2012年04月28日

◆尖閣は1895年から日本領土

渡部 亮次郎


「ウィキペディア」によれば、尖閣諸島が日本領に編入されたのは日清戦争中の1895年1月14日である。尖閣諸島は現在、沖縄県石垣市に属している。

私は1968年秋、当時はまだ沖縄県と呼ばれず「琉球」とよばれていた時代、アメリカの施政権下で主席(知事相当)が初めて住民の公選で選ばれるというので、NHK特派員として派遣され多方面の取材に当った。

朝日新聞から派遣されていたのは筑紫哲也氏だった。かつて岩手県政をともに担当していて顔見知りだった。しかし、私は米軍に尾行されながら選挙の取材に忙しく、尖閣諸島のことなど関心外だった。

日本政府は尖閣諸島の領有状況を1885年から1895年まで調査し、世界情勢を考慮したうえで隣国の清国など、いずれの国にも属していないことを慎重に確認したうえで閣議で決定し沖縄県に編入した。

その後日本人が入植し、アホウドリの羽毛の採取や海鳥の剥製の製作そして鰹節の製造などが行われた。特に鰹節の製造は島の基幹産業となり、最盛期、同島には99戸、248人もの日本人が暮らしていた。

ところが、南洋諸島からの安価な製品が出回るようになると経営が苦しくなり、鰹節工場は閉鎖され1940(昭和15)年に無人島となった。無人島になってからも日本の実効支配は継続していた。

中国側は、明の時代、琉球への冊封使の報告書である古文書に釣魚台を目印に航行したとの記述があることや、江戸時代の日本の学者が書いた書物にある地図の彩色などを主張の根拠に挙げているほか、密やかに「領有」を実現し国際社会に宣言しなかった等の歴史的な経緯から見ると、日本のいわゆる「領有」は国際法上の意味を持たないと主張している。

人民日報の沖縄に関する記事。冒頭で尖閣諸島は琉球群島に含まれるとの主旨が記述されている(1953年1月8日付け) 。

台湾の中華郵政が発行した中華民国政府金門、馬祖を守る。金門島と馬祖列島について記述はあるが、尖閣諸島と南海諸島については記述されていない(1959年9月3日づけ)。」

第2次世界大戦後は一時連合国(実質的にはアメリカ合衆国)の管理下に置かれた。連合国の一員であった中華民国は1945年10月25日に、台湾総督府が統治していた台湾と澎湖諸島を接収し、日本もサンフランシスコ平和条約で最終的に放棄した。

台湾は1945年以降に中華民国台湾省となったが、尖閣諸島は含まれていなかった。

尖閣諸島を行政的に管轄していた八重山支庁が米軍占領で機能不全に陥り八重山自治会による自治が行われていたが、12月になって11月26日に告示された「米国海軍軍政府布告第1-A号」によってアメリカ軍による軍政下に入り、その後琉球列島米国民政府および琉球政府が管轄する地域に編入された。

またアメリカ空軍が設定していた防空識別圏も尖閣諸島上空に設定されていた。この時期の中華人民共和国および中華民国で編纂された地図では尖閣諸島を日本領として明記している)。

日本は1952年に台湾に逃れた蒋介石中国国民党政権との間で、その支配下にある台湾を適用範囲とする日華平和条約(1972年失効)を締結しており、2条で台湾における日本の領土権の放棄を規定している。

ここでは「日本国は、1951年9月8日にアメリカ合衆国のサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第2条に基き、台湾及び澎湖諸島並びに新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄したことが承認される」としているものの尖閣諸島は台湾に属するとは解釈されていなかった。

また、1953年1月8日付けの中国共産党中央委員会の機関紙人民日報は「琉球群島人民による反米闘争」と題する記事で、琉球群島(当時の米軍占領地域)の範囲を記事冒頭で「琉球群島は我国(中国)の台湾東北(北東)と日本の九州島西南の海上に位置する。そこには尖閣諸島、先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、トカラ諸島、大隈諸島など7つの島嶼から
なっており(後略)」と紹介しており、琉球群島に尖閣諸島が含まれていると紹介している。

尖閣諸島近海は好漁場であるため、台湾漁民による不法操業が行われており日本側漁民との摩擦が生じていた。1955年には第三清徳丸襲撃事件が起き、中華民国国旗を掲げた海賊船による襲撃で死者行方不明者6名を出す事件が発生している。

1960年代に入っても尖閣諸島に大量の台湾人漁民が「不法入域」し、島に生息する海鳥とその卵を乱獲したほか、付近海域で密漁する事態は続発していた。

日本の気象庁離島課は絶滅危惧種のアホウドリが尖閣諸島に生息している可能性があるとして、関係部署に依頼し琉球大学の高良鉄夫教授らを1963年春に調査団として派遣した。この調査団は100万羽以上の海鳥が生息する事を確認したが、アホウドリではなく不法に居座っている台湾漁船を発見した。

この漁船は夜の漁のために停泊していたが、その合間に海鳥や卵を収奪していた。そのため調査団は不法行為だと注意したが無視されたという。

そのため高良教授は「このまま放置しておいたら現在生息している海鳥も衰亡の一途をたどる。何か保護する方法を考えなければいけない」と語った[5]が、実行力のある対処は行われなかった。

これは尖閣諸島を管轄する琉球政府には外交交渉権がなく、また本来主権を持つ日本政府も当時の沖縄の施政権は返還されていなかったため、当時国家承認していた中華民国(台湾)に対して尖閣諸島における台湾漁民の傍若無人ぶりを抗議できなかったという。

そのうえ琉球政府の上部にある琉球米民政府およびアメリカ合衆国政府は、在台北のアメリカ大使館を通じて「抗議」したものの、台湾当局が積極的な取締りをしなくても、台湾の蒋介石政権との「米華関係」を重視したため不問にしたとみられている。

1968年に行われた調査では台湾漁民による資源の収奪による激減ぶりが明らかになった。5年前の調査と比較して南小島のカツオドリが20万羽から1万羽、北小島のセグロアジサシは50万羽から10万羽に激減していた。

これは島から漁民が台湾に海鳥の卵を菓子の原料として大量に運び去ったうえに、無人島ゆえに人間を警戒しない海鳥を捕獲していたためであった。

調査団は台湾人に食べられた大量の海鳥の屍骸や漁船だけでなく、南小島において台湾人60人が難破船を不法占拠しているのも確認している。

アメリカ政府の無策もあり、このような台湾人による領土不法占拠の既成事実が積み重なることで、当時から地元西南群島の住民から第二の竹島になる危惧を指摘する声もあった。

だが、この当時は日本国内では尖閣諸島における台湾人の不法入域は殆ど重要視されることはなかった。

その後も台湾漁民による不法入域は続き、朝日新聞1969年7月11日付け夕刊には「沖縄の島に招かざる客」との題で、北小島に不法停泊している台湾漁船と漁の合間に海鳥の卵を取っている漁民の写真が掲載されている。

この記事を執筆した筑紫哲也は、「(沖縄への)日本人の出入域にはきわめてきびしい統治者の米国もこの"お客様"には寛大」と揶揄するともに、「地元の声」として台湾との間で第二の竹島になる可能性があることを警告していた。

当時の琉球政府も、尖閣諸島が石垣市に属することを前提に警察本部の救難艇による警備を実施し、接近した台湾漁船に退去を命令する等の活動を実施していた。1970年7月には領域表示板の建立を行っている。

1968年の海底調査の結果、東シナ海の大陸棚に石油資源が埋蔵されている可能性があることが指摘され、1971年に中国、台湾が領有権を主張しはじめた。

1969年および1970年に国連が行った海洋調査では、推定1,095億バレルという、イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告され
た。

結果、周辺海域に豊富な天然資源があることがほぼ確実であると判明すると、ただちに台湾がアメリカ合衆国のガルフ社に周辺海域の石油採掘権を与えた。

1970年9月2日には、台湾の水産試験所の船が魚釣島に上陸、台湾の国旗である青天白日旗を掲揚した。この際周辺海域で操業中の台湾漁船からは拍手と万歳の声が挙がったという。

台湾当局はこの時の「青天白日旗」を掲揚した写真を撮らせ世界中の通信社に配信したため、日本政府が抗議した。なおこの「青天白日旗」はその後間もない9月中旬に琉球政府によって撤去され、米国民政府に保管されている。

1971年2月にはアメリカ合衆国在住の中国人留学生らによる尖閣諸島は中国固有の領土だと主張する反日デモが発生し、6月に台湾、12月に中国が相次いで領有権を主張した。

1972年(昭和47年)5月15日に沖縄は日本へ返還されており、沖縄返還の直前に主張し始めた。その根拠は、尖閣諸島が中国側の大陸棚に接続しているとの主張にくわえ、古文書に尖閣諸島を目印として航海に役立てていたという記述が見られることで、最も古くから同諸島の存在を認識していたという解釈による。中国人が先に発見したから領有権を主張できるというものである。

