2017年09月19日

◆大阪にある「自然の滝」

毛馬 一三



大阪のまち中に、自然の「滝」があることを知ってる?と訊いても、多分大方の人は首を傾げるに違いない。ビルの屹立する大都会大阪のまち中で、そんな湧き水が集まり、「滝」となって流れ落ちる光景など想像出来ないからだろう。

紛れも無く私もその一人だった。が、つい先日知人が話の序でに教えてくれた上、そこに案内までしてくれたことがきっかけで、「大阪市内で唯一の滝」の在りかを知ることが出来た。

その「滝」は、大阪市市内の夕陽が丘近郊にあった。「玉出の滝」といった。聖徳太子が建立した四天王寺前の大阪市営地下鉄「夕陽ヶ丘駅」を出て谷町筋から西に向かうと、「天王寺七坂」や「安居神社」、「一心寺」など、寺社や名所が点在する上町台地の歴史のまち、伶人町の中にある。

その天王寺七坂のひとつ、清水坂を登り、細い道を行くと清水寺に着く。本堂の前を抜けて墓地に挟まれた石段にさしかかると、水音がかすかに耳朶を打った。足早にそちらに向かうと、目指す「玉出の滝」に着いた。

「玉出の滝」は、「那智の滝(和歌山)や不動の滝山(岩手)」のように山の頂上から滝壺めがけて怒涛のように流れ落ちる巨大な滝とはスケールが違う。

境内南側の崖から突き出した三つの石造樋から、水道水と同じ程度の量の水がまとまって流れ落ちる、こじまりとした滝だ。

しかし5メートル下の石畳を打つ三筋の水の音は、大きな響きを伴い、その響きは人の心の奥底の隅々にまで行き渡る、いかにも「行場の滝」という感じだ。

知人によると、この「滝」には、落水で修行する常連の人がいるが、新年には滝に打たれて、延命長寿などを祈願する人が訪れるという。

実は、この「玉出の滝」を見た瞬間、京都の清水寺にある「音羽の滝」と瓜二つだと感じた。私の亡くなった母親のいとこの嫁ぎ先が京都清水寺の皿坂にある清水焼の窯元だったので、そこに遊びに行った時見たのが、この「音羽の滝」だった。

案の定、この清水寺は京都の清水寺を、寛永17(1641)年に模して建立した寺で、かつては京の清水にあるような懸造りの舞台も存在していたらしい。

さて、大阪唯一のこの「玉出の滝」は、近くにある四天王寺の金堂の下の清竜池から湧き出る霊水が、ここまで流れてきて滝となっているという言い伝えもあるところから、大阪の歴史の香りと地形の面白さを感じさせてくれる。

余談ながら、この「玉出の滝」の側に、冒頭に記した「安居天神」がある。真田幸村の憤死の跡として知られている神社である。

大阪夏の陣で決戦を挑んだ西軍の真田幸村は、天王寺口(茶臼山付近)に布陣した。徳川方の主力が天王寺方面に進出してくることを予測してのことである。

真田幸村の狙いは、家康の首を取り豊臣家を再興させる戦略だった。真田隊は一丸となって突撃を開始、東軍の先鋒越前軍一万三千を撃破。ついに家康の本陣営に突入。この真田陣の猛攻で、家康の旗本は大混乱に陥り、ついに家康の馬印までが倒されたという。

馬印が倒されたのは、武田信玄に惨敗した三方ヶ原の戦い以来、2度目だった。家康も本気で腹を切ろうとしらしいが、側近に制止され思い止まる。家康が幾多の合戦で切腹の決断を迫られたのは、後にも先にも生涯でこれが2度目である。

だが、真田隊も猛反撃に遭って劣勢となり、今度は家康が、総攻撃を命じた。幸村の要請にも拘らず大阪城からの加勢は現れず、戦場で傷ついた幸村は、ここ「安居天神」の中の樹木に腰を下ろして手当てをしているところを、越前軍の兵に槍で刺され、落命した。

こんな大都会のまちのまん中で、行場ともいうべき市内で唯一の「玉出の滝」が、真田幸村の戦場の近くであったことなどと結びつけて思い馳せていくと、この小さい滝の周辺は見て回るだけでも楽しい歴史が蘇ってくる。(了)

2017年09月10日

◆見逃してならない病気の「前兆」

毛馬 一三



畏友石岡荘十氏の<「あたる」前に必ず「かする」>の寄稿を本誌に掲載したが、まさにその内容が「脳卒中」や「心筋梗塞」に如何に重大なことであることを、改めて知らされた。実はそれに類する事態が私の周辺で起きたからだ。その件は追々。

石岡氏は、それら疾患にはいずれも「前兆」があり、それを見逃してはならないと、こう綴っている。

<心臓の血管(冠動脈)が狭くなる狭心症、完全に塞がる心筋梗塞も高齢者に多い疾患だが、よくよく思い出すとほとんどの人にその前兆がある。血圧が高い、胸が痛くなったり、なんとなく重苦しい感じがしたりするが15分かそこらで治まるので、「ああよかった」とやり過ごす。

これを専門的には「放散痛」というが、大概の人はこれが心筋梗塞の前兆であることに気づかない。こんなときには、バカにせず、24時間緊急対応をしてくれる専門の医師と検査体制の整った病院へ行って診察を受けることが大切だ。

「脳卒中」や「心筋梗塞」で倒れることを、昔から業界では「あたる」といい、一過性の前ぶれを「かする」という。つまり「あたる」前に必ず「かする」前兆がある。

私は、10数年前から「かすった」段階で診察を受け、診察券を確保して、これを外出のときも肌身はなさず携帯して歩いている。そのくらいの心掛けがなければ、attackでよしんば一命をとりとめても、半身不随では快適な老後は過ごせない>。

つまり、胸が痛くなり、15分そこらで治まってもやり過ごすな。専門の医師と検査体制の整った病院に駆け込めと指摘している。さもないと命を落とすか、半身不随となって快適な老後はないと示唆しているのだ。

さて本題。

私の高校同窓生の畏友で、高齢になっても毎朝約2時間掛けて「1万歩」歩きを励行、昼間は、クラブスイミング、日によっては心筋を駆使する「詩吟」を行っている。余りにも想像を絶する運動量に、仲間たちも一様に懸念し、諌めることもしていた。

ところが、ご当人はクラブスイミングの競泳大会に参加した。若者チームと競う「競泳」で、高齢者チーム4人メンバーの1員として出場。予選・決勝を合わせて2000bを、夜9時までかけて全力で泳いだ。

実は、この日朝もいつもの「1万歩」を歩いている。彼によるとこの日の「競泳」のためじっくり練習してきて体力維持には自信をもって臨んだらしいが、流石に夜になると疲れのためか、体はぐったりとしたという。「1万歩」の疲れも加わったようだ。

ところが、翌日朝になるとまた「1万歩」を歩いている。その際、途中で何度も頭や胸全体に気分の悪さを感じた。中断すればいいのに、それが治まるまで休憩し、落ち着くと再び歩きを継続し、何とかやり遂げたそうだ。

