すかで長く議論が定まらなかったが、家老の楢山佐渡が帰国すると列藩同盟に与することが決定した。

8月9日、盛岡藩兵は久保田藩に攻め込んだが一進一退のまま奥羽越列藩同盟の敗北に伴い降伏した。

白河は関東地方と東北地方の結節点であり、この地の白河城は両地方間の交通を管理可能な拠点だった。江戸無血開城以降の時点でこの地は新政府の管理下となっていた。

仙台藩が列藩同盟設立の姿勢を顕にし総督府の世良修蔵を殺害、九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らを仙台城下に軟禁したのと同日の閏4月20日、会津軍と仙台藩は呼応して白河城を新政府から奪い取った。

しかし5月1日、伊地知正治率いる新政府軍・約500人は、列藩同盟軍から白河城を奪還した。

以後100日余りに亘って攻防戦(白河口の戦い)が行われた。新政府軍側には増援は一向に到着しなかったが、会津藩・仙台藩を主力とする列藩同盟軍4500人弱は7次にわたって白河城の奪取を試み失敗に終わった。この戦いで両軍併せ約1000人の死者が出た。

越後には慶応4年(1868年)3月9日に開港された新潟港があった。戊辰戦争勃発に伴い新政府は開港延期を要請したがイタリアとプロイセンは新政府の要請を無視し、両国商人は新潟港で列藩同盟へ武器の売却を始めた。このため新潟港は列藩同盟の武器の供給源となった。

5月2日、新政府軍の岩村精一郎は長岡藩の河井継之助と会談した。河井は新政府が他藩に行わせていた各種支援を拒否し、武装中立の姿勢と会津説得の猶予を嘆願したが、岩村はこれを新政府への権威否定及び会津への時間稼ぎとして即時却下した。

これにより長岡藩及び北越の諸藩計6藩が列藩同盟へ参加したため、新政府軍と同盟軍の間に戦端が開かれた。長岡藩は河井継之助により兵制改革が進められ武装も更新されていた。

同盟軍は河井継之助の指揮下で善戦したが7月に長岡城が落城した。7月25日同盟軍は長岡城を奪還し新政府軍を敗走させたがこの際指揮をとっていた河井継之助が負傷(のち死亡)した。

新政府軍は長岡城を再奪取し、7月29日長岡藩兵及び会津藩兵は城下全域に放火し撤退した。

一方、新政府軍が軍艦で上陸し米沢藩兵・会津藩兵が守る新潟も陥落したため、8月には越後の全域が新政府軍の支配下に入った。これによって奥羽越列藩同盟は洋式武器の供給源を失い深刻な事態に追い込まれた。同盟軍の残存部隊の多くは会津へと敗走した。

平潟戦線における列藩同盟軍の主力は仙台藩であった。6月16日から20日にかけて新政府軍・約750人が海路常陸国(茨城県)平潟港に上陸した。列藩同盟軍は上陸阻止に失敗した。

当時榎本武揚の旧幕府艦隊は健在であったが新政府軍の軍艦を用いた上陸作戦を傍観した。その後も順次上陸作戦は実行され、新政府軍の兵力は約1500人となった。

6月24日、新政府軍は板垣退助が白河から小隊を率い、平潟との中間にあった棚倉城を占領した。7月14日、新政府軍は海岸に近い平城を占領した(平城の戦い)。7月16日、三春藩が新政府軍に進んで降伏した。7月29日、二本松城を新政府軍が占領した(二本松の戦い)( 二本松少年隊)。8月7日、相馬藩が新政府軍に降伏した。

白河周辺に大軍を駐屯させ南下を伺っていた列藩同盟軍は、より北の浜通り及び中通りが新政府の支配下に入ったことに狼狽し、会津領内を通過して国許へと退却した。

また仙台藩は列藩同盟の盟主でありながら恭順派が勢いを増していて、藩領外への進軍は中止された。新政府軍総司令官・大村益次郎(長州藩)は仙台藩の攻撃を優先することを主張していたが、現地の司令官・伊地知正治(薩摩藩)、板垣退助(土佐藩)の会津進攻策が通り、会津戦争が行われることになった。

8月22日二本松周辺まで北上していた新政府軍は、同盟軍の防備の薄かった母成峠から会津盆地へ侵攻し、母成峠の戦いが行われた。当地には大鳥圭介ら旧幕府軍が防衛していたが兵力が小さく、敏速に突破され若松への進撃を許した。