ただし、1970年以前に用いていた地図や公文書などによれば両国とも日本領であると認識していたようで、米国の施政時代にも米国統治へ抗議したことはない。

このため、日本国内では中国と台湾が尖閣諸島の領有権を主張し始めた動機として 海底油田が欲しいだけだ。そのため、国際判例上、以前に黙認によって許容した関係に反する主張は、後になって許されないとする禁反言が成立するはずだ。

◆木津川だより 中津道の散策E−2

白井 繁夫


前回訪ねた「奈良豆比古神社(ならずひこじんじゃ)」(地図Z:2番)から3〜400m位南へ行くと、コスモスの花で有名な「般若寺」に着きます。(地図Z:3番)
地図Z:http://chizuz.com/map/map127235.html

「般若寺」の草創期は、飛鳥・白鳳・奈良・平安時代と諸説あり、それ故、開基者も慧灌(えかん),蘇我日向臣(そがのひむかいのおみ)、聖武天皇、行基、観賢(かんげん)等々によるのかどうか、未だ分かっていません。

それは、この寺院が古代より兵火等による焼失、再興、破壊が繰り返されたため、重要な資料や文化財の多くが焼失し、残されていないことが大きな原因です。

しかし、嘗て3万6千坪(約12万m2)も有した境内が、明治初期の廃仏毀釈に因り2千坪(18分の1)に減じ、昔日の大寺院としての面影はないかも知れませんが、「般若寺」を訪ねた時、我々を魅了する本堂の仏像や、国宝、重文等の建造物などが暖かく出迎えてくれることです。

創建時の「般若寺」の位置を平城京から見ると、東七坊大路(平城京の東端を南北に通る大路)の北への延長線奈良街道(京街道)に面し、古来より栄えた街道の国境に建立されています。

当寺院の創建は寺伝によると、『舒明天皇元年(629年)高句麗の僧慧灌法師が開いた一精舎「般若台」から始まる』とあります。しかし、他の文献ではまだ確認されていません。

一般的に云われている説は、『奈良時代天平七年(735)、平城京の鬼門鎮護の為、聖武天皇が「大般若経」を納め、勅願寺として伽藍を整え、『般若寺』と命名し、住持第一世に行基を迎えた。』という説です。(住持:寺の主長である僧、住職)

当寺院の本尊: ◆(重文)木造文殊菩薩騎獅像は、後醍醐天皇の御願成就のため慶派仏師康俊が1324年に製作した仏像です。
最初の丈六文殊菩薩像は平重衡の南都焼き討ち(1180年)の兵火で焼失、その後再興され叡尊が造立した文殊菩薩も(1490年)焼失したので、経蔵に安置されていた(現)文殊菩薩をお祀りしています。


◆(国宝)楼門: 鎌倉時代(13世紀後半)に建立された入母屋造り.本瓦葺きの回廊門です。和様を基調としながら上層の組物など細部に大仏様(よう)の意匠を多くとりいれています。
P1000998般若寺楼門.jpgP1010002十三重石塔.jpg
写真左:国宝の楼門           写真右:重文の十三重石塔

◆(重文)十三重石塔: 高さ約14m 重量約80トン
建長五年(1253)に宋の石工:伊行末(いぎょうまつ)が、東大寺再建のため来日した際に、この石塔も彼らによって建立されました。石塔は四方仏(東)薬師、(西)阿弥陀、(南)釈迦、(北)弥勒の顕教四仏です。
(顕ヘ:けんぎょう:密教との対比語で釈迦如来が姿を示現して明らかに説き顕した教え)

ところが、治承4年(1180)以来、伽藍は灰燼となり、廃墟化してきた寺院を鎌倉時代に僧良慧(りょうえ)が石塔建立の供養をし、その後西大寺の協力で叡尊が七堂伽藍を再興して、丈六の弥勒菩薩を祀り、貧者、病人の救済などに力を注ぎました。

◆北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんと):国の史跡
叡尊の弟子:僧忍性(にんしょう)は、更に弱者の救済のため、特に当時は不治の病と云われたハンセン病の患者を収容するための施設を「般若寺」の北側に建立しましたが、焼失してしまい、江戸時代に現在地に再建されました。

ところで、本尊の文殊菩薩像の造立は建長七年(1255)から文永四年(1267)の開眼供養まで12年間を要して獅子の上に乗った巨像がやっと完成しましたが、永徳2年火災にあい、永禄十年(1567)松永久秀の兵火で、またもや七堂伽藍も焼失しました。

般若寺は度重なる戦火の被害に遭いながらその都度再興されて来ましたが、とりわけ明治の廃仏毀釈の時は興福寺と同様、荒廃は特に酷く、そのうえ僧侶は還俗し、石塔は引き倒され、無住の寺と化しました。

しかし、民衆の厚い信仰心と西大寺の応援を得て徐々に敷地も買い戻され、(現在2500坪)境内に徐々に整ってきたのです。

それから僧良光師のもと、昭和39年(1964)の十三重石塔の修復が行われた時に、特筆すべきことが起こりました。それは塔内より、何と白鳳時代の銅造阿弥陀如来立像、仏舎利、宋版法華経、小型五輪塔、小型仏像などが出現したのです。これは驚きでした。

その後は境内の整備も更に進み、花の寺の別名の如く、『春(山吹)、夏(紫陽花)、秋(コスモス)、冬(水仙)』と四季折々の花が咲きました。

重文の本堂には文殊菩薩騎獅像を中心に不動明王、四天王などの各仏像が安置されておりまして、境内の三十三観音石仏、重文の経蔵、重文の笠塔婆など、このお寺は皆が注目する国宝の楼門、十三重石宝塔以外にも古代から綿々と受け継がれてきたいろいろな文物などが深い歴史と感動を与えてくれる寺院となって来ました。
  参考文献: 古寺巡礼奈良 5  般若寺   淡交社 1979年

次回の木津川(泉津)からの中津道の散策も、大和の佐保路に面する東大寺転害門(てがいもん)となると古代の藤原京と平城京の「中ツ道」の領域?と思いつつ訪れる予定です。
                               (郷土愛好家)

2012年04月27日

◆国の領土拡張戦略による尖閣奪取

渡部 亮次郎


尖閣諸島に関する歴代政府の出方はあまりに弱腰だとして、巷間「日中間に密約があるのでは無いか。そうでなければこの弱腰は理解できない」というものである。

たとえば、ある一流商社マンは最近、私のメルマガ「頂門の一針」で次のような論を展開した。

<尖閣諸島については、日本と中国の外交当局のあいだに、公然の密約があるはずだ。

 (1) 日本人は尖閣諸島に立ち入らず、自衛隊も駐留させない。

 (2) 中国人は尖閣諸島に立ち入らず、中国共産党軍も駐留さ  せない。

 (3) 領土の帰属は、本気で議論することは避ける。

 (4) 以上の代償として中国はxxxxxxxすること (ないしxxxxxxxしないこと)。

日本の外交当局がラクをしたいがために、日本側が百歩しりぞいた密約が結ばれているにちがいない。

そう考えないと、尖閣諸島についての日本政府の異常な弱気さが説明できない。

自国領なのに、自国人が上陸することを取り締まる日本政府。密約なしにはありえないことだ。

密約の相手方は中国政府当局だが、中国はいまや公然の二重権力の軍国主義国家で、政府のコントロールがきかない共産党軍が経済利権にまで踏み込んで勝手に行動する。

共産党軍が密約を破るたびに、中国外交当局はああだこうだと言い訳をしてきたろうが、日本側がものわかりのよすぎるお人よしなものだから、中国外交当局すらいまや密約を守る必要がないと考えるに至ったというのが、今日の状況だ。

密約を洗い落して、常識あるパワーポリティクスの世界に引き戻すことが、国家間の関係を成熟させることになる。

約は、日米間にだけ存在するのではない>。

密約があるとして密約だからして確認は不可能だ。少なくとも福田赳夫内閣が1978年8月に日中平和友好条約を締結した際、帰属確認を迫った外務大臣・園田直に対し、トウ小平副首相(当時)は「棚上げは」提案したが「合意」はしていない。

1978年10月23日、日中平和友好条約の批准書交換のため訪日していた中国のトウ小平国務院常務副総理は、日本記者クラブで行われた会見の席上で、「尖閣諸島を中国では釣魚島と呼ぶ。名前からして違う。確かに尖閣諸島の領有問題については中日間双方に食い違いがある。国交正常化の際、両国はこれに触れないと約束した。

今回、平和友好条約交渉でも同じように触れないことで一致した。中国人の知恵からしてこういう方法しか考えられない、というのは、この問題に触れるとはっきり言えなくなる。こういう問題は一時棚上げしても構わない、次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」と述べた。

田中角栄首相も園田外相も「合意」した事実は無いにもかかえあらず中国側は「合意」を既成事実化したしまった。あれ以後、両国は「棚上げ」以上の行動はとっていない。中国側が武力を背景に挑発を繰り返すことによって「既成事実化」に焦っているというのがげんじょうではないか。

「ウィキペディア」によれば、 中国共産党は、清がロシアその他の列強に領土を奪われた経験から、軍事的実力のない時期に国境線を画定してはならないという考え方をもっている。

