2012年02月01日

◆国会審議のシナリオ

渡部 亮次郎


国会論議を律しているのは憲法、国会法、衆参両院の規則だと思っている人が多い。六法全書に載っている。だが、実際に律しているのは、これらに基づく衆参両院の「先例集」なのである。これは市販されていないから、野田総理の答弁は質問をあらかじめカンニングしたようで緊迫感が薄い、などという頓珍漢な批判がでてきたりする。

予算初め各委員会はいざ知らず、本会議において、総理大臣の施政方針演説に対する各党の代表質問の内容は、予め各党から通告するというのが「先例」になっている。

これは総理演説が多岐に亘っている以上、各党の代表質問も当然多岐に亘る。だが正確な答弁を期するためには「準備」するのが政府の責任でもあるわけだ。

そのため政府側は質問に立つ議員もとに通って「質問要旨」を獲得し、各省担当者に質問要旨を送り、徹夜で「答弁」を用意、公邸の首相に届けさせる。

余談だが、折角役所にはいったのに、やらされる仕事は、野党議員のところに通う「質問とり」じゃないか、馬鹿ばかしいと辞職、奮起して弁護士になった人がいる。

役人が徹夜で作った答弁メモを総理が棒読みするから緊張感がまるでなくなり、質疑通告を予めするのは止めろ、といった批判がでることになる。しかし、国会はTVの視聴者を楽しませるためにやっているのではないから腑抜けの答弁はつづく。

まして質疑通告をやめる、先例をやめるのは殆ど不可能である。そんなことをしたら国会は大混乱におちいるであろう。

そこへ行くと各委員会(常任、特別ともに)委員会は事前の質疑通告は不要ということになっているから、傍聴者としては委員会審議のほうが、緊張感があって面白い。

特に国政全般に亘って行なう予算委員会の質疑こそは緊張感があって面白い。何を聞かれるか全く予想の付かない立場の担当閣僚とすれば、当に震える思いをさせられるのである。

思い出せば吉田内閣のころの「バカ野郎解散」も予算に員会で吉田総理が答弁して自席にすわりながら「バカヤロ」と呟いたのをマイクがひろったからおきた「事件」だった。

本会議に於ける各党代表質問は一方通行。再質問はよほどのことでない限りおこなわれない。だから代表質問は見ていて実に退屈なものなのだ。予算いいんかいがお奨めですね。                2012・1・31

◆したたか服部良一 を称える

渡部 亮次郎


1月30日は作曲家服部良一の祥月命日。NHKはラジオ深夜便で特集を組んで偲んだは良かったが、アンカー明石勇氏の解説は浅薄。彼が軍部におされた内務省の弾圧を潜り抜けながら志を貫いた「抵抗の人」だったことを知ってかしらずか一言も触れなかった。あえて再掲し、独りで服部をしのぶことにした。


2009.07.10 Friday name : kajikablog

大阪出身の作曲家服部良一(はっとり りょういち、1907年10月1日―1993年1月30日)は、日本の作曲家、編曲家、作詞家(「村雨まさを」名義で作品を出している)。大阪府大阪市平野区出身。

ジャズで音楽感性を磨いた、和製ポップス史における重要な音楽家の一人と「ウィキペディア」。名曲「青い山脈」「東京ブギウギ」を残した大作曲家だが、戦時中、内務省の検閲を欺いた「大物」とは誰も書かない。

「夜のプラットホーム」は戦後の昭和22年に発表され、大ヒットしたが、実はもともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。

1939年(昭和14年)公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷が吹き込んだ。だが、戦時下の時代情勢にそぐわないと内務省の検閲に引っかかり、同年に発禁処分を受けた。理由は「出征する人物を悲しげに見送る場面を連想させる歌詞がある」だった。

作詩 奥野椰子夫  作曲 服部良一
1 星はままたき 夜ふかく なりわたる なりわたる
 プラットホームの 別れのベルよ  さよなら さようなら
 君いつ帰る

2 ひとはちりはて ただひとり  いつまでも いつまでも
  柱に寄りそい たたずむわたし  さよなら さようなら
  君いつ帰る

3 窓に残した あのことば  泣かないで 泣かないで
  瞼にやきつく さみしい笑顔  さよなら さようなら
  君いつ帰る

昭和13年の暮、東京・新橋駅で出征兵士を見送る歓呼の声の中に、柱の陰で密かに別れを惜しむ若妻の姿。それに心を打たれた都新聞(東京新聞)学芸記者の奥野椰子夫。

作詞家としてコロムビアに入社して翌年1月に「夜のプラットホーム」として書きあげ、服部良一が作曲、淡谷のり子が吹き込んだのだったが、発売禁止。

だが、曲に愛着をもつ服部が一計を案じた。検閲官を欺こうというのである。レコードが輸入盤なら検閲を潜られる制度だったので、2年後の1941年(昭和16年)、「I'll Be Waiting」(「待ちわびて」)というタイトルの洋盤で発売した。

作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。

R.ハッターこそは良一・服部が苗字をもじって作った変名で、ヴィック・マックスウェルは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていたドイツ系のハーフの男性の変名だった。

策略はまんまと当り、この曲は洋楽ファンの間でヒットした。当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カロ楽団によってレコーディングされた。

このとき服部は、やはり先に発売禁止になった「鈴蘭物語」(作詞藤浦 洸, 唄淡谷のり子)を「Love‘s Gone(夢去りぬ)」作曲R・ハッターとしてB面に収録。人々はこれも外国曲として愛好した。内務省は服部にしてやられたのである。

肝腎「夜のプラットホーム」は検閲の無くなった昭和22年、二葉あき子が歌って大ヒット。それまでの歌手活動の中、ヒットはあったものの大ヒット曲のなかった二葉にとっては待ち望んでいた朗報であった。

「夢去りぬ」の方は霧島昇が歌いなおして、これまた大ヒットした。

服部良一は大阪の本庄で土人形師の父久吉と母スエの間に生まれた。小学生のころから音楽の才能を発揮したが、好きな音楽をやりながら給金がもらえる出雲屋少年音楽隊に一番の成績で入隊する。

1926年にラジオ放送用に結成された大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団。ここで指揮者を務めていた亡命ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテルに見出され、彼から4年にわたって音楽理論・作曲・指揮の指導を受けた。

1936年(昭和11年)にコロムビアの専属作曲家となった。やがて、妖艶なソプラノで昭和モダンの哀愁を歌う淡谷のり子が服部の意向を汲み、アルトの音域で歌唱した『別れのブルース』で一流の作曲家の仲間入りを果たす。

その後ジャズのフィーリングをいかした和製ブルース、タンゴなど一連の和製ポピュラー物を提供。淡谷のり子は『雨のブルース』もヒットさせ「ブルースの女王」と呼ばれた。

その後、霧島昇・渡辺はま子が共演し、中国の抒情を見事に表現した『蘇州夜曲』、モダンの余韻を残す『一杯のコーヒーから』、高峰三枝子が歌った感傷的なブルース調の『湖畔の宿』(発売禁止)など、服部メロディーの黄金時代を迎えた。

だが、大東亞戦争中は不遇。戦後は大活躍した。古賀政男がマンドリン・ギターを基調にした洋楽調の流行歌から邦楽的技巧表現を重視した演歌のスタンスへと変化したのに対し、服部良一は最後まで音楽スタンスを変えることなくジャズのフィーリングやリズムを生かし、和製ブルースの創作など日本のポップスの創始者としての地位を確立した。

日本のポップス界隆盛の最大の功労者である。曲自体も歴史的価値は別にしても今日でも全く魅力を失っていないものが多く、その意味では海外のクラシックやスタンダード・ポップスの巨人と並べて語るべき存在ともいえる。日本レコード大賞の創設にも尽力した。

1993年1月30日、呼吸不全のため死去。享年85だった。死後、作曲家としては古賀政男に次いで2人目の国民栄誉賞が授与された。なお『青い山脈』を歌った藤山一郎も国民栄誉賞を受賞している。

2007年12月30日、第49回日本レコード大賞にて特別賞を受賞。

息子は作曲家の服部克久と俳優の服部良次がおり、孫に服部隆之(服部克久の長男)、バレエダンサーの服部有吉(服部良次の息子)がいる。妹は歌手で服部富子。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2012年01月31日

◆秋田戦争があった

渡部 亮次郎


年月日:慶応4年7月11日(1868年8月28日)―同年9月17日) 場所:山形県最上地方と秋田県のほぼ全域 結果:新政府軍(秋田藩)の勝利

新政府軍

薩摩藩・長州藩・佐賀藩・小倉藩・新庄藩・久保田藩・本荘藩・亀田藩・矢島藩など

旧幕府軍

九条道孝・大山格之助・沢為量(奥羽鎮撫総督)・佐竹義堯(久保田藩主)酒井忠篤(庄内藩主)・楢山佐渡(南部軍総大将)

10,327名(久保田、本荘、亀田、矢島、平沢) 約2000名 (庄内、松山、仙台、上山、山形)

戦死者461名(久保田藩士) 戦死者332名、負傷者412名(庄内藩士)

こんな事実、秋田県の小中学校では全然教えてくれなかった、先生も知らなかったのだろう『ウィキペディア(Wikipedia)』に全面的に依拠する。

秋田戦争(あきたせんそう)は、戊辰戦争時、奥羽越列藩同盟を離脱して新政府軍に参加した久保田藩(秋田藩)が薩摩藩や長州藩と共に、奥羽列藩同盟の庄内藩を中心とした旧幕府軍を相手に繰り広げた一連の戦いの総称である。秋田庄内戊辰戦争ともいう。

政府から敵対視され、奥羽鎮撫隊の討伐対象とされた。庄内軍は仙台軍の応援を得て数的に優勢であったばかりでなく、御用商人本間家の金策でヘンリー・スネルより武器を密輸していたため、装備は東北諸藩のなかで最も充実していた。

