2018年05月01日

◆おきゅうと って知ってる?

                            毛馬 一三


郷里福岡の同窓友人が初めて案内してくれた大阪博多料理屋で、「おきゅうと」が出た。

エゴノリという海藻から作った食品で、生姜、ゴマ、かつおぶしなどを振りかけ、それにポン酢を注いで食する。涼感を誘うツルッとした味わいと、磯の香りの食感が口内いっぱい広がった。

久し振りの味は、淡泊ながら旨みと滋味に溢れた、福岡特産の食感を十分に嗜め、郷愁を身近に感じた。

ところが、この「おきゅうと」を知る人は意外に少ない。筆者自身も、福岡出身でありながら、福岡から僅か離れた筑後・久留米で育ったので、「おきゅうと」の名前すら幼少の頃は耳にしたこともなく、食膳に上った記憶も無い。

筆者が、料理の一品として魅せられたのは、社会人になってからだ。以来、「おきゅうと」の愛好者になった。下戸なので、お酒のつまみではなく、専ら深みのある味を、ゆっくり箸を付けながら食する楽しみ方だ。

エゴノリが生育する日本海側の秋田、山形、新潟、長野の各県では「えご」、宮崎県では「キリンサイ」などと呼ばれて食用にされているらしいが、「おきゅうと」とは言わない。食べ方も福岡とは全く異なる。

さて、肝腎の「おきゅうと」の名前の由来だが、
1.「沖の独活(ウド)」説。エゴノリはウドの木の様に早く育つので、沖のウドが転訛した。
2.沖からやってきた漁師が作り方を伝授したから「沖人」(おきうど)説。
3.飢饉の際に簡単で大量に作られ多くの人を救ったから「救人」。
などの諸説あるらしい。

「おきゅうと」の食べ方だが、
・真空パックの中に5枚入っている添加物不使用
・厚さ約3mmの「おきうと」を、水洗いして、幅2〜3mmくらいに切る。
・それを器に盛りつけ、生姜、ゴマ、かつおぶしなどをふりかけ、醤油またはポン酢で食べる。また、酢味噌などでもおいしい。

いとも簡単に食することができる。しかもふりかけ材の工夫では、味付けが自分の好みに合わせられるだけに,楽しみも倍増だ。

大阪人でも初めて食べた時は、独特な味覚と触覚に戸惑うらしい。しかし2度目からは、仄かな磯の香り・海苔の風味、涼感を誘う喉ごし、溢れる旨みと滋味に魅せられて、愛好者は増えていると云う。

「おきゅうと」は「めんたいこ」と共に、数百年の昔から朝食の一品を占め続けて来た福岡・博多の食文化の代表であり、福岡・博多の人々はその重みを了知している。

残念なことに大阪では、「飲み屋」か「博多料理店」に行かないと「おきゅうと」には、お目にかかれない。近郊スーパーにはその姿が消えてから長い。情けない話だ。

郷里福岡に帰省した福岡高校同窓会の先輩が、地元でしか味合えない特製「おきゅうとの店に立ち寄り、味わいを実感してきた」と述懐していた。

こればかりは、郷里特性の「おきゅうと」だから、羨ましい限りだった。(了)  
参考:ウィキペディア       

2018年04月26日

◆「馬」の渡来地先は四條畷市

                                          毛馬一三


わが国古代王朝の威光を軍事面で支えた「馬」の渡来終着先が、なんと大阪府四条畷市であることを知らされ、ビックリした。

大阪湾(古代は難波津)に接している大阪柏原市に鉄技術、堺市に土器焼成技術が古代に朝鮮半島から渡来していたことは知っていたが、まさか生駒山系が迫り、大阪湾と些かも面していない四条畷市が、「馬」の渡来終着地だったとは夢にも思っていなかった。

ところが、先般四條畷市主催の会合で、古代王朝や豪族たちの権力の象徴となる「馬」の渡来先が四条畷市で、これを証明する「蔀屋北遺跡(しとみやきたいせきあと)」が、四條畷市にあることを知らされたのだ。

四條畷市の西にある現在の寝屋川は、古代には難波津に繋がる海路ルートとなっていた。しかもこの海路の条件と、清い水と牧草に恵まれた肥沃大地の馬飼いの環境が見事に合致したことから、ここが朝鮮半島からの渡来先の終着地になったらしい。

しかも、四條畷を南北に横たわる生駒山系を越えれば、比較的なだらか下り坂となり、「馬」に負担を掛けず「大和」へ供給できた立地の良さが王朝・豪族に認められ、四條畷(当時・讃良)を「馬」の機動力を軍事制度に組み入れる「馬飼いの里」として定着させたという。

朝鮮半島からは、比較的穏やかな初夏の海に「馬」を乗せた丸木船を2ヶ月かけて、玄界灘から筑紫(福岡)・豊浦(下関)・瀬戸内海、そして大阪湾(難波津)を経て、河内湖から寝屋川を通じて「蔀屋北遺跡」に辿り着いている。「馬」に同伴してきた渡来人もここに定住したそうだ。

そう云えば、「国内最古 馬の乳歯 四條畷」という記事が出ていたことを思い出した。

四條畷市の「蔀屋北遺跡」で、国内最古となる5世紀中頃の馬の乳歯が2頭分、大阪府教委の調査で出土した。2〜2歳半とみられ、同時期の遺跡で、若い馬の存在が確認されたのは初めて。

同遺跡は、国内で初めて馬を本格的に飼った牧場とされ、府教委は「朝鮮半島から子馬を船に乗せて連れてきたか、生まれた子馬を飼育し、軍馬として増産したとみられ、国内最初期の馬生産の実態がわかる」としている。


3世紀の中国の史書「魏志倭人伝」に、日本に馬はいないと記されており、5世紀頃、朝鮮半島から馬と乗馬の風習が伝わったとされる。(略)
松井章・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長(動物考古学)は「乳歯はもろく、「蔀屋北遺跡」からの出土は珍しい。馬飼が、大規模に馬を生産していた様子がうかがえる」と話している。

たしかに「蔀屋北遺跡」とその周辺から、これまでに丁寧に埋葬された馬の骨(性別は不明)や永久歯計約500点、それにアブミ、鹿角製のハミ、鞍などの馬具も出土している。総数26基の井戸も発掘されており、このうち7基は、「馬」運びに使った舟を転用して、井戸枠を作っているのが分かっている。

その船は、西都原式といわれる準構造船で、実物が日本で初めてこの「蔀屋北遺跡」で発掘されている。復元船は、全長10b、幅1b、10人乗りの船。航海は2ノットぐらいの速度の船団だったと専門家は説明しているが、果たして1隻の船に一体何頭乗せて来たかは明らかではない。

