2011年09月19日

◆日中は角栄の政局手段

渡部 亮次郎

例えば「ウイキ」にはこうある。

<田中内閣の外交業績としてまず挙げられるのは、日中国交正常化である。

背景として、1972年1月にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中華人民共和国を訪問したこと、および三木武夫が総裁選における田中支持の条件として日中国交正常化を条件としたことがある。

これによって田中は中華人民共和国から「井戸を掘った恩人」と評価された。日中外交の先駆者という意味であり、田中が金脈問題で失脚した後も?小平が田中の私邸を訪問し敬意を表している。>

忘れもし無い。9月25日こそは田中角栄首相の初訪中の日であり特別機にテレビ界を代表して同乗を許され、同行取材を開始した日である。1972(昭和47)年。今から39年前。来年は日中国交正常化40周年である。

田中の親分は佐藤栄作。岸信介首相の実弟にして運輸次官から政界入りした官僚派のチャンピオン。角栄はその下で派閥佐藤はの資金作りを黙々として信用を得たらしい。佐藤が7年の長期政権を降りるといった時、真っ先に手をあげた。

このとき、自他共に許すライバルとして立ち向かったのが福田赳夫であった。大蔵官僚上がりの秀才とされ、かねて佐藤は彼を後継者に見た立ていた。しかし、党内の人気は薄かった。

同時に大平正芳、三木武夫、中曽根康弘が立候補。彼らはいずれも日中国交回復を条件に田中氏支持を表明した。佐藤支持を背景にする福田と接線の戦いを余儀なくされる田中だったが、決選投票で大勝利したのは当然だった。

記者の矩を越えて、佐藤のところへ電話で福田への梃入れを要請したが佐藤は言を左右するばかりだった。当時佐藤は生まれ故郷に帰省していた。

この点について党内のある実両者は「カネがまわったのだろう」と推測し後に「3億円だったよ」と教えてくれた。確たる証拠は無いが、耳にしたことを書いておく。

首相特別機の他に記者団80人の特別機が同行した。到着した北京空港は昼過ぎ、快晴。ブラスバンドが盛んに鳴らされた。街路樹の植えられた道をだらだらと北京のホテルへ急いだ。

田中首相、大平外相、二階堂官長官と中国側周恩来首相らとの交渉は休みなく行なわれたようだったが、発表に来る都度、官房長官は「発表するものは、ありません」。

それでも29日、突如、人民大会堂で、日中両国首相日中共同声明に調印、発表した。整列する記者団席から見つめていた。

○ 国交を樹立(日本側、戦争で中国国民に重大な損害を与えた責任を痛感して深く反省、

○ 復興3原則を尊重、中国側は賠償放棄

○ 両国、平和友好条約締結に同意)

なお、大平外相は記者会見で「日台条約は存続の意義を失い終了」と表明した。

これに至るまで田中首相ら3人は深夜、通訳帯同も許されずに毛沢東主席への表敬が許されたが、我々記者団にはカラー写真が翌朝、中国側から配布されただけだった。

かくて一行は上海に1泊して帰国したのだが、それからの田中内閣も三木内閣も日中平和友好条約の締結交渉に失敗、福田赳夫内閣にひきつがれ、園田直外相が6年ぶりに締結した。

振り返ってみると、角栄も園田も中国側から見て「井戸掘り」の恩人だが、彼ら自身は何の政治的メリットを負ってない。

ただ、角栄だけは、これによって政局の求心力を増したから、マイナスではなかったろう。それでも「金脈」で失脚し、ロッキードで裁判に引き出されて脳梗塞で死亡。園田もその先に腎不全で死亡した。足跡は歴史にしか残ってない。(文中敬称略)2011・9・17

2011年09月15日

◆歩行回復顛末記

渡部 亮次郎

2011年9月4日、栃木県の鬼怒川温泉で目覚めたが、右の膝に言い知れぬ痛みを覚え、歩きにくくなった。求めた杖や家人の肩を借りて、用事をこなし、なんとか帰京した。

5日は毎日服用している血液さらさら剤「ワーファリン」の効き目を検査する大学病院の定期検診日である。まず採血室を訪れたが「担当医からの指示」が出ていないと採血拒否。博士でも採血指示を「忘れる」こともあるらしい。

指示を出しなおしてもらった。この時点で相当、頭に血が上っているが、真実、血が出ていたのは昨日痛めた右足だった、内出血らしく、青黒く、2倍ぐらいに腫れている、気が気ではない。

神経内科の担当医(教授)の診察では、肝腎のワーファリンは効きすぎだ、期待値は「2」だったが、なんと「4・5」に上がっている。

「そういえば先生、昨日から右足が腫れて痛いんですけど」「どれどれ、ありゃ、これは右足動脈に血栓が詰まり、血液が漏れ出したのかも知れない、形成外科で診てもらってくれ、とにかく暫く入院してください」。私は帰宅したら近所の整形外科医院で診てもらおうと考えていたのに、えらいことになってしまった。

こんなことになるとは想像していなかったが、なんとなく手間がかかるとは思って、メルマガやブログの読者には「暫く休刊する」旨を書き残してきた、2−3日の休刊を想定していたにすぎない。

あとで聞けば、早々にMRIによる撮影ができれば、入院は長引かなかったらしい。ところが大きな大学病院。撮影待ちの患者がすでに40人に達していた。地方の大学病院なんかでは考えられないこと。しかも、私には「40人待ち」の事実は隠したまま。

とりあえず初日は形成外科で、足その他に動脈血栓があるかを調べてもらった。しかし「血栓(血の塊)はありません」。猛烈、不味い夕食で日が暮れた。4人部屋に3人。隣と頭上から猛烈な鼾。足の血は頭にのぼった。

いちいち書いていたらハラが立つ。鼾は睡眠薬でのがれた。特に酷かった老人(こちらも老人だが)が翌日退院していったので鼾は半減。私も酒を呑めばどうか知らんが、家人が私の鼾で苦情を言うことは無い。睡眠薬で何とか朝を朝らしく迎えた。

盛んにCTを撮る。レントゲンを何回も撮る。当然、骨折など、異常は発見されず。毎日のように採血する。腫れが黴菌から来ているかどうかだという。3日間も培養したが何も発見されなかった。

私の入院を決定したのは脳神経科である。だが、もはやどう考えても足は脳ではない。足は足である。足の痛さを治すのは形成外科ではなく整形外科と思う。だが脳神経科は最後まで私を放さなかった。

入院6日目、脳神経科の研修医が突然「病名は滑液包炎(かつえきないほうえん)です」と夕刻に宣告。「どなたの診断ですか」と問えば「各科協議の結果です」。なんだか、訳が分からない。

新しい鼾屋が隣に来た。パーキンソン症候群に脳出血を併発したとか。頭ははっきり、計算も出来るが、咳が絶えない。隣人は寝不足。

病院は医師が最高権力者、看護師は医師の指示以外、何もできない。逆に言えば、研修医の指示でも指示である。その下に介護士。車椅子押しとか、配膳は介護士の役目。私はこんな差別職場は務まらないだろう。

12日夕方、突然、整形外科医のところへ車椅子に乗せられて行った。今朝ようやく撮影できたMRIの画像をみて「膝の関節に水が溜まっているから抜きましょう」。針は痛かった。それよりも驚いたのは出てきたのが水ではなく血液だったことだ。ワーファリンで薄くなった血液はMRIでは水に映るのか。

「これは何かの拍子に傷ついた膝の関節にワーファリンで薄くなった血液が大量に出血したものですね。関節内血腫です。散歩のし過ぎで弱っていた関節に何かの拍子に傷がついたのですね。老齢化も手伝っているでしょう。殆ど再発は無いでしょう。内出血は次第に吸収されて、足の太さは元に戻るでしょう」。

