2010年03月13日

◆菅原幸助さんからの手紙

石岡 荘十

永年、中国残留孤児の支援につくしてきた運動が評価され、吉川賞が贈られることになった菅原幸助さんから近況を知らせる手紙が来た。(菅原さんについては、下記)

(「中国残留孤児支援」に吉川賞」本誌1834号 3/1)
http://www.melma.com/backnumber_108241_4778707/ )

彼が病に倒れた。世話になった中国残留孤児にとっても大事件だった。以下、お手紙を抜粋して紹介する。

昨年末から体調を崩して入退院を繰り返しています。3月に入ってようやく家の外を歩行リハビリできるようになりました。

昨年11月末、夜トイレに起きて転倒、頭を打って脳内出血で入院。昨年暮れに肺がんが発見され手術するように医者に言われました。

脳内出血は1月5日、頭に2つの穴を開け、頭の中の血を洗い出し順調に回復しています。

肺がんは1月15日に手術。左肺を半分切除し、2週間後退院、自宅リハビリ中です。両方とも再発のおそれはあるが、4月ごろには仕事が出来るでしょう、と医師の話です。

中国残留孤児80人が横浜関帝朝に参拝してくれたり、孤児の皆さんが、生活が苦しいのに千円から数万円のお見舞金を集めたり、大変迷惑をかけました。

日本の社会では「快気祝い」として品物をお返しする慣わしがありますが、私は一部30万円を「中国残留孤児の尊厳を守る会に寄付します。従ってお返しはしません。悪しからず。

今回の病気は私の不注意によるものでした。トイレで転んだのはハルシオン(睡眠剤)を飲んで寝たため記憶を失ったものでした。ハルシオンは外国では販売禁止になっているそうです。皆さんも注意してください。

肺がんは50歳まで大量にタバコを吸ったためと医者は言っています。

私は85歳まで生きたのだから、頭や肺に穴をあけてまで生きなくともよい。天国に行く準備は出来ています。人はみな、いつかは死を迎えるわけですから。

天から降ってきたように、吉川賞を受賞することが決まりました。これは私に対する賞ではなく、団結して闘った孤児の皆さん、私を支えてくれた多くのボランティアの皆さん全員に与えられた賞だと思います。

孤児への支援はまだ充分ではありません。国の謝罪もありません。受賞をテコにこれからも団結して「戦争反対」「人間の尊厳」のために闘いましょう。

手紙は孤児たちへも同じ文面のものが送られた。

元新聞記者らしく簡潔で行き届いた文面である。支援運動の通訳をしている女性に電話で聞いた。彼女は北京の大学卒業後、中国人の夫の仕事で来日、大学で習ったという流暢な日本語を駆使してボランティアで通訳を買って出ている。

彼女はこう言う。

「大部分の孤児はお金をもらえるようになったことで満足しています。でも、菅原さんが病気で倒れても、『人としての尊厳を取り戻そう』とまだ頑張ってる。今度のことでみんなもやっとその意味が分かったみたいです。私も日本人がやっと分かりかけてきました。菅原先生が死ななくてよかった---」

彼女は話しながら、電話口で声を上げて泣いた。

吉川賞の授賞式は来月9日、都内のホテルで行われるが、たまたま吉川英治の長男と私がNHKの同期生だったという縁もあり、呼ばれることとなった。

その前に、延びのびになっていた新年会を横浜でもつ。心から菅原氏をねぎらいたいと思う。

なお、ハルシオンについて。
メーカーはファイザー社。その注意書きには
<睡眠時間が不十分だったり、睡眠の途中に一時的に起床して仕事など
を行うと物忘れが現れることがある>とある。

海外で売っているところはない。処方にご用心。    20100310



2010年03月11日

◆皇女和宮の死因は急性心筋梗塞

石岡 荘十

「篤姫」は久し振りに当たったNHKの大河ドラマだったが、もう一人のヒロインで将軍に降嫁した皇女和宮は脚気(かっけ)だったといわれる。挙句、今風に言えば、急性心筋梗塞に襲われたのだった。

簡単におさらいをしておくと、和宮は弘化3年(1846年)仁孝天皇の第8皇女として生まれるが、公武合体を図る幕府の画策の末、文久2年(1862年)、14代将軍徳川家茂の妻となった。ともに16歳だった。

慶応元年、家茂は20歳のとき、長州征伐のため大阪に赴いたが、翌年大阪城で病死する。死因は脚気だったとされている。

脚気はビタミンB1の欠乏による末梢神経障害、下肢のしびれ、心臓の機能に異常を起こす原因となり、心機能の低下、心不全(衝心)を起こすことから、昔から「脚気衝心(かっけしょうしん)」と呼ばれている。

NHKのドラマでは、家茂は江戸城で胸をかきむしって、最後は、勝海舟に抱きかかえられて息を引き取るシナリオだった。現代の病名で言うと、脚気から急性心筋梗塞を起こした、というのが定説である。

「将軍家十五代のカルテ」(新潮新書 石川英輔)によると、3人の将軍が脚気衝心で死んでいる。10代・家治、13代・家定、それに和宮の夫15代・家茂の3人だ。

10代・家治の頃(在職1760〜1786)から江戸の裕福な家庭では、ビタミンB1を含む米糠や玄米を丹念にといだ精米をたべる習慣が広まった。

まず富裕層に患者が多発、江戸末期には一般庶民にも患者が出るようになったことから「江戸患い」と呼ばれたという。115代桜町天皇(在位1735〜1747)もこの病に冒されて亡くなったという説もある。

さて皇女和宮である。

和宮は夫・家茂の死後、大政奉還の後、1868年、江戸城を出て一時、江戸に住んでいた。明治になって京都に帰ったが、東京に移られた天皇の勧めで明治7年、東京に移住。

それが<数え32歳の頃、脚気の病になり、明治10年8月7日から箱根塔之沢「元湯」に静養のため滞在、(中略)26日目、俄かに衝心の発作が起こり>(以下、ウイキペディア)、他界した。

つまり現代医学で言うところの脚気の合併症たる急性心筋梗塞で亡くなったと考えられる。

脚気は明治時代、日本の風土病と考えられ、都市部の富裕層や陸軍に多発していた。が、じつは<脚気は栄養障害の一種と断定したのが高木兼寛、ビタミンB1の単離に成功したのが鈴木梅太郎である>

海軍では高木がパンや麦飯を出したところ、海軍では脚気を根絶した。ところが陸軍では森林太郎(森鴎外)らが麦飯に反対。麦飯しか食えなかった田舎から徴兵した健康な兵隊に白米を食わせ、多くの脚気患者を”生産“するという皮肉な結果を招いた。

日清・日露戦争では戦死者より多い数万人の兵士を脚気で病死させている。麦飯を支給した海軍に病死者はなかった。

明治天皇も脚気に苦しみ漢方による食事療法を希望視したが、森を中心とするドイツ系学派の侍医に反対され、西洋医学そのものに不信を抱いていたといわれる。(この項については、主宰者がいつだったか詳しく書いている)。

