2019年07月19日

◆おきゅうと って知ってる?

毛馬 一三


郷里福岡の友人が初めて案内してくれた博多料理屋で、「おきゅうと」が出た。

エゴノリという海藻から作った食品で、生姜、ゴマ、かつおぶしなどを振りかけ、それにポン酢を注いで食する。涼感を誘うツルッとした味わいと、磯の香りの食感が口内いっぱい広がった。

久し振りの味は、淡泊ながら旨みと滋味に溢れた、福岡特産の食感を十分に嗜め、郷愁を身近に感じた。

ところが、この「おきゅうと」を知る人は意外に少ない。筆者自身も、福岡出身でありながら、福岡から僅か離れた筑後・久留米で育ったので、「おきゅうと」の名前すら幼少の頃は耳にしたこともなく、食膳に上った記憶も無い。

筆者が、料理の一品として魅せられたのは、社会人になってからだ。以来、「おきゅうと」の愛好者になった。下戸なので、お酒のつまみではなく、専ら深みのある味を、ゆっくり箸を付けながら食する楽しみ方だ。

エゴノリが生育する日本海側の秋田、山形、新潟、長野の各県では「えご」、宮崎県では「キリンサイ」などと呼ばれて食用にされているらしいが、「おきゅうと」とは言わない。食べ方も福岡とは全く異なる。

さて、肝腎の「おきゅうと」の名前の由来だが、
1.「沖の独活(ウド)」説。エゴノリはウドの木の様に早く育つので、沖のウドが転訛した。
2.沖からやってきた漁師が作り方を伝授したから「沖人」(おきうど)説。
3.飢饉の際に簡単で大量に作られ多くの人を救ったから「救人」。
などの諸説あるらしい。

「おきゅうと」の食べ方だが、
・真空パックの中に5枚入っている添加物不使用
・厚さ約3mmの「おきうと」を、水洗いして、幅2〜3mmくらいに切る。
・それを器に盛りつけ、生姜、ゴマ、かつおぶしなどをふりかけ、醤油またはポン酢で食べる。また、酢味噌などでもおいしい。

いとも簡単に食することができる。しかもふりかけ材の工夫では、味付けが自分の好みに合わせられるだけに,楽しみも倍増だ。

大阪人でも初めて食べた時は、独特な味覚と触覚に戸惑うらしい。しかし2度目からは、仄かな磯の香り・海苔の風味、涼感を誘う喉ごし、溢れる旨みと滋味に魅せられて、愛好者は増えていると云う。

「おきゅうと」は「めんたいこ」と共に、数百年の昔から朝食の一品を占め続けて来た福岡・博多の食文化の代表であり、福岡・博多の人々はその重みを了知している。

残念なことに大阪では、「飲み屋」か「博多料理店」に行かないと「おきゅうと」には、お目にかかれない。近郊スーパーにはその姿が消えてから長い。情けない話だ。

郷里福岡に帰省した福岡高校同窓会の先輩が、地元でしか味合えない特製「おきゅうとの店に立ち寄り、味わいを実感してきた」と述懐していた。

こればかりは、郷里特性の「おきゅうと」だから、羨ましい限りだった。(了 再掲)  
参考:ウィキペディア       

2019年07月18日

◆大阪を行脚していた与謝蕪村

毛馬一三


江戸時代中期の大阪俳人で画家である与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれている。生誕地が大阪毛馬村と余り周知されていない事実のことは本誌で既に触れている。

しかし、蕪村が俳人として大阪の中心部を活躍の舞台にしていたことには触れていない。むしろそれに気づかなかったのが本当のところだ。それはこれから追々。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸に下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な郷愁は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

おそらく、京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲からも過酷ないじめに遭わされたことなどから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。

しかも蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だ。だが、どうしてこんな超有名な俳人に師事し俳諧を学ぶことができたのか、田舎の毛馬村と江戸との結びつきや、師匠との今謂うコネがどうして出来たのか、ミステリーだらけだ。この時蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。


<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、頻繁に大阪にやって来ていたことが、最近分かってきた。船から陸地に上がったのは、生誕地毛馬村とは全く正反対西側の淀屋橋や源八橋からで、ここから大阪市内にある数多くの門人らを訪ねて回っている。

蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ね、大阪の蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回っている。大阪市内の各地を回ったことになる   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

早い話、蕪村にとり大阪は活躍の場だった訳だ。これもあまり知られていない。

この句を、この茶屋町で蕪村が出句したかどうかはわからないが、北区茶屋町のこの周辺に蕪村が立ち寄っていたことは事実なので、これに因んでイベントを企画したという。  再掲

2019年07月09日

◆紫式部と蕪村の「和紙」

毛馬 一三


書き出しは、大阪俳人与謝蕪村のことからだ。蕪村(幼名:寅)は、生誕地大阪毛馬村で幼少の頃、母親から手ほどきをうけて高価な「和紙」を使って「絵」を描いて、幼少時期を楽しんでいた。

寅は、庄屋の子供だったから、高価な「和紙」を父から自在に貰って、絵描きに思いのままに使ったらしい。

その幼少の頃の絵心と嗜みが、苦難を乗り越えて江戸に下り、巴人と遭遇してから本格的な俳人となったのも、この幼少の頃「和紙」に挑んだ「絵心」とが結び付いたらしい。

さて、本題―。

高貴な「和紙」の事を知った時、ジャンルは違うが、紫式部が思い切り使って「和紙」を使って「世界最古の長編小説・源氏物語」を書いたことを思い出した。

そのキッカケは、福井県越前市の「和紙の里」を訪ねてからである。

越前市新在家町にある「越前和紙の里・紙の文化会館」と隣接する「卯立の工芸館」、「パピルス館」を回り、越前和紙の歴史を物語る種々の文献や和紙漉き道具の展示、越前和紙歴史を現す模型や実物パネルなどを見て廻った。

中でも「パピルス館」での紙漉きを行い、汗を掻きかき約20分掛けて自作の和紙を仕上げたのは、今でもその時の感動が飛び出してくる。

流し漉きといって、漉舟(水槽)に、水・紙料(原料)・ネリ(トロロアオイ)を入れてよくかき回したあと、漉簀ですくい上げ、両手で上下左右に巧みに動かしていくと、B5くらいの「和紙」が出来上がる。まさにマジックの世界だ。

ところでこの越前和紙だが、今から約1500年前、越前の岡太川の上流に美しい姫が現れ、村人に紙の漉き方を伝授したという謂れがある。

山間で田畑に乏しかった集落の村人にとり、紙漉きを伝授されたことで、村の営みは豊かになり、以後村人はこの姫を「川上御前」と崇め、岡太神社(大瀧神社)の祭神として祀っている。

<その後大化の改新で、徴税のため全国の戸籍簿が作られることとなり、戸籍や税を記入するために必要となったのが「和紙」である。そのために、越前では大量の紙が漉かれ出したという。

