2011年04月21日

◆本質を見抜けぬ人々

渡部 亮次郎

50・8対43・2。「右」と言われる産経・フジの世論調査でさえこれである。「日本の政治家は核保有について議論すべきですか」と言う問いに対し「はい」が50・8%、「いいえ」が43・2%にも達したのである。

朝日新聞や読売新聞がしたらどうなるだろう。

日本が核を持つことが良いか悪いかを論議するだけで中国が震え上がり、北朝鮮も動揺したと言うのに、読者は43.2%もの人がその仕掛けに気づかない。なんと言うことだろうか。

「はい50・8%で安心」という意見もある。2006年11月7日付の「産経抄」である。

< 日曜日のNHK討論番組での、自民党の二階俊博国対委員長の発言には仰天した。中川昭一政調会長や麻生太郎外相が提起した核論議に対して、「任命権者の責任を問われる事態になりかねない」と、安倍晋三首相(当時)まで持ち出して“封殺”するかまえだ。

▼北朝鮮の核の脅威が現実のものとなり、海外では、日本の核武装の可能性が取りざたされているのに、国内では論議さえ許されない。このギャップはどこからくるのか。比較文化論が専門だった鯖田豊之さんは、かねて欧米諸国と日本の「平和観、戦争観のくいちがい」を指摘してい
た。

▼鯖田さんは、鎖国を例にとって説明する。徳川幕府は、イスパニア船やポルトガル船の来航を禁止すると同時に、国内で大船の建造を禁止した。本来なら海軍力を増強して、これらの船に備えなければならないはずなのに。

▼「相手がどうでるか考えないで、一方的宣言だけでことがかたづくとするこのような発想は、欧米諸国にはとうていみられないのではあるまいか」(『日本人の戦争観はなぜ「特異」なのか』主婦の友社)。なるほど「非核三原則」は、その最たるものだ。

▼日本の「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の政策を、核保有国が見習ってくれる。こんな幻想を持つ国は、確かに国際社会では、「特異」に違いない。夕刊フジの4コマ漫画「ヘナチョコおやじ」で、作者のしりあがり寿さんは先週、「核を論議しない」を加えて、もはや「非核4原則」だと風刺していた。

▼笑い事ではないが、幸いにも、きのうの小紙に載っていた世論調査によれば、「政治家は議論すべきか」の問いに50・8%が「はい」答えている。国民の多くは、現実的な安全保障論議を求めているのだ。平成18(2006)年11月7日[火]>

時を同じくして『週刊新潮』の2006年11月9日号で文芸評論家野口武彦氏は連載「幕末バトル・ロワイヤル」の59回目で「安政内憂録14 ストレスに死す」と題して老中阿部正弘 39歳の癌死を取り上げている。

これらを併せて読むと、現在の日本が遭遇している状態はまさに「国難」であり、事態の真髄を理解しているものは政治家にも少なく、民主党などは開国を装った攘夷派という複雑怪奇な存在と理解できる。

尤も、核問題に関して民主党(当時)では西村真悟氏のような「所有」を主張するものから旧社会党の残滓まで様々であって、安全保障政策全般について統一した見解を出せないままだ。そうした状況から幹事長(当時)鳩山氏の支離滅裂な発言で党を売り込もうとする売国行動が出るのだろ
う。

それにしても開国に至る過程での阿部正弘の苦悩は大変なものだった。私の日本史履修はここまで来ないうちに高校卒業となってしまったため、この時期についての理解は小説のみに依存していた。

◆阿部 正弘(あべ まさひろ)は江戸時代末期の大名、江戸幕府閣僚で老中首座(総理大臣)を務めた。備後福山藩(現在の広島県福山市)7代藩主。

幕末の動乱期にあって『安政の改革』を断行した。阿部にとってはこれらのすべてが今で言うストレスとなり、消化器系癌の進行を早めたという見方である。

文政2(1819)年に5代藩主阿部正精の6男として江戸に生まれた。天保7(1836)年に7代藩主に就任。翌年(1837年)に正弘は福山(広島県福山市)へのお国入りを行った(正弘が国許へ帰ったのはこの1度のみである)。

正弘は天保14(1843)年に25歳で老中(閣僚)となり、同年、老中首座であった水野忠邦が天保の改革の挫折により失脚したため、老中首座となる。第12代将軍徳川家慶、第13代徳川家定の時代に幕政を統括する。

また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、筒井政憲、戸田氏栄、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震、ら大胆な人事登用を行った。

嘉永元(1848)年、アメリカ合衆国の東インド艦隊が相模国浦賀(神奈川県)へ来航して通商を求めると、正弘は鎖国を理由に拒絶したが、嘉永6(1853)年に再びマシュー・ペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航した。

同年7月には長崎にロシアのエフィム・プチャーチン艦隊も来航して通商を求めた。 この国難を乗り切るため正弘は朝廷を始め外様大名を含む諸大名や市井からも意見を募ったが結局有効な対策を打ち出せず時間だけが経過していった。

こうして正弘は積極的な展望を見出せないまま、事態を穏便に纏めるかたちで安政元(1854)年日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げる。

ところが、安政2(1855)年、攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派の老中松平乗全、松平忠優の2名を8月4日に罷免したことが、開国派であった井伊直弼らの怒りを買う。

孤立を恐れた正弘は同年10月、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。こうした中、正弘は江川英龍(江川太郎左衛門)、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを登用して海防の強化に努め、講武所や洋楽所、長崎海軍伝習所などを創設した。

また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和、など幕政改革(安政の改革)に取り組んだ。しかし、安政4(1857)年正弘は老中在任のまま急死する。享年39。

ちなみに、正弘は蘭学の導入に積極的であったが、自らは蘭方医を最後まで拒んだという。

阿部の項 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia

2011年04月20日

◆「死んで堪るか」の真実

渡部 亮次郎

河野 一郎(こうの いちろう、明治31(1898)年6月2日―昭和40(1965)年7月8日)。自由民主党の実力者。従2位勲1等旭日桐花大綬章。

選挙区である神奈川県の県政を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。しかし河野自身は内山県知事を天皇と呼んでいた.