この気分の悪さを何かの「前兆」とは思わず、単なる疲れの所為だろうと考え、このあとスイミングクラブに出向いて何時もの通り泳ぎに挑んでいる。

この夜、急激な異変が起こり出した。

胸の痛みが激しくなり、奥さんの勧めで心臓の売薬を3回飲んだが効き目が出てこない。床に横になって安静にしても症状は治まらない。

時間が経過して午前4時になったが症状が変わらないので、奥さんが近くの救急病院に診察を依頼した。しかし当院は外科医しかいないので対応出来ないと断られた。結果的には、この「断り」が幸いだった。

この後、地元消防署に連絡し、医師と検査体制が整った近大医学部付属病院を紹介して貰い、奥さんが同病院に搬送した。診察の結果、心臓の動脈が血栓によりふさがり、血液が流れなくなって動脈の支配する細胞・組織が壊死につながる「心筋梗塞」と診断された。

直ちに手術が行われた。心臓の動脈3枝の内、真ん中の1枝の先端が塞がっており、右足からカテーテルを挿入して空気を送り込み、塞がった部位を押し出す手術だった。手術は4時間かかり、塞がった部位を除去することに成功した。

1枝だけの梗塞でラッキーだったが、そのまま放置したままだったら、一命を落とすことになったであろう。

そのあと無事退院出来た際主治医から、「1万歩」の歩き、水泳等心臓に負担をかける運動などは、絶対控えるよう厳しく注意を受けている。

彼は、学生時代は硬式野球部の選手で、これまで体力には自信があった。しかし日頃から「達成感を尊ぶ性格」の強さが裏目に出て、今度の騒動に結び付いたようだ。

そんな中、奥さんがいち早く検査体制が整った病院へ搬送してくれたことが、一命を救ったくれた最大幸運事であったことを、彼は忘れないと述懐している。

やはり歳に合わせて健康維持には気を配り、「心筋梗塞」や「脳梗塞」などの「前兆」には一層注意しなければならない教訓を、今度の友人の騒動は私たちに与えてくれた。

しかも、冒頭の石岡氏の指摘のように、専門の医師と検査体制が整った病院を事前に決めておき、そこの診察券を外出のときも肌身はなさず携帯して歩くこと。それが、一命をとりとめ、快適な老後を維持していく不可欠なことであることも教えられた。(了)
                             

2017年09月02日

◆万葉集に軍事メッセージ

毛馬 一三 



「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語では判読出来ない歌のほとんどを、何と韓国語で詠んでみると、「未詳歌」ではなく、総て読み明かせると聞いた事を思い出した。

しかもその「万葉集の未詳歌」には、当時の日本と百済との間で「軍事、政治に関する驚くべきメッセージ」が秘められているということだ。

この話をしてくれたのは、以前のことだが、韓国の著名女流作家、李寧煕(いよんひ)氏。韓国大手新聞社「韓国日報」の政治部長・論説委員長から国会議員を経て、韓国女流文学会会長を歴任された。ただ、今もご健在か確認出来ていない。

筆者は、以前「韓国日報」からの紹介で、李氏が来日された折、2日間、奈良県桜井の「万葉の道」やその周辺の「古代天皇古墳群」散策の案内役を務めた。

その時李氏が、こもごもと語ってくれたのが、この「万葉集」に秘められた日本と百済との「軍事、政治に関する驚くべき秘話」だった。

李氏が、日本の「万葉集」と関わりを持ったのは、国会議員だった当時、日本の高校の歴史教科書に韓国関係記述が歪曲されているという問題が提起されているということから、日韓両国国会議員による特別委員会を設け、事実調査を始めたのがきっかけだったという。

つまり、歴史書が歪曲されているかどうかに探るには、古代史にまで遡って検証する必要があり、そのためには両国歴史書に目を通すことだった。

その時、日本の「万葉集」に魅せられて仕舞ったというのだった。その瞬間から「万葉仮名」の研究に励み出されたそうだ。

「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語では判読出来ない歌のほとんどを、何と韓国語で詠んでみると、「未詳歌」ではなく、総て読み明かせること分かったというのだ。これは大発見に違いなかった。

帰国した李氏から、筆者に李氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」が送られてきた。読んでいくうち「日本語訳では見えない様々な謎」が書き込まれていた。その中に、特に注目すべき下記の記述があった。

<万葉集20巻、4516首の内に、日本語では判読できない、正式に「未詳歌」は「3首」があり、このうちの1首に恐るべきメッセージが織り込められている。

斉明天皇(655年即位)の心の中を、額田王(ぬかだのおおきみ)が代わって歌にしたのが、それである。

◆原文: 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念 <巻1の7・未詳歌>

・日本語で詠むと、(秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 刈廬(かりいほ)し思ほゆ)

「日本語解釈」では、下記のようになっている。
(秋の野の 萱(かや)を刈って屋根を葺き 旅宿りした 宇治のみやこの 仮の庵が思われる)。

この解釈だと、額田王が何を言いたいのか、さっぱり意味が伝わってこない。だからこの歌が、解釈不能または解意不明であることから、公式に「未詳歌」とされたのだろう。

そこでこの詳らかでないこの歌の原文を、韓国語で読んでみた・・・。すると、
(徐伐『そぼる』は 鉄磨ぐ 締め苦しむること勿れ 上の都は 刀来るぞよ 陣地固めよ)。

・韓国語訳―(新羅は刀を磨いで戦いに備えている。締め苦しめないといいのに・・・。吾がお上の、百済の都は、敵が襲ってくるから、陣地をお固めなされ)>。

李氏の韓国語詠みによる解釈によると、これは明らかに斉明天皇が「百済」に送った「軍事警告メッセージ」だということが、はっきりと分かる。

となれば斉明天皇が百済に、これほどまでの「国家機密情報」を送らなければならなかった理由があったのか、その疑問にブチ当たる。

<皇極天皇(斉明天皇と同じ・斉明天皇は二度即位)から斉明天皇の時代は、朝鮮半島では、新羅、百済、高句麗の3ヵ国の間が緊張状態にあった。

この歌(皇極時代の時の648年に入手していた機密情報)は、斉明天皇に即位してから、額田王に作らせた歌だ。百済が、新羅・唐連合軍に滅亡させられた661年より13年も前のメッセージだから、このメッセージ自体には「歴史的真実性」がある。

実は斉明天皇は、百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、百済を援けるため、難波(大阪)で武器と船舶を作らせ、自らその船に乗り込んで瀬戸内海を西に渡り、百済とは目と鼻の先の筑紫(福岡)の朝倉宮で新羅・唐との戦争に備えた。

