2010年11月16日

◆「巴里だより」ところ変わればビールも

          岩本宏紀(在仏)

アムステルダムの古いレストランでのこと。

旨いぞ、と同僚に薦められたビールは
口当たりよく、本当に旨かった。

ところがすぐにいい心持になった。
ラベルを見ると アルコール10% と書いてある。
普通のビールの2倍以上だ。

小瓶1本ですっかり赤くなってしまった。
デンマークのメーカー、カールズベルグには
エレファントという銘柄がある。

度数はたしかワインと同じ12か13。
僕は飲んだことはないが、アルコールに弱いひとは
水で薄めることもあると聞いた。

ところ変わればビールも変わるというはなしでした。
o0800060010857182645[1].jpg

2010年11月15日

◆ホイッスルブローアーの功罪

石岡 荘十

「ホイッスルブローワー」(whistle-blower)は「笛を吹く人」。もともと「危ないぞ! ピッピッ」と笛を吹いて歩行者や群集に注意を喚起する英国の警官のことを指す言葉だったそうだが、今では転じて通報者、内部告発者と訳されている。

密告者という言い方をすることもあるが、これはどうも仲間を裏切る者という陰湿で暗い感じがして、もともとの意味とはかけ離れている、と思う。

“尖閣事件“の映像が流出したという第一報を聞いた今月4日、ピンと来たのはこの単語だった。そして、11月10日案の定、海保の保安官が「自分がやった」と告白をして大騒ぎになっている。

まだ、映像を誰が流出させたか明らかになっていないときから「犯人探しはすべきでない」とか「機密漏洩罪や場合によっては窃盗罪などで捜査、刑事手続きにのっとって厳正に対処すべきだ」、と大雑把に言うと世論は二つに分かれていた。

その後、YouTubeに映像を貼り付けたのが海上保安官だとわかった今でも両論に決着はついていない。判断の分かれ目は内部告発者をどう評価するかにかかっているといえるだろう。

日本国内で内部告発者をめぐる問題が世間の関心を呼んだ事件があった。

雪印牛肉偽装事件(2001年)だ。国外産牛肉を国内産牛肉と偽ることにより、農林水産省に買い取り費用を不正請求した事件だが、取引のあった西宮冷蔵会社「雪印食品関西ミートセンター(兵庫県)」による内部告発で牛肉の偽装が発覚した。

事件の影響で西宮冷蔵は取引先からの信用が激減するなどし、一時は廃業状態にまで陥ったが、その後カンパを募るなどし、2004年に営業を再開した。

この事件をきっかけに、2006年「公益通報者保護法」が与党(当時)だけの賛成で成立した経緯がある。
   http://law.e-gov.go.jp/announce/H16HO122.html

その第1条(目的)はこうだ。

<この法律は、公益通報をしたことを理由とする公益通報者の解雇の無効等並びに公益通報に関し事業者及び行政機関がとるべき措置を定めることにより、公益通報者の保護を図るとともに、国民の生命、身体、財産その他の利益の保護にかかわる法令の規定の遵守を図り、もって国民生活の安定及び社会経済の健全な発展に資することを目的とする>

つまり、公益のために企業の不正行為を内部告発しても、解雇などの不利益を受けないよう通報者を保護する法律であるとされている。

この法律ではまた、保護される通報者を退職者を含む労働者(公務員を含む)と定義しているが、通報内容は切迫性、確実性を強調するなど、気軽に笛を吹きにくい縛りをかけている。

ただもちろんこの法律が出来たころには公務員がインターネットに動画を貼り付けるような事態は想定外であり、万が一、今回の事件で通報者が逮捕、起訴されるようなことにでもなれば、この法律の解釈をめぐってややこしい法律論争を引き起こすことになるだろう。

それ以前に、問題の映像が機密事項なのかどうかも疑わしい。それでも事実上、法律家を自称する女房役が牛耳る内閣が「機密漏洩」「公務員法違反」を言い募るなら、法廷で決着するのも法治国家としては当然の手続きであるから、とことんやってみたらいい。

公益通報者保護法案について「もっと幅広く告発者を保護すべきだ」として反対していた当時の野党の対応が見ものである。いまのところ“漏洩”の動機ははっきりしないが、笛を吹いたノーベル賞受賞者を牢にぶち込むかの大国なみの失笑を買うことになるだろう。

あえて今回のホイッスルブローアー功罪を問うなら、国民に議論のネタを提供しただけでも彼の行動は評価されていい。ホイッスルブローアーを“密告者”とするような陰湿な受け止め方から、この際、脱却する絶好のチャンスである。         20101112


2010年11月08日

◆判って貰えないがん患者の性

石岡 荘十

子宮、卵巣、子宮頸がんなど女性特有のがんを患い手術を受けた女性は、もう女ではないのか、こんな疑問を抱き続けてきた知人が、会員制の月刊誌テーミスの求めに応じて、自分の手術体験をふまえて、術後の女性の性について赤裸々に告白する記事をまとめあげた。11/1発売号に掲載されている。

同誌は会員制の雑誌なので、ここに紹介する。

以下、要旨を引用。

「男性の方にうかがいたい。病気で卵巣や子宮を失った恋人や連れ合いのことを『女としてもうおしまいだ』と思っていませんか。婦人科のがん患者はその偏見に悩んでいます」

女性の場合、勃起する、しないに悩みが集中する男性とは異なり、パートナーや周囲の偏見による悩みが大きい。

病院で知り合った同じ病気をかかえる女性患者たちのなかにも、「夫のセックスの相手ができないのが申し訳ない」、「術後の女性の機能を知ろうとせず迫ってこられても、性交痛でセックスするのが嫌だ。

気持ちはあるけど応じられない」、「自分が女じゃなくなったのだから連れ合いが浮気をしても仕方ない」などと考える女性は多かった。しかし、そんな深刻な悩みをどこにも相談できない人もまた多いのだ。

病気をしたり、歳とったりした人は性の戦線からはずれて当然。60歳、70歳でセックスしてるなんて気持ち悪いと平気でいう若者もいます。病気で卵巣や子宮を取ると『もう女じゃないのね』と女性からいわれたこともありました」

女性にとっても、セックスは重要なのだ。命が助かった、仕事にも復帰できると一安心した時、「あのー、できますか?」と回診にきた主治医に思い切ってたずねると医師は、「うーん、性欲がいつ回復するかだけどね・・・。大丈夫だよ」と答えた。その後、退院時に渡された「退院の栞」の性生活についての説明に力づけられた。

「開始時期については個人差がありますので医師の指示に従うのが望ましいでしょう。初めは男性の方が浅いと感じますが性生活を繰り返していくうちに膣の部分が伸びていきます。

数か月で元に戻り、違和感がなくなります。膣の中の縫ってある部分がさけたり、傷ついたりすることはありませんので安心して行って下さい。また、性生活によって病気が再発することもありません。

