2011年10月13日

◆角の天丼 福田蕎麦

渡部 亮次郎

かつて大手航空会社の専務だったKさんは海の無い県の育ち。「塩鮭だったら、焼くと浮いた塩で真っ白になるほど塩辛くないと駄目」と言う。

今と違ってKさんの子供時代は保冷車も電気冷蔵庫もないから山奥へ海の生魚が届かない。腐らぬように塩漬けした魚しか届かない。「2歳までに父親と一緒に食った味がその人間の味覚の原点になる」というKさん。鮭は白くなるほどきつく塩漬けしたものでなけりゃ駄目は当然だったろう。

そういえば海の無い群馬県出身の総理大臣福田赳夫(たけを)さんは好物は塩鮭ではなく生まれ在所の蕎麦が大好物。総理大臣室で昼食はいつも「盛りそば」だった。田舎に刺身はなかった。「一高受験で初めて上京したとき、上野駅前ではじめて刺身を食べたよ、旨かったねエ」と言っ
ていた。

いわゆる「角福戦争」のライバル、越後出身の田中角栄氏。大好物はすき焼きと天丼だった。同じ上野駅前で初めて食べたのが天丼だった。「世の中にこんなに旨いものがあるのかよと思った」そうだ。

越後の田園にもわが秋田の田園にも、天婦羅や天丼はなかった。そんな角さんがその後に好きになったのはすき焼きである。料亭で注文するが、但し味付けは自分でやった。砂糖は全く使わなかったから、相伴したものたちは塩辛くて閉口した。

本人は隠していたが早くから糖尿病だったから砂糖を拒否したのではなく、雪国越後の味覚は塩辛かったのである。

これら2人を両輪に使いこなした佐藤栄作の大好物は焼き芋と大福だった。アルコールよりは甘いものが好き。総理大臣の引き出しに焼き芋のはいっていることがよくあったという。

そのまた親分の吉田茂は「何をお食べになってそんなにお元気なんですか」と聞くと「ヒトを食ってるからさ」と答えた。日本人ならわかるが未熟な通訳をきいたら外国人はのけぞったであろう。

その吉田を国会で散々虐めた河野一郎氏の好物は「きぬかつぎ」だった。随行した旅先の岐阜で大皿の山盛りを一人で平らげた。風貌とは違って酒を全く呑めなかった。

クレムリンでフルシチョフと遣り合って、それを知ったフルシチョフがからかった。「日本の将来」(恒文社)でも書いている。「これを呑んだらボクの言うことをすべて聞くか」といったら聞くというから意を決してウオッカを呑んだ。

途端に目が回って、何処がどうなったか、とにかく部屋に帰って風呂に入ったり、色々やってみたが駄目。翌日までかかってやっと醒めた。弟の謙三氏(参院議長)も呑めなかった。一郎氏の息子洋平氏は大酒飲みだが「あれは母親の血筋」と言っていた。2011・10・11

2011年10月11日

◆政治家の貫禄とは

渡部 亮次郎

近頃の政治家は貫禄が無い、と良く聞くが、尤もなこと、当たり前のことでは無いか。貫禄のつく経験をまったくしていないからだ。楽だけしてきた政治家に貫禄は無理。無い物ねだりである。

人間の幅は、喜怒哀楽の河を如何に深く高く長く幅広く潜り抜けてきたかによって決る。それは、喜びと楽だけの人生であって、怒りと悲しみは無いに越したことは無い。だが人生、そうはいかない。

しかし、その不幸の経験が多いだけ、その人間は、一寸やそっとのことでは怒らなくなるし、少々の悲しみには動じなくなる。それが貫禄である。

このように考えると、残念ながら「泥にまみれ火に焼かれるような極めて苦痛な境遇」(広辞苑)という「塗炭」の苦しみの経験を恐れていては貫禄というものは絶対できない。

近頃の政治家に貫禄が無いのは戦争とも関係がある。70年近く戦争がなく、大東亜戦争の経験者が消えて行こうとしている。望んで軍人になった者(職業軍人)はいざ知らず、召集令状によって戦場に駆り出されたた者は、抵抗も言い訳もできず、全身を敵弾に晒す以外に無かった。

また、銃後に残された妻子も、何時空から降ってくる爆弾で身を砕かれ、焼かれるか、恐怖の連続だった。地下鉄が曲がりきれずに、すれ違いざまの並行電車にぶつかってきて何人か死んで大騒ぎした日、東京・下町でパンを売っていたお婆さんが言っていた。「あの日(1945年3月10日)はあっという間もなく10万人が死んだんだよ」。

戦後、経済の高度成長が終わるまで日本の国会議員は戦争帰りばかりだった。日本刀で敵を何人も斬ってきたという猛者もいた。彼が言った。「大砲の弾が炸裂して生き残れる途はたった一つ。できた穴に飛びこむことさ。どんな敵の名手だって同じ場所に連続して着弾させる事はできないからさ。怖いようだけど、これが度胸であり、貫禄さ」。

その政治家はよく言っていた。士官学校を出たばかりの隊長は、初めて遭遇した敵に怯えきっている。タマを撃つことは習って来たが撃たれるのは生まれて初めてだ。経験が無いから貫禄もない。

だが、部下にそれを見せてはならない。逃げ隠れせず突っ立っている。部下たちは「危ないですから」と安全な場所へ誘導しようとするが、すればするほど隊長は身を危険に晒そうとする。

咄嗟に古参兵が叫んだ。「隊長どの、そこじゃ敵情が良く見えません。こちらへどうぞ」と岩陰に誘導。隊長は安堵の溜息をついていた。貫禄は士官学校では習えない。経験豊かな古参兵の貫禄に叶わなかったのである。

今じゃ政治家も二世、三世ばかり。家庭教師、予備校付きで安楽な学生時代を経てサラリーマン、松下政経塾では手当てを貰って当選学だけを学んでくる。命がけの仕事なんかしたことが無い。失敗をしたこともない。貫禄が付くはずが無い。しかし貫禄の無いのは国民全部といえない
か。2011・10・10

