2011年11月19日

◆小田野直武を教えよ

渡部 亮次郎

  
恥かしながら私自身、小田野直武(おだの なおたけ)を知ったのは中年になって初めて郷里秋田県で角館(かくのだて)町(現在は仙北=せんぼく=市角館)を訪れてからである。学校では習わなかったから、今でも教えていないだろう。

「解体新書」の挿絵を書いた武家画人であり「秋田蘭画」の一派を創り上げた偉人である。藩主が弟子だった。

小田野 直武、寛延2年12月11日―安永9年5月17日(1750年1月18日―1780年6月19日))は江戸時代中期の画家。秋田藩士。通称を武助。平賀源内から洋画を学び、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成した。

小田野直武は秋田藩角館に生まれる。角館は、佐竹家の分家である佐竹北家が治める城下町であった。幼少より絵を好み、狩野派を学び、また浮世絵風の美人画も描く。やがて絵の才能が認められ、佐竹北家の当主佐竹義躬、秋田藩主佐竹義敦(佐竹曙山)の知遇を受ける。

安永2(1773)年7月、鉱山の技術指導のために、平賀源内が秋田を訪れ、直武と出会う。一説には、宿の屏風絵に感心した源内が、作者である直武を呼んだという。

源内は直武に西洋画を教えた。伝説では「お供え餅を上から描いてみなさい」と直武に描かせてみせ、輪郭で描く日本画では立体の表現は難しく、西洋絵画には陰影の表現があるのでそれができると教えたという。

源内自身は「素人としては上手」という程度の画力であるが、遠近法、陰影法などの西洋絵画の技法を直武に伝えた。

同年10月、源内は江戸へ帰る。同年12月直武は「銅山方産物吟味役」を拝命して江戸へ上り、源内の所に寄寓する。

そのころ、前野良沢・杉田玄白らによる『解体新書』の翻訳作業が行われていた。図版を印刷するため、『ターヘル・アナトミア』などの書から大量に図を写し取る必要があった。

杉田玄白と平賀源内は親友であり、おそらく源内の紹介によって、小田野直武がその作業を行うこととなる。

実は既に安永2年中に、『解体新書』の予告編である『解体約図』が発行されており、その図は熊谷儀克が描いていた。『約図』と『新書』の図を比べると、やはり直武による『新書』の方が、陰影表現の点で優れている。

直武は『解体新書』の序文に「下手ですが、断りきれないので描きました…」といった謙虚なことを書いている。

直武は源内のもとで、西洋絵画技法を自己のものとし、日本画と西洋画を融合した画風を確立していく。また、佐竹曙山や佐竹義躬に対し絵の指導を行った。この3人が中心になった一派が「秋田蘭画」または秋田派と呼ばれることになる。

のちに日本初の銅版画を作り出す司馬江漢もこのころ直武に絵を習ったようである。

安永8(1779)年11月、直武は突然の遠慮謹慎を申し渡され、秋田へ帰る。平賀源内の刃傷事件が起こり、かかわりあいになるのを恐れての処置という説がある。ただし、直武の帰国は刃傷事件の前だとする説もある。殿の逆鱗に触れたという。

翌年5月、小田野直武急死。死因はわからない。病死説や、政治的陰謀による切腹説がある。僅か30歳。才能が永遠に葬られ、殆ど忘れられかけている。

代表作不忍池図  唐太宗・花鳥山水図  笹に白兎図  岩に牡丹図

小田野直武を描いた作品漫画 みなもと太郎「風雲児たち」

関連文献

高階秀爾・武塙林太郎・養老孟司・芳賀徹『江戸のなかの近代―秋田蘭
画と『解体新書』』筑摩書房、1996.12、ISBN 448085729X
出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』

2011年11月16日

◆真紀子のトラウマ

渡部 亮次郎


首相・田中角栄が退陣したのは1984年11月號の「文藝春秋」立花隆「田中角栄研究ーその金脈と人脈」で起きた世論の批判によるもの、というのが、ほぼ「伝説」になっている。だが違う。

生前、本人が私に語ったところによれば「ありゃ、たいした事はなかったが、もう1本のことで娘が大騒ぎしおってなァ、アレに参ったんだよ」であった。

アレとは立花論文と並列掲載された児玉隆也の「寂しき越山会の女王」で、金庫番佐藤昭(あき。後に昭子と改名)との間に認知していない娘のいることを暴露したものだった。

私は田中には、東京・神楽坂のもと芸者に生ませた男の子2人がいる事は知っていたが、昭の娘は別れた前夫との子と思っていた。ところが児玉は離婚成立前に田中との間にできた、いわば不倫の子だと暴露したのである。

この頃、世間は、金脈にばかり気をとられていたが、田中家においては、この娘のこと、長女真紀子は驚き、大声をあげて父親たる角栄を難詰。「恥ずかしくって街を歩けないツ」。折から妊娠中なのに、2階のベランダの手摺の上に立ち「辞職しなければ飛び降りる」と迫ったという。

あの時は血糖値が300にも上がって往生した。真紀子の脅しに屈したのだと述懐していた。くれぐれも立花論文が総辞職の直接的な原因では無いと強調していた。

私は記者時代は田中のライバルだった福田赳夫の担当。田中周辺からは警戒される存在だった。それが田中と会話ができるようになったのは、秘書官として仕えた外務大臣園田直が、のちに鈴木善幸政権実現で田中と急接近したからである。

児玉隆也も若くして癌死してしまったが、生前のある日訪ねて来て言った。「渡部さん、政治家が記者を買収するのに800万円を差し出すことがあるんですか」「ないだろうね、500万とか1000万円とか、纏まった額じゃないのかなぁ」

児玉によると光文社の女性週刊誌「女性自身」のデスクをしていた昭和41年ごろ、佐藤昭のことを記事にしようと取材をはじめたところ、しばらくして作家で作詞家の川内康範がやって来て、あの取材をやめてくれ、と言って差し出したのが800万円だったというのである。勿論断った。

のちに角栄の秘書早坂三に訊いたところ、「あの時おやじが政治評論家の某氏に工作費として渡した金額は3000万円だった」との答え。評論家と作詞家で実に2200万円も「中抜き」したのである。

早坂秘書によれば金は全く戻ってこなかった。だから角栄は「工作成功」と思い込んでいた。それが文藝春秋に載ったので2重の驚きだったという。

児玉は工作に応じなかったが、「カネを受け取って記事を書かなかった」という噂がたったので、光文社を退職、独立して苦労していた時、文藝春秋から「注文」があったので書いた、と述懐していた。昭和政治裏面史の一駒である。敬称略 2011・10・28