ホルモン分泌の環境を整えるためには、むしろ積極的に性生活を行った方が良いと考えられています。

卵巣を摘出した方は性交時の分泌が減り、膣が委縮するため性交時痛が起こりますので、潤滑剤リュウブゼリーの使用をお勧めします。今までは、精子の一部が子宮の入り口より中に入り、膣内に排出された精子はすべて流れ出てきます(腹腔内には入りません)…」

退院後、夫に栞を見せ、セックスに挑戦してみた。

「まだお腹の傷も生々しい時期でしたから、お互いにお腹に触れるのが怖く、でも久しぶりの触れあいは素敵で、ただ抱き合い、触り合う時から体は反応して濡れました。

それでも挿入するとき彼はとても心配して『大丈夫?』と聞きました。久しぶりなので緊張もありましたが、始めの痛さはすぐに消えて、気持ちよくなりました。以前のようなオーガズムとは比べようもありませんが、満たされた気持ちで満足しました」

術後3年で夫とは別れたが、新しく出会う人に病気のことは話せても、ベッドに行きたいとはいえない。

「女性器を失っているという劣等感があるからです。婦人科がんを患い、離婚した芸能人カップルのニュースをみるたび、同じ悩みを抱えているのではと思うようになりました」

婦人科がん患者の悩みは病院での治療が終わってから始まる。しかし、医者や看護師との密接な関係はすでになく、相談相手もいない。前述の「栞」の内容を、引け目を感じている女性がパートナーに説明するのは難しい。

「退院する時に医師や看護師が、患者とそのパートナーに病気と性生活についての説明をし、疑問に答えてくれる機会があればどんなに救われるかわからない」。

これまでがん患者は命を救うことが第一とされ、セックスについてはタブーとされてきた。だが、若い世代も含め、2人に1人ががんに罹る時代だ。がん患者のセックスの問題は、生活の質という点からも真剣に取り組むべき時期に来ている。(引用終わり)

筆者は、私の大学の後輩で53歳のときから4回にわたって手術を受けた経験を持つ。高齢域に入って、ようやく率直に話せるようになったと告白している。    20101101


2010年11月01日

◆失明のリスクに怯えた夏

石岡荘十

本メルマガ2068号(10月17日)で、加齢疾病のひとつ帯状疱疹に悩まされた夏の騒動を報告した。
http://www.melma.com/backnumber_108241_4996790/

今回はいま加療中のもうひとつの典型的な加齢疾病、失明のおそれもあった私の「加齢黄班変性」症例について述べる。

まず、加齢黄班変性とはどんな病気か。

眼に入った光は「角膜」→「瞳孔」→「水晶体」→「硝子体」というルートで「網膜」の上に像を結ぶ。その情報は「視神経」→「脳」に伝えられ最終的に映像として認識される。

ここまでは学校で習った。カメラに例えると水晶体はレンズ、網膜はフィルムにあたる。「黄班」は網膜の中でも視力をつかさどる重要な細胞が集中している中心部で、場所は視神経のちょっと上にある。

そこにある細胞が物の形、大きさ、色、奥行き、距離など光の情報の大半を識別する機能を持っている。その黄班の中心部である「中心窩(ちゅうしんか)」に変性、つまり異常をきたすと、視力の低下だけでなく、物がかすんで見えたり、視野の真ん中がぼやっと黒くなって見えたり、直線がぐにゃっとゆがんで見えたりする。

こんな症状を自覚したのは、昨年春、薄暗い部屋でテレビを見ていた時のことだった。70歳を過ぎてもコンサイス豆辞典を裸眼で読めた。眼には自信があった。テレビが古くなったせい、パソコン疲れかと思ったりして、丁度いい機会だとテレビを最新の薄型、デジタルに買い換えたりしてみた。が、症状は改善しなかった。どうも変だぞ---。

診察で「加齢黄斑変性」の宣告を受けたのは今年2月だった。黄斑部の機能が、加齢等の原因によって障害される疾患だった。検査で網膜の裏側にある脈絡膜から細い新しい血管(新生血管=脈絡膜新生血管:みゃくらくまくしんせいけっかん)が生えてきていることがわかった。

この新生血管は非常にもろく破れやすいため、出血を起こしたり、血管中の成分が漏れたりして、急激な視力低下の原因となっているという診断である。正確な病名は「滲出型(しんしゅつがた)加齢黄斑変性症」。視力検査では1.2あったはずの右目がなんと0.7にダウンしていたのだ。

この疾患は加齢以外の原因が明らかにされていない。このため、その発症を前もって抑えることができず、現在でもさまざまな治療法が検討されている。「おれはこのまま失明するのか」、猛暑の夏、怯えた。

従来、加齢黄斑変性症の治療では、外科的治療やレーザー治療などが行われていたが、ただ近年、「病気の進行を抑え、運がよければ病状を改善する、画期的な治療法が見つかり、急速に普及し始めている」という担当医の説明が救いだった。

その治療法は、眼球にぶっつり注射をする方法だ。注射液はノバルティス・ファーマ社(スイス)が開発・製造した商品名「ルセンティス」(一般名ラニビズマブ)。遺伝子組み換えによる薬品で、新生血管の出現を抑え、改善する効果がある。2006年アメリカFDA(食品医薬品局)とスイスで承認され、日本では2009年、去年3月から使われ始めた。初めての加齢黄班変性の治療薬である。

これを最初の3カ月間は月に1回、以降は様子を見ながら間隔を調節し、1回0.5mg を硝子体内に注入するという。だが、「眼球にぶっつり」でビビッた。この夏、眼下の敵「帯状疱疹」の治療で病院に行ったついでに視力検査をすると、右目0.63と病状は明らかに進行中であった。ルセンティスの効果は現状維持がほとんどで、治癒・改善(視力回復)の効果は希だとされている。となると、治療は早いほどいいということになる。
         
で、帯状疱疹がヤマ場を越えた9月29日、1回目の硝子体内注射を敢行。今月20日、2回目を終えた。手順はこうだ。

まず瞳孔を開く点眼をした後、歯医者にある大きな椅子に仰向けに寝る。椅子を水平近くに倒し、消毒用点眼液を注す、消毒液を生理食塩水で流す。麻酔液を点眼する、瞼を特殊な器具(滅菌開瞼器)で開く---そして注射。違和感はあるが、痛みは想像して、怯えたほどではなかった。が、脇の下と額にじんわり冷や汗が。ルセンティスをゆっくり注入する。「終わりました」とドクターの声。この間15分ほど。

片目を厚いガーゼでふさがれた“丹下左膳”である。その日は、迎えの家族の車で帰宅。翌日、朝一番でガーゼを外し簡単なルセンティス効果の確認。さらに1週間後、治療の精密評価、視力検査と言う手順だ。