四條畷市の「馬飼いの里」で繁殖された「馬」は、王朝や豪族の間で軍事・通信・運輸の活用に重用され、いわゆる権力誇示の証とされた。それだけに四條畷市の「馬渡来の終着地」の意義と「馬飼いの里」からの「馬」の供給価値が、権力側から高く受け入れられていた。

しかし文武4年(700年)になると、天皇に献上する公の牧場が諸国に作られ始められるようになり、そののち平城京遷都の時には、騎兵500人が威儀を正して行進し、「馬」が国家の資としての威容をみせつけている。

こうした時代の変遷のともない、平城京遷都の頃には、四條畷市の「馬渡来の終着地」の役割は終焉し、「馬飼いの里」は姿を消したという。

名所旧跡の多い大阪四條畷市では、こうしたあまり知られていない歴史を積極的に広報して、まちへの集客へ繋げる「観光政策」に力を入れたいそうだ。(了)
 参考―四條畷市立歴史民族資料館刊「馬は船にのって」   


2018年04月10日

◆蕪村・望郷のミステリー 

                    毛馬一三 


毛馬桜ノ宮公園の北端、毛馬閘門近くの大川沿いに「蕪村公園」がある。

与謝蕪村は、松尾芭蕉、小林一茶と並んで江戸時代俳諧を代表する俳人で、その名は有名だが、いざ蕪村生誕地がどこかということになると、残念ながら知る人は少ない。

蕪村の生誕地は、紛れも無く大阪市都島区の毛馬橋東詰(摂津東成郡毛馬村)の辺りである。それを顕彰する「蕪村生誕地碑」が、淀川毛馬閘門側の堤防に立っている。かの有名な蕪村の代表作「春風や堤長うして家遠し」の句が、この記念碑だ。

もう一つの顕彰物は、「毛馬閘門」から流れる大川を南へ500mほど下がった所に小さな「春風橋」がある。橋の欄干には蕪村直筆で「春風」橋と刻まれているが、これも見過されている。

なぜ、蕪村生誕地が、それほど知られていないのか。

それには蕪村自身の幼少時代の生き方に関わりがあると言っていいだろう。

蕪村は、享保元年(1716)に毛馬村の裕福な村長と奉公人として京都丹後からやって来た母との間に生まれた。いわば家督の引き継ぎが出来ない私生児だったのだ。

更に不幸にも、蕪村が13歳の時、母が亡くなり、相次いで父村長も逝去した。家系を引き継ぐ身分でない蕪村は、それをきっかけに家人から総いじめを喰らったという。その結果、その辛苦に耐えられず、20歳の頃(18歳の説も)毛馬村を出奔して、江戸に上ることを決意。家出して京都に向かった。

どうして江戸を目指したのか、その訳も未だ不明だ。

ところが京都で人生を一変させる超有名俳人と出会った。早野巴人である。これが蕪村の運命を定めることになる。二人は暫く一緒に暮らしていたが、蕪村が俳句に志を抱くようになり、巴人を師匠と崇め、二人で江戸に旅立った。

江戸では早野巴人の弟子となり、本格的に俳諧を学ぶようになった。ところが間もなくして頼りにしていた師も没してしまった。26歳の時である。蕪村は師の死を悼みつつ、これからの生き方を思考した結果、師から教わった芭蕉の俳句追求の道を歩もうと決意する。そこで芭蕉を慕って奧羽地方を放浪して回ることになる。

宝暦元年(1751)になって、一人で京に戻った。俳諧に勤しむ一方、南宋画を学び、南宋画家として池大雅と並ぶ名声を得るようになる。蕪村の俳句は生活の足しには中々ならなかったが、絵は人気を集め、大いに稼げた。

蕪村は京で68歳で生涯を閉じたが、終生故郷の毛馬村には一度も帰っていない。

この毛馬村の情景を詠った「春風馬堤曲」という作品がある。これは生まれ故郷を懐かしく想う「望郷」を念に、脳裡の中で故郷を想像しながら、帰省する奉公人の少女に気持ちを託す形で「望郷物語」を書き、俳句を添えて思いを募らせている。

母が亡くなった毛馬村への望郷の念がありながら、京都から大阪弟子の処へ幾度も吟行に往復しながらも、その途中、渡し船から降りて歩けば、母と暮らした毛馬村に簡単に行けた筈なのに、何故か一歩も足を踏みいれてない。全くの「ミステリー」だ。

京都からは俳句の弟子がいる大阪に幾度となく来ている。なのに、実家毛馬村に立ち寄らなかったのは、恐らく母の死後、終始苛められて追い出された家人たちへの「怨念」と「失意」の執念が、終生心から消えなかったことが主因だと思われる。(文献・学説はない:これもミステリーの一つ)。

このように大阪とはすっかり縁遠くなった蕪村だったから、いまだに大阪には蕪村に関する伝承の文献も無く、生誕地が明治23年に淀川改装によって完全に埋め立てられて仕舞い。生誕地の痕跡はすっかり消えた。今淀川堤防にある「蕪村生誕地碑」は、蕪村が居住していた真の生誕地ではない。

これが長い間、蕪村生誕地を顕彰する機運や「お祭り」がなかった最大の理由だ。


10年位前から、私と大阪市議会筋と協力して都島区毛馬町に「顕彰公園」を作ろうと、当時の大阪市長に働きかけた。地元にも呼びかけたこの顕彰運動は、次第に活発になりだした。

そこで、大阪市「ゆとりとみどり振興局」が18年度から2年計画で、前述の「記念碑」と「春風橋」の間にある、市有地1.1hrの土地に、約3億5千万円をかけて「蕪村公園」を整備する計画がまとめた。

同「蕪村公園」には、蕪村の俳句や絵画を展示し、句会もやれる「東屋」を建てるほか、公園内には大きな広場、その周辺には蕪村の俳句碑や絵画に因んだ樹木の植栽をする計画。そして大阪が輩出した蕪村に親しみ、また俳句愛好家が集まる文化集客地にしたいと大阪市は方針を決めて、創設した。(結果的には、管理上の問題から「東屋」は見送られた。)

蕪村公園は、全国的に知られた大阪桜の名所「毛馬桜の宮公園」の北端に位置し、国の重要文化財「毛馬閘門」の側にあり、市の中心地中之島へと通じる「大川沿いの桜回廊」の出発点となった。まさに文化情緒の端緒となる集客観光名所が出来上がった。

大阪市やわれわれが、蕪村公園の名をあげて蕪村を顕彰し、俳句文化振興に貢献していけば、俳句に惹かれている国内外の人たちの集客にも結びつき、華やかな大阪を取り戻せるだろう。顕彰される蕪村本人もご満足ではないだろうか。(了)

