2013年12月30日

◆スキー滑れぬ雪国男

渡部 亮次郎


秋田生まれといえば、れっきとした雪国男だが、事情があってス キーが全くできない。向島生まれの家人は出来るそうだ。

雪国で生まれ育った証拠に、手と足に霜焼の傷跡がケロイド状に残っている。11月で霰(あられ)や雹(ひょう)が降り始めると、手足が霜焼で腫れ、ところどころ破れて傷になる。どうもビタミン不足が齎す栄養不良症らしい。

夕方、気温が低下すると傷は痛みだし、薬を付けるべく膿で張り付いたガーゼを剥がすのが一苦労。洗面器に張った湯に漬けてから剥がした。痛かった。これだけでも雪国は嫌いだ。

少年当時は対米戦争中。南洋から輸入していたゴムがアメリカの潜水艦に沈められるから、冬になってもゴム長は何処にも売っていなかった。学校での「配給」だけで、長距離通学の私には優先的に配給になった。

だから、その大切なゴム長をスキーの金具でこすったりする事は父親に厳禁された。再生ゴムはとても弱くて、中に入れた藁が靴を破って出たぐらい。スキーをはかないまま敗戦を迎えたが、迎えた頃はスキーへの興味も失くしていた。

ところが、仮にスキーの履ける状態だったとしても、スキーの上手くなるはずはなかった。家の周囲は何処まで行っても水田ばかり。坂というものが無いのだから、スキーで滑り降りるところが無いのだ。

それを知らずに、後年、友人が来て、いきなり国立公園八幡台の頂上へ行き、一緒に滑り降りようという。相手は東京生まれながらスキーが出来る。雪国生まれの私をスキーができないなんて思ってない。あれは高所恐怖症でNYの世界貿易センタービルの最上階でキンタマが上がった時より怖かった。

尤も田圃のはるか先にある旧八郎潟は、冬は氷結するからスケートなら上手でしょう、と迫られた。スケートは滑れる。だがこれを履いたのは雪を払った田圃の上であって、八郎潟ではない。

冬の八郎潟はなるほど氷結するが、強風によりところどころに氷結した山が出来ているのでスケートどころではないのだ。しかも春が近付くと氷は割れる。

父方の祖父の兄は氷上漁業中、氷は大きく割れて流されて溺死した。日露戦争から凱旋した祖父は次男ながら止むを得ず家督を相続、孫に私が生まれてという次第。

そういうわけで高所恐怖症から登山嫌いの私は、夏も冬もレジャーには縁遠い次第。決して都会っ子では無いのに田舎が苦手なのである。

2013年12月29日

◆「尖閣」から身を隠す米国

渡部 亮次郎


「尖閣」問題にアメリカは如何なる態度をとってきたか。調べる為に「ウィキペディア」にあたってみた。

その結果言える事は安保条約も有り、何よりも中国への刺激を避けることを最優先に考えており、私から言えば「アメリカは尖閣問題から常に身を隠そうとしている」との印象である。

1972年5月に、ニクソン政権でキッシンジャー大統領補佐官の指導の下、ホワイトハウス国家安全保障会議において「尖閣諸島に関しては(日中などの)大衆の注目が集まらないようにすることが最も賢明」とする機密文書をまとめた。

同年2月に訪中に踏み切ったニクソン政権にとって歴史的和解を進める中国と、同盟国日本のどちらにつくのかと踏み絵を迫られないようにするための知恵だった。

この機密文書には、日本政府から尖閣諸島が日米安保条約が適用されるかどうか問われた際の返答として「安保条約の適用対象」と断定的に答えるのではなく「適用対象と解釈され得る」と第三者的に説明するように政府高官に指示している。

2009年3月、アメリカのオバマ政権は、「尖閣諸島は沖縄返還以来、日本政府の施政下にある。日米安保条約は日本の施政下にある領域に適用される」とする見解を日本政府に伝えた。

同時に、アメリカ政府は尖閣諸島の領有権(主権)については当事者間の平和的な解決を期待するとして、領土権の主張の争いには関与しないという立場を強調している。すなわち、アメリカ政府は、尖閣諸島に対する日本の「施政権」を認めているが「主権」については不明にしている。

1996年9月15日、ニューヨーク・タイムズ紙はモンデール駐日大使の「米国は諸島の領有問題のいずれの側にもつかない。米軍は条約によって介入を強制されるものではない」という発言を伝え、10月20日には大使発言について「尖閣諸島の中国による奪取が、安保条約を発動させ米軍の介入を強制するものではないこと」を明らかにした、と報じた。


この発言は日本で動揺を起こし、米国はそれに対して、尖閣は日米安保5条の適用範囲内であると表明した。米国政府は1996年以降、尖閣諸島は「領土権係争地」と認定(「領土権の主張において争いがある」という日中間の関係での事実認定であって、米国としての主権に関する認定ではない)した。


その一方では、日本の施政下にある尖閣諸島が武力攻撃を受けた場合は、日米安保条約5条の適用の対象にはなる、と言明している。この見解は、クリントン政権時の1996年米政府高官が示した見解と変わらないとされる。

ブッシュ政権時の2004年3月には、エアリー国務省副報道官がこれに加え「従って安保条約は尖閣諸島に適用される」と発言し、それが今でも米政府関係者から繰り返されている。

ただし「安保条約5条の適用」は米国政府においても「憲法に従って」の条件付であって米軍出動は無制限ではない(条約により米国に共同対処をする義務が発生するが「戦争」の認定をした場合の米軍出動は議会の承認が必要である)ことから、「尖閣諸島でもし武力衝突が起きたなら初動対応として米軍が戦線に必ず共同対処する」とは記述されていない(これは尖閣諸島のみならず日本の領土全般に対する可能性が含まれる)。


むろん「出動しない」とも記述されていない。第5条については条約締改時の情勢に鑑み本質的に「軍事大国日本」を再現することで地域の安定をそこなわないための米国のプレゼンスに重点がおかれているものと一般には解釈されている。

なお、米国の対日防衛義務を果たす約束が揺るぎないものであることは、累次の機会に確認されていると日本の外務省は主張している。

2011年11月14日、フィールド在日米軍司令官は日本記者クラブで会見し、尖閣諸島について日米安全保障条約の適用対象とする従来の立場を確認しつつも、「最善の方法は平和解決であり、必ず収束の道を見つけられる。軍事力行使よりもよほど良い解決策だ」と述べ、日中関係改善に期待を示した。

尖閣諸島の主権に限らず、領土主権の認定は、主権認定に関する条約が締結されていた場合には、国際法上、行政権限ではなく国会の権限が優先するというのが通説である。

つまり、サンフランシスコ平和条約に米国政府が調印して米国議会が批准(国会で承認)している以上、オバマ政権の行政府としての政治的判断や政治的発言がどのようなものであっても、それは条約の更改や廃止や破棄として国会の承認(批准)を経たものでないから、条約更改や廃止、破棄としての法的効果は生じていない。

国際法上、米国の国家責任としての尖閣諸島の主権に関する認定は、議会によって条約の更改や廃止、破棄などの決議がされない限り、あくまでもサンフランシスコ平和条約2条に帰結する。

