2011年05月11日

◆首相公選論の再燃

渡部 亮次郎

日本国憲法では国会の議決に基づいて内閣総理大臣を指名するとしているため(67条1項)、首相公選制を導入するには憲法改正が必要になる。 中曽根元首相が1961(昭和36)年に直接の国民投票による首相公選制度を提唱したことで、知られるようになった。

中曽根氏は当時、河野一郎氏の束ねる河野派にあり、ここに居ては河野氏存命中は首相の座を望めないとおもいつめたのか、全国いたるところに看板をかかげ、「国民運動」として運動を展開した。

全く実現の機運は向いてこなかった。そのうちに1965(昭和40)年7月8日に河野氏が急死。それを機会に「中曽根派」の結成に成功、なぜか運動は尻すぼみになった。それを46年ぶりに大阪をかき回し中の橋下知事が突然、言い出した。


<橋下徹知事「首相公選制」導入を主張

橋下徹大阪府知事は9日、大阪市北区で開かれた憲法施行記念式のあいさつで「国会議員から一国のリーダーを選ぶ権限、人事権を国民の下に取り戻す運動が我が国に最も必要な政治運動だ」と述べ、現行憲法を改正し国民が直接首相を選ぶ「首相公選制」導入を目指すべきだとの考えを示した。

橋下知事は「国政が機能していない」と指摘したうえで「国会議員がリーダーをフリーハンドで選ぶ。だからこそ国民の意思とリーダーの意思が乖離(かいり)する。ここにこそ日本の政治の最大の欠陥がある」と強調した>毎日新聞 5月10日(火)1時31分配信

看守生姜と国民の意思が乖離する現下の政局を憂え手の発言か、嘗ての中曽根氏のように「国民的人気さえあれば、派閥の領袖でなくても首相になる道がここにあり」とする彼らしい野望を披露したものか否か、東京に居ては私には確かめようがない。

中曽根氏が獅子吼して居たころ、河野氏や岸元首相らは、主に天皇との関係から実現を不可能と冷ややかに看ていた。

議院内閣制を残したままでの首相公選制には国権の最高機関で唯一の立法機関である国会との関係など問題がある。 また、天皇制擁護の立場からは国民が直接選出した公選首相と国民統合の象徴である天皇との整合性を問題点として指摘されることもある。

国民を直接代表する公選首相は必然的に大統領的性質を帯びるものとなり、日本国の象徴であり、公式見解ではほぼ元首としてさしつかえがないとされている天皇と矛盾しないかといった問題である。

古い友人の政治評論家屋山太郎氏や小沢一郎氏は上記の「国柄」と政局の流動化を理由に導入に反対し、むしろ小選挙区制とそれにともなう二大政党制の浸透こそが首相の権力を強化させ、政治への信頼を高められるとしている。

元首相の小泉純一郎は2001年6月26日に「首相公選制を考える懇談会」を開催し、首相公選制など、総理大臣と国民との関係を検討し、具体的提案をすることとした。2002年8月7日には12回にわたる会議の結果を踏まえ「首相公選制を考える懇談会」報告書が小泉に提出された。このなかで、

 1.首相と副首相をセットで国民が直接選出する案

 2.憲法に政党条項を導入し各政党が首相候補を明示して選挙を行う案

 3.政党(野党第一党と与党第一党)内での党首選出手続きを国民一般に開かれたものにする案の3つが提案されたことがある。


「政党内(与党第一党と野党第一党)での党首選出手続きを国民一般に開かれたものにする案」と衆院小選挙区のセットであれば「皇室伝統と矛盾しない首相公選制」であり既に実現しているといえよう。

首相の地位の強化、三権分立の強化となるため、公選制を提唱する意見も多くある。2000年に発足した森内閣が自民党の一部の幹部による密室で誕生したこと(五人組)から、導入意見が一時盛り上がった。

公選首相と天皇との整合性についても、公選首相を天皇が任命する形式を残す、首相公選制導入と共に憲法を改正し、天皇を元首と明文化する等すればそもそも両者の矛盾は発生しないといった意見から、天皇は日本の元首とはいえないので、そもそも両者の間に矛盾は生じないといった意見までさまざまである。

東京都知事の石原慎太郎は導入に賛成である一方、天皇の元首化は不可欠としている。

風雲児橋下知事の上げたアドバルーン。何処へどうなるやら。大阪「都」論と同様行方はわからないない。流行(はやり)のいいかたでは見通しは不透明だ。

参考資料「ウィキペディア」 2022・5・10

◆ 本稿は、5月11日(水)刊「頂門の一針」2258号に
掲載されました。

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2011年05月10日

◆浜岡は菅首相人気とりの小道具

渡部 亮次郎

やはり睨んだとおりだった。中部電力に対する菅首相の浜岡原発の停止申し入れは、何の根回しも下相談もない、市民運動家・菅直人の思いつきパフォーマンスだった。

市民運動家には哲学も国家観も無い。権力に対して野次りに終始し、パフォーマンスで、大衆の歓心を買っていれば千に一つぐらいの当たりがあるかも知れない。宝くじを買って捨てているようなものだ。

菅首相のやること為すことに「心」が無いと各方面から指摘されるのは信念も国民に対する「愛」が全く無いからである。

それが、突然「国民のために浜岡原発の停止」を言い出したから、当然、既に諸々の対策の目途がついたのだろうと思ったが、やはり単なる人気取りのパフォーマンスにすぎなかった。発表記者会見の僅か40分前に中電に対して一方的に通告をしただけであった。

海江田経産相が5日、浜岡原発を視察した際も中部電には話は全くなかったという。

まるで「原発反対」の声に答えれば落ち目の三度笠、大いに持ち直すと勘違い。浜岡原子力発電所を小道具にした手品をやろうとしたらしい。中部電力こそ、いい面の皮じゃないか。

中電も一流企業なら、要請は断乎、拒否すべきだ。私に対して役員たちは何十年も「安全だ」と説いてきたのじなかったか。男ならその「信念?」を貫け。

<浜岡原発の立地上の特異性は以前から指摘されていたことで、東日本大震災後に新たに差し迫った危険が生じたわけではない。

国と電力会社と住民は、これらを十分に理解したうえで、安全な運転について合意してきた。運転停止要請はあまりにも突然で、これまでの合意形成の経緯をも否定するものになりかねない。

浜岡原発を止めることによる電力供給減対策も、説明は不十分だ。住民らの節電で電力不足を乗り切りたいとしたが、運転停止の期間や再開の見通しなど具体的な説明は聞かれなかった。

これでは、国民は国のエネルギー政策そのものを信頼できなくなる>という産経新聞の社説は訴えるが、人気回復、政権すがりつき優先の菅首相にとって、その視界に実は国民は存在して無いかも知れない。

<中部電への要請、首相会見の40分前

中部電力が結論を持ち越したのは、浜岡原子力発電所の停止分を補う火力発電の手当てや政府の支援策が不透明な中で、安易に受け入れを表明すれば、株主らの反発が避けられないと判断したからだ。

