2011年06月16日

◆中村 八大 若すぎた死

渡部 亮次郎

愚兄誠一郎は2011年6月初め、目出度く傘寿(80歳)を迎えた。糖尿病持ちの上に胆嚢と胃が無い。脳内血管にも異常があり、2回開頭手術を受けた。それでも、流石に中学生時代から吸い始めた煙草を最近やめたものの、アルコールは毎晩日本酒を飲んでいる。

本人は「夢枕に立った親父が、おまえは87まで生きるといった」という。母は98までボケもなしに生きたから、頑張れと、先日、秋田市の家を訪ねていった。

一方、同じ昭和6年生まれなのに、作曲家の中村八大は、既に20年も前に、僅か61で亡くなった。糖尿病の合併症とみられる「心不全」の為だった。


中村 八大(なかむら はちだい、1931年1月20日―992年6月10日)は、青島(当時は中華民国、現在の中華人民共和国)出身の作曲家・ジャズピアニスト。

『上を向いて歩こう』、『こんにちは赤ちゃん』、『遠くへ行きたい』、『明日があるさ』など、1950年代末から1960年代にかけての数々のヒット曲を作曲した。 NHKは2011年6月6日午前3時から1時間「深夜便」で作品の数々を振り返った。

深夜便で流れたのは上記以外に「夢で逢いましょう」「おさななじみ」「故郷のように」「涙をこえて」「帰ろかな」「幸福のシッポ」「世界の国からこんにちは」「黄昏のビギン」。

兄の中村二大はクラリネット奏者。妹の夫は漫画家の寺田ヒロオ。

中国大陸で出生後、1945年に福岡県久留米市へ引き揚げ、そこで旧制中学校時代を過ごす。

旧制中学明善(現・福岡県立明善高等学校)、早稲田大学高等学院、早稲田大学文学部卒業。

学生時代からピアニストとして活動。早稲田大学高等学院在籍時には、ダンスバンド『谷口安彦とプレミア・スウィング』や人気学生コンボの『レッド・ハット・ボーイズ』などに客演するようになった。

早稲田大学に進学してからは、ジョージ川口、松本英彦、小野満と共にジャズバンド「ビッグ・フォー」を結成していた。

その活躍ぶりが、当時早稲田大学のベーシストだった渡辺晋(後の渡辺プロダクション創業者)の耳に届き、早稲田大学文学部に進学後 兄・二大を通じて渡辺晋と対面。

渡辺が結成していたコンボバンド『ファイヴ・ジョーズ&ア・ジェーン(後の『渡辺晋とシックス・ジョーズ』)に加入した。

しかしながらアーテスト志向の中村とエンターテナー志向の渡辺とでは意見を異する場面もあり結局、渡辺と袂を分かち1953年からはドラマーのジョージ川口率いるカルテット「ビッグ4」のメンバーとなり、当時の日本における大衆的ジャズブームの渦中で非常な人気を得た。

1950年代末からは作曲家としての活動に主軸を転じ、ジャズのセンスを生かした特異な作風で、それまでの日本の歌謡曲とは一線を画したユニークな歌曲を多く作った。

永六輔とのコンビで多くのヒット作を世に送り出したことから、『六・八コンビ』と呼ばれる(「上を向いて歩こう」など二人の歌をしばしば歌った歌手の坂本九を合わせて、『六・八・九』と呼ばれることもある)。

1959年の『黒い花びら』(作詞・永六輔、歌・水原弘)で、第1回日本レコード大賞を受賞。

1963年の『こんにちは赤ちゃん』(作詞・永六輔、歌・梓みちよ)で、第5回日本レコード大賞を受賞。

1966年1月、ミュージカル「宝島」の音楽担当。

1966年10月、第1回リオデジャネイロ国際音楽祭に、江利チエミの『私だけのあなた』を出品。オーケストラ編曲賞を受賞。 1970年からはNHK総合テレビ「ステージ101」の音楽監督を務めた。

1992年6月10日、心不全のため他界。享年61。晩年は持病の糖尿病に苦しみ音楽活動の一線からは退いていた。

不可欠なインスリンの注射を完全にしていたのだろうか。自己注射の許可が遅れた犠牲だったのではないだろうか。


友人は注射そのものを嫌って受診を見下回ったため、還暦を待たずに昨年脳梗塞に倒れ、ほぼ即死した。遺児は2人とも未成年である。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2011年06月14日

◆テレビ報道の世論ミスリード

渡邊 好造

新潮新書『テレビの大罪』を読んだ。著者は精神科医・和田秀樹氏で、テレビ報道による世論のミスリードを厳しく批判しておられる。

まず、まえがきにはこうある。

<表沙汰になっていない数々の偽装や情報操作によって、多くの人の命を奪っている業界があります。それがテレビです。彼らの不見識は老若男女を死に追いやり、心身の健康を害し、知性を奪い、すなわち日本という国に大きな損害を与えています。

ひとりの精神科医として、父親として、教育に携わる者として、高齢者医療に関わる者として、この深刻な状況を見過ごすわけにはいきません。、、、テレビの罪について私見・暴論もまじえつつ問題提起していきたいと思います、、、」>。

テレビが生み出す「世論のミスリード」について、和田氏が主張する具体例を拾ってみると、

<1)若い女性のウェストサイズ58センチを理想として、拒食症で毎年100人の命を奪い、不妊を増加 させている。
2)新しい事件が起ると被害者と一緒になって大騒ぎするばかりで、問題の本質がどこにあるかを追求しない。例えば、六本木ヒルズの回転ドアに6歳の子供がはさまれて亡くなった事件。ドアに問題があったことはいうまでもないが、連れていた親の監督責任には一切触れようとしない。

3)医療過誤で患者が亡くなったりすると一大キャンペーンをはって医者を殺人犯にしてしまう。結果、小児科や産婦人科のような訴えられるリスクの大きな科の医療崩壊を招いている。
4)医者、弁護士、大学教師などでテレビの 出演回数が多いほど偉い人で、いつの間にやら政界に進出している>。
などなどである。

この本を読んですぐ思い至ったのは、「菅直人内閣の不信任案」が、国会に上程され否決に至るまでの報道内容の変化である。

つい先日までは、「とにかく菅首相は頼りない、何も実行しない、無能だ、直ぐ辞めさせろ、菅以外なら誰でもいい」の”退任要求”の大合唱であった。それがいざ辞めさせるための「内閣不信任案」が提出され、審議の前日と当日のこの件のニュース報道はガラリと様子が変った。

東日本大震災による避難民の人たちに政治に焦点をあてて問う。

"今の国会騒動をどう思われますか"。避難民は口を揃えて「こんな政権争いをしている場合じゃない」、「政治家は避難民がどんな生活をしているか理解していない」、「首相が誰であろうと関心はない」、「民主党も自民党も頼りにならない」、「今内閣を変えたら軌道に乗るまでまた復興が遅れる」、、、といったものばかり。

誰も政治の動きに関心を示すことなく、内閣再編についての建設的な意見をテレビのニュース報道で取上げなくなった。テレビ報道はガラリと変り、内閣不信任案に対して否定的な意見ばかりを並べ始めた。

本当にこんな意見ばっかりだったのだろうか。疑問に思った人はいなかっただろうか。

”内閣不信任案騒動”に対する一連の否定的報道をみた鳩山一派などは、世論すべてがこんな様子では不信任案が可決されたら自分たちの身が危なくなって大変なことになる。そこに気づいて賛成から反対へと寝返ったということもあったのではないか。

テレビ局側は「いや、あの報道は公平で正確だった、避難民の意見に偏った編集はない」と主張するに違いない。

それなら問う。

これまで原発のおかげで交付金と税金で潤ってきた福島県の知事が、東京電力社長に「原発は再開しないとここで約束してください」と怒鳴っていたこと、同様に東電社長に「土下座して謝れ」と意味もない詰めより方をした人、被災地を慰問した菅首相に「もう帰るのですか」と大声を出した人、

「首相にお願いがあります」、”なんでしょうか”と問い返した菅首相に対して「すぐ首相を辞めてください」と詰め寄った失礼なオバサン、天皇皇后両陛下が膝を折って声をかけておられるのに胡坐をかいていた礼儀知らずのオッサン、、、。

こうした避難民のマイナス映像が各局で何回も流されていた。

東日本の全ての避難民は、みんなこんなに礼儀知らずの失礼な人たちばかりだったというのか。この報道内容に偏重はなかったと自信を持って言えるか。礼儀知らずの失礼な輩は避難民のうちのほんの一部の例外ではないのか。

そう考えると内閣不信任案のごたごたを批判している避難民の言い分についても、テレビ局担当者の意図的な誘導ではないか、との疑問が沸く。

テレビ報道は、ある時は少しの例外事例を大勢を占める意見のように、さも真実かのようになんの裏付けもなしに得意気に映し出す。

画像を伴うだけに新聞よりたちが悪い。証言者の顔にボカシをかけ、音声を変えてしまえばどこかの劇団研修生をそれらしく起用していても視聴者には分らない。和田先生の言われる通り、テレビ報道による世論のミスリードは数多いことに違いはない 。
(完)


2011年06月13日

◆官邸中枢からも早期退陣論

渡部 亮次郎

仙谷副長官「菅首相は早くけじめを」と言う事態になった。馬の耳に念仏というのか、馬耳東風というのか、菅首相は「他人の迷惑考えず」11日、土曜日も岩手県まで「視察」に出かけた。