病室に戻ると、神経内科の女医が来て「明日退院」が宣告された。

早々に整形外科に転科し、さらに直ちにMRIが撮影できれば湿布だけで治るものだったのだ。それを脳神経科に捕まったばかりに酷い目にあった。

不必要な検査を様々に受けさせえられた結果、内臓は実に健康であると言う結果を得た事はよかったが。それにしても予期せざる出費を余儀なくされた。2011・9・13
 

2011年09月13日

◆山田敬蔵が勝った日

渡部 亮次郎

郷里(秋田県)にも凄い奴がいると子供心に奮い立ったのは大館市の青年山田敬蔵がアメリカのボストンマラソンで優勝した1953(昭和28)年4月20日のこと。私はやっと17歳、高校2年になったばかりだった。

敗戦からまだ8年しか経っていなかった。食糧不足は穀倉地帯秋田県といえどもまだ十分とはいえなかった。それが証拠にその2年後、東京の大学に入ったとき、役場に届けて精米60キロを携行したほどだ。

山田はそうした中で黙々と走り、既に前年の1952年、戦後の日本が初参加となったヘルシンキオリンピックに、マラソン日本代表として出場。25位ではあったが、敗戦国の汚名をスポーツで雪いでいたのだ。「秋田県人 ここにあり」。

山田敬蔵(やまだ けいぞう、1927年11月30日―)は、日本のマラソン選手。秋田県大館市出身。

1953年4月20日ボストンマラソンにおいて優勝。記録は2時間18分51秒。当時世界最高記録とされた(のちに距離不足が判明している1951年〜1956年は41.360キロ)。

距離の短いのは主催者側のミスであって山田に落ち度は無い。だから山田の優勝は敗戦で打ちひしがれていた日本国民に対し水泳の古橋と共に勇気をあたえた。

だからその活躍の様子は、1954年大映によって「心臓破りの丘」と題して映画化された。監督木村恵吾、脚本須崎勝弥、主演根上淳である。

山田は秋田県では英雄である。1961年の秋田国体炬火リレーの最終走者を務めた。さらに2007年の秋田わか杉国体でも80歳を超えていたのに炬火リレーの走者(最終走者の直前の走者)となった。

大館市では、毎年4月29日山田記念ロードレース大会を実施している。

ボストンマラソン(Boston Marathon)は、毎年4月にアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンで開催される。1897年に第1回大会を開催し、オリンピックを別にするとマラソン大会ではもっとも古い歴史を持つ。

誰でも走れるわけではなく、参加には参加資格タイムをクリアしている必要がある。

日本人では、瀬古利彦が2回優勝している(1981年・1987年)。 このほかの日本人優勝者としては、

田中茂樹(1951年) 2:27:45
山田敬蔵(1953年) 2:18:51
浜村秀雄(1955年) 2:18:22
重松森雄(1965年 )2:16:33
君原健二(1966年) 2:17:11
采谷義秋(1969年) 2:13:49
がいる。

このうち、田中・山田・浜村の走ったコースは後に距離不足が判明し、いずれも記録抹消の憂き目を見ている。山田と浜村の記録は当時世界最高記録とアナウンスされていた。

女子での日本選手の優勝はまだない。ただし、日本出身で米国籍を取得したゴーマン美智子が1974年と1977年に優勝している。

2006年の大会では、日本からは土佐礼子、嶋原清子が招待された。

ボストンマラソンは、世界の大きなマラソンで初めて女子の参加を認めた大会であるが、決して簡単に実現したものではなかった。

1960年代まで、女性がマラソンを走ることは生理的に困難であるという見解が陸上競技の関係者の間でもごく当たり前に語られていた。

そうした中、女性の権利拡張運動とも相まって、ボストンマラソンへの参加を求める女性が出現したが、主催者側はこれを拒否した。

1966年、彼女たちの中からレース当日に、女性とわからないように変装して出場を強行するランナーが出たのである。当初、主催者側は出場を認めていないとしてそうしたランナーを排除しようとしたが、それをかわしてゴールにたどり着いた。

やがて年を追って女性の「非公式参加者」が増え、主催者側もこれを黙認するようになり遂に1972年の大会から、正式に女子の参加が認められるようになった。したがって歴代優勝者のリストにおいて、1966年から1971年までは「(非公式)」という但し書きされる。

1980年の大会では女子の先頭を切ってゴールしたのは、ロージー・ルイーズという選手であった。

しかし、レース途中で彼女を見ていないという複数の証言や、ゴールしたときに彼女のウェアにほとんど汗がついていなかったことから、主催者側は彼女が途中で何らかの方法で近道をしたと判断し、優勝を取り消した。

代わってカナダのジャクリーヌ・ガローが優勝者となった。こうしたマラソンの「キセル」は、1904年のセントルイスオリンピックでも起きているが、草創期ならともかく現代のマラソンでこうした事件が起きたことは多くの人を驚かせた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(再掲)



2011年09月08日

◆「死んで堪るか」の真実

渡部 亮次郎


河野 一郎(こうの いちろう、明治31(1898)年6月2日 - 昭和40(1965)年7月 8日)は、昭和時代の政治家。自由民主党の実力者。従2位勲1等旭日桐花大綬章。国会議員であるが選挙区である神奈川県の県政を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。しかし河野自身は内山県知事を「天皇」と呼んで対抗していた。

参議院議長をつとめた河野謙三は弟。衆議院議長をつとめた河野洋平(引退)は次男。衆議院議員河野太郎は孫である。

神奈川県足柄下郡豊川村(現在の小田原市成田)の豪農・河野家に生まれる。父治平(じへい)は、豊川村長、神奈川県会議長を歴任した。母はタミ。

大正12(1923)年早稲田大学を卒業。在学中は箱根駅伝の選手。謙三の方が早かったらしい。朝日新聞社に入社。

昭和6(1931)年犬養毅内閣の山本悌二郎農林大臣の秘書官となる。昭和7(1932)年2月、衆議院議員総選挙に神奈川3区から出馬し、当選する。当選後は、立憲政友会に所属した。

鈴木喜三郎総裁の後継をめぐる党内抗争では、鳩山一郎を担いで奔走したが、中島知久平が優位に立っていた。河野は、久原房之助を擁立して対抗し、政友会は、正統派(久原派)と革新派(中島派)に分裂するに至る。昭和17(1942)年の翼賛選挙では、非推薦で当選した。

敗戦後、昭和20(1945)年11月に旧政友会正統派の勢力を糾合して、鳩山一郎を総裁とする日本自由党を結党。幹事長として、鳩山内閣の結成に奔走するが、昭和21(1946)年5月4日鳩山に公職追放令が下り、吉田茂が後継総裁として大命降下をうけ組閣に取り掛かる。

組閣をめぐっては、吉田が旧政党人を軍部に迎合したとみなし人事について相談しなかったことなどをきっかけとして、不倶戴天の間柄となる。更に6月20日には、河野自身も公職追放となった。弟謙三が身代わりとなって地盤を守った。

昭和26(1951)年8月7日に追放解除となり、三木武吉と共に自由党に復党した。以後、反吉田派の急先鋒として鳩山政権樹立に向けて奔走する。

昭和27(1952)年9月29日解散総選挙の目前に鳩山派に打撃をあたえるべく、石橋湛山と共に党を除名された。三木武吉の工作によって、12月に除名取り消し。

昭和28(1953)年3月14日、鳩山、三木ら21名と自由党から分党。吉田内閣不信任案に賛成投票し、バカヤロー解散・総選挙を実現させた。

11月に鳩山、石橋らが自由党に復帰した後も三木、河野ら8名の代議士(「8人の侍」と称された)は日本自由党を結成して、自由党反主流派と改進党の連携を模索し、ついに3派を合同させ日本民主党を結成し、鳩山を総裁とし、吉田内閣を打倒する。

