2011年02月23日

◆国民に嫌われた「政局」

渡部 亮次郎


先輩記者だった元共同通信社常務理事の古澤襄さんによれば、<今年になってブログ読者の傾向が明らかに変化している。”脱小沢”だの”小沢切り”はもちろん菅だの仙谷だのという政局ものには読者が見向きもしなくなっている。

年がら年中、民主党政権のだらしなさを見聞きして、読者は政治の現状に飽き飽きしているのが明らかだ>という。

それはそうだろう。空き菅と言われる位、菅首相はご都合主義しかできないから、国民の要求に反応しない。反応する能力が無いのだ。

彼が歩んできた市民運動とは自働的なものではない。政府など相手の出方に応じて戦術をくむのだから「戦略」は初めからない。演説に「野次」を飛ばし続けるのは得意だが、さてご自分でやって見せて、と言われたら、手持ちは何もないわけだ。

政治記者の最大のスクープは「年号」だといわれている。次が衆議院解散の日取り、組閣のスクープなどが続く。「人事」だ。それに比べると「政策」のスクープは地味になる。

「菅総理、今日、総辞職」なら大スクープだが、彼の性格や育ちを考えると、権力には1日でも1時間でも縋っていたいタイプ。電撃的な総辞職などあり得ない。ヤケクソ解散ならあり得る。

同僚政治記者だった山堂氏は、政局の混迷は小選挙区制と政治資金の支給が最大の原因と指摘するが、これはすべて小沢氏の誘導に夜から、政局混迷の責任は小沢氏にあるといえるかもしれない。

小沢氏が自民党を飛び出した時、私は既に記者を辞めていたから、その後の動きは直接には知らない。だから、書くもので、政治物はそれなりの専門家の筆に任せている。

だが経験から判断すれば、菅首相は政治の経験が極めて薄く、周辺に友人が少ないまま、権力にはしがみつこうとする性格。したがって対策を打ち出せないまま恋々とするはず。国民からの支持率は限りなくゼロに近付いていくだろう。2011・2・22

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◆<卓見等目次>
・中国、中東激動の波及を警戒:宮崎正弘
・菅さんは解散を打つかもしれない 小沢氏:古澤 襄
・国民に嫌われた「政局」:渡部亮次郎
・「小沢処分」めぐり緊迫化する永田町:花岡信昭
・ついに還暦、されど還暦:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2011年02月22日

◆墓を残さぬ理由

渡部 亮次郎

(再掲)中国の経済発展を導いた「改革・開放の総設計士」トウ小平(しょうへい)氏が92歳で死去したのは1997年2月19日。告別式は行わず、遺体は解剖後火葬され、胡錦濤(こきんとう)政治局常務委員(現国家主席)が3月2日、遺灰を空中から東シナ海に投じた。

その11年前の1976年1月に総理(当時)の周恩来が死んだ時も、遺言により火葬され、遺灰は空から撒かれた。したがって2人とも墓は無い。毛沢東のようにはされたくないと思ったに違いない。

毛の権威を必要とした妻・江青ら後継グループの決定で、毛の遺体は天安門広場の記念堂に安置、参観者に公開されている。が、トウ氏もまた、静かに眠り続けることは難しかった。周恩来の死は毛より先だから、予ねて考えて居たことを実行したまで。

日本と違って中国は「死者にムチ打ち、墓を暴く」文化を持っている。

異民族の金に屈して和平を結び、英雄岳飛を獄死させて姦阻の烙印を押された南宋の秦檜(しんかい)を今なお許さず、その像に対してツバを吐き続ける中国人。

「過去を水に流す」淡白な日本人からは理解できない。それよりも周恩来も!)(トウ)小平も将来、中国が変化すれば自分たちも墓を暴いて糾弾されることを感知していたのではないか。

産経新聞北京総局長の伊藤正氏によればトウ氏死去の4日前、卓琳(たくりん)夫人と5人の子供が党中央に書信で伝えたトウ氏の「遺志」の書信は「小平同志は徹底的な唯物主義者であり」「一生を余すところなく祖国と人民にささげてきた」とし、最も質素かつ厳粛な方式で哀悼の意を表すよう要望していた。

毛沢東の権威を必要とした後継グループ(4人組ら)の決定で、毛の遺体は天安門広場の記念堂に安置、参観者に公開されている。私も見てきた。彼の権威を必要としていた4人組が歴史から退場した今、死体をさらされている毛は孤独で哀れである。

なぜなら、現在の改革開放路線こそは毛が生命を賭して封じ込めにかかった路線。文化大革命の主張の大部分だった。したがって人民の大部分は毛を尊敬していない。遺体は「公開」ではなく「曝し」に遭っているようなものだから。

毛に従いながら実務家として生涯を貫き、あの文化大革命にも失脚しなかった周恩来。不倒翁と称された。ところが2007年3月に日本語版が刊行された『周恩来秘録』によると、周恩来こそは終生、毛沢東に能力を嫉妬され続けた生涯だったと言う。

だからせめて死後は毛と一緒にされたくないとして忽然と空気になったのである。3度も失脚させられたトウも同様だったのだ。そうだとすれば天安門広場の記念堂に遺体を薬品漬けで安置、参観者に公開されている毛こそさらに哀れである。

私が日中平和友好条約の締結交渉で秘書官として園田直外相(故人)に随行した時、時折、北京市内で一般市民と接触する機会があったが、其処からは明らかに毛は好きではないが周は大好きと言う吐露が得られた。こんなこと言って大丈夫?とこっちが心配するぐらいだった。

先の伊藤氏によれば、家族や関係者の証言からトウは、家族を大事にし部下や仲間の面倒見のいい人柄が浮かび上がる。それは孤高の革命家、毛沢東とは対照的な常識人の姿だった。

トウ氏の主導で78年に始まった改革・開放は、毛沢東革命になぞらえ、「第2の革命」と呼ばれる。両者は富強の国家を建設、国民を豊かにする理想では一致していたが、毛沢東が、社会矛盾の解決を階級闘争に求めたのに対し、トウ氏は経済建設こそ先決と考えた。

共産主義化をあせり毛沢東が発動した大躍進政策が失敗、数千万の餓死者が出た60年代初め、トウ氏は食糧増産のため、部分的な個人生産を農民に認めた。「白猫でも黒猫でもネズミを捕る猫はいい猫だ」との有名な言葉はその時のものだ。

改革・開放は「猫論」の復活だった。計画経済と公有制を柱にした社会主義の原則は次々に破られ、資本主義の原理や手法が導入された。毛沢東晩年の物質的貧困と精神的抑圧から人々は解き放たれ、中国はみるみる活気を回復した。

豊かさと自由−だれもが求める常識人の感覚こそが第2の革命の神髄だった。豊かさはともかく自由は全く無い。それでも人民は貧乏でなければ良しと考えているのだろうか。共産党はアラブの自由化を人民に隠しているが。

「富をどう分配するかは大問題だ」「この問題の解決は発展を図るより困難だ」「一部の人が富を得て、大多数が持たない状況が進めば、いずれ問題が起こるだろう」。

トウ氏の持論は、「共同富裕」へのステップとして一部の人が先に豊かになる「先富論」で、南巡講話でも力説していた。それは急成長をもたらした半面、格差の拡大と腐敗の蔓延(まんえん)も招いた。今日、先富論の生んだ矛盾ははるかに深刻になった。

墓を残さなかった周恩来とトウ小平。中でもトウ小平は経済の改革開放をやれば富は豊かになるが、政治面で共産主義体制を維持する事は決定的な矛盾であり、その矛盾がやがて中華人民共和国そのものを転覆させるかもしれない、その時に墓があれば、オレは暴かれると読む。

革命児は墓を残すべきでない。トウ小平、周恩来の方が普通人だったようだ。


2011年02月19日

◆造反16人に展望なし

渡部 亮次郎

菅首相に退陣を迫って突如、会派離脱の「脅し」をかけた造反16人。顔ぶれを見ると、嘗て自民党所属の県会議員にして、酒を呑みながら懇談した人物もいる。

暫く沙汰無しを続けているうちに、東京恋しさが募り、節を枉げて民主党比例区に逃げ込んだのである。だが、小沢派に捕らえられ、比例区の悲しさ、70を目前にしながら、何の役職にも就いていない。ほぼ「ヤケクソ」の造反加担である。

とは言いながら、会派離脱は党の承認が無ければ実現できない。岡田幹事長に突きつけた刃は同時に自らに突きつけた決断でもあったのである。菅には居座られたまま、おそらく「離党」に追い込まれるであろう。

そこで「親分」に頼るしかない。親分が模索しているらしい、大阪や名古屋の「地方勢力」との連携を捉えるなどして新党結成に向かうか。当分は「言ってみれば政治難民だ」(菅側近)と揶揄されるのは避けられない。

<新党結成への覚悟か、単なるパフォーマンスか−。民主党若手衆院議員16人による「会派離脱劇」は17日、突如表面化した。

執行部は離脱を認めていないが、離脱表明組は離党も辞さない構えだ。16人は小沢一郎元代表を一貫して支持してきたいわゆる「小沢チルドレン」。「小沢新党」結成に向けた序章との見方も浮上し、同調者が増える可能性も指摘される。

ただ、強制起訴された小沢氏に対する世論は厳しく、展望なき造反劇といえる。(18日 産経新聞 坂井広志)

「執行部が『離党せよ』と決めたらもちろん潔く出ていく。怖いものはない」

「離党勧告でも何でもしてくれ。やれるならやってみろ」

離脱表明の記者会見を終えた議員は口々に離党への覚悟を語った。16人には共通点がある。一昨年の衆院選では比例代表単独での立候補。しかも名簿順位は下位で党大勝利の恩恵を受けた。選挙を仕切ったのは党代表代行だった小沢氏だ。

次期衆院選で再び比例候補として立候補しても、支持率低迷の民主党の看板で当選するのは極めて難しい。選挙区で公認される可能性も低い。「言ってみれば政治難民だ」。菅直人首相を支持する若手議員はこう揶揄(やゆ)する。