2011年10月09日

◆新聞より電波を恐れたCIA

渡部 亮次郎

いくら暑い年といっても11月になると肌寒い。だが、沖縄はまだポロシャツ1枚だ。

その沖縄ががまだ米国の施政権下にある時代の秋にNHKから特派員として派遣された。1968年に行なわれた沖縄主席(いわば知事)の初の公選を取材するためである。

施政権を持つアメリカ側の最高責任者は「高等弁務官」といった。

IDカードについて話があるから出頭しろという。記者である以上沖縄の基地を取材したいとIDカード(基地出入り章)を申請していたのである。

「これじゃNOだ」「なぜ瞳の色が黒じゃいけないのか」「ブラックなのは沖縄島民であって、貴殿ら本土人はブラウン(褐色)だ、申請しなおせ」という。

われわれはモノを知らなすぎるのだ。外国人をひとまとめにする。「青い目」と言うが、彼らの瞳の色は様々。沖縄の人たちのDNAは九州のそれだというからブラウンのはずだが、当時のアメリカ軍は黒だといって聞かなかった。

早速取材を始めたところ、「ナショナル電気洗濯機」と横腹に書いたライトバンが二六時中、尾行してくる。誰と話をしたかをチェックしているらしい。「闘牛」見物に行っても尾けてくる。

弁務官事務所に文句を言ったら返事がいい、この島は我々の施政権下にある。本土から入り込んだ人物が何をしているかを監視するのは当然の権利であり、義務である。

「分かった・しかし激しい反米思想を持っている政治記者が何人もいるのに、私だけを尾行するのはなぜか」

「簡単だ。新聞が我々に不利なことを書いた場合、その新聞を那覇空港で没収すれば済むが、NHKの電波を止める手段が無い以上、東京に発信するまえから貴殿を監視する以外に方法が無いのだ」実に正直である。

昨夜、何処のバーでどういう女性相手にどんな銘柄のウイスキーを何杯飲んだか。何時の晩はどの種の女性と寝たかまでしっていた。ホステスこそがスパイでは無いかと疑いたくなった。

更に貴殿の電話を24時間監視し、東京への報告を傍受しているといいつつ大型の録音機を見せた。あれから間もなく沖縄は日本に返還されたが米軍基地はそのままである。CIAもまた不変であろう。

「5万の差で革新の屋良朝苗(やらちょびょう)が勝つという私の予想は的中した。

当然、CIAはそれを盗聴で知ったはずなのに「NHKが放送していた」とシラを切った。選挙事前情報をNHKが放送するはずがないのに「「した」という。最早呆れてポロシャツを脱ぎ、冬服に着替えて帰任した。

アッケラカンのアメリカ。秘密を秘匿し続けるロシア。その後、外務大臣秘書官に転じてから面白いことを聴いた。東京にある大使館をアメリカとソ連(いまのロシア)が前後して新築した。

その時引き込む電話線をアメリカは裸にした。何者かが盗聴装置をくっつけたらただちに分かるように、そうしたと言った。対してソ連はコンクリートで固めた。何者も手がつけられぬように。くどいが秘密保持に関してアメリカ人トロシア人。気質が根っから違うのですね。
2011・10・06

2011年10月06日

◆小沢氏、今や「お荷物」

渡部 亮次郎

小沢氏、今や「お荷物」と産経が書いた(10月4日)

世論の風冷たく、「ゆでガエル」の心境だという。産経とフジテレビが合同で行なった世論調査で世論の8割以上が「小沢ノー」を表明。

それに押されて産経も思い切ったことを書いたものである。しかし、それもこれも小沢氏が決断しなければ何の意味もない。ただただ政治不信が募ってゆくだけだ。

<剛腕でならした民主党の小沢一郎元代表も今やすっかり民主党の「お荷物」となってしまった。産経新聞社とFNNの合同世論調査では81・1%が小沢氏の議員辞職を求め、86・9%が国会での説明を求めた。

民主党内での求心力低下も著しい。「党内融和」を掲げる野田佳彦首相だが、小沢氏をかばえばかばうほど政権にダメージが及ぶ構図が浮き彫りになった。

「動乱の時代は私が死んでからにしてほしいと思っていたが、この半年か1年の間にその兆しがわれわれの生活の中に生まれてくるのではないか…」

3日、都内で開かれた小沢一郎政治塾で8カ月ぶりに講師を務めた小沢氏は、国会議員ら100人を前に危機感をあらわにした。

「現時点で総選挙を行った場合、どの政党も過半数を取れない。そうなると日本の政治は混乱の極みに達する」とも語った。小沢系グループは選挙基盤が脆弱な若手が多い。危機感をあおる発言の裏には「選挙に勝ちたいならば俺について来い」との思いがにじむ。

とはいえ、小沢氏に突き付けられた現実は厳しい。

世論調査では8割が議員辞職を求めたばかりか、民主支持層の69・8%が「小沢氏の問題が政権運営に悪影響を与える」と答えた。

小沢氏の期待値も大きく下がっており、「政治家として評価する」は8・3%、「首相にふさわしい」は4・5%にすぎなかった。

平成23年度第3次補正予算案に関する3党協議も、小沢氏の証人喚問問題が障害となっている。

おのずと小沢系グループの動きは鈍る。「一新会」「北辰会」など小沢系3グループを統合し、自らが会長に就任する計画は一向に進まず、このままならば来年秋の党代表選に出馬しても勝てるめどは立たない。

小沢氏と距離を置き始めた若手は「もう政局はうんざり。政権交代後3人目となる野田首相を潰すわけにはいかない」と打ち明ける。今月6日には小沢氏の政治資金規正法違反事件の初公判が予定されており、司法闘争が続けば、小沢離れはさらに加速する公算が大きい。

小沢氏の最近の言動には、そんな焦りも垣間見える。2日のインターネット番組では元秘書3人の有罪判決について「裁判官が独断、推測に基づいて有罪を決めるのは民主主義国家では考えられない。

