2012年02月23日

◆ウィルス性肝炎

渡部 亮次郎


2007年1月22日に義兄をC型肝炎による肝臓癌で喪った。彼の73歳の誕生日の前日だった。発症は42歳のとき。医者の説明から俺の人生は50代で終わる、と覚悟したそうだ。

死ぬ前の月、つまり2006年12月8日に浦安のホテルに招待されて懇談した。死ぬ兆候なんか全く無い状態だったが「70過ぎまでこれたのは、珍しくインターフェロンが効いたからなんだ」と言っていた。

B型、C型肝炎の場合、徐々に肝臓の繊維化が進み、肝硬変に至り肝癌が発生することがあるのは今や常識だから、義兄は早くから覚悟を決めて肝炎との闘いを続けながら洋酒の輸入商を営んできたのである。

それから20日たった12月27日夕方、都内の彼の本社で会った。明日から孫など一族郎党を連れて北関東のホテルで年末年始の休暇を取るのだ、とうれしそうだったが、顔は真黄色、明らかに肝機能悪化に伴う黄疸が始まっていた。それでも翌日は車を運転して出かけたという。

密かに心配していたら、正月空けの4日に連絡があり、只今港区内の大きな病院に入院との知らせ。黄疸がひどくなったので帰路は運転を代わってもらって来たとのこと。

かかりつけの病院で担当医も決まっていたから、早速、黄疸の手当てにかかったが、腹水が溜まり始めた。それを抜き取ったところ、当然、腎臓の機能が低下。時折、意識混濁。かくて入院18日後 死去してしまった。

急なことで死に目には会えなかった。幸い痛みを訴えることも無く、安らかな死に顔だった。

死亡診断書。死因は腎不全。その原因は肝臓癌、その原因はC型肝炎。私は20年近く前に友人を59歳で肝炎で亡くしており、これで周りの肝炎犠牲者は2人となった。

昔、長く日本医師会長を務めた故武見太郎氏に話を聞いたことがある。「きみ、21世紀は肝臓の時代ですよ。肝臓が様々なウィルスに攻撃される」と聞かされたが、当に人類は要の肝腎をウィルスに曝されて、まだ医学は殆ど無力の状態、と言わざるを得ない。

ウィルス性肝炎とは肝炎ウィルスが原因の肝臓の炎症性疾患のことを指す。急性肝炎と慢性肝炎および急性肝炎の劇症化した劇症肝炎に分けられる。

現在知られているウィルス性肝炎には以下のものがある。

A型肝炎
B型肝炎
C型肝炎
D型肝炎
E型肝炎
F型肝炎
G型肝炎
TT型肝炎

このうち、日本での肝炎の原因のほとんどはA型、B型、C型である。

主な感染経路は

A型・E型は汚染された食べ物や水で。

B型は血液媒介・親子(垂直)・性行為(水平)。

C型はウィルスの混入した血液を介したもの(輸血や集団予防接種の注射針の回し射ち、刺青など)である。C型の性行為での感染、母子感染は稀である。

アメリカではB型肝炎の予防接種を受ける事が義務付けられている。

殆どのC型肝炎感染者は医療行為が原因で感染と推測される(上記の注射針が主因と考えられる)。

非A非B型(現在のC型)肝炎ウィルスに感染すると肝癌などに進行する危険性が疫学的に示されている。義兄は輸血を受けた経験が無いといっていた。何かの予防注射というのも記憶がない、とも。

慢性肝炎:自覚症状に乏しい事が多い。B型、C型肝炎の場合、徐々に肝臓の繊維化が進み、肝硬変に至り肝癌が発生することがある。

C型慢性肝炎ではインターフェロン(α or β)、PEG-インターフェロン、リバビリン+(インターフェロン or PEG-インターフェロン)といった治療法がある。ウィルス量・型、年齢、性別、貧血の程度などにより治療法を選択する。

肝癌。B型肝炎では推定10%前後、C型肝炎では推定25%前後と高率に肝癌を発症する。義兄はこの25%に引き込まれたのだった。あれから5年が過ぎた。

2012年02月22日

◆「支那」は次官通達で禁句

渡部 亮次郎


私のメルマガ「頂門の一針」に読者から投書があった。

<渡辺はま子のヒットソングを挙げると、まず昭和15年の東宝映画「蘇州夜曲」の主題歌「支那の夜」でしょうが、「ウィキペディア」でも「支那」という言葉は使いたくないのでしょうか。

「渡辺はま子」の検索では出てきませんね。「支那の夜」で検索すると出てきますが。

私は、子供の頃、父がこの歌が好きでよくレコードを聞いておりましたので、しっかりと記憶しております。

戦後「支那」という言葉がタブーになりましたので、「支那の夜」を聞く機会がなくなってしまい残念に思っておりました。

渡辺はま子が亡くなった夜かそのあくる夜か、NHKで渡辺はま子の追悼番組がありましたが「支那の夜」は最後まで放送してくれませんでした。(剛)>

NHKは「ラジオ深夜便」で09・7・6にも「日本の歌・こころの歌」で渡辺はま子を特集したが、「支那の夜」には一言も触れなかった。支那(しな)と言いたくないのである。

支那事変の始まったのは小生の生後1年の1937年。事変など知らずに育ち、対米戦争では田圃の中で艦載機に狙われて草むらに隠れた。

長じて特派員として北京に飛んだが、すでに「支那」でなく中華人民共和国になっており、爾来「支那」に無関心で来た。大方もそうであろう。

「ウィキペディア」は、
<支那(しな)は、中国または「中国の一部」を指して用いられる、王朝や政権の変遷を越えた、国号としても使用可能な、固有名詞の通時的な呼称。本来、差別用語ではないが、何らかの圧力などにより、差別語とみなされる場合が殆どである>と説明している。

詳しく調べてみると「何らかの圧力」とは、敗戦と共に加えられた「中華民国」(蒋介石)からの「圧力」だった。

大東亜戦争で日本の敗戦後は戦勝国陣営である中華民国政府からの呼称をめぐり「支那」を使うなという圧力がかかった。これを承けて日本外務省は1946(昭和21)年に事務次官通達により日本の公務員、公的な出版物に「支那」呼称は禁止され、その代わりに「中国」の呼称が一般化されるようになった。マスコミもこれに準じた。

現代の日本で「中華人民共和国」を指しての「支那」、「支那人」という言葉は半ば死語と化しており、一般的には中国、中国人という呼称に取って代わられている。

学術用語や「支那そば」は「中華そば」という言い換え語がすでに一般化している。また、「沖縄そば」を支那そばと呼称していた時期もあるが、これも今日ではほとんど使われない。

「東シナ海」等の、国家のことではなく地域のことを指す場合や「支那事変」などの歴史用語として用いられている場合はある。

中国では、世界の中に中国を客観的に位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く永く使われていた。早くから異文化に学んだ仏教徒の間では特にその傾向が顕著である。

また清の末期(19世紀末―1911年)の中で、漢人共和主義革命家たちが自分たちの樹立する共和国の国号や、自分たちの国家に対する王朝や政権の変遷をこえた通時的な呼称を模索した際に、自称のひとつとして用いられた一時期がある。

日本では、伝統的に漢人の国家に対し「唐」や「漢」の文字を用い「から、とう、もろこし」等と読んできた。明治政府が清朝と国交を結んでからは、国号を「清国」、その国民を「清国人」と呼称した。

支那という言葉は、インドの仏教が中国に伝来するときに、経典の中にある中国を表す梵語「チーナ・スターナ」を当時の中国人の訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによる。「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。

日本においては、江戸時代初期より、世界の中に中国を位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く使われていた。これは中国における古来の「支那」用法と全く差がない。江戸後期には「支那」と同じく梵語から取ったChinaなどの訳語としても定着した。

日本人が中国人の事を支那人と呼ぶようになったのは江戸時代中期以降、それまで「唐人」などと呼んでいた清国人を「支那人」と呼ぶべきとする主張が起こり、清国人自身も自らのことを「支那人」と称した事に因む。

戦前・戦中は中国人を日本人に敵対する存在として、「鬼畜米英」などと同様に、「支那」が差別的ニュアンスと共に使用される場合もあったが、「支那」自体が差別語であったわけではない。

しかし、戦後、中国人・台湾人が差別的ニュアンスとともに使われることもあったことへの反撥を表明するようになってからは、差別語であるという感覚が生じた。(再掲)


2012年02月21日

◆八郎潟干拓の裏表

渡部 亮次郎


八郎潟(はちろうがた)は秋田市北方約29kmに位置し、北緯40度、東経140度の経緯度交会点を中心に、東西12km、南北27km、総面積22024haの半かん湖で琵琶湖に次ぐ日本第2の湖であった。

