2017年01月02日

◆インスリン注射不要の夢

渡部 亮次郎



2006年8月、京大の山中伸也教授が、人の皮膚から採った細胞に4つの遺伝
子を入れて培養したら、万能細胞ができた。iPS細胞=人工多能性幹細胞
と言うそうだ。

万能細胞から、神経細胞、心臓細胞、臓器細胞、血液細胞、軟骨などが作
られ糖尿病や心臓病に使えるとされている。

自分の皮膚から採った細胞だから、自分の体に入れても拒否反応がない。
ノーベル賞だという声が上がって本当に受賞した。細胞や臓器の再生へ、
万能細胞の研究競争が激化するだろう。

山中教授は、何年かしたら、人工細胞ができると言う。激しい競争がある
からだ。

しかし、4つの遺伝子は、癌細胞から採っているので、人に応用すると思
わぬ事故になる可能性があると言う。

山中氏は、神戸大→大阪市立大→カリフォルニア大と研究を続けて、世界初
の万能細胞を作った。

人工細胞は、糖尿病、心筋梗塞(しんきんこうそく)、脊髄損傷(せきず
いそんしょう)などの治療に使える。
http://www2.ocn.ne.jp/~norikazu/Epageh3.htm

このうち糖尿病治療への展望について専門家に聞いて見ると、うまくすれ
ばインスリン注射が要らなくなる可能性があるという明るい見通しがある
らしい。

糖尿病は、食べたものを血肉にするホルモン「インスリン」が膵臓から十
分に出てこないため、溢れた栄養(ブドウ糖)が血管を内部から攻撃した
末に小便に混じって出る病気である。小便が甘くなるから糖尿病。

糖尿病それ自体ではなかなか死なないが、内部から血管を糖分で攻撃され
ると、脳梗塞、心筋梗塞、盲目、足の切断、癌多発といった
「合併症」を招いて、寿命より10年は早く死ぬ。

栃木県にある自治医科大学内分泌代謝科の石橋俊教授によると、駄目に
なった膵臓や膵頭を何らかの方法で丈夫なものを移植すれば問題は一挙に
解決し、インスリン注射も要らなくなる。

しかし日本ではドナーが不足し、膵頭を調整する試薬の供給がストップし
たりして、こうした治療を受ける患者は2桁どまりだ。

そこで注目されたのが、インスリン「製造工場」ともいえる膵ベーター細
胞の再生治療だったがヒトの受精卵の仕様に付随する倫理的制約や拒否反
応が壁になって進んでいなかった。

そこへ登場したのが山中教授の万能細胞。ヒトES細胞から膵ベーター細胞
を作る研究は壁に突き当たったが、山中教授のiPS細胞なら、自分の皮膚
から出来た物だから拒否反応も倫理的な問題も起きない。

問題は今回できた4つの遺伝子が、がん細胞からとっているので、人に応
用すると思わぬ事故になる可能性があることだ。石橋教授は「この問題が
解消されれば、実用化は意外に早いかも知れない」と言っている。

資料:(社)日本糖尿病協会関東甲信越地方連絡協議会機関紙「糖友
ニュース」91号(2008・7・1)  執筆 08・06・28


2017年01月01日

◆星野哲郎えん歌4000曲

渡部 亮次郎



戦後、演歌界の大御所作詞家は石本美由紀だが、それに優るともおとらな
い作詞家は星野哲郎だろう。二人ともこの世の人では既にない。

星野は、石本に遅れること1年、2010年11月15日,85で死んだ。若い頃、高
等商船を出て船員になったものの、腎臓結核で断念、腎臓の片方を摘出す
るなどしたが、幸運にも長生きだった。

晩年の美空ひばりの「みだれ髪」、北島三郎の「なみだ船」を作ったかとお
もうと「黄色いサクランボ」や渥美清の「男は辛いよ」も星野の作詞。演
歌だけでなく応援の援歌だとも言って4000曲を遺した。

世に出していない「遺作」が数千曲があるといわれており、今後も新作が
出現するだろう。

星野哲郎(ほしのてつろう、本名:有近哲郎、1925年9月30日 - 2010年11
月15日)は日本の作詞家。山口県大島郡周防大島町(旧・東和町)出身
で、東京都小金井市に在住していた。妻(1994年没)との間に一男一女が
おり、長男はシンガーソングライターの有近真澄。

1946(昭和21)年、官立清水高等商船学校(現・東京海洋大学)を途中結
核で休学しながらも卒業。翌年、日魯漁業(後のニチロ、現・マルハニチ
ロ食品)に入社、遠洋漁業の乗組員となる。

しかし就職して数年後、腎臓結核のために船を下りざるを得なくなり、腎
臓を摘出。郷里周防大島にて4年にわたる闘病生活を余儀なくされる。

4年に及ぶ闘病期間中に作詞を独学。家庭教師の傍ら1952(昭和27)年に
雑誌「平凡」の懸賞に応募した「チャイナの波止場」が入選し、選者の石
本美由紀の勧めで、翌1953(昭和28)年に作詞家デビューした。

石本の主宰していた歌謡同人誌「新歌謡界」に参加、同人として作品の発
表や後進の育成に携わった。「新歌謡界」は多くのプロ作詞家を輩出し、
同期生には松井由利夫・たなかゆきを・岩瀬ひろしらがいる。

1958(昭和33)年、横浜開港100年祭記念イベントに応募した「浜っ子マ
ドロス」「みなと踊り」がそれぞれ1位、2位を獲得。このイベントの審査
員をしていた作曲家の船村徹に誘われる形で上京、日本コロムビアと専属
契約を結ぶ。

船村とは以後永きにわたってコンビを組み、作詞:星野哲郎、作曲:船村
徹の作品を数多く世に輩出することになる。1964(昭和39)年にクラウン
レコードの創設に関わり、同レコードに移籍、1983(昭和58)年にフリー
作家となる。コロムビア時代からを通じて手がけた歌詞は演歌を中心に
4000曲に及んだ。

1996(平成8)年7月9日、石本美由紀の後を継いて社団法人日本作詩家協
会の会長を務め、2001(平成13)年10月1日には社団法人日本音楽著作権
協会 (JASRAC) の会長を務めた(2004年9月30日まで)。

これらの功績が認められ、1986年(昭和61年)4月29日には紫綬褒章を、
1988年(昭和63年)8月31日には紺綬褒章を、2000年(平成12年)11月3日
には勲三等瑞宝章を受章している。

1988(昭和63)年6月16日には出身地である東和町(現・周防大島町)の
名誉町民に選ばれ、2008(平成20)年6月5日には宮崎駿と共に居住地であ
る小金井市の名誉市民第一号に決定し、同年10月5日に名誉市民証が授与
された。

1985(昭和60)年2月21日、故郷周防大島に「なみだ船」(歌唱:北島三郎)
の歌碑が建立される。2007(平成19)年7月26日には周防大島町に町営の
「星野哲郎記念館」が完成、周防大島の子供達を支援する償還義務のない
奨学金制度「星野哲郎スカラシップ」事業を立ち上げた。

2010(平成22)年11月15日午前11時47分、心不全のため東京都武蔵野市の
病院でで死去。享年85。葬儀・告別式は11月19日に東京都港区の青山葬儀
所で営まれた。喪主は長男の有近真澄が務めた。

葬儀では長年親交が深かった作曲家の船村徹と、愛弟子である水前寺清子
が弔辞を読み上げ、自ら作詞した「男はつらいよ」の曲に乗せて出棺され
た。戒名は「宝徳院航謡暁哲居士」。