なお、米国政府(行政府)が尖閣諸島の主権が日本にあることを明言しないことは、尖閣諸島の主権が日本にないことを主張したものとはいえない。

つまりブッシュ政権もオバマ政権も、米国政府として「領土権の主張の争いには関与しない。」と言っているのであって「尖閣諸島の主権は日本にはない」と主張したことはない。

もっとも、もしそのような明言を米国議会の承認なしにすれば、米国議会が批准した条約、条文を行政府が国会承認の手続を経ず恣意的に変更するわけで、それは明白な越権行為であり米国憲法違反になる。


2010年9月に起こった尖閣諸島中国漁船衝突事件の際は、ヒラリー・クリントン国務長官は、日本の前原誠司外務大臣との日米外相会談で、「尖閣諸島は日米安全保障条約第5条の適用対象範囲内である」との認識を示し、同日行われた会見でロバート・ゲーツ国防長官は「日米同盟における責任を果たす」「同盟国としての責任を十分果たすとし、マイケル・マレン統合参謀本部議長は「同盟国である日本を強力に支援する」と表明している。
2013・12・27


2013年12月27日

◆園田が教えた王の1本足打法

渡部 亮次郎


私がその晩年に外務大臣秘書官として仕えた園田直(そのだ すなお)は剣道7段、居合道8段、合気道8段、柔道3段など「武道」の猛者としても知られた。

福田赳夫内閣の官房長官当時、王 貞治選手の本塁打数868本を祝って日本国民栄誉賞を初授与した時、私に「ワンちゃんに1本足打法を教授したのはワシたい」と胸を張った。

王に1本足打法を薦めたのは荒川博ということになっているから、それを「完成」させる過程で、居合や剣道の達人として手伝ったと言う事のようである。

<剣道家羽賀準一のもとに弟子入りし居合を習うとともに、日本刀による素振りの指導を受けた。>(堂本昭彦 『羽賀準一 剣道遺稿集―附伝記・日記』、島津書房、1999年)

当時、羽賀道場では既に園田が師範代だったから「球の芯を斬る」真髄を教えた、とよく言っていた。剣道家羽賀準一のもとに連れてきた荒川の見識を高く評価すべきだろう。

<特に天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を、日本刀で切る、という練習があった。これは、技術として日本刀で紙を切るほど打撃を研ぎ澄ませる、という以上に、打席内での集中力を高めることで余計なことを考えないでいいように、という目的もあった。>(「ウィキペディア」)

王 貞治(おう さだはる、1940年5月20日―)は、日本生まれ・台湾籍の元プロ野球選手、監督。

日本国民栄誉賞の初受賞者。現在は福岡ソフトバンクホークス球団取締役会長、読売巨人軍OB会会長、宮崎市名誉市民。73歳。

荒川との出逢いは、犬の散歩をしていた荒川が、通りがかったグラウンドで王の出ていた少年野球の試合を眺めていたというものである。

観ていた荒川は、当時右打ちだった王に対して「なぜ君は左で投げるのに右で打つんだ?」と質問すると、「それは、オヤジから箸と鉛筆と算盤は右でやれと言われているので、バットも右で持たないと親父に文句言われると思って…」と言った。

荒川は「今の野球は左利きの選手に希少価値があるのに、君はわざわざ右で打つなんてもったいない話だ…」と言った。それで王はすぐに左打ちを実践したところ2塁打を打ち、以後左で打つようになった。

荒川はその時の王の印象を「なんて素直な少年なんだと思った。普通は試合中に右打ちから左打ちに変えるなんて人に言われたってしない。それをスパッとやってしまうのはすごい」と語っている。

また、この出逢いの時王は身長176cmで当時の若者としては長身だった。王の素質を認めた荒川は「君は今何年生だ?」と聞き、王が「2年生です」と答えた。

荒川は高校生と勘違いし、「そうか、じゃあ早稲田大学(荒川の出身校)はどうかな?」と勧めたところ、「はい、そうなるといいのですが、その前に高校に行かないと」と王が答えた為、荒川は「2年生というのは中学生なのか」と驚いたと言う。

小学生の頃、当時の横綱:吉葉山から「相撲取りになりなさい」と勧められるほど相撲が強かった。本所中学校では陸上部と卓球部に在籍したことがある。

1962年、荒川博が巨人の打撃コーチに就任。荒川就任は読売新聞の関係者が広岡達朗を介して、川上に荒川を推薦したもの。川上は榎本喜八を育てた荒川の手腕に王の指導を託した。

荒川に最も強く期待したのは王に練習に身を入れるように意識改革をさせることだった。

秋季キャンプで久々に王を見た荒川は、「なんだ、こんなスイングではドッジボールにも当たらんぞ。遊びは上手くなったかもしれんが、野球は下手になったな」と言い放った。

王は内心カッとなったが、言い返せなかった。しかし、荒川はこの時「これだけ悪い打ち方(打ちにいく際、手足の動きがバラバラな点だと説明)でも、2割7分打ったこともあるのだから、やはり素質は素晴らしい」と感じたという。

荒川は、王はプロの速球に対応しようとするあまりボールを迎えに行ってしまうためグリップが安定しないことが欠点と判断し、それを修正するためにさまざまなフォームを試した。

その1つが1本足打法だった。但し、キャンプの時はいくつか試した打法の1つに過ぎず、ほんの2、3日練習しただけだった。

このシーズン、開幕から3ヶ月経ってもわずか9本塁打と成績は伸びず、自信を持てない王は荒川との練習にも身が入らなかったという。チームもなかなか波に乗れない。

2位と3位を往復するばかりの状態だったシーズン半ば「王が打てないから勝てないんだ」と八つ当たりぎみに別所毅彦ヘッドコーチが言うのを聞いた荒川が、「私は王に三冠王を取らせようと思って指導しているんだ、ホームランだけならいつでも打たせてやる」と返し、この日(7月1日)から1本足で打つことを王に命じた。

なお、王本人によれば「1本足を始めた経緯は記憶が定かでない。(中略)僕自身は普通の打ち方で打ってるつもりだった。でも、4年目のシーズン中にどうしても食い込まれることが多くて、それならいっその事右足を上げて打ってみろと。その打席で大爆発した」とインタビューで答えている。

1962年7月1日の対大洋ホエールズ戦(川崎球場)でこの打法を試行、第1打席は2塁ゴロで凡退したものの、第2打席で稲川誠からライトスタンドへの本塁打を放つなど、この日5打数3安打4打点の結果を残した。

後に荒川コーチは「あの日ヒットが出なかったら1本足打法は止めさせていた」と語っており、たった一日で王の運命が左右されたことになる。

王自身もこの日結果が出たことで、一本足打法に本気で取り組む気持ちになり、猛練習に打ち込むようになった。その壮絶な努力はつとに有名である。

この時の練習の過酷さ、練習量を表すエピソードとして「練習に使った部屋の畳が擦れて減り、ささくれ立った」「練習の翌朝、顔を洗おうと、腕を動かそうとしたが動かなかった」という話がある。

また、剣道家羽賀準一のもとに弟子入りし居合を習うとともに、日本刀による素振りの指導を受けたことは前述の通り。

このような王の練習がどれほどのものだったかは、当時のチームメイトであった広岡達朗、藤田元司がこれを見学していたことを思い出しながら「あまりに緊迫感のある練習だったので、それまでは後輩の練習がどれほどのものか、と胡坐をかいてのんびり見学してやろう、と思っていたのに、いつの間にか見学していた人間全員が正座して観ていたよ(広岡)」。