加えて仏教の伝来で写経用として和紙の需要は急増し、紙漉きは越前の地に根ざした産業として大きな発展を遂げてきている>。

さて長編小説「源氏物語」の作者紫式部は、執筆に取り掛かる6年前の24歳の時(996年)、「和紙」の里・越前武生に居住することになり、山ほどの「和紙」に囲まれて、存分に文筆活動に励んだ。

当時、都では「和紙」への大量の需要があったらしく、宮廷人も物書きも喉から手が出る程の「和紙」だったが、手には入らなかった。

ではどうして都にいた紫式部が、遥か離れた「和紙」の里越前の武生に移住してきたのか。それはご当地の国司となった父の藤原為時の“転勤”に関わりがある。文才だけでなく、商才に長けた為時の実像が浮かび上がる。

<為時は、中級の貴族で、国司の中で実際に任地へ赴く“転勤族”だったそうで、996年一旦淡路の国(下国)の国司に任命されるが、当時の権力者・藤原道長に賄賂の手を使って、転勤先を越前の国(上国)の国守に変更してもらっている。はっきり言えば為時は、淡路の国(下国)には赴任したくなかったのだ。何故なのか。

当時、中国や高麗からの貿易船が日本にやってくる場合、海が荒れた時や海流の関係で、同船団が「越前や若狭」の国を母港とすることが多く、このため海外の貴重な特産品が国司のもとに届けられ、実入りは最高のものだったという>。

藤原為時一族は、中級の貴族ながら文才をもって宮中に名をはせ、娘紫式部自身も為時の薫陶よろしく、幼少の頃から当時の女性より優れた才能で漢文を読みこなす程の才女だったといわれる。

これも商才に長けたばかりでなく、父親の愛情として、物書きの娘に書き損じに幾らでも対処できる「和紙」提供の環境を与えたものといわれる。

<この為時の思いは、式部が後に書き始める「源氏物語」の中に、武生での生き様が生かされている。恐らく有り余る「和紙」を使い、後の長編小説「源氏物語」の大筋の筋書きをここで書き綴っていたのではないだろうか。平安時代の歌集で、紫式部の和歌128 首を集めた「紫式部集」の中に、武生の地で詠んだ「雪の歌」が4 首ある。

越前武生の地での経験が、紫式部に将来の行き方に影響を与えたことはまちがいない。と同時に式部は、国司の父親のお陰で結婚資金をたっぷり貯め込むことも成し遂げて、約2年の滞在の後、京都に戻り、27歳になった998年に藤原宣孝と結婚している>。

越前武生の生活は、紫式部にとり「和紙」との出会いを果たして、後の世界最古の長編小説への道を拓くことに繋げた事は、紛れもない事実であろう。

<紫式部の書いた「源氏物語」の原本は現存していない。作者の手元にあった草稿本が、藤原道長の手によって勝手に持ち出され外部に流出するなど、「源氏物語」の本文は当初から非常に複雑な伝幡経路を辿っていたという。

確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は、現在のところ一つも見つかっておらず、この時期の写本を元に作成されたと見られる写本も、非常に数が限られているという>。
 
この歴史の事実と筆者の推論を抱きながら、「紫式部公園」に回り、千年前の姿をした高い式部像に対面してきた。

北京五輪の開会式の時、中国の古代4大発明の一つとして「紙」を絵画の絵巻をCGで描き、国威を高らかに示した。

この紙が7〜800年後に日本に渡り、「和紙」となった。その後、「世界最古の長編小説を書いた女性が日本にいた」ということは、中国は勿論諸外国は知らない。

参考:ウィキペディア、: 青表紙証本「夕顔」 宮内庁書陵部蔵 
(加筆再掲) 

2019年07月03日

◆韓国「青瓦台」襲撃未遂事件

               毛馬 一三

全国版メルマガ「頂門の一新」主宰の渡部亮次郎氏が、以前掲載された「歴史の現場に立ちながら」を拝読し 北朝鮮ゲリラによる韓国大統領府「青瓦台」襲撃未遂事件のことを改めて思い出した。

私がNHK大阪府庁記者クラブのキャップをしていた折、同事件に深い関心を覚えたため、単独で渡韓し、既知の韓国有力新聞社社長の紹介で韓国政府公安機関の要人と面会し、事件「詳細」を“取材”した。

勿論休暇をとっての私行動だった。その取材内容は立場上「公」には出来なかったが、思い出した序でに「ドキュメント小説風」に纏めた当時の「取材メモ」を探し出した。ご参考までに下記に添えておきたい。

韓国青瓦台奇襲は、1968年1月21日夜10時を期して決行する命令が、金日成首領から金正泰を通じて出された。青瓦台奇襲部隊は組長の金鐘雄大尉(事件後4日目に射殺)ら31名で、唯一生き残った金新朝も一員だった。

全員が機関短銃1丁(実弾300発)、TT拳銃1丁、対戦車手投げ弾1発、防御用手投げ弾8発と短刀で武装した。

奇襲部隊は、1組が青瓦台の2階を奇襲して朴正煕大統領と閣僚を暗殺、2組は1階を襲撃して勤務員全員を殺し、3組は警備員、4組は秘書室全員射殺というのが任務だった。

16日の午後、黄街道延山基地を出発。途中軍事休戦ライン南方の非武装地帯を緊張しながら訓練通り過ぎ、ソウルに真っ直ぐのびる丘陵を辿った。歩哨所や検問に遭遇しなかったため。金組長は「南」の士気が乱れている所為だと勘違いした。このため、31人全員が隊列を組んで堂々と行軍するという行動に出た。

だが行軍しているうち、「戸迷い」にぶち当たった。所持した地図に従いソウルにいくら接近しても、「北」で教育されたような荒廃している筈のソウル市街は21日の夜になっても現れてこない。

南下すればするほど煌々とした市街地が現れてくるばかりだ。「これはソウルではない」。「じゃ、一体ここは何処なんだ」。「北」の教育が間違っているとは一瞬たりとも気付かないミスを更に重ねた。

その上に韓国軍の服装、装備に身を固めている限り怪しまれることはないと思い上がった金組長が、敵地で初めて出会った韓国人2人に「訓練中に道に迷ったのだが、ソウルに行く道を教えてくれないか」と、呆れた質問をしている。

奇襲隊に遭遇した2韓国人は、ソウルへの道筋を教えたものの、不審に思った。眼下に広がるソウルを韓国軍が見つけられない筈はない。発音も韓国訛ではない。まして前年6月から「北」の武装スパイが上陸して韓国軍から射殺された事件を2人は知っていた。2人は急ぎ山を降り、警察に通報した。

奇襲隊は21日夜9時、ソウル北方紫霞門の坂道を通過しようとして、警察の検問にひっかかった。尋問を受けた奇襲隊は慌てて機関短銃を乱射し、市バスと民家に見境なく手投げ弾を投げた。

奇襲隊は、青瓦台の800m手前まで迫りながら、韓国軍と警察の掃討作戦によりちりじりに撃退された。2週間に及ぶ掃討作戦により、金新朝1名が逮捕され、他は全滅させられた。この銃撃戦で韓国側は、崔警察署長を含め68名が死亡している。

