2011年10月29日

◆長崎に救われた秋田藩

渡部 亮次郎

長崎―秋田には直通の飛行機便は無い。明治の初めは汽車もなかったからもっと遠かった。ところが戊辰(ぼしん)戦争の時、孤立した秋田藩を救ったのは長崎を始めとする西南雄藩の若者16,000人だった。

<戊辰戦争(慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。

明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。>(ウイキ)

明治のはじめ、わが国に於ける新聞創刊状況を記録した「明治文化全集」第17巻の中の慶応4年=明治元年8月創刊になる長崎の「崎陽雑報」に秋田支援のことが詳しく書かれている。

それによると、慶応4年7月中旬から8月初旬まで外国船(機関船)2隻を借り上げ応援隊を3度送った。内訳は長崎府兵「振援隊」380人あまり、大村家280人余、島原毛159人、平戸家400人余などであった。

8日かかって7月28日、秋田に到着。一行は長崎に戻る船長に託して郷里へ状況を報告。「振援態の到着を現地司令官たる九条左大臣は大いに喜ばれた。我々は間もなく合戦に出動を命ぜられ、6隊にわかれたうちの5隊が出撃した」

東北地方における戊辰戦争とは、今の5県すべてと新潟が秋田(久保田)藩を敵とした戦争。藩祖がその昔、徳川幕府に虐められて水戸から減石移封された恨みから、独り、反徳川つまり新政府軍に組みしたのである。

案の定、隣の庄内藩は、大地主「本間家」からの経済支援によって近代軍備を整えて、総攻撃を掛けてきた。「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」といわれた本間家である。

秋田勢はたちまち敗走。あわや落城というところまで追い詰められた。そこへ思いもかけぬ西南雄藩による海からの援軍。たちどころに盛り返して体面を保った。

主戦場は俳人松尾芭蕉が1句を詠んだ象潟(きさかた)であった。その象潟町史では振援隊に今でも感謝を忘れず、大幅にページを割いて記述している。

それに依れば秋田側の戦死者は1326人、大村藩11人、島原藩4人などであった。

以後の秋田は金銀の鉱物、コメ、秋田杉などのお陰で、そこそこ栄えた。また関西と北海道を結んだ北前船の往来のお陰で太平洋側よりも文化の伝播も早かった。明治の初めに、東北で一番早く県立中学校が発足した。

しかし、戊辰戦争への参加が遅かった為、長州、薩摩藩には疎まれ、秋田県からは大将はとうとう出なかった。東北各県との関係にも未だに戊辰戦争の陰を感じる。 2011・10・25


2011年10月28日

◆中東で髭無しはホモ扱い

渡部 亮次郎

中東では男という男のすべてが濃く髭を蓄えている。男のしるしなのだそうだ。伸ばしていない俺のような奴はどうなんだと尋ねたらしばし沈黙の後小声で「ホモ」。

男女共に休日(金曜日)の前日に体毛を抜くか剃るかする。男は顔に髭を蓄えるが、女性は外出時は顔を隠す。われわれには無気味だよ。

生まれて初めて中東を歴訪したのは1978年、もう33年前。日本の外務大臣が産油国を歴訪するのは、このときの園田直が初めて。それに秘書官として随行したのである。

正月のことで、モスクワは零下20度だったが、中東各国では真夏のような暑さ。イランで仕立てたエール・フランスの小型ジェットの特別機で、クエートに到着。

宮殿を訪れると、番兵たちがみな、日本刀を腰に差している。しかも鞘は金で巻いている。石油は取れても金は取れない。最高の気位を示しているのだ。

翌朝、ホテルのロビーでコーヒーを飲んでいたら、周りで「タスケテクレー」時ならぬ日本語。一緒に旅行中の外務省高官が、アラブ人男性に追いかけられている。どうも「アイラブユー」といわれているらしい。

高官は髭剃り跡も青々としたハンサム、清潔そのものなのだが、中東では美女に見えるのか纏いつかれてしまったのである。所変われば品変わる。今後、中東を訪問する時は髭を伸ばしてから来るべきと心得た。件の高官は後年、事務次官になった。

クエートでは道端の花壇に水をホースで撒いているのが、政府の高官だった。真水は石油より高価な国。それをばら撒くのだから政府高官であって当然と言うわけだろう。

だから野菜作りもままならない。すべて欧州からの輸入。それを洗う水は海水をろ過した水。どういうわけか日本人のハラには合わないからと、中東各国でサラダを遠慮させられた。このときの秘書官は鞄持ちならぬ水持ち。段ボールに何十本も詰めて運んだ。

