2012年02月12日

◆「の」で初入閣した園田直

渡部 亮次郎


建国記念「の」日を迎えるたびに園田衆院副議長時代を思い出す。

佐藤栄作内閣は発足間もない1995(昭和40)年12月12日未明、日韓条約案件を衆議院本会議で強行採決で批准した。当時私はNHK政治部の一員で衆院本会議番の記者だった。

時の自民党幹事長は田中角栄で、記者たちから採決をいつ断行するのか連日責められ、その都度「きょう」といい続けた。NHKとしては歴史的な事件として残るであろう採決の瞬間をTVで実況中継する計画。

そのためにはTVの中継スタッフを何十人も国会に待機させ3食を補給しなければならない。担当は報道局庶務部。担当者は食事の手配のうえからも「何時」への関心が高い。

だが幹事長は毎日「きょう」と言いながら採決を引き延ばすものだから、庶務に突き上げられたNHKの幹事長番はとうとうノイローゼになる始末。

採決の瞬間は突然やってきた。船田中議長が暮も近い12日、未明、「この際あらゆる手続きを省略し、案件を採決いたします。賛成の諸君の起立を求めます」とやったから議場は総立ち。「起立多数。よって本案は可決されました」となった。

与党、野党の若い議員が議長席に詰め寄った。楢橋代議士の上着がセンターベンツのところで真っ二つにさかれていたのをおもいだす。しかし船田議長はさっさと議長席を下り、後ろのドアから退出、そのまま青山の産科病院(親戚)に入院してしまった。

日韓条約は、参院本会議でも強行採決で可決、成立した。衆議院の船田、田中伊三次の正副議長は混乱の責任を取るとして辞任。

後任に議長は山口喜久一郎、副議長園田直がさ党総裁の推薦により本会議で選出された。奇妙なことに、二人とも佐藤のライバル河野一郎派閥所属だった。私は河野はを担当しながら、正副議長を引き続き担当することになった。

園田氏は当選9回ながら未入閣の代議士だった。50を過ぎていた。このポストでなにか功績を上げ、入閣を狙うのじゃないか。試みに毎日のように副議長室へ通った。他の記者は議長室で山口議長若い頃の自慢話を聞いているようだった。

毎日通っているうちに、奇妙なことに気づいた。副議長室の本棚がどけられ、直接、議長応接室へ出入りできるようになっている。

「これは何かある。園田は何かをやらかそうとしている」。私は気づかぬふりをして去った。

遠くから見張っていると議長室に入った社会党の石橋政嗣国対委員長が、暫くして副議長室からでてきたではないか。つまり議長室と副議長室を結ぶ議長応接室で何か密議がおこなわれているのじゃないか。

佐藤内閣が解決すべき日韓条約の次の案件は何か。そうだ、紀元節復活法案の成立だ。園田はこれを解決して初入閣を果たそうとしているのだ。

ある日、園田さんに正直にこれをぶつけてみた。園田氏は驚く様子も見せず「あゝたはワシの腹の中をいつみたとですか」と肯定した。しめた。正月に伊勢神宮参拝に同行したとき「菅原通済に勲1等をやれる方法は無いものか」と呟いたでしょう。あれがヒントですともいった。

つまり社会党と自民党の間で妥協点を見出す。その過程で菅原氏を使う、と言う方法。自民党からは田中幹事長の一任を取り付け、社会党へは国対族として通じ合う石橋国対委員長と渡り合って妥協点を見出す、と言う案では無いですか、と追い討ちをかけた。

これで園田氏は「降参」し、以後すべてを教えてくれるようになった。しかし書かなかった。大きな特ダネにするためには、コトが仕上がるまで極秘にすべきだと考えた。キャップにもデスクにも報告しなかった。

やがて園田・石橋間で、法案の名称を建国記念「の」法案とする。法案を「建国記念日法案」としたのでは社会党内で「紀元節復活法案」として反発が強いが建国記念「の」だとやわらぐというのだ。

日取りは「2月11日とせず審議会で決める、審議会の会長は菅原氏とする」の線でまとまった。昭和41年6月3日、話は「山口衆院議長の斡旋案」として公表された。

やがて建国記念「の」日は佐藤内閣の意図のとおり「2月11日」に決まり、園田氏は副議長として3代の議長に仕えた後、佐藤改造内閣の厚生大臣として初入閣した。「の」が決め手だった。
                    2012・2・10

2012年02月10日

◆梗塞予防のために

渡部 亮次郎


脳梗塞や心筋梗塞は血栓(血の塊)が動脈に詰まって、血液が必要な場所に行けなくなることから起きる。しかし、現在の医学はかなり進歩して、新薬もできている。

それなのに街や公園では卒中による半身不随患者を沢山見かける。

先日電車で見かけた20歳代の男性は「若いオレが脳梗塞になるとは思えないから病院に掛かるのが遅れちゃった」と残念がっていた。

脳卒中は、昭和26(1951)年から昭和55年までの30年間、日本の死亡原因の1位を占めていた。現在でも富山県では死因の第2位であり、全国的にも昭和40年代後半から死亡率は減少しているが、その内訳をみると、この40年間で脳卒中の主流は脳内出血から脳梗塞へと変化してきている。

死亡率が減少している反面、患者数はむしろ増加していることから、今後、発症予防や発症した後のリハビリテーションの推進がますます重要になる。


脳卒中の種類(この場合の「脳卒中」は、国際疾病傷害死因分類における「脳血管疾患」にあたる。)

脳内出血

脳の血管が破れて出血をおこすもので、多くの場合深い昏睡とともに半身のマヒが起こる。誘因として疲労、精神不安、寒冷刺激などが多く、また活動中にも起こることが多い。鳩山一郎、石橋湛山氏ら。

くも膜下出血

脳は、くも膜という膜でおおわれてるが、くも膜と脳の表面との間にある小さな動脈にこぶ(動脈瘤)があると、血圧があがった時などに破れて出血(脳動脈瘤破裂)し、くも膜下出血になる。

頭痛がひどく悪心、嘔吐があり意識が混濁するが、四肢のマヒは通常おこらない 。

脳梗塞

動脈硬化などのために動脈が狭くなったり、あるいは動脈や心臓内に出来た血の固まりが脳の動脈に流れ込み、詰まってしまうために起こるもの。長嶋茂雄氏など。

その血管によって栄養を受けている部分の脳組織に、血液がいかなくなり破壊されて、脳の軟化を起す。田中角栄氏など

突然、発症するもの、段階的に増悪するものなど、病型により様々だが、多くの場合、前駆症状としてめまい、頭痛、舌のもつれ、手足のしびれ、半身マヒや昏睡などになる。

一過性虚血

脳の血液循環が一時的に悪くなり、めまい、失神、発作などをひき起こします。少し横になっていれば治りますが、脳梗塞の前駆症状とも考えられており、高齢者では十分な注意が必要。数年前に私が体験した。

これはすぐ回復するので油断するが、放置してはいけない。このとき徹底的に治療しないと。間もなく本物の脳梗塞を起こすと、学会が警告している。私は2週間、入院、加療した。

高血圧性脳症

高血圧がかなりひどくなると、脳の内部にむくみが起こる。このため、頭痛、嘔吐、手足のけいれんなどが見られ、目が見えなくなることもあ
る。

これらに共通するものは、コレステロールに拠る動脈硬化。理屈からすれば、血管内にこびりついたコレステをそぎ落とせばいいようなものだが、今のところ医学界にそういう薬は存在しない。

いまのところ世界が束になって取り組んでいるのが、血液をさらさらにして詰まりにくくする方法であり、そのための薬が「ワーファリン」である。昨年になって新薬(ダビガトラン)が許可になったが処方は1年間は2週間が限度なので、私はまだ使用していない。今年4月から処方期間が延びるのに期待しいている。

ワーファリンは納豆、コロレラなどビタミンKを多量に含むものによって効果が減殺されるから、納豆の好きな人は堪える。小生は東北生まれなのに納豆好きでは無いので助かっている。

果たしてワーファリンが効いているか否か。毎月1回、採血して調べる。それでも卒中になったらどうするか。私の場合はワーファリンを服用中のため使用禁止だが、そうでない患者が発症3時間以内に担ぎこまれたら助かる薬がある。「tPA」だ。

血管を塞いだ血栓を溶かす薬だ。長嶋さんは、発見された時、すでに3時間を過ぎていたからtPAを注射できなかった。右手と言葉に後遺症が残ってしまった。

とにかく脳卒中の症状が出たらどこの病院に担ぎこんでもらうかを予め決めておけば、死ぬことは勿論、後遺症すら残らない時代に既になっている。私の場合は石岡荘十さんの助言に従って決めた。近くの都立墨東病院に決めてもいいらしいが。

2012年02月08日

◆流行歌手の晩年(続き)

渡部 亮次郎


新橋喜代三(1903-1963)

西之表島出身。大正5年、芸者に出る。15年に鹿児島で小原節の歌い手として名をあげ、昭和6年にレコードデビュー。9年に日本橋三越の鹿児島名産展での「鹿児島小原節」でヒット。10年には「明治一代女」で大ヒットを飛ばす。

12年に中山晋平と結婚、引退。ステージの前には立てひざで樽酒を飲む事で知られ、中山晋平のプロポーズも樽酒を家に贈るというものだった。中山晋平の死後は、一時期、歌手として復帰したが、熱海で暮らしながら中山晋平音楽祭などに関与した。

杉狂児(1903-1975)

福岡出身。昭和11年に美ち奴とのデュエット「うちの女房にゃ髭がある」が大ヒット。映画出演は36年の「東京ドドンパ娘」が最後になったが、テレビなどで活躍。50年9/1午前3時、世田谷中央病院で心筋梗塞で死去。葬儀は世田谷区の妙寿寺で行われた。本名は杉禎輔。

鈴木三重子(1931-1987)

福島出身。31年に「愛ちゃんはお嫁に」が大ヒット。33年には藤山愛一郎や山野愛子らと「愛ちゃん会」を結成した。62年3/12午後0時30分、肝硬変で都立府中病院で死去。本名は菊池ミヘ子。

瀬川伸(1916-2004)

函館出身。昭和14年デビュー。26年「上州鴉」がヒット。その後も40年頃まで歌手を続ける。娘の瀬川瑛子も歌手。平成16年3/14午後2時3分、心不全で死去。

関種子(1907-1990)