原因がB1欠乏と分からないまま、<大正時代以降、精米された白米が普及し、副食を摂らなかったことで非常に多くの患者を出し、結核と並んで2大国民病とまで言われた>

脚気が根絶されたのは1952(昭和27)年になってからだ。ビタミンB1の工業生産に成功し、安く簡単に摂取することができるようになったためだ。

ところが、1972年に脚気が再燃したことが、日本内科学会誌で取り上げられている。原因は若者を中心に、砂糖の多い飲食品や副食の少ないインスタント食品といったビタミンの少ないジャンクフードをよく食べるようになったためだといわれる(糖分の消化にビタミンB1を大量に消費するため)。

脚気は心臓にダメージを与える。心筋梗塞は老人の病気だという考えが一般的だが、若い人の食生活を見聞きすると、家茂・和子夫妻がそうだったように、若くして脚気衝心から急性心筋梗塞を発症する患者が増えてくる恐れがある。

2010年03月07日

◆常識、または良識とルールの間

石岡荘十

1832号(2/27)で、皇室の政治利用の問題が論じられている。それで連想したのが、最早誰も論じなくなった“朝青龍追放事件“と、もうひとつオリンピック、スノーボード男子ハーフパイプの国母和広選手の”非常識な“服装問題である。

この3つのケースに共通するのは、「どこまでをルールで決めるべきか、あるいは「ルールでいちいち決めなくとも常識あるいは良識で判断すればそれでいいのではないか」、この2つの考え方の衝突だ。

少し振返ってみると、まず朝青龍事件。この問題については、本誌2/15に取り上げていただいた。
http://www.melma.com/backnumber_108241_4764199/ 「理由なき朝青龍の追放」

内容は、ニューヨーク在住の国際税務専門職・肥和野佳子氏の考え方を紹介したもので、肥和野氏は、相撲が国技であることを認めた上で、「だがしかし、相撲の国際化を目指すならそれなりのルールは必要なのではないか」と結論付けている。私はこの考え方に賛意を表したが、これに関連して、特に「頂門に一針」ブログ版での論争を招いた。

そこで、問題提起をしたものとして、「外国人力士に今後も門戸を開放する。この場合、細かいルールを作る。とりわけ罪と罰について、国際的な批判にも耐えられるようなルールを考えるべきではないか」という趣旨の提案をした。
http://www.melma.com/backnumber_108241_4770681/ 「朝青龍追放、相撲論議に一言」(2/21)

このケースで問題となったのは、横綱としての「品格」である。“朝青龍追放事件”は土俵外の暴力事件が直接の引き金となったとはいえ、彼の「品格」に「ノー」を突きつけた本当の理由として、多くの日本人の心の中にある判断基準、日本的な「常識」あるいは「良識」に不快感を与えたことが「まあ、仕方がないか」という結論を導いたことは、間違いないだろう。

そんなことを考えているときに起きたのが、国母選手の“事件”である。この報道に接して最初に持った感想は「ああ、またか」であった。
オリンピックの選手紹介のアナウンスをテレビで漏れ聞くと、選手はrepresent、つまり「国を代表する選手」として紹介される。

その人物が、ズボンを下げた“腰パン”にアフリカンスタイルのヘア(ドレッドヘア)、小鼻に2つのピアス。シャツをズボンの外にはみ出させただらしないスタイルで現れたのでは、日本人の行動規範である「常識」、「良識」をいたく傷つける。マスコミがこぞって批判するのは、“朝青龍事件“のまったく同じ思考パターンの延長線上にあるからだ。

最後にニューヨークに行ったのは、もう15年ほど前のことだが、このスタイルの黒人の若者をよく見かけた。若者だけではない。盲目の黒人歌手レイ・チャールスが始めて日本に紹介されたときもあのヘアースタイルだった。若者は熱狂した。

マスコミがこれを批判的に取り上げたことは無かった、と思う。それは彼が日本を代表したシンガーではなかったせいかと思ったが、これをまねて顔を真っ黒に塗った日本人コーラスグループが人気を博したこともあった。「品格」にかけると騒いだという話しは聞いたことが無い。

スポーツ界でも、大学バスケット選手のだらしないだぼだぼパンツ姿を見てたまげたのはもう大分前のことだ。これも黒人選手が活躍するアメリカンスタイルの真似だと思うが、日本でもいまや「常識」となった公認のユニフォームである。

オリンピック選手であるということだけで、あのスタイルが非難する理由をどう説明すべきなのか。どうしてもダメだというなら、JOCは、服装ルールを決めるべきではないのか。例えば、鼻ピアスは禁止、シャツはズボンの中へ、髪は7・3か五分刈り。ついでに記者会見では、「〜です」「〜ます」を使わないと連れて行かない、とか---。

ただし、相撲では認めない大仰なガッツポーズも、オリンピックでは認める、と。
さて、これらのケースとくらべるのは畏れ多いことだが、皇室の政治利用をめぐる論争である。

政府(官房長官)は、公的行為に当たるか否かは「統一的ルールを設けることは現実的ではなく、個々の事例に則して判断する」と言ったそうだ。これに対して記者たちは、「ルールがないと天皇を政治利用する懸念が解消されないのではないか」と迫った、と報じられている。

こんな議論が交わされる直接のきっかけは、例の中国の偉いさんと天皇との会見の「1ヶ月ルール」をめぐる解釈なのだが、本心は、政権権力の皇室利用にここで歯止めをかけておきたいということだろう。

マスコミのこの狙いについては、私も前述2つのケースとは違ってマスコミの懸念に賛同するものなのだが、さて、ルールでどこまで政権権力を縛ることが出来るのか。

天皇の国事行為、私的行為以外の全ての公的行為を想定・列挙し、これはイエス、これはノーとあらかじめ決めておくことが、現実の問題として可能なのか。ちなみに、戦後象徴天皇の公的行為を遡って検証して、すべて政治色ゼロだったと皇室関係者やマスコミは胸を張れるのか。政治利用の思惑がまったくなかった、と言えるだろうか。

法は、時代の常識や良識の変遷によって適切に決められ、変えられ、ルール化したものであるべきだ、と大学の法学部で教えられた。

3つのケースのうち前者2つでは、日本人の常識や良識、批判をする判断基準が問われている。国母くんは、帰国したとき、一瞬、“改悛”したように見えたが「最後まで自分のスタイルを通す」と言っているそうだ。

日本の衆議院議員は、英語で言うとrepresentativeだ。ルールにのっとって彼らに多数を許した有権者の常識、または良識の最大公約を示した存在であることは間違いない。政権をとった後の彼らの常識、良識が有権者のそれと合致したものかどうか、それが次の選挙で。

2010年03月03日

◆掲載拒否された医師批判原稿

石岡荘十

医療関係者の多くを読者に持つメールマガジン「MRIC」が、国立がんセンター初代理事長に決まった医師を軽く批判した拙稿の掲載を、見送ると連絡してきた。

問題の拙稿は、今年4月、国立がんセンターが独立行政法人へ移行する行政改革に伴って、初代理事長に着任することが決まった嘉山孝正・山形大学医学部長は、「コミュニケーション能力に欠けるのではないか」という懸念を表明したものだ。
http://www.melma.com/backnumber_108241_4773484/ 「癌センター初代理事長への懸念」(「頂門に一針」2/24 1828号)

