2017年01月20日

◆敬愛愛犬の習性

毛馬 一三



「犬は飼い主の足音を聞き分けている」という新聞の特集記事を読んだ。

これは、京都大の比較認知科学グループが様々な種類の犬を使った実験で、この通説を確かめたものだという。犬は飼い主の微妙な癖を覚え、聞き分けているのではないかというのだ。

<京大では、チワワやポメラニアン、ミックス(雑種)など様々な犬種の計21頭を、ドアや窓を閉め切ったマンションの一室に犬だけを入れて実験をした。

知らない人に部屋の外を2往復してもらい足音を聞かせた後、(1)その人が入ってくる(2)飼い主が入ってくる、逆に飼い主の足音を聞かせ、(3)飼い主が入ってくる(4)知らない人が入ってくる―の4パターンの実験。

入ってきた人を犬が見つめる時間を比較した結果、知らない人の足音を聞かせた後、飼い主が入ってきた時(2)は、知らない人が入ってきた時(1)より見つめる時間が平均で約2割長かった。

犬は期待と反する現象が起きると、驚いてその対象を見つめる。(2)では足音を聞き分け「飼い主ではない」と思ったのに、現れたのは飼い主だったので驚いたとみられる。

京大比較認知科学グループによると、「飼い犬は、飼い主の歩き方のリズムや左右のちょっとしたアンバランスなどの癖を知っているのではないか」とみている>という。

実際この実験結果には、愛犬飼い主としておおいに納得できる内容だ。

我が家の愛犬は、11歳のテリア系の小型犬ノーフォークテリア。私や家内が外出先から帰ってくると、足音や歩き方のリズムなどで聞き分け、ドアを開けると「帰宅歓迎」の声を上げながら飛びついてくる。マンションの外側から僅か3段の階段を上がっただけの「足音」で、わたし達の帰宅を識別するのだろう。

ところが、セールスなどの外来訪者の足音だけが近づくと、むっくり起き上がって「警戒心と怒り」を剥き出しに大声を張り上げ、玄関に向かって走っていく。犬が、未知の外来訪者の足音に異常なほど敏感に反応する習性があるのは、飼い主ならどなたもご存知の筈だ。

この習性が、マンションでの空き巣等の犯罪防止に大きな効果をあげていると、団地内管理をしている大手ビル管理会社の役員から聞かされ、愛犬の習性を熟知して「家内安泰」に理解していることに感謝した。

ところがその「足音識別の習性」より、まだ優れた修正に驚かされることがある。

というのは、我が家の愛犬ノーフォークテリアは、私たちがさりげなく交わす「電話の会話中に、これからここにお出でなさい」というやり取りをすると、それをしっかり感知する習性があることだ。そうすると、すぐさま玄関ドアの前にじっと座り込んで、親近者が来るまで、じっと「待機」している。

単に「いらっしゃい」とか「お帰りになりますか」程度の短いフレーズの会話をなんと正確に聞き分けているのだ。しかもその親近者を、熟知している、親しい知人だと判断する能力があるのだろうか。その「聞き分け名人芸」には舌を巻かざるを得ない。

親近来訪者が玄関に現れると、愛犬はピンピン飛び付いて喜びを思い切り表す。私たちが「いらっしゃいませ」と発する前に、愛犬の行動を宥めるのが先の段取りとなる。

この人も愛犬の歓迎におおいに喜び、来訪の雰囲気が一気に盛り上がる。親近者を招き入れる私たちも、これに越したことはない。愛犬は、歓迎の飛び跳ねを終えると、次は先頭にたって来訪者を居間へと案内する。

愛犬の賢さは筆舌に尽くし難いが、電話のやり取りを聴いてから次への行動を起こすということは、人間の言葉がわかっているというだけではなく、歓迎の人間の喜びまではっきりと熟知しているということになる。

こうした賢い「習性」が日常的にいろいろな面で顕になると、家族以上の愛情が湧いてくるものだ。またその愛情をしっかり受け止め、それを待ち望んでいるだけに、愛犬は、実に「賢い」という言葉しか思い浮かばない。愛犬も11才と長生きしているが、この敬愛の才能が、筆者家族と共に長く長く続けて欲しいものだ。 (了)