今回の停止要請は、中部電にとって寝耳に水だった。6日夜の首相記者会見のわずか約40分前、海江田経済産業相から水野明久社長に電話があり、その後、対応に追われた。海江田経産相が5日、浜岡原発を視察した際も中部電には話は全くなかったという。

名古屋市内の中部電本店で7日午後1時から開かれた臨時取締役会には、水野社長、三田会長ら役員、監査役19人が出席。

会議の冒頭、三田会長が「(首相の要請に対し)皆さんの意見や質問を言ってほしい」と提案。出席者が業績への影響や燃料調達の見通しなどについて自由に意見を出し合った。最後に水野社長が「いろいろな意見を持っているようなのでもう一回考えよう」と約1時間半の議論を打ち切った。> 読売新聞 5月8日(日)3時4分配信


<浜岡原発以外は停止求めず=風評被害は補償―菅首相

菅直人首相は8日午後、中部電力浜岡原発以外の原発の運転停止を求める可能性について、「それはありません」と述べた。中電が浜岡原発停止要請の結論を持ち越したことについては、「しっかり話をして、理解をしてもらいたい」と述べ、要請を受け入れるよう期待を示した。都内で記者団の質問に答えた。

一方、東京電力福島第1原発事故で風評被害を補償の対象とするかどうかに関して、「風評被害を含めて、ちゃんと(東電などに)責任があるものは、ちゃんと補償するべきだ」と語った。>       時事通信 5月8日(日)14時23分配信

2011年05月09日

◆思い出の文革四人組

渡部 亮次郎


中国史における四人組(よにんぐみ)とは、中華人民共和国の文化大革命(犠牲者2000万人といわれる)を主導した江青、張春橋、姚文元、王洪文の四名のことを指す。ほかの「四人組」と区別する為に「文革四人組」とも呼ばれる。2005年までに全員が死亡した。

特に毛沢東の4番目の夫人でもあった江青(こうせい)は獄中で首吊り自殺した。

プロレタリア独裁・文化革命を隠れ蓑にして極端な政策を実行し、反対派を徹底的に弾圧し殺害したが、中国共産党中央委員会主席毛沢東の死後に失脚し、特別法廷で死刑や終身刑などの判決を受けた。

中華人民共和国では四人組のことを話すときにわざと指を五本立てて話すことがある。これは、四人組の横暴を許した毛沢東を指し、四人組ではなく実際は毛沢東を首魁とした五人組であった事を暗示しているという。

1960年代半ばから約10年間にわたる文化大革命(文革)において、江青(中国共産党中央政治局委員、中央文革小組副組長、毛沢東夫人)、張春橋(国務院副総理、党中央政治局常務委員)、姚文元(党中央政治局委員)、王洪文(党副主席)らは勢力を伸張。

1971年9月の林彪墜死以降、中国共産党指導部で大きな権力を握るようになった。日本から田中角栄首相が初めて中国を訪問、周恩来総理と日中共同声明を発表したのは72年9月だった。

その時、私はNHK記者として田中一行に同行。周恩来との記念写真に納まった。その後、田中首相は上海を訪問して1泊。上海市長としての帳春橋が歓迎に当たり、私も握手を「賜った」。この事は別のところで書いたが、実に軟らかい手だった。

なお、このときの別れ際、送ってきた周恩来が田中首相に「天皇陛下に宜しく」と発言したと言うが、私ははなれた場所にいたので聞き漏らした。

それから2年後の1973年8月の第10回党大会では四人全員が中央政治局委員となり、この時から局内に四人組が成立する。

四人組は従来の文革路線を踏襲して能力給制や余剰生産物の個人売買を認める政策を激しく批判して、政敵を迫害・追放した。この権力闘争は「党内の大儒」として暗に周恩来を批判する批林批孔運動や、復活していた?(トウ)小平の打倒へと続いた。

毛沢東は1974年7月の中央政治局会議で「四人で小さな派閥をつくってはならない」と江青、張春橋らを批判した。また1974年10月には王洪文が!)小平を批判してその筆頭副総理就任を阻止しようとしたが、逆に毛沢東から叱責されるなど、必ずしも全権を握っていたわけではなかった。

1976年1月の周恩来の死去を契機に、第一次天安門事件などで民衆の反四人組感情が高揚したが、四人組は権力闘争を続け、?小平を再度の失脚へ追い込んだ。

続く1976年9月9日の毛沢東の死去で、四人組はその象徴を失ったにも拘わらず、文革路線の堅持を主張して支配を確立しようと、毛の遺体を永久保存させるなどしたが、政権は華国鋒に引き継がれた。華は毛沢東が革命中、ある女性に生ませた「息子」だった。

その急速な出世ぶりは「ヘリコプター」の離陸に譬えられた。

国防部長(大臣)で反文革派の葉剣英(中華人民共和国元帥)から支持を受けた華国鋒らと文革堅持を主張する四人組の対立は毛の死直後から急激に表面化した。

上海の文革派民兵による砲台明け渡し要求をきっかけに反文革派は四人組の逮捕を決断。1976年10月6日、四人組は汪東興が率いる8341部隊によって北京で逮捕された。

四人組は1977年7月の第10期3中全会で、党籍を永久剥奪された。続く8月の第11回党大会では、1966年以来11年にわたった文革の終結と四人組の犯罪が認定され、また実権派として迫害・追放されていた党員の名誉は回復されて復職した。

1980年11月20日から1981年1月25日までの間、四人組は最高人民法院特別法廷でクーデター計画や幹部および大衆の迫害など、4件の罪状によって裁かれた。

江青:容疑を全面否認し、1981年に死刑判決(後に無期懲役に減刑)。

1991年5月14日に、北京市北部の北京市昌平區にある小湯山秦城監獄で精神病の療養中に首吊り自殺した。古新聞の片隅に書かれた「毛主席 あなたの生徒 あなたの妻が いま…会いに行きます」というのが遺書である。

自殺については6月4日なってようやく新華社より発表された。本人は「生家の山東諸城に埋葬してほしい」と遺言状に残していたが、トラブルを懸念した江沢民が娘の李訥(毛沢東との唯一の娘)を説得し、北京の北京福田共同墓地に埋葬するよう説得した。

また葬儀費用約5〜6万元は李訥が負担させられた。墓石には、「先母李雲鶴之墓 1914年〜1991年 娘 娘婿 外孫建立」と彫られ、江青の墓とはわからないようになっており、また埋葬者の名前も刻まれていない。

死後も、「悪女」として名を馳せ娘の李訥が迫害を受けたり、日本では西太后らと共に悪女として名を連ねた番組が放映されたりしていたが、近年の中華人民共和国内では、毛沢東を主役にしたドラマなどでは賢女にされたり、同国の一部では「名誉回復」されている。


王洪文:容疑を全面的に認め、1981年に無期懲役判決。1992年、病死。

張春橋:黙秘を貫き、1981年に死刑判決(後に懲役18年に減刑)。2005年、胃癌のため死去。

姚文元:容疑の一部を認め、1981年に懲役20年判決。2005年、糖尿病のため死去。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2011・5・6

