2011年08月19日

◆日米戦争を予測した憂国の士

渡部 亮次郎


朝河貫一のことは、朝河と同郷の外交官古川清さんから聞かされていたが、詳しくは知らなかった。NHKのラジオ深夜便が16日午前4時から放送したので、ウィキで調べてみた。

深夜便で前4時台 〔明日へのことば〕   歴史学者・朝河貫一に教えられた事 と題して語った玉川聖学院講師 山内晴子さんは主婦のあと大学院に入りなおし、朝河の研究で博士号を得た凄い人である。

日露戦争で勝利した日本が軍部の傲慢を抑えられず、これでは日米戦争が避けられなくなると、アメリカにいて心配した朝河の苦悩と活躍を活写した論文による。

朝河 貫一(あさかわ かんいち、1873年(明治6年)12月20日 - 1948年(昭和23年)8月10日)は、日本の歴史学者。イェール大学では“Historian”、“Curator”(キュレーター)、“Peace Advocate”(平和の提唱者)として評価されている人である。1937(昭和12)年日本人初のイェール大学教授に就任した。

業績 の第一に「歴史学者」としての業績がある。古代から近代に至る日本法制史、日本とヨーロッパの封建制度比較研究の第一人者として欧米で評価され、後にイェール大学教授となった。

特に「入来文書」(鹿児島県薩摩川内市(旧入来町)の入来院家に伝わり鎌倉時代から江戸時代にわたる古文書群の研究が有名で、これをまとめた英語の著書が”TheDocuments of Iriki” (『入来文書』 1929年、昭和4年)である。マルク・ブロックらアナール学派の歴史学者とも交流があった。

第二に「平和の提唱者」としての業績がある。『日露衝突』を著し、全米各地で日露戦争における日本の姿勢を擁護し演説した朝河は、日露戦争後の日本の姿から将来の「禍機」を予測し、日本に警鐘を発するため、1909(明治42)年『日本の禍機』を著した。

『日本の禍機』で発した警鐘は、後に現実のものとなる。1941(昭和16)年11月、日米開戦の回避のためにラングドン・ウォーナーの協力を得て、フランクリン・ルーズベルト大統領から昭和天皇宛の親書を送るよう、働きかけを行った。朝河は第2次世界大戦中、戦後もアメリカに滞在したが、終生、日本国籍のままであった。

第三に「キュレーター」としての業績がある。1906年の第1回帰国では、米国議会図書館、イェール大学の依頼で日本東アジア関連図書・資料の収集を行った。

イェール大学図書館には、『手鏡帖』(8世紀?17世紀の主要な個人の仏書・手紙・歌書等の筆跡を集めた帖)、『青蓮院尊円法親王御筆』(青蓮院流の初祖、尊円法親王の御筆)、『竹取物語』(奈良絵本)、『厳氏孝門清行録』(朝鮮本)、『烈女傳』(漢籍)、『伊勢物語』(所蔵されているものは室町中期?江戸前期に製作された奈良絵本)等が所蔵されている。

これらの図書・資料は、欧米での日本研究や東アジア研究に必要不可欠なものとなっている。なお、2010年8月には、朝河の呼び掛けに応じ、日本在住の同大卒業生や当時の東京帝国大・黒板勝美が贈った2曲1双の屏風の中に、東大寺を復興した僧・重源(1121-1206)が1192(建久3)年に花押を記した文書を確認したことを、東京大史料編纂所が発表した。

朝河の数々の業績を讃え、2007(平成19)年10月にはイェール大学講師就任 100年を記念し、セイブルック・カレッジ構内に「朝河貫一庭園」が造られた。

この庭園は2000(平成12)年にニューヨークの国連本部にある「平和の鐘」公園を造ったアベ・シンイチロウによってデザインされた。また、ダートマス大学には朝河貫一の業績を記したプラークが朝河貫一博士顕彰協会より贈られた。

これに先立ち、2007(平成19)9年月には、外交官時代にイェール大に学び、自称「弟子」を自認する加藤良三駐米大使(当時)を招いたシンポジウムを福島県郡山市の安積歴史博物館で開催、500人を超す福島県民、安積高校生等に真の国際人・朝河について講演した。

福島県二本松市出身。父は旧二本松藩士朝河正澄、母は旧田野口藩士の長女杉浦ウタ(ウタは貫一が2歳の時に亡くなったため、その後は父正澄と継母エヒに育てられる)。

1874(明治7)年、父正澄が「伊達郡立子山村小学校」(現福島県福島市立立子山小学校)の校長格として赴任するため、現在の福島県福島市立子山にある天正寺に移住した後、新校舎とともに建設された校長住宅へ移る。天正寺には朝河が 4歳の時に描いた馬の絵が現存する。

1878(明治11)年立子山小学校初等科に入学後、同校普通科・高等科(3級まで)を修了する。その後、川俣小学校高等科(現福島県伊達郡川俣町立川俣小学校)へ移り、1887(明治20)年10月、蒲生義一に就いて英学を学ぶ。

1888(明治21)年、現在の福島県福島市杉妻町にあった福島県尋常中学校(現福島県立安積高等学校)に入学する。1889(明治22)年、現在の福島県郡山市に福島県尋常中学校が移転すると、朝河は郡山市の宮本家に下宿し、そこから通学する。福島県尋常中学校在学中、英国人教師トーマス・エドワード・ハリファックスに教えを受ける。

1892(明治25)年3月、同校を首席卒業の後、5月〜8月まで郡山尋常小学校(現福島県郡山市立金透小学校)で英語教授の嘱託を勤める。

1892(明治25)年12月、東京専門学校(現早稲田大学)に編入学し、1895(明治 28)年首席で卒業。同校在学中に大西祝、坪内逍遙、夏目漱石等の教えを受ける。またこの時期、横井時雄により洗礼を受ける。

1895(明治28)年、大西祝、大隈重信 、徳富蘇峰、勝海舟らに渡航費用の援助を受けてアメリカへ渡り、ダートマス大学へ編入学する。

1899(明治32)年 米国ダートマス大学を卒業する。

1902(明治35)年イェール大学大学院を卒業する。1902(明治35)年Ph.D.を受ける。

1902(明治35)年ダートマス大学講師となる。

1905(明治38)年 クラウンポイントの教会でミリアム・キャメロン・ディングウォールと挙式する。

1906(明治39)年〜1907(明治40)年米国議会図書館とイェール大学図書館から依頼を受けた日本関係図書収集のため一時帰国する。(第1回帰国)

1906(明治39)年9月?1907年(明治40年)6月早稲田大学文学部講師となる(英語を担当する)。

1907(明治40)年再渡米、イェール大学講師、次いでイェール大学図書館東アジアコレクションキュレーターに就任する。

1907(明治40)年ミリアム・キャメロン・ディングウォールと入籍する。

1910(明治43)年同大学助教授となる。

1913(大正2)年ミリアム・朝河と死別する(ミリアムの墓は米国コネティカット州ニューヘブン市内エヴァグリーン墓地にある)。

1917(大正6)年〜1919(大正8)年東京大学史料編纂所に調査・研究のため一時帰国する。(第2回帰国)

1930(昭和5)年イェール大学準教授となる。

1937(昭和12)年日本人初のイェール大学教授に就任する。

1941(昭和16)年 日米開戦を避けるため、天皇宛米国大統領親書草案をラングドン・ウォーナーに渡す。

1942(昭和17)年同大学名誉教授となる。

1948(昭和23)年 同大学図書館日本部長兼キュレーターを勤める。

1948(昭和23)年バーモント州ウェストワーズボロで死去する。享年75。遺体はコネチカット州ニューヘヴンのグローヴストリート墓地に埋葬される。また、福島県二本松市の金色(かないろ)墓地に墓が建立されている。


トーマス・エドワード・ハリファックス

福島県尋常中学校時代の朝河に英語を教えたハリファックスは、英国(イングランド)ウィルトシャー州ウェストベリーに生まれる。1871(明治4)年から1874(明治7)年までの約3年間、工部省電信寮に電信技師として採用された後、中村正直の同人社や近藤真琴の攻玉塾等の私塾で英語を教える。

その後ハリファックスは朝鮮に渡り、朝鮮で最初の王立英語学校「同文学」で朝鮮の関税職員や外交官等に英語を教えたり、ソウル〜プサン間の電信線工事に携わったりする。

1890(明治23)年、福島県尋常中学校に赴任する。1892(明治25)年、時の福島県会がハリファックスの解雇を審議することを知った朝河は、「留任嘆願書」を提出した。

しかしその後、ハリファックスの解雇が決まった。福島県尋常中学校を去った後、ハリファックスは長野県尋常中学校(現在の長野県松本深志高等学校)、朝鮮官立英語学校で教鞭をとる。愛嬢アグネス・フローレンス・ハリファックスと共に、韓国ソウル市のヤンファジン(楊花津)外国人墓地に埋葬されている。(「ウィキペディア」)2011・8・16

2011年08月16日

◆ものは言い様(よう)

渡部 亮次郎


「奴は仕事はよく出来るが大酒呑みだ」と「奴は大酒呑みだが仕事はよくできる」、あんたが人事課長だったら、どっちを採用するかね、と問われたら、どうしますか。

○仕事はよく出来る
○大酒呑みである

要素はこの2つ。どちらを最初に言うかだけである。当然、後者、つまり、大酒呑みだけど仕事はよくする、といわれた方を採用するに決まっている。そう、ものは言いようなのだ。

秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)さん(故人)が出張先のホテルで諭してくれた話である。彼は特攻隊「天雷特別攻撃隊」の隊長(パイロット)として死ぬはずが、突然、敗戦になって「死に損なった」という人。

それまで陸軍落下傘部隊第1期生、パイロットなどとして、1935年から野戦に11年いた猛者である。しかし士官学校を出ているわけじゃないから、戦争の最先端では相当、苦労したようだ。

それだけに、人間研究が進み、世間を渡る智恵が集積された。冒頭の話も、戦場での体験に基づくものだった。問題にする要素は2つしかないが、どれを先にいうか、後にするかで運命は暗転するというのだ。

別のところでも書いたのだが、戦場では士官学校を出た若者が隊長として着任する。いきなり戦闘に巻き込まれ、若者は興奮する。飛んでくる敵弾に身を曝そうとする。士官学校ではそう教えられて来たからだ。

しかし、弾の撃ち方ぐらいは習っただろうが、撃たれ方は習ってない、当然だ。それが着任早々、撃たれかかって舞い上がる。

古参兵たちにしてみると、隊長戦死では不名誉なことだから「隊長殿、其処では危のう御座います」と叫ぶ。隊長、名誉に拘わると思うものだから、逆に更に危険な地点に出ようとする。困った。

そこで園田さんが出て行って言った。「隊長殿、其処では敵情がよく見えません、どうぞこちらへ」と叫んで岩陰に案内したら、隊長殿、ふっと息を吐いた。

記者時代から12年の付き合いを経て秘書官になった。記者時代は政治家といえども対等な付き合いをした。私は生意気な記者ではなかったが、実力者の河野一郎が、毎日曜の昼ごろ、リンカーンでアパートに来て、下からと叫んだものだ。「亮次郎、競馬行こう」

園田さんはその河野派の一員だから、私のほうが威張っていたかも知れない。だが秘書官となれば従者だから、立場は逆転。ところが外国へ出張すると、夜は大臣は孤独になって私が勝つ。

外務省の役人は皆、夜の巷に出かけるから、残りは私と2人だけ。私は酒呑みだが、大臣は下戸。そこで夜は立場が逆転し、大臣が私の水割りを作り、昔話を聞かせる、という場面になるわけだ。

ドアの外には警視庁から附いてきてくれた警護官が立っているが、大臣は気を利かせて、彼をも招き入れて、警察用語で言うところの「教養」の時間となる、という風だった。

園田さんは実は痛がりで小心な少年時代だったそうだ。そこで剣道に励み7段という高段者だった。加えて代議士になってから合気道もやり8段だった。これに居合道8段、空手(名誉)も加えると二十数段という武道家だった。

しかも武道の呼吸を政治に生かしていた。自民党では国会対策委員長を2度も務めて名を高めた。その功績の理由は合気道にあった。野党がいきり立っている時は説得しても無駄。相手が落ち着いた頃を見計らって説得して初めて効き目がある、これは合気道だ、というのだ。

上がる手を無理に抑えようとすれば相手は抵抗するが、手は何時までも挙げたままで居られるわけがない。やがて下がってきた時にこちらの手を添えて下げてやれば相手はつんのめって転ぶよ。タイミングを間違えたら転ぶ相手が転ばずに、こちらも怪我をする。

こんな話を色々と山ほど聞いた。どれだけ実になっているか全く自信はないが。

「若者並み頑張るのだから立派だわね、おじいちゃんなのに」と後輩の女性に言われて立腹した。生まれて初めておじいちゃんと言われたからだ。

「よく頑張るわね、現役がかなわないわね」と言って欲しかった。それを思って冒頭の話を思い出したのだ。ものは言いよう。間違うと命がかかる。

2011年08月15日

◆転失気総理森喜朗

渡部 亮次郎


「転失気」は「てんしき」と読み「おなら」のことである。それを知らずに、知らないことを知っている風に済ます人を「てんしき」と昔は言ったらしい。

『論座』という月刊雑誌の2006年10月号でのインタビュー。五百旗頭 真(防衛大学校校長)、伊藤元重(東京大学教授)ら3人が森喜朗前総理大臣の生い立ちから今日に至るまでに質問。「キーパーソンが語る証言 90年代」と題し、第13回に森氏が登場した。

森氏が1969(昭和44)年12月に無所属ながら初出馬にして初当選を果たした翌年のことだったようだ。森氏と同期当選の中尾宏氏(鹿児島2区=当時=故人)が政界中を触れ回った。

「森がな、選挙区の運動会周りをして、財布をカラにした。親分の福田さんに70万を助けてくださいとお願いしたら、さすが元大蔵省主計局長。おいそれは50万に負からんか」

「その話が角栄(幹事長)の耳に入って、森がすぐ呼ばれた。森クン、これ持ってけよ、カネは邪魔にならんからな、といってポケットに300万円をねじ込んだ。森は受けとったさ」。

私はこの話を中尾氏から何度も聞いた。森氏は否定するだろう。「証言」で「角さんのカネは森さんも受け取ったことがあるんですか」と訊かれて「いやいや」と応えている。

角さんがロッキード事件で逮捕されたとき党内反三木派が挙って挙党体制確立協議会を結成して三木首相の引きずり降ろしに奔走した時、森氏は三木内閣の総務副長官として、少なくとも形式的には三木側近だった。

「証言」では「三木降し」が即福田政権に繋がると思っていたと応えているが、私からすれば不思議としか言いようがない。詰まり三木降しの過程で福田、大平の両氏は三木氏から「ボクの後をやるのは君らのうち誰に決まっているのか」と逆襲されてギャフンとなった二人だったではないか。すぐ福田とは本人もまだ思ってない。

真実はそこで園田直(福田派)保利茂(福田支持)鈴木善幸(大平派)江崎真澄(田中派)による調整が進んだ。森氏はその事実さえ知らないはずだ。

当時は、なんと言っても「闇将軍」田中支配の時代。田中氏が大平氏に手を上げれば即大平総理誕生の情勢だった。そこで園田氏は嘗ての敵陣に乗り込み「2年」を条件に田中氏の了承を取り付け「大福密約」を成立させたのだった。

この陰で福田氏は、総理大臣を「たとい半年でも」と懇願していた。田中氏との「角福戦争」に敗れてすでに5年。齢71である。これが最後のチャンスとは自他共に認めるところだった。森氏は何も知らない。

そうやって衆参両院とも、過半数を上回ること僅か1票というすれすれで成立した老齢内閣。党幹事長に回った大平氏とのすべての調整を考慮すれば、園田氏がこの際、内閣の番頭でもある官房長官に座る以外に妙手はなかった。

しかし、福田氏の親分たる岸信介元総理大臣が背後から、自分の女婿安倍晋太郎の官房長官就任を迫っていたため、福田氏は園田氏の申し出に返事をしなかった。

だが園田氏は「官房長官でなければ今回は入閣しません」との最後通牒を放ち、塩川正十郎氏を副長官として長官室に籠もってしまった。総理は「1年ぐらい我慢するか」と呟いて渋々認めた。

三木内閣にいる森氏がこの経緯を知るわけがない。それなのに「知らない」と言えないから「てんしき」と嗤われる。

1年後官邸から自宅に電話がかかってきて「秘書官になってよ」「あぁ、いいですよ」と応えた。行ってみたら仰天、外務大臣に変っていた。このとき森氏は安倍官房長官の下、官房副長官に発令される。

「証言」で森氏は園田氏がこの人事に不満なのは残した官邸が安倍色に塗り替えられるから、とワケの分らぬことを言っている。キャリア30年の代議士が、そんなことを不満とすると、てんしきさんなら思うのか。

園田氏は「密約延長工作」の破綻が悔しかったのである。だから園田氏が「それで外務大臣として何をするかを考えたんでしょうね。功名心もあって日中(平和友好)条約に取り組んだんです」とは矛盾しており、下卑た判断だ。

日中条約を締結すると言う決意を福田総理が密かに明らかにしたのは、1977(昭和52)年1月4日。世田谷区下馬の総理私邸においてである。

そこには園田官房長官に伴われた中年の男性が正座し、総理の決意を携えて直ちに北京に飛んだ。黒衣(くろこ)の登場だった。

進んで外相を狙い、功名心から日中条約を締結したというのでは、知ったかぶりをするのは許せても、ウソを固めて故人を冒涜するもので紳士欠格者だし、総理大臣経験者として、相当権威を欠くというものだろう。

福田総理は園田外相の怒りを知っており、大平側に寝返って攻略してくるという悪夢も抱いていた。だから日中条約の交渉全権は佐藤正二大使で済まされないかと画策した。

当時、霞クラブで取材した東京新聞記者(その後東海大学教授・故人)の著書『天皇とトウ小平の握手』(行政問題研究所出版局)に詳しい。

ところが、園田外相は加えて、総理がすっかり忘れてしまっているあの「黒衣」から「中国は復活したトウ小平副総理の指示で早期妥結にギヤを切り替えた。大臣が北京入りすれば必ず妥結」という、軍をも交えた情報を得ていた。この情報は大使館が得ていないから、総理の耳には届
かない。