一方的な意見に判決が左右されれば暗黒社会になってしまう」と猛批判した。周辺には「ひでえ話だ。権力はすごいな」と漏らした。

3日の講演で小沢氏は自らの公判には一切触れなかったが、唐突にこんな話を持ち出した。

「皆さんはゆでがえるの話を知っているか? カエルは徐々に温めていくと最初はそれに適応しながら活動するが、ある限界を超えるとゆであがっている」

日本の現状を憂えたのか。それとも自らの境遇を暗示したのか−>。(坂井広志、斉藤太郎)
産経ニュース 2011.10.4 11:27


2011年10月05日

◆末期のソ連で見たもの

渡部 亮次郎

所変われば品変わる。所は、今は飛行機であっという間に変わるから、品もあっという間に変わる時代になっている。真冬のモスクワで頭を毛皮の帽子で保護していたのに、次の日、アラビヤの沙漠では車のボンネットで目玉焼が出来るほどの灼熱だ。

そんな1月、クレムリンに入っていって驚いた。昼間、小雪の下で入城許可を待つ男女の長い列。靴は破れ、マフラーはボロボロ。男といわず女といわず、私を見つめる目の縁が全員、真っ赤だ。

思わず「農奴か」と聞いたら日本大使館員,「いやこれが1千万モスクワ市民の実態です」というではないか。一世一代、待ちに待ってやっとクレムリン見学に来られたのだという。これで社会主義革命成功とは絶対いえない。

これが1978年。23年後にソ連は予想通り崩壊した。

<1991年12月25日にソビエト連邦(ソ連)大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、これを受けて各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦が解体された>。

握手した首相コスイギンの軟らかい手を思い出す。もうこの世の人ではない。「小国」日本から来た外務大臣との面談を拒否するため風邪を装ったブレジネフ議長も祖国崩壊を目撃することなく没したのは、むしろ幸いだったかもしれない。

当時の日本大使館の建物はソ連側が建てたものだったから、館内は初めから盗聴されていた。だから明日の会談にそなえる我々の打ち合わせは、館内に作られた大きな箱の中で行なわれた。

しかも、会議中、流れる水の音を大音響で流しながらである。さすがにこれでは盗聴する方もわれわれの話す内容はわからないだろうという計算からだった。成功しただろうか。

向こうが平和条約安を出してくるだろうから、こっちも対抗の案を出そうと決めて行ったら、案の定出してきた。聴いていたのかもしれない。

その昔、漁業交渉に行った農林大臣河野一郎は、打ち合わせを公園を散歩するフリをしてやったといっていたが、技術の更に発達したいまは「読唇術」ということが行なわれているそうだ。   2011・10・03


2011年10月03日

◆金持ちはカネに汚いと角栄

渡部 亮次郎

田中角栄は小学校しか出ていなかったが、手段は知らぬが、たいしたカネを掴み、東京の高級住宅地に「目白御殿」を構え、首相にまでなった。世間は羽柴秀吉になぞらえ、「今太閤」と持ち上げた。

マスコミも「コンピュータ付きブルトーザー」とは囃し立てたが、彼が自らロッキード事件で失脚すると、闇の帝王と言って見捨てた。

その子分が小沢一郎だと言うから、知らない人は、小沢もまた金を集め、首相を狙うだろうと想像するが、私は違うと思う。角栄のカネ集めは権力奪取が目的だったが、小沢のカネ集めは、そのこと自体が目的なのである。

角栄は常々「金持ちは汚い」が口癖だったが、小沢のように金払いには汚くなかった。しかし、小沢のはカネが目的なのだから、田中が生きていたら、小沢を嫌ったことだろう。

角栄の生き方と小沢のそれとは完全に異なる。

「世間は金持ちについて、皆誤解している。金持ちは金を沢山持っているから他人に呉れると思っているが、違う。金持ちはカネを手放さないから金持ちでいられるんだ。金遣いが汚いから金持ちなんだ。

小金を溜めた金持ちは、だからこそ、カネを増やすのが好きになって周りから嫌われるようになる。だがそれに気を遣っていたらカネは溜まらない。金持ちは増やしたくなってカネを溜める。

カネに汚くナルカラカネが溜まる、金持ちになる、これが現実だ」。

角栄は政治家。味方(派閥)を増やさなければならないから、カネをじゃんじゃんばら撒いた。越山会の金庫番女性は、官僚の引き出しを勝手に開け、金束を押し込んでまわった。返しに北官僚は一人も無かった。それでとうとう総理になった。

官僚でも記者でもおんなじだ。飲ませ食わせは無駄なこと。小便すれば忘れてしまう。ゲンナマをつかませないと駄目なんだ。カネをわたさんと人は買えない。

一度カネを受け取った奴はもう道徳心なんて失くなってしまうものなんだ。政治家も官僚も記者もおんなじ、と言い続けた。

小沢ハカネが目的で権力を握ろうとし続けるが、権力を目的としたカネ使いはしていない。【敬称略】2011・10・01

2011年10月01日

◆「あきたこまち」の誕生

渡部 亮次郎

郷里の秋田県産の米「あきたこまち」が届けられ、コメの美味しさを堪能した。新米が早く食べたいと、南国の早稲を買っていたが、比べるのもおかしいぐらい美味い。

「あきたこまち」の食味について公的食味試験機関「日本穀物検定協会」1984年11月の総合評価は「0・944」。これは新潟県産「コシヒカリ」「0・7〜0・8」、同「ササニシキ」は「0・5〜0・6」を大きく上回るものだった。

穀物検査官は「『あきたこまち』の高い数値はこれまで出たことがなかった」と評した。これを契機にマスコミや流通業界の関心が高まり、とくに県外における知名度向上に弾みがつき27年の歴史が流れた。