一体、首相を迎えるため、地元は受け入れ態勢にどれだけ、エネルギーを割かなければならないか、考えたことがあるのだろうか。11日に関する限り、少なくとも野田釜石市長は、予定の任務をすべて返上せざるを得なかった。復興のスケジュールがそれだけ遅延したことになる。

災害現場へ首相が行って何になるというのか。何の役にも立たない。ただただ邪魔なんだよ。それをわかっていないから官房副長官という嘗ての女房役にさえ「悪態」をつかれることになるんだ。

不信任決議案の否決はすなわち「信任決議の可決だ」というが、あの採決に先立って行なった首相の演説がインチキだった事はどうせつめいするのか。鳩山前首相は「ペテン師」呼ばわりでひなんしたではないか。

日本国民は既に菅氏を首相とは認めていない。一日も早く官邸を去ってもらいたい。それでやっと「正義」が戻ってくる。

<仙谷由人官房副長官は11日午前、BS朝日の番組に出演し、菅直人首相の進退について「(赤字国債の発行を可能にする)特例公債法案を通さないと予算の金繰りがつかない。日本の政治を次のステップへと踏み込ませるためにも、けじめをつけ、身を投げ出していただくしかない」と述べ、同法案の成立と引き換えに首相は退任すべきだとの考えを示し
た。

仙谷氏は「無理に頑張ると、首相本人のためにもよくない」とも述べ、8月までの続投に意欲をにじませている首相に早期退陣を促した。

首相を支える立場の官房副長官から退陣要求が出るのは極めて異例。官邸中枢からも早期辞任論が飛び出したことで、首相の政権運営はいよいよ厳しい局面に入った。

仙谷氏は、首相退陣後の与野党協力について「国会を新たな合意形成ができる形にしなければ国民に申し訳が立たない。1年間は与野党が一緒になり、休戦状態で来年度の予算編成にあたるなどしていくしかない」と語り、自民党などとの大連立に期待感を表明した。

一方、藤井裕久首相補佐官も11日午前のTBS番組の収録で、首相が編成を指示した東日本大震災の復興経費を盛り込む平成23年度第2次補正予算案に関し「もう少し先の話で、これは今の首相じゃないのかもしれない」と述べ、次期首相の下で編成すべきだとの考えを示した。>

(産経ニュース 2011.6.11 12:18)


◆孤独の菅のたこ踊り

渡部 亮次郎

<車の挙動で通称「タコ踊り」と呼ばれている現象がある。それは、車体が左右に大きく尻 振りを繰り返し、立て直そうとしても尻振りが止まらず、運が悪ければ何かに衝突して 事故になってしまう恐ろしい現象だ>。homepage3.nifty.com/p-gtr/tacoodor.htm -

側近のはずだった仙谷官房副長官、最高顧問の渡部恒三氏も菅首相がそろそろ辞意表明することを願っている。川内博史衆院科技委員長にいたっては、あからさまに「マネジメント能力がない」事を指摘して辞任を迫っている。

それなのに菅自身は未練がましくパフォーマンスにこだわり、地位に恋々として、日本を過まらせようとしている。これはまるで孤独の首相、たこ踊りの図である。

<仙谷氏も早期退陣要求=次期代表選で党内融和を

仙谷由人官房副長官は11日午前のBS朝日の番組で、菅直人首相の進退について「早くけじめを付けた方がいい。次のステップに踏み込むため(首相に)身を投げ出してもらうしかない」と述べ、2011年度予算執行に不可欠な特例公債法案など重要案件処理に野党の協力を得るため、早期退陣を求めた。

首相は退陣表明したものの、時期を明確にしておらず、野党の反発で重要法案成立の見通しは立っていない。首相は8月以降の続投にも意欲を示すが、仙谷氏は「(首相)本人が無理に頑張るのは本人のためにも良くない」と強調。首相を支える立場にある仙谷氏が公然と早期退陣を促したことで、首相への退陣圧力は一段と強まりそうだ。

一方、首相退陣後の民主党の代表選びに関しては、「党内も恩讐を超えてもう少し高みに立てないか」と述べ、小沢一郎元代表を対立軸に繰り返してきた党内抗争に終止符を打ち、党内融和に努めるべきだと強調。自身の代表選出馬については「資格も能力もあるとは思っていない」と消極姿勢を示した。>
時事通信 6月11日(土)11時10分配信

<渡部氏、自公に協力要請…首相退陣と引き換え
民主党の渡部恒三最高顧問は10日夜、都内の料理店で自民党の大島理森副総裁、公明党の井上義久幹事長と会談した。

渡部氏は菅首相の退陣と引き換えに、2011年度予算の執行に不可欠な特例公債法案の早期成立への協力を要請した。大島、井上両氏は、首相の即時退陣を求めたとみられる。>

読売新聞 6月11日(土)8時42分配信

首相はマネジメント能力がない
 =危機の時のリーダーは小沢さん=
 −民主・川内博史衆院科技委員長インタビュー−

民主党の川内博史衆院科学技術特別委員長は5月19日までに時事通信のインタビューに応じた。川内氏は菅直人首相の東日本大震災や福島第1原発事故の対応を厳しく批判。首相には「マネジメント能力がない」などとして退陣を要求した。発言要旨は次の通り。

−首相の大震災、原発対応のどこが問題か。

菅さんの政治は要するにパフォーマンス政治だ。格好だけ。被災者や国民に語るべきビジョンを何ら持ってない。支持率を上げようとパフォーマンスに終始している。

また、財源がないという「神話」に踊らされて、大震災を理由に増税を図ろうとし、自民党には大連立を働き掛けた。その手法を姑息だと国民は見ている。

福島県内の学校における放射線量の暫定基準値について、政府は年間被ばく量20ミリシーベルトまで大丈夫だと発表した。

通常、われわれが生活しているのは年間1ミリシーベルトだ。一方、年間20ミリシーベルトに達する恐れのある地域は「計画的避難区域」とした。子どもは20ミリシーベルトまで校庭で遊んでも大丈夫だと言いながら、もう一方は20ミリシーベルトになるから避難しなさいと言う。もう、ばらばらだ。首相にはマネジメント能力がない。だから早く代わってくださいと言っている。

−首相が大震災翌日に被災地や福島第1原発を視察した初動対応については。

視察することで自分をアピールしようとしたのだろう。福島第1原発が重大な事態となり、早急な対応が求められていたとき、やるべきことは分かっていた。

全電源が喪失し、冷却システムが動かないとき、首相がやることは現場に行くことではない。(格納容器の蒸気を外部に放出する)「ベント」を指示し、市町村にはベントでどのくらいの量の放射性物質が出るかなどをきちんと周知し、防護対策を取らせるべきだった。

3月15、16日に最も大量の放射性物質が出ている。広島型原爆でいうと20個分の放射性物質。15日には2号機が(格納容器の)高濃度の放射性物資を外部に放出する「ドライベント」を行っている。そういう時になぜきちんと関係自治体と情報を共有し、ベントの前に住民を避難させないのか、理解に苦しむ。

−5月以降、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)の未公表データが公表されるようになったが。

政府は事故発生直後から約1週間、放射性物質が激しくふりそそいでいた一番大事な時期にデータを隠していた。これは法律違反だ。新たに分かったことは、3月11日から16日までの間、首相官邸に上がったSPEEDIの放射性物質の拡散予測図は1枚だけということだ。

3月12日午前3時から6時までの間、1号機をベントした場合、放射性物質が全て海に向かうという予測図だった。文部科学省が経済産業省原子力安全・保安院に出し、保安院から首相官邸にファクスで送られたという。

官邸の誰が予測図を見たかは分からない。官邸の危機管理センターにはSPEEDIの予測図を受け取る端末もなかったから、ファクスで送ったという。保安院と文科省から聞いたことだ。ちょうど首相の(被災地や原発の)視察を控えていた時だ。

結局、さまざまに細かく定められている(原発事故対応の)マニュアルが一切機能しなかった。官邸の対応はお粗末だ。官邸はSPEEDIの情報をもしかしたら知らなかったかもしれない。

何を基に避難区域を判断したのか。何のデータも得ず、思い込みで判断したのではないか。風上から風下に逃げて被ばくした住民もいっぱいいる。首相はSPEEDIを自分のためには使ったが、住民のためには使わなかったのではないか。ものすごく深刻な話だ。

−浜岡原発停止の首相の決断は評価するか。

当然の決断。エネルギー政策を根本から議論し、エネルギー計画、科学技術総合計画も見直し、エネルギーで経済をどう支えていくかという決断があれば、評価に値する。

浜岡停止は極めて当たり前の話。「浜岡を停止する、格好いいだろ」という感じで言ったのではないか。

−山岡賢次副代表らの勉強会「震災に対応できる連立政権に向けた総調和の会」は事実上「菅降ろし」の動きと見られているが、震災対応最中の政局的な活動には批判も多い。山岡氏らと今後どう動くのか。

「総調和の会」の議員の思いは共通していると思う。危機だからこそ真のリーダーを選ばなければならない。「こんな時に何をやっているんだ」「次の首相が誰がいるんだ」という批判は、菅さんを応援するメッセージにしかならない。菅政権応援団の発言だ。