2017年01月08日

◆世界最古の政治小説「源氏物語」

毛馬 一三



世界最古の長編小説「源氏物語」が一条天皇に献上されたのは、寛弘5年(1008年)11月17日。

紫式部が、父の赴任先の越前国で当時、何よりも貴重だった「越前和紙」とめぐり合い、2年間にわたって思いのままに、物書きに熱中したことは、本欄ですでに触れている。(平成20年8月29日号=和紙と生きた紫式部)

ところで、この「源氏物語献上」に先立つこと3年前の寛弘2年(1005年)12月29日に紫式部は、宮中に呼び出されている。何とこの召し上げの仕掛け人が、藤原道長だったのだ。

どうして藤原道長が、紫式部を宮中に召しあげたのか。それは当時宮中で繰り広げられていた壮絶な権力闘争と無関係ではない。

その権力闘争とは、道長の兄道隆盛の息子「伊周(これちか)と道長とが、真っ向から繰り広げていた藤原同族同士の宮廷内対決だった。

内大臣伊周に対抗するには、道長はこれを超える役職への昇進しかなかった。道長は画策した。一条天皇の生母で、実姉の強力な支援を懇願して、「関白」に次ぐ地位の「内覧」職を獲得し、役職の上では、一応互角に並んだ。

だが、道長にとっては、まだ後塵を拝する処があった。伊周は、妹の定子を一条天皇の中宮に送り込み、堅牢な地位を確保していたからだ。

道長にしては、この一角を何としてでも切り崩す必要があった。このため陰謀を試みたのが、それは一条天皇のもう一人の中宮に娘の彰子を送り込んだのである。

こののち中宮彰子は、1008年9月11日、「敦成(あつひら)親王」(後一条天皇)を出産。道長は、これによって、遂に権力の頂点を立ったのである。

しかしそれに至る以前に、政治家道長がなぜ紫式部の召し上げにまで手を打った老獪な魂胆とは一体何だったのか。

恐らく文学好きといわれた一条天皇の気を惹くため、紫式部の「源氏物語」の献上を早々と仕組んでいたと思われる。言い換えれば、天皇の歓心を買うための一種の「政争の具」として周到に紫式部の召し上げを準備していたのだろう。

紫式部は、中宮彰子の教育係として勤める傍ら、3年近く宮中の様々の人間模様、権力構造、熾烈な利害闘争などをつぶさに見ながら、冷静な考察と巧みな筋立てを描きながら、得意満面に「源氏物語」を書き綴っていったとみられる。

色とりどりの54帖の冊子、400字詰原稿用紙にすれば、2300枚ともなるとてつもない長編小説。

越前和紙と墨を使ったきらびやかな「源氏物語」の献上が、一条天皇の心を捉えて仕舞ったことは、想像に難くない。

次々と広がる物語の中で、天皇自身が、思い当たる舞台での隠れた暗闘と情念の世界の展開や登場人物への特定がすべて思い当たり共鳴感動したとしたら、天皇にとりこれに勝る興味を満たす悦楽は、他には無かったのではないか。

そう見ていくと、源氏物語は、「悲恋」、「純愛」、「禁断の恋」の物語ではない。むしろ宮中文化の中で、現場で目撃し鋭敏に感じ取った「政治暗闘の記録文学」だったのだ。

世界で最古の「政治小説」と言ってもいいかもしれない。「政治小説の源氏物語」となれば、また。評価も見方も読者層も、大きく変わっていくのではないだろうか。(了) 

2017年01月01日

◆学問の神様は「政治左遷」

毛馬 一三



明けましておめでとう御座います。

郷里九州福岡の友人から元旦、沢山の「年賀状」が届くが、今朝元旦に以前来たことある「興味ある添え書き」の友人年賀状内容のことを想い出した。

それは、「大宰府天満宮に初詣。道真公は、学問の神様というより政治家」と記されていたことだった。

筆者も、元旦の初詣は、福岡に居た時は大宰府天満宮に毎年お参りに参じていた。

今は、大阪市北区にある菅原道真を祀る「綱敷天神社」を詣出ている。福岡の大宰府に流される時、淀川のこの地の「梅」に目を留め立ち寄ったことを縁起とする、学問の神様の神社だと言われているからだそうだ。