2011年05月08日

◆殺害に残る謎の解明

渡部 亮次郎

米国が「正義を達成した」と誇る国際テロ組織アルカイダの最高指導者ウサマ・ビンラディン容疑者の殺害には、いくつかの「謎」も残る。遺体をなぜ水葬したのか、容疑者本人と断定した鑑定に疑問はないのか、パキスタンの首都近郊で敢行した今回の作戦が本当に米単独で可能なのか−−これらを毎日新聞が「検証」している。

<ビンラディン容疑者殺害>残るいくつかの「謎」を検証>(毎日)

 ■米空母から海へ

米国防総省高官によると、水葬は2日未明(米東部時間)、北アラビア海に展開する原子力空母カール・ビンソンの甲板で執り行われた。体を清めて白い布で包むなど約1時間かけて準備した後、遺体を海中に下ろしたという。AP通信は当局者の話として、水葬の理由を「遺体の引き取り手がないため」と伝えた。

京都大大学院の小杉泰教授(イスラム学)は「イスラム社会では通常、死亡した翌日までにモスク(イスラム礼拝所)で祈りをささげて埋葬するのが慣例」と解説する。

イスラムでは、人間は土から創られたとされ、死後は再び土に返すため必ず土葬する。水葬は、船上で死亡して遺体を保存できないなどの場合にしか認められない。

地上で殺害されたビンラディン容疑者は、こうした例外ケースに当たらない。小杉教授は「葬儀は共同体の連帯義務で、引き取り手がない場合でもモスクに遺体を運べば埋葬してくれる」と説明し、「米当局の行為には遺体が奪回されるのを避けるため海に『捨てた』との疑念を持たれる恐れがある」と指摘した。

 ■「99・9%」一致

米当局は、遺体から検出したDNAとビンラディン容疑者の親類のDNAを調べた結果、「99・9%」一致したと説明。さらに、殺害現場で米軍特殊部隊が撮ったビンラディン容疑者の遺体の顔を照合した結果も「95%」合致したとして、本人と断定した。

筑波大大学院の本田克也教授(法医学)は「一般的に確実に本人と断定するには最低限、親子関係でのDNA鑑定が必要だ」と説明する。さらに、鑑定対象がビンラディン容疑者のような重要人物であれば「血痕など本人の試料で『同定』しているはずだ」と言う。

DNA鑑定の結果が判明するには少なくとも半日程度はかかる。米当局の発表では、急襲作戦でビンラディン容疑者を殺害し、その日中に早々と「本人」と断定した。

本田教授は「1日で鑑定を終えること自体は不可能ではない」としながらも、「『同定』を確実にするには同じ鑑定者、鑑定機関で2、3回は確認すべきだ」と指摘。「本人と言えるほど十分な鑑定が行われたのだろうか」と話した。

 ■事前通告した?

米当局は今回の作戦実施について、パキスタン政府には事後報告したと説明している。しかし、現場はイスラマバード近郊のパキスタン軍施設が集まる町だ。

現地に詳しい外交筋は「他国のヘリが夜中に軍事作戦を始めて反応しないはずはない。(パキスタン軍が静観したのは)直前に米側から通告があったからだろう」とみる。

これに対し、大阪大の山根聡教授(南アジア・イスラム文化)は、「パキスタン軍の一部はビンラディン容疑者の潜伏に気づいていたはずだ」と指摘。

米側がパキスタン当局から容疑者に情報が漏れるのを警戒して「事後報告か、何か別の作戦を実施すると説明していた可能性はある」と分析し
た。

米国が他国で遂行した今回の作戦について、現地情勢に詳しい田中浩一郎・日本エネルギー経済研究所理事は「事後通告なら明らかな主権侵害であり、事前でもパキスタンの同意がなければ主権侵害だ」と指摘する。

ただ、国内の反発を考えればパキスタンには同意できない事情もあり、「(作戦が実施されたこと自体には)驚かない」との見方を示した。毎日新聞 5月4日(水)12時50分配信

2011年05月06日

◆食い物を政府が規制するな

渡部 亮次郎

厚労省、「生の牛肉」指導強化を検討、とTBS系(JNN) 5月5日(木)12時42分配信でニュースを流した。

言うまでもなく富山、福井で起きたO111による集団食中毒での死者が5日に4人にも達したところで「厚生労働省は何をのんびりしてるんだ」と非難されるのを先取りした、いかにも役人らしい動きである。

親族に、香辛料一切駄目という75を過ぎた女性がいるが、どう言うわけか一緒に焼肉屋に入ると、焼肉より生肉「ユッケ」を食べている。偏食など無関係といった顔をして食べている。

私は元々川魚を必ず煮たり焼いたりして食べる習慣が長く、寿司や刺身は老人になってから初めて食べたぐらい。馬刺しは食べても生の牛肉とか「ユッケ」は食べたことが無い。

<厚生労働省によりますと、2008年以降、食肉処理場から生食用の牛肉の出荷が無くなり、現在は加熱用の肉しか出荷されていませんが、実際は焼肉店で生食のユッケなどが広く提供されています。

今回の事件を受けて、厚生労働省は生の牛肉を提供している飲食店に対する立ち入り検査を強化し、生の牛肉の提供は原則行わないよう指導を強化する方向で検討していることがわかりました。

早ければ、6日にも都道府県の衛生担当部局に対し検査の強化などを要請する見通しです。

また、肉の生食について、衛生管理のガイドラインはあるものの、罰則がないことから罰則付きの新たな基準を設けることも検討しています。>BS系(JNN) 5月5日(木)12時42分配信

庶民がユッケを食べるのは勝手にさせたほうが民主主義じゃないか。O111に感染するかしないかは、それこそ自己責任に任せるべき。どうしても食べたいなら命賭けでたべたらよろしいではないか。
.
ユッケ(肉膾)は、生肉を用いた韓国の肉料理。

この名前が示す通り、生肉を使った韓国式のタルタルステーキ様の料理である。生の牛肉(主にランプなどのモモ肉)を細切りにし、ゴマやネギ、松の実などの薬味と、醤油やごま油、砂糖、コチュジャン、ナシの果汁などの調味料で和え、中央に卵黄を乗せて供する。

ナシやリンゴの千切りを添えることも多く見られる。食前にはよくかき混ぜるのが良いとされる。

ユッケをビビンバに乗せたものは、ユッケビビンバと称される。晋州市の郷土料理は特によく知られており、ご飯やナムルの上に乗った赤い牛肉を花に見立ててファバン(花飯)とも呼ばれている。

1800年代末期の『是議全書(朝鮮語、中国語)』に掲載されている調理法では、薄く切って血抜きした牛肉を細切りにし、ネギ、ニンニク、唐辛子、蜂蜜、油、松の実、ゴマ、塩などで和えるとしている。