わたしは、危機の時は真のリーダーが生まれると信じている。まず、菅さんには降りていただく。なぜなら国のリーダーとしてふさわしくないからだ。

真のリーダーが自然と生まれ、その人の下に結束して、復旧・復興、原発対策に当たるべきだ。私は小沢一郎さんこそが危機の時のリーダーにふさわしいと思う。

こういう時こそ小沢さんに首相を任せ、私はそれを全力で支えたい。復興財源に特別会計財源を使うよう財務省に指示し、米国に(米軍普天間飛行場の移設先について)辺野古は不可能と伝え、原発によらないエネルギー計画を確立してほしい。

−小沢氏は刑事被告人という立場で、現実に首相は難しいのではないか。

私自身は、小沢さんは刑事被告人だが、無罪になると確信している。首相になる資格を十分持っていると思う。
2011・6・11

2011年06月11日

◆野田「首相」案に暗雲

渡部 亮次郎

ポスト菅の先頭に踊り出た観のあった野田財務相について産経新聞が11日の朝刊1面、大見出しで「脱税容疑の社長から献金」と報じた。痛手である。

野田氏側は、コメントを出していない。今後の展開は予測できないが、内外の反応は決して甘くないはず。「野田政権構想」に暗雲である。

<脱税疑いの社長、野田財務相側に献金 2年間で50万円

野田佳彦財務相が代表を務める政党支部「民主党千葉県第4区総支部」に平成15、17年の2年間で計50万円の企業献金をしていたソフトウエア会社の男性社長が、税務当局の強制調査(査察)を受けていたことが10日、関係者への取材で分かった。

社長側は約1億円を脱税した疑いがあり、税務当局は法人税法違反での告発も視野に入れているとみられる。

野田氏の団体をめぐっては3月、別の巨額脱税事件で有罪判決を受けた男性の関係企業からの資金提供が発覚していた。社長側は野田氏以外にも与野党の複数の国会議員側に資金提供しており、政界への幅広い浸透も指摘されている。

関係者によると、社長は実質支配する関連会社を使い、取引先に社員寮の建設費を水増し発注するなどして数億円の所得を隠し、法人税約1億円を免れた疑いが持たれている。

水増し分の資金は還流させ、知人女性の生活費などに充当。社員寮は約10年前から次々と建設されており、同様の方法で継続的に資金を捻出していたとみられる。

政治資金収支報告書などによると、社長のソフトウエア会社は、野田氏が代表を務める「民主党千葉県第4区総支部」に、15年に20万円、17年に30万円の寄付をしていた。

15年に5万円を超える献金をした「法人やその他の団体」は2つだけで、ソフトウエア会社が野田氏側にとって大口の寄付者だったことがうかがえる。

野田氏をめぐっては3月、関連政治団体が19年に開いた政治資金パーティーで、法人税法違反事件で約3億4000万円を脱税したとして有罪判決を受けた男性の関係企業から、パーティー券計80万円分を購入してもらう形で資金提供を受けていたことが判明した。

野田氏は発覚直後の衆院財務金融委員会で「(購入者が)脱税したような法人や個人であるなら、今の職責上適切ではないと思う」と述べ、返金する意向を示していた。

有罪判決を受けた男性側は、民主党本部のパーティー券390万円分、前原誠司前外相のパーティー券50万円分を購入。蓮舫行政刷新担当相が代表の政党支部にも129万円を寄付するなど、民主党側に多額の資金提供をしていた。

ソフトウエア会 社からの献金について、産経新聞は野田氏の事務所にコメントを求めたが、回答は得られていない。>
(産経ニュース 2011.6.11 02:00)


◆野田佳彦ってどんな人

渡部 亮次郎

菅内閣の財務大臣野田佳彦 (のだ よしひこ)氏が後継首相候補に浮上している。菅首相より10歳も若いことに加えて野田氏が後継となれば,政策の継続性が確保できるという判断があるという。


<野田財務相擁立で調整=仙谷、岡田氏ら一致―民主代表選

民主党の仙谷由人代表代行(官房副長官)、岡田克也幹事長らは9日までに、退陣表明した菅直人首相の後継を選ぶ党代表選に野田佳彦財務相(54)を擁立する方向で調整に入った。

東日本大震災からの本格的復興策を盛り込む2011年度第2次補正予算案や、11年度予算執行を裏付ける特例公債法案の早期成立に向け、野田氏が後継となれば政策の継続性が確保できると判断した。 

野田氏は同日、衆院議員会館で開いた自身のグループの会合で「こういうときにバタバタするのは良くない。一球入魂で職責を果たすのみだ」と、職務に専念する姿勢を示すにとどめた。

ただ、出馬には前向きとされ、同氏周辺は「推されれば立候補する」と強調。岡田氏に近い党幹部は記者団に「野田氏は有力な後継候補だ」と述べた。>時事通信 6月9日(木)8時15分配信

<演説力は「党内ナンバー1」と言われており、2005年の総選挙の際は、候補者の応援演説の依頼が岡田代表(当時)、菅直人、小沢一郎に次いで多かった。衆院選挙に初出馬した際にJR津田沼駅前で12時間連続で選挙演説したことがある。

企業献金を受け取らず、個人献金のみで政治活動をしたり、毎朝、駅前での演説を県会議員になる前から20年間毎日続けるなどの活動は、松下政経塾出身者の選挙スタイルのパイオニアになっている。

地元の千葉県に松下政経塾の地域政経塾である千葉政経塾を地元の有志たちと共に設立するなど、地元の人材育成にも努めている。

財務省ではたばこ増税に積極的に取り組んだが、自身は1日2箱の愛煙家で「(増税は)切ないテーマ」と認める。趣味は格闘技観戦で、最強と考えるプロレスラーはジャンボ鶴田。

自身も柔道2段の有段者で、学生時代の大会で秒殺された相手が山下泰裕に秒殺されたというエピソードがある。超党派で作る格闘技振興議員連盟の会長を務めている。

第162回通常国会における2005年1月21日の小泉純一郎首相による施政方針演説の中で、凶弾に倒れながらも「男子の本懐」と漏らした濱口雄幸首相を小泉が自らになぞらえたことに対して、

1月25日の代表質問の場において、狙撃後も命をかけて国会に出席し説明責任を果たしたことが浜口の真骨頂であり、ぼかして逃げるあなた(小泉)とは違うと批判した。

政策通とされ若手保守系議員を中心とした「野田グループ」の領袖である。沖ノ鳥島が領土であることを批判した唐家セン中国国務委員(副首相級)に対し、「南沙諸島を実効支配している貴国にとやかく言われる筋合いはない」と述べたことがある。

更に、尖閣諸島に中国人活動家が上陸した折、日本の領土であることを確認する国会決議を提案したことがある。

小泉純一郎内閣総理大臣に宛てた質問主意書で「A級戦犯と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない。戦争犯罪人が合祀されていることを理由に首相の靖国神社参拝に反対する論理は不可思議」、「南京大虐殺肯定派の論理は破綻している」と政府の戦後史観の対応の甘さを批判した。

「安全保障基本法」「緊急事態法」の制定を主張している。かつては永住外国人への地方参政権付与に関して容認派であったが、菅内閣で外国人参政権に明確に反対を表明している。

1957年5月20日に千葉県船橋市に陸上自衛隊第一空挺団の隊員だった父の長男として生まれる。実弟は船橋市議会議員の野田剛彦。

学生時代は立花隆に憧れてジャーナリストになることを希望していた。1980年早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業する。

1985年に松下政経塾を1期生として卒業し、家庭教師、都市ガスの点検員、私設教育相談所長、青年政治機構副幹事長を経て、1987年千葉県議会議員選挙に立候補。

各新聞社の選挙予想では「野田は独自の戦い」と泡沫候補扱いだったが、当時最年少の29歳で当選する。県議は2期務めた。

1992年日本新党結成に参加し、1993年第40回衆議院議員総選挙には日本新党公認で千葉1区から当選する。

日本新党では副代表幹事などを務め細川内閣を支えるが、細川内閣の総辞職、新党さきがけや日本社会党の離脱に伴う羽田内閣の崩壊を経て、野党となった日本新党は解党し、同年新進党結党に参加する。

1996年第41回衆議院議員総選挙では全選挙区最小得票差の105票差で自民党の田中昭一に敗れ、落選した

2000年第42回衆議院議員総選挙に民主党公認で当選し、国政に復帰。民主党総務局長に就任。2001年民主党ネクスト・キャビネット(次の内閣)で行政改革・規制改革担当大臣に就任する。

2002年8月菅直人、鳩山由紀夫の二枚看板(いわゆる「鳩菅体制」)に危機感を覚え、世代交代を図るため同じ松下政経塾の後輩に当たる前原誠司、松沢成文らと「第二期民主党をつくる有志の会」を結成。

9月の代表
選に立候補するにあたっては、前原との間でどちらが立候補するかで調整に難航するが、民主党若手議員を代表する形で野田が立候補する。

この代表選挙では敗北するものの、選挙戦を通じて認知度を得る。その後、鳩山代表に政策調査会長への就任を要請されるが、鳩山を支持するために代表選挙の出馬を取りやめた中野寛成の幹事長就任を「論功行賞」と批判し、就任を固辞した。

2005年第44回衆議院議員総選挙では千葉13選挙区の中で野田の選挙区である千葉県第4区のみ唯一民主党として自民党の藤田幹雄に944票差に迫られながら勝利した。

2002年12月、民主党国会対策委員長に就任する。国対委員長としては、審議拒否をしない方針で国会運営に臨んだ(2003年11月退任)。

2005年9月の総選挙で民主党が大敗し、辞意を表明した岡田克也党代表の後任選びでは前原誠司を推し、中堅、若手議員をまとめ前原勝利の一因を作る。当初は幹事長に就任予定だったが、菅直人が固辞した国対委員長に就任した。