水深は最深部でも4・5mに過ぎず湖底は平坦で大部分が軟弱な泥土で覆われており、湖岸各所では古くから小規模の干拓や埋立が行われていた。

私の実家は潟の東海岸で水稲単作農業を営みながら、淡水魚を漁獲する貧しい農家だった。父方の祖父の話によると、自身が日露戦争に陸軍として招集され、満洲で戦っている間に家督を継いでいた兄が氷上漁業中遭難。ために自身が復員後、替わって家督を相続した。

その長男が私たちの父慶太郎だった。当然の如く農家を継ぎ、3男3女をもうけたが、若い頃から八郎潟干拓運動に奔走、田圃にいることは少なかった。このため、姉やわたしが幼いうちから労働力として動員されたものだ。

潟の開発計画は古くから立案され、安政年間に渡部斧松が八郎潟疎水案を樹てたのをはじめ、明治5年に秋田県令の八郎潟開発構想。

大正13年に農商務省の八郎潟土地利用計画・昭和16年に内務、農林両省の八郎潟利用開発計画・八郎潟干拓計画等が作成されたがいずれも実施に至らなかった。

戦後、食糧危機がその極に達した時、八郎潟は再び開発の対象となり、昭和23年には農林省が干拓事業を計画したが財政その他の事情により実現しなかった。

その後、昭和27年秋田市に農林省八郎潟干拓調査事業所が設置され、昭和29年にオランダのヤンセン教授及びフォルカー技師の来日。それを契機とする世界銀行調査団及び翌年におけるFAO調査団の現地調査等により、事業の有効性が内外に認められることとなった。

計画は潟の80%を延長51・5Kmの堤防で取り囲んで、中の水を日本海に掻き出し、底を乾燥させて水田にするというもの。

昭和31年には農林省の事業計画が完成し、昭和32、年遂に国の直轄事業として「国営八郎潟干拓事業」着工の運びとなった。

昭和33年には起工式が行われ、同年試験堤防を施工するほか西部干拓地が干陸された。

昭和34年以降、堤防をはじめとする各種工事は最盛期を迎え、防潮水門は昭和36年、新生大橋は昭和37年、南部及び北部排水機場は昭和38年に完成した。

昭和38年中央干拓堤防もほぼ完成し、正面堤防では最終締切を行って中央干拓地のポンプ排水を始めた。

昭和41年全面干陸に伴い道路・用水路・排水路等中央干拓地内工事が最盛期を迎え昭和43年導流堤が完成し、これより干拓の基幹建設工事はほとんど完了した。

昭和39年10月、新村「大潟村」が誕生し昭和40年八郎潟新農村建設事業団が設立されて、中央干拓地の農地整備・農家住宅・役場・学校・上下水道の諸施設及び農業用施設の建設その他の事業が進められた。

昭和43年秋には第1次入植者により初稲が収穫され、引き続き昭和45年度の第4次まで入植者460戸と、昭和49年度第5次入植者120戸で計580戸(その後昭和53年度に県単玉川9戸)が入植した。

周辺干拓地は、昭和41、42年の両年度において竣功し、中央干拓地は昭和48年、52年の両年度において竣功した。

ここに、着工以来20年の歳月と852億円の巨費を投じた世紀の大事業も昭和52年3月に全面完了した。

八郎潟地区の概要

八郎潟22,024haのうち、中央の15,666ha及び周辺の1,573haが干拓地で、残りの水面は調整池、東部承水路及び西部承水路です。

調整池は船越水道に設けた防潮水門により日本海からの海水を遮断し、淡水化して干拓地及び一部周辺既耕地の用水源となっています。

また、周辺流域688Km2からの流出水は、調整池及び承水路で一時調整し防潮水門から船越水道を経て日本海に排水しています。

中央干拓地は延長51.5kmの堤防で囲み、地区内の排水は、中央幹線排水路に設けられた南部排水機場及び北部排水機場と支線排水路に設けられた方口排水機場で排水されています。

また、かんがい用水は、干拓堤防に設けられた取水口19ヶ所から取入れ、全長94kmの幹線用水路から供給しています。道路は総合中心地を通って、周辺市町村に通ずる3本の一級幹線道路(現県道)を基幹として、地区内を循環する道路網を配置しています。

圃場は、大型機械による合理的な作業を可能とする一区画1.25haに整形されました。

中央干拓入植者は全国から募集され、1年間の訓練後1966(昭和41)年から1978(昭和53)年まで6回にわたり延べ589戸が順次入植し営農を開始し、1戸当たりの配分面積は15haとなっています。

また周辺干拓地は、八郎潟周辺農家に増反地として配分されています。

集落整備については、農家住宅および各種施設が整然と建設され、1964(昭和39)年10月に地方自治体として「大潟村」が誕生しました。

大潟土地改良区ホームページによる。

http://member.ogata.or.jp/~dokai/contents/kantaku/kantaku.html

<八郎潟干拓は最終的には、米の増産を目指していたが、工事開始直後から始まった減反政策によって失敗した計画という見解もある。特に環境の方面では、湿地の喪失を嘆く向きもある。

かつては汽水湖だったため、シジミが多く採れていたが、近年は干拓とともに淡水化されたため、その収量は減少している。冬期間は凍った湖面上でワカサギ釣りがよく行われているが、ブラックバスなどの外来魚の流入で在来種の減少が確認され、その対策が行われている。

反面、ブラックバス等の増加で近年は県外の釣り愛好家から注目され、夏になると観光客が多数訪れている。

名前の由来 八郎潟の名称は、人から龍へと姿を変えられた八郎太郎という名の龍が、放浪の末に棲家として選んだという伝説に由来するとも言われる。ただし伝説においても、今や八郎太郎はこの湖には滅多に戻らないとされてい)。

また、戦後斎藤隆介によって、八郎潟の由来について独自の解釈にて描いた児童文学作品『八郎』が執筆され、小学校の国語科の教科書に採用されたことがある>
「ウィキペディア」。2012・2・17


2012年02月19日

◆瀬島さんの津軽海峡冬景色

渡部 亮次郎


<元大本営参謀で元伊藤忠商事会長の瀬島龍三氏が2007年9月4日午前0時55分、老衰のため都内の自宅で死去した。95歳。富山県出身。

富山県の農家で生まれ、陸軍士官学校、陸軍大学に進学。太平洋戦争時、大本営参謀、終戦直前に関東軍参謀になった。終戦後はソ連軍の捕虜となってシベリアに連行され、1956年に帰国するまで抑留生活を送った。

58年、伊藤忠商事に入社。わずか4年で取締役に就任、石油部門への進出や、いすゞ自動車と米ゼネラル・モーターズ(GM)の提携仲介を手掛けるなど伊藤忠が総合商社に脱皮するのに貢献した。

副社長、副会長を経て78年に会長に就任し、87年から特別顧問、2000年から理事。

1981年に当時の中曽根康弘行政管理庁長官から臨時行政調査会への就任を依頼され、伊藤忠の会長を退いて臨調委員(土光臨調)に就任。「臨調の官房長官」として国鉄などの民営化に腕を振るった。

2007/09/04 02:52 【共同通信】>


瀬島氏の死に触れて、抑留遺児となった畏友古澤襄(ふるさわのぼる)氏は4日の同氏ブログの中で「敗戦後、ソ連極東軍司令官ワシレフスキー元帥と停戦交渉を8月19日にジャリコーウオ戦闘司令所で行ったが、秦彦三郎中将(総参謀長)に随行したのが瀬島中佐であった。

交渉といっても一方的なものであったと草地氏は回顧している。この8月19日をめぐって、いわゆる瀬島疑惑が生まれている。」ことを語っている。   
http://blog.kajika.net/

若い頃、NHK政治部で担当した河野一郎氏の次男洋平氏(のち衆院議長)の夫人(故人)が伊藤忠本家のご出身だったことから、大本営参謀から伊藤忠商事に入社した人物「瀬島龍三」の事は河野さんからよく聞かされていた。

しかし初対面は、私が大阪勤務から引き揚げた昭和51年秋ごろで、読売新聞政治部の外山四郎さん(故人)の紹介で、東京・神楽坂の料亭の一室ではじめて会った。

いかめしい容貌を想像していたが全く雰囲気が違った。中肉中背、ごま塩頭の温和な「おじさん」。これが大本営参謀で、シベリア抑留11年の猛者とはとても思えなかった。

アコーデオンとギターのバンドを呼んでの歌になった。当時はまだカラオケが無かった。そこで瀬島さんが歌ったのは、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」だったが、下手で吃驚した。

聞けば若い頃、香港攻略に先立って、状況把握(スパイ}のため偽夫婦となってもらった婦人が津軽出身の女性だった。シベリヤから帰還してすぐ故郷を訪ねたが既に「石(墓)の下だった」。

阿久悠作詞、三木たかし作曲

2.ごらん あれが竜飛岬 北のはずれと
見知らぬ人が指を指す
息で曇る窓のガラス ふいてみたけど
はるかにかすみ 見えるだけ
さよならあなた 私は帰ります
風の音が胸をゆする 泣けとばかりに
ああ 津軽海峡・冬景色

