渡部 亮次郎
モスクワのレーニン廟にはソビエト社会主義革命の主導者レーニンの遺体が防腐保存されているが、中国革命の指導者毛沢東の遺体も北京天安門広場に作られた毛主席紀念堂の瞻仰庁という部屋で、ホルマリン漬けでは無いが、防腐処理をした遺体として一般公開されている。
私が毛の遺体に初めて対面したのは展示されて約2年後の1978年8月11日午前9時(北京時間),折から日中平和友好条約締結交渉のため北京を訪問中だった外務大臣園田直と共に中国側の案内で対面した。
そのあと周恩来元総理の記念展にも案内されたが、周総理の場合は遺骨は散骨され、遺言により、墓地は建造されていないことを知った。
帰国後、園田氏は「周恩来は将来、墓が暴かれる事を恐れたのではないか、だから敢えて散骨を遺言したのだろう」と語った。そういえば、その後、経済の改革、開放路線を敷き、中国近代化促進を実現した?(トウ)小平も遺言で散骨を命じ、胡錦濤が散骨したとされている。
毛の遺体は兵士に守られた水晶の棺の中に、胸から下を中国共産党旗で包まれて安置されている。観光客には立止まって見ることは許されていないので、見られる時間はせいぜい1分程度だそうだ。http://bloggers.ja.bz/ykon/archives/000290.php
その部屋に入ると、正面の壁に大きく、「我々の偉大な指導者は永遠に朽ちずここに眠る」のような言葉が書かれ、その下に2名の兵士。その空間と観客とはガラスの壁で仕切られている。
観客は、緊張感のあるそのガラスの中を横目で眺めつつ、さっーーーと歩きぬけないといけない。がんばってゆっくり歩いても、実際に毛沢東の顔を眺められるのは、1分もないぐらい。
さて、問題の毛沢東。ガラスの壁の向こうで、しかもさらには水晶のケースの中に入っていて、距離は、5メートル以上、細部は全然分からない。ただ確かに毛沢東の顔をしているということは分かるものの、思ったよりとてもこじんまりとしている。
田中角栄首相が我々80人の記者団を率いて日中国交回復に訪中したとき、毛沢東は記者団の前には姿を曝さなかった。そればかりか田中首相の表敬訪問にさえ通訳は勿論政府随行者すらシャットアウトして真夜中に会ったぐらいだった。
それから4年後に毛は老衰状態で82歳で死去。当時、文化大革命の実行者たる毛夫人の江青らいわゆる四人組が死せる毛の威光を笠に着て政治の主導権を掌握して行こうとしていたから、遺体の防腐保存は一も二もなく決定された。
それを見守る国家主席は華国鋒。革命中に毛が農村の女に産ませた子供。彼も当時は毛の威光を頼りにしていたが、片や復活間もない?(トウ)小平は既に4人組はおろか華国鋒の打倒すら企図していた。園田訪中団のわれわれはそれを肌で感じ取っていた。
1996年は周恩来がまず癌で死去、それを追うように毛が9月9日に死んだ。途端にトウらに迫られた華国鋒は江ら4人組の逮捕を断行。やがて自らも引きづり降ろされトウ小平による改革開放路線の展開となる。
それにしてもトウが墓を残さなかったとは自らの未来を見通していたのだろうか。改革開放政策の行きつく先は毛が敵視した資本主義そのものであり、そうなった場合、中国「国民」は自らを一時的にしろ国家建造の妨害者として断罪する事が不可避である事を。
だとすれば毛沢東は共産主義革命の推進にあたって右腕とも腹心とも頼っていた周恩来と?小平の2人に最終的に裏切られる運命だった事になる。毛の遺体の展示は長くは無いだろう。