第1次鳩山内閣で農林大臣に就任。第2次、第3次鳩山内閣でも留任する。昭和31(1956)年日ソ漁業交渉、日ソ平和条約交渉でフルシチョフ共産党第1書記を向うに渡り合う。10月に日ソ共同宣言を成立させ、鳩山首相と共に調印にこぎつけた。

この時、アルコールを一滴も受け付けない体質なのに、フルシチョフとのやり取りの経緯上、テーブルのウオトカを一気呑み。「部屋へ帰ってから水風呂に入ったり色々したがどうにもならない。あの時は死ぬかと思った」と後年、語っていた。

鳩山引退後の自由民主党総裁公選では、岸信介を支持し、石橋湛山に一敗地にまみれるが、岸信介内閣成立後は主流派となる。昭和32(1957)年の内閣改造では、経済企画庁長官として入閣。第2次岸内閣では党総務会長に就任。

しかし、昭和34(1959)年6月に幹事長就任を岸首相に拒否されたため、反主流派に転ずる。日米安保条約改定では岸内閣に批判的立場を取り、衆議院における強行採決では、三木派とともに河野派は欠席した。岸は死ぬまで河野を怨んでいた。

岸退陣後の自由民主党総裁公選では、党人派の結集を画策し、大野伴睦、石井光次郎を擁立するが、官僚派の池田勇人に敗れる。

一時、河野新党(いわゆる第2保守党)の結成を目論むが、大野らに翻意を促され断念する。大野の仲介により池田首相に接近をはかり、昭和36(1961)年7月の内閣改造で農林大臣として入閣。

昭和37(1962)年7月の改造では建設大臣として、東京オリンピックの担当相として辣腕を振るった。池田が病のため、退陣するに当たっては後継総裁候補の1人に擬せられたが、後継総裁は佐藤栄作に落ち着いた。

この時の前後が私が担当記者となる。NHKでは誰もが恐ろしくて担当したくないというので、新人の私に大役がいきなり回ってきたのだ。昭和40(1965)年6月3日の内閣改造では、閣内残留を拒否した。この直後、7月8日大動脈瘤破裂のため急死した。67歳。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられるが、息子河野洋平が語った所では、家族を安心させるために「大丈夫だ。死にはしない。」という穏やかなものであったということで真実では無いが、党人政治家の最期の言葉として人口に膾炙している。法名禅岳院殿大光政道一義大居士。

「死にはしないよ」を「死んでたまるか」とNHKニュースで流した犯人は誰あろう、私である。歴史を曲げた。ここに謝罪し、訂正します。

この夜、枕元で無邪気に遊んでいたのが河野太郎と妹の2人で、「心配ないから、子供たちを寝かしなさい、死にはしないから」と言うものだったが、翌日の夜には、あっさり、死んでしまった。

倒れる前日、つまり1965年7月6日の夕方、私は河野さんと単独会見をした。夕方、麻布台の河野事務所を訪ねると、大広間で転寝をしていた。口から涎を垂らし、いうなれば、ダンディらしくないイギたなさであった。

ダンディーぶりはただ事ではなかった。ハリュッドで会ったデボラ・カーに握手を求められた時、差し出した自分の手の爪は汚れていて恥かしかった、と爾来、服装に気を遣い、マニキュアまでするようになっていた。ノー・ネクタイの記者には会わなかった。

参議院選挙の疲れかな。29歳の私はその程度にしか感じられなかった。しかしそれが命取り「腹部大動脈瘤破裂」の前兆だったとは。

隣のビルは建設大臣当時は、建設省分室だったが、その頃は河野さんの私物になっていた。ところが、誰をも入れなかった。それなのに、その日は私を4階の自室まで連れて行った。

そこは畳敷きの和室だった。「ここに入る他人はキミが初めてだよ」と言いながら、「近く中曽根(康弘)クンを派から除名しようと思うんだ」という爆弾発言をした。

河野派4天王の1人を除名するとは穏やかではない.しかし、こういうとき、質問してはいけない。「奴はね、ベトナム戦争の見学と称して川島クンに従いて行きたいというんだよ」

川島正次郎は池田勇人が喉頭癌で政権を投げ出した時、河野の願望を差し置いて後継者にあっさり佐藤栄作を据えた張本の副総裁である。河野さんは許せなかったのだ。

「ボクはこれからデートだ。明日は平塚の(有名な)七夕(たなばた)だからね。参議院選挙の当選祝いを平塚の自宅でするからね、キミも是非来たまえ」と言って別れた。デートの相手は?言わない。

ところが翌朝、腹痛で倒れ、藤尾正行代議士のはからいで日本中の名医が枕元に集まった。腹部大動脈瘤破裂。当時の医学としては手の「施しようの無い」病気だった。翌8日午後7時55分「お隠れになりました」と日本医師会会長にして主治医の武見太郎が発表した。

私はその30分前に、既に死亡原稿を全国に放送していた。枕元に集まった側近たちがお題目を唱え始めたのを「死」と早合点したのである。河野さんの命日のたびに反省とともに思い出すが早合点の癖は未だに治らない。

「河野派から中曽根除名」のニュースは遂に流れなかった。中曽根は「河野精神を体して」とか何とか我田引水の主張を繰り返してとうとう中曽根派の結成に成功し、総理総裁の地位を獲得したことご承知の通り。私はこういう人生は嫌いだ。

なお、腹部大動脈破裂は弟の謙三も奇しくも患うが、医学は進歩していたので、何事も無く助かった。

(文中敬称略)  (再掲)

2011年09月04日

◆「チョロ」の国家機密

渡部 亮次郎

日本の元総理大臣が外国に招待されて打ったゴルフの第1打が、あろうことか「チョロ」だった。本人すかさず側近に「これは国家機密だッ」と緘口令を敷いた、という笑い話。

隅田川に上がる豪快、華麗な花火(2007・07・25)を見ながら聞かされた話だ。福田赳夫が総理を辞めてから、朴正煕韓国大統領が殺害される3ヶ月前の話だというから、時は1979年7月。ソウル市郊外の有名ゴルフ場である。

歴史書を紐解けば、福田は自民党総裁選には初めは田中角栄との「角福戦争」(1972年)に敗れて雌伏。やっと1976年に大平正芳との密約成立により総理総裁に就任、70をとうに過ぎていた。

密約の在任期間は「2年」。ところがもっとやりたい福田は密約を一方的に破って大平に対抗出馬。やはり、あえなく敗退。「天の声にも時には変な声がある」との迷科白を吐いて恥かしさを誤魔化した。

私はこの頃すでに外相園田直(すなお)の秘書官だった。それ以前はNHKで福田派担当記者だったから、福田を比較的、良く知っていた。誘われてゴルフも何回となくしたが、ロンドン仕込みとはいえ腕前は上等とはとても言えなかった。

その福田が朴大統領に招かれるについては、親分岸信介と朴との関係に遡って親密な関係にあった。朴は先にライバル金大中拉致事件では当時の総理田中角栄に現ナマを贈って政治解決を図るなどしたが、岸・福田ラインとの親密さは不変だった。福田を慰労し、発展する韓国を見せたかったのだ。

花火を見上げながらの話だと、朴は福田を招待するについて、随分気を遣った。特にゴルフについては福田が老齢ゆえ、きつい坂は堪えるだろうと春ごろに坂を削るなど改造させて待った。