東京生まれ。東京音楽学校を卒業後、「日本橋から」「窓に凭れて」、10年には「雨に咲く花」などのヒットを矢継ぎ早に連発し、草創期のコロムビアを支えた。

戦後は藤原歌劇団に所属し、長門美保、佐藤美子とコンセールFを結成するなどした。平成2年6/6午前9時5分、急性腎不全で熊谷の聖ヨゼフクリニックで死去。葬儀は早稲田の亮朝院で行われた。うたごえ運動で知られる関鑑子は実姉である。女優の関弘子は娘。
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高田浩吉(1911-1998)

尼崎出身。昭和10年に「大江戸出世小唄」で歌手デビュー。同名の映画の中でこの歌を歌った事から「歌う映画スター」第1号として評判になる。同26年に松竹京都に復帰。鶴田浩二は地方巡業の際に浜松で拾った弟子にあたり「浩二」の「浩」は「浩吉」の「浩」にちなんだもの。

京都に住み、夜の10時以降は取材禁止と、公私の別をはっきりとさせた人であった。元々、歌手は副業だったためか、晩年は美声の衰えを隠せなかった。平成2年10年5/19午前8時32分、肺炎のために京都府北区の病院で死去。本名は梶浦武一。娘の高田美和も女優である。

高峰三枝子(1918-1990)

東京の高輪出身。筑前琵琶の宗家であった高峰筑風の娘。東洋英和女学校卒業後、父の急死もあり、昭和11年に松竹大船の女優になる。15年の榛名湖を舞台にした「湖畔の宿」は後に、センチメンタルな曲調や歌詞が時局に不適合とプレス中止となる。しかし曲中の台詞が、死地へ赴く兵士の心情とあいまって、特攻隊、前線兵士の間では歌われ続けた。

さらにビルマのバーモ長官が高峰のファンで、来日時に東条首相など政府首脳の前で高峰が「湖畔の宿」を歌うといった事もあった。21年には松竹を退社、英文雑誌社長と結婚して「百万円の結婚式」と話題になったが29年に離婚。

昭和天皇の園遊会の席上、感極まって泣いてしまった話は有名。岐阜県明智町の日本大正村の初代村長もしていた。平成2年3月にはインド旅行に行くなどしていたが、4/18に倒れ、5/24には容態が急変、5/27午後5時30分、世田谷区の日産厚生会玉川病院で死去。

上原謙は高峰に取りすがって泣いたという。本名は鈴木三枝子。住まいは大田区田園調布3丁目だった。

竹山逸郎(1918-1984)

浜松出身。昭和19年に慶応大法科卒業後、18年に歌手デビュー。22年、「酒は涙か溜息か」の戦後版を目論んだ「泪の乾杯」が、A面の平野愛子「港が見える丘」ともどもヒット。

23年の「異国の丘」は、当初、作曲者不詳のまま、NHKラジオの「のど自慢」で8/1に復員兵の中村耕造が歌い、かつてない勢いで鐘が乱打された。その後の調べで作曲者は吉田正と判明。

晩年は学習塾を経営。酒豪で1升酒も平気であった。59年4/4午後4時半、肝機能障害で中野区の国立療養所中野病院で死去。本名は竹山逸平。葬儀は練馬区のセブンズデー・アドベンチスト関町教会で行われた。

田谷力三(1899-1988)

神田生まれで旧士族の家系の根っからの江戸っ子。19歳からは浅草オペラのトップスターとして本領を発揮。観音劇場、金竜館などで、関東大震災で浅草オペラが消滅するまで活躍した。

バラックに暮らしながら、青山墓地で発声練習をし、23年5月にNHKラジオ「陽気な喫茶店」でカムバック。61年には不忍池にゴンドラを浮かべてカンツォーネを披露。

62年には上野精養軒で米寿記念コンサートを開くが、声量は全く衰えなかった。「老いらくの恋」と騒がれ83歳で再婚した愛妻を亡くし、自身も心臓発作に倒れるが回復、63年3/13、豊島区の教会で親類の結婚式に「恋はやさし」を歌ったのが最後となった。

3/14に倒れ、3/30午後0時10分、心筋梗塞と心不全で千代田区の日本歯科大病院で死去。89歳だった。化粧をせずに舞台に出るのは失礼という考えから、最後まで素顔でステージに立つ事はなかったという。

津村謙(1923-1961)

富山出身。魚津中卒業後、上京し、作曲家の江口夜詩の門下となる。「ビロードの歌声」と呼ばれて23年の「流れの旅路」がヒット。26年には「上海帰りのリル」が爆発的なヒットとなった。36年11/28朝7時半、杉並区神明町の自宅車庫の車内で、意識を失っているところを母(62)に発見され、医者が呼ばれたが間もなく死亡した。

午前1時頃過ぎに練馬区向山町の作曲家、麻雀をしていた吉田矢健次の家から車で帰宅、朝早い時間で妻や母を起こす訳にもいかずにエンジンヒーターをかけたまま寝込み排気ガスが車内に充満、一酸化炭素中毒になったらしい。車庫のシャッターを下ろしていて、飲酒の形跡もなかった。本名は松原正。小平霊園に眠る。

鶴田浩二(1924-1987)

浜松出身。巷間伝えられているような飛行機乗りではなく、見送る立場の飛行整備士であったというのは複数の海軍関係者の見解。28年には大阪で暴漢に襲われる。

同年には東宝と契約。歌手としても、27年にポリドールから「男の夜曲」でデビューし「街のサンドイッチマン」、30年に「赤と黒のブルース」などがヒット。

35年に東映と契約し、38年の「人生劇場・飛車角」が東映任侠映画の最初となった。45年には「傷だらけの人生」がヒットし、この頃から戦没者遺骨収集のチャリティーコンサートを行う。晩年は特攻隊に絡んだ右寄りのスタンスの発言で知られた。

春日八郎との不和はあまり知られていない。耳が悪く左手を耳にあてて歌うポーズは有名。映画は60年の「最後の博徒」が最後の出演、咳がひどくなり、61年肺ガンで2ヶ月半入院し、62年5月に再入院、月末には1週間自宅に戻ったものの、6/16午前10時53分、慶応病院の5階で死去。本名は小野栄一。葬儀では海軍の知人らに「同期の桜」の合唱で送
られた。

ディック・ミネ(1908-1991)

徳島出身。父は土佐高校創立者。古賀政男の推薦もあって昭和9年に歌手デビュー。芸名はスキー場で悪友に付けられたもので、ディックは男性器を意味する。同年「ダイナ」がヒット。「二人は若い」「人生の並木路」「旅姿三人男」「上海ブルース」などのヒットを飛ばす。

晩年には学生時代に相撲部で骨折した後遺症から車椅子生活となったが、歌手生活は続けた。平成3年4月に前立腺肥大で入院、6/10午前4時7分、急性心不全で埼玉県飯能市の病院で死去。享年83。本名は三根徳一。

徳山?(たまき)(1903-1942)

神奈川の藤沢出身。東京音楽学校卒業後、武蔵野音楽学校の講師となるが、佐藤千夜子のピアノ伴奏をした縁から昭和6年に流行歌手に転向し、「侍ニッポン」でスター歌手の仲間入りを果たした。

「侍ニッポン」では「新納(にいろ)鶴千代」を「新納(しんのう)鶴千代」と誤って歌ったまま、それがレコード発売された経緯がある。四家文子と歌った「天国に結ぶ恋」がヒット。9年には藤山一郎、小唄勝太郎、渡辺はま子と共に皇族懇話会で美声を披露、それまで地位の低かった流行歌の扱いが、この御前演奏で変わったともされる

戦中はノモンハンの陸軍飛行隊をテーマにした「空の勇士」や15年の「隣組」などの戦時歌謡で一世を風靡した感がある。他にも14年には「大陸行進曲」「太平洋行進曲」、16年には「戦陣訓の歌」なども吹き込んだ。17年1/28午後5時に慶応病院で敗血症で死去。神奈川県藤沢市の常光寺に眠る。

轟夕起子(1917-1967)

東京出身。「お使いは自転車に乗って」がヒット。42年5/11午後5時15分、慈恵医大第3病院で、閉塞性黄疸のため死去。本名は西山都留子。

トニー谷(1917-1987)

銀座生まれ。昭和26年に中国から復員し、アニー・パイル劇場で進行係をしたのを皮切りに日劇ミュージックホールで司会をつとめ、キザなメガネにチョビヒゲ、そろばん片手の異色なポーズと毒舌で一世を風靡。「さいざんすマンボ」などを吹き込む。

引退後はハワイで生活。61年12月、渋谷ジアンジアンでの「トニー谷ショー」が最後の舞台。62年7/16午前0時14分、港区の慈恵医大病院で死去。享年70。

http://www.geocities.jp/showahistory/

2012年02月07日

◆糖尿病で落命北原白秋

渡部 亮次郎


北原白秋もまた糖尿病で命をとられた有名人である。

1937(昭和12)年、糖尿病および腎臓病の合併症のために眼底出血を引き起こし、入院。視力はほとんど失われたが、さらに歌作に没頭する。

糖尿病治療薬「インスリン」は外国では大正11(1922)年から精製、市販されていたが、果たして輸入されていたのかどうか。1941(昭和16)年春、数十年ぶりに柳川に帰郷し、南関で叔父のお墓参りをし、さらに宮崎、奈良を巡遊。

この年、芸術院会員に就任す。年末にかけて病状が悪化。1942(昭和17)年、小康を得て病床に執筆や編集を続けるも、11月2日逝去。享年 57。墓所は多磨霊園(東京都府中市)にある。

北原 白秋(きたはら はくしゅう)。1885(明治18)年1月25日―1942(昭和17)年11月2日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人。

本名は北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。詩、童謡、短歌以外にも、新民謡(「松島音頭」・「ちゃっきり節」等)の分野にも傑作を残している。

生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表するなど、活躍した時代は「白露時代」と呼ばれる近代の日本を代表する詩人である。

熊本の南関に生まれ、まもなく福岡の柳川にある家に帰る。父・長太郎、母・シケ。北原家は江戸時代以来栄えた商家(油屋また古問屋と号し、海産物問屋であった)で、当時は主に酒造を業としていた。

1901(明治34)年、大火によって北原家の酒倉が全焼し、以降家産が傾き始める。白秋自身は依然文学に熱中し、同人雑誌に詩文を掲載。この年、初めて「白秋」の号を用いる。

1904(明治37)年、長詩『林下の黙想』が河井醉茗の称揚するところとなり、『文庫』4月号に掲載。感激した白秋は父に無断で中学を退学し、早稲田大学英文科予科に入学。