序でながら私の「メモ帳」には、青瓦台襲撃に失敗した「北」が、10ヶ月後の11月2日、襲撃組長金鐘雄大尉ら31名の同期生120人のいわゆるゲリラ別斑が、韓国慶尚北道蔚珍郡と荏原道三に海上から「南」に進入している。

このゲリラ隊は、山岳地帯の小部落を武力で占領、赤化せよという工作命令を受けていた。部落民を集めて赤化を強要する「部落拉致事件」。事実従わない者は短剣で刺し、石で殴り殺すという虐殺を行っている。

「共産党は嫌い」と叫んだ李承福という10歳の少年の口を引き裂いて殺した。断崖絶壁をロープでよじ登り、部落を占領して住民を」拉致し、赤化地帯にするという想像を絶するこの「北」のゲリラ事件は、何故かわが国では余り知られていない。

渡部氏は、<私も同様だが、青瓦台襲撃未遂事件、文世光事件がつながっておることを系統的に追跡取材する必要性を感じなかった。これらの事件が「北」による日本人大量拉致事件とつながっていると考える記者は知らなかった>と言っている。

<文世光事件をして、北による日本人拉致事件を予想出来る態勢が大阪府警にあったかどうか。その取材を指揮できる記者かデスクがいたか>とも指摘されている。

「メモ帳」を繰り返し見返しながら、私自身もそこまでは考えもつかなかった。

<今回の拉致事件担当相による売名パフォーマンスをマスコミが非難しないのは自らの足許が暗いからである>という指摘は、まさにその通りだと思う。(了)
2010.07.25

2019年06月29日

◆ノロウイルスの猛威

毛馬 一三


抵抗力が弱い高齢者高齢者を中心にノロウイルスによる感染性胃腸炎が、全国的に猛威を振るっている。高齢者にとってはゆゆしきことだ。

ノロウイルスは、生ガキのような二枚貝にふくまれ、汚染された貝を食べたり、調理したりする際に感染するため、福祉施設などで集団感染する可能性が高いという。そこで、大阪厚生年金病院 看護部 看護ケア推進室 の柴谷涼子さん(感染管理認定看護師)に「ノロウイルスの入門と予防の仕方」について、下記のように記述してもらった。ご紹介したい。

◆<老人保健施設などでノロウイルスの集団発生が報じられておりますが、ノロウイルスについて正しくく理解し、ご自身も感染しないよう予防しましょう。

ノロウイルス感染症とは・・・
 ノロウイルスが人の小腸で増殖して引き起こされる急性胃腸炎です。
@カキや貝類を十分に加熱せず食べた場合
A生ガキや貝類で汚染された調理器具で調理した生野菜などを食べた場合
Bウイルスに感染したヒトの便や吐物に触れた手で調理をした場合・・・
などに感染する可能性があります。

◆症状
 年齢に関係なく感染は起こりますが、高齢者や抵抗力の弱ったヒトでは重症化する例もあります。嘔気・嘔吐・下痢が主症状です。
 腹痛、頭痛、発熱、悪寒、筋痛、咽頭痛などを伴うこともあります。 高齢者の場合、症状が出て、水分摂取ができなくなるとすぐに脱水症状を起す可能性がありますので、早めに病院の診察を受けて下さい。

◆予防
 生のカキや貝類は内部まで、十分に加熱してから食べるようにしましょう。
 カキの処理に使用したまな板などは、よく水洗いし、熱湯消毒をしてから使用しましょう。

 冬場はこのノロウイルスに限らず、様々な感染症が流行します。感染予防としてもっとも重要なのは、普段からの「手洗いやうがい」です。
 外から帰ったあとは必ず「手洗いとうがい」をする習慣をつけましょう。>
                       
( 参考文献;)
 1.国立感染症研究所 感染症情報センター感染症発生動向調査週報 感染症の話
 http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k04/k04_11.html
 2.大阪府食の安全推進科    http://www.pref.osaka.jp/shokuhin/noro/
 3.厚生労働省ノロウイルス食中毒の予防に関するQ&A
http://www.mhlw.go.jp/topics/syokuchu/kanren/tobou/040204-1.html

2019年06月15日

◆淀川河底の「蕪村の生家」と「蕪村銅像」

     毛馬 一三

                         
江戸時代の俳人与謝蕪村の生家は、淀川の河底に埋没しているのは間違いないのですが、一体河底の何処に埋没させられて仕舞ったのでしょうか。詳しい場所は未だ不明です。

確かに、大阪毛馬の淀川堤防に「蕪村生誕地」と書いた「記念碑」が建立されてはいます。しかし「蕪村生誕し幼少を過ごした生家」は、この場所ではないことははっきりしています。

実は「蕪村の生家」が、冒頭に記したように、淀川堤防から眼下に見える「淀川の川底」に在るのは事実です。なぜ淀川の川底に埋没されたのでしょうか。これは追々。

徳川時代の淀川は、よく手入れが行われていましたが、明治維新後は中々施されていなかったのです。ところが、明治18年に淀川上流の枚方で大水害が起き、下流の大阪で大被害を受けたことをきっかけに、明治政府がやっと淀川の本格的改修に乗り出しました。

その際明治政府は、単なる災害防止ためだけではなく、大阪湾から大型蒸気船を京都伏見まで通わるせる航行で「経済効果」などの多目的工事に専念することを決めました。

そのために淀川の河川周辺の陸地を大幅に埋め立て、それまでの小さな淀川を 大きな河川にする大改修を立案したのです。

これに伴い、旧淀川沿いにあった「蕪村生家」地域は埋め立ての対象となり、すべて「河川改修工事」によって川底に埋められて仕舞いました。

さて、明治政府は関西の大型河川・淀川を大改修するため、オランダから招いた河川設計者・デ・レーケとフランス留学から帰国していた設計士沖野忠雄とを引き合わせ、「淀川大改修」の設計を依頼しました。

明治政府の依頼を受けた2人は、「大改修工事」の設計を創り上げ、明治29年から工事を開始しました。

とにかくこの大型改修設計は、大阪湾に京都の宇治川や桂川、奈良からの木津川を中津川に合流させ、一気に淀川として大阪湾に繫ぐ、巨大な設計でした。

そうすれば貨物蒸気船を大阪湾と京都を結んで航行させることが出来、逆に京都・枚方などで大水害が起きた場合でも大量の水量をさらりと、大阪湾に流すことが出来るのです。二本立ての「効果狙いの設計」でした。

勿論、上流の災害で流出してくる「土砂」が、大阪に被害を与えないため「毛馬閘門」設計も創りました。

これが淀川から大阪市内に分岐させる「毛馬閘門」の設計主旨だったのです。この「毛馬閘門」からは、淀川本流から分岐して大阪市内へ流れる河川を設計しました。その河川の名を「大川」と名付けたのです。

この「大川への分岐設計」で、上流の水害に伴う土砂流失の回避は実現し、大阪の上流からの防災は、今日まで護られているのです。

このように2人による設計書は、世界の河川工事技術水準に準じたもので、明治政府が施工した「河川大改修工事」としては全国的に見ても画期的なものでした。

同工事は、明治29年から明治43年まで行われ、設計通り完成しました。

ここから本題。この「河川大改修工事」によって、与謝蕪村が生まれ、幼少を過ごした大阪市都島区毛馬町(摂津国東成郡毛馬村)は、跡形もなく淀川に埋没させられ、深い川底に沈んで仕舞いました。