だが斉明天皇は、遠征軍が百済に出陣する直前、その意志に貫けず、出陣先の筑紫(福岡)で亡くなった。

斉明天皇の異常なまでの「百済贔屓」について日韓学者間では、斉明天皇は実は、百済第三十代武王の娘の「宝」で、百済最後の王、義慈王の妹だった説がある>。

恐らく斉明天皇自身もさることながら、親族関係も「百済」と強力な血脈が在あったのではないだろうか。額田王の「万葉集」(未詳歌)歌に秘められた「軍事警告メッセージ」も、その視点で詠めば「未詳歌」ではなくなってくるような気がする。

ところが、「万葉集」を古代の珠玉の日本文学と仰ぐ人たちにとっては、この韓国語読みは認め難く、あくまで額田王作の「未詳歌」としてしか、今でも取り扱わない。

とは云え、このあと白村江の戦いの敗戦(663年)まで、百済国の救援にこだわり続けてきた日本の歴史を見れば、日本と百済との関係は極めて緊密であったことは明らかだ。

だとすれば、万葉集愛好家も「万葉集の未詳歌」に、韓国語で詠み明かされる新たな視点を投げかければ、「万葉集」珠玉を更に広げることになるのではないだろうか。詠みを広げてみては如何。

今、「韓ドラ」放映が人気を集めている。「万葉集の未詳歌」」に対する視点と解釈を変えて観れば、当時の歴史の激烈さが浮上して興味が増してくるのは間違いない(了)    (修正加筆再掲)

参考―・李寧煕氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」
   ・小林恵子著「白村江の戦いと壬申の乱・現代思潮社」
   ・ウィキぺディア

2017年08月31日

◆大阪を行脚していた大阪俳人与謝蕪村

 
毛馬 一三



江戸時代中期の大阪俳人で画家である与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれている。生誕地が大阪毛馬村と余り周知されていない事実のことは本誌で既に触れている。

しかし、蕪村が俳人として大阪の中心部を活躍の舞台にしていたことには触れていない。
むしろそれに気づかなかったのが本当のところだ。それはこれから追々。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸に下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な郷愁は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

おそらく、京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲からも過酷ないじめに遭わされたことなどから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。

しかも蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だ。だが、どうしてこんな超有名な俳人に師事し俳諧を学ぶことができたのか、田舎の毛馬村と江戸との結びつきや、師匠との今謂うコネがどうして出来たのか、ミステリーだらけだ。この時蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、頻繁に大阪にやって来ていたことが、最近分かってきた。船から陸地に上がったのは、生誕地毛馬村とは全く正反対西側の淀屋橋や源八橋からで、ここから大阪市内にある数多くの門人らを訪ねて回っている。

蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ね、大阪の蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回っている。大阪市内の各地を回ったことになる   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

早い話、蕪村にとり大阪は活躍の場だった訳だ。これもあまり知られていない。

こんな折、驚く情報飛び込んできた。

大阪市北区梅田に茶屋町がある。ところがここに「菜の花や月は東に日は西に」の蕪村句を刻んだ高さ1m、幅50cmの石碑が出来たのだ。この地では一昨年から地域の有志が「菜の花」を植え、「菜の花の散歩道」というまち起こしの「イベント」を適宜も催している。

この句を、この茶屋町その場所で蕪村が出句したかどうかはわからないが、北区茶屋町のこの周辺に蕪村が立ち寄っていたことは事実だ、これに因んでイベントを企画したという。しかも嬉しい要請とは、このイベントに私が主宰したNPO法人近畿ホーラム21(今は散会)で俳句つくり講座「句会」を催して欲しいとの要請が来て、要請を受けたことが在る。

このような話は、他の地域からも打診が相次いでいる。後世のために蕪村を顕彰し、俳句文化振興活動は、立ち上げてから数年が経ってようやく実り始めた。

大阪を行脚して回り俳人としての名を高めた大阪俳人与謝蕪村の俳句を、出来れば外国にも広めて行くことを、各大学と共同して進めたいとも考えている。(了) 2011.03.01

2017年08月24日

◆大阪は本当に「日本最貧!?」か?

 
毛馬 一三



大阪の経済は、米ニューヨーク.タイムスが<意気消沈するニッポン>と題した特集記事を載せたのを思い出した。

特集記事によれば、<(あれほどリッチだった日本が)これほど急激に経済が逆転してしまった国は世界でも珍しい>と、日本経済の有り様を指摘していた。

その上で、何と<そんな凋落ニッポンの“象徴”が「大阪」なのだと書き立てている>のだ。

しかも、<誇り高き商都・大阪では、商人たちが極端な行動に走り始めている。街には10円で缶入りドリンクを売る自販機が並び、レストランに行けば50円でビールが飲める>と書き、<日本のデフレスパイラルを激化させるだけだ>と切り捨てている。

ただ、今は諸外国の旅行者が近畿の歴史建造物や独特景観を楽しんだあと、浪花の街を参遊に来て賑わっていることは事実だ。

当時は、商都大阪はコケにされたが、それで良かったのか。

たしかにあれほど賑わっていた歓楽街・北新地の閑散ぶりは目に余るものがあり、今では土曜日に営業している店はほとんど無く、居るのは人待ちタクシーばかりだ。とは言え、この閑散ぶりが大阪低迷の総てを語るものではなかろう。

街歩きが好きな大阪の知人数人に聞いてみても、10円の自販機など北と南の繁華街で見たことは一切無く、ましてや50円ビール看板に出会ったこともないという。早い話、NYタイムスの記事は、ゴミ箱をほじくった類の記事だと見下す。

NYタイムスは、大阪商人の商売根性を知らないようだ。どうやら浪速商魂とデフレ化とを混同しているとしか思えない。

驚くような「値下げ」して商売するのは、決して商買破綻の表れではない。ましてやデフレの象徴でもない。

「労せずしてカネ儲けは出来ない!」ことを家訓とする商家では、大根1本でも鮮度に合わせだんだんと値下げをしながら、その日に売り捌き、元を取ってしまえば、残りはタダにする。これが次に繋がると考えるのが浪速商法だ。

「常に人のせんことをしなはれ」と真似らない知恵を出せ。万一真似られても「古井戸と知恵は枯れぬ」の例え通り、汲めば汲むほど湧き出るものだ。
<あきない夜話・和田亮介著>

つまり、浪速商法を「永続」したいと思えば、「利を取るより(信用)をとれ」と戒め、買い手を楽しませ、買い手側に喜ばれる方法で商売を乗り切れとの定法を取ってきたのだ。

NYタイムスが載せた大阪・千林商店街では、第3回の「100円商店街」を開催した。食料品・衣類・雑貨アクセサリーなど153店舗が100円均一の品揃えをして販売したので見学に行って見たが、予想を越える賑わいだった。

タイムスが載せた<結果は、皆を落胆させるばかりだった>との記事は、とても想像できないことだったようだ。

いずれにしても、「安い値段」が「商都大阪のデフレ」を見せつけ、「凋落ニッポンを象徴している」という見方は、皮相的であり、真実を伝えていない。

外国人の集客を拡大して将来の浪速商法を発展させるために、長期視野にたった「知恵」を絞って商いをしている実像を、改めてNYタイムスはよく見極めて欲しいものだと思う。(了)                 加筆再掲                   