参議院議長をつとめた河野謙三は弟。衆議院議長、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員河野太郎は孫である。

明治31(1898)年6月2日、神奈川県足柄下郡豊川村(現在の小田原市成田)の豪農・河野家に生まれる。父治平(じへい)は、豊川村長、神奈川県会議長を歴任した。母はタミ。

大正12(1923)年早稲田大学を卒業。在学中は箱根駅伝の選手。謙三の方が早かったらしい。朝日新聞社に入社。

昭和6(1931)年犬養毅内閣の山本悌二郎農林大臣の秘書官となる。昭和7(1932)年2月、衆議院議員総選挙に神奈川3区から出馬し、当選する。当選後は、立憲政友会に所属した。

鈴木喜三郎総裁の後継をめぐる党内抗争では、鳩山一郎を担いで奔走したが、中島知久平が優位に立っていた。河野は、久原房之助を擁立して対抗し、政友会は、正統派(久原派)と革新派(中島派)に分裂するに至る。昭和17(1942)年の翼賛選挙では、非推薦で当選した。

終戦後、昭和20(1945)年11月に旧政友会正統派の勢力を糾合して、鳩山一郎を総裁とする日本自由党を結党。幹事長として、鳩山内閣の結成に奔走するが、昭和21(1946)年5月4日鳩山に公職追放令が下り、吉田茂が後継総裁として大命降下をうけ組閣に取り掛かる。

組閣をめぐっては、吉田が旧政党人を軍部に迎合したとみなし人事について相談しなかったことなどをきっかけとして、不倶戴天の間柄となる。更に6月20日には、河野自身も公職追放となった。弟謙三が身代わりとなって地盤を守った。

昭和26(1951)年8月7日に追放解除となり、三木武吉と共に自由党に復党した。以後、反吉田派の急先鋒として鳩山政権樹立に向けて奔走する。

昭和27(1952)年9月29日解散総選挙の目前に鳩山派に打撃をあたえるべく、石橋湛山と共に党を除名された。三木武吉の工作によって、12月に除名取り消し。

昭和28(1953)年3月14日、鳩山、三木ら21名と自由党から分党。吉田内閣不信任案に賛成投票し、バカヤロー解散・総選挙を実現させた。

11月に鳩山、石橋らが自由党に復帰した後も三木、河野ら8名の代議士(「8人の侍」と称された)は日本自由党を結成して、自由党反主流派と改進党の連携を模索し、ついに3派を合同させ日本民主党を結成し、鳩山を総裁とし、吉田内閣を打倒する。

第1次鳩山内閣で農林大臣に就任。第2次、第3次鳩山内閣でも留任する。昭和31(1956)年日ソ漁業交渉、日ソ平和条約交渉でフルシチョフ共産党第1書記を向うに渡り合う。10月に日ソ共同宣言を成立させ、鳩山首相と共に調印にこぎつけた。

この時、アルコールを一滴も受け付けない体質なのに、フルシチョフとのやり取りの経緯上、テーブルのウオトカを一気呑み。「部屋へ帰ってから水風呂に入ったり色々したがどうにもならない。あの時は死ぬかと思った」と後年、語っていた。

鳩山引退後の自由民主党総裁公選では、岸信介を支持し、石橋湛山に一敗地にまみれるが、岸信介内閣成立後は主流派となる。昭和32(1957)年の内閣改造では、経済企画庁長官として入閣。第2次岸内閣では党総務会長に就任。

しかし、昭和34(1959)年6月に幹事長就任を岸首相に拒否されたため、反主流派に転ずる。日米安保条約改定では岸内閣に批判的立場を取り、衆議院における強行採決では、三木派とともに河野派は欠席した。岸は死ぬまで怨んでいた。

岸退陣後の自由民主党総裁公選では、党人派の結集を画策し、大野伴睦、石井光次郎を擁立するが、官僚派の池田勇人に敗れる。

一時、河野新党(いわゆる第2保守党)の結成を目論むが、大野らに翻意を促され断念する。大野の仲介により池田首相に接近をはかり、昭和36(1961)年7月の内閣改造で農林大臣として入閣。

昭和37(1962)年7月の改造では建設大臣として、東京オリンピックの担当相として辣腕を振るった。池田が病のため、退陣するに当たっては後継総裁候補の1人に擬せられたが、後継総裁は佐藤栄作に落ち着いた。

この時の前後が私の担当記者である。NHKでは誰もが恐ろしくて担当したくないというので、新人の私に大役がいきなり回ってきたのだ。昭和40(1965)年6月3日の内閣改造では、閣内残留を拒否した。この直後、7月8日大動脈瘤破裂のため急死した。67歳。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられるが、息子河野洋平が語った所では、家族を安心させるために「大丈夫だ。死にはしない。」という穏やかなものであったということで真実では無いが、党人政治家の最期の言葉として人口に膾炙している。法名禅岳院殿大光政道一義大居士。

「死にはしないよ」を「死んでたまるか」とNHKニュースで流した犯人は誰あろう、私である。歴史を曲げた。ここに謝罪し、訂正します。

この夜、枕元で無邪気に遊んでいたのが河野太郎と妹の2人で、「心配ないから、子供たちを寝かしなさい、死にはしないから」と言うものだったが、翌日の夜には、あっさり、死んでしまった。まだ67歳だった。

倒れる前日、つまり1965年7月6日の夕方、私は河野さんと単独会見をした。夕方、麻布台の河野事務所を訪ねると、大広間で転寝をしていた。口から涎を垂らし、いうなれば、ダンディらしくないイギたなさであっ
た。

ダンディーぶりはただ事ではなかった。ハリュッドで会ったデボラ・カーに握手を求められた時、差し出した自分の手の爪は汚れていて恥かしかった、と爾来、服装に気を遣い、マニキュアまでするようになっていた。ノー・ネクタイの記者には会わなかった。

参議院選挙の疲れかな。29歳の私はその程度にしか感じられなかった。しかしそれが命取り「腹部大動脈瘤破裂」の前兆だったとは。

隣のビルは建設大臣当時は、建設省分室だったが、その頃は河野さんの私物になっていた。ところが、誰をも入れなかった。それなのに、その日は私を4階の自室まで連れて行った。

そこは畳敷きの和室だった。「ここに入る他人はキミが初めてだよ」と言いながら、「近く中曽根(康弘)クンを派から除名しようと思うんだ」という爆弾発言をした。

河野派4天王の1人を除名するとは穏やかではない.しかし、こういうとき、質問してはいけない。「奴はね、ベトナム戦争の見学と称して川島クンに従いて行きたいというんだよ」

川島正次郎は池田勇人が喉頭癌で政権を投げ出した時、河野の願望を差し置いて後継者にあっさり佐藤栄作を据えた張本の副総裁である。河野さんは許せなかったのだ。

「ボクはこれからデートだ。明日は平塚の(有名な)七夕(たなばた)だからね。参議院選挙の当選祝いを平塚の自宅でするからね、キミも是非来たまえ」と言って別れた。デートの相手は?言わない。

ところが翌朝、腹痛で倒れ、藤尾正行代議士のはからいで日本中の名医が枕元に集まった。腹部大動脈瘤破裂。当時の医学としては手の「施しようの無い」病気だった。翌8日午後7時55分「お隠れになりました」と日本医師会会長にして主治医の武見太郎が発表した。

私はその30分前に、既に死亡原稿を全国に放送していた。枕元に集まった側近たちがお題目を唱え始めたのを「死」と早合点したのである。河野さんの命日のたびに反省とともに思い出すが早合点の癖は未だに治らない。

「河野派から中曽根除名」のニュースは遂に流れなかった。中曽根は「河野精神を体して」とか何とか我田引水の主張を繰り返してとうとう中曽根派の結成に成功し、総理総裁の地位を獲得したことご承知の通り。私はこういう人生は嫌いだ。