庄内藩には農兵2,031名、鶴岡商兵184名などがいた。また、本多庸一など他の藩よりの自主的加勢もあった。

盛岡藩 盛岡藩は盛岡城で奥羽列藩同盟と新政府のどちらに味方するべきか連日論議が続いていた。勤王攘夷思想のある有力者も謹慎中の家老東次郎など多数いたからである。

そこへ京都へ上洛していた家老楢山佐渡が帰国し、各国の情勢を伝えた。楢山は京都で会見した西郷隆盛らの態度に不信感を募らせ、幕府側に味方することに心を決めていた。部下の一人は楢山を諫めるために切腹をし、また一人は脱藩をして楢山に抗議をしたが、楢山には伝わらなかった。

盛岡藩は列藩同盟に味方し、久保田藩に攻め込むことを決定した。

ただ、盛岡藩の影響が強いとはいえ独立した藩である八戸藩は藩主南部信順が薩摩藩主島津重豪からの養子であることもあり勤王派で、久保田藩と密かに連絡を取り合い、秋田戦争には参加しなかった。

また、遠野南部家は藩の大評定で強硬に新政府側につくことを主張し、秋田戦争に参加していない。

久保田藩 国学の第一人者であった平田篤胤の生没地である久保田藩は、平田の影響から若手を中心として勤王思想を持っている者がもともと他藩よりも多かった。

鳥羽伏見の戦いが終了して間もない1月15日、新政府は奥羽諸藩に東征軍を派遣するから応援するように命じた。2月17日、京都の東征大総督府は奥羽鎮撫隊総督九条道孝に会津・庄内両藩の処置についての回答を与えた。

九条道孝は海路仙台に到着、直ちに仙台・米沢両藩に会津討伐を命じ、4月6日久保田藩に庄内討伐を命じた。この命令を受けて久保田藩は亀田藩、本荘藩、矢島藩、津軽藩、新庄藩などと共同し由利地方や新庄藩に兵を集結し、庄内藩を攻めようとした。

ただ、庄内藩が討伐対象とされる経緯に疑問を持ち、薩摩藩の私怨と考える兵士も多く、士気はふるわなかった。

由利地区に攻勢にでた連合軍に対し、庄内藩はこれをいち早く察知し閏4月20日に攻撃した。そのため、久保田連合軍は総崩れとなった。その後、仙台藩の白石同盟の呼びかけにより、この連合はなし崩し的に解散となった。

奥羽鎮撫隊の命令を受けて兵を集めていた仙台藩、米沢藩は、逆に会津支持を表明した。仙台藩が白石会議を呼びかけると、久保田藩からは家老の戸村十太夫が出席して、奥羽越列藩同盟に調印した。

しかし、これは二面作戦であり、仙台から総督の九条道孝と参謀の醍醐忠敬が秋田に入り、領内に薩摩藩・長州藩・佐賀藩などの官軍が入ってきた。

奥羽越列藩同盟の盟主の仙台藩は動きを「奇怪千萬なり」と批判して、九条の仙台への引き上げを申し入れた。それに対して久保田城内で、勤皇派と同盟派が激しく争った。

最終的に久保田藩主佐竹義堯の裁断で、久保田藩は同盟離脱を決定した。そして大山格之助の命令で、仙台藩の使節の志茂又左衛門を殺害し、久保田城下に首をさらした。このことで仙台藩は烈火のごとく怒り、同盟は分裂して、秋田戦争が始まった。

経過庄内戦争 [編集] 山道口の戦い [編集]7月6日庄内軍は、山道口(内陸)の一番大隊・二番大隊の約1000名と海堂口(海沿い)の三番大隊・四番大隊の約1000名の二手に分かれて久保田藩領を進撃した。

7月11日未明、院内口に布陣した薩摩藩・長州藩・佐賀藩・小倉藩が、新庄藩の裏切りによる手引きで、庄内藩征討を目標に進撃を開始した。秋田との国境の新庄領金山(現・最上郡金山町)付近に布陣していた仙台藩を主力とする、米沢藩、山形藩、上山藩、天童藩の諸藩連合は新政府軍の先制攻撃を受けて潰走した。新政府軍は奥羽越列藩同盟軍の陣地を次々に撃破して、7月12日には新庄城下に入る。

白河口の戦いの応援に向かっていた庄内藩二番大隊は、久保田藩と新政府軍と戦うために、7月11日早朝に楯岡を出発して夕方舟形に着き、宿陣した。

一番大隊は天童で、二番大隊の使者に会い、同盟軍が大敗して、新庄が裏切ったことを聞いた。そこで、一番隊も援軍のために北上した。7月11日に金山に宿営した新政府軍は庄内軍が舟形に着いたという情報を得て、7月12日午後4時頃新庄城に入城した。

7月13日、新庄藩兵に案内させて、小国川をはさんで庄内藩軍一番大隊と二番大隊と砲撃戦を行う。しかし、庄内藩の一番隊の背後よりの奇襲により形成が逆転する。庄内軍は新政府軍の本営の四ツ屋を占領し、兵糧を奪う。

7月14日には一番大隊と二番大隊が新庄攻略作戦を展開する。二番大隊が迂回して新庄城を占領する。新庄藩主戸沢正実はすでに逃亡して、開城してあった。

そして、8月1日に院内、8月5日に湯沢、8月11日に横手、8月13日に角間川(大仙市)、15日に大曲(大仙市)と、新政府軍は同盟軍に押される形になり、開戦一ヶ月で久保田藩領のうち雄勝・平鹿の二郡全部と仙北郡の南半が同盟軍の制圧下に入った。

8月13日に横手を脱出した新政府軍は、神宮寺に退却して本営を置いた。そして、小倉藩、佐賀藩、久保田藩、新庄藩を角間川に置いて同盟軍の北上を阻止しようとした。

13日早朝仙台藩を先鋒にして同盟軍が進撃を開始するが、まもなく、仙台藩は敗走をはじめ、後方にいた庄内藩の二番大隊が代わりに攻撃した。敵は横手川を渡り、大曲方面に脱出しようとし大混乱に陥った。そこを、二番大隊が追撃して大勝利を収めた

8月14日に二番大隊は田村新田を出発して、昼前に角間川村についた。一方新政府軍は沢為量副総督が本営を神宮寺において、新たな増援部隊が次々に到着して神宮寺・太平山を中心に雄物川対岸に巨大な防衛陣地を築いていた。18日より庄内軍は神宮寺攻略を始める。20日と22日に攻撃をするが失敗する。

8月23日に新政府軍は角館から刈和野にいたる山道口にわたって大反撃を開始する。一番大隊の主力は大曲にあったが、午後4時ころ、玉川を渡河して花館を襲撃した。

薩摩の正規軍が庄内軍を前線を突破して大曲に進撃した。庄内藩は決死隊を編成して、薩摩軍の陣地を夜襲して、多数の薩摩軍兵士を捕らえる。

8月25日に、庄内二番大隊の酒井吉之丞と一番大隊参謀長坂右近助が相談して、角館攻略を決定した。8月26日に、午後2時頃庄内二番大隊は南楯岡を発して、角間川の渡しを越えて、翌日の午前2時過ぎに、大曲に入った。

庄内一番大隊は出発して四ツ屋の浅瀬に向かったが夜が明け、新政府軍の反撃を受けたので渡河を中止した。川端より引き返し、次の戦略目標の角館を攻めることに決して、横堀に宿営した。

28日に、国見で仙台兵と落ち合った。仙台兵を先鋒にして、庄内藩と松山藩で攻撃を開始した。新政府軍の強固な土塁陣地が多数あり、対岸高台の陣地や、大威徳山の砲台から激しく旧幕府軍を砲撃した。

また、角館に迫る勢いだった盛岡藩と挟撃して角館を攻略する予定だったが、盛岡藩は8月26日頃すでに敗退し、9月6日には自国に引き返していた。

新政府軍は、庄内藩と平戸藩が応援に駆けつけた。攻撃三日目に、冷たい風雨が吹き荒れ、玉川が増水して渡河が不可能。盛岡藩も現れなかったので、角館攻略を断念した。

海道口の戦い  別の海道口を進撃した三番大隊と四番大隊は、由利郡で秋田遊撃隊・有志の二隊・亀田藩・本荘藩・矢島藩に佐賀藩の砲撃隊が加わり、鳥海山中腹の三崎峠を踏破して、女鹿(山形県遊佐町)の陣地を急襲した。庄内軍のイギリス製のライフル銃200挺と弾薬を鹵獲して、村を焼き払い、青銅製のカノン砲などを鹵獲した。

しかし、吹浦から出陣した庄内軍三番大隊と四番大隊に包囲されて塩越(にかほ市象潟町)に退却し、7月28日に矢島・8月1日に塩越・8月2日に平沢が奪われた。

8月5日に上条(本荘市)で弘前藩、本荘藩、亀田藩、福岡兵が庄内四番大隊と4時間に及ぶ銃撃戦を展開した。庄内軍の援軍により、新政府軍は退却した。

そこで、奥羽鎮撫府参謀の前山清一郎が久保田軍と福岡軍と共に援軍に来て、庄内軍を攻撃した。久保田軍は突撃刀槍隊で切り込みを敢行した。しかし、最終的には新政府軍が退却して、8月6日に本荘城が奪われ、亀田藩は庄内藩に降伏した。

8月13日から14日には庄内軍三・四番隊が亀田城下に進駐し、8月17日に久保田藩は長浜(秋田市下浜長浜)付近まで追い込まれた。

刈和野・椿台方面の戦い  8月27日に二番大隊は大曲に転陣して、角館の戦いに出かけた一番大隊の留守を預かった。9月2日に一番大隊が大曲に帰還して、角館の戦いの戦況を聞いて、軍議を開いて、作戦を練り直した。

今度は、二番大隊中心になり、海道口の四番大隊と協力して、雄物川流域の福部羅付近を強行渡河する作戦になった。四番大隊は秋田城を目指して北上し、二番大隊は神宮寺の鎮撫軍の本営を攻撃し、一番大隊は大曲で神宮寺、角館の鎮撫軍をひきつけるという作戦であった。

9月7日午前2時に、二番大隊は大曲を出発して行軍して、9月8日に雄物川を渡河した。すでに、四番大隊が渡河して久保田兵と川口を守備していた福岡兵と交戦した。新政府軍は敗走して、庄内軍は北東に転進した。

