2014年07月05日

◆プライバシー訴訟事始

渡部 亮次郎


プライバシーとは、個人の私生活に関する事柄(私事)、およびそれが他から隠されており干渉されない状態を要求する権利をいうと言われなくとも今やプライバシーは日本語同然、誰知らぬ者の無い「日本語」だ。

自決した作家三島由紀夫が、日本で最初のプライバシー侵害裁判の被告であり、日本人が、人間に、そんな権利があることを知った始まりだった。それが1961(昭和36)年3月15日に訴えられたプライバシー裁判だった。

英単語「Privacy」をカタカナ表記したもので、「私事権」と訳されることもある。

日本国憲法には明文規定はないが、第13条(個人の尊重)によって保障されると解されている。日本では「宴のあと」事件の際にプライバシーという言葉が使われたことから注目され、人格権として認められるようになった。

1961年3月15日、元外務大臣・東京都知事候補の有田八郎は、三島の『宴のあと』という小説が自分のプライバシーを侵すものであるとして、三島と出版社の新潮社を相手取り、慰謝料と謝罪広告を求める訴えを東京地方裁判所で起したのである。

有田八郎(ありた はちろう、1884年9月21日―1965年3月4日)は新潟県佐渡郡真野町(現在の佐渡市)出身の男性外交官、政治家である。息子圭輔も外交官になり園田直外相当時(1972年から74年ごろ)は父同様、外務事務次官だった。

八郎は山本家に生まれ、有田家の養子となった。実兄の山本悌二郎は立憲政友会所属の政党政治家で、田中義一内閣及び犬養内閣で農林大臣を務めたことで知られている。

戦前は「欧米協調派」に対する「アジア派」の外交官として知られ、近衛内閣時代に東亜新秩序の建設表明をした。日独伊三国同盟には最後まで反対したが戦後は公職追放。追放解除後は戦前と対照的に革新陣営に属し日本の再軍備に反対したことで有名である。

1909年:東京帝国大学法科大学独法科卒業、外務省に入省。1927年:田中義一首相兼外相のもとで外務省アジア局長に就任。1930年:駐オーストリア公使。1932年:外務次官。

1936年:廣田内閣に外務大臣として入閣。日独防共協定を締結。
1938年:第1次近衛改造内閣の外相、貴族院勅選議員。
1939年:平沼内閣の外相。
1940年:米内内閣の外相。

1953年:故郷の旧新潟1区から衆議院議員選挙に出馬して当選。1955年:東京都知事選に革新統一候補として出馬したが落選。1959年:都知事選に再び革新統一候補として挑戦するが落選。1961年:三島由紀夫の「宴のあと」をプライバシー侵害として訴える
(『宴のあと』裁判、有田の死後和解)。

裁判は、「表現の自由」と「私生活をみだりに明かされない権利」という論点で進められたが、1964年9月28日に東京地方裁判所で判決が出て、三島側は80万円の損害賠償の支払いを命じられた。この後、1965年に有田が死去したため、有田の遺族と三島との間に和解が成立した。

なお、当初この件で三島は友人である吉田健一(父親の吉田茂が外務省時代に有田の同僚であった)に仲介を依頼したものの上手くいかず、この事が後に三島と吉田が絶交に至る機縁になったといわれている。
                       『ウィキペディア』

2014年07月03日

◆「核」が日中開戦を抑止する(47)

平井 修一


国家基本問題研究所のサイト(6/17)から要約する。

              ・・・

ジャーナリスト井上和彦氏は、5月23日の国家基本問題企画委員会にゲストスピーカーとして出席し、軍事・安全保障問題を語る際に今一番心を砕いている事柄について語った。

一体、24万人という自衛官の定員が世界標準と比べて大きいのか小さいのか。その際、在日米軍の役割をどう見ればいいのか。

沖縄の「ヘイワ運動家」と称するプロ市民たち。「ヘイト・スピーチ」にあふれる彼らの行動から目をそらしてはならない。(以下講演)

              ・・・

井上和彦でございます。専門は軍事・安全保障問題です。

これまで軍事や安全保障問題は、専門家や識者によってより難しく語られてきたため、国民に伝わりにくかった。そこで難解な軍事や安全保障問題をどうしたら分かりやすく国民に伝えられるかということを考えてきました。

たとえば、「弾道ミサイル防衛(BMD)ってなに?」と聞かれたときに、これをバドミントンに例えて説明しております。バドミントンで有名な“オグシオ”に例えます。2人で落ちてくるシャトル(弾道ミサイル)を撃ち落す要領だ、と。

先ずは前にいる小椋さんがイージス艦のSM-3です。彼女が撃ちもらしたら、後ろで構える潮田さんが狙い撃つ。これがパトリオットミサイルですよ、という具合に説明をしますと、これまでまったく弾道ミサイル防衛が理解できなかった方々にもその仕組みがわかっていただけるようになるんです。

とにかくいまの日本は、家庭の主婦の方々にも安全保障をわかっていただかなければならないと考えております。

まず日本における安全保障議論は、いつも定性的な議論に終始し、その基礎データとなる客観的な数値が示されません。まず自衛官の数ですが、現状定員の24万人が多いのか少ないのかを世界各国と比較してみます。

イギリス・ドイツ・フランス・アメリカ・イタリアなどの先進国では、国民のおよそ230人から300人に1人が軍人という計算になります。ところが日本では、自衛官は国民550人に1人なんです。日本の軍人(自衛官)の国民に対する比率は明らかに世界各国の半分ですね。

この客観的な数字をみれば自衛官の数が少ないことが一目瞭然でしょう。こういう見方を提示すると、多くの方が「あ、そういうことだったのか、自衛隊は人数が足りないんだ」と理解してくれます。国会で、日本が軍事大国だなどと叫ぶ国会議員がおりますが、それは妄想にすぎないのです。

次に防衛費をみてみましょう。日本の年間防衛費は約4兆8000億円で世界第7位にランクされています。では果たして、この額は多いのか少ないのか。

日本ではGDPの1%を超えるか超えないかという議論がありますが、他の国はどうでしょうか。国防費のGDP比ですが、アメリカ・イギリス・フランス・韓国などの国々の軍事費は2.5%から3%となっています。ということは、日本はこれらの国々に比べて二分の一あるいは三分の一ということになります。

この2つの数字を提示しますと、「え?人員も防衛費も少ないじゃないか。その少ない分はどうしてるんだ?」ということになります。こうして客観的な数字を示してやれば、我が国の軍人(自衛官)の数や防衛費は国力に見合っていないことが浮き彫りになってきます。

そこでこの不足分を補完するのが「在日米軍」となるわけです。この事実を提示することで在日米軍の存在意義も説明することができます。したがって、もし在日米軍が出てゆくことになれば、理論上、国土防衛のためには現在4兆8千億円を約三倍の15兆円まで防衛費を膨らまさなければならないという計算になります。

このよう客観的な数字を提示することで日本の防衛力の概要を簡単に説明することができるわけです。

さて尖閣諸島の問題です。尖閣諸島最大の魚釣島を、韓国によって不法占拠されている竹島と数値で比較してみると、この問題への関心がさらに高まります。魚釣島の面積は3.82平方キロですが、竹島は構成する2つの島と37の岩礁を合わせた総面積が0.24平方キロですから、尖閣諸島の魚釣島だけでも竹島の総面積の20倍ということになります。

なるほどこれならば、一定規模の施設建設や公務員常駐も可能であることがわかってきますし、また同時に尖閣諸島が絶対に譲れない戦略要衝であることも理解できます。こうして具体的な数字を比較すれば、尖閣諸島に対する見方も少しは変わってくるでしょう。

続いて沖縄における米軍基地問題ですが、そこにはあまり知られていない深刻な問題があります。

まず嘉手納基地を一望できる「道の駅」です。その展望テラスには常時何名かのカメラマンが離発着する米軍機を超望遠レンズで撮影しています。単なる航空機マニアもいるでしょうが、その多くが撮影した写真を専門誌に売り込むなどしているカメラマンだと思われます。ところが最近不審な動きが確認されているのです。

情報によりますと、沖縄で会社を経営する在沖中国人がある日本人カメラマンを買収して米軍機の撮影をさせているのです。私が得た情報によりますと、とりわけ最新鋭機のF22ラプターが飛来したときは相当量の写真を撮っているようで、なかでもF119エンジンのノズル部分を集中的に撮っていたという具体的な情報も寄せられています。これは同機の高い機動性を実現する推力偏向ノズルに関する情報収集でしょう。

またこの日本人カメラマンは、操縦中の“パイロットの顔”を撮影しているという情報もあります。もっともヘルメットを被ってバイザーをしているわけですからパイロットの顔を撮影するのは困難ですが、実はパイロットのヘルメットにはタックネームが書かれていることもあり、この情報の集積によって、飛行訓練のローテーションがわかるというわけです。実に巧妙かつ念入りなスパイ活動です。

さらに道の駅嘉手納には、同じ展望テラスで四六時中航空無線を聴いている人がおり、こうしたデータを収集して解析すれば米海軍のP-3C哨戒機の哨戒飛行ローテーションもわかってしまいます。もとより、この展望テラスからは、嘉手納基地内が丸見えであり、軍事機密の一つである戦闘機の掩体壕(えんたいごう)の厚みもばれてしまいます。これは安全保障上たいへんな問題なのです。

那覇空港に降り立った中国人が、タクシーでこの道の駅嘉手納に直行するケースもあるといい、このようにスパイの温床でもある道の駅嘉手納は、米軍にとってみれば実に迷惑な存在となっているのです。

ここからは沖縄にける基地反対運動の話となります。この反対運動は民主党政権末期の九月、十月あたりから激化しました。米海兵隊普天間基地へのMV22オスプレイの配備計画が進むにつれて、地元沖縄メディアの配備反対報道は激化してゆき、連日オスプレイ配備反対を訴え、オスプレイ配備に関する記事が紙面を占有しているようでした。

ちょうどこの時期、日本政府による尖閣諸島国有化の動きに反発する中国が公船を繰り出してきて領海に侵入したり、あるいは長期間居座ったりと挑発行為をはじめた頃でした。ところが地元沖縄メディアは、この中国の領海侵入や挑発行為なんぞそっちのけで、もっぱらオスプレイ配備反対の論陣を張っておりました。

それはまるで中国の脅威を沖縄県民に知らせないようにするかのごとき“煙幕”の役目を果たしておりました。海上自衛隊護衛艦が中国海軍艦艇からレーダー照射を受けるという事件のときも同様でした。

