2008年10月25日

◆梅田のひき逃げ事件は殺人罪!

                     川原俊明(弁護士)

最近、人をはねた交通事故で、そのまま逃走を試みる残虐な犯行が目につきます。許されない気持ちです。
 
大阪梅田の繁華街で、人を引きながら3キロにわたり引きずり回した、という凶悪犯罪事件が発生しました。数日前にも、無免許運転の中学3年の女子生徒が、自転車に乗った人を180メートルも引きずって、なお逃走を試みた、という事件がありました。
 
自分さえ逃げ通せればいいと思ったのでしょうか。被害者の命はどうなってもいいのでしょうか。

身近に発生する交通事故のなかでも、一番卑怯なのは、ひき逃げ事件です。
 
最近、道路交通法が改正され、飲酒運転により人を致死に至らせた場合、危険運転致死罪として懲役20年以下の厳罰に処せられることになりました。

ところが、交通事故をおこしても逃走し、その間にアルコールを抜けてから自首することによって、危険運転致死罪を回避するパターンが出てきました。その一連で、「逃げ得」を計算し、重罪の危険運転致死罪を回避し、自動車運転過失致死傷罪の「7年以下」を狙って自首する、というとんでもない輩が横行し始めました。

しかし、ひき逃げによる犯行で、被害者を車体に巻き込んでいることを知りながら、逃走するのは、危険運転致死罪どころか、「殺人罪」です。

被害者の生命に明らかな危険が発生することが目に見えており、被害者が死亡してもやむを得ない、と考える場合では、「未必の故意」が認定され、殺人罪が適用されるのです。殺人罪は、当然のことながら死刑を含む重罰です。
 
ひき逃げによる卑劣な逃走は、決して許されるものでなく、それこそ厳罰で、法を適用すべきです。

人間として、交通事故を起こしてしまったなら、被害者の救済を最優先すべきです。 被害者の救済を放棄することは、殺人罪の適用につながることを認識すべきです。卑劣な逃走をしても、いつまでも逃げ切れるものではないのです。(完)


2008年10月14日

◆三浦元社長の自殺への遺族コメント


                      川原俊明(弁護士)

三浦和義元被告人が、約27年前、妻・一美さんの殺人容疑で、日本で裁判にかけられ、最高裁判所で無罪になった事件がありました。
 
それが、27年後の今年、元被告人が、アメリカ自治領のサイパン旅行で入国したところ逮捕されました。逮捕容疑は、殺人罪と共謀罪。
 
すでに日本の裁判所で刑事裁判として無罪が確定している元被告人に対する逮捕ないし裁判が許されるのでしょうか。
 
ここに、刑事裁判の基本原則とも言うべき「一事不再理」という不文律があります。一つの刑事事件で審理し、結論が出た事件は、これ以上蒸し返さない、というものです。
 
この不文律は、日本で確定裁判があれば、日本国内での裁判に限らず、アメリカを含む海外での裁判に一律適用されるべきものです。
 
その結果、サイパン地裁では、殺人罪を容疑とする逮捕・勾留請求は無効となりました。しかし、アメリカには、日本に存在しない形態の犯罪形態を別に定めていたのです。それが、共謀罪。
 
日本の共同正犯(刑法第60条)と構成要件を異にする類型の犯罪だそうです。その意味では、共謀罪での逮捕・訴追は、一事不再理に抵触しないことになります。
 
元被告人の犯罪地とされるアメリカ・ロスアンゼルスに移送決定された後、拘置所で自殺した事が報じられました。元被告人が、直前まで無罪を主張していたのに、自殺による事件の決着をみたのが、元被告人の真意だったか、という点は、議論がありそうです。
 
それでも、事件発生後27年を経た時点において、なお、アメリカが、刑事事件の真相を追求しようとする執念には敬服します。元被告人が、無罪を主張するなら、堂々と主張を続けるべきであり、自殺は、逃避に過ぎず、事件の解決になりません。
 
私は、弁護士としての立場から、被害者の妻・一美さんの母の、以下のコメントが心にしみます。
「被害者の人権よりも犯罪者の人権を重んじる日本では、三浦が裁判に勝ち、正義は実現しませんでした。」
「死んだことで罪がすべて許されるなら、この世に倫理道徳はなくなります。」
 「三浦を有罪にする確信の元になった捜査資料の提出を公開して欲しい。」