2011年11月15日

◆時代政治屋の狂態踊り

渡部 亮次郎


これは嘗て内閣総辞職に追い込まれた米内光政が知人に送った手紙の中で近衛文麿や松岡洋右(ようすけ)らを指して書いたもの。「魔性の歴史といふものは人々の脳裡に幾千となく蜃気楼を現はし・・・時代政治屋に狂態の踊りを踊らせる」と言うもの。

かつて読売新聞が連載した「検証・戦争責任」?(2006.04.21に書かれている。新聞を詳しくは読まない性格だが、この連載だけは時間をかけて、2ページを仔細に読んだ。戦争を知っているようで知らないからである。

父方の祖父は日露戦争のラッパ手だったが、戦争の話は一切したがらなかった。ラッパを吹かされたが故に肋膜炎を患ったといい、孫たる私の弟が中学でブラスバンドに入りたいと言った時、父は許さなかった。

私の生まれは昭和11年1月。大東亜戦争(太平洋戦争とアメリカはいう)が始まった時は5歳。翌年やっと6歳になって国民(小)学校入学。昭20(1945)年8月の時は4年生だった。

したがって日華事変、大東亜戦争の経緯、政府・軍部内の対立などについて1度も系統立った教育は受けてないし、自らも部分的に「読書」をしたきりで、誠に恥じ入る次第である。読売の連載をきっかけに勉強しなおしている。

前後するが昭和53(1978)年、外務大臣秘書官として日中平和友好条約の締結交渉の真っ只中に在った際、外務大臣園田直は条約締結に反対する自民党内右派から、嘗ての松岡洋右みたいだと厳しく非難された。だから松岡の事は多少、読んだ。

松岡 洋右(まつおか ようすけ、男性、1880年3月4日 - 1946年6月27日)は日本の外交官、政治家。山口県出身。岸信介の岳父、安倍晋三の曽祖父に当たる人物。

1880年に山口県熊毛郡(現在の光市)にて、由緒ある廻船問屋の4男として生まれる。幼少の頃より腕白で、また負けん気の強い性格だったという。洋右が11歳の時父親が事業に失敗し破産したこと、親戚が既に渡米して一応の成功を収めていたことなどから1893年に留学のため渡米する。

オレゴン州ポートランド、カリフォルニア州オークランドなどで苦学の末、オレゴン大学(法科)に入学、1900年に卒業する。大学と並行して早稲田大学の法学講義録を取り寄せ勉強するなど、勉学心旺盛であったが、母親の健康状態悪化などを理由に1902年、9年振りに帰国する。

1904年、外交官試験に合格し外務省に入省する。なお、この外務省入りはそれほど積極的な動機に基づくのでなく、折からの日露戦争に対する一種の徴兵忌避的意味合いがあったのではないかとの説もある。

1930年、満鉄を退職、2月の第17回衆議院議員総選挙に郷里山口2区から立候補(政友会所属)、当選する。議会内では、幣原外務大臣の対米英協調・対中内政不干渉方針を厳しく批判した。

1931年の満州事変をうけて、翌1932年、国際連盟はリットン調査団を派遣、その報告書(対日勧告案)が9月に提出され、ジュネーブ特別総会での採択を待つ状況だった。

報告書そのものの内容は日本の満州における特殊権益の存在を認める等、日本にとって必ずしも不利な内容ではなかったが、日本国内の世論は硬化、政府は報告書正式提出の直前(9月15日)に満州国を正式承認するなど、政策の選択肢が限定される状況であった。

このような中で、1932年10月、代議士の松岡は同総会に首席全権として派遣された。その類まれな英語での弁舌を期待されての人選である。日本国内の期待にたがわず、到着早々の松岡は同年12月8日、1時間20分にわたる原稿なしの演説を総会で行う。

それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず明らかになるだろう、との趣旨のものだった。

しかし、日本国内では喝采を浴びたこの演説も、諸外国、特にキリスト教国においてはむしろ逆効果であった。

日本政府は、リットン報告書が採択された場合は代表を引き揚げることを決定(1933年2月21日)、2月24日の総会で同報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ国)、投票不参加1国(チリ)の圧倒的多数で可決。

松岡は予め用意の宣言書を朗読した後、閉会前に会場を退場した。松岡の「宣言書」そのものには国際連盟脱退を示唆する文言は含まれていないが、同3月8日に日本政府は脱退を決定(同27日連盟に通告)することになる。

1940年7月22日に成立した第2次近衛内閣で、松岡は外務大臣に就任した。内閣成立直前の7月19日、近衛が松岡、陸海軍大臣予定者の東条英機陸軍中将、吉田善吾海軍中将を別宅荻外荘に招いて行ったいわゆる荻窪会談で、松岡は外交における自らのリーダーシップの確保を強く要求、近衛も了承したという。

20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰した松岡はまず、官僚主導の外交を排除するとして、赴任したばかりの重光葵(駐英大使)以外の主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。

更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐ソ大使を更迭された東郷茂徳(大東亜戦争開戦時と敗戦時の外相)らは辞表提出を拒否して抵抗した。

彼の外交構想は、大東亜共栄圏(この語句自体、松岡がラジオ談話で使ったのが公人の言としては初出)の完成を目指し、それを北方から脅かすソ連との間に何らかの了解に達することでソ連を中立化、それはソ連と不可侵条約を結んでいるドイツの仲介によって行い、

日本―ソ連―独・伊とユーラシア大陸を横断する枢軸国の勢力集団を完成させれば、それは米英を中心とした「持てる国」との勢力均衡を通じて世界平和・安定に寄与する、というものではなかったかと考えられる。こうして松岡は日独伊3国軍事同盟および日ソ中立条約の成立に邁進する。

日独伊3国軍事同盟は1940年9月27日成立し、松岡外相はその翌年1941年3月13日、同盟成立慶祝を名目として独伊を歴訪、ヒトラー、ムッソリーニと首脳会談を行い大歓迎を受ける。

帰途モスクワに立ち寄り、4月13日には日ソ中立条約を電撃的に調印。シベリア鉄道で帰京する際には、異例なことにスターリン首相自らが駅頭で見送るという場面もあった。この時が松岡洋右外交の絶頂期だった。

一方松岡のこの外遊中、日米交渉に進展が見られていた。駐米大使野村吉三郎と米国務長官コーデル・ハルの会談で提案された「日米了解案」(日本には4月18日に伝達)がそれである。

同案では、日本軍の中国大陸からの段階的な撤兵、日独伊32国同盟の事実上の形骸化と引き換えに、アメリカ側の満州国の事実上の承認、日本の南方における平和的資源確保にアメリカが協力すること、が盛り込まれていた。

なお、この諒解案そのものは日米交渉開始のため叩き台に過ぎなかったが、これを「米国側提案」と誤解した日本では、最強硬派の陸軍も含めて諸手を挙げて賛成の状況であった。

ところが4月22日に意気揚々と帰国した松岡はこの案に猛反対する。自らが心血注いで成立させた3国同盟を有名無実化させること、そして外交交渉が自分の不在の間に頭越しで進められることを松岡の自尊心は許さなかった。