当日は側近の安倍晋太郎、石原慎太郎、森喜朗らが同行。迎える朴大統領は一行の靴下やパンツからクラブなど道具一式を選り取りみどりをデパートを現地に出張させて用意するという念の入れ方。図体の特に大きい森の身体に合うサイズ取り揃えてあったのには一同感服。

大統領が日本の前総理とゴルフをするというのだから、警備は大変。警察官がティーグラウンドからフェアウェーに沿って10mおき、後ろ向きに並ぶ。北朝鮮が攻めてきたら大変、それに備える態勢だから緊張が走る。ボールが当る危険性、十分。

かくて朴が第1打。あっ、なんと30mぐらいの「チョロ」。上空から警備のヘリの騒音に緊張したのか。

朴正煕は植民地統治下の朝鮮慶尚北道善山郡(現在の亀尾市)で生まれた。貧しい農村部家庭の末子であった。

小学生の頃は、学校に弁当を持っていけないほど生活は苦しく、酒に酔うたびに友人や側近に「俺は本当の貧しさを知っている」と語っていたという。

1963年8月に軍を退役し、大統領選に出馬。前大統領の尹を破り、自らが大統領の座に就く。1965年6月22日には、日本との国交を回復(日韓基本条約)。この条約の締結により得た資金を不足していたインフラの整備に充てた。福田がその頃、大蔵大臣だった。

ついで打ったのは福田。はっ、これはもっと酷い「チョロ」10mも行っていない。ところが福田は平然「三尺下がって師の影を踏まず!」一同、大拍手で緊張が解けた。直後、傍にいた顔見知りの日本大使館員に「これは国家機密!」と緘口令を敷いたのだ。

釜山・馬山で民主化暴動が起こっていた1979年10月26日、側近の金載圭KCIA部長によって射殺された(10・26事件)。享年61。国葬が執り行われ、遺体は国立墓地顕忠院に葬られている。朴大統領は1985年には自ら下野すると側近に話していたという。

葬儀に日本は本来、総理大臣大平正芳が参列すべきだったが、日韓議連会長岸信介を派遣した。手間取って岸は葬儀に間に合わなかった。

埋葬の儀は外国人はオフリミット。それでも岸はOK。大使館の韓国ととりなしなど苦労は大変だった。

やはり埋葬にしか間に合わなかったフィリピンのマルコス大統領夫人イメルダが大泣きして娘さんを抱きしめるのに、岸は沈黙。対照的だったそうだ。(文中敬称略)2007・07・31  (再掲)

2011年09月03日

◆幅広く人材起用 布陣固まる

渡部 亮次郎

野田信内閣は「ノーサイド」宣言どおり、党内から広く人材を集めた結果、安定した布陣となり、案外「長命」を予想される。菅と逆のことをやれば、国民は納得するのだから楽だ。

党内は早くも「ポスト野田」を狙い、当面、来年秋の党代表選挙に向けて「派閥化」を進めながら抗争を強めようとするだろうが、野田首相としては信じるところを愚直に進めば、道は開ける。

その時は向かってくるのは小沢氏かもしれないが、恐れることは無い。

<野田佳彦新首相(民主党代表)(54)は2日午前、新内閣の布陣を決めた。外相に玄葉光一郎国家戦略担当相(47)、財務相に安住淳前国対委員長(49)を起用した。

午後に天皇陛下による任命式に臨み、第95代首相に就任、閣僚の認証式を経て新内閣が正式に発足する。新首相が代表就任時に「ノーサイド」と宣言したように小沢一郎元代表のグループを含め党内から幅広く人材を起用した。

総務相兼沖縄・北方担当相に川端達夫衆院議院運営委員長(66)、経済産業相に鉢呂吉雄元国対委員長(63)、法相に平岡秀夫内閣府副大臣(57)、厚生労働相に小宮山洋子厚労副大臣(62)が起用された。

また、一川保夫参院議員(69)が防衛相、古川元久元官房副長官(45)が国家戦略・経済財政担当相、山岡賢次前副代表(66)が国家公安委員長・拉致担当相、中川正春元文科副大臣(61)が文部科学相、前田武志参院予算委員長(73)が国土交通相としてそれぞれ初入閣した。

行政刷新・公務員制度改革担当相には蓮舫元行政刷新担当相(42)が返り咲いた。

代表選を戦った鹿野道彦農水相(69)、平野達男震災復興担当相(57)は再任された。国民新党からは自見庄三郎金融・郵政改革担当相(65)を再任。細野豪志原発事故担当相(40)は再任の上、環境相も兼務する。

官房副長官には斎藤勁前国対委員長代理(66)、長浜博行参院議員(52)を起用。滝野欣弥官房副長官(事務)の後任には竹歳誠国土交通事務次官(61)の就任が決まった。

新首相は同日午前10時前、首相官邸入り。国民新党の亀井静香代表との会談後に組閣本部を設置し、入閣内定者を次々に官邸に呼び込んだ。官房長官に決まった藤村修氏(61)が午前10時50分から記者会見を行い、閣僚名簿を発表した。

新首相は2日夕、首相官邸で記者会見を行い、閣僚人事の狙いや政権運営の基本方針を説明する。その後、初閣議に臨み、各閣僚に基本方針を指示する予定となっている。

新首相は、財務相に岡田克也前幹事長(58)を充てる考えだったが、岡田氏が入閣を固辞したため断念した。
(産経ニュース2011.9.2 11:41)

2011年08月31日

◆小沢「派」で再結束

渡部 亮次郎


民主党代表選挙で又も負けた小沢氏は、かくてはならじと小沢「派」の結成に踏み切ることを表明した。じつは小沢氏支持のグループは3つも在り、鳩山G所属の海江田を担いで臨んだ今度の代表選挙でも1回目の投票で143票をまとめてトップとなった。

しかし決選投票では積み重ねに失敗、あえなく敗戦となった。つまりグループという結束力の弱い集まりでは「戦力」にはならないことを痛感させられたわけだ。

思えば嘗て角栄の下での田中派は、結束力の強さが戦闘力となった。嘗ての大平正芳幹事長対福田赳夫現職首相による「大福戦争」では、当初、大平は全く不利と見られていたが、カミソリ後藤田指揮による軍団の絨毯攻撃で、福田を総理の座から引きずり降ろすことに成功したものだ。

嘗て田中派にいてこれをつぶさに見た小沢氏は、「やはり派閥で無いと結束力に欠け、戦闘力にはならない」と今回、苦く振り返ったのだろう。

3つのグループを一つにまとめたうえに会長になって先頭に立つというのだから「軍団」の発足を思わせる。

小沢氏がこのように決意した事は、当面はともかく、来年の代表選挙をめざして刃を研ぎ始めたことを意味する。30日にめでたく首班に指名された野田氏、褌をきつく縛らないと、小沢氏によって嘗ての福田赳夫にされかねない。


<小沢氏が3グループを統合 会長就任へ 結束強化急ぐ

民主党の小沢一郎元代表は30日午前、衆院議員会館内で小沢グループの幹部約30人を集めた会合を開き、衆参で3つに分かれているグループを統合することを決めた。

近く発足する新グループは100人を超える規模の勢力となり、小沢氏が会長に就く見通しだ。

小沢氏は幹部会合で「私がグループをまとめて、今までにできなかったことをやる」と述べ、今後は自身が活動の前面に出ていく意向を示した。

代表選の敗北による求心力低下が背景にあり、小沢氏はグループの結束強化を急いでいる。

小沢グループは衆院当選1回生でつくる「北辰会」(約50人)、衆院の当選2〜4回生でつくる「一新会」(約40人)、参院小沢系(約20人)に分かれており、連携不足が指摘された。

