2014年08月27日

◆プロポリスを飲んだ

渡部 亮次郎


わがメルマガ『頂門の一針』に坐骨神経痛にかかり、結果歩き方が悪くなったため、左足の親指に「肉芽」が出来て痛いと泣き言をいったら在外の読者から「老齢で抵抗力が弱っている、これを服用しなさい」とビタミン剤と「プロポリス」を送ってきてくださった。

60カプセルを20日間で飲み尽くした。

結果、肉芽はたちまち完治、坐骨神経痛も快方に向かっているのである。便通がよくなり、注射が不要なぐらい、血糖値が下がっていて、インスリンが膵臓から再びでているのではないかと考えたりしている。

とにかく感謝の極みである。西洋から始まった近代医学は抗生物質の発明により、一時、極致に達した観があったが、それらの薬は確かに強い薬効を発揮するものの、反面、副作用も強く、様々な弊害が問題となっている。

生薬にはその副作用があまりみられないというわけで「プロポリス」もそんな生薬のひとつであるようで、もっと関心を持つべきもののようだ。

しかも日本ではプロポリスは健康食品だが、ルーマニア、デンマーク、ドイツ、ロシアなどでは医薬品として扱われ、さまざまな治療に役立てられている。海外では積極的に治療の現場にプロポリスを取り入れているところもあるようだ。

実際、体験的に効果があったといわれるのは、皮膚疾患では、やけど、水虫、ウオノメ、アトピー性皮膚炎、ウイルス性皮膚疾患など。内科系では、胃炎、胃腸潰瘍、十二指腸炎、大腸炎、膀胱炎、腎臓炎、前立腺障害、喘息、気管支炎、結核、肝炎など。動脈硬化や貧血にも効果があるようだ。

他にも、「ものもらい」などの目の炎症、歯痛や口内炎、歯槽膿漏に良く、二日酔いや育毛効果もあり、ガンが治ったとの多くの報告もある。

特に日本でプロポリスが知られるようになったのは、1985年名古屋での国際養蜂会議で、多くのプロポリス症例が報告されてから。

さらに1991年10月に国立予防衛生研究所と協和発酵東京研究所の研究グループがブラジル国産プロポリスの成分中に抗ガン効果のある新たな化合物を発見したという発表は、新聞などでも大きく取り上げられひとり歩きをし、一気にブームとなった

プロポリスは蜜蜂がつくり出す。蜜蜂が作り出すもので、人間が有効利用できるものとしては、蜂蜜、ローヤルゼリー、蜜蝋、花粉などがよく知られている。

プロポリスは日本では、蜂ヤニとして知られていた。さまざまな樹木から集めてきた樹脂を、蜜蜂が唾液と共に噛み続け、ワックス状にしたものがプロポリス製品の原料となる原塊と呼ばれる物質である。

このようにしてつくり出したプロポリスを、蜜蜂は巣の補修などに使う。入り口や巣の中の通り道の通路を狭くして外敵の進入を防いだり、巣の内部を一定温度に保ったり、滑らかにしたりする。

しかし一番の目的は、巣を無菌状態に保つことにある。樹液には木自身を、守るための抗菌力があって複雑な成分で作られている。例えば巣に外敵が侵入したとき、多数の蜜蜂が蜂毒を用いそれを殺し、死骸は巣から運び出す。

死骸が大きくてそれが不可能な場合に注目。死骸をプロポリスで覆うのだ。プロポリスで覆われた死骸は腐敗せずミイラ化され、無菌状態で保たれると言うから驚きだ。

1つの巣箱内には多い時で5万羽以上の蜜蜂が集団生活をしていて文字通りの過密世帯のため、常に巣箱内の衛生状態を保つ必要がある。

そこで巣の出入り口にプロポリスを塗り蜜蜂1羽がやっと通過する事が出来る狭くて、長いトンネルを作り、外勤より帰巣するたびに自身の体をプロポリスと接触する事によって外部から持帰る有害菌の滅菌を行う、いわば関所のような役目をしているわけだ。

このような事から、プロポリスには強力な殺菌作用のみならず細胞活性化作用があり、この天然の抗生剤とも言える、非常に安全性の高い物質を人間の体内に取り入れる事により、健康を維持していこうとの考えにより、古来から用いられてきた。

プロポリスの語源はギリシャ語。プロはプロップ(支柱)というラテン語から、ポリスは都市の意味を持つギリシャ語で、「蜂の都市を支える柱」という合成語になった。

この名前で呼ばれるようになったのは17世紀以降だが、プロポリスはそれ以前からもミイラを意味するマミイという名前で知られていた。

古代ギリシャからその効用は知られていてアリストテレスも『動物誌』の中で皮膚疾患、切り傷、感染症に効果あり、と記述している。ローマのプリニウスも『博物誌』で体内に入ったトゲの摘出や神経症、皮膚病に有効としている。

他の文献の記述によれば、腫瘍や炎症、毛髪の発育促進などにも使われていた。古代エジプトでも、その防腐効果を利用してミイラづくりに一役買っていたと推測されている。

古代インカ帝国、アラビアでも薬として知られていて18〜19世紀にかけては外傷に対する治療薬として使用された。

イギリスと南アフリカのボーア戦争では、ワセリンにアルコール抽出のプロポリス液を加えプロポリスワセリンとして、兵隊の傷口の治療に使われていた。

その後の西洋医学の発達、特にペニシリン等の抗生剤の開発によって、その存在は忘れられていたが、近年抗生物質の乱用が問題化している中で、プロポリスは加速度的にその安全性と効果が見直されていると言う次第。

ブラジルなどでは、どこの薬局でも買えるポピュラーな民間薬として知られている。欧米諸国ではその歴史も古く、実際に医療薬として使用されている国も多くまた、民間療法としてのプロポリスの利用法は、やけどやニキビ、イボ、シミ、帯状疱疹に塗布するなどです。実際めざましい回復をするようだ。

プロポリスの原塊はひとつの巣箱から年間100〜300グラム程度しか採れない貴重なもの。現在は少しでもプロポリスの成分を有効に利用する目的から、三つの抽出法が行われている。

いちばんポピュラーなのが、アルコール抽出法だ。プロポリスの原塊と食用アルコールを一緒に2〜3週間攪拌し、その後、濾過してアルコールとプロポリス成分の融和を図る為、一定期間保存した後に使用する。

一般に熟成と称して保存期間が長期にわたる程良い商品であるかのようにうたっているものがあるが、これは定かではない。

樹脂から作られるプロポリス原塊は、独特の粘着質を持っている。色は黄緑色から暗褐色までいろいろで、味、香りとも異る。

日本には千差万別の品質を持つ原塊が輸入されている(日本国内では養蜂条件の違いにより商業的生産なし)。どの産地で取れた原塊が優れているかというランク付けは困難とか。

成長の早いユーカリ樹の植林が盛んで、ブラジル国産のプロポリス原塊は起源植物がユーカリ樹系より由来している物が多く、独特の香りと色調を持っているようだ。

ユーカリ樹液は大変殺菌力が強いと言われ、それに加えブラジルで展開されている養蜂はアフリカ蜂化された他国(ヨーロッパ種が主)では見られない特徴を備えたミツバチにより生産されているため、その原塊は大変興味深い成分により形成されていると言ってもよい。値段は東京のデパートでは「ピンキリ」 。

2014年08月26日

◆政治的ウソの見分け方

伊勢 雅臣


〜 国際政治学者・中西輝政氏に学ぶ

歴史を通じて磨かれた我々の素朴な感覚で、美しい言葉に隠された政治的ウソを見分けることができる。


■1.「予測をどこでどう間違えたのか?」

国際政治学者の中西輝政京都大学教授は、自ら政治的なウソに騙された事例を紹介している。

イラク戦争直後、教授は2、3年かかるにしろ、イラクの国内状況は次第に落ち着きを取り戻し、経済の発展も始まるだろうと考えていた。しかし、イラク情勢はその後何年経っても、依然として混迷状態にある。そこで教授は「予測をどこでどう間違えたのか」と何度も反芻した。

一つは情報の歪みである。ワシントンやニューヨークの一流メディアから流される情報はすべて楽観論一色で「アメリカはすでに並ぶものなき軍事大国で、その力は隔絶している」などというものだった。「いまから考えると、かなりの部分が情報操作だったのでしょう」と教授は言う。[1,p164]

もうひとつの反省点は、自身で「あれ?」という疑問を持ったのに、それを深くつっこまなかった事だ。その疑問とは、なぜアメリカ軍はイランやシリアとの国境を閉鎖しなかったのか、という事であった。

国境を閉鎖しなかったら、イランからアルカイダなどのゲリラ勢力が自由に入ってくるし、シリアからも武器や物資が運び込まれてくる。「こんなことでは危ない。なぜ閉めないのだろう」と教授は疑問に思ったが、「まあ、アメリカのことだから、そんな事は百も承知でやっているのだろう」
「人工衛星か何かで監視しているのだろう」などと、自分の疑問を押し込めて、自身を納得させてしまった。