私たち法律家の立場からしても、刑事裁判は、真相の究明こそ、大事だと思います。それが、刑事裁判をうける被告人に、有利であれ、不利であれ、事件の証拠はすべて開示すべきです。
 
最近、刑事裁判に関わって、検察官が、被告人に有利な事実、すなわち、刑事裁判の維持には不利な証拠について、弁護側からの被告人に有利な証拠も、「不同意」として、裁判所への提出を認めない例があります。これは、検察官の本来の立場を、見失った対応です。
 
検察官は、公権力を行使する国民の代表者として、刑事裁判の当事者であるべきです。

ところが、なぜか、いったん起訴された刑事事件を、なんとしてでも有罪にしなければいけないと考えているのか、弁護側の被告人に有利な証拠の裁判所に対する提出すら拒否している例が見られるのです。
 
検察官としては、起訴どおり証拠に基づき有罪であれば、それも一つの結論であり、仮に、弁護側からの証拠によって、無罪となっても、これも真実発見という刑事裁判の目的からすれば、何ら問題がないのです。
 
なにか勘違いしている検察官の存在によって、司法をゆがめていることが気になります。
 
先ほどの、被害者一美さんの母のコメントは、日本の裁判制度の問題を指摘されたご意見として、理解しています。(完)

2008年09月29日

◆政治家不在の日本

川原俊明(弁護士)

中山成彬国土交通大臣の「(地元住民)ごね得」発言、「日教組解体」論「日本の単一民族国家」論など、失言問題に、おそらく多くの国民はあきれかえっているでしょう。

政治家として、それなりの持論を持って国会に乗り込んできたのは理解するとしても、国務大臣に任命された以上、内閣の一閣僚として、言動に責任を持つべきです。

放言・失言はとんでもないことです。辞任、あるいは、罷免は当然です。
 
麻生内閣は、国会の内閣総理大臣指名に基づき、麻生総理大臣が組閣した行政府です。立法府としての国会と異なり、行政府としての内閣は、日本国のあるべき姿を示し、日本のより良き未来形成に向けて、内閣が、一丸となって行動すべき立場にあります。
 
国務大臣である一閣僚は、総理大臣によって任命されます。仲良し内閣とまで揶揄されるほどに、総理大臣の国務大臣任命権は絶対的なものです。それだけに、国を動かす内閣が、閣内不一致の意見を抱えていてはいけないことから、総理大臣の閣僚罷免権が、憲法第67条で保障されているのです。

それだけに、一閣僚としての発言は、時の内閣の方針なり、考え方、と見なされても仕方がありません。
野党が、麻生総理に対する任命責任を主張するのは、それなりの根拠があります。
 
それにしても、中山国土交通大臣の、閣僚としての自覚のなさは驚きです。国の命運を左右する閣僚としての見識は、全く見られません。
 
言うまでもなく、日本は民主国家です。多様な意見の存在は、思想信条の自由として保障されています。

しかし、閣僚としては、日本を全体として鳥瞰的に把握すべきその立場を理解なければなりません。閣内統一された意見でもない放言・失言をするようでは、閣僚としてはもちろんのこと、国会議員としても資格がありません。
 
実に情けない政治家が、国会議員として席を温めていることに、憤りを感じます。

この背景には、国会議員の政治家としての質の低下があります。各政党は、政党の得票率を上げるため、タレント議員の多用、二世議員の重用をし、日本の政治に不可欠な人材よりも、目先の集票マシンを候補に立てるばかげた習性があります。

ここに、日本の政治体制の後進性が見られます。橋下大阪府知事が、中山失言を支持するコメントを流しています。これにもあきれています。彼も、中山氏と同罪でしょう。

二世議員の登用について、小泉元首相の代議士引退声明に関連して、次男坊に票田を承継することを公表しました。靖国参拝評価を別にしても、それなりに活躍した小泉元首相でした。しかし引け際に、票田の世襲を明らかにすることにより、小泉元総理は、評価を大幅に下げたのではないでしょうか。

日本は、江戸時代に戻ってはいけないのです。世界を見つめないといけないのです。国民は、憲法の精神を理解しない政治家を選ぶべきではありません。


2008年09月24日

◆幼児受難の時代

                     川原俊明(弁護士)

近時、福岡で小1男児、千葉で保育園女児が、それぞれ幼い命を失いました。

人間、生まれてきたからには、肉体が朽ちるまで、思い切った人生を歩む権利があります。

人それぞれに人生があり、運命があります。人生には、苦しみと楽しみがあり、山と谷があります。せっかく生を授かった生命体が、寿命が尽きるまではぐくむことは、神あるいは自然の摂理への義務です。 
 