星野哲郎の死去に当たり、日本放送協会が追悼番組『追悼 作詞家 星野哲
郎』を急遽制作し、2010年11月21日にNHK総合テレビジョンにて放送した。

星野節とも称される、自分の実体験をベースにした独特の世界観を持つ
作風で知られる。船村や石本と銀座に繰り出しては音楽論をたたかわせ、
そのとき思い浮かんだフレーズをコースターにしたため、翌朝までに夫人
がそれを清書した物を作詞の下地としていたという。

こういった形で生まれた歌詞を星野自身は「演歌」と称さず、遠くにあり
て歌う遠歌、人との出会いを歌う縁歌、人を励ます援歌などと称してい
た。星野哲郎記念館でも、これらをまとめて星野えん歌と表現している。

なかにし礼によると、性格は大変穏和で、「荒っぽい大声はついぞ聞いた
ことがなく、後輩でも丁寧に扱った」という[。

水前寺清子・都はるみ・北島三郎など、デビュー前から関わってきた歌手
も多い。水前寺の愛称である「チータ」は「ちっちゃな民子」から連想し
て星野が名付けたものである。

主な作品
青山ミチ 叱らないで(1968年)
渥美清 男はつらいよ(1970年)

北島三郎
なみだ船(1962年) 兄弟仁義(1965年)
函館の女(1965年) 風雪ながれ旅(1980年)
北の大地(1991年)
小林旭  自動車ショー歌(1964年)
昔の名前で出ています(1975年)

小林幸子  雪椿(1987年) 福寿草(1989年)

島津亜矢
愛染かつらをもう一度(1991年)母ごころ宅配便(1993年)
海鳴りの詩(1995年)女にゃ年はいらないよ(1996年)
感謝状〜母へのメッセージ〜(1997年)
波(2001年) 海で一生終わりたかった(2003年)
大器晩成(2005年) 温故知新(2010年)

水前寺清子

涙を抱いた渡り鳥(1964年)
いっぽんどっこの唄(1966年)
いつでも君は(1967年)
三百六十五歩のマーチ(1968年)
真実一路のマーチ(1968年)

スリー・キャッツ、ゴールデンハーフ
黄色いサクランボ(1959年)

瀬川瑛子
函館の雨はリラ色(1970年)
たそがれ港町(1971年)
高知の夜(1972年)
あのひとの雪国(1972年)
再見上海(1973年)
釧路の夜白い夜(1974年)
噂・モトマチ・涙町(1974年)
たばこ(1975年)
長崎霧情(1977年)
東京夜景(1978年)
月あかり(1978年)
相生橋(1981年)
サザン瀬戸ブルース(1987年)
春の海(1989年)
潮騒の町(1989年)
海の城下町(1990年)
帰らぬ夢(2006年)

鳥羽一郎
兄弟船(1982年)

西方裕之
北海酔虎伝(1987年)
流れる(1988年)
恋文流し(1993年)

美川憲一
お金をちょうだい(1971年)(2010年)

美空ひばり
みだれ髪(1987年)
塩屋崎(1987年)
都はるみ
アンコ椿は恋の花(1964年)
夫婦坂(1984年)

山形英夫
親子鯨(1958年)
山口瑠美
寿宝船 ことぶきたからぶね(1999年)

山本譲二
長州の男(1986年)
七夕月(萩の花咲く頃)(1993年)
生きる(2003年)

鰐淵晴子
春うらら(1967年)

その他 母校の後継校である東京海洋大学の新校歌を作詞している。作
曲は鈴木淳。また、旧東和町の大半の小中学校の校歌の作詞を手がけている。

長崎国際大学の校歌の作詞している。作曲は都倉俊一。

周防大島の伊保田港と柳井港・松山港を結ぶ周防大島 松山フェリーの就
航船「しらきさん」は周防大島の白木山にちなんで星野が命名したもので
ある。

自らが元船乗りと言うこともあってか、海や船・港にちなんだ歌詞が多
く、これがきっかけで1971(昭和46)年には運輸大臣より海事功労賞が、
1985(昭和60)年には運輸大臣より交通文化賞を送られている。(「ウィ
キペディア」)12・5・3



2016年12月31日

◆パイナップルも無かった

渡部 亮次郎



朝と昼の食事のあとは果物を必ず食べる。だから秋は楽しい。果物の種類
が豊富だからだ。冬が近付くとみかんに混じってときどき供されるのがパ
イナップルだ。

南国の果物だから生まれ育った秋田では子ども時代はお目にかからなかっ
た。敗戦後、缶詰を初めてたべて美味しかった。しかし生を食べたのは大
人になって上京後である。

アメリカから返還される前に特派員として渡った沖縄では畑に植わってい
るのを沢山見たが、なぜか食べなかった。今、東京のデパートで売られて
いるのは100%フィリピン産である。

「ウィキペディア」によれば、パイナップルの原産地はブラジル、パラナ
川とパラグアイ川の流域地方。この地でトゥピ語族のグアラニー語を用い
る先住民により、果物として栽培化されたものである。

15世紀末、ヨーロッパ人が新大陸へ到達した時は、既に新世界の各地に伝
播、栽培されていた。 クリストファー・コロンブスの第2次探検隊が1493
年11月4日、西インド諸島のグアドループ島で発見してからは急速に他の
大陸に伝わった。

1513年には早くもスペインにもたらされ、次いで当時発見されたインド航
路に乗り、たちまちアフリカ、アジアの熱帯地方へ伝わった。

当時海外の布教に力を注いでいたイエズス会の修道士たちは、この新しい
果物を、時のインド皇帝アクバルへの貢物として贈ったと伝えられる。

次いでフィリピンへは1558年、ジャワでは1599年に伝わり広く普及して
行った。以後、1605年にはマカオに伝わり、福建を経て、1650年ごろ台湾
に導入された。

日本には1830年東京の小笠原諸島・父島に初めて植えられたが、1845年に
オランダ船が長崎へもたらした記録もある。

パイナップル(レユニオン)は植付け後15〜18か月で収穫が始まる。自然
下の主収穫期は、たとえば沖縄では7〜9月と11〜翌年2月である。

一年を通した生産面の労働力の分配や缶詰工場の平準化を図り、植物ホル
モンであるエチレンやアセチレン(カーバイドに水を加えて発生させ
る)、エスレル(2-クロロエチルホスホン酸)、を植物成長調整剤として
利用し、計画的に花芽形成を促して収穫調節を施している。

栽培適地は年平均気温摂氏20度以上で年降水量1300mm内外の熱帯の平地か
ら海抜800mくらいまでの排水の良い肥沃な砂質土壌である。

世界生産量の約5割がアジア州で、残りの5割はアフリカ州、北アメリカ
州、南アメリカ州の間でほぼ均等に分かれている。

2002年時点のFAOの統計によると世界生産量は1485万トン。1985年時点に
比べて60%以上拡大している。主要生産国はタイ (13.3%)、フィリピン
(11.0%)、ブラジル (9.9%)、中国 (8.6%)、インド (7.4%)、コスタリカ、
ナイジェリア、ケニア、メキシコ、インドネシアである。

1985年の世界総生産は923万トンで、主産地はタイ、フィリピン、ブラジ
ル、インド、アメリカ、ベトナムなどである。日本では沖縄県が主産地で
2002年時点では1万トンである。

1985年から2002年までのシェアの推移をたどると、米国のシェアが6%から
2%までじりじり下がっていることが特徴である。既に米国は上位10カ国に
含まれていない。


       