離脱表明組は平成23年度予算関連法案への“造反”もにおわす。グループ会長の渡辺浩一郎氏は会見で「党の決定とは別になることもあり得る」と述べた。明確な倒閣宣言だ。

岡田克也幹事長は「離脱届は有効ではない。意味のないパフォーマンスといわれても仕方がない」と批判しつつも「あまり目くじら立てなくていい」と沈静化を図るが、渡辺氏らはもはや、民主党にとどまる選択肢を捨てている。残るのは新党結成以外ない。

「親方は『よくやった』と思ってくれると思う」

離脱表明組の一人は興奮気味にこう語る。彼らの脳裏にあるのは「親方」つまり小沢氏を中心とした新党の姿だ。その小沢氏は、党執行部から突きつけられた「党員資格停止」の処分が22日にも正式に決まる。

処分期間は「判決確定まで」。かなりの長期間、民主党員としての活動が制限されることは必至で、小沢氏自身が離党に踏み切る可能性は捨てきれない。

実際、最近の小沢氏は変則的な動きを見せている。8日には名古屋市長選で再選を決めたばかりの河村たかし市長と会談。17日には大阪府の橋下徹知事との会談も検討した。

離脱表明組の一人が「名古屋と小沢氏の連携もある」と明言するように、小沢氏が「地方勢力」との連携を視野に入れていることは間違いない。

「私も今回のことは知らなかった。自分のところから、こういう動きが出ていることを、あなたには伝えておこうと思って…」

小沢氏は17日朝、鳩山由紀夫前首相に自ら電話し、こう“釈明”した。ただ、その言葉を額面通りに受け取る議員はいない。

民主党ベテラン議員は、「小沢氏は選挙巧者だ。(離脱表明した)比例代表の新人たちを河村市長や橋下知事の『地域政党』と連携した動きにしたいのだろう」と解説する。

小沢氏側近は「これは第1弾だ。この動きは広がる」と自信をのぞかせる。

もっとも橋下氏は17日、小沢氏との連携の可能性について「今の段階で(連携を)考えること自体、まだ早い。そういうことに思いをめぐらせた時点で有権者はひく」と慎重な姿勢を見せた。野党各党も「政治とカネ」の問題を抱える小沢氏との連携には消極的だ。

小沢氏に批判的な民主党中堅議員からはこんな声まで飛び出した。

「小沢氏や鳩山氏抜きで選挙だ。そのほうがすっきりする」>
                          2011・2・18


民主、会派離脱願提出者を個別に説得へ(読売)

民主党は18日午前の国会対策委員会役員会で、衆院の同党会派からの離脱願を提出した渡辺浩一郎衆院議員ら16人の比例代表選出議員に対し、2011年度予算案や関連法案に反対しないよう、国対幹部が個別に説得する方針を確認した。

役員会後、斎藤勁国対委員長代理は、岡田幹事長が16人の行動を「パフォーマンス」と批判したことについて、「パフォーマンスというのは一方的な見方ではないか。執行部側に(党内の不満を)受け止める場がなかった」と記者団に述べ、岡田氏らの対応にも問題があったとの認識を示した。 (読売新聞 2月18日(金)11時55分配信)

「これで16人は増長する。下手だ」(渡部)

<今回の動きは、党執行部が進める小沢元党代表の処分手続きをけん制する狙いなどがあるとみられる。ただ、小沢グループの国会議員の多くは若手で、選挙基盤が盤石とは言い難い。

追い込まれた菅首相が解散総選挙に打って出る可能性も捨てきれず、この動きがどこまで広がるかは不透明な状況だ。小沢グループの若手衆院議員の1人は「衆院解散が決まるまでは身動きが取れない」と苦しい胸の内を明かした。>(2011年2月18日10時53分 読売新聞)


2011年02月18日

◆瀬島さんの津軽海峡冬景色

渡部 亮次郎

「週刊新潮」は2月17日発売の「創刊55周年記念特大号」の中(P46)で、瀬島龍三氏(故人)に触れ、娘さんに「父は歌が好きでした。中でも「津軽海峡・冬景色」が大好きで下」と語らせた後、「もしかすると瀬島氏は雪を歌った名曲にシベリア時代を重ね合わせて・・・」とコメントしているが、事実は違う。

その事は瀬島氏の死亡記事とともに「頂門の一針」921号(07・9・4)に書いている。再掲します。

瀬島氏が何故津軽海峡・雪景色」が好きだったかのわけを、流石に家族には語らないで逝去したようだ。おそらくわけを直接聞いたのは私たちだったのではないか。

<元大本営参謀で元伊藤忠商事会長の瀬島龍三氏が4日午前0時55分、老衰のため都内の自宅で死去した。95歳。富山県出身。

富山県の農家で生まれ、陸軍士官学校、陸軍大学に進学。太平洋戦争時、大本営参謀、終戦直前に関東軍参謀になった。終戦後はソ連軍の捕虜となってシベリアに連行され、1956年に帰国するまで抑留生活を送った。

58年、伊藤忠商事に入社。わずか4年で取締役に就任、石油部門への進出や、いすゞ自動車と米ゼネラル・モーターズ(GM)の提携仲介を手掛けるなど伊藤忠が総合商社に脱皮するのに貢献した。

副社長、副会長を経て78年に会長に就任し、87年から特別顧問、2000年から理事。

1981年に当時の中曽根康弘行政管理庁長官から臨時行政調査会への就任を依頼され、伊藤忠の会長を退いて臨調委員(土光臨調)に就任。「臨調の官房長官」として国鉄などの民営化に腕を振るった。 2007/09/04 02:52 【共同通信】>

瀬島氏の死に触れて、抑留遺児となった畏友古澤襄(ふるさわのぼる)氏は4日の同氏ブログの中で「敗戦後、ソ連極東軍司令官ワシレフスキー元帥と停戦交渉を8月19日にジャリコーウオ戦闘司令所で行ったが、秦彦三郎中将(総参謀長)に随行したのが瀬島中佐であった。

交渉といっても一方的なものであったと草地氏は回顧している。

この8月19日をめぐって、いわゆる瀬島疑惑が生まれている。」ことを語っている。   http://blog.kajika.net/

若い頃、NHK政治部で担当した河野一郎氏の次男洋平氏(その後衆院議長)の夫人(故人)が伊藤忠本家のご出身だったことから、大本営参謀から伊藤忠商事に入社した人物「瀬島龍三」の事は河野さんからよく聞かされていた。

しかし初対面は、私が大阪勤務から引き揚げた昭和51年秋ごろで、読売新聞政治部の外山四郎さん(故人)の紹介で、東京・神楽坂の料亭の一室だった。

いかめしい容貌を想像していたが全く雰囲気が違った。中肉中背、ごま塩頭の温和な「おじさん」。これが大本営参謀で、シベリア抑留11年の猛者とはとても思えなかった。

アコーデオンとギターのバンドを呼んでの歌になった。当時はまだカラオケが無かった。そこで瀬島さんが歌ったのは、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」だったが、下手で吃驚した。

聞けば若い頃、香港攻略に先立って、状況把握(スパイ}のため偽夫婦となってもらった婦人が津軽出身の女性だった。シベリヤから帰還してすぐ故郷を訪ねたが既に「石(墓)の下だった」。

阿久悠作詞、三木たかし作曲

2.ごらん あれが竜飛岬 北のはずれと
見知らぬ人が指を指す
息で曇る窓のガラス ふいてみたけど
はるかにかすみ 見えるだけ
さよならあなた 私は帰ります
風の音が胸をゆする 泣けとばかりに
ああ 津軽海峡・冬景色

その後瀬島さんが石川さゆりから直接歌謡指導を受けたと聞いたが、練習後の歌を聴く機会はないままに終わった。

<旧制富山県立砺波中学校、陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校を次席(首席は原四郎)で卒業。陸軍大学校を首席で卒業し、昭和天皇から恩賜の軍刀を賜る。>「ウィキペディア」

出身地富山県の隣の金沢の連隊に配属され、連隊旗手を勤めさせられた。「名誉な事ではあるが、在任中、童貞は守るというのが不文律。お勤めが終わったら金沢の花街(いろまち)で“公式筆おろし"なんだ。不潔でやりきれない、その足で犀川に入り洗ったよ」

「シベリアでは壁塗りをやらされた。天井を塗るんだけど、塗って梯子を降りた途端、バタツと落ちるんだ。又塗るけど、下りてきたら又落ちる。その繰り返し。

或る時、突然落ちてこなくなるんだ。知らぬうちにコツを体得したんだろうね。(だから人生も、なんていう説教はナシだった)。

「伊藤忠商事では社員の自殺事件は皆無です。それはその仕事に最も詳しい奴を本部長に据え、社長が副本部長になって奴を支えるから。奴の命令は社長命令だから奴が悩む事は無い。これは大本営の智恵です」

<山崎豊子の小説『不毛地帯』の主人公・壱岐正中佐、『沈まぬ太陽』の登場人物・龍崎一清のモデルであるともいわれ、『二つの祖国』では実名の記述が見られる。保守層を中心に支持者が多いが、証言が誠実でないとして批判もされていて、評価が分かれる人物である。>「ウィキペディア」

「不毛地帯では女房が事故死するらしいんだ。だからパーティーなんかに女房を連れて行くと、こっそり、再婚はいつですか、なんて聞かれちゃってね、弱ったよ」。

奥さんも先ごろ亡くなられたが。2・26事件(1936年2月26日}の総理官邸で岡田啓介総理と間違われて射殺された松尾大佐の長女だった。

「軍人として果たせなかった国家建設の夢を実際に政治に反映させてみたい。竹下登、加藤六月など若いのにいい奴がいますよ」

「私は相談には乗りますが、中曽根のブレインなんかでは断乎としてありません」

しばらくして外務大臣園田直が瀬島さんを「参謀格」に据えたため、瀬島さんは会社の仕事を投げ打って外務省に通ってきて下さった。

そうした事から秘書官退職後の私の身の振り方を真剣に心配してくださった。しかし、最近は年賀状も来なくなっていた。瀬島さんを否定的に捉えた共同通信社社会部『沈黙のファイル―「瀬島 龍三」とは何だったのか』に私の名前が登場したためと諦めていた。ご冥福を祈ります。
2007・09・04  (再掲)