森氏は「証言」で福田総理の「決断」は昭和53(1978)年8月6日(日)午後6時、箱根プリンスホテルの福田・園田会談だったと強調するが、有田圭輔外務事務次官は北京入りの特別機を既に数日前に手配していたし、

私はそれを見て、中国首脳への土産の絵画、大使館員への食パンの注文を既に終えていた。総理からゴーサインが出なければみんな辞職する覚悟は出来ていた。包囲されていたのは総理の方だった。

付随して森氏は角福戦争敗北後、7-8人の子分を連れて福田派に合併した園田氏が派内で会長代行にのし上がるなど実力を発揮したために派内の不安が高まったと指摘しているが、本末転倒も甚だしい。

角福戦争時、NHKの福田派担当記者だった私から言わせれば、福田派には園田氏のような喧嘩士が皆無だった。だから園田氏に派の実権を握られたのである。森氏は盛んに安倍氏と園田氏が対等な実力を持っていたように説明するが、冗談も程ほどにしてもらいたい。

安倍氏に敵・田中角栄の牙城に単騎乗り込んで政権委譲の約束を取り付けてくる離れ業が出来たのか。なぜ、竹下登にしてやられたのか。森氏にその度胸があったのか。28年も経ってから死人を足蹴にして己を高く売りつけるとは見下げ果てた元記者(森氏は元日本興行新聞=産経系の記者)よ。「てんしき」だ。

福田氏があえなく大平氏に敗れた後、密約を楯に福田支持をしなかった園田氏は福田派を除名され「政界のはぐれ烏」と成り果てた。それでも福田氏が大平批判を控えれば、ポスト大平は福田さんだといい続けた。

しかし福田氏の「乃公(だいこう)出でずんば」の過剰自信は遂に大平首相を死に追いやり、自らも納得のいかぬまま生涯を終えた。時宜を得て歴史を目撃した私の確かな証言である。(了)

2011年08月14日

◆スパイは普通のおっさん

渡部 亮次郎


スパイがスパイらしく見えたら、それは失敗だ。平和ボケ日本人は「あんなに子供たちにも優しかったおじさんがスパイだなんて信じられない」というが、そう信じさせるのがスパイの初歩なのだ。

2006年7月初旬に起きた北朝鮮によるテポドンなどの発射事件では、各国スパイの活躍による様々な情報収集が攻防の前提になった事は当然である。

スパイと売春婦は人類史上,最も古典的な職業といわれるくらいだから、人間が、派閥であれ、自治体であれ、国家であれ、集団を維持して行くための必要不可欠の情報人間がスパイなのだ。

20世紀に入るや、科学と技術の進歩により、人工衛星や盗聴器、インターネット等、様々なスパイ機器が前面に出てきたが、所詮、心を読まなければ、相手の抱いている意図の真相を把握できない以上、スパイの需要は益々高まっている。

スパイ (Spy) とは敵対勢力などの情報を得るため、合法違法を問わずに情報入手や諜報活動などをする者の総称である。工作員(こうさくいん)間諜(かんちょう)、間者(かんじゃ)、密偵(みってい)とも呼ぶ。

“スパイ”と呼ぶのは敵方の者のみで、味方の者はエージェント(代理者)と称する言い方もある。

政治・経済・軍事機密・科学技術などの情報をいち早く入手することは戦時・平時を問わず戦略上重要であり、この種の行為は古代から行われてきた。世界各地の神話や古文書にもしばしば描写される。日本の忍者やお庭番もスパイの範疇に属する。

SPYは、espy(見つける、探し出す)と同じで古期フランス語でespion(見張る者)の意味がある。espionage(諜報活動:現仏語)の語源。印欧語で「見る」を意味する語幹「spek」に由来する。

近代以降、各国はスパイ網を組織化・巨大化させ、諜報活動を繰り広げた。特に第2次世界大戦後の東西冷戦期には、世界各地で激しいスパイ活動が行われ、多くのスパイ事件が発覚してもいる。

この状況は、米ソ2極体制が終結した現在でも変わってはいない。一般に、法律で取り締まりの対象になるスパイは内部情報を持ち出す関係者で、その情報を買い取る外国政府の情報機関員(大使館に所属し外交特権を持つ書記官・駐在武官をしていたりする)は「ケースオフィサー」という。

小説、映画の影響により派手な活動が連想されがちであるが、古典的表現である「外套と短剣」に表されるように、実際のスパイは実に地味な活動をしている事が多く、本来別の存在である。

忍者や007シリーズ等、大衆向けに膾炙したフィクションが先入観の原因と考えられる。このような破壊活動などは実際には軍特殊部隊によって行なわれている。

あるいは、よくありがちな敵組織に潜入して情報を得るというのも特に大国の間では極めて少ない。なぜなら、基本的に情報公開されているため、合法的に調べれば目的の情報というのは意外に簡単に得られるから
である。

しかも、そのようなリスクを犯す方法よりも、目的とする情報がある機関の職員に、異性の諜報員が近づき、恋愛感情につけ込んで情報の取得を頼むケースの方が圧倒的に多い。上海総領事館事件は耳新しい。

スパイをテーマとした小説や映画、漫画などは、冷戦期に盛んに送り出されたものの、近年はやや下火になりつつある。

また危険な任務が多いのに基本的に給料が安い(ケースオフィサーは公務員 内通者に至っては報酬が贋金で支払われたりする事も)為、現在の先進国に限って言えば人気がなく進んでやろうとする人間は稀である。

プロ野球のスコアラーが、次の対戦相手の戦力・戦術分析の為に試合を観戦したりする事から、「スパイ」と表現される事もある。企業における産業の技術情報などのスパイ行為については産業スパイと言う。

戦争を放棄した日本はなぜか諜報活動を自ら放棄したのはおろか、他国のスパイを取り締まる法律も放棄した。スパイ天国である。北朝鮮による拉致事件が大手を振って展開された所以である。国民はまだ目が覚めない。

日本を舞台にした戦後のスパイ事件としては、韓国大統領に当選するはるか以前に韓国の政治家金大中氏が韓国の工作員に東京で拉致され、日本海に沈められそうになりながら母国に運ばれて解放されるという事件
が大きい。

私は昭和48年6月ごろ、東京で反朴政権活動を展開する金大中について、在日韓国大使館の金在権公使に質問したことがある。そしたら金公使は「そのうち何とかなりますよ」と不気味に笑った。

私は直後に大坂へ転勤になって問題から遠ざかったが、同年8月8日に事件は起きた。金大中が何者か(韓国中央情報部=KCIA説が有力)により東京都千代田区のホテル・グランドパレス2212号室から拉致されたのである。

もともと金大中は1971(昭和46)年の大統領選挙で民主党(当時)の正式候補として立候補。軍事独裁を強いていた民主共和党(当時)の候補・朴正煕現役大統領(当時)に挑戦。敗れはしたが、わずか97万票差までの肉薄だった。

朴正煕は民主主義回復を求める金大中に危機感を覚えざるを得なかった。大統領選直後、金大中が交通事故に遭った。あきらかに暗殺工作だった。

股関節の障害を負った。その後、金大中も危機感を覚えたのか日本に逃亡し、日本、アメリカを中心に民主主義運動を行っていたさなかの拉致事件だったのだ。

朴正煕は金大中が国内に居ないことを利用し、国内に戒厳令を発令した。その頃、私はソウルを訪問した。閣僚も高官も夜12時前には帰宅した。スパイは夜動くから、捕まえやすいとのことだった。丁度その頃、朴正煕の側近であった李厚洛(イ・フラク)中央情報部(KCIA)長が平壌を訪問し、平壌の金英柱組織指導部長と会談した。

逆に金英柱部長の代理として朴成哲第二副首相が同年5月29日から6月1日の間ソウルを訪問して李厚洛部長と会談し、7月4日には南北共同声明を発し祖国統一促進のための原則で合意した。

この歴史的会談によって李厚洛の韓国国内の評価は一気に高まり「ポスト朴正煕」との噂さえ囁かれるようになった。

そんな中、首都警備団長尹必上h(ユン・ピリョン)将軍が李厚洛との談話で漏らした失言(「大統領はもうお年だから、後継者を選ぶべき」)に激怒した朴正煕は、両人ならびに関係者を拘束し徹底的に調べ上げるように命じた。

しかし、ここで側近から造反者が出たように見られるのは朴政権にとって痛手となるため、李厚洛は釈放された。こうして朴正煕の機嫌を損ねた李厚洛は、何とか名誉挽回に朴正煕の政敵である金大中を拉致する計画を立てるに至ったのである。

1973年8月8日昼頃、東京のホテル・グランドパレス2212号室で金大中は同ホテルに宿泊していた梁一東韓国民主統一党(当時)党首に招かれ会談した。

午後1時19分ごろ、会談を終えた金大中は2212号室を出たところを何者かに襲われ、空部屋だった2210号室に連れ去られる。犯人グループは、エレベータで地下に降りる途中、金大中にクロロホルムを嗅がせて意識を朦朧とさせた後、ホテルから車で関西方面(神戸)のアジトに連れて行き、その後、船で神戸港から出国したと見られる。