2016年12月29日

◆トウ小平の刺身以後

渡部 亮次郎



中華人民共和国の人は、肝臓ジストマを恐れて,生の魚は食べないが、ト
ウ小平氏は初来日(1978年)して刺身を食べたかどうか、従(つ)いて来
た外相・黄華さんが1切れ呑み込んだのは現認した。そんな中国が最近は
刺身の美味さを知り、マグロの大消費国になった。

元は琵琶湖に次ぐ大湖沼だった秋田県の八郎潟。今はその殆どが干拓され
て水田になっているが、私の少年時代はこの八郎潟が蛋白質の補給源だった。

鯉、鮒、鯰(なまず)、白魚など。またそこに注ぐ堰で獲れる泥鰌や田螺
(たにし)も懐かしい。但し、これら淡水魚には肝臓ジストマがいて危険
だとは都会に出て来るまで知らなかったが、地元では理由もなしにこれら
淡水魚を生では絶対食わさなかった。

そのせいで私は中年を過ぎても刺身が食べられず、アメリカへ行って日本
食好きのアメリカ人たちに「変な日本人」と言われたものだ。

62歳の時、突如食べられるようになったのは、久しぶりで会った福井の漁
師出身の友人・藤田正行が刺身しかない呑み屋に入ったので、止むを得ず
食べたところ、大いに美味しかった。それが大トロというものだった。そ
れまでは、鮨屋に誘われるのは責め苦だった。

ところで、肝臓ジストマ病は「広辞苑」にちゃんと載っている。「肝臓に
ジストマ(肝吸虫)が寄生することによって起こる病。淡水魚を食べるこ
とによって人に感染し,胆管炎・黄疸・下痢・肝腫大などを起こす。肝吸
虫病」と出ている。

そんな記述より、実話を語った方がよい。九州の話である。著名な街医者
が代議士に立候補を決意した直後、左腕の血管から蚯蚓(みみず)のよう
な生き物が突き出てきた。

びっくりしてよく見たら、これが昔、医学部で習った肝臓ジストマの実物
であった。おれは肝臓ジストマ病か、と悟り立候補を突如、断念した。

「おれは、川魚の生など食べたことはないぞ」と原因をつらつら考えても
心当たりは無かったが、遂につきとめた。熊を撃ちに行って、肉を刺身で
食った。

熊は渓流のザリガニを食っていて、そのザリガニに肝臓ジストマがくっつ
いていたとわかった。しかしもはや手遅れ。体内のジストマを退治する薬
はない(現在の医学ではどうなのかは知らない)。夢は消えた。

中国人は福建省など沿岸部のごく一部の人を除いて、魚は長江(揚子江)
をはじめ多くの川や湖の、つまり淡水魚だけに頼っていて、肝臓ジストマ
の恐ろしさを知っているから、生の魚は絶対、食べなかった。

トウ小平と一緒に来た外相・黄華さんが東京・築地の料亭・新喜楽で鮪の
刺身1切れを死ぬ思いで呑み込んだのは、それが日本政府の公式宴席であ
り、そのメイン・デッシュだったからである。外交儀礼上食べないわけに
いかなかったのである。

後に黄華さんも海魚にはジストマはおらず、従ってあの刺身は安全だった
と知ったことだろうが、恐怖の宴席をセットした外務省の幹部はジストマ
に対する中国人の恐怖を知っていたのか、どうか。

中国残留日本人孤児が集団で親探しに初めて来日したのは昭和56年の早春
だった。成田空港に降り立った彼らに厚生省(当時)の人たちは昼食に寿
司を差し出した。懐かしかろうとの誤った感覚である。

中国人が生魚を食べないのは知っているが、この人たちは日本人だから、
と思ったのかどうか。いずれ「母国でこれほど侮辱されるとは心外だ」と
怒り、とんぼ返りしようと言い出した。

中国の人は冷いご飯も食べない。それなのに母国は冷いメシに生の魚を
乗っけて食えという、何たる虐待か、何たる屈辱かと感じたのである。

最近では、中国からやってきた学生やアルバイトの好きな日本食の一番は
寿司である。ジストマの事情を知ってしまえば、これほど美味しい物はな
いそうだ。催促までする。奢るこちらは勘定で肝を冷やすが。

よく「この世で初めて海鼠(なまこ)を食った奴は偉かった」といわれ
る。それぐらい、何でも初めてそれが毒でないことを確かめた人間は偉
い。だとすれば淡水魚を生で食っちゃいけないと人類が確認するまで、犠
牲者はたくさん出たことだろう。感謝、感謝である。

1972年9月、日中国交正常化のため、田中角栄首相が訪中した時、中国側
が人民大会堂で初めて出してきたメニューは海鼠の醤油煮だった。田中さ
んより前に来たニクソン米大統領にも提供しようとしたのだが、アメリカ
側に事前に断られたと通訳の中国人がこっそり教えてくれた。

以上を書いたのが確か2003年である。あれから中国は驚異的な経済発展を
遂げた。それに応じて食べ物も変化し、都市では今まではメニューに無
かった牛肉が盛んに消費されるようになった。それに伴って過食から来る
糖尿病患者が相当な勢いで増えて━いる。

問題の魚の生食についても2007年3月1日発売(3月8日号)の「週刊文春」57
ページによると中国のマグロ販売量は、中国農業省の調査によると、2006
年上半期だけで50%から60%も伸びている。

経済発展著しい中国が異常なスピードで鮪の消費量を増加させている事実
は意外に知られていない。日本料理店ばかりでなく、北京や上海の高級
スーパーにはパック入りの刺身や寿司が並ぶ、という。

共産主義政治でありながら経済は資本主義。物流が資本主義になれば食べ
物は資本主義になる。肝臓ジストマが居ないと分れば中国人がマグロだけ
でなく生魚を食べるようになるのは当然だ。とう小平の現代化には5つ目
があったのか。2007.03.06


           

2016年12月28日

◆「軍事同盟」で退陣した内閣

渡部 亮次郎



若い頃、NHK記者として4年間駐在した岩手県には、後に総理大臣になる
鈴木善幸(ぜんこう)のほか小沢佐重喜(さえき)、椎名悦三郎ら、錚々
たる政治家がいた。言うまでも無く佐重喜は小沢一郎の父、椎名は副総裁
として田中角栄の後継首相に三木武夫を推して大失敗した。

そうした中で目立つようで目立たなかった男が鈴木善幸だった。三陸沿岸
の漁民の出。はじめは日本社会党から代議士になったが、間違いに気付い
て保守党に鞍替え、とうとう自民党総裁、総理大臣になった。

だが日米安保条約の何たるかも知らずに過ごし、自民党内のバランスに
のっていたので総理大臣にまつり上げられたものの、「能力不足」を晒し
て途中退陣した。

日本大百科全書(小学館)にはこう書かれている。

<国内では自民党の絶対多数を背景に、軍事力増強、実質的な靖国(やす
くに)神社公式参拝、参議院の比例代表制導入、人事院勧告凍結を実現し
た>。

鈴木善幸内閣]は1980(昭和55)年7月成立した。前任の大平正芳が総選挙
中、糖尿病の合併症たる心筋梗塞で急死したところ、「闇将軍」といわれ
て評判の悪かった田中角栄が裏で動いて、突如、鈴木善幸を後任として指
名した。私はその現場に居合わせた。

昭和55(1980)年6月12日未明、大平が死んだ。それに先立って、ホテルに
いた私に園田直(当時は無役)から電話。「大平さんが亡くなったらしい、
調べてくれ」で確認。弔問の為、虎ノ門病院で落ち合う。