◆本稿が掲載された2月18日(金)刊「頂門の一針」2185号の
卓見です。ご高覧ください。

◆<2185号 目次>
・小沢氏系16人が民主会派を離脱方針:古澤 襄
・瀬島さんの津軽海峡冬景色:渡部亮次郎
・民主化ドミノ、ついにリビアで暴動:宮崎正弘
・中国の軍拡で日米同盟が危ない!(1):古森義久
・崩壊しかねない医療現場:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2011年02月14日

◆共産国の自滅は「ノルマ」

渡部 亮次郎

「ノルマ」こそは社会主義革命で生まれたソ連を自滅に追い込んだものだと思っているが、最近の日本では平易なビジネス用語になっている。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると「ノルマ主義は、労働の意欲を高めるのにはよいが、JR西日本の福知山線脱線事故のようにかえって悪い影響が出ることもある」と言った風に使われている。

ノルマ(ロシア語)とは半強制的に与えられた労働の基準量であり、大抵の場合時間的強制も付加される。

日本には太平洋戦争後、シベリアに抑留されていた日本兵が帰国した際に伝えられ、日本語の語彙として広まった。

もともとはロシア革命(1917年)によって成立したソビエト政権では、古くからの地主的土地所有制度は解体され、土地の国有が宣言された。

スターリン時代の1920年代末期に農業の全面的集団化が強制的に実行され、屋敷付属地、耕作に必要な生産用具、若干の家畜の私的所有は認めるものの耕地、家畜、農具の主要部分を共同化した協同組合的集団農場がつくられ、これが一般にコルホーズと呼ばれた。

コルホーズに参加した農民への分配は、個々人の労働の量と質に応じた作業日単位でおこなわれていたが、ブレジネフ時代に入ると、職種ごとのノルマと賃金表にもとづく貨幣支給にかわっていった。

ところが集団農場では収穫物が自分たちの所有にならないから、労働意欲は起こらない。また、極端に言えばノルマだけを果たしていれば賃金は支給される。となると様々な場面で怠業(サボタージュ)が行われる。

一方、共産化した中国の国有工場では、働いている人も居眠りしている奴も同じ賃金だから、工場全体の成績は下がる事はあっても、上がることはない。そうした実態を見て、トウ小平が改革開放経済に踏み切った理由だ。

ソ連では、穀倉地帯のウクライナで、麦の種まきも集団農場のノルマだ。
だから昨日撒いた種麦が昨夜の風で飛ばされても、農民たちは「オレらはノルマは果たした」といって、再播種には応じない。こうしたことが74年間も続けば国は立ち行かなくなる。ソ連崩壊だ。

ソ連崩壊は、1991年12月25日にソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、同時に各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦が解体され消滅した事件である。

ソ連崩壊は、1922年の設立以来、アメリカ合衆国に匹敵する超大国として69年間続いたソビエト連邦が独立国家共同体(CIS)に取って代わられその国家格を失ったという事。

更に東側陣営の総本山として君臨し、前身のボリシェヴィキ時代を含めると 1917年以来74年間続いたソ連共産党による社会主義体制が崩壊した事により、かつて世界を二分した冷戦の時代が名実共に終わりを迎えたという、2つの意味で重要な出来事だった。

一方、中国でも人民公社が実施された。毛沢東が中華人民共和国における農業集団化のための組織として施行した。農村での行政と経済組織が一体化(政社合一)された。

1958年に大躍進運動の開始と共に合作社の合併により組織され、生産手段の公社所有制に基づく分配制度が実行された。しかし前述のように働かなくても喰えるのがノルマであってみれば、ノルマが社会主義を縛る。

だから、人民公社を必要とした大躍進政策そのものの失敗、それによる毛沢東の国家主席辞任によって公社は形骸化を余儀なくされ、トウ小平による1982年の憲法改定、1978年の生産責任制の導入により、人民公社は実質的には機能しなくなっていた。

ところで、1972年9月の日中国交回復に総理同行取材したが、ある一日、記者団(80人)は見学に誘われ、コンクリートの船を作っている人民公社班と幼稚園教育・製薬会社班に分かれた。

私は北京市内の製薬会社班に振り当てられたが、総合ビタミン剤が時折、思い出したようにしか出来てこない状況を見て驚いた。しかもこれで北京市民全体の需要に応じると言う説明。

言いつくろうというか嘘を平気で吐くと言うのか、質問した方が恥かしくなった。斯くなる状況に鑑みてトウ小平は「白でも黒でも鼠を多く捕る猫がいい猫だ」と言い放ったため、毛沢東に睨まれ失脚を繰り返すのである。毛が死んだので改革開放経済導入の大願成就となるわけだが。

当時のソ連でも共産中国でも、農民は与えられた猫の額のような自留地での生産率のほうが莫大に高かった。生産はマルクスが言ったように手段の公平化よりは私有欲の方が勝つ。当たり前のことである。

日本では1990年代以降の不況でにわかにノルマという言葉が飛び交った。たとえば保険会社のセールスマンなどの単純営業職従事者などに摘要され、ノルマによって賃金が決められているところがある。

極端な話ではノルマが達成されなければ賃金が極端に減らされるというところがある。また、誰にも達成出来ないような高い基準を設定する、前期比の伸び率に対してノルマを課すなどの方法を用いれば容易に賃金支払い額を抑制出来ることも問題である。

これは調べてみるとソ連から流れた強制労働の理論から出たのではなく19世紀アメリカ資本主義の賃金不払いを論破するための理論だった。

いずれにしろ社会主義体制を支えるためのノルマが結局は縮小再生産社会しか作れず、体制そのものを崩壊させた。この世を支えている真実は、人間の持っている様々な「欲望」でしかない。

そのことを一番知っていたのがとうトウ小平、一番それに抵抗しながら死んでいったのがスターリンと毛沢東だった、と言うことになる。このことから中国の近未来を予測することが出来る。

◆本稿は2月14日(月)刊「頂門の一針」2181号に
掲載されました

◆<2181号 目次>
・共産国の自滅は「ノルマ」:渡部亮次郎
・中東でムバラク崩壊後のドミノ:宮崎正弘
・産経も「死んだ」?:花岡信昭
・日本経済は中国に依存してない:伊勢雅臣
・新刊本を読めない「電子書籍」って!?:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2011年02月13日

◆紀元節復活を求める声

渡部 亮次郎

建国記念「の」日制定の経緯を2011年2月11日の私のメール・マガジン「頂門の一針」に発表したところ、「あれは折角だから、元の紀元節に戻すべきだ」という声が寄せられた。

紀元節(きげんせつ)は、『日本書紀』が伝える神武天皇の即位日として定めた祭日。1873年(明治6年)に、2月11日と定められた。かつての祝祭日の中の四大節の一つ。

紀元節には、宮中皇霊殿で天皇親祭の祭儀が行われ、各地で神武天皇陵の遙拝式も行われた。1889(明治22)年には、この日を期して大日本帝国憲法が発布され、これ以降、憲法発布を記念する日にもなった。

1891(明治24)年には小学校祝日大祭儀式規程(明治24年6月17日文部省令第4号)が定められ、天皇皇后の御真影(写真)に対する最敬礼と万歳奉祝、校長による教育勅語の奉読などからなる儀式を小学校で行うこと
になった。

1914(大正3)年からは全国の神社で紀元節祭を行うこととなった。1926(大正15)年からは青年団や在郷軍人会などを中心とした建国祭の式典が各地で開催されるようになった。

紀元節が祭日とされていた当時、私は国民学校(小学校)1年から4年生(敗戦)まで当日、学校で紀元節の歌を合唱した。今でも口ずさめる。

歌曲「紀元節」

伊沢修二作曲、高崎正風作詞により1888(明治21)年に発表され、「小学唱歌」にも掲載された。

一、雲にそびゆる!)ちほの!)ねおろしに艸(くさ)も木も
  なびきふしけん大御世を仰ぐけふこそ樂しけれ

二、うなばらなせるはにやすの池のおもよりなほひろき
  めぐみのなみにあみし世を仰ぐけふこそたのしけれ

三、天つひつぎの!)みくら千代よろづに動きなき
  もとゐ定めしそのかみを仰ぐ今日こそたのしけれ

四、空にかがやく日の本の萬の國にたぐひなき
  國のみはしらたてし世を仰ぐけふこそ樂しけれ

宮中の賢所、皇霊殿、神殿では、紀元節祭が行われ、紀元節の祝宴も行われた。また、全国の神社においても、紀元節祭が行われた。

1947年(昭和22年)の皇室祭祀令廃止および1948年(昭和23年)の祝祭日廃止を受けて、1949年(昭和24年)以降、宮中祭祀において紀元節祭は行われなくなった。

しかし、昭和天皇も今上天皇も、2月11日には宮中三殿で臨時御拝を行い、橿原神宮へ勅使が派遣されている。また、御神楽奉納は神武天皇祭(4月3日)に併せて行われている。

民間では、一部の有志によって建国祭などと名称を変えて式典が行われている。

また、1967年(昭和42年)の建国記念の日制定以降、全国の神社でも再び紀元節祭が行われるようになった。神社本庁などから宮中での紀元節祭復活の要求があるが、宮内庁はこれを拒否している。

大東亜戦争後の1947(昭和22)年、片山哲内閣により、日本国憲法にふさわしい祝日の法案に紀元節が「建国の日」として盛り込まれていたが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により削除された。

日本が独立を回復した1952(昭和27)年から復活運動がおき、1958(昭和33)年に国会へ議案が提出された。その後、「紀元節」の復活に賛否両論あるなか数度の廃案と再提案を経た。

1966(昭和41)年に、「建国をしのび、国を愛する心を養う。」という趣旨の「建国記念の日」を定める国民の祝日に関する法律の改正が成立した。

同改正法では、「建国記念の日」の具体的な日付について定めず、政令によって定めることとしていた。そのため、同年12月、佐藤栄作内閣は、審議会の答申に基いて建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)を定めて、「建国記念の日」を2月11日とした。