当時会津軍の主力は関東に近い領内南部の日光口(会津西街道)や領外の遠方にあり、若松に接近している新政府軍への備えが劣っていた。

またこれらの軍は侵攻してきた新政府軍を側面から牽制することもなく若松への帰還を優先した。こうして会津藩兵と旧幕府方残党勢力は若松城に篭城した。

この篭城戦のさなか白虎隊の悲劇などが発生した。9月4日米沢藩が新政府に降伏し、米沢藩主上杉斉憲は仙台藩に降伏勧告を行った。その結果もあり9月10日仙台藩は新政府に降伏した。

9月22日会津藩が新政府に降伏した。明治天皇の新政府は会津藩に対し、戦死者の調査終了後に命を落とした会津藩士や農民・町人らの遺体を埋葬することを許した。

それまでの間は会津城下に無残な姿の遺体が山のように放置され異臭を放った。会津藩が降伏すると庄内藩も久保田領内から一斉に退却し、9月24日新政府に降伏した。

新政府軍が箱館に迫ると、この本陣の鐘楼が艦砲射撃の標的となり、旧幕府軍では慌てて鐘楼を取り壊した。

榎本武揚ら旧幕府海軍を主体とする勢力は、もはや奥羽越列藩同盟の敗色が濃い8月19日になって江戸を脱出した。出航が遅れたのは、徳川喜への新政府の処置を見届ける必要を感じていたからと説明されている。

8月26日仙台藩内の浦戸諸島・寒風沢島ほか(松島湾内)に寄港し、同盟軍及び大鳥圭介・土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力、約2500人を収容し、10月12日に蝦夷地(北海道)へと向かった。

北海道の松前藩は奥羽越列藩同盟側に属していたが、7月28日に尊王を掲げた正議隊による政変が発生し、以後は新政府側に帰順していた。

10月26日榎本は箱館五稜郭などの拠点を占領し、12月5日に北海道地域に事実上の権力を成立させた(通称、榎本政権または蝦夷共和国)。

榎本らは北方の防衛開拓を名目として、朝廷の下での自らの蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出したが、新政府はこれを認めず派兵した。

旧幕府軍は松前、江差などを占領する際に軍事力の要となる開陽丸を悪天候で座礁沈没させており、海軍兵力の低下は否めず、宮古湾海戦を挑んだものの敗れた。

その後新政府軍は、青森に戦力を築き、旧幕府軍の不意を突いて明治2年4月9日(1869年5月20日)江差の北、乙部に上陸する。その後、進軍され5月18日(同6月27日)、土方歳三は戦死し、榎本武揚らは新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結した。

戦後処理慶応4年5月24日、新政府は徳川慶喜の死一等を減じ、田安亀之助に徳川宗家を相続させ、駿府70万石を下賜することを発表した。

また、諸藩への戦功賞典及び処分のうち主なものを挙げる

戦功賞典

永世禄 10万石-島津久光父子(薩摩)・毛利敬親父子(長州) 4万石-山内豊信父子(土佐) 3万石-池田慶徳(鳥取)・戸田氏共(大垣)・大村順煕(大村)・島津忠寛(佐土原)・真田幸民(松代) 2万石-佐竹義尭(久保田)・

藤堂高猷(津)・井伊直憲(彦根)・池田章政(岡山)・鍋島直大(佐賀)・毛利元敏(長府)・松前兼弘(松前) 1万5千石-前田慶寧(金沢)・戸沢正実(新庄)・徳川慶勝父子(尾張)・浅野長勲(広島)・大関増勤(黒羽) 1万石-松平慶永父子(福井)・六郷政鑑(本荘)・榊原政敬(高田)・津軽承昭(弘前)・戸田忠恕父子(宇都宮)・黒田長知(福岡)・有馬頼咸(久留米)・秋元礼朝(館林)など

処分された藩

仙台藩 - 28万石に減封(62万石)。藩主・伊達慶邦は死一等を減じられ謹慎。家老6名のうち2名が処刑、さらに2名が切腹させられた。

会津藩 - 陸奥斗南藩3万石に転封(23万石)。藩主父子は江戸にて永禁固(のち解除)。家老1名が処刑された。

盛岡藩 - 旧仙台領の白石13万石に転封(20万石)。家老1名が処刑された。

米沢藩 - 14万石に減封(18万石)

庄内藩 - 12万石に減封(17万石)

山形藩 - 近江国朝日山へ転封、朝日山藩を立藩。石高は5万石から変わらず。家老1名が処刑された。

二本松藩 - 5万石に減封(10万石)

棚倉藩 - 6万石に減封(10万石)


長岡藩 - 2万8千石に減封(7万4千石)。家老1名が処刑された。すでに死亡していた処刑が相当の家老1名は家名断絶とされた。

請西藩 - 改易(1万石)、藩重臣は死罪。藩主林忠崇は投獄。のち赦免されるが士族扱いとなる。後年、旧藩士らの手弁当による叙勲運動により、養子が他の旧藩主より一段低い男爵に叙任された。戊辰戦争による除封改易はこの一家のみ。