■2.「ふと浮かんだ疑問」を大事にする

当時、大統領選を翌年に控え、ブッシュ政権は「アメリカの鮮やかな勝利」を強調していた。ラムズフェルド国防長官は「アメリカは軍事革命を果たした」「衛星とスリムな軍隊で、アメリカは世界のどの地域でも同じ事ができる」という新ドクトリンを打ち出していた。

しかし、国境を閉鎖しようとしたら、最低3、4万人の兵力を増派しなければならない。それでは「イラクは実はうまくいっていないのではないか」という批判を招きかねない。

その批判を避けるために、国境は閉鎖しなくとも何とかなるだろう、という大バクチをラムズフェルド国防長官は打ったのだった。そして、それに都合のよいウソの情報を流していたのである。はたしてバクチは裏目に出て、イラクは泥沼化し、アメリカは深い傷を負った。

中西教授は、もし「なぜ国境を閉めないのだろう」という疑問にこだわって、いろいろ調べていけば、かなりの情報が集めら、早い段階で「この戦争は泥沼化する」と分かったはず、と自省している。

ふと浮かんだ疑問は自分の素直な感覚であり、物事を考える際にこれがものを言うことが多いと、教授は言う。


■3.美しい言葉にはトゲがある

我々日本国民もさまざまなウソに騙されてきた。たとえば、「次の言葉のうちで、あなたが好感できるものを選んでみてください」と中西教授は問いかける。

「豪華」「自慢」「自由」「蓄財」「大物」「平等」「格安」「平和」「出世」「民主」

おそらく大部分の人は「自由」「平等」「平和」「民主」などを選ぶ。これらの「美しい言葉」は誰も疑わない。だからこそ、そこに危険なワナが仕掛けられている。これらの「美しい言葉」は、人々の思考停止を誘い、我々の素朴な感覚を押さえつけてしまう。

たとえば「平和」。軍隊をなくし、核兵器をなくせば、平和な世界が来る、と戦後教育では教えられてきた。そして「平和」を声高に叫ぶ人々は、「核兵器反対」を唱え、米国の艦船が核を積んでいるのかどうか、などと問題にしていた。

しかし、彼らは日本を狙うソ連や中国の核兵器には何も言わない。かつて広島の反核集会で、「米国の核ミサイルだけでなく、ソ連の核ミサイルにも反対する必要があるのではないか」と発言した学生が、演台から引きずり下ろされてしまった事もあった。

この学生のように素朴な疑問を大事にすることで、こういう美しい言葉に隠された危険なウソを見破ることができる。

美しいバラにはトゲがあるが、美しい言葉にはウソが隠されてることがしばしばある。政治的ウソを見分けるには、まずは美しい言葉を見たら、そこにはウソが隠されていないか、気をつける必要がある。そこから素朴な感覚が働き出す。


■4.化けの皮がはがれた「日中友好」

「日中友好」も、かつては多くの日本人を騙して、膨大な国富を奪った美しい言葉であった。

1980年代には「日中友好2千年」「日中は(同じ漢字を使う)同文同種の国」「一衣帯水(一筋の帯のように、細い海峡に隔てられた隣国)」など、マスコミの流す様々なスローガンが友好幻想をかき立てた。総理府(現・内閣府)の調査によると、1980年代前半では70%以上の日本国民が中国に親しみを感じていた。

もともと、これらの美しいスローガンは、中国がソ連と対立して、日本からの経済協力を必要としていた時代に、流されていたものである。[a]「日中友好2千年」などというスローガンが、いかに歴史的に見ても偽りに満ちたものかは[b]で述べた。

最近は尖閣諸島問題や反日デモなどで、こういうスローガンのうさん臭さが誰の目にも明らかになり、ここ数年では、中国に親しみを持つ人々は20%台にまで落ち込んでいる。

しかし、過去20年ほど「日中友好」に騙されてきた結果、3兆円以上(日本国民1人あたり3万円規模)も貢いできた対中ODAは感謝もされずに忘れ去られようとしている。

またマスコミの「中国経済賛美」に乗せられた日本企業の対中投資額も10兆円規模に達しているが、日本企業がいざ中国から撤退しようとしても、中国政府や合弁の相手企業は難癖つけて投資分を返さない。「日中友好」の美辞麗句に騙されて、膨大な国富を我々は奪われてきたのである。

孔子は「便辟(べんへき)を友とし、善柔(ぜんじゅう)を友とし、便佞(べんねい)を友とするは損なり(外見が良いだけの人を友とし、人当たりが良いだけの人を友とし、言葉巧みな人を友とするのは損である)」として、友を選ぶことの重要性を語っている。

国家間の関係も、我々の友人関係と同じである。相手が友として信頼してよい人物かどうかを見極めることが大切だ、という素朴な感覚を大事にしなければならない。


■6.米軍の刑法犯は国内平均の半分以下

近年、中国が太平洋に覇権を伸ばそうとするにしたがって、沖縄の米軍基地に関する政治的ウソがさかんに流されるようになってきた。沖縄の米軍基地こそが、中国の太平洋侵出にとっての最大の障害だからである。

たとえば、沖縄には在日米軍基地・施設の約75%が集中していると言われると、ほとんどの日本人は驚いて、いかに沖縄県民が米軍基地の「過重な負担」を堪え忍んでいるか、と思ってしまう。

しかし、この75%とは米軍が単独で使用している基地だけの話で、自衛隊と米軍が共同使用している三沢、厚木などの基地を加えると約25% というのが実態である。[2]

また、沖縄で数年に一度、米兵による強姦事件などが起きると、マスコミが大騒ぎするが、千人あたりの刑法犯検挙人数で見ると、

−沖縄の米軍  1.4人
−沖縄県民   3.0人
−来日中国人  15.7人(登録者・永住者+短期旅行者/日数)
−来日韓国・朝鮮人 19.4人 (同)

となっている[3]。外国人犯罪について騒ぐなら、10倍以上の刑法犯 を出している近隣諸国からの在留者、旅行者こそ問題にしなければならな いはずだ。

さらに最近は米軍の新型輸送機オスプレイの危険性がマスコミで騒がれているが、これもデータを見れば、そのウソが分かる。オスプレイは2007年に実戦配備されてからの事故率は10万時間あたり1.93回で、いま 使われているヘリコプターCH-53Dの4.15の半分以下である。沖縄県民の 安全を本当に心配するなら、一刻も早くオスプレイ配備を願わなければな らない。

現在のヘリコプターCH-53Dでは尖閣諸島には届かないが、オスプレイなら1時間で着ける。オスプレイの「危険性」を本当に心配しているのは中国軍の方であろう。[4]

政治的なウソが、センセーショナルな犯罪報道や、巧みに作られた数字によって流されることがある、と知れば、ちょっと待てよと、素朴な感覚を働かせるチャンスが出てくる。

特に最近は、[2]や[3]のように、大手マスコミの報道する政治的ウソをデータで客観的に暴くインターネット・サイトも増えてきているのは、歓迎すべき傾向である。こういうサイトを見聞する事で、データを通じて、我々の素朴な感覚を磨くことができる。


■7.我々の素朴な感覚を磨く道

我々の素朴な感覚を磨くには、他にどのような道があるのか。一つは人生経験を積むことだが、もう一つは、他者の経験、すなわち歴史に学ぶことである。

中西教授はイギリス・ケンブリッジ大学に留学した際に、国際政治に関する分野を教わったのは、歴史学者のハリー・ヒンズリー教授だった。ヒンズリー教授は「歴史に還元しないと何事も本当の知識にはならない」と中西教授に教えたという。

中西教授の国際政治に関する独自の見方は、歴史的な視野を持っているところから来ることが多い。たとえば、現代の日本が直面している少子化、人口減少に関しても、こんなエピソードを紹介している。

1935年にアメリカ政府は、米国における長期人口予測を発表した。そこには、次のような予測が示されていた。

<1965年になったとき、アメリカの人口は3分の2に減っているだろう。大々的に移民を受け入れるか、それともこのままやっていくかの大変な分かれ道だ。>[1,p216]

この予測は見事にはずれた。第2次大戦が始まると、急に結婚率が上がり、それにつれて出生率も大幅にあがった。これが1965年まで続き、「大ベビーブーム」時代が出現したのである。

もし、1935年時点で、この予測にしたがって、大々的な移民政策がとられていたら、どうなっていたろう。現在でも、大規模な移民政策がうまく行っている国がないのは、トルコ移民問題に悩むドイツ[c]や、中国化しつつあるカナダ[d]を見れば明らかである。

