2020年11月21日

◆万葉集に軍事メッセージ

毛馬 一三 

「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語では判読出来ない歌のほとんどを、韓国語で詠んでみると、「未詳歌」ではなく、総て読み明かせると聞いた事を思い出した。

しかもその「万葉集の未詳歌」には、当時の日本と百済との間で「軍事、政治に関する驚くべきメッセージ」が秘められているということだ。

この話をしてくれたのは、以前のことだが、韓国の著名女流作家、李寧煕(いよんひ)氏。韓国大手新聞社「韓国日報」の政治部長・論説委員長から国会議員を経て、韓国女流文学会会長を歴任された。ただ、今もご健在か確認出来ていない。

筆者は、以前「韓国日報」からの紹介で、李氏が来日された折、2日間、奈良県桜井の「万葉の道」やその周辺の「古代天皇古墳群」散策の案内役を務めた。

その時李氏が、こもごもと語ってくれたのが、この「万葉集」に秘められた日本と百済との「軍事、政治に関する驚くべき秘話」だった。

李氏が、日本の「万葉集」と関わりを持ったのは、国会議員だった当時、日本の高校の歴史教科書に韓国関係記述が歪曲されているという問題が提起されているということから、日韓両国国会議員による特別委員会を設け、事実調査を始めたのがきっかけだったという。

つまり、歴史書が歪曲されているかどうかに探るには、古代史にまで遡って検証する必要があり、そのためには両国歴史書に目を通すことだった。

その時、日本の「万葉集」に魅せられて仕舞ったというのだった。その瞬間から「万葉仮名」の研究に励み出されたそうだ。

「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語では判読出来ない歌のほとんどを、何と韓国語で詠んでみると、「未詳歌」ではなく、総て読み明かせること分かったというのだ。これは大発見に違いなかった。

帰国した李氏から、筆者に李氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」が送られてきた。読んでいくうち「日本語訳では見えない様々な謎」が書き込まれていた。その中に、特に注目すべき下記の記述があった。

<万葉集20巻、4516首の内に、日本語では判読できない、正式に「未詳歌」は「3首」があり、このうちの1首に恐るべきメッセージが織り込められている。

斉明天皇(655年即位)の心の中を、額田王(ぬかだのおおきみ)が代わって歌にしたのが、それである。

◆原文: 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念 <巻1の7・未詳歌>

・日本語で詠むと、(秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 刈廬(かりいほ)し思ほゆ)

「日本語解釈」では、下記のようになっている。
(秋の野の 萱(かや)を刈って屋根を葺き 旅宿りした 宇治のみやこの 仮の庵が思われる)。

この解釈だと、額田王が何を言いたいのか、さっぱり意味が伝わってこない。だからこの歌が、解釈不能または解意不明であることから、公式に「未詳歌」とされたのだろう。

そこでこの詳らかでないこの歌の原文を、韓国語で読んでみた・・・。すると、
(徐伐『そぼる』は 鉄磨ぐ 締め苦しむること勿れ 上の都は 刀来るぞよ 陣地固めよ)。

・韓国語訳―(新羅は刀を磨いで戦いに備えている。締め苦しめないといいのに・・・。吾がお上の、百済の都は、敵が襲ってくるから、陣地をお固めなされ)>。

李氏の韓国語詠みによる解釈によると、これは明らかに斉明天皇が「百済」に送った「軍事警告メッセージ」だということが、はっきりと分かる。

となれば斉明天皇が百済に、これほどまでの「国家機密情報」を送らなければならなかった理由があったのか、その疑問にブチ当たる。

<皇極天皇(斉明天皇と同じ・斉明天皇は二度即位)から斉明天皇の時代は、朝鮮半島では、新羅、百済、高句麗の3ヵ国の間が緊張状態にあった。

この歌(皇極時代の時の648年に入手していた機密情報)は、斉明天皇に即位してから、額田王に作らせた歌だ。百済が、新羅・唐連合軍に滅亡させられた661年より13年も前のメッセージだから、このメッセージ自体には「歴史的真実性」がある。

実は斉明天皇は、百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、百済を援けるため、難波(大阪)で武器と船舶を作らせ、自らその船に乗り込んで瀬戸内海を西に渡り、百済とは目と鼻の先の筑紫(福岡)の朝倉宮で新羅・唐との戦争に備えた。

だが斉明天皇は、遠征軍が百済に出陣する直前、その意志に貫けず、出陣先の筑紫(福岡)で亡くなった。

斉明天皇の異常なまでの「百済贔屓」について日韓学者間では、斉明天皇は実は、百済第三十代武王の娘の「宝」で、百済最後の王、義慈王の妹だった説がある>。

恐らく斉明天皇自身もさることながら、親族関係も「百済」と強力な血脈が在あったのではないだろうか。額田王の「万葉集」(未詳歌)歌に秘められた「軍事警告メッセージ」も、その視点で詠めば「未詳歌」ではなくなってくるような気がする。

ところが、「万葉集」を古代の珠玉の日本文学と仰ぐ人たちにとっては、この韓国語読みは認め難く、あくまで額田王作の「未詳歌」としてしか、今でも取り扱わない。

とは云え、このあと白村江の戦いの敗戦(663年)まで、百済国の救援にこだわり続けてきた日本の歴史を見れば、日本と百済との関係は極めて緊密であったことは明らかだ。

だとすれば、万葉集愛好家も「万葉集の未詳歌」に、韓国語で詠み明かされる新たな視点を投げかければ、「万葉集」珠玉を更に広げることになるのではないだろうか。詠みを広げてみては如何。

(了)    (修正加筆再掲)

参考―・李寧煕氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」

2020年11月14日

◆淀川河底の「蕪村の生家」と「蕪村銅像」

    毛馬 一三

                         
江戸時代の俳人与謝蕪村の生家は、淀川の河底に埋没しているのは間違いないのですが、一体河底の何処に埋没させられて仕舞ったのでしょうか。詳しい場所は未だ不明です。

確かに、大阪毛馬の淀川堤防に「蕪村生誕地」と書いた「記念碑」が建立されてはいます。しかし「蕪村生誕し幼少を過ごした生家」は、この場所ではないことははっきりしています。

実は「蕪村の生家」が、冒頭に記したように、淀川堤防から眼下に見える「淀川の川底」に在るのは事実です。なぜ淀川の川底に埋没されたのでしょうか。これは追々。

徳川時代の淀川は、よく手入れが行われていましたが、明治維新後は中々施されていなかったのです。ところが、明治18年に淀川上流の枚方で大水害が起き、下流の大阪で大被害を受けたことをきっかけに、明治政府がやっと淀川の本格的改修に乗り出しました。

その際明治政府は、単なる災害防止ためだけではなく、大阪湾から大型蒸気船を京都伏見まで通わるせる航行で「経済効果」などの多目的工事に専念することを決めました。

そのために淀川の河川周辺の陸地を大幅に埋め立て、それまでの小さな淀川を 大きな河川にする大改修を立案したのです。

これに伴い、旧淀川沿いにあった「蕪村生家」地域は埋め立ての対象となり、すべて「河川改修工事」によって川底に埋められて仕舞いました。

さて、明治政府は関西の大型河川・淀川を大改修するため、オランダから招いた河川設計者・デ・レーケとフランス留学から帰国していた設計士沖野忠雄とを引き合わせ、「淀川大改修」の設計を依頼しました。

明治政府の依頼を受けた2人は、「大改修工事」の設計を創り上げ、明治29年から工事を開始しました。

とにかくこの大型改修設計は、大阪湾に京都の宇治川や桂川、奈良からの木津川を中津川に合流させ、一気に淀川として大阪湾に繫ぐ、巨大な設計でした。

そうすれば貨物蒸気船を大阪湾と京都を結んで航行させることが出来、逆に京都・枚方などで大水害が起きた場合でも大量の水量をさらりと、大阪湾に流すことが出来るのです。二本立ての「効果狙いの設計」でした。

勿論、上流の災害で流出してくる「土砂」が、大阪に被害を与えないため「毛馬閘門」設計も創りました。

これが淀川から大阪市内に分岐させる「毛馬閘門」の設計主旨だったのです。この「毛馬閘門」からは、淀川本流から分岐して大阪市内へ流れる河川を設計しました。その河川の名を「大川」と名付けたのです。

この「大川への分岐設計」で、上流の水害に伴う土砂流失の回避は実現し、大阪の上流からの防災は、今日まで護られているのです。

このように2人による設計書は、世界の河川工事技術水準に準じたもので、明治政府が施工した「河川大改修工事」としては全国的に見ても画期的なものでした。

同工事は、明治29年から明治43年まで行われ、設計通り完成しました。

ここから本題。この「河川大改修工事」によって、与謝蕪村が生まれ、幼少を過ごした大阪市都島区毛馬町(摂津国東成郡毛馬村)は、跡形もなく淀川に埋没させられ、深い川底に沈んで仕舞いました。