しかし1941年6月22日に開戦した独ソ戦によって、松岡のユーラシア枢軸構想自体、その基盤から瓦解していたのである。松岡は締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦することを閣内で主張し、また対米交渉では強硬な「日本案」を米国に提案するなど、その外交手腕も混乱を極めた。

日米交渉開始に支障となると判断した近衛首相は松岡に外相辞任を迫るが拒否。仕方なく、近衛は7月16日内閣総辞職し、松岡外相をはずした上で第3次近衛内閣を発足させた。

対米強硬論を唱えていたが、最終的には日米が平和裡に手を握れる日を夢見ていた松岡は、1941年12月6日、日米開戦の方針を知り「僕一生の不覚である」と無念の思いを周囲に漏らしたという。その後結核に倒れた松岡は以前とは別人となったように痩せ細る。

敗戦後、A級戦犯として逮捕されたが、結核悪化のため東京裁判公判法廷にはただ1度出席し、罪状認否では英語で無罪を主張。1946年6月27日、米軍病院から転院を許された東大病院で病死、66歳であった。辞世の句は「悔いもなく怨みもなくて行く黄泉(よみじ)」。

米国で苦学した松岡は「道を歩いていてアメリカ人に衝突しそうになったら、絶対に道を譲ってはいけない。殴られたら殴り返さなければいけない。アメリカでは一度でも頭を下げたら、二度と頭を上げることはできない」を口癖にしていたという。

山田風太郎は自著「人間臨終図鑑」の中で、「松岡は相手の手を全然見ずに、己の手ばかりを見ている麻雀打ちであった。彼はヤクマンを志してヤクマンに振り込んだ」と寸評している。

要は今のインドネシア(当時はオランダ領)の石油を欲する日本陸軍は海軍の強力な反対を押し切ってドイツ、イタリアとの3国同盟体制に突入。米英を怒らせて、大東亜戦争となったわけである。

読売のいいところは,戦争を煽ったことを率直に認めて、国家総動員を図る近衛内閣にたいし「従来の半自由主義的な中途半端な考え方や方法では駄目だ」と発破をかけていたことを紹介していることだ。

戦争反対ばかりを主張するのが一貫しているような朝日新聞だが、3国同盟成立のときは読売より酷くて「いまぞ成れり“歴史の誓い” めぐる酒盃、万感の怒涛」と書いたと読売は書いている。

こうした流れに押されて歴史の場から去って行く米内の吐いた科白が時代政治屋の狂態踊りと言うわけだが、今の政治家は「風」に乗らなければ当選できないと、パフォーマンスに明け暮れているから、米内が生きていたらなんと言うだろうか。

<1940(昭和15)年米内を首相に強く推したのは昭和天皇自身だったようだ。この頃、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーはヨーロッパで破竹の猛進撃を続け、軍部はもとより、世論にも日独伊3国同盟締結を待望する空気が強まった。天皇はそれを憂慮し、良識派の米内を任命したと「昭和天皇独白録」の中で述べている。

盛岡出身の米内は当時の軍人としては珍しく、広い視野を持つ常識人だった。極端に口数が少なく、演説の類が大嫌いだった。平沼内閣の閣僚中、演説回数が1番少なく、1回の演説字数が461字と、他の大臣の半分という記録が残る。

終生抜けなかった岩手弁を気にしたという説もあるが、面倒くさがり屋で、くどくど説明するのを嫌ったためもあるだろう。

ダンディーである上、長身で日本人離れした風貌でもあり女性によくもてた。特に花柳界では、山本五十六とともに圧倒的な人気があった。長男の米内剛政は米内の死後、愛人だったと称する女性にあちこちで会っ
て困ったという。

二・二六事件の起こった1936(昭和11)年2月26日、米内は横須賀鎮守府司令長官だったが、新橋の待合に泊まっていた。事件のことは何も知らず、朝の始発電車で横須賀に帰ったらしい。その直後に横須賀線はストップしたというから危ないところだった。

趣味が長唄と日曜大工。長唄は遊女の哀れを歌った色っぽいものを好んだ。ロシア文学にも親しみ、19世紀の進歩的詩人・プーシキンを愛読した。

こんな米内を陸軍が気に入るはずがない。倒閣の動きは就任当日から始まったといわれる。半年も経った頃、陸軍は日独伊三国同盟の締結を要求。

米内がこれを拒否すると、畑俊六陸軍大臣を辞任させて後継陸相を出さず、米内内閣を総辞職に追い込んだ。米内はその経過を公表して、総辞職の原因が陸軍の横槍にあったことを明らかにした。

しかしながら、戦後の東京裁判で証人として出廷した際には被告となった畑をかばって徹底してとぼけ通し、ウェッブ裁判長から「こんな愚鈍な首相は見たことがない」と罵られても平然としていた。

小磯・鈴木両内閣に海相として入閣した米内は、必死で戦争終結の道を探った。天皇の真意は和平にあると感じていたからで、昭和20年5月末の重臣会議では阿南惟幾陸相と論争し、「1日も早く講和を結ぶべきだ」と言い切った。

あの時代に、戦争への流れをささやかでも抵抗した良識派軍人の居たことは特記されねばならない。戦後処理の段階に入っても米内の存在は高く評価され、幣原内閣の組閣時には健康不安から(血圧は最高250、戦前の豊頬が見る影もなく痩せ細っていた)辞意を固めていたにもかかわらずGHQの意向で留任している。(フリー百科事典「ウィキペディア」)

2011年11月13日

◆松茸がスカンク?

渡部 亮次郎


幸いにして私は松茸が好物ではないから、1本何万円もする物を買おうとは思わない。田圃の真ん中に育ったお陰である。しかし周囲の人たち、特に江戸っ子は食べたがる。北朝鮮産でも中国産でもいいのだそうだ。

日本にはそのほか韓国、カナダ、米国からの輸入品は今やおなじみだが、トルコやメキシコ、モロッコ、ブータン、ウクライナからの輸入もあるという。

マツタケが英語圏では「スカンクマッシュルーム」と呼ばれているそうだ。古い毎日新聞のコラム「余禄」に出ていた。スカンク=イタチ科の哺乳類お一群。敵に襲われると猛烈な悪臭を放つ(広辞苑)。

▲話題のネット百科「ウィキペディア」を見ていて、マツタケが英語圏では「スカンクマッシュルーム」と呼ばれているという記述に出合った。

ずい分ひどい命名と思うのは日本人だからで、その香りを嫌う人々には音楽どころの話ではないらしい

▲だから世界でも珍しくマツタケの香りを愛する日本人のもとには、地球の裏側からもマツタケが集まる。近年輸入が急増した中国をはじめ、北朝鮮や韓国、カナダ、米国からの輸入品は今やおなじみだが、トルコやメキシコ、モロッコ、ブータン、ウクライナからの輸入もあるという