アメリカは経済的にも社会的にも1960年代に黄金時代を迎えるが、もし1935年の時点で大規模な移民政策をとっていたら、貧しい移民たちへの生活保護に税金を投入せねばならず、また治安の悪化などで、その後の黄金時代を迎えられたかどうかは分からない。

大ベビーブームを経験したアメリカですら、その前に人口減少が政府によって予測されていたという歴史的事実を知っているだけで、我が国の少子高齢化はもはや覆せない傾向だとあきらめ、1千万人移民計画などに突っ走る危険性を感じとることができるだろう。

歴史を通じて、人類の過去の経験を知ることで、我々の素朴な感覚も磨かれていくのである。


■8.「宙ぶらりん」の状態に耐える

少子高齢化と人口減少を前にして、大規模な移民政策にも走らず、何か他の方策はないかと思い悩む状態は人間にとって、つらい状態である。弱い人間はえてして、「もう移民政策しかない」などと、一足飛びに結論に飛躍したがる。

イギリスの軍事史研究家かつ戦略思想家のリデル・ハートは次のような言葉を残している。


<ものごとがいずれにも決しない状態に耐えることはとてもつらいことである。そのつらさに耐えかねて「死に至る道」(後先考えずに飛び込んでしまう衝動的な行動)に逃げ道を求めようとするものは昔から国家にも個人にもあった。

しかし、このつらい「宙ぶらりん」の状態に耐えることこそ、可能性の明確ではない勝利の幻想を追い求め、国家を灰燼(かいじん)に帰せしめるよりは、はるかに優れた選択なのだと銘記すべきである。>[1,p25]


「平和」とか、「日中友好」などという美辞麗句に踊るのも、現状の「宙ぶらりん」の状態に耐え続けることができず、政治的ウソとして与えられた明快な結論に飛びつく、という弱さの表れだろう。

フランス革命やロシアや中国の共産革命の歴史を知れば、政治的な嘘に踊らされて、「死に至る道」を突っ走った国民の悲劇を目の当たりにする事ができる。逆に、宙ぶらりんの状態に耐えつつ、一歩一歩、素朴な感覚に基づきながら危機を克服してきた英国の強さを知ることができる。

どちらの道を目指すかは、その国の人々がいかに政治的ウソにだまされずに、自らの素朴な感覚を磨き、働かせるか、にかかっている。



■リンク■

a. JOG(312) 「日中国交正常化」〜 幻想から幻滅へ
そもそものボタンの掛け違えは、田中角栄の「日中国交正常化」での「異常」な交渉にあった。
http://bit.ly/13L5wd7

b. JOG(367) 「日中友好2千年」という虚構
日本は、中国の冊封体制と中華思想を拒否し、適度の距離感を保ってきた。
http://bit.ly/WzZv0W

c. JOG(143) 労働移民の悲劇
ぼくたちには何のチャンスもありません。ドイツに夢を抱いていたことが間違いでした。
http://bit.ly/13L5ORv

d. JOG(784) 中国の列島蚕食
「日本列島は日本人だけのものではない」が現実になる日。
http://blog.jog-net.jp/201302/article_1.html

e. JOG(188) 人権思想のお国ぶり
「造花」型のフランス革命は200万人の犠牲者。「根っこ」型のイギ リスは無血の名誉革命。
http://bit.ly/14GMJMh


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 中西輝政『本質を見抜く「考え方」』★★★、サンマーク出版、H19
(2007/11)
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4763197975/japanontheg01-22/

2. 濱口和久『だれが日本の領土を守るのか』、たちばな出版、H24
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4813324401/japanontheg01-22/

3. 米兵犯罪は本当に多いのか?統計による比較まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2135070313136901001

4.オスプレイは本当に危険か−ヘリコプターとの事故率の比較
http://blogs.yahoo.co.jp/success0965/15968405.html

◆中性脂肪が気になる人の食事療法

庄司 哲雄


<中性脂肪とは>
血液中の中性脂肪(トリグリセリドともいう)には二つの由来があり、食事で摂取した脂肪が小腸から吸収され血液中に現われたものと、肝臓で炭水化物から脂肪に作り変えられて血液中に放出されたものがあります。

いずれも、体の組織でエネルギーとして利用されるのですが、血液中の濃度が極端に(1000mg/dL以上)増えすぎますと、急性膵炎を引き起こすことがありますし、それほどでない場合でも(150mg/dL以上)動脈硬化の原因のひとつになります。

<中性脂肪を下げる食事の第一歩>
食事療法の基本は、摂取エネルギーの適正化です。脂肪の摂りすぎのみならず、炭水化物の過剰も中性脂肪を増やしてしまいますので、全てのトータルを適正にする必要があります。

身体活動度にもよりますが、標準体重1Kgあたり25〜30kcal/日程度が適切です。肥満気味の方は少なめにし、減量を目指します。アルコール多飲や運動不足は中性脂肪の大敵です。

<炭水化物と脂肪のどちらをひかえるか>
各人の食習慣により異なる場合がありえますが、炭水化物1グラムで4kcal、脂肪1グラムで9kcalですから、脂肪摂取を控えることが大変効果的です。

<ジアシルグリセロールとは>
少し難しくなりますが、中性脂肪とはグリセロールという物質に脂肪酸が3つ結合した構造(TAG)をしており、いわゆる「油」です。

これに対して、脂肪酸が2つだけ結合した油もあり、これをジアシルグリセロール(DAG)といいます。同じような油であっても、小腸で吸収されてからの代謝が異なるため、中性脂肪の値や体脂肪への影響の程度に差があります。

通常の油TAGは、小腸で膵リパーゼという酸素のはたらきで、脂肪酸が2つはずれ、脂肪酸ひとつだけが結合したモノアシルグリセロール(MAG)に分解されます。それぞれは吸収された後、小腸でまた中性脂肪に再合成され、血液中に放出されます。

一方、DAGは中性脂肪へ再合成されにくいため、食後の中性脂肪の上昇が小さく、また体脂肪の蓄積も少ないといわれています。最近、DAGを利用した機能性食品が開発されています。しかし、DAGの取りすぎもカロリー 過剰につながりますので、通常の油TAGとの置き換え程度にすべきでしょう。

<脂質低下作用のある機能性食品>
動物に含まれるステロールという脂質の代表はコレステロールですが、植物には植物ステロールという脂質が含まれます。これは小腸でのコレステロール吸収を抑制する働きがあります。

<専門医に相談すべき病気>
中性脂肪の増加する病態には、糖尿病やある種のホルモン異常、稀には先天的な代謝障害もありますので、一度は専門の先生にご相談いただくのも大切だと思います。

<大阪市立大学大学院代謝内分泌病態内科学  >(再掲)

2014年08月25日

◆日韓関係、新たな50年を

黒田 勝弘


“みそぎ”終えた朴大統領 

韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領が8月15日の「光復節記念演説」で日韓関係について初めて未来志向的な話をした。来年が日本との国交正常化50周年になるため、それに向け日本との関係を改善し「新しい50年」をめざそうというわけだ。

それには「日本の政治指導者の知恵と決断を期待する」といういつもの日本への注文はついていたが、それでもどこかホッとさせられた。大統領就任から1年半、個人的には期待が大きかったこともあって「彼女が反日であるはずはない、ここにきてやっと心がほぐれたか…」との思いだ。

朴大統領は国内ではいろいろな場面で国政のあり方として「非正常の正常化」を国民に約束し、訴えてきた。大統領就任後、これほど長期間、日本の首脳と会談しないというのは異例中の異例の「非正常」だ。一日も早く正常化してほしい。

1965年の日韓国交正常化は父・朴正煕(チョンヒ)大統領が心血を注ぎ、政治生命をかけて決断した。実現に際しては国民の強い反対を戒厳令で押さえている。過去の恨みは棚上げしたのだ。朴正煕は当時の心情を自著『民族の底力』(日本語版、1973年、サンケイ新聞社刊)でこう書いている。

「われわれとしては簡単には反日感情をぬぐい去ることができなかったし、解放以来ずっと反日教育および反日思想が強調されてきただけに、親日外交に対し一般国民、有識者、学生から強い反対がでてくることは十分にありうることであった。(略)そのようななかでもわれわれは、ただ遠い将来に目を向けて、国家の永遠の発展のためだとの信念の下に、日本との国交回復を進めていった」


余談だが、この本が出た当時、日本の多くのメディアは朴正煕政権に対し「暗黒の軍事独裁政権」として否定的だった。産経新聞がほぼ唯一、その経済発展と近代化を高く評価していた。朴正煕の著書など見向きもされない時代に、産経新聞社から出版されたのはそのせいである。筆者は他社(共同通信)の記者だったので当時の雰囲気をよく覚えている。