9月に入ると、内陸を進んだ一・二大隊と由利から高尾山を越えて秋田に入った四番隊が連携した。9月9日には椿台(秋田市雄和)の目前に達した。

庄内軍が進撃の急報に接した鎮撫軍は、秋田藩の支藩秋田新田藩の陣屋がある椿台とその付近丘陵に兵力を集中して強固な兵力を集中した。ここは、久保田城まで16キロの地点である。

9月10日より、庄内軍は三手に分かれて椿台に総攻撃に入った。糠塚山を守備していた佐土原兵、秋田兵、本庄兵、福岡兵と交戦して、糠塚山を占領して安養寺から、椿台・椿川方面に攻め込んだ。

鎮撫軍の守備は堅く、9月11日より、鎮撫軍が反撃を開始して、激戦の後も決着がつかず、9月12日に庄内三番大隊が長浜に来襲して激戦が繰り広げられた。新政府軍の善戦により、庄内軍が雄物川を渡り敗走する。

8月28日に米沢藩が降伏すると、9月12日に米沢藩の支持により上山藩も降伏に決定し、9月13日に仙北の兵も上山に帰還することになった。

9月9日ごろから旧幕府軍の諸隊が仙台に集結して、城内では連日激論が交わされていた。9月12日に仙台に到着した米沢藩の降伏勧告に使者に説得されて、9月13日には藩論は恭順になった。

奥羽越列藩同盟軍は総崩れになった。旧幕艦隊を率いた榎本武揚と新撰組副長の土方歳三は、仙台藩に見切りを付けて函館に渡った。この状況下にあって、9月14日に庄内軍は軍議をひらいて、庄内に撤退し、本土防衛に徹することを決めた。

9月15日から、刈和野を攻撃して奪回戦を行った。一番隊の葉緒後からの奇襲により、16日午後2時ころ鎮撫軍は潰走を始めた。

一番隊は引き上げを助けるために、撤退戦を行った。盛り返した西軍の攻勢をかわしながら引き返した。9月17日に鶴岡自城では降伏の藩議が決定された。23日に庄内軍の全軍の帰還完了を確認した。

庄内藩の降伏 ]西郷隆盛・黒田清隆が米沢から鶴岡に入り、9月27日に鶴岡城内で降伏調印と城内・武器の点検を行った。庄内藩は降伏の条件として、賠償金70万両の献金を命ぜられた。黒田よるこの寛大な処置は西郷の発案によるとされ、庄内は西郷に感謝し交流するようになった。

南部・秋田戦線 扇田神明社の戦い  盛岡藩は将兵を鹿角地区に集め、戦闘準備を行った。8月9日(書面は8月8日)に戦書を久保田藩側に提出、白石同盟の脱退を名分に戦闘を始めることを告げた。戦闘は十二所から始まり、十二所の兵は潰走し後退した。

盛岡藩兵は11日大館南方の扇田村に進駐、家老楢山佐渡も隊列を組み進駐した。扇田村の住民は盛岡藩兵を酒肴で歓待した。ところがこれは罠で、酒肴で酔いつぶれた所を、十二所の兵が襲おうとした計略であった。

ところが、なぜか楢山佐渡ら将兵の主力は帰国しており、扇田神明社前に小数の盛岡藩の宿陣が駐屯しているだけであった。12日十二所勢は午前4時に盛岡藩兵を攻撃し、双方に死傷者が続出する。

8月13日、盛岡藩は一時将兵を久保田領内から引き上げた。小康状態に陥ったので、大館城城代の佐竹大和は将兵の再配置を行う。

11日には、弘前藩の対馬寛右衛門の銃士隊も庄内との戦いを中止し、大館に集合していた。しかし、銃は旧式銃がほとんどで新式のゲベロ銃がわずか5挺、兵力の質も量も盛岡側と比較して貧弱なのは明らかであった。

8月14日には弘前藩からの鉄砲100挺、弾薬1万発の陣中見舞いが届いた。

楢山佐渡の再攻撃は20日に始まった。楢山佐渡自ら指揮をして、日没までに一気に扇田村まで攻め寄せた。12日朝の攻撃は、扇田村住民の手引きがあると断定し、盛岡藩軍は扇田村に火をつけ400戸のうちわずか6戸を残して扇田村は灰燼となった。

このとき、女軍夫の山城ミヨが流れ弾に当たり死亡している。その後、山城は靖国神社に祀られた最初の女性となった。扇田村の敗戦を受けて、久保田側は大館城近辺に将兵を集め部隊の再編を行い、大館城を防衛しようとした。

大館城攻城戦  22日、盛岡藩兵は朝5時大館城を総攻撃した。激戦の後、久保田藩兵は次第に総崩れとなった。城代の佐竹大和は籠城する覚悟であったが、部下に諫められ城に火をつけ午前8時に脱出することとなった。大館城の門は午前9時に破られ、盛岡藩兵が突入し占領することになる。

午後1時、盛岡藩は大館と扇田の諸役をできるだけ集め「3年間の年貢を免ずる」と宣言した。

きみまち阪周辺の戦い  久保田藩側は険しい地形で難所として有名だったきみまち阪周辺を防衛地点と決め後退、本陣を荷上場村に置いた。一方盛岡藩側は23日は休兵とし、24日から一部の部隊を前進し始めた。25日盛岡藩本隊は綴子村に到着、さらに本道からきみまち阪方面と、間道の大沢村に向けて進撃した。

25日早朝、佐賀藩の総隊長である田村乾太左衛門が早朝カゴで荷上場村に向け急行した。26日には乾の部下の生駒小十郎が前線に到着、休む間もなく前線を視察し、本隊到着までの戦闘準備を行う。正午には5名の佐賀兵が到着し、大沢村での戦闘に参加した。

28日盛岡藩側にも佐賀兵の救援の噂が伝わり、きみまち阪の要害を抜こうと、本道と間道両方からの攻撃を行った。

本道からの攻撃は、険しい地形を利用し防衛した久保田藩兵により失敗した。本道の村々は撤退する盛岡藩兵によって火をつけられた。また、間道から大沢村に至った部隊は大沢村に火をつけ占領するものの、大沢村から山道を越え撤退した。

同夜、佐賀兵の本隊である遊兵隊300名が最新の銃砲を持って荷上場村に到着した。

29日は久保田藩側の総攻撃の日となった。早朝はきびしい寒さとなり、また数歩離れただけでも見えなくなるような濃霧の日であった。本道から攻めた久保田藩側は前山村の盛岡藩兵を攻撃、盛岡藩兵はほとんど反撃もできず砲弾を残したまま前山村から潰走し、坊沢村で防衛することになった。

坊沢村では激しい戦いになったが、背後から大沢村から間道を越してきた佐竹大和率いる久保田藩側の別部隊と挟み撃ちになり、盛岡藩側は坊沢村に火をつけ総撤退した。

岩瀬会戦と大館戦  30日と9月1日は両陣とも攻撃準備を行っている。2日午前6時に佐賀の大砲の音を合図に、岩瀬村において久保田藩側の総攻撃が始まった。

盛岡藩側も待ちかまえており、この岩瀬会戦が南部・秋田戦線の最大の戦闘となった。この戦闘では佐賀兵も一時撤退を指揮官に訴えるなど苦戦し。

また、盛岡側も楢山佐渡が敗兵を厳しく叱責するなど敢闘精神を見せたが、正午頃には大勢が決まり、盛岡藩兵は撤退した。このとき、米代川対岸にいた盛岡藩兵は久保田藩側の急迫に退路を失い、渡河する途中で多くの犠牲者を出している。

本隊は2日から5日には大館近郊での戦いが続いた。双方被害者を出しながら一進一退の攻防が続いた。大館南部の山道を辿った久保田藩の部隊は板沢村の盛岡藩の部隊を急襲。

盛岡藩側は前線から離れている場所の昼食時という不意を狙われ、幹部級の戦死者4名をだし、多量の軍資金や軍需品を置き去りにして敗走した。

この板沢での戦いでは、盛岡藩の熊谷助右衛門(直興、月郷とも)という武士が無抵抗で殺されている。不審に思った者が懐中を調べてみると、彼は『時勢論』という文章を懐中に忍ばせていた。熊谷は勤王派で上司に時の時勢を説いたが容れられず自分の考えを文章に表して死んでいった。

その後、この部隊は扇田村を奪回して、扇田村に陣を置いた。

6日朝6時に大館への総攻撃を計画していた久保田藩側だったが、盛岡藩側は扇田村が占領され退路を断たれる危険性をおそれたのか、5日夜に既に大館を総撤退しており戦闘はなかった。7日久保田藩兵側は藩境の町である十二所を回復した。

その後、十二所地区や雪沢地区で、終戦まで一進一退の攻防が続いた。盛岡藩側も藩境を突破されないように強硬に抵抗を行った。

盛岡藩の降伏  22日盛岡藩は降伏嘆願書を正使に持たせ久保田藩側に派遣した。25日に沢尻村で正式に盛岡藩の降伏が締結され、これでこの地区の戦闘は終結した。

戦後処理  久保田藩では藩士の3分の2が兵火にかかり、人家の4割が焼失した。奥羽鎮撫使に随従した15藩の約1万の将兵、新庄藩・本荘藩・矢島藩から逃亡してきた藩主・藩士の家族のまかないをすべて久保田藩が負担することになり、推定総額675,000両の戦費を消費した。

明治2年(1869年)に6月に賞典として、新政府から久保田藩へ2万石が下賜された。

後世への影響 2000年(平成12年)、秋田県角館町(現仙北市)で開かれた「戊辰戦争130年in角館」というイベントの各地の市長による座談会で、当時の宮城県白石市長・川井貞一が、奥羽越列藩同盟が負けたのは秋田の裏切りのせいであるという批判をした。

渡部註:道州制といっても「東北州」の運営は多難を究めそうなきがする。
それにしても、買ったから良かったが、藩主の決断がおそすぎた。そのために周りの各県から恨みをかったにしては、新政府薩長土肥からの信頼が浅く、秋田からは大将が出なかった。