彼も当時、糖尿病が悪化。減量の為服用していた利尿剤が効き過ぎてゲッ
ソリしていたので、マスコミの目を引いたことを覚えている。

病室から出てきた園田。車に乗ると「ナベしゃん、これからどうした方が
いいかな」。すかさず「目白へ行きましょう」「そうだワシもそう考えて
いた」。

角栄は先に弔問から戻っていたが、客は園田がその朝は初めてだった。約
1時間して出てきた園田。車中「善幸に決まった」と。「それは妥当なと
ころでしょう。大平派の後継者でもあるし」と私。

大平の死で有権者の同情は自民党に集まって総選挙は、大勝。分裂寸前
だった自民党を結束させ、抗争なしで鈴木政権は成立したのだった。

<「増税なき財政再建」を公約とし、1981年3月には臨時行政調査会を設
置し行政改革を最大の課題とした>。(同)

9月になって厚生大臣齋藤邦吉の不正献金がばれて辞職。その後任に園田
が推されたのは、多分に角栄の押しがあったと思われた。

<1981年1月鈴木首相が東南アジア諸国を歴訪、5月には日米首脳会談を開
き日米「同盟関係」を明記し、西側陣営の一員としてアメリカの対ソ戦略
に協力していく姿勢を明らかにした>。

しかし鈴木首相は首脳会談では、そんなことは話題にならなかったと一旦
は否定。共同声明から軍事同盟云々を消そうとした。日米の首脳が会談す
るという事は要するに日米安保体制を確認し、軍事同盟を再確認する事だ
という外交上の初歩的知識に首相は欠けていたのだ。

この混乱で鈴木首相は党内で孤立感を深めた。同一派閥であった外相伊東
正義が辞任した後を埋めるのに、厚生大臣のピンチヒッターだった園田を
またピンチヒッターにした。

しかし、園田は糖尿病が悪化。外遊しても飛行機から車まで歩けない場面
がしばしばとなった。マニラではとうとう日米首脳会談の共同声明なんて
どうでもいい軽い問題でしかない、といった趣旨の問題発言をして政権の
足を引っ張った。

事後になって鈴木は日米首脳会談について「オレは踊り(外交)の素人なん
だから、手ぶり身振りの最後まで教えないと踊れないよ。教えない外務省
が悪い」といった。外務省側は「初歩知識をお教えするのは失礼に当る
か、と」。

政治における知識や情報の扱い方はビジネスの世界とまるで異なる。ビジ
ネス界は「儲け」で一丸となっているが、政治の世界では役人と政治家の
間に抗争が隠されていたり、遠慮がはさまれたりして要は単純ではない。

しかし1982年6月2兆円以上の歳入欠陥が明らかとなって「増税なき財政再
建」は破綻し、行政改革も自民党・官僚の抵抗で後退を余儀なくされた。

さらに日米経済摩擦、日韓経済協力、教科書記述に対するアジア各国から
の批判といった難問を適切に処理できず、内外ともに手詰まりの状態のな
か、1982年10月12日突如退陣を表明した。

鈴木政治は難問を先送りにして解決を図るといった消極的姿勢を特徴とし
ていた。また党幹事長に二階堂進を起用するなど田中角栄の影響力を強く
受け「角影内閣」との異名をとった。>(文中敬称略)


2016年12月27日

◆華国鋒は毛沢東の息子

渡部 亮次郎



死んだ元党主席の華国鋒。忽然と現れた彼、華国鋒は毛沢東の庶子
だった。

思い起こせば、日中平和友好条約の締結・調印のため北京を訪れていた日
本の外務大臣園田直は1978年8月12日午後5時36分から6時まで人民大会堂
で華国鋒主席と会見、私も秘書官として立ち会ったが。印象に残る言葉は
皆無だった。

むしろ影が薄かった。<後の政権内部の権力争いで故・トウ小平氏に負
け、1980年に首相を、翌年には党主席と軍のトップを退任、事実上政権か
ら退く>ことを予感させた。

【大紀元日本8月23日】中国の華国鋒・元党主席が2008年8月20日午後零時
50分、病気のため北京で死去した。死因は伝えられていない。享年87。中
国当局の官製メディア「新華社」が報じた。華元党主席は政権から退いた
後、離党届を提出していたと伝えられた。

華元党主席は、1949年の中国共産党政権確立後、故毛沢東国家主席に「忠
実な部下」として認められ、湖南省第一書記、副首相と地位を高めた。
1976年、死去した周恩来・元首相の後任として首相に就任、故毛国家主席
から後継者に指名され、1976年9月に共産党主席、軍のトップにも就任し
た。>

このような「ヘリコプター」出世について中国は1度も正式に認めた事は
無いが、当代随一の中国ウオッチャーたる日本人宮崎正弘氏は「華国鋒は
毛沢東の庶子」と断定する。

1920年代、湖南省で農民運動を展開していた毛沢東が「姚」という女性に
産ませた。戸籍上は「蘇祷」と名乗った」と断定している。

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成20年(2008年)8月18日(月
曜日)通巻第2293号)

後の政権内部の権力争いで故・トウ小平氏に負け、1980年に首相を、翌年
には党主席と軍のトップを退任、事実上政権から退いた。

香港誌「争鳴」の2001年報道によると、華元党主席は1998年の第9回全人
大会議で2つの議案を提出した。

全人代常務委員会に対し、@憲法の職権を公正に履行、政府機構と幹部の
腐敗を監督A中央政府の高級幹部およびその家族の財産を公開の2点を求め
た。結局、その議案は取り上げられることがなかった。

翌99年から、同氏はすべての中央会議を健康上の理由で欠席するようにな
り、07年10月の第17回党大会には特別代表として姿を見せたのが最後だった。
C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\大紀元時報−日本華国
鋒.htm
 
また、同誌によると、2001年9月中旬、華元党主席は最高指導部に離党届
を提出した。1ヶ月後に開かれた特別会議で、離党の理由について、「今
日の共産党は昔の国民党とどこが違うのか」と幹部の汚職などに強い怒り
を示した。

その言葉の背景には、1940年代、中国共産党が内戦で「反腐敗、反専制」
のスローガンを掲げて国民党から政権を奪取した経緯がある。

その席で、華元党主席は最後の党費として、5万元(約80万円)を納め、
「貧困で、医療治療が必要とする党員のために使ってほしい」という言葉
を添えたという。

当時の報道によると、同年には計87人の共産党幹部が脱党を宣言、政治局
の元委員、国務院元委員、将軍なども含まれている。当局は「脱党の連鎖
反応を起こさないため、できるだけ慰留する」との方針で説得を続けたよ
うだが、結果は不明だという。2008・10・23

2016年12月26日

◆日本における売春の現状

渡部 亮次郎



私の大学在学中に国会で売春防止法案が審議されて成立。卒業とともに売
春宿はなくなった。しかし法律は「防止」であって「禁止」ではないこと
が示す如く、売春は無くなっていない。

売春防止法は『何人も、売春をし、又はその相手方となつてはならな
い。』としている。

しかし、売買春そのものに刑罰は設けられておらず、売春防止法におい
て、売春行為自体は禁止されていても、刑罰の対象とはならない。

その理由としては、売春防止法制定当時の官僚による国会答弁が参考となる。

<性欲の捌け口を作ることで性犯罪を防止すること、諸先進国では合法化
されている国が多いこと、風俗業従事者の生活維持、地域経済・税収への
深刻な影響を挙げている>。