明治政府の強制でしたから、当時の住民は仕方なくそれに従ったようですが、川幅も660b(従来の30数倍)となり、浅かった河の深さも5bの巨大河川に変容したのです。

この住居埋没の強制工事で、前述の如く、蕪村の生家(庄屋?)は勿論、お寺、菜の花畑、毛馬胡瓜畑跡などの、当時の地域の様子は皆目全くわかりません。今は淀川の毛馬閘門近郊にある蕪村記念碑から、淀川の眼下に見える川底が「蕪村が幼少を過ごした生家地域」だと想起出来るだけで、寂しい限りです。

淀川近郊の蕪村家(庄屋)の後継者の方といわれる毛馬町の家を訪ね、「家歴」を伺いました。しかし、「地図」も無いし、お寺も埋没して「過去帳」もないために、蕪村生誕地が淀川の河底にありことは間違いないですが、今でもどのあたりの河底にあるのか分かないのです。」という答えが返って来ただけでした。

どうか大阪毛馬町の「蕪村公園」と通り過ぎて、「毛馬閘門」と「蕪村記念碑」ある淀川堤防の上から眼下に流れる「淀川」を見ながら、その河底に蕪村生誕地があることを想いつつ、蕪村が幼少期をここで過ごしたのかと、ゆったりと瞑想して欲しいですね。

ところで本題。淀川近郊の蕪村家(庄屋)は、大阪毛馬町に在る「淀川神社」の氏子でした。このため年間の祭事や祈願の折は、この「淀川神社」に父母と一緒に蕪村「幼名―寅」は、参詣に通ったことが、江戸時代の慣習から推察出来ます。

また蕪村が、毛馬村を出奔し江戸へ下る決意を固めた時、氏子の立場から「淀川神社」に参詣し、将来の生き方を祈願したことは、当然のことと考えられます。

そこで、今の「淀川神社」の境内に、私から呼びかけて協賛者のお力を頂き、「高さ1m60pの銅製の蕪村銅像」を建立しました。

望郷の念の強い「蕪村」は、この「生誕地参詣神社に銅像が建立した」ことに喜んでくれて帰郷して呉れるでしょう。また「淀川神社」も、「蕪村参詣神社」として、後世に伝承されるでしょう。

どうか「蕪村銅」のご拝観にきて頂くよう心からお願い致します。

取材先:国交省近畿地方整備局淀川河川事務所

2020年11月08日

◆忍者「曾良」が松尾芭蕉に随行した

毛馬 一三


本誌に掲載した拙稿「芭蕉終焉(しゅうえん)の地って?」の第2弾。

上記拙稿とは、松尾芭蕉の「終焉の地」が大阪・南御堂向かいにあった花屋仁左衛門の離れ座敷であったことや、辞世の句といわれる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」を、この座敷の床で亡くなる4日前に詠んだものであることを、筆者は不覚にも知らなかった。それを偶然このことを知る機会を得たことから、驚きに見合って綴ったものだった。

芭蕉は、大阪などで死ぬなど夢だに思いもせず、早く床払いをして好きな旅を続けたいとの気持であったと、様々な文献が記している。

だが、思いもよらず病(食中毒といわれる)は悪化、意に反して終焉を迎えるのだが、見守る弟子たちの顔を眺めながら「死」が迫るのを悟り、幸せな生涯だったと瞑目しながら、逍遥と死の旅についたようだ。

冒頭の拙稿に、「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏から下記の寄稿頂いた。

<深川・芭蕉記念館 は拙宅の近くです。徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。江戸の発展とともに新たな市街地、農地が必要となり、土地の開発が始まった。大阪からきていた深川八郎右衛門が新田を開発、慶長元年(1573年)深川村と称したのが始まり。

江戸の下町と言えばなんと言っても深川。出発地は都営新宿線森下駅。駅を出て新大橋通りを浜町方面に5分ほど歩いていくと隅田川にかかる橋が見えてくる。これがこの通りの名前になっている新大橋。橋の手前の十字路を左に曲がりしばらく歩いていくと、最初の目的地「芭蕉記念館」がある。

芭蕉は、延宝8年(1680年)江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ。元禄2年(1689年)3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる奥の細道。岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅。

「芭蕉記念館」には 当時、芭蕉が着ていた袈裟を初め芭蕉庵を模したほこら、句碑 などがある。記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり。川沿いの道を左に少し歩いていくと史跡庭園があり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。 先日来日した李トウキ前台湾総統もご覧になって行った>。

この寄稿を読ませて貰った時、芭蕉に纏わる新たな衝撃が脳裏を駆け巡った。それは、<徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。(そんな未開発の深川だったが、その深川から)元禄2年3月、「曾良」を随行して奥の細道の旅に出発した。(略)岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅>というくだりである。

江戸から東北、北陸地方を150日間で踏破した2400キロ(600里)の道程を踏破したと言うが、とんでもない距離だ。単純に計算すると1日16キロ歩いたことになる。だが当時の旅はそんな生易しいものではない。

江戸時代の元禄期といっても、 江戸から東北、北陸地方には、のんびり歩き通せる平坦な道が整っていた筈はない。ほとんどが山道・峠道であり、山を越えるしか方法はなかった。

筆者も、数年前福井の江戸時代以前からある「鯖街道」を歩いたことある。山道の勾配は天地の差ほどの高低を繰り返し上り下りした。山道もない場所は絶壁を横切るしかない。ましてや橋はほとんどなかった。大雨で河が氾濫、足止めを食うことも日常茶飯事だったろう。

「奥の細道」によると、2人は何と1日に48キロ(12里)を 歩いた日があったという。幾ら昔の人が健脚だったとはいえ、老齢の芭蕉(46)と随行者曾良(41)が、そんな長距離を1日で踏破できたと考えるだけでも、驚きが渦巻く。

だから、ここから「第2弾」を書きたくなったのだ。

つまり芭蕉は、こうした異常な歩き方の速さや、伊賀の上野の生まれであることから「忍者」ではなかったかと論じられてきた。それはまた別の機会に譲るとして、ここで気になるのは、むしろ芭蕉の弟子扱いをされた、「曾良」の方だ。

「曾良」のことは、純朴な芭蕉の巡教なお供だという印象が強く、「忍者」だとはあまり知られていない。

調べてみると、こんな具合だ。

<曾良は、幕府とのつながりが緊密で、当時日光工事普請を巡ってあった伊達藩と日光奉行の対立を探る秘密裡の調べを、幕府が「曾良」に命じられたという。その目的と行動を秘匿するため、芭蕉の旅を巧みに利用したというのが、専門家の間では定説となっている。

その「曾良」は、さらに社寺や港の荷役の動きを調べる秘密任務も担っていたらしく、北前舟が立ち寄る日本海沿岸の港として酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀を丹念に秘索して回っている痕跡が残されている。

その秘索行動が、なんと芭蕉の旅の日程と、無理なく調合する形になっている事実が証拠なっているのには驚かされる。

きっと幕府からの支度金が潤沢だったため、俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の興行収入だけでは吟行生計が出来なかった芭蕉の懐具合が、この「曾良」の秘行任務を受け入れざるを得ないことになり、随行を認めたものであろうと専門家は指摘する>。

こう見てくると、「曾良」という旅の随行者は、芭蕉に接近して仮弟子に登用してもらい、巧に芭蕉を利用して、幕府隠密の任務を隠密裡に遂行していった紛れの無い“忍者”だったのだ。

芭蕉の終焉の時、「曾良」のその床の横には居なかった。公務を理由に葬儀にも参列しなかったという。やはり芭蕉に心酔して傍に連れ添った弟子ではなかったのだ。

果たして「曾良」は、芭蕉の死後、幕府巡見使九州班員に正式に身を転じている。
               (了)              参考・ウィキべディア
           

2020年11月07日

◆「馬」の渡来地先は四條畷市

毛馬一三


わが国古代王朝の威光を軍事面で支えた「馬」の渡来終着先が、なんと大阪府四条畷市であることを知らされ、ビックリした。

大阪湾(古代は難波津)に接している大阪柏原市に鉄技術、堺市に土器焼成技術が古代に朝鮮半島から渡来していたことは知っていたが、まさか生駒山系が迫り、大阪湾と些かも面していない四条畷市が、「馬」の渡来終着地だったとは夢にも思っていなかった。

ところが、先般四條畷市主催の会合で、古代王朝や豪族たちの権力の象徴となる「馬」の渡来先が四条畷市で、これを証明する「蔀屋北遺跡(しとみやきたいせきあと)」が、四條畷市にあることを知らされたのだ。

四條畷市の西にある現在の寝屋川は、古代には難波津に繋がる海路ルートとなっていた。しかもこの海路の条件と、清い水と牧草に恵まれた肥沃大地の馬飼いの環境が見事に合致したことから、ここが朝鮮半島からの渡来先の終着地になったらしい。

しかも、四條畷を南北に横たわる生駒山系を越えれば、比較的なだらか下り坂となり、「馬」に負担を掛けず「大和」へ供給できた立地の良さが王朝・豪族に認められ、四條畷(当時・讃良)を「馬」の機動力を軍事制度に組み入れる「馬飼いの里」として定着させたという。