その後瀬島さんが石川さゆりから直接歌謡指導を受けたと聞いたが、練習後の歌を聴く機会のないままに終わった。

<旧制富山県立砺波中学校、陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校を次席(首席は原四郎)で卒業。陸軍大学校を首席で卒業し、昭和天皇から恩賜の軍刀を賜る。>「ウィキペディア」

出身地富山県の隣の金沢の連隊に配属され、連隊旗手を勤めさせられた。「名誉な事ではあるが、在任中、童貞は守るというのが不文律。お勤めが終わったら金沢の花街(いろまち)で“公式筆おろし"なんだ。不潔でやりきれない、その足で犀川に入り洗ったよ」

「シベリアでは壁塗りをやらされた。天井を塗るんだけど、塗って梯子を降りた途端、バタツと落ちるんだ。又塗るけど、下りてきたら又落ちる。その繰り返し。

或る時、突然落ちてこなくなるんだ。知らぬうちにコツを体得したんだろうね。(だから人生も、なんていう説教はナシだった)。

「伊藤忠商事では社員の自殺事件は皆無です。それはその仕事に最も詳しい奴を本部長に据え、社長が副本部長になって奴を支えるから。奴の命令は社長命令だから奴が悩む事は無い。これは大本営の智恵です」

<山崎豊子の小説『不毛地帯』の主人公・壱岐正中佐、『沈まぬ太陽』の登場人物・龍崎一清のモデルであるともいわれ、『二つの祖国』では実名の記述が見られる。保守層を中心に支持者が多いが、証言が誠実でないとして批判もされていて、評価が分かれる人物である。>「ウィキペディア」

「不毛地帯では女房が事故死するらしいんだ。だからパーティーなんかに女房を連れて行くと、こっそり、再婚はいつですか、なんて聞かれちゃってね、弱ったよ」。

奥さんも先ごろ亡くなられたが。2・26事件(1936年2月26日}の総理官邸で岡田啓介総理と間違われて射殺された松尾大佐の長女だった。

「軍人として果たせなかった国家建設の夢を実際に政治に反映させてみたい。竹下登、加藤六月など若いのにいい奴がいますよ」

「私は相談には乗りますが中曽根のブレインなんかでは断乎としてありません」

しばらくして外務大臣園田直が瀬島さんを「参謀格」に据えたため、瀬島さんは会社の仕事を投げ打って外務省に通ってきて下さった。

そうした事から秘書官退職後の私の身の振り方を真剣に心配してくださった。しかし、晩年は年賀状も来なくなっていた。瀬島さんを否定的に捉えた共同通信社社会部『沈黙のファイル―「瀬島 龍三」とは何だったのか』に私の名前が登場したためと諦めていた。

2012年02月18日

◆墜ちる人工衛星

渡部 亮次郎


1977年11月、NHK国際局(当時)副部長から福田赳夫内閣の外務大臣(園田直=そのだ すなお)の秘書官に発令された。NHKとは体質が合わないと思っていたので、喜んで応じた。

翌年1月に初外遊に同行、モスクワに向かった。まだ健在だった「ソ連」との外相定期協議に出席したもの。

そこから帰国。あさってからは中東各国歴訪に出発だと覚悟を決めて羽田空港に着陸した途端、有田外務事務次官が飛び込んできたから驚いた。「ソ連の人工衛星が墜落して来る」との報告。

人工衛星の墜落は現在では珍しいことではなくなったようが、その時は初めてのことだったので驚いたわけだ。

「それでどうしますか)と大臣。

有田さんは落ち着いたもの。「まだ墜落予想地点が分かりませんから、地点が確定するまで“極秘"にいたします」で終わり。マスコミといえども○○○桟敷。発表はそれから1週間後ぐらいだった。

結局、カナダ国内の山地に墜落が確定したからだった。その時はイラン、アラブ首長国連邦、サウディアラビアなど石油産油国を回っていたので記憶がはっきりしない。

いずれにしても外務省が握る外交機密は、政府が発表しないかぎり国民は知らない、ということなのだ。官房長官のオフレコ懇談などで洩れる事はあるが、それ以外に洩れることは殆ど無い。

そういう観点からすると毎日新聞政治部記者(当時)西山太吉氏によって引起された、沖縄返還に絡む「外務省機密漏洩事件」は特殊な例だった。女性事務官が絡んだものだったからである。

<佐藤栄作内閣下、米リチャード・ニクソン政権との沖縄返還協定に際し、公式発表では米国が支払うことになっていた地権者に対する土地原状回復費400万ドルを、実際には日本政府が肩代わりして米国に支払うという密約をしているとの情報をつかみ、毎日新聞社政治部の西山が社会党議員に漏洩した。

政府は密約を否定し、逆に、東京地検特捜部が、起訴状において、西山が情報目当てに既婚の事務官に近づき酒を飲ませた上で性交渉を結んだと述べ、情報源の外務省女性事務官を国家公務員法(機密漏洩の罪)、西山を国家公務員法(教唆の罪)で逮捕した。

これにより、報道の自由を盾に取材活動の正当性を主張していた毎日新聞はかえって世論から一斉に倫理的非難を浴びることになった。

西山が逮捕され、社会的に注目されるなか、密約自体の追求は完全に色褪せてしまった。また、取材で得た情報をニュースソースを秘匿しないまま国会議員に流し公開し、情報提供者の逮捕を招いたこともジャーナリズムの上で問題となった。

この事件の後、西山の所属した毎日新聞社は、本事件での西山のセックススキャンダル報道を理由とした不買運動により発行部数が減少し、全国紙の販売競争から脱落。また、オイルショックによる広告収入減等もあり、1977年に一度倒産した。

以後、大手メディアの政治部が国家機密に関わる事項についてスクープするということがなくなった(リクルート事件をスクープしたのは政治部ではなく社会部)。

裁判においては、検察側は国家機関による秘密の決定と保持は行政府の権利及び義務であると前提付けた上で、報道の自由には制約があると主張し、国家公務員法の守秘義務は非公務員にも適用されると主張した。

また、報道の自由がいかなる取材方法であっても無制限に認められるかが争われたが、前掲の理由により最終的に西山に懲役4月執行猶予1年、女性事務官に懲役6月執行猶予1年の有罪が確定した。

なお、一審判決後、西山は毎日新聞を退社し、郷里で家業を継いだ。

< 2005年4月 、西山が「国家による情報隠蔽・操作が容易にできることを裁判を通じて国民の前に明らかにする」として国家賠償請求を東京地裁に提訴。

2010年4月9日 。密約訴訟判決。東京地裁(杉原則彦裁判長)は「国民の知る権利を蔑ろにする外務省の対応は不誠実と言わざるを得ない」として外務省の非開示処分を取り消し、文書開示(本当に存在しないなら“いつ” “誰の指示で” “どの様に”処分されたのかも)と原告一人当たり10万円の損害賠償を国に命令。

西山は文京区民センターでの講演『知る権利は守られたか』でこの判決を「歴史に残る判決」と評価し、「われわれが裁判を起こして今回の判決を導き出していなければ、外務省の外部有識者委員会による報告書が密約問題に関する唯一の解明文書となり、国民の知る権利は封殺されていただろう」と述べた。

なお、行政訴訟では一審で勝訴したものの事件には関係ないため自身の有罪判決は変わらないが再審請求は「全く考えていません」>
                    < >内は「ウィキペディア」

2012年02月17日

◆八郎潟干拓に奔走した父

渡部 亮次郎


2008年は亡父慶太郎の「生誕100年」だったが、後を継いだ筈の妹婿の倒産で生家も人手に渡ってしまったいま、そんなことを口にしたのは早くに実家を出た実兄と私だけだった。

明治40年、旧八郎潟東岸の貧農に生まれた父は自分の自作田を増やすためには、水深僅か4mの八郎潟の全面干拓しかないと若い頃から考えていたらしく、敗戦と共に運動を本格化させた。

具体的には水田のあらゆる作業を妻子に押し付け、秋田県庁や時には農林省(当時)に陳情を繰り返すことだった。お陰で私は一人前の百姓に成長しながら県立秋田高校に合格した。

一学年150人という小さな学校から8人が合格したが、百姓の倅は私1人だけだった。しかも野球部のキャプテン。余りの疲労を早く回復させようと砂糖を無制限に飲み込んだら心臓脚気になって気を失った。砂糖を消化するためのビタミンB1欠乏症だったのだ。

後に政治記者となって、昔農林大臣だった河野一郎を担当したら、陳情に来た父の名前を覚えていた。「キミはワタケーの息子か」。

八郎潟の漁業で暮らす人たちからは「ワタケー 馬鹿ケー」と言われたものだ。

八郎潟(はちろうがた)は、かつては琵琶湖に次いで日本第2位の広さ(220km2)を誇っていた。鮒、鯰、鰻、など沿岸住民の蛋白源の補給湖でもあった。しかし干拓により大部分の水域が陸地化された。陸地部分が大潟村となっている。