上京後、同郷の好によって若山牧水と親しく交わるようになる。この頃、号を「射水(しゃすい)」と称し、同じく友人の中林蘇水・牧水と共に「早稲田の三水」と呼ばれた。

1905(明治38)年には『全都覚醒賦』が「早稲田学報」懸賞一等に入選し、いち早く新進詩人として注目されるようになる。

1906(明治39)年、新詩社に参加。与謝野鉄幹、与謝野晶子、木下杢太郎、石川啄木らと知り合う。

森鴎外によって観潮楼歌会に招かれ、斎藤茂吉らアララギ派歌人とも面識を得るようになった。1908(明治41)年、『謀叛』を発表し、世評高くなる。

またこの年、木下杢太郎を介して、石井柏亭らのパンの会に参加。この会には吉井勇、高村光太郎らも加わり、象徴主義、耽美主義的詩風を志向する文学運動の拠点になった。

1909(明治42)年、『スバル』創刊に参加。木下らと詩誌『屋上庭園』創刊。また処女詩集『邪宗門』上梓。官能的、唯美的な象徴詩作品が話題となるも、年末には実家が破産し、一時帰郷を余儀なくされた。

1912(明治45年 / 大正元)年、母と弟妹を東京に呼び寄せ、年末には一人故郷に残っていた父も上京する。

白秋は隣家にいた松下俊子と恋に落ちた。、俊子は夫と別居中の人妻だった。2人は夫から姦通罪により告訴され、未決監に拘置された。

2週間後、弟らの尽力により釈放され、後に和解が成立して告訴は取り下げられた。人気詩人白秋の名声はスキャンダルによって地に堕ちた。

この事件は以降の白秋の詩風にも影響を与えたとされる。1913(大正2)年、春、俊子と結婚。三崎に転居するも、父と弟が事業に失敗。白秋夫婦を残して一家は東京に引き揚げる。『城ヶ島の雨』はこの頃の作品であるという。

1914(大正3)年、肺結核に罹患した俊子のために小笠原父島に移住するも、ほどなく帰京。父母と俊子との折り合いが悪く、ついに離婚に至る。

1916(大正5)年、江口章子と結婚し、葛飾紫烟草舎に転居。筆勢いよいよ盛んにして『白秋小品』を刊行する。1917(大正6)年、阿蘭陀書房を手放し、再び弟・鉄雄と出版社アルスを創立。この前後、家計はきわめて困窮し、妻の章子は胸を病んだ。

1918年(大正7年)、小田原に転居。鈴木三重吉の慫慂により『赤い鳥』の童謡、児童詩欄を担当。優れた童謡作品を次々と発表し、作品に新生面を拓くのみならず、以降の口語的、歌謡的な詩風に強い影響を与えることになる。

1919(大正8)年、処女小説『葛飾文章』『金魚』発表。生活ようやく落ち着き、歌謡集『白秋小唄集』、童謡集『とんぼの眼玉』刊行。

1920(大正9)年、『雀の生活』刊行。また『白秋詩集』刊行開始。小田原の住居の隣に山荘「木兎の家」を新築した際の祝宴は、小田原の芸者総出という派手なものであった。

それに白秋の生活を金銭的に支えて来た弟らが反発し、章子を非難する。着物ほとんどを質入れしたと言う章子は非難されるいわれもなく反発。章子はその晩行方をくらまし、白秋が不貞を疑い章子と離婚。

1921(大正10)年、佐藤菊子(国柱会会員、田中智學のもとで仕事)と結婚。信州滞在中想を得て、『落葉松』を発表する。歌集『雀の卵』、翻訳『まざあ・ぐうす』などを刊行。

1922(大正11)年、長男・隆太郎誕生。文化学院で講師となる。また山田耕筰と共に『詩と音楽』を創刊。山田とのコンビで数々の童謡の傑作を世に送り出す。

歌謡集『日本の笛』などを刊行。1923(大正12)、年三崎、信州、千葉、塩原温泉を歴訪。詩集『水墨集』を刊行するも、関東大震災により山荘も半壊する。

1924(大正13)年1月5日、田中智學の招きで両親、妻菊子、長男隆太郎らとともに静岡県三保の田中智學の最勝閣へ旅行、龍華寺、羽衣の松などを観光、長歌1首、短歌173首を作る。

同年短歌雑誌『日光』を創刊。反アララギ派の歌人が大同団結し、象徴主義的歌風を目指す。1925年(大正14年)、長女・篁子(ドイツ語学者・岩崎英二郎夫人)誕生。樺太、北海道に遊ぶ。

童謡集『子供の村』など刊行。1926(大正15年 / 昭和元)年、東京谷中に転居。詩誌『近代風景』創刊。童謡集『からたちの花』『象の子』などを刊行。

1927年(昭和2年)、出版内容の競合からアルス社と興文社に悶着が起こり、興文社側の菊池寛と対立。詩論集『芸術の円光』刊行。1928年(昭和3年)、世田谷区に転居。

大阪朝日新聞(現・朝日新聞)の企画により、福岡県大刀洗町から大阪まで飛行機に搭乗する。1929(昭和4)年、『海豹と雲』など刊行。また『白秋全集』の刊行開始。1930(昭和5)年、南満洲鉄道の招聘により満洲旅行。帰途奈良に立寄り、しきりに家族旅行に出かける。

1932(昭和7)年、吉田一穂、大木惇夫と詩誌『新詩論』創刊。1933(昭和8)年、行き違いから鈴木三重吉と絶交。以降『赤い鳥』に筆を執ることはなくなる。

また同年の皇太子誕生の際には、奉祝歌『皇太子さまお生まれなつた』(作曲:中山晋平)を寄せる。1934(昭和9)年、『白秋全集』完結。歌集『白南風』刊行。総督府の招聘により台湾に遊ぶ。

1935(昭和10)年、新幽玄体を標榜して多磨短歌会を結成し、歌誌『多磨』を創刊する。大阪毎日新聞の委託により朝鮮旅行。この年、50歳を祝う催しが盛大に行われる。

1938(昭和13)年にはヒトラーユーゲントの来日に際し「万歳ヒットラー・ユーゲント」を作詞するなど、国家主義への傾倒が激しくなったのものの頃のことである。1940(昭和15)年、日本文化中央聯盟の委嘱で交声曲『海道東征』(曲:信時潔)の作詩にあたる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
                                   2012・2・3

2012年02月04日

◆「しょっつる」も苦手?

渡部 亮次郎


「しょっつる」は標準語でいえば「塩汁」。秋田弁では「汁」が「つゆ」になり「つる」に訛る。ただし私の生まれ育った旧八郎潟沿岸では材料の海魚が獲れないから「しょっつる」は造らない。

だから、おかしな事に秋田生まれの私が「しょっつる」を初めて食べたのは40歳を過ぎてから、秋田市川反(かわばた)の料亭だった。もう塩辛も食べられるようになっていたから結構、「美味い」と思った。

「しょっつる」の「汁」だけは瓶詰めで「三越」でも売っていて、向島生まれの家人が好物のようで、冬になると「東京しょっつる鍋」を食べる。秋田では名物ハタハタを使うが、無い時は適当な魚を入れる。

「しょっつる」は秋田名物、伝統的にはハタハタで作る魚醤。現在作られている「しょっつる」はハタハタに限らず色々な魚で作られている。ハタハタ料理にも付き物。

一般的にはハタハタもしくはタラと豆腐、長ネギと一緒に鍋で煮る「しょっつる鍋」が有名。「きりたんぽ鍋」など、他の料理の味付けにも用いられ、ラーメンのスープに(特に隠し味として)使われる場合もある。

創作和食の店ではドレッシングや付けダレなどに混ぜる(いずれも隠し味として)などの工夫も見られる。

しょっつる=魚醤は魚を塩とともに漬け込み、自己消化、好気性細菌の働きで発酵させて出た液体成分が魚醤。黄褐色〜赤褐色、暗褐色の液体である。

熟成により、特有の香りまたは臭気を持つが、魚の動物性タンパク質が分解されてできたアミノ酸と魚肉に含まれる核酸を豊富に含むため、濃厚なうま味を有しており、料理に塩味を加えるとともに、うま味を加える働きが強い。また、ミネラル、ビタミンも含んでいる。

日本では、近代的な食生活において、塩分濃度が高く風味が独特な魚醤は、醤油やうま味調味料の普及により一般家庭での使用は減っているが、いくつかの地方には魚醤を用いる文化が残っており、郷土料理などに利用されている。

主なものでは、秋田で「しょっつる」(塩汁)のほか、能登で「いしる」(魚汁)、香川で「いかなご醤油」が製造され、地元を中心に使用されている。この他1990年代後半ころから伝統的製法とは異なる製法が開発され、商品が製造販売されている。

そのひとつに「ほっけ醤油」がある。北海道・寿都(すっつ)町 北海道日本海、寿都名産のほっけを塩漬けにし、じっくり自然発酵させた天然発酵・本醸造の調味料(魚醤)。

ほっけ醤油「寿都のだし風」は地元商工会・寿都水産加工業組合所属メーカーで組織する寿都魚醤醸造委員会が立ち上げ、製造販売している。ほっけ醤油を使った各種一夜干しなども販売。また、伊豆諸島でくさやを製造する際に用いられるくさや液も魚醤の一種であると考えられる。

アジア、特に東南アジアの沿岸部を中心に、日本、中国なども含め、いくつかの文化圏で用いられており、特にタイをはじめとする東南アジアでは、塩を除けば、ほぼ唯一の塩味の調味料で、非常に多くの料理に用いられる。また、これらの文化圏の中には、なれずしを作る伝統を残している地域もある。

東南アジアでは、タイのナンプラー、ベトナムのヌックマム(ニョクマムとも) が世界的に有名である。他にも、フィリピンのパティス(patis)、カンボジアのトゥック・トレイ、ラオスのナンパー(nam paa)、ミャンマーのンガンピャーイェー(ngan-pya-ye)、インドネシアのケチャップ・イカン (kecap ikan) などがある。中国の広東省やマカオの魚露(ユーロ
ウ)も地元で広く使われている。

これらの言葉はおおむね「魚の水」という意味である。福建省福州で?露(キエロウ、1文字目は魚編に奇)といい、厦門のケチャップ(鮭汁)の「鮭」と同じく塩辛を意味する語と、「露」を組み合わせている。