他方、売春防止法では単に売春を行ったという単純売春(法や条例に反さ
ない範囲において)は刑事処分対象外であるが、売春の勧誘、周旋、売春
契約、売春をさせる業(俗にいう「管理売春」は、これに含まれるなど売
春を助長する行為は禁止されており、刑事処分の対象となる。

売春防止法が売春そのものを禁止するのではなく、売春を助長する行為を
禁止しているのは、そもそもの立法経緯において、女性の性的役務の隷属
被害や、暴力団等や親による搾取行為を無くすのが主目的で、売春行為自
体を取り締まる事が主目的ではなかった。

『売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗もので
あることから、売春を助長する行為等を処罰すると共に、性行又は環境に
照して売春を行うおそれのある女子に対する補導処分及び保護更生の措置
を講ずることによって、売春の防止を図るこ
とを目的とする』為である。

売春防止法の他に、児童買春・児童ポルノ禁止法が存在する。児童に対す
る性的搾取・性的虐待を防止し、児童の権利を擁護することを目的として
いる。

売春の斡旋、あるいは売春をさせる業を為すことは刑罰の対象となってい
るが、斡旋ではなく知り合った男女が売春しているにすぎないという建前
を用いてソープランドでは公然と売春が行われている。

旧赤線地帯などでは、ソープランドのような風呂を設けずに個室で売春さ
せている所も多く、ファッションヘルス、ホテトルなどにおいても、店が
売春を黙認している所もあるなど、売春の斡旋、売春をさせる業を為した
ということで処罰されないよう、店側は関知しないという建前、暗黙の了
解のもとに営業している例は見られる。

この外、テレクラ、出会い系サイトを発端として当事者同士の合意で売買
春がなされる場合や、ラブホテル付近に売春する側が立ってが客待ちを
し、売買春が為される場合などもある。

また、韓国で2004年に性売買特別法が施行された結果、韓国人売春従事者
が日本をはじめとする海外諸国で「遠征売春」が増加しているといわれ
る。出典:「ウィキペディア」


2016年12月25日

◆黄金週間への誤解

渡部 亮次郎 



町医者の看板なんかに、休診日は「祝祭日」と書いてあるのが目立つのだ
が、「祭日」とは戦前の話であり、今は国民と祭日は無関係になったの
だ。「国民の祝日」しかない。

『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、祝祭日(しゅくさいじつ)
とは、第2次世界大戦(大東亜戦争)以前の日本において行われていた祝
日と大祭日の総称で、正式には祝日大祭日と言った。

明治時代には「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」(明治6年太政官布告第344
号)によって、大正時代には「休日ニ關スル件」(大正元年勅令第19号)
によって、昭和時代には「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)に
よって定められていた。

1948(昭和23)年の「国民の祝日に関する法律」(祝日法)によって祭日は
全て廃止され、国民の祝日がそれに代わった。現行の国民の祝日のことを
「祝祭日」と呼ぶのは誤用である。つまり「国民の祝日」はあるが「祭
日」は存在しない。

むかしの祝祭日一覧。
1948年の祝日法制定時点までの祝祭日を以下に示す。
「祝日」
四方拝(新年) - 1月1日
紀元節 - 2月11日
天長節 - 4月29日
明治節(明治時代には天長節) - 11月3日
新年宴会 - 1月5日
このうち、新年宴会を除く4つを四大節(しだいせつ)という。
「大祭日」にはどんなものがあったのか。
元始祭 -   1月3日
春季皇霊祭 - 春分日(3月21日ごろ)
神武天皇祭 - 4月3日
秋季皇霊祭 - 秋分日(9月23日ごろ)
神嘗祭 -   10月17日
新嘗祭 -   11月23日
大正天皇祭 - 12月25日
今の法律では春分の日と秋分の日しか残っていない。昭和11年1月生まれ
の私には春季皇霊祭と秋季皇霊祭の言葉が耳に残っている。こうした記憶
を基に考えると、祝日をずいぶん増やしたものだなぁと思う。

NHKのアナウンサーは、いわゆる団塊の世代がぼちぼち定年退職して
「ラジオ深夜便」に移行しているが、彼らとて「ゴールデンウィーク」が
昔からあったようなことをのたまうからやりきれない。

調べてみると憲法記念日(5月3日)もこどもの日(5日)も昭和24年(1949
年}から始まった。当時の天皇誕生日(4月29)にメーデー(5月1日)を
休日扱いに無理にしてみてもゴールデンにはならなかった。まだ土曜日は
「半ドン」で休日ではなかったからだ。

その後、5月4日を無理無理、「国民の休日」なんて、休みたいための国民
の祝日にしたり、昭和天皇誕生日を昭和の日として残したりしてとうとう
ゴールデンウィークに仕立て上げたのは平成に入ってからだ。

その後の経過と現状。

祝日法改正「ハッピーマンデー」〜平成12年から3連休増加〜

成人の日(1月15日)と体育の日(10月10日)をそれぞれ各月の第2月曜
日にする国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律(通称・ハッピー
マンデー法)が、平成10年10月21日に公布され、平成12年(2,000年)1
月1日から施行されました。

改正祝日法(祝日3連休化法)と改正老人福祉法〜平成15年から3連休増加〜

海の日(7月20日)と敬老の日(9月15日)をそれぞれ各月の第3月曜日に
する国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律が、平成13年6月15日
に可決成立、同6月22日官報で発表されました。

4月29日の「みどりの日」を「昭和の日」に、5月4日の「国民の休日」
を「みどりの日」の祝日に変更。平成17年5月13日に可決成立。同5月20日
官報で発表されました。平成19(2007)年から施行。

祝日

 1月 1日 元日  
 1月 第2月曜日 成人の日 満20才になった青年男女を励まし祝福する日
 2月11日 建国記念の日 国を記念する日 紀元節(1966年制定)
 3月232日頃 春分の日 注)暦により変動する。
 4月29日 みどりの日
  ↓
昭和の日(2007年から。昭和天皇の誕生日)
 5月3日 憲法記念日 日本国憲法が施行記念日(1947年)
 5月 4日  みどりの日2007年から。 この日は祝日でなく休日で、日
曜日の場合振替はされませんでしたが。2007年から。祝日
 となりました。
 5月 5日 こどもの日  
 7月 第3月曜日 海の日 海や自然に感謝する日(1996年制定)
平成15年より第3月曜日になりました
 9月 第3月曜日 敬老の日 老人を敬う祝日(1966年制定)
  平成15年より第3月曜日になりました
 9月23日頃 秋分の日 注)暦により変動する。
10月 第2月曜日 体育の日 東京オリンピック(1964)開会の記念日(1966
年制定)
 11月 3日 文化の日 新憲法公布を記念し、日本の平和と文化の  
          発展を祝う日
11月23日 勤労感謝の日 勤労を尊び、生産を祝い、国民が互に感謝しあ
う日
12月23日 天皇誕生日 現在の天皇、今上天皇(きんじょうてんのう) の誕
生日 (了)2006.04.01


2016年12月24日

◆「君が代」完成記念日

渡部 亮次郎



国歌「君が代」は1999(平成11)年に国旗及び国歌に関する法律で公認さ
れる以前の明治時代から国歌として扱われてきた。

この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代になって
イギリス歩兵隊の軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンが薩摩琵琶歌
「蓬莱山」から採って作曲を試みたが海軍に不評。

海軍から「天皇を祝うに相応しい楽曲を」と委嘱された宮内省が雅楽課の
林廣守の旋律を採用(曲はイギリスの古い賛美歌から採られた)。

これにドイツ人音楽教師エッケルトが和声をつけて編曲。1880(明治13)
年10月25日に海軍軍楽稽古場で試演された。だから10月25日が「君が代」
完成記念日とされている。

