2013年08月26日

◆8月15日後、何故軍政布告は止まったか

西村 眞悟


如何にして8月15日に漕ぎ着けたのか。その任を果たした人物のことに触れたい。

それは、鈴木貫太郎(慶応3日泉州堺久世地区生まれ、昭和23年4月17日没)である。昭和20年4月7日、鈴木貫太郎77歳は「江戸時代に生まれた総理」となる。

「老人でございますから」と固辞する鈴木に、陛下が、「もはや卿しかいないのだ」と言われた。

皇太后も、陛下の父親と思って引き受けて欲しい、と言われた。長年侍従長を務めた鈴木の妻は、陛下の乳母であり、陛下は鈴木の妻を母のように慕っておられた。

この陛下の言われた「もはや卿しかいない」という言葉の意味は、戦を収めること、つまり終戦に漕ぎ着けることができるのは鈴木しかいないという意味である。この時、戦を収めることほどの困難はなかったのだ。
 
さて、天は鈴木に、昭和20年8月15日の為に命を与えてきた。鈴木は、幼い頃、暴走する馬の足の下に倒れた。しかし死ななかった。それを観ていた人は、鈴木の運の強さに驚いた。

海軍士官となった鈴木は、水雷艇艇長(日清戦争)そして駆逐艦司令(日露戦争)となって、それぞれの海戦で、敵艦に機銃が届く至近距離まで肉薄して魚雷を放つという命知らずの必殺の戦法をとって敵戦艦数隻を撃沈する殊勲をあげた。つまり、特攻作戦である。生きているのが不思議といわれた。部下は彼のことを鬼貫太郎、鬼貫と呼んだ。

昭和11年2月26日未明、侍従長であった鈴木は、安藤輝三大尉の率いる歩兵第三聯隊の兵に襲われ、頭部、胸そして大腿に銃弾をうけて昏倒した。

トドメをさそうとする安藤大尉に、鈴木の妻が「おやめください。老人ですからトドメはささないでください。どうしてもというなら私がトドメをさします」と言って止めた。

安藤大尉は、鈴木に敬礼して退出した。その後妻が、意識のなくなった鈴木の耳元で、「あなた、しっかりしなさい」と叫ぶと、鈴木は目を開け蘇生した。

昭和23年に鈴木は死ぬが、彼を火葬したあとに遺骨と共に2・26事件の時に撃ち込まれた銃弾があった。

昭和20年4月7日、小磯内閣総辞職をうけて鈴木は総理大臣に就任した。4月12日、アメリカ大統領ルーズベルトが死去する。

鈴木は直ちに、優秀な戦争指導者を失ったアメリカ国民に対して心より哀悼の意を表するとのメッセージを送信した。同時期、ヒットラーがルーズベルトを罵るメッセージをアメリカに送信した。

アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンは、「東洋の国日本に騎士道が残っている」との賞賛のコメントを発した。

翌4月13日、東京は3月10日に続く大空襲をうけた。トーマス・マンは、ドイツと共にアメリカにも騎士道などないと思い知ったであろう。4月30日、ヒットラー自殺。

我々日本国民は、そして、アメリカ国民も、日本国総理大臣鈴木貫太郎が、都市住民の無差別殺戮という国際法無視の残虐な敵襲の中においても、その敵国のルーズベルトという大統領の死に対して武士道の精神に基づきアメリカ国民に対して哀悼の意を表したことを忘れてはならない。

8月14日、御前会議に於いてポツダム宣言受諾決定。同日、玉音を録音。戦争継続派軍人、録音版奪取失敗、クーデター派自決(宮城事件)。

8月15日、未明、阿南陸軍大臣自決。正午、玉音放送。鈴木内閣総辞職。

以上のように、鈴木貫太郎は役目を果たした。陸海軍は抗戦を止め、武装を解除していくが、次の戦いを担ったのは、武器を持たない隻脚の外交官重光葵(しげみつ まもる)である。
 
鈴木内閣の後を受けて、8月17日、東久邇宮内閣が成立した。この東久邇宮内閣が担う降伏文書調印の全権が、外務大臣に就任した重光葵と陸軍大将の梅津美治郎であった。

8月28日、重光は夜行列車に乗って伊勢に赴き、伊勢神宮に参拝する。

我が国を 造りましたる 大神に 心をこめて 我は祈りぬ
8月30日、マッカーサー厚木に到着9月2日、午前6時45分、重光と梅津ら横浜桟橋から米駆逐艦に乗り戦艦ミズーリ号に向かう。
 
ミズーリ号には大勢の新聞記者とカメラマンが待ちかまえ、シンガポールで山下奉文中将に降伏した英軍のアーサー・パーシバルやフィリピンのバターン半島で本間雅晴中将に降伏した米軍のジョナサン・ウェインライト等も待っていた。

大勢の将兵が鈴なりになって隻脚に義足を付けてタラップを登る重光等を見ていた。
 
つまり、マッカーサーは、日本側全権を晒し者にして勝者としての優位性を効果的に示そうと演出したのである。旅順の敵将降伏に際して、敗者の心情に配慮して各国のカメラマンの取材を許さなかった乃木希典大将の示した武士道精神の奥ゆかしさと、マッカーサーは正反対の人物であった。
 
定刻9時にマッカーサーはミズーリ号の甲板に姿を現す。礼装ではなく簡易な夏服。重光はシルクハットにモーニング。

9月3日、マッカ−サー、GHQは、日本に軍政を実施しようとする。重光は、敢然とGHQ本部に乗り込みマッカーサーと直談判した。

ドイツは政府が崩壊した。従って軍政は致し方ない。しかし、日本政府は壊滅していない、機能している。

重光は、「ポツダム宣言は、日本政府の存在、即ち日本の主権の存在を前提にしている。従って軍政を敷くことはポツダム宣言を逸脱するものである」とマッカーサーに迫った。

この重光の主張に対して、遂にマッカーサーは、軍政の布告を取り下げる、と答えたのだ。このようにして、昭和20年9月以降も、我が国政府は機能し続ける。
 
仮に軍政が敷かれておれば、日本国政府への国民の信頼はなくなり、日本人は植民地の民の如く白人の異民族統治のお家芸である「分割統治」(デバイド アンド コントロール)のもとで「異民族の支配者」に媚びへつらって恩恵を受けようとせざるを得なかったであろう。日本人は徹底的に植民地の被支配民となったであろう。

それは、イギリス軍に支配された体験を綴った「アーロン収容所」(会田雄次著)に書かれたおぞましい世界である。
 
なお、分割統治とは、例えば少数者に特権を与えて多数者を支配させることである。このように、被支配者を分断して利害が相反する構造にしておけば、両者が一致団結して抵抗するという面倒なことは起こらない。これが白人が学んだ異民族支配の方策である。
 
イギリスは、ビルマで大多数のビルマ族を少数民族に支配させた。独立したビルマがミャンマーになった今も少数民族との武力衝突が続いているのは、イギリスのこの分割統治という植民地支配に原因がある。

また、イギリスやオランダは、東南アジアでは、少数の華僑に経済を支配させて大多数の現地民を支配した。この華僑の経済的特権構造は、今もこの地域の政情不安の原因になっている。
 
この白人のアジア統治のやり口を観て、我が国での「軍政」が仮に実施されたらどうなったかを考えるならば、あり得べきは、少数者の朝鮮人に特権を与えて多数者の日本人を支配させるやり方である。

事実、敗戦直後は、朝鮮人が「敗戦国民」の日本人に対してGHQの威光を背景にかなり威張っていたと、その当時を知る人から聞いた。マッカーサーは、軍政を敷こうとして、朝鮮人と日本人の分割統治方式を頭に描いていたのかもしれない。

この我が国の屈辱であり、民族の本性を歪めるおぞましい異民族による軍政。これを断固として止めさせたのが重光葵である。

それは終戦直後、戦時中に鈴木貫太郎の敵対勢力つまり徹底抗戦を強硬に主張していた者ほど、マッカーサーの力にひれ伏して占領軍様に従順な忠犬の如くなっていた時期である。

この時、敢然とマッカーサーに抗議して軍政布告を取り止めさせた重光葵は、やはり真の外交官、つまり、礼服を着た戦士であった。

以上、本日は、我が郷里の堺に生まれた鬼貫こと鈴木貫太郎と重光葵が決死の思いで何をしたのかを書いた。これからも、8月15日以降の戦いを忘れないために、「8月15日の後」を時々書いていきたい。