結果は、1回目で視力が0.8、2回目で1.0と顕著な改善を見た。注射治療の前後3日間、抗菌点眼を毎日4回といったわずらわしさはあったが、担当医は2回目を終わったところで、「予想以上」と評価して微笑んだ。

それはそうだ。日本でルセンティス認可に先立って行われた臨床試験では症例88件中21例(23.9%)、ほぼ4人に1人が何らかの副作用があったと報告されている。主な副作用は、眼圧上昇8例、視力低下3例、眼痛3例などとなっているから、2回の注射で視力回復まで漕ぎつけた私のケースは「希な部類に入る」(担当医)成功例と言っていいだろう。
だが問題はルセンティス治療にかかる費用だ。

ルセンティス0.5mg のお値段は1本17万円と、それこそ目ん玉が飛び出さんばかりの高額なものである。3割負担で1回の請求書は5万5000円、前後の検査・診察・目薬などを合わせると1回につき6万円の出費であった。

来月半ば、3度目のルセンティスを予定している。

加齢黄斑変性症(AMD)は米国をはじめとする欧米先進国の成人(特に50歳以上)の失明原因の第一位であり、国民の注目度も高い眼疾患だとされている。65歳以上のアメリカ人の4人に1人がかかり、そのうち半数が失明しているという恐い眼病だ。

日本ではこの10年で倍増し、2008年時点の患者数は5万2000人と推定されている。失明原因第3位。病名が示す通り加齢が原因なので、年を取れば誰にでも起こりうる病気だ。放置すれば、光を全く感じられなくなるわけではないが、事実上、失明する。加齢黄斑変性症による失明は「社会的失明」と呼ばれる、と専門書には書いてある。
 
製造元ノバルティス・ファーマ社のルセンティス添付文書にはこう書いてある。

<ルセンティス0.5mg投与後、視力が維持された患者の割合は、投与6ヵ月後、投与12ヵ月後ともに100%(41/41例)でした。ルセンティス0.5mg投与後、視力が改善した患者の割合は、投与6ヵ月後で24.4%(10/41例)、投与12ヵ月後で31.7%(13/41例)でした>
http://www.lucentis.jp/m_sayo/index.html

加齢黄班変性の危険因子は何か。まだはっきりしていないが、喫煙がこれに当ることははっきりしている。紫外線を浴びる機会の多いテニスやゴルフ好きの方等は注意が必要だと言われている。伊達ではなく、サングラスをと専門医は注意を促している。

加齢黄班変性の適齢期のほとんどは年金生活者だ。運悪くかかったら、財布が持たないだろう。             20101028

2010年10月23日

◆加齢疾病連発に悩まされた夏

石岡 荘十

今日書こう、明日こそはと思いながら、胸や背中を孫の手で掻くのに忙しくて今日に至ってしまった。何の話か。すでに畏友毛馬氏が15日の本誌で報告しているように帯状疱疹“事件”の経緯についてである。

この夏は、典型的な加齢疾病といわれる病につぎつぎと襲われ、悪戦苦闘した3ヶ月だった。この間、私を襲ったのは帯状疱疹。発症から3ヶ月、やっと終息にこぎつけたと思ったら今度は、加齢黄班変性といわれる眼球の疾病である。これについては今なお加療の真っ只中であり、別稿で報告したい。

帯状疱疹の兆しが現れたのは6月の末のことだった。「夏バテ」というのは夏だけの症状だと思われがちだが、気候の変化が激しい梅雨時や初夏にも起こりやすい。

気温の乱高下に老体がついていけず、何もする気がしない。全身がともかくけだるい。にもかかわらず梅雨明けの翌日7月18日、以前からの約束もあって、猛暑の中、秩父盆地のど真ん中にあるゴルフ場に出陣。疲労困憊、這うようにして帰宅した。完全に体力を消耗していた。これが祟った。

思い返すと、その数日前すでに左胸の皮膚に違和感があり肋骨のあたりにピリピリ感があった。間もなく胸から左肩甲骨下にかけて赤い斑点がぽつぽつ。ゴルフの後から左側の神経に沿って激痛が走るようになった。

にもかかわらず、まだ帯状疱疹とは気がつかず、市販のかゆみ止め軟膏(レスタミン)を塗ったり、サロンパスの湿布を患部に張ったりして凌ごうと試みていた。無知は恐ろしい。

そうこうしているうちに、赤い斑点は水ぶくれとなり、夜はベッドの上で転々。背中を孫の手で掻きまくったものだから水ぶくれが破れ、かさぶたへと変わったがかゆみと痛みは治まらなかった。

遂にたまらず、行きつけの病院の皮膚科に駆け込んだのはゴルフから3週間を過ぎていた。

「帯状疱疹です。ずいぶん我慢強い方ですねぇ。もうかさぶたになり始めていますから、ペインクリニックに行きなさい」という。

帯状疱疹は、幼児に経験した水ぼうそうのウイルスが原因だ。ウイルスは長い間体内の神経節に潜んでいて、加齢(50歳代〜70歳代)やストレス、過労などが引き金となってウイルスに対する免疫力が低下すると潜んでいたウイルスが再び活動を始める。ウイルスは神経を伝わって皮膚に達し、帯状疱疹として発症するとされている。

東京女子医大の統計によると、発疹する部位は、一番多いのが私のケース。上肢〜胸背部(31.2%)、次いで腹背部(19.6%)、そして怖いのは頭部〜顔面(17.6%)などとなっており、高校の友人が右顔面に発症。何年か前のことだが、今でも顔面の筋肉がこわばっている。

最悪、失明をしたケースも報告されている。頚部〜上肢にも発症する。いずれの場合も体の左右どちらか一方に現れるのが特徴だ。

発症してすぐ気づき、すぐ適切な治療を受けた場合でも3週間は皮膚の痛みや痒みが続く。痛みがやや治まってからも神経の痛みは容易に治まらない。数年間、痛みが消えなかったと言う症例もある厄介な加齢疾病である。

まして、私のケースは、初期治療のタイミングを逸した。その祟りで、いまだにときどき、肋間や背中にピリピリと痛みが走る。

さて治療法である。皮膚科では坑ヘルペスウイルス薬を処方する。ウイルスの増殖を抑える飲み薬で初期の痛みや痒みを抑える効果があるが、私はそのチャンスを逃し、我慢強く無為に苦しんだ。

ペインクリニックでは、飲み薬と塗り薬を処方される。

【飲み薬】、

・鎮痛剤リリカプセル:今年4月、保健が適用されることとなった帯状疱疹の最新特効薬だ。

・セレコックス:リリカカプセルが効かない場合に飲む頓服錠剤。炎症による腫れや痛みを和らげる。
・メチコバール:末梢神経のしびれ、麻痺、痛みを改善する。
【塗り薬】、

・強力レスタミンコーチゾンコーワ(軟膏)

ペインクリニックでの治療5週間。今月初旬にくすりの処方が終わった。発症から3ヶ月の闘病であった。この間体力をつけようと金に糸目をつけず美食に走った結果、太ってしまった。

毛馬氏が先日レポートしたとおりで、初動がこの病気治療の決め手である。他山の石とされたい。

もうひとつの加齢疾病、現在加療中の加齢黄班変性については別途報告する。20101015
     

2010年10月13日

◆敵の敵は味方?