あれから40年、日本ではまた韓国に対する否定的見方が広がっている。今回は日本との関係悪化からだ。産経新聞も韓国の過剰かつ執拗(しつよう)な反日には批判的だ。しかし歴史認識の違いというすぐには解けない難題はしばし棚上げし、反日が目的ではない女性の人権、人道問題としての慰安婦問題ということなら、日本は韓国と手を握り、肩を組めると思う。

今回、韓国側で「日韓国交正常化50周年」の話が公式に出されたのは初めてだ。「日本との協力」という父の決断は、その後の韓国50年の発展の基礎になった。娘・朴槿恵大統領もまた、父のように将来を見つめた決断で、新たな韓国および日韓関係発展の50年を切り開くチャンスである。

朴槿恵大統領は中国での抗日義士・安重根記念館実現などで愛国者としての“みそぎ”は終わったと思う。父が受けたような「親日外交」という誤解の矢が飛んでくる恐れはもうない。躊躇(ちゅうちょ)せず一歩踏み出してほしい。(ソウル駐在客員論説委員)
産経【から(韓)くに便り】2014.8.24

◆ブラジリアの不倫

渡部 亮次郎


南米の果てしない原野に男女がぽつんと置かれたら、どうなるか。ブラジルの人工の首都ブラジリアはそんな都だ。首都なのに人口が250万。さっぱり増えない。

役人(男女)の殆どはサンパウロやリオデジャネイロ、マナウスなどの他の大都市からの単身赴任。となるとタイトルが現実となる、と聞かされた。

メモを引き出してみると、福田、大平の両内閣で外務大臣を務め、続く鈴木善幸内閣で3度目の外務大臣を務めていた園田直がブラジリアを訪れたのだ。昭和56(1981)年7月。

カナダのオタワで開かれたサミットから帰ってわずか5日後の29日、南米各国歴訪の旅に出発した。成田を出て懐かしやヴァンクーヴァーで乗り換えてメキシコ。大平正芳前総理(故人)を記念する大平公園命名式に出席。

ブラジルには8月4日にまずサンパウロ到着。なんと日本大使は嘗てサウジアラビアのリヤドで我々随員に食事の差別をしてくれたあのO氏では無いか。

翌日O大使も共にサンパウロを出てブラジリアへ。「ここは人工都市だから娼婦もいませんよ」という説明をしてくれたが、宿舎から外出した途端、おねえさんから声がかかったのはどういうわけだ。大使は取材が苦手なんだ。

日本の首都移転論は主として東京の過密が理由だが、広いブラジルでは何が原因だったのか。

ブラジルは、ポルトガルの植民地から独立した頃から(ブラジリア建設以降、現代に至るまでも含め)旧首都であるリオデジャネイロやブラジル最大の都市であるサンパウロといった大都市が存在する大西洋沿岸部に人口や産業が集中している。

そのため、内陸の高原部との間で所得などの面で大幅な格差があり、既に19世紀頃からその解消と、その方策としての内陸部遷都が叫ばれていた。

20世紀に入ってからも、何度か内陸遷都が検討されながらも度重なる政変や第2次世界大戦の勃発などで具体的な形にならないままでいた。

1956 (昭和31)年に大統領に当選したジュセリーノ・クビチェック(ジュセリノ・クビシェッキ)は、新首都建設で内陸部の開発とそれによる国土の均衡的発展を企図し、正式に新都市の建設とリオデジャネイロからの遷都を発表した。

その結果、連邦直轄のブラジルの首都ブラジリア(Brasilia)が中部の標高約1100mの高原地帯に建設されることになった、完全な計画都市である。

工事はクビチェックの任期である5年以内に間に合うよう、急ピッチで進められわずか41ヶ月間で完成。1960(昭和35)年4月21日に供用を開始した。

高原の荒涼とした未開の大地に建設された計画都市。ブラジル人建築家ルシオ・コスタの設計により建設された計画都市地域は、人造湖であるパラノア湖のほとりに飛行機が羽根を広げた形をしており、飛行機の機首の部分に国会議事堂や行政庁舎、最高裁判所が並び、羽根の部分には高層住宅や各国の大使館がある。


国会議事堂や大聖堂などの主要建造物は、いずれもモダニズムの流れを受けた未来的なデザインで作られている。これらの公共建築の主任建築家は、ニューヨーク市の国際連合本部ビルの設計も担当したブラジル人建築家オスカー・ニーマイヤーである。

1987年には、世界遺産に登録された。歴史的な街並みを持つ都市が世界遺産に登録されることは多いが、建設されて40年未満という若い都市が登録されたのは異例のことである。

この新首都の建設によって内陸部の開発が進んだが、その一方で、莫大な建設費はブラジルの国家財政に大きな負担となって残り、1970年代から1980年代にかけてブラジルを襲った経済不振と高インフレの大きな原因の一つとなったとのマイナス評価もある。

事実、大統領は園田外相に「お国には自民党という政党があるからこそ驚異的な経済発展が出来たと聞いている。一つ自民党を輸出しえ呉れませんかね」と冗談交じりに言ったほど経済苦に悩んでいた。

新首都を国土の中央に建設した結果、開発の進行によって内陸部の経済振興は進み、ブラジル全体としてみれば、国土の中央部にブラジリア国際空港(ジュセリノ・クビシェッキ国際空港)を建設したことにより、航空路線の航路は東西南北の各地域を結ぶハブを得た。

商業運輸の面でもこの地域の国道が整備されたことで、中西部のマットグロッソ州方面から北東部のバイーア州など大西洋側の地域へ、あるいはサンパウロ州から中西部、北東部へと抜ける物流や長距離バス路線が再整備されており、連邦直轄区の建設自体には今日、一定の意義が認められる。

しかしながら、道路は整備されているものの、河川が無い内陸部に建設されたため水運手段が無く、航空路線も国内線は充実しているが国際線定期便の就航はほとんどない。

また、サンパウロやリオデジャネイロ、マナウスなどの他の大都市とは距離がかなり離れている。このような状況から大企業の本社機能の移転などが行われるには至っていない。

さらに、ブラジリアは整然とした計画都市だが、市内の移動は自動車による移動を前提にしているために、実際の市民生活を送るには不便である。

しかも、国家プロジェクトとして緻密な計画が練られて開発されたブラジリア市とは対照的に、周囲の衛星都市は無秩序に発展し、ブラジリアが位置する連邦直轄区内は州境の幹線脇を中心に土地の不法占拠など半ばスラム化しているところもある。

しかも、そうした衛星都市を都市圏とすることで成り立つブラジリア市もその影響をまのがれておらず、一口に成功したとは言い難い状況である。

(莫大な建設費を一挙に投じて、巨大建築が立ち並ぶ理想都市を建設したブラジリアのアンチテーゼとして、低コスト、ヒューマンスケール、小さなプロジェクトの積み上げという街づくりを掲げ、成功したのがパラナ州のクリチバ市であった)。

市内は自動車道と歩道が完全に区別されており、自動車道も極力立体交差になるよう設計されている。住宅区画と商業区画、官庁街など各区画は厳然と分かたれており、市民生活においても移動が不便であるため、総人口250万人弱に対して自家用車の総数は100万台弱と、ブラジルの都市としては自動車の保有率が高い。


市内の主な公共交通手段はバスとタクシーである。近年になって、一部で地下鉄も開業している。

サンパウロやリオ・デ・ジャネイロ、マナウスなどの他の大都市とは距離が離れており、旅客機と長距離バスが都市間の主な交通手段である。鉄道駅も存在するものの、こちらは貨物が主であり、一般に旅客には用いていない。

空港はブラジリア国際空港があり、国際便と国内便が就航している。国際便については、ブラジリア自体に大きな産業がないため、首都の空港であるにも拘らず就航がほとんどない。

国内便については、ブラジル国内の旅客便は南部の都市、中部の都市、北部の都市にまたがって移動する場合、必ずしも直行便があるわけではないので、ブラジリア国際空港が各都市を結ぶ乗り換えのハブ的役割を果たしている。

人工の都市だから街としての匂いも歴史の匂いも無い。ざわめきが皆無の街。果たしてこれを街といえるだろうか。役人の単身赴任が増えれば、単身同士、男女の仲に発展するのは当然であろう。

O大使が存在を否定した街のお姐さんもさぞかし増えたことだろう。それでこそ街が生きている証拠であり、ブラジリアは孤独に耐えながら首都としての歴史を積み重ねてゆくことだろう。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2014年08月24日

◆ニンニク(大蒜)食べすぎは毒

渡部 亮次郎


韓国の人たちはニンニクをよく食べる。観光地慶州で私を担当した観光案内人は「だから韓国人は虫歯が少ないです」と自慢した。ホントかどうかは知らない。

そんなことを言っても郷里・秋田にいた子供時代は食べたことがなかった。明治生まれの母は利用する料理も知らなかったようだし、風邪に薬用ありと聞いても一家で誰も食べなかった。