明治政府の強制でしたから、当時の住民は仕方なくそれに従ったようですが、川幅も660b(従来の30数倍)となり、浅かった河の深さも5bの巨大河川に変容したのです。

この住居埋没の強制工事で、前述の如く、蕪村の生家(庄屋?)は勿論、お寺、菜の花畑、毛馬胡瓜畑跡などの、当時の地域の様子は皆目全くわかりません。今は淀川の毛馬閘門近郊にある蕪村記念碑から、淀川の眼下に見える川底が「蕪村が幼少を過ごした生家地域」だと想起出来るだけで、寂しい限りです。

淀川近郊の蕪村家(庄屋)の後継者の方といわれる毛馬町の家を訪ね、「家歴」を伺いました。しかし、「地図」も無いし、お寺も埋没して「過去帳」もないために、蕪村生誕地が淀川の河底にありことは間違いないですが、今でもどのあたりの河底にあるのか分かないのです。」という答えが返って来ただけでした。

どうか大阪毛馬町の「蕪村公園」と通り過ぎて、「毛馬閘門」と「蕪村記念碑」ある淀川堤防の上から眼下に流れる「淀川」を見ながら、その河底に蕪村生誕地があることを想いつつ、蕪村が幼少期をここで過ごしたのかと、ゆったりと瞑想して欲しいですね。

ところで本題。淀川近郊の蕪村家(庄屋)は、大阪毛馬町に在る「淀川神社」の氏子でした。このため年間の祭事や祈願の折は、この「淀川神社」に父母と一緒に蕪村「幼名―寅」は、参詣に通ったことが、江戸時代の慣習から推察出来ます。

また蕪村が、毛馬村を出奔し江戸へ下る決意を固めた時、氏子の立場から「淀川神社」に参詣し、将来の生き方を祈願したことは、当然のことと考えられます。

そこで、今の「淀川神社」の境内に、私から呼びかけて協賛者のお力を頂き、「高さ1m60pの銅製の蕪村銅像」を建立しました。

望郷の念の強い「蕪村」は、この「生誕地参詣神社に銅像が建立した」ことに喜んでくれて帰郷して呉れるでしょう。また「淀川神社」も、「蕪村参詣神社」として、後世に伝承されるでしょう。

どうか「蕪村銅」のご拝観にきて頂くよう心からお願い致します。

取材先:国交省近畿地方整備局淀川河川事務所

2019年06月10日

◆福岡八女茶 嗜み習慣を続ける

                              毛馬 一三

筆者の家では、食事の後や折を見て八女茶を毎日欠かさず10杯以上常飲している。祖母の実家が福岡県八女郡の八女茶(元は星野茶)の茶園だったのが縁で、子供の頃から八女茶の煎茶や玉露を嗜んできた。

その嗜みはいま尚継続しており、5月の一番茶の時期になると、八女茶生産元の祖母の実家から、注文した1年分の八女茶の煎茶と玉露が送られてくる。

今年早くも、「特選煎茶」が20本届いた。1年分だ。

早速、今年の特選新煎茶に味わいを試みた。

70度位に冷ましたお湯をゆっくりと茶葉を入れた急須に移し、3〜4回ゆるりと左右に回したあと湯飲みに注いで飲み始めると、筆舌に尽くせないまろやかな風味と甘み、それに他所の茶より濃い味が口内に広がり、至福の瞬間がやってくる。

しかも茶に含まれるカテキンの成分が、最近、抗ガン作用と抗微生物作用に効果があることが広まってきたことから、健康維持のためこの八女茶嗜みの習慣を続けている。

八女茶以外に全国には下記のような有名な茶の生産地がある。

<愛知県(三河茶)、茨城県、(奥久慈茶、猿島茶)、鹿児島県(かごしま茶)、京都府(宇治茶)、岐阜県(美濃茶)、熊本県(肥後茶)、高知県(土佐茶)、埼玉県(狭山茶)佐賀県(嬉野茶)、滋賀県(近江茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)、三重県(伊勢茶)、宮崎県(日向茶)、がある>(日本茶博物館www.kaburagien.co.jp/museum/museum/index.php - 14k -)

京都府(宇治茶)、佐賀県(嬉野茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)は過去に飲んだことがあるが、それなりに芳醇で美味な緑茶だったという印象と思い出がある。

ところで下記のような記述の本が出ていた。これには目を惹かされた。

<緑茶を1日に7杯分ほど飲むことで、糖尿病になりかかっている人たちの血糖値が改善することが、静岡県立大などの研究でわかった。健康な人で緑茶をよく飲んでいると糖尿病になりにくいという報告はあるが、高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告は珍しいという。

血糖値が高めで、糖尿病と診断される手前の「境界型」などに該当する会社員ら60人を対象に緑茶に、含まれる渋み成分のカテキンの摂取量を一定にするため、いったん入れたお茶を乾燥させるなどして、実験用の粉末を作製。

これを毎日、湯に溶かして飲むグループと、飲まないグループに無作為に分け、2カ月後の「血糖値」を比べた。

平均的な血糖値の変化を、「Hb(ヘモグロビン)A1c」という指標でみると、緑茶粉末を飲んだ人たちは当初の6.2%が、2カ月後に5.9%に下がった。

飲まなかった人たちは変わらなかった。飲まなかった人たちに改めて飲んでもらうと、同じように2カ月間で6.1%から5.9%に下がった。

2グループで体格や摂取エネルギーなどに差はなく、緑茶からのカテキン摂取量が血糖値に影響したらしい。1日分の緑茶粉末は一般的な濃さの緑茶で湯飲み(約100ミリリットル)約5杯分のカテキンを含み、緑茶粉末を飲んだ人では普通に飲んだ緑茶と合わせ1日に約7杯分のカテキンをとっていた。

研究の中心で、静岡県立大から移った吹野洋子常磐大教授(公衆栄養学)は「運動などの生活習慣改善とともに、食事の中で積極的に緑茶を取り入れてほしい」といっている>。(以上)

前記の様に、カテキンが抗ガン作用に効果が在ったり、良質な緑茶から抽出されたポリフェノールはビタミンEの10倍、ビタミンCの80倍というすぐれた抗酸化力を持っているといわれているが、緑茶僅か7杯の飲料で、高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告には驚かされた。

筆者の周りで糖尿病の一歩手前で悩んでいる先輩知人が、最近多い。緑茶7杯で高血糖の人たちに効き目があるというなら、早速緑茶の常飲を勧めよう。お茶の嗜みは、心の安らぎも導いてくれるからだ。   (了 再掲)

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2019年06月05日

◆春日局は光秀重臣の娘

                         毛馬 一三

春日局(かすが の つぼね)は、本名斎藤福(さいとう ふく)と云い、江戸幕府の3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」との名は、朝廷から賜った称号である。