友人の「書き添え」を貰ったのには当時興味あった。菅原道真が右大臣という宮廷要職から大宰府に「左遷」されたことは承知していた。だが昔は、「左遷の背景」は、むしろ「学問の神様」として幼少の頃からは崇め、参拝し続けてきたのでである。

ところが友人がわざわざ「学問の神様というより政治家」と、この年になり改めて添え書きしたのは、道真が「大宰府まで流されてきたのは政治絡み」であったことを伝えたかったことだった。今は当たり前の常識だが、その年賀状を受けとった当時は心を揺さぶった想いが蘇る。

となると、道真の大宰府への「左遷」とは、秀でた「学識」に対する貴族や官僚達の妬みや、やっかみからではなく、右大臣道真である「政治家」としての暗闘の絡みがあったことを指していることになるのだ。

調べて行くうち、添え書きが納得出来る気がしてきたことも思い出す。それはこうだ。

道真は、父から天才教育を受けて育ち、862年(貞観4年)弱冠18歳で文章生に合格、さらに870年(貞観12年)26歳で国家試験に合格。祖父や父と同じく式部少輔、文章博士もつとめ、いわゆる宮廷筆頭学者として名声を博した。

こうした博学な道真に目を付けた宇多天皇が、道真を右大臣まで重用し、藤原氏を後ろ盾にしながら、有力皇親、賜姓源氏を抑え込む政略遂行に利用した。しかも宇多天皇が譲位の時、新帝への上奏と勅命旨達は、必ず道真を経るようにまでの権力を与えた。お陰で道真は、遣唐使廃止も強行している。


これらが裏目に出て、宇多天皇(その後上皇・法皇)と、譲位された醍醐天皇との政争に巻き込まれることになった。しかもこの抗争が、宇多天皇が擁護する右大臣道真と、醍醐天皇の懐刀の左大臣藤原時平と政敵になるまでに発展、宮廷内の政争は激化した。

醍醐天皇になって実権を握った藤原時平は、味方の有力皇親、賜姓源氏に加えて、藤原氏一派までも纏めて「反右大臣道真」組織を作り上げ、道真を急速に破局に追い込んで行った。

しかも道真の娘を斎世親王(醍醐天皇の弟)に嫁がせたことが、醍醐天皇を廃することを企図していることだとの噂を宮廷内に流し、道真を完全孤立化させた。

その後、昌泰4年(911)1月25日、突然道真に「太宰権帥(だざいのごんのそち)」への左遷の「宣命」が出されたのである。

伝えられる「宣命」によると、道真は、「寒門より取り立てられ大臣になったのに知足の分を知らず、専権の心を以って前上皇を欺き、廃立を行って父子(宇多先帝と醍醐天皇)の慈を離間し、兄弟(醍醐天皇と皇弟斎世)の愛を破ろうとする」となっている。

道真の左遷の報せを聞いた宇多上皇が、内裏に駆けつけ醍醐天皇との面会を申し出たが、結局叶わなかった。頼みの綱だった上皇の擁護も受けることができず、左遷は実行に移された。肝腎の道真には、一言の釈明、弁解も許されなかったという。

政敵藤原時平の完全勝利に終わったわけで、「政治左遷」が見事に成功したことになる。政争に敗れた道真は、筑紫下向に当たり、自邸の梅に向かって「東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」と屹然と詠んだと伝えられる。

友人は、今年の初詣でこれを知り得たことから、恐らく筆者も同類であろうと考え、添え書きを寄越したに違いない。それも謎めいた書き方で。

添え書きを貰って、新たな菅原道真像が浮かび上がってきた。純粋博学な「学問の神様」と信じ込んでいた道真も、関った激しい「政争」に敗れ、九州築紫の大宰府に「左遷」させられた政治家だったのだ。(了)

参考―平凡社発行 「菅原道真」      


2016年12月25日

◆賢い愛犬の習性

毛馬 一三


以前の新聞で、「犬は飼い主の足音を聞き分けている」という記事を読んだ。

これは、京都大の比較認知科学グループが様々な種類の犬を使った実験で、この通説を確かめたものだという。犬は飼い主の微妙な癖を覚え、聞き分けているのではないかというのだ。