なお、腹部大動脈破裂は弟の謙三も奇しくも患うが、医学は進歩していたので、何事も無く助かった。(文中敬称略)


2011年04月19日

◆自公「復興実施本部」当面応じず

渡部亮次郎

野党への「復興実施本部」入りは、菅首相が国民新党の亀井静香代表に投げさせたクセ球だったが、自公両党は18日、打ち合わせの結果、当面、断ることを決めた。

災害復興に協力することにはやぶさかではないが、この底には菅首相の延命策が隠されていることが明瞭だったためである。

<自民、公明両党の幹事長、国対委員長らは18日昼、都内で会談し、国民新党の亀井静香代表や菅直人首相が東日本大震災の復興に向けて検討している与野党合同の「復興実施本部」(仮称)への参加について、当面応じない方針を確認した。

自民党の逢沢一郎国対委員長は会談後、記者団に対し、民主党内で「菅降ろし」の動きがあることを念頭に「この段階で軽々に判断できる政治状況か見極める必要がある」と述べた。>
産経新聞 4月18日(月)14時6分配信

それよりも何よりもびっくりしたのは産経新聞政治部総理官邸担当記者のキャップ阿比留さんの菅首相への質問(4月12日)である。阿比留さんのブログによればこうある。

<「現実問題として与野党協議にしても、最大の障害となっているのは首相の存在であり、後手に回った震災対応でも、首相の存在自体が国民の不安材料になっていると思う。一体、何のためにその地位にしがみついていらっしゃるのかお考えを聞かせてほしい」。要は震災その他対策に、菅首相がいて邪魔だとはっきりいっているのである。

これに対し菅首相はこう答えました。「阿比留さんの物の考え方がそうだということと、私は客観的にそうだということは必ずしも一致しないと思っています。(中略)私とあなたとの見方はかなり違っているとしか申し上げようがありません」

私はこの質問をするに当たって、まだ菅首相の正体と危険性に気付かないか、あるいはそれこそ私と見方がかなり違っている人からは、強い反発を受けるだろうなと覚悟していました。>

その結果、阿比留さん宛に抗議のハガキが1通だけ来たそうだ。

私もNHK記者の時代、田中角栄内閣の総理官邸記者のサブ・キャップを経験したが、田中首相の金権体質批判をテレビで展開した事はあるが、だからあなた辞めなさいと面と向かっては、恐ろしくて言えなかった。

田中の差し金で大阪に左遷されて事をきっかけに41歳でNHKを退職してしまったが、阿比留さんのような立場の人間から、こう露骨に非難されるようでは、菅首相の政治生命も旦夕に迫っていることを示すものだろう。

これを見ては、自公両党とも復興会議にとても参加する事はできない。首吊りから輪を外してやることに成り、自らの首を締めることになるからである。2011・4・18

2011年04月18日

◆「愛国の花」とデヴィ夫人

渡部 亮次郎

渡邊はま子の歌った「愛国の花」がインドネシアのスカルノ元大統領の好きだった歌として有名になったのは、深田祐介(ふかだゆうすけ)が1970年代に小説『神鷲(ガルーダ)商人』で取り上げてからだった。


「神鷲(ガルーダ)商人」深田祐介著は 文春文庫。

昭和33(1958)年、インドネシアに対する賠償協定が調印されたのに目を付けた日本商社は、巨額の利益を求め画策する。その翌年、日本を訪れたインドネシア大統領スカルノは、ナイトクラブで美貌の歌手、根岸直美を見初める。戦後の日本、アジア関係の原点となる賠償に巻き込まれた人間たちのたどる数奇な運命。

インドネシア大統領第三夫人となった直美は、異国での軋轢に傷つきながらもスカルノの愛情を励みに、確固たる地位を築き上げていく。一方、彼女を利用し、巨利を貪り続けようとする日本商社の思惑と、それをめぐる男たちの野心は何をもたらしたのか。果たして、戦時賠償はインドネシアを救うという神鷲だったのか。

ここで「直美」として描かれているのが、当時、東京・赤阪のクラブ「コパカバーナ」でホステスをしていた根本七保子である。

<翌年、日本を訪れたインドネシア大統領スカルノは、ナイトクラブで美貌の歌手、根岸直美を見初める>と小説では描かれている。そこで2人の心を急速に近づける鍵が「愛国の花」なのである。

<スカルノは立ちあがり、部屋の隅のピアノの傍に歩み寄って、2番の歌詞を直美と一緒に、正確な日本語で歌い始めた。>

<2.老いたる 若き もろともに
  国難しのぐ 冬の梅
  かよわい力 よくあわせ
  銃後にはげむ 凛々しさは>

「新版 日本流行歌史(中)」社会思想社 1995年1月発行によると、「愛国の花」は昭和13(1939)年春の歌。作詞福田正夫、作曲古関裕而(独学)。この年、日本放送協会(敗戦後、NHKと名乗る)の「国民歌謡」として渡邊はま子が歌って好評を博した。

そこでコロムビア・レコードが5月に制作・発売、大ヒットした。4年後(1942年)11月には松竹(大谷松次郎、竹次郎双子の会社)が、これを主題歌にして「従軍看護婦の愛の物語」の映画が作られた。戦意高揚の歌より、叙情歌の方を兵隊たちが歌ったのは明日をも知れぬ命を歌ったからではないか。

「愛国の花」の作詞者の福田正夫は「日本の民衆派の先覚として早くから純粋詩壇で活躍した人」として知られた。

主宰者自身としては、生まれて2年後の歌なので、戦時中、7つ上の姉が歌っていたのを聴いた覚えはあったが、ピンと来なかった。

深田の小説「神鷲(ガルーダ)商人)を読んで、大学生の頃、当時の岸信介首相が対インドネシア賠償で、社会党から国会で汚職臭を追及されていたことを鮮明に思い出す。しかしインターネットで「木下産商」と引いても、もはや該当するものは無かった。

スカルノが日本の歌「愛国の花」を歌えたのは、彼のオランダからの独立運動を援助した日本陸軍の将兵が歌っていたのを覚えていたからで、根本さんがこの歌を知っていたかどうか。

この独立運動については畏友で国際問題評論家の加瀬英明氏が小説「ムルデカ」を執筆している。

小説『ムルデカ 17805』
加瀬英明 [著]

自由社〔電話:03-5976-6201.112-0005文京区水道2-6-3〕
2001年5月5日発売
ISBN: 4-915237-28-1
価格: 1600円(税別)

【解説】
インドネシア独立のために、戦った日本人兵士たち
1945年、日本敗戦−−−そして、もうひとつの戦いが始まった。「ムルデカ=独立」の気運が一気に沸き起こるインドネシア。

しかし間もなく、オランダ、イギリスが、再びこの国を統治下に置くべくインドネシアに来攻、独立戦争が勃発した。島崎の教えを受けたインドネシアの青年たちは、真っ先に独立軍に身を投じた。

