2014年08月08日

◆安倍長期政権に早期解散の選択はない

杉浦 正章



衆参ダブル選挙を目指せ
 


衆院解散は首相が自ら主導権を握って断行するケースと、追い込まれてさせられるケースがある。大きくその可能性を分ければ自ら断行するケースは再来年夏の衆参ダブル選挙だろう。


させられるケースは政治状況によっていつでもあり得るが、最大の山は来年の通常国会末だ。この山を首相・安倍晋三が解散に追い込まれずに逃げ切れば、同年9月の総裁選挙で再選され、ダブル選挙への道が開かれる。


永田町でささやかれている今秋の臨時国会での解散などは“ど素人の政局観”であり、ありえない。新聞記事を検証すれば記者も利口と馬鹿がいることが分かる。
 

首相側近や自民党幹部が「解散は秋だぞう〜〜」と、何にも知らない若手議員や駆け出し政治記者を脅すのは戦略的な意味あいがある。今回も夏前にその話が流れたのは、若手議員らが夏休みで外遊に出て選挙区をおろそかにする事を恐れてのことなのだ。


夏休みは「田の草取り」をさせないと、“風”で当落を左右される基盤の弱い議員らが落選する恐れが大きいからだ。


来春の統一地方選に向けても、今から動きださないと大敗する可能性がある。普通の政局担当記者は秋の解散説などには踊らされないが、未熟だと踊らされる。


産経は「安倍晋三首相の念頭にあった平成28年夏の衆参同日選は影を潜め、今ささやかれているのは、北朝鮮による日本人拉致被害者が帰国した場合の10月解散説だ」と、もっともらしく書いたが、これは“解散様”を安易に見た政局記事の典型だ。


“解散様”は神棚にしまって、めったに口にしてはならないのだ。政権が多数を維持して安定しているときに何で解散しなければならないかが分からない記者が、こういう記事を書く。だからあり得ない。
 

しかしもっと頭の良い、巧妙な“落とし穴”を仕掛けた記事も見られる。それは朝日が書いた「もっとも順当とされるのは来夏の通常国会閉会後(の選挙)だ。


来年の通常国会が終われば総裁レースが幕を開ける。そこで、このタイミングで解散・総選挙に踏み切って勝利し、国民の信任を得れば、安倍首相を総裁選で交代させる理由が消え、無投票再選は確実になる。」というものだ。


だが、安倍ちゃんはこの通常国会末解散の誘惑に決してはまってはいけないのだ。朝日の狙いは来年の通常国会後半で集団的自衛権の行使関連法案が俎(そ)上にあがることをにらんでいる。
 

というのも同関連法案をめぐっては久しぶりの保革の激突が予想され、朝日はその激突を背景に総選挙をさせれば確実に自民党が大敗するチャンスと踏んでいるのだ。通常国会末の混乱を狙って、朝日は社説などを動員して「解散で国民の信を問え」というキャンペーンを打ち出すのは確定的だ。


毎日などがこれに乗り、解散・総選挙の合唱になり得る。そして安倍を解散に追い込むのだ。記事はその布石を今から打っているのだから、さすがに老舗だけあって読みが深いし、頭が良い。


しかし筆者に看破されては安倍周辺も警戒するから駄目だろう。だいいち朝日の言うように「総裁選で無投票再選が確実になる」などと言う読みは噴飯物だ。与野党激突は野党の息を吹き帰らせ、仮死状態の民主党ですら議席が増える。


自民党議員は血みどろの戦いで、解散をした安倍に恨み骨髄に達する状況で永田町に帰り、石破茂に投票する。かくて総裁選での再選は不可能となり、安倍政権は2年半で潰え去るのだ。
 

さらに極めて重要なのは安倍が今年末に消費税再増税に踏み切るかどうかだ。踏み切ればちまたは怨嗟の声で満ちあふれ、民主党は自分で法律を作ったことを忘れて通常国会は増税批判一色になる。古来増税で選挙に勝ったためしはない。しかも増税実施が来年10月になることも政局を直撃する。


どこかの馬鹿評論家が来年末から解散の可能性と書いているが、消費増税実施直後の解散などはあり得ないのだ。
 

従って安倍が長期政権を狙うなら、あらゆる政局を再来年夏の衆参同日選挙に向けて収れんさせてゆくことだ。


ダブル選挙は自民党に有利であることは過去2回の歴史が実証している。公明党が反対すれば、今度こそ切ればいい。自民党はあだやおろそかで衆院295議席を維持できているのではない。これを天が与えた僥倖(ぎょうこう)と受け止め、大切に大切に維持して安定した政治を行うことが安倍に課せられた使命なのである。

【筆者より】来週はお盆休みに入ります。再開は18日から。

     <今朝のニュース解説から抜粋>  (政治評論家)

2014年08月07日

◆かやき(貝焼き)で育った

渡部 亮次郎


「かやき」とは、主に秋田県、青森県など日本海側の東北地方で食べられる鍋料理の一種。「かやき」は、貝焼きが訛った言葉で、現在では貝でなく小型の鍋を用いた1人用の鍋料理を「貝焼き=かやき」という。

元々は鍋は農漁民にとっては高価だったこともあり、大きな貝殻を鍋に代用した。ホタテが多いが、アワビの貝殻が用いられる事もある。

中味は季節の魚(ハタハタ、カワヤツメなど)、野菜、豆腐、茸などを味付けしただし汁で煮込むもので、東京で言う寄せ鍋の調理法と類似している。

昔はこれを七輪に炭をおこして煮るから手間がかかって皆、厭がったものだが、いまは卓上ガス・こん炉だから簡単。

ハタハタの場合、調味にしょっつる(ハタハタから作られた魚醤)を用いる事から、しょっつるかやき(貝焼き)と呼称する事もある。

また、カワヤツメのかやきは、新鮮なカワヤツメをぶつ切りにしてネギやゴボウと共に味噌味のだし汁で煮た鍋である。日本で賞味されることの少ないカワヤツメの鮮魚を用いた秋田の冬の味覚となっている。

「かやき」は、本来は貝殻を用い、貝からの出汁も利用しようとするものであるが、秋田県内陸部などでは貝を利用しない鍋物料理も「かやき」と呼ばれることが多い。

私の場合は目の前が旧八郎潟。そこへ流れ込む川や用水路にも鮒や鯰がうようよいたから、網や釣り針で釣り、ぶつ切りににしたり、鮒は一匹ごと、葱、豆腐と一緒に煮た。美味しかった。

肝腎なのは煮るのは醤油ではいけないこと。淡水魚はみな泥(ごみ)臭い。それを消すのは味噌である。だから私の食べた「かやき」はすべて「味噌かやき」だった。

実を言うと、小学校(戦時中は国民学校)2年までは味噌汁が医者から止められていた。腎臓が弱く、塩気を摂れば死ぬといわれていた。だが、ある日、盗み飲みで味噌汁を飲んでしまった。ところが死ぬどころか、却って元気になり、運動会では常に1等ではないか。

母親は喜んだ。私の前に生まれた次男坊「琢次郎」が夭折しているので、腎臓の弱く生まれてきた補欠次男坊についても覚悟していたらしい。医者が枕元で「学校へ上がれるかどうか」と父母に言ったのを私は記憶していたから。