中国とインドの事例(中印国境紛争)では、1954年の周恩来とネールの平和五原則の合意および中国国内のさらなる安定を待って、インドが油断している機会を捉えて、1962年11月、大規模な侵攻により領土を拡張した。

当時、キューバ危機が起きており、世界がそちらに注目している中での中国による計算し尽くされた行動であった。

軍事的優位を確立してから軍事力を背景に国境線を画定するという中国の戦略の事例は、中ソ国境紛争などにも見られ、その前段階としての軍事的威圧は、東シナ海および南シナ海で現在も進行中である。

日中国交正常化時の中国側の領土棚上げ論は、中国に軍事的優位を確立するまでの猶予を得るための方便ともいえる。2011年現在、中国人民解放軍の空軍力は、日本、韓国、在日在韓米軍を合計したものに匹敵し、インドを含むアジアで最強であり、その急激な近代化がアジアの軍拡を誘発している。このように尖閣問題の顕在化は、中国の軍事的優位がも
たらしたものといえる。

また1971年に地下資源が発見されてから、中国と台湾は領有権を主張しはじめた。例えば、地下資源が確認される以前の1970年に刊行された中華人民共和国の社会科地図において南西諸島の部には、"尖閣諸島"と記載され、国境線も尖閣諸島と中国との間に引いてあった。

しかし、地下資源が確認された以後の1971年の版では、尖閣諸島は"釣魚台"と記載され、国境線も日本側に曲げられた。

中国および台湾は尖閣諸島を「固有の領土」であるとの主張を繰り返している。政府レベルでは中国・台湾ともに話し合いでの問題解決を主張しているが、実際には相互に事前通報する取り決めが日中政府間で結ばれている排他的経済水域(EEZ)内はおろか、尖閣諸島周辺の日本の領海内で中国人民解放軍海軍の艦船による海洋調査が繰り返されていたり、
台湾および香港の中国人活動家の領海侵犯を伴った接近が繰り返されている。

このような実力行使に対して日本政府はことあるごとに抗議しているが、台湾側は民間抗議船の出航を禁止するなどの措置をとっているものの活動家が漁船で出航するなど取り締まれない場合もある、中国側はそれを無視している。

地元八重山諸島の漁民によれば、日本の排他的経済水域(EEZ)内の尖閣諸島近海で操業していると、中国の海洋調査船にはえ縄を切断されたり、台湾の巡視船から退去命令を受けたりと中台双方から妨害されている。

台湾漁船が多く操業しているうえ、自分達が中国の漁業取締船に逆に拿捕される危惧があることを訴えている。

日本は憲法で国際紛争の解決の手段として話し合いで解決したいと望むしかないから情けないかぎりだ。

国連は国連憲章第6章で紛争の平和的解決を定めており、軍事的手段による解決を否定している。

特に安全保障理事会は、武力による紛争解決を図った国に対する軍事制裁などを定めた国連憲章第7章に基づく行動を決めることが出来る。しかし、当事者のひとつである中華人民共和国は常任理事国であるため拒否権をもっている。

第27条3項は『その他のすべての事項に関する安全保障理事会の決定は、常任理事国の同意投票を含む9理事国の賛成投票によって行われる。但し、第6章及び第52条3[18]に基く決定については、紛争当事国は、投票を棄権しなければならない。』としており、仮に中国が武力による尖閣諸島問題の解決を図った場合、賛否すら表明することが出来なくなる。

日本の国内には民間レベルで灯台の建設を進めたり、定住しようとする計画もあるが、日本政府はそれを押し留めている。外務省が中国に対して弱腰であるという意見も存在するのは当然だ。

たしかに中国が軍事力でアメリカのそれを上回ったと判断した時、尖閣は収奪される。オリンピックの9年後に、ファッショ国は滅びるという加瀬英明原則を信じたい。       2012・4・25--
渡部 亮次郎

◆中国の領土拡張戦略による尖閣奪取

渡部 亮次郎


尖閣諸島に関する歴代政府の出方はあまりに弱腰だとして、巷間「日中間に密約があるのでは無いか。そうでなければこの弱腰は理解できない」というものである。

たとえば、ある一流商社マンは最近、私のメルマガ「頂門の一針」で次のような論を展開した。

<尖閣諸島については、日本と中国の外交当局のあいだに、公然の密約があるはずだ。

 (1) 日本人は尖閣諸島に立ち入らず、自衛隊も駐留させない。

 (2) 中国人は尖閣諸島に立ち入らず、中国共産党軍も駐留さ
  せない。

 (3) 領土の帰属は、本気で議論することは避ける。

 (4) 以上の代償として中国はxxxxxxxすること
  (ないしxxxxxxxしないこと)。

日本の外交当局がラクをしたいがために、日本側が百歩しりぞいた密約が結ばれているにちがいない。

そう考えないと、尖閣諸島についての日本政府の異常な弱気さが説明できない。

自国領なのに、自国人が上陸することを取り締まる日本政府。密約なしにはありえないことだ。

密約の相手方は中国政府当局だが、中国はいまや公然の二重権力の軍国主義国家で、政府のコントロールがきかない共産党軍が経済利権にまで踏み込んで勝手に行動する。

共産党軍が密約を破るたびに、中国外交当局はああだこうだと言い訳をしてきたろうが、日本側がものわかりのよすぎるお人よしなものだから、中国外交当局すらいまや密約を守る必要がないと考えるに至ったという
のが、今日の状況だ。

密約を洗い落して、常識あるパワーポリティクスの世界に引き戻すことが、国家間の関係を成熟させることになる。

密約は、日米間にだけ存在するのではない>。

密約があるとしても密約だからして確認は不可能だ。少なくとも福田赳夫内閣が1978年8月に日中平和友好条約を締結した際、帰属確認を迫った外務大臣・園田直に対し、トウ小平副首相(当時)は「棚上げは」提案
したが「合意」はしていない。

1978年10月23日、日中平和友好条約の批准書交換のため訪日していた中国のトウ小平国務院常務副総理は、日本記者クラブで行われた会見の席上で、「尖閣諸島を中国では釣魚島と呼ぶ。名前からして違う。確かに尖閣諸島の領有問題については中日間双方に食い違いがある。国交正常化の際、両国はこれに触れないと約束した。

今回、平和友好条約交渉でも同じように触れないことで一致した。中国人の知恵からしてこういう方法しか考えられない、というのは、この問題に触れるとはっきり言えなくなる。こういう問題は一時棚上げしても
構わない、次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」と述べた。

田中角栄首相も園田外相も「合意」した事実は無いにもかかえあらず中国側は「合意」を既成事実化したしまった。あれ以後、両国は「棚上げ」以上の行動はとっていない。中国側が武力を背景に挑発を繰り返すことによって「既成事実化」に焦っているというのがげんじょうではないか。

「ウィキペディア」によれば、 中国共産党は、清がロシアその他の列強に領土を奪われた経験から、軍事的実力のない時期に国境線を画定してはならないという考え方をもっている。

中国とインドの事例(中印国境紛争)では、1954年の周恩来とネールの平和五原則の合意および中国国内のさらなる安定を待って、インドが油断している機会を捉えて、1962年11月、大規模な侵攻により領土を拡張し
た。

当時、キューバ危機が起きており、世界がそちらに注目している中での中国による計算し尽くされた行動であった。

軍事的優位を確立してから軍事力を背景に国境線を画定するという中国の戦略の事例は、中ソ国境紛争などにも見られ、その前段階としての軍事的威圧は、東シナ海および南シナ海で現在も進行中である。

日中国交正常化時の中国側の領土棚上げ論は、中国に軍事的優位を確立するまでの猶予を得るための方便ともいえる。2011年現在、中国人民解放軍の空軍力は、日本、韓国、在日在韓米軍を合計したものに匹敵し、インドを含むアジアで最強であり、その急激な近代化がアジアの軍拡を誘発している。このように尖閣問題の顕在化は、中国の軍事的優位がもたらしたものといえる。

また1971年に地下資源が発見されてから、中国と台湾は領有権を主張しはじめた。例えば、地下資源が確認される以前の1970年に刊行された中華人民共和国の社会科地図において南西諸島の部には、"尖閣諸島"と記載され、国境線も尖閣諸島と中国との間に引いてあった。

しかし、地下資源が確認された以後の1971年の版では、尖閣諸島は"釣魚台"と記載され、国境線も日本側に曲げられた。

中国および台湾は尖閣諸島を「固有の領土」であるとの主張を繰り返している。

政府レベルでは中国・台湾ともに話し合いでの問題解決を主張しているが、実際には相互に事前通報する取り決めが日中政府間で結ばれている排他的経済水域(EEZ)内はおろか、尖閣諸島周辺の日本の領海内で中国人民解放軍海軍の艦船による海洋調査が繰り返されていたり、台湾および香港の中国人活動家の領海侵犯を伴った接近が繰り返されている。

このような実力行使に対して日本政府はことあるごとに抗議しているが、台湾側は民間抗議船の出航を禁止するなどの措置をとっているものの活動家が漁船で出航するなど取り締まれない場合もある、中国側はそれを
無視している。