サウジアラビアでは、日本から通産大臣は来た事はあるが、外務大臣は初めてと、大歓迎され、空手を導入したいという話も飛び出した。これはすぐ実現した。

石油大臣が歓迎パーティを開いてくれたが、参った。柱に吊るした羊の丸焼き。その目玉を主賓が食べるのだという。大臣は遠慮。結局誰が食べたんだったか、33年も前のこと、忘れてしまった。

砂漠の国。国旗が殆ど月が入っている。日の丸なんて考えられないのだ。歌の「月の砂漠」は中東ではなく千葉県の御宿海岸で作詞されたものだ
そうだ。

サウジ上空をヘリで飛んでみたが、砂漠とは山あり谷あり、ただ広いだけではないのだ。途に迷ったら遭難確実、命を落とすことだろう。「月の砂漠」は歌えた物じゃない。

水が貴重。宿酔いの水をお間なくてもよいように、コーランは飲酒を禁じたのかとのん兵衛は愚考した。酒を呑んでいるのが外国人であろうとも、どこかは確かめなかったが届けなくてはならない。

時効だろうから白状すると、某国の迎賓館ではこっそり持ち込んだウイスキーを飲んだ。その痕跡を発見されたら、コトだから消すのに神経を使った。酒の粉という物はできないものかと夢見た。2011・10・23

2011年10月25日

◆恋しや神戸牛と米国人

渡部 亮次郎

或る時のニューヨーク。びしょびしょと雨の降る夕方、柔らかいステーキを求めてマンハッタンを歩いていた。アメリカのステーキは固くて筋っぽくて美味しくないと悪口をいったら、超有名大学の教授が、柔らかいのもあるよと言うので、案内をお願いしたのである。

私は秋田の農家の育ち。少年の頃、肉といえば飼っている鶏しかなかった。対米戦相中で、ステーキどころか、豚肉も無かった。豚肉を初めて食べたのは中学2年のときだから、昭和25(1950)年だった。

育ち盛りに食糧不足だったから自然、食い意地が汚くなった。それもあってアメリカへ行ったららステーキとやらをたらふく食べたいものだ、きっと美味しいだろうと。

若い頃、日本橋の肉屋が2階でステーキを食べさせていた。いわゆる神戸牛とかで、やたら美味しくて2枚も食べたものだ。だから日本とちがって牛肉の安いアメリカでは、と期待して来たのに、さっぱりとは、納得が行かなかったのだ。

濡れながら辿り着いた教授ご推奨のステーキ店。矢張り硬くて美味しくはなかった。以後、何度アメリカへ行ったか、数え切れないが、ステーキだけは絶対食べないことにしている。

アメリカ人は日本のような霜降り肉のように脂身の多い肉は食べない、それはコレステロールが怖いから、という。獣脂は心臓病の原因と考えられ、カーター政権時代から、知識階級ほど、脂身を食べなくなったそうだ。

そういえば、レーガン政権の頃、ある閣僚が外務大臣を尋ねてきたので、神戸牛の鉄板焼でもてなしたところ、喜ばない。「これは例のサシミか」と聞いてくる。コレステロールを俺に食わすなと半分怒っているようだった。

ところが、どうだろう。古い話で恐縮だが、2000年6月24日の読売夕刊に「神戸牛恋しい 米国の美食家、一時禁輸で食べられず」という記事が載ったことを思い出した。

俳優のシルベスター・スターロンやリチャードドレイファスらは予ねて神戸牛のファンだったが、この時期、口蹄疫の発生で神戸牛の輸入が一時禁止されているのを嘆いている記事だった。

この記事に依れば、アメリカでは90年代(ほぼ平成)に入って、ニューヨークの老舗レストラン「オールドホームステッド」が神戸牛のステーキを目玉にしたところ、アメリカ人に大いに受け、たちまち最高級ステーキにランク付けされたのだという。

アメリカは農地が広いから、牧草地を何処までも造れる。そこに肉牛を通年放牧刷るから、肉は繊維質が多く、脂身は極めて少ない肉となる。

それに反して日本では放牧地が少ないから牛を小屋に閉じ込めて穀類もたんと食わす。念を入れてビールまで飲ませて「霜降り肉」に仕上げるところまである。土地の条件が牛肉の味を左右するのだ。
                   2011・10・21

2011年10月21日

◆記者会見は嘘つき大会

渡部 亮次郎

「記者会見は嘘つき大会。会見を基に記事を書いてはいけない」といい続けたのは、NHKで政治記者から会長になったシマゲジこと島 桂次。ならば今どきの記者は記者会見だけを基に記事を書いているから、嘘を報道していることになる。国民がマスコミを信用しなくなっている原因がここにある?