▲このうち05年の輸入量の27%を占めた北朝鮮産マツタケも、核実験に対する政府の追加制裁によって輸入禁止となる。もっとも7月のミサイル発射の影響で、すでに北朝鮮産の輸入は昨年の1割以下に激減しており、今後の消費者への影響は小さいようだ

▲ただ今までにも北朝鮮産マツタケが中国を経由し、中国産として日本に入っているという疑惑が報じられた。今シーズンも1度はマツタケの奏でる調べを聞きたいという人には、何とも無粋な不協和音が気になる秋になってしまった。

(毎日新聞「余録」 2006年10月13日 0時04分)

マツタケ(松茸)は日本の秋の味覚を代表するハラタケ目シメジ科の独特の強い香気をもつ食用キノコ。日本、朝鮮、沿海州に分布するほか、サハリン、千島列島でも生息が確認されている。

マツタケは、アカマツなの根を菌根化して共生する菌根菌である。ほかのキノコや土壌微生物との競争に弱く、有機物の少ない鉱質土壌で、空気量も小さく乾燥ぎみのやせた土地、つまり競合する生物が少ない場
所に生育する。

古くから日本人に好まれたと思われ、「万葉集」にもマツタケのこととされる記述がわずかにあるが、文献にはほとんどあらわれない。

これは、形からの連想で、いわば禁句だったためという説がある。また、クロマツやトウヒ類のアカエゾマツ、エゾマツ、ツガ類のツガ、コメツガの林にでることがあるが、ほとんどアカマツ林にしか生息しないことにもかかわりがあると思われる。

アカマツは日当たりのよい場所をこのむので、生態遷移(→ 生態学)のなかでは先駆樹木としてはげ山に最初に生えてくるが、やがて落葉あるいは常緑の広葉樹、針葉樹のトウヒ類、ツガ類にとってかわられていく。

平安時代にはアカマツ林はそれほど多くなくマツタケも希少だったが、平安末期には京都近辺では木材、燃料不足を生じるほどだったから、広葉樹やトウヒなどが生長する間がなく、アカマツ林が多くなっていたと考えられる。

兼好法師の「徒然草」にも、コイなどとならんでマツタケが高級食品であるという記述があらわれてくる。

明治期になって近代化がはじまるとともに、薪炭の利用、木材の伐採が急激にすすみ、アカマツ林もふえてマツタケの産出量も急増した。しかも、このころは落葉や下生えを肥料や燃料としてつかっていたため、林地の条件もマツタケにとって好都合であった。

しかし高度経済成長がはじまりプロパンガスが普及すると、木炭の生産は減少し山の手入れもされなくなってアカマツ林は雑木林にかわり、マツタケの生産も急減した。現在、人工栽培はできず高級食品となっているが、実現にむけて研究がすすんでいる。

焼きマツタケ、吸い物、鍋物(なべもの)、すき焼き、土瓶むし、マツタケごはんとして調理される。最近は韓国産のほか、中国産、カナダ産のものもくわわり、国内産の量をしのいでいる。香りはやや弱いが、味や歯ざわりはかわらない。

先の「余禄」によると「私の食物誌」を著わすほどの食通だった英文学者の吉田健一さん(吉田茂元首相長男)は「フライパンでバタで炒めること」「バタは松茸の香りと味を高めるだけのようで、これ以上の食べ方を知らない」と書いているそうだ。本は昔読んだが記憶がないのは、松茸への拘りが無いせいだろう。

マツタケの香りの主成分は、1930年代に岩出亥之助によって抽出され、合成してマツダケオールと名づけられた。マツダケオールは食品添加物として、インスタントの吸物などに、ひろくもちいられている。

<この香りは欧米人にはあまりこのまれず、中国人もマツタケよりはシイタケをこのむ。>とは色々な辞書に出てくるが、「スカンク」と言うのは、余程嫌われたものだ。

中国人は香りよりも食感重視なのか。味「シメジ」と日本人が好むシメジはどうだろう。そんなことが話し合える日中関係が来るだろうか。

マツタケと近縁なキノコに、オウシュウマツタケがある。この中にはマツタケと形もにおいもそっくりなものがあるといい、同種の可能性もある。アメリカにはアメリカマツタケがある。

日本にもミズナラ、コナラの林に形もにおいも似たバカマツタケがあり、香りをもたないものではシイ、コナラの林にニセマツタケ、ツガやアカマツの林にはマツタケモドキが生息する。

2011年11月08日

◆色は匂えど散りぬるを

渡部 亮次郎


いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせすん。これが「いろは四十八文字」。日本語のカナのすべてが入っている。

私は昭和17(1942)年に就学したが、教室に掲げられていたのは「アイウエオカキクケコ」の五十音で「いろは」はもっと生長してから教わった。それも見出しの如くに教えられた。誰からだったかは判らない。いわゆる先生からではなかったように思う。

<色は匂えど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山けふ(きょう)越えて 浅き夢見し ゑ(え)ひ(い)もせず。>美人がいくら容貌が優れて匂う様だからと言ったって、やがては婆さんになってしまうじゃないか・・・と人生を延々と詠って飽きるところがない。

優れた日本語の教本である、と今も思えるが、これを江戸時代にはカルタにして子供に与え,言葉と諺覚えの教材にしていたそうだ。

世界百科事典(平凡社)に拠れば、これは「いろはかるた」と呼ばれ、いろは48文字をそれぞれ頭字とする<たとえ(ことわざ)>を集めていた。諺をかいた読札48枚と、その頭字及び諺の内容を書いた同数の取札とからなり、語呂の良い短句形と単純な遊び方で、正月の子供の遊びな
った。

江戸中期末葉(18世紀後半)までに上方(京都など近畿地方)で作られた。この上方いろはは<一寸先やみの夜>ではじまるが、後から出来た江戸ものは<犬も歩けば棒にあたる>で始まり<犬棒かるた>と呼ばれた。

両者に共通するのは<月夜に釜をぬく(盗む)>の一句のみ。このほか尾張にもそれなりにあったとの説もあるが、いずれ江戸物を残していずれも消滅した、とされている。その時期は大正末期だったようだ。従って江戸育ちでもない当方が江戸かるたなどで遊んだことはないし、見た
こともない。 

正月に百人一首のカルタ取りは全国チャンピオンを毎年競うほど今でも盛んだが、いろはの大会は見たことがない。それなのに今頃取り上げるのは、周囲にこのごろやたら、伊呂波カルタや諺を知ってるかい、知ってるかいと聞いてくる人間がいる。それならばと本屋をめぐってみたら「いろはかるた噺」森田誠吾著、ちくま学芸文庫を探し当てたのである。