「部屋の中は王くんの素振りの音と荒川コーチの声が聞こえるだけでしたね。王くんが少しでも悪い素振りをしたら『気を抜くな!そんなことなら、さっさと帰れ!』と荒川コーチに叱られ、王くんも『すみません、もう一回お願いします』と言って練習が再開される。あんな場に居合わせたら、胡坐をかいたり、寝そべって見られませんよ(藤田)」とコメントしている。

この年38本塁打、85打点で初めて本塁打王、打点王を獲得。以後、王は引退まで1本足打法を貫くこととなった。1977年の梶原一騎との対談では「2本足でなら打率4割は狙える」と言う梶原に対し、「1本足がダメになったら引退だ」という趣旨の発言をしている。

翌1963年、初めて打率3割、40本塁打を記録。長嶋とのコンビを「ON砲」と呼ぶ呼称も定着し、巨人の2枚看板を背負うようになった。出典:「ウィキペディア」(文中敬称略)


2013年12月26日

◆「小澤は過去の人」と立花隆

渡部 亮次郎


手許に残っている「文芸春秋」2010年3月号。表紙に「政治家小澤一郎は死んだ」立花隆とあるから、興味を以って読んだが、たいした事は全く無かった。

とくに「そう遠くない時期に小澤は確実に死ぬ。既に67歳。記者会見で自ら述べているように、そう長くはない、のである、心臓に重い持病を抱えている事もあり・・・もう限界だろう」にいたっては立花隆は「小澤のことを調べる根気が無くなったので論評はやめた」と宣言したに等しい。

「文芸春秋」に「田中角栄研究」をひっさげて論壇に華々しく登場し、東京大学の教授にまで上り詰めた立花だが、70の声を聞いてさすがに体力のみならず精神的にもに弱ってきたらしい。立花に次ぐ評論家は育ってないから文春も弱ったようだ。

「JAL倒産の影響もある」と言う。「あれほど巨大な企業も、つぶれる時はアッという間だった。小澤ほどの巨大権力者も、つぶれる時は一瞬だろうと思った。今考えるべきは小沢がどうなるかではなく、ポスト小澤の日本がどうなるか、どうするのではないか」と言う。
今更小澤を論ずるなどやめようという原稿になっている。

「小澤の政治資金に関する不適切な事実は、既に山のように出てきている。小澤がこれから百万言を弄して、どのようなもっともらしい理屈を並べようと、小澤は政治腐敗の点において、政治上の師と仰いできた田中角栄、金丸信の直系の弟子であることを既に証明してしまっている。

小澤のやって来た事は構造的に、田中角栄、金丸信がやってきたことと、殆ど変わりが無い。

それは、政治家が影響力をふるう事ができる公共事業の巨大な国家資金の流れにあずかる企業から、大っぴらにできない政治献金{法律上、国家資金を受け取る企業は献金できない}を何らかの別チャンネルで受け取って懐にいれるという行為である。

それを贈収賄罪等の罪に問う事が出来るかどうかは、法技術上の難問がいくつかあって簡単ではない。刑法の罪を逃れられたとしても、道義上の問題としては、同質の罪として残る」

要するに、立花隆として、小澤の罪について自ら積極的に調べ上げた事実は一つもなしに「政治家小澤一郎は死んだ」と言うおどろおどろしい見出しの長文を書いてお茶を濁しているのである。小澤が死んだというなら、立花も死んだと言っていいのか。

しかも評論の大半を東大駒場の立花の最終ゼミに来た学生から取ったアンケートを升目に書き写して「今の平成生まれの若者から見れば、小澤一郎など、過去の遺物に過ぎない」と逃げている。

20歳前後の世間知らずに小澤論のあるわけがない。それなのに長々とアンケートの回答を書き連ね、「もはや小澤なんかどうでもよい」と言うなら、こんな原稿、書かなきゃ良かったではないか。

とにかく立花らしさの全く無い原稿である。まして表紙にタイトルを刷って売るのは当に羊頭狗肉である。(文中敬称略)
2010・2・10        (再掲)

2013年12月24日

◆阿る人を侮る中国人

渡部 亮次郎


だとすれば、沖縄県・尖閣諸島について日中間の「係争地」との持論を伝えに訪中した鳩山由紀夫元首相は軽蔑される為にわざわざ訪中したことになる。東大出に馬鹿が案外多いと言うのは単なる噂じゃなかった、と言うことか。

私が秘書官として仕えた園田直(そのだ すなお)外務大臣は、就任に先立って「言っておくことが2つある」と言った。中国についてだった。折から日中平和友好条約交渉の真っ最中だったからだろう、と思って聞いた。

<中国人は阿(おもね)る人間を軽蔑する。だからゴマすりをしてはいけない。もう一つ。政治家が儲け話を持ちかけると軽蔑される。絶対しちゃいけない>

園田氏は大東亜戦争を含めて戦場で11年を過ごしたが、そのほとんどは中国大陸だった。スパイ行為をして掴まり、路上に落ちていた牛の糞を口に突っ込み狂人と思わせて難を逃れたこともあった。

そうした体験から割り出した「中国人」分析だったのである。だから北京における対中交渉でも下手(したて)に出る事は一度もなかった。「だから交渉を有利に纏めることができたのだ」と自負していた。

それはそうかも知れない。田中訪中のときの高島益郎条約局長(その後外務事務次官)が良い例だ ろう。日中国交正常化に先立つ両国交渉で高島氏は周恩来を相手に筋論を 展開。周恩来は激怒した。しかし陰では「ああいう気骨のある外交官をわ が国にも欲しいものだ」と言う話。

この時私は田中角栄首相に同行しながら、会談の期間は日本側代表団に近付くことが一刻も許されなかった。したがって以上の話は帰国後に聞かされて話である。

ところが「頂門の一針」2851号(2013年1月18日)によれば訪中した鳩山氏のは 徹底した阿り。鳩山元首相は「国賊」=小野寺防衛相が語った。

<小野寺五典防衛相は17日夜、BSフジの番組に出演し、「尖閣諸島を係争地と認めることが大事だ」との鳩山由紀夫元首相の中国での発言について「日本にとって大きなマイナスだ。言ってはいけないが『国賊』という言葉が一瞬、頭をよぎった」と述べ、強く非難した。

防衛相は「係争などなく(尖閣は)固有の領土なのに、中国側は、日本の元首相はこう思っていると世界に宣伝し、いかにも係争があるかのように国際世論がつくられてしまう」と懸念を示した。>時事通信 1月17日(木)22時37分配信

<鳩山元首相 尖閣は「係争地」と発言 古澤 襄

訪中した鳩山元首相は、北京で楊中国外相と会談、「日本政府は『領土問題は存在しない』というが、歴史を眺めれば分かる話だ。今係争が起きていることは事実で、お互いに認めることが大事だ。領土問題は存在しないと言っていたら、いつまでたっても答えは出ない」と述べた。

日本政府の見解を真っ向から否定し、「棚上げ論」についても中国側の主張におもねったことになる。もっとも鳩山氏が希望していた習近平氏との会談は実現せず、中国側が鳩山氏の訪中が日中間の関係改善につながると期待していないことを物語っている。