何故、記者会見は嘘つき大会か。

「な、分かるか。記者会見の記者とは不特定多数、何処の馬の骨とも分からぬ奴らを相手に真情を吐露する政治家なんていない。そうだろ。適当に辻褄を合わせて話しているだけ。嘘のつきっぱなしサ。分かるだろう。

それが証拠に、政治家は記者会見の後、必ず小便に行く。人間、嘘をつくと小便をしたくなるものなんだ。だから国会の便所では並んで小便をしながら、本当はどうなんですか、と聴いてみろ。本当はね、と必ず答えるよ」。

私は幹事長時代の田中角栄にこれを試してみてしばしば成功した。本当だった。

島はだから、政治の取材は特に一対一、いわゆる「差し」の取材で得たネタ以外は信じてはならないといい続けた。

島は昭和2(1927)年6月30日、栃木県足尾町(現日光市)に生まれる。44年海軍兵学校に合格。戦後、旧制新潟高校を経て東北大学文学部美学美術史科を卒業。1952(昭和27)年3月、NHKに記者として入局。仙台、盛岡勤務の後、東京転勤、政治記者となる。

短期間、三木・松村派担当を経て池田勇人派を長く担当。池田を始め大平正芳、鈴木善幸らの他、早くから佐藤派の田中角栄の知遇を得る。

私もNHK記者としては仙台、盛岡、政治部と全く島と同じコースをたどったが、そんなことに気を配る島ではなかった。とにかく当時の首相、池田勇人との仲を誇示し「蚊帳の中に入ってまで話を聞ける」と豪語していた。

しかしあまり法螺を吹くものだから先輩たちに妬まれ、政治部長にはなれず、政治部から追われるように同じ報道局でも政経番組部長に就任した。ここで政治家との距離の近さを踏み台にたちまち出世して行った。

島はいわばその異能ゆえ、国会逓信族に狙われ、最後は追われるようにNHKを去った。しかし「記者会見を信じるな」を始め後輩に遺した「忠告」は数限りない。だが、後輩に当る今の政治ジャーナリストたちが箴言を守っているかと問われれば、竦むばかりじゃないか。

島の残した言葉はジャーナリズムの原点とも言うべきもの。記者会見と、ぶら下がりばかりのテレビ・ジャーナリズムにいつの間にか活字ジャーナリズムが引きずられている。そこに国民のマスコミ不信の根があるように思えてならない。

記者会見もぶら下がりも「絵」にはなるからテレビの編集には好都合だ。しかし、島が指摘したように記者会見に真実が無いとすえれば、視聴者は嘘を聞かされながら真実に裏がいられているにほかならない。

まして「ぶら下がり」に真相があるとは思われない。下がられた首相や政治家は真実よりも言い逃れを並べているだけでは無いか。

18日の産経新聞は野田首相がぶら下がりを拒否したことを批判していたが、新聞こそはぶら下がりに頼ることなく、率先して「差し」に取材の原点を戻す努力をして欲しい。新聞はテレビに隷属して堕落した。国民はそこに失望している。敬称略。2011・10・18


2011年10月19日

◆臍(へそ)で沸かした茶

渡部 亮次郎

相手がフルシチョフだったかブレジネフだったか忘れたが、永野重雄さんの話である。言わずと知れた新日鉄生みの親。長いこと日本商工会議所の会頭として日本財界の牽引車であった。1984年5月4日逝去。

生前の永野さんが出かけて行ってソビエト(当時)首脳と会談した際、つい日本人相手の心算で「そんなことお安い御用。朝飯前です」といったら相手はキョトン。日本側通訳(在モスクワ日本大使館)が直訳したものらしい。

永野さんは広島のお寺に育ったスポーツマン。軽妙、洒脱な人。ついまた「お茶の子さいさい、臍で茶を沸かす」とやった。それを又直訳したから、今度こそ相手が聞いてきた「臍でどうやって茶をわかすのか」。

「だからねぇ君、通訳というのは相手の国の言葉よりも自分の国のことを良く知ってないとには使い物にならんよ」と言っていた。

そういえば針鼠(危険に逢えば体を丸めて回避する)を山嵐(敵に対して身体を振って音を出したり刺したりする)と誤訳して日米間で火種になったことがあった。

日本外務省の通訳もそうだが、外国語に通じる人は勉強一筋。学問は一流だが、冗談は通じないうタイプが多い。まして緊張していれば朝飯前といった古い言葉や、普段耳にしない動物の名前など、訳がわからない場面があっても、やむを得ない。

考えてみれば日本から遠く離れた国は気候、風土が違うから、住んでいる人間の性格や哲学が違う。樹木や動物も違っている。それらを厳密に区別しながら、相手と理解を深め、且つ、仲良しになる事は大変なことなのだ。

或る時ワシントンDCへ行くのにニューヨークから列車に乗ったことがある。車窓から眺めていると葉が次第に黒さを増してゆく木が何本もあるのに気づいた。フランスにも多かった。