それは、日本と日本人の戦前と戦後の連続性を自覚すること、つまり、日本を取り戻すことに繋がっていくからである。2013.08.25

<「頂門の一針」から転載>

◆トウ(?)は賢明で狡猾

渡部 亮次郎


トウ(?)小平(1904-1997・8・22)は革命成就3年後の1952年毛沢東(1893・12・26-1976・9・9)により政務院常任副総理に任命され、そのほか運輸・財務の大臣級のポストを兼任する。

その後昇進を続け、1956年には中央委員会総書記に選ばれて党内序列第6位になった。

ところがトウ(?)小平は、毛沢東が大躍進政策失敗の責任を取って政務の第1線を退いた後、共産党総書記となっていたので?国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

毛沢東夫人江青は思想的にも性格的にも劉少奇とトウ(?)小平を嫌い、毛の復権を狙い、2人の蹴落としを狙った。さながら再革命のようにして始まった文化大革命のほんとの目的はそれだったのだ。

だから文化大革命の勃発以降、トウ(?)は「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。

追放に先立ってトウ(?)は自己批判を余儀なくされた。

1966年12月2日、産経新聞北京支局長(当時)の柴田穂氏(故人)は北京の繁華街「王府井」で、トウ(?)小平批判の壁新聞を発見した。

新聞紙大の活版刷りで「トウ小平は党内の資本主義の道を歩む実権派である」と題し、「彼の罪悪に徹底的な制裁を加えねばならない」と呼びかけていた。

しばらくすると「トウ小平自己批判書」全文なる壁新聞が出た。トウ小平総書記(肩書は当時、以下同)は劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とともに、8月に批判されて職務を停止され、10月の中央工作会議では、全面的な自己批判を行っていたが、公表されていなかった。

8月18日に始まった毛沢東と紅衛兵との「接見」には、劉、トウ両氏も欠かさず天安門楼上に姿を現した。11月25日の最後(8回目)の接見時も同様で、両氏は批判はされても「健在」と外部ではみられていた。


10月の中央工作会議で行ったトウ氏の自己批判は、「ブルジョア反動路線の先鋒(せんぽう)」とトウ氏攻撃の陳伯達演説に「完全に賛成」した上、「林彪同志から真剣に学ばねばならない」と述べ、「全面降伏」する内容だった。

トウ氏は、「毛沢東思想を真面目に学ばず、大衆から遊離し、大衆を抑圧した」などと自己批判し、「自分はブルジョア階級の世界観から改造されていない小知識分子」であり、「いまは鏡に自分を映し見るのも恐ろしい」とまで言った。

毛沢東に睨まれたら降伏するほかないことをトウ氏は経験で知っていた。賢明。恭順の意を表せば、寛大になることも。狡猾。

1893年生まれの毛、1904年生まれの自分とは11という歳の差がある。毛が83歳で死ぬことも、自分がその後更に20年も生きるとは知る由もなかったが、オレのほうが生き残る、毛が死ぬまでは死んだフリをする以外にない、と決意したのではないか。「鏡に自分を映し見るのも恐ろしい」は毛に対する殺し文句だ。

実際、毛沢東はトウ氏の自己批判草稿に対し、「もう少し前向きな言葉を入れたらどうか。例えば自分の努力と同志の協力により、過ちを正し、再び立ち上がれるといったように」とアドバイスした、という。?(トウ)は賢明で狡猾だったのだ。政治家で賢明だが狡猾でない者は消される。

下放先では政治とはまったく無関係なトラクター工場や農場での労働に従事した。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、?小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、一命を取りとめた。下放先で人民の本当の貧しさを体験し、経済の改革・開放を決意した。

毛の死の直前、1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰するが、1976年には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって再び失脚、広州の軍閥許世友に庇護され生き延びる。

同年9月9日、」毛沢東が死去すると後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後1977年に再々復権を果たす。

1978年10月、日中平和友好条約締結を記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談したほか、京都・奈良を歴訪した。

その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「三中全会」(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議)において、文革路線から改革開放路線への歴史的な政策転換を図る。

またこの会議において事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「2つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実権を完全に握った。

その後は若手の胡耀邦らを前面に立て、国共内戦などから党に在籍し「革命第一世代」と呼ばれる老幹部達を自らと共に中国共産党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置を執った。

!)(トウ)小平は自らは決して序列1位にはならなかったが、死去するまで実質的には中華人民共和国の最高実力者であった。党中央軍事委員会主席となって軍部を掌握、1987年に党中央委員を退き表向きはヒラの党員となっても2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。

後に趙紫陽が明らかにしたところではこの際に中央委員会で「以後も重要な問題にはトウ(?)小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。天安門事件後には一切の役職を退くが以後もカリスマ的な影響力を持った。

資料:【トウ小平秘録】(72)第3部「文化大革命」 自己批判(Sankei Web 07/06 08:04)及び「「ウィキペディア」2007・07・08執筆
(再掲)


2013年08月24日

◆「やませ」は凶作の使者

渡部 亮次郎


江戸時代には天候不順や噴煙による日照不足などで「飢饉」が屡々起きたようだ。天明の飢饉の言い伝えは、秋田で子供のころ聞かされた。

私の生まれた昭和11(1936)年の2月26日に起きた「2・26事件」の遠因も「やませ」による東北地方の米の凶作にあるといわれている。凶作の生活苦に追い詰められた実家の両親が、兵隊の姉妹を東京の苦界に身売りしている惨状に、政界、財界への反発を募らせたのだと言う説。

流石に敗戦後は品種改良で冷害に強い品種を創り上げたり、秋田県知事(当時)の提唱による「三早栽培」の普及などで凶作は遠くなったように見える。

種まきを早くし、田植えを早く済ます。稲刈りも早くして台風の被害を少なくする、というのが三早栽培。確かにその通りなのだが、それを裏づけたのが「ビニール」の普及だった。

「温床」に代わる「ビニール・ハウス」で苗が雪消えの前の播種を可能にし、田植えの早期着手を可能にしたわけだ。しかし「やませ」が来たらひとたまりもない。しかも東北では8月中旬、つまり、出穂(しゅっすい)時に来て「日照不足」に生ると稲は命をとられる。稔らないのだ。

海から上陸する「やませ」(山背)は、春から秋に、オホーツク海気団より吹く冷たく湿った北東風または東風(こち)だ。特に梅雨明け後に吹く冷気を言うことが多い。

やませは、北海道・東北地方・関東地方の太平洋側に吹き付け、海上と沿岸付近、海に面した平野に濃霧を発生させる。やませが長く吹くと冷害の原因となる。なお、オホーツク海気団と太平洋高気圧がせめぎあって発生する梅雨が遷延しても冷害となる。

夏季にオホーツク海気団から吹く北東風は冷涼・湿潤な風であり、海上を進む間に雲や霧を発生させ、太平洋側の陸上に到達すると日照時間の減少や気温の低下の影響を及ぼす。

若い頃、青森県の太平洋岸八戸海岸でこれを実際に見た。早朝、海で発生した霧は、海岸から這うように上陸し、山肌を舐めるように登って行った。地上の花や野菜はぐっしょり濡れた。私は身震いした。

秋田県の旧八郎潟沿岸の農家に生まれた私は、夏の暑さよりも寒さの心配を親から聞かされて育ったが、目にしたのははじめてだった。

ただし、やませは奥羽山脈などを越えるとフェーン現象が発生するため、日本海側では日照時間の増大と気温上昇となる。

「やませ」は、農作物や漁獲に悪影響を与えるこの風の太平洋側の呼称である。また、やませが続いた場合、大阪と東京の気温差が10度以上になることもある。

やませが吹き付ける範囲を「影響範囲」とすると、北海道の影響範囲では元々稲作をおこなわず、牛馬の牧畜や畑作がなされており、やませが長く吹き付けても農業への影響は少ない。

青森県の太平洋側(南部地方など)から三陸海岸の影響範囲も畑作や牧畜が中心で、北海道と同様にやませの影響は折込済みである。また、関東地方の太平洋岸の影響範囲も畑作・牧畜中心であり、且つ、やませが到達する回数自体が少ないので、「冷害」とはなり辛い。

影響範囲で最もやませの影響を受けるのは、稲作地である岩手県の北上盆地・宮城県の仙台平野・福島県の浜通り北部である(福島県中通りも影響を受ける場合がある)。

熱帯原産である稲の日本での栽培方法は、春季は熱帯ほど暖かくないためビニールハウスなどで育苗し、気温が上がると露地栽培が可能となるため晩春に田植えをし、熱帯並みとなる夏季の高温を利用して収量を確保する。