それが、味噌汁を飲み始めてから急に元気になり、敗戦後は野球を始めたら、学校では投手で4番バッター、主将になった。爾来、私のおかずは鮒の「味噌かやき」が定番になってしまった。

勿論、貧しい、戦中、戦後の農村。肉屋1軒あるわけじゃなし、スーパーも無い時代。同居していた祖父の捕ってくる鮒と鯰しか「具」は無かった。海の魚は高価。現金収入の乏しい農家の口にははいらなかった。

だから上京後も私が刺身を食えなかったのは厳密に言えば貧しすぎる少年時代を過ごしたためであり、よく考えれば悲しい話なのである。

経緯は省略するが、60歳にしてトロの味に目覚めたものの、いまも豚肉と豆腐、葱の「豚かやき」を醤油味で仕立て、家人も食べている。忙しい時は簡単で助かるそうだ。

別に「茄子かやき」もやる。鰹のナマリ節を買い置きしておき、小鍋に茄子と豆腐を加えて、味噌で煮るのだ。最近は茄子が年をつうじて入手できるから、最も安くて簡便な「かやき」である。

なお、貝殻を用いる鍋料理の方法は『料理物語』などで古くから知られており、島根県には鴨肉やセリを用いたすき焼き風の貝焼きがある。こちらは貝焼き(かいやき)と呼ぶそうだ。
2010・2・19
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


       

◆ジャガイモで命拾いした欧州人

渡部 亮次郎



16世紀に南米からヨーロッパにもたらされたジャガイモは当初はその見た目の悪さ(現在のものより小さく、黒かった)からなかなか受け入れられずにいた。

さらに民衆は、ジャガイモは聖書に載っておらず、種芋で増えるという理由で「悪魔の作物」として嫌った。

しかし、ヨーロッパで栽培される主要な作物よりも寒冷な気候に耐えること、痩せている土地でも育つこと、作付面積当たりの収量も大きいことから、17世紀にヨーロッパ各地で飢饉が起こると、各国の王はジャガイモの栽培を広めようとした。

とくに冷涼で農業に不適とされたアイルランドや北ドイツから東欧、北欧では食文化を替えるほど普及した。

またアメリカ合衆国など北米地域や日本などアジア地域にも普及し、ジャガイモが飢餓から救った人口は計り知れないといわれる。

2005年にはジャガイモの原産地の一つであるペルーが国連食糧農業機関(FAO)に提案した「国際イモ年(IYP International Year of Potato)」が認められ2008年をジャガイモ栽培8000年を記念する「国際イモ年」としてFAOなどがジャガイモのいっそうの普及と啓発を各国に働きかけた。

<イングランド>

ジャガイモがヨーロッパにもたらされた当初、ヨーロッパには芋という概念が無かった。そのため、芋というものを食べると分かるまで、本当は有毒である葉や茎を食用とする旨が書かれた料理本がイングランドで出版され、それを真に受けたイングランド人がソラニン中毒を起こした。

<アイルランド>

アイルランドでは栽培の容易さや収量の為だけではなく、征服者のイングランド貴族が熱心に勧めたことにも原因があった。ジャガイモの栽培を増やして農民がそれを食べるように仕向ければ自分達が収奪する麦の分量が増えると考えてのことである。

結果としてアイルランドでは主食としてジャガイモが非常に重要になった。このため1840年代にジャガイモの疫病がヨーロッパに蔓延した際に、ジャガイモに依存していたアイルランドではジャガイモ飢饉が起こり、大勢のアイルランド人が北アメリカに移住することになった。

その移民の中に後に第35代アメリカ合衆国大統領になるジョン・F・ケネディの曽祖父・パトリックがいたのはよく知られている話である(ケネディはパトリックの次男の孫、すなわち4代目である)。


<ドイツ>

ドイツ料理にはジャガイモが多用される。ドイツでジャガイモが普及したのはプロイセンである。プロイセンの支配地であるブランデンブルク地方は南ドイツなどとは違い寒冷で痩せた土地が多くしばしば食糧難に悩まされた。

そのため荒地でも育つジャガイモは食糧難克服の切り札とみなされ、フリードリヒ大王が栽培を奨励した。しかし、他のヨーロッパ諸国同様、不恰好な外見から人々から嫌われた。そのためフリードリヒ大王は自ら範を垂れ、毎日ジャガイモを食べたという。


<フランス>

フランスでは、王が王妃にジャガイモの花を飾って夜会に出席させると、貴族は関心を持った。 しかし食用としては他の国々の例に漏れず、当初は民の間で嫌われた。

ジャガイモを国に広めたいと思った王は一計を案じ、自分が作らせたジャガイモ畑に昼間だけ衛兵をつけて厳重に警備した後、夜はわざと誰も見張りをつけなかった。

王がそこまで厳重に守らせるからにはさぞ美味なのだろうと考えた民の中から、夜中に畑にジャガイモを盗みに入る者が現われた。結果的に、王の目論見通りジャガイモは民衆の間に広まって行ったという話が残っている。


<北朝鮮>

北朝鮮では、90年代の後半から食糧危機が発生したが、この時政府(朝鮮労働党)は「ジャガイモ農業革命」を提唱してジャガイモの生産拡大を、同時に種子改良(種子革命方針)、二毛作方針を徹底した。

朝鮮中央放送では「偉大なる指導者金正日同志は、ジャガイモは白米と同等であるとおっしゃった」などと報道しており、平壌にはジャガイモ料理専門店が開店したとも報じている。

行き過ぎた二毛作によって、土地の栄養分が不足する事態も発生しているといわれているが、白米に比べて、気候や土地に依存せず大量に生産できるジャガイモにより(連作障害などによる弊害もあるが)、北朝鮮の食料危機はある程度の解決をみた。
出典:ウィキペディア  


      

2014年08月04日

◆園田直のサバイバル論

渡部 亮次郎


園田直(そのだ・すなお)は昭和59(1984)年の4月2日に70歳で死んだ。九州・天草の村長から代議士となり、衆議院副議長3期、厚生大臣、官房長官、外務大臣2期、再度厚生大臣に続いて3期目の外務大臣を務めた後3年して死んだ。病名は腎不全。

ところでこの人は、戦場に11年もいた。しかも日本陸軍落下傘部隊第1期生、天雷特別攻撃隊(いわゆる神風特攻隊)隊長を経験した。

そのかん中国、東南アジアで銃撃戦を体験し、最後の特攻隊では原爆を積んだアメリカの艦船に体当たりすべく飛び立つ予定だったが天候不良に阻まれ、では17日に飛べ、と言われたが15日に敗戦、万事休すであった。

その経歴をみて気づくのは彼ははじめから「死」を求めて戦っていたことである。それなのに生き延びたのだ。それだからこそ、戦場においていかに死の恐怖を乗り越え、いかに部下を統率すべきかをよく聞かされた。

私がNHK政治記者を辞めて彼の秘書官になったのは、そういう彼の戦争哲学に酔わされたためだった。秘書官になってからは出張先の外国のホテルのスイートで、従いてきた外務省の役人が夜は勝手に遊びに出掛けたあと、自身、酒を呑めないものだから、大酒呑みの私に自らウイスキーの水割りを作ってくれながら話をした。初め、私42歳、彼は65歳であった。