ところが、福の父は本能寺の変で織田信長を暗殺した、明智光秀の重臣・斎藤利三で、福はその娘だった。
斎藤利三は捕えられ斬首されたが、そんな本能寺の変の主役の娘・福をどうして江戸幕府の大奥に招き入れ、大奥の頭の「春日局」にまで優遇したのだろうか。「謎」の一つだ。
<福は父斎藤利三の所領のあった丹後国の黒井城下館(興禅寺)で生まれる。丹波は明智光秀の所領であり、利三は重臣として丹波国内に、光秀から領地を与えられていた。

光秀の居城を守護するため、福知山城近郊の要衝である黒井城を与えられ、氷上群全域を守護していたものと思われる。福は、黒井城の平常時の住居である下館(現興禅寺)で生まれたとされている。
こうして福は、城主の姫として、幼少期をすごした。

その後、父は光秀に従い、ともに本能寺の変で織田信長を討つが、羽柴秀吉に山崎の戦いで敗戦し、帰城後に坂本城下の近江国堅田で捕らえられて斬首され、他の兄弟も落ち武者となって各地を流浪していたと考えられている。

そうなって福は、母方の実家の稲葉家に引取られ、成人するまで美濃の清水城で過ごしたとみられ、母方の親戚に当たる「三条西公国」に養育された。これによって、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけることができた。>ウイキペディア
このような歴史背景から見て行くと、明智光秀の重臣だった父親の血を惹く実の娘が、江戸幕府に召し上げられて、「春日局」となるとは、首を傾げたくなる訳だ。

大阪堺の歴史家によると、徳川家康は本能寺の変の前に、織田信長を訪ね酒杯を頂きながら戦況を交わしている。明智光秀はこの酒杯のお世話を担務したが、段取りを信長に嫌悪されて過激の叱責を受け、信長側近の地位を剥奪された。
そこで信長を将来の身を絶望恨み、本能寺の変を決意したという。

ここで重要なことだが、重臣斎藤利三を遣って、徳川家康に信長暗殺を秘かに伝え、本能寺の変に突入したのだそうだ。そして徳川家康には、無事に京都から大阪を経て、堺まで逃げ込む方策を告げたのだという。

密告通り、京都で「変」が起こったことを知った家康は、迎えに駆けつけてきた斎藤利三の強力家来に誘導されて方策通り、堺に向けて脱出。そのあと伊賀の多数の忍者に擁護されながら、本拠城の三河城に苦労して辿りついたという。

この行動は、恰も本能寺の変とは「無縁」であり、むしろ「被害者」たる姿勢を世間に見せ付ける行動を敢えて披露したように見える。堺にはそれを裏付ける資料もが少々あるというのだ。

つまり、家康にとって、斎藤利三は命の恩人ということになる。秀吉にとってもゆるせない反乱重臣の一人斎藤利三こそ、家康にとっては恩返しをしなければならない重要人物であることは間違いないことになる。つまり、「福」は紛れもない命の恩人の娘だったのだ(歴史家)。
ところが、もう一つの見方もある。「謎」の二つ目である。

つまり、家康がすみやかに京都を脱出出来たのは、家康と光秀の間で、信長を暗殺する方策を事前から立案し合っていたものではないか。その脱出方策の実行を斎藤利三に任せ、家康の身の安全と、信長後任の詰めまでも、申し合わせていたのではないかと云う見方もある。つまり、家康こそ「暗殺首謀者」だとの見方だ。

方策は見事に成功した。ところが斎藤利三は斬首された。となれば上記と同様、家康は、紛れもない命の恩人の娘だった「福」に、父親の恩を返してやることを考えたに間違いないと考えられる。

さて、<福は、将軍家の乳母へあがるため、夫の正成と離婚する形をとった。慶長9年(1604年)に2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命される。このとき選考にあたり、福の家柄及び公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたといわれている。

家光の将軍就任に伴い、「将軍様御局」として大御台所・江の下で大奥の公務を取り仕切るようになる。寛永3年(1626年)の江の没後からは、家光の側室探しに尽力し、万や、楽、夏などの女性たちを次々と奥入りさせた。
また将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握る。

寛永6年(1629年)には、家光のほうそう治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、そのまま10月には上洛して御所への昇殿を図る。
しかし、武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため、血族であり(福は三条西公条の玄孫になる)、育ての親でもある三条西公国の養女になろうとしたが、既に他界していたため、やむをえずその息子・三条西公条と猶妹の縁組をし、公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内する資格を得ている。
そして三条西 藤原福子として同年10月10日、後水尾天皇や中宮和子に拝謁、従三位の位階と「春日局」の名号及び天酌御盃をも賜るのである。

その後、寛永9年(1632年)7月20日の再上洛の際に従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。よって二位局とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比定する位階となる。
寛永11年に正勝に先立たれ、幼少の孫正則を養育、後に兄の斎藤俊宗が後見人を務めた。寛永12年には家光の上意で義理の曾孫の堀田正敏を養子に迎えた。

寛永20年(1643年)9月14日に死去、享年64。辞世の句は「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」。法号は麟祥院殿仁淵了義尼大姉。墓所は東京都文京区の麟祥院、神奈川県小田原市の紹太寺にある〉。  ウイデペディア。

このように「福」の奇跡的な生涯を見て行くと、上記に<武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため>とあって、これを秘匿した工作がはっきりしてくる。「謎」の一つは解けそうだ。

しかも、素晴らしい殿中での政治的画策の実現を図る、「福」の明晰な頭脳が分かる。

しかし、家康と明智光秀が共謀者同士だったかの、二つ目の「謎」は分からない。
                                        
この「春日局」の生涯には、誠に興味が深い。
以上 再掲
                        

2019年05月31日

◆芭蕉随行の『曾良』は忍者?

                           毛馬 一三


芭蕉は、大阪で死ぬなどとは夢想だにせず、早く床払いをして好きな旅を続けたいとの気持であったと、様々な文献が記している。

だが、思いもよらず病(食中毒といわれる)は悪化、意に反して終焉を迎えるのだが、見守る弟子たちの顔を眺めながら「死」が迫るのを悟り、幸せな生涯だったと瞑目しながら、逍遥と死の旅についたようだ。

頂門の一針の渡部亮次郎氏から頂いた寄稿は、下記の通りであった。
<深川・芭蕉記念館 は拙宅の近くです。徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。江戸の発展とともに新たな市街地、農地が必要となり、土地の開発が始まった。大阪からきていた深川八郎右衛門が新田を開発、慶長元年(1573年)深川村と称したのが始まり。

江戸の下町と言えばなんと言っても深川。出発地は都営新宿線森下駅。駅を出て新大橋通りを浜町方面に5分ほど歩いていくと隅田川にかかる橋が見えてくる。これがこの通りの名前になっている新大橋。橋の手前の十字路を左に曲がりしばらく歩いていくと最初の目的地「芭蕉記念館」がある。

芭蕉は延宝8年(1680年)江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ。元禄2年(1689年)3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる奥の細道。岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅。