石岡 荘十

赤軍派の塩見孝也元議長が「小沢氏よ、裁判、監獄を恐れず、己の信ずる義を通せ!」と小沢一郎氏に応援メッセージを発信している。10月5日、私へのメールが届いた。こうだ。

「現代の検察、警察体制は腐敗の極にあります。これは、自民党体制が作り出したものです。警察、検察と自民党は運命をともにして泥舟に乗っているのです。

小沢氏は、これは権力闘争だと言ったようですが、まさにその通りです。小沢氏は、命を賭けてこの不当弾圧と真っ向から対決するべきである。

そうすれば、われわれ民衆は、彼の反弾圧闘争を支持します。鈴木宗男氏がそうであったように、反弾圧闘争は氏を鍛え直してゆくでしょう。金大中氏がそうであったように、ここで鍛えなおしをやれば、もっとスケールの大きい政治家として再生できます。小沢氏よ、裁判を恐れるな、監獄を恐れるな!」

塩見元議長が“時の人”だったのは40年前、70年安保のころのことだ。当時の学生や労働者、社会党を中心とする安保反対闘争に飽き足らず、暴力を以って政権を打倒しようと過激な運動を展開しつつあった。

同時に、日航機をハイジャックして仲間9人とともに北朝鮮に渡り、世界同時革命を実現する計画だったが、ハイジャック実行直前の70年7月15日、東京・田端のアジトから出てきたところで尾行していた警視庁捜査員に逮捕されてしまう。

懲役18年の刑期を終わって出所したのは89年の暮れだった。未決拘留期
間を含めると20年間、獄中で国家に扶養されて生き、出獄した後、いま
だ革命家を自称している塩身元議長(69)。

「獄中ボケが治っていない」と一部の元同志から批判される中、最近は時給 1000円で西武線沿線の大型スーパーで駐車場の管理の仕事をしながら、雑誌やネットで、憲法改悪反対や重信房子ら獄中にある昔の同志へのカンパを呼びかけている。

塩見氏は1941年5月22日生まれ。丁度その丸1年と2日後の1942年5月24日、小沢氏が生まれている。2人はバッチリ同世代なのである。

小沢氏が27歳で衆議院議員に初当選した1969年12月、塩見氏はまさに70年の安保闘争の真っ只中にあり、公安関係者の間ではすでに赤軍派議長として小沢氏よりはるかに“有名人”だった。総選挙1ヶ月前(‘69年11月5日)に大菩薩峠で起きた赤軍派の“軍事訓練”で指名手配されていた。

当時、私はNHKの警視庁担当で公安・警備担当だった。

当日の払暁、私は携帯無線を片手に、53人逮捕劇の大菩薩峠の現場にいた。無線で送った原稿がその日の朝7時のNHKニュースのトップを飾った。各紙の夕刊も一面頭で軍事訓練を伝えた。

塩見氏が逮捕されたのはその翌年7月のことだ。1人息子の歳の誕生日だった。以来、塩見氏にとって警察・検察は敵である。

メールの中で「警察、検察と自民党は運命をともにして泥舟に乗っているのです」と塩見氏はいうが、塩見氏が獄中にある間、その自民党を牛耳ってきたのがほかならぬ小沢氏だった。

が、時代はどう間違ったのか、いまや小沢氏の当面の敵は、塩見氏が、獄中20年を通じて怨念を抱き続けた検察権力なのである。不思議な因縁としか言いようがないが、塩見氏の敵である検察はまた、いま小沢氏の敵でもある。

だから、塩見氏が小沢氏に送る応援メールを読んで思い浮かんだのは「敵の敵は味方?」である。

同じ世代の2人。片や、かつては暴力革命論で世間を震撼させ、いま時給1000円のスーパーマーケットの駐車場管理人、一方は実質的には時の最高の権力者とマスコミははやし立てる存在である。

小沢氏が獄中の人に転落する可能性はまずない、と私は思う。駐車場管理人が送る「監獄を怖れるな」というエールは有難迷惑、役に立たないだろう。 20101010

2010年09月21日

◆未亡人になったマドンナ

石岡 荘十

数日前の夕刻、携帯電話に女性から電話があった。

「わたし、分かります?」
「どなた?」
「洋子です、高崎の」
「あっ!」

だが電話の声は落ち着いた低音だし、あのころどちらかと言えばソプラノの澄んだ声だったあいつとは思えない。なによりオレの携帯電話の番号を知っているはずはない。で、「○○洋子さん?」と旧姓を問うと、「えヽ、あたしです。びっくりしたでしょう」

高崎市に同級生が溜まり場にしているスナックバーがあって、そこのママは洋子の後輩だった。聞けば、昨年、旦那が癌で亡くなった後、ちょいちょい呑みに行っているうちに、

「あなたの話になって、懐かしくてAさんに電話番号を教えてもらったのよ」

Aはそのスナックの常連である。彼とは高校に1年生のとき、同じクラスで席も隣りあわせだった。以来、大学は違ったけど今日まで着かず離れずのポン友である。

洋子は中学校でAの後輩だった。あのころのヒットソングそのままの「亜麻色の髪の乙女」(作曲:すぎやまこういち、作詞:橋本淳)であった彼女はわれわれのマドンナであった。

そんな関係で、私が大学に通っていたころ、洋子が上京すると、在京の同級生何人かがカネもないくせにわっと集まって彼女を歓迎したものだった。

そのうちに洋子は、仲間の中から別の大学に行っていたBを選んだ。Bはまた私とは特別な親友で、高校時代には堀辰雄の全集を貸し借りする仲だった。

何度かデートの仲立ちをしたこともあったが、彼は卒業後、別の女性を選んで結婚。大学卒業後、土建会社に勤めながら作家を目指したが、若くして病に倒れ、逝った。

一方、洋子はBの結婚でやけくそになったのか、失意の中、見合いで地元の中学校教師と結婚、私との音信も途絶え長い歳月が流れた。その挙句の電話である。わかるはずがない。

「何でまた今頃になって電話したの」
と訊くと、Bさんの娘で作詞家・田久保真見さんの歌「再会」を聞いてびっくり。

「詩の内容がまるでわたしとBが別れたときの最後の情景とそっくりなの。まるで、Bがお嬢さんに話して聞かせたんではないかと思ったほどだったの。そんなことあるわけないのに。それで急に彼とは一番の親友だったあなたのこと思い出して---。真見さんのことを小さいときから可愛がっていたと聞いてたし---」