秋田県西部、男鹿半島の付け根に位置した。もともとは海と繋がった「汽水湖」であったが、八郎潟防潮水門によって締め切られており、残存湖は淡水になっている。

琵琶湖に次いで日本で2番目の広さだった八郎潟では、戦後、食糧増産を目的として干拓工事が行われた。あの頃は現在の米余り現象など想像する人は皆無だった。

工事は私が大学入学で上京したあとの1957年に着工。干拓国オランダから招かれたヤンセン教授が指導にあたった。20年の歳月と約852億円の費用を投じて約17,000haの干拓地が造成された。ヤンセンの名を突然、思い出した。父の口から、しょっちゅう出たので60年経ったのに記憶していた。田圃入りを拒否した兄は知るまい。

1967年から入植を開始。全体の事業は1977年に竣工した。

それとは別に父ら沿岸農家は沿岸に広がっていた葦谷地を入手、開墾によって水田を造成、そこそこの増反を果たしたのだった。妹婿に悪意はなかったろうが、この田圃も担保に取られて無い。

干拓工事によってできあがった土地に全国から公募された入植者が入植し、1964年10月1日に秋田県で69番目の自治体として、大潟村(おおがたむら)が発足した。

最終的には、米の増産を目指していたが、殆ど直後から始まった減反政策によって、干拓そのものを「失敗した計画」とする人たちもいる。特に環境の方面では、葦谷地という湿地(魚の産卵地と汚水の浄化)喪失を嘆く向きもある。「環境」重視の昨今なら八郎潟は生き残ったろ。

「他所者」の村との合併を望む周辺町村はなく大潟村は「村」のままである。

かつては汽水湖としてシジミが多く採れていたが、近年は干拓のために淡水化され、その収量は撃減している。夏はシジミを採取するために水潜りで水泳を自然に覚えたものだ。懐かしいなぁ。

冬期間は今も凍った湖面上でワカサギ釣りがよく行われているが、ブラックバスなどの外来魚の流入で在来種の減少が確認され、その対策が行われている。

反面、ブラックバス等の増加で近年は県外の釣り愛好家から注目され、夏になると観光客が多数訪れている。
]
八郎潟の名称は、人から龍へと姿を変えられた八郎という名の龍が、放浪の末に棲家として選んだという伝説に由来するとも言われる。ただし伝説においても、今や八郎はこの湖には滅多に戻らないとされている。

父の遣ったことだから文句はいえないが、嘗ての八郎潟を失い、生まれた家を失い、私は二重に故郷喪失感を深くしている。「帰省」は無くなった。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2012年02月15日

◆放るもんはホルモン

渡部 亮次郎


首都ソウルの繁華街、明洞(ミョンドン)には焼肉店の看板がひしめき合い、24時間営業の店も登場している。1人当たり3万〜4万ウォン(約3〜4千円)も出せば十分にお腹が満たされる。

最近では、競争の激化により肉質をアピールするために韓牛と掲げる店が増えている。

最近の韓国ではアメリカからの牛肉輸入許可に反対して、就任したばかりの大統領の辞任要求まで掲げられているが、韓国の「食」のイメージとして一般的な“キムチ”のほか“カルビ”などの焼肉料理に代表される牛肉が韓国の食生活に広く浸透し始めたのは、ここ20年程のことといわれている。

私は1973年6月に韓国を初めて訪れた際、朴政権の閣僚から「明日は大和(やまと)焼きをご馳走します」といわれ、てっきり和食を期待して行って見たら大阪で予て盛んだった「焼肉」を裁ち鋏で切り分ける店だったのでちょっと驚いたものだ。

なぜ韓国焼肉料理を「大和焼き」というのか。日本人が遺して行ったレシピだったからである。軍事クーデタにも加担したこの閣僚の説明によれば、併合時代の日本人は現地人に牛肉と砂糖を食べさせなかった。牛肉を砂糖醤油にまぶした牛肉の「焼肉」を現地人が食べたのは1945年の「解放」後である、と。

韓国人が「解放後」まず群がったのは砂糖だった。だから韓国の砂糖消費量は人口当たりで世界のトップに躍り出たそうだ。併合時代の日本人の悪業を聞かされたようで厭だった。

日本での焼肉は戦後、大阪で始まった。やがて韓国人たちが「放るもん)=棄てる物」の牛の内臓を「ホルモン」と名づけて「精力」のつくものとして売り出し、遂に語源が分からないぐらい、全国的に普及させた。大阪勤務3年、猪飼野で「通」になった。

ところで、韓国ではその後、牛肉需要は、1988年のソウルオリンピック開催に伴う国内経済の発展が、大きな影響を与えた。

1980年代当時の1人当たりの年間牛肉消費量を見ると、わずか2.6kgであったものが、90年には4.1kgに増加し、2000年には8.5kgとこの20年間で3倍以上の伸びを見せている。

2001年1月には、韓国の牛肉市場が自由化されたことで、米国などからの牛肉の輸入量増加が見込まれており、消費量はさらに拡大して行くものと見込まれている。

しかし、一方では、輸入牛肉に対抗して国内各地で「高級肉」としての韓牛(韓国原産の肉牛)の積極的な品種改良や育成が進められている。

韓国で韓牛肥育が本格的に開始されたのは、1970年代に入ってからだ。その後、経済の急激な成長を背景に、国内各地では積極的な生産基盤の整備が進められている。

最近では、京畿道(キョンキドウ)、江原道(カンウォンドウ)など北部地域を中心に、輸入牛肉に負けないための韓牛のブランド化も始まった。日本の「和牛」の遺伝子を用いた品種改良が盛んだ。将来は「そんな事実は無い」と否定するだろう。

ソウルから南へ約60km、京畿道安城(アンソン)市で200戸の韓牛肥育農家を束ねる「韓牛会」会長の禹(ウー)さん。自らも 350頭の韓牛を肥育し、「韓牛会」としては年間2,000頭を出荷する。

平均出荷体重は約650〜700kg、大手百貨店との契約により販路は安定している。最近の韓牛価格の上昇で、農家の生産意欲も高まっており、100頭以上を肥育する大規模経営が増えてきた。韓牛に対する消費者の信頼感を維持することが大切と訴えている。

韓国では、現在、国内に114ヵ所のと畜場が設置されているが、枝肉市場を併設しているものは、わずか14ヵ所となっている。このうち6ヵ所が農協により運営され、残り8ヵ所は民間での運営となっている。

参考:韓国政府発表資料 

2012年02月14日

◆岡晴夫 糖尿病の犠牲者

渡部 亮次郎


昭和を明るい歌声で駆け抜けた岡晴夫。戦前14年「国境の春」でレコード・デビューしたが、全盛期は戦後。「憧れのハワイ航路」が最も有名である。地方巡業に忙しくて紅白歌合戦に1度も出場できなかった。

そんな岡も糖尿病を放置した為に54と言う若さで悲劇的に世を去ったのである。今のようにインスリンを患者自身が注射できていればあと30年は存命しただろう。

本名 は佐々木辰夫  1916年1月12日 神奈川県横浜市で生まれ、 千葉県木更津市で育った。

幼い頃に両親を亡くし、祖父の手で育てられる。小学校時代は唱歌の授業が嫌いで成績はいつも「丙」だったという。

6年生の時に音楽の先生から勧められて歌を歌うことに興味を持った。16歳の時に上京し、万年筆屋の店員をしながら坂田音楽塾に通う。その1年後には上野松坂屋に勤める。

昭和9年に作曲家志望の上原げんとと出会う。上原げんとは青森県西津軽郡木造町(現つがる市)出身。本名上原治左衛門。1936(昭和11)年から、演歌師などをsi,作曲を独学で勉強しながらながら全国放浪をする。

1938(昭和14)年2月、歌手の岡晴夫と組み、「国境の春」でキングレコードからデビュー。その後も、岡晴夫の黄金期を支える作曲家として数々の曲を作曲する。

岡は上原とともに浅草や上野界隈の酒場などで流しをしながら音楽の勉強をする。この時、当時、人気絶頂だった東海林太郎から激励されて力を得た。

昭和13年にキングレコードのオーディションを受け上原とともに専属となる。 昭和14年2月「国境の春」でデビュー。「上海の花売娘」「港シャンソン」などのヒットを飛ばし一躍スターとなる。

昭15年に奥田清子と結婚。3人の子供にも恵まれる。昭和19年にインドネシア領アンボン島に配属されるが現地の風土病にかかり余儀なく帰国。

それからが岡の全盛期であった。底抜けに明るい歌声が、平和の到来と開放感に充ちた時代にはまったのである。

「東京の花売娘」「啼くな小鳩よ」「憧れのハワイ航路」などの大ヒットをとばす。

「東京の花売娘」ではブギウギのリズムに乗せ、ジャズ・米兵と焼け跡の首都の風俗を叙情的な歌詞で表され、「憧れのハワイ航路」では、戦争の火蓋が切られたハワイを、何の衒いも無く理想郷に置き換えた。