このため、やませが長く吹き付けて日照時間減少と気温低下が起きると、収量が激減して「冷害」となる。

江戸時代は米が産業の中心であったこと、江戸時代を通じて寒冷な気候であったこと、また、現在ほど品種改良が進んでいなかったことなどのため、上述の稲作地に相当する盛岡藩と仙台藩を中心に、やませの長期化が東北地方全域に凶作を引き起こした。

凶作は東北地方での飢饉を発生させたのみならず、三都(江戸・大坂・京)での米価の上昇を引き起こし、打ちこわしが発生するなど経済が混乱した。

戦後は冷害に強い品種がつくられ、飢饉に至ることはなくなった。

しかし、一億総中流以降、大消費地のブランド米志向が顕在化し、冷害に弱くとも味のいい品種が集中栽培される傾向が進んだため、再び冷害に弱くなって「1993年米騒動」が発生した。その反省から、冷害対策は「多品種栽培」が趨勢となった。

近年は、米の市場価格下落のため、ブランド米志向に再び戻りつつあり、「1993年米騒動」の再来が危惧されている。梅雨明けも報じられない米どころに「やませ」が吹いている。マスコミは「山瀬」を知らない。農水省が発表するまで報じないだろう。

2013年08月22日

◆中国にウォシュレット?

渡部 亮次郎


中国人は用便中を他人に見られて平気だ。それに手は滅多に洗わない。日中国交回復のための田中角栄首相の同行しての初訪中(1972年9月)。

このとき万里の長城行きの取材バスに乗り遅れて、特別車を仕立てて後を追いかけたら、天安門から5分も走らぬ北京市内で、肥え桶を担ぐ人に出合って驚いた。まさか日本人記者が来るとも知らずに共産党は通行を許可したのだ。

しかし、次の場面では、それこそ仰天した。万里の長城に登り始めるところにある公衆便所である。仕切りが何も無い。体育館みたいな広さの床に四角い穴が何十もあけられ、人々は他人に尻穴を見せながら用を足すのである。しかも手を洗う水はどこにも無い。

そういえば、街の食堂で料理人はトイレに立っても、事後に手を洗わない。おそらく、中国では水が少ないので、手洗いの習慣が無いのだろう。

そういう中国で、どれほどかは知らないが、用便後、便座にすわったままで尻を洗える「ウオシュレット」が売れているというから、やや驚きだ。改革・開放が尻にまで及んだか。驚き以外の何物でもない。

洗った尻は汚れていないのだからと、ますます手を洗わなくなる事を恐れて、出来ることなら、中国へは行きたくないものだ。

「ウォシュレット」は、TOTOが販売する、温水洗浄便座の登録商標及び商品名である。しかし、世界では日本しか普及していなかったから、大臣に随行して外国出張を重ねていた外務大臣秘書官の時代は携帯水洗器を持ち歩いたものだ。

TOTOのウオシュレットは発売が1980(昭和55)年6月。以来、2005年6月には累計販売台数が2000万台を突破した。

2006年10月現在、中国・香港・台湾・韓国・ベトナム・シンガポール・インド・ドバイなどの中東地域・アメリカ・カナダで販売されている。

『頂門の一針』常連執筆者平井修一さんが紹介するワシントン・ポストの記事によると、インドでは人口のおよそ半分の6億6500万人がトイレに不自由しているというから、TOTOの市場は世界にまだ相当残っているわけだ。

最近のアメリカやヨーロッパの方面での実際の普及状況はわからない。古くて歴史を誇るホテルではどうだろうか。古くからビデ完備だったパリのオテル・クリヨンでもウオシュレットを取り付けたろうか。

「ウオシュレット」は温水洗浄便座では高いシェアを誇り、INAX(同社の名称はシャワートイレ)や他社製の同種類のものも含め、「ウォシュレット」と呼ばれるほど定着しているが、ウォシュレットの名称は先に述べた如くTOTOの登録商標(日本第1665963号)であるため、注意が必要だ。

TOTOは1960年代に米国からの輸入によって温水洗浄便座(ウォッシュエアシート)の販売を行っていた。主に病院向けに医療用や福祉施設用に導入されていたものである。

1969年にはこれを国産化したが、当時は販売価格も高く、なおかつ温水の温度が安定しないために火傷を負う利用者もいた。

男装で有名だった女流作家が、ビデを使ったらなんと熱湯が出てきて大火傷をした。係りが呼び出されて謝罪したが、男装なのに、あそこは男性でなかったのかと、帰り途で2人で大笑いしたという話を耳にしたことがある。

TOTOは独自に研究開発を進め、清潔好きな土壌を持つ日本での普及が見込めることなどから、1980年に2機種の設定によって発売を開始した。

特に、肛門位置などの数値データは存在していなかったので、社員などの協力を得てデータを収集し、噴出位置を設計するという工夫をこらし
た。

温水貯蔵式でおしり洗浄のほか、乾燥と「ウォームレット」の機能である暖房便座機能を持つ「Gシリーズ」(Gはゴージャスの意)と、水を瞬間式で温水にし、おしり洗浄と暖房便座機能に絞った「Sシリーズ」(Sはスタンダードの意)の2種類がある。

以後現在まで基本モデルはこの2種類で、これにコンパクトシリーズが1993年以降追加されるようになった。また、便器の大きさによって、レギュラー(標準)サイズとエロンゲート(大型)が用意されている。

1982年には、当時話題のタレント・戸川純を起用したCMで、コピーライター仲畑貴志による「おしりだって洗ってほしい」のキャッチコピー(第2弾コピーは「人の、おしりを洗いたい」)、その独特のCM中の歌によって一気に知名度を高めた。

CMについては、初回の放映時間がゴールデンタイムであったことより、視聴者から「今は食事の時間だ。飯を食っている時に便所の宣伝とは何だ!」などとクレームが入り、おしりという言葉を使用したことなどについても批判されたが、それを乗り越えるだけのインパクトがあった。

以後、すべてのラインナップで着座センサーを導入した(それまでは着座していなくても温水が噴出した)。ふたの自動開閉や便器洗浄、さらには消臭、脱臭、芳香の機能の搭載にも成功した。

ウォシュレットを装備した一体形便器(商品名「ネオレスト」「Zシリーズ」など)の登場、また住宅用に限らず公共施設やオフィス、ホテル用のラインナップも整備された。

抗菌・防汚にも配慮がなされ、ノズル部分は肛門から跳ね返ってきた温水が周囲に掛からないような角度(43度、ビデは53度)に設定されており、格納時やおしり洗浄前にノズルを温水で洗浄する機能も付属している。

また、おしり洗浄とビデ洗浄では吐水する配管も変えられている。他にも、省エネルギーにも配慮して節電機能を設けたほか、操作部も一部機種では壁付けの別体リモコンの採用で使いやすくするなどの改良が加えられている。

また2005年10月には音楽のMP3再生機能が備わったウォシュレットが発売されるなど、多機能化が進んでいる。このようなトイレの多機能化は日本独特のものであり、世界的にはこのような便座はまだ普及しているとはいえない。

歌手のマドンナが2005年に来日した時、彼女は「日本の暖かい便座が懐かしかった」とコメントしている。

しかし、マドンナの発言から類推するところ、アメリカでの急速な普及は想像できない。ヨーロッパ各国でも同様ではないか。日本人は、極端と言われるほどに清潔好きなのだ。

1998年には累計販売台数1000万台を突破したが、この頃から多くの便器で装備するようになり、以後7年で倍の2000万台に達した。他社製品も含めれば、普及率は6割程度まで伸び、新規に建設されるオフィスビルでも標準的に取り付けられるようになっている。


2013年08月19日

◆テレビは政治の真髄に迫れない

渡部 亮次郎


私はテレビ局(NHK)で政治記者を20年務めたが、テレビは政治の真髄には迫れない、それを見て政治を見たと思っている国民は政治を理解したと思うだろうが、真実は誤解しているだけだ、とつくづく思った。

政治家が突き出したマイクやレンズに語るのは建前の恰好づけだけ。本音は密室での1対1になった時にしか語らない。不特定多数の取材者のいる「記者会見」で本音を明かす政治家はいない。

私の上司 島ゲジは記者会見を「嘘つき大会」と貶した。不特定多数の会見でには建前しか語らないというのは人間の本質だから、「記者会見」が真髄を語っていないのは時代を超えた事実である。