そういえば赤穂氏十七士による討ち入りが成就した時、幕府はこれを幕府に対する意趣返しと読み、事件の世間に広まることを恐れて他言を禁じた。芝居にすることすら許さなかった。ところが町中の方に知恵者がいた。仮名手本忠臣蔵。いろは48文字から「ん」を抜けばちょうど四十七に成る事に目をつけて幕府の目を眩ました。

「い」については先に書いたが、「ろ」については上方が「論語読み論語知らず」に江戸は「論より証拠」である。「は」針の穴から天のぞく 江戸は花より団子。江戸にはこの類句に花の下より鼻の下とか一中節(歌)より鰹節、色気より食い気とか心中より饅頭などがあったそうで面白い。 

上方が「臭いものに蝿がたかる」といったが江戸では「臭いものに蓋」で逃げてしまう。これだけではなく江戸は恰好をつけて逃げてしまうのが随分ある。年寄りの冷水(ひやみず)、老いては子に従ふ(う)。楽あれば苦あり。我慢も説くが諦めを教えた諺であろう。

京都、大阪と江戸・東京は元から対立して存在した。幕府が大阪から江戸へ越したし、天皇陛下も明治になってすぐ、ちょっと江戸を見てくると「出張」したまま未だにお帰りがない。当然、文化は上方が先で深い。江戸は後から侍を押し立てて恰好を付けてはいるが田舎者には変わりがない。

現代でこそ教育とか製薬とかには上方にまだ誇りは残っているが、カネ儲けの殆どは東京に行ってしまった。まず商社というのは大阪で始まった日本独特の商売だった。

それが戦後の高度経済成長期に本社を東京に移してしまった。商社にとって命よりも大事な情報が東京一極に集中するようになったからである。その後を追うように銀行が東京に行ってしまった。

徳川を憎く思う上方人は「綸言汗の如し(天子の言葉は汗が体内に戻れないように、一度言ったら言い替えができない)」とか「れん木(すりこぎ)で腹を切る」とか「武士は食わねど高楊枝」などと凋落して行く武士階級を笑った。

「氏より育ち」は江戸っ子をからかったものでもあったのではないか。現在の庶民は毎日読んでる新聞に川柳をよせたり投書をして憂さを晴らしているが、諺を引いて子供を諭すということはなくなった。

本を書いた森田氏は銀座生まれの直木賞作家。ふと伊呂波カルタを懐かしんで玩具屋めぐりをしたが遂に会えなかった。それで高じて遂に文庫本で400ページを超す大冊をあらわすことになった。

なるほど古い物を拒否した敗戦後の教育は「いろはかるた」を捨て、内閣はあいうえおを推進していては、ゐだのゑだのが出てくるいろはすたれていくだろう。しかし、この歳になって改めてかるたに盛られた諺を読むと実に胸にこたえ、腹に沁みる先祖の知恵が蘇って来る。

2011年11月07日

◆禁煙恩人はサッチャー

渡部 亮次郎


私が秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)さんは1979(昭和54)年5月22日、現地時間午後5時15分から、イギリス・ロンドン市マンチェスター地区、ダウニング街10番地にある首相官邸にマーガレット・サッチャー首相を訪問し、日本の外相として首相就任の祝賀を言上した。

始めにハウ財務相と会談。ハウ氏はヘビー・スモーカーぶりだった。

ついでサッチャー首相の執務室入り。同席を許された私が煙草を吸ってよろしいですか、と尋ねたところ「どうぞ」との返事。

そこでロング・ピースに火をつけたが、一向に灰皿が出てこない。

これは吸うなという意味だと思って、消しにかかったが、どうすりゃいいんだ。

袋から煙草を全部取り出し、銀紙に包んで、どうにか消した。後に聞けばサッチャーさんは大の煙草嫌い。そういえば表敬会談に同席したハウさんは「私は煙草なんて吸ったことはありません」てな顔で澄ましていた。その瞬間、私は禁煙を決意した。だからサッチャーさんは私の禁煙の恩人なのである。

高校のころ、数人の友人が煙草を吸っていて、指先の黄色に染まるのに気を遣っていた。それを見ても私は吸いたいとは思わなかった。むしろ、家では晩酌よろしく清酒を飲んで満足していた。学校では酒も禁止されているが、酒は醒めれば証拠が無いから楽だったのだ。

煙草を吸い始めたのは東京で大学生活を始めたころ。先輩の下宿で吸わされた。始めは眩暈がしたが、それでもやめなかったのはどうしてだろうか。いきなりニコチン中毒になってしまったのだろうか。

この当時は一番安価なゴールデン・バットを吸っていたが、やがて高級なピース(両切)になり、記者になってからはロング・ピースになり、禁煙するまで、それを吸い続けた。

次第に肺癌論が高まっていたが、一向に禁煙しようとは思わなかった。兄などは「俺は中学から吸っていたのだから、いまさらやめられない」と嘯いていた。それが5月に訪ねたらきっぱり、やめていたので驚いた。理由はあえて訊かなかった。

私が禁煙を始めた時、煙草とライターをいつも通り、ポケットに入れたままの試練に挑戦した。1時間我慢、2時間我慢、半日我慢、1日我慢と続けるうちに、いつの間にか禁煙に成功していた。「吸いたくなったら、いつでも吸ってやる」と思いながら禁煙を続け、もう32年が経った。最早、嘗て喫煙者だったなんて顔もしなくなった。

禁煙したあと糖尿病になり、教育入院をさせられたが、糖尿病にとって喫煙は飲酒より悪いと教えられた。   2011・1・5


2011年11月05日

◆亡命しなかった岸信介

渡部 亮次郎

多分、毎日新聞時代の岩見隆夫の命名だと思うが、「昭和の妖怪」 岸信介(きし のぶすけ)元首相は「僕は田中角栄が総理になるような日本に、いたく無い。韓国に亡命するよ」と真顔で言っていた。しかし、田中内閣が発足しても、亡命はしなかった。

それを見て政敵はいざ知らず子分たちですら「ありゃ相当、田中毒を飲まされたよ」と冷ややかだった。事実、利権の世界では、田中の仲間だったことが次第に判って行った。

大東亜戦争を始めたと思ったら、東条首相の閣僚罷免に抵抗、とうとう誰も倒せなかった東條内閣を倒してしまった。それでいて、東条と同じくA級戦犯容疑で巣鴨プリズン入り。

しかし、悠々生還。3年生代議士にして総理大臣になった。直後、インドネシアへの戦争賠償に絡む汚職事件が発生。スカルノ大統領へ人身御供までして国家予算を掠め取った主人公が岸首相の友人とあっては、与野党挙げて騒がない方がおかしい。