作詞:石本美由起石本自身は、作詞当時までハワイ航路(横浜〜ホノルル〜サンフランシスコ。戦前は日本郵船の花形航路)には乗船の機会が無かった。

その為作詞のイメージは、瀬戸内海を航行する大阪商船の別府航路と、東海汽船の伊豆七島航路をイメージして作詞した(客船が行く:朝日新聞社刊より)

作曲:江口夜詩。岡の没後は、岡を敬愛する若原一郎が番組で披露した他、坂上二郎が歌い継いでいた。近年では氷川きよしもカバーしている。いずれも終戦直後という時代が生んだ楽曲である。

当時連載が始まった「サザエさん」に、フグ田サザエが「啼くな小鳩よ」を歌う場面があり、当時の岡の人気の程がうかがわれる。 リーゼントのヘアスタイルでも人気をあつめた岡は、歌手の傍ら、ポマードの販売を行うなどの話題を集めた。

課長の月収が200円の時代、ワンステージ1万円でも引く手あまただった。地方巡業を優先したため、紅白歌合戦には生涯一度も出場することはなかった。

昭和29年頃からはヒット曲に恵まれ無い中、突然、糖尿病を発症、白内障を併発。それを救ったのが妻の支えと親友上原げんとの「逢いたかったぜ」のカムバックだった。インスリンの自己注射もまだ許可されておらず、治療は不十分だったと想像される。

ところがカムバック後再び病床に伏す。加えて上原げんとの死という不幸にも見舞われた。上原は岡の2歳年上だったが殆ど兄弟のように暮らした。

その上原は1965(昭和40年8月13日、避暑地に向かう車中で心筋梗塞を起こして急死。僅か50歳。上原の葬儀に出席した岡はほとんど失明状態で一人で歩けなかった。おそらく眼底出血を起こしていたのだろう。まだ48歳なのに。

それでも岡は舞台に立ちたい執念で昭和43年2度目のカムバックを果たす。東京12チャンネル(現:テレビ東京)で放送された歌謡番組『なつかしの歌声』に頻繁に出演して往年の大ヒット曲を披露した。

さすがに、長年の闘病生活が原因で身体は痩せ往年の美声も失われるなど悲壮な姿であったが、ファンの声援を受け、彼自身もそれを支えに最晩年まで歌い続けた。

昭和45年4月、大阪府守口市で読売テレビ公開歌番組『帰ってきた歌謡曲』収録中倒れ、同年5月19日に逝去。(満54歳没)

この年夏に大阪万国博覧会でのNHK『第2回思い出のメロディ』に出演して十八番の「啼くな小鳩よ」を歌う予定で、死の直前まで万博の舞台に立つことを言い続けていた。本番ではかしまし娘と坂本九とが「啼くな小鳩よ」を歌って偲んだ。

法名「天晴院法唱日詠居士」。遺骨は江東区本立院墓所に葬られた。現在千葉県市川市の葛飾八幡宮には岡晴夫顕彰碑が建立されている。
                          2012・2・11

2012年02月12日

◆「の」で初入閣した園田直

渡部 亮次郎


建国記念「の」日を迎えるたびに園田衆院副議長時代を思い出す。

佐藤栄作内閣は発足間もない1995(昭和40)年12月12日未明、日韓条約案件を衆議院本会議で強行採決で批准した。当時私はNHK政治部の一員で衆院本会議番の記者だった。

時の自民党幹事長は田中角栄で、記者たちから採決をいつ断行するのか連日責められ、その都度「きょう」といい続けた。NHKとしては歴史的な事件として残るであろう採決の瞬間をTVで実況中継する計画。

そのためにはTVの中継スタッフを何十人も国会に待機させ3食を補給しなければならない。担当は報道局庶務部。担当者は食事の手配のうえからも「何時」への関心が高い。

だが幹事長は毎日「きょう」と言いながら採決を引き延ばすものだから、庶務に突き上げられたNHKの幹事長番はとうとうノイローゼになる始末。

採決の瞬間は突然やってきた。船田中議長が暮も近い12日、未明、「この際あらゆる手続きを省略し、案件を採決いたします。賛成の諸君の起立を求めます」とやったから議場は総立ち。「起立多数。よって本案は可決されました」となった。

与党、野党の若い議員が議長席に詰め寄った。楢橋代議士の上着がセンターベンツのところで真っ二つにさかれていたのをおもいだす。しかし船田議長はさっさと議長席を下り、後ろのドアから退出、そのまま青山の産科病院(親戚)に入院してしまった。

日韓条約は、参院本会議でも強行採決で可決、成立した。衆議院の船田、田中伊三次の正副議長は混乱の責任を取るとして辞任。

後任に議長は山口喜久一郎、副議長園田直がさ党総裁の推薦により本会議で選出された。奇妙なことに、二人とも佐藤のライバル河野一郎派閥所属だった。私は河野はを担当しながら、正副議長を引き続き担当することになった。

園田氏は当選9回ながら未入閣の代議士だった。50を過ぎていた。このポストでなにか功績を上げ、入閣を狙うのじゃないか。試みに毎日のように副議長室へ通った。他の記者は議長室で山口議長若い頃の自慢話を聞いているようだった。

毎日通っているうちに、奇妙なことに気づいた。副議長室の本棚がどけられ、直接、議長応接室へ出入りできるようになっている。

「これは何かある。園田は何かをやらかそうとしている」。私は気づかぬふりをして去った。

遠くから見張っていると議長室に入った社会党の石橋政嗣国対委員長が、暫くして副議長室からでてきたではないか。つまり議長室と副議長室を結ぶ議長応接室で何か密議がおこなわれているのじゃないか。

佐藤内閣が解決すべき日韓条約の次の案件は何か。そうだ、紀元節復活法案の成立だ。園田はこれを解決して初入閣を果たそうとしているのだ。

ある日、園田さんに正直にこれをぶつけてみた。園田氏は驚く様子も見せず「あゝたはワシの腹の中をいつみたとですか」と肯定した。しめた。正月に伊勢神宮参拝に同行したとき「菅原通済に勲1等をやれる方法は無いものか」と呟いたでしょう。あれがヒントですともいった。

つまり社会党と自民党の間で妥協点を見出す。その過程で菅原氏を使う、と言う方法。自民党からは田中幹事長の一任を取り付け、社会党へは国対族として通じ合う石橋国対委員長と渡り合って妥協点を見出す、と言う案では無いですか、と追い討ちをかけた。

これで園田氏は「降参」し、以後すべてを教えてくれるようになった。しかし書かなかった。大きな特ダネにするためには、コトが仕上がるまで極秘にすべきだと考えた。キャップにもデスクにも報告しなかった。

やがて園田・石橋間で、法案の名称を建国記念「の」法案とする。法案を「建国記念日法案」としたのでは社会党内で「紀元節復活法案」として反発が強いが建国記念「の」だとやわらぐというのだ。

日取りは「2月11日とせず審議会で決める、審議会の会長は菅原氏とする」の線でまとまった。昭和41年6月3日、話は「山口衆院議長の斡旋案」として公表された。

やがて建国記念「の」日は佐藤内閣の意図のとおり「2月11日」に決まり、園田氏は副議長として3代の議長に仕えた後、佐藤改造内閣の厚生大臣として初入閣した。「の」が決め手だった。
                    2012・2・10

2012年02月10日

◆梗塞予防のために

渡部 亮次郎


脳梗塞や心筋梗塞は血栓(血の塊)が動脈に詰まって、血液が必要な場所に行けなくなることから起きる。しかし、現在の医学はかなり進歩して、新薬もできている。

それなのに街や公園では卒中による半身不随患者を沢山見かける。

先日電車で見かけた20歳代の男性は「若いオレが脳梗塞になるとは思えないから病院に掛かるのが遅れちゃった」と残念がっていた。

脳卒中は、昭和26(1951)年から昭和55年までの30年間、日本の死亡原因の1位を占めていた。現在でも富山県では死因の第2位であり、全国的にも昭和40年代後半から死亡率は減少しているが、その内訳をみると、この40年間で脳卒中の主流は脳内出血から脳梗塞へと変化してきている。

死亡率が減少している反面、患者数はむしろ増加していることから、今後、発症予防や発症した後のリハビリテーションの推進がますます重要になる。


脳卒中の種類(この場合の「脳卒中」は、国際疾病傷害死因分類における「脳血管疾患」にあたる。)

脳内出血

脳の血管が破れて出血をおこすもので、多くの場合深い昏睡とともに半身のマヒが起こる。誘因として疲労、精神不安、寒冷刺激などが多く、また活動中にも起こることが多い。鳩山一郎、石橋湛山氏ら。

くも膜下出血

脳は、くも膜という膜でおおわれてるが、くも膜と脳の表面との間にある小さな動脈にこぶ(動脈瘤)があると、血圧があがった時などに破れて出血(脳動脈瘤破裂)し、くも膜下出血になる。