途中、フィラデルフィヤで下車。待っていたアメリカ人の友人と久しぶりに会った。ねえ、あの木はなんという木かね」と聞いたら「あれはジャパニーズ・メイプルと俺たちは呼んでいるよ」。なんとモミジはアメリカでは葉っぱが黒くなるのか。

李(スモモ)も梅も杏(アンズ)も英語ではプラムで統一。李を塩漬けしても日本では梅干とは言わない。家人は杏は大好きだが梅は生では食べない。

日本では「雨降って地(ヂ)固まるというが、中国にはその種の言葉は無い。中国では雨降って固まる地はない。降れば流れて黄河になるか。黄河の水はもとから土色だったのだろうか。

そうやって中国のことを書いた本を読んでいたら驚いた。商売で相手を騙して逃げることも「方便」だと書いてある。中国は広いから逃げたら捕まらないからだそうだ。
2011・10・17

2011年10月18日

◆政権禅譲の系譜

渡部 亮次郎

首相小渕恵三が在任中、突如、脳梗塞で死亡したとき、既に意識を失っていた首相が官房長官青木幹雄を首相臨時代理に指名したとされたと青木自身は表明したが、これは医学上、絶対不可能なことである。

しかし青木ら5人は密室で幹事長森喜朗を後継首相候補に指名、ここに日本政治史上初の「政権禅譲」が実現した。耳慣れぬこの言葉は、佐藤栄作首相からの政権移譲に恋焦がれた福田赳夫の口から初めて出て当時、流行語になった。

元は中国で帝王がその位を世襲せずに有徳者に譲ることを表現したことば。尭が舜に、舜が禹に帝王の位を譲った類と広辞苑にはある。

佐藤から禅譲に恋焦がれた福田ではあったが、政権末期の佐藤には福田のライバル田中角栄を黙らすだけの力は残っておらず、やむを得ず闘った福田は田中に惨敗した。したがって森政権の誕生は親分福田のなし得なかったことを実現したものであり本人には格別の感慨があったであろ
う。

禅譲ではなかったが、戦後間もなく吉田茂が政権を手にしたのは鳩山一郎から譲られたものだった。鳩山は戦後1回目の総選挙で第一党となった日本自由党の総裁として首相に指名される寸前、占領軍によって公職追放。止むを得ず吉田に後事を託した。

これは事実上の禅譲だったから吉田は鳩山の公職復帰後はその地位を鳩山に返還すべきだったが、居座りつづけた。鳩山が脳溢血を患ったことも吉田居座りを許した。

怒ったのは鳩山側近。特に河野一郎は国会で悉く吉田に噛み付き、吉田は蛇蝎(だかつ=へびとサソリ)の如く河野を嫌った。やがて河野はそれが原因で財界から敬遠されて政権を取れぬまま67歳で死んだ。

政権の盥まわしよろしく密約によって政権のやり取りをしようとした事は2度ある。初めは佐藤の実兄たる岸信介が大野伴睦への密約。右翼や財界人が立会い、念書を交わしての約束だったが、実現せず、岸は60年安保の餌食になって下野。

大野は怒って脳溢血でこの世を去った。病床の大野の病状を毎日、発表していた人を世間は秘書だと思ったが、実は読売新聞記者のナベツネこと渡辺恒雄。今は社長を経て会長。85歳である。

その次が福田と大平の密約。保利茂が見守る中、鈴木善幸と園田直が立会い署名までしたが、福田は「秘密」をいいことに密約などなかったように振る舞い、「世界が福田を呼んでいる」と総裁選挙に出馬。

怒った大平は田中角栄の力を借りて、力で福田を総理の椅子から追い落とした。よせばいいのに福田は悉く、大平の政権運営を虐めた。その所為で大平は総選挙中に心筋梗塞で急死。田中、大平、小渕の共通項は糖尿病。福田だけが長生きした。敬称略 2011・10・16

2011年10月16日

◆通じている北朝鮮のトンネル

渡部 亮次郎

北朝鮮からソウルに攻め入って捕まった兵士と面会したことがある。他の仲間とともに韓国大統領朴 正煕を殺害すべく、西の海から韓国に上陸し、夜陰に乗じて、大統領の住む青瓦台(大統領官邸)に襲撃を掛けようとして失敗。他の仲間は戦死したが、彼だけが捕虜となってしまった。

「死ぬほど苦しい訓練に耐えた末の襲撃だったので、行軍はまるで楽だった」という。

昨今はこうした襲撃事件は無くなった。そのかわり北側から繰り抜いてソウルに抜けるトンネルがまだ何本か発見されずに存在するのでは無いか、と疑う向きがある。

既に3本か4本を発見されているが、何しろ出口がソウル市内のビルの地下につながっていたりすれば発見は困難になる。

そのトンネルを通って沢山の北朝鮮人がソウル市内でゆっくり買い物をして平壌に戻ってゆくと想像する人がいる。だとすれば韓国人を装う北朝鮮人がソウルにうろうろしていないとは誰も保障はできない。