そして米軍普天間基地周辺の反対運動ですが、ここにも封印された深刻な問題があります。いわゆる“ヘイワ運動家”と称するプロ市民らが米軍基地のフェンスに、反オスプレイ・反基地の意思を示すために、基地を取り囲むフェンスに赤や黄色のビニールテープなどを巻きつけて違法な反対運動を展開しているのです。

しかもフェンスに巻きつけたビニールテープの中に砕いたガラス片などを仕込ませて、テープを剥がそうとすると怪我するように仕組まれているものもあるんです。さらには、ガラクタをフェンスに結び付けるなど、“抗議の意思表示”とは到底思えないものもあります。

ところがこのあたりは通学路もあり、強い風でこうしたガラクタが飛んできたらきわめて危険です。にもかかわらず地元警察はこの違法行為をやめさせようとはしないんです。非常におかしなことですね。

こうした違法行為を行っている“ヘイワ運動家”なる人々の中には本土からやってきた活動家が多く、地元の参加者はその多くが元教員や元公務員だったりするといいますから、さもありなんでしょう。

いずれにしても、公共物に対するこうした悪質なイタズラや破壊行為を沖縄県警がまったく取り締まらないことは大きな問題です。

しかしこうした違法行為を見るに見かねた地元の人々がついに立ち上がったのです。地元有志の住民らは、毎週日曜日の午前九時から“ヘイワ運動家”によって汚されたフェンスをきれいにする“フェンスクリーン作戦”という清掃作業を行っています。地元の人々は、活動家らによって地元普天間が汚されていることに我慢ならなかったのです。

ところがこれに対して“ヘイワ運動家”らは、先ほど紹介したようにテープの中に割ったガラス片などを仕込ませて怪我をするようにしたり、有刺鉄線がはじけて怪我をするように仕組んだトラップを仕掛けてきたのです。こんなことが許さるのでしょうか? このように地元宜野湾の住民に迷惑をかけ、あるいは傷つける行為を“ヘイワ運動”といえるでしょうか?

さらに彼ら“ヘイワ運動家”と称するプロ市民らは、普天間基地に出勤・帰宅する米軍兵士の自家用車に対して鬼のような形相で、聞くに堪えない汚い罵声を浴びせ、米軍兵士らを精神的に追い詰めようとしております。私自身も、普天間基地に入るときに汚い言葉で凄まじい罵声を浴びせられてこれを経験しましたが、ついこの前まで高校教師だった人がどうしてこのような常軌を逸した行動ができるのかと呆れてモノが言えませんでした。

その様相はまさに“ヘイト・スピーチ”以外のなにものでもなく、絶対に許されるものではありません。にもかかわらず、やはり地元警察はこの現場に居合わせておきながらまったく止めようともしないんです。もしやこのヘイト・スピーチが原因で日米同盟にヒビが入るようなことになれば、いったい誰が責任をとるのか。警察は、こうしたプロ市民による暴力行為に近い威嚇行為をきちんと取り締まるべきでしょう。

そんな中、こうしたことに対しても地元住民が立ち上がり、出勤・帰宅する米軍兵士らに「米軍は私たちの友人だ」「この島を守ってくれてありがとう!」という横断幕を掲げて、朝な夕なに米軍兵士に感謝の言葉を贈る「ハート・クリーン作戦」を始めたのです。これは本当に素晴らしいことです。

ところが地元メディアはこうしたことを一切報道しません。地元紙は、プロ市民らによる異常な行動や違法行為を米軍への正当な抗議行動としてむしろ後押ししているのですからあいた口が塞がりません。

さて現在、我が国防衛の喫緊の課題は、沖縄周辺離島を含む南西方面の島々を守る「島嶼防衛」です。

現在、沖縄本島には陸上自衛隊第15旅団の2200人が配置されていますが、八重山諸島・宮古諸島・奄美諸島には陸上自衛隊の地上部隊はまったく配置されていません。

もっとも沖縄本島にはF15戦闘機を擁する航空自衛隊の南西航空混成団、および、P3C哨戒機を擁する海上自衛隊第5航空群なども配置されていますが、これらの戦力ではもはや軍拡著しい中国軍に対抗してゆことが難しくなってきているというのが現状です。

だから陸上自衛隊の主要離島への配置と航空戦力の拡充を急がなければならないのです。

そうした日本政府の防衛政策に真っ向から反対の意を唱え、自衛隊の離島配備を妨害しようとする勢力が増長しはじめていることが気がかりです。今後、具体的な配備計画が発表されると、妨害工作や米軍基地反対運動で行われているようなことが自衛隊に向けて行われることが懸念されます。

実は、陸上自衛隊の配置が予想される宮古島には怪しい石碑がすでに建立されています。

航空自衛隊レーダーサイトの近くに“平和の森予定地”というのがあり、このエリア内に、なんと「アリランの碑」という記念碑が建立されているのです。従軍慰安婦の石碑はアメリカのグレンデール市だけではなかったのです。

そのアリランの碑の中に「女たちへ」という石碑があり、そこにはこんな文言が刻まれています。

「2006年から2007年にかけて慰安婦を記憶していた島人と韓国・日本の研究者との出会いから、碑を建立する運動が始まり、世界各地から賛同が寄せられました。

日本軍によって被害を受けた女性の故郷の十一の言語と、今も続く女性への戦時性暴力の象徴として、ベトナム戦争時に韓国軍における被害を受けたベトナム女性のためにベトナム語を加えて、十二の言語で追悼の碑文を刻みます」と。

いったいだれが何の目的で建てたのか、首をかしげる内容ですが、もちろん自衛隊配備に対する牽制の意味もありましょうが、これは韓国にとっても都合の悪い内容となっています。となれば思い当たるのが北朝鮮です。

そもそもベトナム戦争時における韓国軍の卑劣極まりない民間人大虐殺や強姦などは、韓国ではタブーであり、学校で教わることはありません。韓国にとって最も都合の悪いこうした史実は完全に封印されているはずです。にもかかわらず、どうしてベトナム戦争における韓国軍の汚点が刻まれているのか。それはつまり、この石碑の建立の裏には、韓国の戦争犯罪を告発することで韓国の国際的信用をも失墜させようとする勢力、つまり
北朝鮮とその後ろ盾となっている中国がいるからです。

中国や北朝鮮が、極東アジアの軍事バランスを崩して優位に立つためには、まずは日米韓の連携に楔をさす必要があり、そのためにもっとも脆弱な日韓関係が狙い撃ちされているとみてよいでしょう。そのもっとも有効な戦術が“慰安婦問題”であり、この問題を生起させることで日韓関係に亀裂を入れさせようとしているのです。目下この作戦は見事に成功し、アメリカにおける慰安婦像設置はもとより、もはや日韓関係は修復不能なほどになっています。

要するに現代のいわゆる“従軍慰安婦問題”の本質は、中国・北朝鮮による日米韓関係の分断にあり、韓国がこうした本質を理解し、無意味な反日姿勢を転換しないかぎり、アジアのパワーバランスはますます中国有利に傾いてゆくことになるでしょう。

そしてこうした見えざる戦いの舞台になっているのが沖縄であり、だからこそ沖縄から目が離せないのです。(以上)
・・・

日本防衛の最前線がアカに乗っ取られている。まともな島民と連帯して反日赤化工作を阻止しなければならない。どうすればいいのだろう。(2014/7/1)

À

2014年07月02日

◆「核」が日中開戦を抑止する(46)

平井 修一


ニューズウィーク6/4のインタビュー「“自信なき大国”中国の未来」を紹介(転載)する――

           ・・・

1989年の天安門事件に広州から参加し、その後2回投獄。96年にアメリカに亡命し、現在ニューヨークで政治評論家として活動する陳破空(チェン・ポーコン)氏は独自の中国政治評論で知られ、著書では「日本は中国との戦争を恐れるべきでない」とも説いている。この膨張し続ける難解な大国とどう向き合うべきか、来日した陳氏に聞いた。

──この25年間の中国の変化についてどう考えますか。

確かに中国は経済的に大きく発展したが、予想の範囲内です。なぜなら中国は人口が多く、土地の面積も広い。毛沢東が死に、トウ小平が貧しかった中国人を縛っていた「縄」をほどいた訳ですが、あれほど人口が多くて大きい国にたくさんの外国投資が集まれば、発展するのは当然のこと。何も奇妙なことではない。

過去数千年の歴史を見れば、中国はずっと世界経済の1位を占める国でした。この25年間の発展を見ても私は少しも驚きません。

しかし、25年前にわれわれが「反腐敗」を掲げて運動したにもかかわらず、最近の中国は前にも増してもっと腐敗しています。官僚は権力を利用して巨額の汚職を行い、そのカネを使って子供たちを海外に留学させている。彼らは安心できないのです。腐敗の拡大とともに、貧富の差も広がっています。

1989年に私たちは「民主化」も掲げましたが、中国政治の闇はますます拡大しています。穏当な主張をしている知識人が最近、どんどん拘束されている。先日も広州で同じく民主化運動を戦った民主活動家の夫婦が天安門事件の追悼式典を開こうとして中国当局に逮捕されました。

ウイグルでは立て続けに爆破事件が起き、チベットでは焼身自殺が続く。中国政治にまったく進歩はありません。25年前に掲げた「反腐敗」「民主化」という目標は正しかった。中国には今も民主化と反腐敗が必要です。

習近平は最近、「三つの自信(理論への自信、進む道への自信、制度への自信)」というスローガンを掲げていますが、実は1つの自信もない。だから、彼らはもっとも穏当とされる人たちさえ逮捕するのです。この4月に習近平は(国内の治安強化などのために新設した)国家安全委員会の初会合を開きましたが、彼が掲げた「11の安全」のトップは「政治の安全」です。それほど彼らには安心感がない。

──「政治の安全」という言葉はとても奇妙に聞こえます。

彼らは「中国の特色のある国家安全の道」とも言っています(笑)。

──最近出版されたあなたの著書『日米中アジア開戦』(文春新書)を読んでいると、同意できる部分もありますが、同意しかねる部分もある。例えば、「日本人は腐敗した人民解放軍を恐れる必要はない」「仮に日本と中国が戦争になっても、決して自衛隊は中国軍に負けない」というような記述は、日本人に「中国と戦争できる」という誤解を広げることになりませんか?

