岩本 宏紀(在仏当時)
ぼくの好きな作家、向田邦子は万年筆にこだわるひとで、気に入るとひとのものであっても拝み倒して手に入れた、と告白している。巴里でお店に入った彼女は、ショーケースから何本か出してもらい、書き味を試した。
撥ね(は)のある漢字を書いたとき、店員は顔色を変えて彼女を制したそうだ。ヨーロッパの万年筆は下から上に撥ね上げる書き方を想定していないので、ペン先が傷むと心配したからだ。そういえばアルファベットには「レ」のような文字は無い。
仕事でも私用でもぼくは主に万年筆を使っている。確かに日本語を書くときには、日本製のほうが書きやすい。外国の高級品は適度の重みがあって優雅な気分にはなるが、片仮名や漢字の垂直な線が書きにくい。
数年前から筆ペンも使うようになった。習字が苦手なぼくにも使いやすい、筆先に適度な腰のある製品が見つかったからだ。万年筆と筆ペンのいいところは、力を入れれば太く、軽く滑らせれば細く書けることだ。文字に感情が表れるような気がする。
「陰翳(いんえい)礼讃(らいさん)」で、紙と筆記具の相性がいかに重要であるかを知らされた。
谷崎潤一郎は言う。
「仮りに万年筆を日本人か支那人が考案したならば、穂先を毛筆にし、インキも墨汁に近い液体にして、それが軸から毛の方へ滲(にじ)み出るように工夫しただろう。紙も西洋紙のようなものでは不便であるから、和紙に似た紙質のもの、改良半紙のようなものが要求されたであろう。」
京都で買い求めた和紙に筆ペンで字を書くと、墨汁が紙に染込(しみこ)む感触がわかり、実に気持ちがいい。万年筆を使うと、ペン先が和紙の繊維をほぐり出すような気がして、落ち着かない。万年筆にはやはり西洋紙が相性がいい。
ユトリロと彼の母、バラドンの小さな美術館には、手書きの手紙が多く展示してあった。 そのとき、Eメールが普及した今、年賀状と暑中見舞いを除いて、友だちや家族との便りはみんな消えてしまうのではないか、という不安に駆られた。
Eメールだけではなく、ときには本当の手紙も書こうと思う、今日この頃である。もちろん筆ペンと和紙、または万年筆と西洋紙で。手紙なら目が弱くてコンピューターの画面が苦手なひとにも、問題ないし。(了)