2006年2月に永田寿康が引き起こした堀江メール問題では、当初このメールの信憑性を疑わず永田を擁護する対応をとったこともあり、国会論戦の指揮監督をおこなう立場として責任を取り、同月に国対委員長を辞任した。

なお、このメール問題について、2008年に刊行された民主党秘書らによる『民主党10年史』(第一書林)では「普通の企業なら当然備わっている危機管理と統治能力がなかった」 、「党執行部の仲良しグループ化が生んだ情報囲い込み」が原因だったと指摘している。

2008年8月、「本当の二大政党なら政策論争をしないと意味がない」と主張し、民主党代表選への出馬を表明したが、幹部の松本剛明に強く自制を求められるなど自らのグループを纏め切れず、更にいわゆるメール問題の張本人の一人である野田の立候補には全党的に反発が強く、推薦人(20人)確保の目処が立たず、出馬を断念した。これにより、小沢体制の継続が事実上決まった。

これについて2008年9月7日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』で立候補を断念した経緯を語った。出馬断念の代償は大きく、民主党の次代を担う七奉行と呼ばれた野田は大きな打撃を受ける。

結束力を誇った野田グループは出馬断念派と積極派に分裂して解散論も飛び出すほど脆弱な組織となり、馬渕澄夫は退会した。

2009年5月の小沢辞任に伴う代表選挙では岡田克也を支援したが、鳩山由紀夫に敗れる。ただ、岡田が鳩山代表の下で幹事長に就任すると、幹事長代理として執行部入りし、復権を果たした。

]同年9月の鳩山由紀夫内閣の成立に伴い、防衛大臣就任が取り沙汰されたが、近著で集団的自衛権の行使を主張しているなど、党内や連立政権での意見対立を刺激することが懸念され、見送られた。

野田の手腕を高く評価していた藤井裕久財務大臣の意向により、財務副大臣に就任。2010年1月に藤井が健康上の問題を理由に辞任すると後任候補の1人として名前が上がった。

藤井も野田を後任に推薦する意向だったが、菅直人が国家戦略相から横滑りする形で副総理兼財務相に就任した。

2010年6月、鳩山首相が辞任を表明。鳩山内閣の財務大臣だった菅が後継首相となり、野田が副大臣から昇格する形で菅の後任の財務大臣に就任した。初入閣での財務相就任は初めての例であり、戦後の大蔵大臣を含めても異例である。

同年8月20日、為替動向について記者会見で「重大な関心をもって注意深くみていく」と述べる一方、為替介入についてはコメントを避けた。

9月8日、円高について衆院財務金融委員会での答弁で「明らかに一方的に偏っている」とし、「必要なときには為替介入をふくむ断固たる措置をとる」「産業の空洞化にもつながりかねないということで、強い懸念をもっている」と述べた。

9月15日、政府・日本銀行が「円売りドル買い」の為替介入に踏み切ったことを発表。この介入により1ドル=82円台から1ドル=85円台に急落した。

10月8日、1ドル=81円台に上昇したことを受け「より一層重大な関心を持ってマーケットの動向を注視し、必要なときには介入を含めて断固たる措置をとるという姿勢に変わりはない」と述べた。

また同日ワシントンで開かれた先進7か国財務相・中央銀行総裁会議(G7)では為替介入について「批判的な意見は出なかった」と説明した 。

2010年9月に発足した菅改造内閣では財務大臣に再任。2011年1月の内閣改造に際しては、内閣官房長官への横滑りも取り沙汰されたが、野田が財務大臣続投を強く希望したため、菅再改造内閣でも留任した。

著書 『民主の敵―政権交代に大義あり』新潮社、2009年7月 ISBN 978-4106103230
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
                   2011・6・9

2011年06月10日

◆患者自己注射物語

渡部 亮次郎

日本で糖尿病患者が治療薬「インスリン」を患者自身で注射して良いと決断した厚生大臣は園田直(そのだ すなお)である。インスリンの発見から既に60年経っていた。逆に言えば患者たちの悲願を歴代厚生大臣が60年も拒否するという残虐行為をしてきたのである。

園田自身も実は重篤な糖尿病患者であった。しかしインスリンの注射から逃れていたために大臣在任中、合併症としての腎臓病に罹り、1週間ほど緊急入院したくらい。大変な痛がり屋。引きかえに命を落とした。

政治家にとって入院は命取り。大臣秘書官として事実を伏せるために余計な苦労をしたものである。にも拘らず園田はそれから僅か3年後、人工透析を途中で拒否したため、腎不全のため70歳で死亡した。昭和59(1984)年4月2日のことだった。

その直後、私が糖尿病を発症した。全く予期せざる事態に仰天した。糖尿病は現時点の医学では絶対治らない病気、いうなれば不治の病というから業病(ごうびょう)ではないか。絶望的になった。

検査などの結果、私の母方の家系に糖尿病のDNA(かかりやすい遺伝子)が有り、弟は発症しないできたが、上2人の男兄弟は暴飲暴食による肥満が契機となって発症したものと分かった。

しかし、あれから30年近く、私は毎朝、ペン型をしたインスリン注射を繰り返すことによって血糖値を維持し、今のところ合併症状も全く無い。普通の生活をしていて主治医からも「文句の付けようがありません」と褒められている。お陰で園田の年(70)を超えた。

これの大きな理由は注射針が極細(0・20mm)になって殆ど痛みを感じなくなったからである。あの時、園田が自己注射を決断したお陰で医療器具メーカーが、患者のためと自社の利益をもちろん考え、針を細くし、簡単に注射できるよう研鑽を積んでくれたからである。

逆に言えば、厚生省が自己注射を許可しないものだから、医療器具メーカーは、それまで全く研鑽を積まないできてしまったのである。自己注射で注射器や針がどんどん売れるとなって初めて研鑽を積む価値があるというものだ。

つまり役人や医者の頭が「安全」だけに固まっている限り医療器具は1歩たりとも前進しないわけだ。患者たちを60年も苦しめてきた厚生省と日本医師会の罪こそは万死に値するといっても過言ではない。

そこで常日頃、昭和56年までの糖尿病患者たちの苦しみを追ってきたが、最近、やっとそれらしい記事をインターネット上で発見した。


「インスリン自己注射への長い道のり」(2001/05/28 月曜日)と題するもので、とある。
http://www.geocities.jp/y_not_dm/insurin2.html

東京女子医科大学名誉教授 福岡白十字病院顧問 平田 行正氏へのインタビュー記事「インスリン自己注射の保険適用から15周年を迎えて…」より抜粋と要約

<インスリンが発見されたのは、1921年(大正10年)です。欧米では供給のメドがつくとすぐに患者の自己注射が認められました。しかし、日本では60年もの間、自己注射が認められず、また、保険の適用もありませんでした。

当時の日本では、医療は医師の占有物だとする古い考え方が根強く、医師会はもちろん、厚生省の役人の中にも、何もインスリン注射をしなくとも飲み薬があるではないか、と平気で発言する人もありました。

インスリン注射が必要不可欠な糖尿病患者は、インスリンを自費で購入し、自ら注射するという違法行為でもって、生命をつないでいました。

インスリン発見50周年にあたる昭和46年、糖尿病協会は全国的な署名運動を行い、3ヶ月足らずで11万4,000名の署名を集めましたが、厚生省からは、「国としては、正面きってこれを取り上げるのは難しい」という回答が繰り返されました。(佐藤内閣で厚生大臣は内田常雄に続いて齋藤昇)。

中央官庁の理解が得られず、困り果てた医療側や自治体はあの手この手で知恵を絞り、自己注射公認まで持ちこたえました。

昭和56年(厚生大臣 園田)、各種の努力によりインスリンの自己注射が公認され、その5年後には血糖値の自己測定が公認されました。保険適用。

医療は医師だけのものではなく、患者と共に手を携えて行うべきものだということが公認された、医療史上最初の出来事です。

インスリン自己注射公認までの悪戦苦闘

長野県・浅間病院と県の衛生課や医師会などが協議して、生み出した苦肉の策。患者の来院時にインスリンを1本処方し、その一部を注射して、残りを渡して自己注射する。毎月1〜2回患者から直接電話で報告を受けることで、電話再診料として保険請求した。

新聞が長野方式として報じたため、厚生省から中止命令。

バイアル1本を処方して、注射後捨てたものを患者が拾って使用した、という言い逃れ。来院時に400単位を1度に注射したことにして、1〜2週間は効いている形にした>。


1986年、研究のスタートから10年目、

血糖自己測定が健保適用に  (2003年9月)

血糖自己測定を導入した糖尿病の自己管理がスタートした頃(1976年〜)、今では誰もがあたりまえと思っているインスリン自己注射は、医師法に違反するという非合法のもとで行なわれていた。

日本医事新報(1971年)の読者質問欄ではインスリン自己注射の正当性について、当時の厚生省担当官は「自己注射は全く不可であり、代わりに経口血糖降下剤の使用があるではないか」と回答している。これが1970年代の実態だったのである。