また食べる際にはコチュジャンと食酢をあわせたチョコチュジャンを加えるのもよいとされている。

日本でも焼肉店の定番メニューである。そのほか各種の料理店では様々にアレンジされ、牛の舌(タンユッケ)、牛の内臓、鶏肉、マグロ、鰹、馬肉で作られる場合もある。

ユッケは生肉を食するものであるため、動物の腸などから付着した腸管出血性大腸菌やサルモネラなどに感染する可能性がある。このため旧厚生省は「生食用食肉の衛生基準」(1998年 9月11日生活衛生局長通達)により生食用食肉の規格や衛生管理について定めている。

しかし、これに基づく生食用食肉の出荷実績がある施設は馬肉とレバーだけだった。この基準が遵守されず、多くの加熱用食肉が飲食店の自主判断で生のまま提供されているという。

毎年、20件ほど食中毒が発生している。主な例では2008年に炭火焼肉たむらで起こった。

2011年(平成23年)には、4月に焼き肉チェーン店焼肉酒家えびすの、富山県の砺波市にある店舗で和牛ユッケを食べた男女15グループ24人が発熱や下痢などの食中毒症状を訴え、腸管出血性大腸菌O157・O111が検出された。

そのうちの焼肉とユッケを食べた6歳の男児1名(O111を検出)および、別のグループの40歳代女性1名[6]と70歳代女性1名[7]がそれぞれ死亡。

さらに福井市にある同じチェーン店でユッケを食べ、O111に感染した男児1名も死亡したことが判明した>。出典: フリー百科事典『ウィキペディ
ア(Wikipedia)』 2011・5・5

◆巴里だより 上り下りの船人が

岩本宏紀(在仏)

復活祭の月曜日、アムステルダムに流れ込むアムステル川。
春のうららのこの川は
上り下りの船人で溢れていた。

オランダでは海に出なければ、つまり
川や湖であれば、免許証なしで船に乗れるそうだ。

大金持ちでなくても舟をもち、
天気のいい日にはビールと食べ物を積み込んで、
のんびりとクルージングを楽しんでいる。

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<添付画像:アウダーケルク(古い教会)村のカフェにて。>
川べりにあるので、船人も簡単に入ることができる。

序でながら・・・。
1ヶ月目に我が家に来たゆめちゃんは、日ごとに
お転婆になっていく。人前では猫をかぶるが、
家に戻ると何にでも噛みついて大変だ。

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2011年05月05日

◆「作文に不可欠なリズム」

渡部亮次郎

(再掲)私が記者生活を本格的に始めたのは秋田県大館市での通信員生活、1958年の春だった。放送の文章は誰にも教わらなかった。地方ではラジオだけのNHKだった。

毎日4時に起き、近くの大館警察署を訪れる。火事と交通事故の報告書を見せてもらって、大きいニュースは秋田放送局経由で仙台中央放送局に送ってもらった。

NHK広しといえども朝4時から起きている地方記者は居ない。私だけだ。だから私の原稿は次第に全国に有名になった。なぜなら宿直の「デスク」は、早朝、「昨日」のニュースにうんざりしている。

早朝に入ってくる「今日の」ニュースに飢えているから優先的に扱われる。

次第に「大館のワタナベ」が有名になり、翌年の記者採用試験に合格した。その更に5年後、政治部記者に発令された。そこでは誰もが毛嫌いした実力者河野一郎さんに気にいられて毎日曜日、競馬に連れて行かれた。

そんなわけで私の文章は行儀ばかりいいNHK的では無い。はじめから売れるか売れないか、売れない文章は書かない、という文章になってしまった。今から35年ぐらい前は1字10円で雑誌に売れたし、最近は25円だった。

私の文章には一つとして無いものがある。それは「そして」だ。そして程、邪魔になるものは無い。私の文章にはリズムがある。聞いている人にわかりやすいよう、書きながら心の中で歌っているからだ。

リズムの無い文章は読んでいて疲れる。読者を疲れさせる文章を「悪文」という。

いかに論理が通っていても、リズムが無くて、素直に読み進めない文章は悪文だ。悪文は書いていないのと同様だ。注釈の多い文章,言い訳の目立つ文章は悪文の最たるものだ。

正しいことを主張していながら、反駁を予期して注釈、言い訳の多い文章を見ると吐き気がする。反駁など、この世に生きている限り茶飯事である。恐るに足るものではない。

「そして」を多用するのは切るべきでないところで文章を切るからである。歌っていないから、息を吸うべきところで吐き、吐くべきところで吸うから、どうしても、「そして」でつながざるを得ない事になる。

読む方もリズムが乱されるから、息が苦しくなってしまって読むのを止めてしまう。新聞や雑誌と違って、目ではなく耳で聞く文章を書き続けているうちにできた習慣である。

「そして」は使わないが「かくて」とか「然(しか)るに」とか文語文の用語が時々使われる。自然に出てくる。高校で唯一満点が漢文だったからだろう。

欠点は論理的でないこと。或いは箇条書きをしないことだ。NHK政治部の先輩に上級国家公務員試験(当時)を2番で通りながら敢て入社してきた秀才がいた。厚生省(当時)を担当していた。

健康保険の改正法案の説明原稿。あるデスクがこぼしていた。彼の原稿はレンガ積みみたいになっているから、長くても削れない。削ると全体が崩れてしまって収拾がつかなくなる。

しかし、そういう文章を耳だけで聞かせる文章としては悪文というべきだろう。デスクは納得させられるが聞いている人たちに理解できるわけが無い。

高級官僚のポストを敢て棄ててきた彼だったが、労組にクビを突っ込んで、いわゆる出世はせずに終わった。

メルマガの文章はエッセイだから起承転結も論理性も統一されている必要は無い。読者に訴えて一定の結論を得ようというものではないはずだからだ。

いくら書いても文章が上手くならないと嘆く人が居るが、そんな事は絶対にない。書けば書くほど進歩している。自分で気がつかないだけだ。進歩している。

だから書け、書け。2008・06・29

2011年05月03日

◆ビンラディン「戦死」

渡部 亮次郎

国際テロ組織アルカイダ指導者のオサマ・ビンラディン容疑者が1日、潜伏中のパキスタンで米軍に襲撃され、銃撃戦40分の末、殺害された。

アメリカのオバマ大統領は同日夜、緊急演説で、この事実を発表。「しかし「その死でわれわれの取り組みが終わるわけではない。アルカイダは今後もわれわれに対し攻撃を仕掛けようとするだろう。われわれは今後も国内外において警戒を続ける」と続けた。

<作戦約40分間の末ビンラディン容疑者を殺害「正義を達成」(CNN) 

オバマ米大統領は1日夜、国民に向けて演説し、米軍が同日パキスタンで実施した作戦で、国際テロ組織ア

ルカイダ指導者のオサマ・ビンラディン容疑者が死亡したと発表した。ビンラディン容疑者は、3000人を超す犠牲者を出した2001年米同時多発テロの首謀者とされ、米国が10年以上前から行方を追っていた。

米政府高官がCNNに語ったところでは、米軍はパキスタンの首都イスラマバードから約100キロ北部にある邸宅でビンラディン容疑者を殺害したという。家族も一緒だったとされる。