共産党はその初期のころには高い理想がありました。彼らは死を恐れず、人民解放軍は国共内戦や朝鮮戦争でも勇敢に戦いました。しかし、解放軍は今とても腐敗しています。この腐敗ぶりは外部からはとても想像できない。

中国は独裁政権ですが、独裁政権には「国内では国民に対して圧政を敷き、国外では膨張をはかる」という特徴があります。例えばロシアは民主化したばかりのころは対外拡張の動きがありませんでしたが、プーチン大統領が独裁体制を固めたとたんにグルジア、ウクライナへの拡張を始めた。

中国政府も同じです。国内では人民を抑圧する一方で、東シナ海や南シナ海への拡張を進めている。ベトナムやフィリピンをいじめ、日本を威嚇しています。

中国は政府も軍隊も腐敗していて、必ずしも日本が負けるとは限りません。それなのに、もし日本が中国を過剰に恐れてしまうと、中国政府は一歩また一歩と日本、そしてフィリピンやベトナムを押し込んできます。これは恐ろしいことです。

私は国際社会が団結して中国に向き合うべきだと考えます。彼らを後退させ、さらには民主化させる。もし25年前に民主化が実現していたら、このような事態にはなっていない。中国の民主化は中国の国民だけでなく、世界の人々にとってもいいことなのです。

──1972年の日中国交正常化以降、日本にはしばらく「戦争責任があるから、とにかく日本は中国には謝罪しなければならない」という雰囲気が強くありました。ただ、中国は当時とは大きく変わった。われわれが中国と向き合う姿勢も当然変わるべきです。

日本が中国に謝罪したことは誤りではありません。ただ、中国政府は国民に日本政府が謝っていることをまったく伝えてこなかった。彼らは教科書やメディアを完全にコントロールして、「日本はこれまで中国にまったく謝罪してこなかった」と嘘をついてきました。

毛沢東も田中角栄首相が会談で謝罪したとき、「あなたたちのお陰で共産党は内戦に勝利することができた。謝る必要はない」と語っていた。しかし、中国の国民はこれまでまったく毛沢東のこういった言葉を知りませんでした。

この60年以上、日本は平和国家としてこれまでほかの国と戦争してきませんでした。逆に共産党の中国は戦争ばかりしてきた。インドと戦いベトナムと戦い、韓国・アメリカと戦争したこともあるし、ソ連とも戦った。なぜ、60年以上平和を守って来た日本が反省しなければならないのか。逆にずっと戦争を続けてきた中国はなぜ反省しないのか。

毎年軍事費が10%以上増えている中国が、なぜ5年間で5%も伸びない日本を軍国主義呼ばわりするのか。とても不公平です。

──日本は戦争を恐れるべきでないかもしれない。ただ、同時に戦争の怖さも意識すべきでは?

日本は平和主義の民主国家です。日米安保条約もある。日本が主導的に戦争を始めることはないでしょう。ただ戦争を避けるということと、中国や共産党に対して縮こまることは違う。自らの軍事力を否定するのも間違いです。

一方、中国は何の圧力もない中、軍事費を増やし続けてきた。その結果、日本やアジアの国が脅威を感じている。戦争を始めるのは日本ではなく中国です。日本はアメリカや周囲の国と協力して、中国に向き合うべきです。日本が強大になって初めて、共産党は日本を脅威に感じ、戦争を起こしたくないと考える。

──あえて聞きますが、あなたは日本と中国の戦争、あるいはアメリカと中国の戦争をあおることで共産党政権を倒そうとしているのでは?

私は中国と日本、中国とアメリカの戦争で共産党が崩壊することを望んではいません。ただ私は共産党崩壊の可能性はあると考えます。その原因の1つが外国との戦争です。

清朝は改革や憲政の導入を拒否したうえで、外国と戦争を起こし、最後は辛亥革命で倒されました。現在の共産党は清朝の歩んだ道を繰り返す可能性があります。政治は腐敗し、改革を拒み、文明社会に加わることを拒否する──こういう状況では、外部との戦争が中国を変える可能性があります。ただこれは私の希望ではなく、客観的な分析です。

──今後の日中関係はどうなりますか? 日本はどう中国に向き合うべきでしょうか。

私も日中が友好であることを望みますが、その相手はあくまで民主的な中国で、専制国家の中国ではない。日本は第二次大戦の歴史ゆえ、アメリカやヨーロッパ諸国のように中国の人権問題を批判しません。ただ、関係は悪化している。

逆にアメリカやヨーロッパは中国に政治犯の釈放を求めても、関係は必ずしも悪くなっていません。つまり、日本は本来なすべきことをすべきなのです。アジアの平和大国として、常に中国の人権状況を批判すれば、中国の国民は次第に「日本は中国を助けたいのだ」と理解するようになります。

──中国は本当の意味での民主国家になれるでしょうか。まだ十分な市民社会も育っていません。

中国は25年前、民主化の絶好の機会を逃しました。今となっては民主化は非常に困難ですが、政治は独裁、経済は腐敗、外国とは対立ばかり...このような中国政府に前途はありません。これまで民衆活動家、法倫功、チベット、ウイグル人が戦ってきましたが、中国政府を倒すことはできませんでした。ただし、国際社会はあきらめてはならない。日本政府も謙虚過ぎてはいけないでしょう。(以上)

                 ・・・

平井思うに、どんなに逆境にあっても「絶望せずに未来を希求」することが大事なのだなあと陳破空氏は述べている。獄中の多くの改革派、人権派の志士もその気持ちで日々を耐えている。中共殲滅、支那解放の聖火をリレーしていこう。さあ、共産独裁撲滅、民主興隆の「滅共興民」へ、15億の日支人民は団結せよ!

(それにつけても我が国のマスコミにはなぜこういう記事が出ないのだろうか。GHQは愚民化政策で「日本のマスコミは Star、Scandal、Sex、Screen、Sports の“5S”を煽ればいい」と方向づけたそうだが、都議会の“目くそ鼻くそ”のヤジ騒動などの記事を見ると、Scandal 大好きという絶望的なほどの低レベル論調に、「わが国は大丈夫なのか」と心配してしまう。

3.11で多少は緊張感が戻ったが、まだまだ「踊るポンポコリン」の“ちびまる子”だ。シコシコ覚醒を促していくしかないが、きつーい一発をそのうち中共がプレゼントしてくれるだろう。この世はお花畑ではないことを悟ってくれるといいが・・・絶望せずに未来を希求・・・難しいことだが、踏ん張っていくしかないか。皇居を遥拝して切腹する人の気持ちが分
かる)(2014/6/29)

◆したたか大阪人・服部良一

渡部 亮次郎


大阪出身の作曲家服部良一(はっとり りょういち、1907年10月1日―1993年1月30日)は、日本の作曲家、編曲家、作詞家(「村雨まさを」名義で作品を出している)。大阪市平野区出身。

ジャズで音楽感性を磨いた、和製ポップス史における重要な音楽家の一人と「ウィキペディア」。名曲「青い山脈」「東京ブギウギ」を残した大作曲家だが、戦時中、内務省の検閲を欺いた「大物」とは誰も書かない。

「夜のプラットホーム」は戦後の昭和22年に発表され、大ヒットしたが、実はもともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。

1939年(昭和14年)公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷が吹き込んだ。だが、戦時下の時代情勢にそぐわないと内務省の検閲に引っかかり、同年に発禁処分を受けた。理由は「出征する人物を悲しげに見送る場面を連想させる歌詞がある」だった。

作詩 奥野椰子夫  作曲 服部良一
1 星はままたき 夜ふかく なりわたる なりわたる
 プラットホームの 別れのベルよ  さよなら さようなら
 君いつ帰る

2 ひとはちりはて ただひとり  いつまでも いつまでも
  柱に寄りそい たたずむわたし  さよなら さようなら
  君いつ帰る

3 窓に残した あのことば  泣かないで 泣かないで
  瞼にやきつく さみしい笑顔  さよなら さようなら
  君いつ帰る

昭和13年の暮、東京・新橋駅で出征兵士を見送る歓呼の声の中に、柱の陰で密かに別れを惜しむ若妻の姿。それに心を打たれた都新聞(東京新聞)学芸記者の奥野椰子夫。

作詞家としてコロムビアに入社して翌年1月に「夜のプラットホーム」として書きあげ、服部良一が作曲、淡谷のり子が吹き込んだのだったが、発売禁止。

だが、曲に愛着をもつ服部が一計を案じた。検閲官を欺こうというのである。レコードが輸入盤なら検閲を潜られる制度だったので、2年後の1941年(昭和16年)、「I'll Be Waiting」(「待ちわびて」)というタイトルの洋盤で発売した。

作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。

R.ハッターこそは良一・服部が苗字をもじって作った変名で、ヴィック・マックスウェルは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていたドイツ系のハーフの男性の変名だった。

策略はまんまと当り、この曲は洋楽ファンの間でヒットした。当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カロ楽団によってレコーディングされた。

このとき服部は、やはり先に発売禁止になった「鈴蘭物語」(作詞藤浦 洸, 唄淡谷のり子)を「Love‘s Gone(夢去りぬ)」作曲R・ハッターとしてB面に収録。人々はこれも外国曲として愛好した。内務省は服部にしてやられたのである。

肝腎「夜のプラットホーム」は検閲の無くなった昭和22年、二葉あき子が歌って大ヒット。それまでの歌手活動の中、ヒットはあったものの大ヒット曲のなかった二葉にとっては待ち望んでいた朗報であった。

「夢去りぬ」の方は霧島昇が歌いなおして、これまた大ヒットした。

服部良一は大阪の本庄で土人形師の父久吉と母スエの間に生まれた。小学生のころから音楽の才能を発揮したが、好きな音楽をやりながら給金がもらえる出雲屋少年音楽隊に一番の成績で入隊する。

1926年にラジオ放送用に結成された大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団。ここで指揮者を務めていた亡命ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテルに見出され、彼から4年にわたって音楽理論・作曲・指揮の指導を受けた。

1936年(昭和11年)にコロムビアの専属作曲家となった。やがて、妖艶なソプラノで昭和モダンの哀愁を歌う淡谷のり子が服部の意向を汲み、アルトの音域で歌唱した『別れのブルース』で一流の作曲家の仲間入りを果たす。

その後ジャズのフィーリングをいかした和製ブルース、タンゴなど一連の和製ポピュラー物を提供。淡谷のり子は『雨のブルース』もヒットさせ「ブルースの女王」と呼ばれた。

その後、霧島昇・渡辺はま子が共演し、中国の抒情を見事に表現した『蘇州夜曲』、モダンの余韻を残す『一杯のコーヒーから』、高峰三枝子が歌った感傷的なブルース調の『湖畔の宿』(発売禁止)など、服部メロディーの黄金時代を迎えた。