2018年04月03日

◆韓国「青瓦台」襲撃未遂事件

                  毛馬 一三


北朝鮮と韓問の間は融和維持のムードが漂う現状を考えていた時、ふと1968年に北朝鮮ゲリラが韓国大統領府「青瓦台」襲撃未遂事件のことを、思い出した。

私は当時NHK大阪局の府庁記者クラブのキャップをしていたが、同事件に深い関心を覚えたため、休暇をとって単独で渡韓し、既知の有力新聞社社長の紹介で政府公安機関の要人と面会し、事件の「詳細」を個人的に“取材”した。

その取材内容の詳細は、「公」には出来なかったが、思い出した序に、書斎に補完していた当時の「取材メモ」を探し出し、あらためて読み直してみた。

その韓国青瓦台奇襲は、1968年1月21日夜10時を期して決行する命令が、金日成首領から金正泰を通じて出された。青瓦台奇襲部隊は組長の金鐘雄大尉(事件後4日目に射殺)ら31名で、唯一生き残った金新朝も一員だった。

全員が機関短銃1丁(実弾300発)、TT拳銃1丁、対戦車手投げ弾1発、防御用手投げ弾8発と短刀で武装した。

奇襲部隊は、1組が青瓦台の2階を奇襲して朴正煕大統領と閣僚を暗殺、2組は1階を襲撃して勤務員全員を殺し、3組は警備員、4組は秘書室全員射殺というのが任務だったという。

16日の午後、黄街道延山基地を出発。途中軍事休戦ライン南方の非武装地帯を緊張しながら訓練通り過ぎ、ソウルに真っ直ぐのびる丘陵を辿った。歩哨所や検問に遭遇しなかったため。金組長は「南」の士気が乱れている所為だと勘違いした。このため、31人全員が隊列を組んで俄かに堂々と行軍するという行動に出た。

だが行軍しているうち、「戸迷い」にぶち当たった。所持した地図に従いソウルにいくら接近しても、「北」で教育されたような荒廃している筈のソウル市街は21日の夜になっても現れてこない。

南下すればするほど煌々とした市街地が現れてくるばかりだ。「これはソウルではない」。「じゃ、一体ここは何処なんだ」。「北」の教育が間違っているとは、一瞬たりとも気付かないミスを更に重ねた。

その上に韓国軍の服装、装備に身を固めている限り怪しまれることはないと思い上がった金組長が、敵地で初めて出会った韓国人2人に「訓練中に道に迷ったのだが、ソウルに行く道を教えてくれないか」と、さりげなく問うた。

奇襲隊に遭遇した2韓国人は、ソウルへの道筋を一応教えたものの、不審に思ったのだ。

<眼下に広がるソウルを韓国軍人が知らないなんておかしい。発音も韓国訛ではない。まして前年6月から「北」の武装スパイが上陸して韓国軍から射殺された事件も2人は知っていた>。2人は急ぎ山を降り、警察に通報した。

奇襲隊は21日夜9時、ソウル北方紫霞門の坂道を通過しようとして、警察の検問にひっかかった。尋問を受けた奇襲隊は慌てて機関短銃を乱射し、市バスと民家に見境なく手投げ弾を投げた。

奇襲隊は、青瓦台の800m手前まで迫りながら、韓国軍と警察の掃討作戦によりちりじり撃退された。2週間に及ぶ掃討作戦により、金新朝1名が逮捕され、他は全滅させられた。この銃撃戦で韓国側は、崔警察署長を含め68名が死亡している。

序でながら私の「メモ帳」を見ると、青瓦台襲撃に失敗した「北」は、10ヶ月後の11月2日、襲撃組長金鐘雄大尉ら31名の同期生120人のいわゆるゲリラ別斑が、韓国慶尚北道蔚珍郡と荏原道三に海上から「南」に進入している。

このゲリラ隊は、山岳地帯の小部落を武力で占領、赤化せよという工作命令を受けていた。部落民を集めて赤化を強要する「部落拉致事件」。事実従わない者は短剣で刺し、石で殴り殺すという虐殺を行っている。

「共産党は嫌い」と叫んだ李承福という10歳の少年の口を引き裂いて殺した。断崖絶壁をロープでよじ登り、部落を占領して住民を」拉致し、赤化地帯にするという想像を絶するこの「北」のゲリラ事件は、何故かわが国では余り知られていない。

「メモ帳」を見返しながら、これら青瓦台襲撃未遂事件、文世光事件がつながり、「北」による日本人大量拉致事件にも結びついていると、改めて考える。

「北」はこのような稚拙な急襲攻撃をすることは無いだろう。今後対韓にこれを背景に果たして今のどのような融和維持行事に生かして行くのだろうか。
  

2018年03月29日

◆大阪は本当に「日本最貧!?」か?

 毛馬一三


大阪の経済について、米ニューヨーク.タイムスが<意気消沈するニッポン>と題した特集記事を載せたのを思い出した。

特集記事によれば、<(あれほどリッチだった日本が)これほど急激に経済が逆転してしまった国は世界でも珍しい>と、日本経済の有り様を指摘していた。

その上で、何と<そんな凋落ニッポンの“象徴”が「大阪」なのだと書き立てている>のだ。

しかも、<誇り高き商都・大阪では、商人たちが極端な行動に走り始めている。街には10円で缶入りドリンクを売る自販機が並び、レストランに行けば50円でビールが飲める>と書き、<日本のデフレスパイラルを激化させるだけだ>と切り捨てている。

ただ、今は諸外国の旅行者が近畿の歴史建造物や独特景観を楽しんだあと、浪花の街を参遊に来て賑わっていることは事実だ。

当時は、商都大阪はコケにされたが、それで良かったのか。

たしかにあれほど賑わっていた歓楽街・北新地の閑散ぶりは目に余るものがあり、今では土曜日に営業している店はほとんど無く、居るのは人待ちタクシーばかりだ。とは言え、この閑散ぶりが大阪低迷の総てを語るものではなかろう。

街歩きが好きな大阪の知人数人に聞いてみても、10円の自販機など北と南の繁華街で見たことは一切無く、ましてや50円ビール看板に出会ったこともないという。早い話、NYタイムスの記事は、ゴミ箱をほじくった類の記事だと見下す。

NYタイムスは、大阪商人の商売根性を知らないようだ。どうやら浪速商魂とデフレ化とを混同しているとしか思えない。

驚くような「値下げ」して商売するのは、決して商買破綻の表れではない。ましてやデフレの象徴でもない。

「労せずしてカネ儲けは出来ない!」ことを家訓とする商家では、大根1本でも鮮度に合わせだんだんと値下げをしながら、その日に売り捌き、元を取ってしまえば、残りはタダにする。これが次に繋がると考えるのが浪速商法だ。