朦朧とした意識の中「『こちらが大津、あちらが京都』という案内を聞いた」と金大中は証言している。金大中は「船に乗るとき、足に錘をつけられた」と後日語っている。

しかし事件を察知したアメリカの通報を受けて自衛隊が拉致船を追跡し、照明弾を投下するなどして威嚇したため、拉致犯は殺害を断念し釜山まで連行、解放したとされている。

金大中自身、日本のマスコミとのインタビューで、甲板に連れ出され、海に投下されることを覚悟したときに、自衛隊機が照明弾を投下したと証言している。

拉致から5日後、金大中はソウルの自宅近くのガソリンスタンドで解放され、自力で自宅に戻った。

警視庁はホテルの現場から金東雲・駐日韓国大使館一等書記官(金東雲は変名、本名は金炳賛)の指紋を検出し、営利誘拐容疑で出頭を求めたが金は外交特権を盾に拒否。日本政府は金東雲に対し日本では初となるペルソナ・ノン・グラータを発動、間もなく特権に保護されて帰国した。

この事件の責任を取って李厚洛は中央情報部長職を解任され、日本国内での反朴運動が高まった。その運動の中から総連系に唆された文世光(ムン・セグァン)が朴正煕殺害を決行し、陸英修(ユク・ヨンス)大統領夫人が死亡した(文世光事件)。この事件の責任をとって警護室長朴鍾圭(パク・ジョンギュ)が解任された。

その後、中央情報部長に就任した金載圭の、警護室長に就任した車智諸・BR>(チャ・チチル)に対する反感から、10・26事件(朴大統領暗殺事件)がおき、朴政権の滅亡とその事件を率先して調査した全斗煥の台頭を生むきっかけとなった。

後年(2006年2月5日)、1973年11月2日に行われた田中角栄首相(当時)と金鍾泌首相(当時)との会談の内容を収めた機密文書が韓国政府により公開され、日韓両政府が穏便に事を済ませ政治決着を図ろうとしていたことが明らかになった。

第二次世界大戦前には「ゾルゲ事件」が起きたが、国民は敗戦後の極東軍事裁判で明らかにされるまで全容を知らなかった。ドイツ人のジャーナリスト、リヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge,1895年10月4日 -1944年11月7日)が日本を舞台にして繰り広げたスパイ事件のことである。これについては別に執筆したので省略する。

アメリカとの戦争を始めるに先立って日本陸軍はアメリカ本土にスパイを放った。新庄 健吉(しんじょう けんきち、明治30年(1897年)9月30日 - 昭和16年(1941年)12月5日)である。

新庄は陸軍経理学校教官・支那派遣軍経理部員・企画院調査官等を歴任し、階級は陸軍主計大佐に至る。情報将校としてアメリカの国力を詳細に調査し、戦争の見通しについて報告書を作るなど情報分析能力が注目された。

新庄の死後日米開戦当日に行われた葬儀に駐米大使館職員が参加していた事が最後通牒の遅れた原因とする説がある。

明治30年9月農業新庄竹蔵の三男として生まれ、京都府立第三中学校を経て大正4年12月主計(会計・給与などを担当する軍人)候補生となる。

陸軍派遣学生として昭和3年3月東京大学経済学部を卒業、大学院を昭和5年3月に修了するなどインテリに養成される。

昭和12年8月主計中佐に進み、昭和16年1月参謀本部からアメリカ出張を命ぜられた。任務は対米諜報である。アメリカの国力・戦力を調査し、来る日米戦争の戦争見通しを立てる事であった。

所謂スパイであるが、4月に到着以後、非合法な活動は伴わず一貫して公開情報の収集にあたった。公開されている各種統計等の政府資料から資材の備蓄状況等を割出し日本との国力差を数字に示した。

諜報が目的である事から駐在武官府等の在米陸軍機関では活動せず、エンパイアステートビル7階の三井物産ニューヨーク支店内に事務所を開いた。勿論身分を三井物産社員と偽装してである。

元々アメリカは新庄が調査せずとも世界一の工業生産力を誇っているのは明々白々であったが、調査の結果導き出された数字は重工業分野では日本1に対してアメリカ20、化学工業1対3で、この差を縮める事は不可能とあった。

これらの調査結果を日本の参謀本部に報告書として提出するが、渡米から、3ヶ月働きづめだった新庄は、ワシントン市にあるジョージタウン大学病院で開戦直前の12月4日急性肺炎を併発し没する。45歳だった。

新庄の葬儀が最後通牒の遅れた事に関係するという説が、ノンフィクションライターである斎藤充功の著書に記されている。

12月4日に逝去した新庄の葬儀は12月7日、日本時間では12月8日にあたる。12月8日は日本が海軍の戦力を以って真珠湾を攻撃した日であり、後には開戦記念日と呼ばれる。

この日日本はアメリカに対し最後通牒を行いその通告文をアメリカ国務長官コーデル・ハルに渡す事を予定しており、その日時は12月8日午前3時現地時間で12月7日午後1時を定刻としていた。

攻撃の前に予め開戦の意志を伝えるというのが目的であったが、定刻を過ぎてもその最後通牒は行われず、真珠湾攻撃は午後1時15分(日本時間8日午前3時15分)に始まる。

日本からの文書を翻訳・浄書するのが遅れた為などの言い訳があるが、この事から騙し討ちと呼ばれる。予てからその原因は大使館職員の怠慢であったと言うのが定説であるが、斎藤の調べでは来栖三郎・野村吉三郎両駐米大使らの葬儀出席が原因と言う。

新庄の葬儀は現地時間で午後に行われ、磯田三郎駐米陸軍武官以下陸軍将校はもとより、複数の大使館職員や来栖三郎・野村吉三郎両駐米大使が参加しており、その来栖・野村大使らは葬儀が終ってから国務省に向ったと言うのだ。

ハル国務長官に最後通牒を手渡したのは午後2時20分、1時間20分の遅れだった。しかし、こうした事実も国民は戦後になって初めて知らされた。しかも関係者はなにごとも無かったかのように事務次官や大使に出世した。

2011年08月11日

◆前兆で脳梗塞を防げる

渡部 亮次郎


高血圧や糖尿病患者を待ち伏せしているのは脳梗塞であるが、これには前兆があり、それを見逃さずに治療すれば事無きを得る、という公開講座があるという招待状が来たので7日に東京女子医大弥生講堂に出かけた。

午後1時、既に満員。約300人の中老年の男女。半身不随になる脳梗塞は恐ろしいのだ。だが防げるというのだから、これだけの人気なのだ。

脳梗塞というのは、脳に血液を運ぶ血管が詰まって(梗塞)脳の一部が壊死する為に半身不随になるか。即死するかの病気。これに脳出血とクモ膜下出血を合わせて「脳卒中」という。

長嶋さんの掛かったのは脳梗塞、美貌の女優で歌手だった高峰三枝子がクモ膜下出血で死亡した。わが同期生清沢君は脳梗塞のあと脳出血で亡くなった。

高血圧の友人は多いし、糖尿病の友人も多い。第一、筆者自身がインスリン注射を欠かせない糖尿病患者にして高血圧を飲み薬で抑えているで身はないか。

今では脳梗塞と言っても、3時間以内に搬入して注射をすれば詰まった血栓を溶かす薬(t−PA)があるからと安心している人が多いが、学会の調べだとかつぎ込まれた患者でt-PAを使えた患者はわずか7%に過ぎない。

長嶋さんは3時間を過ぎていたため後遺症が残った。だから前兆とは何かを知りたいのだ。

脳梗塞の前兆とは「TIA」という。一過性脳虚血発作。(1)片腕の力がだらんと抜けた (2)舌がもつれた (3)歩きづらく、片側に倒れそうになった (4)顔が歪んで、口元が痺れた (5)目の半分がぱっと見えなくなった。

こうした症状が出たが30分ぐらいで治ったから「脳梗塞にかすられたが治った」と本人も回りも思ってしまうらしい。失礼ながら専門でない医者にもそう誤解する医者がいると専門医はいう。

ところが、TIAを発症した患者の4〜20%がそれから90日以内に脳卒中を発症し、その約半数は48時間以内であったとの報告がある。TIAだったら必ず、すぐ救急車hに来てもらい専門医に掛かれば、脳卒中は80%抑制できる。独り寝していると発見が遅れる。

シンポジュームに出てくださった大学教授たちは、口をそろえて「「TIAは脳梗塞の前触れ発作。本格的な脳梗塞が起こりかけている警告サインです。一寸ヘンだなと思っているうちに症状が消えても油断は禁物。回復したからと安心せずに、すぐに専門医の診察を受けてください」と呼びかけていた。

特に東京都の場合は救急車に「TIAです」と告げただけで専門病院に運んでくれる態勢ができているそうです。2011・8・8

2011年08月10日

◆日米首脳会談見送りの公算

渡部 亮次郎


この記事については8日にごく一部を紹介したが、以下、詳しく紹介します。ここまで国際的に呆れられても辞めない菅首相のしんけいというのは「異常」としかいえませんね

<米、日程調整を“拒否”

米政府が、9月前半に予定されていた日米首脳会談の日程調整を事実上拒否していることが7日、分かった。複数の日本政府高官が明らかにした。菅

直人首相の退陣時期が不透明な上、仮にオバマ大統領が菅首相と会談しても議題や成果が乏しいためだ。原子力発電を推進したい米政府は首相の「脱原発」方針にも強い不快感を伝えてきており、首脳会談は見送られる公算が大きくなった。

政府高官によると、7月以降、外務省が首脳会談の日程を固めるため再三にわたり米国務省に調整を打診。しかし、9月前半まで残り1カ月となっても国務省は候補となる日程を一切返答してきていない。