2017年08月17日

◆大阪俳人与謝蕪村名を広めよう

毛馬 一三



江戸時代の三大俳人の内、松尾芭蕉と小林一茶の生誕地は、江戸時代当時から知れ渡っていたが、与謝蕪村の生誕地だけが大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だと「定説」になったのが、戦後直後の事である。これにつて追々。
この事を教えてくれたのは、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授であった。

奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったという。藤田教授の話によると、下記のようなことだった。

(蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍の舞台だった江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという「記録」すら残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、誰もいなかったのではないかという。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。しかしこの時残念なことにその舞台となる淀川毛馬馬堤近が、肝腎の自分の「生誕地」だとは一切触れていない。

しかし、その後願ってもないことが起きた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中に、自分の生誕地が「毛馬村」だと、下記のように初めて綴ったのだ。これが生誕地解明の歴史的契機となった。

「春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それなら、これが物証となって、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かったのだろうが、そうならなかったのには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村直筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地複数説」を加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態だった。

ところが、終戦直後、奈良県で終戦直後偶然見つかった先述の弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」が、公式に「蕪村直筆」だと「認定」されたのである。

これによって「毛馬生誕地」説が確定した。終戦直後の認定だから、遅きに失したと言わざるを得ない。しかしこれは「蕪村生誕地複数説」を破棄し、毛馬村を生誕地とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになる。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述に淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

以後、生誕地が毛馬村であることを不動のものになった。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村直筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも無かったことになるだろう。)

こうして、蕪村が大阪生誕俳人と称されるようになってから、七十余年しか経たない。そのため蕪村は、芭蕉や一茶とは異なり、江戸時代以来、生誕地大阪で「蕪村生誕顕彰」が疎かにされ、それを知る人が少なかったことに繋がっており、誠に慙愧に絶えない。

実は、与謝蕪村の生誕地毛馬村の庄屋の家屋や宿屋の遺跡は、明治29年に明治政府の「淀川改修工事」で、国の河川淀川の川底に埋没させられ、今でも何処に生誕地の生家があたったかも判然としない。

現在、淀川堤防の毛馬に「蕪村生誕地碑」があるが、この碑の場所が生誕地ではなく、その碑の眼下に流れる「淀川川底の何処かの場所」が生誕地ということになる。

このために、今でも地元大阪ですら「蕪村生誕地が毛馬村」であることを知らない市民は多い。次世代を担う児童生徒の教科書にも掲載されていないことを考えると、生誕地のことを知らない人が多いことはことも当然のことだろう。残念で仕方がない。

余談ながら、筆者は藤田教授に下記の質問をした。

「蕪村は、淀川を下って源八橋から船を降り、浪速の弟子の下に苦吟の往き来きしていましたが、「春風馬堤曲」に記述しているように、それほど生誕地の毛馬に郷愁があったのであれば、源八橋の極く近郊にあった毛馬村生家に立ち寄ってはいないとの噂ですが、何故でしょうか?その学説はありませんか?」

藤田教授の答えは次のようだった。(それを証明する「学説」はありませんね。恐らく立ち寄ってはいないでしょう。深い郷愁にも拘わらず立ち寄れ無かったのには、それ超える事情があったのかもしれませんね)ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったのに、立ち寄りたくない感慨があったのだろうという推察が浮上してくる。

恐らく奉公人だった母と実家の父が亡くなってから、私生児だった蕪村は、庄屋の家も引き付けず、家人たちからも極めつけの「いじめ」を受けただろう。そのために十七・八歳で家を出家せざるを得なかったのではないか。

そのことが「ひと一倍の郷愁はあっても、いじめが再来する生家には生涯立ち寄りたくなかった」のではないだろうか。

最後になりましたが、どうか、大阪俳人蕪村名を、芭蕉・一茶と同じ様に「生誕祭を生誕地でお祝いするカーニバル」を開催したいのが、人生のお願いで、今準備を進めている。 皆様のご賛同とご支援を伏してお願い申し上げます。(了)

2017年08月10日

◆福岡八女茶 今年も嗜しむ

毛馬 一三

筆者の家では、食事の後や折を見て八女茶を毎日欠かさず10杯以上常飲している。祖母の実家が福岡県八女郡の八女茶(元は星野茶)の茶園の実家だったのが縁で、子供の頃から八女茶の煎茶や玉露を嗜んできた。

その嗜みはいま尚継続しており、一番茶の時期になると、八女茶生産元の祖母の実家から、注文した1年分の八女茶の煎茶と玉露が送られてくる。

今年早くも、「特選煎茶」が20本届いた。1年分だ。

早速、今年も特選新煎茶に味わいを試みた。

70度位に冷ましたお湯をゆっくりと茶葉を入れた急須に移し、3〜4回ゆるりと左右に回したあと湯飲みに注いで飲み始めると、筆舌に尽くせないまろやかな風味と甘み、それに他所の茶より濃い味が口内に広がり、至福の瞬間がやってくる。

しかも茶に含まれるカテキンの成分が、最近、抗ガン作用と抗微生物作用に効果があることが広まってきたことから、健康維持のためこの八女茶嗜みの習慣を続けている。

八女茶以外に全国には下記のような有名な茶の生産地がある。

<愛知県(三河茶)、茨城県、(奥久慈茶、猿島茶)、鹿児島県(かごしま茶)、京都府(宇治茶)、岐阜県(美濃茶)、熊本県(肥後茶)、高知県(土佐茶)、埼玉県(狭山茶)佐賀県(嬉野茶)、滋賀県(近江茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)、三重県(伊勢茶)、宮崎県(日向茶)、がある>(日本茶博物館www.kaburagien.co.jp/museum/museum/index.php - 14k -)

京都府(宇治茶)、佐賀県(嬉野茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)は過去に飲んだことがあるが、それなりに芳醇で美味な緑茶だったという印象と思い出がある。

ところで下記のような記述の本が出ていた。これには目を惹かされた。

<緑茶を1日に7杯分ほど飲むことで、糖尿病になりかかっている人たちの血糖値が改善することが、静岡県立大などの研究でわかった。健康な人で緑茶をよく飲んでいると糖尿病になりにくいという報告はあるが、高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告は珍しいという。

血糖値が高めで、糖尿病と診断される手前の「境界型」などに該当する会社員ら60人を対象に緑茶に、含まれる渋み成分のカテキンの摂取量を一定にするため、いったん入れたお茶を乾燥させるなどして、実験用の粉末を作製。