元日本兵島崎たちは戦犯として、オランダ軍に捕らえられ拷問を受ける。「青年道場」の教え子たちを助けたいという気持ちと、部下を日本へ復員させる責務との間で苦悩する島崎。

やがて、捕虜虐待の罪を着せられ、宮田は処刑されてしまう。遺言は「インドネシア独立に幸あれ」。インドネシアの同志たちの手で奇跡的に救出された島崎は、彼らとともに戦うことを決意する…。

加瀬氏は「日本の多くの青年がアジアを白人の手から取り戻すために生命を捧げた。それがアジアを大きく動かし、大戦後、植民地解放の嵐となって全世界に吹き荒れたのである」という。

スカルノは戦いの先頭で「同僚」日本人たちの歌う「愛国の花」を独立運動の心として歌っていたに違いない。


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 愛国の花

  福田正夫 作詞
  古関裕而 作曲

 1.真白き富士の けだかさを
 こころの強い 楯として
 御国につくす 女等は
 輝やく御代の 山ざくら
 地に咲き匂う 国の花
     
2.老いたる 若き もろともに
 国難しのぐ 冬の梅
 かよわい力 よくあわせ
 銃後にはげむ 凛々しさは
 ゆかしく匂う 国の花

3.勇士のあとを 雄々しくも
 家をば子をば 守りゆく
 優しい母や また妻は
 まごころ燃ゆる 紅椿
 うれしく匂う 国の花

4.御稜威(みいつ)のしるし 菊の花
 ゆたかに香る 日の本の
 女といえど 生命がけ
 こぞりて咲いて 美しく
 光りて匂う 国の花

(註) 御稜威=「みいつ」の尊敬語。天皇・神などの威光。強い御威勢。
(広辞苑)


2011年04月15日

◆ホスピスとモルヒネ

渡部 亮次郎

必要があって、急にホスピスとモルヒネが、身近な課題となった。麻酔薬モルヒネについては平成8年の夏に義母が癌で死亡する際、使ってもらったので実感があるが、今回はホスピスを予め調べる必要が出てきた

ホスピス (hospice) とは、ターミナルケア(終末期ケア)を行う施設のこと。日本ではまだ設置数が少ないが、近年、QOL(Quality of Life,生活の質)の意識の高まりなどから、徐々に増加している。

日本で最初のホスピス病棟は、大阪の淀川キリスト教病院に設けられた。当時のホスピス長、柏木哲夫の功績によるものである。この病院での実質的なホスピスケアは、1973年から始められた。

その約10年後の1982年、長谷川保による聖隷三方原病院の末期がん患者などのためのホスピス(緩和ケア病棟)開設を日本で最初とする説もある。

僅か30年余の歴史しかないのに珍しくない言葉になったという事は、それだけ癌患者が多くなったということかも知れない。

従来、ホスピスの開設は主に民間の医療機関等が行ってきたが、公的な機関も開設に乗り出すようになっている。

日本で最初の国立のホスピスが、1987年千葉県の国立療養所松戸病院(現在の国立がんセンター東病院、1992年千葉県柏市へ移転)に開設され、その後、全国各地の国公立病院にホスピス開設の動きが広がっている。

ホスピス病棟のある病院の一覧は以下。

http://ganjoho.ncc.go.jp/pub/hosp_info/hospital03/index.html

ホスピスとは、元々は中世ヨーロッパで、旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指した。そうした旅人が、病や健康上の不調で旅立つことが出来なければ、そのままそこに置いて、ケアや看病をしたことから、看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになった。

教会で看護にあたる聖職者の無私の献身と歓待をホスピタリティ (hospitality) と呼び、そこから今日の病院を指すホスピタル (hospital) の語が出来た。

歴史的には、ホスピタルもホスピス同様に、病院だけでなく、孤児院、老人ホーム、行き倒れの収容施設なども指した。

18世紀末、アイルランドは、イギリスの植民地でプロテスタントによる弾圧により居場所を失った人々が居た。修道女 マザー・メアリ・エイケンヘッド(アイルランド「シスターズ・オブ・チャリティ」(慈善修道女会・カトリック)創立者)はその居場所を創る志を立て、19世紀にダブリンに(ホスピスの原型と思われる)「ホーム」が建てられた。

20世紀に入り、治療の当てがなく、余命いくばくもない患者の最後の安息に満ちた時間をケア(ターミナルケア)する施設としての近代ホスピスが、イギリス、アイルランドから始まった。

1967年、セント・ジョセフ・ホスピス(ロンドン, ハックニー(アイルランド人の多い地域)で学んだ女医のシシリー・ソンダース(CICELYSAUNDERS)は、セント・クリストファー・ホスピスを建設、緩和ケアを基本とした、現代ホスピスの基礎を作り、世界的な広がりの先駆けとなった。

アメリカ合衆国では在宅ホスピスが中心である。

ホスピスで、患者の苦痛を除去するために主に用いられるのが麻薬のモルヒネである。

◆本稿は、4月15日(金)刊の「頂門の一針」2232号に
掲載されています。

◆<2232号 目次>
・私が書き残し、伝えたい事:村井正典
・父不在国家:須藤文弘
・大震災が日本の友と敵を峻別した?!:古森義久
・菅政権「さらなる災禍招く」と小沢氏が批判:古澤 襄
・ホスピスとモルヒネ:渡部亮次郎
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

◆「頂門の一針」購読(無料)申し込み御希望の方は
下記のホームページで手続きして下さい。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2011年04月14日

◆人材発掘怠り2世で沈没自民党

渡部亮次郎
 
昭和39(1964年7月10日、内閣総理大臣池田勇人(はやと)が自民党総裁に3選され、偶然だが、この日から私の政治記者修業が始まった。

池田首相に終始くっつくだけの池田番記者をする一方、自民党内 No2の実力を誇示する河野一郎無任所大臣をも担当。彼が、折からの東京オリンピックと東京都の水不足問題担当大臣に指名されたため、オリンピックと飲み水に詳しくなった。

首相池田は当時の大蔵官僚。佐藤栄作とともに、吉田首相に寵愛され、占領下の日本政治の舵取りをしながら成長した。佐藤の実兄が安保退陣をした首相岸信介。兄弟とも官僚出身。栄作は運輸事務次官から政界入り。

一方の岸は東大に残れと要請されたほどの秀才。当時の商工省に入り、満州国に乗り込んで辣腕を振るった。対する河野一郎は朝日新聞記者から政界入りした、所謂党人派だった。

こうした中で新潟の小学校上がりの若手政治家が、密かに牙を研いでいた。佐藤の派閥に属しながら、池田派の幹部で大蔵官僚上がりの大平正芳を通じて池田に取り入り、遂に大蔵大臣に上り詰める。