しかし「湯気の上がっているカネはうけとらない」の信条が生きて、今度もするり。

内閣は日米安保条約の改訂という偉業を成し遂げるも左翼のデマにのせられた「大衆」と言う名の「衆愚」に引き摺り下ろされた。衆愚の中に加藤紘一がいたのは有名な話。

どっこい、妖怪となって政界を動かし続けた。実弟佐藤栄作を首相の座に押上げ、後継者福田赳夫に「禅譲」させようとしたが、栄作の力が突然下落して、これには失敗。

岸と同じく大蔵大臣として大東亜戦争を始めた為、A級戦犯に問われた賀屋興宣(かや おきのり)もやがて、何事もなかったかのように生還し、今度は代議士として法務大臣をやった。

「ぼくは巣鴨で健康を回復したんだよ。粗末な食事で助かったんだよ」とにこにこしていた。

そこへ行くと岸は」巣鴨の話はしたがらなかった。眉間に皺を寄せながら「まだ40そこそこ。しょっちゅう夢精して困ったよ」と。

しかし、佐藤政権の後継者のことになると真剣だった。可愛くて仕方ない福田赳夫に佐藤が政権を禅譲すると信じて疑わなかった。だから、その分、ライバルの角栄嫌いは事実で、亡命云々はこのときに出た話であった。

グラマン、ロッキード。軍用機、旅客機。戦後、これらに絡む汚職事件が起き、岸の周りをすぎて行ったが、常に岸は逃れた。「僕は湯気の立つようなカネは受け取らんからねえ」とアゴを撫でていた。

東大卒業時、教授にするから残ってくれといわれても断って商工官僚になった。直後、満洲経営に携わった。首相時代は答弁の名人といわれ、野党は「両岸答弁」と揶揄して悔しがった。

岸といい、賀屋といい、大変な修羅場を潜り抜けてきた。恐ろしいものは既にこの世になくなってから政界入りし、国民を指導した。何度も殺されかけたし、刑務所も見てきた。人はこれを貫禄と言った。

今の政治家はリッチで幸福な青春を謳歌している。失敗が怖いから如何にしたら失敗をしないで済むかばかりを考えているから貫禄の付きようが無い。喜怒哀楽の深さが無い。こんなのが政治家。情けない。敬称略。2011 ・10・20




2011年11月03日

◆今や老人でも軍隊を知らず

渡部 亮次郎

戦争をテレビ中継で観る時代。昭和11(1936)年生まれの75歳ですら、戦争に征かず、軍隊の実態を全く知らない。だから戦争に反対も賛成もする資格すらないといわれても文句が言えない。

陸軍で言えば師団とか旅団、連隊といわれて、その規模が全く想像できない。小隊、中隊、大隊といった言葉は劇映画で耳にするも、何人ぐらいで編成されるものなのか見当もつかない。

もともと私の世代は柔道、剣道すら知らない。高校に入学した当初はまだアメリカの占領軍がいて、それらを禁止していたからである。あの掛け声が斬込み隊を連想させるからだといわれた。その代わり野球が奨励された。

小(国民)学校入学が、対米戦争の始まった翌年。戦争中はアメリカの艦載機に追いかけられたり、近所の石油タンクの爆撃に震えあがったり、空腹を抱えて逃げ回っているうちに、国の歴史始まって以来の敗戦。

8歳上の男児は予科練や満蒙開拓に動員されて、大半が戦死した。こちらは一寸幼かったから生き延びた。

当然、海軍のことも全く知らない。軍艦と戦艦の区別すら知らない。巡洋艦も駆逐艦の区別が分からない。潜水艦と空母ぐらいは映画を観て知っているだけ。

このように軍隊のことを老人も知らないとは、平和が続いているということ。不景気では在るが泰平のよがつづいているのだね。戦争の事は良く語れないが戦後の事は良く知っている。

国連とは、小沢氏に依れば、民主党が最も頼りとする国際組織らしいが、一寸違うんじゃないか。The United Nations だから連合国としか訳せない。どう頑張っても国際連合にはならない。

加盟する際、日本外務省が意識して誤訳したのである。内訳は第2次大戦の戦勝51カ国が1945年6月に結成した「組合」にすぎない。

それが、日本ではいつの間にか「国連中心主義」とかの政策が出てきて公的な国際組織と誤解するようになって今日に至っている。

誤解している人は精神科医に診て貰った方がいいらしい。国連には中心が無い。それなのに国連中心主義を唱える歴代日本政府もまた精神科医の診察が必要なのだ。

国連は世界統一の国会でも裁判所でもない。単なる組合なのだ。そんなものを重視するのは日本だけだ。裏で舐められ、世界で2番目に大金を取られている。

その昔、ある閣僚は「国連は田舎の商工会議所みたいなものだ」と本当のことを言ったら、佐藤栄作首相は、彼をクビにした。あのときから日本は「国連病」にかかってしまった。へんな結論になってしまった。
                        2011・11・01


2011年10月31日

◆呆け老人の勘どころ

渡部 亮次郎

若い頃は「ぢぢいごろし」の記者といわれたのに、いつの間にか本人がぢぢいになってしまった。少子高齢化は言うなればぢぢいの時代。

国会に来て取材を始めた時はまだ28歳。それなのに相手は65歳以上の老人ばかり。それまで取材していた地方議会に比べたら圧倒的に老人の世界だった。

戦争から還って我先に国会議員になった人たちが、そのまま当選を続けているうちに、一斉に老化した時代に遭遇していたのである。

その子供たちが後継者として登場した時、自民党の凋落が始まった。創価学会の厄介になるに及んで、世論に見捨てられた。こちらも取材から完全に足を洗った。

老人たちの国会議事堂。中には戦前からの議員もいて、独りでは用便を足せず、うら若き女性にズボンにチャックを揚げ下げさせる場面にも遭遇した。その女性は今でも政界に大きな影響力を持っている。

衆議院には2階に閣員便所と言うのがあった。つまり大臣たちの便所である。追っかけの記者たちも利用が許されていた。或る時某社の記者がしゃがんでいたところ、閣僚2人が小便をしながら倒閣の相談。

中で記者が聞いているとは気づかず去ったが、聴いてしまった記者は飛び出して「特ダネ」を飛ばした、あの便所が閣員便所である。

伝説の便所を開けたら、鍵を掛けていない中で官房長官がズボンをずりあげているところだった。慌てて閉めたが、目が合ってしまったので、長いこと、バツが悪かった。

総理大臣は60代、衆参議長は70代、閣僚は60前という時代に、30代で初入閣を遂げたのが田中角栄。如何に出世が早かったか、分かるでしょう。

ところで、老人は経験が豊富、各所に繋がる人脈も多彩、貫禄十分。とにかく握っている情報の量が格別である。

ところが如何にせん、物忘れが次第に酷くなる。足元もふらつくようになる。政治家じゃなくてもこうなる。だから若者は老人を避けるように
なるが、反対だ。

政治家ほどお喋りの好きな人種はいない、ここだけの話だがナ、と言っていつまででも喋りたがる。しかしニュースにしてはいけない「オフレコ」をかまされては時には時間の無駄である。遠慮の要らない仲になってからは「ここ以外の話にしてよ」と持ちかけて、結局特ダネにしたこともある。