地元八重山諸島の漁民によれば、日本の排他的経済水域(EEZ)内の尖閣諸島近海で操業していると、中国の海洋調査船にはえ縄を切断されたり、台湾の巡視船から退去命令を受けたりと中台双方から妨害されている。

台湾漁船が多く操業しているうえ、自分達が中国の漁業取締船に逆に拿捕される危惧があることを訴えている。

日本は憲法で国際紛争の解決の手段として話し合いで解決したいと望むしかないから情けないかぎりだ。

国連は国連憲章第6章で紛争の平和的解決を定めており、軍事的手段による解決を否定している。

特に安全保障理事会は、武力による紛争解決を図った国に対する軍事制裁などを定めた国連憲章第7章に基づく行動を決めることが出来る。しかし、当事者のひとつである中華人民共和国は常任理事国であるため拒否
権をもっている。

第27条3項は『その他のすべての事項に関する安全保障理事会の決定は、常任理事国の同意投票を含む9理事国の賛成投票によって行われる。但し、第6章及び第52条3[18]に基く決定については、紛争当事国は、投票を棄
権しなければならない。』としており、仮に中国が武力による尖閣諸島問題の解決を図った場合、賛否すら表明することが出来なくなる。

日本の国内には民間レベルで灯台の建設を進めたり、定住しようとする計画もあるが、日本政府はそれを押し留めている。外務省が中国に対して弱腰であるという意見も存在するのは当然だ。

たしかに中国が軍事力でアメリカのそれを上回ったと判断した時、尖閣は収奪される。オリンピックの9年後に、ファッショ国は滅びるという加瀬英明原則を信じたい。       2012・4・25



2012年04月26日

◆「尖閣」から身を隠す米国

渡部 亮次郎


「尖閣」問題にアメリカは如何なる態度をとってきたか。調べる為に「ウィキペディア」にあたってみた。

その結果言える事は安保条約も有りながら、何よりも中国への刺激を避けることを最優先に考えており、私から言えば「アメリカは尖閣問題から常に身をかくそうとしている」との印象である。

1972年5月に、アメリカ・ニクソン政権でキッシンジャー大統領補佐官の指導の下、ホワイトハウス国家安全保障会議において「尖閣諸島に関しては(日中などの)大衆の注目が集まらないようにすることが最も賢明」とする機密文書をまとめた。

同年2月に訪中に踏み切ったニクソン政権にとって歴史的和解を進める中国と、同盟国日本のどちらにつくのかと踏み絵を迫られないようにするための知恵だった。

この機密文書には、日本政府から尖閣諸島が日米安保条約が適用されるかどうか問われた際の返答として「安保条約の適用対象」と断定的に答えるのではなく「適用対象と解釈され得る」と第三者的に説明するように政府高官に指示している。

2009年3月、アメリカのオバマ政権は、「尖閣諸島は沖縄返還以来、日本政府の施政下にある。日米安保条約は日本の施政下にある領域に適用される」とする見解を日本政府に伝えた。

同時に、アメリカ政府は尖閣諸島の領有権(主権)については当事者間の平和的な解決を期待するとして、領土権の主張の争いには関与しないという立場を強調している。すなわち、アメリカ政府は、尖閣諸島に対する日本の「施政権」を認めているが「主権」については不明にしている。

1996年9月15日、ニューヨーク・タイムズ紙はモンデール駐日大使の「米国は諸島の領有問題のいずれの側にもつかない。米軍は条約によって介入を強制されるものではない」という発言を伝え、10月20日には大使発言について「尖閣諸島の中国による奪取が、安保条約を発動させ米軍の介入を強制するものではないこと」を明らかにした、と報じた。

この発言は日本で動揺を起こし、米国はそれに対して、尖閣は日米安保5条の適用範囲内であると表明した。米国政府は1996年以降、尖閣諸島は「領土権係争地」と認定(「領土権の主張において争いがある」という日中間の関係での事実認定であって、米国としての主権に関する認定ではない)した。

その一方では、日本の施政下にある尖閣諸島が武力攻撃を受けた場合は、日米安保条約5条の適用の対象にはなる、と言明している。この見解は、クリントン政権時の1996年米政府高官が示した見解と変わらないとされる。

ブッシュ政権時の2004年3月には、エアリー国務省副報道官がこれに加え「従って安保条約は尖閣諸島に適用される」と発言し、それが今でも米政府関係者から繰り返されている。

ただし「安保条約5条の適用」は米国政府においても「憲法に従って」の条件付であって米軍出動は無制限ではない(条約により米国に共同対処をする義務が発生するが「戦争」の認定をした場合の米軍出動は議会の承認が必要である)ことから、「尖閣諸島でもし武力衝突が起きたなら初動対応として米軍が戦線に必ず共同対処する」とは記述されていない
(これは尖閣諸島のみならず日本の領土全般に対する可能性が含まれる)。

むろん「出動しない」とも記述されていない。第5条については条約締改時の情勢を鑑み本質的に「軍事大国日本」を再現することで地域の安定をそこなわないための米国のプレゼンスに重点がおかれているものと一般には解釈されている。なお、米国の対日防衛義務を果たす約束が揺るぎないものであることは、累次の機会に確認されていると日本の外務省は主張している。

2011年11月14日、フィールド在日米軍司令官は日本記者クラブで会見し、尖閣諸島について日米安全保障条約の適用対象とする従来の立場を確認しつつも、「最善の方法は平和解決であり、必ず収束の道を見つけられる。軍事力行使よりもよほど良い解決策だ」と述べ、日中関係改善に期待を示した。

尖閣諸島の主権に限らず、領土主権の認定は、主権認定に関する条約が締結されていた場合には、国際法上、行政権限ではなく国会の権限が優先するというのが通説である。

つまり、サンフランシスコ平和条約に米国政府が調印して米国議会が批准(国会で承認)している以上、オバマ政権の行政府としての政治的判断や政治的発言がどのようなものであっても、それは条約の更改や廃止や破棄として国会の承認(批准)を経たものでないから、条約更改や廃止、破棄としての法的効果は生じていない。

国際法上、米国の国家責任としての尖閣諸島の主権に関する認定は、議会によって条約の更改や廃止、破棄などの決議がされない限り、あくまでもサンフランシスコ平和条約2条に帰結する。


なお、米国政府(行政府)が尖閣諸島の主権が日本にあることを明言しないことは、尖閣諸島の主権が日本にないことを主張したものとはいえない。

つまりブッシュ政権もオバマ政権も、米国政府として「領土権の主張争いには関与しない。」と言っているのであって「尖閣諸島の主権は日本にはない」と主張したことはない。

もっとも、もしそのような明言を米国議会の承認なしにすれば、米国議会が批准した条約、条文を行政府が国会承認の手続を経ず恣意的に変更するわけで、それは明白な越権行為であり米国憲法違反になる。

2010年9月に起こった尖閣諸島中国漁船衝突事件の際は、ヒラリー・クリントン国務長官は、日本の前原誠司外務大臣との日米外相会談で、「尖閣諸島は日米安全保障条約第5条の適用対象範囲内である」との認識を示し、同日行われた会見でロバート・ゲーツ国防長官は「日米同盟における責任を果たす」「同盟国としての責任を十分果たすとし、マイケル・マレン統合参謀本部議長は「同盟国である日本を強力に支援する」と表明している。

2012年04月25日

◆お助け橋・「新」大橋

渡部 亮次郎

今住んでいる東京・江東区から車で隣の中央区(銀座や東京駅)に行くには両国橋か新大橋で隅田川を渡るしかない。電車だと錦糸町から地下へ潜る総武快速線で東京駅までたった8分。但し東京駅で地上に出るまで5分はかかる。

車だと2Km走って新大橋で隅田川を渡れば日本橋と銀座だ。

最近のマスコミは江東区も墨田区も「下町(したまち)」と呼ぶが、戦前(古いネ)要するに60年以上前の東京で下町とは日本橋、京橋、神田、下谷、浅草までで、墨田、江東は括って「墨東(ぼくとう)」と呼ばれ、陰では「川向こう」と蔑まれていた。

余談だが「川向こう」には韓国という意味もある。日本海を川に見立てるからである。

確かに江東区には猿江、墨田区には押上(お仕上げ)、向島(むこうじま)など、この地域が大昔は海だったことを裏付ける地名が残っている。低層の湿地帯だったものを徳川家康が運河を開鑿したり土盛りをしたりして住宅地に仕立てた。

時代がぐっと下って、バブルがはじけたあたりから墨東には高層マンションが林立するようになった。とくに錦糸町駅周辺の変貌は目覚しい。時計精工舎の工場跡地には45階のマンションが2006年に完成した。

また錦糸町駅周辺の再開発も進んでマンションや高層ビルが建った結果、両国の花火は我が家からは見えなくなって久しい。

東京中のゴミを棄てているのが江東区地先の東京湾。そのあたりにもマンションが林立し、戦後わずか25,000だった江東区の人口はいまや 48万人。少子化が叫ばれる中で臨海地に小学校が新たに開設される始末。

都心に極く近い割に土地代の安いところに建った高層マンションだから若いカップルが殺到するように江東区へ移転してくるからこうなった。こちとら老人は被害者、所得税の3倍の住民税をとられている。