会合には3グループに属さない原口一博前総務相、山岡賢次副代表、山田正彦元農水相も出席した。>
(産経ニュース 2011.8.30 13:01

◆本稿は、8月31日(水)刊「頂門の一針」2366号(渡部亮次郎主宰)に掲載
されました、下記「目次」に紹介する著名寄稿者の卓見を拝読ください。

◆ <目次>
・小鳩グループ依存の党役員人事:古澤 襄
・輿石氏の幹事長起用は信を失う:阿比留瑠比
・小沢「派」で再結束:渡部亮次郎
・金の暴騰は何かの予兆:宮崎正弘
・英国の暴動から何を学ぶ?:平井修一

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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◆アマデウスとは誰

渡部 亮次郎


東京・国立に住んでいる時に「アマデウス」という映画を観た。25年以上前だ。モーツアルトの伝記映画であった。モーツアルトの事は多少知っていたが、アマデウスというのが名前だとは知らなかった。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart,1756年1月27日 ―1791年12月5日)は最も有名なクラシック音楽の作曲家であり、また、ハイドン、ベートーヴェンと並ぶウィーン古典派3巨匠の1人。オーストリアのザルツブルクに生まれ、ウィーンで没した。35歳。

モーツァルトを描いた肖像画の中でも特に有名な絵は、モーツァルト死後の1819年にバーバラ・クラフトによって描かれたものである。端正な男に描かれているが、写真の無い時代。小柄、近眼、あばたの醜男だったという説もある。

作品総数は、断片も含め700曲以上に及ぶ。作品はあらゆるジャンルにわたり、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽、歌曲など)と器楽曲(交響曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノソナタなど)のどちらにも多数の作品が残されている。自身はヴァイオリンとピアノ演奏の双方に長けていた。

作品を識別するには、植物学者のルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが分類した作曲順の目録であるケッヘル番号(K.+数字)が使われる。ケッヘル番号は何度か改訂されており、最新のものは第8版である。

モーツァルト自身は、1784年以降に自作の作品目録を付けている。しかし、それより前の作品や、自身の作品目録に載っていない作品には、作曲の時期がはっきりしないものもある。

断片も含め700曲以上に及ぶというが、僅か35年の生涯でこれだけの作品を残したという事は当(まさ)に天才。楽譜に記しながら次の作品を頭に描いていたとしか思えない。

モーツァルトの作品はほとんどが長調で、装飾音の多い軽快で優美な曲が多い。これは、当時の音楽の流行を反映したもので、ロココ様式あるいはギャラント様式と呼ばれる。モーツアルトは歌い、ベートーヴェンは唸ると私が言ったのは当っている。

晩年に向かうにつれて、長調の作品であっても深い哀しみを帯びた作品が増え、しばしば「天国的」と形容される。また、短調作品は非常に少ないながら悲壮かつ哀愁あふれる曲調で、交響曲第40番ト短調のように人気が高い。

「下書きをしない天才」と言われることがある。モーツァルトが非凡な記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられている。自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿及び修正の跡が多く発見されているというのが事実である。

人気の高いピアノ協奏曲23番においては、数年前に書かれた草稿が発見されている。ただし作曲するのが早かったのは事実であり、例えば交響曲第36番はモーツァルトがリンツを訪れている間に作曲されたものであるが、父親との手紙のやり取りから彼が3日でこれを書き上げた事が分かっている。

交響曲第39番から41番までの3つの交響曲は6週間で完成させている。また別の手紙からは、彼が頭の中で交響曲の第1楽章を作曲したあと、それを譜面に書き起こしながら同時に第2楽章を頭の中で作曲し、今度は第2楽章を書き起こしている間に第3楽章を頭の中で作曲した、という手順を踏んでいたという事が分かっている。

モーツァルトの作品の多くは、手紙や各種の資料で確認できるように、生計を立てるために注文を受けて書かれた。モーツァルトの時代は作曲家がのちの時代のように「自己表現の方法として作曲し、聴衆にもそれが理解される」という状態には至っておらず、モーツァルトも芸術家というよりあくまで「音楽の職人」だった。

彼が子供の頃から各地を旅行して廻った理由のひとつが就職活動であり、ベートーヴェンのようにフリーランスとして生きていくことは非常に困難な時代だった。

従って、モーツァルトの作品はその時代に要求された内容であり、たとえば長調の曲が多いのは、それだけ当時はその注文が多かった(したがって人気があった)事の証でもある。

モーツァルトの作品はベートーヴェンの作品と比較してその差異を論じられることもあるが、決定的に異なっているのは二人がおかれていた社会的状況の差であると言える。

モーツァルトは病に伏す前に、妻コンスタンツェに「自分は毒を盛られた」と語ったことがある。また、死の後にウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。

しかし、当時モーツァルトの周囲の人間で毒殺を信じていていた者はいない。1820年ごろになって、ウィーンでは「サリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。

老いたサリエリは、1825年に死ぬまでこの噂に悩まされることとなる。この噂をアイデアとして、『モーツァルトとサリエリ』や『アマデウス』などの作品が作られた。

現在、国際モーツァルテウム財団(ザルツブルグ)にはモーツァルトのものとされる頭蓋骨が保管されている。頭蓋骨に記された由来によれば、埋葬後10年目にモーツァルトを埋葬した墓地は再利用のため整理され遺骨は散逸してしまったという。

この時、頭蓋骨だけが保管され、以来、複数の所有者の手を経て1902年に同財団によって収蔵された。

遺骨の真贋については、その存在が知られた当初から否定的な見方が多いが、2004年、ウィーン医科大学の研究チームがモーツァルトの父レオポルドほか親族の遺骨の発掘許可を得て、問題の頭蓋骨とのDNA鑑定を行うと発表した。

鑑定結果はモーツァルト生誕250年目の2006年1月8日にオーストリア国営放送のドキュメンタリー番組として公表された。

これによると、調査の試料となったのは頭蓋骨の2本の歯と、モーツァルト一族の墓地から発掘した伯母と姪のものとされる遺骨から採取されたDNAであった。

検査の結果、頭蓋骨は伯母、姪の遺骨のいずれとも縁戚関係を認められなかったが、伯母と姪とされる遺骨同士もまた縁戚関係にないことが判明し、遺骨をめぐる謎は解決されなかった。(ウイキペディア)

2011年08月29日

◆鹿野を無視した小沢の怨念

渡部 亮次郎


予想いたとおり、小沢は鹿野を無視し、泣き虫海江田を選んだ。

泣き虫は選挙の看板にはならないから、小沢軍団とはいえ、女性議員らチルドレンは小沢の指のあいだから逃げて、看板前原に走る可能性が無いわけじゃない。

<「海江田氏なら政治前進」=小沢氏、女性議員と会食

民主党の小沢一郎元代表は26日夜、都内のイタリア料理店で、三宅雪子衆院議員、谷亮子参院議員ら自身を支持する女性議員約15人と会食した。

出席者によると、小沢氏は党代表選で海江田万里経済産業相を支援する方針を決めたことを説明。「(海江田氏なら)どんどん政治が前に進む。国民の生活に直結する政策をやってくれる。決して諦めることなくマニフェスト(政権公約)を実現する努力を重ねていける」と強調した。> 時事通信 8月27日(土)0時45分配信

財源を見つけることができなくて実行不可能と決った「マニフェスト」。そのマニフェストに拘ることが海江田推薦の理由だと小沢は言うわけだ。これにチルドレンたちは納得するのだろうか。