原稿は「頂門に一針」への送稿の後、毎日愛読しているMRICへも送った。これを受けて編集長から、<頂門の一針ですね。適切な意見だと思います。配信考えます。嘉山先生サイドの言い分も引き出したいので、少し調整させて貰えませんか?>というメールが送られてきた(2/23)。掲載されるものと期待し、<扱いはお任せします>と返信した。

ところが今月25日、<編集部で議論しましたが、今回の原稿は配信しないことになりました。いつも御世話になっているのに申し訳ありません。またの、ご寄稿をお待ちしています>と丁寧ではあるが、最初のメールから一転、掲載見送りの連絡であった。

MRICに原稿を送ったのはじつはこれが初めてではない。本メルマガでは、今月4日に掲載された、「耐えられるか、幹事長の心臓」がMRICからも同じ日に、送稿から間をおかず、快く発信された経緯がある。
http://medg.jp/mt/2010/02/

そこで今回も医療業界に関連するテーマだったので原稿を送ったところ、上記のような結論となってしまったのである。この扱いの違いの理由はどこからくるのか、MRICの編集会議でどのような議論があったのかは書かれていなかった。

MRICは、2006年創刊。発行は「医療ガバナンス学会」で、東京大学医科学研究所の上昌広特任准教授が編集長を務め、医療問題を扱った170本以上の記事をこれまでに発信している。論調は政府医療行政に対して批判的なものが多く、医療改革を目指す建設的な提案も少なくない。

上准教授は、新型インフルエンザ騒ぎの最中、民放テレビなどにも出演し厚労省政策、医系技官の有り様などについても厳しく批判している。いま売り出し中の研究者である。政府の新型インフルエンザ対策を代弁する学者については、「御用学者」と切って捨てている。

がんセンターの初代理事長に決まった嘉山氏とは、同じ「革新的」な考え方を共有しているようだ。昨年9月「新型インフルエンザから国民を守る会」が出した「政府対策の見直しに関する提言」のワーキンググループには、舛添厚労相時代に大臣のアドバイザーだった土屋了介国立がんセンター中央病院・院長、MRIC理事長である久住英二・ナビタスクリニック立川・院長らとともに、嘉山氏、上准教授も名を連ねている。

という状況を考え合わせると、私の原稿はいわば上編集長の“身内”をやんわりとではあるが、批判していることになる。編集長としては、先輩格の同業医師の批判記事を掲載しにくいかも、とはじめから懸念していたが、案の定だった。現行の内容を<頂門の一針、適切な意見>と評価しながらも、<嘉山先生サイドの言い分も引き出したいので--->と気を使った編集長の苦悶も理解できる。

医療の業界では「カネも出すが口も出す日本医師会」が、主に「開業医の利益集団に過ぎない」と批判されるのに対して、「勤務医は発言しない」とよく言われる。つい先だって、たまたま心臓手術後の定期健診で担当の医師(勤務医)が「MRICであなたの原稿を読みました」という。

そんなこともあって、MRICの論調が勤務医の厳しい勤務実態を含めた医療改革に果たす役割は大きいと期待していたのだが、この展望はどうも楽観的過ぎたようだ。業界向けメーマガジンには政府の批判はしても「身内の悪口はいわない、批判は受け付けない」という一線、38度線が厳然として存在するらしい。

私も心臓手術を経験したが、医療についてはズブの素人だ。ほとんどの患者もまた素人である。でも、そんなレベルの意見も尊重し発信する判断基準、難しい医療を患者に説明するコミュニケーション能力が医療のプロに求められているのではないのか。

医療は、患者に説明してまず安心感を与え、医師と患者間の相互信頼を築くところから始まると私は思っている。批判には耳を貸さない、業界の独りよがりではガバナンスを疑わせることにならないか。“身内”が直言しなければ、「王様の耳はロバの耳」になるのではないかと懸念する。       20100228

2010年03月01日

◆特報!中国残留孤児支援に吉川英治賞

石岡荘十

永年、中国残留孤児の帰国を援け、帰国後の彼らに対する国としての補償を求めて活動してきた元朝日新聞記者・菅原幸助氏に、吉川英治賞(文化賞)が送られることが内定した。

この賞は優れた文学小説、並びに文化活動に取り組んだ人物や団体に贈賞する制度で、このたび受賞が内定した菅原幸助氏については、これまでにも何度かこのメルマガで紹介している。

最初にこの問題に触れたのは、2005年9月。是非、下記のその記事をお読みいただいた上で、読み進んでいただきたい。
http://www.melma.com/backnumber_108241_2280065/ 「元朝日新聞記者の贖罪の日々」(「頂門の一針」164号 2005/9/11)

その後、
http://www.melma.com/backnumber_108241_2283690/ 「忘れられたか、中国残留孤児」
(「頂門の一針」168号 2005/9/13)

ここから始まって、一番最近では
http://www.melma.com/backnumber_108241_4140962/ 「中国残留孤児訴訟費用1人20万円」(頂門の一針)1228号 2008/6/25)

このほかにも途中経過を何本か書いているが、
要するに---、関東軍憲兵隊員だった菅原氏は、敗戦後関東軍の高位高官の家族を護衛して、追いすがる民間日本人を蹴散らし蹴散らし、列車でいち早く中国を脱出。

帰国後、朝日新聞記者へと転進するのだが、鎌倉支局長時代に中国残留孤児問題を知り、帰国途中に振り切った日本人開拓民の中に、残留孤児となった人がいたのではないかと思い悩むようになる。これが動機となってその支援に余生をかけて行く活動を始める。

身元引受人のいない残留孤児には自分の「菅原姓」を名乗らせて引き取り、国の償いを求め訴訟を起こす原動力となる。東京地裁で起こした裁判では敗訴。しかし安倍内閣時代“政治解決”を実現する。こうして金銭的には一定の成果を挙げるのだが、国は謝罪をしていない。菅原氏はいま孤児たちの名誉のためにも国としての正式謝罪を求める運動をつづけている。

昭和元年、山形の貧農に生まれ。昭和で数えた年と同じ、今年85歳である。

私とは札幌での記者駆け出しのとき(昭和30年代)からの付き合いである上、私自身も中国からの引揚者だということもあって、以来、支援活動のお手伝いをしている。

「中国に展開した関東軍が民間人を見捨てたことは無い」という趣旨の主張を本メルマガで読むことがあるが、そんな又聞きの虚構を書いている人に問いたい。「中国残留孤児や引揚者のナマの声を聞いたことがあるのか」と。

敗戦後、関東軍に見放されて命からがら引揚げてきた私の一家の経験から言っても、どこかの国のように歴史を美化するための歪曲は慎むべきだと私は思う。わが一家の経験については、本メルマガ81号(2005/4/28)に書いた。
http://www.melma.com/backnumber_108241_450745/ 「やっぱり怖い、あの国」