<【北京=川越一】「個人の立場」で訪中している鳩山由紀夫元首相は16日、北京で賈慶林全国政治協商会議主席、楊潔●(=簾の广を厂に、兼を虎に)外相らと会談した。終了後、記者団に対し、沖縄県・尖閣諸島について日中間の「係争地」との持論を伝えたことを明らかにした。

鳩山氏は「日本政府は『領土問題は存在しない』というが、歴史を眺めれば分かる話だ。今係争が起きていることは事実で、お互いに認めることが大事だ。領土問題は存在しないと言っていたら、いつまでたっても答えは出ない」と述べ、日本政府の見解を真っ向から否定した。

「棚上げ論」についても中国側の主張におもねった。

賈氏らは鳩山氏の発言に同意したという。ただ、鳩山氏が希望していた習近平国家副主席との会談は実現せず、中国側が鳩山氏の訪中が日中間の関係改善につながると期待していないことを物語る。

中国側が鳩山氏を招待したのは、親中的な同氏に自国の立場を吹き込み、特使派遣を検討する安倍晋三政権に圧力をかけるのが目的だ。17日、江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」に鳩山氏を招くのも、歴史問題に絡み同氏を利用する狙いがうかがえる。(産経)>

鳩山発言は「わが国の立場と相反」と官房長官が批判 古澤 襄

菅義偉官房長官は17日の記者会見で、北京で中国要人と会談した鳩山由紀夫元首相が沖縄県・尖閣諸島について日中間の係争地との認識を伝えたことに関し「わが国の立場と明らかに相反する発言で極めて遺憾だ」と述べた。

「日本の首相をされた方の発言として非常に残念だ」とも語り、鳩山氏の言動を批判した。

鳩山氏は16日に北京で賈慶林全国政治協商会議主席や楊潔●外相と会談し、沖縄県・尖閣諸島を日中間の係争地とする持論を展開。その後、記者団に「係争が起きていることは事実で、お互いに認めることが大事だ」と語った。(●は簾の广を厂に、兼を虎に)(産経)
2013.01.17 Thursday name : kajikablog

昔の人はよく言った。「バカにつける薬は無い」(再掲)

2013年12月19日

◆「東電病院」問題が決め手の猪瀬辞任

杉浦 正章


★冬休み中特別出稿★

「事前収賄」の可能性が色濃い 

朝日の18日夕刊最終版のスクープが都知事・猪瀬直樹の居座りを真っ向から切り崩した。もはや逃れることは出来まい。今日(19日)猪瀬は辞任を表明せざるを得ないだろう。沈黙を守ってきた政府・与党首脳からも辞任論が出てきた。

くしくも18日で就任一年となる時点での辞任となった。徳田虎雄が猪瀬との会談で東電病院の取得意向を伝達していたことは、事態が贈収賄事件に発展する可能性すら出てきた。猪瀬が辞任すれば都知事選挙は来年2月となる公算が高く、各党は候補人選を急ぐことになる。

朝日の報道は「猪瀬氏が昨年11月に徳田氏に面会した際、徳田氏が売却が決まっていた東京電力病院(新宿区)の取得を目指す考えを伝えられていたことが、関係者の話でわかった」というものだ。

既に都議会では東電売却問題との絡みがあるという観点から追及がなされてきたが、今月6日に猪瀬は「東電病院の売却は話題になっていない」「頼まれたことも一切無いし、そのつもりもない」と全面否定。徳田が病院購入に興味を持っていたことについて「全く知らない」と答えていた。

しかし朝日によると猪瀬は徳田との会談で自らが東電の株主総会で売却を迫った経緯を説明したという。明らかに都議会における虚偽答弁の色彩を濃くしている。偽証罪の罰則を伴う百条委員会が設置されれば、言い逃れは利かない類いのものであろう。これによって事態は単なる公選法違反の段階からにわかに贈収賄の可能性まで出てきた。

地検特捜部は徳田への強制捜査で、会談内容を入手しているものとみられ、詳細な詰めがなされている段階であろう。

政府・与党は当然法務省を通じて情報を入手しており、首相・安倍晋三や自民党副総裁・高村正彦が早期辞任を促したのも、もはや動かぬ証拠があるからであろう。安倍は前都知事・石原慎太郎と18日会談、おそらく辞任問題で突っ込んだ話をしたに違いない。石原は猪瀬とも会談して「もう晩節を汚すな」と辞任を促したようだ。

事態を分かりやすくするため経緯を説明すれば、副知事時代の昨年6月に猪瀬は東電の株主総会に出席して、東電病院の売却を極めて強く主張している。これを受けて東電は10月1日に競争入札での売却を発表した。

徳田と猪瀬の会談はそれを受けたような形で11月6日に実現、同月20日に5000万円が引き渡された。その後徳洲会は今年8月に東電病院の入札に参加した。ところが地検の強制捜査が9月17日に行われたことから、徳洲会は入札を辞退。同月26日に猪瀬は5000万円を返却している。
 

一連の流れが強く示唆しているのは無利子無担保無期限で都と利害関係のある医療法人から5000万円の資金提供を受けた謎が、東京都と徳洲会の“癒着”に根ざしている可能性があることである。石原と徳田とは昔からの盟友関係にあり、いわばツーカーの仲である。

当然猪瀬は上司である石原と東電株主総会で病院売却の主張をする事を打ち合わせているに違いない。したがって猪瀬の主張に徳田の意向が反映されていないとは言えまい。朝日の報道のように猪瀬・徳田会談で猪瀬がこの経緯を報告して、徳田が入札参加を明らかにしたことは十分にありうることだ。
 

その上での5000万円である。当時は副知事であったにせよ、猪瀬・徳田会談の時点では、猪瀬の当選が確実視されており、徳田にとって見れば知事になったことを前提にして5000万を“投資”することはまったく冒険とは考えなかった可能性がある。

結局今年9月の強制捜査のあと徳洲会は入札を断念しているが、その点について専門家筋は「これだけ材料がそろうと贈収賄事件での立件は可能である。事前収賄の考え方もなり立つ」と述べている。いずれにしてもまだ解明は先のことになるが、新たに登場した東電病院売却疑惑は、猪瀬辞任への決定打となった。

これまで沈黙を守ってきた政府・与党は、18日安倍が「せっかく東京五輪招致が決まったのに、国と都の話し合いができないのは世界に対してみっともない。どういう結末にしろ、早く方向を決めてほしい」と述べ早期辞任を促した。

高村も「職務権限と関係する人から5千万円の大金を受け取った外形的事実だけで、出処進退を決断するのに十分だ」と辞任すべきとの考えを表明した。

こうした事態となって永田町はにわかに「ポスト猪瀬」に向かって動き出す流れとなった。猪瀬は辞任を表明し、議長に辞表を提出する。都知事選挙は都議会議長が都選挙管理委員会に所定の手続きを取ってから50日以内に行われる。

現在のところ1月16日告示、2月2日投票か、1月23日告示、2月9日投票になる可能性が高い。

<今朝のニュース解説から抜粋>   (政治評論家)

2013年12月18日

◆テレビは政治の真髄に迫れない

渡部 亮次郎

私はテレビ局(NHK)で政治記者を20年務めたが、テレビは政治の真髄には迫れない、それを見て政治を見たと思っている国民は政治を理解したと思うだろうが、真実は誤解しているだけだ、とつくづく思った。