例によって東京へ出てきて初めて出合ったようなもの。韓国では強精剤だからと、7個つながりを輪切りにした醤油付けを食べたら、夜中に胃痛を起こし、強精どころの話ではなかった。

調べてみるとニンニクには確かに滋養強壮の効果があり、栄養ドリンクや健康食品、一部の薬品にも使われる。生のニンニクの強烈な香りと辛味は、刺激が強過ぎて胃壁などを痛める場合があるが、この症状も主成分アリインの影響といわれる。

栄養主成分のアリイン、クレアチンなどは元来は無臭である。ところが刻んだ際に細胞膜が破れ中からアリナーゼなどの分解酵素が出て栄養成分を分解しアリシン・アリルスルフェン酸といった成分に変化する。これらが独特な臭いのモトである。

古代ギリシア人の間でも,ニンニクを口にしたものは神殿に入ることを許されなかった。一方,古代ローマ人も強臭を嫌ったが,強精な成分があるとして,兵士や奴隷には食べさせたといわれている。

原産地は中央アジアと推定されるが、すでに紀元前3200年頃には古代エジプトなどで栽培・利用されていた。日本には中国を経て8世紀頃には伝わっていたと見られる。

現在の栽培は近東方面から地中海地方,インド,アフリカ,中国,韓国に多く,アメリカにも広がっている。

日本では《本草和名》以後に記載がみられるところから,導入,栽培されたのは10世紀以前からのことといわれる。中国や韓国から渡ってきたとみられ,品種には早晩性があり,〈遠州極早生〉〈壱州早生〉〈6片種〉〈佐賀大ニンニク〉〈香港〉などがある。繁殖は種球(鱗片か珠芽)で行う。9月に種球を植え付けて翌年5月に収穫する。

ニンニクは、僧侶が荒行に耐えうる体力を養うために食したとされ、その語源はあらゆる困難に耐え忍ぶという意味の仏教用語の「忍辱」とされる。「葷酒山門に入るを許さず」のクンシュの中には入るのじゃないのか。

日本の古代医術ではニンニクは風湿や水病を除き,山間の邪気であるところの瘴気(しようき)を去り,少しずつ長期にわたって食べれば血液を浄化し,白髪を黒くするほか,生で食べれば虫蛇を殺す効能があるが,一度にたくさん食べると目を損なうとされていた。

ニンニクには強烈な異臭にまつわる俗信が多い。ヘビ,サソリ,疫病を駆逐する強力な薬草として古くから各地で用いられた。ハローウィーン(万聖節の宵祭)にはこれを戸口につるして厄を払い,ペスト流行時には死体を清めるのに用いられた。

吸血鬼よけの効能も,B. ストーカーの《ドラキュラ》などの作品でおなじみである。さらに大プリニウスは《博物誌》において,天然磁石をニンニクで擦れば磁力がうせると述べ,ディオスコリデスは《薬物誌》で,ヘビや狂犬による咬傷(こうしよう)や歯痛の特効薬としている。花言葉は〈勇気と力〉。

日本では江戸時代、その臭気により公家・武士階級では食べる事を禁止されていた。ニンニクが広く食べられる様になったのは明治以降になってからである。

しかし、徳川家康は、茶屋四郎次郎に招かれ鯛の天ぷらにニンニクのすりおろしをつけたものが、たいへん美味かったので食べ過ぎて食中毒を起こし、死につながったとも言われる。

ニンニクは油脂によくなじみ、肉類のうまみを引き立てるので,日本でもスープ,いため物,煮込み物その他の肉料理などに多用され,洋風料理,中国風料理などの普及にともなって身近な食品になった。第2次大戦後のことである。

よく行く東京・向島の洋食屋ではメニューに「ニンニク揚げ」がある。必ずと言っていいくらいに頼む。加熱すると匂いが全くしなくなるから安心。しかし家で鰹の刺身に副えるニンニクは生でなくては効き目がない。

食べた後の匂いを防ぐためには、食後に緑茶を飲むと良いとされる。これは、緑茶の成分であるカテキンの殺菌、消臭効果による。また、牛乳やコーヒーを飲むのもよい。

水を飲むだけでも一定の効果があると言われている。なお、近年エジプト産のニンニクをもとにして、品種改良の結果、無臭ニンニクも流通している。

日本の主な生産地。青森県で70%を占める。田子町、十和田市などが多い。青森県内には特に高級品として知られるブランドがある。次いで香川県など。参考資料:平凡社「世界大百科事典」「ウィキペディア」

2014年08月23日

◆いっそ小田急で逃げましょか

渡部 亮次郎


「東京行進曲」の冒頭に ♪昔恋しい銀座の柳♪ という詞があるが、銀座の柳並木は、明治期にイチョウに切り替えられ、この歌より6年前の関東大震災でそれも壊滅状態となっていた。

この歌の当時(昭和4年ごろ)はプラタナスになっていたが、曲の大ヒットで<銀座に柳を復活させよう>の気運が盛り上がり、柳が復活した。

後に作詞作曲も同じメンバーで「銀座の柳」が作られ完全復活が宣言された。折角の銀座の柳も太平洋戦争の東京大空襲などで壊滅し、現在は4代目だそうだ。

  東京行進曲(昭和4年)
   作詞:西条八十
   作曲:中山晋平
   歌唱:佐藤千夜子    
  
 (一)
  昔恋しい 銀座の柳
  仇な年増を 誰が知ろ
  ジャズで踊って リキュルで更けて
  明けりゃダンサーの 涙雨

 (二)
  恋の丸ビル あの窓あたり
  泣いて文書く 人もあろ
  ラッシュアワーに 拾った薔薇を
  せめてあの子の 思い出に

 (三)
  広い東京 恋ゆえ狭い
  粋な浅草 忍び逢い
  あなた地下鉄 わたしはバスよ
  恋のストップ ままならぬ

 (四)
  シネマ見ましょか お茶飲みましょか
  いっそ小田急で 逃げましょか
  かわる新宿 あの武蔵野の
  月もデパートの 屋根に出る

作詞した西條八十は盆踊りで一晩中「東京音頭」を聞かされてのではたまらんと小田急で箱根に避難したが、何と夜になったら、そこでも東京音頭。あわてて東京へ逃げてきたという話が残っている。

また小田急電鉄は大変なコマーシャルになったものだから、西條に終身招待乗車パスを贈呈した。佐伯孝夫、丘灯至夫らが西條の弟子だった。

西條そのものは東京府出身。1892(明治25)年1月15日 - 1970(昭和45)年8月12日)は、詩人、作詞家、仏文学者。中学時代に英国人女性から英語を学んだ。正則英語学校(現在の正則学園高等学校)にも通い、早稲田大学文学部英文科卒業。

早稲田大学在学中に日夏耿之介らと同人誌『聖盃』(のち『仮面』と改題)を刊行。三木露風の『未来』にも同人として参加し、1919(大正8)年に自費出版した第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立した。

後にフランスへ留学しソルボンヌ大学でポール・ヴァレリーらと交遊、帰国後早大仏文学科教授。戦後は日本音楽著作権協会会長を務めた。1962年、日本芸術院会員。

象徴詩の詩人としてだけではなく、流行歌の作詞家としても活躍し、佐藤千夜子が歌ったモダン東京の戯画ともいうべき『東京行進曲』、戦後の民主化の息吹を伝え藤山一郎の躍動感溢れる歌声でヒットした『青い山脈』、中国の異国情緒豊かな美しいメロディー『蘇州夜曲』、古賀政男の故郷風景ともいえる『誰か故郷を想わざる』『ゲイシャ・ワルツ』、村田
英雄の男の演歌、船村メロディーの傑作『王将』など無数のヒットを放った。


また、児童文芸誌『赤い鳥』などに多くの童謡を発表し、北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された。薄幸の童謡詩人・金子みすゞを最初に見出した人でもある。

今では「銀座の柳」と聞くと、「東京行進曲」の方を思い浮かべる人が多いのは、さもありなん、この唄は作詞作曲も「東京・・・」と同じ、西条八十・中山晋平のコンビで作られた「東京・・・」の大ヒットに触発された続編であったからだ。

「東京・・・」の歌詞の冒頭に、♪むかし恋しい銀座の柳♪、とあるように、昭和4年当時、銀座には柳は無かった。この唄の大ヒットで、銀座に柳並木を復活させようという機運が盛り上がり、昭和12年になって、<銀座の柳並木>が復活
した。

この「銀座の柳」の唄はその完成を記念して作られたもので、それなりのヒットはしたが、曲想が限定されており、二番煎じの感は否めず、「東京行進曲」の陰に埋もれて行ったのは仕方のないことだった。

銀座の柳(昭和12年)
  