「常に人のせんことをしなはれ」と真似らない知恵を出せ。万一真似られても「古井戸と知恵は枯れぬ」の例え通り、汲めば汲むほど湧き出るものだ。
<あきない夜話・和田亮介著>

つまり、浪速商法を「永続」したいと思えば、「利を取るより(信用)をとれ」と戒め、買い手を楽しませ、買い手側に喜ばれる方法で商売を乗り切れとの定法を取ってきたのだ。

NYタイムスが載せた大阪・千林商店街では、第3回の「100円商店街」を開催した。食料品・衣類・雑貨アクセサリーなど153店舗が100円均一の品揃えをして販売したので見学に行って見たが、予想を越える賑わいだった。

タイムスが載せた<結果は、皆を落胆させるばかりだった>との記事は、とても想像できないことだった。

いずれにしても、「安い値段」が「商都大阪のデフレ」を見せつけ、「凋落ニッポンを象徴している」という見方は、皮相的であり、真実を伝えていない。

外国人の集客を拡大して将来の浪速商法を発展させるために、長期視野にたった「知恵」を絞って商いをしている実像を、NYタイムスはよく見極めて欲しいものだと思う。(了)                 加筆再掲                   


2018年03月15日

◆「黄砂アレルギー」に注意

毛馬 一三


花粉症歴の経験が全く無い筆者にとって、軽い風邪症状の一種かなと思って、余り気にも止めていなかった。

ところがとんでもない。次第に喉の違和感が痛みを伴うようになり、咳も痰も出るようになった。

そこで、慌てて近くの内科診療所に飛び込んだ。内科医は喉の症状を見た途端、「炎症がひどいですね」という。「原因は?」と訊いたら、「飛来してくる黄砂の黴によるものと思われます。花粉症ではありません」と教えてくれた。

同医師によると、黄砂によるいろんな健康被害で訪れる患者が、急増しているという。同医院から、

・抗生物質―フロモックス錠100mg(毎食後1錠・3日間分)
・咳を鎮める薬―メジコン錠15mg(毎食後2錠・7日分)
・痰や膿を薄めて、痰や鼻汁を出しやすくする薬―ムコダイン錠500mg(毎食後1錠・7日分)
・胃薬―セルベックスカプセル50mg(毎食後1カプセル・7日分)薬を貰った。

だが、マスクを付けて外出を余儀なくさせられた1週間が過ぎても喉の炎症と咳、痰共に治まる気配が無い。再診の結果、まだ喉の炎症は完治してないと診断され、改めて下記の薬を貰った。

・咳を鎮める薬―メジコン錠15mg(毎食後2錠・7日分)
・痰や膿を薄めて、出しやすくする薬―クリアナール錠200mg(毎食後1錠・7日間分)
・炎症を抑えて腫れや痛みを和らげる薬―ダーゼン5mg錠(毎食後1錠・7日分)
・SPトローチ0.2mg(28錠・1日4回)
・アズノールうがい液4%(5ml・1日4回)

2度目の薬を飲んだり、うがいを励行したところ、数日が経過してやっと喉の痛みや違和感がなくなり、咳と痰も出なくなった。

喉にこのような強度な症状が出たのは初めてのことだ。しかも気にはなっていた飛来の「黄砂」によるものだ。

今強烈になっている中国の大気汚染と原因が重なっているらしく、中国から飛来する「黄砂と大気汚染」が、日本に被害をなすりつけているのだ。気象庁も「中国で黄砂が急激に発生してる」と指摘している。日本が被害者になるのか。無性に腹が立つ。

話は後先になるが、<黄砂(こうさ)とは、中国を中心とした東アジア内陸部の砂漠または乾燥地域の砂塵が、強風を伴う砂嵐などによって上空に巻き上げられ、春を中心に東アジアなどの広範囲に飛来し、地上に降り注ぐ気象現象。あるいは、この現象を起こす砂自体のこと>である。

細かい砂の粒子や、粒子に付着した物質、黄砂とともに飛来する化学物質などにより、さまざまな健康被害が生じる。

即ち、咳、痰、喘息、鼻水、痒みといった呼吸器官への被害や、目や耳への被害が目立つ。黄砂が多い日には、花粉症、喘息、アトピーなどのアレルギー疾患の悪化が見られる。>という。 
参考―フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

花粉症で悩まされるだけでなく、黄砂アレルギーで健康被害を煩わされるのでは、堪ったものではない。

ところが肝腎の黄砂による呼吸器官への被害が、増えていることにはあまり知られていないようだ。

黄砂の飛来が顕著な九州や関西では、既にこの被害が出て問題化しているが、全国にも広がるだろう。

黄砂の飛来が予測される時は、TVの「天気予報」で早めに知らせてほしい。

しかも喉などに異常を感じたら、医療機関で診察を早めに受けられることをお勧めしたい。(了)     


2018年02月14日

◆大阪を行脚していた与謝蕪村

                          毛馬一三

江戸時代中期の大阪俳人で画家である与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれている。生誕地が大阪毛馬村と余り周知されていない事実のことは本誌で既に触れている。

しかし、蕪村が俳人として大阪の中心部を活躍の舞台にしていたことには触れていない。
むしろそれに気づかなかったのが本当のところだ。それはこれから追々。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸に下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な郷愁は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

おそらく、京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲からも過酷ないじめに遭わされたことなどから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。

しかも蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だ。だが、どうしてこんな超有名な俳人に師事し俳諧を学ぶことができたのか、田舎の毛馬村と江戸との結びつきや、師匠との今謂うコネがどうして出来たのか、ミステリーだらけだ。この時蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。


<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、頻繁に大阪にやって来ていたことが、最近分かってきた。船から陸地に上がったのは、生誕地毛馬村とは全く正反対西側の淀屋橋や源八橋からで、ここから大阪市内にある数多くの門人らを訪ねて回っている。

蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ね、大阪の蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回っている。大阪市内の各地を回ったことになる   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

早い話、蕪村にとり大阪は活躍の場だった訳だ。これもあまり知られていない。

こんな折、驚く情報と嬉しい要請が飛び込んでいた。

大阪市北区梅田に茶屋町がある。ところがここに「菜の花や月は東に日は西に」の蕪村句を刻んだ高さ1m、幅50cmの碑があるのを初めて目撃した。この地では一昨年から地域の有志が「菜の花」を植え、「菜の花の散歩道」というまち起こしイベントを催している。