朝鮮半島からは、比較的穏やかな初夏の海に「馬」を乗せた丸木船を2ヶ月かけて、玄界灘から筑紫(福岡)・豊浦(下関)・瀬戸内海、そして大阪湾(難波津)を経て、河内湖から寝屋川を通じて「蔀屋北遺跡」に辿り着いている。「馬」に同伴してきた渡来人もここに定住したそうだ。

そう云えば、「国内最古 馬の乳歯 四條畷」という記事が出ていたことを思い出した。

四條畷市の「蔀屋北遺跡」で、国内最古となる5世紀中頃の馬の乳歯が2頭分、大阪府教委の調査で出土した。2〜2歳半とみられ、同時期の遺跡で、若い馬の存在が確認されたのは初めて。

同遺跡は、国内で初めて馬を本格的に飼った牧場とされ、府教委は「朝鮮半島から子馬を船に乗せて連れてきたか、生まれた子馬を飼育し、軍馬として増産したとみられ、国内最初期の馬生産の実態がわかる」としている。


3世紀の中国の史書「魏志倭人伝」に、日本に馬はいないと記されており、5世紀頃、朝鮮半島から馬と乗馬の風習が伝わったとされる。(略)
松井章・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長(動物考古学)は「乳歯はもろく、「蔀屋北遺跡」からの出土は珍しい。馬飼が、大規模に馬を生産していた様子がうかがえる」と話している。

たしかに「蔀屋北遺跡」とその周辺から、これまでに丁寧に埋葬された馬の骨(性別は不明)や永久歯計約500点、それにアブミ、鹿角製のハミ、鞍などの馬具も出土している。総数26基の井戸も発掘されており、このうち7基は、「馬」運びに使った舟を転用して、井戸枠を作っているのが分かっている。

その船は、西都原式といわれる準構造船で、実物が日本で初めてこの「蔀屋北遺跡」で発掘されている。復元船は、全長10b、幅1b、10人乗りの船。航海は2ノットぐらいの速度の船団だったと専門家は説明しているが、果たして1隻の船に一体何頭乗せて来たかは明らかではない。

四條畷市の「馬飼いの里」で繁殖された「馬」は、王朝や豪族の間で軍事・通信・運輸の活用に重用され、いわゆる権力誇示の証とされた。それだけに四條畷市の「馬渡来の終着地」の意義と「馬飼いの里」からの「馬」の供給価値が、権力側から高く受け入れられていた。

しかし文武4年(700年)になると、天皇に献上する公の牧場が諸国に作られ始められるようになり、そののち平城京遷都の時には、騎兵500人が威儀を正して行進し、「馬」が国家の資としての威容をみせつけている。

こうした時代の変遷のともない、平城京遷都の頃には、四條畷市の「馬渡来の終着地」の役割は終焉し、「馬飼いの里」は姿を消したという。

名所旧跡の多い大阪四條畷市では、こうしたあまり知られていない歴史を積極的に広報して、まちへの集客へ繋げる「観光政策」に力を入れたいそうだ。(了)
 参考―四條畷市立歴史民族資料館刊「馬は船にのって」   

2020年11月05日

◆万葉集に軍事メッセージ

毛馬 一三 


「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語では判読出来ない歌のほとんどを、韓国語で詠んでみると、「未詳歌」ではなく、総て読み明かせると聞いた事を思い出した。

しかもその「万葉集の未詳歌」には、当時の日本と百済との間で「軍事、政治に関する驚くべきメッセージ」が秘められているということだ。

この話をしてくれたのは、以前のことだが、韓国の著名女流作家、李寧煕(いよんひ)氏。韓国大手新聞社「韓国日報」の政治部長・論説委員長から国会議員を経て、韓国女流文学会会長を歴任された。ただ、今もご健在か確認出来ていない。

筆者は、以前「韓国日報」からの紹介で、李氏が来日された折、2日間、奈良県桜井の「万葉の道」やその周辺の「古代天皇古墳群」散策の案内役を務めた。

その時李氏が、こもごもと語ってくれたのが、この「万葉集」に秘められた日本と百済との「軍事、政治に関する驚くべき秘話」だった。

李氏が、日本の「万葉集」と関わりを持ったのは、国会議員だった当時、日本の高校の歴史教科書に韓国関係記述が歪曲されているという問題が提起されているということから、日韓両国国会議員による特別委員会を設け、事実調査を始めたのがきっかけだったという。

つまり、歴史書が歪曲されているかどうかに探るには、古代史にまで遡って検証する必要があり、そのためには両国歴史書に目を通すことだった。

その時、日本の「万葉集」に魅せられて仕舞ったというのだった。その瞬間から「万葉仮名」の研究に励み出されたそうだ。

「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語では判読出来ない歌のほとんどを、何と韓国語で詠んでみると、「未詳歌」ではなく、総て読み明かせること分かったというのだ。これは大発見に違いなかった。

帰国した李氏から、筆者に李氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」が送られてきた。読んでいくうち「日本語訳では見えない様々な謎」が書き込まれていた。その中に、特に注目すべき下記の記述があった。

<万葉集20巻、4516首の内に、日本語では判読できない、正式に「未詳歌」は「3首」があり、このうちの1首に恐るべきメッセージが織り込められている。

斉明天皇(655年即位)の心の中を、額田王(ぬかだのおおきみ)が代わって歌にしたのが、それである。

◆原文: 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念 <巻1の7・未詳歌>

・日本語で詠むと、(秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 刈廬(かりいほ)し思ほゆ)

「日本語解釈」では、下記のようになっている。
(秋の野の 萱(かや)を刈って屋根を葺き 旅宿りした 宇治のみやこの 仮の庵が思われる)。

この解釈だと、額田王が何を言いたいのか、さっぱり意味が伝わってこない。だからこの歌が、解釈不能または解意不明であることから、公式に「未詳歌」とされたのだろう。

そこでこの詳らかでないこの歌の原文を、韓国語で読んでみた・・・。すると、
(徐伐『そぼる』は 鉄磨ぐ 締め苦しむること勿れ 上の都は 刀来るぞよ 陣地固めよ)。

・韓国語訳―(新羅は刀を磨いで戦いに備えている。締め苦しめないといいのに・・・。吾がお上の、百済の都は、敵が襲ってくるから、陣地をお固めなされ)>。

李氏の韓国語詠みによる解釈によると、これは明らかに斉明天皇が「百済」に送った「軍事警告メッセージ」だということが、はっきりと分かる。

となれば斉明天皇が百済に、これほどまでの「国家機密情報」を送らなければならなかった理由があったのか、その疑問にブチ当たる。

<皇極天皇(斉明天皇と同じ・斉明天皇は二度即位)から斉明天皇の時代は、朝鮮半島では、新羅、百済、高句麗の3ヵ国の間が緊張状態にあった。

この歌(皇極時代の時の648年に入手していた機密情報)は、斉明天皇に即位してから、額田王に作らせた歌だ。百済が、新羅・唐連合軍に滅亡させられた661年より13年も前のメッセージだから、このメッセージ自体には「歴史的真実性」がある。

実は斉明天皇は、百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、百済を援けるため、難波(大阪)で武器と船舶を作らせ、自らその船に乗り込んで瀬戸内海を西に渡り、百済とは目と鼻の先の筑紫(福岡)の朝倉宮で新羅・唐との戦争に備えた。

だが斉明天皇は、遠征軍が百済に出陣する直前、その意志に貫けず、出陣先の筑紫(福岡)で亡くなった。

斉明天皇の異常なまでの「百済贔屓」について日韓学者間では、斉明天皇は実は、百済第三十代武王の娘の「宝」で、百済最後の王、義慈王の妹だった説がある>。

恐らく斉明天皇自身もさることながら、親族関係も「百済」と強力な血脈が在あったのではないだろうか。額田王の「万葉集」(未詳歌)歌に秘められた「軍事警告メッセージ」も、その視点で詠めば「未詳歌」ではなくなってくるような気がする。

ところが、「万葉集」を古代の珠玉の日本文学と仰ぐ人たちにとっては、この韓国語読みは認め難く、あくまで額田王作の「未詳歌」としてしか、今でも取り扱わない。

とは云え、このあと白村江の戦いの敗戦(663年)まで、百済国の救援にこだわり続けてきた日本の歴史を見れば、日本と百済との関係は極めて緊密であったことは明らかだ。

だとすれば、万葉集愛好家も「万葉集の未詳歌」に、韓国語で詠み明かされる新たな視点を投げかければ、「万葉集」珠玉を更に広げることになるのではないだろうか。詠みを広げてみては如何。

(了)    (修正加筆再掲)

参考―・李寧煕氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」

2020年11月04日

◆春日局は光秀重臣の娘

毛馬 一三

春日局(かすが の つぼね)は、本名斎藤福(さいとう ふく)と云い、江戸幕府の3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」との名は、朝廷から賜った称号である。
ところが、福の父は本能寺の変で織田信長を暗殺した、明智光秀の重臣・斎藤利三で、福はその娘だった。