このような状況に対して、当時の「日本糖尿病協会」は、インスリン発見50年を迎えて、なおインスリン自己注射が認められない現状を打破すべく10万人の署名を集めた。そして厚生大臣をはじめ関係各方面に、インスリン自己注射の公認と健保給付を陳情したが全く受け入れられなかった。

正当化されたインスリンの自己注射(1981年)

このような状況だったため、インスリンの自己注射容認と、インスリン自己注射に関わる諸費用の健保適用までには、なお多くの人の尽力と歳月を要した。そして結果が出たのは1981年(昭和56年)。

この年ようやくインスリン自己注射の正当性の認知とこれの健保適用が得られた。その内容は当時行なわれていた慢性疾患指導料200点に、もう200点加算するというものであった。

これはその後の医療のあり方に大きな影響をもたらし、血糖自己測定も含め、患者を中心にした医療の実践の必要性と有用性の実証へと繋げられていった。


<血糖自己測定の健保適用(1986年)(園田死して2年後)

C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\血糖自己測定25年.htm

インスリン自己注射の健保適用から5年後、私たちが血糖自己測定研究をスタートさせてから10年目、大方の予想を上回る速さで血糖自己測定の健保適用がなされた。これはインスリン自己注射指導料に加算する形で設定された。

以後、何度かの改定を経て、保険点数には血糖自己測定に必要な簡易血糖測定機器、試験紙(センサー)、穿刺用器具、穿刺針、消毒用アルコール綿など必要な機器や備品の全ても含まれるようになっている>。

1人の政治家の柔軟な頭脳による1秒の決断が、日本の歴史を変えたといってもいい決断だった。この事実を厚生省は大げさに発表しなかったが、元秘書官として責任をもって報告する。(文中敬称略)


2011年06月07日

◆大連立、障害は首相の往生際の悪さ

渡部 亮次郎

レームダック(lame duck、足の不自由なアヒル)とは、役立たずの政治家を指す政治用語。レイムダックとも表記されるが、そちらが本来の発音である。

選挙後まだ任期の残っている落選議員や大統領を揶揄的に指すのに用いられる。転じて、米国では「役立たず」などと特定の人物を揶揄する慣用表現としても用いられている。

1700年代のロンドン証券取引所で、支払不能で債務不履行に陥った株式仲買人や証券会社を指す言葉として用いられたが、1860年代に米国の政治用語として流用されるに至った。(「ウィキペディア」)

あがけばあがくほど、あり穴に落ちて行く。菅はそれに気づいてない。即刻辞めれば普通の政治家だが、あがきながら、生きながらえれば、永らえた分が、ばんねんのお汚濁と名って、まとわり付く。

官房長官として信頼した仙谷が、既に先頭をきって菅降ろしに邁進している。今の官房長官もサジを投げている。もはや菅は民主党のお荷物に成り果てたのだ。それなのになんで即刻やめないのか。

ひょっとして彼は若い頃に夢見た社会主義革命が成就したと思っているのではないか。成就した以上、イスから降りるわけにはいかないのだ。1分で1秒でも長くしがみついていなければならないのだ。

「政権獲得とは、期限(任期)の限られた独裁である」とどこかで菅が喋ったことがある。だから革命成就と勘違いしている事は間違いない。
しかしいまやレームダックどころか、民主党のお荷物と化してしまった以上、日を追って辞任要求は党内で高まってゆくだろう。見下げ果てた粗末な人間だ。

<大連立、障害は首相の往生際の悪さ

退陣を表明しながらも「8月まで」の延命にこだわる菅直人首相の往生際の悪さが、民主、自民両党の大連立構想の障害になっている。

仙谷由人官房副長官が後継首相を前提に自民党との交渉に乗り出したが、自民党側は前提条件として首相の早期退陣を求めている。そのため民主党出身の西岡武夫参院議長は6日、首相に6月中の辞任を突き付けた。
(水内茂幸)

「菅首相が辞めるタイミングは2つ。即刻お辞めになるか、赤字国債を発行するために必要な特例公債法案を6月中に成立させてから。それ以外にはない」

西岡氏は6日の記者会見で、首相の「6月退陣」を主張した。大連立を含む野党側との協力に関しても、首相が退陣すれば「速やかにできる」
と強調した。

鳩山由紀夫前首相も6日の大阪市内での講演で「信なくば立たず。政治家は本来、高潔で礼儀正しく嘘をつかない存在でなければならないが、どうも違うと思われている」と述べ、6月退陣を否定した首相を改めて強く批判し、早期退陣を求めた。

もっとも、首相にはそのつもりは全くない。

「6月末の復興構想会議の提言を待たずに五百旗頭(いおきべ)真議長から話を聞き、平成23年度第2次補正予算案を提出したい」

首相は5日、官邸近くのホテルで会った民主党の斎藤勁国対委員長代理にこう伝えた。「成立までが仕事ですよ」と斎藤氏が語りかけると、首相は「そうだな」と答えた。

首相は与野党からの反発で「早期退陣」を印象付けようとしているが、実はからくりを仕込んでいる。

鳩山氏は2次補正に関し、「月内に編成のめどがつく」と指摘している。だが、10兆円を超える2次補正は本格的な復興予算となるため、今すぐ編成を指示しても、予算案がまとまるのは早くても7月中旬だ。

加えて、小沢一郎元代表が主導したマニフェスト見直しで「小沢色」を一掃したい首相は、「マニフェスト見直しを含め、復興債の償還財源のあり方まで議論しようとしている」(首相周辺)。

そうなると、編成のめどがつくのは8月上旬。とてもではないが、野党や鳩山氏らが求める「6月退陣」では収まらない。

だが、首相の思惑とはよそに民主党内はすでに「ポスト菅」で走り始めた。

「大連立の話を、現時点でどこまで詰められるのか…。新首相が意思決定に参加しなければいけない」

岡田克也幹事長は6日の記者会見で語った。「菅首相の下では大連立は進まない」とあけすけに語ったに等しい。

旧民社党系議員で作る民社協会の幹部も同日、岡田氏に首相の退陣時期を明確にするよう要求した。

自民党の谷垣禎一総裁も6日、熊本市内での会見で特例公債法案や2次補正に協力しない意向を表明し、こう語った。

「辞めると言った人に、難しい課題はさばけない。時間を浪費するだけだ」

首相がいくらあがこうとしても、すでに外堀は埋められている。>

(産経ニュース 2011.6.7 00:13 )

◆本稿は、6月7日(火)刊の全国版メルマが「頂門の一針」2284号に
掲載されました。

◆<「頂門の一針」2284号の目次>
        
・大連立、障害は首相の往生際の悪さ:渡部亮次郎
・「行動は雨」の時節です:岩見隆夫
・ふたりの トラスト ミー:須藤文弘
・安倍の仇を菅で討つ?!:平井修一
・ビンラディン殺害、得をしたのは中国:宮崎正弘
・張作霖爆殺事件の真相(補遺):宮崎正弘

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

◆購読(無料)申し込み御希望の方は
 下記のホームページで手続きして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm
    

◆社説は空しい

渡部 亮次郎

実は、初めてこの論を書いたのは2006年12月のこと。既に5年が過ぎた。事件は終わったが、汚職事件の風土は全く変わってない。事件は深化し、表面化しないだけだ。

国会議員たちは政治資金を国家予算から確保しているが、地方自治体の首長も議員も選挙資金を調達する手段を持たない。ついつい、公共工事を舞台にした談合と汚職が結びつくのだ。何年経っても構造は変わっていない。それにしては事件摘発の報道が無いなあ。

「一連の地方におけるいわゆる官製談合事件は、摘発はあっても消滅策はありえないから、頼むから新聞の社説よ、論説よ、取り上げるなと祈っていたのに、産経新聞が2006.12.05no「主張」(社説)で取り上げてしまった」。

【主張】宮崎県知事辞職 不正の構造に決別はかれ と題したもの。

<官製談合による自治体トップの逮捕、辞職が相次いでいる。福島、和歌山県に続いて、宮崎県の安藤忠恕(ただひろ)知事が辞職した。まさに“談合列島”といえる異常事態を招いている>。

<それにしても、安藤知事の辞職表明は遅きに失した。先月29日に県ナンバー3の出納長が逮捕された時点で、県民の大半は安藤知事が「道義的責任」をとり、辞職するものと予想していたのではないか>。

ここまでは駆け出しの記者でも書ける「経過」。問題は結論である。

<福島、和歌山、宮崎県の官製談合事件の検察・警察当局による摘発で、地方自治体の談合体質が同じ土壌にあることが浮き彫りになった>。

<知事と個人的に親しいフィクサーが県政に暗躍する。和歌山の場合は元ゴルフ場経営者であり、宮崎は元国会議員秘書だった。これらの人物は選挙の時に知事に業者を紹介、恩を売って、その見返りに公共工事の入札に業者を参加させるという仕組みのようだ>。

<このような談合構造は、他の自治体でも似たり寄ったりであろう。いまこそ、政官業が巧みに癒着した談合体質からの脱却を図る必要がある>。

そんなことは論説委員殿に指摘されなくても分っている。当事者の首長こそ談合体質から脱却したいのは山々なのだ。他に選挙資金を調達する方法があれば、絶対的なこの泥沼から這い上がりたいはずだ。だが方便がない。