明治2(1869)年に当時薩摩藩兵の将校だった大山巌(後の日本陸軍元帥)
により、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと言うフェトンの進言をいれ
て、大山の愛唱歌の歌詞の中から採用された。

当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範
に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている。

九州王朝の春の祭礼の歌説というものがあり、説得力はある。九州王朝説
を唱えるのは古田武彦氏で、次のように断定している。

<「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおと
なりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社の
春の祭礼の歌である。

「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』
と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。

この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知ら
ず」「読人知らず」の形での掲載した>

文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集初編』(明治
21(1881)年発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、幻
と言われる2番が存在する。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで うごきな
く常盤かきはにかぎりもあらじ」

「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで かぎりな
き御世の栄をほぎたてまつる」

後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという
考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった
『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している。

明治36(1903)年にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が
代』は1等を受賞した。

後は専ら国歌として知られるようになった『君が代』だが、それまでの賀
歌としての位置付けや、天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた
(明治憲法による)という時代背景から、戦前にはごく自然な国家平安の
歌として親しまれていた。

敗戦で事情は全く変わった。日本国衰退を目指すアメリカ占領軍は。それ
まで聖職者とされてきた教職員に労働者に成り下がって権力に抵抗させる
べく日教組を結成させた。

占領した沖縄では国旗の掲揚と君が代の斉唱を禁止したことでも明確なよ
うに、マッカーサーの本心は日の丸掲揚と君が代斉唱に反対であった。日
本国民が一致団結、再度、アメリカに挑戦することを恐れたのである。

それを組合の統一闘争精神に掲げたのが日教組なのである。いつの間にか
天皇を尊敬する事とか君が代を歌うことが戦争に繋がると論理を摩り替え
て、正論を吐く校長を自殺に追い込んだといわれても反論できないような
状況を招いたのである。

君が代支持の世論を背景に平成8年(1996年)頃から、教育現場で、当時
の文部省の指導により、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に『君が代』の斉
唱の通達が強化される。

日本教職員組合(日教組)などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自
由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張し
た。先生の癖に論理のすり替えの得意な人が日教組に所属する?

平成11年(1999年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺
し、君が代斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する教職員との板
挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。

これを一つのきっかけとして日教組の意図とは反対に『国旗及び国歌に関
する法律』が成立した。法律は国旗国歌の強制にはならないと政府はした
ものの、反対派は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉
唱・掲揚を推進する保守派との対立は続いている。

平成16年(2004年)秋の園遊会に招待された東京都教育委員・米長邦雄
(将棋士)が、(天皇)に声をかけられて「日本の学校において国旗を揚
げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言し「やはり、
強制になるということでないことが望ましいですね」と言われている。

なお、天皇が公式の場で君が代を歌ったことは1度もないと言われてい
る。成人前の家庭教師ヴァイニング夫人による何がしかを勘繰る向きがな
いわけではない。08・10.25
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2016年12月22日

◆お邪魔虫共産党

渡部 亮次郎



中国では幹部でも汚職がばれれば死刑になる。それでも幹部の
汚職が引きもきらない。いくら共産主義に共鳴しても、私欲とは人間の本
能に等しいものだからである。

こうした目で中国を見ていれば、共産党が政権を掌握している限り、人権
尊重や政治の民主化なぞは絶対実現しないと思うのが普通だが、経済の改
革開放が進むのに比例して民主化が進むはずだと考える人々がいる。特に
アメリカの人たちに多い。

中国が何故、共産革命に成功したか。それは国家権力を手中にしようとし
た毛沢東の策謀が成功したからである。国家の形態は何でも良かったが、
とりあえず貧民が国民の大多数だったので、「金持ちの財産を分捕り、皆
で平等に分配しよう」と言う呼びかけに合致したのが共産主義だった。

共産主義政府の樹立が毛沢東の望みではなかった。真意は権力の奪取だっ
た。日中戦争の終結で、日本軍の放棄して行った近代兵器を手中にして蒋
介石と国内戦争を続けた結果、蒋介石は台湾に逃亡した。毛沢東は昭和
24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国を宣言した。

人民も共和も中国語には無い。日本語だ。畏友加瀬英明氏の説明だと、中
国語には人民とか共和と言う概念が無いのだそうだ。北朝鮮はそれに民主
主義が加わって嘘が深化している。

権力は掌握したが、人民への約束を果たす手段が無い。とりあえず人民公
社と大躍進政策が当時のソ連をモデルに実施されたが、農民は生産意欲の
低下とサボタージュで抵抗。

結果として食糧不足に陥って各地で飢饉が発生。餓死者は1500万人から
4000万人と推定されている(「岩波現代中国事典」P696)。

毛沢東の死(1976年)後2年、失脚から3度目の復活を遂げていたトウ小平が
経済の開放改革を断行。開放とは日本など外国資本の流入を認め、改革と
は資本主義制度への転換を意味した。

4つの近代化を掲げたのだ。工業、農業、国防、科学技術の近代化であ
る。今のところ実現に近付いているのは軍事の近代化である。

トウ小平は政治の近代化だけは断乎として拒否した。肥大化した経済が政
治(共産政府)を圧倒する危険を回避したのである。だから第2天安門事件
には反革命の匂いを嗅ぎ、断乎、弾圧した。

しかし発展する資本主義にとって共産党政府による様々な統制は邪魔以外
の何物でも無い。工場用地の確保一つとってみても、土地すべての国有は
障害でしかないが、自由にならない以上、共産党幹部を「買収」する以外
に方法が無い。

したがって多発する共産党幹部による汚職事件はいわば構造的なことで
あって、客観的にみれば「事件」ではなく「日常茶飯事」に過ぎない。

しかも冒頭に述べたように「私欲」は本能のようなものだ。所有を否定す
るのが共産主義の思想でも「本能」には勝てっこない。つまり共産主義体
制化で経済だけを改革開放すれば汚職簸自動的に起きるし、共産党幹部に
すれば、現状を変更するメリットは全く無いわけだ。

汚職は時たましか発覚しない。摘発で死刑になるのは不運な奴で政府の知
るところではないのだ。かくて中華人民共和国政府は汚職にデンと腰を下
ろした政権。民主化を抑え、人権無視の批判など絶対耳に留めない。耳が
左右に付いているのは右から聞いたら左から逃す為にあるのだ。2010・12・5



2016年12月21日

◆デュポンの始めは爆弾屋

渡部 亮次郎



1990年代はビジネスその他で盛んにアメリカを訪れた。ワシントンと
ニューヨークが多かったが、或る時、ニューヨークからワシントンへ列車
で向かう途中、フィラデルフェアで下車した。アメリカ人の友人一家を訪
ねるためである。

NYから山中の一軒家に越してきた友人の仕事は経済評論家だが、コン
ピューターを駆使すればNYになんか居なくても平気だというので、当時は
仰天したが、今となってみれば至極真っ当な話だった。窓の外を狐がヒョ
コヒョコ駆け下りていった。

翌朝、デュポンの邸だったところを案内すると言う。デュポンってライ
ターの会社かと聞いたらいや爆弾屋だという。まぁ後学の為だ、行ってみ
よう。

ニューヨークとワシントンDCのちょうど中間あたりにあるデラウエア州の
Brandywine Valleyと呼ばれる地域だった。広大な庭園に囲まれた邸宅・
ウィンタートゥア(Winterthur)があった。園内は日本の皇居ぐらいの広さ
だ。案内のバスが定期的に走っている。