田中はノモンハン事件に出征、その後、東京で土建会社を興して蓄財、それを翳して30前に代議士となる。神楽坂の芸者を引かし男児2人を設けた。真紀子は本妻の子である。

このように昭和50年ごろまでの自民党は多士済々だった。殆ど男性ばかりで、兵役経験者が多かった。「死」に直面し、生きながらえた人物が多かった。度胸が据わっていた。

たとえば衆院議員当選9回で初入閣する九州天草出身の園田直(すなお)は、いわゆる「特攻隊」の生き残り。「弾は逃げれば命中する」との信念の持ち主。あらゆる困難を買って出た。日米安保は再軍備の邪魔になると反対投票、除名されて入閣が遅れた。

園田とともに河野派に属した中曽根康弘は内務官僚から海軍主計官を経て政界入り。若くして岸内閣に入閣。その後鳴かず飛ばずの期間が長くなった為、川島正次郎に接近。河野の怒りに触れ、河野が「明日、中曽根を派閥から除名する」と私にいった。

その当日に河野が腹部大動脈瘤破裂で倒れた為、不名誉を免れた。あの時河野が死ななければ政権獲得、大勲位はもらえなかったろう。

こうした人たちが自民党を動かしたわけだが、殆どすべての政治家が息子や縁者を後継者にしている。池田は娘婿を後継者にした。佐藤は次男を、河野も次男たる洋平を指名はしなかったが、結果はそうなった。

岸は女婿たる安倍晋太郎に夢を託して「道ならし」。岸の「安倍狂い」とまで言われた。自民党の将来よりも安倍の出世が大事だった。

園田は「子供を後継者にしない」と高言していたが、死んで見ると未亡人と先妻の子たる次男が後継を争うという見世物を演じた。

忘れてならない人物に大野伴睦 (おおの ばんぼく =ともちか )がいる。

東京市会議員を経て衆議院議員となり、衆議院議長、北海道開発庁長官、日本自由党幹事長、自民党副総裁を務めた。没後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。

典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称で親しまれた。また、「政治は義理と人情だ」「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」等の格言を残したことでも知られる 。出典フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

しかし、この人の遺児も議員になり2世議員の恥を晒した。

ナポレオン時代のフランスの政治家・ジョゼフ・フーシェに例えられ「江戸前フーシェ」や、「寝業師」、「道中師」、「おとぼけ正次郎」と渾名されたりもした川島正次郎は新聞記者から東京市の役人。

それから政界入りし、岸信介のもとで幹事長。佐藤栄作政権では長く副総裁だったが、佐藤が後継首相に福田赳夫を指名しようとしているのを阻止。党人派田中政権の樹立に献身した。子がなかったので二世は作らなかった。

このようにして自民党は新しい血液の混入を拒否、長期政権の地盤を固めていった。

したがって政界入りを目論む者は自民党に背を向けざるを得なかった。特に官僚は自民党を早くから見限った。

松下幸之助が政経塾を作って、結果的に野心家ばかりを養成したのは彼のたった一つの汚点だと思うが、それにしても、その卒業者の悉くが現在の民主党に固まる結果となったのは、厚い壁をたてて彼らを拒否した自民党の罪である。

その壁には古い因習によって人間を差別する壁もあった。思想的に自民党員足るべき資格者がミスミス民主党に走らざるを得なかった例を数多知っている。

こうして自民党は二世、三世議員だらけになり新しい知性の感じられない政党に成り果てた。小泉政権はまだしも安倍晋三、福田康夫、挙句は漢字も読めない麻生太郎で遂に倒産と相成った。

ところで「子供は俺の地位を継ぐべきでない」と高言して死んだ園田の後を息子が継ぐ結果を近くで見ていたが、あろうことか後援会の幹部による会の主導権争いが決定的に影響していた。

幹部の中には思想信条・政策において後継者に相応しい地方議員はいたが、後援会の主導権を失いたくない幹部は、敢えて息子を指名することによって大方の賛同を得、有力県会議員の中央政界進出を封じた。

二世、三世議員の登場にはこうした例が多いのでは無いか。

いずれにしろ、自民党は議員志望者を育成し、党の血液を入れ替える荒仕事を成就させなければ、民主党から次期総選挙で政権を奪回できたにしても、再度奪い返される日は来る。(文中敬称略)
2011・4・9

2011年04月12日

◆小沢氏系に「菅降ろし」の声も

渡部 亮次郎

統一地方選挙における民主党の大敗は予想通りだった。内紛を繰り返すなか、鳩山ルーピーに続いて登場した菅首相は、頭の中が空っぽのパフォーマンス屋。東日本震災という国難に全く対処能力の無いことを日々晒しているさなかの選挙だったから、有権者の大半が怒りを民主党にぶつけた選挙だったから当然の結果だった。

菅に対立する若手中心の小沢系から菅退陣を求める声が公然と出るのはこれまた当然のことだ。特に民主党に担がれたはずの西岡参院議長まで退陣を求められるようになっては、しがみつきの菅ももはや容易ではな
い。

だが、大震災の復興策も固まらない中での菅降ろしは紆余曲折を辿るだろう。

<民主敗北、政権に打撃=小沢氏系に「菅降ろし」の声も【統一選】

10日の統一地方選前半戦で、民主党は自民党との対決型選挙となった知事選などで相次いで敗北、菅政権にとっては手痛い打撃となった。

民主党幹部は「厳しい結果だ」と深刻に受け止めている。東日本大震災や福島第1原発事故の対応が長期化する中、直ちに菅直人首相の進退に発展する可能性は低いが、民主党の小沢一郎元代表に近い議員からは、首相や岡田克也幹事長の責任を問う声も出ている。

民主党の岡田幹事長は11日未明、選挙結果について「非常に残念だ」と肩を落としたが、自らの引責辞任は否定した。

一方、自民党の石原伸晃幹事長は10日夜、「国民は、菅政権にハンドリングを任せて大丈夫か、ということを示したのではないか」との見方を表明。

公明党の山口那津男代表は「菅政権は国民の評価を得られなかった。震災に対する評価が今回の選挙に表れている」と指摘した。

民主党は12都道県知事選のうち、自民党推薦候補と対決した北海道、三重両知事選で敗北。首相のお膝元の東京都知事選は自主投票で不戦敗となった。

党執行部は「国政と地方選とは別」(党幹部)としているが、昨年9月の菅改造内閣発足後、主要な地方選では敗北が続き、大震災や原発事故の対応でも指導力不足と批判され、小沢氏系議員からは「最低でも幹事長の責任は免れない」「首相を降ろすしかない」などと悲痛な声が出てい
る。

ただ、今は被災地の復旧・復興対策が急務で、「菅降ろし」には動きにくい状況だ。民主党ベテラン議員は「復旧・復興のための2011年度第1次補正予算の成立までは菅政権で可能だが、その後の第2次補正成立まで乗り切れるかどうか」との見方を示す。