無いからこうして捕縄につながる汚辱の危険を冒してまで調達使用としたのだ

<知事は予算と人事権を握る絶大な権限を握っている。業者との関係には自らを厳しく律しなければならない>。

なにを目出度いことを言ってるのだ。自らを厳しく律してなおかつ選挙資金の入る方法があるというのなら教えて貰おうじゃないか。空虚な論は休みやすみにしたまえ。

<公共事業の入札には特定業者が入り込まないような透明性のあるシステム作りが求められる。全国の自治体の首長は、一連の事件を“対岸の火事”とせず、早急に入札制度を改善し、不正根絶に邁進(まいしん)してもらいたい>。(2006/12/05 05:01)

そんなことは簡単だ。しかし選挙資金はどうやって調達するかも教えてくれ。それが無いならこの「主張」は空理空論だ。読むんじゃなかった。

今回の東日本大震災の復旧、復興事業は膨大な国家資金を消費する。山堂コラムが指摘するように、そこに葉膨大な利権が生ずる。官製談合の芽は山ほどある。警察や検察は厳しく見張って欲しいものだ。

同様に読みたくないのは、役人の天下り反対論。役人だって楽に暮らせれば天下りなんかしたくない。




2011年06月03日

◆稀代のペテン師が首相の日本

渡部 亮次郎

一夜明けたら鳩山変身、菅弱気で2日、民主党内の情勢は、それこそドンデン返しとなった。

あのまま行けば、菅への不信任決議案は可決、内閣総辞職か衆院解散かだったが、まず鳩山が党分裂を危惧し、ビビった。菅の許へ駆けつけ、再度、辞任を迫った。一定の目途がついたらという条件付だが。

前後して連立の亀井党首も駆けつけて、震災・原発対策の「目途」を条件に辞職を進言。

さすがの「ズルシャモン」の菅も、党の分裂に危機感を持ち、代議士会での発言となった。発言は辞任の時期を明らかにしない「言い逃れ」と聞えたが、鳩山氏が代議士会の席上質問の形で、辞任のじきについて「復興基本法の成立と第2次補正予算の編成の目途がついた段階」ととどめをさした形になった。

鳩山氏は具体的な時期についてNHKのインタビューに答え「夏ではおそすぎる」と語ったが、ずるずると居座られる危険性を否定できる人は居ない。何しろ「目途」をどう解釈するかは自分だと言うのだから、鳩山は騙された。

こうなれば、小沢氏も不信任案賛成を進めても展望の開ける情勢ではなくなった。「こうなリャ、自主投票」と言い残して本会議を欠席。恰好をつけた。

いわば党議に反して賛成票を投じた2人や小沢氏をはじめ本会議欠席者に対する処分など、民主党の党運営は引き続き難航しそうだ。いずれにしろ小沢氏に関する限り、今回は「壊し屋」になれなかった。菅が居座れば居座るほど、小沢氏の力は薄れて行くだろう。

」自民党、公明党は二の手として多数を占める参院での問責決議案の可決に進むだろうが、そんなもの、菅に対する拘束力は無いから、無意味だ。菅の出席する席での参院審議には応じないという態度に出ても、世論の反発を恐れて長続きさせられまい。

死人運動家上がりの菅。流石に咄嗟の判断はすばやい。「後継者は若手」とか「四国八十八箇所の礼状めぐり再開」などの言葉を小道具にして、遂に不信任案を葬った。稀代のペテン師。不信任案可決を信じていた「産経」は書いた。「究極 死んだふり続投」

<【首相辞意】

鳩山氏「首相はペテン師」「不信任案賛成すれば良かった」

鳩山由紀夫前首相は3日午前、菅直人首相が早期退陣を否定していることについて「きちっと約束したことは守るのはあたり前だ。それができなかったらペテン師だ」と述べ、激しく非難した。都内の自宅前で記者団に語った。

鳩山氏は2日昼の民主党代議士会直前に首相と面会した内容に関し「復興基本法案の成立と平成23年度第2次補正予算案の編成のめどがたったら(首相の座から)お引き取りいただくということに、首相は『結構だ』と言った」と強調した。

その上で「不信任案(採決の)直前には辞めると言い、否決されたら辞めないと言う。こんなペテン師まがいのことを首相がやってはいけない」と指摘。「人間としての基本にもとる行為をしようとしているのなら、即刻党の規則の中で首相に辞めていただくように導いていかなければならない」と述べ、両院議員総会を開いて首相に早期退陣を求める考えを
示した。

不信任案に賛成した松木謙公前農水政務官ら2人への除籍(除名)処分については「冗談じゃない」と語り、処分は不要との見解を示した。

自身の対応についても「不信任案が否決されたら突然言葉をひっくり返して『そんなことを言った覚えはない』という人間だとすれば、不信任案に賛成すべきだった」と述べた。一方で「首相が詐欺師まがいのことをやるとは思わない。今でも信じている」とも語った。>
(産経ニュース 2011.6.3 10:46)


<民主分裂回避へ動いた創業者「鳩菅」

内閣不信任決議案の採決を巡り、民主党分裂の危機回避に動いたのは党の創業者である「鳩菅」だった。

鳩山前首相は2日昼、首相官邸に菅首相をたずね、約30分間会談した。鳩山氏は「身を捨てていただきたい。職を辞していただきたい」と首相に決断を促した。

鳩山氏は東京電力福島第一原子力発電所事故への対応などで、首相への不満を強め、5月31日夜の首相公邸での会談で自発的な退陣を迫っていた。だが、首相に拒否されたことで、1日には不信任案への賛成を表明するにいたった。

だが、不信任案への同調は党分裂につながる。結党以来、鳩山氏は首相と二人三脚で党勢拡大に努め、2009年には悲願の政権交代を実現させた。

不信任案への賛成を一度は決意した鳩山氏だったが、一夜明けて党の崩壊を恐れる気持ちが強まったようだ。

1年前のこの日、鳩山氏が党両院議員総会で、首相辞任を表明した。

「私と鳩山さんだと、民主党の古い話になってしまう。(2日の会談は)半分くらいは思い出話だった」

首相は、2日の代議士会のあいさつをこう締めくくり深く頭を下げた。

>読売新聞 6月2日(木)11時46分配信

辞意を表明したペテン師とオバマは日米首脳会談に応じるだろうか。

2011年06月01日

◆ドイツ与党、原発廃棄で合意

渡部 亮次郎

<【ベルリン=三好範英】ドイツ・メルケル政権与党のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)、自由民主党(FDP)の幹部協議で30日、遅くとも2022年末までにドイツ国内17基の全原発を廃棄するとの方針が合意された。

DPA通信が伝えた。協議はベルリンの首相府で行われた。

原則として21年までに稼働を停止するが、代替エネルギーへの転換が遅れて供給不足が生じる場合は、3基に限って22年まで稼働を継続する。

福島第一原発事故後、17基のうち暫定的に停止した7基と、それ以前から事故で停止していた1基の計8基についてはこのまま停止する。

メルケル政権は6月6日にこの合意内容を盛りこんだ原子力法の改正案を閣議決定し、17日までに連邦議会、連邦参議院ともに通過させたい意向だ。>読売新聞 5月30日(月)11時31分配信

私は原発にもドイツにも詳しくはない。ただ中部電力の浜岡原発の安全PRに狩り出されたことから、原発への関心は深い。昔、外務省で大臣秘書官をしていた当時はパリでのIAEAの会議にも大臣随行で出席したことがある程度。

今回の東電・福島原発の大事故は、原発反対を唱えるドイツの緑の党を勢いづかせ、メルケル政権を苦境に追い込んだ。苦慮の決断が「遅くとも2022年末までにドイツ国内17基の全原発を廃棄する」との3党合意である。

ドイツにおける原発問題の国内対立の経緯は古い。200年に遡る。東京工業大学教授の新井栄一さんがブログで明らかにしている。

「ドイツ 原子力発電を放棄」2000年7月17日発行

<2000年6月15日付けのフランスの新聞Le Mondeが第一面に掲載した上記表題の記事に付いていた漫画がある。右半分はドイツの原子力発電所が廃止され、ドイツの建物の前でミドリっぽい人(胸に花のアプリケ、ひげ、の毛が伸びている)が反原子力運動の勝利を喜んでいる。

その建物への電力は左半分に示されているフランスの原子力発電所から送られている。冷水塔にはEDF(フランス電力 )Exportation(輸出)と書かれている。

その前では放射能マークのついた作業服を着たフランス人技師が「商売繁盛」を喜んでいる。その横には放射性廃棄物のドラム缶と機嫌の良くなさそうなねずみが一匹。

このマンガはドイツ政府の今回の決定により、将来の電力需給関係はこうなるだろうと皮肉を交えて示している。スイスも多分原子力降りを決める可能性があり、そうなるとその電力需給関係は結局このマンガと同じことになるであろう。


 1.なぜドイツは原子力の廃止を決めたか?