同政令は即日施行され、翌1967年(昭和42年)の2月11日に実施された。こうして、紀元節の祭日であった2月11日は、「建国記念の日」として祝日となった。

建国記念「の」日制定までの国会の動きをNHK政治部記者として取材したが、昭和天皇の末弟君たる三笠宮崇仁親王の動きが国会や政府に与えた影響は大きかった。

三笠宮崇仁親王は大正天皇の4皇子。三笠宮崇仁親王(みかさのみや たかひとしんのう、1915年12月2日 ―)は、日本の皇族、歴史学者(古代オリエント史専攻)。

大正天皇と貞明皇后の第四皇子。今上天皇の叔父にあたる。御称号は澄宮(すみのみや)。身位は親王。皇室典範における敬称は殿下。お印は若杉(わかすぎ)。勲等は大勲位。皇位継承順位第5位。

現在存命中の皇族の中では最年長者であり、「三笠長老」の敬称を奉られることもある。「三笠宮」の宮号は、1935復活(昭和10)年12月2日に崇仁親王が成年式を行った際に賜ったもので、奈良市の三笠山にちなんで命名された。

紀元節に関しては、科学的根拠に欠けるとして復活に批判的であった。1991年にはフランスの「碑文・文芸アカデミー」の外国人会員に就任、また1994年6月にはロンドン大学東洋・アフリカ研究学院の名誉会員に就任した。

だから紀元節復活法案は一度も紀元節という文言は入らず。常に建国記念日法案として国会に議員立法として提案された。多分片山内閣が2月11日を「建国の日」と定めようとしながらGHQの反対で潰された影響もあったであろう。

しかし、紆余曲折を経て「2月11日」が建国記念「の」日となったのは建国記念日審議会の依頼により内閣総理大臣官房広報室が、昭和41年に実施した世論調査で、「元の紀元節」が47・4%を占めたことが大きかった。

同年9月29日から10月6日まで全国の20歳以上の男女1万人を対象(有効回収票8,700)、社団法人中央調査社の調査員による面接聴取したものだった。

果たして現在、「紀元節」に戻そうとしたら何%がどう反応するだろうか。

立命館大学教授 大阪大学名誉教授・加地伸行氏は産経新聞【正論】2011.2.11 03:22 で以下のように書き結んでいる。

< ◆先人への礼の心を確かめたい

それでは、建国記念の日にどう向き合うべきなのであろうか。

その第一は、なによりも先人に対する敬意である。われわれが日本というすぐれた国家において人生を過ごせるのは、先人たちの大変な苦労と努力の結果があったからである。

その敬意が感謝の念となり、自国を愛するという、人間としての自然な気持ちを確かめることこそ、建国記念の日における素朴な在りかたではなかろうか。

そうした敬意の表現、それを東北アジアでは「礼」と称したのである。先人への礼、皇室への礼、日本国民相互における礼−これは東北アジア特有、とりわけ日本ではそれが重んじられ、今日に至っている。

では、国家はどうあるべきであろうか。国家は国民以上に礼を尽くすべきであろう。「国(に、もし)礼なければ正しからず」(『荀子』王覇篇)と、すでに喝破されているではないか。

政権担当者こそ、建国記念の日を尊重すべきなのである。『春秋左氏伝(襄公二十一年)』に曰(いわ)く、「礼を怠れば、政(まつりごと)を失う」と。>

参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2011・2・11

◆本稿は、2月13日(日)刊の「頂門の一針」2180号に
掲載されました。他の卓見もご覧下さい。

◆<2180号 目次> 
・ムバラク後のエジプト情勢:古澤 襄
・ムバラク退陣でNHKも死んだ:花岡信昭
・菅政権に漂う諦め、投げやりムード:阿比留瑠比
・紀元節復活を求める声:渡部亮次郎
・尾張名古屋は大(おお)地震:山堂コラム 357
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2011年02月11日

◆スクープ建国記念「の」日

渡部 亮次郎

「2月11日 紀元節」が建国記念「の」日として甦るという原稿は私のNHK政治部における特種のひとつであるが、あの頃NYに赴任していた郷土
の先輩からは建国記念日ならともかく「の」の意味がさっぱり分からないと悪評だ。

結論を先に言えば、「の」が入ったからこそ当時の最大野党たる日本社会党が抵抗しなかったのである。当時の首相佐藤栄作氏は自民党内右派
を抑える為には「の」が入っても「2月11日」が事実上復活すれば満だった。

また社会党にしても紀元節復活に賛成したという直接的な痕跡を残さずに済んだので、その後「建国記念の日」には全く関心を示さなくなった
ので、結局この祝日は今日、影が薄い。

昭和41(1966)年の正月明け頃、就任間もない園田直衆議院副議長の部屋を訪ねた。私は盛岡放送局から東京政治部へ転勤して満1年。総理官邸担
当から衆議院担当に代わった。正副議長の伊勢神宮参拝に同行、帰京したばかりであった。

言うなれば、これをきっかけに園田氏と親しくなろうと押しかけたのであった。何の収穫も無かったが。前任の田中伊左次氏当時は、議長応接
室との出入りをふさいでいた本棚がどけられているのを見逃さなかった。「議長応接室で副議長が極秘の行動を取っている」しかし気づかぬふり
をして退出した。

園田氏は既に当選9回なのに未入閣。やっと掴んだ副議長のポスト。何かでかいことをやって初入閣を狙っている。だとすればなんだろう。衆院
の懸案として残っているのは「建国記念日法案」がある。紀元節復活に向けた動きは、1951(昭和26)年頃から見られ、1957(昭
和32)年2月13日には、自由民主党の衆議院議員らによる議員立法として「建国記念日」制定に関する法案が提出された。

しかし、当時野党第一党の日本社会党が「建国記念日」の制定を「神武天皇即位の年月は、歴史上、科学的に根拠が薄弱であり、今後学問的検
討を待って決定すべきではないか」

「過去において、神武東征の物語りが、征略国家として支那事変、大東亜戦争において利用され、偏狭なる忠君愛国の教育とも相まって、日本
の進路を誤まらせたものではないか」と反対し、衆議院では可決されたものの、参議院では審議未了廃案となった。

その後、「建国記念日」の設置を定める法案は、9回の提出と廃案を繰り返すも、成立には至らなかった。

あれから既に10年近く野ざらしだ。これまた就任後間もない首相佐藤栄作氏は成立に意欲満々だ、という。

副議長室周辺をぶらついていると、議長室に入った社会党の国対委員長石橋正嗣氏が出るときは副議長室から出てきたではないか。

記者クラブ(衆院記者会)の他社の連中は全く気づいていない。だが園田副議長を中心にした自民、社会両党幹部による極秘の折衝は議長応接室
で続けられた。

結局、名称に「の」を挿入した「建国記念の日」として“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるようにし、具体
的な日付の決定に当たっては各界の有識者から組織される審議会に諮問するなどの修正を行い、社会党も妥協。

1966(昭和41)年6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した。

「建国記念の日」と定められた「2月11日」は、かつての祝祭日のひとつ、紀元節であった。紀元節は、『日本書紀』が伝える初代天皇である神武
天皇即位の日として、1872(明治5)年に制定された。

この祝祭日は、1948(昭和23)年に制定された「祝日に関する法律」附則2項で、「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)が廃止されたこと
に伴い、廃止された。

同改正法では、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。」と定め、同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第2
条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなけ
ればならない」と定めた。

当の「建国記念日審議会」は、学識経験者等からなり、総理府に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により、「建国記念の
日」の日付を「2月11日」とする答申が1966(昭和41)年12月9日に提出された。

同日、佐藤内閣は「建国記念の日は、二月十一日とする。」とした「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を定めて公
布し、即日施行した。

ここに至るまで建国記念日審議会は 総理府の附属機関として1966(昭和41)年7月11日発足、同年12月15日限り廃止(委員定数10人以内)

同年7月28日から12月8日まで計9回の会議を開催し、12月9日付けで内閣総理大臣宛て「二月十一日」とする答申(個別意見付記)

第5回会議は「建国記念の日に関する公聴会」として同年10月24日、仙台、東京、大阪、広島で同時開催(委員2人ずつ参加)答申には、会長・会長
代理の職に関係なく委員が五十音順で記載

委員]
菅原通濟(会長。全回出席。2月11日)

吉村正(会長代理。全回出席。2月11日)

阿部源一(第5回会議のみ欠席。祝日化は望ましくない。強いて挙げるなら1月1日が無難)

大宅壯一(第2回会議のみ出席。最終の第9回会議直前に辞任のため答申に個別意見記載なし)

奥田東(全回出席。立春の日。人間社会でなく国土に重きをおくべき)
桶谷繁雄(第1回会議のみ欠席。2月11日)

榊原仟(全回出席。2月11日)

田邊繁子(第6回会議のみ欠席。2月11日)

舟橋聖一(全回出席。2月11日。政府の行事としないことが条件)

松下正壽(第1・2・6回会議のみ欠席。2月11日)

建国記念の日に関する世論調査

建国記念日審議会の依頼により内閣総理大臣官房広報室が実施。昭和41年11月30日付け官報資料版No.449掲載

各党案(自民党:2月11日、社会党:5月3日、公明党:4月28日、民社党:4月3日)等を選択肢に加える。

同年9月29日から10月6日まで全国の20歳以上の男女1万人を対象(有効回収票8,700)、社団法人中央調査社の調査員による面接聴取

同年11月4日の第6回会議に報告。

1.2月11日(もとの紀元節の日):47.4%(4,124)

2.いつでもよい:12.1%(1,053)

3.5月3日(憲法記念日):10.4%(909)

4.わからない:7.5%(651)

5.4月3日(聖徳太子の十七条憲法発布の日):6.1%(529)

6.4月28日(講和条約発効の日):5.8%(507)

7.特定の日ではなく、季節、月などを回答した者(春、秋、4月、9月な
ど):3.1%(271)

8.質問の趣旨にそわない回答をした者(「建国記念の日を設けることに
反対」など):2.1%(186)

9.8月15日:2.1%(183)