歴史的には、古代ローマにおいてもガルム(ラテン語: garum)と呼ばれる魚醤が使われていた。現在でもアンチョビーペーストやサーディンペーストがある地帯は、かつてはアンチョビやサーディンの魚醤油が使われていた痕跡である。

ケチャップは、トマトから作られるトマトケチャップが有名になっているが、ケチャップの語源は、福建省や台湾の「鮭汁」 (kechiap) という魚醤をさす言葉であるとする説が有力である。

もともとの製法は地域によりかなり異なっており、生の魚を塩漬けにしたり、干物にして用いるもの、特定の魚種だけを使う場合や網にかかった魚をみな使う場合、オキアミなどを原料とする場合がある。

基本的に、用いる魚の種類によって、大きな魚の場合には内臓、頭、ヒレなどを、アンチョビなど利用価値の低い小型の魚の場合には、丸ごとを用いる場合が多い。

原則として、魚を大量の塩とともに漬け込み、そのまま数ヶ月以上発酵させる。熟成が進むと、魚の形が崩れ、全体が液化してくる。その液化が進んだものを、漉して用いる。

熟成の度合いは地域によって異なり、熟成度が少なく、魚の香りの強いものから、熟成が進みチーズのような発酵した匂いが中心のものもある。魚と塩だけで熟成させるものの他に、これに野菜や香草類を加えて味を調えるものもある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・11・11

2012年02月01日

◆国会審議のシナリオ

渡部 亮次郎


国会論議を律しているのは憲法、国会法、衆参両院の規則だと思っている人が多い。六法全書に載っている。だが、実際に律しているのは、これらに基づく衆参両院の「先例集」なのである。これは市販されていないから、野田総理の答弁は質問をあらかじめカンニングしたようで緊迫感が薄い、などという頓珍漢な批判がでてきたりする。

予算初め各委員会はいざ知らず、本会議において、総理大臣の施政方針演説に対する各党の代表質問の内容は、予め各党から通告するというのが「先例」になっている。

これは総理演説が多岐に亘っている以上、各党の代表質問も当然多岐に亘る。だが正確な答弁を期するためには「準備」するのが政府の責任でもあるわけだ。

そのため政府側は質問に立つ議員もとに通って「質問要旨」を獲得し、各省担当者に質問要旨を送り、徹夜で「答弁」を用意、公邸の首相に届けさせる。

余談だが、折角役所にはいったのに、やらされる仕事は、野党議員のところに通う「質問とり」じゃないか、馬鹿ばかしいと辞職、奮起して弁護士になった人がいる。

役人が徹夜で作った答弁メモを総理が棒読みするから緊張感がまるでなくなり、質疑通告を予めするのは止めろ、といった批判がでることになる。しかし、国会はTVの視聴者を楽しませるためにやっているのではないから腑抜けの答弁はつづく。

まして質疑通告をやめる、先例をやめるのは殆ど不可能である。そんなことをしたら国会は大混乱におちいるであろう。

そこへ行くと各委員会(常任、特別ともに)委員会は事前の質疑通告は不要ということになっているから、傍聴者としては委員会審議のほうが、緊張感があって面白い。

特に国政全般に亘って行なう予算委員会の質疑こそは緊張感があって面白い。何を聞かれるか全く予想の付かない立場の担当閣僚とすれば、当に震える思いをさせられるのである。

思い出せば吉田内閣のころの「バカ野郎解散」も予算に員会で吉田総理が答弁して自席にすわりながら「バカヤロ」と呟いたのをマイクがひろったからおきた「事件」だった。

本会議に於ける各党代表質問は一方通行。再質問はよほどのことでない限りおこなわれない。だから代表質問は見ていて実に退屈なものなのだ。予算いいんかいがお奨めですね。                2012・1・31

◆したたか服部良一 を称える

渡部 亮次郎


1月30日は作曲家服部良一の祥月命日。NHKはラジオ深夜便で特集を組んで偲んだは良かったが、アンカー明石勇氏の解説は浅薄。彼が軍部におされた内務省の弾圧を潜り抜けながら志を貫いた「抵抗の人」だったことを知ってかしらずか一言も触れなかった。あえて再掲し、独りで服部をしのぶことにした。


2009.07.10 Friday name : kajikablog

大阪出身の作曲家服部良一(はっとり りょういち、1907年10月1日―1993年1月30日)は、日本の作曲家、編曲家、作詞家(「村雨まさを」名義で作品を出している)。大阪府大阪市平野区出身。

ジャズで音楽感性を磨いた、和製ポップス史における重要な音楽家の一人と「ウィキペディア」。名曲「青い山脈」「東京ブギウギ」を残した大作曲家だが、戦時中、内務省の検閲を欺いた「大物」とは誰も書かない。

「夜のプラットホーム」は戦後の昭和22年に発表され、大ヒットしたが、実はもともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。

1939年(昭和14年)公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷が吹き込んだ。だが、戦時下の時代情勢にそぐわないと内務省の検閲に引っかかり、同年に発禁処分を受けた。理由は「出征する人物を悲しげに見送る場面を連想させる歌詞がある」だった。

作詩 奥野椰子夫  作曲 服部良一
1 星はままたき 夜ふかく なりわたる なりわたる
 プラットホームの 別れのベルよ  さよなら さようなら
 君いつ帰る

2 ひとはちりはて ただひとり  いつまでも いつまでも
  柱に寄りそい たたずむわたし  さよなら さようなら
  君いつ帰る

3 窓に残した あのことば  泣かないで 泣かないで
  瞼にやきつく さみしい笑顔  さよなら さようなら
  君いつ帰る

昭和13年の暮、東京・新橋駅で出征兵士を見送る歓呼の声の中に、柱の陰で密かに別れを惜しむ若妻の姿。それに心を打たれた都新聞(東京新聞)学芸記者の奥野椰子夫。

作詞家としてコロムビアに入社して翌年1月に「夜のプラットホーム」として書きあげ、服部良一が作曲、淡谷のり子が吹き込んだのだったが、発売禁止。

だが、曲に愛着をもつ服部が一計を案じた。検閲官を欺こうというのである。レコードが輸入盤なら検閲を潜られる制度だったので、2年後の1941年(昭和16年)、「I'll Be Waiting」(「待ちわびて」)というタイトルの洋盤で発売した。

作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。

R.ハッターこそは良一・服部が苗字をもじって作った変名で、ヴィック・マックスウェルは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていたドイツ系のハーフの男性の変名だった。

策略はまんまと当り、この曲は洋楽ファンの間でヒットした。当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カロ楽団によってレコーディングされた。

このとき服部は、やはり先に発売禁止になった「鈴蘭物語」(作詞藤浦 洸, 唄淡谷のり子)を「Love‘s Gone(夢去りぬ)」作曲R・ハッターとしてB面に収録。人々はこれも外国曲として愛好した。内務省は服部にしてやられたのである。

肝腎「夜のプラットホーム」は検閲の無くなった昭和22年、二葉あき子が歌って大ヒット。それまでの歌手活動の中、ヒットはあったものの大ヒット曲のなかった二葉にとっては待ち望んでいた朗報であった。

「夢去りぬ」の方は霧島昇が歌いなおして、これまた大ヒットした。

服部良一は大阪の本庄で土人形師の父久吉と母スエの間に生まれた。小学生のころから音楽の才能を発揮したが、好きな音楽をやりながら給金がもらえる出雲屋少年音楽隊に一番の成績で入隊する。

1926年にラジオ放送用に結成された大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団。ここで指揮者を務めていた亡命ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテルに見出され、彼から4年にわたって音楽理論・作曲・指揮の指導を受けた。

1936年(昭和11年)にコロムビアの専属作曲家となった。やがて、妖艶なソプラノで昭和モダンの哀愁を歌う淡谷のり子が服部の意向を汲み、アルトの音域で歌唱した『別れのブルース』で一流の作曲家の仲間入りを果たす。

その後ジャズのフィーリングをいかした和製ブルース、タンゴなど一連の和製ポピュラー物を提供。淡谷のり子は『雨のブルース』もヒットさせ「ブルースの女王」と呼ばれた。

その後、霧島昇・渡辺はま子が共演し、中国の抒情を見事に表現した『蘇州夜曲』、モダンの余韻を残す『一杯のコーヒーから』、高峰三枝子が歌った感傷的なブルース調の『湖畔の宿』(発売禁止)など、服部メロディーの黄金時代を迎えた。

だが、大東亞戦争中は不遇。戦後は大活躍した。古賀政男がマンドリン・ギターを基調にした洋楽調の流行歌から邦楽的技巧表現を重視した演歌のスタンスへと変化したのに対し、服部良一は最後まで音楽スタンスを変えることなくジャズのフィーリングやリズムを生かし、和製ブルースの創作など日本のポップスの創始者としての地位を確立した。

日本のポップス界隆盛の最大の功労者である。曲自体も歴史的価値は別にしても今日でも全く魅力を失っていないものが多く、その意味では海外のクラシックやスタンダード・ポップスの巨人と並べて語るべき存在ともいえる。日本レコード大賞の創設にも尽力した。

1993年1月30日、呼吸不全のため死去。享年85だった。死後、作曲家としては古賀政男に次いで2人目の国民栄誉賞が授与された。なお『青い山脈』を歌った藤山一郎も国民栄誉賞を受賞している。

2007年12月30日、第49回日本レコード大賞にて特別賞を受賞。

息子は作曲家の服部克久と俳優の服部良次がおり、孫に服部隆之(服部克久の長男)、バレエダンサーの服部有吉(服部良次の息子)がいる。妹は歌手で服部富子。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2012年01月31日

◆秋田戦争があった

渡部 亮次郎


年月日:慶応4年7月11日(1868年8月28日)―同年9月17日) 場所:山形県最上地方と秋田県のほぼ全域 結果:新政府軍(秋田藩)の勝利

新政府軍

薩摩藩・長州藩・佐賀藩・小倉藩・新庄藩・久保田藩・本荘藩・亀田藩・矢島藩など

旧幕府軍

九条道孝・大山格之助・沢為量(奥羽鎮撫総督)・佐竹義堯(久保田藩主)酒井忠篤(庄内藩主)・楢山佐渡(南部軍総大将)

10,327名(久保田、本荘、亀田、矢島、平沢) 約2000名 (庄内、松山、仙台、上山、山形)

戦死者461名(久保田藩士) 戦死者332名、負傷者412名(庄内藩士)