2012年01月27日

◆陰では正恩氏を「ガキ」と

渡部 亮次郎


北朝鮮うわべの哀悼…表では(少なくとも)泣くふりをしないと連行されるから、皆泣いているが、本当は泣いていない者もいる」と携帯電話で伝えた、と読売のソウル特派員たちが、脱北者を通じてきた朝鮮国民の本音を探ってきた。「携帯電話」が魔法の道具である。

日本のテレビは泣き真似を「ニュース」として伝え、視聴者はそれを「真実」として受け取る。こうしてギャップがうまれ、政府が頓珍漢なことをやる。その典型が従軍慰安婦問題である。

<【ソウル=中川孝之、前田泰広】金正日(キムジョンイル)総書記の死去発表後の北朝鮮内部の様子が20日、ソウルの脱北者らに伝えられた情報で明らかになってきた。

厳冬の中、食糧難にあえぐ住民の様子について、「心底悲しんだ金日成(キムイルソン)主席逝去時と異なる雰囲気だ」との指摘が出ている。金日成主席よりカリスマ性において劣る金総書記と比べても、実績や住民への浸透度が乏しい金正恩(キムジョンウン)氏の新体制は今後、人心掌握で多くの困難に直面すると予想される。

韓国の脱北者団体「自由北韓運動連合」の朴相学(パクサンハク)代表は読売新聞の取材に、北部・両江道の住民と19日、電話で話したと明らかにした。

この住民は「19日は朝10時頃から、総書記死去のうわさが広まっていた。公開処刑や餓死は金総書記の時代になってひどくなった。正直言って、やっと死んでくれたと思う。国営テレビで悲しむ住民らが映っているが、あれは大半が演技だ」と語ったという。住民らが陰で金正恩氏を「ガキ」と呼んでいることも明かした。

他の韓国の脱北者団体の関係者によると、国境地帯に住む30代の露天商は「(外出禁止令が)恐ろしかったが、19日も午後に1時間ほど隠れて食糧を売った。表では(少なくとも)泣くふりをしないと連行されるから、皆泣いているが、本当は泣いていない者もいる」と携帯電話で伝えた。

この関係者は「建国の父である金日成主席が死去した時は、みな地べたに座り込んで慟哭(どうこく)したものだ。庶民の心に以前では考えられない変化が起きたようだ」と話す。

脱北者らの話では、北朝鮮の住民らは19日午前、理由を知らされないまま地区の集会所や学校などに集められ、金総書記死去を伝える「特別放送」を聞いた。> 読売新聞 12月20日(火)14時32分配信


2012年01月26日

◆友人を初めて肺癌で喪う

渡部 亮次郎


既に後期高齢者だから、これまで喪った友人知人、近親者は多数に上るが、肺癌では進藤精一さん(83)が初めてである。通夜が2011年12月10日、告別式が11日、浅草の東本願寺で営まれた。

肺癌(はいがん、Lung cancer)とは肺に発生する、上皮細胞由来の悪性腫瘍。90%以上が気管支原性癌 (bronchogenic carcinoma) 、つまり気管・気管支、細気管支あるいは末梢肺由来の癌である。

WHOの試算では、肺癌による死亡者数は全がん死の17%を占め最も多く、世界中で年間130万人ほどがこの疾患で死亡している。

日本では2005年の統計で、全がん死の19%を占め、男性では全がん死の中で最も多く、女性では大腸癌(結腸がんおよび直腸がん)・胃癌に次いで3番目を占めている。

肺癌は喫煙歴がある50才代のグループにもっとも多く見られる。西側諸国では、肺癌は癌患者数の第2位に位置し、男性でも女性でもがん死のトップである。

2001年にはおおよそ169,500名の新規肺癌患者が発見され、その内訳は男性が 90,700名、女性が 78,000名である。西側諸国では男性の肺癌死亡率は低下傾向であるが、女性の喫煙者グループの増大とともに肺癌死も増加しているそうだ。

2012年01月22日

◆「味の素」発明は104年前

渡部 亮次郎


「味の素」に特許権が降りたのは104年前だった。経済産業省特許庁は発明した東大教授池田菊苗(いけだ きくなえ)を日本の十大発明家の1人として顕彰している。

また、食品添加物として広く普及し日本のみならず世界の人々の食生活を豊かにした、と言っているが、昭和20年代の東北や北海道には味の素は無かった。昆布があり過ぎたからでもあるまい。

発明した池田菊苗は、元治元年(1864)京都に生まれた。明治22年東京帝国大学理科大学化学科を卒業し、明治32年から2年間、ドイツに留学した。

帰国後、明治34年に東京帝国大学教授に就任した。彼は、専門の物理化学の研究を行うとともに日本人の生活の改善と社会の進歩に直結するような応用研究に関心を持ち様々の研究を行ったが、この中に昆布の「うまみ」の研究があった。

彼は、昆布のうまみの成分を解明すれば調味料として工業的に生産できるのではないかと考え、研究を続けた結果、うまみの成分が「グルタミン酸ソーダ」であることを突き止めた。

これを主要成分とする調味料の製造方法を発明し、特許権を得た(特許第14805号、明治41(1908)年7月25日。我が母の生まれし年なり。今から104年前)。

「グルタミン酸ソーダ」は、彼の働きかけによって商品化され、調味料として広く売り出された。このグルタミン酸ソーダは、品質が安定しており食物に独特のうまみを与えるため、食品添加物として広く普及し日本人の食生活を豊かにした。

これが今日の「味の素」である。工業化をどこにさせるか。熟慮の結果、池田が依頼した先は鈴木三郎助。味の素株式会社の創設者である。

また、海外にも調味料として広く受け入れられた。彼は、大正12年に東京帝国大学を退官した後もグルタミン酸ソーダ製造技術の完成に熱意を注ぎ、主として甜菜糖の廃液を原料としたグルタミン酸ソーダの製造法の研究に従事した。昭和11年(1936)没。筆者の生まれた年だ。

ところで「味の素」株式会社の事である。

<味の素[株] あじのもと 〈味の素〉で知られる総合食品化学会社。2代目鈴木三郎助とその家族によって1888年創業された鈴木製薬所が前身。

神奈川県葉山で,ヨード製造を家内工業で行っていたが,化学薬品にも手を広げ1907年合資会社鈴木製薬所に改組(1912年鈴木商店)。

東大教授池田菊苗が08年に取得したグルタミン酸調味料製造法の特許の工業化を依頼された鈴木は,新化学調味料の製造に取り組み,同年11月〈味の素〉の名で売り出した。

しかし当初はまったく売れず,軌道に乗るまでに10年近い年月を要した。大正の末からは順調に伸び,海外へも輸出されるようになった。

35年宝製油(株)を設立(1944合併),味の素の原料となるダイズ油の製造を開始。第2次大戦後,46年2月社名を現社名に変更,50年に原料・製品の統制撤廃後は,急速に生産水準を回復,52年には戦前水準に戻った。

その後,グルタミン酸ソーダの製法転換(植物タンパク分解法から発酵法へ)に協和鍋酵工業に続き成功(1959製造開始)。これに伴い油脂関連部門を拡大,この部門でも大手になった。

また,多角化を進め,総合食品化学会社への脱皮に成功した。とくに加工食品部門の拡大が著しく,61年にスープ,63年コーンフレーク,68年マヨネーズ,70年マーガリン,調理済み冷凍食品と,相次いで新分野に進出した。

73年にはゼネラル・フーズ社と提携し味の素ゼネラルフーヅを設立,インスタントコーヒー等にも進出。最近では,飲料・乳製品部門,加工食品部門が調味料部門を上回る。

さらに海外進出の面では,戦後も1958年にフィリピンで味の素の生産を開始したのを最初に,欧米,東南アジアを中心に進出しており,海外売上高比率は連結ベースで2割に達する。

また近年は発酵技術を生かして医薬品分野への進出に力を入れている。>
世界大百科事典  2008・07・27


2012年01月21日

◆糖尿病だった明治天皇

渡部 亮次郎


わが国を近代国家として確立した明治天皇は、脚気は克服したが糖尿病についてはまだインスリンも発明されていなかったため、医師団もなすすべをしらず、明治45(1912)年7月30日、尿毒症を併発し61歳(満59歳)で崩御した。

大喪の日には、陸軍大将・乃木希典夫妻を初め、多くの人が殉死した。

同年(大正元)年9月13日、東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)に於いて大喪の礼が執り行なわれた。大葬終了後、明治天皇の柩は霊柩列車に乗せられ、東海道本線経由で京都南郊の伏見桃山陵に運ばれ、9月14日に埋葬された。

なお『聖徳記念絵画館』は、明治天皇大喪の為にしつらえた葬場殿の跡地に建てられたものである。

皇后陛下にお子はなかった。5人の側室に大正天皇をはじめ13人のお子ができた。

明治天皇は明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴として、絶対君主として国民から畏敬された。日常生活は質素を旨とし、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。

乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。

一方で普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官達を自分が考えたあだ名で呼んでいたという。

若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。

元田永孚の覚書(「古稀之記」)によると、天皇は伊藤博文の欠点を「西洋好き」と評していた。

当時「江戸患い」と呼ばれていたビタミンB1欠乏症(脚気)に皇后とともに罹られたが、英国留学帰りの海軍軍艦医総監になる高木兼寛の意見を容れて食事療法で全快した。

このため、高木は4度も陪食を賜ったが「脚気黴菌説」を譲らぬ陸軍医総監森 林太郎(森鴎外)は1度も招かれなかった。

明治天皇はまた今で言う2型糖尿病も患っておられた。しかし国内では糖尿病の研究がさっぱり進んでいないことを残念がり 1911(明治44)年2月11日、『勅語』によって、皇室よりの下付金150万円と朝野の寄付金を合わせて済生会が創設される。