話を橋に戻す。隅田川に多くの橋が架かっているが、新大橋はなんで「新」なのか、旧がどこにも見当たらないが。それが田舎者。すぐ上流にかかっている両国橋がもとはただの「大橋」だった。だから1つ下流は新大橋。

新大橋(しんおおはし)は、東京都道・千葉県道50号東京市川線(新大橋通り)を通す。西岸は中央区日本橋浜町2丁目・3丁目、東岸は江東区新大橋1丁目(元安宅町)。付近地下に都営地下鉄新宿線が通る。

最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1693年)12月7日である、隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。

江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたという説がある。

当時の橋は現在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰とした。

橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいる。


「初雪やかけかかりたる橋の上」
「ありがたやいただいて踏むはしの霜」

新大橋は急流のため何度も破損、流出、焼落が多く、その回数は20回を超えた。幕府財政が窮地に立った享保年間に幕府は橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、

町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に永享元年(1744年)には存続を許された。

そこで、維持のために橋詰にて市場を開いたり、寄付などを集めるほかに、橋が傷まないように当時は橋のたもとに高札が掲げられ、

「此橋の上においては昼夜に限らず往来の輩(やすら)うべからず、商人物もらひ等とどまり居るべからず、車の類一切引き渡るべからず(渡るものは休んだりせず渡れ、商人も物乞いもとどまるな、荷車は禁止)」とされた。

その後、明治18(1885)年に新しい西洋式の木橋として架け替えられ、明治45(1912)年7月19日にはピントラス式の鉄橋として現在の位置に生まれ変わった。

この時の設計監理には東京市の技術陣が当たったが、鉄材は全てアメリカのカーネギー社の製品が使われている。これは、明治の末においても未だ我が国の鉄材の生産量が乏しかったためと考えられる。
http://www.meijimura.com/visit/s55.asp

竣工後間もなく市電が開通し、アールヌーボー風の高欄に白い花崗岩の親柱など、特色あるデザインが見られた。そのため貴重な建築物として、現在愛知県犬山市の博物館明治村に中央区側にあたる全体の8分の1、約25mほどが部分的に移築されて保存されている。

戦後、修理補強を行いながら使われていたものの、橋台の沈下が甚だしく、橋の晩年には大型車の通行が禁止され、4t以下の重量制限が設けられていた。昭和52年に現在の橋に架け替えられた。

現在の橋の概要 構造形式 2径間連続斜張橋  橋長 170.0m幅員 24.0m  着工 昭和51年  竣工 昭和52年3月27日 施工主体 東京都  設計 中央技術コンサルタンツ 施工 石川島播磨重工業

歌川広重がその最晩年に描いた名所江戸百景の中に、新大橋は「大はし あたけの夕立」として登場する。ゴッホが特に影響を受けたとされるこの絵は、日本橋側から対岸を望んだ構図である。

「あたけ」というのはこの新大橋の河岸にあった幕府の御用船係留場にその巨体ゆえに係留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸(あたけまる)にちなんで、新大橋付近が俗にそう呼ばれていたからである。

また斎藤月岑の江戸名所図会には「新大橋、三また」として描かれている。「三また(三股、三派)」とは神田川、隅田川、堅川の合流点のことで、新大橋のすぐ上流側であるが、この中州部分は月見、花見、夕涼み、花火見物の名所であり、全盛期には江戸一番の繁盛を見せたといわれる場所である。

新大橋は関東大震災や東京大空襲の際にも隅田川の橋がことごとく焼け落ちる中でも唯一被災せず、避難の道として多数の人命を救ったため、「人助け橋(お助け橋)」と称される。

現在でも橋の西詰にある久松警察署浜町交番敷地裏に「大震火災記念碑」、および「人助け橋の由来碑」があり、付近にある水天宮の御神体もこの橋に避難して難を逃れたと言われている。2007・04・07

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
それ以外の参考資料:
http://www.asahi-net.or.jp/~zr8t-iskw/shinoohashi.htm

2012年04月24日

◆尖閣で騙し続ける中国

渡部 亮次郎


日中国交正常化するとき、1972年9月、田中角栄首相と周恩来の首脳会談で両者が尖閣諸島の帰属問題を話し合ったという発表はなかった。

この時、私はNHKの記者として田中首相に同行したが、会談内容を発表する官房長官二階堂進は「内容は一切発表できません」と繰り返した。

しかし、最近の「ウィキペディア」によると、

<9月27日:日中国交正常化交渉のため中国を訪問した田中角栄内閣総理大臣と周恩来国務院総理との第3回首脳会談の中で、田中角栄が尖閣諸島について問うた。

周恩来は「尖閣諸島問題については、今回は話したくない。今、これを話すのはよくない。石油が出るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない。」と述べている。

これより1年前の1971年7月28日、日中国交正常化交渉の一環として北京で行われた竹入義勝衆議院議員(公明党)と周恩来国務院総理との会談の中で、周恩来が「尖閣列島の問題に関心がなかった」としたうえで、「石油の問題で歴史学者が問題にした」と述べ、中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのは、付近に眠る石油資源が目当てだったことを認めている。

この件は、2010年9月30日に行われた衆議院予算委員会の尖閣諸島中国漁船衝突事件に関する集中審議で取り上げられている(質問者は富田茂之衆議院議員)。

この周恩来の発言は、日本政府の「中華人民共和国政府の場合も台湾当局の場合も1970年後半、東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及び、はじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものです」とする主張を証明するものである。

なお、この会談を記録した中国側の資料では、会談内容が省略されているため「石油の問題で歴史学者が問題にした」に関する部分が記載されていない。

1978年8月8日、福田赳夫内閣で官房長官から外務大臣に横滑りしていた園田直(すなお)が日中平和友好条約締結への最終交渉のため、特別機を仕立てて訪中。私は記者から彼の秘書官に転じていて随行した。

これに先立ち4月、約100隻の中国漁船が尖閣諸島に接近し、領海侵犯、領海内操業を行った。

5月11日には日本の右翼団体「大日本赤誠会」の「尖閣諸島領有決死隊」上陸。日章旗を掲揚。

尖閣諸島の帰属問題では、自民党内でも石原慎太郎ら青嵐会(せいらんかい)が中心で、「帰属問題を解決しない限り、園田外相には平和友好条約には調印させない」と息巻き、福田首相を突き上げていた。

こうした情勢を受けて園田大臣はトウ小平副首相と会談した際、「4月の約100隻の中国漁船による領海侵犯もんだいもあり、この際帰属問題をはっきりさせたい」と提議した。

するとトウ小平はすかさず「この問題は今は棚上げしたい。互いに次世代が知恵をだすだろう」と逃げを打った。園田はなおも食いついたがトウは逃げるばかりだった。

トウはその後、条約の批准書交換のために黄華外相に同行して、この年の秋、日本を初訪問。日本記者クラブで行われた会見の席上で、

「尖閣諸島を中国では釣魚島と呼ぶ。名前からして違う。確かに尖閣諸島の領有問題については中日間双方に食い違いがある。国交正常化の際、両国(田中首相と周恩来総理)はこれに触れないと約束した。

今回、平和友好条約交渉でも同じように触れないことで一致した。中国人の知恵からしてこういう方法しか考えられない、というのは、この問題に触れると、はっきり言えなくなる。

こういう問題は一時棚上げしても構わない、次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」と述べた。

だが周恩来もトウ小平も完全に日本政府を騙したのだ。「知恵」なんて少なくとも中国は出さず、とにかく領有の既成事実化だけを焦って、いまでは武力をちらつかせて日本を脅しにかかっている。
文中敬称略             2012・4・22

2012年04月22日

◆おらゴム長と織田信長

渡部 亮次郎


「おら(俺の)ゴム長と織田信長」は親戚の秋田芸人大潟八郎の間違え節の一節。その伝で行けば敗戦直後に歌手(故人)の淡谷(あわや)のり子はどこか田舎で「ズロースの女王」と宣伝ビラに書かれたのは間違い節だ。

ズロース drawers 「広辞苑」女性用の下ばき。股間部をおおい、太もも丈のゆったりしたもの。

ブルース(blues)は、米国深南部でアフリカ系アメリカ人の間から発生した音楽のひとつ、またはその楽式。19世紀後半頃に米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー(労働歌)などから発展したものと言われている。

アコースティック・ギターの弾き語りを基本としたデルタ・ブルース、バンド形式に発展したシカゴ・ブルース、ロックと融合したブルース・ロックなど、時を経て多様な展開をしている。

しかし日本の場合「ブルース」というと、前記のブルースに影響を受けた淡谷のり子、青江三奈らに流れを発する、「哀しい雰囲気でムードのある歌謡曲」をさす場合の方が多い。

「別れのブルース」「伊勢佐木町ブルース」といったように、歌謡曲や演歌などでタイトルに「ブルース」がつく曲はおおむね、音楽的にはブルースとは別物である。

マイナーブルースに近い構成のものもあるが、メロディーの音階がブルーノートスケールではなく演歌ペンタトニックスケールなどの違いがある。

これらには歌詞が物悲しいことと、アレンジにサックスを多用しているという共通点しかない。

淡谷のり子が本邦初めてブルースと付く名の「流行歌」を歌ったのは昭和12年の春、ソプラノの声をわざと煙草で潰して唄った「別れのブルース」である。作詞藤浦洸で、作曲の服部良一に無理に頼まれて唄った。