「芭蕉記念館」には 当時、芭蕉が着ていた袈裟を初め芭蕉庵を模したほこら、句碑 などがある。記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり。川沿いの道を左に少し歩いていくと史跡庭園があり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。 先日来日した李トウキ前台湾総統もご覧になって行った>。
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この寄稿を読ませて貰った時、芭蕉に纏わる新たな衝撃が脳裏を駆け巡った。それは、<徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。(そんな未開発の深川だったが、その深川から)元禄2年3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。(略)岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅>というくだりである。

江戸から東北、北陸地方を150日間で踏破した2400キロ(600里)の道程を踏破したと言うが、とんでもない距離だ。単純に計算すると1日16キロ歩いたことになるが。だが当時の旅はそんな生易しいものではない。

江戸時代の元禄期といっても、 江戸から東北、北陸地方には、のんびり歩き通せる平坦な道が整っていた筈はない。ほとんどが山道・峠道であり、山を越えるしか方法はなかった。

筆者も数年前福井の江戸時代以前からの「鯖街道」を歩いたことある。山道の勾配は天地の差ほどの高低を繰り返し上り下りし、僻々した記憶がある。山道もない場所は絶壁を横切るしかない。ましてや橋はほとんどなかった。大雨で河が氾濫、足止めを食うことも日常茶飯事だったろう。

「奥の細道」によると、2人は何と1日に48キロ(12里)を 歩いた日があったという。幾ら昔の人が健脚だったとはいえ、老齢の域の芭蕉(46)と同行者曾良(41)が、そんな長距離を1日で踏破できたと考える方が無理な話だ。

つまり芭蕉は、こうした異常な歩き方の速さや、伊賀の上野の生まれであることから「忍者」ではなかったかと論じられてきた。それはまた別の機会に譲るとして、ここで気になるのは、むしろ芭蕉の弟子であり、旅の同伴者である「曾良」の方だ。

「曾良」のことは、純朴な芭蕉のお供だという印象が強くて、「忍者説」はあまり知られていない。

ところが調べてみると、こんな具合だ。<曾良は、幕府とのつながりが緊密で、当時日光工事普請を巡ってあった伊達藩と日光奉行の対立を探るための調査を、幕府から曾良に命じられたとされている。その目的と行動を秘匿するため、芭蕉の歌枕の旅が巧みに利用したというのが専門家の間では定説となっている。

その曾良は、さらに社寺や港の荷役の動きを調べる任務も担っていたらしく、北前舟が立ち寄る日本海沿岸の港として酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀を丹念に探索して回っている痕跡がある。

その任務行動が、なんと芭蕉の旅の日程と、無理なく調和した形になっている事実には驚かされる。きっと幕府からの支度金が潤沢だったため、俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の興行収入だけでは食えなかった芭蕉の懐具合が、この「曾良」の任務を受け入れことにやむを得ず、同調したのではないかと専門家は指摘する>。

こう見てくると、「曾良」という旅の同伴者は、芭蕉に接近して弟子に登用してもらい、巧に芭蕉を手なずけて幕府隠密の任務を隠密裡に遂行していた“忍者”だったという説は真実味を帯びてくる。果たして芭蕉の死後、「曾良」は、幕府巡見使九州班員に正式に収まっている。



芭蕉の終焉の時、曾良の姿はそこに無かった。公務を理由に葬儀に参列していない。やはり芭蕉に心酔して傍に連れ添った弟子ではなかったのではないか。               (了)   参考・ウィキべディア

2019年05月25日

◆紫式部と蕪村の「和紙」

毛馬 一三


書き出しは、大阪俳人与謝蕪村のことからだ。蕪村(幼名:寅)は、生誕地大阪毛馬村で幼少の頃、母親から手ほどきをうけて高価な「和紙」を使って「絵」を描いて、幼少時期を楽しんでいたからだ。

寅は、庄屋の子供だったから、高価な「和紙」を父から自在に貰って、絵描きに思いのままに使ったらしい。

その幼少の頃の絵心と嗜みが、苦難を乗り越えて江戸に下り、巴人と遭遇してから本格的な俳人となったのも、この幼少の頃「和紙」に挑んだ「絵心」とが結び付いたらしい。

さて、本題―。

高貴な「和紙」の事を知った時、ジャンルは違うが、紫式部が思い切り使って「和紙」を使って「世界最古の長編小説・源氏物語」を書いたことを思い出した。

そのキッカケは、福井県越前市の「和紙の里」を訪ねてからである。

越前市新在家町にある「越前和紙の里・紙の文化会館」と隣接する「卯立の工芸館」、「パピルス館」を回り、越前和紙の歴史を物語る種々の文献や和紙漉き道具の展示、越前和紙歴史を現す模型や実物パネルなどを見て廻った。

中でも「パピルス館」での紙漉きを行い、汗を掻きかき約20分掛けて自作の和紙を仕上げたのは、今でもその時の感動が飛び出してくる。

流し漉きといって、漉舟(水槽)に、水・紙料(原料)・ネリ(トロロアオイ)を入れてよくかき回したあと、漉簀ですくい上げ、両手で上下左右に巧みに動かしていくと、B5くらいの「和紙」が出来上がる。まさにマジックの世界だ。

ところでこの越前和紙だが、今から約1500年前、越前の岡太川の上流に美しい姫が現れ、村人に紙の漉き方を伝授したという謂れがある。

山間で田畑に乏しかった集落の村人にとり、紙漉きを伝授されたことで、村の営みは豊かになり、以後村人はこの姫を「川上御前」と崇め、岡太神社(大瀧神社)の祭神として祀っている。

<その後大化の改新で、徴税のため全国の戸籍簿が作られることとなり、戸籍や税を記入するために必要となったのが「和紙」である。そのために、越前では大量の紙が漉かれ出したという。

加えて仏教の伝来で写経用として和紙の需要は急増し、紙漉きは越前の地に根ざした産業として大きな発展を遂げてきている>。

さて長編小説「源氏物語」の作者紫式部は、執筆に取り掛かる6年前の24歳の時(996年)、「和紙」の里・越前武生に居住することになり、山ほどの「和紙」に囲まれて、存分に文筆活動に励んだ。

当時、都では「和紙」への大量の需要があったらしく、宮廷人も物書きも喉から手が出る程の「和紙」だったが、手には入らなかった。

ではどうして都にいた紫式部が、遥か離れた「和紙」の里越前の武生に移住してきたのか。それはご当地の国司となった父の藤原為時の“転勤”に関わりがある。文才だけでなく、商才に長けた為時の実像が浮かび上がる。

<為時は、中級の貴族で、国司の中で実際に任地へ赴く“転勤族”だったそうで、996年一旦淡路の国(下国)の国司に任命されるが、当時の権力者・藤原道長に賄賂の手を使って、転勤先を越前の国(上国)の国守に変更してもらっている。はっきり言えば為時は、淡路の国(下国)には赴任したくなかったのだ。何故なのか。

当時、中国や高麗からの貿易船が日本にやってくる場合、海が荒れた時や海流の関係で、同船団が「越前や若狭」の国を母港とすることが多く、このため海外の貴重な特産品が国司のもとに届けられ、実入りは最高のものだったという>。