政治報道に関して、新聞やラジオにとって写真は不可欠ではないが、テレビは映像と音声で繋いでゆかなければならないから記者会見や「ぶら下がり」が頼みの綱である。政治家の「建前」だけを拾い、深い胸中に隠された本音を突き止められないまま次に進まざるを得ない。

重ねて言うが、テレビは政治に関する限り「記者会見と「ぶら下がり」」を多用し、たまに「特番」で補い「ハイ、これが今日の政界です」とすましている。本音を欠いた、極言すれば嘘を流しっぱなしだ。

テレビだけを見ている視聴者は、この「嘘」を「真実」と思い込み判断材料にして政権の選択をするから、端(はな)から政治家失格だったボンボンを総理に選ぶ愚を冒すことになる。

つまり、政治家が突きつけられたマイクとレンズを前にした時、本音を語る事はあり得ない。これは後に大臣秘書官になって、取材される立場に変わった時に痛感した。当たり障りの無い「建前」を語ることが「安全」であり安心なのである。

アメリカの政治家はテレビ・カメラに本心を言う。カメラのマイクを差し出すと大抵の政治家は立ち止まり、語りだす。「ぶら下がり」になれていて、すらすらと喋り始める。答えを「抽象的」にして逃げる事が多いが「嘘」をつく例は極めて少ない。

そこを悪用して国務省玄関に陣取り、出てきた大物にマイクを突き出す。
カメラにフィルム(テープ)ははいっていない。インタビュうしているところを別のカメラマンに一枚写真に撮らせる。これを後に著書の宣伝に使ったワルがいた。某ワシントン特派員の空(カラ・フィルム)事件は有名だ。

政治家が日本では「嘘」や「建前」で逃げ、アメリカでは嘘に逃げないのはなぜか。経験が少ないから確答できないが、「神に誓っているから嘘はつけないのだ」と解説した特派員がいた。

「お前なあ、政治家は記者会見で嘘を言う、実験をするから見ていろ」と島ゲジ(桂次=後のNHK会長)が言った。ある日、自民党幹事長の会見。カメラが回る。何事かを真実らしく語り終えた。

国会内の男用トイレに入った。すぐその脇にならび「ツレション」をしながら「幹事長、本当はどうなの」と訊く。相手が私独りなのを確認してから「うん、実はね・・・」と本音を吐いた。テレビはこれを録音も撮影もできない。

その夜のNHKニュースは民放とは逆の結論を流した。島さんが言った。「嘘を吐くと緊張する。緊張すると小便がしたくなる。小便で開放感に落ちる。ツレションで質問すると本音がつい出るんだ」。

政治家は多忙だし、マスコミは利用したい時と避けたい時と両方ある。独りの記者だけと、カメラ、マイク抜きで取材(サシ)の応ずる例は極端に少なくなっている。「オフレコ」の会見ですら多数が一緒である。

オフレコが外へ洩れた時、政治家としては多数が相手だから「犯人」を絞る事は殆ど不可能だ。だからオフレコでも建前しか喋らないのが政治家だ。

時代は超えても、政治家の本質はかわっていない。昔、河野一郎(河野太郎の祖父)は自宅へ上げた夜回りの記者に顔見知りでない新顔がいると、面談拒否をしたものだ。

政治家が本音を絶対明かさない「記者会見」「ぶらさがり」。これらでは「建前」しか明かさない。そんなテープを繋げて何を訴えてもテレビの政治ニュースは真実からは遠くなる。

視聴者は毎度、そういう目に遭うから、政治不信とともにテレビ不信に陥る事になる。特に鳩山の真の姿を、総理就任後半年かかって突き止めたテレビ視聴者のショックは大きかった。「政治の真髄に迫れないテレビ」で政治を判断する事は危険ですらある。
(文中敬称略)2010・5・01

2013年08月18日

◆インド直伝のカレーは

渡部 亮次郎


日本のカレイライス乃至ライスカレーは、初めはインドからではなく、英国海軍から明治時代の日本海軍に伝えられたものだった。それは兵士を苦しめる病気「脚気」(かっけ)対策としてだったから、小麦粉(ビタミンB1)一杯の「粉っぽい」ものだったのは当然である。

しかも除隊した海軍兵士たちが家庭にそのまま伝えたから、日本中のカレーが粉っぽいものとして定着したのは当然である。私の義兄が富士屋ホテルだかどこかのホテルで習ってきたカレーは、いま市販されている固形ルーを使ったものより、黄色でもったりして、明治を思わせる。

「こんなものカレーではない」と文句をつけたインド人が1915(大正4)年暮、日本に亡命して来た。ラス・ビハリ・ボースという。このボースが東京・新宿の「中村屋」に入って「純インド式」のカレーを教えた。

<ボース:Rash Bihari Bose(1886‐1945)
インド民族運動の指導者。日本に長く在住して〈中村屋のボース〉として有名。1908年ごろからベンガル民族運動を指導し,当時の風潮のなかでテロリズム系の運動を行う。

12年,インド総督ハーディング(英国人)に爆弾を投てきして負傷させたが,15年ラホール兵営反乱は失敗に終わった。

15年,訪日し時を同じくして亡命中の孫文と邂逅し,知遇を得た。その年の11月,イギリスの圧力による国外退去令に際して,孫文,頭山満などの助けにより,中村屋主人の相馬愛蔵・黒光夫妻のもとに隠れた。

その後相馬夫妻の長女俊子と結婚。41年太平洋戦争勃発とともに,インド独立連盟総裁としてインド国民軍結成のため日本に協力した。過労のため体調を崩し,東南アジアより日本に戻り,45年1月インド独立をみることなく没した。

2006年5月21日の産経新聞によると、もともと中村屋は東京大学のある本郷で明治34(1901)年、パン屋として創業し、後に新宿に移転。昭和2年に喫茶部を開設したときにボース直伝による「純インド式カリー」を出して東京っ子の舌に衝撃を与えた。

<相馬黒光 そうまこっこう 1876‐1955(明治9‐昭和30)
芸術家を後援した商人で,自身文筆もよくした。本名良。仙台に生まれ,押川方義の影響でキリスト教徒となる。

明治女学校を出て長野県の企業で社会改良運動家相馬愛蔵と結婚するが,婚家の気風になじまず,1901年夫とともに東京に出,本郷にパン屋中村屋を開業した。

はじめは苦労を重ねたが,店を新宿に移してからは東京の西郊への発展も幸いして事業はしだいに軌道に乗り,山手のインテリ層を中心に顧客をひろめた。

彫刻家荻原守衛,肖像画家中村彝(つね),ロシア人の詩人エロシェンコらのパトロンとなり,また15年インド独立運動家 R. B. ボースを中村屋内にかくまい,長女を嫁がせた。自伝《黙移》がある。岡部 牧夫>(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

(相馬黒光のことを調べてみたら、この原稿の途中であることを忘れるぐらい、波乱万丈の人生を送った女性であった。いつか書いてみよう)。

インド人のボース。宗主国として植民地インドを支配するイギリス。そのイギリスの、しかも海軍からの移入と聴いて、独立運動の戦士ボースは耐えられなかっただろう。「東京のカレーうまいのないナ。油が悪くてウドン粉ばかりで、胸がムカムカする」と昭和7年、日本の新聞に喋っている。

ところでボースのカレー伝授については後で触れるとして、ボースを中村屋に入れた頭山満は友人頭山興助(おきすけ)のお祖父さんだが、失礼ながら、詳しくは知らなかった。

<頭山満 とうやまみつる 1855‐1944(安政2‐昭和19)
明治・大正・昭和期の国家主義者。黒田藩士の家に生まれ,のち母の実家を継ぐ。1876年同藩の不平士族の蜂起計画に加わって逮捕され,1年間入獄。

79年板垣退助の強い影響下に箱田六輔,平岡浩太郎らと向陽社を設立,同じころ別に組織した筑前共愛会とともに国会開設請願運動等を行い,81年箱田や平岡らと玄洋社を設立した。

しだいに民権論を離れ,日本はアジアを制覇してその〈盟主〉となるべきだと主張しはじめ,同社をこの国権論で統一する一方で炭坑を同社の財源とすることに成功して,同社の事実上の最高指導者となった。

87年,国権論宣伝のため《福陵新報》を創刊。条約改正反対運動で玄洋社員に大隈重信外相を襲わせたり,第2回総選挙で政府の選挙干渉に荷担して福岡県内の民党派を襲撃したことなどで,国権派壮士としての地位を築いた。