しかしながら、他人によって自分の人生を打ち切られることは、余りにも殺生な話です。被害者が、生を受けてまもなくの乳幼児であろうが、何十年の人生を享受してきた老齢者であろうが、まったく同じことです。
 
他人を殺害することは、自分の命の尊さすらも理解していないからです。

これだけ文明が進んでも、人間が、細胞一つ、一から作り上げることはできていません。細胞の遺伝子を変える技術があったとしても・・・。
 
生命の神秘は、まさに神のみぞ知る分野でしょう。ましてや、幼児には、多くの未来が待っています。
 
福岡の小1男児の場合、たとえ多少の発達障害があったとしても、その男児は、寿命が尽きるまで人生を享受する権利があったはずでした。犯人とされる母親に、たとえ多くの事情があったにせよ、男児の生を奪うことは許されないことです。

ただし、往々にして、人の殺傷事件の背景には、社会問題が山積していることも事実です。経済問題、介護問題、環境問題、医療問題など、社会のるつぼの中に、多くの事件の発生があります。
 
この世の中から、少しでも犯罪をなくすには、平和で、多くの人が幸せを感じる社会環境が必要だと思います。それぞれに人生があります。
 
互いを思いやり、命の尊さを理解することが大切なことです。

2008年09月22日

◆C型肝炎患者の製薬会社との和解


                   川原 俊明(弁護士)

大阪地方裁判所で、製薬会社を被告として提訴していた、薬害に基づく損害賠償請求訴訟の原告であるC型肝炎患者が、製薬会社との間で、9月17日裁判上の和解を成立させました。
 
患者にとっては、4年半にわたり、訴訟を維持してきました。

しかし、今年2月に、国との和解が成立したこともあり、できるだけ早期決着に向けて、製薬会社との和解交渉を続けることにしたのです。

患者は、肝ガンに罹患し、重篤な状態にありながらも、他の多くの肝炎患者救済のため、自らの体を顧みず、患者救済の受け皿としてのNPO法人肝炎家族の会を立ち上げるなど、涙ぐましい努力をしてきました。
 
今回の和解内容には、製薬会社が、C型肝炎患者救済のため新薬開発に向けて最大限努力する趣旨の条項が入りました。
 
裁判上の和解調書という公文書において、製薬会社の新薬開発にむけての努力条項が記載されたことは、画期的なことです。
 
原告であるC型肝炎患者は、みずからの損害賠償金を放棄してまで、この条項を求めたのでした。

製薬会社には、原告患者のこうした気持ちを、汲んで上げてもらいたいと思います。
<川原敏明弁護士は、本訴訟の担当弁護士>


2008年09月17日

◆新司法試験合格率の意味

                     川原俊明(弁護士)

今年の新司法試験合格者が発表されました。2065人で合格率33%。
 
この結果は、様々な問題を含んでいます。元来、国は、法曹人口を拡大し、年間3000人の司法試験合格者を輩出する目標を設定しました。無医村ならぬ、無弁村をなくそう、との方針です。

その下に、近年、合格者は、年間1000人、1500人と徐々に増加してきました。日本弁護士連合会(日弁連)も、年間3000人合格路線を容認してきました。
 
ところが、昨年の司法試験合格者の深刻な就職難という現状は、安易な法曹人口の拡大方針に警告を発したものといえます。
 
しかしながら、基本的には、日本の法曹人口は、世界に比して極端に少ないのです。したがって、現代の錯綜した法律関係のもとでは、裁判官、検察官を含めた法曹人口の拡大傾向は、社会の要請ともいえるものです。
 
しかるに、日弁連は、近時、会長声明によって、増員問題に水を差すかのような、軌道修正路線を表明しました。たしかに、就職難の現実を目のあたりにして、増員抑制案は、やむを得ないのかも知れません。しかし、考えてみれば、日弁連の方針変換も無責任です。
 
3000人合格方針を信じて、すでに数年前から、若者達は、ロースクール受験生になるべく、今まで勤めてきた会社を捨て、預貯金をはたき、あこがれの弁護士を目指して、法律の世界に飛び込んできているのです。
 