オバマ大統領は演説の中で、同容疑者の死は「アルカイダ撲滅を目指すわが国の取り組みにおける過去最大の成果」だと強調した。作戦は少人数の米軍部隊が実行。

米国人の負傷者はなく、民間人にも死傷者が出ないよう配慮したとしている。ビンラディン容疑者は銃撃戦の末に死亡し、作戦終了後に米軍が遺体を回収したという。

大統領によれば、昨年8月の時点でパキスタン国内のビンラディン容疑者の潜伏先に関する情報を得たとの報告を受け、先週になって行動を起こせるだけの情報が集まったと判断した。「同容疑者の死は平和と人間の尊厳を信じるすべての人に歓迎されるだろう」「正義が実った」と述べた。

しかし「その死でわれわれの取り組みが終わるわけではない。アルカイダは今後もわれわれに対し攻撃を仕掛けようとするだろう。われわれは今後も国内外において警戒を続ける」と続けた。

さらに、米国はイスラム教と戦争をしているわけではないとも強調、

「ブッシュ前大統領が同時テロの直後に述べたように、これはイスラム教との戦いではない。ビンラディンはイスラム教の指導者ではなく、イスラム教徒の大量殺人者だ」と指摘した。

パキスタン高官が明らかにしたところでは、ビンラディン容疑者が死亡した現場には同国情報機関の統合情報部(ISI)もいたという。

米政府高官は、この作戦ではほかに男性3人と女性1人が人間の盾として使われ死亡したと述べた。作戦は米海軍特殊部隊が実行し、約40分間続いたとされる。議会関係者によれば、ビンラディン容疑者は頭を撃たれて死亡したという。>CNN.co.jp 5月2日(月)15時12分配信


<大統領声明によると、米政府はパキスタン当局の協力で昨年8月、ビンラディン容疑者がパキスタンに潜伏していることを突き止めた。

先週、身柄を確保するための作戦に乗り出すことを決め、オバマ大統領の命令で1日、同国北部アボタバードの潜伏先で作戦が実施された。ビンラディン容疑者は銃撃戦の末に死亡し、遺体は米政府側が確保したと
いう。

ビンラディン容疑者の死亡によって、アルカイダの求心力が大きく低下することは間違いない。今年7月に、アフガニスタンからの駐留米軍撤退を始めるオバマ政権にとって、極めて大きな成果と言える。一方、指導者を失ったアルカイダ側が、欧米を標的にした「報復テロ」の動きを強めるおそれもある。

このため、オバマ大統領は「我々は国内外で警戒心を保たねばならない」と、テロへの警戒を呼びかけた。また、「米国はイスラム世界と戦争しているわけではない」とも述べた。

米同時多発テロの直後、ブッシュ前米大統領はアフガニスタンのタリバーン政権に対し、国内に潜伏しているとされた同容疑者の引き渡しを要求したが、タリバーン側が拒否。これを受けて米英軍はアフガン攻撃に踏み切った。

同容疑者はその後もアフガン東部での度重なる空爆を逃げ延び、アフガンと隣国パキスタンにまたがる山岳地帯に身を潜めてきたとされる。同地域の住民はタリバーンの主要構成民族だったパシュトゥン人で、アルカイダを「神の軍隊」と敬い、排他的な部族社会の中で隠れ家を提供してきたとみられる。情報提供者への報奨金にもかかわらず、米軍の情報
収集は困難を極めた。

米当局によると、ビンラディン容疑者は米同時多発テロ事件に主犯として関与した疑いが持たれている。事件は4機の旅客機がハイジャックされ、ニューヨークの世界貿易センタービルに2機、ワシントンの国防総省に1機が突入。ピッツバーグ郊外では1機が墜落した。合計で3千人近くが死亡した。

米当局はテロ実行犯として旅客の中から19人を特定。うち数人をアルカイダのメンバーと確認し、指導者であるビンラディン容疑者を首謀者と認定した。同容疑者は04年10月、中東の衛星テレビが放映したビデオで、米同時多発テロへの関与を初めて認めた。

同容疑者は、サウジアラビアで建設業で財をなした富豪を父に生まれた。旧ソ連がアフガンに侵攻した1979年以降にイスラム・ゲリラに参加。湾岸戦争でサウジが米軍駐留を認めたことへの反発から反米闘争を始めた。

93年の世界貿易センタービル爆破事件でも資金援助した疑いがあるほか、98年のケニア、タンザニア両国での米大使館爆破テロ事件でも首謀者だったとされている。(朝日 ワシントン=望月洋嗣、イスラマバード=五十嵐誠)>


<ビンラーディン容疑者殺害 日本の公安関係者「報復テロ激化の可能性も」

「本当なのか」。国際テロ組織アルカーイダの指導者ウサマ・ビンラーディンの死亡報道があった2日、日本の公安当局には驚きと衝撃が走った。アルカイーダの影響力低下に期待も強まるが、ある警視庁幹部は「これでテロの脅威がなくなるわけではない」と表情をひきしめた。

「詳しいことは、分からない。いま、情報を集めているところ」

死亡のニュースが駆けめぐると、警視庁幹部は、こう厳しい表情を見せた。庁内外でも担当者らは、あわただしく情報収集に追われた。

インターネットで、日本国内にも情報発信するなどしてきたアルカーイダ。ある幹部は「影響力は低下するだろうが、メンバーや影響を受けている人間がまったくいなくなったわけではない。今後も緊張が必要」と話した。

公安調査庁関係者は「本当なのか?」と絶句。「これをきっかけに、各国で報復と称してテロが激化する可能性もある。日本でも起きないだろうか」と話した>。
産経新聞 5月2日(月)13時43分配信


◆河野一郎・田中角栄ありせば

渡部 亮次郎

<田中角栄が首相でいたら、ブルドーザー部隊を先頭に立てて、瓦礫で埋まった道路を切り開き、タンクローリー車や物資輸送のトラック部隊を送り込んでくれただろうな!」と被災地で声があがる。

批判はあっても住民生活の動脈は”道路”にあると、田中角栄は鋭い直感力を持っていた保守政治家で、抜群の行動力があった。

河野一郎にも同じことを感じる。そういう迫力のある政治家がいなくなった。被災地は、さながら戦場のような姿を曝している。いまこそ戦時宰相が求められる。>元共同通信社常務理事 古澤襄氏の杜父魚=かじか=ブログより。

私は若いころの角栄と最晩年の河野一郎氏を担当した記者である。自民党で当時河野担当だった各社の記者は殆ど鬼籍に入り、河野一郎を語る最後の記者になったわけだ。

私が担当した頃の河野さんは池田勇人内閣の無任所大臣で、東京オリンピック担当相。折からの東京都の水不足対策も任されていた。

それ以前は建設相として新潟の大地震や雪害を担当したが、「私が現場に行くからには、いちいち閣議に諮っていては時間が勿体無い、全権を委任してれなけりゃ行かない」と池田首相に掛け合い、災害をあっという間に解決したという逸話があった。