頭痛がひどく悪心、嘔吐があり意識が混濁するが、四肢のマヒは通常おこらない 。

脳梗塞

動脈硬化などのために動脈が狭くなったり、あるいは動脈や心臓内に出来た血の固まりが脳の動脈に流れ込み、詰まってしまうために起こるもの。長嶋茂雄氏など。

その血管によって栄養を受けている部分の脳組織に、血液がいかなくなり破壊されて、脳の軟化を起す。田中角栄氏など

突然、発症するもの、段階的に増悪するものなど、病型により様々だが、多くの場合、前駆症状としてめまい、頭痛、舌のもつれ、手足のしびれ、半身マヒや昏睡などになる。

一過性虚血

脳の血液循環が一時的に悪くなり、めまい、失神、発作などをひき起こします。少し横になっていれば治りますが、脳梗塞の前駆症状とも考えられており、高齢者では十分な注意が必要。数年前に私が体験した。

これはすぐ回復するので油断するが、放置してはいけない。このとき徹底的に治療しないと。間もなく本物の脳梗塞を起こすと、学会が警告している。私は2週間、入院、加療した。

高血圧性脳症

高血圧がかなりひどくなると、脳の内部にむくみが起こる。このため、頭痛、嘔吐、手足のけいれんなどが見られ、目が見えなくなることもあ
る。

これらに共通するものは、コレステロールに拠る動脈硬化。理屈からすれば、血管内にこびりついたコレステをそぎ落とせばいいようなものだが、今のところ医学界にそういう薬は存在しない。

いまのところ世界が束になって取り組んでいるのが、血液をさらさらにして詰まりにくくする方法であり、そのための薬が「ワーファリン」である。昨年になって新薬(ダビガトラン)が許可になったが処方は1年間は2週間が限度なので、私はまだ使用していない。今年4月から処方期間が延びるのに期待しいている。

ワーファリンは納豆、コロレラなどビタミンKを多量に含むものによって効果が減殺されるから、納豆の好きな人は堪える。小生は東北生まれなのに納豆好きでは無いので助かっている。

果たしてワーファリンが効いているか否か。毎月1回、採血して調べる。それでも卒中になったらどうするか。私の場合はワーファリンを服用中のため使用禁止だが、そうでない患者が発症3時間以内に担ぎこまれたら助かる薬がある。「tPA」だ。

血管を塞いだ血栓を溶かす薬だ。長嶋さんは、発見された時、すでに3時間を過ぎていたからtPAを注射できなかった。右手と言葉に後遺症が残ってしまった。

とにかく脳卒中の症状が出たらどこの病院に担ぎこんでもらうかを予め決めておけば、死ぬことは勿論、後遺症すら残らない時代に既になっている。私の場合は石岡荘十さんの助言に従って決めた。近くの都立墨東病院に決めてもいいらしいが。

2012年02月08日

◆流行歌手の晩年(続き)

渡部 亮次郎


新橋喜代三(1903-1963)

西之表島出身。大正5年、芸者に出る。15年に鹿児島で小原節の歌い手として名をあげ、昭和6年にレコードデビュー。9年に日本橋三越の鹿児島名産展での「鹿児島小原節」でヒット。10年には「明治一代女」で大ヒットを飛ばす。

12年に中山晋平と結婚、引退。ステージの前には立てひざで樽酒を飲む事で知られ、中山晋平のプロポーズも樽酒を家に贈るというものだった。中山晋平の死後は、一時期、歌手として復帰したが、熱海で暮らしながら中山晋平音楽祭などに関与した。

杉狂児(1903-1975)

福岡出身。昭和11年に美ち奴とのデュエット「うちの女房にゃ髭がある」が大ヒット。映画出演は36年の「東京ドドンパ娘」が最後になったが、テレビなどで活躍。50年9/1午前3時、世田谷中央病院で心筋梗塞で死去。葬儀は世田谷区の妙寿寺で行われた。本名は杉禎輔。

鈴木三重子(1931-1987)

福島出身。31年に「愛ちゃんはお嫁に」が大ヒット。33年には藤山愛一郎や山野愛子らと「愛ちゃん会」を結成した。62年3/12午後0時30分、肝硬変で都立府中病院で死去。本名は菊池ミヘ子。

瀬川伸(1916-2004)

函館出身。昭和14年デビュー。26年「上州鴉」がヒット。その後も40年頃まで歌手を続ける。娘の瀬川瑛子も歌手。平成16年3/14午後2時3分、心不全で死去。

関種子(1907-1990)

東京生まれ。東京音楽学校を卒業後、「日本橋から」「窓に凭れて」、10年には「雨に咲く花」などのヒットを矢継ぎ早に連発し、草創期のコロムビアを支えた。

戦後は藤原歌劇団に所属し、長門美保、佐藤美子とコンセールFを結成するなどした。平成2年6/6午前9時5分、急性腎不全で熊谷の聖ヨゼフクリニックで死去。葬儀は早稲田の亮朝院で行われた。うたごえ運動で知られる関鑑子は実姉である。女優の関弘子は娘。
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高田浩吉(1911-1998)

尼崎出身。昭和10年に「大江戸出世小唄」で歌手デビュー。同名の映画の中でこの歌を歌った事から「歌う映画スター」第1号として評判になる。同26年に松竹京都に復帰。鶴田浩二は地方巡業の際に浜松で拾った弟子にあたり「浩二」の「浩」は「浩吉」の「浩」にちなんだもの。

京都に住み、夜の10時以降は取材禁止と、公私の別をはっきりとさせた人であった。元々、歌手は副業だったためか、晩年は美声の衰えを隠せなかった。平成2年10年5/19午前8時32分、肺炎のために京都府北区の病院で死去。本名は梶浦武一。娘の高田美和も女優である。

高峰三枝子(1918-1990)

東京の高輪出身。筑前琵琶の宗家であった高峰筑風の娘。東洋英和女学校卒業後、父の急死もあり、昭和11年に松竹大船の女優になる。15年の榛名湖を舞台にした「湖畔の宿」は後に、センチメンタルな曲調や歌詞が時局に不適合とプレス中止となる。しかし曲中の台詞が、死地へ赴く兵士の心情とあいまって、特攻隊、前線兵士の間では歌われ続けた。

さらにビルマのバーモ長官が高峰のファンで、来日時に東条首相など政府首脳の前で高峰が「湖畔の宿」を歌うといった事もあった。21年には松竹を退社、英文雑誌社長と結婚して「百万円の結婚式」と話題になったが29年に離婚。

昭和天皇の園遊会の席上、感極まって泣いてしまった話は有名。岐阜県明智町の日本大正村の初代村長もしていた。平成2年3月にはインド旅行に行くなどしていたが、4/18に倒れ、5/24には容態が急変、5/27午後5時30分、世田谷区の日産厚生会玉川病院で死去。

上原謙は高峰に取りすがって泣いたという。本名は鈴木三枝子。住まいは大田区田園調布3丁目だった。

竹山逸郎(1918-1984)

浜松出身。昭和19年に慶応大法科卒業後、18年に歌手デビュー。22年、「酒は涙か溜息か」の戦後版を目論んだ「泪の乾杯」が、A面の平野愛子「港が見える丘」ともどもヒット。

23年の「異国の丘」は、当初、作曲者不詳のまま、NHKラジオの「のど自慢」で8/1に復員兵の中村耕造が歌い、かつてない勢いで鐘が乱打された。その後の調べで作曲者は吉田正と判明。

晩年は学習塾を経営。酒豪で1升酒も平気であった。59年4/4午後4時半、肝機能障害で中野区の国立療養所中野病院で死去。本名は竹山逸平。葬儀は練馬区のセブンズデー・アドベンチスト関町教会で行われた。

田谷力三(1899-1988)

神田生まれで旧士族の家系の根っからの江戸っ子。19歳からは浅草オペラのトップスターとして本領を発揮。観音劇場、金竜館などで、関東大震災で浅草オペラが消滅するまで活躍した。

バラックに暮らしながら、青山墓地で発声練習をし、23年5月にNHKラジオ「陽気な喫茶店」でカムバック。61年には不忍池にゴンドラを浮かべてカンツォーネを披露。

62年には上野精養軒で米寿記念コンサートを開くが、声量は全く衰えなかった。「老いらくの恋」と騒がれ83歳で再婚した愛妻を亡くし、自身も心臓発作に倒れるが回復、63年3/13、豊島区の教会で親類の結婚式に「恋はやさし」を歌ったのが最後となった。

3/14に倒れ、3/30午後0時10分、心筋梗塞と心不全で千代田区の日本歯科大病院で死去。89歳だった。化粧をせずに舞台に出るのは失礼という考えから、最後まで素顔でステージに立つ事はなかったという。

津村謙(1923-1961)

富山出身。魚津中卒業後、上京し、作曲家の江口夜詩の門下となる。「ビロードの歌声」と呼ばれて23年の「流れの旅路」がヒット。26年には「上海帰りのリル」が爆発的なヒットとなった。36年11/28朝7時半、杉並区神明町の自宅車庫の車内で、意識を失っているところを母(62)に発見され、医者が呼ばれたが間もなく死亡した。