「9月はオバマ大統領の日程が窮屈になってきている」と、首脳会談の調整を後回しにしていることさえ示唆したという。

枝野幸男官房長官は5日、菅首相が訪米して行う日米首脳会談について「実務的に調整しているところだ」とだけ述べている。

米政府が首脳会談に消極的なのは、現状では日米同盟の「深化」に向け明確なメッセージを打ち出せないとの判断があるためだ。

米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)移設問題が進展しないことを受け、パッケージである沖縄海兵隊のグアム移転経費に米議会の削減圧力が強まっている。

米側は、首脳会談を開けば普天間移設を議題にせざるを得ず、5月の首脳会談のように「進展」を誓い合うだけではグアム経費にも悪影響が及ぶと懸念する。

経済分野でも、菅政権が環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)交渉への参加判断を先送りしながら、欧州連合(EU)との経済連携協定(EPA)締結に向けた協議を先行させていることに不満を募らせる。菅首相は9月下旬にニューヨークで開かれる国連総会出席にも意欲を示すが、演説で「脱原発」を表明すれば、米国の原子力政策にもダメージを与えるとの警告も発してきている。

今月22日にはバイデン米副大統領が来日し菅首相と会談するが、その場で首脳会談の見送りを通告してくる可能性もある。>

産経新聞2011.8.8 09:25


<居座り首相に国際社会も“菅無視” 日本の首脳外交は休眠状態に 退陣表明後も居座り続ける菅直人首相に対し、国際社会が“菅無視”を鮮明にし始めた。米国による事実上の首脳会談拒否に加え、米国債の格下げ問題で緊密に連携している各国首脳も、菅首相のことは眼中にないようだ。

7日に行われた先進7カ国(G7)の財務相代理緊急協議を前に、米国のオバマ大統領やフランスのサルコジ大統領、ドイツのメルケル首相ら米欧州各国の首脳は頻繁に連絡を取り合っていた。一歩対応を誤れば、世界的な金融危機を引き起こしかねないとの強い危機感があるためだ。

ところが、菅首相のもとには各国首脳からの連絡は一切なかった。世界3位の経済大国の首相であるにもかかわらずだ。

政府筋は「日本だけに連絡がこなかったのか事実関係は分からない。そもそも米国と欧州の経済状況がテーマだから」と強弁する。

しかし、2008年のリーマン・ショック時には、当時の麻生太郎首相がサルコジ大統領、中国の温家宝首相ら各国首脳と金融サミット(G20)の枠組み作りに向けた調整を行っていた。

各国首脳からすれば、「去りゆく首相」は信用に値しないと判断するのも当然だろう。

実際、菅首相の居座りで日本外交は完全にストップしていると言っても過言ではない。

3月11日の東日本大震災も外交日程に影響を及ぼしたが、それでもサルコジ大統領や温首相ら4人が日本を訪れた。

しかし、6月2日の退陣表明後に訪日した外国首脳はインドネシアのユドヨノ大統領、西アフリカに位置するトーゴのニャシンベ大統領、日本が国家承認したばかりのクック諸島のプナ首相の3人だけ。現時点で首相との会談が確定している元首もいない。

予定されているのは7日に来日した潘基文国連事務総長と、22日に来日するバイデン米副大統領との会談ぐらい。ただ、米国はバイデン氏の訪日をアジア各国歴訪の一環と位置付けており、日本政府内ですら「バイデン氏のアジア歴訪の重点は、来日前後に予定している中国訪問」との観測が出るありさまだ。

各国による「日本パッシング(素通り)」は、もはや深刻なレベルに達している。外務省幹部もこう嘆いた。

「日本の首脳外交は休眠状態が続くだろう」>(新井好典)産経ニュース 2011.8.8 11:25

2011年08月09日

◆民主党、深まる世代間対立…次期代表選巡り

渡部 亮次郎


日曜日の読売新聞によれば、菅首相(民主党代表)の後継を決める民主党代表選を巡り、党内で世代間対立の様相が強まっているそうだ。いくら騒いでも菅首相はやめそうにない。だからやめさせる手立てがあるわけじゃなし。

同じ日曜日似配達された「月刊誌 文藝春秋 9月号」は痺れをきらしたように脱「菅」・叛旗の閣僚独占手記と来た。海江田万里「覚悟の手記 大臣辞任を決意させた菅総理大臣の電話」 野田佳彦財務大臣は「わが政権構想。 馬淵澄夫は「代表選一匹狼の挑戦状」である。

見出しこそ威勢はいいが、手勢も資金も、序に気概も不十分な御託を並べたって、さしたる影響は無い。文春に設けさせるだけだ。

そうした中で読売を読んでみても興奮を覚えるフレーズは探してもどこにもないのだが、どうせ休日のひまつぶし。

<若手議員からは、首相、鳩山前首相、小沢一郎元代表の「トロイカ(3頭立て馬車)」が中心となった政治に終止符を打ち、若返りを図るべきだとの声が相次ぐ一方、ベテラン議員は「新体制では、経験こそ必要だ」と訴えて、巻き返しを模索している。

「鳩山さん、菅さん、小沢さんを含めた大先輩が創業し、政権交代という上場を果たした。今問われているのは、中興のステージへのリーダーシップだ」

衆院当選3回の馬淵澄夫前国土交通相は2日の講演で、「世代交代」を強調し、代表選への出馬に強い意欲を示した。

首相は、6月2日の民主党代議士会で、「若い世代への引き継ぎを果たす」と言明して退陣表明をしながら、いまだに辞任していない。居座りを決め込む首相と、退陣に道筋をつけられない民主党執行部に対して、中堅・若手議員の間では、「このままでは、民主党に対する国民の信頼が落ちる一方で、次の選挙では、全員落選する」との危機感が広がって
いる。

馬淵氏の発言は、こうした声にこたえることで、自らの支持基盤を広げる狙いがあるとみられる。

党内では、若手がグループを超えて集まり、ポスト菅」候補を品定め
する動きも出ている。


津島恭一衆院議員ら当選1〜3回の議員で作る「メロスネット」は、馬淵氏のほか、野田財務相や、前原誠司前外相、玄葉政調会長を次々と招いて意見交換している。津島氏は、小沢元代表を支持するグループに所属している。

党内には、これまで「親小沢か反小沢」を軸に党内抗争を繰り広げてきたことが一番の問題点だったとして、「首相が退陣に伴って政界を引退すれば、鳩山、小沢両氏にも引導を渡せる」と、トロイカ世代の一斉退場を求める声も出ている。

これに対し、ベテランは世代交代の針が進むのを食い止めようと懸命だ。

当選11回の鹿野農相を推す増子輝彦参院議員は「民主党は、もう失敗は許されない。党や官僚のマネジメント、国会対策をきちんとやるには、政治経験のあるベテラン以外にない」と語り、中堅議員らへの働きかけを強めている。

4日夜に都内のホテルで開かれた鹿野氏の擁立を目指すグループの会合には、鳩山、小沢グループのほか、菅グループや旧社会党系グループにそれぞれ足場を置くベテラン議員ら約20人が顔をそろえた。

この日の会合では、篠原孝農水副大臣が「将来の首相候補の条件の充足の状況」と題した資料を配り、過去の首相や米仏大統領の前歴などを引き合いに「当選回数、党の役職、閣僚の経験、全てを勘案して、次期首相は鹿野さんしかいない」と力説した。 >

(読売新聞 8月7日(日)12時0分配信)

文芸春秋で「選挙プランナー」を肩書きとする三浦博史氏が明らかにしている次期総選挙の予測義数は次の通り。( )内は現有議席。

民主党 164(301、国民新党3(3)、新党日本1(1)、新党大地1(1)、自民党222(118、公明党28(21)、共産党7(9)、社民党4(6)、みんなの党36(5)、たちあがれ日本4(2)、新党改革0(0)、減税日本2(1)、無所属8(11)。当るも八卦、当らぬも八卦。自公で過半数となれば民主党は野党に転落。

2011年08月08日

◆「日中」を渋った福田総理

渡部 亮次郎


私にとって8月15日の敗戦記念日と共に忘れ難いのは8月12日である。1978年のことだ。耳をつんざくような北京・釣魚台の迎賓館の蝉の合唱。その夜、人民大会堂での日中平和友好条約の署名式。

少し興奮したか、園田直外務大臣は自分の名前を大きく書きすぎて、相手の黄華外交部長が署名のスペースを捜して一瞬、戸惑ったのを私は見ていた。

互いに署名した条約書面を交換したあとシャンパンで乾杯したら、園田さんはグラスをぶつけすぎて、上着の右袖口がすっかり濡れてしまった。

「(締結できなかったら死ぬ覚悟で行くから)代えの洋服はもたないでくれ」と一張羅で来た。えぃ、ままよ。薄いグレイの右袖はシャンパンが次第に黒いしみのように広がっていった。

人民大会堂はこの6年前にも入っていた。1972年9月25日。梅原龍三郎描く「北京秋天」そのもの、それこそ抜けるよう名青空の下、北京空港に降り立ち、その夜には周恩来総理の歓迎宴に同行記者団80人も招かれて、人民大会堂なるどでかいビルでニクソン大統領は断わったという「海鼠の醤油煮」をご馳走になった。