   作詞:西条八十
   作曲:中山晋平
   歌唱:四家文子
   制作:滝野細道

    (一)
    植えてうれしい 銀座の柳
    江戸の名残りの うすみどり
    吹けよ春風 紅傘日傘
    今日もくるくる 人通り

    (二)
    巴里のマロニエ 銀座の柳
    西と東の 恋の宿
    誰を待つやら あの子の肩を
    撫でてやさしい 糸柳

     (東京行進曲の間奏)

    (三)
    恋はくれない 柳は緑
    染める都の 春模様
    銀座うれしや 柳が招く
    招く昭和の 人通り

東京は7月22日に梅雨明けとなり本格的な夏に突入。秋田の盆踊りは歌抜き、大きな太鼓を何台も出して叩くものだった。私は叩くも踊りもせずに東京の人となった。

2014年08月22日

◆終戦特集:アメリカ原因説

MoMotarou


経済は経済単独で存在しているわけではない。この当たり前のことを忘れている日本人が多い。経済のためには威圧・恫喝・軍事力、そのほか何でも使うのが国家の歴史であり、いまも世界の趨勢である。(日下公人)
        
              ★

本年8月15日の当地(岡山)は台風一過の涼しい1日でした。台風の影響か安倍首相の所為か不明であります。靖国神社の蝉の声が「戦後の終わり」を告げているようです。(以下「思考力の磨き方」(日下公人)より転載)

■武士道の源泉

――「カ」の前では「徳」という選択肢はない。力があって自制しているのが、徳の根元である。力のない国が自制しても、それはただ弱いというだけで、ほとんど意味がない。

■「アメリカ原因説」

――アメリカ依存症を治療するには、なんでも「アメリカのせい」にするという方法もある。「反省すべきはアメリカであって、被害者は日本だ」という「アメリカ原因説」である。これは意外にアメリカ人の反発を招かない。

アメリカ人の心理は、「俺が原因なのか。やっぱり俺はそんなに力があるのか」と内心喜んでいる。

――彼らが日本叩きをしたり、日本に警戒心を抱いたりするのは、「日本が何かの原因になる」と感じたときである。「日本は原因になりうる力をもっている」と彼らは認識し、恐怖を感じている。

そこで「いや、日本が行動に立ち上がるときの原因は、いつもアメリカにある」というと、アメリカ人は大いに安心して喜ぶ。

しかし、大事なのはその先である。その裏には「これ以上日本を怒らせると怖いぞ」という脅しがついていないといけない。

「その気になれば、われわれはかつての特攻隊のように究極の奮戦ができる」という意思表示である。そのためにも、すべからく日本人は、心の奥に特攻隊精神を刻んでおくべきである。

何も実際に拳を振り上げる必要はない。そこから交渉を始めると、たいへん効果があるということだ。

■日下公人さんは「しぶとい」

いつも独創的な発想で魅了されます。生い立ちもおもしろい。詳しくはch桜の番組で語られます。安倍さんの「軍師」かなぁ。。。

"「一億総特攻」といっても、いまの人たちにはまったく現実感がないだろうが、あの時代を生きた私にはあった。そして、いざとなればその精神を発揮するのが日本人だといまも思っている。"

  *日下公人氏に聞く[桜H26/1/3]http://youtu.be/Abn4vwNoZaQ

◆1匹も獲れぬロシア流サンマ漁

渡部 亮次郎


昔、ソビエト(現ロシア)漁船が三陸沖へサンマを獲りに来たことがあった。そりゃ珍しいというので、態々見物に行った友人の話でる。。

貨物船みたいな大きな船である。

船上ところどころに、でっかいおっぱいをした中年女性が乗り組んでいる。日本では漁船に女は乗せないと聞いている。

それよりも驚いたのは、サンマの捕り方である。直径2メートルもある蛇腹を海中に突っ込んで盛んに海水を吸い上げている。何をしているのだろう、最初は理解できなかった。

暫くして分かった。サンマを海水ごと吸い上げようとしているのである。魚を食べたことも捕った事も無いから魚の習性を知らないのである。

魚は流れに乗って流されてくる餌を食うように、流れに逆らって泳ぐ。ソビエト船が海水を汲めば汲むほどサンマは逃げてゆく。だからサンマは1匹も捕れなかった。

近くに日本漁船がいても言葉が通じないから致し方ない。2,3日して空しく帰って行った。何年もしてから、今度は網で捕り始めたそうだ。

もともとロシア人は魚を食わなかった。それなのに食うようになったのは、ソビエトの崩壊寸前、家畜にやる餌が不足し始めたからである。しかし、北欧の海では各国から締め出され、止むを得ず北洋や三陸沖にやってきたものである。

しからばロシア人は如何にして魚を食べているのだろうか。焼くといっても道具は無いだろう。干物にする技術もあるまい。矢張り煮るしかないのだろうか。

後年、モスクワを訪問して分かった。煮るしかないのである。モスクワのスーパーでは20センチ角の塊が冷蔵庫に入って売られている。それがどんな魚のどの部位かは自宅に帰って冷凍が融けてみないとわからないのだ。

モノの本によれば、1Kgの肉を得るのに必要な飼料は鶏の場合は2Kg、豚の場合は4Kg、牛の場合は8Kgがそれぞれ必要なのだそうだ。

だとすると既に崩壊寸前だったソビエトでは、農業生産もあまり上手く行ってなかったから、餌が不足。人間も牛肉よりは豚肉、それよりは鶏肉と我慢してきたのだろうが、遂に餌の必要のない海の魚に目をつけたのであった。

これと逆なのが、最近の中国だと言われる。中華料理のメニューに出てくる肉は殆どが鶏か精々豚だった。それが経済の開放改革で豊かになり、ステーキやマグロといった高カロリーのものを食べるようになった。その結果、糖尿病患者が物凄い勢いで増え、其の方面の医者が足りなくなっているそうだ。


     

2014年08月21日

◆トイレット・ペーパー騒動

渡部 亮次郎


昔、モスクワの迎賓館で、トイレット・ペーパーにはボールペンで字が書けるほど硬かった。そんな話をメイル・マガジンに書いたら、記者の先輩古澤襄さん(元共同通信社常務理事)が、今はそんな事はなくなった、と教えてくださった。

<新聞紙のようなトイレット・ペーパーは古い話。8年前にはブリヤート共和国でお目にかかったのですが、イルクーツク、ハバロフスク、ウラジオストックでも柔らかい紙。ただ、幅が狭い。

3年前に行ったら日本と同じトイレット・ペーパーでした。幅も広くなっていた。韓国から輸入しているとの話。モスクワは、それ以前から柔らかいペーパー。ドイツあたりから輸入しています。何しろ石油や天然ガスを売って、ユーロやドルをふんだんに持っていますから・・・。>

古澤さんは父親をシベリア抑留で失っているので、ロシアへ度々鎮魂の旅をされるから、私の周囲では最もロシア事情に詳しい方である。庶民のトイレがそうならば、迎賓館だもの、字は書けなくなって、目出度し、目出度しでした。

ロシア人は社会主義を放棄して初めて尻の平和を得たと言うわけか。とにかく「紙」と言うものは、扱いが厄介だ。大事、無くてはならない品にして、しかし必ず捨てなければならない物だからだ。社会主義のうちは尻まで面倒みられない? いな、技術が無かった、或いは軍備に追われて、尻に手が回らなかった。


最近の日本では、トイレット・ペーパーなど話題にもならないが、私がNHK大阪放送局に赴任したときだから、昭和48(1973)年夏、田中角栄内閣の下で大阪から「トイレット・ペーパー騒動」が始まった。知らない方も多いだろう。

<日本国内でもっとも広範に広まった流言に、オイルショックによるトイレット・ペーパー騒動がある。

1973年、あるスーパーの宣伝用の広告用紙に(激安の販売によって)「紙がなくなる!」と書いたところから始まった。(確か大阪が初)石油ショックという背景もあり、紙がなくなってしまうことは本当かもしれないということから連鎖的に広まり、マスコミにもとりあげられて全国的に広まった。パニックの火付け役は新聞の投書だとする説もある。


ただこの当時、日本の紙生産は安定しており、実際には生産量自体は同流言飛語が全国的に広まるまで、ほとんど変っておらず、パニックが発生した後は、むしろ生産量増加も行っていた模様である。

マスコミ報道や流言飛語によって不安に駆られ、高値でたくさんのトイレットペーパを買った消費者は、トイレに山積み保管していた。

それまでトイレット・ペーパーは主に特売用商品(消費者を商店に足を向けさせ、客足の増加を見込む)として扱われていたが、この当時は一変して定価どころか倍の値段をつけても売れる程だったという。このため商店は在庫確保に奔走し、結果として問屋在庫すら空になる程だったとされている。