窓を明ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える
夜風 潮風 恋風のせて 今日の出船は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの 切なさよ

胸にいかりの 入れずみほって やくざに強い マドロスの
お国言葉は 違っていても 恋には弱い すすり泣き
二度と逢えない 心と心
踊るブルースの 切なさよ

この「別れのブルース」が中国戦線からヒットした。「別れのブルース」は横浜本牧のチャブ屋街をモチーフにし、バンドホテルを舞台にしている。チャブ屋とはいわゆる売春窟である。

淡谷のり子は以後、ブルースと付く何曲も唄い「ブルースの女王」と呼ばれた。

雨のブルース(1938年)
想い出のブルース(1938年)
東京ブルース(1939年)
満州ブルース(1940年)

戦後は
嘆きのブルース(1948年)
君忘れじのブルース(1948年)
遠い日のブルース(1963年)

ところがブルースをブルーズと濁って(正式に)発音したのは1回目の「別れの・・・」時だけで、なぜか以後はすべて濁らずに唄っている。

ブルースの本来の発音はブルーズで、作為的にbluezと綴られる事もある、と解説書にはあるのだから、日本のブルースはブルースでは無いというのは本当だろう。

本当のブルーズが日本では、1970年代にブームが起こった。 1971年、B.B.キングが初来日を果たす。 1973年にスリーピー・ジョン・エスティスの「スリーピー・ジョン・エスティスの伝説(The Legend of SleepyJohn Estes)」がオリコン・チャートに食い込む大ヒットとなる。

1974年、「第1回ブルース・フェスティバル」開催。同フェスティバルは第3回まで開催され、エスティスを始めロバート・ロックウッド・ジュニア&エイセズ、オーティス・ラッシュらの来日が実現した。

日本でも京都、大阪を中心にウェスト・ロード・ブルース・バンド、憂歌団など、ブルース・バンドが登場。日本の独自のブルース・シーンが形成されて行く。

日本のはブルースではないブルース。間違え節の落ちである。
参考:ウィキペディア  誰か昭和を思わざる 
http://www.geocities.jp/showahistory/music/singera01.html
(再掲)


2012年04月18日

◆死に損い心臓脚気

渡部 亮次郎


中学3年の夏、野球部の合宿中、グラウンドで突然、意識を喪って昏倒。担ぎ込まれた病院で「心臓脚気です」と告げられた。

<しんぞうかっけ beriberi heart

ビタミン B1欠乏症(脚気)によって心臓の機能が障害された状態。ビタミン B1が欠乏すると,心筋のエネルギー代謝も障害されて,血液の拍出量が低下し,心不全に陥る。

この結果,各種の神経症状とともに,頻拍,血圧低下,浮腫,呼吸促迫などの症状がみられるようになる。重症になると心臓肥大を伴うようになり,わずかな運動でも急に胸苦しくなる。このような状態を〈脚気衝心〉といい,死亡することもある。

ビタミン B1を補給すると急速に回復する。日本では第2次大戦中から戦後にかけて発生したが,栄養状態の改善によってほとんどみられなくなった。>世界大百科事典

担任の先生が毎日、教員室でビタミンB1を注射してくださったので1週間ぐらいで回復した。先生は医師法違反だったろうが、とにかく私は死を免れた。

野球で勝つ為に合宿までしていたのだが、3学期には高校入試を控えていた。そこで野球の疲れを早く回復させるためにと、砂糖を大量になめた。

疲労はなるほど早期に回復したが、砂糖が分解する為にはビタミンB1を大量に消費すること、つまり甘味料の大量消費はビタミンB1欠乏症たる「脚気」を招くことを知らなかったのである。

日本では戦後、アリナミンが発明されたことにより、脚気は知る人のない病となったが、最近、息を吹き返している。

<1954(昭和29)年3月、アリチアミンの内服薬「アリナミン錠」が、翌年3月には注射薬の「アリナミン注」が発売された。ともに従来のビタミンB1剤に見られない優れた効果をしめした。その効果によってアリナミンは、治療薬・保健薬として医学界にも社会にもひろく歓迎され、また同業他社をおおいに刺激した。

1968(昭和43)年までに11種類のB1新誘導体が発売されたのである。アリナミンとその類似品の浸透により、手の打ちどころがなかった潜在性脚気が退治されることとなった。

国民の脚気死亡者は、1950(昭和25)年3,968人、1955(昭和30)年1,126人、1960(昭和35)年350人、1965(昭和40年)92人と減少した。

しかし、1975(昭和50)年には脚気が再燃した。原因には砂糖の多い飲食品や副食の少ないインスタント食品といったビタミンの少ないジャンクフードがあることが分かった>(「ウィキペディア」)。


2012年04月17日

◆公選断念して首相になれた中曽根

渡部 亮次郎


首相公選制(しゅしょうこうせんせい)は首相を国民が選挙によって直接的に選ぶ制度である。

イスラエルでは1992年から2001年まで首相公選制を導入していたが、現在(2011年)実施している国は存在しない。

日本では中曽根康弘が若い頃主張し、全国の鉄道沿線に看板を建てていたが、日米安保条約反対と首相公選論を言わなくなったところで、自民党内で首相候補とようやく認められて、実際総理総裁になった。

知事を辞めて大阪市長になった橋本徹が最近唱えだした。これを世間は「自分が手っ取り早く首相になる為の便法だろう」と冷たい。そのあたり私には逆に橋下が若い頃の中曽根にみえる。

私が河野派担当した頃の中曽根は、「これは自分の為ではない」と言っていた。あるいは、国民の人気は絶大ながら党の元老吉田茂元首相に阻まれている河野一郎を首相にするため、といったこともあったかもしれないが、河野自身は彼を死ぬまで信用してなかった。

首相職を設置する国家では議会による選出かが一般的である。しかし、国民の多数が首相就任を望む人物が必ずしも首相に就任するとは限らず、国民の意思と乖離する可能性がある。

首相公選制は首相を選挙により直接的に選出することで、国民の意思に基づいた首相による行政運営が行われることを主眼とする。

敗戦後、最初に首相公選論を提唱したのは、1945(昭和20年12月に幣原内閣の憲法問題調査委員会において「憲法改正に関する意見書」を提出した野村淳治東京大学名誉教授であるといわれる。

その後、中曽根康弘が1961年に直接の国民投票による首相公選制度を提唱したことで広く知られるようになった。

2000年に発足した森内閣が自民党の一部の幹部の話し合いで誕生したこと(五人組)から、導入意見が一時盛り上がったことがある。

元首相の小泉純一郎は2001年6月26日に「首相公選制を考える懇談会」を開催し、首相公選制など、総理大臣と国民との関係を検討し、具体的提案をすることとした。2002年8月7日には12回にわたる会議の結果を踏まえ「首相公選制を考える懇談会」報告書が小泉に提出された。

首相公選制に積極的な意見としては次のような点を根拠として挙げる。

派閥、政治抗争、政情不安定などの要因はイギリス型の議院内閣制が日本に適合しないことに起因する。

国会と政府、議院と大臣との関係を断ち切り、派閥政治・族議員政治・国対政治の弊害を克服し、強力な首相権力の下で政治的統合を図ること
ができる。

首相の任期が保障される制度をとる場合には安定的な政権基盤による政権運営が可能となる。

民意を統合するもので主権在民の原理を前進させるものである。国民の政治意識・責任感を向上させるものである。

議会における野党側も首相候補を擁立できる。

国会議員に限らず民間人など幅広い人材を発掘することができる

ただし、立候補の資格要件については議論がある。

国民が選挙戦を通じて指導者としての資質をみる機会をうむ。

首相公選制に消極的な意見としては次のような点を問題点として挙げる。

日本国および日本国民統合の象徴である天皇の地位と衝突する(#天皇制
との関係における問題)。

立法部と行政部の関係が疎遠なものとなり両者に不一致を生じたときに
国政の停滞を生じる(#議会制との関係における問題)

派閥、政治抗争、政情不安定などの要因が議院内閣制によるものとみるのは的外れである。

これらの問題の根因と考えられてきた問題は議院内閣制(内閣制度)の問題ではなく政党あるいは官僚機構にある(中選挙区制度、政党の利権共同体としての体質、派閥抗争、内閣と与党の二元構造、党運営上の平等主義、政権交代の欠如、官僚機構の分担管理原則、予定調和的な政策形成など)との指摘がある。

大統領制のアメリカとは政治的伝統や諸条件が大きく異なる。

イギリス型の議院内閣制が日本に適合しないという主張に対しては、イギリス以上にアメリカとわが国とでは政治的・社会的・経済的に異なるとの指摘がある。

ポピュリズムに陥り煽動的政治家の出現を招くおそれがある。


このほか議会が首相に対するチェック機能を果たせなくなり首相の強権的政治に陥るおそれがあるのではないかとの指摘もある。

国民による直接選挙により国政の最高指導者が選出されるとき、その指導者は極めて強い正統性を帯びることになる。アメリカ合衆国大統領のように、通常、共和制をとる国では大統領が元首とされる。