藤原為時一族は、中級の貴族ながら文才をもって宮中に名をはせ、娘紫式部自身も為時の薫陶よろしく、幼少の頃から当時の女性より優れた才能で漢文を読みこなす程の才女だったといわれる。

これも商才に長けたばかりでなく、父親の愛情として、物書きの娘に書き損じに幾らでも対処できる「和紙」提供の環境を与えたものといわれる。

<この為時の思いは、式部が後に書き始める「源氏物語」の中に、武生での生き様が生かされている。恐らく有り余る「和紙」を使い、後の長編小説「源氏物語」の大筋の筋書きをここで書き綴っていたのではないだろうか。平安時代の歌集で、紫式部の和歌128 首を集めた「紫式部集」の中に、武生の地で詠んだ「雪の歌」が4 首ある。

越前武生の地での経験が、紫式部に将来の行き方に影響を与えたことはまちがいない。と同時に式部は、国司の父親のお陰で結婚資金をたっぷり貯め込むことも成し遂げて、約2年の滞在の後、京都に戻り、27歳になった998年に藤原宣孝と結婚している>。

越前武生の生活は、紫式部にとり「和紙」との出会いを果たして、後の世界最古の長編小説への道を拓くことに繋げた事は、紛れもない事実であろう。

<紫式部の書いた「源氏物語」の原本は現存していない。作者の手元にあった草稿本が、藤原道長の手によって勝手に持ち出され外部に流出するなど、「源氏物語」の本文は当初から非常に複雑な伝幡経路を辿っていたという。

確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は、現在のところ一つも見つかっておらず、この時期の写本を元に作成されたと見られる写本も、非常に数が限られているという>。
 
この歴史の事実と筆者の推論を抱きながら、「紫式部公園」に回り、千年前の姿をした高い式部像に対面してきた。

北京五輪の開会式の時、中国の古代4大発明の一つとして「紙」を絵画の絵巻をCGで描き、国威を高らかに示した。

この紙が7〜800年後に日本に渡り、「和紙」となった。その後、「世界最古の長編小説を書いた女性が日本にいた」ということは、中国は勿論諸外国は知らない。

参考:ウィキペディア、: 青表紙証本「夕顔」 宮内庁書陵部蔵 
(加筆再掲) 

2019年05月22日

◆五月に咲き誇る平戸ツツジ

毛馬 一三


大阪府寝屋市と大阪市を結ぶ旧淀川1級河川の城北川堤防の側道は、それに沿っていろんな樹木のある区域が設けられているため、その都度、季節感を楽しめることが出来、気分が豊かになる。
植樹は、サクラやヤマモモ、菊、クスノキ、ツバキなど50種は超すようだが、両岸1`にわたって植えられている。季節ごとに散歩する人の気持ちを盛り上げてくれる。

「平戸ツツジ」は今が満開で、緑の木の中から真っ赤な花が咲き誇り、目線を奪う。背丈がこじんまりしていて、手入れが要らない。今年は寒気が続いているためか、満開期も長持ちしているようだ。

ところで、私はNHK初任地が佐世保放送局だったため、平戸ツツジの原産地の平戸には取材にも、旅行にもよく出かけた。

平戸は平戸島とその周辺を行政区域とする市で長崎県と九州本土の市としては最西端に位置する都市。旧平戸藩松浦氏の城下町で、当時はまだ孤島だったため、今のような大型橋梁はなく、遊覧船で渡った。海上から平戸の高台に平戸城が見えて歴史の想いを募らせる一方、陸に上がった途端この季節には、あちこちで平戸ツツジに囲まれた。

平戸商工会議所による平戸ツツジの説明によると
<平戸ツツジは、平戸原産の常緑のツツジで、平戸・松浦藩の武家屋敷にて種々な原種の交雑により、400年以上の悠久の時を経て育まれた門外不出の花でした。その大輪の花びらは世界一のツツジとも云われ、短い間ではありますが満開の時期にはびっしりと美しく咲き誇り、見る人の目を大いに楽しませてくれます。

その儚い生命の美しさを映そうと、摘み取った花びらを使って一枚一枚染め上げたのが「平戸つつじ染め」です。

自然の花びら染めは1本1本の木から得られる色が全て異なるので、ひとつとして同じ色はありません。また、上に咲く花と下に咲く花でも、染まる色は違ってきます。かけがえのない、その花の個性ひとつひとつを大切に、絹や綿、和紙に映しました。>だという。

さて、平戸が全国に名を馳せているのは、この「平戸ツツジ」と併せて「平戸の歴史」ということになる。
序でながら、平戸の歴史に触れておく。

<慶長5年(1600年)、日本の豊後国に漂着したオランダ船リーフデ号の乗組員の一員であったイギリス人ウィリアム・アダムスは、徳川家康の信頼を受けて江戸幕府の外交顧問となり、「三浦按針」の名を与えられるなど重用された。
慶長16年(1611年)、イギリス東インド会社はアダムスがイギリス本国に送った書簡によって事情を知り、国王ジェームズ1世の許可を得て彼を仲介人として「日本との通商関係」を結ぶ計画を立て、艦隊司令官ジョン・セーリスを日本に派遣することとなった。

慶長18年5月4日(1613年6月11日/同6月21日)に、平戸に到着したセーリスは、アダムスの紹介を得て駿府城で徳川家康に拝謁して国王ジェームス1世の国書を捧呈し、更に江戸城にて将軍徳川秀忠にも謁見。そしてアダムスの工作が功を奏して、この年の9月1日(10月4日/10月14日)には、家康によって「イギリスとの通商許可」が出された。

そこでセーリスは平戸で在留中国商人李旦から借り上げていた邸宅をイギリス商館とし、リチャード・コックスを商館長に任じて6人の部下を付け、更にアダムスを商館員として採用して顧問とした。

商館は後に正式に買い上げられ、イギリス人商館員や日本人使用人も増員された。商館員や使用人は平戸や江戸・京都・大坂・長崎などに派遣されて貿易の仲介を行ったり、平戸を拠点に商船を東南アジア各地に派遣して貿易業務を行った>。
こうして平戸は、我が国での最初の外国貿易の拠点となったのだ。

ところで、平戸を有名にさせているのは、キリスト教との関わりだ。
<平戸は、日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが三度にわたって布教に訪れた地であり、平戸島や生月島では多くの住民がカトリックの洗礼を受け、その後の江戸時代の禁教令下でも隠れキリシタンとして信仰を受け継いでいった人が多かった。

明治時代に禁教が解かれて、平戸でも宝亀、紐差などの教会が建てられた。聖フランシスコ・ザビエル記念教会のある平戸港周辺の市街地には、もともとカトリックの信徒は少なかったが、近隣各地からの移転により信徒が増えていった。

そして1931年(昭和6年)4月に現在の教会堂が建てられた。献堂40周年の1971年(昭和46年)9月には、聖フランシスコ・ザビエルの像が聖堂のそばに建立され、これに伴い「聖フランシスコ・ザビエル記念教会(あるいは聖堂)」とも呼ばれるようになった>。