1998年10月の連邦下院(Bundestag)選挙でGerhart Schroeder率いるSPD(ドイツ社会民主党)は過半数に至らない第一党の座を得た。連立政権樹立のためには相手としてみどりの党(Buendnis90/Gruene)を選ばざるを得なかった。この連立交渉の条件の1つは原子力発電から降りることであった。

 2. 過去のSPD政権の時代にも原子力開発は進められていた

戦後のドイツの原子力技術開発の歴史には日本のそれと比較できるところが多々ある。1955年頃から2つの大規模原子力総合研究所と2つの小規模特定分野研究所を発足させた。

1966年から1982年の間にはSPDが関与した連立政権が続いた。1969-74年にはWilly Brandt(ノーベル平和賞受賞者)が、1974-1982年にはHelmutSchmidtが宰相になっている。

1982年以降、保守党CDU/CSUと自由党FDPの連立政権になった。この間、1979年3月28日に米国Three Mile IslandでのPWR型発電用原子炉の炉心溶融事故。

1986年4月21日には旧ソ連,現Ukraine Tchernobylでの発電用原子炉の暴走・爆発事故、ヨーロッパ中の大規模汚染の拡大事故が起きている。1990年代に入ってから本格的反原子力の雰囲気が同国内に強くなっ
た。

 3. 1990年代後半に入ってからドイツの原子力発電は事業として正常な状態になかった

使用済み核燃料棒は国際規格の輸送容器に格納されて鉄道でフランスLaHagueまたは陸路・海路を経てイギリスSellafieldへ再処理のため送られた。

再処理後 核燃料物質(Pu, U)と核分裂生成物(Sr-90, Cs-137などの高放射性物質)がドイツに同様な経路で返送され、Ahausに一時貯蔵所されている。Ahausには中間貯蔵所があるが、最終貯蔵所の立地の見通しはない。

1990年代後半には鉄道輸送はみどりの党の運動員らの激しい妨害を受けた。この反対運動はだんだん激しさを増し、1998年前半には運動員数が40000人に達し、列車の警備に出動する警官の数も40000人にのぼるという状態になった。

ドイツの毎日のTV、新聞の報道は線路脇で殴りあう警官隊と運動員を映し出していた。つまりこの時点ですでにドイツの原子力発電は法で定める事業として正常な状態をなしていなかった。

 4. 使用済み核燃料輸送容器の汚染スキャンダル

1998年5月には使用済み核燃料輸送容器の表面に基準値を超える放射性汚染があること、電力会社はそれを以前から分かっていながら隠していたことが報道された。

市民はもとより、この大スキャンダルに最も憤慨したのは警官の労組であった。法を守るため体を張って守っていた列車の車両にまで放射性汚染があったというのでは警官は救われない。

 5. 原子力降りの具体的な形

上記のような反原子力発電運動の経緯を見ると、今回の(1998)「原子力降り ,Atomausstieg」が国民からも、発電事業を含むドイツ工業界からも「しかたない」と受け入れられたことは理解できる。

その条件は:

 1)どの動力用原子炉も運転開始後32年を経た時点で原則閉鎖、

 2)政府は原子力発電会社に補償金を払わない、 

 3)最初の閉鎖は2002年12月に、最後の閉鎖は2021年になる予定、
 
 4)2005年7月以降は使用済み核燃料の外国での再処理の禁止、

 5)それまでは妨害せず。2000年に入ってからドイツの総合電機メーカー

であるSiemens社はその原子力部門を切り離し、フランスの原子力メーカーとの合弁にもっていった。

 6. 1950年以来の原子力政策

1960年頃すでに、当時の原子核物理学の知識で原子力発電からの電力量と放射性物質の発生量、その半減期の関係は正確に計算できる状況にあった。しかし、筆者を含めた原子力科学者たちは「夢のエネルギー 原子力」に酔いしれていた。

発生する放射性廃棄物の処理・処分の方法が確立していないこと、最終処分の立地の問題について国民に十分知らせ、原子力を選ばないという選択肢を考えなかった。

ちなみに、オーストリア、デンマーク、イタリア、フィリピンなどは原子力を採用しなかった。

筆者が1978-79年 研究のためドイツに滞在した時、ミドリっぽい知人からこの点に関して受けた警告を今も忘れることができない。

当時 みどりの党の活動は勢力の小さな草の根運動であった。一方、原子力開発には当時すでに1950-60年代のような勢いはなかった。しかし、あの頃みどりの党の言うことに耳を傾けた人はいなかった。

 7. 原子力政策の2つの間違い

第一の間違いは1950-60年代に科学者も政治家も放射性廃棄物の1000年を越える最終保管の技術的見通しと、保管の立地に関する国民の合意なしに原子力エネルギー政策を始めてしまったことである。

原子力以外の非化石エネルギー源(太陽光、風力など)の技術開発には第二義的な力しか投入されて来なかった。

第二の間違いはこれだけ大きくなった(ドイツでも日本でも総発電量の1/3)エネルギー源である原子力から降りることを代替エネルギー源の見通しなしに政治的に決定したことである。

この決定においても国民との本当の合意はなされていないのである。つまり、原子力を2021年までに全廃しても、これに代わる非化石エネルギー源の開発見通しは明らかではない。

二酸化炭素の排出規制のための1997年12月の京都会議の合意(これに最も熱心だったのはドイツが率いるEUであった)を進めた場合、国民は今までのような安いエネルギーに基づく便利で贅沢な生活は続けられかも知れないということへの合意である。

このことについてはっきりした認識はまだないように見うけられる。従って、冒頭のフランスの新聞の政治マンガのようなことになる可能性が大きい。

ライン(Rhein)河をはさんだドイツとフランス。このマンガの通りになったら、原子力から降りるも、降りないも同じことである。つまり、今回のドイツ政府の決定は政治の「お笑い劇」にしかならない。

 8. 我々はこれから何を学ぶか?

結論から言うと沢山学ばなければならない。なぜなら、我が国のこの問題に関する状況はドイツのそれに比べて、良くない。例えば、使用済み核燃料輸送容器のデーター改ざん、水増し,ねつ造(読売, 1998年10月23日)という事件はドイツに少し遅れて1998年10月に発覚している。

日本もこの先30年―50年の内に太陽エネルギーの恵みで工業生産を始めあらゆる経済・社会活動を営むことのできるシステムを構築しなければならない。これができれば、原子力などないに越したことはない。

現在、我が国の大学ではこの方向に向かう研究がかなり行われている。しかし、これらはまだ理学・工学の段階にあり、実用化、工業化、商品化に至るにはまだかなりの時間がかかる。希望と暖かい目でこれらの研究者を見てやってほしい。

(1986年ー 1988年 東京工業大学 / 原子炉工学研究所 / 教授 )
http://www2.gol.com/users/araie1ch/3_p1.htm


2011年05月30日

◆総理になれるか谷垣総裁

渡部 亮次郎

<本稿は、5月30日刊「頂門の一針」2276号に掲載されました>

谷垣 禎一(たにがき さだかず、1945(昭和20)年3月7日 ― )自由民主党所属の衆議院議員(10期)。自由民主党総裁(第24代)。

財務大臣(第3・4・5代)、国土交通大臣(第9代)、自由民主党政調会長(第50代)、国家公安委員会委員長(第69代)、金融再生委員会委員長(第3・4代)、科学技術庁長官(第56代)、産業再生機構担当大臣、きょうと青年政治大学校学長(第3代)を歴任。

また、旧加藤派を継承し谷垣派会長を務め、古賀派では代表世話人を務める。

文部大臣(第100代)を務めた谷垣専一の長男。影佐禎昭元陸軍中将は母方の祖父。名前の禎一は祖父から一文字を貰ったものだろう。

週刊文春(2005年12月8日号)で1988(昭和63)年訪中時に女性を買春し、
中国公安当局に尋問されたと報じられた。谷垣は名誉を棄損されたとし
て、謝罪広告の掲載と2200万円の損害賠償を求めて週刊文春の発行元で
ある文藝春秋側を提訴。

1審(東京地裁)は名誉棄損の成立を認めて文藝春秋側に330万円の支払
いを命じ]、2審(東京高裁)では1審判決を支持した上で賠償額を220万
円に減額。その後最高裁は文藝春秋側の上告を棄却し、2審判決が確定し
た。

身長176cm、体重80kg、血液型O。

尊敬する歴史上の政治家は聖徳太子。影響を受けた政治家は宮澤喜一。
初出馬の選挙戦を取材した辛口の政治記者は人物として合格点をつける。
司法試験合格に東大卒業後7年かかった。

京都府福知山市出身。麻布中学校・高等学校を経て、東京大学法学部を
卒業。短期間の弁護士生活を経て、父の死去に伴う補選で父の地盤を引
き継ぎ、1983(昭和58)年旧京都2区補欠選挙に自民党より出馬し初当選、
選挙区に20日間泊り込んで支援した白川勝彦や亡父も属した宏池会に所
属。

この補選では前尾繁三郎の死去にともない、同じ2区から野中広務も当選
しており、選挙の実務を担当したのが当時総務局長だった小沢一郎であ
る。

1993(平成5)年の非自民連立政権では野党自民党の国会対策の中心を担
い、1995年(平成7年)に衆院議院運営委員長。1997(平成9)年、第2次
橋本内閣改造内閣の科学技術庁長官として初入閣。総理府の原子力委員
会にて委員長も兼任した。

1998(平成10)年の金融危機にあって、小渕恵三総理大臣は宮澤喜一に
大蔵大臣就任を要請。宮澤が就任条件の一つとして谷垣の政務次官就任
をあげたため、閣僚経験者でありながら政務次官となった。

続く「金融国会」において金融二法の成立に尽力、引続き国務大臣・金
融再生委員会委員長に抜擢されたことで、経済政策のエキスパートとし
ての評価が高まった。

続く森内閣では、2000(平成12)年の加藤の乱に際して加藤紘一と行動
を共にして挫折。この際、山崎拓と二人だけで本会議に不信任票を投じ
に行こうとする加藤にすがりつき、