とにかく小沢には走れる馬が1頭もいないのだ。さりとて前原にも野田にも乗れない。仕方ないから鳩山派にいる海江田を指名するしかなかったのだ。

ひょっとして農林水産大臣の鹿野道彦を指名すると言う観測もあったが、私は「絶対あり得ない」と思っていた。小沢の怨念が、そうさせない。それは何か。

<鹿野は海部党首退任後の第2回新進党党首選挙では小沢一郎の推薦人となり、小沢が当選後の明日の内閣では総務庁長官となった。

しかし鹿野らが推し進めてきた小選挙区制での初の選挙である第41回衆議院議員総選挙で新進党は敗北。この結果を受け、小沢ら執行部の運営に不満を持った羽田孜や奥田敬和らが離党し太陽党を結成するなど党内情勢が不安定に。

更に小沢や自民党の梶山静六・亀井静香らが提唱した保保連合構想によって小沢の求心力はさらに低下する。

1997年、このような状況を受けて小沢の再選を阻止すべく「今こそ新進党は生まれ変わらなければならない」と鹿野は自ら党首選に出馬。小沢と一騎打ちとなり、結果的に小沢の再選を許すも小沢230票・鹿野182票と善戦した。

選挙後、鹿野は小沢の手を取って選挙後の党の団結をアピールするが、小沢は鈍化路線に走り選挙9日後の12月27日に一方的に新進党解党を宣言する。

新進党解党後、党内の反小沢系の保守派議員を集め、1998年1月4日に国民の声を結成し代表に就任。さらに23日、太陽党・フロムファイブ(細川護煕代表)と合流し、羽田を党首にかついで民政党を結党。鹿野は党幹事長に就任するが、間もなく民政党は民主党に合流した。>(ウイキ)

自らに肉薄した者に対する怨念は忘れることができない。それが小沢なのだ。だから側近も離反してゆく。気がついてみれば党代表選挙に乗るべき馬が無くなったのがこの「怨念」である。

つまるところ、小沢は決定的な敗北を喫すれば、政治生命をもはや失いかけている。最早、政界にいてやることがなくなったから、失意の身を何処に置くのだろう。

前原の対抗馬に小沢が海江田を想定している事は、小沢が海江田の経済理論に凄く共鳴しているという情報から、或いはと想定していた。しかし海江田が国会審議中に泣くという飛んでもない失態を演じたので、見捨てたのかと思っていた。だが、こともあろうに西岡参院議長の名を出し、ルーピー鳩山にと止められると海江田しか居なかった。文中敬称略
 

2011年08月28日

世の中を見る目

渡部 亮次郎


私に最も強い影響を与えた人は河野一郎、園田直、重宗雄三。いずれも政治家である。私は大学に行ったが、友人は少なかった。NHKで20年近く暮らしたが、まともな先輩は後に会長になる島 桂次と政治部長になる飯島 博だけだった。

この中で政治家を見分ける手段を教えてくれたのは島である。島は海軍兵学校から東北大学を経てNHKに入局。初任地仙台から盛岡を経て東京政治部。

私は大学こそ違ったが仙台、盛岡を経て政治部という島と全く同じコースを辿って島と会ったのだ。だが、島はそうしたことに無関心だった。つまり「島派」の結成に無関心だった。

それで政治部長になれず、番組部門の部長に飛ばされてから、逆に参議院クラブにいる私をしばしば訪ねてくるようになって、親しく話した。

政局はフィルターをかけて見なければいけない。ある推論で政治家を見直すのだ。福田赳夫が佐藤栄作の後継者と目されているが、それは本当か、佐藤が角栄に傾く事は無いか、カネで福田を見捨てることはないか。

今だったら小沢がまた党代表選挙に立つ事は本当にあり得ないか。

自民党の古手の連中と「大連立」の約束を取り付けて新自由党を立ち上げる事はあり得ないか、考えてみろ、と言うだろう。

菅は政権にしがみつくといっているが、果たして可能だったか。不可能だというフィルターをかけて見てみろと言うに違いない。島にかかれば「角福戦争」で角栄は福田を保護している佐藤首相にカネを積むんじゃないかとも見ていた。

島は、単独会見しか信用しなかった。「不特定多数の記者の前で本音を語れる、度胸のある政治家なんていない。特定の相手にしか話さないのが人間の本性だ。だから記者会見を信用する奴はバカだ」

しかし、今の記者諸君は記者会見を頭から信用して紙面やテレビに流す。単独会見を試みようともしないようだ。だから見通しをしばしば誤る。菅や仙谷が例のビデオを隠してまで日中首脳会談の実現にはしる「愚」を止める記事を書けない。

自慢話と受け取られたら不本意だが、昭和40年代に総選挙の投票日を的中させて報道局長賞を受けたことがある。

NHK政治部の体勢は幹事長田中角栄の言う説を真実と放送したが、その時佐藤首相と向かい合った角栄が緊張して椅子に極めて浅くかけていたといった国対委員長園田直の話から、角栄は投票日の決定を佐藤から一任されていない証拠とみた。

そこで園田氏にどう見るか尋ねたところ「総理は縁起を担ぐから大安に拘るよ」だった。この主張が後に真実となり「訂正記事」が報道局長賞となったのだった。(敬称略)


2011年08月26日

◆張春橋の軟らかな手

渡部 亮次郎


(再掲)1972(昭和47)年9月29日、日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(日中共同声明)調印。日中国交回復。その足で田中角栄首相は周恩来首相と共に中国側の特別機で上海を訪問した。今でもそうであるように上海は中国の権勢のもう1つの拠点。敬意を表したのである。

その時、上海を代表して出迎えたのは張春橋であった。経歴を改めてみると1969年〜1973年 中共中央政治局委員となっているが、われわれ同行記者団には「上海市長」と紹介された。握手してくれた手はまことに軟らかく乾いていた。未だにあんな手を握ったことは無い。

そう、張春橋こそは、のちに悪名高い「4人組」の1人だった。毛沢東の指示により張春橋は翌日、上海空港からの見送り客を北京の2倍に増やしたのだった。そこで周恩来は別れ際、田中首相に言った、「天皇陛下によろしく」。私は離れたところに置かれたから聞いてないが・・・。

張春橋(ちょうしゅんきょう 1917年〜2005年4月21日)は中国元副首相、4人組の1人。山東省出身。

1930年代までは、上海の作家だった。1938年中国共産党に入党。『晋察冀日報』と『新石門日報』の編集長を歴任。

1949年10月の中華人民共和国成立後、『解放日報』の編集長、上海市常任委員、宣伝部部長、上海市書記候補などの役職に就く。

1958年、『破除資産階級法権』を発表、毛沢東に絶賛された。上海で江青と合流し、文化大革命の発動に関わる。そのおかげで出世はヘリコプターとたとえられる。

1966年〜1969年 中共中央文化革命グループ副リーダー
1969年〜1973年 中共中央政治局委員
1973年〜1976年 中共中央政治局常任委員

1975年〜1976年 国務院副首相
1975年〜1976年 中国人民解放軍総政治部主任

<この文化大革命(文革)によって浮上した江青(中央文革小組副組長の毛沢東夫人)、張春橋(副首相、政治局常務委員)、姚文元(政治局委員)、王洪文(党副主席)の4人とそのグループを「4人組」と言った。