これを毎日、湯に溶かして飲むグループと、飲まないグループに無作為に分け、2カ月後の「血糖値」を比べた。

平均的な血糖値の変化を、「Hb(ヘモグロビン)A1c」という指標でみると、緑茶粉末を飲んだ人たちは当初の6.2%が、2カ月後に5.9%に下がった。

飲まなかった人たちは変わらなかった。飲まなかった人たちに改めて飲んでもらうと、同じように2カ月間で6.1%から5.9%に下がった。

2グループで体格や摂取エネルギーなどに差はなく、緑茶からのカテキン摂取量が血糖値に影響したらしい。1日分の緑茶粉末は一般的な濃さの緑茶で湯飲み(約100ミリリットル)約5杯分のカテキンを含み、緑茶粉末を飲んだ人では普通に飲んだ緑茶と合わせ1日に約7杯分のカテキンをとっていた。

研究の中心で、今春に静岡県立大から移った吹野洋子常磐大教授(公衆栄養学)は「運動などの生活習慣改善とともに、食事の中で積極的に緑茶を取り入れてほしい」といっている>。(以上)

前記の様に、カテキンが抗ガン作用に効果が在ったり、良質な緑茶から抽出されたポリフェノールはビタミンEの10倍、ビタミンCの80倍というすぐれた抗酸化力を持っているといわれているが、緑茶僅か7杯の飲料で、高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告には驚かされた。

筆者の周りで糖尿病の一歩手前で悩んでいる先輩知人が、最近多い。緑茶7杯で高血糖の人たちに効き目があるというなら、早速緑茶の常飲を勧めよう。お茶の嗜みは、心の安らぎも導いてくれるからだ。   (了)

2017年07月31日

◆蕪村生誕地を証明した「一通の書簡」

毛馬 一三



松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸時代の俳人与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だということは、江戸時代当時から知れ渡っていると思っていた。

仮にそうでなくとも、明治時代になって、蕪村俳句を初めて評価し世に紹介した正岡子規が、毛馬生誕地は把握し、世に広めていたに違いないと思い込んでいた。

ところが、事実は全くそうではないことが明らかになり、驚かされた。

それの事を知らされたのは、NPO法人近畿フォーラム21主催「蕪村顕彰俳句大学」講座で講師をお願いしている、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授と、懇談した時であった。

結論から先にいうと、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は終戦直後のことだということだった。奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったというのである。

藤田教授の話によると、次のようなことだった。

(蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍していた江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという明確な「記録」は残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、いなかったのではないかというのだ。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。が、残念なことにその舞台となる馬堤近くが自分の「生誕地」だとは一切触れていない。

想像してもこの書き方では、「生誕地を毛馬村」と結びつけることは出来ない。

しかし、その後願ってもないことが起きていた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中で、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと綴っている。

春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それなら、これが物証となって、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かったのだろうが、そうならなかったのには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村直筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地複数説」を加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態だった。

しかし、前記の如く、奈良県で終戦直後偶然見つかった弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」が、「蕪村直筆」だと、公式に「認定」されたため、「毛馬生誕地」説が確定した。終戦直後の認定だから、遅きに失したと言わざるを得ないが、これは「蕪村生誕地複数説」を破棄し、毛馬村を生誕地とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになる。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

以後、生誕地が毛馬村であることを不動のものになったことになる。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村直筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも無かったことになるだろう。)

こうして、蕪村が大阪生誕の俳人と称されるようになってから七十余年しか経たない。そのため蕪村は、芭蕉や一茶とは異なり、江戸時代以来、生誕地大阪で「蕪村生誕顕彰」が疎かにされてきたことに繋がってきており、誠に慙愧に絶えない。

このために、今ですら地元大阪で「蕪村生誕地が毛馬村」であることを知らない市民は多い。次世代を担う児童生徒の学習の俎上にすら上がっていないことを考えると、児童生徒が生誕地のことを知らないことも当然のことだろう。残念で仕方がない。

だから、われわれ「蕪村顕彰俳句大学」では、今年の「蕪村生誕三百年記念に合わせて、「三百年記念諸行事」を開催し、俳句文化活性と後世への伝承、そして国際化への発信を大々的に進めたいと考えている。

余談ながら藤田教授との懇談の中で、更に驚いたことがあったことを記して置きたい。
「蕪村は淀川を下って源八橋から船を降りて浪速の弟子のもとに往き来きしていたようですが、それほど郷愁があったのなら、極く近郊にあった毛馬村の生家に立ち寄るのが自然だと思うのです。その痕跡はありませんか」
答えは「それを証明する歴史書類はありません。立ち寄ったか否かどうかも、わかりませんね」ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったとしても、生誕地へ何らかの理由で寄りたくない気持ちがあったのだろうという推察が浮上してくる。

恐らく奉公人だった母と実家の父が亡くなってから、家人たちによる極めつけの「いじめ」があり、そのために十七・八歳で家を出ざるを得なかったのではないか。そのことが「生家には生涯立ち寄らなかったこと」に結びついているのではないだろうか。
これはあくまで私の推論である。

最後になりましたが、どうか、私たちが今考慮中「蕪村生誕祭」の開催に、是非共皆様のご賛同とご支援を伏してお願い申し上げます。(了)

2017年07月29日

◆紫式部と「和紙」の縁

毛馬 一三



「源氏物語」の作者紫式部が、どうしてあのような長編小説「物語」を書くことができたのか。

実は、父親の藤原為時が、都から遥か離れた「和紙」の里・福井県越前の武生に、国司として転任したの伴いに一緒に移住してきたことに、深い縁がある。そのことは追々。

福井県越前市には「和紙の里」がある。その越前市新在家町には「越前和紙の里・紙の文化会館」と隣接する「卯立の工芸館」、「パピルス館」があり、越前和紙の歴史を物語る種々の文献や和紙漉き道具、越前和紙歴史を現す模型や実物パネルなどが展示されている。

「パピルス館」を訪ねて、紙漉きを約20分掛けて自分の手で作くる作業の体験が出来たのは、圧巻だった。

流し漉きといって、漉舟(水槽)に、水・紙料(原料)・ネリ(トロロアオイ)を入れてよくかき回したあと、漉簀ですくい上げ、両手で上下左右に巧みに動かしていくと、B5くらいの「和紙」が出来上がる。まさにマジックの世界だった。

ところで、この「越前和紙」の由来だが、今から約1500年前、越前の岡太川の上流に美しい姫が現れ、村人に紙の漉き方を伝授したからだという伝説がある。

山間での田畑だけに頼り切って乏し過ぎた集落の村人にとっては、この紙漉きの伝授で村の営みは豊かになり、以後村人は、この姫を「川上御前」と崇め、岡太神社(大瀧神社)の祭神として祀っている。

<その後大化の改新で、徴税のため全国の戸籍簿が作られはじめたことから、この越前「和紙」が、戸籍や税を記入するために欠かせない資材となった。

この思いがけない制度発足で、越前で大量の和紙が漉かれ出した。加えて仏教の伝来で写経用として和紙の需要は急増。「紙漉き」は、越前の地に根ざした地場業として大きな発展と村の利益増大を遂げている>。