<京大では、チワワやポメラニアン、ミックス(雑種)など様々な犬種の計21頭を、ドアや窓を閉め切ったマンションの一室に犬だけを入れて実験をした。

知らない人に部屋の外を2往復してもらい足音を聞かせた後、(1)その人が入ってくる(2)飼い主が入ってくる、逆に飼い主の足音を聞かせ、(3)飼い主が入ってくる(4)知らない人が入ってくる―の4パターンの実験。

入ってきた人を犬が見つめる時間を比較した結果、知らない人の足音を聞かせた後、飼い主が入ってきた時〈(2)〉は、知らない人が入ってきた時〈(1)〉より見つめる時間が平均で約2割長かった。

犬は期待と反する現象が起きると、驚いてその対象を見つめる。(2)では足音を聞き分け「飼い主ではない」と思ったのに、現れたのは飼い主だったので驚いたとみられる。

京大比較認知科学グループによると、「飼い犬は、飼い主の歩き方のリズムや左右のちょっとしたアンバランスなどの癖を知っているのではないか」とみている>という。

この実験の結果には、愛犬の飼い主の筆者も、おおいに納得できる内容だ。

我が家の愛犬は、11歳の小型ノーフォークテリアだが、私や家内が外出先から帰ってくると、その外出時間の長短に拘わらず、足音や歩き方のリズムなどで聞き分けるのか、ドアを開けると「帰宅歓迎」の声を上げながら飛びついてくる。マンションの外側から3段の階段を上がって来るまでの間に「足音」で、わたし達の帰宅を識別したのだろう。

ところが、セールスなどの来訪者の足音が近づくと、むっくり起き上がって「警戒心」剥き出しに大声を張り上げ、玄関に走っていく。犬が、知らない来訪者の足音には異常なほど敏感に反応する習性があるのは、飼い主なら皆ご存知の筈だ。

この習性が、マンションでの空き巣等の犯罪防止に大きな効果を挙げていると、団地内に住んでいる大手ビル管理会社の役員から聞かされ、なるほどと思ったことがある。

ところがその「足音識別の習性」より、私にはまだ驚かされることがある。

というのは、我が家の愛犬ノーフォークテリアは、私たちがさりげなく交わす電話の会話の中で、「これからここにお出でなさい」というと、そのやり取りをキチンと聞き分ける習性がある。そうすると、すぐさま玄関ドアの前まで移動し、じっと座り込んで来訪者が来るまで「待機」するのだ。

単に「いらっしゃい」とか「お出でになりますか」程度の短いフレーズの意味を正確に聞き取り、しかもその来訪者が、我が家と親しい間柄の知人だと判断するのだろうが、その「聞き分け名人芸」には、舌を巻く以外にはない。

暫くして来訪者が玄関に現れると、愛犬はピンピン飛び付いて喜びを思い切り表す。私たちが「いらっしゃいませ」と発する前に、愛犬の行動を宥めるのが先の段取りとなる。

訪問者も愛犬の歓迎におおいに喜び、来訪の雰囲気が一気に盛り上がる。訪問者を招き入れる私たちも、これにこしたことはない。愛犬は、歓迎の飛び跳ねを終えると、次は先頭にたって来訪者を居間へと案内する。

愛犬の賢さは筆舌に尽くし難いが、電話のやり取りから次への行動を起こすということは、人間の言葉がわかっているというだけではなく、飼い主や親しい知人の喜びの心理まではっきりと理解しているということになる。

こうした賢い「習性」が日常的にいろいろ顕になると、家族以上の愛情が湧いてくるものだ。またその愛情をしっかり理解し、それを待ち望んでいる愛犬に接していると、「賢い」という言葉しか見当たらない。(了)

2016年12月14日

◆芭蕉随行の『曾良』は忍者?