文革では様々なグループが登場したが、林彪グループと並ぶ一大勢力を形成、主に上海を拠点にして活動した。

1971年9月の林彪事件で林彪グループが脱落した後に勢力を伸張。日中国交正常化後の73年8月の10全大会では4人全員が中央政治局入りした。

政治局内で「4人組」(4人幇)を形成、文革の主導権を確立した。その後、批林・批孔運動による周恩来批判、さらには復活していたトウ小
平の打倒へと向かった。

しかし、毛沢東は、1974年7月の中央政治局会議で「4人組をつくってはならない」と、江青、張春橋らを批判。10月には王洪文が長沙の毛沢東を訪れトウ小平を批判、筆頭副総理の就任を阻止しようとしたが、逆に毛沢東から叱責されるなど、必ずしも思い通りにはならなかった>。「現代中国ライブラリー」

 http://www.panda-mag.net/keyword/ya/yoningumi.htm

彼らが運動の拠り所の1つとした批林・批孔運動とは1973年8月から1976年まで続いたもの。林彪と孔子および儒教を否定し、罵倒する運動。中国の思想のうち、法家を善とし儒家を悪とし、孔子は極悪非道の人間とされ、その教えは封建的とされ、林彪はそれを復活しようとした人間であるとする。

中国の歴史人物の再評価も行われ、以下のように善悪を分けた。(以下には竹内実『現代中国における古典の再評価とその流れ』により主要人物を挙げる)善人=少正卯、呉起、商鞅、韓非、荀況、李斯、秦の始皇帝、漢の高祖、漢の文帝、漢の景帝、曹操、諸葛亮、武則天、王安石、李贄(李卓吾)、毛沢東ら。悪人= 孔子、孟子、司馬光、朱熹ら。

この運動は、後に判明したところによれば、孔子になぞらえて周恩来を引き摺り下ろそうとする4人組側の目論見で行われたもので、学者も多数孔子批判を行った。

武則天が善人の中に入っているのは、江青が自らを武則天になぞらえ、女帝として毛沢東の後継者たらんとしていたからだといわれる。司馬遼太郎が行った現地レポートによれば、子供に孔子のゴム人形を鉄砲で撃たせたりもしていたという。

司馬遼太郎はこの風景を見て非常に衝撃を受け、元々文化大革命に理解を示していたが、これ以降否定的になっていった。(ウィキペディア)

江青は中南海の懐仁堂で電撃的に逮捕。

<1976年1月に周恩来が死去。その後、第1次天安門事件などで民衆の反4人組感情が高揚した。トウ小平を再度の失脚へ追い込んだが、同年9月の毛沢東の死去で権威を失った。

上海からクーデターによる奪権を計画。「江青党主席、張春橋総理」による4人組支配を樹立しようとしたが、10月6日、汪東興が率いる8341部隊によって、中南海の懐仁堂で電撃的に逮捕された。

華国鋒政権による逮捕劇の背後には葉剣英ら軍長老たちがいた。ここに4人組の文革は終焉した。1977年7月の10期3中全会で党籍永久剥奪。続く8月の11全大会では、1966年以来11年にわたった文革の終結が宣言され、4人組は断罪された。

迫害、追放されていたトウ小平ら“実権派”の指導者たちの名誉は回復され復活した。「4人組」という表現は、主として失脚してから使われるようになった。

1981年の林彪・4人組裁判では、それぞれ死刑から懲役刑の判決が下された。このうち、江青は1991年に獄中自殺。王洪文は服役中の1992年に病死。張春橋は出所後の2005年に胃ガンで死去。姚文元も出所後の2005年末に糖尿病で死去している。「現代中国ライブラリー」

 http://www.panda-mag.net/keyword/ya/yoningumi.htm

張春橋の天国から地獄への道を敢えて示せば次の通りである。(「ウィキペディア」)

1976年10月、隔離審査。

1981年1月、最高人民法院特別法廷で、執行猶予2年付き死刑判決。法廷では黙秘を貫く。1983年1月、無期懲役、終身の政治権利の剥奪に減刑。

1997年12月、懲役18年、10年間の政治権利の剥奪に再減刑。 1998年1月、健康状態を理由に仮出所。 2005年4月21日、胃がんのため、死去。享年88。執筆2007・05・15

2011年08月23日

◆地熱発電と温泉宿

渡部 亮次郎


<地熱発電と言えば、もう大分昔になりますが、九州電力の地熱発電所を見学したことがあります。

その時、案内して下さった職員曰く、地中深く掘った井戸も時期がくると涸れてしまうので、又、あちこちボーリングをしなければならず、しかも、井戸も掘ったら百発百中ではなく、蒸気のとれる井戸に当たるまで何本か掘らねばなりません、1本掘るのに1億円程かかります、と。当時で1億円かかった費用が現在の技術ではどれぐらいかかるのか。

地熱発電が商業的に採算が取れにくいのはこのあたりに理由があるのかも知れません。大阪の頑固親父 2011・8・17>

<費用の件はよく解りませんが、開発の隘路として立地適地に国立公園が多いとか温泉地に与える影響とか多くが有り、一筋縄ではいかないという事を随分以前から聞いて (記事で見て) おりますが。>佐藤雄一 2011・8・18

郷里の秋田県で、友人の佐藤和志さんは仙北市田沢湖の国有林近くで「鶴の湯」という温泉宿を経営し、まあまあの実績をあげているが、原子力発電所の事故をきっかけに広まった脱原発の世論と、それに伴って急速に再浮上した地熱発電論に神経を尖らしている。

例えば、そう遠くない八幡平や湯沢での地熱発電への動きなどを考えると、悠長に構えはいられない。温泉が涸れないよう、反対への「武装」を早めに用意しなければならないと焦りの気持ちは高ぶる。

<岩手県八幡平市で地熱発電を検討

岩手県八幡平市、日本重化学工業、地熱エンジニアリング、JFEエンジニアリングは、岩手県八幡平市八幡平御在所地域で地熱発電の事業化に向けた検討で合意した。

同地域は、全国でも有数の地熱地帯だ。4者はこれまで、独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)から委託を受け、同地域の地熱開発促進の調査を行ない、最大で20〜50MW相当の地熱資源の腑存を想定した。

資源としてのポテンシャルの高さから地熱発電可能と判断し、今後、具体的に事業化の検討を進めるとともに、関係諸官庁と許認可の取得などについて協議する。

八幡平市は、再生可能エネルギーの実用性を探り、二酸化炭素排出量削減などの地球温暖化対策に取り組んでいる。日本重化学と同社グループ会社の地熱エンジニアリングは、日本初の松川地熱発電所を立ち上げるなど、地熱発電のパイオニアで、地熱探査や掘削、分析、蒸気生産管理などの資源開発で国内トップクラスの技術力を持つ。

JFEエンジニアリングは、地熱発電分野で全国18か所の発電所のうち、9か所で蒸気設備を建設しており、昨年度にはバイナリー発電システムを商用化した。今後は発電事業への参入も視野に入れている。

4者は早期に検討を進め、2015年には出力7000kW級の発電設備による送電開始を目指す。>2011年7月11日(月) 14時40分 JFE 特別編集

地熱発電は探査・開発に比較的長期間を要し、探査した結果地熱利用がかなわない場合もあり、火山性の自然災害に遭遇しやすいリスクもある。

しかし、運転に際して温暖化の原因となる指摘されているいわゆる温室効果ガスの発生が火力発電より少ない点、燃料を必要としない点、燃料の枯渇や高騰の心配が無い点で、優れたエネルギー源とされる。

また再生可能エネルギー(自然エネルギー)の中でも、安定的な出力が期待できない太陽光発電や風力発電とは異なり、需要に応じて安定した発電量を得られる地熱発電は、ベースロード電源として利用可能である。

地球全体でみた資源量も大きく、特に日本のような火山国においては大きなポテンシャルを有すると言われる。近年の枯渇性燃料の高騰によってコスト的にも競争力が増し、見直されつつある。