余談だが、平戸経由で五島列島の島を取材した時、ある家で「オランダ製の火縄銃」と「隠れキリシタンの像」を見せて貰った。どちらも初めて見るもので興奮した記憶がある。特に「隠れキリシタンの像」は、正面は仏像だが、裏には「キリスト像」が設えてあった。

きっと、キリシタン禁教令下で仏教徒を装いながらも、実際は密かにキリシタン信仰を貫いていた江戸時代の隠れキリシタン徒の様子が浮かび上がってくるような気がして、感動した。

話は、平戸の歴史になってしまったが、平戸ツツジに惹かれる中で、やはり平戸の歴史が一度に蘇ってくる。平戸ツツジの美しさは、本当に歴史まで呼び起こし、心まで豊かにしてくれるものだ。(了 再掲)
参考:ウィキペディア、平戸市          


2019年05月18日

◆「黄砂アレルギー」に注意

毛馬 一三

花粉症歴の経験が全く無い筆者にとって、軽い風邪症状の一種かなと思って、余り気にも止めていなかった。

ところがとんでもない。次第に喉の違和感が痛みを伴うようになり、咳も痰も出るようになった。

そこで、慌てて近くの内科診療所に飛び込んだ。内科医は喉の症状を見た途端、「炎症がひどいですね」という。「原因は?」と訊いたら、「飛来してくる黄砂の黴によるものと思われます。花粉症ではありません」と教えてくれた。

同医師によると、黄砂によるいろんな健康被害で訪れる患者が、急増しているという。同医院から、

・抗生物質―フロモックス錠100mg(毎食後1錠・3日間分)
・咳を鎮める薬―メジコン錠15mg(毎食後2錠・7日分)
・痰や膿を薄めて、痰や鼻汁を出しやすくする薬―ムコダイン錠500mg(毎食後1錠・7日分)
・胃薬―セルベックスカプセル50mg(毎食後1カプセル・7日分)薬を貰った。

だが、マスクを付けて外出を余儀なくさせられた1週間が過ぎても喉の炎症と咳、痰共に治まる気配が無い。再診の結果、まだ喉の炎症は完治してないと診断され、改めて下記の薬を貰った。

・咳を鎮める薬―メジコン錠15mg(毎食後2錠・7日分)
・痰や膿を薄めて、出しやすくする薬―クリアナール錠200mg(毎食後1錠・7日間分)
・炎症を抑えて腫れや痛みを和らげる薬―ダーゼン5mg錠(毎食後1錠・7日分)
・SPトローチ0.2mg(28錠・1日4回)
・アズノールうがい液4%(5ml・1日4回)

2度目の薬を飲んだり、うがいを励行したところ、数日が経過してやっと喉の痛みや違和感がなくなり、咳と痰も出なくなった。

喉にこのような強度な症状が出たのは初めてのことだ。しかも気にはなっていた飛来の「黄砂」によるものだ。

今強烈になっている中国の大気汚染と原因が重なっているらしく、中国から飛来する「黄砂と大気汚染」が、日本に被害をなすりつけているのだ。気象庁も「中国で黄砂が急激に発生してる」と指摘している。日本が被害者になるのか。無性に腹が立つ。

話は後先になるが、<黄砂(こうさ)とは、中国を中心とした東アジア内陸部の砂漠または乾燥地域の砂塵が、強風を伴う砂嵐などによって上空に巻き上げられ、春を中心に東アジアなどの広範囲に飛来し、地上に降り注ぐ気象現象。あるいは、この現象を起こす砂自体のこと>である。

細かい砂の粒子や、粒子に付着した物質、黄砂とともに飛来する化学物質などにより、さまざまな健康被害が生じる。

即ち、咳、痰、喘息、鼻水、痒みといった呼吸器官への被害や、目や耳への被害が目立つ。黄砂が多い日には、花粉症、喘息、アトピーなどのアレルギー疾患の悪化が見られる。>という。 
参考―フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

花粉症で悩まされるだけでなく、黄砂アレルギーで健康被害を煩わされるのでは、堪ったものではない。

ところが肝腎の黄砂による呼吸器官への被害が、増えていることにはあまり知られていないようだ。

黄砂の飛来が顕著な九州や関西では、既にこの被害が出て問題化しているが、全国にも広がるだろう。

黄砂の飛来が予測される時は、TVの「天気予報」で早めに知らせてほしい。

しかも喉などに異常を感じたら、医療機関で診察を早めに受けられることをお勧めしたい。(了  再掲)     


2019年05月17日

◆全国的にノロウイルスの猛威

毛馬 一三

抵抗力が弱い高齢者高齢者を中心にノロウイルスによる感染性胃腸炎が、全国的に猛威を振るっている。高齢者にとってはゆゆしきことだ。

ノロウイルスは、生ガキのような二枚貝にふくまれ、汚染された貝を食べたり、調理したりする際に感染するため、福祉施設などで集団感染する可能性が高いという。そこで、大阪厚生年金病院 看護部 看護ケア推進室 の柴谷涼子さん(感染管理認定看護師)に「ノロウイルスの入門と予防の仕方」について、下記のように記述してもらった。ご紹介したい。

◆<老人保健施設などでノロウイルスの集団発生が報じられておりますが、ノロウイルスについて正しくく理解し、ご自身も感染しないよう予防しましょう。

ノロウイルス感染症とは・・・
 ノロウイルスが人の小腸で増殖して引き起こされる急性胃腸炎です。
@カキや貝類を十分に加熱せず食べた場合
A生ガキや貝類で汚染された調理器具で調理した生野菜などを食べた場合
Bウイルスに感染したヒトの便や吐物に触れた手で調理をした場合・・・
などに感染する可能性があります。

◆症状
 年齢に関係なく感染は起こりますが、高齢者や抵抗力の弱ったヒトでは重症化する例もあります。嘔気・嘔吐・下痢が主症状です。
 腹痛、頭痛、発熱、悪寒、筋痛、咽頭痛などを伴うこともあります。 高齢者の場合、症状が出て、水分摂取ができなくなるとすぐに脱水症状を起す可能性がありますので、早めに病院の診察を受けて下さい。

◆予防
 生のカキや貝類は内部まで、十分に加熱してから食べるようにしましょう。
 カキの処理に使用したまな板などは、よく水洗いし、熱湯消毒をしてから使用しましょう。

 冬場はこのノロウイルスに限らず、様々な感染症が流行します。感染予防としてもっとも重要なのは、普段からの「手洗いやうがい」です。
 外から帰ったあとは必ず「手洗いとうがい」をする習慣をつけましょう。>
                       
( 参考文献;)
 1.国立感染症研究所 感染症情報センター感染症発生動向調査週報 感染症の話
 http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k04/k04_11.html
 2.大阪府食の安全推進科    http://www.pref.osaka.jp/shokuhin/noro/
 3.厚生労働省ノロウイルス食中毒の予防に関するQ&A
http://www.mhlw.go.jp/topics/syokuchu/kanren/tobou/040204-1.html