さて本題。

長編小説「源氏物語」の作者紫式部は、執筆に取り掛かる6年前の24歳の時(996年)、都から遥か離れた「和紙」の里・越前武生に移住してきた。

何故かというと、冒頭記述のようにご当地の国司に“転勤”となった父・藤原為時に連れだってきたのだ。

「和紙」の里・越前武生に居住することなったことで、山ほどの「和紙」に囲まれて、存分に文筆活動に励めた。当時、都で如何ほど「和紙」が手に入ったのかは、専門家も把握していないが、当時の物書きには、喉から手が出る程の貴重な「和紙」だったことは、間違いない。

藤原為時は、中級の貴族で、国司の中で実際に任地へ赴く“転勤族”だったそうで、996年一旦淡路の国(下国)の国司に任命されるが、当時の権力者・藤原道長に賄賂などの手を使って、転勤先を越前の国(上国)の国守に変更してもらっている。はっきり言えば為時は、淡路の国(下国)には赴任したくなかったのだ。何故か。

当時、中国や高麗からの貿易船が日本にやってくる場合、海が荒れた時や海流の関係で、同船団が越前や若狭の国を母港とすることが多く、このため海外の貴重な特産品が国司のもとに届けられ、実入りは最高のものだったからだという。

ところで、藤原為時一族は、中級の貴族ながら文才をもって宮中に名を覇せ、娘紫式部も為時の薫陶を受けて、幼少の頃から優れた才能で漢文を読みこなす程の才女に育てられたといわれる。

父親の愛情で物書き娘に育ててもらい、書き損じても幾らでも対処できる「和紙」を与えてもらえたことは、紫式部にとって最高の「父のご恩」であり、「幸運」だった。

この為時の思いは、式部が後に書き始める「源氏物語」の中に、武生での生き様が生かされている。平安時代の歌集で、紫式部の和歌128 首を集めた「紫式部集」の中に、武生の地で詠んだ「雪の歌」が4 首ある。

越前武生での経験が、紫式部に将来の行き方に威力になったことはまちがいない。と同時に式部は、国司の父親のお陰で、結婚資金をたっぷり貯め込むことも成し遂げ、約2年の滞在の後、京都に戻り、27歳になった998年に藤原宣孝と結婚している。

越前武生の生き方の中で、紫式部にとって「和紙」との出会いが、世界最古の長編小説書きへの道を拓くことに繋げられた事は、紛れもない事実であろう。

紫式部の書いた「源氏物語」の原本は現存していない。作者の手元にあった草稿本が、藤原道長によって勝手に持ち出されて外部に流出するなどしているため、「源氏物語」の原本は、当初から非常に複雑な伝幡経路を辿っていたという。

確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は現在のところ一つも見つかっておらず、この時期の写本を元に作成されたと見られる更なる「写本」すら、非常に数が限られているという。
 
ところで、中国は、古代4大自国発明の一つとして、「紙」を絵画の絵巻をCGで描き、国威を誇っている。

しかしその紙が、7〜800年後に日本に渡って「和紙」となり、その後、その「和紙」によって、世界最古の長編小説が日本の女性によって書かれたことを、中国では知られていない。      (了)       (加筆再掲)

参考:ウィキペディア、: 青表紙証本「夕顔」 宮内庁書陵部蔵  


2017年07月20日

◆連日悩みの激腰痛

毛馬 一三



激腰痛等に悩まされ出して3年2か月が経つ。歩行が100b位しか出来ず道路で座り込んで仕舞う。バス・地下鉄には立ったまま乗車はできない。ましてや、地下鉄の階段は手すり棒にすがって上り降りをするが、激痛みに襲われている。

家でも、椅子に座ってパソコンに向かい合うのも、30分とはもたない。どうしてこんな腰痛に絡む激痛が起こったのだろうか。昼間、やむを得ない所要で外出先から帰宅すると、激痛のため、布団に寝転ぶしかない。

腰痛といえば、6年前に脊髄部の「すべり症」に見舞われ、下半身が痺れて倒れる症状が起き、大阪厚生年金病院で手術をした。手術は成功し、「すべり症」からは完全回復したので、以後腰痛には何の懸念も抱いていなかった。

ところが、冒頭記述のように、突然3年2か月前から、激腰痛が始まったのだ。そこで、今毎日、整形外科診療所に通って診察とリハビリを受けている。リハビリを受ければ次第に回復すると思っているが、中々痛みが減らない。

整形外科診療医院での診察で、まずレントゲンを撮影し、「すべり症手術の後遺症」の障害有無を調べてもらったが、それは無しとの診断だった。

しかし、痛みは、腰だけでなく、時間が経過するにつれて、右足の臀部、右下肢ふくらはぎに広がり、3か月前からは左右の腕筋肉にまで痛みが出だした。

腰痛だけでなく、右足・下肢の筋肉に痛みが広がり出したため、改めて診療所の院長に「病名」を質した。すると「仙腸関節炎」だと伝えられた。ではこの痛みの原因は何であるかを尋ねた処、「分からないです」との回答。

一体「仙腸関節炎」とは何か。日本仙腸関節研究会によると下記の様の記述されている。
<仙腸関節は、骨盤の骨である仙骨と腸骨の間にある関節であり、周囲の靭帯により強固に連結されている。仙腸関節は脊椎の根元に位置し、画像検査ではほとんど判らない程度の3〜5mmのわずかな動きを有している。
仙腸関節障害は決して稀ではない。仙腸関節障害で訴えられる“腰痛”の部位は、仙腸関節を中心とした痛みが一般的だが、臀部、鼠径部、下肢などにも痛みを生じることがある。
仙腸関節の捻じれが解除されないまま続くと慢性腰痛の原因にもなる。長い時間椅子に座れない、仰向けに寝れない、痛いほうを下にして寝れない、という症状が特徴的。
腰臀部、下肢の症状は、腰椎の病気(腰部脊柱管狭窄症・ようぶせきちゅうかんきょうさくしょう や 腰椎椎間板ヘルニア・ようついついかんばん など)による神経症状と似ているので、注意が必要。
また、腰椎と仙腸関節は近くにあり、関連しているので、腰椎の病気に合併することもあり得る。>

上記説明で、筆者の「仙腸関節炎」の症状や痛み箇所が一致し、神経症状と似ているとの指摘があったことからも、院長の病名診断に納得出来た。

しかし肝腎の「仙腸関節炎」の原因が何処から発生しているのかが分からないのでは、不安が増幅する。

どうすればこの激腰痛から脱出できるのだろうか。整形外科の分野で、「腰痛」の原因は、総じて分からないことが多いという説もある。

当診療医院で、1週間に1度、痛み止め注射(トリガーポイント注射、ノイロトロピン注射、ジプカルソー注射)を打ってもらい、1日3回・薬剤ザルトプロフェン錠80mgを飲んでいる。痛みの各局部には湿布も貼る。

また頼らざるを得ないのは、毎日の主軸治療の「リハビリ」だ。柔道整復師による局部マッサージのあと、ホットパック(タオルによる温め)、干渉波(電気)、腰の牽引の物理療法の4リハビリを40分間行っている。しかし局部の痛み緩和には余り効果はない。