 1.ジャングルで道が2股に分かれている。右に行こうか、左にしようか。部下たちが一様に注目する。私も判断がつかない。私が敵だったらどうするかと考えると、来て欲しい道は来て欲しいように整えるだろう。

そうだ整備されてない道を行こう。それが正しかった。良い道の先では敵が待ち構えていた。初めはそれが判らず失敗した。それで会得した。だから失敗を恐れちゃいかん。

2.代議士になってすぐ今で言う不倫を野党の女性代議士と起し、相手を妊娠させた。どうするか。事態から逃避できないわけじゃないが、あえて妻と離婚しこの代議士と結婚した。

随分非難されたが、選挙区の女性は好意的だった。事件への対処の仕方が真面目だ、というものだった。そのせいか以後も落選しなかった。
 
3.逃げる時は一番先に逃げなきゃいかん。2番目は撃たれる。トーチカ(ロシア語。コンクリートで堅固に構築して、内に銃火器などを備えた防御陣地=広辞苑)にこもって敵と対峙する時がある。

膠着状態だな。最後にいざ出て逃げようとした時、初めに出た人は助かるが、2番目の奴は必ず足を撃たれる。相手は あ、逃げた、撃てというが、今まで長い事、待っていたものだから、あ、と一息ついちゃうんだね、一番の奴はそれで逃げられるが、二番手は足を撃たれる事になる。

だから何でも逃げる時は一番先に逃げなきゃ駄目さ。戦場では日中条約を遅疑逡巡する福田さん(当事の首相)のような人の態度はダメだ。遅疑逡巡していては戦争は出来ない。

部下の信頼を得られない。それと、弾というのは逃げる奴を追ってくるような気がするよ。弾に対してこちらが向かっていけば弾が俺を避けたよ。

 4.野戦では、弾の流れが見えているうちは大丈夫だよ。見えなくなったらコトだ。そうだろう、こっちに向かっている弾は点になるもの。点になって初めて緊張すればいいんだ。初めから構える事はないのさ。部下にバカにされるよ。

戦争とか喧嘩とかは常時、緊張しているわけじゃない。いわゆる戦機というものが必ずある。その時だけ緊張すればいいのさ。あとは風の吹くまで待とう風車。

 5.どんなに今のようなコンピューターが付いたって、大砲の射手は連続して同じ着弾点に命中さすことは不可能だよ。だから、さっきの弾の炸裂した穴に飛び込めば、弾には当たらない。「弾に向って進めば弾がよけてくれる」と言ったな。一番良くないのが逃げること。

そのうちに部下たちも心得たものだ、みんなそうするようになって1人も戦死者が出なかった。逆にいえば人生、同じ失敗を2度繰り返すのはかなり難しいものだということでもあるね。

 6.ある時、士官学校出の若い隊長が着任した。いやに張り切っとる。ダダダダダ。いきなり敵が撃ってきた。隊長、上がってしまった。「あれは敵か、味方か」そればっかり。士官学校では銃の撃ち方は習ってきたが撃たれ方は習うわけがない。

それが着任と同時に撃たれたのだから舞い上がって仕舞うのは当然だ。撃った事はあるが撃たれた事はない。ところが、こっちだってどっちの弾かわからん。でたらめに「あれは味方でございます」といってやったらフッとため息をついてたっけ。まだ22か3だものね。

角さんが幹事長、私が国対委員長のとき佐藤総理が法案の採決強行が遅いと角さんをどなりつけたらしい。おまえ何とかなだめてくれと言うからなだめてきた。

「総理、今日は仏滅、明日は大安」と言ったら総理は「そうか」と納得した。角さんが「ほんとにそうか」と聞くから「わしゃ知らん」と言ってやった。要は総理が採決の延期を納得すればいいわけだから、理屈はいらん。

 7.ある隊長は銃撃戦のさなか、先頭に立とうとするが、戦死されて困るのはこっちだから、みんなは「隊長、そこでは危のうございます」と言うばかり。士官学校出が危ないと言われて引っ込むわけに行かない。ますます弾に身を晒そうとする。

仕方ないから出て行って「隊長、そこじゃ戦況が良く見えません、どうぞこちらへ」と岩陰に案内したらため息をついていた。そんなもんさ。誰でも怖いものは怖いんだよ。 (再掲)

2014年08月02日

◆ジャン「バ」ーと唄っていた頃

渡部 亮次郎



ジャンパーが日本に初登場したのは、敗戦(1945年)直後である。その当時は国民学校4年 9歳だったが、岡 晴夫が「粋なジャンバー」と唄ったのでジャンバーと覚えたが、実はジャン「パ」−が正解のようである。

東京の花売り娘 1946年
佐々詩生作詞 上原げんと作曲 歌: 岡晴夫 

青い芽を吹く 柳の辻に
花を召しませ 召しませ花を
どこか寂しい 愁いを含む
瞳いじらし あの笑くぼ
ああ 東京の花売娘

夢を見るよに 花籠抱いて
花を召しませ 召しませ花を
小首かしげりゃ 広重描く
月も新たな 春の宵
ああ 東京の花売娘

ジャズが流れる ホールの灯かげ
花を召しませ 召しませ花を
粋なジャンバー アメリカ兵の
影を追うよな 甘い風
ああ 東京の花売娘

仮にも占領軍の兵士を「粋」と唄ったのは、子ども心にも可笑しかった。日本人はすぐに狎れたがる国民だ、と。だから直後に憲法をオシツケラレタ。それなのにマッカーサーに「感謝」して羽田空港まで「歓送」する始末。

ジャンパー (衣服)
ジャンパー 革ジャンジャンパー(英: jumper)とは、男女、子供ともに着用する上着のことで、フランス語のブルゾン(仏: blouson)にあたる。日本ではジャンバーと呼ばれることも多い。

もとは、粗綿、麻などで作った仕事着で、運動量に富んだゆったりとしたジャケット(英: jacket)のことをいったが、現在はスポーツウェア、レジャーウェア、普段着など広範囲に着られる。

デザインは前開きボタン留め、またはファスナー付き、あるいはプルオーバー(英:pull-over)ふうのものなので、裾や袖口にベルトやボタン、ゴム編みの付いたものがみられる。

英語圏でジャンパーとは、主にセーター、プルオーバー、スウェットシャツを意味し、日本語でジャンパーと呼ばれるものは、英語圏ではジャケットと呼ばれる。          出典:『ウィキペディア』


2014年07月31日

◆反腐敗という名の“粛清”に反撃も

矢板 明夫


江・胡両派が連携の可能性

【北京=矢板明夫】中国で習近平政権による汚職追及の最大標的とみられてきた中国共産党の前政治局常務委員、周永康氏の取り調べが発表された。経済利権と治安機関を握り続けた周氏をも排除したことで、習主席の求心力を高め、政権基盤の強化につなげようとの思惑がある。

しかし、伝統的な権力闘争の手法で、政敵を失脚に追い込んだことは党内の政治バランスを崩し、今後、政局の混乱をもたらす可能性もある。

中国国営新華社通信が「周永康氏への調査」を発表した直後の29日夕、中国の有力経済誌「財経」(電子版)は、周氏の息子の周浜氏が、「違法経営」の疑いで湖北省宜昌市当局に逮捕されることが決まったと報じた。