こんな事実、秋田県の小中学校では全然教えてくれなかった、先生も知らなかったのだろう『ウィキペディア(Wikipedia)』に全面的に依拠する。

秋田戦争(あきたせんそう)は、戊辰戦争時、奥羽越列藩同盟を離脱して新政府軍に参加した久保田藩(秋田藩)が薩摩藩や長州藩と共に、奥羽列藩同盟の庄内藩を中心とした旧幕府軍を相手に繰り広げた一連の戦いの総称である。秋田庄内戊辰戦争ともいう。

政府から敵対視され、奥羽鎮撫隊の討伐対象とされた。庄内軍は仙台軍の応援を得て数的に優勢であったばかりでなく、御用商人本間家の金策でヘンリー・スネルより武器を密輸していたため、装備は東北諸藩のなかで最も充実していた。

庄内藩には農兵2,031名、鶴岡商兵184名などがいた。また、本多庸一など他の藩よりの自主的加勢もあった。

盛岡藩 盛岡藩は盛岡城で奥羽列藩同盟と新政府のどちらに味方するべきか連日論議が続いていた。勤王攘夷思想のある有力者も謹慎中の家老東次郎など多数いたからである。

そこへ京都へ上洛していた家老楢山佐渡が帰国し、各国の情勢を伝えた。楢山は京都で会見した西郷隆盛らの態度に不信感を募らせ、幕府側に味方することに心を決めていた。部下の一人は楢山を諫めるために切腹をし、また一人は脱藩をして楢山に抗議をしたが、楢山には伝わらなかった。

盛岡藩は列藩同盟に味方し、久保田藩に攻め込むことを決定した。

ただ、盛岡藩の影響が強いとはいえ独立した藩である八戸藩は藩主南部信順が薩摩藩主島津重豪からの養子であることもあり勤王派で、久保田藩と密かに連絡を取り合い、秋田戦争には参加しなかった。

また、遠野南部家は藩の大評定で強硬に新政府側につくことを主張し、秋田戦争に参加していない。

久保田藩 国学の第一人者であった平田篤胤の生没地である久保田藩は、平田の影響から若手を中心として勤王思想を持っている者がもともと他藩よりも多かった。

鳥羽伏見の戦いが終了して間もない1月15日、新政府は奥羽諸藩に東征軍を派遣するから応援するように命じた。2月17日、京都の東征大総督府は奥羽鎮撫隊総督九条道孝に会津・庄内両藩の処置についての回答を与えた。

九条道孝は海路仙台に到着、直ちに仙台・米沢両藩に会津討伐を命じ、4月6日久保田藩に庄内討伐を命じた。この命令を受けて久保田藩は亀田藩、本荘藩、矢島藩、津軽藩、新庄藩などと共同し由利地方や新庄藩に兵を集結し、庄内藩を攻めようとした。

ただ、庄内藩が討伐対象とされる経緯に疑問を持ち、薩摩藩の私怨と考える兵士も多く、士気はふるわなかった。

由利地区に攻勢にでた連合軍に対し、庄内藩はこれをいち早く察知し閏4月20日に攻撃した。そのため、久保田連合軍は総崩れとなった。その後、仙台藩の白石同盟の呼びかけにより、この連合はなし崩し的に解散となった。

奥羽鎮撫隊の命令を受けて兵を集めていた仙台藩、米沢藩は、逆に会津支持を表明した。仙台藩が白石会議を呼びかけると、久保田藩からは家老の戸村十太夫が出席して、奥羽越列藩同盟に調印した。

しかし、これは二面作戦であり、仙台から総督の九条道孝と参謀の醍醐忠敬が秋田に入り、領内に薩摩藩・長州藩・佐賀藩などの官軍が入ってきた。

奥羽越列藩同盟の盟主の仙台藩は動きを「奇怪千萬なり」と批判して、九条の仙台への引き上げを申し入れた。それに対して久保田城内で、勤皇派と同盟派が激しく争った。

最終的に久保田藩主佐竹義堯の裁断で、久保田藩は同盟離脱を決定した。そして大山格之助の命令で、仙台藩の使節の志茂又左衛門を殺害し、久保田城下に首をさらした。このことで仙台藩は烈火のごとく怒り、同盟は分裂して、秋田戦争が始まった。

経過庄内戦争 [編集] 山道口の戦い [編集]7月6日庄内軍は、山道口(内陸)の一番大隊・二番大隊の約1000名と海堂口(海沿い)の三番大隊・四番大隊の約1000名の二手に分かれて久保田藩領を進撃した。

7月11日未明、院内口に布陣した薩摩藩・長州藩・佐賀藩・小倉藩が、新庄藩の裏切りによる手引きで、庄内藩征討を目標に進撃を開始した。秋田との国境の新庄領金山(現・最上郡金山町)付近に布陣していた仙台藩を主力とする、米沢藩、山形藩、上山藩、天童藩の諸藩連合は新政府軍の先制攻撃を受けて潰走した。新政府軍は奥羽越列藩同盟軍の陣地を次々に撃破して、7月12日には新庄城下に入る。

白河口の戦いの応援に向かっていた庄内藩二番大隊は、久保田藩と新政府軍と戦うために、7月11日早朝に楯岡を出発して夕方舟形に着き、宿陣した。

一番大隊は天童で、二番大隊の使者に会い、同盟軍が大敗して、新庄が裏切ったことを聞いた。そこで、一番隊も援軍のために北上した。7月11日に金山に宿営した新政府軍は庄内軍が舟形に着いたという情報を得て、7月12日午後4時頃新庄城に入城した。

7月13日、新庄藩兵に案内させて、小国川をはさんで庄内藩軍一番大隊と二番大隊と砲撃戦を行う。しかし、庄内藩の一番隊の背後よりの奇襲により形成が逆転する。庄内軍は新政府軍の本営の四ツ屋を占領し、兵糧を奪う。

7月14日には一番大隊と二番大隊が新庄攻略作戦を展開する。二番大隊が迂回して新庄城を占領する。新庄藩主戸沢正実はすでに逃亡して、開城してあった。

そして、8月1日に院内、8月5日に湯沢、8月11日に横手、8月13日に角間川(大仙市)、15日に大曲(大仙市)と、新政府軍は同盟軍に押される形になり、開戦一ヶ月で久保田藩領のうち雄勝・平鹿の二郡全部と仙北郡の南半が同盟軍の制圧下に入った。

8月13日に横手を脱出した新政府軍は、神宮寺に退却して本営を置いた。そして、小倉藩、佐賀藩、久保田藩、新庄藩を角間川に置いて同盟軍の北上を阻止しようとした。

13日早朝仙台藩を先鋒にして同盟軍が進撃を開始するが、まもなく、仙台藩は敗走をはじめ、後方にいた庄内藩の二番大隊が代わりに攻撃した。敵は横手川を渡り、大曲方面に脱出しようとし大混乱に陥った。そこを、二番大隊が追撃して大勝利を収めた

8月14日に二番大隊は田村新田を出発して、昼前に角間川村についた。一方新政府軍は沢為量副総督が本営を神宮寺において、新たな増援部隊が次々に到着して神宮寺・太平山を中心に雄物川対岸に巨大な防衛陣地を築いていた。18日より庄内軍は神宮寺攻略を始める。20日と22日に攻撃をするが失敗する。

8月23日に新政府軍は角館から刈和野にいたる山道口にわたって大反撃を開始する。一番大隊の主力は大曲にあったが、午後4時ころ、玉川を渡河して花館を襲撃した。

薩摩の正規軍が庄内軍を前線を突破して大曲に進撃した。庄内藩は決死隊を編成して、薩摩軍の陣地を夜襲して、多数の薩摩軍兵士を捕らえる。

8月25日に、庄内二番大隊の酒井吉之丞と一番大隊参謀長坂右近助が相談して、角館攻略を決定した。8月26日に、午後2時頃庄内二番大隊は南楯岡を発して、角間川の渡しを越えて、翌日の午前2時過ぎに、大曲に入った。

庄内一番大隊は出発して四ツ屋の浅瀬に向かったが夜が明け、新政府軍の反撃を受けたので渡河を中止した。川端より引き返し、次の戦略目標の角館を攻めることに決して、横堀に宿営した。

28日に、国見で仙台兵と落ち合った。仙台兵を先鋒にして、庄内藩と松山藩で攻撃を開始した。新政府軍の強固な土塁陣地が多数あり、対岸高台の陣地や、大威徳山の砲台から激しく旧幕府軍を砲撃した。

また、角館に迫る勢いだった盛岡藩と挟撃して角館を攻略する予定だったが、盛岡藩は8月26日頃すでに敗退し、9月6日には自国に引き返していた。

新政府軍は、庄内藩と平戸藩が応援に駆けつけた。攻撃三日目に、冷たい風雨が吹き荒れ、玉川が増水して渡河が不可能。盛岡藩も現れなかったので、角館攻略を断念した。

海道口の戦い  別の海道口を進撃した三番大隊と四番大隊は、由利郡で秋田遊撃隊・有志の二隊・亀田藩・本荘藩・矢島藩に佐賀藩の砲撃隊が加わり、鳥海山中腹の三崎峠を踏破して、女鹿(山形県遊佐町)の陣地を急襲した。庄内軍のイギリス製のライフル銃200挺と弾薬を鹵獲して、村を焼き払い、青銅製のカノン砲などを鹵獲した。

しかし、吹浦から出陣した庄内軍三番大隊と四番大隊に包囲されて塩越(にかほ市象潟町)に退却し、7月28日に矢島・8月1日に塩越・8月2日に平沢が奪われた。

8月5日に上条(本荘市)で弘前藩、本荘藩、亀田藩、福岡兵が庄内四番大隊と4時間に及ぶ銃撃戦を展開した。庄内軍の援軍により、新政府軍は退却した。

そこで、奥羽鎮撫府参謀の前山清一郎が久保田軍と福岡軍と共に援軍に来て、庄内軍を攻撃した。久保田軍は突撃刀槍隊で切り込みを敢行した。しかし、最終的には新政府軍が退却して、8月6日に本荘城が奪われ、亀田藩は庄内藩に降伏した。

8月13日から14日には庄内軍三・四番隊が亀田城下に進駐し、8月17日に久保田藩は長浜(秋田市下浜長浜)付近まで追い込まれた。

刈和野・椿台方面の戦い  8月27日に二番大隊は大曲に転陣して、角館の戦いに出かけた一番大隊の留守を預かった。9月2日に一番大隊が大曲に帰還して、角館の戦いの戦況を聞いて、軍議を開いて、作戦を練り直した。