「仙腸関節炎」の原因が分からない以上、対象療法しかないのは事実だ。だとすれば、歩けない、立てない、座れないのが強度になっていくばかりなので、日常寝たきりしかない。

「入院して手術」を受けることしかないのだろう     (了)

2017年07月10日

◆「黄砂アレルギー」に注意

毛馬 一三



花粉症歴の経験が全く無い筆者にとって、軽い風邪症状の一種かなと思って、余り気にも止めていなかった。

ところがとんでもない。次第に喉の違和感が痛みを伴うようになり、咳も痰も出るようになった。

そこで、慌てて近くの内科診療所に飛び込んだ。内科医は喉の症状を見た途端、「炎症がひどいですね」という。「原因は?」と訊いたら、「飛来してくる黄砂の黴によるものと思われます。花粉症ではありません」と教えてくれた。

同医師によると、黄砂によるいろんな健康被害で訪れる患者が、急増しているという。同医院から、

・抗生物質―フロモックス錠100mg(毎食後1錠・3日間分)
・咳を鎮める薬―メジコン錠15mg(毎食後2錠・7日分)
・痰や膿を薄めて、痰や鼻汁を出しやすくする薬―ムコダイン錠500mg(毎食後1錠・7日分)
・胃薬―セルベックスカプセル50mg(毎食後1カプセル・7日分)薬を貰った。

だが、マスクを付けて外出を余儀なくさせられた1週間が過ぎても喉の炎症と咳、痰共に治まる気配が無い。再診の結果、まだ喉の炎症は完治してないと診断され、改めて下記の薬を貰った。

・咳を鎮める薬―メジコン錠15mg(毎食後2錠・7日分)
・痰や膿を薄めて、出しやすくする薬―クリアナール錠200mg(毎食後1錠・7日間分)
・炎症を抑えて腫れや痛みを和らげる薬―ダーゼン5mg錠(毎食後1錠・7日分)
・SPトローチ0.2mg(28錠・1日4回)
・アズノールうがい液4%(5ml・1日4回)

2度目の薬を飲んだり、うがいを励行したところ、数日が経過してやっと喉の痛みや違和感がなくなり、咳と痰も出なくなった。

喉にこのような強度な症状が出たのは初めてのことだ。しかも気にはなっていた飛来の「黄砂」によるものだ。

今強烈になっている中国の大気汚染と原因が重なっているらしく、中国から飛来する「黄砂と大気汚染」が、日本に被害をなすりつけているのだ。気象庁も「中国で黄砂が急激に発生してる」と指摘している。日本が被害者になるのか。無性に腹が立つ。

話は後先になるが、<黄砂(こうさ)とは、中国を中心とした東アジア内陸部の砂漠または乾燥地域の砂塵が、強風を伴う砂嵐などによって上空に巻き上げられ、春を中心に東アジアなどの広範囲に飛来し、地上に降り注ぐ気象現象。あるいは、この現象を起こす砂自体のこと>である。

細かい砂の粒子や、粒子に付着した物質、黄砂とともに飛来する化学物質などにより、さまざまな健康被害が生じる。

即ち、咳、痰、喘息、鼻水、痒みといった呼吸器官への被害や、目や耳への被害が目立つ。黄砂が多い日には、花粉症、喘息、アトピーなどのアレルギー疾患の悪化が見られる。>という。 
参考―フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

花粉症で悩まされるだけでなく、黄砂アレルギーで健康被害を煩わされるのでは、堪ったものではない。

ところが肝腎の黄砂による呼吸器官への被害が、増えていることにはあまり知られていないようだ。

黄砂の飛来が顕著な九州や関西では、既にこの被害が出て問題化しているが、全国にも広がるだろう。

黄砂の飛来が予測される時は、TVの「天気予報」で早めに知らせてほしい。

しかも喉などに異常を感じたら、医療機関で診察を早めに受けられることをお勧めしたい。(了)     


2017年07月06日

◆国産ビール発祥地は大阪

毛馬 一三



まもなく夏本番、どこでも夕食の食卓では、缶ビールをコップに移して一気に飲んで、喉を潤すのが習慣になってきている。

今やアルコールを飲めない人でも、アルコールの入っていない缶ビールを買い求めてビールの味を愉しむ時代にもなっている。ビールはもはや全盛時代だ。

以前、北海道のサッポロビール工場で、出来立てのビールをジョッキ杯で飲んだ経験がある。下戸の筆者は、ジョッキ杯飲みに躊躇いがあったが、喉越しに胃袋に入っていったその時の美味さは、何とも清々しく旨いものだった。

最近では、ホテルや居酒屋などでビールジョッキで飲むことがあるが、出来立てのサッポロビールの味と同じような感じがしだして、時代と共にビールの質が向上していることが伺える。

そんな中、「国産ビールの発祥の地」が、大阪だというという「碑」を見つけた。全国いたるところにあるといわれているビールの発祥の地が、まさか「大阪」だとは驚いた。

その「碑」は、大阪市営地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅から 東に300mほどの大阪・北新地のANAクラウンプラザホテル北東側にあった。

その場所にはしばしば行く所だが、ホテル北東側の3本の道路で囲まれた三角形の場所で交通量の多いところなので、不覚にもその「碑」には目が届かなかった。よく見ると

こう書いてある

<わが国におけるビールの醸造は幕末に横浜で外国人がおこなっていたが,日本人の手によるものとしては,澁谷庄三郎がこの地で醸造したのが最初といわれている。

当初は大阪通商会社で,明治四年(1871)に計画された。これは外国から醸造技師を招いた本格的なものだったが,実現には至らなかった。この計画を通商会社の役員のひとりであり,綿問屋や清酒の醸造を営んでいた天満の澁谷庄三郎が引継ぎ,明治五年三月から,このあたりに醸造所を設け,ビールの製造・販売を開始した。

銘柄は「澁谷ビール」といい,犬のマークの付いたラベルであった。年間約三二〜四五キロリットルを製造し,中之島近辺や川口の民留地の外国人らに販売した。―大阪市教育委員会>。

しかし気になることがあった。「日本ビールの発祥地は、横浜」と言われていたことを思い出して気になった。

そこで、調べてみると、

<明治3年(1870年)、米国人のウィリアム・コープランドによって横浜・山手にビール醸造所「スプリング・バレー・ブルワリー」が設立され、日本で初めてビールの醸造・販売が開始された。

外国人の手による日本初だが、実は麒麟麦酒(キリンビール)がこれの流れを汲んでおり、世間的にはこれが「横浜が日本のビール発祥の地」と定着してしまったようだ。>

更には

<小規模なものなら、江戸時代にも日本でビールが造られていたらしい。文化9年(1812年)に、長崎の出島でオランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフによる“自家醸造”で、これが「日本で初めて醸造されたビール」とされている。