27年前の1984年9月7日に秋田県品種対策協議会を開催し、県農業試験場が作り出した「秋田31号」を奨励品種に採用することを決定した。

同日、知事が県農協中央会長、県農業試験場長同席のもと記者会見を行い、品種名を「あきたこまち」と命名し奨励品種に採用したことを発表した。

命名の由来は、秋田県雄勝町に生まれとされる美人の誉れ高い平安時代の歌人「小野小町」にちなみ、秋田で育成した美味しい米として、末永く愛されるように願いを込めた。

「あきたこまち」は、母親の「コシヒカリ」から良食味性を、父親の「奥羽292号」から早熟性を受け継いでいる。このことから、寒冷地北部でも新潟の「コシヒカリ」並の良食味米栽培が可能となり、倒伏や「いもち」病に対する抵抗性も「コシヒカリ」以上の特性を持っている。

さらに、炊飯すると米粒に美しい光沢と粘りがあり、食味に関する特性は申し分がなかった。

米どころ秋田県とは言いながら10a(1反歩=300坪)当たり平均収量は、戦前(1945年以前)の200!)台から1950年頃には350!)台に急増。

その後、1955(昭和30)年は450!)、1965(昭和40)年には550!)と大幅な伸びを示した。この要因は、戦後の食糧難時代に、農地解放に伴う生産者の増産意欲の高揚とともに、保温折衷苗代、三早栽培(早播き、早植え、早刈り)などの普及及び県の増産運動「健康な稲作り運動」と相まって、全県民的な普及によって助長された。

こうした技術開発と多収品種の導入により1976年、1977年、 1980年には「単収日本一」となり全国で最も安定多収県として位置づけられた。また、全国の多収穫競作会では秋田県から「米作日本一」が続出するなど、多収技術が開花した時代であった。

しかし1970年代に入ると、全国的に米の生産過剰となり生産調整が始まった。秋田県も政府米の在庫を抱えながら、多収栽培から脱却できない産地であった。つまり、多収栽培を行うのではなく量より質、消費者に喜ばれる、売れる米づくりへと転換せざるを得なかった。

このような背景から、1974年に秋田県農協中央会が水稲育種事業の実施を県に要請し、翌年に県が水稲育種事業の開始(再開)を決定した。

つまり秋田県では1913年から1941年までの25年間、交雑育種を手掛けて育成したが、その後中断していたのだ。1977年の福井県農業試験場へ調査・享受の折、同場で75年に交配した「コシヒカリ」(母)×奥羽292号(父)の「福交60−6」のF2種子1株を譲り受けた。

譲受けた「福交60−6」は、1981年に系統選抜4年目(F6)を迎え、系統名(地方番号)を「秋田31号」と命名した。1983年には系統選抜6年目(F8)を迎え、1群8系統の栽植し2系統20株を選抜し育成段階を終了した。

当時「コシヒカリ」は育成して約30年になっていたが、それまで「コシヒカリ」を親に交配した品種を奨励品種に採用した事例がなく、「秋田31号」が最初の品種であった。

しかも、「コシヒカリ」の欠点である耐病性、耐倒伏性、収量性を改善した早生品種で、食味は「コシヒカリ」を上回った。

県農協中央会と農協経済連が「美人を育てる秋田米」のキャッチフレーズを発表し、秋田県初の水稲新品種誕生に花を添えた。

県外出荷が開始された「あきたこまち」は、新品種?類の中で破格の仮渡し金60Kg20,133円の高値で取引された。また、キャンペンガール「こまち娘」が誕生し、市女傘を身につけた平安朝の姿と、秋田で育成した美味しい米「あきたこまち」として大いに印象づけた。

出典:秋田県農林水産技術センター農業試験場次長 児玉 徹 氏作成の
資料。

2011年09月29日

◆64%「中国人に生まれたくない」

渡部 亮次郎
(再掲)【産経新聞2006年09月25日北京=野口東秀】「生まれ変わっても中国人になりたい?」--中国の大手ニュースサイト「網易」がこんなアンケ−ト調査をしたところ、約3人に2人が「なりたくない」と答えた。中国共産党支配と政策に対する人民の不満を浮き彫りにする結果だった。

このサイトは今月4日から13日までネット上でアンケートを実施、約11,000人が参加した。

その結果、「中国人に生まれ変わりたくない」という答えが約64%に達した。「生まれ変わりたくない」理由は、「中国人として尊厳が持てない」が約38%、「マイホームを持てないため、幸福感がない」が約18%だった。

中には「私は中国を愛しているが、中国が私を愛してくれない」という回答もあった。生まれ変わりたい理由には悠久の歴史や文化などがあった。

「生まれ変わりたくない」人のうち、「今度は香港人になりたい」と答えた人は、「中国には人権がない。独裁があるだけで、言論が抑圧されている」と指摘していた。

このほか、「親を養い、子供を育て、家のローンを払う。収入は悪くないはずなのに生活は良くならない」「乱れた社会、人が希望を持てない社会。100回生まれ変わっても中国人にはなりたくない」という声も聞かれた。

香港紙●果日報などによると、今月16日、サイトの編集者2人が突然解雇されたという。愛国教育を推し進める党中央宣伝部など当局の意向に沿わなかったためと見られる。
2006・09・25


2011年09月27日

◆糖尿病で起きる合併症

渡部 亮次郎

48歳のとき、2型糖尿病を宣告された。如何なる治療法もなく放置すれば健常者より、10年は確実に早く死ぬという宣告。

結論から言うと、母親の血族に糖尿病患者が多く、若くして卒中で死んだ人、その長女は失明の後死亡。その弟は存命中なるも闘病中。

母の姉の子供たちだから従姉兄だ。要するに糖尿病のDNAが私たち兄弟に遺伝。それが中年になって肥満と暴飲暴食を切っ掛けとして発症したのだ。これを2型という。

私が秘書官として外務大臣や厚生大臣時代に仕えた園田直(すなお)さんも30代後半、肥満がきっかけの2型患者。全く治療しないまま70歳、腎不全で死亡した。

その頃の私はまだ発症していないし、自分が糖尿病にかかりやすいDNAを所持しているという認識もない。大臣の腎機能が低下して、鍼師が「大臣のは糖尿病から来た腎虚ですからねえ」と言う科白を聞き流していた。