この句を、この茶屋町で蕪村が出句したかどうかはわからないが、北区茶屋町のこの周辺に蕪村が立ち寄っていたことは事実なので、これに因んでイベントを企画したという。(了) 

2018年01月04日

当分の間、休刊です。ご芳情に感謝します。

当分の間、休刊です。ご芳情に感謝します。

2017年12月13日

◆「馬」の渡来地先は大阪四條畷市

                            毛馬一三

わが国古代王朝の威光を軍事面で支えた「馬」の渡来終着先が、なんと大阪府四条畷市であることを知らされ、ビックリした。

大阪湾(古代は難波津)に接している大阪柏原市に鉄技術、堺市に土器焼成技術が古代に朝鮮半島から渡来していたことは知っていたが、まさか生駒山系が迫り、大阪湾と些かも面していない四条畷市が、「馬」の渡来終着地だったとは夢にも思っていなかった。

ところが、先般四條畷市主催の会合で、古代王朝や豪族たちの権力の象徴となる「馬」の渡来先が四条畷市で、これを証明する「蔀屋北遺跡(しとみやきたいせきあと)」が、四條畷市にあることを知らされたのだ。

四條畷市の西にある現在の寝屋川は、古代には難波津に繋がる海路ルートとなっていた。しかもこの海路の条件と、清い水と牧草に恵まれた肥沃大地の馬飼いの環境が見事に合致したことから、ここが朝鮮半島からの渡来先の終着地になったらしい。

しかも、四條畷を南北に横たわる生駒山系を越えれば、比較的なだらか下り坂となり、「馬」に負担を掛けず「大和」へ供給できた立地の良さが王朝・豪族に認められ、四條畷(当時・讃良)を「馬」の機動力を軍事制度に組み入れる「馬飼いの里」として定着させたという。

朝鮮半島からは、比較的穏やかな初夏の海に「馬」を乗せた丸木船を2ヶ月かけて、玄界灘から筑紫(福岡)・豊浦(下関)・瀬戸内海、そして大阪湾(難波津)を経て、河内湖から寝屋川を通じて「蔀屋北遺跡」に辿り着いている。「馬」に同伴してきた渡来人もここに定住したそうだ。

そう云えば、「国内最古 馬の乳歯 四條畷」という記事が出ていたことを思い出した。

四條畷市の「蔀屋北遺跡」で、国内最古となる5世紀中頃の馬の乳歯が2頭分、大阪府教委の調査で出土した。2〜2歳半とみられ、同時期の遺跡で、若い馬の存在が確認されたのは初めて。

同遺跡は、国内で初めて馬を本格的に飼った牧場とされ、府教委は「朝鮮半島から子馬を船に乗せて連れてきたか、生まれた子馬を飼育し、軍馬として増産したとみられ、国内最初期の馬生産の実態がわかる」としている。


3世紀の中国の史書「魏志倭人伝」に、日本に馬はいないと記されており、5世紀頃、朝鮮半島から馬と乗馬の風習が伝わったとされる。(略)
松井章・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長(動物考古学)は「乳歯はもろく、「蔀屋北遺跡」からの出土は珍しい。馬飼が、大規模に馬を生産していた様子がうかがえる」と話している。

たしかに「蔀屋北遺跡」とその周辺から、これまでに丁寧に埋葬された馬の骨(性別は不明)や永久歯計約500点、それにアブミ、鹿角製のハミ、鞍などの馬具も出土している。総数26基の井戸も発掘されており、このうち7基は、「馬」運びに使った舟を転用して、井戸枠を作っているのが分かっている。

その船は、西都原式といわれる準構造船で、実物が日本で初めてこの「蔀屋北遺跡」で発掘されている。復元船は、全長10b、幅1b、10人乗りの船。航海は2ノットぐらいの速度の船団だったと専門家は説明しているが、果たして1隻の船に一体何頭乗せて来たかは明らかではない。

四條畷市の「馬飼いの里」で繁殖された「馬」は、王朝や豪族の間で軍事・通信・運輸の活用に重用され、いわゆる権力誇示の証とされた。それだけに四條畷市の「馬渡来の終着地」の意義と「馬飼いの里」からの「馬」の供給価値が、権力側から高く受け入れられていた。

しかし文武4年(700年)になると、天皇に献上する公の牧場が諸国に作られ始められるようになり、そののち平城京遷都の時には、騎兵500人が威儀を正して行進し、「馬」が国家の資としての威容をみせつけている。

こうした時代の変遷のともない、平城京遷都の頃には、四條畷市の「馬渡来の終着地」の役割は終焉し、「馬飼いの里」は姿を消したという。

名所旧跡の多い大阪四條畷市では、こうしたあまり知られていない歴史を積極的に広報して、まちへの集客へ繋げる「観光政策」に力を入れたいそうだ。(了)
 参考―四條畷市立歴史民族資料館刊「馬は船にのって」   

2017年12月08日

◆懐かしい博多弁

                            毛馬 一三

恒例だった「俳句講座」は、今年の蕪村生誕300年記念の年に合せて、9月に行った「13期蕪村顕彰全国俳句大会表彰式の終了」に合わせて、残念にも終了して仕舞った。

同講座が続いていた折のことだが、講座受講生で、同じ福岡高校卒の盟友5人と帰り道、いつもの喫茶店でコーヒーを飲みながら雑談を交わしていた。その雑談も出来なくなって仕舞って心が痛む。(5人の盟友とは、増田  、渡邊征一郎、香月、残り2名―フルネームで。)。

そんな時、ふとその時のことを想いだした。

その時の一幕。
盟友のひとりの渡邉征一郎君が、福岡から持ち帰ってきた「博多かるた」を披露した。高さ17p、幅12p、厚さ3pの箱入りの新「かるた」<博多を語る会編・西日本新聞社刊>で、ユーモラスな絵に面白い解説書きが添えられた異色の「かるた」だった。

「かるた」には、「博多の行事・祭事・博多弁」が、「いろは順」で構成されている。熟視するほど、懐かしい「博多情景」が飛び出してくる。全員が、この異色「かるた」を凝視した。

私は筑後出身で、私以外は、全員が博多っ子。たまに帰省することはあっても、郷里を離れて4〜50余年経つため、「博多弁」はすっかり皆忘れている。そのためか、少しでも記憶を呼び戻そうと気持ちを昂ぶらせながら見入っていた。

良かったことは、同「かるた」に、解説書が付いていたことだ。解説を読めば、「札」の文意がわかるようになっている。そこで「かるたの博多弁」思い出して、「この通りやな」と、頭を掻きながら大阪弁で呟く盟友もいた。