10.その他の日(旧正月、4月1日、11月3日、その他):1.4%(124)

11.元日:1.3%(109)

12.立春の日:0.5%(43)

13.もとの元始祭の日:0.1%(11)

(参考資料「ウィキペディア」)2011・1・16

◆本稿は、2月11日(金)刊の「頂門の一針」2178号に掲載されました。
他の卓見も拝読下さい。

◆<2178号 目次>
・スクープ建国記念「の」日:渡部 亮次郎
・「応援団長」にまで見放された民主党政権:阿比留 瑠比
・宦官「菅」と腑抜けの「司馬遼」:平井 修一
・可能か保守の大同団結:須藤 尚人
・グーグル閉鎖を命じたのは李長春と周永康:宮崎 正弘

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2011年02月10日

◆2倍美味しかった豚肉

渡部 亮次郎

秋田の田圃の中で育った私は蛋白質といえば旧八郎潟から網で掬える淡水魚と家で飼っている鶏、それに大豆を摺り潰した呉汁で大きくなった。だから豚肉を初めて食べたのは13歳、刺身を食べたのは60歳だった。

ブタの先祖である野生のイノシシは、アジア、ヨーロッパに広く分布していた。そのため、イノシシを食用にすること、捕えて飼育することは早くから中国やエジプト、ギリシアなどで同時発生的に行われていた。

中国では紀元前2200年ごろにはすでにブタが飼育され、豚肉は羊肉とともに重要な食肉となっている。また、古代エジプトの原始農耕時代(前5000以降)に養豚が行われていたことが壁画にうかがえる。

古代ギリシア(前2000ころ)では豚肉を食べることが一般的に広がり、ハムやソーセージのような肉加工品もつくられている。

一方、イスラム教やユダヤ教、ヒンドゥー教では豚肉をタブー視し、徹底して豚肉を避けている。中国のように豚肉を多く食べる国では、イスラム教徒専門の飲食店が存在し、主として羊肉や牛肉を用いている。

日本では、縄文・弥生(やよい)時代の貝塚からイノシシの骨が出土しており、中には鏃(やじり)の刺さったままの骨片もあった。銅鐸(どうたく)には、イヌを使い、弓矢でイノシシを狩る図も描かれている。

中国の影響を受けて、沖縄地方で早くから豚肉が食用とされていた(室町中期には豚肉を用いた沖縄料理のあったことが記録にある)。江戸時代には、沖縄から養豚が鹿児島に伝わり、鹿児島でも豚肉を食用とすることになった。

長崎では中国から養豚が伝わり、在留する外国人のためにも養豚と豚肉を食べることがかなり一般化していた。全国的には明治になって肉食が奨励されたが、豚肉よりも牛肉が中心で、豚肉が全国的に普及したのは明治中ごろからである。

豚肉は脂肪、タンパク質のよい給源で、ビタミンでは牛肉や鶏肉に比べB1が多い。とくにヒレ、もも肉など脂肪の少ない部位にビタミンB1が多く、牛肉や鶏肉の約10倍含まれる。脂肪は牛肉に比べ、リノール酸が多いのが特徴。

中学3年の夏休み、野球部の合宿中、心臓脚気で死に損なったが、豚肉をもっと食べていれば罹らなかった。だが、貧しくて家では豚肉を滅多に買えなかった。(Yahoo!百科事典検索Yahoo!百科事典)

日本では天武天皇の675年に最初の肉食禁止令が出され、4月1日から9月30日までの間、稚魚の保護と五畜(ウシ・ウマ・ニホンザル・ニワトリ・イヌ)の肉を食べてはいけないとされたがこれに豚は含まれていなかった。

戦国時代にキリスト教イエズス会の宣教師たちが、キリシタン大名たちを介して肉食の慣習を日本に持ち込んだため、一時的に豚肉が食べられるようになった。

その後、大部分の地域では豚肉を食べる習慣は廃れ、わずかに薩摩藩と南西諸島では日常的に養豚が為されていた。

琉球では17世紀以前は牛肉がその座を占めていたが、羽地朝秀の改革によりウシの食用が禁止され、その後冊封使節団を接待するため王府によりブタの大量生産が奨励された事なども相まって、牛肉に代わる存在となっていった。

現在の沖縄料理では最も重要な食材となっている。沖縄で飼育されている豚は、1385年に渡来したという琉球王国時代より続く血統の黒豚「アーグ」が有名。「アグー」または「シマウヮー(“島豚”の意)」とも。

一方薩摩でも、豚肉を用いた薩摩料理が発達した。西郷隆盛も脂身のたっぷりついた豚肉が大好物だったという。1827年の佐藤信淵著『経済要録』には、薩摩藩の江戸邸では豚を飼育し、それによって取れた豚肉を町で売っていたという記録が為されている。また、江戸ではももんじ屋などで食べられた。

1845年5月2日の書簡によれば、江戸幕府最後の征夷大将軍・徳川慶喜は、島津斉彬から父・徳川斉昭宛てに豚肉が送られていたという。

そのせいか、彼は豚肉を好んで食べており、下々の者たちから「豚一様」と呼ばれていた。「豚一様」とは、「豚肉がお好きな一橋様」の略称である。

新選組も西本願寺駐屯時に、松本良順の勧めで神戸から子豚を持ち込んで養豚し、食べていた。豚の解体は京都木屋町の医者・南部精一の弟子に依頼していた。

福澤諭吉著『西洋衣食住』には、大坂にあった緒方洪庵の適塾にて学ぶ塾生たちも豚を食べていたとの記録がなされている。

明治維新以後は日本全土で豚肉が一般に食べられるようになり、夏目漱石の小説『吾輩は猫である』にもそのことに関する記述が見られる。

特に関東大震災後の関東地方ではにわかに養豚ブームが起き、豚肉の供給量が増え安価になったため、庶民たちにも比較的手の届くものとなった。関東を中心とする多くの地方で「肉」と言えば豚肉のことを指すようにもなった。

なお、関西で「肉」と言えば牛肉のことを指し、豚肉は「豚」と呼ばれる事が多い。従って関西では、豚肉などを使った中華まんのことを「肉まん」とは呼ばず「豚まん」と呼ぶ。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2011年02月09日

◆墜ちた果実・一粒の麦

渡部 亮次郎

(再掲)日米中関係について「正三角形」を唱えながら、2006年7月4日午後、北京の人民大会堂で胡錦濤主席と会談した民主党の小澤代表(当時)について「北京へご用聞きに行った野党代表も醜態でしょう。胡錦濤の虎の威を借りて大物政治家ぶろうとしたんですから」といったのは宮崎正弘氏のコメント。

私の尊敬する宮崎さん。政治を直接取材した経験の有無は承知しないが、故三島由紀夫研究の第一人者だからこそ、政治家の月旦は正鵠を射ている。

「自民党を割って、新進党あたりまで、多少の期待をもった時期も有りましたが、小生、この小沢一郎氏に一度も国士の風格を感じたことがない」。

一方、北京側から看れば、のこのこやってきた小沢を使って、胡錦濤は“反江沢民”のメッセージを日本国民に送ったと考えられる。中国の政治家はよく使う手だ。

ただし5日のテポドン発射7発で、すべては無駄に終わりそうだ。ソ連崩壊のプロセスまでに擬するとすれば、胡はアンドロポフあたりまで深化したかも。

“中国のゴルビー”の登場を促す段階ですか。前向きに解釈すればそうなる。日中関係改善を望み始めたのは明らかに胡政権の方です」と「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成18年(2006年)7月5日(木曜日)貳通巻第1500号 で述べている。

全くこの通りで、正三角形論を今頃唱えるあたりからして、平衡感覚を疑う。さながら党内の旧日本社会党残滓グループの気でも引こうというのか、或いは浪人中に毛沢東選集でも読みすぎたのか。日米安保条約をテンから忘却している。

そもそも日米中の3国が正三角たることが望ましいと言う事は、日本からアメリカへの政治的距離と中国へのそれが同じだと言うことだから、軍事同盟国であるアメリカと、そうではない中国との関係が同じだと言うことからして、文法的にも破綻している。

小澤氏は訪中直前の2006年7月2日、民放の報道番組に出演し「日中の政治家(小泉総理を念頭?)レベルで本当に信頼関係があるとは思えない。(日中米が)正三角形になって日本が扇の要になる関係で無ければならない」と語った。(5日付産経新聞)

そこで日本戦略の研究会 npslq9@yahoo.co.jp通算第238号2006/07/05の中で柳 良真氏 flcl@csc.jpは、「China の北京共産党政権に喜ばれる如き人間は、反日の売国奴」と題して以下のように断じている。

<・・・日本の政治家の中には、古代China の秀でた古典に惑わされてか、 China (北京共産党政権)に擦り寄る連中が多数存在しています。福田康夫・河野洋平・山崎拓・加藤紘一・小沢一郎の諸氏のほか、公明党・社民党・民主党の中にも大勢が確認されています。

・・・日本の首脳陣が媚中・親中に傾斜すれば、「日米同盟」は形骸(事実上の意義なき亡骸)と化す可能性が高いのです。この時、日本国防は危機に瀕します。

China による尖閣諸島の占領(実行支配)が現実のものとなり、沖縄占拠への圧力(沖縄は旧来China の属国という主張)が高まります。>

正三角形論は自民党の問題児加藤紘一氏の持論として知られる。2006年7月5日付けの産経新聞によれば、加藤氏がそのホーム・ページで展開している論は子供騙しのように幼稚である。

<米国が我(が)を通そうとしたら日本は中国と共に抑制、中国が覇権主義になったら米国と物申す。日本は正三角形の頂点になることで平和外交を通じ、世界に貢献できる>

馬鹿も休み休みにしてもらいたい。それなら米中が組んで日本をやっつけにきたら誰が抑制してくれるのか。強大な武力を有している国より、法制上は再軍備すらしていない弱小国たる日本がどうして三角形の頂点に立てるというのか。