大臣は辞任後、腎臓が悪くなると、視力が急速に低下。腎臓が機能しなくなったので人工透析を始めた。69歳。「人工透析患者は数年しか生きない」と厚生省で役人から聞いていたから、あろうことか透析開始を遅らせた。その分、腎臓は悪くなっていた。

厚生大臣は初入閣(佐藤栄作内閣)の時と、鈴木善幸内閣の時と2回勤めたが、2度目の時、かねて糖尿病患者団体から陳情されていた患者のインシュリン自己注射を許可した。80年ぶりの快挙だった。しかし、自らはその恩恵に全く浴することなく盲目で死亡した。

私が発症したのは園田さんの死後まもなくであった。食後、口の中が粘つくので検査したら「立派な糖尿病」発症直後だった。「伝染したのかな」と思ったものだ。

私の治療は、当面、食事制限と散歩15分と決った。東京・港区赤羽橋の済生会中央病院の「糖尿外来」に月に1度通って経過を見るというものだった。しかし私より若い医者は「もっと血糖値を下げないと、どうなっても私は知りませんよ」と脅すばかり。

済生会は明治天皇の御下賜金でできた糖尿病の病院である。明治天皇は糖尿病や脚気を患われた。脚気は麦や豚肉を食べて治ったが糖尿病は日本では全く研究が進んでいなかった。天皇の直接の死因は腎不全だったが、その原因は糖尿病だった。

そこでお隠れになった後、御下賜金により作られた病院が済生会中央病院。患者だって血糖値を下げようと懸命なのに、下がらない。何が欠陥なんだろうと相談に乗ってくれればいいのに「わたしゃ知らないよ」と言う態度。喧嘩して通院をやめた。50歳だった。

事情があって離婚した。それまで住んでいた国立から千葉に近い江戸川区葛西の賃貸アパートに移り住んだ。新しい妻には病気の事は話し、散歩も継続したが通院は再開しなかった。

報いはすぐ来た。ある朝起きたら周りが真っ赤だ。眼底の動脈が破れて出血したのだ。「眼底出血」である。厚生省時代の伝手を頼って港区高輪台にある船員保険病院(現在はせんぽ高輪病院)にかけつけた。

眼底でした出血は出血箇所以外に吸収箇所はない。したがって赤いサングラスを掛けた状態はすぐには解決しない、との御託宣。1週間ぐらいして出血はとまった。

眼科医はそこで、出血した毛細管の先端をレーザー光線で焼いて閉じるという。任せた。何百回とフラッシュを焚かれたような状態でヤキを受けた。あれから23年、4ヶ月ごとに検査してもらっているが、毎度「異常なし」である。

序に手術を遅らせていた白内症の手術も受けた。簡単だった。それでも大事をとって1週間入院した。世の中が明るくなった。余談だが義姉にもここを勧めて受けた。「家の中がこんなに汚れているとは知らなかった」といった。

以後、治療はすべてをこの病院で受けることに決めた。膵臓に対しいてインシュリンを出すように催促する薬を10年ぐらい呑み続けたが、遂に破綻の日がきた。

中国へ渡り、上海で水道水を飲んだため酷い下痢を起こし、止まらなくなった。それでも膵臓への薬は呑んでいた為、血糖値が急速に下がり、失神して救急車で入院。

あわてて帰国したが、成田到着の直後に3度目の失神。血糖値は25に下がっていた。倒れた直後、隣席にいた友人が捻じ込んでくれた飴で助かったのだった。

10年ぐらい前になる。以後、血糖値の管理が簡単だからとインシュリンの注射に切り替えて今日に至っている。初めは朝夕と2回の注射だったが、現在は朝の1回だけ。

園田さんの決断のお陰で、20日分のインシュリンがボールペン型の注射器に納まっている。針だけを毎回交換する。0・2mmと世界一細い針だから痛みは殆どない。注射が好きというひとはいないだろうが、痛くないのだから逃げる必要はない。

園田さんは武道の達人だったが、痛みには弱かった。想像以上に痛がりだった。だからインシュリン注射から逃げ回った。糖尿病の合併症として田中角栄は脳梗塞、大平正芳は心筋梗塞、田中六助は盲目などで死んだ。園田は腎不全。

糖尿病はそのものでは死なないが、伴って起きる合併症で死ぬのだ。それを防ぐのが注射によるインシュリンの補給。それでも万全ではない。血管や心臓が特別弱るらしく、血圧が高くなる。これは降圧剤の服用で抑えるが、血管の詰まりを抑える手段はなかった。

1996年にアメリカで血管に詰まった血栓を溶かす薬が発明された「T−pa」。日本でも2006年から使用許可が厚生労働省から出た。

脳梗塞や心筋梗塞には極めて有効だが、脳梗塞の場合は発症後、3時間以内の注射が必要。3時間を超すと脳が萎縮して回復不能となる。長嶋さんがそれだ。その後の主治医が私と共通。

教授はまず脳梗塞に掛からないよう血液の粘りを少なくしようとワーファリンという薬の服用を命じた。だから毎日飲んでいるが、効き過ぎて関節内血腫を起こしてしまった。2011年9月5の緊急入院の理由である。次に起きるのは何だろうと思う。しかし心配しても始まらない。    
                          2011・9・24

2011年09月25日

◆モノが言えなくなった日本

渡部 亮次郎

日米関係はことほど左様に悪化している。大統領に会っても日本の首相は対等にモノが言えなくなっている。これ程、日本の立場を悪くしたのが鳩菅両首相だったのだ。

しかし、国民レヴェルでは、日米関係の悪化をそこまで想像もしていないことを示すのが以下の投書である。

<恰も参勤交代かの如くに、我が国の総理大臣はアメリカに大統領のご機嫌伺いに行っているように見えます。あの様子では臣下のようにしか見えません。国際関係としては鳩山は対等だと言っていましたが、実質はそうではないのですか。