日本で首相公選制を採用する場合、国民が直接選出した公選首相と国民統合の象徴である天皇との関係が問題点として指摘される。

公選首相は国民を直接代表する地位にあるため必然的に大統領的な性質を帯びるものとなり、日本国及び日本国民統合の象徴であり事実上元首としての役割も担っている天皇の地位と矛盾するのではないかという問題がある。

首相公選制を採用する場合、首相も議会も国民からそれぞれ直接的に選出されることになることから、首相と議会多数派が一致するという保証はなくなり、首相の所属政党と議会の多数政党が異なるねじれ現象が常態化して国政の停滞を招くのではないかとの問題がある]。

首相が議会内に安定的な基盤を有しない場合には、立法権を有する議会との対立から国政が立ち行かなくなるのではないかとの懸念である。

問題はなかなか解決案を見出せないだろう。

関連して考えるのだが、今の小選挙区制実施の経緯を思い出す。記者時代の他社の友人たちは「政界の悪の根源たる派閥を解消するためを優先した考えも持ち主が多く、選挙制度審議会の委員になって、これを主張した。

現場の政治家たちも、これに引きづられてあっという間に小選挙区制が実施された。これに対してわたしは選挙区が狭隘化する結果、輩出する政治家が小粒になることを理由に反対したが、委員じゃなかったので意見は無視された。

それが最近になってよう焼く現実のものとして当の議会もようやく自分で気づき、考えるようになった。喜ばしい。敬称略 2012・4・14
       出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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2012年04月16日

◆「大紀元」を知ってますか

渡部 亮次郎


大紀元(だいきげん、英: The Epoch Times)は、新聞とインターネットを報道媒体とする華僑系報道機関である。

2000年5月、ニューヨークで“中国共産党言論統制を突破する”華人たちによって設立された。2011年1月現在、新聞では9ヶ国語、ウェブサイトでは17ヶ国語でそれぞれ各国支局により運営されている。

日本では東京都台東区に事務所を置き、中国語版を2001年、日本語版を2005年から発行している。

数年前、私は東京での社員集会に招かれて講演したことがある。社員の多くは来日後「反共」になった中国人女性が大部分だった。

アメリカ国内に11の支社を持ち、日本やカナダ、イギリス、ドイツなど、世界30カ国にグループ社がある。

ワシントンD.C.やニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ボストン、カナダ、オーストリア、香港、台湾では日刊で、他の国・地域では週刊で発行している。

全世界での中国語版の発行は週120万部。他に英語版、ドイツ語版、フランス語版、ロシア語版、韓国語版、日本語版を発行。

紙面およびウェブサイトで、「中国共産党の圧力に屈せずいかなる検閲も受けていない」ことを売りにしており、「中国国内では発信されない自由民主に基づく視点」で、中国時事や文化記事を中心に報道している。

中国大陸以外で生活する中国人向けに記事は書かれており、中国共産党の内政や外交問題を報道し続けている。特に中国共産党に対する報道姿勢は非常に批判的である。

特に中国大陸における法輪功迫害問題(例:大量虐殺罪と拷問罪で中国前江沢民国家主席がスペインおよびアルゼンチン裁判所で民事告訴されるなどについては、他メディアが取り上げない事実を報道している。

他にもチベット民族、ウイグル民族やモンゴル等の少数民族に対する虐殺や人権蹂躙に関する問題、中国共産党員の国外スパイ活動、中国大陸の環境問題、中国の民主化運動などについて盛んに報じている。

『九評共産党(共産党についての九つの論評)』という社説を発表したこの中で大紀元は中国共産党の暴政を糾弾し、同党の解体要因を指摘した。

九評共産党について中華民国元総統・李登輝は、「人も山河もみな、本源へ帰る。奥の細道にたたずむ平安のみなもとを希求するすべての人々に、この本を薦める」と評価し、「道徳的覚醒を促す」と出版社博大書店へメッセージを送った。

中国臓器狩り問題 の追究に熱心だ。2006年3月、中国人ジャーナリストR氏は大紀元の単独取材の中で、東北部の瀋陽市近郊にある大型刑務所に数千人の法輪功学習者が監禁され、当局が彼らを殺害した後、販売目的で臓器を摘出している事を暴露した。

同問題が世界に明るみになった後、カナダの著名人権弁護士デービッド・マタスと、カナダ政府元内閣大臣デービッド・キルガーは中国の臓器狩り問題について調査依頼を受け、2007年7月、法輪功学習者が生きたまま臓器を摘出されるというショッキングな内容を含んだ報告書「血塗られた臓器狩り」を発表した。

この問題は世界のメディアや人権団体が注視している。この件でアルゼンチンやオランダ、スペインなどで江沢民らを「人道に対する罪」で起訴する動きがある。

受賞  2005年8月、アジア系アメリカ人ジャーナリスト協会の全国報道賞、アジア・アメリカ問題ネット報道部門で優秀賞を受賞。 2005年9月、カナダ全国マイノリティーメディア協会の2005年メディア賞を受賞。

2006年4月20日、アメリカのホワイトハウスで行われた中国の胡錦濤国家主席の歓迎式典で、大紀元の女性記者・王文怡(ワン・ウェンイ)が式典中、ジョージ・ブッシュ大統領の目前で胡錦濤を批判する発言(中国共産党による臓器狩り問題に対して抗議する内容)を叫んだとして、国際問題になった。

その後、大紀元はアメリカ政府に謝罪し、王記者は解雇された。2012・4・9

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://www.epochtimes.jp/

2012年04月13日

◆鰰寿司で死人出た昔

渡部 亮次郎


<トリカブト中毒か、長男と父死亡=山菜と誤り食べる―北海道

7日午後9時20分ごろ、北海道函館市釜谷町の漁業沢田繁さん(71)方で、夕食に山菜を食べた沢田さんら3人が嘔吐(おうと)などの症状を訴えていると119番があった。

漁業の長男繁信さん(42)が間もなく死亡し、重体だった沢田さんも8日夜に死亡した。建設作業員の次男貴信さん(41)は、命に別条はないという。

道警函館中央署は、別の山菜と誤って猛毒を含むトリカブトを食べたとみて経緯を調べている。

同署によると、繁信さんは7日に山菜を採って帰り、「ニリンソウなので、おひたしにするとうまい」と話し、午後5時半ごろ家族で夕食として食べたという。

一家は5人暮らしで、山菜を食べなかった沢田さんの妻(65)と長女(44)は無事だった。> 時事通信 4月8日(日)22時33分配信

子供の頃、郷里秋田では、田植え時、田圃で昼時に食べた鰰(はたはた)の飯寿司が原因の集団食中毒がおきて県内各地から悲報が伝えられたものだ。農村でも上水道が普及した現在では全く聞かれなくなって幸いである。

ボツリヌスという地上最強の毒がある。以下「ウィキペディア」による。

ボツリヌス毒素の致死量は体重70kgのヒトに対しA型毒素を吸入させた場合、0.7?0.9μgと考えられており、ボツリヌス毒素1gの殺傷力は約100万人とも言われる(ちなみに青酸カリは経口投与の場合5人/g)。自然界に存在する毒素としては最も強力である。

この毒は海のヘドロに棲んでいて、日本海を遊弋しながら成長する鰰の下腹に付着する。それをだいたまま鰰は産卵のため初冬の秋田沿岸二接近する。漁民はそれを掬って捕獲、市販する。

「秋田名物、八森(はちもり)鰰、男鹿で男鹿ブリコ」と唄われる所以である。ブリコとは鰰が排出した卵のこと。噛めばプリプリと音がするところから秋田弁ではブリコになった。

勿論、私は現場をみたことはないが、産卵の海域ではブリコに掛ける雄の精子で水面が白濁するそうだ。

時は12月。農家のひとたちは鰰を大量に買い入れて来年春の田植え時の昼飯かわりにすべく飯寿司を大量に漬け込む。そうやって寝かした飯寿司を田圃で食べたら、間もなくみんながバタバタと倒れた。集団食中毒事件の発生である。

外した雨戸に載せて医者に担ぎこむが、意識は確りしている。

<ボツリヌス毒素は主に四肢の麻痺を引き起こす。重篤な場合は呼吸筋を麻痺させ死に至る。その他、複視・構音障害・排尿障害・発汗障害・喉の渇きがみられる。一方、発熱はほとんどなく、意識もはっきりしたままである>。

私の子供のころはこうした事故というか事件というか、集団で、数人か十数人が死んだというニュースが新聞で報じられた。テrビはまだなかった。

研究によると、鰰の下腹に付着したボツリヌス菌は悪いことに飯寿司のように発酵したところが大好き。大繁殖する。100度の熱で死滅するのだが、それでは飯寿司ではない。

だから綺麗な水でよくよく洗って菌をながしてから漬ければ問題はないのだが、井戸生活の農村では水をじゃぶじゃぶ使わなかったから、ボツリヌスは飯すしの中で大繁殖していたのである。