それが不可能だからこそアメリカと安全保障条約条約(軍事同盟)を結んで、二等辺三角形の今日があるのではないか。確かに中国とは1978年8月に日中平和友好条約を結んだが、軍事同盟は結んでいないし、結ぶ構想もない。むしろそれをいいことに日本の属国化を目論んでいるのが今の中国ではないのか。

今頃、のこのこと中国を訪れる小澤氏の神経も良く分からないが、忘れ物でもしたように正三角論を手土産にする神経もなおさら分らない。胡錦濤をカサに自民党を脅そうとでもいうのか。

何も歴史を知らないマスコミは田中角栄氏を最近は尊敬するのか、畏怖するのか、「小澤は角栄の秘蔵っ子だった」として小澤氏に箔をつけて見せるが、そもそもこれが故早坂茂三氏の贋作。

角栄氏の秘書しか能の無かった早坂氏は角栄氏が脳梗塞で倒れても角栄氏に縋るしかなかったが、そこを真紀子さんに見透かされて追放を食らった。仕方無しに自民党から逃げていった小澤氏に縋るべく、また、それを大きくして正当化すべく、小澤=角栄を描いてみせただけ。贋作甚だしい。

最近の加藤氏や小澤氏を見て、京都大学の中西輝政教授が「正三角論は一貫した中国の外交方針であり、日米分断の論理だ。このような虚構の論理を説く政治家は、党利党略に目が眩み、国家的立場を見失ったか、北京と特殊な関係が出来たか、と勘繰らざるをえない」と嗤ってしまった。(5日付産経新聞)

小澤氏は若くして幹事長として大自民党を束ね、一時期は総理総裁を望まれながら、これを固辞して自民党を去った。いうなれば熟して地に墜ちた一つの果実に過ぎない。或いはすでに「一粒の麦」である。墜ちた果実は再び枝に輝く事はあり得ない。

1粒の麦はそのままでは1粒だが、地に落ち死んで芽を出せば、やがて多くの実がなる。死んだほうが世の為人のためというキリストの教え。他人の幸せのために犠牲になれる人に幸あれ。
2006・07・06


◆主宰者よりー<2月8日刊「頂門の一針」に掲載された主宰者稿の「どうなる大阪都構想」に下記のような<反響>が寄せられました。拝読下さい>。

◆<反響の内容>

毛馬氏の「どうなる大阪都構想」を拝読して、名古屋の河村氏の「中京都構想」と比較して思うのですが、河村氏の構想には「減税」の実行を通じて行政改革を、という大義名分がありますが、それに対して、「大阪都構想」には大阪府と大阪市を解体して二重行政を排するというもので、それによって効率化が進んでも、更に木目細やかな住民サービスが出来て、豊な住民生活が実現するのか、また財政健全化が進むのかが分かりません。

二重行政を止めて何をしたいのかが分からないのです。大阪都構想の、何を実現しようとしているのかその先のビジョンが分からないのです。大阪都構想だけが目的化してはだめだと思うのです。

河村氏にはビジョンがあります。既存政党を壊すというだけでは、そんなことを有権者は望んでいないように考えますが。(匿名希望)(以上)


2011年02月08日

◆拒否された通産からの首相秘書官

渡部亮次郎

1976年、今から丁度35年前、当事者しか知らない話である。

この年12月24日に福田赳夫内閣(自民党)が成立し、官房長官に園田直(そのだ すなお)氏が就任した。

内閣総理大臣 - 福田赳夫
法務大臣 - 福田一(- 1977年10月4日)/瀬戸山三男(1977年10月5日 -)
外務大臣 - 鳩山威一郎
大蔵大臣 - 坊秀男
文部大臣 - 海部俊樹
厚生大臣 - 渡辺美智雄
農林大臣 - 鈴木善幸
通商産業大臣 - 田中龍夫
運輸大臣 - 田村元
郵政大臣 - 小宮山重四郎
労働大臣 - 石田博英
建設大臣 - 長谷川四郎
自治大臣、国家公安委員会委員長、北海道開発庁長官 - 小川平二
内閣官房長官 - 園田直
総理府総務長官、沖縄開発庁長官 - 藤田正明
行政管理庁長官 - 西村英一
防衛庁長官 - 三原朝雄
経済企画庁長官 - 倉成正
科学技術庁長官 - 宇野宗佑
環境庁長官 - 石原慎太郎
国土庁長官 - 田沢吉郎
内閣法制局長官 - 真田秀夫
内閣官房副長官(政務) - 塩川正十郎
内閣官房副長官(事務)- 道正邦彦
総理府総務副長官(政務) - 村田敬次郎
総理府総務副長官(事務)- 秋山進
(「ウィキペディア」

官房副長官は塩川正十郎氏だった。そこへ密かに大問題が発生した。
各省から出向してくる総理大臣秘書官のうち、通産省からの人物を
他の秘書官たちが拒否して秘書官室への入室を断ったのである。

もともと佐藤栄作内閣までは、通産からの秘書官は無かったのだが、次の首相田中角栄氏は、通産大臣時代の秘書官をそのまま首相秘書官に起用した。かねて首相秘書官を派遣したがっていた通産省は喜び、続く三木内閣にも当然の如く送った。

だから福田内閣にも当然、送ってきたのだが、今度はなぜかすんなりとは行かない。秘書官たちが意地悪したのは、首相自身が、通産からの秘書官を不要と考えていたからではないか、と今では推測する。

しかし、既にその人物を総理秘書官として出向を発令してしまった通産省としては、いまさら取り消すわけにはいかない。そこで園田官房長官に事務次官がとりなしを依頼してきた。

ここから先が特攻隊生き残りの直さんらしい解決策である。首相には黙って、首相官邸内の官房長官室に机を入れさせ、そこに問題の人物を坐らせたのである。内閣記者会にたちまち知れ渡り、危く記事にされそうになった。

かくて他の首相秘書官たちが音をあげ、当該人物を秘書官室に引き入れざるを得なくなった。問題は音も無く起き、音も無く解決したのである。

その1年後、内閣改造で園田氏はただ一人留任し、外務大臣に横滑りした。つまり総理官邸を去った。私はここから彼の秘書官となり、1年前のことの次第を知る。通産省のOBから「園田さんに財界から後援会を作って差し上げたい、と言っている。ついては秘書官、打ち合わせに来てください」。

一旦は着任を拒否されたあの首相秘書官が、奔走して財界を説得。「恩返し」を工作していたのである。間もなく日本商工会議所会頭の永野重雄氏を会長とする大規模な園田後援会が発足。住まいが借家、貧乏政治家に初めて財界の後援会ができたのであった。

余談だが、当時、永野さんの政界関係の日程を管理していたのはY社の広告局長。現在某民放の実力会長である。これはどうなっているのだ、と未熟な頭は仰天した。NHKではこんなスケールの記者は育たない。

それから1年後、福田首相は「天の声にも、たまには変な声がある」と言う有名な科白を残して官邸を去った。後継首相は幹事長だった大平正芳氏。園田氏はこの内閣にも外務大臣に指名された。

通産省からのあの人物は内閣が変わったので本省に戻った。やがて省内の頂点である事務次官になった。官邸を「追放」された福田氏は派閥を上げて大平内閣を妨害し、大平氏は遂に急死する。

「社長はポストを譲って会長になり、社長を助けていれば、再び社長にと言うこともある」と福田氏に聞えるように批判していたが、
社長を助けるどころか死地に追いやってしまっては返り咲きの余地はなかった。

大平氏を見送った足で目白の田中邸を訪れた園田氏は「後継は鈴木善幸」で合意した。ゼンコウWhoと揶揄された鈴木内閣登場の舞台裏である。2011・2・5

◆2月8日(火)刊「頂門の一針」2175号に
本誌主宰者の「どうなる大阪都構想」が掲載され、全国に発信
されました。どうか他の著名寄稿者の「卓見」もご覧下さい。

◆<2175号 目次>
・衝撃的な”民主党王国”の敗退:古澤 襄
・どうなる「大阪都構想」:毛馬一三
・中国批判機密公電暴露:宮崎正弘
・大相撲と父とじいやん:花岡信昭
・王様の耳、菅の頭:MoMotarou
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2011年02月06日

◆らい予防法廃止の大谷さんの死

渡部 亮次郎

<大谷藤郎(ふじお)氏死去、ハンセン病尽力 国際医療福祉大学長

旧厚生省医務局長で、らい予防法廃止運動や精神障害者の社会参加などに取り組んだ国際医療福祉大初代学長の大谷藤郎氏が2010年12月7日午後7時24分、埼玉県内の病院で死去した。86歳。

滋賀県出身。葬儀・告別式は12日午前11時から東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で。喪主は長女すみれさん。

1983年に旧厚生省を退官するまでハンセン病行政に従事。退職後の95年、厚生省「らい予防法見直し検討会」の座長として同法廃止を答申した。

熊本地裁で99年に行われたハンセン病国家賠償訴訟の証人尋問では、原告・被告双方の証人となり「らい予防法の制定は誤りだった」と証言した。>【共同通信】2010/12/09 12:25

この記事を見落としていた。2月4日午後、すみれさんからのハガキで初めて知った。なんとも悲痛な知らせだった。「昨年、弟健、父藤郎、叔父芳郎を亡くしたので」とあった。

大谷藤郎さんとは厚生大臣のピンチヒッターとして鈴木善幸内閣に入った元外務大臣園田直に従いて秘書官として厚生省に入ったときに初めて会った。大谷さんは医系のトップ医務局長だった。

間もなく彼がらい予防法廃止運動や精神障害者の社会参加などに熱心に取り組んでいることを知った。岡山県でらい病院のある離れ小島に橋を架ける運動にとりくんでいた。

それに関連して園田大臣に対してらい予防法廃止の緊急性を説き、大臣自らがらい患者の収容病院を視察するよう説得した。大臣は出かけていった。

大臣はそこで食事を患者とともにしたり、お茶を飲んだりした。あとで「怖く無かったですか」と訊いたら「伝染力が弱い菌だから怖くはなかった。仮に伝染しても発症するころ俺は既に死んでいるだろうよ」と言ったので見上げた。