田久保真見は49歳。Bの長女で小さいときには海水浴に連れて行ったり、自転車の乗り方を教えたりした。結婚、離婚の相談にも乗ったことがあるが、父親の文学的なDNAを受け継いだのか、30歳くらいから作詞家として売り出した。

「涙の鎖」(作曲:浜圭介、歌:キム・ヨンジャ)はカラオケの人気ナンバーに入っている。最近では「再会」をキム・ヨンジャに、「嘘泣き」をジェロに、「いのちのしずく」を日吉ミミに、立て続けに提供している。

これら最近作ぼ入ったCD5枚を真見からまとめて送ってもらったばかりだった。丁度そのタイミングに、真見が書いた詩の曲を聴いたというマドンナからの電話だった。

「旦那が死んでから不良ババーになって、ときどき呑みに行くのよ。お会いしたいわ」ときた。さて、どうしたものか。

歳月は残酷である。彼女だけを見逃すはずはない。“亜麻色の髪”であるはずもない。未亡人となったとはいえ、半世紀以上前のマドンナと今会えば、昔の甘酸っぱい思い出は木っ端微塵に砕かれるに違いない。ここは考えどころである。

怖いもの見たさということはあっても、原節子にいまさら会いたいと思う老人はそう多くはないだろう。

♪「あなたならどうする」(作詞:なかにし礼 作曲:筒美京平、歌:い
しだあゆみ)  20100917

2010年08月08日

◆お帰り小沢さん、待っていますサザン

石岡 荘十

食道がん治療のため講演活動を休止していた世界的な指揮者・小沢征爾さんが帰てきた。今年1月、食道がんと診断され、音楽活動を休止するというニュースが世界を駆け巡った。

1935月9月1日生まれ。私とは年齢的に同級生だからなおさら心配だった。

よく知られている通り、彼のサクセスストーリー、同年代の星である。恩師ゆかりのサイトウキネン・フェスティバルホール(長野・松本市)でタクトを振る姿がテレビニュースで放送されたのはつい先だってのことだ。嬉しかった。

そこへ、サザンオールスターの桑田圭佑さんの同じ食道がん報道である。その3日の本メルマガで、いつもは卓見を披露されている常連の執筆者がこう書いている。

<桑田圭佑なる茅ヶ崎出身の歌手がガンに倒れた」という愚にもつかないニュースをどの局でも朝から晩まで、あの歌手の下品な歌声とともに垂れ流している>と罵倒している。これには滅多にないことだがカチンときた。

愚にもつかないニュース、だろうか。彼の“いとしのエリー”は、もう30年以上前になるだろうか。まだカラオケのないころからの私の愛唱歌である。後に国連の平和大使、盲目のスティーヴィー・ワンダーが名曲ベスト10に選び、必ず歌う名曲である。

にもかかわらず「下品な歌声」としか聞こえないメルマ常連筆者のお耳、そんな感性しかお持ちでない。お気の毒としか言いようがない。

勿論、<私は昔から流行歌が嫌いですし、評価しておりません。ファンなる連中やテレビ局が礼賛する歌手は、ロックであれ何であれ、皆演歌を別な形で歌っているだけです>と思い込むのは勝手です。でも、ここに書くべきではないでしょう。

小さいときは父親の影響でクラシックを徹底的に聞き、中学生時代ラジオで「バナナボート」に傾倒。群馬交響楽団で第九を歌い、教会で聖歌隊を経験し、上京して大学時代にジャズに衝撃を受けた。

いろいろ聞いて、最近では、リアン・ライムス、ジョー・コッカー、ハート。今期待しているのは18歳になったフィリピンのシャリーン---、の濫読ならぬ“乱聴”のキャリアからいうと、節操がないともいえるが、<私の偏見では「美空ひばり以外は皆下手」です>は、そうです偏見です。聞く側に問題がある。

パソコンが手近になったころ「情報リテラシー」という言葉が流行った。あふれる情報を読む能力というほどの意味だったろう。どんな音楽が好きか。それは聞く側の音楽を聴く感性の問題だ。

「バナナボート」がはじめてラジオから流れたのは昭和28年ごろだったろう。「第九」を原語で覚えるのに必死だった高2のあのころの衝撃を今でも忘れない。「こんな歌があるのか、世界の中には---」

3日の本誌の筆者は桑田の歌を槍玉に挙げている。<あのような低俗な歌を「良い歌だ。良い歌手だ。歌手様命」とばかりに朝から晩まで、何処にいてても何とか言うAppleがこの世に「日本人を骨抜きにしよう」と送り込んできた小さな機械で聞き続ければ、頭の中は空になります。低俗なものしか受け入れられなくなります>と断じている。偏見で
あると思う。

私の頭は別に空にはなっていない。何よりも、病に倒れたミュージシャンをネタに、そんな桑田はいなくてもいいというような論調を展開する神経が、私には理解できない。

私は、「小沢さんの帰りなさい。待っています、サザン」と言いたい。桑田さんの手術はうまくいったと伝えられている。癌の体験を乗り越えた桑田さんが“TSUNAMI” を凌ぐ名曲を送り出す日を楽しみにしている。
      20100805

2010年07月18日

◆口蹄疫家畜の殺処分に科学的根拠はない

石岡 荘十

「すぐ殺処分にせよ」
「いや特例で殺さないで下さい」
口蹄疫のおそれがある種牛の処分をめぐる農林水産大臣と宮崎県知事とのやり取りである。

ところがここへ来て、現役の厚労省医系技官であり、政府の新型インフルエンザ対策を終始批判し続けてきた感染症の専門家・木村盛世さんが、「口蹄疫蔓延防止のための殺処分に科学的な根拠はない」とする論文を、医療関係者を読者に持つメールマガジン(MRIC)に発表している。

殺処分は間違っているというのである。論文の一部を引用しながら、その主張の要旨を紹介する。

まず口蹄疫(Foot and Mouth disease:FMD)とはどういった疾患か。
(以下、引用)

<【FMDの特徴】

1.蹄が2つに割れている動物が罹る、感染力(他にうつす力)が強い感染症

2.牛の成体の場合、死に至ることは殆ど無く、通常動物は2週間程度で回復する(豚は牛よりも致死率が高い)

3.罹った動物の他、carrierと呼ばれる生物や風等、不特定多数によって伝搬されるため封じ込め不可能は少ない

4.人にうつったという報告はない

5.感染した動物を食べても人には影響ない

6.治療法はない

7.ワクチンに100%の効果は無い
(口蹄疫問題を考える―危機管理の立場から―vol.5より)
http://news.livedoor.com/article/detail/4821972/