また,一部の大陸浪人がつくった天佑惟と称する団体に資金を与えたり,対露同志会などに加わり日露開戦を唱えたり,満州義軍を参謀本部の支持の下に派遣するなど,大陸侵略と強硬外交を主張しつづけた。

金玉均やビハリ・ボースらの亡命政治家を保護し孫文ら中国人革命家の日本での活動を支援したのも,それを日本の大陸侵略活動の足がかりにする意図による。

この後,アメリカの排日移民法に反対した対米強硬外交の主張,普通選挙に反対する家長選挙論の主張などのほかは表だった活動をしなくなっていったとはいえ,右翼の巨頭として隠然たる勢力と政界への影響力をもちつづけた。桂川 光正>(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

そこで中村屋の婿になったボースが作った純インド式カリーは海軍と違って小麦粉を全く使わないものだった。だからとろみが無い。その分さらさらしていた。牛を神聖化しているインド人だからビーフも使わない。

蛋白質は最上級の骨付き鶏肉、インドから直輸入したスパイス、当時「日本一美味」といわれていた武州幸手(さって)の白目米(しろめまい)、自社牧場製のヨーグルト、バターなど厳選した高級品。

他のカレー店では10銭前後だったのに中村屋のそれは80銭。コーヒーや果物とセットで1円だった。カリーとご飯は器が別だった。

中村屋は今も新宿本店でインド・カリーを提供している。何千円かは知らない。中村屋を真似たカリーが全国各地に普及しているはずだ。

私の生まれ育ったところは秋田の純農村で、米しかできない。魚は八郎潟の鮒とかなまず、どじょう。肉は飼っている鶏をつぶした時だけ。カレーは戦後になって母が一度だけ作ってくれた。

しかし美味だったという記憶はない。だから脚気にもかかったわけかな。
東京へ出てきて大学の食堂では一皿20円だったように思うが、違っているかも知れない。(文中の引用<内>はいずれも世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)。(2006.05.21)再掲

2013年08月17日

◆“韓国の呉善花”さん

黒田 勝弘

 
韓国でマスコミを舞台にしきりに日本批判を展開している保坂祐二・世宗大教授という日本人学者がいる。韓国女性と結婚し韓国国籍になった人で、大学では「独島(竹島の韓国名)研究所」の所長までしている。日本人が日本を批判しているので“良心的日本人”として韓国では人気だ。

その保坂教授と8・15特集テレビ討論で同席したが、他の2人の知日 派韓国人教授よりもはるかに激しい反日強硬論で驚いた。たとえば集団的 自衛権問題では、「日本にそれを許すと自衛隊が米軍支援を口実に韓国にやってきて独島を奪う事態になりかねない」といったようなことまで言う。

討論の中心は「日本の右傾化」批判。当方は3対1の中で「右傾化ではなく日本の正常化だ!」といつもの応戦となったが、それはともかく、放送を見た韓国の知人が面白いことを言ってきた。「保坂教授は日本での呉善花だね」と。

韓国出身の女性評論家、呉善花・拓殖大教授は日本で韓国批判の著書を出版し人気で、彼女も帰化して日本国籍だからだ。彼女は最近、韓国批判がたたって韓国で入国拒否され話題になった。

ところが保坂教授が祖国日 本で入国拒否された話はない。保坂教授は呉善花さんの祖国訪問の自由と いう“人権”を守ってあげなくちゃあ。
産経【外信コラム】ソウルからヨボセヨ 2013.8.17

<「頂門の一針」から転載>

2013年08月15日

◆素人に内閣法制局長官が務まる理由

渡部 亮次郎


2013-08-08 22:47:37 | 時事

法制局長官に小松氏、閣議決定 集団的自衛権の解釈変更加速(産経新聞)政府は8月8日の閣議決定で,内閣法制局長官に小松一郎氏を任命した。

小松氏は外交官試験に大学3年で合格したので,一橋大学を中退して昭和47年に外務省へ入省。欧州局長や国際法局長などを経て,平成23年から駐仏大使を務めてきた外務官僚だが,これまで内閣法制局における勤務経験は全くない。

小松氏はしかし,第1次安倍政権下で発足した有識者会議「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)」がまとめた行使容認の報告書の作成作業に関わるなど,集団的自衛権行使容認派とみなされていることから,それだけの理由で内閣法制局長官に任命された。

内閣法制局は,法律案や政令案,条約案の審査を所管する役所であり、長官は,法制局を統率する立場にある。それだけでなく,閣議で法令解釈等についての質問・照会に答えるのも内閣法制局長官の役割であり,国会で政府特別補佐人として憲法や法令解釈の質問に答弁するのも役割だ。

これまでどおりなら内閣法制局長官は,法解釈のプロでなければ到底務まらないはずだが安倍首相は、そのあたりをどう見当をつけたのか。第1次内閣のときの経験から集団自衛権の行使に関する政府見解の変更を期するには「暴挙」をあえて侵すしかないと覚悟したようだ。

歴代内閣法制局長官の就任前における経歴を挙げてみる(ウィキペディアより抜粋)。なお内閣法制局はキャリア官僚は独自採用せず、各省庁から参事官以上を出向で受け入れ、局長級以上の幹部になるのは原則、法務省、財務省、総務省、経済産業省の4省の出身者だけというのが不文律とされ、さらに長官までには、第一部長→法制次長→長官という履歴が1952年以来崩されていないとされていたが、2013年8月、法制局勤務経験のない外務省出身の小松一郎が長官に就任した。

● 大出 峻郎(第57代,任期:1993〜1996)
 東大法卒。内閣法制局第一部長,内閣法制次長を歴任。国語審議会委員も務めた。内閣法制局に移るまでの経歴は不詳。

● 大森 政輔(第58代,任期:1996〜1999)
 京大法卒。司法試験第二次試験に合格し,司法修習を経て裁判官に任官。1983年から内閣法制局総務主幹,第二部長,第一部長,内閣法制次長を歴任。

● 津野 修(第59代,任期:1999〜2002)
 京大法卒。国家公務員上級試験及び司法試験第二次試験に合格し,大蔵省に入省。1978年から1983年まで内閣法制局参事官。1986年から内閣法制局第三部長,第一部長,内閣法制次長を歴任。

● 秋山 収(第60代,任期:2002年8月8日 - 2004年8月31日)
 東大法卒。通産省に入省し,1979年から1984年まで内閣法制局第四部参事官,1986年から内閣法制局総務主幹,第四部長,第二部長,第一部長,内閣法制次長を歴任。

● 阪田 雅裕(第61代,任期:2004年8月31日 - 2006年9月26日) 東大法卒。 国家公務員採用上級甲種試験(法律)と司法試験第二次試験に合格し,大蔵省に入省。1981年から1986年まで内閣法制局第一部参事官を務め,1992年から内閣法制局総務主幹併任第一部参事官,第三部長,第一部長,内閣法制次長を歴任。

● 宮崎 礼壹(第62代,任期:2006年9月26日 - 2010年1月15日) 東大法卒。在学中に司法試験第二次試験に合格し,司法修習生を経て検察官に任官。東京地方検察庁などで検事を務め,法務省刑事局では参事官も務めた。のちに内閣法制局に移り,第二部長,第一部長,内閣法制次長を歴任した後,2006年9月の第1次安倍内閣にて内閣法制局長官に就任。

法制局長官時には,安倍晋三内閣総理大臣から,集団的自衛権の行使は違憲であるとの日本国憲法第9条に関する法制局解釈について解釈変更の指示を受けたが,職員の総辞職の可能性を示唆し抵抗し,阻止したことがある。

● 梶田 信一郎(第63代,任期:2010年1月15日 - 2011年12月22日) 東大法卒。熊本県東京事務所の職員として採用され,その後熊本県庁に異動。1973年に自治省へ移った後は、自治省と地方公共団体を交互に異動する。1996年4月に内閣法制局に異動となり,総務主幹,法制第三部長,第一部長を経て,2006年10月,内閣法制次長に就任。

● 山本 庸幸(第64代,任期:2011年12月22日 - 2013年8月20日) 京大法卒。国家公務員上級甲(法律)試験と通産省上級甲種(事務)試験に合格し,通産省に入省。
1989年から1994年まで内閣法制局第四部参事官。1998年から内閣法制局へ再び異動となり,第一部中央省庁等改革法制室長,第四部長,第二部長,第三部長,第一部長を歴任し,2010年1月,内閣法制次長に就任。