政治家が突き出したマイクやレンズに語るのは建前の恰好づけだけ。本音は密室での1対1になった時にしか語らない。不特定多数の取材者のいる「記者会見」で本音を明かす政治家はいない。

私の上司 島ゲジは記者会見を「嘘つき大会」と貶した。不特定多数の会見でには建前しか語らないというのは人間の本質だから、「記者会見」が真髄を語っていないのは時代を超えた事実である。

政治報道に関して、新聞やラジオにとって写真は不可欠ではないが、テレビは映像と音声で繋いでゆかなければならないから記者会見や「ぶら下がり」が頼みの綱である。政治家の「建前」だけを拾い、深い胸中に隠された本音を突き止められないまま次に進まざるを得ない。

重ねて言うが、テレビは政治に関する限り「記者会見と「ぶら下がり」」を多用し、たまに「特番」で補い「ハイ、これが今日の政界です」とすましている。本音を欠いた、極言すれば嘘を流しっぱなしだ。

テレビだけを見ている視聴者は、この「嘘」を「真実」と思い込み判断材料にして政権の選択をするから、端(はな)から政治家失格だったボンボンを総理に選ぶ愚を冒すことになる。

つまり、政治家が突きつけられたマイクとレンズを前にした時、本音を語る事はあり得ない。これは後に大臣秘書官になって、取材される立場に変わった時に痛感した。当たり障りの無い「建前」を語ることが「安全」であり安心なのである。

アメリカの政治家はテレビ・カメラに本心を言う。カメラのマイクを差し出すと大抵の政治家は立ち止まり、語りだす。「ぶら下がり」になれていて、すらすらと喋り始める。答えを「抽象的」にして逃げる事が多いが「嘘」をつく例は極めて少ない。

そこを悪用して国務省玄関に陣取り、出てきた大物にマイクを突き出す。
カメラにフィルム(テープ)ははいっていない。インタビュうしているところを別のカメラマンに一枚写真に撮らせる。これを後に著書の宣伝に使ったワルがいた。某ワシントン特派員の空(カラ・フィルム)事件は有名だ。

政治家が日本では「嘘」や「建前」で逃げ、アメリカでは嘘に逃げないのはなぜか。経験が少ないから確答できないが、「神に誓っているから嘘はつけないのだ」と解説した特派員がいた。

「お前なあ、政治家は記者会見で嘘を言う、実験をするから見ていろ」と島ゲジ(桂次=後のNHK会長)が言った。ある日、自民党幹事長の会見。カメラが回る。何事かを真実らしく語り終えた。

国会内の男用トイレに入った。すぐその脇にならび「ツレション」をしながら「幹事長、本当はどうなの」と訊く。相手が私独りなのを確認してから「うん、実はね・・・」と本音を吐いた。テレビはこれを録音も撮影もできない。

その夜のNHKニュースは民放とは逆の結論を流した。島さんが言った。「嘘を吐くと緊張する。緊張すると小便がしたくなる。小便で開放感に落ちる。ツレションで質問すると本音がつい出るんだ」。

政治家は多忙だし、マスコミは利用したい時と避けたい時と両方ある。独りの記者だけと、カメラ、マイク抜きで取材(サシ)の応ずる例は極端に少なくなっている。「オフレコ」の会見ですら多数が一緒である。

オフレコが外へ洩れた時、政治家としては多数が相手だから「犯人」を絞る事は殆ど不可能だ。だからオフレコでも建前しか喋らないのが政治家だ。

時代は超えても、政治家の本質はかわっていない。昔、河野一郎(河野太郎の祖父)は自宅へ上げた夜回りの記者に顔見知りでない新顔がいると、面談拒否をしたものだ。

政治家が本音を絶対明かさない「記者会見」「ぶらさがり」。これらでは「建前」しか明かさない。そんなテープを繋げて何を訴えてもテレビの政治ニュースは真実からは遠くなる。

視聴者は毎度そういう目に遭うから、政治不信とともにテレビ不信に陥る事になる。特に鳩山の真の姿を、総理就任後半年かかって突き止めたテレビ視聴者のショックは大きかった。「政治の真髄に迫れないテレビ」で政治を判断する事は危険ですらある。(文中敬称略)

2013年12月16日

◆アルゼンチンの牛肉

渡部 亮次郎


日本アルゼンチン協会報を見ていたら、飛行機で二十何時間も掛かるアルゼンチンから日本への資本進出が行なわれ、鉄鋼大手の「シデルカ」とNKK(日本鋼管)の合併企業「NKK−t」の資本比率は51対49だという。あのパンパス(草原)の国に、そんな強力な鉄鋼会社があったのか。

「つい最近まで世界に冠たる鉄鋼メーカーであり、油田用パイプの最大供給源であった日本の鉄鋼会社がなぜアルゼンチンの傘下に入らざるを得なくなったのか。

「それは独り鉄鋼だけの問題ではなく、モノ造りを続け、貿易立国でしか生存できない日本にとっての深刻な課題といえよう」と協会の専務理事野村秀隆氏が警鐘を鳴らしている。

アルゼンチンの企業は、いち早く規制緩和を進め、民営化に徹した。いち早く世界規模でのマーケット戦略を展開してきた。

これに対して日本は国内マーケットに固執し、グローバルなマーケット動向を見失った、だから国際競争力を失っているのだとも野村氏は言っている。

日本から南米への移民はアルゼンチンにも多い。特に沖縄からの移民が多い。ヨーロッパからのそれはイタリアからも多いが、上層をなしているのはドイツからの移民である。だから第2次大戦後、ナチの残党の多く逃げ込んだ国がアルゼンチンだった。

アルゼンチンを私たちは太平洋の向かいの国と考えがちだが、大西洋を挟んではアルゼンチンはドイツの隣国なのである。

行けども行けども草原の国である。そこに肉牛が放し飼いされている。景色は何処まで行っても同じである。「ですから遠足をやっても意味が無いのです、と日本人学校の先生が笑っていた。

そのパンパスの中でたらふく牛肉を食べてみようとなって草原の中のレストランに入ってみた。やがて出てきた牛肉はやたら大きくて皿からはみ出していた。

だが、がっかり。さっぱり美味しく無い。調味料は塩だけ。どうにも筋っぽくて残してしまった。

日本大使が語るように米国と豪州の牛は少しはトウモロコシなど穀類を食べるがアルゼンチンのは牧草だけの放牧飼育。筋っぽいわけである。

日本の牛肉は草と穀物による人工飼育だから脂っぽく柔らかい。これに慣れて育った日本人はアルゼンチンの牛肉に慣れるのは手間が掛かるだろう。

江戸にやってきたアメリカの黒船が幕府に牛の差し入れを求めた時、えっ、アメリカ人は船の中で農作業をするのかと思ったと伝えられている。殺して食べるなんて想像もできなかった。

その日本人が表向き四足を食べるようになったのは、明治天皇が食した明治4年以降である。それも精々すき焼き。ステーキはもっともっと後である。アルゼンチンの牛肉にはまだ遠い。

2013年12月15日

◆国語は義務教育で詰込め

渡部 亮次郎


「未曾有」で始まった、かつて麻生「首相」の漢字誤読は長崎原爆忌での「しょうせき」(傷跡)で終止符を打った。直後、自分で打った「解散」の結果「首相」でなくなって、いくら誤読しても誰も振り向かなくなったからである。