最近は脱北者を装ってきた暗殺者が捕まったりしている。何しろ北といい、南とはいうが、根っこは同じ民族。区別のつくわけがない。

冒頭の人物の話だと、ここはソウル郊外の山だと思って這い上がったら驚いた。午前4時だというのに街には浩々と街灯が点っている。「しまった、東京へ来てしまった」と隊長が呟いた。

北朝鮮の教育では、南朝鮮はアメリカ帝国主義の犠牲になって食うや食わずの暮らし。街灯など点灯しているはずはないのだ。だから東京に来てしまったというのも無理はない。

昔読んだ「北朝鮮対日謀略白書」(恵谷 浩著 小学館)によると、北朝鮮の日本侵入は、政府がどんなに防ごうにも、彼らは平気の平左、何事も無いように、それこそ日常茶飯事のように行なわれているのだそうだ。

そうやって入ってきた北朝鮮人が韓国人を装い、民主党を支持すれば、間もなく参政権を得られる、と聞かされれば、民主党国会議員に献金したくなるのは当然でしょう。菅さんや野田さん、はっきりして下さい。
2011・10・7

2011年10月14日

◆4人目の金日成

渡部 亮次郎

金日成が偽者だったこと、金正日の生地が実は白頭山なんかで無い事は、はたして定説化しているといえるか。いや、初耳だと言う人のほうが圧倒的に多いのではなかろうか。嘘は何時までも繰り返すと真実になってしまうのだから。

ある日本の外務大臣経験者が、生前、口癖のように言っていた。北朝鮮の今の金日成というのは別人じゃないのかね、本物はとっくの昔に死んでいるはずだよ、と。

この人は、日華事変から大東亜戦争に掛けて11年間もアジア各地で戦っていたという猛者で特に満洲(今の中国東北部)での戦歴が長かった。

彼によると、金日成は昭和10年代に既に50代であったはず。激しい抗日戦を仕掛けてきていたが、1945年8月15日までには死んだとされていた。

ところが1948年9月9日に成立した朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の初代首相として登場したのが死んだはずの金日成だったので偽者だとピンときたというのである。

日本外務省外交資料館などの編集による「日本外交史辞典」の金日成の項では「この人の経歴については、不明な部分がおおく、いわゆる4人目の金日成といわれるが・・・」と逃げを打ちながら「普通に言われる経歴に従って」として「まとめて」いる。

ところが、ここに大変なことを経験してきたライター萩原遼(ペンネーム)が登場する。昭和12年、高知県生まれの日本共産党員。長じて朝鮮語に通じ、日本共産党の機関紙「赤旗」の平壌特派員となるが、国外追放処分に遭った後、退職。

その後米国ワシントンに滞在、国立公文書館に秘蔵されている北朝鮮の文書160万ページを3年がかりで読破した。その結果を「朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀」(文芸春秋)として刊行。

この中では朝鮮動乱はやはり北が仕掛けたものだったこと、マッカーサーはそれを事前に知っていたが、韓国には知らせなかったことを明らかにした。

更に改題した「朝鮮戦争と私 旅のノート」(文芸春秋文庫)で偽者金日成の経緯を明らかにしているのである。

ソ連(当時)軍幹部らによると、金日成の本名は金成柱。名乗っていた仮名が金一星(キムイルソン)と発音が金日成将軍と一緒なだけ。日本軍に追われてソ連のハバロフスクに逃げ、息子金正日もそこで生まれた。

多くの生き証人がいる。特に金正日に母乳を与えていた女性は北京に健在である(200年4月10日現在)という。

それなのに金星一を金日成将軍だと偽って北朝鮮建国の日に平壌に連れて行ったのはソ連である。

だが50歳以上のはずが壇上の首相は僅か33歳の若造だったので「偽者だ!」と人々は叫んで帰りかけたものだという。また息子をわざわざ生地をハバロフスクではなく白頭山としたのは、そこが聖地であり、将来の後継者として権威付けるためだったという。
2011・10・11

2011年10月13日

◆角の天丼 福田蕎麦

渡部 亮次郎

かつて大手航空会社の専務だったKさんは海の無い県の育ち。「塩鮭だったら、焼くと浮いた塩で真っ白になるほど塩辛くないと駄目」と言う。

今と違ってKさんの子供時代は保冷車も電気冷蔵庫もないから山奥へ海の生魚が届かない。腐らぬように塩漬けした魚しか届かない。「2歳までに父親と一緒に食った味がその人間の味覚の原点になる」というKさん。鮭は白くなるほどきつく塩漬けしたものでなけりゃ駄目は当然だったろう。