残念ながら菅首相にはこの片鱗も無い。

政治記者から代議士になり、敗戦後は鳩山一郎を総裁に担いで自由党の幹事長になったが、鳩山が組閣直前にマッカーサーによる公職追放されたため夢は水泡に帰した。

以後はバトンをなかなか返還しない吉田茂に徹底的に逆らい、蛇蝎の如く嫌われたが遂に奪権を成就。鳩山を晴れて首相の座に就け、ソビエト(現ロシア)との国交正常化を達成した。

その頃から党内に派閥を構成し、自らを実力者と称した。やがて首相岸信介と対立、新党結成を策したこともあったが、岸後継の池田氏と組んで党主流に坐るようになった。

酒を一滴も呑めない河野さんなのにクレムリンで渡り合ったフルシチョフにウオッカを飲まされる羽目になったことを懐かしく思い出していた。

盛岡から転勤してきたばかりの若造をリンカーンに「箱乗り」させたり、自宅で照子夫人と3人で夕食を一緒にしてくれたりしたのは、「あなたの右目は義眼ですか」と質問したからだった。「ほら、義眼じゃないだろ。こんな質問、君が初めてだ。君はいい記者だ」と褒められたのがきっかけだった。11・4・01


2011年05月01日

◆変節漢小澤の証拠 議事録

渡部 亮次郎

「頂門の一針」530号(2006年8月10日)で「小澤一郎の狂乱」を掲載したところ、知り合いのジャーナリストから「こんな”証拠“が残ってましたよ」と言う投書があった。変節漢小澤の動かぬ証拠だ。

530号では

<「祀られる人ではない 小澤氏、靖国合祀のA級戦犯」という記事が2006年8月7日の産経新聞に出ている。この人は大学院まで学んだ人だが、政治家でありながら日本史を全く勉強していない人なのだと改めて認識した。ダメダコリャ。>と冒頭に掲げて論じた。

これに共感し、更に送ってきてくださった投書は以下の通りである。

<「頂門の一針」530号、「小沢一郎の狂乱」に寄せて。

民主党の小沢一郎代表が中曽根内閣の自治大臣だった昭和61年の国会答弁が、唸声(ハンドルネーム)氏主宰の「現代レポート」に掲載されていました。

◇唸声より

EDO様、ありがとうございます。国会会議録から抜粋いたします。

昭和61年04月02日−地方行政委員会より抜粋

○佐藤三吾君 それでは、公式参拝ということについてはいかがですか、認識は。

○国務大臣(小沢一郎君) 公式参拝というのは、いわゆる国務大臣の任にある者が参拝するというケースを言うのであろうと思います。ですから、私の考えは国務大臣であろうがなかろうが、現在はなっておりますが、今申し上げたような気持ちで今後も行いたいと思っております。

○佐藤三吾君 あそこにはA級戦犯も合祀されていますね。これについてはあなたはどういう認識ですか。

○国務大臣(小沢一郎君) 基本的に、お国のために一生懸命、その是非は別といたしまして戦ってそれで亡くなった方でありますから、そういう戦没者に、参拝することによって誠の気持ちをあらわす、また自分なりにそれを考えるということであろうと思います。

したがいまして、A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではないだろうと思っております。たまたま敗戦ということによって戦勝国よって戦犯という形でなされた人もいる。

あるいは責任の度合いによってABいろいろなランクをつけられたんでありましょうけれども、その責任論と私どもの素直な気持ちというのはこれは別個に分けて考えていいんではないだろうかというふうに思っております。

○佐藤三吾君 まあいいでしょう、あなたの率直な考えだからね。 千鳥ヶ淵には参りますか。

○国務大臣(小沢一郎君) 千鳥ヶ淵に今まで行ったこともありますが、靖国神社の方が今までも多かったと思います。何といいますか、自然な感じで靖国神社の方により多く足が向いたのであろうと思っております。
 
小沢一郎君がABC級は戦争責任の軽重によるランク付けと認識していたとは噴飯ものですが、かかる変節政治家が政権をとったらと想像することすら恐ろしい。(田川市)>

昭和21年4月29日の天皇誕生日に合わせて、28人の「A級戦犯」が選ばれた。ABCとは、ドイツを裁いたニュールンベルグ裁判をそのまま適用したもので、

「A」は平和に対する罪、
「B」は通常の戦争犯罪、
「C」は人道に対する罪だが、ACは事後法。

戦争を始めた国の、指導者個人の責任を問うものだった。

戦争は、国と国の間の問題で国家の行為だが、個人の責任を問うという法律をアメリカが作ったのだ。実際、マッカーサーが「極東国際軍事裁判所条例」という法律を作り、それによって戦犯が定められた。

ヒットラーは1933年から1945年まで独裁体制で、軍事行動を行っていた。
日本は1928年から1945年まで、A級戦犯とされた28人が一貫して満洲、中国、東南アジア、太平洋、インド洋と侵略したことにされたが、1931年の満州事変の時と、1937年のシナ事変、1941年の大東亜戦争の内閣は全部違う。日本の内閣は18回も交代している。

アメリカは、大東亜戦争のずっと前まで遡って、1938年の張鼓峰事件や、1939年のノモンハン事件まで日本の侵略戦争と位置づけ、A級と名付けて殺すための日本人を28人も選んだのだ。

ソ連は、天皇誕生日に合わせて起訴するためのアメリカの起訴状ができた後で駐ソ日本大使と関東軍司令官をA級戦犯に加えろとアメリカに要求してきた。それで急遽、2人が加えられた。

東京裁判は、国際法に則ることなく、マッカーサーの命令で進められた。国際法は無視されている。マッカーサーの「極東国際軍事裁判所条例」に基づいて裁判官が決められ、ポツダム宣言も無視された。

小澤氏は靖国神社のA級戦犯の合祀問題について問われ「俗に戦犯と言われる方々は戦争を指導した人たち。それをきちんと問わなければいけない。靖国神社は戦争で死んだ人を祀るもの。指導者は戦死しておらず、そこに祀られるべき人でない」と応えている。

人を騙すにも程がある。戦犯のABCの意味も知らない代表を抱えた民主党のあばら骨が見えた。

戦犯とはわれわれ日本人が決めた者ではない。戦勝国とくにアメリカのマッカーサーが恣意的に指定し、恣意的に判決と称するものを下し、皇太子殿下(今上天皇)誕生日にあわせて処刑したものであり、いわばリンチによる死であるから、立派な戦死ではないか。

「それをきちんと問わなければいけない」と小澤氏も言っているように、我々日本人が戦犯を問うたことがない。「きちんと」問えば小澤氏がいかに変節漢であるかが明白になってしまうわけだが、それでもいいかな。

マッカーサーが行った日本占領政策の実態をアメリカに長く滞在して研究したのは麗澤大学教授の西 鋭夫氏である。氏はその実態を著書にした。現在は中央公論文庫になっている。書名は『国破れてマッカーサー』。
【文中敬称略】