党幹部の1人も「すぐに首相に『辞めろ』とはならないだろうが、じわりと選挙の影響は出てくる」と語った。(続)>
時事通信 4月11日(月)0時52分配信

2011年04月11日

◆男の退き際

渡部亮次郎

神奈川県知事を引退した松沢成文氏が、石原都知事に恨み節を唱えているが、男の退き際として、絶対やってはいけないことである。

一見、正義は松沢氏にある。東京都知事選が近付いたある日、石原氏に呼ばれ、僕のあと(東京都知事)をやってくれと要請され、了承。次期神奈川県知事選には出馬しないと表明した。退路を断ったのだ。

ところが石原氏は、これを撤回、4選出馬を表明したので、既に退路を断っていた松沢氏は、ただの人になってしまった。

<松沢氏、東京都知事選の立候補を撤回

東京都知事選に立候補を表明している松沢成文・神奈川県知事(52)は3月14日、都庁で会見を開き、出馬を撤回すると発表した。

松沢氏は、引退の意向だった石原慎太郎都知事(78)の後継含みとされていたが、石原氏が4選出馬を決めたことで引いた形だ。

会見には、石原氏と上田清司・埼玉県知事(62)も同席。冒頭、上田氏は首都圏の知事同士の争いを避けるため、石原、松沢両氏の調整を進めたと説明。松沢氏は「苦渋の決断だが、受け入れることにした」と述べた。

その理由の一つに東日本大震災を挙げ、「地震がなければ戦っていた可能性が大。知事選があるからと言って県庁を抜け出すのは行政の長として許されない」と話した。

首都圏連合の強化や受動喫煙防止条例制定など、松沢氏の公約は石原氏が引き継ぐという。松沢氏は「石原知事から協力してほしいと言われた。一歩下がって全面的に協力する」と話した。神奈川県知事選に立候補することは「できないと思う」と否定した。

松沢氏は2月に石原氏に出馬を促されたといい、3月1日に正式表明した。石原氏は、いったんは不出馬の意向を決めたが、選挙の結果次第では、自身のこれまで進めた都政の路線が継承されない可能性があるなどとして4選出馬を決意。10日に松沢氏に伝えていた。

都知事選をめぐっては、前参院議員の小池晃氏(50)=共産党推薦=、外食チェーン大手ワタミ創業者の渡辺美樹氏(51)、発明家のドクター・中松氏(82)らが立候補を表明。前宮崎県知事の東国原英夫氏(53)も立候補の意向を固めている。>
(Asahi Com 2011年3月14日22時53分)

聞いているところによれば、石原氏は実際、引退するハラを固めていた。そこで予ねて気脈を通じていた松沢氏にあとを託そうと決意したらしい。

ところが調査会社による世論調査の結果、松沢氏は都民に知られていない上に人気がなく、選挙は前宮崎県知事の東国原英夫氏(53)が優勢の可能性が高いと出た。仕方なし、石原氏は「あえて4選出馬せざるを得ない」との結論に達し、10日にはこれを松沢氏に伝えていた。

<川崎市多摩区生田出身。中学から大学まで慶應義塾で学び、大学卒業後はすぐに松下政経塾に入塾。同期生に鈴木淳司・笹木竜三・前田正子らがいる。在籍中にアメリカ連邦議会の下院議員やメリーランド州の司法長官のスタッフとして活動。

1987年3月に松下政経塾を卒塾。直後、同年4月の神奈川県議会議員選挙に田川誠一が代表を務める進歩党推薦で立候補し、初当選。県政史上最年少議員として注目を集める。この選挙における学生ボランティアに手塚仁雄がいた。

1993年、衆議院議員総選挙に旧神奈川2区から立候補し、初当選。以後3期連続当選。新生党、新進党を経て民主党へ合流。議院運営委員会理事、外務委員会理事、災害対策特別委員会委員長、民主党選挙対策委員会事務局長、民主党次の内閣教育・科学技術ネクスト大臣等を歴任。

1999年、第1回民主党代表選挙に枝野幸男、上田清司、簗瀬進、前原誠司、田中甲、岩国哲人、奥田建ら当選回数が少ない国会議員の支援を得て、菅直人の対抗馬として立候補。得票数は菅の180票に対し51票に留まったものの、大方の予想を上回る票を獲得し善戦。

2003年4月、民主党を離党して無所属候補として神奈川県知事選挙に立候補し、盟友の中田宏横浜市長や石原慎太郎・東京都知事の応援を受け初当選。

2007年4月の神奈川県知事選挙では自民党県連推薦の杉野正候補や共産党推薦の鴨居洋子を破り再選。次点だった杉野の約3倍の得票を集める圧勝となった。

2010年12月、反日教育の疑いがあるとして留保していた朝鮮学校の無償化を解除して交付した。金額は6300万円。>ウィキペディア

ところが松沢氏は舞台裏をぶち負けて、石原氏への恨み節を展開した。メールだのブログだの便利なもので心情を吐露したようだ。
これでは、次の場面で松沢氏に借りを返そうと思っていた石原氏も臍を曲げ、援助しないだろう。

いきなり知事の座を失ってショックだったから、つい、愚痴が飛び出したのだろうが、こういう程度の寸法の人物では次の使い道も余り無いだろう。失敗したな、オイ。2011・4・10



2011年04月10日

◆安全宣伝専念の東電

渡部亮次郎

良く黙っているものだ、東電に対して世の中は。福島第一原発を施工した会社の当時の責任者は「アメリカから取り寄せた設計図をそのまま施
工した。地震も津波も想定なんかしなかった」とどこかで告白していた。世間は津波の凄さにのまれていたからか、何の反応も起きなかった。

東北電力が作った女川原発は地震や津波については軽い被害で済んだ。さすがチリ地震津波の被災地に隣接しているだけあって、東北電力は津
波防波堤(9m)を築いていた。すべてを防げたわけではなかったが、軽くて済んだのは流石である。

東京電力の福島原発を実地に見学したことは無いが、施工した責任者の告白通りだとすれば、原発は太平洋に向かって下半身を晒して突っ立っ
ていただけだった。それなのに、東電も政府の保安院も地震と津波が「想定外」だったから、と逃げている。

「想定外」とはなんらかを想定していた者が発することの出来る言葉である。福島第一原発については東京電力も保安院も地震や津波を想定し
ていなかった。少しぐらい想定していたら少しぐらいの対策があったはずだ。

知人が経済産業省や電気事業連合会の予算で原子力発電の「安全」を宣伝する会社を経営しているから、内部事情を少しだけ知っているが、東
電は福島原発に関して「想定」などして来なかった。ただただ「安全」を「宣伝」していただけである。

言い方を変えれば、地震も津波も想定していなかったアメリカの設計図どおりに作ってしまった福島原発に今更、マグニチュード9・0や津波を想
定しても尽くす手段は無かったわけだ。

原発を作り直すなど気が遠くなるから、世論対策で事態を糊塗するしかなかったのだ。マスコミなどに飲ませ食わせて地震や津波を頭から消そ
うとしていたに過ぎない。

専門家の科学的な批判や世論の高まりを交わす為に、「安全」を宣伝するPR会社を設立させて、宣伝費をつぎ込むしかなかったのだ。知人こそ
「いい面の皮」だったわけだ。

こうした面は、原発を持っている国内のあらゆる電力会社に共通である。知人の案内で中部電力浜岡原発を視察したことがあるが、地震や津波対
策の実際について一言の説明も無かった。