記念写真で私の目の前に立った周恩来総理の頭はちじれっ毛だった。国全体を根底から揺すった紅衛兵による文化大革命はほぼ終息していたが、共産主義政権のマスコミ対処方針が変っていたので興味深かった。

<「近距離記者と遠距離記者があるんです」と説明されて日本側の記者一同は唖然とした。田中首相に同行する記者・カメラマンたちを集めての事前の説明会で、外務省報道課の担当官が言うのである。

記者・カメラマンを首脳に近寄れる範囲、4メートルが近距離記者とすると、遠距離記者は何メートルかい。それが20メートルなんですと、係官は言ったように記憶している。

近距離記者はしかも各社1人に限ると2度目のショック。3度目のショックは記者団機が首相機とは別で、首相機に同乗できるのも各社1人というのであった。

それから本当にびっくりしたのは、NHK政治部長はNHKを代表する近距離及び同乗記者に、それまで角福戦争の敗者・福田赳夫の担当記者だった私を指名した事であった。角さんとは話をしたことも無い。官房長官・二階堂進についても同様。また外相・大平正芳とも話を交わした事も無いから、ただ機内で3人を交互に監視しているしかなかった。

角さんに沈思黙考しろというのは無理だが、それにしても大平外相の沈黙ぶりは異常だった。中国との下交渉など知る由も無いから、どうしたのかな、ぐらいにしか考えなかった。

大平は台湾との訣別をどう処理するかを考えあぐんでいたのだと、後で知った。北京空港からわれわれは何台かのバスに揺られてホテルに入れられた。

首相たちはと言えば、迎賓館で面会謝絶だという。なんだ近距離も遠距離も無いじゃないかと毒づいてみたが、それっきり。>(ネットメディアおおさか「百家争鳴」)

このとき、かのとう小平は島流し中。日本からカネと技術を徴発しての工業、農業、国防、科学技術の近代化(四化)はまだ話題にもなっていなかった。毛沢東が存命中だから、文化大革命失敗で全権力の掌握は出来ていなくても、共産党内は原理原則派が中心をなしていた。

だから共同声明で謳った日中平和友好条約の締結もすぐに可能だと田中総理もそう理解して帰国したが、ソ連(当時)との接近を警戒する中国が、条約の中に「この条約は覇権を求めるものではない」と明記するよう要求し続けたため、6年間も締結できなかった。

福田内閣を作り、自ら官房長官に就任した園田直氏は岸信介元総理の差し金により総理官邸を1年で追われたが、何しろ福田密約内閣の密約当事者であってみれば、福田総理としては閣内No.2の外務大臣として処遇するしかなかった。

園田氏はその間の事情を世間に明らかにするわけに行かなかったので、懸案の日中条約の締結に自ら当たるためとのポーズをとった。しかし肝腎の福田総理は締結に消極的で、条約が出来ても園田に政府代表の資格をなかなか与えようとしなかった。

多分、この頃の福田総理は任期「2年」の密約を一方的に破ろうとしており、そのためには条約の締結という既成事実は「花道」として引退に結び付けられるのでは、と警戒したものであろう。

それはともかく、6年間も筋張っていた中国が「覇権条項」に見向きもせずに条約締結をさながら慌てるように急いだのは、現実主義者のとう小平の再度の復活があった。

園田氏が若い頃に結んだ廖承志氏のルートからは「園田さんが来てさえくれれば間違いなく締結する」とさえ言ってきたものだ。

今考えてみれば4つの近代化の課題に加えて経済の改革開放体制の実施のためには、日本の協力、特に莫大な資金と技術の導入は不可欠である以上、条文の区々たる文言に拘っている時間的余裕はなかったのだ。

しかし、福田総理に上がる在北京日本大使館の情報には残念ながら、そこまで突っ込んで分析した情報は皆無であった。

敗戦と共に日本は独立国家を目指すよりは、貧乏と戦争さえなければ幸せとでもいうインポテンツ国家に成り下がった。このため国家生存のための情報を収集する体制を捨ててしまった。外務官僚上がりの総理吉田茂が外務省からスパイ機能(人員)と予算を取り上げてしまったのである。

そこでわが外務省はアメリカからのいわば2次情報の分析ばかりやっているから、結果はどこかの絵描きと同じで、出来上がったものは「模写」ばかりである。

ソ連の崩壊と共に中国が「中華」に舵を切り替えて対日友好をとっくに捨ててしまったのに、未だに対中友好を推進しようと馬鹿の一つ覚えのような姿勢をとり、心ある人たちをして叩頭外交、属国外交と切歯扼腕させているのは、この「2次情報外交」にあるためである。

絵描きだけでなくジャーナリストと称する物書きも「引用」を続けていると、結果が「盗作」として結実するのとそっくりである。最近は大学教授にも多くなった。


2011年08月07日

◆秋田名物の恐怖・ボツリヌス

渡部 亮次郎

『秋田名物 八森鰰 男鹿(おが)で男鹿ぶりこ 能代春慶 檜山納豆 大館曲(まげ)わっぱ』というのが「秋田音頭」の出だしである。

その秋田名物に恐怖とは穏やかではないが、他郷の人にも美味と賞賛される名物「鰰鮓(はたはたずし)」に昔は「ボツリヌス菌食中毒」事件がつき物だった時代があった。

昭和30(1955)年代 にまだあった。5月に田植えをしていた一団が野良で昼食を済ませた夜、目を剥きながら戸板で次々に担がれて行くが、病院までの途中で悶絶。確実に死んだ。

前の年の師走に捕れた秋田名物の鰰を飯鮓にして保存。約半年後の田植えの時のご馳走に駆けつけた近所の老若男女に昼食に副えてふるまったわけだが、飯鮓は目に見えないボツリヌス菌で全面的に汚染されていたのだ。

ボツリヌス菌とは最近は生物兵器として話題に上る。記者になりたてのころは「青酸カリの2万倍の毒」と教育された。

ボツリヌス菌は世界中の土壌に広く分布しており、また、海や湖の泥の中にも存在する。缶詰やびん詰、真空包装食品など酸素が含まれていない環境下で増殖して、毒素を産生する。

特に飯鮓のように酸っぱくて密閉された状態を最も好んで増殖する。それがなぜ鰰にくっついているか。鰰が産卵する秋田海岸のヘドロに一杯いる。鰰を良く洗えばボツリヌス菌は落ちるわけだが、昔は水道が普及してない農村では、飲み水は近くの井戸で汲み上げ、天秤棒で担いで家に持ち込んでいた。だから貴重品。鰰洗いにもケチった。

しかも昔はボツリヌスなんて知らないから、黴菌がくっついているのも知らずに飯と塩で漬けて密閉するからボツリヌスにとっては天国なのである。最近は農村でも水道が普及したから鰰の飯鮓によるボツリヌス中毒は全く聞かれなくなった。

むしろこのような特徴を持った菌だから保存状態の悪いびん詰や外国産の真空パックされた魚の燻製、酢漬けや塩漬けなどから感染することもある。

日本では鰰鮓のほか、これまでに、自家製の野菜や果物のかん詰、輸入キャビア、自家製の魚の燻製、からしれんこん、ソフトチーズなどで発生例がある。

ボツリヌス菌に感染するとどうなるか。8〜36時間の潜伏時間の後に、吐き気、嘔吐、便秘などの症状が現れるが、特に倦怠感、脱力感、めまいといった症状を示すのが特徴。

症状が進むと、意識はしっかりしているのに二重に物が見えたり、言葉が出にくくなり、時には、おしっこが出なくなったり、歩けなくなったりすることも。

治療が遅れると呼吸困難などから死亡することもあり、恐ろしい細菌として知られている。

以下は出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ボツリヌス菌(学名Clostridium botulinum)は、クロストリジウム属の細菌である。グラム陽性の大桿菌および偏性嫌気性菌。土の中に芽胞の形で広く存在する。菌は毒素の抗原性の違いによりA〜G型に分類され、ヒトに対する中毒はA,B,E,F型で起こる。

ボツリヌスの語源はラテン語のbotulus(腸詰め、ソーセージ)であり、19世紀のヨーロッパでソーセージやハムを食べた人の間に起こる食中毒であったためこの名がついた。1896年、ベルギーの医学者エミール・ヴァン・エルメンゲム(Emile van Ermengem)により発見・命名された。

ボツリヌス菌が作り出すボツリヌス毒素(ボツリヌストキシン)は毒性が非常に強く0.5kgで全人類を滅ぼす事が出来ると考えられていたため、生物兵器として研究開発が行われた。

炭疽菌を初めとする他の生物兵器同様、テロリストによる使用が懸念されている。

ボツリヌス毒素の致死量はヒトに対しA型毒素を注射した場合、、ボツリヌス毒素1gの殺傷力は約1000万人とも言われる。自然界に存在する毒素としては最強。

2006年12月8日、厚生労働省は飲料水による症例を世界で初めて確認した、と発表した。

ボツリヌス毒素は主に四肢の麻痺を引き起こす。重篤な場合は呼吸筋を麻痺させ死に至る。その他、複視・構音障害・排尿障害・発汗障害・喉の渇きがみられる。一方、発熱はほとんどなく、意識もはっきりしたままである。

ボツリヌス菌は芽胞となって高温に耐えることができるが、ボツリヌス毒素自体は加熱することで無害化する。A、B型菌を死滅させるには100℃で6時間、120℃で4分間の加熱が必要である。