今度は、二番大隊中心になり、海道口の四番大隊と協力して、雄物川流域の福部羅付近を強行渡河する作戦になった。四番大隊は秋田城を目指して北上し、二番大隊は神宮寺の鎮撫軍の本営を攻撃し、一番大隊は大曲で神宮寺、角館の鎮撫軍をひきつけるという作戦であった。

9月7日午前2時に、二番大隊は大曲を出発して行軍して、9月8日に雄物川を渡河した。すでに、四番大隊が渡河して久保田兵と川口を守備していた福岡兵と交戦した。新政府軍は敗走して、庄内軍は北東に転進した。

9月に入ると、内陸を進んだ一・二大隊と由利から高尾山を越えて秋田に入った四番隊が連携した。9月9日には椿台(秋田市雄和)の目前に達した。

庄内軍が進撃の急報に接した鎮撫軍は、秋田藩の支藩秋田新田藩の陣屋がある椿台とその付近丘陵に兵力を集中して強固な兵力を集中した。ここは、久保田城まで16キロの地点である。

9月10日より、庄内軍は三手に分かれて椿台に総攻撃に入った。糠塚山を守備していた佐土原兵、秋田兵、本庄兵、福岡兵と交戦して、糠塚山を占領して安養寺から、椿台・椿川方面に攻め込んだ。

鎮撫軍の守備は堅く、9月11日より、鎮撫軍が反撃を開始して、激戦の後も決着がつかず、9月12日に庄内三番大隊が長浜に来襲して激戦が繰り広げられた。新政府軍の善戦により、庄内軍が雄物川を渡り敗走する。

8月28日に米沢藩が降伏すると、9月12日に米沢藩の支持により上山藩も降伏に決定し、9月13日に仙北の兵も上山に帰還することになった。

9月9日ごろから旧幕府軍の諸隊が仙台に集結して、城内では連日激論が交わされていた。9月12日に仙台に到着した米沢藩の降伏勧告に使者に説得されて、9月13日には藩論は恭順になった。

奥羽越列藩同盟軍は総崩れになった。旧幕艦隊を率いた榎本武揚と新撰組副長の土方歳三は、仙台藩に見切りを付けて函館に渡った。この状況下にあって、9月14日に庄内軍は軍議をひらいて、庄内に撤退し、本土防衛に徹することを決めた。

9月15日から、刈和野を攻撃して奪回戦を行った。一番隊の葉緒後からの奇襲により、16日午後2時ころ鎮撫軍は潰走を始めた。

一番隊は引き上げを助けるために、撤退戦を行った。盛り返した西軍の攻勢をかわしながら引き返した。9月17日に鶴岡自城では降伏の藩議が決定された。23日に庄内軍の全軍の帰還完了を確認した。

庄内藩の降伏 ]西郷隆盛・黒田清隆が米沢から鶴岡に入り、9月27日に鶴岡城内で降伏調印と城内・武器の点検を行った。庄内藩は降伏の条件として、賠償金70万両の献金を命ぜられた。黒田よるこの寛大な処置は西郷の発案によるとされ、庄内は西郷に感謝し交流するようになった。

南部・秋田戦線 扇田神明社の戦い  盛岡藩は将兵を鹿角地区に集め、戦闘準備を行った。8月9日(書面は8月8日)に戦書を久保田藩側に提出、白石同盟の脱退を名分に戦闘を始めることを告げた。戦闘は十二所から始まり、十二所の兵は潰走し後退した。

盛岡藩兵は11日大館南方の扇田村に進駐、家老楢山佐渡も隊列を組み進駐した。扇田村の住民は盛岡藩兵を酒肴で歓待した。ところがこれは罠で、酒肴で酔いつぶれた所を、十二所の兵が襲おうとした計略であった。

ところが、なぜか楢山佐渡ら将兵の主力は帰国しており、扇田神明社前に小数の盛岡藩の宿陣が駐屯しているだけであった。12日十二所勢は午前4時に盛岡藩兵を攻撃し、双方に死傷者が続出する。

8月13日、盛岡藩は一時将兵を久保田領内から引き上げた。小康状態に陥ったので、大館城城代の佐竹大和は将兵の再配置を行う。

11日には、弘前藩の対馬寛右衛門の銃士隊も庄内との戦いを中止し、大館に集合していた。しかし、銃は旧式銃がほとんどで新式のゲベロ銃がわずか5挺、兵力の質も量も盛岡側と比較して貧弱なのは明らかであった。

8月14日には弘前藩からの鉄砲100挺、弾薬1万発の陣中見舞いが届いた。

楢山佐渡の再攻撃は20日に始まった。楢山佐渡自ら指揮をして、日没までに一気に扇田村まで攻め寄せた。12日朝の攻撃は、扇田村住民の手引きがあると断定し、盛岡藩軍は扇田村に火をつけ400戸のうちわずか6戸を残して扇田村は灰燼となった。

このとき、女軍夫の山城ミヨが流れ弾に当たり死亡している。その後、山城は靖国神社に祀られた最初の女性となった。扇田村の敗戦を受けて、久保田側は大館城近辺に将兵を集め部隊の再編を行い、大館城を防衛しようとした。

大館城攻城戦  22日、盛岡藩兵は朝5時大館城を総攻撃した。激戦の後、久保田藩兵は次第に総崩れとなった。城代の佐竹大和は籠城する覚悟であったが、部下に諫められ城に火をつけ午前8時に脱出することとなった。大館城の門は午前9時に破られ、盛岡藩兵が突入し占領することになる。

午後1時、盛岡藩は大館と扇田の諸役をできるだけ集め「3年間の年貢を免ずる」と宣言した。

きみまち阪周辺の戦い  久保田藩側は険しい地形で難所として有名だったきみまち阪周辺を防衛地点と決め後退、本陣を荷上場村に置いた。一方盛岡藩側は23日は休兵とし、24日から一部の部隊を前進し始めた。25日盛岡藩本隊は綴子村に到着、さらに本道からきみまち阪方面と、間道の大沢村に向けて進撃した。

25日早朝、佐賀藩の総隊長である田村乾太左衛門が早朝カゴで荷上場村に向け急行した。26日には乾の部下の生駒小十郎が前線に到着、休む間もなく前線を視察し、本隊到着までの戦闘準備を行う。正午には5名の佐賀兵が到着し、大沢村での戦闘に参加した。

28日盛岡藩側にも佐賀兵の救援の噂が伝わり、きみまち阪の要害を抜こうと、本道と間道両方からの攻撃を行った。

本道からの攻撃は、険しい地形を利用し防衛した久保田藩兵により失敗した。本道の村々は撤退する盛岡藩兵によって火をつけられた。また、間道から大沢村に至った部隊は大沢村に火をつけ占領するものの、大沢村から山道を越え撤退した。

同夜、佐賀兵の本隊である遊兵隊300名が最新の銃砲を持って荷上場村に到着した。

29日は久保田藩側の総攻撃の日となった。早朝はきびしい寒さとなり、また数歩離れただけでも見えなくなるような濃霧の日であった。本道から攻めた久保田藩側は前山村の盛岡藩兵を攻撃、盛岡藩兵はほとんど反撃もできず砲弾を残したまま前山村から潰走し、坊沢村で防衛することになった。

坊沢村では激しい戦いになったが、背後から大沢村から間道を越してきた佐竹大和率いる久保田藩側の別部隊と挟み撃ちになり、盛岡藩側は坊沢村に火をつけ総撤退した。

岩瀬会戦と大館戦  30日と9月1日は両陣とも攻撃準備を行っている。2日午前6時に佐賀の大砲の音を合図に、岩瀬村において久保田藩側の総攻撃が始まった。

盛岡藩側も待ちかまえており、この岩瀬会戦が南部・秋田戦線の最大の戦闘となった。この戦闘では佐賀兵も一時撤退を指揮官に訴えるなど苦戦し。

また、盛岡側も楢山佐渡が敗兵を厳しく叱責するなど敢闘精神を見せたが、正午頃には大勢が決まり、盛岡藩兵は撤退した。このとき、米代川対岸にいた盛岡藩兵は久保田藩側の急迫に退路を失い、渡河する途中で多くの犠牲者を出している。

本隊は2日から5日には大館近郊での戦いが続いた。双方被害者を出しながら一進一退の攻防が続いた。大館南部の山道を辿った久保田藩の部隊は板沢村の盛岡藩の部隊を急襲。

盛岡藩側は前線から離れている場所の昼食時という不意を狙われ、幹部級の戦死者4名をだし、多量の軍資金や軍需品を置き去りにして敗走した。

この板沢での戦いでは、盛岡藩の熊谷助右衛門(直興、月郷とも)という武士が無抵抗で殺されている。不審に思った者が懐中を調べてみると、彼は『時勢論』という文章を懐中に忍ばせていた。熊谷は勤王派で上司に時の時勢を説いたが容れられず自分の考えを文章に表して死んでいった。

その後、この部隊は扇田村を奪回して、扇田村に陣を置いた。

6日朝6時に大館への総攻撃を計画していた久保田藩側だったが、盛岡藩側は扇田村が占領され退路を断たれる危険性をおそれたのか、5日夜に既に大館を総撤退しており戦闘はなかった。7日久保田藩兵側は藩境の町である十二所を回復した。

その後、十二所地区や雪沢地区で、終戦まで一進一退の攻防が続いた。盛岡藩側も藩境を突破されないように強硬に抵抗を行った。

盛岡藩の降伏  22日盛岡藩は降伏嘆願書を正使に持たせ久保田藩側に派遣した。25日に沢尻村で正式に盛岡藩の降伏が締結され、これでこの地区の戦闘は終結した。

戦後処理  久保田藩では藩士の3分の2が兵火にかかり、人家の4割が焼失した。奥羽鎮撫使に随従した15藩の約1万の将兵、新庄藩・本荘藩・矢島藩から逃亡してきた藩主・藩士の家族のまかないをすべて久保田藩が負担することになり、推定総額675,000両の戦費を消費した。

明治2年(1869年)に6月に賞典として、新政府から久保田藩へ2万石が下賜された。

後世への影響 2000年(平成12年)、秋田県角館町(現仙北市)で開かれた「戊辰戦争130年in角館」というイベントの各地の市長による座談会で、当時の宮城県白石市長・川井貞一が、奥羽越列藩同盟が負けたのは秋田の裏切りのせいであるという批判をした。