旧司法試験に比べれば、弁護士になれる確率が高く、法律を学んでこなかった他分野の人材を法曹人として育てる、というロースクール制度の高邁な方針に共鳴して、多くの若者が新司法試験に挑戦しようとしているいるのです。
 
日弁連の変身は、法曹を目指す若者にとって、迷惑な話です。当初の合格率予想は、70〜80%程度でした。それならば、むしろ、ロースクール卒業生に対し、新司法試験合格者に対してはもちろんのこと、仮に、司法試験に合格しなくとも、ロースクールでの勉学の成果を習得した若者たちを、国や地方公共団体、企業が、何らかの就職の場を提供するべきでしょう。
 
増加する法曹人口に対し、社会が受入体制を築く必要があります。ちなみに、就職活動により、法律事務所で勤務する弁護士のことを「イソ弁」、といいます。近時、就職難の落とし子として、法律事務所に籍だけ置かせてもらうが、給与は出ない「軒弁」(のきべん)といわれる弁護士がいます。法律事務所の軒先も貸してもらえず、給与ももらえないで、最初から自宅で開業せざるを得ない弁護士のことを「宅弁」(たくべん)といいます。 「軒弁」、「宅弁」は、近年の新造語です。
 
熟練弁護士の指導を受けない「宅弁」は、事件を依頼する立場からは、果たして任せていいものかどうか、問題かもしれません。
 
裁判員制度が、来年から施行されます。裁判に対する国民の関心は増大します。これにともない、ますます法曹人口の拡大は、不可避でしょう。しかも、高い合格率を維持するためには、肝心のロースクールでの法曹教育体制を再検討すべきです。
 
今まで以上に質の高い実務的な法曹を、ロースクール教育に投入すべきでしょう。そのうえで、法曹人口を増やしていくべきだと思います。(完)

2008年09月05日

◆救急医療に免責・責任軽減制度!

                      川原俊明(弁護士)

福島地方裁判所でなされた産婦人科医師に対する無罪判決に対し、福島地検が控訴を断念し、無罪が確定しました。
 
帝王切開手術で大量出血した患者の死亡事故について、産婦人科医師が逮捕され、業務上過失致死の疑いで刑事裁判にかけられていたのです。
 
亡くなられた遺族の気持ちもわかります。しかし、医療体制に、どこまで司直の手をのばすべきか、慎重に検討すべき事案となりました。
 
この事案に限らず、産科・小児科の医師のなり手が少ないのは、他の科目の医師よりも、多くの医療訴訟に巻き込まれる危険が大きいからです。民事事件ならまだしも刑事事件にまで追求されるとなれば、医師としてやる気を失うのも、わからないではありません。
さらには、マスコミを賑わすものに、救急病院での患者のたらい回し現象があります。
 
医療機関が、時間外での緊急医療受け入れ体制を取り、限られた医師の手配による暫定治療の結果に対し、大きな医療過誤訴訟に回ってくるのでは、医療機関側にとって、割に合うはずがありません。それなら、最初から緊急患者を受け入れない方が、医療訴訟で攻められることがなく、医師にとって安心だからです。

しかしながら、これも、最終的には、患者につけが回ってきます。

結果的には、目の前に救急病院があっても、救急患者を受け入れてくれないのですから。
救命は、時間との戦いです。
 
そこで、緊急医療の場面では、患者も、とりあえずの暫定処置を期待している、と割り切る必要があります。

医療過誤訴訟では、医師の過失を判断する基準として、当該時期における医療水準を満たした処置がなされたかどうか、これが医師の注意義務違反かどうかを認定します。

しかし、緊急医療において、この原則をそのまま当てはめるのは、果たして妥当なのでしょうか。酷に過ぎる場合が発生します。
 
緊急医療の場合、いままでの治療歴の有無に関係なく、当該症状を訴える初対面の患者に対し、医師が、限られた時間で処置をするのです。この場面で、医療水準を満たした適切な処置がなされたかどうかの判断基準を適用する方が無理を言っているのは明らかです。
 
そこで、救急医療においては、医師の注意義務を軽減するなどの処置を、立法的に明記して解決すべきです。

法律は、当該社会の実情に合わせたものでなればなりません。

限られた環境のもとでの適切な措置さえなされていれば、当該医師に対し、それ以上の民事・刑事の責任を追及すべきではありません。

そうすれば、救急医療機関も安心して救急患者を受け入れることができます。患者のたらい回しもなく、産科・小児科の医師不足も解消されるかもしれません。
 
現在の、医師責任追求型訴訟社会では、医師、とくに産科・小児科の医師がますます少なくなり、医療体制が整わないことによって、結果的に少子化現象を助長することになります。
 