以上を見れば大体分かるように,歴代の内閣法制局長官は,法務省、財務省、総務省、経済産業省の4省からそれぞれ内閣法制局に出向後、長年にわたってキャリアを積み,第一部長や内閣法制次長を経て長官に就任している。

キャリア官僚として内閣法制局に直接任官することはできず,他の省庁または裁判所・検察庁から参事官以上のキャリア官僚を出向で受け容れている。また,必須ではないにしても,歴代の法制局長官には,裁判官・検察官出身者や旧司法試験合格者が相当多くを占めていることが分かる。

これに対し,小松氏は外務官僚としての経験は豊富であっても,内閣法制局に勤務したことは一度もない。外務省の所管する法令や条約のことは知っていても,内閣法制局が行う法令の審査事務や意見事務については,素人と称して差し支えないレベルだろう。そのような人が,突如として内閣法制局長官に抜擢された。

安倍総理は,以前に憲法の解釈変更を指示して内閣法制局に阻止されたことがあり,小松氏の起用がその報復人事であることは明らかだが,内閣法制局長官は官僚の中でもトップクラスの権威ある役職であり,このような人事は,下手をすれば官僚すべてを敵に回す危険性がある。

さらに歴代長官たちは「OB」としての結束を固め、特に集団的自衛権の行使に関する解釈は絶対変更しないよう現役たちに「圧力」をかけていると噂されている。

だから日本共産党幹部会委員長 衆議院議員 志位和夫氏はこの人事を「クーデター的人事」と批判した。

民主党時代,内閣法制局長官による国会答弁を廃止し,弁護士資格を有する枝野氏や仙谷氏が法令解釈に関する答弁を担当するようになったこともあるがが,いずれも実際は内閣法制局の官僚が示したとおりに答弁するしかなく,野田政権下では内閣法制局長官による国会答弁が復活した。

このような経緯から考えると,小松氏は持論とする憲法9条の解釈以外では,おそらく内閣法制次長やその部下達に全面的に依存せざるを得ないだろうう。部下達からは,「名ばかりの長官」などと揶揄されることもほぼ確実だ。憲法9条の解釈を変更させるだけで退任せざるを得ないだろう。本人も安倍さんも納得づくだろう。

大手メディアはこの人事について,「集団的自衛権の解釈変更加速」「行使容認へ布石」などと報じているがが,役人たちはどうやって邪魔するか見ものだ。 2013・8・14

2013年08月14日

◆私の8月15日 国民学校4年生

渡部 亮次郎


昭和20年、当時は国民(小)学校4年生。学校ではボール紙に印刷されたルーズベルトとチャーチルの顔を殴っていたのが2年生ごろか。

4年生になったら、先生がアメリカ軍の艦載機はキーンと甲高い爆音が特徴だと教えてくれた。

7月14日の昼前、突然「キーン」が聞えた。北の空へ3機が飛んで行ったと思ったら、いきなり煙を吐いて落下。こりゃしめたと思ったら「急降下」だった。列車に向かって機銃掃射だった。

3機とも戻ってきた。胡瓜畑に隠れて妹と肝を冷やして覘いていたら機上から見られているから掃射されるものと覚悟を決めた。しかし銃撃される事は無く3機は去って行った。生まれた初めて体験した「死の恐怖」だった。

この日は隣県岩手県の太平洋に面した釜石市が米海軍による艦砲射撃をうけた日。その響きは地鳴りとなって日本海岸にも伝わってきて、日本が細長いことを子供心に実感した。

日本海にひびいた釜石艦砲射撃。釜石艦砲射撃(かまいしかんぽうしゃげき)は、太平洋戦争末期に、連合国軍艦隊が岩手県釜石市に行った2度の艦砲射撃のこと。

昭和20年7月14日の砲撃。一度目は1945年7月14日に、アメリカ海軍の戦艦部隊によって行われた。北海道空襲など一連の日本本土攻撃を開始したアメリカ海軍機動部隊。

第34任務部隊から分派した第34.8.1任務隊(司令官:ジョン・F・シャフロス(John F. Shafroth)少将)の戦艦3隻と重巡洋艦2隻、駆逐艦9隻により、釜石を砲撃した。主要な攻撃目標は、日本製鐵釜石製鉄所だった。

この砲撃で日本側は一般市民を含む515人が死亡した。

八郎潟に飛んできた艦載機はこれらとは別のところから飛来したものだったろう。しかし日本海岸の住宅のガラス戸を揺らす音は愈々戦争が私にも迫ったことを教えた。

釜石に二度目の砲撃は同年8月9日に、アメリカ海軍・イギリス海軍の合同部隊が行った。参加したのは、前回と同じアメリカ海軍第34.8.1任務隊のほか、イギリス海軍第37.1.8任務隊(軽巡洋艦2隻、駆逐艦3隻)であった。この攻撃では日本側は301人の死者を出した。出典;フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

本物の恐怖は1か月後に来た。東沿岸に住んでいる旧八郎潟上空を真っ赤に染めてアメリカの大型爆撃機B29が大編隊をなして南の秋田市方面に引き返して行く。機体の下腹が火事の明かりで赤く染まっていた。私は西側に広がる田圃のあぜ道に腹ばいになって見上げていた。4つ上の兄は学徒動員に出たままだった。

即ち、終戦前夜の昭和20年8月14日の22:30から翌15日の03:30まで、秋田市「土崎(つちざき)」は米軍機による激しい爆撃を受けた。私の家は20キロぐらいしか離れていない。

秋田県における最初で最後の大規模空襲は日本石油秋田製油所破壊を目的にしたもので、132機のB29から投下された爆弾は12047発・約1000トン、製油所周辺は真っ赤に燃えあがり石油精製工場の87%・貯蔵設備の70%が破壊された。

夜間の攻撃だったために目標がそれやすく被害は工場周辺の住宅地区にも及び、特に通称ハマナシ山の日石住宅では住民の被害が大きかった。港でも工事中の浚渫船2隻が爆撃を受け沈没、死者が出ている。

この空襲による死者は100人とも250人以上とも言われているが、正しい人数は判明していない。

秋田・土崎港空襲は、日本で最後の空襲となった。

戦後、明らかにされた米軍の資料によると、これらB29はマリアナ基地から飛来した第315航空団の141機。当夜の天候は薄曇のち快晴だった。目標は日本石油秋田製油所。攻撃高度10200-11800フィート。投下爆弾トン数、計957・1トン、攻撃は14日23時48分から15日2時39分までの2時間51分間。

米側資料の「任務の概要」によると成果は未確認なるも損失機なし。これだけ飛来しながら目標を目視したのは2機だけだった。日本側からは「貧弱、不正確な対空砲火」があっただけだった。

15日正午の天皇陛下の「玉音」はラジオが無かったから知らないが、夜になっても「灯火管制」が無かったから終戦を知った。いや敗戦だった。

この敗戦前日の空襲は埼玉県熊谷市、伊勢崎市、七尾市、下関海峡(西)、宮津、浜田にも襲い掛かったことが米側の資料にはある。

対英米戦争は草深い田舎でも死の恐怖と対面させられながら展開していたのである。

当然、学校は夏休みだった。15日の午後近くの「馬冷やし場」で足を洗ったのを明確に記憶している。理由は思い出せないが、北国の太陽も強烈だった。あれから68年。9歳は77になった。(再掲)

<「頂門の一針」から転載>    (「頂門の一針」主宰)

2013年08月09日

◆ふるさとは遠きにありて

渡部 亮次郎


この言葉で始まる室生犀星(むろお さいせい)の詩は「・・・想うもの そして悲しくうたうもの よしやうらぶれて異土(いど=外国)の傍居(かたい=こじき)となるとても 帰るところにあるまじや」と結ばれていたと思う。高校のときに習った。

つまりこの詩は「ふるさとは帰るところではない」の意味なのに、今の人たちは「遠くにありて、懐かしさのあまり」呟く詩だと思っているよ
うだ。

室生犀星は複雑な家庭に生まれた。だから早くに郷里を飛び出したが、都会も田舎者には冷たかった。だからたまにはふるさとを思い出して帰ってみた。

だけど郷里は犀星を蔑み、冷遇した。そこで「悲しく詠うだけの土地。どんなに貧乏して、外国で乞食に落ちぶれたとしても、俺は死んでもあの故郷には帰るまい」と決意したのである。