父の政治的な影響力を利用して、石油利権の売買で不正な利益を得た疑いが持たれているという。

また、周氏の歴代6人の秘書のうち、すでに5人が失脚しており、弟夫婦や、息子の妻の家族からも複数の逮捕者が出ている。習指導部が政敵を倒すのに、その一族郎党を一網打尽にする前近代的な政治手法に対し、党内から批判の声もあるという。

習政権は発足後、政治運動として反腐敗キャンペーンを展開してきた。習主席の盟友、王岐山・党規律検査委員会書記が主導し、これまでに局長以上の幹部を数百人摘発。

しかし、胡錦濤前国家主席が率いる共産主義青年団派や、江沢民元国家主席の上海閥の関係者が大半を占め、習・王氏が所属する太子党グループの幹部はほとんどいなかった。

今回、周氏を失脚に追い込んだことで、「反腐敗の決意」を国民にアピールすることができた。太子党への権力集中はさらに進むとみられる。しかし、反腐敗という武器を使って勢力拡大を図る習一派の強引なやり方に対し、党内の不満が高まっているという。

共産党筋によると、習主席は事前に、周氏の後ろ盾である江沢民氏に周氏の責任を追及する意向を報告し、同意を取り付けた。胡錦濤氏も反対しなかったという。しかし、江氏周辺には、経済問題を抱える党長老が多くおり、胡錦濤派の幹部たちも習主席周辺の政治手法に対する不満が高まっているという。

今後、このような“粛清”が続くのであれば、習主席の暴走を止めようと、長年対立してきた江・胡両派が連携して反撃する可能性も取り沙汰されている。産経ニュース2014.7.30

◆「軍事同盟」で退陣した内閣

渡部 亮次郎


若い頃、NHK記者として4年間駐在した岩手県には、後に総理大臣になる鈴木善幸(ぜんこう)のほか小沢佐重喜(さえき)、椎名悦三郎ら、錚々たる政治家がいた。言うまでも無く佐重喜は小沢一郎の父、椎名は副総裁として田中角栄の後継首相に三木武夫を推して大失敗した。

そうした中で目立つようで目立たなかった男が鈴木善幸だった。三陸沿岸の漁民の出。はじめは日本社会党から代議士になったが、間違いに気付いて保守党に鞍替え、とうとう自民党総裁、総理大臣になった。

だが日米安保条約の何たるかも知らずに過ごし、自民党内のバランスにのっていたので総理大臣にまつり上げられたものの、「能力不足」を晒して途中退陣した。

日本大百科全書(小学館)にはこう書かれている。

<国内では自民党の絶対多数を背景に、軍事力増強、実質的な靖国(やすくに)神社公式参拝、参議院の比例代表制導入、人事院勧告凍結を実現した>。

鈴木善幸内閣]は1980(昭和55)年7月成立した。前任の大平正芳が総選挙中、糖尿病の合併症たる心筋梗塞で急死したところ、「闇将軍」といわれて評判の悪かった田中角栄が裏で動いて、突如、鈴木善幸を後任として指名した。私はその現場に居合わせた。

昭和55(1980)年6月12日未明、大平が死んだ。それに先立って、ホテルにいた私に園田直(当時は無役)から電話。「大平さんが亡くなったらしい、調べてくれ」で確認。弔問の為、虎ノ門病院で落ち合う。

彼も当時、糖尿病が悪化。減量の為服用していた利尿剤が効き過ぎてゲッソリしていたので、マスコミの目を惹いたことを覚えている。

病室から出てきた園田。車に乗ると「ナベしゃん、これからどうした方がいいかな」。すかさず「目白へ行きましょう」「そうだワシもそう考えて
いた」。

角栄は先に弔問から戻っていたが、客は園田がその朝は初めてだった。約1時間して出てきた園田。車中「善幸に決まった」と。「それは妥当なところでしょう。大平派の後継者でもあるし」と私。

大平の死で有権者の同情は自民党に集まって総選挙は、大勝。分裂寸前だった自民党を結束させ、抗争なしで鈴木政権は成立したのだった。

<「増税なき財政再建」を公約とし、1981年3月には臨時行政調査会を設置し行政改革を最大の課題とした>。(同)

9月になって厚生大臣齋藤邦吉の不正献金がばれて辞職。その後任に園田が推されたのは、多分に角栄の押しがあったと思われた。

<1981年1月鈴木首相が東南アジア諸国を歴訪、5月には日米首脳会談を開き日米「同盟関係」を明記し、西側陣営の一員としてアメリカの対ソ戦略に協力していく姿勢を明らかにした>。

しかし鈴木首相は首脳会談では、そんなことは話題にならなかったと一旦は否定。共同声明から軍事同盟云々を消そうとした。日米の首脳が会談するという事は要するに日米安保体制を確認し、軍事同盟を再確認する事だという外交上の初歩的知識に首相は欠けていたのだ。

この混乱で鈴木首相は党内で孤立感を深めた。同一派閥であった外相伊東正義が辞任した後を埋めるのに、厚生大臣のピンチヒッターだった園田をまたピンチヒッターにした。

しかし、園田は糖尿病が悪化。外遊しても飛行機から車まで歩けない場面がしばしばとなった。マニラではとうとう日米首脳会談の共同声明なんてどうでもいい軽い問題でしかない、といった趣旨の問題発言をして政権の足を引っ張った。

事後になって鈴木は日米首脳会談について「オレは踊り(外交)の素人なんだから、手ぶり身振りの最後まで教えないと踊れないよ。教えない外務省が悪い」といった。外務省側は「初歩知識をお教えするのは失礼に当るか、と」。

政治における知識や情報の扱い方はビジネスの世界とまるで異なる。ビジネス界は「儲け」で一丸となっているが、政治の世界では役人と政治家の間に抗争が隠されていたり、遠慮がはさまれたりして要は単純ではない。

しかし1982年6月2兆円以上の歳入欠陥が明らかとなって「増税なき財政再建」は破綻し、行政改革も自民党・官僚の抵抗で後退を余儀なくされた。

さらに日米経済摩擦、日韓経済協力、教科書記述に対するアジア各国からの批判といった難問を適切に処理できず、内外ともに手詰まりの状態のなか、1982年10月12日突如退陣を表明した。

鈴木政治は難問を先送りにして解決を図るといった消極的姿勢を特徴としていた。また党幹事長に二階堂進を起用するなど田中角栄の影響力を強く受け「角影内閣」との異名をとった。>
日本大百科全書(小学館) (文中敬称略)

2014年07月29日

◆野鳥捕りで捕まった外相

渡部 亮次郎


九州育ちの人は野鳥を捕まえるのがおしなべて好きなのか、熊本県ながら天草島で生まれ育った故園田直(そのだ すなお)氏は秘書官の私に隠れて東京・多摩地方の山でメジロ捕りの罠を仕掛けて自然保護員に捕まったことがある。

藪の中から引きずり出してみると、これがなんと知らぬ者なき現職の外務大臣閣下。捕まえた方がびっくりしたらしい。ワナは仕掛けていたが幸か不幸か1羽も捕まえていなかったので、何とか放免されたらしい。

というのは、ご本人、存命中は私には絶対語らなかったからである。当日(日曜日)の警護の当った警視庁警護課派遣の警護官2人が、その日のうちにこっそり、教えてくれたのである。