  毛馬 一三

拙稿「芭蕉終焉(しゅうえん)の地って?」の第2弾。同稿が日本一メルマガ「頂門の一針」に掲載されたところ、当主宰者の渡部亮次郎氏からご寄稿を頂戴した。

もともと拙稿とは、松尾芭蕉の「終焉の地」が大阪・南御堂向かいにあった花屋仁左衛門の離れ座敷であったことや、辞世の句といわれる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が、この座敷の病の床で亡くなる4日前に詠んだものであることを、筆者は不覚にも知らなかったが、先般偶然このことを知る機会を得たことから、思い立って綴ったものだった。

その執筆中に、渡部亮次郎氏が以前本欄に掲載された『老化は熟成である』の記述の中に、<生きるとは死ぬことである。生まれたら成長すると言うが、それは違う。最後に来る死に向かって懸命に走っているに過ぎないのだ>という同氏の「死生観」が記述されていたことを思い出し、それと終焉の芭蕉の心境と重なるよう思えたので、同拙稿中に引用させて貰った。

芭蕉は、大阪で死ぬなどとは夢想だにせず、早く床払いをして好きな旅を続けたいとの気持であったと、様々な文献が記している。

だが、思いもよらず病(食中毒といわれる)は悪化、意に反して終焉を迎えるのだが、見守る弟子たちの顔を眺めながら「死」が迫るのを悟り、幸せな生涯だったと瞑目しながら、逍遥と死の旅についたようだ。渡部氏の『老化は熟成である』という「死生観」を、芭蕉も終焉のその瞬間同様の想いを脳裏の中に去来させたに違いないと筆者は思ったのだ。

渡部亮次郎氏から頂いた寄稿は、下記の通りであった。
<深川・芭蕉記念館 は拙宅の近くです。徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。江戸の発展とともに新たな市街地、農地が必要となり、土地の開発が始まった。大阪からきていた深川八郎右衛門が新田を開発、慶長元年(1573年)深川村と称したのが始まり。

江戸の下町と言えばなんと言っても深川。出発地は都営新宿線森下駅。駅を出て新大橋通りを浜町方面に5分ほど歩いていくと隅田川にかかる橋が見えてくる。これがこの通りの名前になっている新大橋。橋の手前の十字路を左に曲がりしばらく歩いていくと最初の目的地「芭蕉記念館」がある。

芭蕉は延宝8年(1680年)江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ。元禄2年(1689年)3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる奥の細道。岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅。

「芭蕉記念館」には 当時、芭蕉が着ていた袈裟を初め芭蕉庵を模したほこら、句碑 などがある。記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり。川沿いの道を左に少し歩いていくと史跡庭園があり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。 先日来日した李トウキ前台湾総統もご覧になって行った>。

この寄稿を読ませて貰った時、芭蕉に纏わる新たな衝撃が脳裏を駆け巡った。それは、<徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。(そんな未開発の深川だったが、その深川から)元禄2年3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。(略)岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅>というくだりである。

江戸から東北、北陸地方を150日間で踏破した2400キロ(600里)の道程を踏破したと言うが、とんでもない距離だ。単純に計算すると1日16キロ歩いたことになるが。だが当時の旅はそんな生易しいものではない。

江戸時代の元禄期といっても、 江戸から東北、北陸地方には、のんびり歩き通せる平坦な道が整っていた筈はない。ほとんどが山道・峠道であり、山を越えるしか方法はなかった。

筆者も数年前福井の江戸時代以前からの「鯖街道」を歩いたことある。山道の勾配は天地の差ほどの高低を繰り返し上り下りし、僻々した記憶がある。山道もない場所は絶壁を横切るしかない。ましてや橋はほとんどなかった。大雨で河が氾濫、足止めを食うことも日常茶飯事だったろう。

「奥の細道」によると、2人は何と1日に48キロ(12里)を 歩いた日があったという。幾ら昔の人が健脚だったとはいえ、老齢の域の芭蕉(46)と同行者曾良(41)が、そんな長距離を1日で踏破できたと考える方が無理な話だ。

だからここから「第2弾」を書きたくなった。つまり芭蕉は、こうした異常な歩き方の速さや、伊賀の上野の生まれであることから「忍者」ではなかったかと論じられてきた。それはまた別の機会に譲るとして、ここで気になるのは、むしろ芭蕉の弟子であり、旅の同伴者である「曾良」の方だ。

「曾良」のことは、純朴な芭蕉のお供だという印象が強くて、「忍者説」はあまり知られていない。

ところが調べてみると、こんな具合だ。<曾良は、幕府とのつながりが緊密で、当時日光工事普請を巡ってあった伊達藩と日光奉行の対立を探るための調査を、幕府から曾良に命じられたとされている。その目的と行動を秘匿するため、芭蕉の歌枕の旅が巧みに利用したというのが専門家の間では定説となっている。