天皇の意向により「恩賜」と「財団」は1行に書かずに、済生会よりも小さい文字で2行に組み文字にすることとなっている。

同年5月30日、「恩賜財團済生會」設立認可。

組織の運営は内務省が管理し、具体的な事業計画は地方自治体に委託す
る形式をとった。

1952年、社会福祉法人として認可。 現在は、厚生労働省が所轄している。

これでできたのが東京・港区赤羽橋にある済世会中央病院で、わが国糖尿病研究の中心施設である。

糖尿病の特効薬「インスリン」が発見されて一般化するのは1921(大正10)年。つまり明治天皇が糖尿病から来る腎不全による尿毒症で崩御してから10年後だった。

インスリンについては5人が、ノーベル賞を受賞している。インスリンを発見したバンティングとマクラウドが1923年受賞。その後も、1958年にタンパク質の中で世界で初めてインスリンのアミノ酸構造を解明したフレデリック・サンガー (Frederick Sanger)。

1964年にドロシー・ホジキン (Dorothy Crowfoot Hodgkin)が、1977年にはロサリン・ヤロー(Rosalyn Sussman Yalow)がラジオイムノアッセイをインスリンで開発した事で、それぞれノーベル賞を受賞している。

1921(大正10)年にインスリンの分離に成功。1型糖尿病における薬物療法として、現在のところ唯一の治療法である。インスリンは蛋白質であるため、消化管内で速やかに分解されることから経口投与不可能である。そのため皮下注射によって投与するしかない。

ところで明治天皇は教育に関しては儒学を基本にすべしとする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のような西洋的な教育論者が任命された事には不快感を抱いていた。

特に明治17(1884)年4月下旬に森が文部省の顧問である御用掛に任命される事を知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を一切拒絶し、6月25日まで2ヶ月近くも公務を放棄して引籠もって承認を遅らせている。

こうした事態を憂慮した伊藤は初代内閣総理大臣就任とともに引き続き初代宮内大臣を兼ねて天皇の意向を内閣に伝えることで天皇の内閣への不信感を和らげ、伊藤の目指す立憲国家建設への理解を求めた。

その結果、明治19(1886)年6月23日に宮中で皇后以下の婦人が洋装することを許可し、9月7日には天皇と内閣の間で「機務六条」という契約を交わして天皇は内閣の要請がない限り閣議に出席しないことなどを約束(「明治天皇紀」)して天皇が親政の可能性を自ら放棄したのである。

奈良時代に聖武天皇が肉食の禁を出して以来、皇室ではタブーとされた牛肉と牛乳の飲食を明治5年、自らすすんでし、新しい食生活のあり方を国民に示した。

明治天皇が西洋風に断髪した事で、国民も同様にする者が増えたという。

一方で和歌をよくし、残すべき文化は残し、取り入れるべき文化は取り入れるという態度を示した。

無類の刀剣愛好家としても知られている。明治14(1881)年の東北巡幸では、山形県米沢市の旧藩主、上杉家に立ち寄り休憩したが、上杉謙信以来の名刀の数々の閲覧に夢中になるあまり、翌日の予定を取り止めてしまった(当時としても公式日程のキャンセルは前代未聞であった)。

以後、旧大名家による刀剣の献上が相次ぎ、「水龍剣」、「小竜景光」といった名剣を常に携えていた。これらは後に東京国立博物館に納められ、結果として、重要刀剣の散逸が防がれることとなった。

写真嫌いは有名である。現在最も有名なエドアルド・キヨッソーネによる肖像画は写真嫌いの明治天皇の壮年時の「御真影」がどうしても必要となり、苦心の末に作成されたものである。

ただ、最晩年の明治44(1911)年、福岡県下広川村において軍事演習閲兵中の姿を遠くから隠し撮りした写真が残っており、これが明治天皇が最後に撮影された姿と言われている。

戊辰戦争で新政府と戦った東北地方を、強く憎んでいたといわれる。

戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の盟主に就任した輪王寺宮(北白川宮能久親王)を、台湾へ送り込んだ。北白川宮には現地での暗殺説が存在する。

明治天皇の内親王(天皇の娘)の長男である小林隆利(キリスト教の牧師)は母から聞いた話として、明治天皇が、「私が天皇の権限で日本という国を調べた結果、日本は神道である。しかし、神道は本来ユダヤ教である」と語ったと述べている。再掲  2010・9・25

◆糖尿闘病体験と終末期

渡部 亮次郎


48歳のとき、2型糖尿病を宣告された。如何なる治療法もなく放置すれば健常者より、10年は確実に早く死ぬという宣告。75歳で今生きているのはインシュリン注射のお蔭。

結論から言うと、母親の血族に糖尿病患者が多く、若くして卒中で死んだ伯父、その長女は失明の後死亡。その弟は存命中なるも闘病中。

母の姉の子供たちだから従姉兄だ。要するに糖尿病のDNAが私たち兄弟に遺伝。それが中年になって肥満と暴飲暴食を切っ掛けとして発症したのだ。これを2型という。

4つ歳の離れている兄は郷里秋田の地元紙の記者時代、30代で既に発症していた。

また、私が秘書官として外務大臣や厚生大臣時代に仕えた園田直(すなお)さんも30代後半、肥満がきっかけの2型患者。全く治療しないまま70歳、腎不全で死亡した。

その頃の私はまだ発症していないし、自分が糖尿病にかかりやすいDNAを所持しているという認識もない。大臣の腎機能が低下して、鍼師が「大臣のは糖尿病から来た腎虚ですからねえ」と言う科白を聞き流していた。

大臣は辞任後、腎臓が悪くなると、視力が急速に低下。腎臓が機能しなくなったので人工透析を始めた。69歳。「人工透析患者は数年しか生きない」と厚生省で役人から聞いていたから、あろうことか透析開始を遅らせた。その分、腎臓は悪くなっていた。

厚生大臣は初入閣(佐藤栄作内閣)の時と、鈴木善幸内閣の時と2回勤めたが、2度目の時、かねて糖尿病患者団体から陳情されていた患者のインシュリン自己注射を許可した。80年ぶりの快挙だった。しかし、自らはその恩恵に全く浴することなく盲目で死亡した。

私が発症したのは園田さんの死後まもなくであった。食後、口の中が粘つくので検査したら「立派な糖尿病」発症直後だった。「伝染したのかな」と思ったものだ。

私の治療は、当面、食事制限と散歩15分と決った。東京・港区赤羽橋の済生会中央病院の「糖尿外来」に月に1度通って経過を見るというものだった。しかし私より若い医者は「もっと血糖値を下げないと、どうなっても私は知りませんよ」と脅すばかり。

済生会は明治天皇の御下賜金でできた糖尿病の病院である。明治天皇は糖尿病や脚気を患われた。脚気は麦や豚肉を食べて治ったが糖尿病は日本では全く研究が進んでいなかった。天皇の直接の死因は腎不全だったが、その原因は糖尿病だった。

そこでお隠れになった後、御下賜金により作られて病院が済生会中央病院。

患者だって血糖値を下げようと懸命なのに、下がらない。何が欠陥なんだろうと相談に乗ってくれればいいのに「わたしゃ知らないよ」と言う態度。喧嘩して通院をやめた。50歳だった。

事情があって離婚した。それまで住んでいた国立から千葉に近い江戸川区葛西の賃貸アパートに移り住んだ。新しい妻には病気の事は話し、散歩も継続したが通院は再開しなかった。

報いはすぐ来た。ある朝起きたら周りが真っ赤だ。眼底の動脈が破れて出血したのだ。「眼底出血」である。厚生省時代の伝手を頼って港区高輪台にある船員保険病院(現在はせんぽ東京高輪病院)にかけつけた。

眼底でした出血は出血箇所以外に吸収箇所はない。したがって赤いサングラスを掛けた状態はすぐには解決しない、との御託宣。1週間ぐらいして出血はとまった。

眼科医はそこで、出血した毛細管の先端をレーザー光線で焼いて閉じるという。任せた。何百回とフラッシュを焚かれたような状態でヤキを受けた。あれから24年、4ヶ月ごとに検査してもらっているが、毎度「異常なし」である。

序に手術を遅らせていた白内症の手術も受けた。簡単だった。それでも大事をとって1週間入院した。世の中が明るくなった。余談だが義姉にもここを勧めて手術を受けた。「家の中がこんなに汚れているとは知らなかった」といった。

以後、治療はすべてをこの病院で受けることに決めた。膵臓に対しいてインシュリンを出すように催促する薬を10年ぐらい呑み続けたが、遂に破綻の日がきた。

中国へ渡り、上海で水道水を飲んだため酷い下痢を起こし、止まらなくなった。それでも膵臓への薬は呑んでいた為、血糖値が急速に下がり、失神して救急車で入院。

あわてて帰国したが、成田到着の直後に3度目の失神。正常値が100の血糖値は25に下がっていた。倒れた直後、隣席にいた友人が捻じ込んでくれた飴でたすかったのだった。あれを放置されたら確実に死んでいたはず。

(その友人も糖尿病。全くほったらかしをしたため2010年、60を待たずに脳梗塞で死んだ。インシュリンを注射していれば死ななかったが、言うことを聴かなかった)。

10年ぐらい前になる。以後、血糖値の管理が簡単だからとインシュリンの注射に切り替えて今日に至っている。初めは朝夕と2回の注射だったが、現在は朝の1回だけ。

園田さんの決断のお陰で、20日分のインシュリンがボールペン型の注射器に納まっている。針だけを毎回交換する。0・2mmと世界一細い針だから痛みは殆どない。注射が好きというひとはいないだろうが、痛くないのだから逃げる必要もない。

園田さんは武道の達人だったが、痛みには弱かった。想像以上に痛がりだった。だからインシュリン注射から逃げ回った。糖尿病の合併症として田中角栄は脳梗塞、大平正芳は心筋梗塞、田中六助は盲目などで死んだ。園田は腎不全。

糖尿病はそのものでは死なないが、伴って起きる合併症で死ぬのだ。それを防ぐのが注射によるインシュリンの補給。それでも万全ではない。血管や心臓が特別弱るらしく、血圧が高くなる。これは降圧剤の服用で抑えるが、血管の詰まりを抑える手段はなかった。