そういえば海の無い群馬県出身の総理大臣福田赳夫(たけを)さんは好物は塩鮭ではなく生まれ在所の蕎麦が大好物。総理大臣室で昼食はいつも「盛りそば」だった。田舎に刺身はなかった。「一高受験で初めて上京したとき、上野駅前ではじめて刺身を食べたよ、旨かったねエ」と言っ
ていた。

いわゆる「角福戦争」のライバル、越後出身の田中角栄氏。大好物はすき焼きと天丼だった。同じ上野駅前で初めて食べたのが天丼だった。「世の中にこんなに旨いものがあるのかよと思った」そうだ。

越後の田園にもわが秋田の田園にも、天婦羅や天丼はなかった。そんな角さんがその後に好きになったのはすき焼きである。料亭で注文するが、但し味付けは自分でやった。砂糖は全く使わなかったから、相伴したものたちは塩辛くて閉口した。

本人は隠していたが早くから糖尿病だったから砂糖を拒否したのではなく、雪国越後の味覚は塩辛かったのである。

これら2人を両輪に使いこなした佐藤栄作の大好物は焼き芋と大福だった。アルコールよりは甘いものが好き。総理大臣の引き出しに焼き芋のはいっていることがよくあったという。

そのまた親分の吉田茂は「何をお食べになってそんなにお元気なんですか」と聞くと「ヒトを食ってるからさ」と答えた。日本人ならわかるが未熟な通訳をきいたら外国人はのけぞったであろう。

その吉田を国会で散々虐めた河野一郎氏の好物は「きぬかつぎ」だった。随行した旅先の岐阜で大皿の山盛りを一人で平らげた。風貌とは違って酒を全く呑めなかった。

クレムリンでフルシチョフと遣り合って、それを知ったフルシチョフがからかった。「日本の将来」(恒文社)でも書いている。「これを呑んだらボクの言うことをすべて聞くか」といったら聞くというから意を決してウオッカを呑んだ。

途端に目が回って、何処がどうなったか、とにかく部屋に帰って風呂に入ったり、色々やってみたが駄目。翌日までかかってやっと醒めた。弟の謙三氏(参院議長)も呑めなかった。一郎氏の息子洋平氏は大酒飲みだが「あれは母親の血筋」と言っていた。2011・10・11

2011年10月11日

◆政治家の貫禄とは

渡部 亮次郎

近頃の政治家は貫禄が無い、と良く聞くが、尤もなこと、当たり前のことでは無いか。貫禄のつく経験をまったくしていないからだ。楽だけしてきた政治家に貫禄は無理。無い物ねだりである。

人間の幅は、喜怒哀楽の河を如何に深く高く長く幅広く潜り抜けてきたかによって決る。それは、喜びと楽だけの人生であって、怒りと悲しみは無いに越したことは無い。だが人生、そうはいかない。

しかし、その不幸の経験が多いだけ、その人間は、一寸やそっとのことでは怒らなくなるし、少々の悲しみには動じなくなる。それが貫禄である。

このように考えると、残念ながら「泥にまみれ火に焼かれるような極めて苦痛な境遇」(広辞苑)という「塗炭」の苦しみの経験を恐れていては貫禄というものは絶対できない。

近頃の政治家に貫禄が無いのは戦争とも関係がある。70年近く戦争がなく、大東亜戦争の経験者が消えて行こうとしている。望んで軍人になった者(職業軍人)はいざ知らず、召集令状によって戦場に駆り出されたた者は、抵抗も言い訳もできず、全身を敵弾に晒す以外に無かった。

また、銃後に残された妻子も、何時空から降ってくる爆弾で身を砕かれ、焼かれるか、恐怖の連続だった。地下鉄が曲がりきれずに、すれ違いざまの並行電車にぶつかってきて何人か死んで大騒ぎした日、東京・下町でパンを売っていたお婆さんが言っていた。「あの日(1945年3月10日)はあっという間もなく10万人が死んだんだよ」。

戦後、経済の高度成長が終わるまで日本の国会議員は戦争帰りばかりだった。日本刀で敵を何人も斬ってきたという猛者もいた。彼が言った。「大砲の弾が炸裂して生き残れる途はたった一つ。できた穴に飛びこむことさ。どんな敵の名手だって同じ場所に連続して着弾させる事はできないからさ。怖いようだけど、これが度胸であり、貫禄さ」。

その政治家はよく言っていた。士官学校を出たばかりの隊長は、初めて遭遇した敵に怯えきっている。タマを撃つことは習って来たが撃たれるのは生まれて初めてだ。経験が無いから貫禄もない。