ところが、解説書を読んでも、何のことか分からない「博多弁」が沢山あった。例を上げると、「そ」の札。「そおついて わかる博多のよかところ」と解説に書いてある。「そおついて」って何?皆、首を傾げる。

<古代から大陸との文化交流の地だった博多には、いたるところに名所旧跡、歴史の地がある。ゆっくり町を「そおついて」(歩いて)回ると、路地裏のようなところにも、隠れた歴史を発見できる>と、解説書にはある。

なるほど、そんな意味の「博多弁」だったのか。

「かるた」が持ち込まれたことで、久しぶりに「博多弁や博多行事等」が話題となって楽しいひと時を過ごせた。しかし肝腎の郷里「博多弁」をすっかり忘れて仕舞っていたことに、お互い苦笑いすることが何時ものことだった。

実は、私の故郷は久留米。これまた博多弁と久留米弁とはまるきり違う。越境入学で受験高の福岡高校に入学したのだが、入学当時は、博多弁で授業する先生の言葉になかなか慣れず、仲間つくりにも苦労した。でも3年間経つ内に、何とか博多弁に馴染み、言葉の情緒も分かるようになった。

その後、東京の早稲田大学を経てNHKに入局して記者になった。とはいえ、私にとって博多弁は第2の故郷弁だ。なのに、純粋の博多っ子の盟友たちですら、懐かしい「博多弁」を咄嗟に思い出せないのには、聊か驚いた。時節の経過が災いする忘却の仕業なのだろうか。

そこで、懐かしい「博多弁」を、ウイキペディアを参照しながら、改めて頭の中に蘇らせみた。

<名詞>
•「かったりこうたい」…交互に。交代交替。
•「きさん」…貴様。
•「ど (ん) べ」…最下位。
•「こす」…こすいこと。
•「せこ」…せこいこと。
•「ちかちか」…チクチク
•「ごりょんさん」…主婦。

<動詞>
•「おっせこっせする」{サ行変格活用} …時間に追われてバタバタする。
•「くらす」 {サ行五段} …殴る。(「喰らわす」から)
•「くちのまめらん」{ラ行五段}…呂律が廻らない。
•「おらぶ」{バ行五段} …叫ぶ。
•「からう」{ワ行五段} …背負う。
•「きびる」{ラ行五段} … (紐などで) 縛る、束ねる。
•「こずむ」{マ行五段} …積み上げる。
•「ずんだれる」{ラ行下一段} …だらしない。
•「ぞろびく」{カ行五段} …引きずる。
•「たまがる」{ラ行五段} …びっくりする。
•「ねぶる」{ラ行五段} …舐める。
•「ねまる」{ラ行五段} …腐る。
•「のうならかす」{サ行五段} …なくす。
•「ねぶりかぶる」{ラ行五段} …うとうとする
•「腹かく」{カ行五段} …腹が立つ、苛立つ。
•「はわく」{カ行五段} …ほうき等で掃く。
•「ほがす」{サ行五段} …穴を開ける、穿孔する。
•「ほとびらかす」{サ行下二段} …ふやかす。
•「まどう」{ワ行五段} …弁償する。

<形容詞・形容動詞・副詞・連体詞>
•「しゃあしい (か) 」(語源は「せわし」)「じゃかしい (か) 」「せからしい (か) 」{形・シク} …うるさい、騒がしい。「そわそわすんな。しゃあしかぞ」[共通語訳]「そわそわすんな。気が散る。」
•「しょんない」{形・ク} …仕方ない。
•「しかたもない」{形・ク} …1. くだらない。どうでもいい。2. 期待して損する。
•「いっちょん」{副} … (否定語を伴って) 少しも。全然。
•「えずい」{形・ク} 怖い。
•「すいい」{形・ク} …酸っぱい。
•「そげな」{連体} … そんな。「そ」+「が」+「やうなる」
•「そげん」{副} … そんなに。そんなこと。そんなふうに。「そ」+「が」+「やうに」
•「どげな」{連体} … どんな。
•「どげん」{副} … どんなに。どう。どんなふうに。
•「なし」「なして」{副} …なぜ、どうして。
•「いたらん」{連体} …余計な。多くは「いたらんこと (するな / 言うな) 」の形で使用される。
•「なんかなし」{副} …とにかく。「なんかなし、電子辞書ば使わんで紙の辞書ば使うて見れ」>。

まだまだ懐かしい「博多弁」は沢山ある。どうか博多から離れてお暮しの方が、博多で過ごされた時のことをこの「博多弁」から思い出して頂ければ幸いだ。(了)   

2017年12月06日

◆江戸俳諧の俳人蕪村の名を広めよう

毛馬 一三
                  
   
「蕪村公園」は、大阪市毛馬町の毛馬桜ノ宮公園の北端、毛馬閘門近くの大川沿いに大阪市が平成20年に造営した。

これで、都島南端、川崎橋あたりまでの毛馬桜ノ宮公園迄との道筋が完成することになり、春に桜の咲くころには大川河畔が新名所として市民が楽しむことが出来るようになった。

与謝蕪村は、松尾芭蕉、小林一茶と並んで江戸俳諧を代表する俳人だが、その蕪村の生誕地が何処かということになると、あまり知らない人が多い。

蕪村は、享保元年(1716)に大阪毛馬村の裕福な農家の主人と奉公人の母との間に生まれた。家督を引き継げない私生児にすぎなかった。その上不幸にも幼くして両親が亡くしため、家人から総いじめされたからか、この辛苦に耐えられず、蕪村は17歳の頃毛馬村を出奔して、江戸に出奔を決意。家出して京都に向かった。

京都で人生を定めることになると人物俳人早野巴人と出会っている。早野巴人を師匠にして俳句を学びながら一緒に暮らしていたが、その後、二人は江戸に旅たった。

江戸では、早野巴人の真弟子として俳諧の世界に没入したが、頼りにしていた早野巴人師が急没して仕舞った。蕪村が26歳の時だった。師匠の急逝を悲しみつつも、新しい「俳句の世界」へ身を投じなければと決断。かねてから愛着のあった芭蕉俳句を追求するため、芭蕉が訪ねて廻った奧羽地方を放浪した。

宝暦元年(1751)になって、京に移り俳諧に挑む一方、南宋画家として励み、池大雅と並ぶ名声を得るようになった。その上、蕪村は、早野巴人を継いで「夜半亭」(初代巴人)主宰となった。

蕪村は京都で68歳の生涯を閉じたが、終生故郷の毛馬村には一度も帰っていない。しかし蕪村にとっては、生まれ故郷毛馬村の「慕情」は消えることは無く、この想いを脳裡に巡らせながら、書き記した「春風馬堤曲」がある。奉公娘の帰省の物語になぞって書き綴り、俳句を添えて「望郷」の念を一気に発散させている。