鈴木内閣ではそのころ、伊東外務大臣が急に辞任、その後任に園田氏が指名されたので、大谷さんとの縁は切れたかに見えたが、そうではなかった。大谷さんの活動に関するあらゆる報告書や著書が、園田氏の死後も私宛に送られて来ていた。

正月前、大谷さんから「消えた山」序曲が送られてきて読んだ。出自と身辺のことを書いた50ページ足らずの本。先に逝った長男や妻とのことや先祖のことを書いたものだが、あとがきがご自分ではなくお嬢さんのすみれさんが書いておられたので、死期を悟るような病状かなと疑っていた。

なんのことは無い、本が届いた頃、大谷さんはすでに逝っていたのだ。あれは遺書だったのだ。

なんたることだ。惜しい人を亡くした。わたしより、丁度一回り先輩だった。ご冥福を祈るのみ。

<大谷 藤郎(おおたに ふじお、1924年3月27日 ―2010年12月7日)は、日本の元厚生官僚(テクノクラート)、大学教授。精神障害者やハンセン病患者の人権保護・待遇改善に積極的に取り組み、1993年にはWHOからレオン・ベルナール賞を授与された。

1924年3月27日、滋賀県に生まれる。1952年、京都大学医学部卒業(在学中は小笠原登に師事)。1959年、旧厚生省に医系技官として入省した。

入省後は、1962年から精神衛生課に勤務し、全国精神障害者家族会連合会(略称・全家連、2007年破産・解散)の創設支援、1965年の精神衛生法の改正などに携わった。また、1972年に国立療養所課長に就任すると、ハンセン病入所者の生活環境改善に取り組んだ。

その後、厚生大臣官房審議官、公衆衛生局長、医務局長を歴任し、1983年退官。

退官後も、財団法人藤楓協会理事長、高松宮記念ハンセン病資料館館長、国際医療福祉大学総長などを歴任。1993年に寄付金を募って高松宮記念ハンセン病資料館を開館させたほか、らい予防法廃止運動に取り組んで廃止を実現。

さらに、らい予防法人権侵害による国家賠償訴訟では証人となって患者勝訴に導いた。また、「精神障害者の社会復帰と社会参加を推進する全国会議」の創設にも関わり、1987年の精神保健法(後の精神保健福祉法)等の法改正に貢献した。

1993年にWHOから社会医学・公衆衛生分野におけるノーベル賞といわれるレオン・ベルナール賞を授与された。
2010年12月7日、埼玉県内の病院で死去。86歳没。>
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


「社会全体が人権意識を高めてほしい」 大谷藤郎さんに聞く

現在(2009年当時)84歳の大谷藤郎さんハンセン病患者の強制隔離を定めた「らい予防法」の廃止に寄与した国立ハンセン病資料館名誉館長で元国際医療福祉大学総長の大谷藤郎さんは、ハンセン病問題を解決するには社会全体の人権意識を高めることが必要だと指摘する。

3月で85歳という高齢ながら笹川記念保健協力財団の理事としてもハンセン病問題について助言を続けている大谷さんは、生きる上で大きな影響を受けた恩師について執筆するなど、多忙な日々を送っている。以下、大谷さんに人生の一部を振り返ってもらった。

「ハンセン病問題について 日本のハンセン病問題は解決したといっても、まだ社会的な差別解消とかやるべきことは多い。もう一つは、精神障害や難病の人々など社会的、経済的に被害を受けている人のことを社会全体で考えないといけない」。

社会全体が人権について考え直す必要がある。このままでは平等な社会とはいえない。(大谷さんの信念は「人間はみな平等であり、健常者も障害を持つ人も互いに人間として尊重しあう共に生きる社会を目指す」ことだという)

「生きる上で支えになったことは 京大在学中に「らいは恐ろしい伝染病ではないと」いう信念でハンセン病の患者を大事にした小笠原登先生と出会ったことだ。

先生は僧侶で兄の哲学者の秀実先生もすごい人だった。登先生との出会いが支えになり、何をやっていても「先生ならどう思うか」と考えた。

在学中に結核になり、滋賀県の実家で2、3年寝たきりの生活を送り、生きる希望を失った。ストレプトマイシンが無い時代だった。厚生省(現在の厚生労働省)に入ってからは結核体験を隠していたが、課長時代にある難病団体との交渉の席で初めて自分も元結核患者だと話した。

大声で抗議していた団体の人たちが急に静かになったことを覚えている。医者は優しさが必要だ。私は結核を経験してそれを痛感した。(小笠原博士らの思い出について、現在執筆中だ)

団塊の世代の人々など、人生の後輩へのアドバイスは 働ける限り働くことが大事だと言いたい。病気になってまで働けとは言わないが、私は結核をやりさらにがんにもかかってもくじけずに働いた。

振り返ると、がんセンターに通いながら国際医療福祉大学や高松宮記念ハンセン病資料館の仕事を続けた。激務だったと思う。周囲からはいい加減に休んだらといわれたが、自分の限界は分かるのでやることができた。大事なことは、社会のために恩返しをして役立つことだと思う。

急激に進行する高齢化社会の社会福祉のあり方について 高福祉・高負担の北欧方式で行かざるを得ないと思う。かつて北欧に半年留学し、帰国後北欧の社会福祉を賞賛したら袋だたきにあったことがある。

しかし、中福祉・中負担では中途半端でうまく行かない。日本を救うためには、国民の暮らしを質素にしても高福祉・高負担を実現すべきだ。消費税の引き上げは難しいが、政治家は国民が納得するよう話をしてほ
しい。

歩んだ道の思い出は 大学を出た後、保健所でアルバイトをしていた。その時の上司が中央に行って揉んでもらって来いと、厚生省に入ることを勧めてくれた。

ハンセン病を専門にやろうと思っていたが、医療を国や社会が大事にしないといけない、日本の医療をよくしようと思い、自信がないまま厚生省に入ったのは35歳の時だった。私よりも若い人が上にいてショックを受けた。

結核によって、人生では10年近いブランクがあったが、この間に医学以外の哲学書や宗教書を読み、ラジオでクラシック音楽を聞いたことが教養を高めることになり、あとで考えればよかったのだと思う」。(趣味は絵を描くことであり、著書は「現代のスティグマ ハンセン病・精神病・エイズ・難病の艱難=頸草書房=など多数」

大谷さん略歴 1924年滋賀県生まれ、京大医学部卒。滋賀県内の保健所や京都府衛生部勤務後、旧厚生省に入り、医系技官トップの医務局長で83年に退官。

退官後「らいは治る。患者を隔離しておくらい予防法は人権侵害であり、廃止すべきだ」と訴え続け、1996年に「らい予防法」が廃止された。その後提訴された熊本地裁のハンセン病国家賠償請求訴訟でも証人として出廷し「らい予防法は人権侵害」と証言した。

裁判は原告が勝訴し、当時の小泉首相が控訴を断念した。国際医療福祉大学総長や高松宮記念ハンセン病資料館館長などを歴任した。93年に社会医学・公衆衛生分野で功績があったとしてWHOレオン・ベルナール賞を受賞した。「日本財団が取り組むハンセン病制圧プロジェクト」より転載 (2009・02.25)2011・2・4


2011年02月04日

◆「牛蒡で死刑」に確証なし

渡部 亮次郎

欧米人は牛蒡を食べない。だから戦時中、捕虜にキンピラ牛蒡を食わせた収容所長が敗戦後の軍事裁判で「虐待」の罪に問われ、絞首刑に処された、と言う話をどこかで聞いて信じていた。

なるほど、ヨーロッパ在住の友人に牛蒡の土産を依頼されたことがある。「人参だけじゃキンピラが出来ないから」と言うわけだったから、牛蒡で死刑云々の話を信じていたわけだ。

余談ながら、パリの友人には塩鮭1匹がよろこばれたし、ある友人には「お茶も海苔も山ほどある」と言われて、「河豚のヒレ」を持っていったら感心された。珍品といわれて鼻高々だった。

閑話休題。「ウィキペディア」によると、牛蒡(ゴボウ)にまつわる食文化の違いがもたらした悲劇的な逸話として、「戦時中、外国人捕虜にゴボウを与えたところ、木の根を食べさせられたと誤解され、戦後にBC級戦犯として虐待の罪で処罰された」というものがある。

小中学校でよく読まれるはだしのゲンでも言及されているため(はだしのゲンではヤマゴボウと記述されている)、この逸話は小中学生の間でも比較的知られている。

しかし実際には、この逸話には曖昧な点が多い。「〜らしい」「〜と読んだ」などと伝聞調に語られることが多く、話す人によって、内容(場所、捕虜の国籍、量刑、処罰された人数など)が食い違っていることが珍しくない。

また、ゴボウを食べさせたことそのものを直接の原因として処罰されたとする裁判記録などは見つかっていない。

この逸話は、特に極東国際軍事裁判(東京裁判)に批判的な立場から、一方的な復讐裁判の好例としてしばしば取り上げられている。

この逸話についての最も古い記録の1つが、1952(昭和27)年12月10日に行われた第15回国会参議院法務委員会での、当時の法務省保護局長の齋藤三郎の答弁である。

一例としては、俘虜収容所の所員が、終戦真際食糧が非常に不足している。併しこれに対してできるだけいい食物を与えたいというのでごぼうを買つて来て食わした。その当時ごぼうというのは我々はとても食えなかつたのだ。

我々はもう大豆を二日も三日も続けて食うというような時代で、ごぼうなんてものはなかなか貴重品であつた。そのごぼうを食わしたところが、それが乾パン代りに木の根を食わして虐待したというので、5年の刑を受けたという、こういう例もあるのだという話をしましたが、(…)

しかし、具体的に誰が処罰されたのかなど、詳しい情報の出所はここでは述べられていない。

この翌年の昭和28年7月2日の参議院厚生委員会では、日本社会党の藤原道子が、「ごぼうを食べさしたものを木の根を食べさせたのだということで25年の禁錮を受けておる」と答弁しており、この時点でも既に量刑の内容が異なっている。