斎藤利三は捕えられ斬首されたが、そんな本能寺の変の主役の娘・福をどうして江戸幕府の大奥に招き入れ、大奥の頭の「春日局」にまで優遇したのだろうか。「謎」の一つだ。

<福は父斎藤利三の所領のあった丹後国の黒井城下館(興禅寺)で生まれる。丹波は明智光秀の所領であり、利三は重臣として丹波国内に、光秀から領地を与えられていた。
光秀の居城を守護するため、福知山城近郊の要衝である黒井城を与えられ、氷上群全域を守護していたものと思われる。福は、黒井城の平常時の住居である下館(現興禅寺)で生まれたとされている。

こうして福は、城主の姫として、幼少期をすごした。
その後、父は光秀に従い、ともに本能寺の変で織田信長を討つが、羽柴秀吉に山崎の戦いで敗戦し、帰城後に坂本城下の近江国堅田で捕らえられて斬首され、他の兄弟も落ち武者となって各地を流浪していたと考えられている。

そうなって福は、母方の実家の稲葉家に引取られ、成人するまで美濃の清水城で過ごしたとみられ、母方の親戚に当たる「三条西公国」に養育された。これによって、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけることができた。>ウイキペディア
このような歴史背景から見て行くと、明智光秀の重臣だった父親の血を惹く実の娘が、江戸幕府に召し上げられて、「春日局」となるとは、首を傾げたくなる訳だ。

大阪堺の歴史家によると、徳川家康は本能寺の変の前に、織田信長を訪ね酒杯を頂きながら戦況を交わしている。明智光秀はこの酒杯のお世話を担務したが、段取りを信長に嫌悪されて過激の叱責を受け、信長側近の地位を剥奪された。
そこで信長を将来の身を絶望恨み、本能寺の変を決意したという。

ここで重要なことだが、重臣斎藤利三を遣って、徳川家康に信長暗殺を秘かに伝え、本能寺の変に突入したのだそうだ。そして徳川家康には、無事に京都から大阪を経て、堺まで逃げ込む方策を告げたのだという。

密告通り、京都で「変」が起こったことを知った家康は、迎えに駆けつけてきた斎藤利三の強力家来に誘導されて方策通り、堺に向けて脱出。そのあと伊賀の多数の忍者に擁護されながら、本拠城の三河城に苦労して辿りついたという。
この行動は、恰も本能寺の変とは「無縁」であり、むしろ「被害者」たる姿勢を世間に見せ付ける行動を敢えて披露したように見える。堺にはそれを裏付ける資料もが少々あるというのだ。

つまり、家康にとって、斎藤利三は命の恩人ということになる。秀吉にとってもゆるせない反乱重臣の一人斎藤利三こそ、家康にとっては恩返しをしなければならない重要人物であることは間違いないことになる。つまり、「福」は紛れもない命の恩人の娘だったのだ(歴史家)。
ところが、もう一つの見方もある。「謎」の二つ目である。

つまり、家康がすみやかに京都を脱出出来たのは、家康と光秀の間で、信長を暗殺する方策を事前から立案し合っていたものではないか。その脱出方策の実行を斎藤利三に任せ、家康の身の安全と、信長後任の詰めまでも、申し合わせていたのではないかと云う見方もある。つまり、家康こそ「暗殺首謀者」だとの見方だ。

方策は見事に成功した。ところが斎藤利三は斬首された。となれば上記と同様、家康は、紛れもない命の恩人の娘だった「福」に、父親の恩を返してやることを考えたに間違いないと考えられる。

さて、<福は、将軍家の乳母へあがるため、夫の正成と離婚する形をとった。慶長9年(1604年)に2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命される。このとき選考にあたり、福の家柄及び公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたといわれている。
家光の将軍就任に伴い、「将軍様御局」として大御台所・江の下で大奥の公務を取り仕切るようになる。寛永3年(1626年)の江の没後からは、家光の側室探しに尽力し、万や、楽、夏などの女性たちを次々と奥入りさせた。

また将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握る。
寛永6年(1629年)には、家光のほうそう治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、そのまま10月には上洛して御所への昇殿を図る。
しかし、武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため、血族であり(福は三条西公条の玄孫になる)、育ての親でもある三条西公国の養女になろうとしたが、既に他界していたため、やむをえずその息子・三条西公条と猶妹の縁組をし、公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内する資格を得ている。

そして三条西 藤原福子として同年10月10日、後水尾天皇や中宮和子に拝謁、従三位の位階と「春日局」の名号及び天酌御盃をも賜るのである。

その後、寛永9年(1632年)7月20日の再上洛の際に従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。よって二位局とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比定する位階となる。
寛永11年に正勝に先立たれ、幼少の孫正則を養育、後に兄の斎藤俊宗が後見人を務めた。寛永12年には家光の上意で義理の曾孫の堀田正敏を養子に迎えた。

寛永20年(1643年)9月14日に死去、享年64。辞世の句は「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」。法号は麟祥院殿仁淵了義尼大姉。墓所は東京都文京区の麟祥院、神奈川県小田原市の紹太寺にある〉。  ウイデペディア。
このように「福」の奇跡的な生涯を見て行くと、上記に<武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため>とあって、これを秘匿した工作がはっきりしてくる。「謎」の一つは解けそうだ。

しかも、素晴らしい殿中での政治的画策の実現を図る、「福」の明晰な頭脳が分かる。

しかし、家康と明智光秀が共謀者同士だったかの、二つ目の「謎」は分からない。
                                        
この「春日局」の生涯には、誠に興味が深い。      以上

2020年10月30日

◆続いた「荘厳なる終焉」

毛馬一三



本稿は、全国版メルマガ「頂門の一針」に掲載されました。「頂門の一針」には、多彩かつ有名な執筆家・ジャーナリストが世論・卓見を投稿しています。どうかご拝読ください。

◆本文ー
畏友仲村友彦氏の「荘厳なる終焉」を、全国版メルマガ「頂門の一針」と私のメルマガ「ネットメディアおおさか」に掲載したところ、本人へは勿論、私の処にも予期以上の反響があった。

仲村原稿は、私が書いた「運命の子・愛犬もも逝く」を読み、54歳で早逝した愛妻の思い出と重ね合わせながら、生きとし生けるものの終焉の荘厳さを心情を込めて綴ったものだ。

生き残る人に「感謝の意を伝えて息を引き取った私の愛犬と仲村氏の愛妻の終焉の有り様」が余りにも極似していることに感動した感想を詳述したものだった。

ところがなんとこの掲載直後、またもや「荘厳なる終焉」の新舞台が、仲村氏を待ち受けていたのである。気丈で通る仲村氏が、その展開を落涙しながら語った想いを、下記に記してみることにした。

仲村氏は、居住地の神戸から46年ぶりに「中学同窓会」に参加するため、生まれ故郷の奄美市へ飛行機で帰郷。同窓会では、60歳を超えてお互い健康であることを称え合いながら、酒宴に酔い痴れ、同夜はホテルで宿泊。

その翌日、「ヘルニア」で入所している介護老人ホームに母・チヨ子さんを訪ねた。91歳になった母と会うのは5年ぶりだったが、高齢とはいえ、前回に会った時と少しも変った風はなく元気だった。

ベッドから身を起こしてやると母は、彼の手を両手でしっかり握り「友彦!よく帰ってきてくれたぁ。有難う。会いたかった」と語りかける。手の温もりが母の愛情を伝えてくれる。長男でありながら5年ものご無沙汰を詫びた。母親の近況に耳を欹てた。

母親が痛むという腹部をやさしく撫でながら、病床生活に耳を欹てたり、愛妻の死後も引き続き大阪の海運業界で活躍している自分の様子などを30分くらい話し合っている内、いつの間にか母はすこやかに寝入ってしまっていた。

この間、ホテルに戻ってシャワーをしてこようと思い、レンタカーを疾駆させて20分ほど離れたホテルの自室に戻った。そこへ驚愕する「一報」が飛び込んできたのだ。

日頃、母親の介護に当たっている4男の弟が咳き込むように言う。「母さんの病状が悪化した。救急車で県立総合病院の集中治療室に搬送したので兄貴、すぐ来てくれ」。えっ?嘘だろう?ほんの先程まで元気に話していたんだぞ!