これでは、決して、社会全体が、良くなりません。(完)


2008年09月02日

◆総理は日本の船頭なのに・・

                   川原俊明(弁護士)

9月1日夜、福田総理が辞任を表明しました。

日本の総理大臣の地位は、それほど軽いものなのでしょうか。行政の頂点に立つ総理大臣たるもの、一国の船頭さんに例えられます。

航海の途中で、総理の椅子の座り心地が悪くなったからといって、簡単に椅子を蹴っていいものでしょうか。ましてや、今年は、中国・韓国などとの関係を修復しなければならない大事なときに、仕事半ばで無責任にも辞任を表明するのは許されないことです。
 
韓国との竹島問題の平和的解決をどうするのですか。中国との関係強化も、目前に対策が迫られているではないですか。9月にも開かれようとしている日中韓首脳会談はどうするのですか。
 
総理大臣の「職場放棄」は、日本政治の後進性をまたしても世界に見せつけてしまうことにならないでしょうか。
 
福田総理が辞めたとしても、ただちに小沢総理になるわけではありませんが、もう少し、タイミングを考えて辞任時期を考えるべきでしょう。
 
世界の政治は、急速に進んでいます。ロシアの覇権主義が動き出しています。アメリカの大統領選挙結果によって、世界の流れが変わります。
 
ロシアとEU諸国との冷戦も、ぶり返す可能性を秘めています。そんなときに、自分だけ、身を引いて責任を取ろうとするのは、日本的ではあります。しかし、現代の世界には決して通用しない行動です。
 
総理大臣たるもの、命をかけて政治を動かすべきです。命をかけた仕事もしないで、辞任するのは、余りにも無責任です。(完)


2008年08月10日

◆「中国ギョーザ」とマスコミの対応

川原俊明(弁護士)

今年1月、中国・天洋食品製冷凍ギョーザに強い毒性を持つ農薬メタミドボスが混入していた事件が発生しました。

これに関連して、このたび、中国側が、中国国内でも、天洋食品製冷凍ギョーザを食べた中毒被害者が発生したことを日本に伝えてきました。

食の安全のため、早期の原因究明が必要です。
 
ただ、この件のマスコミ報道で気になることがあります。中国から、被害発生の連絡があって1か月も経つのに、日本政府が公表しなかったことをもって、あたかも政府の対応に問題があるかのような論調がマスコミで流されています。

これに応じて、昨日、小沢民主党代表が、政府の対応を批判しました。しかし、この問題は、食の安全という観点から報道されるべきでしょう。

今回の中国側の被害報告を日本政府が直ちに公表しなかったからといって、一体何が問題なのでしょうか。公表の遅れがあったことをもって、どうして政府の責任となるのでしょうか。原因究明がなされた、という結果報告があったわけでもないのに。

日中が、責任のなすりあいをしてきた本件にとって、あくまで捜査途上の報告にすぎず、この報告によって問題が解決したわけではありません。

むしろ日中友好を大切にするならば、日本政府の態度は、むしろ正解で、日中双方で、早期に問題解決を計るべきです。

政治というものは、大局的な観点で対処すべきです。
マスコミが小さなスクープをもって、鬼の首でも取ったような報道をすること自体が問題でしょう。

日韓問題にしても、日中問題にしても、政治家は、国家100年の計をもって行動すべきであり、マスコミの目先の興味本位の報道により、国際関係を揺るがせてならないと思います。今回のマスコミの報道姿勢を疑います。 (完)

2008年08月03日

◆橋下大阪府知事に異議あり

                      川原俊明(弁護士)

今、橋下府知事の意見として、伊丹空港廃止の検討が取りざたされています。大阪府の財政再建と称して、削減策ばかりを説く、府知事の姿勢には、大いに疑問があります。

「大阪府は破産状態にある」「歳出は、歳入の範囲内で」、それ自体は、もっともらしい発想ですが、府知事には、現在の固定化された歳入額しか念頭になく、歳入から歳出を引き算する、という単純すぎる発想では、大阪の未来はありません。