いまだに大阪には、蕪村に関する「伝承文献」は皆無だ。しかも明治19年に政府による淀川の河川改修工事によって毛馬村が総て埋め尽くされたため、生誕地の痕跡も一切残されていない。これが長い間、大阪俳人の蕪村を顕彰することが出来なかった主因なのだろう。

しかし、明治になり正岡子規が「蕪村俳句」を顕彰するようになったが、それでも地元大阪では依然として関心が薄く、蕪村顕彰には誰も手を付けなかった。

そこで10年ほど前、地元の有力市議会議員と私が共同して「蕪村顕彰公園」建設を大阪市政に働きかけた。大阪俳人蕪村を大々的な顕彰しようという運動は、嬉しいことに活発になりだした。

この運動も契機となり、大阪市は平成18年度から2年計画で、前述の「記念碑」と「春風橋」の中間にある市有地1.1hrの土地に、約2億5千万円をかけて「蕪村公園」を整備することを決定。

同「蕪村公園」には、公園の中央に大広場、公園全体に「蕪村俳句石碑」の建立、「自画絵、春風馬堤曲」などの「蕪村説明写真集」の掲示、公園全体には樹木植栽をする計画が立てられた。大阪輩出の与謝蕪村名を高揚し、文化集客地にしたいと大阪市は考えたのだ。

同公園は、重要文化財の「毛馬閘門」の側にあり、有名な「毛馬桜の宮公園」の北端に位置して、市の中心地中之島に通じる大川沿いの「桜回廊」の出発点になっている。「屋形船」や「遊覧船」の折り返し地点でもある。

さて、蕪村生誕300年を迎えた時、大阪毛馬町では、蕪村公園の南側にある「淀川神社」に住民の協力を得て1月に「蕪村銅像」を建立。5月には学者・俳句結社要人による蕪村生誕300年記念シンポジュームを盛大に開催した。

9月22日午後1時から、「蕪村300年祭」として、文化庁の後援を頂き、地元・全国・諸外国から応募される俳句作品を選考し「全国俳句大会表彰式」を行う。

要は、蕪村生誕300年の記念行事や蕪村逝去日の日にも多々の行事を行い、大阪毛馬生誕の俳人蕪村の顕彰と後世への伝承を強く進めていくことである。

元々蕪村公園の建立で、大川沿いの見事な桜回廊と繋がった一連の観光名所として、集客効果が進められ、生誕300年蕪村祭を、この蕪村公園の優れた姿の中で、これから種々進められる。

まずは、大阪市毛馬村にある「蕪村公園」に是非お訪ね頂きたい。序に生誕毛馬町に生還してきた蕪村の姿を、同公園横の「淀川神社に建立した蕪村銅像」を観ながら、蕪村想いを高揚して欲しい。

「皆様のお力をお借りして、蕪村俳句の後世への継承と俳句文化を、世界へ広める活動に、今後取り組んでいきたい」と決意して居り、是非ご賛同を願いたい。
 (了)


2017年11月30日

◆大阪にある「自然の滝」

毛馬 一三

大阪のまち中に、自然の「滝」があることを知ってる?と訊いても、多分大方の人は首を傾げるに違いない。ビルの屹立する大都会大阪のまち中で、そんな湧き水が集まり、「滝」となって流れ落ちる光景など想像出来ないからだろう。

紛れも無く私もその一人だった。が、つい先日知人が話の序でに教えてくれた上、そこに案内までしてくれたことがきっかけで、「大阪市内で唯一の滝」の在りかを知ることが出来た。

その「滝」は、大阪市市内の夕陽が丘近郊にあった。「玉出の滝」といった。聖徳太子が建立した四天王寺前の大阪市営地下鉄「夕陽ヶ丘駅」を出て谷町筋から西に向かうと、「天王寺七坂」や「安居神社」、「一心寺」など、寺社や名所が点在する上町台地の歴史のまち、伶人町の中にある。

その天王寺七坂のひとつ、清水坂を登り、細い道を行くと清水寺に着く。本堂の前を抜けて墓地に挟まれた石段にさしかかると、水音がかすかに耳朶を打った。足早にそちらに向かうと、目指す「玉出の滝」に着いた。

「玉出の滝」は、「那智の滝(和歌山)や不動の滝山(岩手)」のように山の頂上から滝壺めがけて怒涛のように流れ落ちる巨大な滝とはスケールが違う。

境内南側の崖から突き出した三つの石造樋から、水道水と同じ程度の量の水がまとまって流れ落ちる、こじまりとした滝だ。

しかし5メートル下の石畳を打つ三筋の水の音は、大きな響きを伴い、その響きは人の心の奥底の隅々にまで行き渡る、いかにも「行場の滝」という感じだ。

知人によると、この「滝」には、落水で修行する常連の人がいるが、新年には滝に打たれて、延命長寿などを祈願する人が訪れるという。

実は、この「玉出の滝」を見た瞬間、京都の清水寺にある「音羽の滝」と瓜二つだと感じた。私の亡くなった母親のいとこの嫁ぎ先が京都清水寺の皿坂にある清水焼の窯元だったので、そこに遊びに行った時見たのが、この「音羽の滝」だった。

案の定、この清水寺は京都の清水寺を、寛永17(1641)年に模して建立した寺で、かつては京の清水にあるような懸造りの舞台も存在していたらしい。

さて、大阪唯一のこの「玉出の滝」は、近くにある四天王寺の金堂の下の清竜池から湧き出る霊水が、ここまで流れてきて滝となっているという言い伝えもあるところから、大阪の歴史の香りと地形の面白さを感じさせてくれる。

余談ながら、この「玉出の滝」の側に、冒頭に記した「安居天神」がある。真田幸村の憤死の跡として知られている神社である。

大阪夏の陣で決戦を挑んだ西軍の真田幸村は、天王寺口(茶臼山付近)に布陣した。徳川方の主力が天王寺方面に進出してくることを予測してのことである。

真田幸村の狙いは、家康の首を取り豊臣家を再興させる戦略だった。真田隊は一丸となって突撃を開始、東軍の先鋒越前軍一万三千を撃破。ついに家康の本陣営に突入。この真田陣の猛攻で、家康の旗本は大混乱に陥り、ついに家康の馬印までが倒されたという。

馬印が倒されたのは、武田信玄に惨敗した三方ヶ原の戦い以来、2度目だった。家康も本気で腹を切ろうとしらしいが、側近に制止され思い止まる。家康が幾多の合戦で切腹の決断を迫られたのは、後にも先にも生涯でこれが2度目である。