とにかく、野鳥を飼うのが好きで、目黒の借家には常に何かしらの野鳥が縁側の籠に入れられていた。だがその世話は書生任せ。そのくせ日曜日に、秘書官に隠れてメジロ捕りに行くとは。なんとも子供じみて思い出しても噴出しそうになる。

仕掛けやワナをどこでどう細工したのか知らないが、多摩の山中で2人の警護官に警護されて息を潜めていた。そこを自然監視員に補導されてしまった。笑い序に「キミたちは大臣を警護していたはずがメジロに気を抜かれていたのかね」といって笑った。

そういう大臣だったから、とうとうフランスから山にいる亀を持ち帰ったこともあった。当時、OECDの大使をしていた人が有名な亀博士。2人で亀談義に花を咲かせ、遂に1匹を貰ってしまったのである。

後日亀が届けられ、縁側でキャベツを齧っていた。

そんな大臣も糖尿病からくる腎臓の悪化で70歳で死んでしまった。死ぬ直前には網膜症で全盲になっていた。エープリル・フールの翌日「4月2日」が命日である。なおメジロ捕り大臣を警護した警護官の1人は先年、自ら命を絶った。

◆サンドウイッチの日

渡部 亮次郎


過ぎたが、3月13日は(多分日本だけの)「サンドウイッチの日」だそうだ。「366日の話題事典」(加藤迪男編 東京堂出版1999年12月10日再版発行)に出ている。「3」「13」は「サン」が「1」「イッチ」を挟んでいるところから語呂合わせして制定された。

下手な駄洒落にしか聞えないが、70年以上生きてきた私が知らなかったのだから知らない人が大部分では無いか。とはいえ、根っからの田舎ものだから、知らないのは私だけ、ということもありうる。

東京へ出てきたのが昭和29年、まだ18歳だった。食糧難の時代。今のような飽食の時代が来るなんて想像もしていなかった。又、飽食の事態を招くべく働いたという気も無い。賞味期限とやらで、コンビニが大量の食物を捨てる時代は見たくなかった。

そういう貧乏な青春に育ったから、サンドウイッチなるものを初めて口にしたのは多分記者になってからだったろう。記者になったとはいえ、初めは田吾作記者と蔑まれた。農政担当を仙台ではそう呼んだ。コメ担当だったからサンドウイッチは視野に無かった。

待てよ、仙台の次は盛岡(岩手県)の4年。雑穀県だったから、ここでもサンドウイッチなんて物は少なくとも売ってなかった。すると東京へ戻って政治記者になってからだろうか、食べたのは。

それより前、昭和28(1953)年5月に俳優の鶴田浩二が宮川哲夫作詞、吉田正作曲で「街のサンドイッチマン」を歌って発売している。「ロイド眼鏡に燕尾服 泣いたら燕が笑うだろ」。

尤もこの歌は有名だった職業軍人将軍の子息が銀座でサンドイッチマンをしていると言うことから歌になったもので食べるほうではない。この頃もサンドウイッチではなくサンドイッチと言っていた。

前と後ろから挟まれた状態の事を「サンドウイッチ(された)」という事がある。このことから、広告を書いた板に挟まれた格好で街中で宣伝を行う人間広告塔の事をサンドウイッチマンと呼ぶ。英語では「sand.」と略する事はあるが「サンドする」「○○サンド」の意味で「sand」を使う事はないそうだ。

さて起こりのことである。実は巷に流れている説は事実と違っていて、はっきりしたことは定かでないらしい。つまり18世紀イギリスの貴族で海軍大臣などを歴任したサンドウィッチ伯爵、ジョン・モンタギュー (JohnMontagu, 4th Earl of Sandwich)に因む、と教えられた。

彼が無類のホイスト(トランプ遊びの一種)好きで、食事にかける時間を惜しむ程だった。そこで、ゲームの合間に片手で食事が取れるよう、パンに具を挟んだものを用意させていた事から、いつしかこれがサンドイッチと呼ばれるようになった、というものだった。

ところがこれは彼を「貴族のくせに、庶民の食べ物で済ませるだらしない人物だと印象付ける為に彼のライバルが流したデマ」であると言う説があるそうで、結局いずれにしても、はっきりしたことは定かでない、ということになる。

また彼をサンドイッチの発明者とする話もよく聞かされたが、パンに具を挟むという料理自体は古代ローマのオッフラ、インドのナンとして、古くからあったのだそうだ。人を田吾作といいながら嘘を教えた先輩。

「サンド(砂、sand)とウィッチ(魔女、witch)」以外、どんなものでもパンにはさんで食べられるということから、サンドイッチと名づけられたとする説もあるが、ウィッチのつづりが異なるため俗説の域を出ない。なお、伯爵の領地サンドウィッチ村の名前は、古い英語で「砂の地」を示す言葉に由来するそうだ。

食べる時にフォークや箸などの食器を必要としないので、日本でもすぐ普及した。ピクニックなどの際の食事としても重宝がられた。同様の理由で、列車で旅行する際の車内食や、航空機などの機内食に用いられる事も多い。駅売り(駅弁)のサンドイッチとしては、大船軒が明治32年(1899年)に行ったのが日本では最初である。

日本では、おにぎりと共にコンビニエンスストアにおける定番商品であり、いまや各店とも様々な種類のサンドウイッチを用意している。アメリカ合衆国ではデリカテッセンの主力商品であり、サンドウイッチのおいしさが店の繁盛に大きく影響するといわれている。

日本では食パンに具を挟んだものを指す事が多いが、それ以外の形式のものもサンドウイッチと呼ばれる。例えば、フランス料理における前菜として、食パンベースのカナッペがあるが、これもサンドウイッチの一種と言える。また、ハンバーガーや、イタリア料理のパニーノもサンドウイッチの一種である。

耳をつけたまま、またフランスパン、ベーグル、ロールパン等を使う物もある。パンはそのまま、あるいはトーストにして、普通はバターやマーガリンを塗ってから具を挟む。これにはパンが具材の水分を吸うのを防ぐ目的もある。風味を付ける為、からしやマスタードを塗る事も多い。

食パンの場合は薄切り(1斤を8枚乃至10枚切りにしたもの)が一般的である。具を挟んだ後、布巾をかけて軽く上から重し(本など)を置き、パンと具材の密着度を高めると、食べる際にバラバラにならなくてよい。

具を挟まずに乗せただけの物は、オープン・サンドウイッチ(オープンサンド)と呼ばれる。ライ麦パンの上に多彩な具材を乗せたデンマーク料理・スモーブローは特に有名。

また、サンドウイッチを専用器具に挟んで両面を焼いたものはホットサンド、細切りした耳なしの食パンに薄切りにした具を乗せ、端から円筒状に巻いたものはロール・サンドイッチと呼ばれる。 細長いパンを切って具材を挟んだものを潜水艦に見立ててサブマリン・サンドウイッチ(サブ)という。

バリエーションとして、パンに具材を挟んだものに溶き卵を絡めて油で揚げたモンテクリストサンドイッチなどもある。


2014年07月28日

◆そうめん(素麺)知らず 田舎者

渡部 亮次郎


そうめんを知らずに育った。秋田の田圃ばかりのところで生まれ育ったのと、幼少期、大東亜戦争による物資不 足で、見たこともなかった。

大東亜戦争を始めるとき、日本政府は閣議でそう呼ぶことを決定したほどこだわった。だが敗戦後、占領軍=アメリカの命令で太平洋戦争と呼ぶようになり、以後、日教組の意図もあって大東亜戦争とは呼れなくなっているが、日本政府としてはアジア各国を欧米各国の植民地から解放するという意図を持った戦争と位置付けていた。