日本では1919年に帝国海軍中将・男爵山内万寿治が、軍人として国のエネルギー安全保障に興味を示し、大分県別府で地熱用噴気孔の掘削に成功した。

これを引き継いだ東京電灯研究所長・太刀川平治が1925年に出力1.12kWの実験発電に成功したのが最初の地熱発電とされる。しかし、微力だったことから、山内の死後程なくして地熱発電の実用は立ち消えとなった。

実用地熱発電所は岩手県八幡平市の松川地熱発電所(日本重化学工業株式会社)が1966年10月8日に営業運転を開始したのが最初である。私はこの前後、NHK記者として岩手県内に駐在していたので現地見学を果たした。

地熱発電は石油などの化石燃料を使わないクリーンエネルギーであり、日本では約5%しか自給できない天然ガスにも匹敵する貴重なエネルギーを国産で採掘できることから、原油価格やウラン等の核燃料価格の変動リスクがない国産エネルギーとして、見直しが進められている。

地熱発電はコストが高いとされているが、近年になって費用対効果も向上しており、近年の実績では8.3円/kWhの発電コストが報告されている。

特に、九州電力の八丁原発電所では、燃料が要らない地熱発電のメリットが減価償却の進行を助けたことにより、近年になって7円/kWhの発電コストを実現している。

現在のところ、日本において地熱発電によって生産されている電力の総容量はおよそ535MW(53万キロワット)で2010年段階で世界第8位である[22]。地熱発電に関わる技術は高く、140MWと1基としては世界最大出力の地熱発電プラント(ナ・アワ・プルア地熱発電所)を富士電機システムズ(現在は富士電機(旧富士電機HD)に吸収合併)がニュージーラン
ドに納入するなど、2010年の時点で、富士電機、東芝、三菱重工の日本企業3社が世界の地熱発電設備容量の70%のプラントを供給している。

H22年度の環境省によるポテンシャル調査では、理論的埋蔵量である「賦存量」は設備量にして約3300万kWと見積もっている。

そのうち、地形や法規制等の制約条件が考慮された「導入ポテンシャル」は約1420万kW、経済的要因等の仮定条件に沿った「シナリオ別導入可能量」は、シナリオによって108〜518万kW(温泉発電を含む)と見積も盛られている。

日本国内の地熱発電による発電量は世界的に見ても上位に位置するが、経済大国である日本全土の莫大な総発電量からすると、国内地熱発電の割合は0.2%を担うに過ぎない。

53万キロワットは、福島第一原子力発電所や美浜原子力発電所などにある中型原子炉1基分にすぎない。九州電力では比較的に地熱発電が盛んでが、それでも九州地方全域で生産可能な電力の総量の2%を占めるにとどまる。

日本で地熱発電が積極的に推進されにくい理由は、国や地元行政からの支援が火力や原子力と比べて乏しいこと、地域住民の反対や法律上の規制があるためである。

候補地となりうる場所の多くが国立公園や国定公園に指定されていたり、温泉観光地となっていたりするため、景観を損なう発電所建設に理解を得にくいこと、温泉への影響に対する懸念があること、国立公園等の開発に関する規制があることが地熱発電所の設置を難しくしている。

例えば、群馬県の嬬恋村では2008年に地熱発電の計画が浮上したが、その予定地が草津温泉の源泉から数kmしか離れていないため、温泉に影響が出る可能性が必ずしも排除できないとして草津町が反対している。

草津温泉では、地熱発電と温泉との因果関係の有無を検証するための地下ボーリング調査等を行うことにも断固反対している。

これら諸問題について、地熱発電を推進している日本地熱学会などの推進派グループでは、国立公園内にも巨大ダムや大型施設が立地していることから、環境省の裁量次第で建設できると反論している。

また、地下の地熱エネルギーおよび温泉資源についての科学的調査の結果、日本において地熱発電所が温泉などの周辺環境に影響を与えた事例が一例もないこと(ただし、外国では熱水の還元不足などから温泉に影響を与えた例がいくつか確認されている)から地熱発電所と温泉・観光地との共存共栄は可能であるとの見解を示している。

日本は火山が多く地熱発電に適しており、太陽光発電や風力発電に加えて地熱発電の開発も進めるべきだ、との指摘がなされてきた。

2009年1月には、20年ぶりに国内で地熱発電所を新設する計画が報道されている。2010年には、秋田県湯沢市での事業化検討に向けた新会社の設立や大霧発電所での第2発電所建設計画が進行している。

行政も、2008年には経済産業省で地熱発電に関する研究会を発足させたり、 2010年度には、地熱発電の開発費用に対する国から事業主への補助金を、 2割から3分の1程度にまで引き上げることを検討するなど、2008年から 2009年にかけては地熱発電の促進が積極化しつつあった。

しかし、2010年5月、民主党政権による事業仕分けにより、「地熱開発促進調査事業」と「地熱発電開発事業」の2事業が 廃止や白紙化を前提とした「抜本的改善」の措置をうけることが決定された。このことについて、日本地熱学会は懸念を表明している。

東日本大震災とそれに伴う福島第一原子力発電所事故により、再生可能エネルギー開発が喫緊の課題となったことを受け、2011年6月、環境省は、熱発電所設置における二大課題である「国立公園に関わる規制」および「温泉施設に対する影響評価」の見直し作業に入った。(ウィキペディア)23011・8・17

2011年08月22日

◆気高い「きだかい」

渡部 亮次郎


2007年12月19日NHK正午のニュースでアナウンサーが気高い(けだかい)と読むべきを「きだかい」と読んだと呆れて電話があった。記者の先輩だった人からである。

気高いがなぜ「きだかい」になったのか理由は調べようがない。深夜便に出るようになった男のアナウンサーは股引(ももひき)を「またひき」と読んだことがある。

私がNHK国際局でデスクをしていた時、女子アナウンサーは民社党の春日「はるひ」委員長と読み、内科、外科(がいか)と読んでこっちを仰天させた。

アナウンサーとは難しい商売である。間違って覚えてしまっている言葉もあるかもしれないが、つい咄嗟に口を出てしまう誤りがあっても、聴取者には言い訳が利かない。因果な職業であり、同情する。

しかし政治家の日本語誤用は許されない。額賀福志郎財務大臣(当時)の言語道断を「げんごどうだん」には呆れた。彼は早稲田大学を出て産経新聞の政治部記者だった。角栄番から茨城県議を経るという経歴豊富な教養人であるはずが、様にならない。

論功行賞を「ろんこうぎょうしょう」と連発した大臣がいた。なんとかコンチェルンの一族だったが、どの学校で何を習ったのか、早くに死んだから恥を長く曝さないで済んだと言うべきだろう。

自民党のある国対委員長は「がっぽうてきてだん」をとって野党の議事妨害を排除するという。記者団はみんな首を捻ったが、長老があとで「合法的手段」と助けてくれた。

それ以前には本会議場(全議員が一堂に会する会議)での演説で「ここで水を飲む」とト書(とがき)まで読んでしまった代議士がいたそうだし、追加更正予算を「おいかさらまさよさん」といった代議士もいたそうだ。

以後は学歴も向上したからこうした話題は少なくなったが、額賀氏の「げんごどうだん」は久々の事だったので言語道断の日本語と話題になったわけだった。

しかしわが大臣も旗幟鮮明を「きしょく」鮮明というものだからさぞかし外務省は陰で笑った事だろう。私も注意する勇気はなかった。殺陣(たて)をさつじんとも言った。

こういう話題は探せばいくらでもあるはずだ。しかも今は学歴は高いが勉強は全くせずに社会に出てくる子供が益々多くなっていることだから「きだかい」は序の口かと思う。多分「じょのくち」は分からないだろ
う。