1996年にアメリカで血管に詰まった血栓を溶かす薬が発明された「TPA」。日本でも2006年から使用許可が厚生労働省から出た。長嶋さんは3時間を過ぎていたため、これを使えず、後遺症が残った。


脳梗塞や心筋梗塞には極めて有効だが、脳梗塞の場合は発症後、3時間以内の注射が必要。3時間を超すと脳が萎縮して回復不能となる。長嶋さんがそれだ。その後の主治医が私と共通。再掲 2011・5・18

(明治天皇と糖尿病をYAHOOで検索した結果、この文章が出てきておどろいた)

2012年01月19日

◆メシに良く合うのが洋食

渡部 亮次郎


洋食(ようしょく)は狭義では日本で独自に発展した西洋風の料理を指す。岡田哲は『とんかつの誕生』で、「パンと合うのが西洋料理であり、米飯と合うのが洋食」という説を唱えた。

私は東京向島の洋食屋へ良く行くが、そういえばここでパンをちぎっている客は見たことが無い。「米飯と合うのが洋食」とは良く言ったものだ。

フランス料理にならワインだろうが、洋食には日本酒は勿論、焼酎も良く合う。

幕末から明治期にかけて来日した西洋人(おもにイギリス人)たちを相手に生まれた西洋料理店の料理が 「洋食」のルーツである。それらの店で下働きしていた日本人コックたちは、のちに独立開業し、日本全土にその料理を広めた。

この流れとは別に、日本海軍はイギリス海軍を手本にして早くから西洋式の食事を取り入れ、洋食の普及に大きな役割を果たした。

これらの西洋料理は、日本の伝統的な「和食」に対して、次第に「洋食」と呼ばれるようになった。

かつて日本では肉食を忌避する習慣があったため、肉料理を主体とする西洋料理は日本人には馴染みにくかった。

しかし、1872(明治5)年、明治天皇が「これまで肉食を忌避してきたのは謂われのないことである」という趣旨のことを言ったという報道などもあり、庶民のあいだでも徐々に牛鍋などの形で肉食が広まった。

当時の洋食黎明期の日本で、西洋料理の食材を揃えることは難しかったが、徐々に改善された。日本人の味覚に合わせるためのアレンジが加えられることもあり、日本生まれの洋食としては、ポークカツレツ、カキフライ、エビフライ、ポテトコロッケ、ハヤシライス、オムライス、ドリアなどが挙げられる。

「とんかつ」のように、ほとんど和食と化したような料理もある。またエスカロップ(北海道根室市)やトルコライス(長崎県)のように、郷土料理と呼ばれている料理もある。

マカロニグラタン、クリームコロッケ、コンソメスープ、ポタージュ(フランス料理)、ビーフシチュー(イギリス料理)、ピカタ(イタリア料理)などは、西洋の調理法をほぼそのまま踏襲している洋食である。

これらは第2次世界大戦前では非常に高価であったが、戦後になってGHQの指導により西洋食材の普及が進んだこともあって、急速に日本人の食生活に広まり、ポピュラーな洋食となった例である。

1863(文久3)年、日本初の西洋料理店「良林亭」が長崎で開業。店主兼料理長は草野丈吉、パトロンは明治を代表する実業家の渋沢栄一と五代才助。外国人や薩摩藩士に重用された。

1868(慶応4)年、「築地ホテル館」開業。レストラン初代料理長はフランス人コックのルイ・ベギュー。このレストランが日本で最初のフランス料理店とされる。

1872(明治5)年、西洋料理のレシピ集「西洋料理指南」(敬学堂主人)、「西洋料理通」(仮名垣魯文)が出版される。

1876(明治9)年、日本人で初めて「フランス料理店」を名乗る上野精養軒が開業。後年、家人の父親がシェフを務めた。

1987(昭和62)年、和洋折衷料理という言葉が流行。東京の洋食店は1500店に膨らむ。

このうち、銀座の「煉瓦亭」は天ぷらのように大量の油で揚げるポークカツレツや、カキフライなどを考案し、のちの洋食に大きな影響を与えた。

1917(大正6)年、『コロッケー(コロッケの唄)』が流行。歌の内容は「ワイフを貰ってうれしかったが、いつも出てくるおかずはコロッケー、年がら年中コロッケー、アハハッハ、是りゃ可笑しい」。

新妻は、女学校で学んだ当時のハイカラな洋食であるコロッケを毎日張り切って作っていたのだが、亭主はうんざりしてしまったという内容である。

1924(大正13)年、東京神田に和・洋・中華のすべてを扱う大衆食堂「須田町食堂」が開店し、廉価(8銭)でカレーライスをメニューに載せるなどして人気となった。

このころ、お好み焼きのルーツである「一銭洋食」が駄菓子屋で人気となる。小麦粉を水で溶き、刻みネギなどを乗せて焼き、ウスターソースをかけて売られた。

1956(昭和31)年、アメリカ政府の「小麦戦略」により、日本で栄養改善運動と称して各地にキッチンカーが走り、洋食(および中華料理)が宣伝された。フライパン運動とも呼ばれ、4年余り続いた。

洋食でよく用いられる調味料のひとつであるウスターソースは、もともとイギリスの調味料であったが、大正時代に三ツ矢ソース、イカリソースなどのソースメーカーが関西に誕生して広まり、「新味醤油」「洋式醤油」などと呼ばれて様々な料理に用いられるようになった。記録によると阪神百貨店の大食堂では一人当たり160ccも使用したという。

ドミグラスソースやホワイトソース(ベシャメルソース)は、19世紀頃のフランス料理では主流のソースであったため、現在の洋食店でそれがよく用いられるのは、その当時の名残りと考えられる。

トマトケチャップが大衆化したのは第2次世界大戦後にアメリカ進駐軍が大量に日本に持ち込んでからである。

一般的に「洋食」は、西洋料理全般から西洋風の料理まで幅広く意味する言葉であり、「和食」に対する概念として用いられている。

しかし近年は、フランス料理は「フランス料理」、イタリア料理は「イタリア料理」というように、国名で呼ばれることが多いため、日本で独自に進化した西洋風の料理のことを「洋食」として区別される。

また石毛直道は『講座 食の文化 第2巻 日本の食事文化』で、「「洋食」は特定の欧米に限定されたモデルをもたない。それは、日本人が漠然とイメージした欧米一般のことであり、いわば日本で再構成された外来風の食事システムである」(同書p381)と述べている。

また村岡實は、平凡社の『世界大百科事典』の「洋食」の項のなかで、「洋食には多分に日本的な要素がふくまれている」と指摘している。
2012・1・17 <ウィキペディア>


2012年01月18日

◆流行歌手の晩年(続)

渡部 亮次郎


菊池章子(1924-2002)

下谷出身。天才琵琶少女として騒がれ昭和14年に「お嫁に行くなら」で歌手デビュー。18年の「湖畔の乙女」などでヒット。戦後は「星の流れに」や、「岸壁の母」がヒット。23年には大久保徳二郎と結婚、31年に離婚。

平成14年4/7に心不全で死去。本名は菊池郁子。住まいは品川区上大崎3丁目だった。妹も歌手で多摩幸子。孫の一仁はEvery Little Thingや浜崎あゆみの作品の作曲などを手がけている。

岸井明(1910-1965)

東京出身。歌うスターとして「タバコやの娘」などでヒット。158キロの巨漢を生かして活躍していたが、35年に眼底出血で倒れる。38年に引退。40年7/3午前5時7分、世田谷区世田谷3丁目の自宅で心臓衰弱で死去。葬儀は台東区元浅草の吉祥院で行われた。

霧島昇(1914-1984)

福島のいわき出身。新聞配達、タクシー運転見習いなどをしながら、東洋音楽学校を卒業。昭和11年にコロムビアでデビュー。13年に映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」が大ヒット。翌14年には、ミス・コロムビアと、山田耕筰の媒酌で帝国ホテルで結婚した。

またステージに出演中に赤紙が届き、客席から「若鷲の歌」の大合唱で送られたという逸話もある。戦後は「リンゴの唄」を皮切りに、夫人松原操の引退記念曲「三百六十五夜」などのヒットを飛ばした。

ステージに上がる前にはハーモニカを手に必ず楽屋で発声練習を怠らず、無口で真面目な人柄であった。大変なあがり症でこれは死ぬまで治らなかった。綺麗好きでもあり、楽屋の掃除を怠らなかったという。ステーキ好きな一方で、マラソンもかかさなかった。

58年にテレビ東京の「年忘れにっぽんの歌」に出演したのが最後のステージ。59年1月に入院し手術、3月には退院し元気にしていたが、4/24午後4時12分、腎不全で豊島区の一心病院で死去。本名は坂本栄吾。住まいは大田区田園調布1丁目だった。港区の長谷寺に眠る。子息の坂本紀男は東京音大教授。

楠木繁夫(1904-1956)

高知出身。東京音楽学校を学生争議で放校処分に。昭和5年に歌手デビュー「白い椿の歌」「緑の地平線」「女の階級」、「人生劇場」などが代表曲。戦中の19年には「轟沈」がヒット。戦後はヒットにめぐまれなかった。

30年11月には札幌の電電公社の慰安演奏で軽い脳溢血となり3ヶ月の療養を余儀なくされたが、将来を悲観、京都で当たった宝くじで新築したばかりの新宿区西大久保3丁目の自宅の物置小屋で31年12/14午後3時頃に首吊り自殺。

妻の三原純子は岐阜の高山市の日赤病院で療養中だったが、ラジオニュースで夫の悲報を聞き絶句したという。

当時売れっ子の歌手を含め、この自殺は芸能界に「自分もいつかは」と深刻な影を落とした。高山の法華寺には楠木と三原純子の比翼塚がある。後に老齢を迎えた古賀はこの比翼塚の前で号泣したという。

小唄勝太郎(1904-1974)

新潟生まれ、11歳で料亭の養女となり、昭和4年、13歳で上京し日本橋葭町で芸者となる。芸の葭町と呼ばれた東京屈指の花街の名を負って、5年、新内の美声を買われてレコードデビュー。