しかし世間には誤読のタネはいくらでもある。直後、海外在住の評論家女史から配信されたメルマガに「日本を『せき巻き』している」という文章があった。

前後の関係から、あきらかに席巻(せっけん)の読み方を知らずに年老いたものと知れた。何冊も著書が有り、新聞にも時折、評論を寄稿している有名人でも、おそらく中学時代に席巻を習わず、評論を書くようになってから使うようになったための誤読かと同情した。

そうかと思うと、教育関係のある会合に出たら、最近、歴史教科書の版元になって名を挙げた評論家が「先生、なぜこういう子供を『いくむ』ようになったのでしょうか」と下問。

聞かれた某国立大学の副学長女史、暫く考えて「いくむ」が育(はぐく)むと分かって、すらりと答弁。評論家は「はぐくむ」と勉強しなおすチャンスをまた失った。

田中角栄は学歴の無い首相だったが、この種の誤読は一切無かった首相でもあった。尋常小学校の漢字教育が徹底していたからではない。若くして世に出て、徒手空拳、使うべき文字は自分で納得のいくまで自分で叩き込んだためである。

外国の大学に2つも入った麻生太郎は、小中学校で漢字教育を十分うけずとも高校、大学を通過できる「環境」にあったから、漢字使用に伴うある種の痛痒を感じないまま過ぎてしまった。経営者としても国会議員としても先祖の七光りがあって、政治家の頂点に立ってしまった。

かくて首相として活動してみたら、漢字を十分使えない器である事を暴露、人気ガタ落ちになってしまった。政界にはこれからまだまだ2世3世が登場してくる。彼らは日教組の「ゆとり教育」を受けて育っている。漢字教育も「ゆとり」だろうから、第2、第3の麻生が間違いなく出現する。

すべからく、漢字教育は脳みその柔らかな義務教育の間に徹底的に教え込まないと、我々は天にツバする如く政治家の演説にのけぞり続ける事になる。(文中敬称略)

2013年12月12日

◆気の毒な「水に落ちた犬」

乾 正人


永田町でも西新宿(都庁)でも「水に落ちた犬を打つ」のは、政治の性(さが)と言ってしまえばそれまでですが、あまり気持ちの良いものではありません。

都議会では連日、猪瀬直樹都知事が受領した5000万円問題が追及されています。

知事は正直者のようで、日ごろの自信に満ちた輝きがかき消え、答弁も弱々しく矛盾だらけ。事態は好転どころか泥沼にはまっています。辞任必至とみて、はや知事選立候補に意欲をみせている政治家もいます。

あの5000万円がなくても猪瀬氏は選挙に勝ったでしょう。しかし、それは結果論でしかなく、無利子でもらった大金を貸金庫で保管し続けた事実は消えません。

ここで一度、身を引いて再起を期さないと、「東京五輪招致」の功績すら吹き飛びかねません。それにしても世の中に、うまい話はないもんですねえ。(産経新聞編集長)
産経ニュース【編集日誌】 2013.12.12

<「頂門の一針」から転載>

◆マスコミは金儲けに過ぎない

渡部 亮次郎


最近のインターネット界ではマスコミのことを憎んでマス「ゴミ」と言う。大変なマスコミ不信を現していると思うが、私に言わせれば、もともと信じてはいけなかったマスコミを一旦は信じてしまった自分の不明を恥じるべきだと思う。

この世の中で、満腔の信頼を寄せられるメディアなぞは存在しない。まして「社会の木鐸」足り得るメディアなぞ存在するわけが無い。初めから「営利」を目的に設立された「民間放送」をマスメディアの一種と認定する浅はかな「良心」には、呆れてものが言えない。

例に出して悪いけれども「読売新聞」。「読売」とは新聞のことである。カネを取って読ませるから「新聞」なのである。「買われない」読売は「新聞」ではないことを商標にしている。つまり、この新聞は「木鐸」なんかではなく「金儲けの材料」に過ぎないことを自供しているようなものだ。

左様、「新聞」は「朝日」だろうが「毎日」だろうが「産経」だろうが、売れなければ倒産以外にない「商店」に過ぎないのだ。正義や趣味のために発行されているのでは無い。

だとすれば、如何にしたら大量に売れる商品足り得るか。それは読者への「迎合」に落ち着くこと、当然ではないか。朝日が日教組に迎合した紙面を作ることを非難する新聞があるが、言葉は悪いが「目くそ鼻くそ」である。新聞は本質的に己の利益のために恣意的であり「公平」は装う「衣」に過ぎない。産経とて同様である。

NHKに20年間、記者として在籍した経験から言うと、新聞社は朝7時のNHKニュースのオーダーを参考にして夕刊を編集する。その夕刊を参考にしてNHKは夜7時のニュースの配列を決める。

新聞社はそのNHK午後7時のオーダーを参考にして翌日朝刊の見出しを組む。これが真相だ。テレビと新聞は独立しているようで全く渾然一体になっているのだ。それが判って私はNHKを去った。マスコミと絶縁した。何千万円かの退職金を捨てた。42歳。77歳まで生活苦に喘いできたが、気分は爽快だ。

テレビに移ろう。視聴率。本当はNHKも気にしているが、民放が最も気にしているのが、これだ。低い番組を作ればスポンサーが離れて収入が激減するから、大衆迎合番組ばかりになる。これは民放の宿命である。

宿命はスポンサーの広告を放送して広告料を集めることにあるから、畏友の評論家加瀬英明によれば、民放の本意はコマーシャルだけ流せれば一番よいが、エサが無ければ魚は釣れないから餌として、ドラマなどを流さざるを得ない。民法の番組はコマーシャルの合間に流れる餌。良心も啓蒙も無い。餌代は安いほうが良いから「外注」になる。

したがって餌は視聴者の気に容るよう、いわば大衆迎合一点張りのものにせざるを得ない。低俗と非難される番組は低俗な大衆に迎合したものであるから、非難者は天に唾している愚者である。

政治番組が視聴者を誘導しているという批判も聞くが、政治番組はマスコミが行なう世論調査の傾向にあわせた迎合番組なのだから、それを見た世論が変われば、それがまた次の世論調査の結果となって表れるから、視聴者は己の尻尾を噛もうとしてグルグル周りをしている犬に似ている。そこに真実は無い。

放送局は経費節減のために、番組を丸ごと制作会社に「外注」する。NHKもやっているが、外注とは名ばかり。退職した元社員の会社が多い。勢い本社の意向に沿った番組にしかならないのは当然。経費削減場からりの番組だから見るに耐えないのは当然である。

政治評論家にも精彩の無いのが多いと人々はいうが、これは無理と言うもの。「世論」に沿ったディレクターの「意」に沿った発言をし続けなければ、次週の出演依頼は来なくなるから、縦横無尽、快刀乱麻の解説など危なくて披露できたものじゃない。

これでも昔は政治記者をしていたから、いま活躍中の政治評論家の裏側を知り抜いている。その後、大臣秘書官として内閣の機密費を撒くことも担当して、裏の事情を知っているから、彼らの解説なんぞ、聴く気になれない。