「加藤先生、大将なんだから! 一人で突撃なんてダメですよ! 加藤先
生が突撃するときは俺たちだってついて行くんだから!大将は自重しな
きゃダメですよ!」と涙ながらに慰留するシーンが話題となった。

2009(平成21)年9月28日、有効投票総数499票中300票を獲得し、第24代
自由民主党総裁に選出された。自民党総裁就任が内閣総理大臣就任に直
接繋がらなかったのは河野洋平、橋本龍太郎に次いで3人目である。

ただし、河野洋平は森喜朗の計らいで衆議院議長に就任し、橋本龍太郎
は連立を組んでいた日本社会党の村山富市内閣の退陣を受け、結果とし
て総理大臣に後から就任した。

現時点での総理未経験総裁は河野と合わせて2人目であり、「三権の長未
経験総裁」は現時点で谷垣のみ、「弁護士経験者たる自民党総裁」は初
代・鳩山一郎以来2人目。

次の総選挙で第一党になれば谷垣が総理になるが、この選挙で民主党の
敗退は確実視されるも、自民党が大勝する保障は未だ無い。

用意した菅内閣不信任案に与党民主党から造反票が81票出れば解散の可
能性ありだが、いかな小沢氏もそこはまだ読めないようだ。しかも自民
党内の人気はいまひとつ。優柔不断な性格がその理由。

1993年、小沢氏は野党の出した不信任決議案に造反して賛成票を投じ、
解散総選挙の結果、1993年8月9日宮澤を総辞職に持ち込んだ経験があ
る。

今度、小沢氏は与党でいながら菅内閣を総辞職に追い込もうとしている
わけだが、谷垣氏は小沢氏との地下水脈を保持しているだろうか。弁護
士上がりの合理的頭脳が政局的な冴えを見せるかどうか問われている。

22009年10月、政権奪還を意識する観点から自民党「影の内閣」の設置に
意欲を見せていたが、党内から「『影の大臣』と『大臣』の名がつけば
ポスト争いが始まる」との異論が出たため、構想は頓挫した。

10月19日には、秋季例大祭が行われている靖国神社へ参拝した。自由民
主党総裁の靖国神社参拝は2006(平成18)年8月15日(終戦の日)の小泉
純一郎内閣総理大臣(当時)以来3年2ヶ月ぶりの参拝だった。

谷垣は『産経新聞』の取材を受け、2006(平成18)年の自由民主党総裁
選で「首相に就任した場合は参拝を自粛する」と表明していた ことにつ
いて、「当時の国際関係を考慮し、総理はあの時点では差し控えるべき
だという意味です」と述べ、

「野党になったから参拝したのか?」との質問には「野党であるという
ことを斟酌してというよりも、戦争で亡くなられた英霊をお祀りする場
は必要だと思う」と答えている。

靖国神社に代わる国立追悼施設の建設については、総裁選時に「他の施
設を造るのは賛成できない」と述べており、この時も記者団に対し、
「戦争に従軍した方々は『戦死したら靖国神社に祭られる』という思い
を持って亡くなった方が大勢いるので、その重みはある」と述べ、慎重
な構えを見せた。

2009(平成21)年11月15日、東京都昭島市内でサイクリング中、逆走し
て来た別の自転車と接触し負傷、左目の周囲を数針縫う治療を受けた。
自宅で静養後、11月24日に活動を再開した。

11月26日、民主党や公明党などが成立を目指す外国人参政権について
「反対だ」と明言した。また、「党全体を賛成の方向でまとめていくつ
もりは全くない」とも語り、自民党としても外国人参政権に賛成をしな
いという意向を示した。

天皇特例会見問題では、民主党政権を批判。小沢一郎民主党幹事長の
“国事行為発言”についても批判し、「天皇の政治利用」とする認識を
示した。また、天皇の訪韓にも慎重な姿勢を示した。

政界でも指折りの自転車愛好者で、自転車活用推進議員連盟と日本サイ
クリング協会の会長を務め、総裁就任後は選挙応援や地方遊説にも自転
車を活用している。

自転車関連でのメディア露出も多く、例えばムック本『イエローバイシ
クル では、111.28kmの距離(いわゆる「ロングライド」の距離である)
を同誌編集長と共に自転車で走りながら語り合うという前代未聞のイン
タビューを受けたり、単行本『自転車会議』には共著者として名を連ね
たりしているほどである。

愛読書は四書五経など中国の古典や宋代の詩人・蘇東坡の漢詩などで、
しばしば中国の故事を引用する。また読書を巡るインタビューでは、竹
越与三郎の『二千五百年史』、田口卯吉の『日本開化小史』、北畠親房
『神皇正統記』、新井白石『読史余論』といった史論への嗜好を語って
いる。

ワイン愛好家で名誉ソムリエの称号を持つ。もっともかつての宏池会の
同僚代議士であった森田一によれば、ワインは蘊蓄派というよりガブ呑
み派の酒豪だという。

読売ジャイアンツの熱烈なファンであり、東京ドームで野球観戦する際
にはプロ野球選手のプレーに批評を加えるほど[36]。京都府遺族会会長
を務める。(「ウィキペディア」)2022・5・29


◆与党倒閣運動の難しさ

渡部 亮次郎

政権党による総理辞任要求は民主党が始まりではない。自民党反主流による「三木降し」があった。現職総理を辞めさせる事は、極めて難しいのである。小沢氏もその実技は経験していない。宮澤政権を不信任案賛成で斃した経験はある。

ロッキード事件発覚後、三木武夫首相は「日本の政治の名誉にかけて真相を明らかにする必要がある」との態度を表明。

予算委員長の荒舩清十郎を後押しして1976年2月16日、事件関係者として小佐野賢治、全日空社長の若狭得治、丸紅社長の檜山広等の証人喚問と、病床にあった児玉誉士夫を病院で尋問を実現、その全容を明らかにした。

しかし、元々左派にあったこの三木の姿勢に対し、自民党内部の反発と怨念をかもし出しはじめた。

こうした中、三木政権生みの親である椎名悦三郎は、「はしゃぎすぎ」と発言し、三木退陣工作を勧める。これが、いわゆる「第一次三木おろし」である。

しかし、この時はマスコミ、世論が「ロッキード隠し」と批判を強め、これを受け一旦は「第一次三木おろし」が収まった。

しかし1976年7月27日の田中角栄の逮捕で三木おろしの動きが活発化していく。

田中角栄が8月17日に保釈されるのを待っていたかのように、8月19日には反主流6派(田中派・大平派・福田派・船田派・水田派・椎名派)が中心となって自民党議員277人で「挙党体制確立協議会」(挙党協)を結成。代表世話人に船田中元衆議院議長が就任。

小沢氏はこの時代、まだ自民党におり、田中派に所属していたが未だ幹部ではなかったから、修羅場に出る事は無かった。

挙党協は三木首相に対して退陣要求を突きつけた。この時、三木政権に協力する派閥は三木派と中曽根派だけという状況であった。

ただし挙党協は反三木では一致していたものの、三木退陣後の次期首相擁立について福田赳夫か大平正芳の二人のどちらかに絞りきれていない脆さが存在していた。

三木は「ロッキード事件解明」という世論の支持を背景に衆議院解散とこれに反対するであろう閣僚の罷免をちらつかせて対抗を図る。

臨時国会召集を決める1976年9月10日の閣議で三木は会期冒頭での衆議院解散を諮ったが、挙党協に参加している15閣僚は解散署名に拒否する姿勢を示した。

三木は閣僚を罷免してまで解散権を行使することはなく、9月15日に内閣改造と自民党役員人事の刷新を行い、派閥の領袖である福田・大平以外の13閣僚を交代させた。

挙党協も三木の抵抗の攻め手に喘ぐだけだった。かくて、最終的に三木は挙党協の攻勢をしのぎきったが、臨時国会の閉幕と共に(密約の成立により)約挙党協から次期総理・総裁候補に推挙された福田が閣内から去る。

12月に行われた日本国憲法下、初の任期満了による総選挙では、挙党協議員は自民党公認を受けながら、党本部とは別に選対本部を設置し、分裂選挙となった。

その結果、自民党は結党以来初めて過半数割れする敗北を喫し(無所属候補の追加公認後に過半数を維持することが出来たが、定員が20増えていたにもかかわらず改選前8議席減と惨敗といってよい結果だった)。三木内閣は責任を取って退陣した。

任期満了に伴う総選挙での敗北を理由の退陣だから、三木降しは形式的には成功したとは言えない。逆に言えば「辞めたくない首相」は、それだけ強い。海千山千の小沢氏は、その事は良く承知しているだろう。

三木は元々、1974年(昭和49年)12月、田中総理の内閣総辞職で行われた後継総理選出において、椎名悦三郎副総裁の指名裁定で総裁に就任(椎名裁定)したものだった。

この裁定に三木自身が「青天の霹靂」とコメントしたほど意外性をもって受け止められた。ただし三木には椎名裁定以前に椎名から事前に指名される旨が伝えられている。

これについては、金権政治に対する批判を一時的にかわすためであると見られたことと、後述する三木の政治的な立ち位置をもじって「左のワンポイントリリーフ」とも評された。

三木政権は政治浄化に着手し、公職選挙法や政治資金規正法を改正し政治献金の額に上限を設けさせた(三木は当初企業献金の全廃を意図していたが党内の猛反発に遭い断念した。これが三木おろしの遠因になったという説もある)。また防衛費1%枠を閣議決定した。
「ウィキペディア」2011・5・28