だが、大東亞戦争中は不遇。戦後は大活躍した。古賀政男がマンドリン・ギターを基調にした洋楽調の流行歌から邦楽的技巧表現を重視した演歌のスタンスへと変化したのに対し、服部良一は最後まで音楽スタンスを変えることなくジャズのフィーリングやリズムを生かし、和製ブルースの創作など日本のポップスの創始者としての地位を確立した。

日本のポップス界隆盛の最大の功労者である。曲自体も歴史的価値は別にしても今日でも全く魅力を失っていないものが多く、その意味では海外のクラシックやスタンダード・ポップスの巨人と並べて語るべき存在ともいえる。日本レコード大賞の創設にも尽力した。

1993年1月30日、呼吸不全のため死去。享年85だった。死後、作曲家としては古賀政男に次いで2人目の国民栄誉賞が授与された。なお『青い山脈』を歌った藤山一郎も国民栄誉賞を受賞している。さすが反権力の大阪チャンピオン。

2007年12月30日、第49回日本レコード大賞にて特別賞を受賞。

息子は作曲家の服部克久と俳優の服部良次がおり、孫に服部隆之(服部克久の長男)、バレエダンサーの服部有吉(服部良次の息子)がいる。妹は歌手で服部富子1917年(大正6年)4月6日 - 1981年(昭和56年)5月17日)。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


      

2014年07月01日

◆何時まで「皆さんの」NHKか

渡部 亮次郎


東京の街を見回して気の付くことだが「喫茶店」が殆ど姿を消し、新たに登場したのが単身客相手のコーヒー屋だ。友達同士、喫茶店に入って音楽で癒しながら話に興じると言うことが無くなった。

コーヒー屋では自分だけを癒している女性や男性を目にするが、話し込んでいる客は皆無だ。なんとなく「孤独」でパーソナルな時代になった。

企業や団体で、慰安旅行が忌避されてもはや久しい。会社の上役や同僚といること自体が「ストレス」であるから、温泉宿で一緒に酒を呑んでもストレスがたまるだけ。

だからストレスが溜まったら、こっそりコーヒー屋に一人で入り、独りで癒すのだろうか。団体を忌避し、孤独が癒しになる時代が到来したのだろう。

そうかと思うとNHKはいつまでも「皆さんの」を叫んでいる。ラジオ深夜便では午前4時の直前「何時でも何処でも安心をお届けするNHKラジオ。NHKのラジオとテレビの放送は皆さんの受信料で作られています」とコマーシャルを必ず放送している。

あれを聴くと「皆さん」というグループか階層かがあって、その人たちの出す受信料なる資金で、番組がNHKじゃない他の場所で制作されているのだ、と聞える。NHKが制作しているのではなく別の会社によって制作「されて」いると。

「あなたの払って下さる受信料で私共が番組を作っているのです。ですから受信料は必ず払って下さるよう御願します」とは聞こえない。聞こえないコマーシャルは無駄。誰一人これに気が付かないというのだからNHKには人が沢山いるようで、「誰もいない海」なのだ。

日本でも、初め、ラジオの放送が始まった時、それは高価であって、番組は各家庭で家族一緒に茶の間で楽しむものだった。だからNHKも聞いているのが「あなた」ではなく「みなさん」だった。

だが、いまやテレビもラジオも一人ひとりで視聴する時代になっている。パーソナルなものに変化したのである。喫茶店がなくなったと同様、放送は家族団らんの道具ではなくなったのである。

だからNHKの呼びかけは「皆さん」から「あなた」に切り替えなければ時代遅れなのである。NHKは「みなさまの」から「あなたの」NHKにならなければならなくなっているのである。

あるいはNHKの経営陣はNHKを受信していないのかも知れない。少なくともラジオ深夜便の午前4時直前の「コマーシャル」を聞いてないのだろう。NHKには人はいるが「皆さん」から「あなた」に変える人材はいないからなぁ。(元NHK政治記者)



  

2014年06月30日

◆トウ小平の歩んだ途

渡部 亮次郎


!)小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗以降、次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、総書記の?小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第二の走資派」と批判されて権力を失うことになる。

1968年には全役職を追われ、さらに翌年、江西省南昌に追放された。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、?小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、党籍だけは剥奪されなかった。

南昌ではトラクター工場や農場での労働に従事するが、与えられた住居には暖房設備もなく(南昌は冬は極寒の地である)、強制労働は過酷なもので、?は何度か倒れたが砂糖水を飲んで凌ぐことしか許されなかった。

1972年9月、田中角栄内閣により日中国交正常化。筆者もこのとき初訪中したがトウはいなかったばかりか中国人は誰一人としてトウの名前すら口にしなかった。それだけ毛を恐れていたのである。

1973年3月、周恩来の復活工作が功を奏し、?小平は党の活動と国務院副総理の職務に復活、病身の周恩来を補佐して経済の立て直しに着手する。

同年8月の第10回党大会で中央委員に返り咲き、12月には毛沢東の指示によって党中央委員会副主席、中央軍事委員会副主席、中国人民解放軍総参謀長となり、政治局を統括。

1974年4月、国連資源総会に中国代表団の団長として出席し、演説。その際訪れたニューヨークの威容に驚嘆し、国家発展のためには製鉄業の拡充が急務と考え、新日本製鐵(新日鉄)などから技術導入を図る。

1975年1月、国務院常務副総理(第一副首相)に昇格し、周恩来の病気が重くなると、党と政府の日常業務を主宰するようになる。

着々と失脚以前の地位を取り戻して行ったかに見えたが、1976年1月8日に周恩来が没すると、?小平の運命は暗転する。清明節の4月4日から5日未明にかけて、江青ら四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われていた周恩来追悼デモを弾圧した。すなわち第一次天安門事件である。

この事件において周恩来追悼デモは反革命動乱とされ、?小平はこのデモの首謀者とされて再び失脚、全ての職務を剥奪された。しかし、党籍のみは留められ、広州軍区司令員の許世友に庇護される。同年9月に毛沢東が死去すると、後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後、1977年に3度目の復活を果たす。

1977年7月の第10期3中全会において、国務院常務副総理、党副主席、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に正式に復帰。翌8月に開催された第11回党大会において、文化大革命の終了が宣言される。?小平は文革で混乱した人民解放軍の整理に着手するとともに、科学技術と教育の再建に取り組み、同年、大学統一入学試験を復活させる。

1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換のため、中国首脳として初めて訪日し、昭和天皇や日本政府首脳と会談したほか、千葉県君津市の新日鉄君津製鉄所、東海道新幹線やトヨタ自動車などの先進技術、施設の視察に精力的に行い、京都や奈良にも訪れた。

この訪日で?小平が目の当たりにした日本の躍進振りは、後の改革開放政策の動機になったとされる。また、新日鉄との提携で、上海に宝山製鉄所を建設することが決定された。

同年11月10日から12月15日にかけて開かれた党中央工作会議と、その直後の12月18日から22日にかけて開催された第11期3中全会において文化大革命が否定されるとともに、「社会主義近代化建設への移行」すなわち改革開放路線が決定され、歴史的な政策転換が図られた。

また、1976年の第一次天安門事件の再評価が行われ、周恩来の追悼デモは四人組に反対する「偉大な革命的大衆運動」とされた。?小平はこの会議で中心的なリーダーシップを発揮し、事実上中国共産党の実権を掌握した。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

1979年1月1日に米中国交が正式に樹立されると、?小平は同28日から2月5日にかけて訪米。首都ワシントンDCで大統領ジミー・カーターとの会談に臨んだ後、ヒューストン、シアトル、アトランタなどの工業地帯を訪れ、ロケットや航空機、自動車、通信技術産業を視察。

前年の日本訪問とこの訪米で立ち遅れた中国という現実を直視した?は改革解放の強力な推進を決意、同年7月、党中央は深せん市など4つの経済特別区の設置を決定する。

!)小平が推進する経済改革は、民主化を求める風潮をも醸成した。この風潮を利用して、?小平は華国鋒の追い落としを目論む。華国鋒は「二つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線を掲げていたが、これを批判する論文が、?小平の最も信頼する部下である胡耀邦らにより人民日報、解放軍報、新華社通信に掲載されたのを機に、国家的な論争に発展。

北京には「民主の壁」とよばれる掲示板が現れ、人民による自由な発言が書き込まれた。その多くは華国鋒体制を批判し、?小平を支持するものであった。

華国鋒は追いつめられ、前述の1978年12月の党中央工作会議において毛沢東路線を自己批判せざるを得なくなり、党内における指導力を失っていった。

最終的に華国鋒は1981年6月の第11期6中全会において党中央委員会主席兼中央軍事委員会主席を解任され、胡耀邦が党主席(1982年9月以降、党中央委員会総書記に就任し、?小平が党中央軍事委員会主席に就任した。前年の1980年には?小平の信頼厚い趙紫陽が国務院総理(首相)に就任しており、ここに?小平体制が確立した。

!)小平は当初民主化を擁護していたが、1980年にポーランドで独立自主管理労働組合「連帯」が結成されると、自己の政策に反する活動家を投獄するなど一転して反動化した。

1986年には、反右派闘争などで冤罪となった人々の名誉回復に取り組む総書記の胡耀邦、国務院総理の趙紫陽(いずれも当時)らに対する談話で「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」と釘を刺してい。

翌1987年、政治体制改革をめぐって改革推進派の胡耀邦と対立し、胡を失脚させる。しかし、?は政治改革に全く反対だというわけではなかった。第一次国共内戦期から党に在籍し、「革命第一世代」と呼ばれた老幹部たちを、自身も含めて党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置をとった。

ただし、?自身は党内序列1位には決してならなかったものの、党中央軍事委員会主席として軍部を掌握、1987年に党中央委員を退いて表向きは一般党員となっても、2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。

後に趙紫陽がゴルバチョフとの会談で明らかにしたところでは、1987年の第13期1中全会で「以後も重要な問題には?小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。1989年の第二次天安門事件後には一切の役職を退くが、以後もカリスマ的な影響力を持った。

生涯に3度の失脚(奇しくもうち2回は学生が起こした暴動が一因)を味わったためか、?小平は中国共産党の指導性をゆるがす動きには厳しい態度で臨み、1989年6月には第二次天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切った。