「ふるさと」を懐かしむあまり軽々しく犀星の詩などを持ち出すとこうして無慈悲な欄に取り上げられ、教養の無さを散々むしられる事になる。それとも50年後の今は高校でも犀星は教えないのかも知れないね。

高校生のころは敗戦から6年しか経っていなかった。まだすきっ腹の日々だった。娯楽といえばラジオしかなったから、やたら歌謡曲、今流にいえば演歌を聞いた。

リンゴの歌。あの映画が秋田県増田町で野外撮影された、と知る人はかなりのマニアだが、あの歌の歌詞「あの娘(こ)可愛いや・・・軽いくしゃみも飛んで出る」というサトー・ハチロウの作詞の意味が大人になるまで分からなかった。

人に他所で噂をされるとくしゃみが出る、というのは東京へ出てくるまで知らなかった。そんなことも知らずに歌っていたのだから訳がわからない。

のど自慢に出て歌ったチャペルの鐘のチャペルが何だかも知らなかった。チャペというのは秋田の田舎では猫のことなので、その何かだろうぐらいに思っていた。

小畑実が秋田県生まれというのも嘘だった。本当は朝鮮半島の人。戦後間もなくは朝鮮人が戦中の虐待の仕返しというのか、全国各地とくに東京・銀座で大暴れして評判が悪かった。

それなのに囁くように歌う小畑実が朝鮮人では印象が悪くなるとだれが思ったか、下宿のオバサンの出身地に多い小畑を名乗ったのが真実。これは40ぐらいの時に知った。

小畑実が「旅のお人とうらまでおくれ」と歌った。「恨まないでおくれ」なのだが知らないから、送るのはどこの「浦」までだろうか、と思っていたものだ。そういえば「唱歌」は文部省(当時)が定めて歌わせたもので、やたら文語が多かった。

「ふるさと」という歌を子供が歌うと「兎おいしい」となる。そこで文部省唱歌に反逆する詩人や作曲者たちが結託して口語で作ったのが「童謡」である。唱歌と童謡は厳然と区別して使わないと怒られる。

しかし日本語の底に流れている文化こそは漢字であるから、漢語=中国語の一種である。そこで敗戦後15年ぐらいまでは高校でも「漢文」を教えていたように思う。間違っているかもしれないが、とにかく今は教えていないようだ。

未曾有(みぞう)の地震といっても判らない人が多い。いまだかつて起こったことが無い事、未曾有の未は「まだ」と「あらず」と2回読む。曾は「かつて」=過去。麻生首相はこれで失敗したっけ。

同様に未成年は従って簡単に「いまだ成年にあらず」と判るはず。そこで「みせいねん」の意味がわかっていれば「まだ未成年だ」とは使えない、未成年は成年にいまだあらず、だから「まだ」をつけることは教養が邪魔をして使えなくなるだろう。

イチローが国民栄誉賞の辞退理由を「まだ未成熟ですから」といったのは彼に漢語の素養が無かった事を裏付けた。バッターに漢語は不要だけれども、あってもおかしくは無い。

先日西條八十(さいじょう やそ)という詩人の評伝を読んだ。演歌「とんこ節」「ゲイシャ・ワルツ」の作詞者であり、早稲田大学でフランス文学の教授であり、詩人ランボウの研究者としても名を極めた人である。

そんな人がなぜ演歌の作詞をするのかと問われて答えた。「関東大震災の夜、避難先の上野の山でハーモニカを吹く少年がいた。何故か人々はあの一曲に力づけられた。人を慰め、力を与える物ならば、演歌でも何でもいいじゃないか」。

まさにそのとおりだ。西條の詩は文語が多用されている。それに反して最近の演歌には説明はあっても詩は無い。日本語は継承されていない。演歌の廃れる原因の一つである。(了)


2013年08月08日

◆<今朝のニュース解説・夏休み入り>

杉浦 正章


読者の皆様


国会閉幕に伴い政局もぱたりとなぎにはいりました。
従って筆者の記事も、夏休みに入ります。
 

再開は26日の朝からです。ご愛読有難うございました。


風車風が吹くまで昼寝かな 廣田弘毅
08.08   (政治評論家)

2013年08月02日

◆したたか大阪人服部良一

渡部 亮次郎


大阪出身の作曲家服部良一(はっとり りょういち、1907年10月1日―1993年1月30日)は、日本の作曲家、編曲家、作詞家(「村雨まさを」名義で作品を出している)。大阪府大阪市平野区出身。

ジャズで音楽感性を磨いた、和製ポップス史における重要な音楽家の一人と「ウィキペディア」。名曲「青い山脈」「東京ブギウギ」を残した大作曲家だが、戦時中、内務省の検閲を欺いた「大物」とは誰も書かない。

「夜のプラットホーム」は戦後の昭和22年に発表され、大ヒットしたが、実はもともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。

1939年(昭和14年)公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷が吹き込んだ。だが、戦時下の時代情勢にそぐわないと内務省の検閲に引っかかり、同年に発禁処分を受けた。理由は「出征する人物を悲しげに見送る場面を連想させる歌詞がある」だった。

作詩 奥野椰子夫  作曲 服部良一

1 星はままたき 夜ふかく なりわたる なりわたる
 プラットホームの 別れのベルよ  さよなら さようなら
 君いつ帰る

2 ひとはちりはて ただひとり  いつまでも いつまでも
  柱に寄りそい たたずむわたし  さよなら さようなら
  君いつ帰る

3 窓に残した あのことば  泣かないで 泣かないで
  瞼にやきつく さみしい笑顔  さよなら さようなら
  君いつ帰る

昭和13年の暮、東京・新橋駅で出征兵士を見送る歓呼の声の中に、柱の陰で密かに別れを惜しむ若妻の姿。それに心を打たれた都新聞(東京新聞)学芸記者の奥野椰子夫。

作詞家としてコロムビアに入社して翌年1月に「夜のプラットホーム」として書きあげ、服部良一が作曲、淡谷のり子が吹き込んだのだったが、発売禁止。

だが、曲に愛着をもつ服部が一計を案じた。検閲官を欺こうというのである。レコードが輸入盤なら検閲を潜られる制度だったので、2年後の1941年(昭和16年)、「I'll Be Waiting」(「待ちわびて」)というタイトルの洋盤で発売した。

作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。

R.ハッターこそは良一・服部が苗字をもじって作った変名で、ヴィック・マックスウェルは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていたドイツ系のハーフの男性の変名だった。

策略はまんまと当り、この曲は洋楽ファンの間でヒットした。当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カロ楽団によってレコーディングされた。

このとき服部は、やはり先に発売禁止になった「鈴蘭物語」(作詞藤浦 洸, 唄淡谷のり子)を「Love‘s Gone(夢去りぬ)」作曲R・ハッターとしてB面に収録。人々はこれも外国曲として愛好した。内務省は服部にしてやられたのである。

肝腎「夜のプラットホーム」は検閲の無くなった昭和22年、二葉あき子が歌って大ヒット。それまでの歌手活動の中、ヒットはあったものの大ヒット曲のなかった二葉にとっては待ち望んでいた朗報であった。

「夢去りぬ」の方は霧島昇が歌いなおして、これまた大ヒットした。

服部良一は大阪の本庄で土人形師の父久吉と母スエの間に生まれた。小学生のころから音楽の才能を発揮したが、好きな音楽をやりながら給金がもらえる出雲屋少年音楽隊に一番の成績で入隊する。

1926年にラジオ放送用に結成された大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団。ここで指揮者を務めていた亡命ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテルに見出され、彼から4年にわたって音楽理論・作曲・指揮の指導を受けた。

1936年(昭和11年)にコロムビアの専属作曲家となった。やがて、妖艶なソプラノで昭和モダンの哀愁を歌う淡谷のり子が服部の意向を汲み、アルトの音域で歌唱した『別れのブルース』で一流の作曲家の仲間入りを果たす。

その後ジャズのフィーリングをいかした和製ブルース、タンゴなど一連の和製ポピュラー物を提供。淡谷のり子は『雨のブルース』もヒットさせ「ブルースの女王」と呼ばれた。

その後、霧島昇・渡辺はま子が共演し、中国の抒情を見事に表現した『蘇州夜曲』、モダンの余韻を残す『一杯のコーヒーから』、高峰三枝子が歌った感傷的なブルース調の『湖畔の宿』(発売禁止)など、服部メロディーの黄金時代を迎えた。