口蹄疫にかかった家畜の殺処分が行われるようになったのは1940年以降でありそれまではFMDに罹患した家畜は治るまで放置されていた。>

日本では、罹患した家畜には経済的な価値はないと信じられているが、これを覆すケースがある。

<1922−24年にイギリスでの流行の際、FMDに罹った牛を介抱し、1923年のRoyal Showでその牛を優勝させたCharles Clover 氏の業績は、罹患した家畜でも商品価値が無くならないことを示す、貴重な症例報告である(“ Old cowmen’s cure served duke’s pedigree herd”, TheDaily Telegraph 12-3-01,p6)。

この事実をみると、何故大量殺処分が必要なのかという疑問がわくが、日本ではこうした議論は全くと言っていいほど起きていない。

その理由として考えられるのは、

(1)FMDには殺処分、とインプットされている

(2)FMDの事をよく知らない

(3)殺処分が有効と主張する獣医師、いわゆる専門家、官僚、政治家
達に対して、そうでは無いという勇気がでない。

などが挙げられるだろう。

殺処分に関する議論は、2001年イギリスで大流行が起こったときから活発に行われており、mediaも多く取り上げている。
http://www.FMD.brass.cf.ac.uk/FMDreferencesnewspapers.html

日本では「殺す事が最良の方法」以外の意見が報道されないことは、極めて不自然だと感じざるを得ない。

殺処分は、発生のごく初期、バイオテロの可能性も鑑みて行うことは理にかなっていると思われる。しかし、ある程度以上の広がりを見せてからは、殺処分を行うことの方が損失が多くなる。特に、貴重な種牛などを失うことは、経済損失だけでは論じられないおおきなダメージがあるだろう。

現在のFMDにおける対応を診ていると、感染拡大のための殺処分というよりは、殺処分自体が目的となっている感が否めない。これは、かつてFMDで大被害を被ったイギリスの状況と重ねることができる。

もはや、殺処分の有効性の問題ではなく、流れをとめることが出来ないから殺し続けたというのが本当のところであろう。

英国国立農畜産組合(National Farmers Union)のトップだったRichardMacDonaldの、「我々はその科学とやらに行き詰まり、自分たちが信じてやっている事が正しいとする結論に至った」という言葉は、正にこの状況を的確に言い表したものである。

結果として、イギリスは、殺処分の対象を緩和することし、「明らかに健康だと思われる牛に関しては、殺すか殺さないかは農家の決断にゆだねる」との見解を出したのである。
http://www.abc.net.au/rural/news/stories/s284276.htm

10年ほど前、多くの犠牲を払い、損失を生んだ英国の事例でこれだけの議論がなされたのにもかかわらず、日本で何の議論も起こらないのは不思議である。

「殺す事に意義がある」という流れの中で、冷静な議論などは何処かに吹き飛んでいる状況は、2009年に流行したH1N1豚インフルエンザ騒動を思い起こさせる。

日本の悲惨な状況に鑑みてのことと考えられるが、2010年6月28日、オランダ政府は、「今後FMDの流行の際、殺処分は2度と行わない」という声明を発表した。>
http://www.warmwell.com/

<FMDは自然界にごくありふれた病気で自然に回復する。感染経路も複数あり、特効薬や完全な予防法も無い以上、封じ込めは不可能であり、根絶することは不可能である。

そうであれば、ウイルスとの共存をも含んだ議論を行うことが緊急に行うべきことであろう。>

以上のような木村さんの論文を読むと、あの新型インフルエンザ“事件”で、厚労省が行った水際作戦を思い出す。水際作戦は封じ込めは不可能であることが分かっていながら、「国は一生懸命やっています」と国民にアピールするための政治的なパフォーマンスに過ぎなかったことが明らかになっている。

つまり科学的な根拠はなかったというのがいまや専門家の間の定説となっているのである。

口蹄疫殺処分に科学的に根拠はあるのか。この際、改めて冷静な議論か必要だろう。20100715

2010年05月21日

夕刊◆そして、日本をどうしたいのか

石岡 荘十

本メルマガ5月5日で「そして誰もいなくなるのか」という表題で、鳩山政権に“やめろコール”を連日浴びせかける気持ちは分かるが、「辞めた後、こいつにやらせろ」と具体的な個人名を挙げず、ひたすら辞めさせれば世の中がよくなるような論調を展開するのは、“後出しジャンケン”のようなもので、「フェアではない」という論旨の拙見を披露した。

「辞めろ」というからには、「辞めさせてどうする?」を聞きたいので
ある。↓http://www.melma.com/backnumber_108241_4842025/
問題を提起したつもりであった。

しかし、こんな拙文が百戦錬磨の政治プロの心に共鳴するはずもなく、ヤメロコールは口啼疫にかかった牛のよだれ状態である。

だがその内容のほとんどは、あちこちのマスコミやウェッブの引用、書き写し。コピー・アンド・ペースト(コピペ)で、書く人の独自の視点に遭遇するラッキーチャンスは滅多にない。だらだらの垂れ流しで私は苛ついている。

ヒマにあかせて新聞、テレビを“ながら視聴”、読み飛ばしをしている私には、2次・3次情報がほとんどである。物書きにはあるまじきまるで自分が見てたきたような断りなしの断定的な孫引きも散見する。

だから最近は、国の行く先を思いパタパタ、キーボードをタッチしているであろうライターや、政治問題のプロの尻馬に乗るど素人の皆様には申し訳ないが、“ナナメ読み”。うんざりである。

仮に、おおかたのプロの方々が主張しておられるように、ハトが飛び立ちイチが遂に沈んだとき、このときのこの国を私たちど素人はどう描いたらいいのでしょう。

総理大臣が投げ出して、日替わりのお子様ランチのように毎年、旗がすげ替えられた。つい先だってその歴史を私たちは忘れていない。ハトを辞めさせて、その愚をまた繰り返そうというのか。

毎年首をすげ替える日本を世界はどう見ているのか。気になる。そんな視点の読者の懸念を解消する記事をまだ発見していない。

未来を創造するためにいま物書きは何を書くべきか。ヒントは間違いなく過去を検証するところから始まる。過去は「事実」そのものであり、「未来」は過去に学んだ叡智の結晶であるべきだと私は思っている。

歴史は繰り返すが、人生100年としてもその程度では、アッというほど過去を陵駕する人知の進化は無理だからだ。

と考えると、いま毎日読む数々の“力作”は過去と現在をなぞっているだけで、未来への展望にヒントを提示していないのではないかと考え、あせる。

「なんでも反対」と批判されていたあの党といまや似た“プロ”の論調に眉をしかめている。このあと自分の老い先を秒単位でカウントできる年齢となった。だから何かにつけせっかちになりがちだが、出来るかぎり見届けたいと思う。この国が好きだから。