今回も新参の総理大臣はわずか30分の会談で、かなり一方的に?改善要求を突きつけられた感があります。これらの要求、就中、普天間は鳩菅の負の遺産で仕方がないとは思います。だが、我が国からアメリカ側に何か要求することは外交上非礼なのでしょうか。

例えば、

!)貴国が意識的な金融緩和策でドル安を推し進めて、輸出を推進しようとする策で、我が国の輸出産業のみならず産業界全体がドル安=円高の継続的に苦しめられている。是非、貴国の景気を回復する政策を推し進めて、この我が国を悩ます通貨政策を改善願いたい。

!)日本向けの牛肉の輸出の振興を図りたいのならば、全頭検査並みに品質の向上を図ると共に、そのための労働力の質を高め、品質管理に遺憾なきを期して頂きたい。現在の不安定な品質では我が国の消費者を満足させられないくらいはご承知ではないか。

!)(到底無理でしょうが)自国の製品の販売を促進したいがために、例えば日本の自動車に謂われなきクレームを付けるような策を講じないで欲しい。

と言うような事柄を要求してはいけないものでしょうか。過去の理不尽なセクハラ裁判にしても、明らかに不当だったにも拘わらず、国として何ら産業側を擁護しなかったために、アメリカ側は「何を言っても大丈夫」という、いわば「これを言って失うものはない」的な高飛車な姿勢でした。

私には日米間の微妙な外交関係は解りませんが、こういう事柄を主張すると何か重大なものを失うのでしょうか。嘗ての繊維交渉などは堂々としていた印象があるのですが。>(前田 正晶)

首脳会談とはいえ、いわば話し合いなのだから、まして「対等」を謳う「話し合い」なのだから、自由に話し合えるもの、と解釈するのがd普通である。

だとすれば、前田さんご指摘のようなことが議題に上って当然、それを敢えて言わないのは野田首相の「萎縮」ではないかとの疑念が生ずるのは当然である。

しかし実は首脳会談となれば、そうはいかないのだ。首相が萎縮したのではない。日米関係の現状は、鳩・菅の食い散らかしの結果、双方対等なんかではなく、日本が下座に置かれている始末なのだ。

特に普天間移転問題では、オバマ大統領が共和党から「監視」されている状態にあり、その分、日本政府に対していわば居丈高な態度を隠さない状態になっている。この点は鳩山に特に責任がある。如何に厚顔無恥を決め込んでも取り上げる議題について発言できる官僚はいま不在である。

「話し合い」とはいえ、国家間の公式会談となれば、そこでなされた約束は条約に準じた約束となる。したがって事前に専門家による折衝が行なわれる。民主党がいかに政治優先と避けんでも、外務省抜きに大統領とは太刀打ちできない。

日本外務省とアメリカ国務省との間で事前折衝が官僚によっておこなわれる。ここでは両首脳が会談で取り上げる議題について細かく折衝がおこなわれる。日本がアメリカに対して真に対等な位置が確保できている状態なら、前田さんご指摘の会談議題になっただろう。

しかし、普天間という宿題を済ませていない立場の日本はいまや対等にモノを言える立場には無い。なんでもかんでも「対等」と誤解して両国の友好関係を目茶くちゃにした鳩山。それを戻す努力を怠った菅の罪はこれだけ大きいのだ。

嘗ての繊維交渉とは沖縄を縄で買ったと称されたとおり、大平・宮澤と2代に亘る通産大臣が解決できず、当時の首相佐藤栄作はニクソン大統領の前で肩を顰めたものだった。

そこで最後に登場した通産大臣は田中角栄。いきなり2000億円でわが国繊維業界を買占め、織機をすべて潰して解決した。

流石のニクソンも角栄だけを絶賛、沖縄返還は本決まり。福田を引き連れての首脳会談で後継者として紹介しようとしたがニクソンが隣席に招きいれたのは通産大臣角栄だった。あの「角福戦争」がここで事実上決着したのであった。

対等な日米関係とはお互いに「宿題」を解決してこそはかれるもの。普天間が解決するまで日米は対等な関係は望めない。(敬称略)

<オバマ氏「彼とは仕事ができる」=首相を評価―同行筋明かす

【ニューヨーク時事】21日の野田佳彦首相とオバマ米大統領との首脳会談後、大統領が首相について「彼となら仕事ができる(I can do business with him)」と語っていたことが分かった。大統領周辺から日本政府関係者に伝わってきたもので、首相同行筋が22日、明らかにし
た。

大統領の発言は「彼とは取引できる」とも訳され、初の首脳会談で大統領が首相を評価し、個人的な信頼感を示したものと受け取れる。ただ、首相がその信頼に応えることができるかは、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設問題などの取り組み次第だ。>
時事通信 9月23日(金)12時12分配信

これが真実なら「なんとか回復できるか」とやや安堵する。 
                          
                           2011・9・23


普天間、地元説得に全力=被災地で「災害」国際会議―野田首相

【ニューヨーク時事】野田佳彦首相は23日午後(日本時間24日早朝)、ニューヨーク市内のホテルで内外記者会見を行い、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設問題について「昨年の日米合意にのっとり、日米が協力して推進する」と述べ、同県名護市辺野古に移す日米合意を堅持する考えを強調した。

その上で「沖縄に丁寧に説明し、理解をいただく。沖縄も普天間の固定化は避けたい気持ちが強い」として、地元の説得に全力を挙げる考えを示した。

首相は「抑止力を維持しながら、沖縄の負担をできるだけ軽減する」と指摘。オバマ米大統領との初会談については「日米間の懸案の解決に向け、個人的な信頼関係を築く良いスタートが切れたと自負している」と述べた。

首相は、国連での演説や一連の首脳会談で、東日本大震災への支援に謝意を示し、東京電力福島第1原発事故収束へ向けた決意を訴えたとし、「好意的に受け止めていただき、一定の成果があった」と振り返った。

また、来年日本が国際原子力機関(IAEA)と共催する国際会議に加えて、大規模自然災害をテーマとする国際会議も開く考えを表明した。政府は災害に関する会議を東北で、原子力安全に関する会議を福島県で開催することを検討している。