この事件については初め趙紫陽総書記などが学生運動に理解を示したのに対して、軍部を掌握していた?小平が陳雲、李先念ら長老や李鵬らの強硬路線を支持し、最終的に中国人民解放軍による武力弾圧を決断した。

!)小平は、武力弾圧に反対した趙紫陽の解任を決定。武力弾圧に理解を示し、上海における学生デモの処理を評価された江沢民(当時上海市党委書記)を党総書記へ抜擢し、同年11月には党中央軍事委員会主席の職も江に譲った。

1978年に日中平和友好条約を結び、同年10月に日本を訪れた?小平は、後述の新幹線への乗車で日本の経済と技術力に圧倒された。

中国に帰国した?小平は、第11期3中全会において、それまでの階級闘争路線を放棄し、「経済がほかの一切を圧倒する」という政策を打ち出す。

代表的な経済政策として、「改革・開放」政策の一環である経済特区の設置がある。外資の導入を一部地域に限り許可・促進することにより経済成長を目指すこの政策は大きな成果を収めた。

但し、政治面では共産主義による中国共産党の指導と一党独裁を強調し、経済面では生産力主義に基づく経済政策を取った。生産力の増大を第一に考える彼の政策は「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」(不管?猫白猫,捉到老鼠就是好猫)という「白猫黒猫論」に表れている。

1989年に公職から退いて表面的には引退したものの、影響力を未だ維持していた?小平は、1992年の春節の頃の1月18日から2月21日にかけて、深センや上海などを視察し、南巡講話を発表した。

経済発展の重要性を主張し、ソビエト連邦の解体などを例にして「経済改革は和平演変による共産党支配体制の崩壊につながる」と主張する党内保守派を厳しく批判したこの講話は、天安門事件後に起きた党内の路線対立を収束し、改革開放路線を推進するのに決定的な役割を果たした。以後、中華人民共和国は急速な経済発展を進めることになった。

また1984年12月には、「一国二制度」構想のもと、イギリスの植民地であった香港の返還に関する合意文書に、首相のマーガレット・サッチャー(当時)とともに調印している。

一方対日政策では、1982年に成立した中曽根康弘内閣を警戒し、全国に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立して、愛国主義教育を推進するよう指示を出した。

これを受けて1983年、江蘇省党委員会と江蘇省政府は南京大虐殺紀念館設立を決定し、南京市党委員会と南京市政府に準備委員会を発足させた。

!)小平は1985年2月に南京を視察、建設予定の紀念館のために「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」の館名を揮毫し、?小平の視察直後に紀念館の建設が着工され、抗日戦争40周年に当たる同年8月15日にオープンした。

!)小平は香港返還を見ることなく、パーキンソン病に肺の感染の併発で呼吸不全に陥り、1997年2月19日21時8分に亡くなった。唯物主義にのっとった遺言により、角膜などを移植に寄付した。

本人は自身の遺体の献体を望んだが、これは娘の?楠の希望で実施されなかった。同年3月2日11時25分、遺灰は親族によって中華人民共和国の領海に撒かれた。

中国中央電視台は?の死をトップに報道し、江沢民は弔意を表し、天安門には半旗が掲げられた。死後翌日の2月20日、ニューヨークの国連本部でも追悼の意を表すために半旗が掲げられた。しかし、中華人民共和国各地の市民の生活は平常どおり営まれていた。これは毛沢東が死んだときに盛大に国葬が営まれたのと対照をなす。

!)小平の死後、?が唱えた社会主義市場経済や中国共産党の正当化などの理論は、?小平理論として中国共産党の指導思想に残された。

名前の小平(シャオピン)の発音が小瓶と同じことから、しばしば「小瓶」と渾名されている。また、身長150センチと小柄ながら頭の回転が速く、眼光人を刺す如く鋭かったことから「唐辛子風味のナポレオン」、「?蝟子(ハリネズミの?)」、「?矮子(チビの?)」と呼ばれたりもした。毛沢東は?小平の人となりを「綿中に針を蔵す」と評した。

フランス留学の経験もあり、ワインとチーズが大好物でヨーロッパ文化への嫌悪感を持たなかった?小平は、いくつかの趣味を持っていた。とくに有名なのはコントラクトブリッジであった。政府や共産党の公職から退いた後も、中華人民共和国ブリッジ協会の名誉主席を務め、国際的にも有名となった。

フランス留学中に夢中になったものが2つあり、1つは共産党でもう1つはクロワッサンであった。これは無関係というわけではなく、フランスで1番おいしいクロワッサンの店を教えてくれたのは、後に北ベトナムの指導者になるホー・チ・ミンであった。

サッカー好きでも知られていた。FIFAワールドカップの時には、ビデオなどを使ってほとんどの試合を見ていたといわれている。

背が伸びなかったのは、フランス滞在中、満足に食事を取れなかったからだと後年、語っていた。

!)小平の言葉として「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」が有名であるが、これは四川省の古くからの諺である。実際に彼が言ったのは「白い猫」ではなく「黄色い猫」である。これは最も?が好んだ言葉であり、毛沢東が?を弾劾する際にその理由の一つとしている。

実子である?樸方は、北京大学在学中に文化大革命に巻き込まれ、紅衛兵に取り調べられている最中に窓から「転落」(紅衛兵により突き落とされたとする説もある。

事実、紅衛兵によるこういった、あるいはその他の激しい暴行による傷害や殺人は夥しい数に上り、(?小平自身も暴行を受けている)、脊髄を損傷し身体障害者になった。?小平は午前は工場労働をし、午後は息子の介護をした。この経験からか、中華人民共和国内の障害者団体に関わっていたことがある。

1974年の国連資源総会に出席した際、中国は過去も、現在も覇権を求めておらず、将来強大になっても覇権を求めないと演説した。

日本国外務省の田島高志(元中国課長、カナダ大使)は、1978年8月の日中平和友好条約交渉において、?小平がソ連を覇権主義と批判し、中国の反覇権を条約に明記するように主張していたと語る。

その際に?小平が園田直外相に対し、「中国は、将来巨大になっても第三世界に属し、覇権は求めない。もし中国が覇権を求めるなら、世界の人民は中国人民とともに中国に反対すべきであるとした。

近代化を実現したときには、社会主義を維持するか否かの問題が確実に出てこよう。他国を侵略、圧迫、搾取などすれば、中国は変質であり、社会主義ではなく打倒すべきだ」と述べたという。

1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の第11期3中全会決議に通じるものであった。また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。

新幹線に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」「なんという速さだ。まるで風に乗っているようだ」という感想を漏らしている。ほかには、「日本と中国が組めば何でもできる」という、解釈によっては際どい発言を冗談まじりに残してもいる。

訪日時の昭和天皇との会見で「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」という謝罪の言を聞いたとき、?小平は電気ショックを受けたように立ちつくした。大使館に帰ると「今日はすごい経験をした」と興奮気味に話したという。

また歴史認識でも江沢民のような強硬な謝罪を要求せず「日中二千年の歴史に比べれば両国間の不幸な時期など瞼の一瞬き(ひとまばたき)にすぎない」と日本の首脳に述べたと言う。ただし後に奥野誠亮大臣の発言や閣僚の靖国神社参拝について後に「日中友好を好ましいと思わない人がいる。」と批判している。「ウィキペディア」2012・8・15執筆
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2014年06月29日

◆ラ大使発言時の外相秘書官は私だった

渡部 亮次郎


古森義久氏(現在は産経新聞記者としてワシントン駐在中)はレーガン共和党政権成立時の1981年5月、アメリカ民主党系の大手シンクタンク「カーネギー国際平和財団」に上級研究員として毎日新聞からの出向の形で勤務して、日米安全保障についての研究や調査に携わった。

その間の同年5月、エドウィン・ライシャワー元駐日米大使にインビューして「米軍の艦艇は核兵器を搭載したまま日本の港に立ち寄り、領海を航行することを日本政府が黙認する合意が日米間にある」という発言を得て、「日本の非核三原則の『持ち込まず』の虚構」として毎日新聞で報道した。

これは鈴木善幸政権のころで、外務大臣は園田直(そのだ すなお)、その秘書官が不肖渡部亮次郎だった。

とはいえ、当時、日米首脳会談に際して発表した日米共同声明をめぐる鈴木首相と外務大臣伊東正義氏の対立が表面化。伊東外相が辞任したので、園田氏が後任として厚生大臣から急遽横滑り就任したばかりだった(18日)。

20日にマンスフィールド大使が外務省に尋ねてきて1時間会談、そのご衆参両院で野党による緊急質問が行なわれたが、政府、外務省としては事前協議の要請があった事は、これまでになかったのだから核の持込は無かった、と「見解」を統一。完全否定で切り抜けた。慌てる者は誰もなかった。

当時、社会党、公明党、民社党、共産党、新自由クラブの野党各党で政府答弁を信じる者は皆無、核持ち込みを事実と想像していた。

個人的には「持ち込まれていることがあるかもしれない、と思わせた方が抑止力だ」と漏らす野党議員もいた。

後年、米側の公文書や村田良平元外務次官、吉野文六・元外務省アメリカ局長らが相次いでその存在を認め、そのライシャワー発言報道の正確さが証された。この報道は1982年、新聞協会賞を受賞した(毎日新聞は3年連続の受賞)。

さらに2009年には複数の外務次官、審議官経験者が密約の存在を認めた。
それでも日本政府は否定しつづけていたが、2009年8月24日に民主党政権が現実味を帯びつつある中で外務省の薮中三十二事務次官はついに「そのときどきの話はあったと承知している」と述べ、日米間で見解の相違があり議論があったことを認めた。

今後、密約をめぐる文書の有無を調査するかについても含みを持たせるに至り古森氏の報道の正しさが政権交代と沖縄密約情報開示訴訟に吉野文六が2009年12月1日に出廷し証言することによって四半世紀たって日本においても公式に事実であると証明されつつある。

これに先立って1967(昭和42)年に佐藤栄作内閣総理大臣が「核兵器を持たず、作らず、持ち込まさず」という非核三原則を打ち出し、衆議院において非核三原則を遵守する旨の国会決議が行われた。「日本に他国から核兵器を持ち込まさせない」ということで1974年(昭和49年)に提唱者の佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞した。

それ以降の歴代内閣は非核三原則の厳守を表明しており、非自民首相であった細川護熙、羽田孜、村山富市も非核三原則の遵守を表明していた。

アメリカによる核の持ち込みの可能性について日本政府は「事前協議がないのだから、核もないはず」としていたが、「核を持ち込ませず」が実際に守られているかどうかは疑わしい点が多い。