試験盤を37枚使って吹き込んだ「島の娘」が大ヒット。当時としては破格の60万枚のセールスという余りの人気ぶり。「東京音頭」、二匹目のどじょうを狙った「さくら音頭」など一連の「ハァ小唄」が次々とヒットし、一大ブームを巻き起こした。

軍医の真野博士と戦後に結婚、家庭人と歌手の二足の草鞋を生涯、履き続けた。真野博士は中国で10年の抑留生活の末の帰国だったが、ずっと思い続けていた勝太郎が銀座の喫茶店に呼び出したもの。

実は競馬好きで、競走馬まで所有していた事は知られていない。48年12月の東京12チャンネルの「なつかしの歌声」が最後のステージ。その後、風邪をこじらせ、慶応病院に入院。49年6/21午前3時、肺ガンのため、府中市八幡町2丁目の自宅で死去、葬儀は中野区の竜興寺で行われた。本名は真野かつ。

小坂一也(1935-1997)

名古屋出身。成城学園高校時代より進駐軍まわりのバンドに参加。18歳でワゴン・マスターズを結成し、昭和29年に歌手デビュー。カウボーイスタイルでカントリーなどを歌っていたが、32年には「青春サイクリング」がヒット。その後は映画、テレビなどで活躍。49年には十朱幸代と結婚、翌年に離婚。平成9年11/1午前6時10分、食道ガンで死去した。

小林千代子(1910-1976)

小樽出身。東洋音楽学校を卒業。松竹少女歌劇団で活躍。昭和7年「涙の渡り鳥」をヒットさせる。9年に夏川静江に婚約者だった新進作曲家を奪われて話題となった。51年11/25午後5時13分、膵臓壊死で赤坂病院で死去。住まいは渋谷区上原1丁目だった。 
             
佐藤千夜子(1897-1968)

山形の天童出身。終生、歌唱から山形訛りが消えなかった。東京音楽学校を中退後、昭和3年、「波浮の港」によって日本の国産レコード歌手第1号となる。「当世銀座節」「東京行進曲」「紅屋の娘」などヒットを飛ばし一躍、スターダムにのしあがった。

本来、クラシックを目指していた事情もあり、「東京行進曲」の印税で人気絶頂の4年にイタリアへオペラの勉強のため留学。しかしこれが千夜子の命取りになった。5年間のブランクは、もはやレコード界に千夜子の席を用意していなかった。

43年8月に医療保護患者として都立大久保病院に入院、12/13午後、ガンのため死去。生涯独身で家族はいない。天童教会の共同墓地に眠る。

訃報は新聞の東京版のみの掲載となり、その死を知ったのは都内在住者など一部に限られた。その数奇な運命はNHKの朝ドラ「いちばん星」のモデルとなった。故郷の天童には佐藤千夜子記念館がある。

小夜福子(1909-1989)

沼津出身。大正11年に宝塚少女歌劇団月組に入り、昭和2年に男役で人気に、14年には月組の組長になる。15年に「小雨の丘」でヒットを出すが、結婚し引退。

63年の舞台を最後に、芸能活動から引退。平成1年12/29午前9時、心不全で目黒の東京共済病院で死去。本名は東郷富美子。住まいは目黒区下目黒6丁目だった。

塩まさる(1908-2003)

福島のいわき出身。早稲田大学卒業後、千葉鉄道管理局に勤務。昭和12年にレコードデビュー。同年に「軍国子守唄」がヒット。14年には「九段の母」がヒットし、軍国調の歌を多く吹き込む。

同世代の歌手のほとんどが鬼籍に入る中、21世紀に入ってからも「私の子供みたいな年齢の」老人達の慰問に東奔西走する日々だった。平成15年10/16午前5時32分、老衰で死去。享年95.本名は塩正吉。

東海林太郎(1898-1972)

秋田出身。秋田中から早稲田大学商学部へ進み、卒業してすぐに満鉄の職員として8年間勤務。早大在学中より佐野学に師事して左翼思想に傾斜し、満鉄時代にも労働組合の調査研究などをしたため、図書館長という閑職に左遷させられる。一時期は特高にマークされるほどであったという。

9年、キング専属だったのだが、1曲だけとの依頼でポリドールで吹き込んだ「赤城の子守唄」が大ヒット。「国境の町」、「旅笠道中」、むらさき小唄」、野崎観音のPR盤として制作された「野崎小唄」、「麦と兵隊」など次々とヒットを飛ばした。戦後の一時期は進駐軍によって、封建的な歌を歌うと干されるなど不遇が続いた。

23、30、39年にそれぞれ直腸ガンの手術を行って、28年には最愛の妻の静を亡くすなど私生活でも苦難の日々であった。終戦近くから南軽井沢に住み、大好きなクラシックのレコードをボリュームいっぱいにかけたりしていたが、

晩年の数年間は仕事の関係で東京でのホテル暮らしが多く、46年7月からマネージャーの住む立川市の羽衣町3丁目に引越し、地元に溶け込もうと、付近をよく散策したり、チャリティコンサートを開き収益を地元の障害者施設に寄付するなどした。

44年に勲四等旭日小綬章、47年9/26午後2時半に立川市内の知人宅で、調子の悪そうな歩き方を心配したマネージャーに「大丈夫ですか」と問われて、「眠いだけだよ」と横になり、そのまま意識不明となり、9/27午前には病院へ入院。次男、妹の手を握り、数人のファンに見守られて10/4午前8時50分に立川中央病院で死去。

47年10/19午後1時からの青山葬儀所での葬儀には佐藤首相など多数が参列した。秋田市の西船寺に眠る。ロイド眼鏡に燕尾服、直立不動で歌うスタイルは有名だが、

「場末のキャバレーでもコンサートのつもりで歌う」「歌の心をつかみ、歌の美しさを知るために」直立不動で歌っていると語るなど、生涯、歌に関する真摯な姿勢は変わらなかった。

戦後の歌手は「歌の本質を知らない」と評価していなかったが、ピンキーとキラーズの今陽子だけはお気に入りだった。酒豪としても知られ、歌手協会でも「良きにはからえ」の親分肌の人間であった。どんな目下の人間にも礼儀正しく接する人で、読書家でもあった。藤山一郎との不仲も有名である。
 http://www.geocities.jp/showahistory/


2012年01月16日

◆眼目は国対と副総理

渡部 亮次郎


マスコミに吊られて、内閣改造の目的は岡田副総理の誕生だと思っていたが、じつはそれ以上に平野国対委員長を交代させることに眼目があったようだ。読売新聞がバラしている。

平野氏は労組幹部上がりにも拘らず、人当たりが悪い。特に野党対策は下の下らしい。12月30日、野田は藤村官房長官ら側近と個別に会い、今後の政権運営について意見を求めた。

側近の一人は「年明けの通常国会は、消費税率引き上げ関連法案の成立が最重要課題で、国会対策こそ重要だ」と語り、内閣改造に伴い、平野博文国会対策委員長を交代させる必要性を指摘した。

政権発足以来、野党との関係構築は進まず、秋の臨時国会での政府提出法案の成立率は、過去20年で最低の「34%」と散々な結果だった。

国対委員長を交代させるなら、法案審議が始まる通常国会の召集後は難しい。野田は当初、「問責決議を受けた一川防衛相と山岡消費者相の更迭」のイメージを薄めるため、復興庁発足で閣僚1増が可能となる2月に人事を行う案を検討したが、平野の交代を優先し、前倒しを選んだ。

<宿願の副総理、藤村官房長官がジムで説得

今回の内閣改造の柱である岡田克也前幹事長の副総理起用は、野田首相の政権発足以来の宿願だった。

一方で、首相はこれまで二人三脚で政権運営をしてきた民主党の輿石幹事長にも最大限、配慮しながら人事を進めた。(敬称略)「副総理を置こうと考えている。どう思う?」

今月3日、東京・永田町の首相公邸。野田首相は腹心の長浜博行官房副長官をひそかに呼び入れ、人事構想の一端を打ち明けた。野田は副総理候補として岡田克也前幹事長、鹿野農相ら3人の名を挙げ、こう付け加えた。

「まず、岡田さんと相談してから決めたい」

野田の「本命」は、昨年9月の野田内閣発足時に官房長官への就任を打診した岡田だった。野田は首相就任時も岡田を副総理で処遇しようとしたが、岡田に固辞され、断念した。

野田が内閣改造・党役員人事を決意したのは昨年末だ。

12月30日、野田は藤村官房長官ら側近と個別に会い、今後の政権運営について意見を求めた。側近の一人は「年明けの通常国会は、消費税率引き上げ関連法案の成立が最重要課題で、国会対策こそ重要だ」と語り、内閣改造に伴い、平野博文国会対策委員長を交代させる必要性を指摘した。

政権発足以来、野党との関係構築は進まず、秋の臨時国会での政府提出法案の成立率は、過去20年で最低の「34%」と散々な結果だった。

国対委員長を交代させるなら、法案審議が始まる通常国会の召集後は難しい。野田は当初、「問責決議を受けた一川防衛相と山岡消費者相の更迭」のイメージを薄めるため、復興庁発足で閣僚1増が可能となる2月に人事を行う案を検討したが、平野の交代を優先し、前倒しを選んだ。

野田は12月31日、輿石幹事長と電話し、理解を求めた。「問責を受けるたびに交代させていたらキリがない」と改造に否定的だった輿石だが、野田の意をくみ、容認した。ただ、注文を付けることも忘れなかった。

「改造するなら大義が大事だ。どうせやるなら、態勢強化ということで、大きく代えないと。2人だけの交代は絶対に許さない」

人事断行の方針を決めた野田は宿願である「岡田副総理」の実現に動き出す。社会保障・税一体改革の素案策定に取り組んだ野田は、官邸機能の強化が必要との思いを強くしていた。

一体改革を担当する古川元久国家戦略相は当選5回と党内では中堅に位置し、増税に慎重なベテラン議員らににらみが利かないという事情もあった。

1月6日、野田は岡田と首相公邸で直接会い、岡田の副総理起用を念頭に人事構想を話し合った。岡田の感触を探る狙いもあった。野田の胸中には、一体改革に意欲的な岡田の起用に成功すれば、輿石が強調した「大義」を掲げることもできるとの考えがあった。