渡部註:道州制といっても「東北州」の運営は多難を究めそうなきがする。
それにしても、買ったから良かったが、藩主の決断がおそすぎた。そのために周りの各県から恨みをかったにしては、新政府薩長土肥からの信頼が浅く、秋田からは大将が出なかった。


2012年01月27日

◆陰では正恩氏を「ガキ」と

渡部 亮次郎


北朝鮮うわべの哀悼…表では(少なくとも)泣くふりをしないと連行されるから、皆泣いているが、本当は泣いていない者もいる」と携帯電話で伝えた、と読売のソウル特派員たちが、脱北者を通じてきた朝鮮国民の本音を探ってきた。「携帯電話」が魔法の道具である。

日本のテレビは泣き真似を「ニュース」として伝え、視聴者はそれを「真実」として受け取る。こうしてギャップがうまれ、政府が頓珍漢なことをやる。その典型が従軍慰安婦問題である。

<【ソウル=中川孝之、前田泰広】金正日(キムジョンイル)総書記の死去発表後の北朝鮮内部の様子が20日、ソウルの脱北者らに伝えられた情報で明らかになってきた。

厳冬の中、食糧難にあえぐ住民の様子について、「心底悲しんだ金日成(キムイルソン)主席逝去時と異なる雰囲気だ」との指摘が出ている。金日成主席よりカリスマ性において劣る金総書記と比べても、実績や住民への浸透度が乏しい金正恩(キムジョンウン)氏の新体制は今後、人心掌握で多くの困難に直面すると予想される。

韓国の脱北者団体「自由北韓運動連合」の朴相学(パクサンハク)代表は読売新聞の取材に、北部・両江道の住民と19日、電話で話したと明らかにした。

この住民は「19日は朝10時頃から、総書記死去のうわさが広まっていた。公開処刑や餓死は金総書記の時代になってひどくなった。正直言って、やっと死んでくれたと思う。国営テレビで悲しむ住民らが映っているが、あれは大半が演技だ」と語ったという。住民らが陰で金正恩氏を「ガキ」と呼んでいることも明かした。

他の韓国の脱北者団体の関係者によると、国境地帯に住む30代の露天商は「(外出禁止令が)恐ろしかったが、19日も午後に1時間ほど隠れて食糧を売った。表では(少なくとも)泣くふりをしないと連行されるから、皆泣いているが、本当は泣いていない者もいる」と携帯電話で伝えた。

この関係者は「建国の父である金日成主席が死去した時は、みな地べたに座り込んで慟哭(どうこく)したものだ。庶民の心に以前では考えられない変化が起きたようだ」と話す。

脱北者らの話では、北朝鮮の住民らは19日午前、理由を知らされないまま地区の集会所や学校などに集められ、金総書記死去を伝える「特別放送」を聞いた。> 読売新聞 12月20日(火)14時32分配信


2012年01月26日

◆友人を初めて肺癌で喪う

渡部 亮次郎


既に後期高齢者だから、これまで喪った友人知人、近親者は多数に上るが、肺癌では進藤精一さん(83)が初めてである。通夜が2011年12月10日、告別式が11日、浅草の東本願寺で営まれた。

肺癌(はいがん、Lung cancer)とは肺に発生する、上皮細胞由来の悪性腫瘍。90%以上が気管支原性癌 (bronchogenic carcinoma) 、つまり気管・気管支、細気管支あるいは末梢肺由来の癌である。

WHOの試算では、肺癌による死亡者数は全がん死の17%を占め最も多く、世界中で年間130万人ほどがこの疾患で死亡している。

日本では2005年の統計で、全がん死の19%を占め、男性では全がん死の中で最も多く、女性では大腸癌(結腸がんおよび直腸がん)・胃癌に次いで3番目を占めている。

肺癌は喫煙歴がある50才代のグループにもっとも多く見られる。西側諸国では、肺癌は癌患者数の第2位に位置し、男性でも女性でもがん死のトップである。

2001年にはおおよそ169,500名の新規肺癌患者が発見され、その内訳は男性が 90,700名、女性が 78,000名である。西側諸国では男性の肺癌死亡率は低下傾向であるが、女性の喫煙者グループの増大とともに肺癌死も増加しているそうだ。

2012年01月22日

◆「味の素」発明は104年前

渡部 亮次郎


「味の素」に特許権が降りたのは104年前だった。経済産業省特許庁は発明した東大教授池田菊苗(いけだ きくなえ)を日本の十大発明家の1人として顕彰している。

また、食品添加物として広く普及し日本のみならず世界の人々の食生活を豊かにした、と言っているが、昭和20年代の東北や北海道には味の素は無かった。昆布があり過ぎたからでもあるまい。

発明した池田菊苗は、元治元年(1864)京都に生まれた。明治22年東京帝国大学理科大学化学科を卒業し、明治32年から2年間、ドイツに留学した。

帰国後、明治34年に東京帝国大学教授に就任した。彼は、専門の物理化学の研究を行うとともに日本人の生活の改善と社会の進歩に直結するような応用研究に関心を持ち様々の研究を行ったが、この中に昆布の「うまみ」の研究があった。

彼は、昆布のうまみの成分を解明すれば調味料として工業的に生産できるのではないかと考え、研究を続けた結果、うまみの成分が「グルタミン酸ソーダ」であることを突き止めた。

これを主要成分とする調味料の製造方法を発明し、特許権を得た(特許第14805号、明治41(1908)年7月25日。我が母の生まれし年なり。今から104年前)。

「グルタミン酸ソーダ」は、彼の働きかけによって商品化され、調味料として広く売り出された。このグルタミン酸ソーダは、品質が安定しており食物に独特のうまみを与えるため、食品添加物として広く普及し日本人の食生活を豊かにした。

これが今日の「味の素」である。工業化をどこにさせるか。熟慮の結果、池田が依頼した先は鈴木三郎助。味の素株式会社の創設者である。

また、海外にも調味料として広く受け入れられた。彼は、大正12年に東京帝国大学を退官した後もグルタミン酸ソーダ製造技術の完成に熱意を注ぎ、主として甜菜糖の廃液を原料としたグルタミン酸ソーダの製造法の研究に従事した。昭和11年(1936)没。筆者の生まれた年だ。

ところで「味の素」株式会社の事である。

<味の素[株] あじのもと 〈味の素〉で知られる総合食品化学会社。2代目鈴木三郎助とその家族によって1888年創業された鈴木製薬所が前身。

神奈川県葉山で,ヨード製造を家内工業で行っていたが,化学薬品にも手を広げ1907年合資会社鈴木製薬所に改組(1912年鈴木商店)。

東大教授池田菊苗が08年に取得したグルタミン酸調味料製造法の特許の工業化を依頼された鈴木は,新化学調味料の製造に取り組み,同年11月〈味の素〉の名で売り出した。

しかし当初はまったく売れず,軌道に乗るまでに10年近い年月を要した。大正の末からは順調に伸び,海外へも輸出されるようになった。

35年宝製油(株)を設立(1944合併),味の素の原料となるダイズ油の製造を開始。第2次大戦後,46年2月社名を現社名に変更,50年に原料・製品の統制撤廃後は,急速に生産水準を回復,52年には戦前水準に戻った。

その後,グルタミン酸ソーダの製法転換(植物タンパク分解法から発酵法へ)に協和鍋酵工業に続き成功(1959製造開始)。これに伴い油脂関連部門を拡大,この部門でも大手になった。

また,多角化を進め,総合食品化学会社への脱皮に成功した。とくに加工食品部門の拡大が著しく,61年にスープ,63年コーンフレーク,68年マヨネーズ,70年マーガリン,調理済み冷凍食品と,相次いで新分野に進出した。

73年にはゼネラル・フーズ社と提携し味の素ゼネラルフーヅを設立,インスタントコーヒー等にも進出。最近では,飲料・乳製品部門,加工食品部門が調味料部門を上回る。

さらに海外進出の面では,戦後も1958年にフィリピンで味の素の生産を開始したのを最初に,欧米,東南アジアを中心に進出しており,海外売上高比率は連結ベースで2割に達する。

また近年は発酵技術を生かして医薬品分野への進出に力を入れている。>
世界大百科事典  2008・07・27


2012年01月21日

◆糖尿病だった明治天皇

渡部 亮次郎


わが国を近代国家として確立した明治天皇は、脚気は克服したが糖尿病についてはまだインスリンも発明されていなかったため、医師団もなすすべをしらず、明治45(1912)年7月30日、尿毒症を併発し61歳(満59歳)で崩御した。

大喪の日には、陸軍大将・乃木希典夫妻を初め、多くの人が殉死した。

同年(大正元)年9月13日、東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)に於いて大喪の礼が執り行なわれた。大葬終了後、明治天皇の柩は霊柩列車に乗せられ、東海道本線経由で京都南郊の伏見桃山陵に運ばれ、9月14日に埋葬された。

なお『聖徳記念絵画館』は、明治天皇大喪の為にしつらえた葬場殿の跡地に建てられたものである。

皇后陛下にお子はなかった。5人の側室に大正天皇をはじめ13人のお子ができた。

明治天皇は明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴として、絶対君主として国民から畏敬された。日常生活は質素を旨とし、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。

乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。

一方で普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官達を自分が考えたあだ名で呼んでいたという。

若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。

元田永孚の覚書(「古稀之記」)によると、天皇は伊藤博文の欠点を「西洋好き」と評していた。

当時「江戸患い」と呼ばれていたビタミンB1欠乏症(脚気)に皇后とともに罹られたが、英国留学帰りの海軍軍艦医総監になる高木兼寛の意見を容れて食事療法で全快した。

このため、高木は4度も陪食を賜ったが「脚気黴菌説」を譲らぬ陸軍医総監森 林太郎(森鴎外)は1度も招かれなかった。

明治天皇はまた今で言う2型糖尿病も患っておられた。しかし国内では糖尿病の研究がさっぱり進んでいないことを残念がり 1911(明治44)年2月11日、『勅語』によって、皇室よりの下付金150万円と朝野の寄付金を合わせて済生会が創設される。