ましてや、府知事の単純計算のおかげで、大阪の文化をなくし、私学の伝統を切り捨て、大阪の玄関口まで閉ざしてどうする、というのでしょうか。

長年の歴史の中で大阪に根付いた文化を育てるどころが、「金がない」の一言で切り捨てるのは、言語道断です。タレント弁護士として、人気を誇る橋下氏の手法は、明らかに「府民の受け」のみを意識しています。

弁護士の破産管財人的発想では、大阪は、店じまいをしなければなりません。弁護士といえども、行政に経営的感覚をもたないといけません。今のままでは、大阪の未来を展望するどころか、大阪の経済・文化を切り捨てることになります。

府の与党は、大阪府予算案を承認したわけですが、今の政治家が、目先の票集めのことしか念頭にない態度には幻滅を覚えます。

いくらタレント性があり、人気があったとしても、その政策が、もし、間違っているとするならば、府民は、大いに批判すべきです。

橋下府知事の大阪府に対する今の認識では、大阪の地盤沈下は、ますます加速するでしょう。東国原宮崎知事のまねをして物産展に姿を現すだけでなく、100年先の大阪府を見据えて、大阪の経済活性化を考え、府政を司るべきでしょう。

2008年07月27日

◆多発する少年少女殺人事件

                      川原俊明(弁護士)

埼玉県川口市の女子中学生による父親殺害事件、群馬県桐生市の無職少年による高校生殺害事件をはじめ、このところ、中高生を含め、未成年者が加害者となる殺人事件が目だっています。

人間の成長過程における青春期では、心理学的にも、現実と想像の世界の区分が明確でない場合があり、想像の世界の中で、現実の犯行がおこなわれる場面がないわけではありません。

(私の時代の司法試験には、刑事政策も、教養科目としての心理学(特にフロイト心理学)も、受験科目として、その両方を必死に勉強していたことがあります。)

父を殺した少女が、「父が家族を殺す夢を見た」等と供述しているのも、あるいは、そのような現実と想像の未分化という心理的背景があったかもしれません。それだけに、今の社会現象を持って、社会経験に乏しく、想像だけが先行しがちな年代の過ち、として片付けるべきではありません。

その背景には、現代の若者の多くをバーチャル【Virtual・仮想】世界に塩漬けしてきた大人にも、多くの責任があるのではないでしょうか。

昨今のテレビゲームでは、人間の姿をしたキャラクターを倒しても、「リバイバル(復活)」が待っています。

ところが、このゲーム感覚で成長した子供たちは、人間の命というものに対し、それが、取り返しのつかない崇高なもので、それぞれの命に家族や歴史を持っている、ということを理解できていないのではないでしょうか。

テレビゲーム世代の若者にとって、殴った自分も、殴られた相手も、痛みを感じません。
「死」というものに対する究極的な考えを持たず、ただ一つのキャラクターが消えていくだけのように認識してるのではないでしょうか。

このような若者を育てたのは誰か。まさしく現代の大人です。限りある命、暖かい血のかよった人が築く社会。このことを、真剣に若い世代に教えなかった大人の責任が問われているように思います。
 人間教育の根幹を忘れ、営利主義に走ったゲーム会社の責任、それを許してきた社会の責任を痛感します。
 
しかし、私は、今からでも遅くないと思います。
人の心とは。人が生きるということは。
現代の大人、特に団塊の世代が、責任を持って若者に立ち向かうべきだと考えます。


2008年07月20日

◆殺人事件の増加傾向を憂う

                      川原俊明(弁護士)

最近の警察庁発表によれば、刑法犯の件数は6年連続で減少気味だが、殺人事件は増加傾向にある、とされています。私たちが、現実に体感している日本の社会は、本当に良くなっているのでしょうか。

私には、何となく、逆ではないか、との印象があります。

社会は、人と人のつながりで成り立っています。人それぞれが、互いに相手の存在を認め合い、理解しあう、という気持ちが備わっていれば、たとえ、どのような紛争があったとしても、人を傷つけ、人の命を奪うことまではできないはずです。
 
最近の残虐な無差別殺人事件で、犯人が、「誰を殺しても良かった」と平気で供述しているのは、一体、何が原因なのでしょうか。人間の暖かい心まで失わせてしまった冷たい社会が、これ以上拡大しないことを祈っています。何の恨みもない善良な市民が、犯人のストレス発散のために、命を奪われることは、絶対に許されることではありません。