午前1時頃過ぎに練馬区向山町の作曲家、麻雀をしていた吉田矢健次の家から車で帰宅、朝早い時間で妻や母を起こす訳にもいかずにエンジンヒーターをかけたまま寝込み排気ガスが車内に充満、一酸化炭素中毒になったらしい。車庫のシャッターを下ろしていて、飲酒の形跡もなかった。本名は松原正。小平霊園に眠る。

鶴田浩二(1924-1987)

浜松出身。巷間伝えられているような飛行機乗りではなく、見送る立場の飛行整備士であったというのは複数の海軍関係者の見解。28年には大阪で暴漢に襲われる。

同年には東宝と契約。歌手としても、27年にポリドールから「男の夜曲」でデビューし「街のサンドイッチマン」、30年に「赤と黒のブルース」などがヒット。

35年に東映と契約し、38年の「人生劇場・飛車角」が東映任侠映画の最初となった。45年には「傷だらけの人生」がヒットし、この頃から戦没者遺骨収集のチャリティーコンサートを行う。晩年は特攻隊に絡んだ右寄りのスタンスの発言で知られた。

春日八郎との不和はあまり知られていない。耳が悪く左手を耳にあてて歌うポーズは有名。映画は60年の「最後の博徒」が最後の出演、咳がひどくなり、61年肺ガンで2ヶ月半入院し、62年5月に再入院、月末には1週間自宅に戻ったものの、6/16午前10時53分、慶応病院の5階で死去。本名は小野栄一。葬儀では海軍の知人らに「同期の桜」の合唱で送
られた。

ディック・ミネ(1908-1991)

徳島出身。父は土佐高校創立者。古賀政男の推薦もあって昭和9年に歌手デビュー。芸名はスキー場で悪友に付けられたもので、ディックは男性器を意味する。同年「ダイナ」がヒット。「二人は若い」「人生の並木路」「旅姿三人男」「上海ブルース」などのヒットを飛ばす。

晩年には学生時代に相撲部で骨折した後遺症から車椅子生活となったが、歌手生活は続けた。平成3年4月に前立腺肥大で入院、6/10午前4時7分、急性心不全で埼玉県飯能市の病院で死去。享年83。本名は三根徳一。

徳山?(たまき)(1903-1942)

神奈川の藤沢出身。東京音楽学校卒業後、武蔵野音楽学校の講師となるが、佐藤千夜子のピアノ伴奏をした縁から昭和6年に流行歌手に転向し、「侍ニッポン」でスター歌手の仲間入りを果たした。

「侍ニッポン」では「新納(にいろ)鶴千代」を「新納(しんのう)鶴千代」と誤って歌ったまま、それがレコード発売された経緯がある。四家文子と歌った「天国に結ぶ恋」がヒット。9年には藤山一郎、小唄勝太郎、渡辺はま子と共に皇族懇話会で美声を披露、それまで地位の低かった流行歌の扱いが、この御前演奏で変わったともされる

戦中はノモンハンの陸軍飛行隊をテーマにした「空の勇士」や15年の「隣組」などの戦時歌謡で一世を風靡した感がある。他にも14年には「大陸行進曲」「太平洋行進曲」、16年には「戦陣訓の歌」なども吹き込んだ。17年1/28午後5時に慶応病院で敗血症で死去。神奈川県藤沢市の常光寺に眠る。

轟夕起子(1917-1967)

東京出身。「お使いは自転車に乗って」がヒット。42年5/11午後5時15分、慈恵医大第3病院で、閉塞性黄疸のため死去。本名は西山都留子。

トニー谷(1917-1987)

銀座生まれ。昭和26年に中国から復員し、アニー・パイル劇場で進行係をしたのを皮切りに日劇ミュージックホールで司会をつとめ、キザなメガネにチョビヒゲ、そろばん片手の異色なポーズと毒舌で一世を風靡。「さいざんすマンボ」などを吹き込む。

引退後はハワイで生活。61年12月、渋谷ジアンジアンでの「トニー谷ショー」が最後の舞台。62年7/16午前0時14分、港区の慈恵医大病院で死去。享年70。

http://www.geocities.jp/showahistory/

2012年02月07日

◆糖尿病で落命北原白秋

渡部 亮次郎


北原白秋もまた糖尿病で命をとられた有名人である。

1937(昭和12)年、糖尿病および腎臓病の合併症のために眼底出血を引き起こし、入院。視力はほとんど失われたが、さらに歌作に没頭する。

糖尿病治療薬「インスリン」は外国では大正11(1922)年から精製、市販されていたが、果たして輸入されていたのかどうか。1941(昭和16)年春、数十年ぶりに柳川に帰郷し、南関で叔父のお墓参りをし、さらに宮崎、奈良を巡遊。

この年、芸術院会員に就任す。年末にかけて病状が悪化。1942(昭和17)年、小康を得て病床に執筆や編集を続けるも、11月2日逝去。享年 57。墓所は多磨霊園(東京都府中市)にある。

北原 白秋(きたはら はくしゅう)。1885(明治18)年1月25日―1942(昭和17)年11月2日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人。

本名は北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。詩、童謡、短歌以外にも、新民謡(「松島音頭」・「ちゃっきり節」等)の分野にも傑作を残している。

生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表するなど、活躍した時代は「白露時代」と呼ばれる近代の日本を代表する詩人である。

熊本の南関に生まれ、まもなく福岡の柳川にある家に帰る。父・長太郎、母・シケ。北原家は江戸時代以来栄えた商家(油屋また古問屋と号し、海産物問屋であった)で、当時は主に酒造を業としていた。

1901(明治34)年、大火によって北原家の酒倉が全焼し、以降家産が傾き始める。白秋自身は依然文学に熱中し、同人雑誌に詩文を掲載。この年、初めて「白秋」の号を用いる。

1904(明治37)年、長詩『林下の黙想』が河井醉茗の称揚するところとなり、『文庫』4月号に掲載。感激した白秋は父に無断で中学を退学し、早稲田大学英文科予科に入学。

上京後、同郷の好によって若山牧水と親しく交わるようになる。この頃、号を「射水(しゃすい)」と称し、同じく友人の中林蘇水・牧水と共に「早稲田の三水」と呼ばれた。

1905(明治38)年には『全都覚醒賦』が「早稲田学報」懸賞一等に入選し、いち早く新進詩人として注目されるようになる。

1906(明治39)年、新詩社に参加。与謝野鉄幹、与謝野晶子、木下杢太郎、石川啄木らと知り合う。

森鴎外によって観潮楼歌会に招かれ、斎藤茂吉らアララギ派歌人とも面識を得るようになった。1908(明治41)年、『謀叛』を発表し、世評高くなる。

またこの年、木下杢太郎を介して、石井柏亭らのパンの会に参加。この会には吉井勇、高村光太郎らも加わり、象徴主義、耽美主義的詩風を志向する文学運動の拠点になった。

1909(明治42)年、『スバル』創刊に参加。木下らと詩誌『屋上庭園』創刊。また処女詩集『邪宗門』上梓。官能的、唯美的な象徴詩作品が話題となるも、年末には実家が破産し、一時帰郷を余儀なくされた。

1912(明治45年 / 大正元)年、母と弟妹を東京に呼び寄せ、年末には一人故郷に残っていた父も上京する。

白秋は隣家にいた松下俊子と恋に落ちた。、俊子は夫と別居中の人妻だった。2人は夫から姦通罪により告訴され、未決監に拘置された。

2週間後、弟らの尽力により釈放され、後に和解が成立して告訴は取り下げられた。人気詩人白秋の名声はスキャンダルによって地に堕ちた。

この事件は以降の白秋の詩風にも影響を与えたとされる。1913(大正2)年、春、俊子と結婚。三崎に転居するも、父と弟が事業に失敗。白秋夫婦を残して一家は東京に引き揚げる。『城ヶ島の雨』はこの頃の作品であるという。

1914(大正3)年、肺結核に罹患した俊子のために小笠原父島に移住するも、ほどなく帰京。父母と俊子との折り合いが悪く、ついに離婚に至る。

1916(大正5)年、江口章子と結婚し、葛飾紫烟草舎に転居。筆勢いよいよ盛んにして『白秋小品』を刊行する。1917(大正6)年、阿蘭陀書房を手放し、再び弟・鉄雄と出版社アルスを創立。この前後、家計はきわめて困窮し、妻の章子は胸を病んだ。

1918年(大正7年)、小田原に転居。鈴木三重吉の慫慂により『赤い鳥』の童謡、児童詩欄を担当。優れた童謡作品を次々と発表し、作品に新生面を拓くのみならず、以降の口語的、歌謡的な詩風に強い影響を与えることになる。