一関藩 - 2万7000石に減封(3万石)

上山藩 - 2万7000石に減封(3万石)

福島藩 - 三河国重原藩2万8000石へ転封(3万石)

亀田藩 - 1万8000石に減封(2万石)

天童藩 - 1万8000石に減封(2万石)

泉藩 - 1万8000石へ減封(2万石)

湯長谷藩 - 1万4000石へ減封(1万5000石)

下手渡藩 - 旧領である筑後国三池へ転封、三池藩を立藩。石高は1万石から変わらず。

所領安堵となった藩

八戸藩 - 藩主・南部信順が島津氏の血縁ということもあり、沙汰無しとなったと言われる。また、本家盛岡藩の久保田藩に対する戦闘では、遠野南部氏共々尊皇攘夷思想から参加していない。また、陰で久保田藩と通じる文書を交わしていることが明らかになっている。

村松藩 - 家老1名が処刑された。

村上藩 - 家老1名が処刑された。

磐城平藩 - 新政府に7万両を献納し、所領安堵となった。

相馬中村藩 - 新政府に1万両を献納し、所領安堵となった。

三春藩

新発田藩

三根山藩

黒川藩

明治2年(1869年)5月、各藩主に代わる「反逆首謀者」として仙台藩首席家老但木成行・仙台藩江戸詰め家老坂英力・会津藩家老萱野権兵衛・盛岡藩家老楢山佐渡が東京で刎首刑に処された。続いて仙台藩家老玉虫左太夫・若生文十郎が切腹させられた。しかし思想家・大槻盤渓は死を免れた。

会津藩と庄内藩の処分については対照的な結果となった。会津藩に対する処分は「旧領の猪苗代か新天地の斗南どちらか3万石に転封」というもので、会津藩は議論の末に斗南を選択した。

斗南は風雪が厳しく実質的には8000石程度で、移住した旧藩士と家族は飢えと寒さで病死者が続出し、日本全国や海外に散る者もいた。猪苗代地域では明治新政府によって開拓が行われ現在の郡山市都市圏が誕生した。

庄内藩に対する処分は西郷隆盛らによって寛大に行われた。これに感激した庄内の人々は西郷に対する尊敬の念を深めた。前庄内藩主酒井忠篤らは西郷の遺訓『南洲翁遺訓』を編纂し、後の西南戦争では西郷軍に元庄内藩士が参加している。

奥羽越列藩同盟から新政府に恭順した久保田藩・弘前藩・三春藩は功を労われ、明治2年(1869年)には一応の賞典禄が与えられた。しかし、いずれも新政府側からは同格とは見なされず望むほどの恩恵を得られなかった。

この仕置きを不満とした者の数は非常に多く、後に旧久保田藩領では反政府運動が、旧三春藩領では自由民権運動が活発化した。

箱館戦争が終結すると首謀者の榎本武揚・大鳥圭介・松平太郎らは東京辰の口に投獄されたが、黒田清隆らによる助命運動により、明治5年(1872年)1月に赦免された。その後、彼らの多くは乞われて新政府に出仕し、新政府の要職に就いた。

戊辰戦争以降、明治新政府は明治維新として総称される一連の改革を行うが、これについては主に敗北者側からは「この程度の内容の改革なら大戦争をしなくても実行可能であった」とする意見がある。

大正6年(1917年)9月8日、盛岡において戊辰戦争殉難者50年祭が開かれた。事実上の祭主としては、盛岡藩家老の家に生まれた政友会総裁原敬が列席し、「戊辰戦役は政見の異同のみ」とした祭文を読み上げ、「賊軍」・「朝敵」の汚名をそそいでいる。

「戊辰戦争で奥羽越列藩同盟が新政府に勝っていれば仙台(周辺)が日本の首都になった」とする「仙台首都説」がある。

遺恨戊辰戦争では戦争の様々な事柄や理由において、その原因を遺恨と結びつけて説明される事がある。京都守護職だった会津藩の京都における勤王・倒幕浪士の捕殺や、庄内藩による薩摩藩邸の焼き討ち、禁門の変による長州藩への「朝敵」指定や長州征討、会津戦争での新政府軍による暴行・略奪などが各藩の「恨み」の理由として挙げられる。

また実際に、長州藩は立場が転じて官軍になると旧幕府側を敵意をこめて「朝敵」と呼称した山縣有朋のような人物が見られ、俗説ほど多くないにせよ鹿児島で起きた西南戦争においては旧幕府側出身の抜刀隊員のなかには、賊軍の汚名をそそぐべく「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫んで斬り込んでいった者もいた。(2012/4/5)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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