頭は真っ白になった。冷静になるよう自ら言い聞かせながら、取るものも取らず入院先の総合病院に駆けつけた。暫く待っても病状が皆目分からない。

入院から4時間たった夜8時、主治医が家族を呼んだ。「ヘルニアは関係ない。腸内癒着で、肝臓にも空気が入っており、重篤」と、事実上余命が薄いことを宣言。「手術は出来ないことは無いが、開腸の大手術となり、成功率は30%ぐらい」と説明する。

家族会議が始まった。もう歳だから痛ませず、このまま逝かしてやったらどうかが大勢の意見だったが、面倒見ている4男夫婦が「30%に賭けよう。少しでも長生きしてもらいたいよ」と言い出し、結局手術に託すことになった。

午前1時過ぎから手術が始まることになった。母親が手術室に向かう時、ベッドで運ばれる母親とやっと対面できた。仲村氏が母に「頑張ってね!」と声を掛けると、母はしっかりした意識の下で、仲村氏に優しい眼差しと頷きを送り返した。

だが、手術は開腹して腸内を調べた結果、腸内のほとんどが「壊死」状態にあることが判明、手術はすぐに中止となった。

母は、家族に看取られて逝去した。信じられない逝去だった。昨日話をしたばかりの母親が息を引き取るなんて、「生きている」ということは、一体何なんだろうか?


仲村氏は慟哭している内、ふとあることが頭をよぎった「あの優しい眼差しと頷きが、母の最後のメッセージだったのではないか。きっとそうだ」。

1日も満たない前日の昼、「友彦!よく帰ってきてくれたね。有難う。会いたかった」と語りかけてくれたのも、母親が「終焉の前に感謝の意を長男の自分に伝えた」のだ。

ということは、長男の友彦氏が帰郷する瞬間まで永らえる努力を続け、逝くのを待っていてくれたのだ。その「役目」を果たしたことに安堵し、この世を去ったに違いない。なんと素晴らしい母親なんだろう。

そう考えている内、毛馬氏の「運命の子・愛犬もも逝く」とそのあと自分が反響として書いた「荘厳なる終焉」とが、今回の母親の「有り様」とが重なり合い、この3者が1本の太い絆で結ばれているような気がしてならなくなった。

自分自身終焉を迎える時、毛馬氏が言うとおり、身内に「感謝の意」をしつかり伝えて逝けるだろうか。この1本の絆で結ばれた「荘厳なる終焉」だけは、自分の生き方の中に、絶対活かしたいと思っている。

以上が、仲村氏の想いを綴ったものである。1本の絆の話も、私には信じられる。しかし、両親・祖父母の終焉には総て立ち会えなかった私自身にとって、仲村氏が生前の母親と最後の「会話」をし、「おくりびと」の「親孝行」の大役も果たしたことは、限りなくうらやましい。合掌。

ご参考―
◆仲村友彦氏著「終焉の大切さ」
http://hyakka.seesaa.net/article/129580726.html

2020年10月19日

◆徳川を潰せなかった真田幸村

毛馬 一三


家康が、生涯の戦歴で死に損なったのは、2度ある。1度は、元亀3年(1573年1月25日)、武田信玄軍に徳川軍が惨敗した「三方ヶ原の戦い」の時。討ち死に寸前まで追い詰められたが、僅かな供回と必死で浜松城へ逃げ帰り、命拾いをした。

2度目の「死に損ない」は、慶長20年(1615年)年5月7日の「大阪夏の陣:茶臼山の戦い」(大阪市天王寺)の時だ。

家康は、この時二度「自害」しようとしたが、部下の将に諌められて逃亡。敗戦の将の汚名など、どうでもよかった。もし家康が命を取られていたら「徳川幕府」は「夢のまた夢」だったことに間違いはない。

この徳川幕府の存亡に繋がる家康の2度目の「死に損ない」地は、案外知られていない。

この「死」からの逃避は、1番目の「三方ヶ原の戦い」より比較にならないほど悲惨なものだった。歴史上でも実に深い意味合いも有する。そのことをこれから追々。

この連休の日を利用して、その戦火跡地・「大阪夏の陣:茶臼山の戦地」(大阪市天王寺)を友人たちと訪ねた。たまたま5月7日が近付いてきた所為もあった。

この大阪夏の陣:茶臼山の戦いで、家康を死に追いつめたのは、実は、真田幸村である。豊臣方の主将の一人だ。この真田幸村の戦闘ぶりは、徳川軍を総じて縮みあがらせた。

幸村は、茶臼山の戦の前日の慶長20年(1615年)年5月6日の「道明寺の戦い」で、徳川軍の先鋒隊・伊達政宗隊を銃撃戦の末に一時的に後退させている。先鋒隊撃破という、幸村の先勝だった。

この勝利で、真田隊は、豊臣全軍を一時撤収させた。撤収には、訳があった。豊臣方は主武将が相次いで討死した上、全軍も疲弊していたため、兵士に休息を与える配慮からだった。

そこで幸村は、秘策を考え上奏を試みる。「兵士の士気を高め、徳川を打ち破るには、豊臣秀頼本人の直接出陣有るのみ」と直訴したのだ。

ところが豊臣譜代衆や、秀頼の母・淀殿に阻まれ、秀頼の出陣は実現しなかった。この怠慢な判断が、結果的に豊臣方の滅亡に繋がる。

そこで幸村は、「そんなことでは徳川方を追い込めない」として、5月7日、大野治房・明石全登・毛利勝永と共に、最後の作戦を立案した。

それは四天王寺・茶臼山付近の右翼に真田隊、左翼には毛利隊を布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して、家康の本陣を孤立させた上で、これを急襲・横撃させるという作戦だった。

ところが、思いもよらず作戦が狂った。毛利隊が合図を待たずに射撃を開始してしまったからだ。この有効な戦法は、断念せざるを得なかった。

そこで幸村は、腹を括った。「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!」と決心し、真っ正面から真一文字に徳川家康本陣のみに狙いを定めて、突撃を敢行した。

この突撃は真田隊のみではなく、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦。これにより徳川勢は壊乱し、総崩れに至った。

幸村は、後方の家康本陣に三度攻め込み、家康の親衛隊・旗本・重臣勢を蹴散らして本陣を蹂躙、「馬印」も倒した。

真田隊の凄まじさに追い詰められた家康は、二度も「自害」を覚悟したという。もう一押し攻め込めていたら、家康の「落命」は確実だったとも言われている。家康は部下の将兵に諌められて、意に反して命からがら逃げた。

残念ながら、幸村の家康追いつめもここまでだった。兵力に勝る徳川勢に追い詰められ、幸村は負傷して仕舞う。やむなく一旦後退することを決め、近くの「安居神社」避難した。

幸村は、当神社の1本松にもたれ、傷を癒していた時、追っ手の越前主の兵士の槍で襲われた。幸村は「ここまでだ」と決意し、切腹して自害した。享年49だった。

「安居神社」に行くと、「武将姿の銅像」や高さ5メートほどの「幸村戦没の石碑」がある。

銅像と石碑を見ていると、切腹自害した幸村から「徳川潰しを果たせなかった」無念さの呟きが伝わってくるようだった。一方、「家康を追い詰めた」役目を立派に果たした豊臣方戦将としての誇りの声も聞こえてくるような気もした。

もし豊臣方が秀頼を先陣に立て、幸村を主将にした総力戦で「茶臼山の戦い」に臨んでいたら、確実に「家康を自害」させていたに違いないという説もある。

そうだとすると、家康不在では徳川勢力の後退は余儀なくされ、秀頼による豊臣時代が継続したかも知れないという説に続く。

「安居神社」を出て、坂道を少し下ると、本誌で以前書いた大阪で唯一自然の滝:「玉出の滝」と出会う。ゆっくり眺めると、今度ばかりは「安居神社」の幸村の無念の想いが、滝の水に混じってドット流れ落ちているように見えた。

もし、淀君を始め豊臣譜代衆が「茶臼山の戦い」の決戦に挑んで「家康壊滅」を図る決断を下していたら、おそらくその後、別の歴史が展開していただろう。

時勢に応じて歴史を踏み外さない判断を下さなければならない指導者は、いつの世にも不可欠だ。名所旧跡の散策は、こうした現代の動きを連想させてくれるだけに、愉しいものだ。
<参考:ウィキペディア>

2020年10月14日

◆3時間以内の搬送

毛馬一三


脳の病気も心臓の病気も怖い。父親が68歳で、また私のすぐ下の弟も45歳で、「脳溢血」で亡くなった。家系が高血圧症みたいで、私自身も40歳を境に血圧が閾値を越えるようなったため、以後病院の血圧降下剤を朝夕服用している。子供の頃から偏頭痛持ちで、加齢と共に頭痛に襲われる度に、「脳溢血」ではないかと身が縮む思いがする。

大阪市総合医療センターで月1度、同センター脳神経外科の安井敏裕部長の外来診察を受けている。診察毎の問診、血圧測定に加え、定期的に血液検査やCT検査を受けて、「とくに症状に問題はない」との診断結果が出ると、ホット胸をナデ降ろす。

その安井敏裕部長が、大阪市総合医療センター3Fの「さくらホール」(定員350人)で開かれる市民公開講座で講演された。その講演の演題が、なんと「もし脳卒中になったら」だった。脳卒中になった本人があれこれ手筈できる訳はないので、<脳卒中になった肉親を発見したら、家族はどうしたらいいのか>、であろうと考えた。