その曾良は、さらに社寺や港の荷役の動きを調べる任務も担っていたらしく、北前舟が立ち寄る日本海沿岸の港として酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀を丹念に探索して回っている痕跡がある。

その任務行動が、なんと芭蕉の旅の日程と、無理なく調和した形になっている事実には驚かされる。きっと幕府からの支度金が潤沢だったため、俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の興行収入だけでは食えなかった芭蕉の懐具合が、この「曾良」の任務を受け入れことにやむを得ず、同調したのではないかと専門家は指摘する>。

こう見てくると、「曾良」という旅の同伴者は、芭蕉に接近して弟子に登用してもらい、巧に芭蕉を手なずけて幕府隠密の任務を隠密裡に遂行していた“忍者”だったという説は真実味を帯びてくる。果たして芭蕉の死後、「曾良」は、幕府巡見使九州班員に正式に収まっている。

芭蕉の終焉の時、曾良の姿はそこに無かった。公務を理由に葬儀に参列していない。やはり芭蕉に心酔して傍に連れ添った弟子ではなかったのではないか。                 (了)   
参考・ウィキべディア
           07.08.11

2016年12月02日

◆「蕪村顕彰俳句大学」を終え「蕪村祭」の運営に

毛馬 一三



松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸時代の俳人与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だということは、江戸時代当時から知れ渡っていると思っていた。

仮にそうでなくとも、明治時代になって、蕪村俳句を初めて評価し世に紹介した正岡子規が、毛馬生誕地は把握し、世に広めていたに違いないと思い込んでいた。

ところが、事実は全くそうではないことが明らかになり、驚かされた。

それの事を知らされたのは、NPO法人近畿フォーラム21主催「蕪村顕彰俳句大学」講座で講師をお願いしている、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授と、懇談した時であった。

結論から先にいうと、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は終戦直後のことだということだった。奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったというのである。

藤田教授の話によると、次のようなことだった。

(蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍していた江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという明確な「記録」は残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、いなかったのではないかというのだ。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。が、残念なことにその舞台となる馬堤近くが自分の「生誕地」だとは一切触れていない。

想像してもこの書き方では、「生誕地を毛馬村」と結びつけることは出来ない。

しかし、その後願ってもないことが起きていた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中で、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと綴っている。

春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それなら、これが物証となって、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かったのだろうが、そうならなかったのには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村直筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地複数説」を加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態だった。

しかし、前記の如く、奈良県で終戦直後偶然見つかった弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」が、「蕪村直筆」だと、公式に「認定」されたため、「毛馬生誕地」説が確定した。終戦直後の認定だから、遅きに失したと言わざるを得ないが、これは「蕪村生誕地複数説」を破棄し、毛馬村を生誕地とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになる。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

以後、生誕地が毛馬村であることを不動のものになったことになる。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村直筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも無かったことになるだろう。)

こうして、蕪村が大阪生誕の俳人と称されるようになってから七十余年しか経たない。そのため蕪村は、芭蕉や一茶とは異なり、江戸時代以来、生誕地大阪で「蕪村生誕顕彰」が疎かにされてきたことに繋がってきており、誠に慙愧に絶えない。

このために、今ですら地元大阪で「蕪村生誕地が毛馬村」であることを知らない市民は多い。次世代を担う児童生徒の学習の俎上にすら上がっていないことを考えると、児童生徒が生誕地のことを知らないことも当然のことだろう。残念で仕方がない。

だから、われわれ「蕪村顕彰俳句大学」では、今年の「蕪村生誕三百年記念に合わせて、「三百年記念諸行事」を開催し、俳句文化活性と後世への伝承、そして国際化への発信を大々的に進めたいと考えている。

余談ながら藤田教授との懇談の中で、更に驚いたことがあったことを記して置きたい。
「蕪村は淀川を下って源八橋から船を降りて浪速の弟子のもとに往き来きしていたようですが、それほど郷愁があったのなら、極く近郊にあった毛馬村の生家に立ち寄るのが自然だと思うのです。その痕跡はありませんか」