アメリカは、自国艦船の核兵器の搭載について「肯定も否定もしない」という原則を堅持しているが、日本に寄港するアメリカ海軍の艦船が兵器を保有していないとは軍事の常識としてあり得ないとされる。

後年の1999(平成11)年には、日本の大学教授がアメリカの外交文書の中に「1963年(昭和38年)にライシャワーが当時の大平正芳外務大臣との間で、日本国内の基地への核兵器の持ち込みを了承した」という内容の国務省と大使館の間で取り交わされた通信記録を発見し、この発言を裏付けることになった。

また、2008(平成20)年11月9日放映の『NHKスペシャル』「こうして“核”は持ち込まれた〜空母オリスカニの秘密〜」において、朝鮮戦争時の1953(昭和28)年にアメリカ海軍の航空母艦「オリスカニー」が核兵器を搭載したまま日本の横須賀港に寄港していたことが明らかになった。

さらにライシャワー元駐日大使の特別補佐官を務めたジョージ・パッカード米日財団理事長がアメリカの外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」2010年3・4月号へ寄稿して明らかにした。

それによると、アメリカ軍がベトナム戦争中の1966(昭和41)年に、日米安全保障条約に違反して、返還前の沖縄にあった核兵器を日本政府に無断で本州に移したことがあったといい、1972(昭和47)年の沖縄返還までアメリカ軍がたびたび日本政府とアメリカ国務省の要請をはねつけ、同様の核持ち込みを行っていたことも示唆している。

パッカードはまた毎日新聞の取材に、米軍が1966年の少なくとも3カ月間、岩国基地沿岸で核兵器を保管していたと証言した。

なお、1991年(平成3年)の冷戦終結に伴い、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領が地上配備の戦術核兵器と海上配備の戦術核ミサイルの撤去を宣言したことで、平時において核搭載艦船が寄港するなどの形で日本への核持ち込みは無くなったとされる。

核の持ち込みについて日本政府は「事前協議がないのだから、核もないはず」とし、「事前協議があれば核持ち込みを拒否する」とことを表明していた。

しかし、これは逆に「協議を申し出るか否かはアメリカ軍の自由であり、協議抜きで内密に持ち込む」可能性をも物語っている。

また、反核政策により核兵器を搭載していると思わしきアメリカ海軍艦艇の寄港を拒否したニュージーランドは、その際に、日本を出港したアメリカ海軍艦艇がそのままニュージーランドへ寄港を希望した場合の対処について、苦慮したと言われる(現在までそのような問題は生じていない)。

またカート・キャンベル国務次官補は2009年(平成21年)9月に来日した際、持込みに関する密約は事実存在し「非核三原則」は有名無実である旨言明した。

核持ち込み問題について、2009(平成21)年9月に鳩山由紀夫内閣で外務大臣となった岡田克也は全て調査し11月末を目途に公開するよう外務省に命令した。

日米間の核持ち込みに関する密約は2つあり、1つ目は核搭載米軍艦船の一時寄港と領海通過密約、2つ目は緊急事態における事前協議後の沖縄への核の持ち込み密約である。

2010年(平成22年)3月に報告書が出されたが、いずれにしてもこの様に元駐日アメリカ大使本人や、その後の様々な調査によりアメリカ軍による日本への核持ち込みとそれに対する「密約」が存在していたことが事前に証明されているにもかかわらず、なぜ時間と手間をかけて調査、報告をする必要があったのかと、その背後関係を懸念する意見もある。

鳩山内閣は核の持ち込みについて事前協議があった時には「常に核持ち込みを拒否する」としていた政府見解を「核持ち込みを認めるかどうかを曖昧にする」に見直す方向で検討を始めた。

「核兵器の持ち込み」(アメリカ軍に限られ、他国軍については適用しない)の定義については、日米間に相違があった。すなわち、米国政府の理解は、「持込み(introduction)とは核兵器の配置や貯蔵を指すものであり、それ以外は、「transit」として一括し、「transit」には寄港、通航、飛来、訪問、着陸が含まれ、共に事前協議の対象外であるとするも
の」である。

これに対して日本側では、「transit」も「持ち込み」に当たると解釈する。この米国側の解釈と日本側の解釈の違いが、さまざまな混乱の元であるとされている。

実際、他の事例で言えば、旅客機が最終目的地までの飛行の途中で他の空港に立ち寄ることがあるが、これは「トランジット」と呼ばれており、立ち寄り空港のある国のビザなどは必要とされない。

また、貨物船がある国に寄港する場合にも、貨物をその国に通関させない限り、何らの手続きを要しない。以上のことから、国際的には、たとえ貨物が核兵器であっても、単なる寄港の場合は、その国に持ち込んだことにはならない、との解釈が常識的である。

2010(平成22)年1月、岸政権下の1960(昭和35)年に外務事務次官を務めた山田久就が、国会で事前協議に関して為した答弁「通過・寄港も対象」は野党の追及をかわすための嘘であり、実は対象外にされていたことが、公開されたインタビュー録音から判明した。

日米政府の公文書公開により、核の持ち込みを定義が日米間で不一致であることを知られるようになった。

2010(平成22)年3月に発表された日本の外務省調査委員会は明文化された日米密約文書はないとしながらも、日本の政府高官が核の持ち込みを定義が日米間で不一致であることを知りながらも米国に核の持ち込みの定義の変更を主張していないことなどを理由に、核の持ち込みについて広義の密約があったと結論付けた。

日米政府の公文書公開により、寄港などの形で核持ち込みを知っていた政府高官は以下の通り。内閣総理大臣経験者として岸信介、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹、宮沢喜一、橋本龍太郎、小渕恵三。

外務大臣経験者として愛知揆一、木村俊夫、鳩山威一郎、園田直、大来佐武郎、伊東正義、桜内義雄、安倍晋太郎、倉成正、三塚博、中山太郎。

内閣官房長官経験者として二階堂進。

1994(平成6)年に佐藤首相の密使を務めたとされる若泉敬(当時は京都産業大学教授)が「1969(昭和44)年11月に佐藤・ニクソン会談後の共同声明の背後に、有事の場合は沖縄への核持ち込みを日本が事実上認めるという秘密協定に署名した」と証言している。

2010年(平成22年)3月に鳩山内閣の調査報告書が出された。調査報告書では佐藤栄作元首相がニクソン元大統領と有事の際に沖縄への核持ち込みについて、事前協議が行われた際には日本側が「遅滞なく必要を満たす」ことが明文化された密約文書が確認されたが、外務省の中で引継ぎがされた形跡がないという理由から日本政府として米国政府と密約したことは確認できないと結論づけた。

大きく報じられる事はなかったが、「密約」に身を挺した若泉敬氏は服毒自殺した。佐藤=ニクソンで交わされt密約の舞台裏を、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』英語版の編集に着手。

完成稿を翻訳協力者に渡した1996年7月27日、福井県鯖江市の自宅にて逝去(享年67)。公式には癌性腹膜炎ということになっているが、実際には青酸カリでの服毒自殺だった。佐藤ノーベル平和賞野犠牲者である。
(「ウィキペディア」)

2014年06月28日

◆ニンニク(大蒜) 効用

渡部 亮次郎


韓国の人たちはニンニクをよく食べる。観光地慶州で私を担当した観光案内人は「だから韓国人は虫歯が少ないです」と自慢した。ホントかどうかは知らない。

そんなことを言っても郷里・秋田にいた子供時代は食べたことがなかった。明治生まれの母は利用する料理も知らなかったようだし、風邪に薬用ありと聞いても一家で誰も食べなかった。

例によって東京へ出てきて初めて出合ったようなもの。韓国では強精剤だからと、7個つながりを輪切りにした醤油付けを食べたら、夜中に胃痛を起こし、強精どころの話ではなかった。

調べてみるとニンニクには確かに滋養強壮の効果があり、栄養ドリンクや健康食品、一部の薬品にも使われる。生のニンニクの強烈な香りと辛味は、刺激が強過ぎて胃壁などを痛める場合があるが、この症状も主成分アリインの影響といわれる。

栄養主成分のアリイン、クレアチンなどは元来は無臭である。ところが刻んだ際に細胞膜が破れ中からアリナーゼなどの分解酵素が出て栄養成分を分解しアリシン・アリルスルフェン酸といった成分に変化する。これらが独特な臭いのモトである。

古代ギリシア人の間でも,ニンニクを口にしたものは神殿に入ることを許されなかった。一方,古代ローマ人も強臭を嫌ったが,強精な成分があるとして,兵士や奴隷には食べさせたといわれている。

原産地は中央アジアと推定されるが、すでに紀元前3200年頃には古代エジプトなどで栽培・利用されていた。日本には中国を経て8世紀頃には伝わっていたと見られる。

現在の栽培は近東方面から地中海地方,インド,アフリカ,中国,韓国に多く,アメリカにも広がっている。

日本では《本草和名》以後に記載がみられるところから,導入,栽培されたのは10世紀以前からのことといわれる。中国や韓国から渡ってきたとみられ,品種には早晩性があり,〈遠州極早生〉〈壱州早生〉〈6片種〉〈佐賀大ニンニク〉〈香港〉などがある。繁殖は種球(鱗片か珠芽)で行う。9月に種球を植え付けて翌年5月に収穫する。

ニンニクは、僧侶が荒行に耐えうる体力を養うために食したとされ、その語源はあらゆる困難に耐え忍ぶという意味の仏教用語の「忍辱」とされる。「葷酒山門に入るを許さず」のクンシュの中には入るのじゃないのか。

日本の古代医術ではニンニクは風湿や水病を除き,山間の邪気であるところの瘴気(しようき)を去り,少しずつ長期にわたって食べれば血液を浄化し,白髪を黒くするほか,生で食べれば虫蛇を殺す効能があるが,一度にたくさん食べると目を損なうとされていた。

ニンニクには強烈な異臭にまつわる俗信が多い。ヘビ,サソリ,疫病を駆逐する強力な薬草として古くから各地で用いられた。ハローウィーン(万聖節の宵祭)にはこれを戸口につるして厄を払い,ペスト流行時には死体を清めるのに用いられた。

吸血鬼よけの効能も,B. ストーカーの《ドラキュラ》などの作品でおなじみである。さらに大プリニウスは《博物誌》において,天然磁石をニンニクで擦れば磁力がうせると述べ,ディオスコリデスは《薬物誌》で,ヘビや狂犬による咬傷(こうしよう)や歯痛の特効薬としている。花言葉は〈勇気と力〉。