だが、部下にそれを見せてはならない。逃げ隠れせず突っ立っている。部下たちは「危ないですから」と安全な場所へ誘導しようとするが、すればするほど隊長は身を危険に晒そうとする。

咄嗟に古参兵が叫んだ。「隊長どの、そこじゃ敵情が良く見えません。こちらへどうぞ」と岩陰に誘導。隊長は安堵の溜息をついていた。貫禄は士官学校では習えない。経験豊かな古参兵の貫禄に叶わなかったのである。

今じゃ政治家も二世、三世ばかり。家庭教師、予備校付きで安楽な学生時代を経てサラリーマン、松下政経塾では手当てを貰って当選学だけを学んでくる。命がけの仕事なんかしたことが無い。失敗をしたこともない。貫禄が付くはずが無い。しかし貫禄の無いのは国民全部といえない
か。2011・10・10

2011年10月09日

◆新聞より電波を恐れたCIA

渡部 亮次郎

いくら暑い年といっても11月になると肌寒い。だが、沖縄はまだポロシャツ1枚だ。

その沖縄ががまだ米国の施政権下にある時代の秋にNHKから特派員として派遣された。1968年に行なわれた沖縄主席(いわば知事)の初の公選を取材するためである。

施政権を持つアメリカ側の最高責任者は「高等弁務官」といった。

IDカードについて話があるから出頭しろという。記者である以上沖縄の基地を取材したいとIDカード(基地出入り章)を申請していたのである。

「これじゃNOだ」「なぜ瞳の色が黒じゃいけないのか」「ブラックなのは沖縄島民であって、貴殿ら本土人はブラウン(褐色)だ、申請しなおせ」という。

われわれはモノを知らなすぎるのだ。外国人をひとまとめにする。「青い目」と言うが、彼らの瞳の色は様々。沖縄の人たちのDNAは九州のそれだというからブラウンのはずだが、当時のアメリカ軍は黒だといって聞かなかった。

早速取材を始めたところ、「ナショナル電気洗濯機」と横腹に書いたライトバンが二六時中、尾行してくる。誰と話をしたかをチェックしているらしい。「闘牛」見物に行っても尾けてくる。

弁務官事務所に文句を言ったら返事がいい、この島は我々の施政権下にある。本土から入り込んだ人物が何をしているかを監視するのは当然の権利であり、義務である。

「分かった・しかし激しい反米思想を持っている政治記者が何人もいるのに、私だけを尾行するのはなぜか」

「簡単だ。新聞が我々に不利なことを書いた場合、その新聞を那覇空港で没収すれば済むが、NHKの電波を止める手段が無い以上、東京に発信するまえから貴殿を監視する以外に方法が無いのだ」実に正直である。

昨夜、何処のバーでどういう女性相手にどんな銘柄のウイスキーを何杯飲んだか。何時の晩はどの種の女性と寝たかまでしっていた。ホステスこそがスパイでは無いかと疑いたくなった。

更に貴殿の電話を24時間監視し、東京への報告を傍受しているといいつつ大型の録音機を見せた。あれから間もなく沖縄は日本に返還されたが米軍基地はそのままである。CIAもまた不変であろう。

「5万の差で革新の屋良朝苗(やらちょびょう)が勝つという私の予想は的中した。

当然、CIAはそれを盗聴で知ったはずなのに「NHKが放送していた」とシラを切った。選挙事前情報をNHKが放送するはずがないのに「「した」という。最早呆れてポロシャツを脱ぎ、冬服に着替えて帰任した。

アッケラカンのアメリカ。秘密を秘匿し続けるロシア。その後、外務大臣秘書官に転じてから面白いことを聴いた。東京にある大使館をアメリカとソ連(いまのロシア)が前後して新築した。

その時引き込む電話線をアメリカは裸にした。何者かが盗聴装置をくっつけたらただちに分かるように、そうしたと言った。対してソ連はコンクリートで固めた。何者も手がつけられぬように。くどいが秘密保持に関してアメリカ人トロシア人。気質が根っから違うのですね。
2011・10・06

2011年10月06日

◆小沢氏、今や「お荷物」

渡部 亮次郎

小沢氏、今や「お荷物」と産経が書いた(10月4日)

世論の風冷たく、「ゆでガエル」の心境だという。産経とフジテレビが合同で行なった世論調査で世論の8割以上が「小沢ノー」を表明。

それに押されて産経も思い切ったことを書いたものである。しかし、それもこれも小沢氏が決断しなければ何の意味もない。ただただ政治不信が募ってゆくだけだ。

<剛腕でならした民主党の小沢一郎元代表も今やすっかり民主党の「お荷物」となってしまった。産経新聞社とFNNの合同世論調査では81・1%が小沢氏の議員辞職を求め、86・9%が国会での説明を求めた。