昭和29(1954)年春、大学入学のため上京するが、その際、とりあえず1年分のコメを携帯する許可を町役場から父が貰ってきたが、立ち寄った親戚の強欲婆にすべてを取られた。事後、この一家とは断絶したままである。

このとき、蕎麦屋なるものを知った。品書きに「もり かけ 20円」と一番安かったから、その通り注文したら、店員に笑われた。のちに文藝春秋の創史者菊池寛も四国から上京した際、同じ体験をしたと知って安堵した。

世界大百科事典によると、そうめん(素麺)とはめん類の一種。古くは索乏(さくめん)といい,音便で〈さうめん(そうめん)〉。蕎麦屋では夏になると品書きに載った。

むせ返るように暑い東京では、欠かせない食べ物であるように感じた。クーラーなど、まだ、何処にもなかった昭和20時代。

小麦粉を食塩水で練って太めのひも状に切り、その表面にまんべんなく綿実油を塗って細く長くのばし翌朝まで熟成させる。これを2本の棒を用いて絹糸のように細くのばし,天日乾燥したのち切断する。

丸2日の工程を要するもので,極細の手延べそうめんの場合、1kgの粉が2km以上の長さになる。良質の小麦を産し、気象条件が戸外乾燥に適する地方では、農家の冬季の副業として生産されてきた。

1645年(正保2)刊の《毛吹草》には、山城の〈大徳寺蒸素鋒〉、大和の〈三輪素鋒〉をはじめ、伊勢,武蔵の久我(こが)、越前丸岡、能登和嶋(わじま)、備前岡山,長門長府、伊予松山など諸国の名物そうめんがあげられている。

いまは宮城県白石(しろいし)のうーめん、富山県砺波(となみ)の大門(おおかど)そうめん、三重県四日市の三重の糸、兵庫県竜野の揖保(いぼ)乃糸、奈良県桜井の三輪そうめん、徳島県の半田そうめん、香川県小豆島の島の光、愛媛県松山の五色(ごしき)そうめん、および長崎県西有家(にしありえ)の須川そうめんなどが有名で、昔ながらの手延べそうめんが珍
重される。

寒中に製造されたのを倉庫にねかせ、梅雨どきの〈やく〉を過ぎてから出荷される。色つやがよく弾力性のあるものが良品である。たっぷりの熱湯でゆで、さし水は1回だけ。冷水にさらし、冷めてからもみ洗いしてざるに上げ、つけ汁で食べる。これが冷やしそうめん(冷やそうめん)で、流しそうめんと呼ぶのは、誇状の装置を設けてこれを流し、それをすくい上げて食べさせるものをいう。

薬味には、おろしショウガ、刻みネギのほか、青ジソ、ミョウガ、練ガラシなどが用いられる。ほかに淡口(うすくち)しょうゆ仕立ての汁で煮込む煮乏(にゆうめん)があり、また大皿にタイを薄味に煮たのとそうめんを盛り合わせた鯛乏(たいめん)は瀬戸内地方では祝儀に欠かせぬ料理である。   

この通り、秋田には今では全国的に有名な饂飩「稲庭うどん」があるが、そうめんの有名品はない。人は驚くが、ほんとに、そうめん知らずで育ったのだ。だからシーズンと言われてもそうめんを食べたいとは思わない。

稲庭うどんも大人になってから、東京で知ったもので、子供の頃には全く知らなかった。恥ずかしい話だが、パンも高校の売店で初めて対面した。戦争を体験するとはこんなことなのだ。


2014年07月27日

◆鰻は夏ではなく冬が美味なのだ

渡部 亮次郎


土用の丑の日や夏バテ予防に食べられるが実際はウナギの旬は冬で、秋から春に比べても夏のものは味が落ちる。「夏バテ防止の為に土用の丑の日に鰻を食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した広告コピーが基との説がある。

しかし夏バテを防ぐためにウナギを食べる習慣は、日本では大変古く、万葉集にまでその痕跡をさかのぼる。すると源内が言い出すまで、夏バテ云々は廃れていたのかもしれない。

うなぎは高タンパクで消化もよく、日本料理の食材としても重要で、鰻屋と呼ばれるウナギ料理の専門店も多い。

皮に生息地の水の臭いやエサの臭いが残っているため、天然、養殖を問わずきれいな水に1日〜2日いれて、臭みを抜いたものを料理する(泥抜き・臭み抜きと呼ばれる)。

1970年代、大阪勤務の頃は昼飯時、上ニ(上本町2丁目)にあった小さなうなぎ屋に入り、割いて焼く筋を見ながら堪能した。東京のように蒸さないので脂が多く、美味しかった。

近畿地方ではウナギのことを「マムシ」と呼ぶが、これはヘビのマムシとは関係なく、鰻飯(まんめし)が『まむし』と訛り、それが材料のウナギに転用されたものである。

他に、関西での調理法(正確には浜松以西)の特色である、蒸さずに蒲焼にして、飯の上に乗せた上に更に飯を乗せて蒸らす「飯蒸し」(ままむし)から来たという説、飯の上にウナギやたれをまぶすものとして「まぶし」が転じたとの説もある。

また、ウナギという名前については鵜飼の時に、鵜が飲み込むのに難儀することから鵜難儀(ウナギ)となったという江戸の小噺がある。

徳川家康の時代に江戸を開発した際、干拓によって多くの泥炭湿地が出来、そこに鰻が住み着くようになったため鰻は労働者の食べ物となったが、当時は蒲焼の文字通り、蒲の穂のようにぶつ切りにした鰻を串に刺して焼いただけ、という食べ方で、雑魚扱いだった。

鰻が現在のような形で一般に食べられるようになったのは江戸後期からで、特に蒲焼は江戸発祥の料理であることから、江戸の代表的食物とされる。

蕎麦ほど徹底した美学はないものの、「鰻屋でせかすのは野暮」(注文があってから一つひとつ裂いて焼くために時間がかかる)、「蒲焼が出てくるまでは新香で酒を飲む」(白焼きなどを取って間をつなぐのは邪道。したがって鰻屋は新香に気をつかうものとされた)など、江戸っ子にとっては一家言ある食べものである。

うなぎは日本全国に分布するが、日本以外にも朝鮮半島からベトナムまで東アジアに広く分布する。成魚が生息するのは川の中流から下流、河口、湖などだが、内湾にも生息している。

濡れていれば切り立った絶壁でも体をくねらせて這い登るため、「うなぎのぼり」という比喩の語源となっている。

細長い体を隠すことができる砂の中や岩の割れ目などを好み、日中はそこに潜んでじっとしている。夜行性で、夜になると餌を求めて活発に動き出し、甲殻類や水生昆虫、カエル、小魚などいろいろな小動物を捕食する。