人の命が、ここまで軽んじられる原因の一つと考えられることがあります。現代の日本の社会の特徴の一つである核家族化です。

大家族制度の下では、老若男女が社会を構成し、互いの立場を理解しながら社会生活をしてきました。大家族制度のもとでは、長たるものは、権威と尊厳を持っていました。そこでは、家庭生活の中で、自然と、互いの人間教育ができていました。

ところが、核家族の下では、親が子供を甘やかし、子供も、自分独りよがりの人間になりかねない環境となっています。

私は、人の気持ちを理解しない人たちが増えることを危惧しています。
法による取り締まり以前の問題です。人に対する思いやり、礼節など、人間としての真の教育が、社会全体に求められているのではないでしょうか。(完)

2008年07月14日

◆死刑論議について

     
川原 俊明(弁護士)

鳩山法相に対する朝日新聞素粒子欄の「死に神」記事に端を発し、ネット上では、死刑問題について、いまだに議論が続出しています。

私は、法律家の立場から考えても、死刑容認論と死刑廃止論について、多くの皆さんが、冷静に、且つ、徹底的に議論すべきではないかと思います。目には目を、歯に歯を。

紀元前に制定されたハムラビ法典が、現代の社会にそのまま反映すべきでないのは当然です。しかし、法律というものは、神が創るのではなく、その時々の社会の常識の集大成である、という理解が必要です。

法律は、そのときどきの社会の鏡です。法律は、社会の認識を反映しているのです。

現代日本の社会では、なぜ死刑廃止論が多数を占めないのでしょうか。いくら、日本弁護士連合会が、死刑廃止論を観念的に主張しても、国民の多くは、受け入れていないのが現実でしょう。

日本の社会は、基本的に村社会なのです。お互いの寛容をもとに、日本の社会が成り立っています。多少のことをしても、村社会の掟からはずれさえしなければ、寛容の精神で物事は解決されていきます。

ところが、一旦掟を破れば、社会は、徹底的に排斥します。殺人行為など、その典型でしょう。殺人行為を認容していれば、その社会は成り立ちません。人間社会の根源を揺るがす行為なのですから。但し、殺人行為が、直ちに死刑であるべきだ、という訳ではありません。

殺害に至るには、通常、さまざまな背景事情があり、それを斟酌した上で、処罰を決める必要があります。ときには、死の苦しみに匹敵する被害者が、殺人の加害者となることもないわけではありません。その意味で、決して、目には目を歯に歯を、の考えを鵜呑みにする訳にはいかないのです。

一方、死刑廃止論の背景には、人間社会の希薄さを感じます。

誰が死のうが、その被害者に家族がいてもいなくても、どんな残虐な犯行であろうとも、殺人犯人を、刑務所で更生させることが人権擁護である、と。こんな抽象的な「刑事政策的」議論は、まるで人ごとでしょう。

日本の刑事裁判においては、何人もの殺害行為がなされた事案でも、弁護人の要請により、精神鑑定がなされたうえで、裁判官が慎重な審理をします。しかも、特定の裁判官の判断のもとで、誤った結論をだしてはいけないので、地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所といった三審制がフルに使われ、多くの裁判官の関与により、はじめて死刑判決が確定されるのです。

裁判官の立場から、どんな極悪犯人であれ、被告人に死刑判決を言い渡すことが、どれだけのプレッシャーであるかを理解すべきです。死刑論議は、この点の、前提事実を、無視して展開されています。

「死刑判決」をうけた死刑囚に、絞首刑をするのは、死刑囚の人権を侵害するものだ、とかの意見があります。死刑判決を受けざるを得ない事案は、犯人が、生きて更生させるには、あまりにも残虐非道であるからこそ、死の償いもやむを得ないとの判断があるのです。死刑にしてしまえば、冤罪の回復はない、との議論もあります。

しかし、これも現実離れの議論です。

戦前はともかく、戦後日本で、冤罪の可能性の極限の案件で、いとも簡単に死刑執行された事案があるのでしょうか。逆に、何人も人を殺害しておいて、殺意がなかった、とかの議論が、通用するのでしょうか。

法務大臣の死刑執行は、それこそ事案を慎重に検討し、やむなく法に基づいて実施されるのです。
 
わたしは、死刑制度の存在が望ましい、といっているのではなく、死刑判決をしなくてもいい平和な社会が欲しい、と言っているのです。
 
弁護士が、死刑容認論を展開すると、何か奇異に受け止める人がいます。しかし、弁護士は、法律を大切にし、今に生きる人々の気持ちを理解できる法律家でありたいと思っています。(完)