2011年04月30日

◆ウィルス性肝炎の世紀

渡部 亮次郎

2007年1月22日に義兄をC型肝炎による肝臓癌で失った。彼の73歳の誕生日の前日だった。発症は42歳のとき。医者の説明から俺の人生は50代で終わる、と覚悟したそうだ。

死ぬ前の月、つまり2006年12月8日に浦安のホテルに招待されて懇談した。死ぬ兆候なんか全く無い状態だったが「それが70過ぎまでこれたのは、珍しくインターフェロンが効いたからなんだ」と言っていた。

B型、C型肝炎の場合、徐々に肝臓の繊維化が進み、肝硬変に至り肝癌が発生することがあるとは今や常識だから、義兄は早くから覚悟を決めて肝炎との闘いを続けながら洋酒の輸入商を営んできたのである。

それから20日たった12月27日夕方、都内の彼の本社で会った。明日から孫など一族郎党を連れて北関東のホテルで年末年始の休暇を取るのだ、とうれしそうだったが、顔は真黄色、明らかに肝機能悪化に伴う黄疸が始まっていた。それでも翌日は車を運転して出かけたという。

密かに心配していたら、正月空けの4日に連絡があり、只今港区内の大きな病院に入院との知らせ。黄疸がひどくなったので帰路は運転を代わってもらって来たとのこと。

かかりつけの病院で担当医も決まっていたから、早速、黄疸の手当てにかかったが、腹水が溜まり始めた。それを抜き取ったところ、当然、腎臓の機能が低下。時折、意識混濁。かくて入院18日後 死去してしまった。

急なことで死に目には会えなかった。幸い痛みを訴えることも無く、安らかな死に顔だった。

死亡診断書。死因は腎不全。その原因は肝臓癌、その原因はC型肝炎。20年近く前に友人を59歳で肝炎で亡くしており、これで周りの肝炎犠牲者は2人となった。

昔、長く日本医師会長を務めた故武見太郎氏に話を聞いたことがある。「きみ、21世紀は肝臓の時代ですよ。肝臓が様々なウィルスに攻撃される」と聞かされたが、当に人類は要の肝腎をウィルスに曝されて、まだ医学は殆ど無力の状態、と言わざるを得ない。

ウィルス性肝炎とは肝炎ウィルスが原因の肝臓の炎症性疾患のことを指す。急性肝炎と慢性肝炎および急性肝炎の劇症化した劇症肝炎に分けら
れる。

現在知られているウィルス性肝炎には以下のものがある。

A型肝炎
B型肝炎
C型肝炎
D型肝炎
E型肝炎
F型肝炎
G型肝炎
TT型肝炎

このうち、日本での肝炎の原因のほとんどはA型、B型、C型である。

主な感染経路は

A型・E型は汚染された食べ物や水で。

B型は血液媒介・親子(垂直)・性行為(水平)。

C型はウィルスの混入した血液を介したもの(輸血や集団予防接種の注射針の回し射ち、刺青など)である。C型での性行為での感染、母子感染は稀である。

アメリカではB型肝炎の予防接種を受ける事が義務付けられている。

殆どのC型肝炎感染者は医療行為が原因で感染と推測される(上記の注射針が主因と考えられる)。

非A非B型(現在のC型)肝炎ウィルスに感染すると肝癌などに進行する危険性が疫学的に示されている。義兄は輸血を受けた経験が無いといっていた。何かの予防注射というのも記憶がない、とも。

慢性肝炎:自覚症状に乏しい事が多い。B型、C型肝炎の場合、徐々に肝臓の繊維化が進み、肝硬変に至り肝癌が発生することがある。

C型慢性肝炎においてはインターフェロン(α or β)、PEG-インターフェロン、リバビリン+(インターフェロン or PEG-インターフェロン)といった治療法がある。ウィルス量・型、年齢、性別、貧血の程度などにより治療法を選択する。

肝癌。B型肝炎では推定10%前後、C型肝炎では推定25%前後と高率に肝癌を発症する。義兄はこの25%に引き込まれたのだった。参考:フリー百科「ウィキペディア」)(再掲)


2011年04月28日

◆読売正力は原子力の父

渡部 亮次郎

ウィキペディアに依れば1945年8月、第2次世界大戦敗戦後、日本では連合国から原子力に関する研究が全面的に禁止された。しかし1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効したため、原子力研究は解禁されることとなった。

日本における原子力発電は、1954(昭和29)年3月に当時改進党に所属していた中曽根康弘、稲葉修、齋藤憲三、川崎秀二の各氏により原子力研究開発予算が国会に提出されたことがその起点とされている。この時の予算2億3500万円は、ウラン235にちなんだものであった。

中曽根氏は1954(昭和29)年3月、日本で初めて「原子力予算」を国会に提出し成立させる。正力松太郎にこの頃近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。共に政界における原発推進の両軸となる。

1959(昭和34)年 第2次岸内閣改造内閣の科学技術庁長官として入閣。原子力委員会の委員長に就任。

1955昭和30)年12月19日に原子力基本法が成立し、原子力利用の大綱が定められた。この時に定められた方針が「民主・自主・公開」の「原子力三原則」であった。

この頃、筆者は大学2年生。原子力の平和利用など関心も知識も全く無かった。

大正13(1924)年1月 虎ノ門事件を防げなかった責任を問われ正力氏は警視庁を懲戒免官。直後、摂政宮(のちの昭和天皇)婚礼により恩赦。読売新聞の経営権を買収、社長に就任。

この買収資金10万円を呉れたのは内務大臣後藤新平。後藤は自宅を担保に借金して渡した。後藤の姉の婚家先「椎名家」に養子入りしたのが、椎名悦三郎。昔、商工省で金の岸(信介)いぶし銀の椎名といわれたもの
だ。

正力松太郎氏は警察官僚から読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として大正力(だいしょうりき)と呼ばれる。

日本に於けるそれぞれの導入を推進したことで、プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力の父とも呼ばれる。

駒澤大学が上祖師谷グラウンド(野球部合宿所、駒澤大学球場)を購入する際に尽力したことを顕彰して、駒澤大学の開校80周年(1962年)の式典において、最初の名誉博士号が授与された。

週刊新潮2006年2月16日号で、戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後は正力がCIAの意向に従って行動していたことを早稲田大学教授の有馬哲夫がアメリカ国立公文書記録管理局によって公開された外交文書(メリーランド州の同局新館に保管されている)を基に明らかにし、反響を呼んだ。

アメリカ中央情報局(CIA)と日本へのテレビの導入と原子力発電の導入で利害が一致していたので協力し合い、その結果、「podam」、「pojacpot-1」というコードネームを与えられ、これらの件に関する大量のファイルがアメリカ国立第二公文書館に残ることになった。

CIAに正力松太郎を推薦したのは、カール・ムント米上院議員だったという。

原子力基本法成立を受けて1956(昭和31年)1月1日に原子力委員会が設置され、初代の委員長は読売新聞社社主でもあった正力松太郎氏であった。

<1954(昭和29)年3月、日本で初めて「原子力予算」を国会に提出し成立させる。正力松太郎にこの頃近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。共に政界における原発推進の両軸となる。