だが、大東亞戦争中は不遇。戦後は大活躍した。古賀政男がマンドリン・ギターを基調にした洋楽調の流行歌から邦楽的技巧表現を重視した演歌のスタンスへと変化したのに対し、服部良一は最後まで音楽スタンスを変えることなくジャズのフィーリングやリズムを生かし、和製ブルースの創作など日本のポップスの創始者としての地位を確立した。

日本のポップス界隆盛の最大の功労者である。曲自体も歴史的価値は別にしても今日でも全く魅力を失っていないものが多く、その意味では海外のクラシックやスタンダード・ポップスの巨人と並べて語るべき存在ともいえる。日本レコード大賞の創設にも尽力した。

1993年1月30日、呼吸不全のため死去。享年85だった。死後、作曲家としては古賀政男に次いで2人目の国民栄誉賞が授与された。なお『青い山脈』を歌った藤山一郎も国民栄誉賞を受賞している。

2007年12月30日、第49回日本レコード大賞にて特別賞を受賞。

息子は作曲家の服部克久と俳優の服部良次がおり、孫に服部隆之(服部克久の長男)、バレエダンサーの服部有吉(服部良次の息子)がいる。妹は歌手で服部富子。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2013年07月30日

◆A面あってのB面

渡部 亮次郎


昔の話。昭和15(1940)年のある日、女優で流行歌手の高峰三枝子の自宅に、当時既に手に入らなくなっていた高級洋服地がどっさり送られてきた。送り主はデビュー間もない伊藤久男。人気の高峰に対する「御礼」のしるしだった。

昭和13年、古賀政男がテイチクを退社。同年、映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」が霧島昇とミス・コロムビアのデュエットによりヒットした。

次第に流行歌の世界にも軍国調の歌が多くなって来るのも、この頃からであった。軍国調でなくとも、大陸を舞台にした作品も激増して来る。

昭和15年には、戦地からの逆輸入のヒットとして、霧島昇の「誰か故郷を想わざる」がヒット。また、高峰三枝子の「湖畔の宿」もヒットした。

1940年5月、コロムビア・レコードは人気高まる高峰に「湖畔の宿」を歌わせた(佐藤惣之助作詞、服部良一作曲)。さてB面はどうするかとなって作詞:関沢潤一と作曲に新人の八洲秀章(やしまひであき)を起用して「高原の旅愁」。歌手はデビュー後7年になるのにヒットの無い伊藤久男に決定。

榛名湖を舞台にした「湖畔の宿」は後に、センチメンタルな曲調や歌詞が時局に不適合と発売中止となるも、それまでに大ヒット。当然B面の伊藤久男もいきなりスターになった。

これを伊藤はA面高峰のお蔭と感謝したわけだ。もともと「高原の旅愁」自体、優れていたとの評価もあるが、伊藤久男の人柄の良さが表れていて心洗われるエピソードである。Aが立派だからこそBも光るのだ。心すべき事である。

高峰三枝子(1918-1990)
東京の高輪出身。筑前琵琶の宗家であった高峰筑風の娘。東洋英和女学校卒業後、父の急死もあり、昭和11年に松竹大船の女優になる。「母を尋ねて」でデビューし、12年には「荒城の月」で主役に。

13年に歌手デビューし、「宵待草」を吹き込む。14年には映画「純情二重奏」「暖流」で人気を博す。

15年の榛名湖を舞台にした「湖畔の宿」は後に、センチメンタルな曲調や歌詞が時局に不適合とプレス中止となる。しかし曲中の台詞が、死地へ赴く兵士の心情とあいまって、特攻隊、前線兵士の間では歌われ続けた。

さらにビルマのバーモ長官が高峰のファンで、来日時に東条首相など政府
首脳の前で高峰が「湖畔の宿」を歌うといった事もあった。放送自粛といっても後世に想像するような厳格なものでもなかったのである。

17年に「南の花嫁さん」でヒットを飛ばし、21年には松竹を退社、英文雑
誌社長と結婚して「百万円の結婚式」と話題になったが29年に離婚。

27、28年には持ち馬のスウヰイスーが、競馬の安田記念を2回、桜花賞、オークスで優勝している。

この間も「懐かしのブルース」などでヒットを飛ばしたが、31年に突然、声が出なくなり歌手活動を引退。しかし40年には再びステージに復帰。

56年からの上原謙との国鉄フルムーンのテレビCMでも話題を呼んだ。60年には紫綬褒章、平成2年には勲四等宝冠章を受章。晩年までテレビ出演で活躍した。昭和天皇の園遊会の席上、感極まって泣いてしまった話は有名。

岐阜県明智町の日本大正村の初代村長もしていた。平成2年3月にはインド旅行に行くなどしていたが、4/18に倒れ、5/24には容態が急変、5/27午後5時30分、世田谷区の日産厚生会玉川病院で死去。上原謙は高峰に取りすがって泣いたという。本名は鈴木三枝子。住まいは大田区田園調布3丁目だった。
 
昭和14年   純情二重奏(霧島昇)
昭和15年   湖畔の宿
昭和17年   南の花嫁さん
昭和23年   懐かしのブルース
昭和24年   別れのタンゴ(引用:同じ)

伊藤久男(1910-1983)
福島の本宮町出身。本名は四三男(しさお)だが、訛りから芸名を久男と
する。

昭和4年に東京農大に入るが、豪農だった親の反対を押しきり6年に帝国音楽学校声楽科に入学しピアノを学ぶが、仕送りの停止から生活苦になり、やむなく8年、コロムビアの「旅に泣く」を吹き込んだのをきっかけに宮本一夫として歌手デビュー。

男性的な歌唱は当時の時局にぴったりで、古関裕而が満洲から帰国、神戸から東京までの汽車の中で作曲した「露営の歌」や「父よあなたは強かった」「暁に祈る」など数多くの軍歌を吹き込んだ。

「暁に祈る」の「ああ、あの顔で」の出だしは、陸軍省の「ああでもない、こうでもない」のうるさい注文に難渋した作詞者の野村俊夫の愚痴を聞いた、作曲者の古関裕而が、それを使うように薦めたのがきっかけ。

この間の13年には赤坂百太郎と再婚、4人の子供を設ける。戦火が激しくなった18年暮れには伊藤は福島に帰郷し、レコード吹き込みの度に上京した。

戦後は主にラジオ歌謡で活躍、「イヨマンテの夜」はのど自慢で大人気を誇るヒットとなった。他にも「あざみの歌」「山のけむり」などの叙情的な歌のヒットがある。

私生活では宝塚の桃園みかと同棲し、妻であった赤坂百太郎から「生活費を入れない」と25年、家庭裁判所に訴訟を起こされ、後に離婚している。

53年に紫綬褒章、58年に勲四等旭日小綬章を受章。持病のぜんそくに加え晩年は糖尿病で、浅草の国際劇場のステージでは、痙攣からマイクにすがりつきながら鬼気迫る歌唱をみせたという。

55年頃より糖尿病が悪化してステージに立てなくなり、56年秋より入院、そのまま事実上、歌手活動を引退。57年春には関係者の間では危篤とされていた。

涙もろく、「酒を飲まない奴は信用できない」が口癖だった。その反面で、極度の潔癖症でもあり、楽屋なども絶対に他の歌手と同室しなかったという。

服装には無頓着で、10年以上前の体に合わなくなった背広でステージに上る事もしばしばであった。レパートリーは何でもこなしたが、本人は抒情歌を好んでいたという。

また1年間を通じて10月から3ヶ月だけ禁酒をするという、独特な健康術を毎年行っていた。58年4/25午後11時40分、糖尿性肺水腫で中野区の沼袋病院で死去。

住まいは中野区沼袋だった。その死に際して霧島昇は「同郷人でよく一緒に飲んで喧嘩した」と思い出を語った。福島県本宮町の石雲寺に眠る。
 
昭和12年   露営の歌(松平晃、中野忠晴、霧島昇、佐々木章)
昭和14年   父よあなたは強かった(二葉あき子、霧島昇、松原操)
       白蘭の歌(二葉あき子)
昭和15年   暁に祈る
       高原の旅愁
       お島千太郎旅唄(二葉あき子)
       熱砂の誓い
昭和23年   シベリヤ・エレジー
昭和25年   イヨマンテの夜
昭和26年   あざみの歌
昭和27年   山のけむり
昭和28年   君いとしき人よ

引用:『日本流行歌通史』
http://www.geocities.jp/showahistory/music/history.html