だが、真田隊も猛反撃に遭って劣勢となり、今度は家康が、総攻撃を命じた。幸村の要請にも拘らず大阪城からの加勢は現れず、戦場で傷ついた幸村は、ここ「安居天神」の中の樹木に腰を下ろして手当てをしているところを、越前軍の兵に槍で刺され、落命した。

こんな大都会のまちのまん中で、行場ともいうべき市内で唯一の「玉出の滝」が、真田幸村の戦場の近くであったことなどと結びつけて思い馳せていくと、この小さい滝の周辺は見て回るだけでも楽しい歴史が蘇ってくる。(了)

2017年11月29日

◆淀川河底に沈んだままの蕪村の生家

 毛馬 一三                     

江戸時代の俳人与謝蕪村の生家は、淀川の河底に埋没しているのは間違いないのですが、一体河底の何処に埋没させられて仕舞ったのでしょうか。詳しい場所は未だ不明です。

確かに、大阪毛馬の淀川堤防に「蕪村生誕地」と書いた「記念碑」が建立されてはいます。しかし「蕪村生誕し幼少を過ごした生家」は、この場所ではないことははっきりしています。

実は「蕪村の生家」が、冒頭に記したように、淀川堤防から眼下に見える「淀川の川底」に在るのは事実です。なぜ淀川の川底に埋没されたのでしょうか。これは追々。

徳川時代の淀川は、よく手入れが行われていましたが、明治維新後は中々施されていなかったのです。ところが、明治18年に淀川上流の枚方で大水害が起き、下流の大阪で大被害を受けたことをきっかけに、明治政府がやっと淀川の本格的改修に乗り出しました。

その際明治政府は、単なる災害防止ためだけではなく、大阪湾から大型蒸気船を京都伏見まで通わるせる航行で「経済効果」などの多目的工事に専念することを決めました。

そのために淀川の河川周辺の陸地を大幅に埋め立て、それまでの小さな淀川を 大きな河川にする大改修を立案したのです。

これに伴い、旧淀川沿いにあった「蕪村生家」地域は埋め立ての対象となり、すべて「河川改修工事」によって川底に埋められて仕舞いました。

さて、明治政府は関西の大型河川・淀川を大改修するため、オランダから招いた河川設計者・デ・レーケとフランス留学から帰国していた設計士沖野忠雄とを引き合わせ、「淀川大改修」の設計を依頼しました。

明治政府の依頼を受けた2人は、「大改修工事」の設計を創り上げ、明治29年から工事を開始しました。

とにかくこの大型改修設計は、大阪湾に京都の宇治川や桂川、奈良からの木津川を中津川に合流させ、一気に淀川として大阪湾に繫ぐ、巨大な設計でした。

そうすれば貨物蒸気船を大阪湾と京都を結んで航行させることが出来、逆に京都・枚方などで大水害が起きた場合でも大量の水量をさらりと、大阪湾に流すことが出来るのです。二本立ての「効果狙いの設計」でした。

勿論、上流の災害で流出してくる「土砂」が、大阪に被害を与えないため「毛馬閘門」設計も創りました。

これが淀川から大阪市内に分岐させる「毛馬閘門」の設計主旨だったのです。この「毛馬閘門」からは、淀川本流から分岐して大阪市内へ流れる河川を設計しました。その河川の名を「大川」と名付けたのです。

この「大川への分岐設計」で、上流の水害に伴う土砂流失の回避は実現し、大阪の上流からの防災は、今日まで護られているのです。

このように2人による設計書は、世界の河川工事技術水準に準じたもので、明治政府が施工した「河川大改修工事」としては全国的に見ても画期的なものでした。

同工事は、明治29年から明治43年まで行われ、設計通り完成しました。

ここから本題。この「河川大改修工事」によって、与謝蕪村が生まれ、幼少を過ごした大阪市都島区毛馬町(摂津国東成郡毛馬村)は、跡形もなく淀川に埋没させられ、深い川底に沈んで仕舞いました。

明治政府の強制でしたから、当時の住民は仕方なくそれに従ったようですが、川幅も660b(従来の30数倍)となり、浅かった河の深さも5bの巨大河川に変容したのです。

この住居埋没の強制工事で、前述の如く、蕪村の生家(庄屋?)は勿論、お寺、菜の花畑、毛馬胡瓜畑跡などの、当時の地域の様子は皆目全くわかりません。今は淀川の毛馬閘門近郊にある蕪村記念碑から、淀川の眼下に見える川底が「蕪村が幼少を過ごした生家地域」だと想起出来るだけで、寂しい限りです。

淀川近郊の蕪村家(庄屋)の後継者の方といわれる毛馬町の家を訪ね、「家歴」を伺いました。しかし、「地図」も無いし、お寺も埋没して「過去帳」もないために、蕪村生誕地が淀川の河底にありことは間違いないですが、今でもどのあたりの河底にあるのか分かないのです。」という答えが返って来ただけでした。

「蕪村生誕300年記念」を過ごし、大阪毛馬町の「蕪村公園」と通り過ぎて、「毛馬閘門」と「蕪村記念碑」ある淀川堤防の上から眼下に流れる「淀川」を見ながら、その河底に蕪村生誕地があることを想いつつ、蕪村が幼少期をここで過ごしたのかと、ゆったりと瞑想して欲しいですね。

ところで本題。淀川近郊の蕪村家(庄屋)は、大阪毛馬町に在る「淀川神社」の氏子でした。このため年間の祭事や祈願の折は、この「淀川神社」に父母と一緒に蕪村「幼名―寅」は、参詣に通ったことが、江戸時代の慣習から推察出来ます。

また蕪村が、毛馬村を出奔し江戸へ下る決意を固めた時、氏子の立場から毛馬町の「淀川神社」に心底参詣し、将来の生き方を祈願したことは、当然のことと考えられます。

そこで、今の毛馬町「淀川神社」の境内に、蕪村生誕300年の前年の12月21日、協賛者のお力を頂いて高さ1m60pの銅製の「蕪村銅像」を建立しました。

望郷の念の強い「蕪村」は、この「生誕地参詣神社に銅像が建立したくれた」ことに喜んでくれて、これから自ら進んでここに帰郷して呉れるでしょう。また「淀川神社」も、「蕪村参詣神社」として、後世に伝承されるでしょう。

蕪村生誕300年を終え、これからは芭蕉・一茶に肩を並べるような「蕪村生誕祭」を進めて行く私たちの決意です。どうか与謝蕪村に厚意を寄せられる方は、この「蕪村生誕祭」の運営を進める私たちにお力を貸してください。お願い致します。

取材先:国交省近畿地方整備局淀川河川事務所