菅原氏は言う。
「自分はその関東軍の片棒を担いだ加害者だった。私以上の証人はいない。償いきれない」と。

先日、吉川賞の事務局を務める講談社の担当者が鎌倉の菅原氏の自宅を訪れ、受賞内定を伝えた。正式には来月、記者会見を開いて発表の運びとなる。

表彰式は都内のホテルで4/9。今年はじめ、癌で片肺切除の手術を受けた菅原氏は目下リハビリ中だが、当日は車椅子ででも出席したいと今夜、私への電話で喜びを語った。
                     20100227


2010年02月24日

◆がんセンター初代理理事長への懸念

石岡荘十

がんセンター初代理事長といって、すぐ名前を言える人はそう多くないだろう。嘉山孝正・山形大学医学部長がその人である。

業界では以前から高名な方だそうで、日本の医療政策に関して以前からの積極的な発言をしている嘉山氏に目をつけた民主党が、政権交代直後の昨年10月、中医協(中央社会保険医療協議会)委員に選任。直後、10年ぶりといわれる今回の診療報酬の引き上げに貢献したといわれる。

そして、今年4月に国立がんセンターが独立行政法人に移行するのに伴って、初代の理事長に選ばれ、一躍、“時の人”となった。

その嘉山氏が今月17日、慶應大学が催したシンポジュームのゲストスピーカーとして「医学教育の現況と問題点」と題する講演を行った。会場となった東京・信濃町の医学部階段教室には、武田純三院長はじめ白衣の医師や医学生が多数つめかけた。ここではその内容を報告しようというのではない。

この人を理事長とした人選に懸念を持った。その顛末はこうだ。Q&Aの時のことだ。以下、私との間のやり取りはこんな具合だった。

Q:11年前、心臓手術を受け、その体験を書いて出版しましたが、それまで医学についてはまったく知識がなかったので、専門の医師から、一から教えていただきました。しかし、医師の説明はきわめて難解で、普通の言葉に直して出版するまで結局4年もかかってしまいました。入院中にも感じたことですが、難しいことを素人の患者に分かりやすく説明する、医師のコミュニケーション能力の教育がもっと必要なのではないか。

A:素人の方がたった4年で理解しようというのは無理な話です。私だって専門外の例えば宇宙工学のことを4年で学べといわれても出来ませんよ。病気を(患者に)分かりやすく説明しようとすると不正確になりますから---。
と軽く一蹴されてしまった。ちょっとむっとした。

医師と患者のあるべき関係を模索した歴史を紐解くと、かつては父権主義、つまり医師は父親のように治療方針を(一方的に)決めて宣言する。患者はただ「お任せします」と平伏するしかなかった。
ところが近代医療では医療サイドが病気の内容、治療方針を患者に分かる言葉でいくつか説明し、複数の選択肢の中から患者が決定する。これが基本である。インフォームドコンセントといわれるものである。いま医師に求められるスキルはコミュニケーション能力だ。ところが嘉山氏は、「そんなの無理だ」といってのけたのである。

加えて、2時間近いシンポジュームの中で嘉山氏が使ったスライド映像は文字も小さく、読めない。どこかで使ったデータの焼き直しではないかと思わせるもので、早口。内容の密度はともかく、とても出席した人たちに分かってもらおうという熱意を感じさせるものではなかった。

講演もQ&Aの時間も終わり、何人かが演壇に駆け寄って名刺を交換し、スピーカーと直接意見を交わす風景は、この種の講演会ではよく見られるものだ。私も近寄ってみると、先生は、早々とかばんをテーブルの上に出して帰り支度にかかっており、話しかける相手の目をきちっと見つめて語り合う真摯な様子はほとんど見られなかった。

私が会場を出掛かると見知らぬ3人が近づいて来て、口々に言った。
「あなたのご本は読みました。あの答え方に納得しましたか」
「いや」
「彼(嘉山先生)には、患者に対する熱意もコミュニケーション能力はありませんね」
そう、私がむっとしたのは、それが理由だった。そう感じたのは私だけではなかったのだ。

国立がんセンターは、厚労省医系技官の典型的な天下り先であり、「医系技官こそががんセンターに巣食うがんだ」とまで月刊誌などで叩かれている。このがんを根こそぎ摘出する、全摘のメスを握る大仕事を誰に任せるか。

この人事については、仙谷由人行政刷新担当大臣の経歴が深く関わっている。仙谷大臣は2002年、ここで胃とその周辺組織3キログラムを摘出する全摘手術を受けている。そのときから医療、特に最近は国立がんセンターの“がん摘出”に異常な情熱を持って取り組んできた。人選は年収2000万円で公募するというこれまでは考えられない方法で行われた。そして選ばれたのが嘉山氏だ。

昭和25年生まれ、今月19日還暦を迎えた。神奈川県の湘南高校から東北大学医学部へ。平成15年から現職。医学部長として学力重視、入試改革、授業改革を行い、2007年には医師国家試験合格率を国立大学で全国1位に引き上げた。専門は脳神経外科。

山形大学に導入された世界で3台目という術中MRIを用いた悪性腫瘍の手術療法に取り組むなど、臨床医としての実績だけでなく、国立大学医学部で初のがんセンターを創設するなどの改革に手腕を発揮する。その経歴には「初」を冠する項目が数多く見られる。臨床経験、学術実績、行政手腕も申し分の無い方のようだ。

ただ長年、数え切れない取材対象をインタビューしてきた私の経験でいうと、嘉山氏の言動にはひとつだけ懸念がある。

がんセンターの患者は死に最も近い病に侵された人々である。そんな患者を「あなたの病気のことは説明できません」と突き放すことだけは無いよう願いたい。
私の杞憂であればそれに越したことは無い。 20100222

2010年02月23日

◆朝青龍追放、相撲論議に一言

石岡荘十

「頂門の一針」のメルマガ版を見ると、1818号(2/15)に掲載された「理由なき朝青龍の追放」をめぐって、火付け役となった私の意図せぬ方向で論争が白熱しているようなので、行司役というわけではないが、私から一言。

“論争”の中心となっている論点は大雑把に言って
1.相撲は国技なのか否か
2.力士の処分ルールを規則で決めるべきか否か
この2点だと思う。

私が引用した肥和野佳子氏の結論は、相撲が国技であることを認めた上で、だがしかし、「相撲の国際化を目指すならそれなりのルールは必要なのではないか」という論旨でした。私はこの考え方に、多くの日本人には無い新鮮な発想を感じて本誌の読者に紹介することとしたもので、上記の論点1.のような論争を期待したものではありません。

また相撲の故事来歴についてはそれを論ずるに足る知見も持ち合わせていませんので、私の問題提起の土俵とは別のところでどうぞという感想だ。

ただ、2.の問題については、以下のような私見を持っています。
“朝青龍事件“の教訓はこうだと思います。

若貴全盛期を最後に以来、相撲は明らかに外国人力士の登場で辛うじて人気を保っている。
敗者に対する思いやりを美徳と考える日本的な伝統を理解できない価値観の中で育った力士が登場するのは時間の問題だった。

ということは、土俵上でのガッツポーズや普段の生活のなかでの立ち居振る舞いに日本人らしい「品格」を期待出る状況ではなくなっていたということだろう。にもかかわらず、関係者は、歴史ある国技としての品格を維持するための方策をまったく考えもせず、弱い日本人力士の不人気を大きくて強い外人力士に負んぶに抱っこで頼ってきた。