ここは、デュポン(Du Pont)社の創業一族が3世代にわたって住んだ邸宅
で、その名称は一族に関係するスイスの地名からとられたという。

現在では、美術館として公開(有料)されており、建物自体ももちろんだ
が、その中に展示されている米国家具や陶磁器・銀器などの装飾美術品で
知られている。

邸宅本体には、何と175もの部屋があり、ガイド付きツアーで見て回る仕
組みになっている。ダイニング・ルームのテーブルの上、食器棚の中、暖
炉の上、展示用のガラスケースなどに、多くの陶磁器が展示されているの
を見ることができる。しかしこっちは興味ないからあまり中は見なかった。

ギフト・ショップもあった。ビジターセンター内にある店は書籍中心だっ
た。柱時計を売っていた。1時間ごとに鳥が啼く仕掛けで、庭園内にすみ
ついている鳥とか。少なくとも12種類はいると言うことだ。

邸宅、ギャラリー、庭園、(さらには図書館も)と回っていると、1日が
かりになってしまう。何かのついでに、というわけにはいかない」。
http://www2.gol.com/users/emakigu/MuseumWinterthur.htm

私が訪問したのはGW中で、あの時は躑躅がいたるところで満開だった。

説明によれば、デュポン家の別荘には競馬場が2つあるとか。そんな金持
ちなのに、当主については不名誉な事件が起きていたらしいが確認できな
いから書かない。いずれカネの下敷きになったと言うところだ。

一体、デュポンとは何者なのか。デュポン(Du Pont、NYSE:DD)は、世界
第2の化学会社である(世界最大はダウケミカル)。

米国法人である E. I. du Pont de Nemours and Company (イー・アイ・
デュポン・ドゥ・ヌムール・アンド・カンパニー)はデラウェア州ウィル
ミントン市にある。創業は1802年。

資本金は7,935,000,000ドル。創業者はフランス出身のエルテール・イレ
ネー・デュポン。メロン財閥、ロックフェラー財閥と並ぶアメリカの3大
財閥と称される。

フランス革命を避けて一家で移住したエルテールは、アントワーヌ・ラ
ヴォアジエに師事した後、黒色火薬工場としてデュポン社を設立。

徹底的な品質管理と安全対策、高品質によりアメリカ政府の信頼を勝ち取
り、やがて20世紀に入りダイナマイトや無煙火薬などを製造するように
なった。

南北戦争期や西部開拓時代に成長し、アメリカ最大の火薬メーカーとなる。

第1次世界大戦・第2次世界大戦では火薬や爆弾を供給したほか、マン
ハッタン計画(原爆開発)に参加し、テネシー州のオークリッジ国立研究所
でウラニウムやプルトニウムを製造するなどアメリカの戦争を支えた。

また草創期の自動車産業に着目し、1914年にはピエール・S・デュポンは
1908年に創業したゼネラルモーターズ(GM)に出資した。後に彼は社長に
就任し、彼の指揮とデュポン社の支援の下、ゼネラルモーターズは全米一
の自動車会社へと成長した。

また、GM支援とは別に、1919年から1931年にかけては、自社での自動車製
作も行った。エンジンは主にコンチネンタル社製を使用した。

しかしシャーマン・アンチトラスト法によって1912年には火薬市場の独占
が、1950年代にはGM株の保有が問題視され、火薬事業の分割やGM株放出な
どを強いられている。

1912(大正元)反トラスト判決によって3社に分割。1915(大正 4)デュポ
ン・ド・ヌムール社、設立。

1920年代以降は化学分野に力を注ぎ、1928年には重合体(ポリマー)の研
究のためにウォーレス・カロザースを雇い、彼のもとで合成ゴムやナイロ
ンなどを発明した。

1931(昭和 6)ネオプレン(合成ゴム)、1935(昭和10)ナイロン、1944(昭和
19)テフロン(フッ素樹脂)などを開発。

さらにテフロンRなどの合成繊維、合成樹脂や農薬、塗料なども研究・開
発し取り扱うようになった。2世紀にわたる歴史の中で、M&Aを繰りかえす
典型的なアメリカのコングロマリット企業といえる。

デュポン社は化学製品の開発を通じてアポロ計画の成功にも寄与し、その
研究開発の熱心さや新素材開発への貢献は高く評価されている。

しかし過去には火薬やナイロン製品などを大量に軍へ納入しているほか、
化学兵器や核兵器開発に関与するなど、戦争ビジネスで財を築いた死の商
人としての側面もある。

また環境問題でもデュポン社の製品が問題になったことがある。例えばテ
フロン製造に伴い使用されるペルフルオロオクタン酸(C-8)の健康への
危険性(発がん性など)を隠して作業員などに健康被害を起こしたことで
合衆国の環境保護庁(EPA)に訴訟を起こされた。

また、ゼネラルモーターズとともにフロン類(クロロフルオロカーボン、
CFC)の発明・製造を行い、長年にわたって市場シェアの多くを占めてきた。

オゾン層破壊と温室効果が問題になった1980年代末になってデュポンは
CFCの製造販売からの段階的退出を表明したが、1990年代半ばまで製造を
続けていた。

その後はハイドロクロロフルオロカーボン(HCFC)、ハイドロフルオロ
カーボン(HFC)などの代替フロン開発を進めCFCからの置き換えのリー
ダーシップをとっているが、HCFCやHFCにも高い温室効果があることが問
題視されている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア』2007.04.18


            

2016年12月20日

◆中国で糖尿病患者が急増

渡部 亮次郎



30年で10倍、医療費が重い負担に―英メディア


3月31日、英メディアは「中国でいわゆる『金持ちのぜいたく病』が深刻
化、医療システムが厳しい課題に直面」と題した記事で、増え続ける糖尿
病患者に頭を抱える中国の現状を報じた。

2012年3月31日、英ロイター通信は「中国でいわゆる『金持ちのぜいたく
病』が深刻化、医療システムが厳しい課題に直面」と題した記事で、増え
続ける糖尿病患者に頭を抱える中国の現状を報じた。3日付で環球時報
(電子版)が伝えた。

この30年で中国人の生活は空腹に耐え忍ぶ毎日から、ウエスト周りのぜい
肉を気にするまでに急変した。これに伴い、「金持ちのぜいたく病」と呼
ばれる糖尿病などの病気も急増しているが、現状の医療制度では対応しき
れていないというのが現状だ。

こうした慢性疾患の治療費急増が、14億の国民に最低限の医療保険を保障
しようとしている中国政府の重い負担となっている。医学雑誌「ランセッ
ト」によると、中国で高額医療費に苦しんでいる世帯は2011年時点で、8
世帯中1世帯の割合に上ることが分かっている。

生活レベルの向上に加え、平均寿命が延びたことにより、慢性疾患に苦し
む人が増えている。例えば、糖尿病の罹患(りかん)率は1980年の1%か
ら、現在は10%近くにまで増加した。これは米国人の罹患率とほぼ同じだ。

シンガポール国立大学の公衆衛生大学院とハーバード公衆衛生大学院が発
表した白書によれば、中国の2011年の糖尿病関連の医療費は年間約170億
ドル(約1兆3900億円)。全世界の総額4650億ドル(約38兆2000億円)と
比べれば微々たるものだが、これは中国の医療費全体の約5%を占め、さ
らにその割合は今後13%にまで上昇するとも予測されている。