「立てば這え、這えば歩けの親心」と言うじゃないですか。政治評論のプロは多分、憂国の士だろう。ならば国のリーダーを育てるプロであってほしい。

私たち政治のアヤが分からない素人に、「辞めさせて、その後この人にこういう政治をやらせよう」と、それこそ国の行く末をご提案いただいて、私たちを鼓舞してほしいのである。

若い人たちに、いまはこんな国だけど、「ここが素敵、だから日本を愛して」と言えるメルマガを読みたいのである。字を読めるようになった子どもたちにこれでは愛国心を説くことは出来ない。日の丸掲揚を紙面で説いたって、子どもたちはオリンピックの金メダルの歌だと思っているだけだ。

ハトやイチを血祭りにあげたあとの後釜を提示しない。「そして誰もいなくなった」ではまずいでしょう。首なし幽霊。日本をそんな首相のいない国にしたいのですか。

重ねて訊きます。辞めさせた後、どんな首を据えますか。
         20100519

2010年05月20日

◆子宮頸がんワクチン適齢期

石岡荘十

孫娘がこの春小学4年生になった。間もなく11歳である。欧米先進国では子どもがこの歳になると親はまず、子宮頸がんから守るためのワクチン打つ。

11歳は、肉体的に成長の早い欧米ではセックスを始めて体験する“セックス・デビュー”の年齢だと考えられている。「うちの子に限って---」と考えたいところだが、現実は、そうはいかない。11歳は子宮頸がんワクチンを打つ“適齢期”であり、このタイミングでワクチンを打つのが、多くの先進国では常識となっている。

子宮頸がんはすべての女性の80パーセントが一生に一度は感染しているという。子宮の入り口である頸部に発生する上皮性の悪性腫瘍であり、世界では年間約50万人が子宮頸がんを発症し、約27万人が死亡していると推計されている。

2分間に1人が子宮頸がんで命を落としている計算になる。日本では毎年約1万5000人の女性が子宮頸がんを発症し、約3500人が死亡している。

原因は、ほぼ100パーセントが性交渉、つまり皮膚と皮膚の粘膜の接触でヒトパピローマウイルス(HPV)というありふれたウイルスの感染することによることが1983年、明らかになっている。パピローマウイルスを発見した独がん研究センターのハラルド・ツア・ハウゼン名誉教授には、2008年度ノーベル生理学医学賞が授与されている。この研究成果をもとに予防ワクチンが開発され、現在、世界100カ国以上で使われている。

子宮頸がんはいろいろながんの中でも例外的に原因が特定されているだけでなく、ワクチンによる予防法が確立されている。アメリカでは2006年ワクチンの使用を承認、昨年10月には日本でも使用が承認されたものだ。

成人になって、検診を受けずワクチンの接種もしない場合、がんは進行し、子宮をすべて摘出する手術が必要になることもある。

妊娠、出産の可能性を失い、女性だけでなく家族にとっても心身ともに大きな痛手となる。また、子宮のまわりの臓器にがんが広がっている場合には、卵巣やリンパ節などの臓器もいっしょに摘出しなければならなくなり、命にかかわる。

テレビドラマ「3年B組金八先生」(‘79)で一躍有名になり、「つっぱり」女優として話題になったこともある三原じゅんこさん(44)は、2年前、子宮頸がんから子宮を失った経験を持つ。

先週、都内で開かれたワクチン普及のためのシンポジウムで、「子宮頸がんは予防ができるがんです。また、定期的に検診を受けることで、がんになる前に発見し、子宮を失わずに治療もできます。そのことを知らなかった私は、こどもを産むどころか妊娠することも出来ない体になってしまいました。死ぬではないかとこわかった。1人でも多く女性がワクチンを打ってください」と切々と訴えた。

子宮頸がんは、初期には全く症状がないことがほとんどで、自分で気づくことはほとんどない。このため、不正出血やおりものの増加、性交のときの出血などに気がついたときには、がんが進行しているということも少なくない。

進行するにつれ性交時の出血などの異常がみられ、さらには悪臭を伴う膿血性の不正性器出血、下腹痛や発熱などが認められるようになるという。

子宮頸がんは遺伝などに関係なく、性交経験がある女性なら誰でもなる可能性のある病気である。近年では20代後半から30代に急増、若い女性の発症率が増加傾向にある。子宮頸がんは、がんによる死亡原因の第3位、女性特有のがんの中では乳がんに次いで第2位を占めており、特に20代から30代の女性では、発症するすべてのがんの中で第1位となっている。

一度ワクチンを接種しておけば、その効果が20年は持つといわれる。だから、11歳という“適齢期“にワクチンを打った上で、定期的に検診を受け、早期に発見・手術を受ければ、術後に妊娠・出産が可能だという。

85パーセントに女性がワクチンを打っていれば、95パーセントの女性が助かるという研究報告もある。

ワクチンは3回に分けて打つ。初回、2回目がその1ヶ月後、さらに6ヶ月後に3回目。問題は費用が高額なことだ。

3回で5万円ほどの費用がかかる。健康保険は効かない。しかし適齢期のお子さんを持つ親は子ども手当てを貯めておいてでも、これに充てるべきだろう。

セックス・デビュー前の“適齢期“の女の子(11〜14歳)全員に公費でワクチンを打っても費用はわずか200億円ほどと計算されている。今のまま放置しておくと、いずれこれを上回る医療費がかかる計算もあり、充分に元は取れるという。

元国立がんセンター病院長土屋了介氏や20年前、38歳のとき子宮がんの経験のある女優仁科亜季子さんらが発起人となって、公費助成を求める運動を展開しているが、今のところ実現の気配はない。

ただ、地方自治体の中には、たとえば埼玉県志木市は今年はじめ「健康・医療・福祉都市構想」を掲げ、市内在住の小学校6年生〜中学校3年生(12〜15歳)を対象に5〜6万円を補助することを決めている。

2010年05月18日

◆元赤軍派塩見孝也議長の遺言状

石岡荘十

先日、元赤軍派塩見孝也議長から「遺言状」がメールで送られてきた。といっても彼が亡くなったわけではなく、4月24日に都内で「生前葬」が営まれ、それを終えた後の心情を関係者に送ってきたものだ。

塩見元議長が一世を風靡した(?)のは、はるか40年前のことだから、彼を産んだ時代背景をおさらいしておく必要があるだろう。これまでにも何度か本メルマガで書いている。塩見とは何者で連合赤軍と彼の関係は? あるいは「日航機よど号ハイジャック事件」「拉致事件」との関係を抑えておく必要がある。
          
そのことを「革命ごっこの記録」http://www.melma.com/backnumber_108241_4042278/ で大雑把に、書いた。           

で、その塩見氏の遺言状である。骨子をまず紹介する。               
<僕は赤軍派議長として実行した軍事至上主義の武装闘争路線を清算する事を改めて宣言します> 