国技といわれる相撲に外国人力士の参入を認める。人種や国籍で差別しないといえば格好はいいが、異質の文化圏で育った若者が古色蒼然とした世界に入ってくる。誤解を恐れずにいえば、異分子が入ってくれば伝統の秩序が混乱するのは当然だ。これは危機管理の問題でもある。だが、備えはゼロだった。そのことが朝青龍事件の最大の教訓だったといえるだろう。

そこで、相撲協会が採るべき道はいくつある。
その1。野見宿禰の時代に立ち返って、日本人純血主義を貫く。この場合、2世も、3世も、日本国籍を取得しても、外国人は認めない。つまり、雑種は一切認めないこととする。

その2。広く外国人にも門戸を開く。ただしこの場合、緻密なカリキュムに従って、野見宿禰以来の歴史、マナーなどを厳しく躾けた上で土俵に送り出す。新人教育を担当する若き新理事の責任は重い。
その3。現状維持。相撲協会委員、理事が品格に欠けるかどうかその都度、判断する。この場合、過去の遺産だけで食っている親方衆の人選・教育がまず問題となるだろう。

その4。外国人力士にも門戸を開放する。この場合、細かいルールを作る。とりわけ罪と罰について、国際的な批判にも耐えられるようなルールを決める。

柔道もそうであったし、韓国のテコンドーも国際化への道をたどる経緯の中で踏んできた歴史がすでにある。

1〜4の折衷型、まったく別の考え方もあるだろう。どの道を選択しますか? それが、私が問題提起をしてお聞きしたかったことだ。朝青龍を誹謗するだけでなく、フアンが建設的な提言をすることが、相撲道再生への近道だと思う。

“朝青龍事件“を起こしそうな予備軍がすでに土俵に上がっている。急がねばならない。
20100219

2010年02月16日

◆理由なき朝青龍の追放

石岡荘十

唐突な問いかけだが、朝青龍が「横綱の地位保全」を求める訴えを起こしたら、日本の司法はこれをどう判断するか、日本の相撲ファンはどう反応するだろうか。

国技である相撲の力士として土俵上での振る舞いに「品格」がないこと、土俵外では暴力事件を起こしたことなどを理由に、朝青龍が角界から“追放”された。高額な退職功労金も支払われることとなり、「一件落着」と相成ったが、どうも喉元に小骨が残っているようで居心地が悪い。

と、メールマガジンJMM(主宰:村上龍)2月10日号がこの問題を分析する記事を掲載している。筆者はニューヨーク在住の国際税務専門職・肥和野佳子氏。その要旨を引用しながら問題点を整理する。

<私は小さい頃から大相撲を見るのが好きだ。今でもTVJapanというNHKの番組を中心とした日本語放送でニューヨークからでも毎場所見ていて、日本に帰省するときは両国国技館に行くのを楽しみにしている>という。

<横綱朝青龍の引退は米国の主要なメディアではほとんど取り上げられていないが、インターネットで検索すると、いくつかのニュースやそれに対する掲示板に米国の視聴者の意見が書かれている。日本でも、モンゴルでも米国でも納得していない人はいる>
肥和野氏は言う。

<朝青龍の場合は「品格」が問題にされた。「品格」とは何か。基本的には「文化」「価値観」の問題だろう。「文化」や「価値観」で人を裁いてよいのかということ。法的根拠として誰もが納得するような規則が日本相撲協会には欠如していることが最も問題と思う>

誰もおかしいと感じていなかった“日本人の常識”の虚を突く発言である。

日本相撲協会は財団法人であるが、同時に利益を挙げる興行団体の側面を持つ。力士は日本の伝統を尊重することを期待されながら、相撲を生業とし、これでメシを喰っている労働者でもある。そう考えると日本相撲協会が経営者、力士はそこの従業員という関係になるわけだから、普通の企業なら「就業規則」や「懲戒処分」を社則で定めていなければならない。

それに当たる相撲協会の規則は「寄付行為」、「寄付行為細則」というものに書かれてある。制裁、懲罰の規定は「寄付行為細則」の第95条、96条にある。ところが<こうした処罰はどういう行為をしたら受けるのかについては何も書かれていない。

すなわち、罰だけがあって、罪とは何か書かれていないという摩訶不思議な状況になっている>のである。

人を処罰するためには法によらなければならない。つまり、近代的な法治国家においては罪刑法定主義が基本である。

<通常なら「これこれの規定に反する行為を行ったものは以下の処罰を受ける」とか書かれて、どのような行為が処罰の対象になる行為なのか、具体的にいくつか書かれているはず>。

ところが<日本相撲協会は明確な法的根拠がないまま、時として一貫性に欠けることもあるやり方で、人に処罰を与えていることが問題>なのだという。同感である。

この業界では、これまでにも大麻所持で解雇になったロシア人力士が問題となったり、弟子を稽古という名の元に死に至らしめたりした事件もあった。が、このようなケースでは相撲協会の世話になるまでもなく、大麻取締法や過失致死、殺人などの法にもとづいて処分が行われ、相撲界から放り出された。

それでも彼らは不当な解雇であると日本相撲協会を相手取って訴訟を起こした。逮捕されるということは単に一時的に拘束されるという状況にすぎず、裁判で有罪が確定するまでは「推定無罪」のはずなのに、である。朝青龍のケースでも<解雇にあたる法的根拠がどこにあるのか、日本相撲協会に対して疑問をもつ人はいた>

朝青龍の場合、暴力事件も有罪が確定したわけではない。「日ごろの行い」が顰蹙を買い、「品格」を問われたに過ぎない。そのことを理由に追放、事実上の懲戒解雇を喰らったのである。地位保全の訴えを起こしたら、司法はどう裁くのだろうか。

相撲道を理解できていないことを理由に排除をする。<外国から見れば「異質性を排除する日本」と映るかもしれない>

<その国の伝統やしきたりを尊重せよ」というのは当たり前のモラルとは思うけれども、価値判断の違いによる「いさかい」を避けるためには、やはり、明文化された規則は必要だ。

価値観は社会や時代によっても変わる。規則の前にまず「文化」というのではなく、現代では、まず規則が必要で、そうすることで日本の伝統である相撲文化を守ることにもつながると思う>と肥和野氏は結論付けている。

外国人が相撲界に入ってきて、相撲の“国際化”を言うのなら、外国人にもよく分かるシステムの改善が求められる。

いま、ボールは日本の相撲界にある。文字通り「裸の王様」を律するルール作りを急がねばなるまい。これこそが若き新理事の一番大事な仕事になるのではないか。

因みに、<オリンピック種目でもある韓国伝統の格闘技テコンドーには「Taekwondo Code of conductに違反する場合、選手は罷免となる」など細かいルールが決められている。不服審でヒアリングが行われる権利がある」というようなことが書かれてある>そうだ。             20100213

2010年02月13日

◆小沢幹事長の誤算

石岡荘十

小沢幹事長不起訴にブーイングが起きている。「証拠不十分」というが、限りなくクロに近い灰色だと野党は証人喚問する構えである。対して、幹事長を続投する言い訳に「検察による公平な捜査の結果だから---」と小沢氏は居直っている。