余談だが、佐藤栄作政権当時、幹事長田中角栄が配る毎月10万円(いまから40年ぐらい前の!)の「チップ」を拒否したのは、はばかりながら私ぐらい。秘書官となって大臣からの土産購買補助金を受け取らなかった記者は1人だった。

私が新聞やテレビを漫然と絶対に接しないのは以上の理由による。まして番組を元に評論するなどは絶対にしない。時間の無駄というものだ。

2013年12月11日

◆事故死ジェームス・ディーン

渡部 亮次郎


アメリカ映画『エデンの東』(55)『理由なき反抗』(55)『ジャイアンツ』(56)の主演俳優ジェームス・ディーンが自動車事故で息をひきとったのが、1955(昭和30)年の9月30日。

私はまだ大学2年の秋。政界は第2次鳩山一郎内閣の末期。脳溢血を患いながら日ソ国交回復を成し遂げつつあり、11月には退陣する。

愛称: ジミー・ディーンはこの日、カリフォルニア州のサリナで行われるレースに向かう途中、友人のラルフ・ウッタリックと共に愛車ポルシェ・スパイダーを135キロのハイスピードで運転。

横から出てきた学生の運転する車と衝突。ラルフと学生は軽症だったが、ディーンは帰らぬ人となった。まだ24歳だった。

彗星のようにこの世を去った彼は、エルヴィス・プレスリーやマリリン・モンローらと共に50年代を代表するアメリカ文化の象徴だった。

死亡する55年には安全運転をテーマにしたコマーシャルに出演するが、実生活ではスピード狂として知られ、車やバイクを高速で走り回す無軌道ぶりはスタジオの重役や製作スタッフたちの心配の種だった。

彼が事故死する2時間前にはスピード違反で切符を切られており、前夜には激しい恋のトラブルがあったといわれている。

『エデンの東』と『ジャイアンツ』の演技で2年連続してアカデミー主演男優賞候補になるが、ノミネートされた時には既に亡くなっていたため、死後2年連続してノミネートを果たすという珍しい記録を残した。

厳格なクエカー教徒の家庭のひとり息子として1931年2月8日、インディアナ州マリオン生まれるが、9歳の時に最愛の母親をガンで失う。父親は歯科技工士の仕事で忙しかったために、ディーンはフェアマウントで農場を営む伯母夫婦のもと引き取られる。

小学校では絵画の勉強やピアノやドラムの練習に打ち込み、中学に入ると担任の教師アデリーン・ノールに俳優としての素質を見出されて学生演劇に出演。

演じる事の楽しさに目覚めたディーンは、高校に入学すると演劇研究会に入会。演劇以外にバスケットボールなどのスポーツにも熱を入れた。

49年には州政府主催のスピーチ・コンテストに参加。高校生とは思えない迫真の朗読で優勝を果たし、州対抗のコンテストでは6位に入賞した。

高校卒業後は父親の住むカリフォルニアに移り、サンタモニカ市立大学で法学を学ぶものの、成績はあまりよくなく、勉強よりも芝居の練習に熱中するようになる。

ディーンは、さらなる演技の勉強のためにカリフォルニア州立大学に転校して演技科を専攻。アクターズ・スタジオ出身の俳優ジェームズ・ホイットモアのもとで演技を磨く。

舞台『マクベス』で演じたマルカム役の演技が注目されてエージェントと契約を結び、50年には典型的なアメリカン・ボーイのイメージを買われてペプシコーラのコマーシャルに出演。

しかし、俳優としての仕事はほとんどなく、大学の授業をさぼってハリウッドで映画やテレビのオークションに参加する日々を送る。

51年にはテレビ・ドラマ『第一の丘』でヨハネを演じてまずまずの評価を得て、ジェリー・ルイスとディーン・マーティン主演の『底抜け艦隊』(52)では端役として映画デビューを果たす。

俳優としての成功を求めるディーンは、大学を中退してニューヨークに移住。52年にはアクターズ・スタジオの入門テストを受け、150倍の難関を突破してスタジオ史上最年少の研究生となった。

その直後、舞台『ジャガーを見ろ』の準主役に抜擢され、上演はわずか6日で打ち切られたが、ディーンが演じた知能の足りない青年役は大きな注目を集めた。舞台でのキャリアを優先させるために『銀の盃』(54)などの映画出演を断り、54年にはブロードウェイの舞台『背徳者』でアラブの青年役を演じて絶賛を浴びた。

アクターズ・スタジオの創設者の一人であるエリア・カザン監督は、ディーンの才能に注目して新作映画『エデンの東』(55)の主役に抜擢。ワーナー・ブラザース社と1万ドルの契約を結んだ。

ディーンは、父親の愛に飢え、反抗的で孤独感に打ちのめされた息子キャルを熱演。反抗的で傷つきやすい若者像はセンセーションを巻き起こした。

続く『理由なき反抗』(55)では、キャル役の延長ともいえる悩み多きティーン・エイジャー、ジムを持ち前の個性と演技力で見事に演じきった。

『エデン〜』撮影中に知り合ったイタリア人女優ピア・アンジェリと知り合って恋に落ちるが、ディーンの破滅的な性格が災いして4ヶ月で別れてしまう。

その後も、テレビ・ショーの司会者マイラ・ヌルミ、『理由〜』の共演女優ナタリー・ウッド、『007/ドクター・ノオ』のグラマー女優ウルスラ・アンドレスらと浮名を流すが、どれも長続きしなかった。

『理由〜』の撮影が終了すると、共演のエリザベス・テイラーの妊娠で撮影開始が遅れた『ジャイアンツ』(56)に出演。監督のジョージ・スティーブンスに頼み込んで手に入れた、ひねくれ者の牧童ジェット・リンク役を、自分の意志を通すために監督と反目しあいながらも、的確な演技力で演じ切って演技派俳優としての才能の片鱗を見せた。

しかし、映画完成直前の55年9月30日、次回作に予定されていた『傷だらけの栄光』(56)のロッキー・グラシアノ役は同じアクターズ・スタジオ出身のポール・ニューマンが演じ、彼の死後公開された『理由なき反抗』と『ジャイアンツ』は大ヒットを記録。若者たちは映画の中のディーンの姿に共感した。
www.geocities.co.jp/Hollywood/5710/j-dean.html

24歳の死は『ジャイアンツ』の公開前だった。事故原因は長年、ジェームスのオーバースピードだったと信じられていたが、近年発見されたオリジナルの事故記録から対向車の車線はみ出しによるものであると判明している。

死後、その終焉の地に建てられたモニュメントには『James Dean 1931Feb 8―1955 September 30 PM5:59 ∞』の字が刻まれている。

事故を起こしたポルシェは、彼のレース用の愛車で、通常はレース場のみで使用されていたが、この日はこの車を運転する特別な事情があったとされている。

また生前のジェームズは、「レースは危なくないですか?」と記者に問われた際に「車に乗っていて危険を感じるのは、レース場ではなく、一般の車道です」と語っていた。

遺体は故郷のフェアマウントにある公園墓地に埋葬され、現在も献花が絶えない。最初の長編出演(feature role)でアカデミー賞にノミネートされたのはジェームズを含めて5人しかおらず、また死後に2度ノミネートされたのはジェームズただ一人である。