日本では江戸時代、その臭気により公家・武士階級では食べる事を禁止されていた。ニンニクが広く食べられる様になったのは明治以降になってからである。

しかし、徳川家康は、茶屋四郎次郎に招かれ鯛の天ぷらにニンニクのすりおろしをつけたものが、たいへん美味かったので食べ過ぎて食中毒を起こし、死につながったとも言われる。

ニンニクは油脂によくなじみ、肉類のうまみを引き立てるので,日本でもスープ,いため物,煮込み物その他の肉料理などに多用され,洋風料理,中国風料理などの普及にともなって身近な食品になった。第2次大戦後のことである。

よく行く東京・向島の洋食屋ではメニューに「ニンニク揚げ」がある。必ずと言っていいくらいに頼む。加熱すると匂いが全くしなくなるから安心。しかし家で鰹の刺身に副えるニンニクは生でなくては効き目がない。

食べた後の匂いを防ぐためには、食後に緑茶を飲むと良いとされる。これは、緑茶の成分であるカテキンの殺菌、消臭効果による。また、牛乳やコーヒーを飲むのもよい。

水を飲むだけでも一定の効果があると言われている。なお、近年エジプト産のニンニクをもとにして、品種改良の結果、無臭ニンニクも流通している。

日本の主な生産地。青森県で70%を占める。田子町、十和田市などが多い。青森県内には特に高級品として知られるブランドがある。次いで香川県など。
参考資料:平凡社「世界大百科事典」「ウィキペディア

2014年06月27日

◆サッチャーは87歳没

渡部 亮次郎


イギリス初の女性首相にマーガレット・サッチャー(Margaret HildaThatcher)が就任したのは1979(昭和54)年の5月4日。私はその半月後にダウニング街の官邸でお会いしてタバコを止めた。

表敬訪問する園田直外務大臣に秘書官として随行したもので、確か5月21日(月)午後5時15分(イギリス時間)頃から僅か35分間の表敬訪問だった。

園田大臣に警護のため同行したのは警視庁の亀高忠輝警部だった。

2階への階段を昇りながら、壁に隙間の無いぐらい絵画が飾られていた事とあわせて妙に記憶が明確だ。

首相面会の直前、同じ官邸内の蔵相室で会談したハウ蔵相は驚くほどのヘビースモーカーだった。園田さんも私も一緒になって喫煙するものだから煙は相手が見えなくなるぐらい立ち込めた。

ハウ蔵相はサッチャー首相との会談にも同席してくれた。首相は立ち上がり「日出ずる国の賓客は窓際へ」と園田外相を案内。

私もその脇に座って「煙草を喫ってもいいですか」と訊いたら「どうぞ」との答え。持っていたロングピースを喫い始めたが、灰皿が出てこない。消すのに苦労した。

後で分かったのだが、サッチャーさんは何が嫌いと言って煙草が嫌い。そういえば、さすがのハウ・ヘビー・スモーカーもあそこでは非喫煙者みたいに振舞っていたっけ。

私は馬鹿にされた気がして、それっきり喫煙を止めた。もう35年を越した。やめた直後は禁煙に失敗した夢まで見たが、もう見ない。

サッチャーはその後日本にもお出でになった。皇居を表敬訪問した際、大広間の広い壁に絵が1点しか飾られてないのを見て「少なくて寂しい。もっと沢山飾らなければいけない」といった。

「大きなお世話だ」、と心の中で毒づいた。「これがわび、さびというものですよ。分からなきゃ仕方ないね」

マーガレット・ヒルダ・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher,Baroness Thatcher, LG, OM, PC、旧姓:ロバーツ(Roberts)、1925年10月13日 - 2013年4月8日)

女性として初めて保守党党首および英国首相(在任:1979年―1990年)となった。保守的で強硬的な性格から、鉄の女(the Iron Lady)、アッティラ(Attila the Hun)などの異名をとる。尊敬する政治家は同国のウィンストン・チャーチル元首相である。

1979年の総選挙で、イギリス経済の復活と小さな政府の実現を公約として保守党を勝利に導いた党首だったので女性として初めてイギリス首相に就任した。

新自由主義の立場に基づき、電話会社(1984年)やガス会社(1986年)、空港(1986年)、航空会社(1987年)、水道事業(1990年)などの各種国有企業の民営化や規制緩和、金融改革などを断行。

また、改革の障害となっていた労働組合の影響力を取り除く政策を多く打ち出した。さらに、所得税は25%〜80%の11段階から、25%と40%の2段階へ、法人税は50%から35%へ、それぞれ段階的に大きく引き下げられた。

一方で、付加価値税(消費税)は、8%から15%まで大胆に引き上げられた(1979年)。

300万人を数えるまでとなる失業者はその後も1986年半ばまで減少に転じることはなかったため、小さな政府の柱の一つであった完全マネタリズムを放棄し、リフレーション政策に転じた。

その結果、イギリス経済は回復した。フリードマンらはサッチャーの変節を攻撃したが、総じてイギリス国民には受け入れられ、総選挙で連勝を重ね、任期を延ばしていく。

だが、人頭税(community charge)の導入を巡って国民的な反対運動が起こり、最後は辞職に追い込まれた(1990年)。

この時期、日本においても、1982年に誕生した中曽根内閣によって、行政改革や国鉄分割民営化(1987年)などが行われた。

この間1982年には、南大西洋のフォークランド諸島においてフォークランド戦争に勝った事により経済の低迷から支持低下に悩まされていたサッチャーは、戦争終結後「我々は決して後戻りはしないのです!」と力強く宣言、支持率は驚異の73%を記録する。

彼女はこれで2度目の総選挙にも勝利し、より保守的でラディカルな経済改革を断行していく。

3回の総選挙で勝利したサッチャーであったが、任期の終盤では人頭税の導入により世論の反発を招き、また欧州統合に懐疑的な姿勢を示したことから、財界からも欧州統合に乗り遅れる危機感が出て与党内にも批判が広まっていた。

1990年11月20日の保守党党首選挙で、1回目の投票で過半数の票を獲得したものの、2位との得票差を15%以上にすることができず、規定により第2回投票に持ち込まれたことで、求心力の低下にさらに拍車がかかり、11月22日に辞任を表明した。

サッチャーさんは87で逝った。こちとらサッチャーさんのお陰でタバコをやめたせいか78まで生きている。87を超すかもしれないよ。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


      

2014年06月25日

◆マスコミは正義に味方せず

渡部 亮次郎


マスコミ不信がこのところ激しい。逆説を言えば、人々のマスコミ依存がそれだけ激しい、とも言える。だが、マスコミとは所詮儲け仕事。身勝手なんだから信頼なんかしてはいけない。

昔は「社会の木鐸(ぼくたく)」と誉めそやした。広辞苑によれば、「世人を覚醒させ、教え導く人」とある。昔、中国で法令などを人民に知らせる時に鳴らしたのが「木鐸」で、木製の舌のある鉄製の鈴だった。

私が世間に出た昭和30年代までは日本でもマスコミのことをそういって批判したり、反省を求める「識者」がいた。また批判されればマスコミも少しは反省したような顔をした。

だが民放が本格的になって来るにつれて,もういけません。ニュースにしろ番組にしろ視聴率こそが彼らの収入を左右するのだから、「映像(絵)」にならない物は取材対象でなくなった。

例えば政治である。経験上、政治こそは、夜、密室で決められるから絵にはならない。したがってテレビは政治家の料亭への出入りの撮影にこだわる。映像と音声を同時に捉えるにはカメラとマイクで押しかけることになる。騒動だ。だがここでは真相からは離れている。

真実はつかめない。近いところを手短に喋ってくれる政治家にレンズもマイクも集中する。順序立てて論理的に話してくれても話の長い政治家は敬遠だ。ニュースの枠は短いのだから、見出しだけを並べたような喋りをしてくれる政治家が画面を独り占めにすることになる。小泉が首相として世の中を振り回せたのも「ワンフレーズ」人間だったからだ。

流石に大衆はもう気づいていたから先の東京都知事選では小泉が原発即時廃止といくら叫んでも小泉にはそのための備えも対策も無くただ叫んでいるだけだと見破っていたから細川は惨敗した。

テレビにかじりついているような視聴者はこれで騙されてしまう。なぜなら、見出しを並べたような喋りは真相の上っ面をなでただけだから、事態はニュースとやや違って動く。だからニュースを一旦はかじった人は「騙された」という批判をしたくなる。

衆院「解散」を巡る動き。映像を追っていただけでは判断を間違う。麻生は「解散」をするために総理の座についたが解散を渋ったような印象を与えてしまったから不人気のままか解散をせざるを得ない珍しい宰相になってしまった。

勿論「百年に1度の経済不況」対策に専念したためでもある。だから財界には人気がある。しかし当面の役には立たない。

どうせ「解散」すれば任期は無くなる(再選不可能)から解散を延ばせるだけ延ばした方が得策、と進言した大幹部がいた。テレビはもちろん新聞もこの情報をつかめないままに過ぎたが。

簡保の宿問題。従業員の解雇を阻止するためには郵政の側に真実があった。だから麻生は鳩山総務相を事実上、罷免して解決するしかなかった。だが麻生自身がこのからくりの説明を怠ったために、マスコミの誤まった報道に世論が走ってしまい、支持を失ってしまった。世論操作のミスは大きかった。

マスコミの中には、何が何でも保守大連立実現のためには、この際、麻生を犠牲にして、まず民主党政権を作る必要があるとの考えから、新聞紙面を麻生打倒の政略にした大新聞もある。

「社会の木鐸」という矜持を完全に捨ててしまっている。それを知らずに従(つ)いて行った読者こそ、いい面の皮というべきだろう。都議選で民主支持に流れたという3割という自民党支持者は「騙された」と、いつか気付くだろう。

私の主宰するメイル・マガジン「頂門の一針」の読者には宮里藍とか石川遼といった人気若手ゴルファーを煽て挙げ、終いに駄目にすると、テレビ局を激しく貶し、投書してくる読者が少なからずいる。

私も同感だから投書は採用するが、じつは空しい気がしている。なぜなら民放にとって高い視聴率の取れる映像を作ることこそが目的であって、偉大なゴルファーを育成することとは全く関係ないことだからである。