このような連鎖的現象により、最初の内こそ楽観視していた人までもが実際に店頭からトイレット・ペーパーが消えたため確保に走ったといい、小売店では店頭にトイレット・ペーパーが並ぶや否や客が押し掛け、商品を奪い合って殴る蹴るの喧嘩を始める人すら見られた。デパートでは余りの混雑振りにトイレット・ペーパー販売のたびに迷子も多数発生した。>(ウィキペディア)


この頃はまだウォシュレットが全く普及していなかった。某社が試作を始め、高名な女流作家に使ってもらったところ、吹きだしたのが熱湯。作家が火傷をして大怒り、という話が記者仲間に膾炙していたものだ。

<トイレット・ペーパーは14世紀に中国で最初に生産されたとされている。

その当時は皇帝用であった。(非水洗)。

便所用につくられた初めての工業製品は1857年にアメリカ合衆国のジョセフ・カエティによってつくられた。カエティの名前はすべての紙に印刷された。

トイレット・ペーパーやちり紙が普及する前は、裕福な人は羊毛、レース、麻を用いていた。そうでない人は、直接手を用いていたか、川で排便したか、ぼろ布、かんなくず、草、干し草、石、砂、苔、水、雪、トウモロコシの皮、貝殻などを用いて拭いていた。古代ローマでは海綿を用いていた。


帝政ロシアでは、部下が皇帝の用いるトイレット・ペーパーに皇帝の刻印を押した。ヘンリー8世の宮廷では、その手で王族の臀部を清潔にする便所担当の廷臣がいた。

安全上の理由のため、特に信頼された廷臣のみが選ばれた。また、王と毎日2人っきりになる好機であるので、影響力を得たいために部下にこの仕事は望まれた。>(ウィキペディア)

地球上のある地域では屋外で用便後、尻に砂を巻き上げて終わり、というところがある。その際使う手は「左手」。だから左手は不浄の手。遊牧を止めて鉄筋のアパートで水洗トイレをどうぞ、と政府が言ってもなかなか入らない、と某産油国の役人がこぼしていたっけ。

日本ではどれもほぼ一定の大きさであって、便所の各個室備え付けのホルダーにとりつけてある。国によってはロールがかなり大きく、その場合はホルダーもそれに対応したものとなっている。また、これが個室の入口に設置され、必要分を取ってから個室に入るようになっている場合もある。


各国の紙資源の状況、下水道の状況により、用いられている紙は違いがある。一般的には柔らかい紙が使われるが、硬い紙が一般的に用いられている場合には同時に処理せず、別に汚物入れに捨てるように指示されている。

日本では、昔はB5版サイズ程度の大きさの、通称ちり紙が利用されていたが、水洗便所の発達に伴って巻き取り式の物が普及した。その用途のために次の条件を満たす必要がある。

 1..肌に触れて不快感がないこと。最近では2枚重ねのものが増えてきている。

 2.強度があること。使用中に崩れてしまうと不快である。

 3.吸水性に優れていること。

 4.水に濡れると繊維がほぐれること。下水処理が行いやすくする必要がある。また、下水処理を行うバクテリアなどにとって害のある物質が含まれないようにしなければならない。

 5.コストが安いこと。消耗品であるので、低コストである必要がある。また再生紙がよく使われる。

この他にも使用者の利便性のためにミシン目などがいれられていたり、芳香を放つような物も作られている。

トイレット・ペーパーには、厚紙で芯を作ってある物と、芯が無く最後まで使いきれるものがある。 芯の無い物は特にコアノンロール等と呼ばれ、環境問題や資源問題などの点から注目されている。

が、芯のあるものにしか対応していないペーパーホルダーも多い。(芯なしの場合、中心一杯まで紙を巻いたものが多く、中心の小さい穴に細い鉛筆のような軸を入れてからホルダーに装着するが、中心部の穴を芯の太さ程度まで大きくして、通常の芯ありホルダーに装着可能なものもある)


静岡県富士市で32%を占める。(2002年)>(ウィキペディア参照)

このところ大変な原油高のためトイレット・ペーパーもティッシュ・ペーパーもかなり値上がりしているが、騒動にはなっていない。大衆が賢くなったせいもあるが、何しろ41年前のオイル・ショックというものが、日本人にとって初めて経験するものだったからだ。

日本各地では公衆トイレからトイレット・ペーパーの持ち去り事件が連発している。犯人は日本人ではないそうだ。誰だ。簡単に推理できる。他人のものも自分のものと主張する国はどこだ。

2014年08月20日

◆「核」が日中開戦を抑止する(68)

平井修一


「中国の挑発は先手を打って食い止めよ」という論考が米国で話題になっていると古森義久氏が報告している(JBプレス8/13)。以下は要約。
         
            ・・・

アジアでの米中関係のこうした(サラミ戦術による中国の進出拡大の)現状に対し、オバマ政権の発想の根本を変える新提案が、7月末にワシントンで公表された。提案したのは、中国研究者のロバート・サター氏である。

サター氏は国務省、中央情報局(CIA)、国家情報会議、議会調査局などの中国関連部門で専門官として中国の動向を調べ、その意味を分析し、米側の対応策の決定に関与してきた。

しかも、民主、共和両党の政権に加わり、政治的にも党派性の薄い専門家として知られる。退官後はジョージタウン大学教授を経て、現在はジョージワシントン大学の教授を務める。

米国政府の各機関で30年以上も中国研究に基づく対中政策の形成に関わってきたサター氏は、米側の中国研究者たちの間でその名を知らない人はいない著名な研究者である。

そのサター氏が今回発表したのは「米国にとってのアジアでの中国問題への対処――中国の弱点を標的とせよ」と題する論文だった。この政策提言はインターネットでまず公表され、まもなく同氏が出版する著書の中で詳述されるという。

*中国の弱点を突いて膨張主義に歯止めを

サター氏は論文の冒頭でまず以下の諸点を強調していた。

・中国は近年、軍事力を背景に、アジアで海洋領有権を少しずつ確実に広げ、米国の信頼性や影響力をサラミを削ぐように低下させ、同盟関係を弱めている。しかしオバマ政権は、日本など米国の同盟諸国の独立、主権、安定への懸念が深まる状況に対して、実効性のある政策をほとんど取っていない。


・中国の「サラミ戦術」の挑発的な行動にただ単に対応するという現在のオバマ政権のパターンは危険かつ不毛だとする意見が、デニス・ブレア元太平洋統合軍司令官、連邦議会の国家安全保障関連の議員たち、他の官民の中国関連専門家たちなどの間で、非常に強くなった。

・これらの識者たちは、米国はこれまでの受け身の対応型の政策を止めて、中国に膨張政策の代償や危険を悟らせるための積極果敢な新政策を採用すべきだとしている。米国のアジアでの影響力を削ごうとすれば必ず反撃や反発を受けることを、中国に自覚させなければならない、という主張が広まってきた。


・中国のこれまでの膨張政策は、米国の弱点を巧みに突くというケースが多かった。それに対して米国側も中国の弱点や欠点を突き、中国の膨張能力を削ぎ、しかもその種の膨張に対して米国から強固な反撃を受けることを中国側に知らしめねばならない。

・米国は中国の弱点を標的とする積極果敢な措置を取る一方、従来の対中関与政策は継続する。中国が米国のアジア態勢を侵害する措置を取った場合、中国にとっての損失や代償、リスクも高くなることを自覚させ、抑止とする。つまり米国も中国同様にポジティブとネガティブをミックスした政策を取るべきである。


*新たな対中戦略の5つのポイント

サター氏はこうした前提を明らかにしたうえで、新たな対中戦略として以下の5つの具体策を提唱していた。いずれの策も大幅な予算増や米国の安全への大きな危険を伴わずに実行できるという。

(1)東シナ海と南シナ海の紛争海域で、米軍の攻撃型潜水艦と弾道ミサイル搭載潜水艦を増強し、頻繁に浮上させて、中国側の艦艇や地上基地への攻撃能力を誇示する。

これら米軍潜水艦は紛争海域で中国軍に探知されずに航行することが可能であり、しかも同海域での有事の際に、中国側の艦艇を一気に壊滅できる破壊力を有している。中国側は潜水艦戦力や対潜能力が米側より大きく劣ることを十二分に認識しており、対応策に苦慮する。

(2)台湾への安全保障関連支援を強化する。例えば、オバマ政権はこれまで拒んできたが、台湾政府が切望するF16戦闘機66機を新たに供与する。

中国は近年、台湾への軍事的優位を強め、国民党政権の親中路線により、台湾問題の比重を減らしてきた。米国が軍事支援を再強化することで、中国は台湾制圧の軍事能力がまだ不十分であることを実感させられる。

同時に米国は、国民党政権の親中姿勢に反対する台湾国内の「ひまわり運動」への支持を表明する。中国に台湾への懸念を抱かせることは、海洋拡張を抑える効果があり得る。

(3)表現の自由などを求める香港での反中抗議運動への強い支持を明示する。香港問題は中国共産党指導部が神経を過敏にする対象である。

香港では、中国の主権を受け入れながらも、共産党独裁による言論の自由、結社の自由などへの抑圧に反対する動きが絶えない。米国政府がその反対運動を強く支援し、ハイライトを当てれば、中国政府は国際的にも不利な立場となる。