民主党内での求心力低下も著しい。「党内融和」を掲げる野田佳彦首相だが、小沢氏をかばえばかばうほど政権にダメージが及ぶ構図が浮き彫りになった。

「動乱の時代は私が死んでからにしてほしいと思っていたが、この半年か1年の間にその兆しがわれわれの生活の中に生まれてくるのではないか…」

3日、都内で開かれた小沢一郎政治塾で8カ月ぶりに講師を務めた小沢氏は、国会議員ら100人を前に危機感をあらわにした。

「現時点で総選挙を行った場合、どの政党も過半数を取れない。そうなると日本の政治は混乱の極みに達する」とも語った。小沢系グループは選挙基盤が脆弱な若手が多い。危機感をあおる発言の裏には「選挙に勝ちたいならば俺について来い」との思いがにじむ。

とはいえ、小沢氏に突き付けられた現実は厳しい。

世論調査では8割が議員辞職を求めたばかりか、民主支持層の69・8%が「小沢氏の問題が政権運営に悪影響を与える」と答えた。

小沢氏の期待値も大きく下がっており、「政治家として評価する」は8・3%、「首相にふさわしい」は4・5%にすぎなかった。

平成23年度第3次補正予算案に関する3党協議も、小沢氏の証人喚問問題が障害となっている。

おのずと小沢系グループの動きは鈍る。「一新会」「北辰会」など小沢系3グループを統合し、自らが会長に就任する計画は一向に進まず、このままならば来年秋の党代表選に出馬しても勝てるめどは立たない。

小沢氏と距離を置き始めた若手は「もう政局はうんざり。政権交代後3人目となる野田首相を潰すわけにはいかない」と打ち明ける。今月6日には小沢氏の政治資金規正法違反事件の初公判が予定されており、司法闘争が続けば、小沢離れはさらに加速する公算が大きい。

小沢氏の最近の言動には、そんな焦りも垣間見える。2日のインターネット番組では元秘書3人の有罪判決について「裁判官が独断、推測に基づいて有罪を決めるのは民主主義国家では考えられない。

一方的な意見に判決が左右されれば暗黒社会になってしまう」と猛批判した。周辺には「ひでえ話だ。権力はすごいな」と漏らした。

3日の講演で小沢氏は自らの公判には一切触れなかったが、唐突にこんな話を持ち出した。

「皆さんはゆでがえるの話を知っているか? カエルは徐々に温めていくと最初はそれに適応しながら活動するが、ある限界を超えるとゆであがっている」

日本の現状を憂えたのか。それとも自らの境遇を暗示したのか−>。(坂井広志、斉藤太郎)
産経ニュース 2011.10.4 11:27


2011年10月05日

◆末期のソ連で見たもの

渡部 亮次郎

所変われば品変わる。所は、今は飛行機であっという間に変わるから、品もあっという間に変わる時代になっている。真冬のモスクワで頭を毛皮の帽子で保護していたのに、次の日、アラビヤの沙漠では車のボンネットで目玉焼が出来るほどの灼熱だ。

そんな1月、クレムリンに入っていって驚いた。昼間、小雪の下で入城許可を待つ男女の長い列。靴は破れ、マフラーはボロボロ。男といわず女といわず、私を見つめる目の縁が全員、真っ赤だ。

思わず「農奴か」と聞いたら日本大使館員,「いやこれが1千万モスクワ市民の実態です」というではないか。一世一代、待ちに待ってやっとクレムリン見学に来られたのだという。これで社会主義革命成功とは絶対いえない。

これが1978年。23年後にソ連は予想通り崩壊した。

<1991年12月25日にソビエト連邦(ソ連)大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、これを受けて各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦が解体された>。

握手した首相コスイギンの軟らかい手を思い出す。もうこの世の人ではない。「小国」日本から来た外務大臣との面談を拒否するため風邪を装ったブレジネフ議長も祖国崩壊を目撃することなく没したのは、むしろ幸いだったかもしれない。

当時の日本大使館の建物はソ連側が建てたものだったから、館内は初めから盗聴されていた。だから明日の会談にそなえる我々の打ち合わせは、館内に作られた大きな箱の中で行なわれた。

しかも、会議中、流れる水の音を大音響で流しながらである。さすがにこれでは盗聴する方もわれわれの話す内容はわからないだろうという計算からだった。成功しただろうか。

向こうが平和条約安を出してくるだろうから、こっちも対抗の案を出そうと決めて行ったら、案の定出してきた。聴いていたのかもしれない。

その昔、漁業交渉に行った農林大臣河野一郎は、打ち合わせを公園を散歩するフリをしてやったといっていたが、技術の更に発達したいまは「読唇術」ということが行なわれているそうだ。   2011・10・03