数日前の定期診察のとき、安井部長に探りを入れてみた。部長はパワーポイントを使用して約1時間講演する予定だと説明したあと、腰を抜かすようなことを告げた。

<脳溢血で倒れたら、2時間59分以内に専門病院に搬送してください。3時間以内だと助かる可能性は大です。3年くらい前にその時間内だと助かる薬が出たからです>と述べた後、<大切なことは、倒れた時間をしっかり確認し、それを医師に必ず知らせることが必須条件。搬送後の各種検査には最低でも1時間かかります。一刻を争うことをしっかり認識していて欲しいです>。安井敏裕部長は今度の講演よく話したいと言っていた。

3時間が勝負の時間か。そういえば、元NHK同期記者の石岡荘十氏も、本欄で「脳溢血」「心筋梗塞」は、3時間内に病院に搬送されれば、救命率は高いと書いていた。

そこで、「3時間の搬送」とは内容が少し異なるが、石岡氏が日本一メルマガ「頂門の一針」に掲載した「異端の心臓外科医」を、同メルマガの許諾を得て転載することにした。心臓手術で生を与えてくれた一人の医師が浮かび上がる。命の尊さを考えるのにいい機会だと思うからである。

◆「異端の心臓外科医」
石岡荘十

この病院には、日本の北の端、南の涯から、1人の医師のウデを信じた患者が群がっている。そう、大袈裟ではなく患者が群がって来る感じなのだ。

10月29日、日曜日の午後、小田急相模大野駅に隣接したホテルの最大ホールに、どっちかといえば、飾りつけ豪華な会場の雰囲気に似つかわしくない高齢者が続々と参集した。その数520人。「考心会」のメンバーである、といっても誰もわからない。「心臓手術後の生活を考える会」の創立10周年の総会である。

「考心会」の会員は現在なんと1000人。その共通点は、かつて同じひとりの心臓外科医の“手にかかった”患者だということだ。南淵宏明医師に胸を切り開かれたという“過去”を持っている人たちである。心臓手術経験者の患者の会としては、多分、最大だろう。

南淵宏明医師は10年前、神奈川県大和市にある大和成和病院で心臓手術を始めた時から、自分が手がけてきた患者の“予後”、つまり手術後の生活がどうなっているか、そこまで面倒を見るのが心臓手術外科医の責任だと考えている。現在、同病院の心臓外科部長。

といっても、南淵医師がその日集まった元患者の全員を覚えているわけは、当然ない。患者にとって自分の執刀医はただ1人、彼だが、彼にとっては、記憶の限界を超える患者1人ひとりを覚えていられるはずはない。

南淵医師はその日の記念講演で、こう言う。
「お集まりの皆さん全員を、正直言って全部覚えているわけではありません。ですが、これはやばいぞって、冷汗をかきながら必死になって手術した患者さんのことは良く覚えています。今日ここにいらっしゃる○○さんとか---。あれは危なかった(笑)。大部分の皆さんのことを覚えていないということは、大部分はうまくいったということです。もしい
ま不具合がありましたら、このあと遠慮なく言ってください」

考心会は、年1回総会を開き、その都度、南淵医師を始め、ほかの医師や看護師も出席して、術後・予後の相談に乗っている。もちろん無料だからか、長い列ができる。それだけでなく、あちこちで患者が医師にせがんで一緒に記念写真まで撮っている。これは同窓会では、と思わせる風景である。 

南淵医師は奈良医科大学出身。まあ、はっきりいって、わが国の医師のキャリアでいえば、「うん?」という出自だが、彼は飛び出した。それも流行のアメリカではなく、オーストラリア、シンガポールで修行を積む。

というと、わが国では、「なーんだ、そんな国で?」と思うかもしれないが、心臓手術に関しては、かの国はじつはわが国の心臓外科技術を遥かに超えるとんでもない先進国なのである。

わが国のレベルは先進国の中では最低、という現実は知られていない。国民は、日本はアジアの先進国だと思わされている。だから帰国した彼を、受け入れない、叩く、排除する。いじめである。この国の業界は一旦、医局を飛び出した医者は受け入れない掟がある。

しかし、たまたまいろいろあってたどり着いた今の病院で、10年前、心臓外科部門を創設、年間数百例という手術実績とその成功率で群を抜き、その合間を縫って、あろうことかタケシの番組に出演して業界告発まがいの発言を繰り返し、軟派の週刊誌に週1連載エッセイ(週刊現代「異端のメス」)を書き、業界内幕の実態暴露に近い本を続々出版。

こんなことをすれば村八分になるのは当然だけど、心臓手術で人工心肺を使わず、心臓を動かしたまま細い血管の縫合をやってのけるバイパス心臓手術(オフポンプ)の実績を重ねて、特にこの分野で名を成す。

で、「あいつは一体何者だ」と業界だけではなく、その評判は心臓に不安を抱える素人にまで関心をもたれる存在となった。だが、相変わらず業界では“異端”である。

つまり業界の常識から言えば「変わり者」なのだが、患者の気持ちから言えば、この人しかないと思うのは当たり前だろう。それが本文冒頭の現象をもたらしている。

地域住民が、いつも頼りにしている立派な建物の病院に駆け込んでも、心臓病に関する限り、まともな治療、特に外科治療をできるところは稀である。治療が難しい患者が来ると手に負えない。そこでどうするか。

「そうだあの心臓病専門病院に転送しよう」ということになる。リスクを回避しようと逃げまわっているのだ。そんな患者が、大学病院から、それも東北の大学病院からヘリコプターで南淵医師のいる病院に送られてくることもある。珍しいことではない。
 
南淵医師は、48歳。身長180センチを超える大男だ。指も、これが心臓外科医かと思わせるほど太い。だが、繊細な感覚の持ち主、と見た。患者に接する笑顔は少年のそれである。

本メルマガ618号(11/3)で紹介した、心臓手術では世界屈指といわれ、数少ない応援団のひとり、京都大学医学部の米田正始心臓外科教授は、こう言う。

「彼とは考え方が同じです。ほかでは手に負えない手術だからこそやりがいがある」と。

2020年10月10日

◆「万葉集」の軍事メッセージ

毛馬一三

韓国の「百済の都・扶余」の遺跡から、618年に作成された「出挙(すいこ)」の木簡が、2008年前後に発見されている。

「出挙」とは、作付けの季節に農民に利子つきで貸出した「種もみ」を、収穫の秋に利子分を含めた作物を現物で回収する制度で、木簡には農民毎に回収した「作物の量」が記録されている。

この木簡は、日本でも飛鳥時代以前の古代遺跡から、全く同じものが既に発掘されている。

つまり、中国から発祥した貴重な税収制度が、百済を通じて日本へ導入されていたことの証だが、もし百済と日本の間に、当時緊密友好な関係がなかったら、日本へこうした国家構築に属する機密情報が、伝わって来なかったであろうことは想像に難くない。

この韓国の発掘記事を読んだのは、随分以前のことだが、こうした日本と百済との「秘めたる繋がり」の驚くべき逸話を話してくれた、韓国の著名女流作家のことを思い出し、本稿を書いてみた。

同作家は、李寧煕(いよんひ)氏。韓国大手新聞社「韓国日報」の政治部長・論説委員長から国会議員(1981年)を経て、韓国女流文学会会長を歴任。

私は、李氏が来日されたた折、2日間奈良県桜井の「万葉の道」やその周辺の「古代天皇の古墳群」散策の案内役を務めたことがある。

その際李氏から、「軍事、政治メッセージに秘められた万葉集」という驚くべき学説を聴かされたのである。

韓国の李氏が、どうして日本の「万葉集」と関わりを持ったかというと、李氏が韓国国会議員だった当時、日本の高校の歴史教科書に韓国関係の記述が歪曲されているという問題が提起されたことから、日韓両国の国会議員による特別委員会が設けられ、その委員として調査に乗り出したのがきっかけだったという。

つまり、歴史書が歪曲されているかどうかに追求するには、どうしても日本の古代史にまで遡って検証する必要があった。そのために両国歴史書を克明に調べている内に、日本の「万葉集」に魅せられて仕舞ったのだという。

まずは「万葉仮名」の研究に惹かれたらしいが、その中で重大なことは「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語で判読出来ないとされている歌のほとんどを、韓国語で詠んでみると、総て詠み通せるうえ、解釈も可能であることを見つけ出したというのだ。

これは当時としては大発見に間違いなかった。

帰国した李氏から、私に李氏著書「もう一つの万葉集」(文藝春秋刊1989発刊)が送られてきた。読んでいくうち「日本語訳では見えない様々な謎」が書き込まれおり、驚愕した。

その中で、特に目を見張らせる下記の記述だった。

<万葉集20巻、4516首の内に、日本語では判読できない「未詳歌」とされているのは3首あり、このうちの1首に恐るべきメッセージが織り込められている。斉明天皇(655年即位)の意中を、額田王(ぬかだのおおきみ)が代詠した歌が、それである。

◆原文:  金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念<巻1の7・未詳歌>
・日本語よみー(秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 刈廬(かりいほ)し思ほゆ)