香港問題での米国との摩擦は、アジアで挑発的な行動を取ることの代償や危険性を改めて中国指導部に意識させることになる。

(4)危険な軍事挑発を続ける北朝鮮政権を中国が支援し続けることへの非難を強める。北朝鮮の好戦的な言動がアジア全体への脅威となっていることは周知の事実だが、北朝鮮のそうした言動を可能にする基盤として中国の支援が存在する。

中国と北朝鮮の不仲も最近は伝えられるが、基本的な絆は揺らいでいない。この点で中国の「共犯者」としての責任を追及することが、東シナ海と南シナ海での中国の強引な拡張主義を抑制する効果を生み出し得る。 

(5)中国は、在日米軍基地や周辺地域の拠点を標的として、非核の中距離弾道ミサイルを配備している。米国はそのミサイルへの具体的な対応策を取るべきである。

過去20年余、アジアでの中距離ミサイル戦力に関して、中国は米国よりも優位を保ってきた。米国はその状態を放置してきたが、中国のその種のミサイルを破壊する能力を新たに確保する。

米国はそのために、多弾頭の弾道ミサイルを本土、あるいは中国周辺地域に配備する。米側によるこの不均衡の是正は、ミサイル防衛能力の弱い中国への抑止となる。

以上、「潜水艦」「台湾」「香港」「北朝鮮」「中距離ミサイル」と、中国側にとっての欠点や弱点を選び、それらを標的として照準を合わせる攻撃型の戦略である。

これまでの消極的な戦略を積極的な戦略へと変えるという発想であり、こうした発想が表面に出てくること自体が米中関係が新たな局面を迎えた現実の反映だとも言える。 

これらの提案がいずれも日本の安全保障にも密接に絡んでいることは明白である。(以上)

             ・・・

中共・習近平はいつ暴発するか分からない。周辺諸国は準戦時体制で警戒すべきだ。(2014/8/18)

◆真正面からの言葉・教えほど尊いA

眞鍋 峰松


中学時代の先生で、今でもその先生のお顔もお名前も鮮明に記憶しているが、確か、復員軍人上がりの、しかも将校経験のある人であった。 

その先生の授業中で、担当教科に何の関係もない一言が今でも忘れられない。

それは、黒板に大書された「男子、青雲の志を抱き、郷関を出れば・・・・」という言葉。今から思い起こしても、少々時代錯誤的な言葉に聞こえるようだが、間違いなくその後の私の人生に影響を及ぼした言葉であることは事実だ。

最近になって、陳 舜臣氏の著書「弥縫録」の中で、久し振りにその言葉に出逢えた。
  〜青雲の志を抱いて郷関を出る〜といった表現がある。

この場合の青雲の志とは、功名を立てて立身出世しようという意欲のことなのだ。 辞典には、この外に「徳を修めて聖賢の地位に至る志」といった説明もある。 

だが、実際には功名心の方にウェイトがかかっている。「ボーイズ・ビ・アンビシャス! 青雲の志を抱け」というのだ。  

青といえば、すぐに連想されるのが、春であり、東であり、竜である。

東は日の出る方角であり、人生に日の出の時期を「青春」というのは、これに由来している。青は若く、さわやかである。それに「雲」という言葉をそえると、心はずむような語感がうまれる。雲は天の上にあるのだから。若い日の功名心は、まさに天に昇ろうとするかのようである。


流石に、良い言葉ではないか。要は、望ましい教師像として私が言いたいことは、19世紀英国の哲学者ウイリアム・アーサー・ワードの次の言葉に簡潔に表現されている気がする。

        ・凡庸な教師は しゃべる。
        ・良い教師は  説明する。
        ・優れた教師は 示す。
        ・偉大な教師は 心に火を付ける。
                               (完)

2014年08月19日

◆トウ小平の吐いた壮大な嘘

渡部 亮次郎


「この問題は次世代の話し合いに任せましょう」そういって当時の中国共産党副主席トウ小平は尖閣列島の帰属問題の棚上げを提案。あれから36年、中国政府は話し合いのテーブルに就こうともしない。一方的に領有権を主張。「この際、一気に強行」と言う姿勢である。

<1969年および70年に行なわれた国連による海洋調査で、推定1095億バレルという、イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告され、結果、周辺海域に石油があることがほぼ確実であると判明した。

ただちに台湾がアメリカ合衆国のガルフ社に周辺海域の石油採掘権を与えるとともに、尖閣諸島に上陸し「青天白日旗」を掲揚した写真を撮らせ世界中の通信社に配信したため、日本政府が抗議した。

1971年6月に台湾、12月に中国が相次いで領有権を主張した。ただし、1970年以前に用いていた地図や公文書などによれば両国とも日本領であると認識していて、米国の施政時代にも米国統治へ抗議した事実がないことなどから、日本国内では領有権を主張し始めた切っ掛けとして海底油田の可能性が高いと唱えられている。>(ウィキペディア)

1978(昭和53)年8月、中国の経済開発を助成する為の日中平和友好条約の締結交渉に赴いた園田直(すなお)外務大臣に対し、在京の総理大臣福田赳夫から「尖閣列島の帰属問題に何らかの回答を得るように」と言う訓令が届いた。9日のことだった。

この背景には福田総裁再任で協力を得たい総務会長中曽根康弘の強い意向があった。そこで園田は10日午後4時半から人民大会堂で行われたトウ小平副主席との会談で持ち出した。これに対し、トウは既に察していたらしく「この問題は後世の世代の話し合いに任せよう」と提案。園田はこれを呑むしかない空気だった。

議論すれば、このとき、帰属問題にここで決着を付けなければ2日後に控えた日中平和友好条約の署名は拒否するという選択があった事は確かだ。

事実、この半年後にトウは経済の改革開放を決断するわけで、これにはとりあえず日本の資本と技術は不可欠。それを裏付けるのが日中平和条約だから、署名延期か拒否となれば、トウは往生したはずだ。

この辺りがお人好し日本人の限界なんだろうか、福田内閣は署名に応じたのである。外務大臣秘書官の私は複雑な思いで署名調印の筆先を見つめて
いた。

日中国交正常化は1972年9月、訪中した田中角栄首相が日中共同声明で公約したものである。

しかし正常化を具体化するための「日中平和友好条約ソ連の反発を恐れる両国の交渉は遅々として進まず、続く三木内閣でも宮澤喜一外務大臣が大幅な譲歩をしたにもかかわらず成就しなかった。

続く福田赳夫内閣でも外相鳩山威一郎時代は全く進展しないままバトンは官房長官から横滑りした園田に引き継がれた。その時、私はNHK国際局報道部(当時)副部長のポストから招かれて福田首相から外務大臣秘書官に任命された。

内閣改造に際して官房長官1人だけが留任して外相に横滑りだから、世論は福田首相が日中条約の締結に本気と受け取った。しかしこれは世論の誤解だった。カギは「大福密約」である。

「福田は首相を2年務めたら後を幹事長大平に譲る」という文書に署名した密約。これを成就させた功績者は園田。しかし福田は親分岸信介にせがまれて彼の娘婿安倍晋太郎を官房長官に据えなければならなかった。だから園田を怒らせないよう閣内ナンバー2の地位を与えただけのことというのが真相であった。


園田は「密約」を遵守して「大平政権」樹立に軸足を移しつつ、日中条約の調印に向けて懸命の突っ張り。持病の糖尿病に起因する腎不全と闘いながら、最後は命がけの北京行となったのだった。もはや調印拒否の気力は残ってなかった。調印後、程なくして全盲となり死亡。

今から考えれば、中国では周恩来首相に続いて毛沢東主席が逝去。失脚していたトウ小平が復活。持論の経済の改革開放(資本主義化)に向けて着々と党内の地歩を固めていた時期である。

これに対して日本側は佐藤正二大使以下中国大使館が情報収集活動が全くできないでいた。そこで園田が個人的に放った黒衣からの情報だけが変わってゆく中国政府部内の様子を伝えていた。

イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵」はトウも既に知るところ。後にはアメリカが国運を賭けて攻め入ったイラク。トウが自らの行なった資本主義化が、どれほどの石油を必要とするかを具体的に予測できていたとは思えないが、「ここで騙して踏ん張らなければ後世、墓を暴かれる」と決意して吐いた嘘が「次の世代云々」という壮大な嘘だったのである。


あれから36年。中国は世界制覇のための海軍強化に乗り出し、そのためには基地としての尖閣の存在は何物にも替えがたくなってきた。中国は尖閣に伸ばした手を引っ込める事は絶対に無い。


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