中毒例

日本では、飯寿司(いずし)、熟寿司(なれずし)、切り込み(きりこみ)などの郷土料理による中毒が北海道・東北地方を中心に報告されている(E型による)。

東北の農村とはいえ、上水道は殆ど100%と普及した為、鰰寿司を漬ける時は念をいれて洗ってから漬け込むようになったので、昔のような例は全く聞かなくなった。

私も時々、秋田県内の専門店からとりよせて焼酎の肴にしている。年中無休で販売されている。

1984年、熊本県で製造された真空パックの辛子蓮根を食べた36人(1都12県)がボツリヌス菌(A型)に感染し、内11名が死亡した。原料のレンコンを加工する際に滅菌処理を怠り、なおかつ真空パックし常温で保管流通させたために、土の中に繁殖する嫌気性のボツリヌス菌がパック内で繁殖したことが判明した。

2006年12月8日厚生労働省は、井戸水の飲用から宮城県の0歳男児に乳児ボツリヌス症が発症したと発表。

同省によれば、飲料水による同症が確認されたのは世界で初めてとのこと。乳児ボツリヌス症は、国内では1986年千葉県での初発例以来約20例(生後1〜9ヶ月)の報告がある。しかし半数以上は、はちみつを食べて発症したケース。

患者宅の井戸水から検出されたボツリヌス菌の汚染源は特定されていない。またどのような飲料水について、乳児ボツリヌス症の発症リスクが高いのかは必ずしも解明されていない。

対象の井戸に亀裂があり、雨天時に水が濁っていたことから、この井戸固有の問題であり、全ての井戸・地下水が問題となっているものではない。

2012年3月24日、鳥取県米子市の60歳代夫婦が岩手県宮古市のハニー食品が製造する「あずきばっとう」を食べてボツリヌス菌に感染した。

ボツリヌス菌による食中毒の発生は5年ぶりで厚生労働省は12年3月26日注意を呼びかける文書を全国の自治体に送った。

ボツリヌス菌(学名:Clostridium botulinum)は、クロストリジウム属の細菌である。グラム陽性の大桿菌および偏性嫌気性菌。土の中に芽胞の形で広く存在する。

菌は毒素の抗原性の違いによりA〜G型に分類され、ヒトに対する中毒はA,B,E,F型で起こる。A、B型は芽胞の形で土壌中に分布し、E型は海底や湖沼に分布する。

ボツリヌスの語源はラテン語のbotulus(腸詰め、ソーセージ)であり、19世紀のヨーロッパでソーセージやハムを食べた人の間に起こる食中毒であったためこの名がついた。

ハムやソーセージに発色剤として添加される硝酸塩は、発色作用よりもボツリヌス菌の繁殖を抑える目的で使用されている。

1896年、ベルギーの医学者エミール・ヴァン・エルメンゲム (Emile van Ermengem) により発見・命名された。2012・4・8

2012年04月11日

◆鰰寿司で死人出た昔

渡部 亮次郎


<トリカブト中毒か、長男と父死亡=山菜と誤り食べる―北海道

7日午後9時20分ごろ、北海道函館市釜谷町の漁業沢田繁さん(71)方で、夕食に山菜を食べた沢田さんら3人が嘔吐(おうと)などの症状を訴えていると119番があった。

漁業の長男繁信さん(42)が間もなく死亡し、重体だった沢田さんも8日夜に死亡した。建設作業員の次男貴信さん(41)は、命に別条はないという。

道警函館中央署は、別の山菜と誤って猛毒を含むトリカブトを食べたとみて経緯を調べている。

同署によると、繁信さんは7日に山菜を採って帰り、「ニリンソウなので、おひたしにするとうまい」と話し、午後5時半ごろ家族で夕食として食べたという。

一家は5人暮らしで、山菜を食べなかった沢田さんの妻(65)と長女(44)は無事だった。> 時事通信 4月8日(日)22時33分配信

子供の頃、郷里秋田では、田植え時、田圃で昼時に食べた鰰(はたはた)の飯寿司が原因の集団食中毒がおきて県内各地から悲報が伝えられたものだ。農村でも上水道が普及した現在では全く聞かれなくなって幸いである。

ボツリヌスという地上最強の毒がある。以下「ウィキペディア」による。

ボツリヌス毒素の致死量は体重70kgのヒトに対しA型毒素を吸入させた場合、0.7?0.9μgと考えられており、ボツリヌス毒素1gの殺傷力は約100万人とも言われる(ちなみに青酸カリは経口投与の場合5人/g)。自然界に存在する毒素としては最も強力である。

この毒は海のヘドロに棲んでいて、日本海を遊弋しながら成長する鰰の下腹に付着する。それをだいたまま鰰は産卵のため初冬の秋田沿岸二接近する。漁民はそれを掬って捕獲、市販する。

「秋田名物、八森(はちもり)鰰、男鹿で男鹿ブリコ」と唄われる所以である。ブリコとは鰰が排出した卵のこと。噛めばプリプリと音がするところから秋田弁ではブリコになった。

勿論、私は現場をみたことはないが、産卵の海域ではブリコに掛ける雄の精子で水面が白濁するそうだ。

時は12月。農家のひとたちは鰰を大量に買い入れて来年春の田植え時の昼飯かわりにすべく飯寿司を大量に漬け込む。そうやって寝かした飯寿司を田圃で食べたら、間もなくみんながバタバタと倒れた。集団食中毒事件の発生である。

外した雨戸に載せて医者に担ぎこむが、意識は確りしている。

<ボツリヌス毒素は主に四肢の麻痺を引き起こす。重篤な場合は呼吸筋を麻痺させ死に至る。その他、複視・構音障害・排尿障害・発汗障害・喉の渇きがみられる。一方、発熱はほとんどなく、意識もはっきりしたままである>。

私の子供のころはこうした事故というか事件というか、集団で、数人か十数人が死んだというニュースが新聞で報じられた。テrビはまだなかった。

研究によると、鰰の下腹に付着したボツリヌス菌は悪いことに飯寿司のように発酵したところが大好き。大繁殖する。100度の熱で死滅するのだが、それでは飯寿司ではない。

だから綺麗な水でよくよく洗って菌をながしてから漬ければ問題はないのだが、井戸生活の農村では水をじゃぶじゃぶ使わなかったから、ボツリヌスは飯すしの中で大繁殖していたのである。

中毒例

日本では、飯寿司(いずし)、熟寿司(なれずし)、切り込み(きりこみ)などの郷土料理による中毒が北海道・東北地方を中心に報告されている(E型による)。

東北の農村とはいえ、上水道は殆ど100%と普及した為、鰰寿司を漬ける時は念をいれて洗ってから漬け込むようになったので、昔のような例は全く聞かなくなった。

私も時々、秋田県内の専門店からとりよせて焼酎の肴にしている。年中無休で販売されている。

1984年、熊本県で製造された真空パックの辛子蓮根を食べた36人(1都12県)がボツリヌス菌(A型)に感染し、内11名が死亡した。原料のレンコンを加工する際に滅菌処理を怠り、なおかつ真空パックし常温で保管流通させたために、土の中に繁殖する嫌気性のボツリヌス菌がパック内で繁殖したことが判明した。

2006年12月8日厚生労働省は、井戸水の飲用から宮城県の0歳男児に乳児ボツリヌス症が発症したと発表。

同省によれば、飲料水による同症が確認されたのは世界で初めてとのこと。乳児ボツリヌス症は、国内では1986年千葉県での初発例以来約20例(生後1〜9ヶ月)の報告がある。しかし半数以上は、はちみつを食べて発症したケース。

患者宅の井戸水から検出されたボツリヌス菌の汚染源は特定されていない。またどのような飲料水について、乳児ボツリヌス症の発症リスクが高いのかは必ずしも解明されていない。

対象の井戸に亀裂があり、雨天時に水が濁っていたことから、この井戸固有の問題であり、全ての井戸・地下水が問題となっているものではない。

2012年3月24日、鳥取県米子市の60歳代夫婦が岩手県宮古市のハニー食品が製造する「あずきばっとう」を食べてボツリヌス菌に感染した。

ボツリヌス菌による食中毒の発生は5年ぶりで厚生労働省は12年3月26日注意を呼びかける文書を全国の自治体に送った。

ボツリヌス菌(学名:Clostridium botulinum)は、クロストリジウム属の細菌である。グラム陽性の大桿菌および偏性嫌気性菌。土の中に芽胞の形で広く存在する。

菌は毒素の抗原性の違いによりA〜G型に分類され、ヒトに対する中毒はA,B,E,F型で起こる。A、B型は芽胞の形で土壌中に分布し、E型は海底や湖沼に分布する。

ボツリヌスの語源はラテン語のbotulus(腸詰め、ソーセージ)であり、19世紀のヨーロッパでソーセージやハムを食べた人の間に起こる食中毒であったためこの名がついた。

ハムやソーセージに発色剤として添加される硝酸塩は、発色作用よりもボツリヌス菌の繁殖を抑える目的で使用されている。

1896年、ベルギーの医学者エミール・ヴァン・エルメンゲム (Emile van Ermengem) により発見・命名された。2012・4・8