注意することが2つある。礼儀を正しくする。部屋の出入りの際は特別丁寧にお辞儀をしたほうがよい。

その次が最も大切だ。その話は何度目だとか、それは昨日あなたに私がいれた情報じゃないですか、などとは絶対言っちゃいけない。

こちらが昨日教えてやった情報でも、さながら初耳の如くきいていればいい。相手の老人はやがて、そのことに気づく。「こいつ、それに気づきながら黙って聴いている。参ったなこりゃ」と内心感心。

感心するだけでなく、畏敬の念すら抱くようになる。こうした老人を国会の中で4〜5人持っていれば特種記者になれる。岸信介、賀屋興宣、山口喜久一郎、重宗雄三、河野一郎、河野謙三、皆老人だった。

これは政界に限った話では無いだろう。老人はいつでも何処でも周りを支配している。これから世の中は老人は多くなり、邪悪な力を振り回すことも多いのではないか。

それに対して真正面から立ち向かえば、納まるものも納まらなくなる。従う振りをしながら、老人の面子を立てながら利用するようにしたほうが円く収まるように思う。敬称略。                              2011・10・29

2011年10月29日

◆長崎に救われた秋田藩

渡部 亮次郎

長崎―秋田には直通の飛行機便は無い。明治の初めは汽車もなかったからもっと遠かった。ところが戊辰(ぼしん)戦争の時、孤立した秋田藩を救ったのは長崎を始めとする西南雄藩の若者16,000人だった。

<戊辰戦争(慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。

明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。>(ウイキ)

明治のはじめ、わが国に於ける新聞創刊状況を記録した「明治文化全集」第17巻の中の慶応4年=明治元年8月創刊になる長崎の「崎陽雑報」に秋田支援のことが詳しく書かれている。

それによると、慶応4年7月中旬から8月初旬まで外国船(機関船)2隻を借り上げ応援隊を3度送った。内訳は長崎府兵「振援隊」380人あまり、大村家280人余、島原毛159人、平戸家400人余などであった。

8日かかって7月28日、秋田に到着。一行は長崎に戻る船長に託して郷里へ状況を報告。「振援態の到着を現地司令官たる九条左大臣は大いに喜ばれた。我々は間もなく合戦に出動を命ぜられ、6隊にわかれたうちの5隊が出撃した」

東北地方における戊辰戦争とは、今の5県すべてと新潟が秋田(久保田)藩を敵とした戦争。藩祖がその昔、徳川幕府に虐められて水戸から減石移封された恨みから、独り、反徳川つまり新政府軍に組みしたのである。

案の定、隣の庄内藩は、大地主「本間家」からの経済支援によって近代軍備を整えて、総攻撃を掛けてきた。「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」といわれた本間家である。

秋田勢はたちまち敗走。あわや落城というところまで追い詰められた。そこへ思いもかけぬ西南雄藩による海からの援軍。たちどころに盛り返して体面を保った。

主戦場は俳人松尾芭蕉が1句を詠んだ象潟(きさかた)であった。その象潟町史では振援隊に今でも感謝を忘れず、大幅にページを割いて記述している。

それに依れば秋田側の戦死者は1326人、大村藩11人、島原藩4人などであった。

以後の秋田は金銀の鉱物、コメ、秋田杉などのお陰で、そこそこ栄えた。また関西と北海道を結んだ北前船の往来のお陰で太平洋側よりも文化の伝播も早かった。明治の初めに、東北で一番早く県立中学校が発足した。

しかし、戊辰戦争への参加が遅かった為、長州、薩摩藩には疎まれ、秋田県からは大将はとうとう出なかった。東北各県との関係にも未だに戊辰戦争の陰を感じる。 2011・10・25


2011年10月28日

◆中東で髭無しはホモ扱い

渡部 亮次郎

中東では男という男のすべてが濃く髭を蓄えている。男のしるしなのだそうだ。伸ばしていない俺のような奴はどうなんだと尋ねたらしばし沈黙の後小声で「ホモ」。

男女共に休日(金曜日)の前日に体毛を抜くか剃るかする。男は顔に髭を蓄えるが、女性は外出時は顔を隠す。われわれには無気味だよ。

生まれて初めて中東を歴訪したのは1978年、もう33年前。日本の外務大臣が産油国を歴訪するのは、このときの園田直が初めて。それに秘書官として随行したのである。

正月のことで、モスクワは零下20度だったが、中東各国では真夏のような暑さ。イランで仕立てたエール・フランスの小型ジェットの特別機で、クエートに到着。

宮殿を訪れると、番兵たちがみな、日本刀を腰に差している。しかも鞘は金で巻いている。石油は取れても金は取れない。最高の気位を示しているのだ。

翌朝、ホテルのロビーでコーヒーを飲んでいたら、周りで「タスケテクレー」時ならぬ日本語。一緒に旅行中の外務省高官が、アラブ人男性に追いかけられている。どうも「アイラブユー」といわれているらしい。

高官は髭剃り跡も青々としたハンサム、清潔そのものなのだが、中東では美女に見えるのか纏いつかれてしまったのである。所変われば品変わる。今後、中東を訪問する時は髭を伸ばしてから来るべきと心得た。件の高官は後年、事務次官になった。

クエートでは道端の花壇に水をホースで撒いているのが、政府の高官だった。真水は石油より高価な国。それをばら撒くのだから政府高官であって当然と言うわけだろう。

だから野菜作りもままならない。すべて欧州からの輸入。それを洗う水は海水をろ過した水。どういうわけか日本人のハラには合わないからと、中東各国でサラダを遠慮させられた。このときの秘書官は鞄持ちならぬ水持ち。段ボールに何十本も詰めて運んだ。

サウジアラビアでは、日本から通産大臣は来た事はあるが、外務大臣は初めてと、大歓迎され、空手を導入したいという話も飛び出した。これはすぐ実現した。

石油大臣が歓迎パーティを開いてくれたが、参った。柱に吊るした羊の丸焼き。その目玉を主賓が食べるのだという。大臣は遠慮。結局誰が食べたんだったか、33年も前のこと、忘れてしまった。

砂漠の国。国旗が殆ど月が入っている。日の丸なんて考えられないのだ。歌の「月の砂漠」は中東ではなく千葉県の御宿海岸で作詞されたものだ
そうだ。

サウジ上空をヘリで飛んでみたが、砂漠とは山あり谷あり、ただ広いだけではないのだ。途に迷ったら遭難確実、命を落とすことだろう。「月の砂漠」は歌えた物じゃない。

水が貴重。宿酔いの水をお間なくてもよいように、コーランは飲酒を禁じたのかとのん兵衛は愚考した。酒を呑んでいるのが外国人であろうとも、どこかは確かめなかったが届けなくてはならない。