上坂冬子の著書『貝になった男 直江津捕虜収容所事件』では、新潟県の直江津町(現上越市)にあった東京俘虜収容所第4分所の所長らが、終戦後、収容されていたオーストラリア人捕虜達から「木の根を食べさせられた」という告発を受け、うち所長を除く8名が裁判で絞首刑となった、という具体的な記述がある(ただし、ゴボウを食べさせたことが直接の原因かどうかは書かれていない)。

朝日新聞の連載記事『地球・食材の旅』の1996年11月10日掲載分に、長野県下伊那郡天龍村にあった東京俘虜収容所第12分所(満島捕虜収容所)に勤務していた警備員1名が無期懲役の判決となり、その裁判中にゴボウを食べさせたことが虐待として扱われた、という話が掲載されている。

ただし、この警備員はまもなく釈放されたといい、実際に本人に取材を行ったがこの話については語ってくれなかった、と述べられている。

相馬暁は著書『野菜学入門』の中で「アメリカ人捕虜にゴボウを食べさせたために、昭和21年に、横浜の戦犯裁判で捕虜収容所の関係者が、2人が死刑、3人が終身刑、2人が十後年以上の有期刑の判決を受けた」と述べているが、それ以上の詳細については触れていない。

村山有が、捕虜にゴボウを差し入れたことを理由に戦犯容疑者としてGHQに逮捕された、という話がある。

弁護士清瀬一郎の著作『秘録東京裁判』の中には、「ある捕虜収容所」のケースとして、「牛蒡をオックス・テイル(牛の尾)、豆腐をロツン・ビーンズ(腐った豆)と誤訳したため、捕虜から不満が出た」という話が述べられている。

漫画 『はだしのゲン』では、「捕虜にヤマゴボウを食べさせて25年の重労働を課された」という話が、映画『私は貝になりたい』では、「ゴボウを食べさせて5年の懲役を受けた」という話が出てくる。

これらについて「ウィキペディア」の筆者は刑罰の原因としては軽すぎる。捕虜収容所での虐待行為ならば、強制労働や肉体的暴力など、ゴボウよりも重い罪がいくらでもあったはずである。

虐待行為の1つとしてゴボウが挙げられたことはあったかもしれないが、それだけを主因として刑に処されるというのは不自然、という意見がある」としている。

上記の第15回国会参議院法務委員会の答弁では、アメリカ司法局の行刑局長のベンネツトという人物にゴボウの話をしたところ、逆に刑の減刑について好感触があった、と述べられている。

ゴボウの根の部分を野菜として利用するのは日本と朝鮮半島だけの特徴であり、先述のように葉の部分を野菜として、根や種の部分を漢方薬として使用されることが多い。

ごぼう抜き:リレー走や駅伝競走などで、後方からほかの選手を一気に抜き去ること、または、多数抜き去ることをごぼう抜きと言うことがある。『広辞苑』(第5版)には、「(牛蒡を土中から引き抜くように)一気に抜きあげること。」とあるが、これは厳密には間違いである。

というのも、ゴボウはそれ自体が長く、根毛も多い。すなわち、土との接触面積が大きく摩擦も大きいため、するっと抜くことができないからである。事実、農家では、ゴボウは「抜く」ものでなく、「掘る」ものと認識されている。

この言葉はむしろ、抜きにくいゴボウを一気に抜くことができるほどの力を持っている、という意味で用いるほうが正確であろう。ゴボウの太い根は一株に一本なので、多数抜き去ることの比喩に用いるのは誤用といえる。

なお、「ごぼう抜き」という言葉には、座り込みなどを行う人物を力づくで排除するという、原義に近い用法もある。

ごんぼ(牛蒡)堀り ―青森県の方言に「ごんぼほり」(牛蒡堀り)というのがある。ぐずぐず不平を言って譲らない、酔ってくだを巻く(時に居座る)、強情である、ふてくされる(特に子供)、といった態度(あるいはそのような態度の者)ぐらいの意。なだめたり、お引き取り願うことはゴボウを「掘る」ことと同じくらい難儀であることから、であろうか。

私の郷里秋田県にも同様の言い回しがあり、秋田のローカルヒーローである「超神ネイガー」には「ゴンボホリー」という悪役が登場する。

太平洋でごぼうを洗う ―男女の性交において、女性の膣の締め付けがゆるいと同時に、男性の陰茎が細いため、男女とも十分な満足感が得られないたとえ。

牛蒡剣― 三十年式銃剣の俗称。

2011・2・1


2011年02月01日

◆結局自殺に追い込まれた江青

渡部 亮次郎

国共内戦の結果、1949年に毛沢東を国家主席とする中華人民共和国が建国され、江青はファーストレディとなった。しかし1960年代前半から、江青は政治活動に参加するようになり、かつての約束は反故となった。

当時、毛沢東が複数の女性との関係を持っていたために、夫妻は事実上離婚状態となっていた。そのため毛沢東は江青をなだめる必要があり、他の党幹部も政治活動を容認したという。

やがて1966年に始まる文化大革命で「四人組」の1人として活躍し、世界中に悪名を轟かせることになる。

1966年8月に中央文革小組第1副組長(陳伯達組長)に就任。革命的現代バレエを主張、京劇などの伝統芸能を排斥し、京劇界は多くの名優と演目を失うことになる。

1969年の9全大会、1973年の10全大会で中央政治局委員に選出。康生、謝富治らを使って多くの人物を冤罪に落しめ、張春橋、王洪文、姚文元との四人組を政治局で結成。林彪の失脚後の10全大会以降は文化大革命の主導権を握る。

表むきは夫毛沢東の忠実な部下を装い、「わたしは主席のためにパトロールする歩哨にすぎません」とよく口にしていた。

嫉妬深く自分より優れた所のある女性は容赦なく攻撃し、劉少奇夫人の王光美を失脚させたり、周恩来の養女で女優の孫維世を死に至らしめた。

江青は個人的に伝統芸能を好んでいたが、それを自分以外から取り上げることにまったく良心の呵責を感じていなかった。文革中は伝統芸能の打破を積極的に進めていたが、自身は景徳鎮などを愛し、熱心に収集していた。

さらに、1976年には復活したトウ小平を再度失脚に追い込み、批林批孔運動によって周恩来の追い落としも図ろうとした。しかし同年の毛沢東の死の直後に、「四人組」の1人として逮捕された。

1980年より他の「四人組」や林彪事件の関係者とともに裁判(「四人組裁判」)にかけられ、1981年に死刑(2年間の執行猶予付き)判決を受ける。1983年には無期懲役に減刑された。

1991年5月14日に、北京市北部の北京市昌平區にある小湯山秦城監獄で精神病の療養中に首吊り自殺した。古新聞の片隅に書かれた「毛主席 あなたの生徒 あなたの妻が いま…会いに行きます」というのが遺書である。

自殺については6月4日なってようやく新華社より発表された。本人は「生家の山東諸城に埋葬してほしい」と遺言状に残していたが、トラブルを懸念した江沢民が娘の李訥(毛沢東との唯一の娘)を北京の北京福田共同墓地に埋葬するよう説得した。

また葬儀費用約5〜6万元は李訥が負担させられた。墓石には、「先母李雲鶴之墓 1914年〜1991年 娘 娘婿 外孫建立」と彫られ、江青の墓とはわからないようになっており、また埋葬者の名前も刻まれていない。

死後も、「悪女」として名を馳せ娘の李訥が迫害を受けたり、日本では西太后らと共に悪女として名を連ねた番組が放映されたりしていたが、近年の中華人民共和国内では、毛沢東を主役にしたドラマなどでは賢女にされたり、同国の一部では「名誉回復」されている。

江青は右足の指が6本あった(李志綏著「毛沢東の私生活」上巻243ページより)。

1974年、江青はフィリピンのイメルダ・マルコス大統領夫人との会見に際して武則天を意識した特別製の礼服を作らせたが、さすがの江青も着ることをためらった。毛沢東の反対があったとされている。

毛沢東の葬儀で江青は黒服に黒のベールで顔を覆っていたが、アルゼンチン大統領ペロンの葬儀の時のイサベル・ペロン夫人(のち大統領)と同じ格好だったので、人々は、毛の後継者にならんとする江青の魂胆を読み取った。

「四人組裁判」の法廷では、これが一種の「政治裁判」であることを批判・嘲笑する言動をたびたびおこない、何度も退廷処分を受けている。

もっとも裁判では毛沢東の責任を検証しないなどそうした側面があったのは事実で、それ故に江青の言動が裁判を「茶番劇」から救ったと逆説的に評価する見解もある(辻康吾『転換期の中国』『文化大革命と現代中国』、いずれも岩波新書)。

女優時代から、養顔(美容)のために、出身地である山東省特産の阿膠(アキョウ)を飲んでいた。ハリソン・E・ソールズベリー『天安門に立つ - 新中国40年の軌跡』(日本放送出版協会、1989年)によれば、1976年当時の江青の頭髪はかつらで、実際にははげ頭であったという。

「一瞬のうちに毛(沢東)の棺の前で、そして党幹部の面前で、女二人の取っ組み合いの喧嘩がはじまった。王(海容。毛沢東の従兄弟・王季范の孫娘で当時外交部(外務省)副部長)は江青の頭に手を伸ばし、その髪を掴んでぐいと引っ張った。その瞬間、王はあやうく引っくり返って尻もちをつきそうになった。

気がつくと、手には何やら黒い塊がある。驚いて江青を見ると、その頭は卵のようにつるつるだった。黒いものは江青のかつらだったのである」。

写真を撮ることが好きで、現存する毛沢東の生活写真の一部は彼女が撮影したものである。陳永貴に「給料は食代と生活費以外殆ど本とフィルムにかかった」と述べた。また、上海照相机厰は彼女のために東風と紅旗カメラを開発した。(「ウィキペディア」)2011・1・26

◆上記2稿は、2月1日(火)刊の「頂門の一針 2169号に
掲載されました。

◆<2169号 目次>
・平気で嘘をつくタイプの小沢氏:乾 正人
・どこまで続く泥濘政治評論:石岡荘十
・結局自殺に追い込まれた江青:渡部亮次郎
・中国は欧米で銀行買収を開始:宮崎正弘
・「振り込め詐欺」が減っている:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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