渡部 亮次郎
秋田県南秋田郡大潟(おおがた)村は、昭和32(1957)年に干拓がはじまるまでは、琵琶湖に次いで、日本で2番目に大きい”八郎潟”(はちろうがた)という湖だった。
八郎潟は、男鹿市船越(ふなこし)で日本海とつながっていて、淡水と海水がまる汽水湖だった。そのため、淡水と海の両方の魚がとれた。八郎潟のまわりの町や村の人々は、美しい”潟”の景色を眺めながら、漁業や農業で暮らしていた。
ワカサギ・シラウオ・フナ・ハゼ・ボラなど、淡水の魚と海の魚をあわせて約60種類もの魚がたくさんいた。潟のまわりには、約3000人もの漁民が生活しており、春から秋には船で網を引き、冬には氷を割って網をかけ、いろいろな道具を使いながら、たくさんの魚をとっていた。
また、工場で佃煮を作る人もたくさんいた。このように、八郎潟は、まわりの町や村の人々に多くの恵みを与えていた。しかし、雨が多い時などは、岸の近くの人々に水害をもたらすこともあった。
干拓は海産物に恵まれなかった秋田では、八郎潟の水産資源はかけがえのないものだった。また、秋田では昭和23(1948)年頃になると米の自給体制が終わっていていた。
しかし、日本全体としては食糧難という事情があった。
干拓への計画
八郎潟周辺では、昔から、いろいろな人が干拓をして土地をつくることを考えていた。江戸時代には、払戸(ふっと)村(若美町)の渡部斧松(わたなべ おのまつ)という人が、岸の浅い場所を干拓して田を造った。
明治時代には、島義勇県令(県知事)がはじめて大がかりな干拓計画を立てたが、実行できなかった。大正、昭和にはいると、こんどは国の力で干拓しようと、何度も計画を立てたが、戦争が始まり、実行できなかった。
昭和20年、長く続いた戦争が終わり、日本全国が大変な食糧不足になった。そこで、今度こそ八郎潟を干拓して広い土地をつくり、米を作ることになった。
しかし、漁業をやっている人々は、魚が捕れなくなるので反対した。そこで、漁業をやっている人々には、お金で償なったり、干拓した土地を与えたりすることで賛成してもらった。私の父の「干拓運動」もやっと実を結んで終わった。
私の祖父は日露戦争に狩り出されたが、その留守の間に、家督を継いでいた兄が氷上漁業中、氷が融けて流され水死していた。祖父が家督を継いだ。その長男が私の父だが、若いころから八郎潟干拓論を唱えて奔走。「ワタケイ バカケイ」といわれたものらしい。
干拓がはじまる
昭和27(1952)年7月、秋田県庁に八郎潟干拓調査事務所が発足し、干拓の計画づくりが始まった。
調査計画には、国の土地の約2分の1が干拓地というオランダから応援してもらうことになった。昭和29年に、オランダのデルフト工科大学のヤンセン教授とフォルカー技師が計画について報告した。この年の春、私は大学入学のため秋田を後にした。
昭和29年の世界銀行、翌30年の国際連合食糧農業機構FAO調査団が調査した結果、干拓事業の有用性が内外に認められた。昭和31年に農林省でオランダの協力を得て、今の大潟村を作るための計画ができあがった。
昭和32(1957)年、いよいよ干拓工事が始まった。最初は八郎潟の内側に堤防をつくり、南部と北部の排水機場も作った。堤防に使う石をとるために、湖岸の八郎潟町の山が一つなくなるほどだった。
昭和38年に堤防や排水機場などができてから、堤防でかこまれた中の水をかき出した。さらに2年後の昭和40年、すべての水をかき出し、八郎潟の底だったところが15,600ヘクタールの陸地になった。この面積は、一辺が100mの正方形の15,600倍もある広さ。
この干拓工事は、当時の最も進んだ科学技術の力で行われ、延べ約300万人もの人々が働き、20年におよぶ歳月と852億円の巨費を投じ、20世紀の大事業と言われるほどの大きな工事だった。
ヤンセン教授 (1902-1982)
日本滞在中は、八郎潟だけでなく全国の干拓地を見てまわった。
干拓をするためには、台風や洪水などの自然災害に遭わないよう、工期を短くすること、そのために徹底した調査と設計の必要性を説いた。
フォルカー技師 (1917-2000)
干拓地に村をつくる。
干拓でできた新生の大地に、いよいよ村をつくることになった。村の名前は、全国から募集して、「大潟村」と決定。この名前は、八郎潟のことを昔「大潟」とよんでいたことから。
村の誕生日は、昭和39(1964)年10月1日。そのころ、無数の貝殻でおおわれた大地があらわれはじめた。干拓で陸地になったと言っても、村には何もなかった。大潟村に住む人々が安心して暮らせるように、その後、道路や田んぼ、用水路や排水路、それに家やいろいろな建物が少しずつつくられた。
村民の入植
大潟村は、広い農地で大型機械を使った新しい農業のモデルをめざし、たくさんの食糧を生産するためにつくられた村。入植する村民は、全国から募集した。入植した人々は、試験を受けて合格し、1年間、入植指導訓練所で新しい農業の勉強をした。
それから家族といっしょに大潟村に住むことになった。このようにして、北は北海道から南は沖縄まで、全国38の都道県から589戸の農家の人々が入植した。また、農家だけでなく、他の職業の人々も住むようになッたのは当然。
新しい農業
全国から入植した人々は、希望にもえて新しい農業に取り組んだ。しかし、もともと湖の底だった土地は、ヘドロというたいへん柔らかい粘土でできた土。そのため、大きなトラクターやコンバインが土に埋って動かなくなったり、ヘリコプターで田んぼに直接種籾をまいても失敗したりして、たいへん苦労した。
そこで村の人々は、力を合わせて一生懸命頑張った。そのかいがあって、今では、たくさんの米もとれるようになったし、麦や豆、カボチャなども作られるようになった。また、たいへんおいしいと評判のアムスメロンやリンゴも作られるようになった。