しかし寿司は生で食べなきゃスシでなくなる。煮たり焼いたりしたスシは見たことが無い。

ボツリヌス毒素自体は100℃で1〜2分の加熱で破壊できる。このため、ボツリヌス菌による食中毒を防ぐには、食べる直前に食品を加熱することが効果的である。(しかし飯鮓の加熱は考えられない)。

中毒になった場合、毒素の中和剤はウマ血清しかない。(ただし、乳児ボツリヌス症では致死率が低いこともあり、一般的に使われない)ワクチンは研究者用にボツリヌストキソイドが開発されているが、中毒になってから用いても効果がない。 また、米国においてボツリヌス免疫グロブリンが開発されている。

日本では、いずしなどのなれずし、きりこみなどによる中毒が北海道・東北地方を中心に報告されている(E型による)。

1984年、熊本県で製造された真空パックの辛子蓮根を食べた36人(1都12県)がボツリヌス菌(A形)に感染し、内11名が死亡した。

原料のレンコンを加工する際に滅菌処理を怠り、なおかつ真空パックし常温で保管流通させたために、土の中に繁殖する嫌気性のボツリヌス菌がパック内で繁殖したことが判明した。

2006年12月8日厚生労働省は、井戸水の飲用から宮城県の0歳男児に乳児ボツリヌス症が発症したと発表。同省によれば、飲料水による同症が確認されたのは世界で初めてとのこと。

1995年、イラクにおいて20,000リットルのボツリヌス毒素が見つかり、廃棄された。

オウム真理教(現アーレフ)も研究していた。1993年に東京・亀戸の新東京総本部(登記上の主たる事務所)で発生した悪臭騒動の原因とされる。

2006年7月12日、警察庁と産業技術総合研究所とでボツリヌス毒素を10分で検出する方法を共同開発した。(従来の方法では1-4日を要した。)新技術は糖とボツリヌス毒素を結合させ、レーザーで検出する。

2011年08月06日

◆カギの隠れたニュース

渡部 亮次郎

菅首相の進退を占うキーワードは「左翼との繋がり」であって「単なる我欲」ではない。それを無視して取材していても間違いを繰り返すだけだ。菅は我欲でしがみついているのではない。世界の左翼からの指図に従ってしがみついているのだ。岡田幹事長やマスコミは勘違いをしている。

東北の県境の町では子供2人殺し事件で町の評判はガタ落ち。そこで風評だから新聞やテレビは表には出さないが、地元の人たちは初めから「商売」の邪魔だから娘も殺したべ、と言い合っていたようだ。

んだ、警察も客だったんじゃねが。んだがら事件を事故にして封印しようとしたのだべ。なんたて、玄関におどごの靴あったら、家さ入って来るな、といわれていて、夜でも外で待っている幼い娘。気の毒でみていられねがったな。

「商売」の事件のキーワード(かぎ)は「売春」。「次々に男をくわえ込んで自宅に連れ込むんだもの、娘は邪魔になる。まして別れた亭主とのこどもだもの、可愛くないときだってあるべさ」となれば殺人の動機は露呈していた。

だが、人々は見て見ぬふり。集落同士ならいくらでも喋るが、それ以外のマスコミや警察からは尋ねられても絶対語らない。都会での捜査とは違った壁に阻まれるわけだ。住んで見なければ理解できない。

そこで手馴れた記者なら記者は一種の「色めがね」を被せて考える。この場合はキーワード。直訳すれば「鍵となる言葉」だ。この事件の場合は、犯人が実は売春をしていたのではないかとの疑いで言動を洗いなおすことである。

関西で若い男が小学校に刃物を持って侵入し、何人もの児童を殺傷する事件があった。東京の感覚では、精神異常を疑るが、関西ではいわれなき「被差別」を疑う。だが口は絶対つぐむ。昔、部落出身を理由に入学を拒否されたことへの仕返しだった、

ニュースには絶対「被差別」は出ないまま犯人は望んで刑死を早めた。被差別を知らない人には未だに不可解なニュースであった。

金大中事件の政治決着を田中政権がなぜ急いだか。これは証拠はないが大統領の犯罪に違いない。だとすれば現金で決着を図るだろうと大阪で見ていたら、その通りになった。あれこれ法律や正義や面子を持ち出して騒ぐと、韓国の政権そのものが危態に瀕する。

そこでこの事件のキーワードは「現ナマ」。日本で生まれて財を成し、朴政権の財布と言われていた在日韓国人が用立てたのだ。

現ナマの紙袋は2つあり「一つは奥さんに」といったら総理は「そうだ、1つは外務大臣にだな」と答えた。これを知っているものといないものとでは、解説記事に雲泥の差が出る。

取材に当たって、こういうメガネを何枚も用意して政治家を観測しろと教えてくれたのは若い頃の島桂次記者(のちにNHK会長・故人)である。「角栄が福田に勝つものは学識ではない。それは現ナマと人情だけだ。そうやって個々の政治家を洗ってみろ。結論はすぐ出る」。確かにその通りだった。

福田康夫は安倍の対立候補たりうるか。識見が邪魔して立てない。康夫さんと私は福田内閣で大臣秘書官同士で働いた仲だから、他人よりは康夫さんを分かる。彼は元から立つ気は無いのだと判断できた。

この際のキーワードは「面子」である。なるほど中国、韓国との関係で靖国参拝不要の主張はインテリの自分としてはいまさら翻すことはできない。しかし、だからと言って反安倍勢力に乗り、森派を割って出ても勝ち目があるか。

ない。だから出ない。初めから決まっていた話だ。だから「私が出ると言いましたか」との科白も予測できたのである。マスコミは証拠もなしに「出るだろう」と決め、終いには外国に行くことが決意の証拠などとワケの分らぬことを流して、読者、視聴者をだました。

福田康夫の性癖、置かれた立場、旧田中派への支援要請の屈辱等々を考慮すれば、立候補の可能性は初めからゼロである。しかも勝てない勝負は絶対しないという知識人としての含羞がある。ムードや煽てに乗るようなバンカラでもない。立つといいましたかは決まっていたのだ。

先輩は「政界一寸先は闇」という嘗ての副総裁川島正次郎の言葉を引いて諌めてくださる。その通りだが、だからと言ってどこかのTV局のように「不透明」を連発していたのでは、オアシを取れない。

う。つまり色眼鏡をいくつも用意して、流動的に変化する人心の中に必ず存在する「原則」を掴み取れと諭しているのではないか。

それにしても○○とぼかした記事の如何に多いことか。○が多くなると○○は却って顕在化するのが原則だ。触ってはいけないから○○にするのでは○○は更に多くなってゆくだろう。読者や視聴者は自分でカギを持たなければ分らないニュースだらけの世の中だ。(文中敬称略)


2011年08月05日

◆ふるさとは遠きにありて

渡部 亮次郎

この言葉で始まる室生犀星(むろお さいせい)の詩は「・・・想うもの そして悲しくうたうもの よしやうらぶれて異土(いど=外国)の傍居(かたい=こじき)となるとても 帰るところにあるまじや」と結ばれていたと思う。今から60年前の高校のときに習った。

つまりこの詩は「ふるさとは帰るところではない」の意味なのに、今の人たちは「遠くにありて、懐かしさのあまり」呟く詩だと思っているようだ。NHKラジオ第1放送「歌の日曜散歩」で声の綺麗な女性キャスター坪郷さんが「便り」を読み上げて、そのように伝えていた。

つまり便りを寄せた聴取者が詩の解釈を間違えたまま投書したのに、坪郷さんがそのまま放送していたのである。

室生犀星は複雑な家庭に生まれた。だから早くに郷里を飛び出したが、都会も田舎者には冷たかった。だからたまにはふるさとを思い出して帰ってみた。だけど郷里は犀星を蔑み、冷遇した。

そこで「悲しく詠うだけの土地。どんなに貧乏して、異郷で乞食に落ちぶれたとしても、俺は死んでもあの故郷には帰るまい」と決意したのである。

秋風の立つとともに「ふるさと」を懐かしむあまり軽々しく犀星の詩などを持ち出すとこうして無慈悲な欄に取り上げられ、教養の無さを散々むしられる事になる。それとも50年後の今は高校でも犀星は教えないのかも知れないね。

高校生のころは敗戦から6年しか経っていなかった。まだすきっ腹の日々だった。娯楽といえばラジオしかなったから、やたら歌謡曲、今流にいえば演歌を聞いた。

リンゴの歌。あの映画が秋田県増田町で野外撮影された、と知る人はかなりのマニアだが、あの歌の歌詞「あの娘(こ)可愛いや・・・軽いくしゃみも飛んで出る」というサトー・ハチロウの作詞の意味が大人になるまで分からなかった。

他人に他所で噂をされるとくしゃみが出る、というのは東京へ出てくるまで知らなかった。そんなことも知らずに歌っていたのだから訳がわからない。のど自慢に出て歌ったチャペルの鐘のチャペルが何だかも知らなかった。チャペというのは秋田の田舎では猫のことなので、その何かだろうぐらいに思っていた。

小畑実が秋田県生まれというのも嘘だった。本当は朝鮮半島の人。戦後間もなくは朝鮮人が戦中の虐待の仕返しというのか、全国各地とくに東京・銀座で大暴れして評判が悪かった。