北朝鮮の核開発問題では、日米韓3カ国が連携して北朝鮮に具体的な行動を求めていくと指摘。日中両政府が年内で調整している首相の訪中については「お互いにとって都合のいい時期を選んだ上で、ぜひ実現したい」と意欲を示した。

時事通信 9月24日(土)4時48分配信

2011年09月23日

◆辞める首相 辞めない首相

渡部 亮次郎

気鋭の作家 塩田潮さんが標題の新書をこのたび日経プレミアシリーズ136として上梓され、中に私も証言者として登場した。

菅直人による、前例のない居座りが齎した政治の機能停止が出版の動機ではないか。

<田中角栄から菅まで、大平と小渕をのぞく20人の事例を振り返って、政権の手放し方は十人十色ナならぬ、20人20色である。「辞め時」と「辞め方」というフィルターを通せば、その政治家の本質が透けて見える。>という。

「いつでも辞める」の政権不執着の首相=鈴木善幸、村山富市、福田康夫。

行き詰まり・沈没型の首相=竹下 登、宇野宗佑、羽田孜、森喜朗。

返り咲きを目指した不完全燃焼型の首相=田中角栄、福田赳夫、海部俊樹、橋本龍太郎。

天寿全うの首相=中曽根康弘、小泉純一郎。

ご一読をお奨めする。           2011・9・22

2011年09月22日

◆まだ遠い新特効薬プラザサキ

渡部 亮次郎

納豆食べても大丈夫!ワーファリンに代る脳卒中予防の新薬ダビガトラン(商品名:「プラザキサ」)承認

血管を詰まらせる血栓をできにくくして脳卒中を予防する新しい抗凝固薬の製造・販売が厚生労働省から承認され、11年4月から国内で発売された。

従来薬「ワーファリン」は、納豆を食べると効かなかったが、新薬は食べ合わせなどの影響はない。

独製薬大手べーリンガーインゲルハイムが開発した「プラザキサ」(成分名ダビガトラン・エテキシラート)。血液を固めるトロンビンという酵素に直接作用する。

心臓病の一種の「心房細動」(不整脈)の患者が1日2回服用すると、従来薬よりも35%、脳卒中や全身性塞栓症の発症が減る。

1950年代から使われているワーファリンは、心房細動後の脳卒中予防のほか、人工関節や人工心臓弁の装着など血栓ができやすい手術の後に欠かせないが、血液中の凝固成分を増やすビタミンKの作用を抑える薬なので、納豆やクロレラなどビタミンKを豊富に含む食品は禁忌だった。

畏友石岡荘十さんは心臓手術をしているのだが、無類の納豆好き。我慢し切れなくて食べたら、ワーファリンの効き目はたちどころに消えてしまったそうだ。だから石岡さんにとって「プラザキサ」の発売は実に待ち遠しいものだった。

もともとワーファリンは抗凝固薬として脳梗塞の予防などに用いられていて、脳梗塞の発症は、心房細動(不整脈)などの「心原性」と「非心原性」の2つに大別される。

非心原性にはアスピリンやクロピドグレル、シロスタゾールなどの抗血小板薬が、心原性には抗凝固薬の投与が推奨されている。

これは、心原性脳塞栓症については、大規模臨床試験の結果から、抗凝固療法の効果が抗血小板療法の効果を上回ることが明らかにされているためだそうだ。

ダビガトランは、経口直接トロンビン阻害剤で、血液凝固カスケードの下流にあるトロンビンを阻害して抗凝固作用を発揮する。NEJM誌電子版に報告された大規模臨床試験によって、ワーファリンの代替として有用であることが明らかになった。

ワーファリンは、食べ物や他の薬物の影響を受けやすい上に、個人による変動が大きいため、プロトロンビン時間国際標準比(PT-INR)をモニタリングしながら、至適用量を決める必要がある。だからせめて1ヶ月1回の採血検査も欠かせない。

ところがプラザキサは治療域が広く、凝固モニタリングの必要性がないことや、肝臓の薬物代謝酵素の影響を受けにくいこと、早期の効果発現などの点で明らかにワーファリンよりも優れている。

ワーファリンは安価だが、凝固モニタリングの費用などを考えると、経済的にも「プラザキサ」が優れている。

一昨年発刊された「脳卒中治療ガイドライン2009」では、心房細動を原因とした脳梗塞が含まれる心原性脳塞栓症については、ワーファリンが第一選択薬として推奨されています。

しかし、この「プラザキサ」や現在、開発が進められているファクター!)a阻害剤などが次々に出てくるので、このガイドラインも近々変わるだ
ろう。

心原性脳梗塞の予防薬としてはワーファリンが唯一の経口剤だったがたが、?納豆などの食品、薬品に対する相互作用が多い?感受性に個人差があり、血中濃度の安全域が狭く、定期的な採血検査を必要とする。など制約が多い薬だった。

これに対して「プラザキサ」は納豆などのビタミンKに対する制約もなく、採血をし、血液凝固能を測定する必要もない。今までワーファリンのマイナスとされていた部分の多くを克服している。

またワーファリンとの比較試験ではワーファリンよりも有効性が高く、大出血のリスクは有意に低かったという結果が出ている。

しかし、よい点だけではない。問題のひとつとしてワーファリンに対して薬価が高いこと。プラザキサの標準量1回150mg1日2回だと132.60×4=530.4円/日、ワーファリン1mgが1錠9.7円なのでかなり値段が上がる。

採血が無くなるのでその分で相殺できるという考え方もあるが、それでもプラザキサのほうが高い。しかも規則上、承認から1年間は1回、20日分しか処方されない。20日に1回、医師を尋ねなければならないのだ。
2011・8・04

2011年09月20日

◆日中国交正常化余聞

渡部 亮次郎

1972(昭和47)年9月20日田中角栄首相らを乗せた全日空特別機は、北京を目指して羽田を飛び立った。同乗して同行するNHK代表の私にとっては、沖縄(本土復帰前)に次ぐ2度目の海外取材だった。