答えは「それを証明する歴史書類はありません。立ち寄ったか否かどうかも、わかりませんね」ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったとしても、生誕地へ何らかの理由で寄りたくない気持ちがあったのだろうという推察が浮上してくる。

恐らく奉公人だった母と実家の父が亡くなってから、家人たちによる極めつけの「いじめ」があり、そのために十七・八歳で家を出ざるを得なかったのではないか。そのことが「生家には生涯立ち寄らなかったこと」に結びついているのではないだろうか。
これはあくまで私の推論である。

最後になったが、私たちNPO法人近畿フォーラム21主催の「蕪村顕彰俳句大学 学長 川原俊明(弁護士)」は、今年迎えた「蕪村生誕三百年記念の年」が今年十二月で終わったことに合わせて、主行事「蕪村顕彰の俳句講座」を十三期で終焉した。つまり、大阪俳人蕪村の顕彰と蕪村生誕三百年記念諸行事を後世へと諸外国へ伝承する効果をささやかにも結びつける目的を達成できたたと自覚したからである。

これからは、「芭蕉・一茶の御祭り」に負けない「与謝蕪村祭」を、生誕地大阪毛馬町で実行していくことにしている。

是非共皆様のご賛同とご支援を伏してお願い申し上げます。(了)

2016年11月22日

◆ノロウイルス食中毒の予防

毛馬 一三



11月21日15時11分 のNHK関西ニュースで、下記の記事が流され驚きました。

<大阪・泉大津市の小学校で、児童と職員あわせて100人あまりが、下痢やおう吐の症状を訴え、保健所は、ノロウイルスによる集団感染とみて調べています。

大阪府医療対策課によりますと、泉大津市内の小学校で、今月10日から21日にかけて、1年生から6年生までの児童104人と、職員3人のあわせて107人が、相次いで下痢やおう吐の症状を訴えました。

重症になった人はおらず、症状を訴えた人たちは、おおむね快方に向かっているということです。

保健所の検査で、児童と職員あわせて6人から、ノロウイルスが検出されたことから、保健所では、ノロウイルスの集団感染とみて、感染経路などを調べています。

大阪府によりますと、府内のおよそ200の小児科から報告される、ノロウイルスなどによる感染性胃腸炎の患者数は、先月下旬から増え始め、今月13日までの1週間では、1912人と、前の週より4割以上増えたということです。

ノロウイルスは、感染力が非常に強く、特に、子どもやお年寄りは重症化しやすい傾向にあることから、大阪府は、調理や食事の前などには、せっけんを使って手をしっかり洗うよう呼びかけています。>
(NHK関西ニュース)

そこで大阪厚生年金病院の柴谷涼子感染管理認定看護師から、以前に「ノロウイルス食中毒の予防」の原稿を頂いて居りましたので、「予防の心がけ」を、下記に再掲致します。ご拝読下さい。

◆柴谷 涼子(大阪厚生年金病院)

「ノロウイルス」について正しく理解し、ご自身も感染しないよう予防しましょう。

★ノロウイルス感染症とは・・・
 
ノロウイルスが人の小腸で増殖して引き起こされる急性胃腸炎です。

@ カキや貝類を十分に加熱せず食べた場合
A 生ガキや貝類で汚染された調理器具で調理した生野菜などを食べた場合
B ウイルスに感染したヒトの便や吐物に触れた手で調理をした場合・・・などに感染する可能性があります。

★症状
  
年齢に関係なく感染は起こりますが、高齢者や抵抗力の弱ったヒトでは重症化する例もあります。嘔気・嘔吐・下痢が主症状です。
 
腹痛、頭痛、発熱、悪寒、筋痛、咽頭痛などを伴うこともあります。 高齢者の場合、症状が出て、水分摂取ができなくなるとすぐに脱水症状を起す可能性がありますので、早めに病院の診察を受けて下さい。