それなのに囁くように歌う小畑実が朝鮮人では印象が悪くなるとだれが思ったか、下宿のオバサンの出身地を名乗ったのが真実。これは40ぐらいの時に知った。

小畑実が「旅のお人とうらまでおくれ」と歌った。「恨まないでおくれ」なのだが知らないから、送るのはどこの「浦」までだろうか、と思っていたものだ。そういえば「唱歌」は文部省(当時)が定めて歌わせたもので、やたら文語が多かった。

「ふるさと」という歌を子供が歌うと「兎おいしい」となる。そこで文部省唱歌に反逆する詩人や作曲者たちが結託して口語で作ったのが「童謡」である。唱歌と童謡は厳然と区別して使わないと怒られる。

しかし日本語の底に流れている文化こそは漢字であるから、漢語=中国語の一種である。そこで敗戦後15年ぐらいまでは高校でも「漢文」を教えていたように思う。間違っているかもしれないが、とにかく今は教えていないようだ。

未曾有(みぞう)の地震といっても判らない人が多い。いまだかつて起こったことが無い事、未曾有の未は「まだ」と「あらず」と2回読む。曾は「かつて」=過去。

同様に未成年は従って簡単に「いまだ成年にあらず」と判るはず。そこで「みせいねん」の意味がわかっていれば「まだ未成年だ」とは使えない、未成年は成年にいまだあらず、だから「まだ」をつけることは教養が邪魔をして使えなくなるだろう。

イチローが国民栄誉賞の辞退理由を「まだ未成熟ですから」といったのは彼に漢語の素養が無かった事を裏付けた。バッターに漢語は不要だけれども、あってもおかしくは無い。

先日西條八十(さいじょう やそ)という詩人の評伝を読んだ。演歌「とんこ節」「ゲイシャ・ワルツ」の作詞者であり、早稲田大学でフランス文学の教授であり、詩人ランボウの研究者としても名を極めた人である。

そんな人がなぜ演歌の作詞をするのかと問われて答えた。「関東大震災の夜、避難先の上野の山でハーモニカを吹く少年がいた。何故か人々はあの一曲に力づけられた。人を慰め、力を与える物ならば、演歌でも何でもいいじゃないか」まさにそのとおりだ。

西條の詩は文語が多用されている。それに反して最近の演歌には説明はあっても詩は無い。日本語は継承されていない。演歌の廃れる原因の一つである。(一文は麻生総理大臣とは無関係)


2011年08月03日

◆小沢氏、内閣不信任案再提出の意向

渡部 亮次郎

堪忍袋の緒が切れた?

何時までも居座ろうとする菅首相を斬るには、慣例を破ってでも内閣不信任案を再提出する意向を民主党内で元代表の小沢氏が固めたと3日付の産経新聞が1面トップ4段抜きで報じた。

面妖なことに、新聞ではこう報じながらWebではなかなか報じず、私をやきもきさせた。江澤民死去と誤報したばかりの産経。自信を失っているのかなと危ぶんだが、午前10時を過ぎてようやくWebにも出した。この通りなら民主党は遠からず分裂し、政界再編成が始まる。

<民主党の小沢一郎元代表が、8月31日の会期末までに衆院に内閣不信任決議案を提出する意向を固めたことが2日分かった。複数の小沢氏周辺が明らかにした。

同一国会に同一議案を再提出できない「一事不再議」の慣例があり、自民、公明両党が再提出に慎重なため、衆院会派「民主党・無所属クラブ」による提出を目指す。

党執行部が発議に難色を示したならば、小沢氏は新党・新会派結成を視野に賛同者を募る構えだ。

周辺によると、小沢氏は8月中旬までは岡田克也幹事長ら党執行部による菅直人首相退陣を促す動きを見守る構え。それでも首相が退陣を拒めば、小沢氏自らが党執行部に不信任案提出を促す考えだという。

党執行部が提出に難色を示した場合、不信任案の発議に必要な50人以上の賛同者を集めて提出に踏み切る方針。衆院事務局は慣例を理由に会派代表の民主党幹事長の承認が得られなければ受理しない公算が大きいが、その場合は新党・新会派を結成して不信任案を提出する算段だとされる。

不信任案に関し、小沢氏は7月28日の記者会見で「不信任案は提出者と理由が違えば一事不再議に反するものではない。首相が辞めないのならば民主党議員全員が深刻に考え、決断すべきだ」と述べ、民主党・無所属クラブによる再提出に含みを残した。

首相は平成23年度第2次補正予算、特例公債法案、再生エネルギー特別措置法案の成立を「退陣3条件」に掲げながら辞任時期を明言しておらず、与野党には「3条件をクリアしても居座る腹づもりではないか」との不信感が強い。

これが特例公債法案と再生エネルギー特措法案の成立の障害となっており、岡田氏らによる自発的な退陣を促す作戦は手詰まり感がある。

小沢氏は「首相を退陣させるには不信任案しかない」と周囲に説き続けており、会期内決着への決意は固いという。>
産経ニュース 2011.8.3 10:08


◆卒中予防のために

渡部 亮次郎

脳梗塞や心筋梗塞は血栓(血の塊)が動脈に詰まって、血液が必要な場所に行けなくなることから起きる。しかし、現在の医学はかなり進歩して、新薬もできている。

それなのに街や公園では卒中による半身不随患者を沢山見かける。梗塞の実態と対策への無関心の結果である。あらゆる病気が人類をねらっていると考え、地策を講じておくべきだ。

先日電車で見かけた20歳代の男性は「若いオレが脳梗塞になるとは思えないから病院に掛かるのが遅れちゃった」と残念がっていた。

脳卒中は、昭和26(1951)年から昭和55年までの30年間、日本の死亡原因の1位を占めていた。現在でも富山県では死因の第2位であり、全国的にも昭和40年代後半から死亡率は減少しているが、その内訳をみると、この40年間で脳卒中の主流は脳内出血から脳梗塞へと変化してきている。

死亡率が減少している反面、患者数はむしろ増加していることから、今後、発症予防や発症した後のリハビリテーションの推進がますます重要になる。

脳卒中の種類(この場合の「脳卒中」は、国際疾病傷害死因分類における「脳血管疾患」にあたる。)

脳内出血
脳の血管が破れて出血をおこすもので、多くの場合深い昏睡とともに半身のマヒが起こる。誘因として疲労、精神不安、寒冷刺激などが多く、また活動中にも起こることが多い。鳩山一郎、石橋湛山氏ら。

くも膜下出血
脳は、くも膜という膜でおおわれてるが、くも膜と脳の表面との間にある小さな動脈にこぶ(動脈瘤)があると、血圧があがった時などに破れて出血(脳動脈瘤破裂)し、くも膜下出血になる。佐藤栄作夫人、高峰三枝子さんら。頭痛がひどく悪心、嘔吐があり意識が混濁するが、四肢のマヒは通 常おこらない 。

脳梗塞
動脈硬化などのために動脈が狭くなったり、あるいは動脈や心臓内に出来た血の固まりが脳の動脈に流れ込み、詰まってしまうために起こるもの。

その血管によって栄養を受けている部分の脳組織に、血液がいかなくなり破壊されて、脳の軟化を起す。田中角栄、長嶋茂雄氏ら。

突然、発症するもの、段階的に増悪するものなど、病型により様々だが、多くの場合、前駆症状としてめまい、頭痛、舌のもつれ、手足のしびれ、半身マヒや昏睡などになる。

一過性虚血
脳の血液循環が一時的に悪くなり、めまい、失神、発作などをひき起こします。少し横になっていれば治りますが、脳梗塞の前駆症状とも考えられており、高齢者では十分な注意が必要。数年前に私が体験した。

高血圧性脳症
高血圧がかなりひどくなると、脳の内部にむくみが起こる。このため、頭痛、嘔吐、手足のけいれんなどが見られ、目が見えなくなることもある。

これらに共通するものは、コレステロールに拠る動脈硬化。理屈からすれば、血管内にこびりついたコレステをそぎ落とせばいいようなものだが、今のところ医学界にそういう薬は存在しない。

いまのところ世界が束になって取り組んでいるのが、血液をさらさらにして詰まりにくくする方法であり、そのための薬が「ワーファリン」である。今年になって新薬が許可になったが処方は1年間は2週間が限度なので、私はまだ使用していない。来年4月から処方期間が延びるのに期待しいている。

ワーファリンは納豆、コロレラなどビタミンKを多量に含むものによって効果が減殺されるから、納豆の好きな人は堪える。小生は東北生まれなのに納豆好きでは無いので助かっている。

果たしてワーファリンが効いているか否か。毎月1回、採血して調べる。平成23年8月1日は、その日だった。結果はOK。

それでも卒中になったらどうするか。私の場合はワーファリンを服用中のため使用禁止だが、そうでない患者が発症3時間以内に担ぎこまれたら助かる薬がある。「tPA」だ。

血管を塞いだ血栓を溶かす薬だ。長嶋さんは、発見された時、すでに3時間を過ぎていたからtPAを注射できなかった。右手と言葉に後遺症が残ってしまった。

とにかく脳卒中の症状が出たらどこの病院に担ぎこんでもらうかを予め決めておけば、死ぬことは勿論、後遺症すら残らない時代に既になっている。私の場合は石岡荘十さんの助言に従って決めた。近くの都立墨東病院に決めてもいいらしい。2011・8・1