数年後、私が猛烈な高所恐怖症であることを自ら発見するが、今も飛行機に乗るのは平気である。故迫水久常経済企画庁長官は、当時の池田勇人首相に訪米同行を命じられ、恐怖の為一睡もできず、ワシントンまで前の背もたれに掴まり下を向いたままだったと私に回想したことがある。

わが田中首相は畿内で数十分眠った。大平正芳外相と二階堂官房長官は眠らなかった。特に外相は中国側との会談の手順を考えたら眠るどころの話ではなかったらしい。

空港から北京市内まで、並木の根本から地上1mぐらいの高さまで白い石灰のようなもので消毒してあるのが珍しかったが、バスの中では尋ねる人とて無い。

割り当てられホテルは人民大会堂に近い確か民族飯店460号室だったが、洋服箪笥の背が高く往生した。シャワーも同様。後で調べたら建国直後に招いたソビエト技術者が自分たちの背丈で設計したものだった。

日中の国交正常化とは世界情勢上、どう位置するかとか、国益にとってのプラス、マイナスなど考えたことも無い。中国へ来たいなどと思ったことも無い。私は海外取材ならまず、アメリカへ行きたかった。(アメリカ初訪問はNHK退職後の1973年だった)。

当然、中国語は全く知らない。それでも部屋を出たり入ったりするので部屋番号だけは係りに聞いた。「スールーリン」。あれから40年近く。いまだに「トウフーリャンツラン渡部亮次郎」とともに覚えている。韓国では「ドーブー」になる。

話は前に戻る。出発に先立って外務省報道課から注意があった。「新中国の人々はチップを受け取りませんから絶対出さないように」。

ところがバスを降りて運転手に西日本新聞の記者が金貼りのライターを差し出した。

運転手きょろきょろ周りを見たあと奪い取るようにしてポケットにしまった。約2万円の損害である。いまさら冗談だった、返せと言えないからである。日本外務省の「取材」の浅さは今も昔も変わっていない。

かの人民大会堂。3000人は収容可能という大宴会場。周恩来首相の招待だ。出てきたメインデッシュが「海鼠の醤油煮」生まれて初めて食した。演奏される歌に角さんの郷里新潟にちなんで「佐渡おけさ」が出る事は、政府の会議を裏取材して知っていたが海鼠の出る事は知らなかった。あまり歓迎しない客への料理らしい。

役人は主人が出す者は文句を言わずに口にするものという日本式に解釈して問題視しなかったのではなかろうか。2月に来たニクソンは断った代物だった。中国に舐められたのだ。海燕の巣か鱶鰭の姿煮が本来とか。

到着2日目に各社から1人が選ばれて、田中首相の宿舎「迎賓館」に招かれて入った。小学校しか出ていない角さん、よせばいいのに漢詩を色紙に書いていた。あとで専門家から大いに貶された。

日中首脳会談の中身について二階堂官房長官の発表は連日、「発表できる事はありません」。支那事変と満洲事変で日本が中国に与えた被害について「迷惑をかけた」と言った。

周恩来が怒って「それは道路で撒いていた水が女性のスカートに掛かって謝った程度の意味」と抗議して大平がその夜はメシも喉を通らなかったことなどは北京にいるうちは丸秘だったのだ。

それに対して角栄首相が「気にしなさんナ、対策は明日考えればいいことと慰めた。だからインテリは使い物にならんのだ」と嘆いたことは帰国後分かったに過ぎない。

交渉はほぼ詰まったらしく、角さんらが万里の長城へ登ることになった。朝起きが早すぎたので460のベッドにひっくり返ったら眠ったらしい。慌てて下へ降りたらバスは出発済み。タクシーたって当時は1台も走っていない時代。

怪しげなフランス語で交渉したら共産党の指示でガタガタの車が迎えに来た。フランスとは既に国交があったから、錆び付いたフランス語でも通じると判断したのが正解だった。

どんなに急ごうとしても時速40キロしか出ない。北京郊外を出ようとしたら下肥を担いだ男に逢った、日本人一行が行きすぎたと思って安心してでてきたら、まだ日本人がいたというわけ。中国農業のレベルを知らされた。

万里の長城にはなんとか間に合った。NHKには各首脳に半径2mまで近づける「近距離記者」はわたししかいないのだからあわておってきたわけさ。

一体、中国共産党にとって党員以外はすべて敵である。遠距離記者は首脳らに20m以上は近づいてはならず、日本のカメラマンたちが携行した望遠レンズにはすべて仕込み銃が仕込んである如く1本1本を手にとって検査された。呆れた。

そうかと思うと、NHKの持ち込んだTV中継車の夜間の管理をさせず中国側が管理した。案の定、夜間に中継者を分解し、ノウハウを盗んだのである。ネジが見つからずNHKの技術者たちは嘆いていた。嘘と盗みの民族?

そういえば田中訪中の直後、コマツへブルドーザー3台の発注があってコマツを歓喜させた。ところが注文はそれっきり。3台を分解して真似たブルを大量生産したのである。

共同声明の調印が成り、一行は周恩来首相に案内されて上海を訪問した。上海派の顔を立てなければならなかったらしい。帳春橋が市長と称して迎えに出た。間もなく「4人組」の一人として逮捕されたあの人物。

作家らしく実に軟らかい手であった。似たような軟らかい手はソヴィエトのコスイギン首相のそれだった。

街を歩いてみたが、市民にとってみれば戦後はじめてみるにっくき日本人である。道端に並び、鋭い目で私を睨みつける。怖くなってきてホテルに早々、逃げ帰った。

国慶節の前日に帰国した。羽田に帰着して分かったが、別れ際、周恩来は田中首相に「天皇陛下によろしく」といったという。そんなこともあってか、日本では日中友好ガブームとなりつづいた。

わたしは苦々しく耳目をふさいでいた。まさか6年後、こんどは外相秘書官として訪中することになるとは夢にも思わなかった。
文中敬称略  2011・9・19