天皇の意向により「恩賜」と「財団」は1行に書かずに、済生会よりも小さい文字で2行に組み文字にすることとなっている。

同年5月30日、「恩賜財團済生會」設立認可。

組織の運営は内務省が管理し、具体的な事業計画は地方自治体に委託す
る形式をとった。

1952年、社会福祉法人として認可。 現在は、厚生労働省が所轄している。

これでできたのが東京・港区赤羽橋にある済世会中央病院で、わが国糖尿病研究の中心施設である。

糖尿病の特効薬「インスリン」が発見されて一般化するのは1921(大正10)年。つまり明治天皇が糖尿病から来る腎不全による尿毒症で崩御してから10年後だった。

インスリンについては5人が、ノーベル賞を受賞している。インスリンを発見したバンティングとマクラウドが1923年受賞。その後も、1958年にタンパク質の中で世界で初めてインスリンのアミノ酸構造を解明したフレデリック・サンガー (Frederick Sanger)。

1964年にドロシー・ホジキン (Dorothy Crowfoot Hodgkin)が、1977年にはロサリン・ヤロー(Rosalyn Sussman Yalow)がラジオイムノアッセイをインスリンで開発した事で、それぞれノーベル賞を受賞している。

1921(大正10)年にインスリンの分離に成功。1型糖尿病における薬物療法として、現在のところ唯一の治療法である。インスリンは蛋白質であるため、消化管内で速やかに分解されることから経口投与不可能である。そのため皮下注射によって投与するしかない。

ところで明治天皇は教育に関しては儒学を基本にすべしとする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のような西洋的な教育論者が任命された事には不快感を抱いていた。

特に明治17(1884)年4月下旬に森が文部省の顧問である御用掛に任命される事を知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を一切拒絶し、6月25日まで2ヶ月近くも公務を放棄して引籠もって承認を遅らせている。

こうした事態を憂慮した伊藤は初代内閣総理大臣就任とともに引き続き初代宮内大臣を兼ねて天皇の意向を内閣に伝えることで天皇の内閣への不信感を和らげ、伊藤の目指す立憲国家建設への理解を求めた。

その結果、明治19(1886)年6月23日に宮中で皇后以下の婦人が洋装することを許可し、9月7日には天皇と内閣の間で「機務六条」という契約を交わして天皇は内閣の要請がない限り閣議に出席しないことなどを約束(「明治天皇紀」)して天皇が親政の可能性を自ら放棄したのである。

奈良時代に聖武天皇が肉食の禁を出して以来、皇室ではタブーとされた牛肉と牛乳の飲食を明治5年、自らすすんでし、新しい食生活のあり方を国民に示した。

明治天皇が西洋風に断髪した事で、国民も同様にする者が増えたという。

一方で和歌をよくし、残すべき文化は残し、取り入れるべき文化は取り入れるという態度を示した。

無類の刀剣愛好家としても知られている。明治14(1881)年の東北巡幸では、山形県米沢市の旧藩主、上杉家に立ち寄り休憩したが、上杉謙信以来の名刀の数々の閲覧に夢中になるあまり、翌日の予定を取り止めてしまった(当時としても公式日程のキャンセルは前代未聞であった)。

以後、旧大名家による刀剣の献上が相次ぎ、「水龍剣」、「小竜景光」といった名剣を常に携えていた。これらは後に東京国立博物館に納められ、結果として、重要刀剣の散逸が防がれることとなった。

写真嫌いは有名である。現在最も有名なエドアルド・キヨッソーネによる肖像画は写真嫌いの明治天皇の壮年時の「御真影」がどうしても必要となり、苦心の末に作成されたものである。

ただ、最晩年の明治44(1911)年、福岡県下広川村において軍事演習閲兵中の姿を遠くから隠し撮りした写真が残っており、これが明治天皇が最後に撮影された姿と言われている。

戊辰戦争で新政府と戦った東北地方を、強く憎んでいたといわれる。

戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の盟主に就任した輪王寺宮(北白川宮能久親王)を、台湾へ送り込んだ。北白川宮には現地での暗殺説が存在する。

明治天皇の内親王(天皇の娘)の長男である小林隆利(キリスト教の牧師)は母から聞いた話として、明治天皇が、「私が天皇の権限で日本という国を調べた結果、日本は神道である。しかし、神道は本来ユダヤ教である」と語ったと述べている。再掲  2010・9・25

◆糖尿闘病体験と終末期

渡部 亮次郎


48歳のとき、2型糖尿病を宣告された。如何なる治療法もなく放置すれば健常者より、10年は確実に早く死ぬという宣告。75歳で今生きているのはインシュリン注射のお蔭。

結論から言うと、母親の血族に糖尿病患者が多く、若くして卒中で死んだ伯父、その長女は失明の後死亡。その弟は存命中なるも闘病中。

母の姉の子供たちだから従姉兄だ。要するに糖尿病のDNAが私たち兄弟に遺伝。それが中年になって肥満と暴飲暴食を切っ掛けとして発症したのだ。これを2型という。

4つ歳の離れている兄は郷里秋田の地元紙の記者時代、30代で既に発症していた。

また、私が秘書官として外務大臣や厚生大臣時代に仕えた園田直(すなお)さんも30代後半、肥満がきっかけの2型患者。全く治療しないまま70歳、腎不全で死亡した。

その頃の私はまだ発症していないし、自分が糖尿病にかかりやすいDNAを所持しているという認識もない。大臣の腎機能が低下して、鍼師が「大臣のは糖尿病から来た腎虚ですからねえ」と言う科白を聞き流していた。

大臣は辞任後、腎臓が悪くなると、視力が急速に低下。腎臓が機能しなくなったので人工透析を始めた。69歳。「人工透析患者は数年しか生きない」と厚生省で役人から聞いていたから、あろうことか透析開始を遅らせた。その分、腎臓は悪くなっていた。

厚生大臣は初入閣(佐藤栄作内閣)の時と、鈴木善幸内閣の時と2回勤めたが、2度目の時、かねて糖尿病患者団体から陳情されていた患者のインシュリン自己注射を許可した。80年ぶりの快挙だった。しかし、自らはその恩恵に全く浴することなく盲目で死亡した。

私が発症したのは園田さんの死後まもなくであった。食後、口の中が粘つくので検査したら「立派な糖尿病」発症直後だった。「伝染したのかな」と思ったものだ。

私の治療は、当面、食事制限と散歩15分と決った。東京・港区赤羽橋の済生会中央病院の「糖尿外来」に月に1度通って経過を見るというものだった。しかし私より若い医者は「もっと血糖値を下げないと、どうなっても私は知りませんよ」と脅すばかり。

済生会は明治天皇の御下賜金でできた糖尿病の病院である。明治天皇は糖尿病や脚気を患われた。脚気は麦や豚肉を食べて治ったが糖尿病は日本では全く研究が進んでいなかった。天皇の直接の死因は腎不全だったが、その原因は糖尿病だった。

そこでお隠れになった後、御下賜金により作られて病院が済生会中央病院。

患者だって血糖値を下げようと懸命なのに、下がらない。何が欠陥なんだろうと相談に乗ってくれればいいのに「わたしゃ知らないよ」と言う態度。喧嘩して通院をやめた。50歳だった。

事情があって離婚した。それまで住んでいた国立から千葉に近い江戸川区葛西の賃貸アパートに移り住んだ。新しい妻には病気の事は話し、散歩も継続したが通院は再開しなかった。

報いはすぐ来た。ある朝起きたら周りが真っ赤だ。眼底の動脈が破れて出血したのだ。「眼底出血」である。厚生省時代の伝手を頼って港区高輪台にある船員保険病院(現在はせんぽ東京高輪病院)にかけつけた。

眼底でした出血は出血箇所以外に吸収箇所はない。したがって赤いサングラスを掛けた状態はすぐには解決しない、との御託宣。1週間ぐらいして出血はとまった。

眼科医はそこで、出血した毛細管の先端をレーザー光線で焼いて閉じるという。任せた。何百回とフラッシュを焚かれたような状態でヤキを受けた。あれから24年、4ヶ月ごとに検査してもらっているが、毎度「異常なし」である。

序に手術を遅らせていた白内症の手術も受けた。簡単だった。それでも大事をとって1週間入院した。世の中が明るくなった。余談だが義姉にもここを勧めて手術を受けた。「家の中がこんなに汚れているとは知らなかった」といった。

以後、治療はすべてをこの病院で受けることに決めた。膵臓に対しいてインシュリンを出すように催促する薬を10年ぐらい呑み続けたが、遂に破綻の日がきた。

中国へ渡り、上海で水道水を飲んだため酷い下痢を起こし、止まらなくなった。それでも膵臓への薬は呑んでいた為、血糖値が急速に下がり、失神して救急車で入院。

あわてて帰国したが、成田到着の直後に3度目の失神。正常値が100の血糖値は25に下がっていた。倒れた直後、隣席にいた友人が捻じ込んでくれた飴でたすかったのだった。あれを放置されたら確実に死んでいたはず。

(その友人も糖尿病。全くほったらかしをしたため2010年、60を待たずに脳梗塞で死んだ。インシュリンを注射していれば死ななかったが、言うことを聴かなかった)。

10年ぐらい前になる。以後、血糖値の管理が簡単だからとインシュリンの注射に切り替えて今日に至っている。初めは朝夕と2回の注射だったが、現在は朝の1回だけ。

園田さんの決断のお陰で、20日分のインシュリンがボールペン型の注射器に納まっている。針だけを毎回交換する。0・2mmと世界一細い針だから痛みは殆どない。注射が好きというひとはいないだろうが、痛くないのだから逃げる必要もない。

園田さんは武道の達人だったが、痛みには弱かった。想像以上に痛がりだった。だからインシュリン注射から逃げ回った。糖尿病の合併症として田中角栄は脳梗塞、大平正芳は心筋梗塞、田中六助は盲目などで死んだ。園田は腎不全。

糖尿病はそのものでは死なないが、伴って起きる合併症で死ぬのだ。それを防ぐのが注射によるインシュリンの補給。それでも万全ではない。血管や心臓が特別弱るらしく、血圧が高くなる。これは降圧剤の服用で抑えるが、血管の詰まりを抑える手段はなかった。

1996年にアメリカで血管に詰まった血栓を溶かす薬が発明された「TPA」。日本でも2006年から使用許可が厚生労働省から出た。長嶋さんは3時間を過ぎていたため、これを使えず、後遺症が残った。


脳梗塞や心筋梗塞には極めて有効だが、脳梗塞の場合は発症後、3時間以内の注射が必要。3時間を超すと脳が萎縮して回復不能となる。長嶋さんがそれだ。その後の主治医が私と共通。再掲 2011・5・18

(明治天皇と糖尿病をYAHOOで検索した結果、この文章が出てきておどろいた)