彼は、70年安保前夜の大衆闘争に焦燥感を募らせる。航空機をハイジャックしてキューバか北朝鮮で本格的な軍事訓練を受け、日本に帰って革命を実現しようと計画する。

ところが、計画実行直前に治安当局に察知され、東京・駒込のアジトを出たところで逮捕される。

が、残る“同志”9人が2週間後(‘71.3.31)、日航機「よど号」をハイジャック、北鮮に飛びこむ。

このうち何人かが日本人拉致事件に関与したと疑われている。塩見がシャバに出てきたのは20年後(‘89.12.27)だった。彼の言う「武装闘争」はこのことを指しており、これを改めて「間違いだった」と認めているのだ。

<いわゆる連合赤軍事件は、僕が獄中にいる間に発生しました。連合赤軍は赤軍派ではありません。永田(洋子:死刑判決が確定)さんらの“私党”といえ、この私党の中で、反対派を“粛清”する痛ましい事件が生じました>。
    
この事件で12人がリンチ殺人の犠牲となった。              
<僕が仮に外にあって、指揮を執っていたとすれば、断じて同志殺しはやらなかった>といわゆる一連の連合赤軍事件について、自分には直接的な責任はないと述べている。

しかし<赤軍派自体が軍事路線に立っていた以上、事件が発生する可能性はあったといわなければなりません。この可能性という点につきましては、僕が全面的に責任をとらなければなりません>としているが、間接的な責任だけしか認めていない。<「同志を殺す」ことは、僕の体質にもともと合いません>とも言っている。
            
彼は現在、大型スーパーの駐車場の管理人をしている。時給950円。      
<そこで、労働の喜びや賃労働の苦しみをいくらか知り、このなかで(社会の矛盾は)自分一人でしか解決できない、と傲慢にも勝手に思い込んでいた課題でしたが、民衆がより有効に団結し、闘えることを確信しました>

<学生運動とは全く違う労働者の団結の仕方をいくらか、学びました>と総括している。
                     
「生前葬」は塩見議長が路線を転換したことをアピールするイベントというわけだ。彼の思想遍歴の「終点」だと位置づけている。            
“遺言状“は、<この地平に立って、僕が提唱した軍事至上主義の小ブルジョア学生大衆中心の武装闘争路線のために、被害を受け、亡くなったり、獄に在って、死刑攻撃を受けたり、無期刑を受けたり、重刑攻撃を受け続けている仲間、外国に渡って長い年月、亡命を強制されている仲間達を始め、今も苦しみ続けている元同士達、友人・知人の方々に衷心からお詫びいたします。どうか、許してください>と謝罪の言葉を述べている。

「生前葬」の会場は、東京御茶ノ水の「総評会館」だった。“極左”がただの“左翼”に“転向”したということだろう。支援者200人が参列し、香典は280万円にのぼった。「香典」は運動のためのカンパとなるという。
              
彼は今でも「革命家」を自称して「沖縄支援・憲法9条改正反対」をスローガンとする運動を展開しているが、何のことはない、今やそこらにいる大衆行動、“左翼用語“でいう一般大衆を動員する大衆運動、カンパニア闘争に駆けつける、ただのおっさんになってしまった。

今なら現政権党の中に生き残っている旧社会党左派や連立与党の中の何人かとも話が合うかもしれない。
         
60年代末の第1次羽田事件から70年代初めの浅間山荘事件まで、30代の半ばの数年、「安保闘争」を追っかけ、つぶさに取材してきた私としては、塩見元議長はその時代を象徴する人物の一人である。遺言状は、事実上、その終焉を告げるものであった。

塩見元議長は今週末、69歳になる。近影は↓http://www.youtube.com/watch?v=YH3PrkkQTRQ
20100515

2010年05月10日

夕刊◆昭和のタイムカプセル軍艦島写真展

石岡 荘十

大学同窓の友人から、軍艦島の写真展の案内をもらって、土曜日、新宿のフォトギャラリーに出かけた。

「軍艦島」とは、長崎港から南西約19kmの海上に浮かぶ孤島「端島」の通称である。文化7(1810)年石炭が発見され、明治3年、天草の小山秀氏」が端島の開坑に着手したという古い歴史を持つ。

1890(明治23)年から三菱が経営してきた海底炭坑の島で、八幡製鉄所に向け製鉄用原料炭を供給し、日本の近代化を支えてきた。

炭坑の開発と並んで従業員のための住宅の建設が盛んに行われ、1916(大正5)年以降、日本初の高層(9階建て)鉄筋コンクリート造りのアパートが、次々に建設された。

最盛期の人口5,300人(当時の東京の9倍の人口密度)。高層建築が林立して、さながら海の要塞の観を呈し、軍艦の「土佐」に似ているところから「軍艦島」として知られるようになった。

映画館、各種商店、旅館、寺社など生活に必要なあらゆる施設が建設され、好景気に沸いた。戦後から昭和30年代初めにかけての生活は、その後の大都会の近代都市を先取りした豊かなものだった。

テレビ、洗濯機、冷蔵庫の所謂“三種の神器”をはじめとした家電製品や当時の雑誌、子供用玩具等が買い揃えられた。冷蔵庫6万200円、テレビ23万3000円だったと記録にある。

ところが昭和30年代半ば、じつはエネルギー革命の波がひたひたと迫っていた。

駆け出し記者だったそのころ、九州と同じ産炭地北海道で炭鉱問題を担当していたことがある。「つぎに潰れるヤマ(鉱山)はどこか」を取材するのが仕事だった。

エネルギー革命の嵐が牙をむき始めていた。軍艦島と同じ海底炭鉱であった釧路・太平洋炭鉱にもぐったこともある。

当時、「炭労(炭鉱労働者組合)に非ずんば人に非ず」といわれていた労働組合の勢いにも陰りが見えはじめていた。合理化の嵐の中、九州の三井三池、北海道の北炭夕張では崩落、ガス爆発などの炭鉱事故が頻発していた。

こうして、繁栄を誇った軍艦島は1974年昭和49)年1月15日閉山、同年4月20日に無人島となり、以降、立ち入りが禁止された。

“昭和の繁栄”はタイムカプセルの中で廃墟となった。ところが、三菱から島を引き継いだ長崎県が平成21年4月22日、島への上陸を解禁。30年ぶりに封印を解かれ、最近になって観光客で賑わいを見せている。

自然と時間の流れの中で風化した建物、アパートの部屋に残された家具、レトロな電化製品、これらは間違いなく「昭和のタイムカプセル」といえるだろう。

民間のプロジェクト(O Project)が製作したDVD「軍艦島オデッセイ」がパソコンで見ることが出来る。↓
参考: http://www.gunkanjima-odyssey.com/

軍艦島は、「黒い石から黒い液体への転換」というエネルギー革命のドラマのエピローグの象徴でもある。

写真展は、時代の変遷が演出する残酷さを、深く胸に迫るものであった。
20100508