今更、人類は原発を否定する事は不可能なところまで依存する体制に産業はある。しかし想定外の自然災害は必ず起きるのだから、安全対策に
莫大な資金をつぎ込む事はやむを得ない。その分を消費者は予め負担を覚悟する必要がある。      2011・4・9

◆本稿は、4月9日(土)刊の全国版メルマガ「頂門の一針」2226号に
掲載されました。
◆<2226号 目次>
・安全宣伝だけの東電:渡部亮次郎
・「義援金詐欺」に引っかかるな:平井修一
・復興案策定前にもたつく政治の機能不全:花岡信昭
・誰が二次災害を拡大させているのか :西村眞悟
・首相難色で消えた幻の「枢密院」構想:古澤 襄
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

◆「頂門の一針」を購読(無料)申し込み御希望の方は
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2011年04月08日

◆たまには谷垣総裁を評価

渡部亮次郎

民主党との大連立をめぐる自民党谷垣総裁について、私のメルマガ読者の反応は、愚図に過ぎると散々だ。

<菅首相の退任を連立の条件にしたという自民党は、結局参加を拒否した。それはそれで結構なのだが、谷垣総裁の優柔不断振りは余りにもだらしがなかった。あの決断は二者択一であって右往左往して総理経験者のご意向を聞きに行くような性質ではない。それが出来ないような総裁には期待できないと再確認した>と手厳しい。

しかし、弁護士にしては仲々の策士だと私は珍しく感心した。総理経験者を尋ね歩いているうちに党内世論を引き付け、入閣希望者たちの欲望抑制に、わざと時間稼ぎをしたのだ。党内運営は単純ではない。策が必要なのだ。

もともと出身派閥の長たる古賀 誠氏が大連立に積極的である。谷垣にしてみれば大震災の震源地が足元だったのだ。そこで単純に考えれば古賀氏と会談すれば簡単だが、そうはしなかった。

中曽根氏を初めとする総理経験者を歴訪、会談を重ねることによって、なんとなく彼らの支持を取り付けた格好をつけ、党運営に関する求心力を確立。「反対」を主張するとみられる小泉氏と最後に会談。小泉氏の意見を借りた形で「反対」の結論を出した。

単純に「二者択一」とばかり、派閥の親分古賀氏と会談していたら「参加」の結論を出さざるを得なかったろう。古賀氏との要らざる対決を回避しながら菅の延命も回避した。

想定を超えた谷垣氏の深謀遠慮に気づかぬマスコミは、例えば産経政治部の佐々木美恵記者は7日の紙面で「谷垣総裁、政局決断できず、総理経験者行脚に時間、優柔不断さ露呈」と厳しい非難を浴びせた。

案外「愚図」と見せて古賀、森喜朗氏ら「参加積極派」との要らざる対決を回避した手腕は評価すべきだ。愚図は相撲をとらずに勝負に勝ったのだから。しかし、党内の人気はでないねぇ。
2011・4・7



2011年04月07日

◆一旦は消えた大連立だが

渡部亮次郎

燃えかけた民主・自民・公明による「大連立」だったが、5日、谷垣自民党総裁が再度、否定したことにより、一旦は消えたように見える。自民党内で積極的に動いた幹部の面々が余りに震災利権に目ざとい連中だったこともあって、大方の了承は取り付けられなかったようだ。

しかし、後述古澤氏の指摘するように「火種」も「策士」も残っているので、目を光らせる必要はある。

<谷垣総裁、大連立拒否「政策すり合わせもない」

自民党の谷垣総裁は5日、菅首相(民主党代表)が呼びかけた両党の「大連立」はできないとの考えを示した。谷垣氏は東京都内で記者団に「政策のすり合わせもないところでの連立はあり得ない。野党として震災対応の協力をやる」と述べた。

党執行部は「菅首相の退陣が大連立の大前提」としており、谷垣氏の発言も、菅政権との間での大連立を否定したものと見られる。

谷垣氏は首相の震災対応についても、「(首相官邸内で)たくさんの役を次から次に作るのは責任と権限を一元化することにつながらない」と批判した。

谷垣氏は同日、総裁経験者回りの一環として海部、小泉両元首相とそれぞれ会談、小泉氏は「健全な野党のあり方を発揮すべきだ」と助言した。

自民党幹部は「総裁経験者は菅政権との大連立に皆、慎重だった」としており、菅内閣が閣僚を増員し自民党に入閣を要請しても断る方針だ。>読売新聞 4月5日(火)20時39分配信


<大連立に否定的=「健全野党」、谷垣氏に求める―小泉元首相

自民党の谷垣禎一総裁は5日午後、都内で小泉純一郎元首相と会い、党派を超えて東日本大震災の復興に取り組むため、党内で容認論が広がる民主党との大連立について、意見を求めた。

小泉氏は「今は健全な野党の在り方をしっかり発揮すべきだ」と述べ、政権の外から協力するのが望ましいとの考えを伝え、谷垣氏は「全くその通りだ」と応じた。

会談後、谷垣氏は記者団に「政策の擦り合わせもない連立はない。野党として徹底的に震災対応に協力すると言っており、これをきちっとやる」と強調しつつ、「これからも、いろんなことを見ないといけない」と述べ、情勢を見極める姿勢を示した。>
時事通信 4月5日(火)20時53分配信

◆本稿は、4月6日(水)刊の「頂門の一針」2223号に
掲載されたものです。
◆<2223号 目次>
・一旦は消えた大連立だが:渡部亮次郎
・大連立の火種は残っている:古澤 襄
・「これで(首相を)2年できる」:阿比留瑠比
・菅氏では国民はもう頑張れない:遠藤浩一
・中国が市場から資金回収開始:宮崎正弘
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2011年04月06日

◆大連立は利権への群がり

渡部 亮次郎

俄かに表面化した民主党政権への自民・公明参加による「大連立」への動きは、単なる震災復興事業の「利権」ほの群がりに過ぎない。震災・復興への党派を超えた協力という美名と入閣という餌の先には復興事業にかかわる「利権」への黒い欲望がある。

自民党の谷垣総裁が即座に拒否して消えたかに見えた大連立構想が、俄かに現実味を帯びてきたのには、ワケがある。元総理大臣森 喜郎、元幹事長古賀 誠、既に引退したはずの野中広務元官房長官の各氏が、そうはならじと、実現に向けて大きく動き出したからである。

更に予ねて、大連立を主張していた大勲位中曽根氏の後押しが効いた。谷垣氏は4日、都内で中曽根康弘元首相と会談し、いきなり民主党との対決路線を放棄した。

かねて大連立論者である中曽根氏は「頼まれれば閣僚も出す。どの閣僚を取るかが大事だが、挙国的な態勢を作る意味では協力した方がよい」とアドバイス。

「公明党との関係を重んじるべきだ。災害立法が終わったら仕事は終わったと考えてよい。菅首相と進めていく形を取った方がいい」と付け加えると、谷垣氏は「同感です」とあっさり応じた。