・この歌は、従来の「日本語解釈」では、こうなっている。
(秋の野の 萱(かや)を刈って屋根を葺き 旅宿りした 宇治のみやこの 仮の庵が思われる)。

しかしこの解釈では、額田王が何を言いたいのか、さっぱり意味が伝わってこない。だからこの歌が、解釈不能または解意不明なことから、公式に「未詳歌」とされてしまったのだ。

そこでこの祥らかでないこの歌の原文を、韓国語で読んでみると・・・。

(徐伐『そぼる』は 鉄磨ぐ 締め苦しむること勿れ 上の都は 刀来るぞよ 陣地固めよ)
・韓国語で詠むと―(新羅は刀を磨いで戦いに備えている。締め苦しめないといいのに・・・。吾がお 上の、百済の都は、敵が襲ってくるから、陣地をお固めなされ)。>
 ということが明らかになる。

李氏の韓国語解釈をそのまま読むと、これは斉明天皇が百済に送った「軍事警告メッセージ」というのとが明確となる。

だとすれば斉明天皇が百済に対して、これほどの機密「メッセージ」を送らなければならなかった理由とは何か、その疑問にブチ当たる。

皇極天皇(斉明天皇と同じ・斉明天皇は二度即位)から斉明天皇の時代は、朝鮮半島では、新羅、百済、高句麗の3国間は極端な緊張状態にあった。

特に重要なことはこの歌は、百済が新羅・連合軍に滅亡させられた661年より13年も早く、斉明天皇自身が国家危機を予測して、あえて百済に「軍事機密メッセージ」を伝えていたことになる。

となれば、「新羅の不穏な極秘情報」を、斉明天皇は歌に秘めて、百済が滅亡する相当前から「軍事メッセージ」として伝達していたに違いない。

実は斉明天皇は、百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、百済を援けるため、難波(大阪)で武器と船舶を作らせ、自らその船に乗り込んで瀬戸内海を西に渡り、百済とは目と鼻の先の筑紫(福岡)の朝倉宮て新羅・唐との戦争に備えた。

ところが斉明天皇は、遠征軍が百済に向かう前、失意の内に亡くなっている。

斉明天皇のこれほど異常な「百済ひいき」について日韓学者の一部には、斉明天皇は、百済第三十代武王の娘の「宝」で、百済最後の王、義慈王の妹だったとの説もある。

これが事実ならば、恐らく斉明天皇自身、「万葉集」歌に秘めた「軍事警告メッセージ」の存在だ真実味を帯びてくる。

「万葉集」を古代の珠玉の日本文学と仰ぐ人たちにとっては、「万葉集の韓国語詠み」は認め難いらしく、額田王作の「未詳歌」はあくまで「未詳歌」として位置付けている。

しかし、このあと白村江の戦いの敗戦(663年)まで、百済救国にこだわり続けてきた当時の日本の歴史を見ていけば、日本と百済との関係は極めて緊密であったことは証明されている。

だとすれば万葉集愛好家でも、万葉集の中に「軍事メッセージが込められた」「未詳歌」の存在に興味を抱かれるかも知れない。「万葉集」は奥が深い。(了  再掲)


参考―・李寧煕氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」
   ・小林恵子著「白村江の戦いと壬申の乱・現代思潮社」
   ・ウィキぺディア

2020年10月09日

◆芭蕉終焉の地って?

毛馬 一三


松尾芭蕉の「終焉(しゅうえん)の地」が、大阪だということを知っている人は少ないのではないか。「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」と詠んだ旅の俳聖松尾芭蕉だから、旅の果ての東北か北陸の辺りでの病死ではないか思うのが普通だろう。

ところが、芭蕉の終焉の地は大阪・南御堂向かいの花屋仁左衛門の離れ座敷だったのだ。大阪人ですら、知らない人が多い。芭蕉が亡くなった花屋仁右衛門宅は今喫茶店になっているので、その屋敷跡から当時を髣髴させるものは何もない。じつはその事実を告げる記念碑は、大阪のメインストリート・御堂筋南御堂前の、緑地帯の中に「終焉(しゅうえん)ノ地」と銘を打った石碑が、ポツンと建っているだけだ。

たまたま、筆者が地下鉄御堂筋線・地下鉄中央線「本町」下車して南へ向かう用事があったため、“偶然”にも発見出来たもので、それまでは不明にも目に止まったことはなかった。その「碑の銘」が南に向いて建っているため、北から南に通じる一方通行の御堂筋を車で通過する人目には、「芭蕉終焉の地」という文字を読み取ることは物理的に不可能だ。

ましてや道路の緩衝地帯の中だから、通路を通る人の関心を呼ぶことはまずない。その意味で、“発見”出来たのは偶然の目配りに感謝したいラッキーなことだった。
 
<元禄7年(1694)9月、芭蕉は故郷伊賀上野から奈良をすぎ暗峠を越え、2度目の来坂をした。長崎へ向かう旅の途中に大阪に立ち寄った。住吉大社を詣でたり、句会に参加するなどしていたが、当時大阪には俳壇をにぎわしていた2人の門人の仲に円満を欠くところがあり、それを取り持つための来坂が主目的であったとされている。
 
出発時から体の不調を訴えていたが、大阪・住吉神社に詣でた後、発熱下痢を伴い花屋仁右衛門方離れ座敷で病臥、10月12日夕方息を引き取る。51歳だった。最後の句として知られる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」は、その4日前に病床で詠まれたものだ>


ところが「秋深き 隣は何を する人とぞ」は、芭蕉が床に臥す直前に書いた句である。臥す直前まで世事に興味津々というか、「晩秋」の移ろいにも鋭利な感覚を失っていない。となると芭蕉は、出来るだけ早く床上げをして長崎へ向かう旅立ちへの気力と体力の自信に、この時なお溢れていたのではないかと思える。

<大坂御堂筋の花屋仁左衛門方で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死した(よく辞世の句と言われているが結果論である。「病中吟」との前詞があり、辞世とは当人も意識していなかった>という説がある。参考<ウイキぺディア>

だが病状は急変したのだろう。だから「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が、本人の意思に反して「辞世の句」となってしまったのだ。

<臨終の時は、大勢の弟子達に見守られ、遺体は亡くなった日に舟で、現在の土佐堀川を上って芭蕉が遺言した近江の義仲寺に運ばれた>。芭蕉は、木曾義仲の墓の隣に眠っている。

この欄を書きたいと思ったのにはひとつの感慨があった。「頂門の一針の主宰者」渡部亮次郎氏が掲載された『老化は熟成である』の記述の一節を思い出したからだ。

<老化するとは死に近付くことでもあるが酒や味噌のように美味しく熟成して他人の役に立ち、自分を誇りに思えることでもある。

生きるとは死ぬことである。生まれたら成長すると言うが、それが違うのだ。最後に来る死に向かって懸命に走っているに過ぎないのだ。ただゴールが何時かを自身が知らないだけだ。

盛者必衰の理(ことわり)通り身体の各部分は生まれた瞬間から衰えて行く。中年を過ぎれば皺もしみも方々に出来る。これは生物が生きている証拠として止むを得ないものである>、と渡部亮次郎氏は「生と死」にこう触れている。

「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」を詠んだ芭蕉の心は、まだまだ死ぬまで好きな旅を続けたい気持ちを抱きながら、<最後に来る死に向かって懸命に走っているに過ぎない自分に気づいていた>のではないかとの想いが、重なったからである。死にたくはなかった芭蕉も、遂に終焉に気づいた瞬間は、きっと幸せな生涯だったと感じたに違いないと思う。

歴史のまち・大阪には多岐の名所旧跡や記念碑は散在するが、「生と死」を考えさせるものは、そう沢山あるものではない。(了)参考<ウイキぺディア> (再掲)

2020年10月08日

◆「馬」の渡来地先は大阪四條畷市

毛馬一三


わが国古代王朝の威光を軍事面で支えた「馬」の渡来終着先が、なんと大阪府四条畷市であることを知らされ、ビックリした。

大阪湾(古代は難波津)に接している大阪柏原市に鉄技術、堺市に土器焼成技術が古代に朝鮮半島から渡来していたことは知っていたが、まさか生駒山系が迫り、大阪湾と些かも面していない四条畷市が、「馬」の渡来終着地だったとは夢にも思っていなかった。

ところが、先般四條畷市主催の会合で、古代王朝や豪族たちの権力の象徴となる「馬」の渡来先が四条畷市で、これを証明する「蔀屋北遺跡(しとみやきたいせきあと)」が、四條畷市にあることを知らされたのだ。

四條畷市の西にある現在の寝屋川は、古代には難波津に繋がる海路ルートとなっていた。しかもこの海路の条件と、清い水と牧草に恵まれた肥沃大地の馬飼いの環境が見事に合致したことから、ここが朝鮮半島からの渡来先の終着地になったらしい。

しかも、四條畷を南北に横たわる生駒山系を越えれば、比較的なだらか下り坂となり、「馬」に負担を掛けず「大和」へ供給できた立地の良さが王朝・豪族に認められ、四條畷(当時・讃良)を「馬」の機動力を軍事制度に組み入れる「馬飼いの里」として定着させたという。