時効だろうから白状すると、某国の迎賓館ではこっそり持ち込んだウイスキーを飲んだ。その痕跡を発見されたら、コトだから消すのに神経を使った。酒の粉という物はできないものかと夢見た。2011・10・23

2011年10月25日

◆恋しや神戸牛と米国人

渡部 亮次郎

或る時のニューヨーク。びしょびしょと雨の降る夕方、柔らかいステーキを求めてマンハッタンを歩いていた。アメリカのステーキは固くて筋っぽくて美味しくないと悪口をいったら、超有名大学の教授が、柔らかいのもあるよと言うので、案内をお願いしたのである。

私は秋田の農家の育ち。少年の頃、肉といえば飼っている鶏しかなかった。対米戦相中で、ステーキどころか、豚肉も無かった。豚肉を初めて食べたのは中学2年のときだから、昭和25(1950)年だった。

育ち盛りに食糧不足だったから自然、食い意地が汚くなった。それもあってアメリカへ行ったららステーキとやらをたらふく食べたいものだ、きっと美味しいだろうと。

若い頃、日本橋の肉屋が2階でステーキを食べさせていた。いわゆる神戸牛とかで、やたら美味しくて2枚も食べたものだ。だから日本とちがって牛肉の安いアメリカでは、と期待して来たのに、さっぱりとは、納得が行かなかったのだ。

濡れながら辿り着いた教授ご推奨のステーキ店。矢張り硬くて美味しくはなかった。以後、何度アメリカへ行ったか、数え切れないが、ステーキだけは絶対食べないことにしている。

アメリカ人は日本のような霜降り肉のように脂身の多い肉は食べない、それはコレステロールが怖いから、という。獣脂は心臓病の原因と考えられ、カーター政権時代から、知識階級ほど、脂身を食べなくなったそうだ。

そういえば、レーガン政権の頃、ある閣僚が外務大臣を尋ねてきたので、神戸牛の鉄板焼でもてなしたところ、喜ばない。「これは例のサシミか」と聞いてくる。コレステロールを俺に食わすなと半分怒っているようだった。

ところが、どうだろう。古い話で恐縮だが、2000年6月24日の読売夕刊に「神戸牛恋しい 米国の美食家、一時禁輸で食べられず」という記事が載ったことを思い出した。

俳優のシルベスター・スターロンやリチャードドレイファスらは予ねて神戸牛のファンだったが、この時期、口蹄疫の発生で神戸牛の輸入が一時禁止されているのを嘆いている記事だった。

この記事に依れば、アメリカでは90年代(ほぼ平成)に入って、ニューヨークの老舗レストラン「オールドホームステッド」が神戸牛のステーキを目玉にしたところ、アメリカ人に大いに受け、たちまち最高級ステーキにランク付けされたのだという。

アメリカは農地が広いから、牧草地を何処までも造れる。そこに肉牛を通年放牧刷るから、肉は繊維質が多く、脂身は極めて少ない肉となる。

それに反して日本では放牧地が少ないから牛を小屋に閉じ込めて穀類もたんと食わす。念を入れてビールまで飲ませて「霜降り肉」に仕上げるところまである。土地の条件が牛肉の味を左右するのだ。
                   2011・10・21

2011年10月21日

◆記者会見は嘘つき大会

渡部 亮次郎

「記者会見は嘘つき大会。会見を基に記事を書いてはいけない」といい続けたのは、NHKで政治記者から会長になったシマゲジこと島 桂次。ならば今どきの記者は記者会見だけを基に記事を書いているから、嘘を報道していることになる。国民がマスコミを信用しなくなっている原因がここにある?

何故、記者会見は嘘つき大会か。

「な、分かるか。記者会見の記者とは不特定多数、何処の馬の骨とも分からぬ奴らを相手に真情を吐露する政治家なんていない。そうだろ。適当に辻褄を合わせて話しているだけ。嘘のつきっぱなしサ。分かるだろう。

それが証拠に、政治家は記者会見の後、必ず小便に行く。人間、嘘をつくと小便をしたくなるものなんだ。だから国会の便所では並んで小便をしながら、本当はどうなんですか、と聴いてみろ。本当はね、と必ず答えるよ」。

私は幹事長時代の田中角栄にこれを試してみてしばしば成功した。本当だった。

島はだから、政治の取材は特に一対一、いわゆる「差し」の取材で得たネタ以外は信じてはならないといい続けた。

島は昭和2(1927)年6月30日、栃木県足尾町(現日光市)に生まれる。44年海軍兵学校に合格。戦後、旧制新潟高校を経て東北大学文学部美学美術史科を卒業。1952(昭和27)年3月、NHKに記者として入局。仙台、盛岡勤務の後、東京転勤、政治記者となる。

短期間、三木・松村派担当を経て池田勇人派を長く担当。池田を始め大平正芳、鈴木善幸らの他、早くから佐藤派の田中角栄の知遇を得る。

私もNHK記者としては仙台、盛岡、政治部と全く島と同じコースをたどったが、そんなことに気を配る島ではなかった。とにかく当時の首相、池田勇人との仲を誇示し「蚊帳の中に入ってまで話を聞ける」と豪語していた。

しかしあまり法螺を吹くものだから先輩たちに妬まれ、政治部長にはなれず、政治部から追われるように同じ報道局でも政経番組部長に就任した。ここで政治家との距離の近さを踏み台にたちまち出世して行った。

島はいわばその異能ゆえ、国会逓信族に狙われ、最後は追われるようにNHKを去った。しかし「記者会見を信じるな」を始め後輩に遺した「忠告」は数限りない。だが、後輩に当る今の政治ジャーナリストたちが箴言を守っているかと問われれば、竦むばかりじゃないか。

島の残した言葉はジャーナリズムの原点とも言うべきもの。記者会見と、ぶら下がりばかりのテレビ・ジャーナリズムにいつの間にか活字ジャーナリズムが引きずられている。そこに国民のマスコミ不信の根があるように思えてならない。

記者会見もぶら下がりも「絵」にはなるからテレビの編集には好都合だ。しかし、島が指摘したように記者会見に真実が無いとすえれば、視聴者は嘘を聞かされながら真実に裏がいられているにほかならない。

まして「ぶら下がり」に真相があるとは思われない。下がられた首相や政治家は真実よりも言い逃れを並べているだけでは無いか。

18日の産経新聞は野田首相がぶら下がりを拒否したことを批判していたが、新聞こそはぶら下がりに頼ることなく、率先して「差し」に取材の原点を戻す努力をして欲しい。新聞はテレビに隷属して堕落した。国民はそこに失望している。敬称略。2011・10・18