米国で糖尿病関連の医療費が全体に占める割合は約10%。もはや米国をし
のぐ勢いといえるだろう。中国には現在、約9200万人の患者がいるとされ
ているが、これが2030年には1億3000万人にまで増加するとみられてい
る。(翻訳・編集/NN)


2016年12月19日

◆患者自己注射物語

渡部 亮次郎



日本で糖尿病患者が治療薬「インスリン」を患者自身で注射して良いと決
断した厚生大臣は園田直(そのだ すなお)である。インスリンの発見か
ら既に60年経っていた。逆に言えば患者たちの悲願を歴代厚生大臣が60年
も拒否するという残虐行為をしてきたのである。

園田自身も実は重篤な糖尿病患者であった。しかしインスリンの注射から
逃れていたために大臣在任中、合併症としての腎臓病に罹り、1週間ほど
緊急入院したくらい。大変な痛がり屋。引きかえに命を落とした。

政治家にとって入院は命取り。大臣秘書官として事実を伏せるために余計
な苦労をしたものである。にも拘らず園田はそれから僅か3年後、人工透
析を途中で拒否したため、腎不全のため70歳で死亡した。昭和59(1984)年
4月2日のことだった。

その直後、私が糖尿病を発症した。全く予期せざる事態に仰天した。糖尿
病は現時点の医学では絶対治らない病気、いうなれば不治の病というから
業病(ごうびょう)ではないか。絶望的になった。

検査などの結果、私の母方の家系に糖尿病のDNA(かかりやすい遺伝子)が
有り、弟は発症しないできたが、上2人の男兄弟は暴飲暴食による肥満が
契機となって発症したものと分かった。

しかし、あれから30年近く、私は毎朝、ペン型をしたインスリン注射を繰
り返すことによって血糖値を維持し、今のところ合併症状も全く無い。普
通の生活をしていて主治医からも「文句の付けようがありません」と褒め
られている。お陰で園田の年を超えて80になった。。

これの大きな理由は注射針が極細(0・18mm)になって殆ど痛みを感じなく
なったからである。あの時、園田が自己注射を決断したお陰で医療器具
メーカーが、患者のためと自社の利益をもちろん考え、針を細くし、簡単
に注射できるよう研鑽を積んでくれたからである。

逆に言えば、厚生省が自己注射を許可しないものだから、医療器具メー
カーは、それまで全く研鑽を積まないできてしまったのである。自己注射
で注射器や針がどんどん売れるとなって初めて研鑽を積む価値があるとい
うものだ。

つまり役人や医者の頭が「安全」だけに固まっている限り医療器具は1歩
たりとも前進しないわけだ。患者たちを60年も苦しめてきた厚生省と日本
医師会の罪こそは万死に値するといっても過言ではない。

そこで常日頃、昭和56年までの糖尿病患者たちの苦しみを追ってきたが、
最近、やっとそれらしい記事をインターネット上で発見した。

「インスリン自己注射への長い道のり」(2001/05/28 月曜日)と題するも
ので、とある。
http://www.geocities.jp/y_not_dm/insurin2.html



東京女子医科大学名誉教授 福岡白十字病院顧問 平田 行正氏へのイン
タビュー記事「インスリン自己注射の保険適用から15周年を迎えて…」よ
り抜粋と要約

<インスリンが発見されたのは、1921年(大正10年)です。欧米では供給
のメドがつくとすぐに患者の自己注射が認められました。しかし、日本で
は60年もの間、自己注射が認められず、また、保険の適用もありませんで
した。

当時の日本では、医療は医師の占有物だとする古い考え方が根強く、医師
会はもちろん、厚生省の役人の中にも、何もインスリン注射をしなくとも
飲み薬があるではないか、と平気で発言する人もありました。

インスリン注射が必要不可欠な糖尿病患者は、インスリンを自費で購入
し、自ら注射するという違法行為でもって、生命をつないでいました。

インスリン発見50周年にあたる昭和46年、糖尿病協会は全国的な署名運動
を行い、3ヶ月足らずで11万4,000名の署名を集めましたが、厚生省から
は、「国としては、正面きってこれを取り上げるのは難しい」という回答
が繰り返されました。(佐藤内閣で厚生大臣は内田常雄に続いて齋藤昇)。

中央官庁の理解が得られず、困り果てた医療側や自治体はあの手この手で
知恵を絞り、自己注射公認まで持ちこたえました。

昭和56年(厚生大臣 園田)、各種の努力によりインスリンの自己注射が
公認され、その5年後には血糖値の自己測定が公認されました。保険適用。

医療は医師だけのものではなく、患者と共に手を携えて行うべきものだと
いうことが公認された、医療史上最初の出来事です。

インスリン自己注射公認までの悪戦苦闘

長野県・浅間病院と県の衛生課や医師会などが協議して、生み出した苦肉
の策。患者の来院時にインスリンを1本処方し、その一部を注射して、残
りを渡して自己注射する。毎月1〜2回患者から直接電話で報告を受ける
ことで、電話再診料として保険請求した。

新聞が長野方式として報じたため、厚生省から中止命令。

バイアル1本を処方して、注射後捨てたものを患者が拾って使用した、と
いう言い逃れ。来院時に400単位を1度に注射したことにして、1〜2週
間は効いている形にした>。


1986年、研究のスタートから10年目、
血糖自己測定が健保適用に  (2003年9月)
 血糖自己測定を導入した糖尿病の自己管理がスタートした頃(1976
年〜)、今では誰もがあたりまえと思っているインスリン自己注射は、医
師法に違反するという非合法のもとで行なわれていた。日本医事新報
(1971年)の読者質問欄ではインスリン自己注射の正当性について、当時
の厚生省担当官は「自己注射は全く不可であり、代わりに経口血糖降下剤
の使用があるではないか」と回答している。これが1970年代の実態だった
のである。このような状況に対して、当時の「日本糖尿病協会」は、イン
スリン発見50年を迎えて、なおインスリン自己注射が認められない現状を
打破すべく10万人の署名を集めた。そして厚生大臣をはじめ関係各方面
に、インスリン自己注射の公認と健保給付を陳情したが全く受け入れられ
なかった。

正当化されたインスリンの自己注射(1981年)
 このような状況だったため、インスリンの自己注射容認と、インスリン
自己注射に関わる諸費用の健保適用までには、なお多くの人の尽力と歳月
を要した。そして結果が出たのは1981年(昭和56年)。この年ようやくイ
ンスリン自己注射の正当性の認知とこれの健保適用が得られた。その内容
は当時行なわれていた慢性疾患指導料200点に、もう200点加算するという
ものであった。これはその後の医療のあり方に大きな影響をもたらし、血
糖自己測定も含め、患者を中心にした医療の実践の必要性と有用性の実証
へと繋げられていった。


<血糖自己測定の健保適用(1986年)(園田死して2年後)

C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\血糖自己測定25年.htm

インスリン自己注射の健保適用から5年後、私たちが血糖自己測定研究を
スタートさせてから10年目、大方の予想を上回る速さで血糖自己測定の健
保適用がなされた。これはインスリン自己注射指導料に加算する形で設定
された。

以後、何度かの改定を経て、保険点数には血糖自己測定に必要な簡易血糖
測定機器、試験紙(センサー)、穿刺用器具、穿刺針、消毒用アルコール
綿など必要な機器や備品の全ても含まれるようになっている>。

1人の政治家の柔軟な頭脳による1秒の決断が日本の歴史を変えたといって
もいい決断だった。この事実を厚生省は大げさに発表しなかったが、元秘
書官として責任をもって報告する。(文中敬称略)2007・05・24