となると、大阪の「発祥地」とはどういう意味なのかということになる。

そこで、時系列に追って整理すると、
・1812年(文化9年) 日本で初めてのビールが長崎でオランダ人によって醸  造される。
・1869年(明治2年) 横浜で、外国人による日本最初のビール醸造所が設立される。
・1872年(明治5年) 大阪堂島で、渋谷庄三郎によって、「渋谷ビール」という、日本人によって初めて産業的にビールが醸造・販売される。

そこではっきりした。「横浜」は外国人によって「日本で初めて産業的にビールがつくられた地」なのだ。「大阪」は日本人の手によって、初めて「国産ビールがつくられた地」だったということになる訳だ。

この「大阪の碑」の周辺は、今は不景気で活性化が無くなっている遊楽街「北新地」だが、「碑」に辺りに「国産ビール発祥地」を明らかにする施設や跡地は、どこにも見当たらない。

だが、現代のビール産業がこの場所から発祥したのだという事実は、この「碑」を目撃したことよって、先駆的だった大阪の時代があったこと改めて感じさせられた。これからも全国を引導していく大阪になって欲しいものだ。


2017年06月23日

◆淀川河底に沈んだままの「蕪村の生家」

毛馬 一三 
                    


江戸時代の俳人与謝蕪村の生家は、淀川の河底に埋没しているのは間違いないのですが、一体河底の何処に埋没させられて仕舞ったのでしょうか。詳しい場所は未だ不明です。

確かに、大阪毛馬の淀川堤防に「蕪村生誕地」と書いた「記念碑」が建立されてはいます。しかし「蕪村生誕し幼少を過ごした生家」は、この場所ではないことははっきりしています。

実は「蕪村の生家」が、冒頭に記したように、淀川堤防から眼下に見える「淀川の川底」に在るのは事実です。なぜ淀川の川底に埋没されたのでしょうか。これは追々。

徳川時代の淀川は、よく手入れが行われていましたが、明治維新後は中々施されていなかったのです。ところが、明治18年に淀川上流の枚方で大水害が起き、下流の大阪で大被害を受けたことをきっかけに、明治政府がやっと淀川の本格的改修に乗り出しました。

その際明治政府は、単なる災害防止ためだけではなく、大阪湾から大型蒸気船を京都伏見まで通わるせる航行で「経済効果」などの多目的工事に専念することを決めました。

そのために淀川の河川周辺の陸地を大幅に埋め立て、それまでの小さな淀川を 大きな河川にする大改修を立案したのです。

これに伴い、旧淀川沿いにあった「蕪村生家」地域は埋め立ての対象となり、すべて「河川改修工事」によって川底に埋められて仕舞いました。

さて、明治政府は関西の大型河川・淀川を大改修するため、オランダから招いた河川設計者・デ・レーケとフランス留学から帰国していた設計士沖野忠雄とを引き合わせ、「淀川大改修」の設計を依頼しました。

明治政府の依頼を受けた2人は、「大改修工事」の設計を創り上げ、明治29年から工事を開始しました。

とにかくこの大型改修設計は、大阪湾に京都の宇治川や桂川、奈良からの木津川を中津川に合流させ、一気に淀川として大阪湾に繫ぐ、巨大な設計でした。

そうすれば貨物蒸気船を大阪湾と京都を結んで航行させることが出来、逆に京都・枚方などで大水害が起きた場合でも大量の水量をさらりと、大阪湾に流すことが出来るのです。二本立ての「効果狙いの設計」でした。

勿論、上流の災害で流出してくる「土砂」が、大阪に被害を与えないため「毛馬閘門」設計も創りました。

これが淀川から大阪市内に分岐させる「毛馬閘門」の設計主旨だったのです。この「毛馬閘門」からは、淀川本流から分岐して大阪市内へ流れる河川を設計しました。その河川の名を「大川」と名付けたのです。

この「大川への分岐設計」で、上流の水害に伴う土砂流失の回避は実現し、大阪の上流からの防災は、今日まで護られているのです。

このように2人による設計書は、世界の河川工事技術水準に準じたもので、明治政府が施工した「河川大改修工事」としては全国的に見ても画期的なものでした。

同工事は、明治29年から明治43年まで行われ、設計通り完成しました。

ここから本題。この「河川大改修工事」によって、与謝蕪村が生まれ、幼少を過ごした大阪市都島区毛馬町(摂津国東成郡毛馬村)は、跡形もなく淀川に埋没させられ、深い川底に沈んで仕舞いました。

明治政府の強制でしたから、当時の住民は仕方なくそれに従ったようですが、川幅も660b(従来の30数倍)となり、浅かった河の深さも5bの巨大河川に変容したのです。

この住居埋没の強制工事で、前述の如く、蕪村の生家(庄屋?)は勿論、お寺、菜の花畑、毛馬胡瓜畑跡などの、当時の地域の様子は皆目全くわかりません。今は淀川の毛馬閘門近郊にある蕪村記念碑から、淀川の眼下に見える川底が「蕪村が幼少を過ごした生家地域」だと想起出来るだけで、寂しい限りです。

淀川近郊の蕪村家(庄屋)の後継者の方といわれる毛馬町の家を訪ね、「家歴」を伺いました。しかし、「地図」も無いし、お寺も埋没して「過去帳」もないために、蕪村生誕地が淀川の河底にありことは間違いないですが、今でもどのあたりの河底にあるのか分かないのです。」という答えが返って来ただけでした。

「蕪村生誕300年記念」を過ごし、大阪毛馬町の「蕪村公園」と通り過ぎて、「毛馬閘門」と「蕪村記念碑」ある淀川堤防の上から眼下に流れる「淀川」を見ながら、その河底に蕪村生誕地があることを想いつつ、蕪村が幼少期をここで過ごしたのかと、ゆったりと瞑想して欲しいですね。

ところで本題。淀川近郊の蕪村家(庄屋)は、大阪毛馬町に在る「淀川神社」の氏子でした。このため年間の祭事や祈願の折は、この「淀川神社」に父母と一緒に蕪村「幼名―寅」は、参詣に通ったことが、江戸時代の慣習から推察出来ます。

また蕪村が、毛馬村を出奔し江戸へ下る決意を固めた時、氏子の立場から毛馬町の「淀川神社」に心底参詣し、将来の生き方を祈願したことは、当然のことと考えられます。

そこで、今の毛馬町「淀川神社」の境内に、蕪村生誕300年の前年の12月21日、協賛者のお力を頂いて高さ1m60pの銅製の「蕪村銅像」を建立しました。

望郷の念の強い「蕪村」は、この「生誕地参詣神社に銅像が建立したくれた」ことに喜んでくれて、これから自ら進んでここに帰郷して呉れるでしょう。また「淀川神社」も、「蕪村参詣神社」として、後世に伝承されるでしょう。

蕪村生誕300年を終え、これからは芭蕉・一茶に肩を並べるような「蕪村生誕祭」を進めて行く私たちの決意です。どうか与謝蕪村に厚意を寄せられる方は、この「蕪村生誕祭」の運営を進める私たちにお力を貸してください。お願い致します。

取材先:国交省近畿地方整備局淀川河川事務所