正力氏は翌1957年4月29日に原子力平和利用懇談会を立ち上げ、さらに同年5月19日に発足した科学技術庁の初代長官となり、原子力の日本への導入に大きな影響力を発揮した。

1956年6月に日本原子力研究所、現、独立行政法人日本原子力研究開発機構が特殊法人として設立され、研究所が茨城県那珂郡東海村に設置された。これ以降東海村は日本の原子力研究の中心地となっていく。

1957(昭和32)年11月1日には、電気事業連合会加盟の9電力会社および電源開発の出資により日本原子力発電株式会社が設立された。

1959年(昭和34年)第2次岸内閣改造内閣の科学技術庁長官として中曽根氏が入閣。原子力委員会の委員長に就任。

日本で最初の原子力発電が行われたのは1963(昭和38)年10月26日で、東海村に建設された実験炉であるJPDRが初発電を行った。これを記念して毎年10月26日は原子力の日となっている。

日本に初めて設立された商用原子力発電所は同じく東海村に建設された東海発電所であり、運営主体は日本原子力発電である。

原子炉の種類は世界最初に実用化されたイギリス製の黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉であった。

しかし経済性等の問題によりガス冷却炉はこれ1基にとどまり、後に導入される商用発電炉はすべて軽水炉であった。

近年は老朽化で運転を終えた原子力発電所の処置の問題に加え、二酸化炭素排出削減策として既存原子力発電所の延命の方針が打ち出されている。

2010年3月に営業運転期間が40年に達した敦賀発電所1号機をはじめ、長期運転を行う原子炉が増加する見込みである事から、これらの安全性の維持が課題となっている。

そうしたところをまるで狙ったように2011年3月11日、東日本巨大地震と巨大津波が襲ってきたのだ。

多分福島第一原子力発電所の原子炉6基は、東日本大震災の被害で6基とも廃炉になる可能性がある。

■虎ノ門事件(とらのもんじけん)=1923年(大正12年)12月27日に、虎ノ門外において皇太子・摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)が難波大助に狙撃された事件。

摂政として第48通常議会の開院式に出席するため、自動車で貴族院へ向かっていた皇太子に、虎ノ門外で群衆の中にいた難波が接近し、ステッキ仕込み式の散弾銃で狙撃した。銃弾は車の窓ガラスを破り、皇太子には命中しなかったが、同乗していた侍従長・入江為守が軽傷を負った。

難波はのちに大逆罪で死刑判決を受けて死刑執行された。この警護責任を取り、警視総監・湯浅倉平と警視庁警務部長の正力松太郎が懲戒免官になった。出典(「ウィキペディア」)2011・4・25  


2011年04月23日

◆政治資金を喰うのは有権者

渡部 亮次郎

以下は小沢一郎氏を対象としたものではない。

カネや利権による政治の腐敗の原因をすべて政治家に押し付けて、世論や論説委員が「政治家よ襟を正せ」と叫ぶのは簡単だが、いくら叫んでも腐敗が根絶しないのは、汚れたカネの行き先が最終的には政治家の懐には止まらず有権者の胃袋や懐だからである。

だから襟を正すべきは政治家はもちろんだが、有権者も被害者面をしないで考えてみる必要がある。

なんと言っても政治に金のかかり過ぎが原因である。そう言うと「政治家は自分の欲得のために政治家をやっているのだから、どうやってカネを集めようが散じようが勝手だ。有権者の知ったことか」というのが有権者の大部分である。

さらに知らぬ人は何にそんなにカネがかかるのか、理解に苦しむと言う。私も若い政治記者の時はそう思ったこともあった。しかし大臣秘書官になって内懐を見てはいじめて得心が行った。

確かに有権者は知らぬ間に政治家に1票を投ずる見返りに説明のつかない用件を押し付け馳走になっているのである。

ある代議士がある省の大臣になった。秘書官に発令されたので従いて行ったたところで、秘書官室長に、来客のお茶代として月20万円を拠出してくださいと言い渡された。

大臣から現金を巻き上げる役所とは初めて聞いたことだった。ともかくこれも政治家が負担する政治資金なのである。

議員会館と個人事務所にも陳情客が来る。何十人と言う人がやってくる。1杯の御茶と言うがそれだけでも月に何十万円とかかる。昼時になれば蕎麦なり丼物を出さないとけちだと言われる。月にすれば何百万円である。それを国会議員の歳費で賄う事は不可能だ。

案外知らないのは日々開かれる議員同士の励ます会と称する資金パーティーへの義理立てである。大物と言われていれば会費2万とか3万円と言われてそれしか包まないと言うわけには行かない。

その都度10万円を包んだとすれば、1日に50万や100万はは消えて行く。そのカネを何処からどう工面してくるのか。談合なり不可解な事件に関係せずには不可能なのである。捕まるまでの田中角栄氏のやり口がそれを実証している。

某氏の政治団体が発足当初から、賃貸契約のない都内のビルに事務所を置き、発覚するまでまで事務所費や光熱費の名目などで約○○○○万円を支出したとする虚偽の政治資金収支報告書を国に提出していたという。

推測だが、これで浮かしたカネは選挙対策費にも秘密裏に使われただろう。実際、観ていると、如何なる大物国会議員といえども、解散、総選挙に当って子分を名乗る県会議員、市区町村議員が只では動かない。

選挙違反事件が摘発されるたびに「○○議員に多額の現金を渡して投票のとりまとめを依頼した」と言う決まり文句が出るが、真実は選挙を機会に捉えて日ごろの活動資金を渡しているのである。

それは殆ど警察の目をくぐる。警察も大物のところには手を出さない。新人や小者、無所属候補には目を皿にして内偵し、一番弱い(殆ど落選)候補者を逮捕する。容疑はこれまた殆どが買収となる。いまどき飲み食いで集票はできない時代になったからだ。

いかに民主主義だの勝手連だのといったところで活動資金は裏できっちり取りに来るのが実態である。それをマスコミは知っていながらきれいごとしか書かないから、読まされたり聞かされたりする人はきれいごとを論ずる。

カネをつくる政治家が悪いのではない。作らせるように使わせる有権者が実は犯罪のタネを作っているのである。中には酷い陳情に来る有権者もいる。司法試験の裏口を紹介しろとか、医師の国家試験を裏で合格させろ、伝統ある私立高校の落第を取り消せとか。

有権者様だからできないとはいえない。何とか頑張ってみますと言うしかない。こんなことまで相手にしなければ落選するのが国会議員だというのなら私は辞めた、辞めたと選挙戦降りてしまった。悔いはない。

マスコミはこうした実態を見ようともしない。論説のように言語道断だとか手痛い打撃だとか、一応、理屈の立つ論を並べはするが、ことの本質をわかっていなから空念仏に過ぎない。政治の実際を分っていないから記者を廃業し論説委員にさせられたのではないかと疑ってしまう。