朝鮮半島からは、比較的穏やかな初夏の海に「馬」を乗せた丸木船を2ヶ月かけて、玄界灘から筑紫(福岡)・豊浦(下関)・瀬戸内海、そして大阪湾(難波津)を経て、河内湖から寝屋川を通じて「蔀屋北遺跡」に辿り着いている。「馬」に同伴してきた渡来人もここに定住したそうだ。

そう云えば、「国内最古 馬の乳歯 四條畷」という記事が出ていたことを思い出した。

四條畷市の「蔀屋北遺跡」で、国内最古となる5世紀中頃の馬の乳歯が2頭分、大阪府教委の調査で出土した。2〜2歳半とみられ、同時期の遺跡で、若い馬の存在が確認されたのは初めて。

同遺跡は、国内で初めて馬を本格的に飼った牧場とされ、府教委は「朝鮮半島から子馬を船に乗せて連れてきたか、生まれた子馬を飼育し、軍馬として増産したとみられ、国内最初期の馬生産の実態がわかる」としている。


3世紀の中国の史書「魏志倭人伝」に、日本に馬はいないと記されており、5世紀頃、朝鮮半島から馬と乗馬の風習が伝わったとされる。(略)
松井章・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長(動物考古学)は「乳歯はもろく、「蔀屋北遺跡」からの出土は珍しい。馬飼が、大規模に馬を生産していた様子がうかがえる」と話している。

たしかに「蔀屋北遺跡」とその周辺から、これまでに丁寧に埋葬された馬の骨(性別は不明)や永久歯計約500点、それにアブミ、鹿角製のハミ、鞍などの馬具も出土している。総数26基の井戸も発掘されており、このうち7基は、「馬」運びに使った舟を転用して、井戸枠を作っているのが分かっている。

その船は、西都原式といわれる準構造船で、実物が日本で初めてこの「蔀屋北遺跡」で発掘されている。復元船は、全長10b、幅1b、10人乗りの船。航海は2ノットぐらいの速度の船団だったと専門家は説明しているが、果たして1隻の船に一体何頭乗せて来たかは明らかではない。

四條畷市の「馬飼いの里」で繁殖された「馬」は、王朝や豪族の間で軍事・通信・運輸の活用に重用され、いわゆる権力誇示の証とされた。それだけに四條畷市の「馬渡来の終着地」の意義と「馬飼いの里」からの「馬」の供給価値が、権力側から高く受け入れられていた。

しかし文武4年(700年)になると、天皇に献上する公の牧場が諸国に作られ始められるようになり、そののち平城京遷都の時には、騎兵500人が威儀を正して行進し、「馬」が国家の資としての威容をみせつけている。

こうした時代の変遷のともない、平城京遷都の頃には、四條畷市の「馬渡来の終着地」の役割は終焉し、「馬飼いの里」は姿を消したという。

名所旧跡の多い大阪四條畷市では、こうしたあまり知られていない歴史を積極的に広報して、まちへの集客へ繋げる「観光政策」に力を入れたいそうだ。(了)
 参考―四條畷市立歴史民族資料館刊「馬は船にのって」   

2020年10月07日

◆春日局は光秀重臣の娘

毛馬 一三


春日局(かすが の つぼね)は、本名斎藤福(さいとう ふく)と云い、江戸幕府の3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」との名は、朝廷から賜った称号である。
ところが、福の父は本能寺の変で織田信長を暗殺した、明智光秀の重臣・斎藤利三で、福はその娘だった。

斎藤利三は捕えられ斬首されたが、そんな本能寺の変の主役の娘・福をどうして江戸幕府の大奥に招き入れ、大奥の頭の「春日局」にまで優遇したのだろうか。「謎」の一つだ。

<福は父斎藤利三の所領のあった丹後国の黒井城下館(興禅寺)で生まれる。丹波は明智光秀の所領であり、利三は重臣として丹波国内に、光秀から領地を与えられていた。
光秀の居城を守護するため、福知山城近郊の要衝である黒井城を与えられ、氷上群全域を守護していたものと思われる。福は、黒井城の平常時の住居である下館(現興禅寺)で生まれたとされている。

こうして福は、城主の姫として、幼少期をすごした。
その後、父は光秀に従い、ともに本能寺の変で織田信長を討つが、羽柴秀吉に山崎の戦いで敗戦し、帰城後に坂本城下の近江国堅田で捕らえられて斬首され、他の兄弟も落ち武者となって各地を流浪していたと考えられている。

そうなって福は、母方の実家の稲葉家に引取られ、成人するまで美濃の清水城で過ごしたとみられ、母方の親戚に当たる「三条西公国」に養育された。これによって、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけることができた。>ウイキペディア
このような歴史背景から見て行くと、明智光秀の重臣だった父親の血を惹く実の娘が、江戸幕府に召し上げられて、「春日局」となるとは、首を傾げたくなる訳だ。

大阪堺の歴史家によると、徳川家康は本能寺の変の前に、織田信長を訪ね酒杯を頂きながら戦況を交わしている。明智光秀はこの酒杯のお世話を担務したが、段取りを信長に嫌悪されて過激の叱責を受け、信長側近の地位を剥奪された。
そこで信長を将来の身を絶望恨み、本能寺の変を決意したという。

ここで重要なことだが、重臣斎藤利三を遣って、徳川家康に信長暗殺を秘かに伝え、本能寺の変に突入したのだそうだ。そして徳川家康には、無事に京都から大阪を経て、堺まで逃げ込む方策を告げたのだという。

密告通り、京都で「変」が起こったことを知った家康は、迎えに駆けつけてきた斎藤利三の強力家来に誘導されて方策通り、堺に向けて脱出。そのあと伊賀の多数の忍者に擁護されながら、本拠城の三河城に苦労して辿りついたという。
この行動は、恰も本能寺の変とは「無縁」であり、むしろ「被害者」たる姿勢を世間に見せ付ける行動を敢えて披露したように見える。堺にはそれを裏付ける資料もが少々あるというのだ。

つまり、家康にとって、斎藤利三は命の恩人ということになる。秀吉にとってもゆるせない反乱重臣の一人斎藤利三こそ、家康にとっては恩返しをしなければならない重要人物であることは間違いないことになる。つまり、「福」は紛れもない命の恩人の娘だったのだ(歴史家)。
ところが、もう一つの見方もある。「謎」の二つ目である。

つまり、家康がすみやかに京都を脱出出来たのは、家康と光秀の間で、信長を暗殺する方策を事前から立案し合っていたものではないか。その脱出方策の実行を斎藤利三に任せ、家康の身の安全と、信長後任の詰めまでも、申し合わせていたのではないかと云う見方もある。つまり、家康こそ「暗殺首謀者」だとの見方だ。

方策は見事に成功した。ところが斎藤利三は斬首された。となれば上記と同様、家康は、紛れもない命の恩人の娘だった「福」に、父親の恩を返してやることを考えたに間違いないと考えられる。

さて、<福は、将軍家の乳母へあがるため、夫の正成と離婚する形をとった。慶長9年(1604年)に2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命される。このとき選考にあたり、福の家柄及び公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたといわれている。
家光の将軍就任に伴い、「将軍様御局」として大御台所・江の下で大奥の公務を取り仕切るようになる。寛永3年(1626年)の江の没後からは、家光の側室探しに尽力し、万や、楽、夏などの女性たちを次々と奥入りさせた。

また将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握る。
寛永6年(1629年)には、家光のほうそう治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、そのまま10月には上洛して御所への昇殿を図る。
しかし、武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため、血族であり(福は三条西公条の玄孫になる)、育ての親でもある三条西公国の養女になろうとしたが、既に他界していたため、やむをえずその息子・三条西公条と猶妹の縁組をし、公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内する資格を得ている。

そして三条西 藤原福子として同年10月10日、後水尾天皇や中宮和子に拝謁、従三位の位階と「春日局」の名号及び天酌御盃をも賜るのである。

その後、寛永9年(1632年)7月20日の再上洛の際に従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。よって二位局とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比定する位階となる。
寛永11年に正勝に先立たれ、幼少の孫正則を養育、後に兄の斎藤俊宗が後見人を務めた。寛永12年には家光の上意で義理の曾孫の堀田正敏を養子に迎えた。

寛永20年(1643年)9月14日に死去、享年64。辞世の句は「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」。法号は麟祥院殿仁淵了義尼大姉。墓所は東京都文京区の麟祥院、神奈川県小田原市の紹太寺にある〉。  ウイデペディア。
このように「福」の奇跡的な生涯を見て行くと、上記に<武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため>とあって、これを秘匿した工作がはっきりしてくる。「謎」の一つは解けそうだ。

しかも、素晴らしい殿中での政治的画策の実現を図る、「福」の明晰な頭脳が分かる。

しかし、家康と明智光秀が共謀者同士だったかの、二つ目の「謎」は分からない。
                                        
この「春日局」の生涯には、誠に興味が深い。      以上