要するに、東日本大震災から被災者をいかに救済するかという視点を忘れ、何十兆円になるか想像もつかない大利権の甘い汁をを民主党にだけ吸わせる手は無いというドス黒い欲望が先に立つ発想なのである。

このままでは「やはり利権に目が無いという自民党の体質は変わっていない」と言う批判が定着するという大チョンボになるだろう。

<大連立「二段階構想」着々と 前のめりの自民 慌てる民主

東日本大震災を受け、民主党の安住淳国会対策委員長は4日、閣僚を17人から20人に3人増員する内閣法改正を与野党国対委員長会談で正式に提案した。

自民、公明両党から実務型閣僚3人をまず入閣させ、本格的な大連立に持ち込む「2段階構想」の誘い水だといえる。自民党の谷垣禎一総裁は近く各派領袖とも会談し、一任を取り付ける構えだ。

数十兆円規模の復興予算を目の前にぶら下げられ、すっかり前のめりとなった自民党。逆に民主党から「菅直人首相が延命してしまう」と戸惑いの声が漏れ始めた。

「できるだけ早く菅政権を追い込む方針でしたが、大震災が起きてそのままの方針ではいかなくなりました…」

谷垣氏は4日、都内で中曽根康弘元首相と会談し、いきなり民主党との対決路線を放棄した。

かねて大連立論者である中曽根氏は「頼まれれば閣僚も出す。どの閣僚を取るかが大事だが、挙国的な態勢を作る意味では協力した方がよい」とアドバイス。

「公明党との関係を重んじるべきだ。災害立法が終わったら仕事は終わったと考えてよい。菅首相と進めていく形を取った方がいい」と付け加えると、谷垣氏は「同感です」とあっさり応じた。

谷垣氏は5日に小泉純一郎元首相と会い、その後各派領袖とも会談する考え。2段階構想への「地ならし」は着々と進んでいる。

山本一太参院政審会長は「菅首相がトップに座ったままのなし崩し的な連立には反対だ」と語ったが、もはや少数派だ。子ども手当など「ばらまき4K」政策に菅(KAN)首相を足した「5K外し」が大連立の絶対条件だったはずだが、すでに忘れられつつある。

それほど終戦以来の巨大復興プロジェクトは半世紀にわたり政権を担った自民党には魅力的なのだ。「これに関わらなければ自民党の名折れだ」(中堅)との声まで上がる。

浮足立つ自民党を横目に民主党の岡田克也幹事長はさらにアクセルを踏み込んだ。

「大連立の最大の意義は衆参のねじれを解消することだ。経験のある党に加わってもらうことは十分にあり得る」

岡田氏は4日の記者会見でこう語り、復興という大義名分を強調。公明党との連立も「政策の共通性が多いならばどの党とも連立を構成することはありうる」と歓迎した。

枝野幸男官房長官も「全面的に協力するとおっしゃっていただき、有意義な提案もいただいた。今後ともそうした姿勢で行動いただけるとありがたい」と謝意を示した。

このような急ピッチな大連立への潮流に民主党の非主流派は戸惑いを隠さない。

小沢一郎元代表に近い川内博史衆院議員は「首相や仙谷由人官房副長官が言う大連立は、自分たちに都合よく政治を取り運びたいということだけだ」と語気を強めた。

このまま2段階構想が進めば、首相は居座りを決め、小沢氏を中心に非主流勢力は埋没しかねない。そんな懸念は日増しに強まっている。>
(産経ニュース 2011.4.4 21:41)
2011・4・5

2011年04月03日

◆右手負傷顛末記=再刊ご挨拶

渡部 亮次郎

少し大振りのホッチキスを操作していて、右掌に打撲傷、手首に捻挫、全治2ヶ月の診断という珍しい体験をした。やっとパソコンを打つ許可が出たので、こうして駄文を綴ってはいるが、近所の整形外科には未だに通いつづけているのだから、顛末の末には未だ至ってはいない。

メルマガ「頂門の一針」は2000号をはるかに超しているが、各号のトップページを100号ごとにホッチキスで綴じている。100枚を綴じるのだからやや大振りではある。PLUS−50Dとある。

昨年11月20日の2101号が2200号に達したのが3月5日(土)のこと。暫くほっといたが、3月21日の夕方5時ごろ、表紙をつけた上で、正確には102枚を右手で押して綴じた。「なんだか変な感じだな」という思いはあった。

しかし、そのまま向島の洋食屋ヘビーフ・シチュウで焼酎を飲みに行った。あいにくシチュウは売り切れ。仕方なく以前は良く食べていたハンバーグを肴に呑んでいた。

2杯目ぐらいに右掌が腫れて来た。仕方なしガンガン呑んで寝た。ところが22日朝になると手首も痛くなって目が覚めた。またまた使うが、仕方なく、馴染の行徳駅前の皮膚科へ行ったが今日まで休診ときた。

また仕方なく、家人がかかった事のある江東区住吉2丁目の真田整形外科医院に入った。もう夕方だった。

白髪の真田医師、患部をちらと見ただけで「ホッチキスの誤操作による打撲症と手首の捻挫ですね。転んで手を突いて怪我する代わりにホッチキスで掌を激しく叩いたわけです」?????叩いた心算が叩かれたわけ。

要するに打ち方が悪かったのだろう。打ったとき、一寸変と感じたのは、掌の中心で打っていなかったから感じたものだったようだ。

とにかく親指の付け根辺りに大きく赤く腫れた瘤。手をそらしたり、内側に曲げたりすると手首は激しく痛むのだ。

以後毎日のように医院に通っておよそ10日。痛みは捻挫だけに成り、指先だけなら使ってもよいとの許可が4月1日に出た。

医者からPC打ちを止められていた間、「頂門の一針」を休刊していたが、切りのいいところで日曜日の4月3日から配信を再開することを決意した次第。

読者の多くからお見舞いのメールを戴きました。わざわざ拙宅を焼酎持ちで訪れてくださった方もありました。本当に有難うございました。これをもって休刊のお詫びと再刊のご挨拶といたします。 2011年4月3日。

◆本稿は、4月3日(日)刊「頂門の一針」2220号に
掲載されました。右手負傷が快癒され、再刊された
ことに心からお祝い申し上げます。読者の皆様、どうか
他の卓見も拝読ください。(netmo編集部)

◆<再刊2220号 目次>
・右手負傷顛末記=再刊ご挨拶:渡部亮次郎
・東電「貞観地震」の解析軽視:毎日新聞
・この巨大地震が教えたもの:矢野惠之助
・出でよ、平成の後藤新平:花岡信昭
・「原発キライ」と言われても:平井修一
・花粉症ぶっ飛ばした放射能:山堂コラム 383

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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