従来ウナギの産卵場所はフィリピン海溝付近の海域とされたが、外洋域の深海ということもあり長年にわたる謎であった。

火野葦平の小説に産卵場所を求めて主人公と恋人が南海に泳いで行く作品があった。昭和20年代に、確か毎日新聞に連載された。その当時は産卵場所は分からなかった。

しかし2006年2月、東京大学海洋研究所の塚本勝巳教授が、ニホンウナギの産卵場所がグアム島沖のスルガ海山付近であることをほぼ突き止めた。

冬に産卵するという従来の説も誤りで、現在は6〜7月の新月の日に一斉に産卵するという説が有力である。

うなぎの人工孵化は1973年に北海道大学において初めて成功し、2003年には三重県の水産総合研究センター養殖研究所が完全養殖に世界で初めて成功したと発表した。

しかし人工孵化と孵化直後養殖技術はいまだ莫大な費用がかかり成功率も低いため研究中で、養殖種苗となるシラスウナギを海岸で捕獲し、成魚になるまで養殖する方法しか商業的には実現していない。

自然界における個体数の減少、稚魚の減少にも直接つながっており、養殖産業自身も打撃を受けつつある。

2007年EUがヨーロッパウナギの絶滅が危惧(きぐ)されシラスウナギの輸出規制する方針を発表しワシントン条約締約国会議でEU案が可決、規制が確定した。

これにより中国経由の輸出規制が始まる。また、台湾も日本への過大な輸出に対して現地の養殖業者などが輸出規制を要望している。

日本側も国産シラスウナギで成り立っている業者と輸入物に頼る業者の対立があり一致した意見表明ができない状況になっている。その為、全般的にうなぎ価格の高騰は避けられないとされる。

2007年6月29日、アメリカのFDAは中国産のうなぎ、えび、なまずの1/4に発ガン物質が検出されたとして輸入方法を変更した。今までは検査なく輸入可能であったが、第三者機関の証明書の添付を義務付けた。

中国政府は自国の検査証明書で通関可能とするよう交渉中である。検出された物質のうちニトロフランとマラカイトグリーンは動物実験で発ガン性が確認され、中国でも魚介類への使用が禁止されている物質であった。

マラカイトグリーンは以前に中国産のうなぎから日本でも検出されたことがある。うなぎの日本国内消費量10万トンのうち6万トンは中国産であり、これをきっかけに日本国内でのうなぎの売れ行きは激減した。 出典:「ウィキペディア」

2014年07月24日

◆「核」が日中開戦を抑止する(57)

平井 修一


古森義久氏の論考「中国の首脳陣が憂慮する6つの難題 米国防省が中国の弱みを指摘」6/11が興味深かった。以下引用。

            ・・・

中国の最高指導者たちは自国の軍事力の拡大に懸命のようだが、その一方、国威の発揚にとって陰りや障害となり得る要因にも深刻な懸念を向けている。

それらの気がかりとなる要因とは何なのか。米国の国防総省が6月5日にリポートを発表し、興味深い指摘を行っている。その内容を紹介しよう。

米国防総省が発表した「中国の軍事力と安全保障の展開に関する報告、2014年版」。現在は好ましく見える安全保障環境も、いくつかの要因によって自国(中国)の戦略的な発展が阻害される恐れがあることを懸念している、というのだ。

同報告が挙げるそれらの要因とは以下の6点である。

【経済成長の鈍化】

第1に投資と輸出への過度の依存状態から抜け出せないことが挙げられる。第2には世界の貿易パターンの変化、第3に国内資源の制約、第4に賃金の値上がりと労働力不足、第5にはエネルギーなど海外の資源が入手しづらくなることなどである。

【ナショナリズムの危険性】

中国共産党や人民解放軍の指導層は、共産党の統治の正当性を支え、国内の党への批判を抑えるために、ナショナリズムを一貫して利用してきた。諸外国との対話を拒むうえでも、ナショナリズムをその理由にして、利用してきた。

ところがナショナリズムは首脳陣にとって両刃の剣となりうる。対外戦略上、柔軟な政策を取りたくても、国内のナショナリズムの高まりで、逆にその制約を受けてしまう危険があるのだ。

【東シナ海、南シナ海をめぐる緊張】

東シナ海をめぐる日本との緊張関係、シナ海をめぐる複数の東南アジア国家との緊張関係は、中国の周辺の地域や海域での安定を崩すことになる。中国と対立する各国は、米国のアジアでの軍事プレゼンスの増大を求める。

さらには、それら各国が独自に軍事力を強める可能性や、米国との軍事協力を強める可能性もある。こうした可能性が現実になれば、いずれも中国に対抗する軍事能力の増強につながり、中国の軍事力を相対的に弱めることとなる。(以上)

             ・・・

この他に【蔓延する汚職】【環境問題への対応】【高齢化と少子化】があり、汚職は支那の伝統だし、汚染は今や修復不能レベルだ。利益第一の企業も地方政府も除染に金を出さない。リターンがないから投資しないのだ。少子高齢化は日本も解決策を模索しているがとても難しい。

小生思うに、さらには「治安悪化」もあり、つまりは諸問題を先送りにしてきたから、チリも積もれば山となる、小さな問題は今や巨大な山となり、これがいくつもあるから二進も三進もいかない八方塞がりになってしまったということだ。

国民の不満は、毎年少しずつであれ暮らし向きがよくなっているのなら抑えられるが、

経済の減速→不満の高まり→反日強化→ナショナリズム高揚→軍事力強化→世界からの中共叩き→言論・自由の撲殺→テロ・暴動の頻発→治安費用の急増→環境対策資金不足→不動産バブル崩壊寸前→経済の減速、

という“負のスパイラル”にはまって、中共は身動きできなくなってきた。

習近平は一点突破を狙って汚職腐敗追放に驀進したが、今や軍閥ならぬ利権集団がぶつかり合う権力闘争になってしまった。泥沼というか蟻地獄というか、もはや沈没、自滅するしかない。国民の気概があるのならガラガラポンで新しい国が(多分複数)できるが、IMFやシンガポールなどの華僑の指導力と資金力を仰ぐしかないのではないか。

【新華社ワシントン5月17日】訪米中の中国人民解放軍の房峰輝総参謀長は15日、ワシントンの国防総省でデンプシー統合参謀本部議長と会談した後の共同記者会見で、

「中国の管轄海域での掘削探査は完全に正当な行為で、この作業は必ず完成させる。外部からのいかなる妨害、破壊も恐れない」

と強調した。ご意見無用、俺のやることに口出すな、手出ししたらぶっ放すぞ、と脅したわけだ。

中共は脱法ドラッグで迷走し、どこに衝突するか分からないキ○ガイだ。尖閣に突っ込んでくるかもしれない。日本、ベトナム、フィリピンなどは抑止力、反撃力、集団安保強化で備えなくてはならない。まったく「やっかいな隣人」だ。皆で捕捉し殲滅するしかない。

中共党員8000万人をどう処分するか。1割の800万人は確信犯で、これは人民が処理するだろう。惨殺が大好きな民族性だから嬉々としてやるだろう。残りは去勢し奴隷にして工事現場などで使うといいかもしれない。嫌なら脱党しろ。

なお、習近平が潜り込んだ文革直後の清華大学は、教授がほとんど追放されていたためだろう、レベルが中学校並だったという話がある。習のオツムが単細胞、勧善懲悪的な中坊レベルなのはそのためか。