それを止めてくれ、選手をスポイルしないでくれといっても、民放としてはゼニになる映像がそこに存在するから撮影するのであり、決して彼らをスポイルする気はない。スポイルされたら、それは本人の責任であってテレビ局は次なる「絵」を捜すだけである。

具体例は挙げれば切りの無いほどある。だが挙げ続けても無意味だろう。本質は共通しているのだから。なぜならマスコミはミーハーを煽って新聞、雑誌を売りつけ、テレビ・ラジオは「1億総白痴化」が達成してこそ「儲け」られる「商売」をしているに過ぎないからだ。

偉そうなことを言うようだが、筆者自身、今日ほど無責任でなかった時代の「公共放送」(?)NHKに政治記者を最後に約20年在籍した経験がある。当時ですら「ここに長居したら人生を失う」と悟って41歳で転身してしまった。後悔はしていない。(文中敬称略)再掲



     

2014年06月22日

◆河野氏の独断が災いの種蒔く

阿比留 瑠比


河野談話を検証する有識者チームの報告書により、20も国民の目から隠されてきた談話の実態が白日の下にさらされた意義は大きい。産経新聞が繰り返し報じてきたとおり、談話は歴史の厳密な事実関係よりも、強制性の認定を求める韓国側への政治的配慮に基づき、日韓両国がすり合わせて合作していた。

また、当時の河野洋平官房長官が政府の共通認識を踏み外し、独断的に「強制連行」を認めてしまったことも改めて確認された。

報告書は、政府が実施した関係省庁や米国立公文書館の文書調査、旧軍関係者や元慰安所経営者からの聞き取り、韓国の元慰安婦支援団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」の慰安婦証言集の分析などを通じ、こう結論付けている。

「(政府の)一連の調査を通じて得られた認識は、いわゆる『強制連行』は確認できないというもの」

その上で報告書は、平成5年8月4日の談話発表時の河野氏による記者会見について、1つの章を設けてこう特記している。

「(河野氏は)強制連行の事実があったという認識なのかと問われ、『そういう事実があったと。結構です』と述べている」

これについて、現在の政府高官は「それまで政府は強制連行は証拠がないという一線を守っていた。それなのに、河野氏の発言で強制連行説が独り歩きすることになった。完全な失敗だ」と指摘する。実際、河野談話には「強制連行」という文言は出てこない。

地位ある政治家の単なる失言か確信犯的な放言か。いずれにせよ、不用意な発言で後世に災いの種をまいた瞬間だったといえよう。

また報告書は、今年2月に国会で河野談話について証言して談話検証のきっかけとなった当時官房副長官の石原信雄氏が、慰安婦全体への強制性認定を求める韓国側に対し、こう拒否したことも記している。

「慰安婦全体について『強制性』があったとは絶対に言えない」

ところが、報告書によると河野談話は日韓間のすり合わせの結果、最終的に「募集、移送、管理等も甘言、強圧によるなど、総じて本人たちの意思に反して行われた」という表記に落ち着いた。

この「全体」とも「おおむね」ともどちらとも解釈できる「総じて」という玉虫色の言葉は、当然のことながら韓国側では「全体」と受けとめられることになった。この間の事情も、趙(チョ)世暎(セヨン)・元韓国外務省東北アジア局長の産経新聞に対する次の証言と符合する。

「韓国側から『こうした表現ならば大丈夫ではないか』と意思表示した」
(17日付紙面で既報)

韓国側は、日本側が河野談話の一部修正に応じなければ「韓国政府としてはポジティブに評価できない」とも通告しており、韓国ペースで最終調整が行われていたことも分かる。

また、こうしたすり合わせについて、日本側から韓国側に「マスコミに一切出さないようにすべきであろう」と申し入れ、韓国が了解したというエピソードも重要だ。河野氏をはじめ政府はその後、すり合わせの事実を繰り返し否定し、国民を欺いていたからだ。

ただ、報告書は個々の事例や事実関係への評価は避けており、物足りなさも否めない。チームのメンバーの一人は「報告書の作成過程で、情報を提供する側の外務省は一貫して『穏便に、穏健に』という意向だった」と振り返る。

政府の公式見解ではなく、民間の有識者チームの検証結果報告という形をとってもなお、なるべく波風を立てたくないとの配慮が働いている。日本外交の宿痾(しゅくあ)だろう。
産経ニュース2014.6.21

2014年06月21日

◆ある筈ない民主化中国

渡部 亮次郎


中国の「漁民」が尖閣諸島に攻めてきて以来「経済の改革があったのだから政治も改革、民主化になぜなら無いのか」と良く質問される。それに対する私の答えは「カネが溜まっただけ人民に対する統制はきつくなり、比例して民主化は遠くなります」。

経済の開放(外資導入)と改革は?小平の若い時からの夢だった。しかし経済の改革開放をやれば政治の改革開放が不可避であり、それは共産党独裁の否定に繋がるから古い指導者たちはこぞって?を避けようとした。

!)の3度に及ぶ失脚は、それぞれに理由は別だがそのそこで共通しているのは改革開放思想。「黒猫でも白猫でも鼠を良く捕る猫がいい猫」思想である。

3度目の失脚のときは既に老齢でもあったが、毛沢東がやがて死ねば自分が天下を取り、改革開放路線を実現する事は夢では無いことを信じて自らを鼓舞していた。幸い周恩来の変わらざる支援により命永らえ奇跡の復活を遂げた時、毛沢東は既にこの世になかった。

田中角栄内閣で締結を公約しながら、田中内閣は勿論、三木内閣でも実現しなかった日中平和友好条約の締結について中国の動きが俄然、積極的になってきたのは、この頃である。

福田内閣で官房長官から外務大臣に横滑りした園田直(すなお)はNHK記者だった私を秘書官に起用する一方、剣道の弟子で中国で育った民間人を「使者」として北京にしばしば派遣、旧知の廖承志周辺の動きを探った。

その結果、復活した?小平が党の主導権をとり経済の改革開放に舵を切り替えつつあることを確認できた。日中平和友好条約締結への積極姿勢も、ここに鍵のあることを確認できた。

以後、中国は日本の外資導入を梃子とし、経済の改革開放政策により、今や日本を抜いて世界第二位の経済大国になありつつある。だからアメリカを初めとする西側の政治、経済学者は今度は政治面での民主化を予想したいところだが、これは絶対望みは無い。

民主化すれば経済原則上、不要な共産党は否定される。彼らは排除され抹殺されること必定である。彼らが人民にしてきたことを今度はそのまま適用される。だから中国共産党は政治の民主化は絶対行なわない。

経済の改革開放にとって共産党は邪魔以外の何物でもないから政治に対して賄賂で打開する以外に無い。したがって共産党は損じする限り賄賂が自動的に転がり込む。構造的賄賂の舞い込む天国を捨てる共産党「皇帝」などいない。民主化は反革命の成就後だ。

 
          

2014年06月18日

◆おらゴム長と織田信長

渡部 亮次郎


「おらゴム長と織田信長」は親戚の秋田芸人大潟八郎の間違え節の1節。その伝で行けば敗戦直後に歌手(故人)の淡谷(あわや)のり子はどこか田舎で「ズロースの女王」と宣伝ビラに書かれたのは間違い節だ。

ズロース drawers 「広辞苑」女性用の下ばき。股間部をおおい、太もも丈のゆったりしたもの。

ブルース(blues)は、米国深南部でアフリカ系アメリカ人の間から発生した音楽のひとつ、またはその楽式。19世紀後半頃に米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー(労働歌)などから発展したものと言われている。

アコースティック・ギターの弾き語りを基本としたデルタ・ブルース、バンド形式に発展したシカゴ・ブルース、ロックと融合したブルース・ロックなど、時を経て多様な展開をしている。

しかし日本の場合「ブルース」というと、前記のブルースに影響を受けた淡谷のり子、青江三奈らに流れを発する、「哀しい雰囲気でムードのある歌謡曲」をさす場合の方が多い。

「別れのブルース」「伊勢佐木町ブルース」といったように、歌謡曲や演歌などでタイトルに「ブルース」がつく曲はおおむね、音楽的にはブルースとは別物である。

マイナーブルースに近い構成のものもあるが、メロディーの音階がブルーノートスケールではなく演歌ペンタトニックスケールなどの違いがある。

これらには歌詞が物悲しいことと、アレンジにサックスを多用しているという共通点しかない。

淡谷のり子が本邦初めてブルースと付く名の「流行歌」を歌ったのは昭和12年の春、ソプラノの声をわざと煙草で潰して唄った「別れのブルース」である。作詞藤浦洸で、作曲の服部良一に無理に頼まれて唄った。

窓を明ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える
夜風 潮風 恋風のせて 今日の出船は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの 切なさよ

胸にいかりの 入れずみほって やくざに強い マドロスの
お国言葉は 違っていても 恋には弱い すすり泣き
二度と逢えない 心と心
踊るブルースの 切なさよ

この「別れのブルース」が中国戦線からヒットした。「別れのブルース」は横浜本牧のチャブ屋街をモチーフにし、バンドホテルを舞台にしている。チャブ屋とはいわゆる売春窟である。

淡谷のり子は以後、ブルースと付く何曲も唄い「ブルースの女王」と呼ばれた。

雨のブルース(1938年)
想い出のブルース(1938年)
東京ブルース(1939年)
満州ブルース(1940年)

戦後は

嘆きのブルース(1948年)
君忘れじのブルース(1948年)
遠い日のブルース(1963年)

ところがブルースをブルーズと濁って(正式に)発音したのは1回目の「別れの・・・」時だけで、なぜか以後はすべて濁らずに唄っている。

ブルースの本来の発音はブルーズで、作為的にbluezと綴られる事もある、と解説書にはあるのだから、日本のブルースはブルースでは無いというのは本当だろう。

本当のブルーズが日本では、1970年代にブームが起こった。 1971年、B.B.キングが初来日を果たす。 1973年にスリーピー・ジョン・エスティスの「スリーピー・ジョン・エスティスの伝説(The Legend of SleepyJohn Estes)」がオリコン・チャートに食い込む大ヒットとなる。

1974年、「第1回ブルース・フェスティバル」開催。同フェスティバルは第3回まで開催され、エスティスを始めロバート・ロックウッド・ジュニア&エイセズ、オーティス・ラッシュらの来日が実現した。

日本でも京都、大阪を中心にウェスト・ロード・ブルース・バンド、憂歌団など、ブルース・バンドが登場。日本の独自のブルース・シーンが形成されて行く。

日本のはブルースではないブルース。間違え節の落ちである。

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