「逮捕はない、逮捕の許諾請求などありえないだろうが、ひょっとしたら在宅起訴くらいはあるかも」と気をもんでいたところへ「不起訴」---で一瞬気が緩んで、思わず「公平な検察」と口走ってしまったのは返すがえすも、軽率であった。「上手の手から水が漏れる」というやつである。

検察が不起訴にしたのは、政治資金法違反事件についてであって、小沢氏に抱いているさまざまな疑念すべてについて「嫌疑なし」と結論付けたわけではない。

彼の師匠もそうであった。金丸信は政治資金規正法で略式起訴、罰金20万円の略式命令で一旦は逃れた、と思ったのもつかの間、脱税で逮捕・起訴され、公判中に死亡した経緯についてはすでの述べた。
http://www.melma.com/backnumber_108241_4755213/
(2/6 「似て非なる2人のヒール」)

金丸が略式起訴されたのが1992年9月、脱税容疑で逮捕されたのが半年後の1993年3月だった。検察は世論の風当たりが厳しかったこともあるが、あきらめてはいなかったのである。

今回も通常国会の開会中という検察にとっては、現職議員に手をつけるためには厄介な時期だ。つまり、例えば脱税で小沢氏の身柄に手をかけようとしても、所属議院(この場合は衆議院)に対して逮捕許諾の請求というややこしい手続きをとらなければならない。このとき法務大臣が、指揮権を発動すれば、事件を立件することは困難となる。

1954年の造船疑獄では、佐藤栄作の逮捕許諾請求にあたって、犬養健法相からの指揮権発動により捜査延期となり、事実上、事件が潰れてしまった歴史がある。このとき佐藤は政権与党自由党の幹事長だった。

だから、小沢氏は「いざとなれば、指揮権発動の陰で逃げおおせる」と思っているなら、それは誤算、時代錯誤というものだろう。

1954年4月に指揮権発動、7月には佐藤は幹事長辞任に追い込まれている。指揮権発動は政権や時の権力の座を賭けた伝家の宝刀であり、その覚悟がなければ実力者小沢といえども宇宙人に党内で「逮捕不許諾」の圧力をかけることは難しい。

1958年7月、公選法違反の高石幸三郎(自民)を最後に「不許諾」はない。悲惨だったのは証券取引法違反の新井 将敬(自民)のケースだ。議院運営委員会が逮捕許諾へと傾いた時点で、自殺をすることで逮捕を免れた。

今国会は会期の延長がなければ、6月16日で閉会する。そのあたりの---こんなシナリオはどうだ。

5月、米軍基地問題で大騒ぎになるだろうが、そのころには新任の枝野行政刷新大臣が独立行政法人をターゲットに、インターネット中継で“本格的な”田舎芝居、事業仕分け興行をぶちまくり、無邪気な世論を味方につけるかもしれない。問題は、ダーティーイメージの小沢氏だ。

通常国会閉会後、検察が動き出したとしてもタイミングとしてはおかしくない。しかし、小沢幹事長は「検察による公平な捜査---」と口走ってしまっている。これは誤算だ。次の強制捜査があっても「検察横暴」とは言いにくいだろう。

「捕まったとき家族や秘書に罪をかぶせようとしなかった」と外交評論家の岡崎久彦氏がどこかで金丸信を評価しているそうだが、小沢氏は、秘書は逮捕され奥さんもことによったら検察の捜査対象となりかねない。

師匠を見習うなら小沢氏は、縛につくしかないかもしれない。幹事長職を辞任すれば、「さすがクリーンな民主党」と無邪気な国民は拍手喝さいする。昨年も、3月に代表を下り、選挙に大勝した。

あるいは、追い詰められた幹事長、「健康上の理由」で病院に逃げ込むかもしれないが、私が彼の病歴や健康状態に関わる報道などを検証した限りでは、灰色疑惑を全てチャラにするほど重症だとはとても思えない。

起訴とでもなれば、党内でうごめいている反小沢グループが勢いづき、彼の神通力は地に落ちる。

かくして7月、参院選で目出度く単独過半数を達成。鳩は目出度くひとり立ちし、オリーブの小枝をくちばしに、生まれ故郷の宇宙へと国民を誘ってくれることになるだろう。
2010.02.12 (元NHK社会部記者)


2010年02月05日

◆似て非なる2人のヒール

石岡荘十

きのう(2月4日)午後、有楽町界隈をうろうろしていたら「号外! 号外!」。「アッ!小沢の辞任か」と思ったら、目に飛び込んできたのは「朝青龍」の3文字だった。

この2人の相似点は、
・共にそれぞれの“業界”では実力で他を寄せ付けない
・にもかかわらず、わが国では美徳であった「実るほど頭を垂れる--」 こともなく、人を人とも思わない尊大な振る舞い
・なんとなく胡散臭い。特におカネに対する執着、業界のヒール役を見 事に演じている
・朝青龍の場合は、最早「いた」と過去形になったことだった

奇しくも、秘書3人起訴の処分が出る、小沢氏の対応が注目されていたその日、両国では横綱審議会が開かれ朝青龍に対する処分が検討されていた。

どちらが「号外」となってもおかしくないタイミングだったが、日本的な潔よさを見せたのは、68歳のニッポン男子ならぬ、モンゴル出身の、日本へ来て十年とちょっとの29歳の若き“外人”だった。

朝青龍の土俵上の振る舞いや、土俵外での暴力事件に対し、不快に思う人も少なくなかった。天敵といわれたぎょろ目の女性の元横綱審議委員は、テレビのインタビューに応え「したやったり」と嬉しそうだった。

しかし、与党幹事長とがっぷり四つに組んだこの日、朝青龍は見事、打ちゃり決めたのではないか。2人は同じヒール役だが、まったく似ているようで非なる生き方である。

小沢氏に、号外を見せて朝青龍引退についての感想を聞いてみたかった。小沢氏は「やられた」と思ったか、「オレは違う」と何も感じなかったか。朝青龍に、「小沢居直り」についての感想を聞いてみたかった。

こんな男を日本の最高実力者であることを許すような日本人に「品格」がどうのこうのと言われたくないという心境かもしれない。「よく言うよ」と。

で、昔の話だが、この強かな幹事長の不起訴処分で、もう1人の悪役、自民党副総裁だった金丸信のケースを思い出した人も少なくないだろう。簡単に振返ってみると---。

金丸は1992年,佐川急便から5億円の不正な献金を受け取ったとして東京地検が事情聴取をしようとしたが、金丸はこれを拒否。仕方なく逮捕もしないまま9月28日、政治資金規正法で略式起訴。罰金20万円の略式命令が出て、一件落着だと思われた。だが、これには国民が怒った。地検に対する批判が高まった。

これを受けて、というわけではないだろうが、今度は東京国税庁が乗り出す。亡くなった奥さんの遺産を申告しなかったとして、翌1993年3月6日逮捕。自宅のガサをかけたところ、1000万円の金の延べ棒が出てきて世間をアッといわせた。