毛沢東以来、歴代国家主席はワルながらもインテリだったが(江沢民の実父は日本寄りの高級官僚、これではまずいので素性を隠すために養子縁組、彼も大学では日本語専攻!→トラウマになって極端な反日へ)、習は中坊の肉体派。長靴とスコップが似合うから工事現場で使うといいかもしれない。飯場の飯炊き女は朴クネ。さぞ相性がいいだろう。(2014/7/24)
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2014年07月22日

◆ヴィオロンのため息

渡部 亮次郎


2007年5月25日の東京湾岸は一日中雨でも日課とされている散歩を近くの公園で、午前と午後の2回こなした。流石にほかに人はいない。上下を防水着で包み、午後はMDでクラシック音楽を聴きながら黙々と歩いた。

これは7年前のこと、流石に80近くなったいまは雨の日は室内で壇踏身で済ませている。

散歩はいつでも音楽を聴きながらだ。時たま落語を聞くこともある。文楽、志ん朝、枝雀。でも落語の筋は覚えてしまうから、つまらなくなる。そこへゆくとクラシック音楽はとても暗記できないからちょうどいい。

以前はピアノ協奏曲ばかりだったが、雨の中では案外ヴァイオリン協奏曲が合う。この日はスロヴァキア交響楽団で西崎たか子が弾いたチャイコフスキーのOp.35とメンデルスゾーンのOp.64を聞き比べて満足だった。日本の演奏家も世界レベルに到達したのだ。

そういえばヴァイオリン(英語)のことをフランス語ではヴィオロンと言ったっけ。大学時代は英語よりフランス語が得意。NHKの入社試験もフランス語で合格した。今はすっかり忘れた。

「秋の日の ヴィオロンのため息の 身にしみて ひたぶるにうら悲しかねの音にむねふたぎ いろかえて涙ぐむ すぎし日の思い出やげにわれは うらぶれて ここかしこさだめなく とびちらう落葉かな」ポール ヴェルレーヌ 上田 敏 訳 「海潮音」より

ヴァイオリンの音はため息よりも嘆きに聞こえるがなぁ、と思いながら一体、ヴァイオリンってなんだろうと改めて思った。能力もないし意欲もないからヴァイオリンを弾く事は生涯ありえないだろうが、一応、調べてみた。

ヴァイオリンが世に登場してきたのは16世紀初頭と考えられている。現存する最古の楽器は16世紀後半のものだが、それ以前にも北イタリアをはじめヨーロッパ各地の絵画や文献でヴァイオリンが描写されている。

最初期の製作者としてはアンドレア・アマティ、ガスパロ・ディ・ベルトロッティ(ガスパロ・ダ・サロとも)、ガスパール・ティーフェンブルッカーが有名である。当時は舞踏の伴奏など、世俗音楽用の楽器として考えられていた。

17〜18世紀にはニコロ・アマティ、ヤコプ・シュタイナー、アントニオ・ストラディヴァリ、グァルネリ一族など著名な製作者が続出した。特に卓越していたのがストラディヴァリで、ヴァイオリンの形態は彼の研究よってほぼ完成に至る。

前身であるヴィオール族とはいくつかの相違点が挙げられるが、力学的に改良が施されて音量・音の張りに大きく向上が見られた。

音楽文化の中心が宮廷サロンから劇場・ホールに移るにつれ、弦楽器においてこれまでになく大きな響きを持つヴァイオリンはクラシック音楽を形作る中心となっていく。

ヴァイオリンの出現当初はリュートやヴィオールに比べて華美な音質が敬遠され、芸術音楽にはあまり使用されなかった。一方で舞踏の伴奏など庶民には早くから親しまれていた。

しかし製作技術の発達や音楽の嗜好の変化によって次第に合奏に用いられるようになる。管弦楽でヴァイオリンを用いた最初の例として、マレンツィオのシンフォニア(1589)やモンテヴェルディのオペラ「オルフェオ」(1607)が挙げられる。

17世紀には教会ソナタや室内ソナタの演奏に使われた。ソナタはマリーニやヴィターリ等の手によって発展し、コレッリのソナタ集(1700、「ラ・フォリア」もその一部)で集大成に至る。

また少し遅れて協奏曲の発展も見られるようになった。コレッリ等によって優れた合奏協奏曲が生み出されていたが、トレッリの合奏協奏曲集(1709)で独奏協奏曲の方向性が示され、ヴィヴァルディによる「調和の霊感」(1712)等の作品群で一形式を作り上げた。

ヴィヴァルディの手法はJ.S.バッハ、ヘンデル、テレマン等にも影響を与えた。一方で協奏曲が持つ演奏家兼作曲家による名人芸の追求としての性格はロカテッリ、タルティーニ、プニャーニ等によって受け継がれ、技巧色を強めていった。

またルクレールはこれらの流れとフランス宮廷音楽を 融合させ、フランス音楽の基礎を築いた。

18世紀後半にはマンハイム楽派が多くの合奏曲を生み出す中でヴァイオリンを中心としたオーケストラ作りを行った。その後ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト等のウィーン古典派によって、室内楽・管弦楽におけるヴァイオリンの位置は決定的なものとなった。

またトルテによる弓の改良は、より多彩な表現を可能にし、ヴィオッティとその弟子クロイツェル、バイヨ、ロードによって近代奏法が確立されていった。

19世紀になると名人芸的技巧がヴァイオリン曲の中心的要素とされ、高度な演奏技術を見せつける曲が多く出た。その極限がパガニーニである。一方でイタリアではオペラの流行とともにヴァイオリンの人気は少しずつ衰えていった。

19世紀中頃からはヴァイオリン音楽において、演奏家と作曲家の分離の傾向が強く見られるようになった。当時の名演奏家に曲が捧げられたり、あるいは協力して作曲することが多く、例えばメンデルスゾーンはダーフィト、ブラームスはヨアヒムといった演奏家の助言を得て協奏曲を作っている。

またチャイコフスキーやドヴォルザーク、グリーグ等によって民族的要素と技巧的要素の結合が図られ、シベリウス、ハチャトゥリアン、カバレフスキー等に引き継がれている。

日本には16世紀中頃にはすでにヴィオラ・ダ・ブラッチョが伝わっていたようである。当時ポルトガル修道士がミサでの演奏用として日本の子供に教えたことが、フロイスの「日本史」に書かれている。

しかし日本人が本格的にヴァイオリンを扱うのは明治以降だ。1880年音楽取調掛の教師として来日したアメリカ人ルーサー・ホワイティング・メーソンが手ほどきをしたのが始めである。

ドイツ系を主とした外国人教師によって奏者が養成され、ヴァイオリンは少しずつ広まっていった。また大正時代にはジンバリスト、ハイフェッツ、クライスラー、プルメスター、エルマンといった名演奏家が続々来日し、大きな影響を与えている。

戦後になると各種の教則本が普及し、幼児教育も盛んになって、技術水準が飛躍的に上がっていった。現在では世界で活躍する日本人奏者も多数いる一方、アマチュアとしての愛好家もピアノに次いで幅広く存在する。

ヴァイオリンの板など各部品はニカワで接着される。蒸気を当てることで分解できるため、木製品でありながら分解修理や部品交換が可能である。この分解修理の可能な点が、300年以上の時を経ても演奏可能な状態を保つ事が出来る所以である。出典:「ウィキペディア」

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