ただ、岡田は、当選回数が野田や藤村より多い自分が「政権ナンバー2」として官邸入りすれば、政府内の指揮命令機能が混乱すると見ていた。関係が良くない小沢一郎元代表のグループから反発が予想されることも、入閣に慎重な姿勢につながっていた。

こうした岡田の意向を伝え聞いた野田は、岡田を再度説得する必要があると判断。野田の意を受けた藤村は、11日に都内のスポーツジムで岡田と会った。> 読売新聞 1月14日(土)9時57分配信

2012年01月14日

◆2・26事件直前に誕生

渡部 亮次郎


1月13日。76年前のこの日に雪国秋田・八郎潟沿岸の米作農家の寝床で誕生した。渡部慶太郎・鈴江の次男だが三男として届けられた。次男琢次郎が夭折していたためである。次男のピンチヒッターだ。

今年の誕生日は金曜日と重なって不吉だがだが1936年には月曜日だった。私のあとに妹2人、弟1人が生まれて姉と兄とを合わせて6人きょうだい。全員生存。

私はこれまでに結婚2度、離婚1度。転職3度。子供2人は独立しており、孫3人いるが、逢ったことはない。後10年は生きそうな気がする。

私が生まれて約1ヶ月後、有名な「2・26事件」が起きた。皇道派青年将校によるクーデタである。以下、世界大百科事典第2版からの引用である。

満州事変開始前後から対英米協調・現状維持的勢力と,ワシントン体制の打破をめざし国家の改造ないし革新をはかる勢力との抗争が発展。

さらに後者の最大の担い手である陸軍内部に,国家改造にあたって官僚・財界とも提携しようとする幕僚層中心の統制派と,天皇に直結する〈昭和維新〉を遂行しようとする隊付青年将校中心の皇道派との対立が進行した。

1934年士官学校事件による皇道派の村中孝次(たかじ)・磯部浅一の免官,35年7月皇道派の総帥真崎甚三郎教育総監の罷免,8月相沢三郎中佐による統制派のリーダー永田鉄山軍務局長の暗殺などで,両派の対立は激化の一途をたどった。

皇道派青年将校は,拠点である第1師団の満州派遣が決定されると,現維持派の政府・宮廷の要人および統制派の将領を打倒する〈昭和維新〉の決行につきすすんだ。

36年2月26日早暁,皇道派青年将校は歩兵第1・第3連隊,近衛歩兵第3連隊など1473名の兵力を率い(ほかに民間人9名が参加),おりからの降雪をついて,要人を官邸または私邸に襲撃した。

栗原安秀中尉の部隊は首相官邸で首相秘書の松尾伝蔵予備役陸軍大佐を殺害,これを岡田啓介首相と誤認した(岡田は女中部屋の押入れに隠れ,翌日弔問客にまぎれて脱出した)。

坂井直(なおし)中尉の部隊は斎藤実内大臣と渡辺錠太郎教育総監を,中橋基明中尉の部隊は高橋是清蔵相をいずれも殺害し,安藤輝三大尉の部隊は鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせた。

また野中四郎大尉の部隊は警視庁を,丹生誠忠(にゆうよしただ)中尉の部隊は陸相官邸付近をそれぞれ占拠し,襲撃を終えた他の部隊とともに鵬町区南西部の政治・軍事の中枢を制圧した。

さらに栗原らは反軍的とみなした東京朝日新聞社を襲って,活字ケースをひっくり返した。このほか河野寿(こうのひさし)大尉らの別働隊が湯河原滞在の牧野伸顕元内大臣を襲撃したが失敗し,牧野は脱出した。

村中,磯部らは川島義之陸相に面会を強要し,国家改造の断行を迫った。真崎,荒木貞夫大将,香椎浩平(かしいこうへい)東京警備司令官らは決起に同情的態度をとり,決起を容認するかのような文言の陸相告示が出され,クーデタ部隊は〈警備部隊〉に編入。

さらに27日午前3時東京市を区域とする戒厳令の施行によって〈鵬町地区警備隊〉となり,兵站給養をうけた。しかし青年将校らは軍首脳部の〈善処〉をあてにして,蜂起後の計画を明確に立てておらず形勢の逆転を許した。

天皇は重臣殺傷に激怒し,海軍も激しく反発,杉山元(はじめ)陸軍次官,石原莞爾(かんじ)作戦課長らの陸軍主流はカウンター・クーデタの方向に結集した。

27日〈占拠部隊〉撤収の奉勅命令が下され,28日〈反乱部隊〉武力鎮圧の命令の下達により,29日約2万4000の大軍が反乱軍を包囲し,戦闘態勢をとるとともに,ラジオ放送や飛行機のビラなどで帰順を勧告した。

青年将校らは奉勅命令に動揺し,目的をよく知らされないまま連れ出された下士官・兵士は〈兵に告ぐ〉の呼びかけをうけて続々と帰順,青年将校らは逮捕された。また皇道派の理論的指導者北一輝および西田税(みつぎ)らも逮捕され,クーデタは失敗した。

陸軍首脳部は当初反乱を容認するかのような措置をとった失態を隠し,事件に対する非難をそらすため,青年将校らを極刑に処す方針をとり,一審制・非公開・弁護人なしの特設軍法会議で,7月5日17名に死刑の判決を下し,12日うち15名を処刑,翌37年8月19日北,西田,村中,磯部を死刑に処した。

この間〈粛軍〉人事により皇道派系分子は一掃され,寺内寿一(ひさいち)陸相ら新統制派が陸軍主流として実権を掌握し,事件の威圧効果を利用して広田弘毅内閣の組閣に干渉,軍部大臣現役武官制復活など軍部の政治的発言力の著しい強化をもたらした。

結局,統制派的勢力は,皇道派のクーデタを利用したカウンター・クーデタにより,皇道派を環(ほふ)るとともに対英米協調的勢力を屈伏させ,圧倒的優位を築いたのである。(江口 圭一)

2012年01月13日

◆ボールペンとの出合い

渡部 亮次郎


私にとって最初のアメリカは父が東京から買ってきたボールペンであった。昭和25(1950)年の秋だったのではないか。それまで見たことも聞いたことも無い筆記用具の出現だった。

ボールペンは先端に金属又はセラミックスの極小の球(ボール)が填め込まれており、このボールが筆記される面で回転することにより、ボールの裏側にある細い管に収められたインクが送られて、線を描くことができるペンの一種。この一連の機構がユニット化されたものをペン軸の内部に収めて使用する。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に言われてみればこの通りなのだが、鉛筆と万年筆しか見たことのない田舎の少年にとっては、革命的な出合いであったのだ。当時の日本の筆記用具は筆と鉛筆か万年筆しかなかった。

1884年にアメリカ人のジョン・ラウドが着想しているが、インク漏れを防止できず実用にならなかった。

1943年にハンガリー人のラディスラオ・ピロの手で、一応の完成を見る。すぐにレイノルズ社とエバーシャープ社が量産化、戦後アメリカでブームとなったが、インク漏れをほぼ完全に防止でき、安定した製品が市場に出されるのは、1950年代に至ってからだったそうだ。

日本でも1950(昭和25)年代以降国産化されたが、当初は高価で普及せず、公文書に用いることも認められなかった。しかし、量産効果と改良で品質改善・低価格化が進み、公文書への使用が可能となった。1970年代以降は万年筆やつけペンに代わる、最もありふれた筆記具となっている。

現在では太さ、色、インクの特性(油性、水性など)、ペン先の繰り出し方(キャップ式、ノック式)などにより多くの種類が存在する。

ボールペンの特徴として、独特の構造により弱い力でスムーズな線を描ける事などが挙げられるが、このインクは先端に送られるために重力を必要とするため、仰向けで長く筆記することができない。

特に微小重力の空間ではボールペンはまともに動作しないため、宇宙船内などではインクを窒素ガスで強制的に送り出す特殊なペンを使っている。 また、最近では超高粘度インクを利用した消しゴムで消せるボールペンなども市販されている。

また、ボールペンの欠点として、凹凸面があるとボールがうまく回転せず、筆記した線が湾曲してしまう点、長期間の放置に弱い点がある。

ボールペンの場合、万年筆と違い紙面に直角に近い角度で保ち筆記することが求められる。この結果、書道的手法が無視されるため、字は下手になる、と私は信じている。

ボールペンを発明するにあたっては、ペン先用極小ボールの高精度な加工・固定技術と、高粘度インクの開発が必要であった。従来の低粘度インクでは、ボールの回転と共に多量のインクがにじみ出してしまい、シャープな線を描くことができなかったのである。

ペン先用ボールの太さは 1.0mm、0.7mm、0.5mm のものが主流だが、技術革新により0.3mm、0.25mm、0.18mm といった極細のものも登場している。

これまでは主として油性、水性が主流だったが、油性ペンは長時間使わずに保管してしまうと時間が経過するに連れてチューブにあるインクが固まってしまい書き味が鈍ってしまったり、また水性ペンだと書き味はある程度保障されるものの、水にぬれてしまうとインクが消えてしまうなど弱点が多かった。

これらの弱点を改善するため、近年のボールペンでは油性インクの場合、インクの固まりを抑えて長時間保管しても書き味が維持できる「低粘インク」を採用したり、また「水性顔料(染料)インク」も登場している。

水性顔料(染料)インクは、水性ではあるが、たとえ紙が水にぬれた場合でもインクの脱色がないこと。また万が一手についた場合でもすぐに水洗いで落ちること。低粘インクと同様に長時間の保存でも書き味が落ちないなどのメリットが多数ある。

主なボールペン・メーカー

三菱鉛筆 (なぜか三菱グループではない)、コクヨ 、トンボ鉛筆 、サクラクレパス、 ぺんてる、 ゼブラ、 パイロット 、セーラー万年筆、 サンスター文具 、京セラ、 ビック 、オート 。

ところで私は父の机から勝手に持ち出したボールペンを学校で遺失してしまったが、誰かが拾って届けてくれた。その経緯を思い出そうとしても思い出せない。