ジェームズは、とくに『理由なき反抗』の演技で1950年代の若者の反抗を端的に表現した。このため同時代の多くの若者はジェームズをモデルにし、その死は多くの同世代の人々に暗い影を落とした。短すぎるキャリアと衝撃的な死、それに公開葬儀がジェームズをまぎれもなく時代を超えた魅力を持つ崇拝の対象にした。

ジェームズ・ディーンの墓はピンクの様な色をしており、多くのファンによってキスマークがつけられている。1961年に21歳で事故死した俳優・赤木圭一郎は、死後「和製ジェームス・ディーン」と呼ばれた。

ジェームス・ディーンの事故車のミニカーが販売されたことがある。

1996年公開の映画『クラッシュ』には、事故の模様を本物のポルシェ550を使って完全再現するシーンが出てくる。

モリッシーの「スエードヘッド」のプロモーション・ビデオのラストシーンにジェームズ・ディーンの墓が登場する。

2002年〜2004年頃にかけて日本のフィギュアメーカーキューティーズから1/4スケールのリアルなフィギュアが発売された。ジェームス・ディーンが「理由なき反抗」と「ジャイアンツ」で穿いていたジーンズは、リー ライダース101で、リーバイスではない。

「理由なき反抗」で着ていた赤いジャケットは、マクレガー社の防寒用上着「ナイロン・アンチフリーズ」で、ゴルフ用ジャケットの「ドリズラー」ではない。

また、スイングトップと呼ぶのは間違い。これは日本のヴァンジャケットが創作した和製英語名称である。

アメリカのロックバンド、イーグルスは3枚目のアルバム、「On TheBorder」に「James Dean」という曲を収録した。『ウィキペディア』

2013年12月09日

◆戦後スパイ事件全容

渡部 亮次郎


これは女性読者が知らせて来てくださった資料である。事件の内容を説明していると誌面をはみ出してしまうの断念したが、とにかく北朝鮮、中国、ロシアのスパイが国土中を自由に徘徊するスパイ天国日本の実態である。

捜査当局はどんな法令を基に検束しているかは知らないが、実際は検束できていない事件のほうが問題であり、件数は其のほうが多いはずである。にも拘らずマスコミと野党はスパイ防止法案を潰しにかかるのである。不思議だ。

       戦後のスパイ事件全 容
mid.parfe.jp/kannyo/supaibousi/siryou/kakonojikenn.htm -
年     事 件 名 相手国
昭和16年 ゾルゲ事件 ロシア
昭和25〜 第1、2、3次北朝鮮スパイ事件 北朝鮮
昭和27年 三橋事件 ロシア
昭和28年 関三次郎事件 ロシア
昭和29年 ラストボロフ事件 ロシア
昭和32年 新光丸事件 北朝鮮弘昇丸事件 北朝鮮
昭和34年 第4次北朝鮮スパイ事件 北朝鮮
昭和34年 滝事件 北朝鮮
昭和35年 浜坂事件 北朝鮮
昭和37年 大寿丸事件 北朝鮮解放号事件 北朝鮮
昭和38年 酒田事件 北朝鮮第1次、2次能代事件 北朝鮮
昭和39年 寝屋川事件 北朝鮮 薫グループ事件 北朝鮮本事件 北朝鮮
     三和事件 北朝鮮
     一宮事件 北朝鮮
     蒲田事件 北朝鮮
昭和40年 神田事件 北朝鮮
        江戸川事件 北朝鮮
        長田事件 北朝鮮
昭和41年 杉並事件 北朝鮮 進展実業ココム違反事件 ロシア
昭和42年 コノノフ事件 ロシア 外務省スパイ事件 北朝鮮
昭和43年 東大阪事件 北朝鮮 都島事件 北朝鮮
昭和44年 岩崎・能代事件 北朝鮮 兵庫県貿易ココム違反事件
中国オダンタラ事件 ロシアセドフ事 ロシア
昭和45年 八王子事件 北朝鮮
昭和46年 足立事件 北朝鮮 コノノフ事件 ロシア石原事件 北朝鮮
昭和48年 温海事件 北朝鮮水山事件 北朝鮮
昭和49年 中川事件 北朝鮮
     切浜事件 北朝鮮
     第11幸与丸事件(レポ船) ロシア
     クプリツキー事件 ロシア
     北総事件 北朝鮮
     第11幸与丸事件(レポ船) ロシア
昭和50年 鶴見・寺尾事件 北朝鮮
     濁川事件 北朝鮮
昭和51年 汪養然事件 中国
     布施事件 北朝鮮
     マチェーヒン事件 ロシア
     ドリユー・ゴツトリーブ事件  ロシア
昭和52年 豊島事件 北朝鮮
     宇出津事件 北朝鮮
昭和53年 研究文献等中国流出事件 中国
昭和55年 コズロフ事件 ロシア
        水橋事件 北朝鮮
        磯の松嶋事件 北朝鮮
        第18和晃丸事件(レポ船) ロシア
        北朝鮮
昭和56年 伏木国分事件 北朝鮮
        六郷事件 北朝鮮
        男鹿脇本事件 北朝鮮
        工作員回収事件 北朝鮮
昭和57年 レフチェンコ証言問題 ロシア
        第35功洋丸事件(レポ船) ロシア ビノグラードフ事件
昭和59年 第12誠良丸事件(レポ船) ロシア
昭和58年 小住・金事件 北朝鮮
昭和60年 第31幸栄丸事件 (白い高速船) 北朝鮮
        日向灘不審船事件
        第5日東丸事件(レポ船) ロシア
        ソウル・辛事件 北朝鮮
        西新井事件 北朝鮮
昭和62年 横田基地中ソスパイ事件 中国
        ポクロフスキー事件  ロシア
       ・李恩恵北朝鮮ら致容疑事案 北朝鮮
        東明貿易ココム違反事件 北朝鮮
        東明貿易ココム違反事件 中国
        東芝機械ココム違反事件 ロシア
昭和63年 横須賀事件 北朝鮮
        渋谷事件 北朝鮮
        極東商会ココム違反事件 中国
        工作員漂着事件 北朝鮮
平成1年 商工連幹部に係るココム違反事件 北朝鮮
        ダイキン工業ココム違反事件 ロシア
        プロメトロンテクニクスココム違反事件 東ドイツ
平成2年 美浜事件 北朝鮮
       シランコフ事件 ロシア
平成3年 第65秀栄丸事件(レポ船) ロシア
        イラン輸出事件に係る武器部分品不正
平成4年 ダヴィードフ事件 ロシア
        イリーガル機関員による旅券法違反事件 ロシア
平成6年 トレーダーズココム違反事件 中国
平成8年 東亜技術工業外為法違反事件 北朝鮮
平成9年 通商代表部員に係る業務上横領事件 中国
        黒羽・ウドヴィン事件 ロシア
        チェルヌィーフ事件 ロシア
        軍人漂着事件 北朝鮮
平成10年 民族民主革命党スパイ事件 北朝鮮
平成11年 能登半島沖における不審船事案 北朝鮮
        菱光社等外為法違反 中国
        ボガチョンコフ事件 ロシア
平成12年 新宿百人町事件 北朝鮮
サンビームに係る武器部分品不正輸出事件 イラン
平成13年 黒部事案 北朝鮮
       
平成14年 元通商代表部員に係る秘密保護法違反事件 ロシア
        日本海中部海域不審船事件 北朝鮮