このとき金丸は、79歳。糖尿病の悪化で左目は失明に近かったという。その彼が逮捕され車椅子に乗って自宅を出る姿がテレビ画面に映し出され、哀れを誘った。結局、1996年3月、裁判停止となり、その1週間後の28日、脳梗塞で死亡した。享年81。品格もクソもなかった。

その金丸を政治的には師匠とする小沢氏がいまよく似た状況におかれているが、この2人のヒール、これまた似ているようで、ちょっと違う。

小沢氏にも妻や子の名義にしたという生前贈与の税がらみの疑いがもたれているが、税務当局が金丸ケースのときと同じように、追い詰めることが出来るだろうか。田中角栄の裁判を含め、当時側近だった小沢氏は、法廷は欠かさず傍聴したそうだ。田中や金丸を反面教師として学んできたはずだ。検察との対応を学習したに違いない。この経験は大きい。

2度の事情聴取に応じたやり方も金丸とは違う。ここで取引があったとは思いたくないが、微妙なやり取りはなかったか。いまのところ、結論は政治資金規正法では嫌疑はあるが立証が充分にできそうもない、つまり嫌疑不十分で不起訴という判断に落ち着いた。

税務当局がまたあのときのように何かやるのでは---と期待するむきもあるようだが、そううまく2匹目のドジョウといくかどうか。相手が2人の師匠とは似て非なる強かなヒールであることを忘れてはならない。

部長級以下の高級官僚についても降格が出来る法案が俎上に載っている。事件との関係はないのか。ドラマのクライマックスはこれからである。

一件が落着するころ、朝青龍は実業家として、ことによったら政治家としてモンゴルの大草原を駆っているかもしれない。
20100205


2010年02月03日

◆耐えられるか、幹事長の心臓

石岡荘十

この際だから、小沢幹事長の病歴をチェックしてみた。こうだ。

初めて小沢氏の健康状態が政治記者の手にかかったのは、1991年6月29日。早朝、突然、胸の痛みを訴えた小沢氏が救急車で東京・千駄木の日本医科大病院に担ぎ込まれた“事件”だった。病名は「狭心症」と発表された。

狭心症とは、心臓に酸素と栄養を送る血管である冠動脈が狭くなって、心筋が酸素不足に陥る病気だ。胸が締めつけられるように痛むが、普通、15分もすれば痛みはすっと治まる。治療に入院は必要ない。ところが、小沢氏の入院は42日間に及んだ。

心臓病でこんなに入院が長くなるのは急性心筋梗塞以外まず考えられない。心筋梗塞は、狭心症が血管がコレステロールで狭くなるのとは違って、「塞」、つまり血管のある部分が完全にふさがってしまう病気である。冠動脈に血液が流れなくなると詰まった部分から川下の細胞は壊死する。一刻も早い手術が必要である。

1999年、心臓弁膜症を経験したとき私の経験で言うと、心エコー、心臓カテーテルなどの検査入院で10日間、手術で3週間の入院だった。心筋梗塞の手術は、当時は、太ももの血管を切り取って冠動脈の詰まった部分をまたぐようにバイパスを作る方法が主流であった。

最近では、足の付け根からカテーテル(ビニールで出来た管)を挿入して詰まった冠動脈の血流を再開させる方法が広く行われているが、バイパス手術の場合は、血管を切り取った足と胸を開いた傷跡が残る。

地検の2度目の事情聴取を受けた後、昨日(2月1日)の記者会見で「私が、女房や子ども名義で預金していたのは自事実だが、それは前年に心臓手術で40日入院した自分のことが心理的に影響し---」と答えている。

心臓手術は「タイミングと医師の選択」さえ間違わなければ、決してそんなに大袈裟に考える必要はないのだが、(多分)手術に関する知識のない彼はひょっとしたらやばいかもしれないと考えたのだ。私もそうだった。遺言まで書いた。

当時の新聞報道を総合すると、小沢氏は退院直後に足を引きずるように歩いていた。退院後、好きなタバコを断ち、医師の忠告を守り朝の散歩と食後の安静を日課としてきた。このため昼食後の休息と重なる午後1時開会の本会議をたびたび欠席。与党側から「本会議に出席できないほど心臓が悪いのなら国会議員を辞めて静養したら」と揶揄する声が上がった。

二度目に心臓病説が取り上げられたのが、1991年9月25日。

東京・芝の東京プリンスホテルで開かれた臨時党大会で、小沢代表の再任を了承し、「来夏の参院選で野党が過半数を獲得し、自民党政権を崩壊させたい。私自身の政治経験、政治生命のすべてを賭けて決戦の先頭に立つ」と宣言。小沢氏は満面に笑みを浮かべた。

ところが、党大会が予定通り終わった午後3時過ぎ、くたびれて疲労を感じた小沢氏は大会後に予定されていた記者会見をキャンセルし6月に長期入院したことのある日本医科大病院に緊急入院。

午後4時前、記者会見は、菅直人代表代行(当時)が代わりを務めた。
翌朝の新聞各紙は、党大会で小沢代表が再任されたことよりも、緊急入院を大きく扱い、日本医科大前には、小沢番の記者が連日張り込むこととなった。

医師の診断は、「心不全・重症度V」。安静にしなければ、明日をも知れぬ。と当時報じられた。

「心不全」は要するに心臓の不具合、うまく動いていないということだ。「重症度V」はNYHA(ニューヨーク心臓協会)の心臓機能分類でよく使われる不具合の程度を表す指標だ。

その「V」は「心疾患があり、身体活動が著しく制約される、安静時には愁訴はないが、比較的軽い日常労作でも、症状(呼吸困難、むくみ、疲労感、動悸、胸の痛み)が現れる。平地の歩行や日常生活以下の労作によっても症状が生じる」というもの。T〜Wの4段階の下から2番目という診断であった。決した軽いものではない。

「話している途中で急に言葉が出なくなった」「脳血栓で警察病院に担ぎ込まれた」。与党側からは未確認情報が次々と流された。確かに、心臓手術は重大な基礎疾患(大元の病気)で、術後、しばらくは心房細動などの不整脈を頻発する人も少なくない。

しかし、「適切な治療」を受ければ心房細動といえどもむやみに恐れる必要はない。「適切な治療」とは例えば、カテーテルで心臓の筋肉の一部を高周波で焼き切るカテーテルアブレーションといわれる治療法である。

私も術後長年心房細動に悩まされた。前後3回、述べ半年間の入退院の果て、カテーテルアブレーションを受けた。その後は胸に違和感を覚えることもなく丁度今週、術後満11年目を迎えることが出来た。

小沢氏の健康に関する3度目の報道は2008年10月。6日から13日まで風邪で入院、同月23日に予定されていたインドのシン首相との会談を含む党役員会などの公務も体調不良ということでキャンセルしている。

一番最近の報道は、2009年9月。ロンドンからの帰国を2・3日遅らせた原因について、「ロンドンでペースメーカーを入れたのでは」という憶測が流れた。が、心筋梗塞の手術を国内で受けた人物が、日帰りでも出来るペースメーカー埋め込み見たいな簡単な治療をわざわざ外国で受けるとは考えにくい。