1919(大正8)年、処女小説『葛飾文章』『金魚』発表。生活ようやく落ち着き、歌謡集『白秋小唄集』、童謡集『とんぼの眼玉』刊行。

1920(大正9)年、『雀の生活』刊行。また『白秋詩集』刊行開始。小田原の住居の隣に山荘「木兎の家」を新築した際の祝宴は、小田原の芸者総出という派手なものであった。

それに白秋の生活を金銭的に支えて来た弟らが反発し、章子を非難する。着物ほとんどを質入れしたと言う章子は非難されるいわれもなく反発。章子はその晩行方をくらまし、白秋が不貞を疑い章子と離婚。

1921(大正10)年、佐藤菊子(国柱会会員、田中智學のもとで仕事)と結婚。信州滞在中想を得て、『落葉松』を発表する。歌集『雀の卵』、翻訳『まざあ・ぐうす』などを刊行。

1922(大正11)年、長男・隆太郎誕生。文化学院で講師となる。また山田耕筰と共に『詩と音楽』を創刊。山田とのコンビで数々の童謡の傑作を世に送り出す。

歌謡集『日本の笛』などを刊行。1923(大正12)、年三崎、信州、千葉、塩原温泉を歴訪。詩集『水墨集』を刊行するも、関東大震災により山荘も半壊する。

1924(大正13)年1月5日、田中智學の招きで両親、妻菊子、長男隆太郎らとともに静岡県三保の田中智學の最勝閣へ旅行、龍華寺、羽衣の松などを観光、長歌1首、短歌173首を作る。

同年短歌雑誌『日光』を創刊。反アララギ派の歌人が大同団結し、象徴主義的歌風を目指す。1925年(大正14年)、長女・篁子(ドイツ語学者・岩崎英二郎夫人)誕生。樺太、北海道に遊ぶ。

童謡集『子供の村』など刊行。1926(大正15年 / 昭和元)年、東京谷中に転居。詩誌『近代風景』創刊。童謡集『からたちの花』『象の子』などを刊行。

1927年(昭和2年)、出版内容の競合からアルス社と興文社に悶着が起こり、興文社側の菊池寛と対立。詩論集『芸術の円光』刊行。1928年(昭和3年)、世田谷区に転居。

大阪朝日新聞(現・朝日新聞)の企画により、福岡県大刀洗町から大阪まで飛行機に搭乗する。1929(昭和4)年、『海豹と雲』など刊行。また『白秋全集』の刊行開始。1930(昭和5)年、南満洲鉄道の招聘により満洲旅行。帰途奈良に立寄り、しきりに家族旅行に出かける。

1932(昭和7)年、吉田一穂、大木惇夫と詩誌『新詩論』創刊。1933(昭和8)年、行き違いから鈴木三重吉と絶交。以降『赤い鳥』に筆を執ることはなくなる。

また同年の皇太子誕生の際には、奉祝歌『皇太子さまお生まれなつた』(作曲:中山晋平)を寄せる。1934(昭和9)年、『白秋全集』完結。歌集『白南風』刊行。総督府の招聘により台湾に遊ぶ。

1935(昭和10)年、新幽玄体を標榜して多磨短歌会を結成し、歌誌『多磨』を創刊する。大阪毎日新聞の委託により朝鮮旅行。この年、50歳を祝う催しが盛大に行われる。

1938(昭和13)年にはヒトラーユーゲントの来日に際し「万歳ヒットラー・ユーゲント」を作詞するなど、国家主義への傾倒が激しくなったのものの頃のことである。1940(昭和15)年、日本文化中央聯盟の委嘱で交声曲『海道東征』(曲:信時潔)の作詩にあたる。

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                                   2012・2・3

2012年02月04日

◆「しょっつる」も苦手?

渡部 亮次郎


「しょっつる」は標準語でいえば「塩汁」。秋田弁では「汁」が「つゆ」になり「つる」に訛る。ただし私の生まれ育った旧八郎潟沿岸では材料の海魚が獲れないから「しょっつる」は造らない。

だから、おかしな事に秋田生まれの私が「しょっつる」を初めて食べたのは40歳を過ぎてから、秋田市川反(かわばた)の料亭だった。もう塩辛も食べられるようになっていたから結構、「美味い」と思った。

「しょっつる」の「汁」だけは瓶詰めで「三越」でも売っていて、向島生まれの家人が好物のようで、冬になると「東京しょっつる鍋」を食べる。秋田では名物ハタハタを使うが、無い時は適当な魚を入れる。

「しょっつる」は秋田名物、伝統的にはハタハタで作る魚醤。現在作られている「しょっつる」はハタハタに限らず色々な魚で作られている。ハタハタ料理にも付き物。

一般的にはハタハタもしくはタラと豆腐、長ネギと一緒に鍋で煮る「しょっつる鍋」が有名。「きりたんぽ鍋」など、他の料理の味付けにも用いられ、ラーメンのスープに(特に隠し味として)使われる場合もある。

創作和食の店ではドレッシングや付けダレなどに混ぜる(いずれも隠し味として)などの工夫も見られる。

しょっつる=魚醤は魚を塩とともに漬け込み、自己消化、好気性細菌の働きで発酵させて出た液体成分が魚醤。黄褐色〜赤褐色、暗褐色の液体である。

熟成により、特有の香りまたは臭気を持つが、魚の動物性タンパク質が分解されてできたアミノ酸と魚肉に含まれる核酸を豊富に含むため、濃厚なうま味を有しており、料理に塩味を加えるとともに、うま味を加える働きが強い。また、ミネラル、ビタミンも含んでいる。

日本では、近代的な食生活において、塩分濃度が高く風味が独特な魚醤は、醤油やうま味調味料の普及により一般家庭での使用は減っているが、いくつかの地方には魚醤を用いる文化が残っており、郷土料理などに利用されている。

主なものでは、秋田で「しょっつる」(塩汁)のほか、能登で「いしる」(魚汁)、香川で「いかなご醤油」が製造され、地元を中心に使用されている。この他1990年代後半ころから伝統的製法とは異なる製法が開発され、商品が製造販売されている。

そのひとつに「ほっけ醤油」がある。北海道・寿都(すっつ)町 北海道日本海、寿都名産のほっけを塩漬けにし、じっくり自然発酵させた天然発酵・本醸造の調味料(魚醤)。

ほっけ醤油「寿都のだし風」は地元商工会・寿都水産加工業組合所属メーカーで組織する寿都魚醤醸造委員会が立ち上げ、製造販売している。ほっけ醤油を使った各種一夜干しなども販売。また、伊豆諸島でくさやを製造する際に用いられるくさや液も魚醤の一種であると考えられる。

アジア、特に東南アジアの沿岸部を中心に、日本、中国なども含め、いくつかの文化圏で用いられており、特にタイをはじめとする東南アジアでは、塩を除けば、ほぼ唯一の塩味の調味料で、非常に多くの料理に用いられる。また、これらの文化圏の中には、なれずしを作る伝統を残している地域もある。

東南アジアでは、タイのナンプラー、ベトナムのヌックマム(ニョクマムとも) が世界的に有名である。他にも、フィリピンのパティス(patis)、カンボジアのトゥック・トレイ、ラオスのナンパー(nam paa)、ミャンマーのンガンピャーイェー(ngan-pya-ye)、インドネシアのケチャップ・イカン (kecap ikan) などがある。中国の広東省やマカオの魚露(ユーロ
ウ)も地元で広く使われている。

これらの言葉はおおむね「魚の水」という意味である。福建省福州で?露(キエロウ、1文字目は魚編に奇)といい、厦門のケチャップ(鮭汁)の「鮭」と同じく塩辛を意味する語と、「露」を組み合わせている。

歴史的には、古代ローマにおいてもガルム(ラテン語: garum)と呼ばれる魚醤が使われていた。現在でもアンチョビーペーストやサーディンペーストがある地帯は、かつてはアンチョビやサーディンの魚醤油が使われていた痕跡である。

ケチャップは、トマトから作られるトマトケチャップが有名になっているが、ケチャップの語源は、福建省や台湾の「鮭汁」 (kechiap) という魚醤をさす言葉であるとする説が有力である。

もともとの製法は地域によりかなり異なっており、生の魚を塩漬けにしたり、干物にして用いるもの、特定の魚種だけを使う場合や網にかかった魚をみな使う場合、オキアミなどを原料とする場合がある。

基本的に、用いる魚の種類によって、大きな魚の場合には内臓、頭、ヒレなどを、アンチョビなど利用価値の低い小型の魚の場合には、丸ごとを用いる場合が多い。

原則として、魚を大量の塩とともに漬け込み、そのまま数ヶ月以上発酵させる。熟成が進むと、魚の形が崩れ、全体が液化してくる。その液化が進んだものを、漉して用いる。

熟成の度合いは地域によって異なり、熟成度が少なく、魚の香りの強いものから、熟成が進みチーズのような発酵した匂いが中心のものもある。魚と塩だけで熟成させるものの他に、これに野菜や香草類を加えて味を調えるものもある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・11・11