政治家の健康不安説は政治生命に関わるといわれる。英国で与党幹事長がそんなことをすれば、同盟国米国の情報機関に筒抜けになることくらい小沢氏も分かっているはずだ。

2010年01月26日

◆もうもたない? 小沢幹事長

石岡 荘十

月に1度、政財界の通と雑談する会を持っている。21日は、鳩山さんの家庭教師といわれる“知識人”と、テレビにもよく出ている政治評論家が顔を見せた。

きちんとウラを取った訳でもない虚実まぜまぜの放談会のようなものなので、公の報道としては伝わっていないニュアンスの話も聞くことが出来る。「ふーん」と思わずうなずかせる話も出てくる。こんな具合だ。

<小沢は13日、十数人に電話をして「大丈夫だ」という自信のほどを覗かせた。ところが、翌々日、党大会の前日。秘書の逮捕だ。このとき小沢は「ぬかった」と一言、側近に洩らしたそうだ>

ということは、検察がそこまで強硬に出てくるとは踏んでいなかったと読める。

Q:<検察をなめていたということか>

A:<そうだろう>

Q:<事情聴取に応じないので、頭にきたのかねぇ、検察は>

A:<そうかもしれない、そこへ奥さんからも事情を聞きたいと検察が追い討ちをかけた。愛妻弁当を持ってくるほど仲がいいからね。これにはさすがの豪腕も弱みを突かれてぐらっと来たようだね。急転、事情聴取に応ずることになったのは、奥さんだけは巻き込みたくないということだったのだろう>

地検は、資金の中に妻名義のものが含まれていることから、妻も任意聴取を行って資金の出所を確認したい意向だと伝えられている。

2つ年下の妻(和子さん)は、新潟県で最大規模のゼネコン「福田組」の元社長の長女で、同社の大株主でもある。 いろいろな報道を総合すると、

09年3月に提出された福田組の有価証券報告書によると、妻は08年末時点で同社株式の3.03%にあたる136万3000株を保有しており、第8位の大株主小沢氏が妻と結婚したのは衆院議員2期目の1973年のことだが、その仲を取り持ったのも田中元首相だった。

「性格的には女丈夫というか、しんが強く腹も据わっている。それでいて表面は穏やかで政治家の妻としてぴったり」だという人もいる。

妹は、竹下登元首相の弟にあたる竹下亘衆院議員(元NHK経済部記者)に嫁いでいる。

Q:<誰にでも弱みはあるもんだねぇ>

A:<鳩山の時は高齢のお袋さんから事情聴取をするぞと脅して、上申書を引き出している。検事が上申書の書き方までアドバイスをしたそうだ。同じ手口だね>

Q:<で、この後はどうなるの>

A:<検察は本気で、在宅起訴はあるかもしれない。最悪、逮捕許諾請求もあるかもしれない>

Q:<指揮権発動は?>

A:<あの法務大臣は、必要なときには指揮権を使うこともあるという考えを持っているらしい。もっとも、無実だと確信したときだけだというけど--->

Q:<そんなことになったら、なんぼ小沢でもいたたまれないことになるのでは?>

A:<議員辞職勧告決議が出るかもしれないという話もあるし---。幹事長の後任を誰にするか、早くも名前も挙がってきている>

Q:<どっちにしても、小沢はもうもたないということか>

A:<そうだ。取材現場が、こんなに緊張したのは田中逮捕のロッキード
以来だねぇ。みんな寝不足だよ>

重ねて、念を押しておくが、この話はウラが取れているわけではないので、確信を持っての予測ということにはならない。しかし、担当記者としては、間もなく生涯忘れがたい歴史的な瞬間に立ち会うことになるだ
ろう。                         20100122

2010年01月23日

◆いちごの生産者だった夏

石岡 荘十

「頂門の一針」主宰・渡部亮次郎氏が、本誌1月22日刊掲載の「いちごの話」を読んで思い出したことがある。小学5年生だった一夏、私はいちごの生産者の端っくれだった。

敗戦翌年5月、私たち一家は中国の天津から引揚げ、父親の生家である秋田県・八森村へ落ち着いた。秋田音頭のしょっぱなに出てくる「八森ハタハタ、男鹿でオガブリコ〜」のあの寒村だ。

生家は父が若くして東京に出た後、弟(叔父)が家を継いで百姓をやっていたが、赤紙一枚で徴兵され満洲(中国東北部)の最前線へ。終戦と共に、シベリアへ持って行かれ、留守宅は祖母と叔母が幼い子ども2人を抱えてほそぼそと稲作百姓をやっていた。そこへ、われわれ一家4人が転がり込んだのである。

ご多聞に洩れず、農家も食糧難だった。畑で芋やナス、キュウリ、トマトを作り、山に入って山菜を採り、新米の収穫まで食いつなぐこととなった。

間もなく、生まれて初めての田植えにも駆り出される。父と母は、元を質せば百姓の生まれだから昔取った杵柄、手際はいい。慣れないとはいえ、小学5年生の私と中学生の兄、も立派な労働力だった。

夏。小柄だが目端の利く祖母が、そのころはまだ珍しかったいちごの栽培を始めた。ビニールハウスなどまだない。夜明けと共に、学校へ行く前に畑でいちごを摘む。

取立てのいちごを大きな背負い駕籠いっぱいに入れてこれを担ぎ、学校へ行く途中集荷所まで運ぶのが私の役目だ。集荷所までは子どもの足で小1時間。その日の売り上げを受け取り、空になった駕籠を担いで学校へ行く毎日だった。

草鞋を履くのも初めてなら、駕籠を背負って学校へ行くのも生まれて初めての経験であった。荷は肩に食い込み、草鞋の緒で足の指の間からは血が滲んだ。

何より恥ずかしかった。紺サージの制服にぴかぴかの革靴で学校に通っていた天津での生活は、いまやここでは別世界の出来事だった。そのうえ、学校の行き帰りには、「引揚者、引揚者」と蔑まれ、いじめにもあった。

それでも田植えで泥まみれになり、田の草をとり、秋には稲刈りもした。そうこうしているうちに秋。11月には父の仕事先が群馬。・高崎と決まり、半年過ごした秋田を後にしたのだが、この頃には、ずーずー弁もまあまあ操れるようになり、いじめっ子たちとの間にも友情が芽生えていた。

高台の集落を去る日、その日は日曜日だったが、10人ほどのガキが口々に大声で「まだ、こらんしぇ」(また、来いよ)といつまでも手を振ってわが一家を見送ってくれたのだった。

高校を卒業するまで高崎で過ごした。その後東京へ進学、就職。で、ここまで想い返してみると、報道に関わった日々を含めて、ニュース原稿は腐るほど書いたが、秋田を去った後、モノを生産したことは一度もなかったことに気がつく。

70年を越える今日まで、形のあるモノを生産した経験はいちご作りだけだった。あの夏、私はいちごの生産者の端くれだった。幼い肩に食い込むいちご駕籠の重みを懐かしく思い出す。

それにしても、いまどきの季節外れの、ビニールハウス育ちのいちごの味の薄いこと。自分が作って売ったあの本物のいちごの味覚に出会うことは二度とないのかもしれない。