★予防

生のカキや貝類は内部まで十分に加熱してから食べるようにしましょう。カキの処理に使用したまな板などは、よく水洗いし、熱湯消毒をしてから使用しましょう。

★冬場はこのノロウイルスに限らず、様々な感染症が流行します。感染予防としてもっとも重要なのは、普段からの手洗いやうがいです。

外から帰ったあとは必ず手洗いとうがいをする習慣をつけましょう。

 <参考文献;>

1.国立感染症研究所 感染症情報センター感染症発生動向調査週報 感染症の話
 http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k04/k04_11.html
2.大阪府食の安全推進科    http://www.pref.osaka.jp/shokuhin/noro/
3.厚生労働省ノロウイルス食中毒の予防に関するQ&A
http://www.mhlw.go.jp/topics/syokuchu/kanren/tobou/040204-1.html
          (大阪厚生年金病院 感染管理認定看護師 )

2016年11月20日

◆「がめ煮」の郷愁おもてなし

毛馬 一三



随分前に友人に案内されて行った大阪梅田のビルの地階の古い暖簾の「小料理屋」に、再々度その友人と一緒に行った。

店は、老主人が黙々と「料理」に専念し、老婦人が注文受けとお酒の配膳役を務める「こじんまり」とした小料理屋だ。壁に掛けられた「おつまみ品」には目を向けず、すぐに、以前に来た時食した「ガメ煮」をすぐ注文した。

「がめ煮」は、私の出身の福岡筑後久留米の郷土料理の呼称だが、この名前で出される店は、大阪には無い。

そう言えばこの「がめ煮」は、筑後地方以外では「筑前煮」と呼ばれている。本当は「がめ煮」と「筑前煮」とは具材と味が違い、「がめ煮」の方が食の玄人向きだと、私は今でも思っている。

早速箸をつけて味わってみたが、前回の味と全く変わらない。九州出ではない主人にしては、出来すぎの料理だ。

さて、その「がめ煮」のことだが、博多地方の方言では、「がめくり込む」(「寄せ集める」などの意)が、その名前の由来だとの説がある。

ところが、太閤秀吉が朝鮮半島を攻めた文禄の役の時に、朝鮮に出兵した兵士が、当時「どぶ亀」と呼ばれていたスッポンと食材と合わせた煮込の料理方法を、我が国に持ち帰って作ったのが始まりだとの説がある。

そのスッポンを使って煮込んだ「どぶ亀」をそのまま筑後地方で「がめ煮」という名で作り始めたと伝えられているから、「がめ煮」の名の方が筑後地方が先で、博多の「筑前煮」は後釜という説の方がある。

ところがいつ頃からかは分からないが、「がめ煮」にスッポンは使わず、代わって「鶏肉」をいれるようになった。この作り方も、筑後地方の方が先に手を付け、郷土料理にしたと言われている。

子供の頃、「がめ煮」が食前に出る時は、お正月や婚礼式などの祝い事の時だった。「がめ煮」は慶事の時の食べ物だったという記憶が蘇ってくる。

さて、作り方だが、

<本場筑後「がめ煮」と「筑前煮」との一番の違いは、具材を炒めて入れる手順にあるという。まずはだし汁、シイタケの戻し汁、酒、醤油、みりん、砂糖を混ぜて鍋で煮立たせるのから始まる。そこに、一口大に切った鶏肉を入れてひと煮立ちさせる。

そこまでの手順は一緒だが、その後、「筑前煮」は、里芋、干し椎茸を戻したもの、コンニャク、アクを抜いたゴボウ、レンコン、ニンジン、ナスで筍を一口大に切ったものなどを入れる。

「がめ煮」は、コンニャク、里芋、大根、ニンジンを入れ、鶏肉をじっくり煮込ませるやり方で、甘みを時間を掛けて滲ませるのが独特のやり方だ。

この点が「がめ煮」と「筑前煮」が違うところだ。野菜が柔らかくなるまで煮れば、出来上がり。煮あがったところに「筑前煮」の場合は、サヤエンドウを加えることもある。>

聞くところによると、久留米市は「久留米市食料・農業・農村基本計画」を作り、伝統の「がめ煮」の美味しさを広めて行く市政段取りを今でも進めているという。

「がめ煮」を郷土料理の誇りにしている。きっと「がめ煮」を筑後の「おもてなし」として後世に残したいためだろう。

郷里久留米の姉の家に寄ると、姉が昔ながらの見事な味の「がめ煮」を作ってくれる。「がめ煮」舌触りに接するだけで、子供の頃の郷愁が込み上げて来て感動するばかりだ。

今回「小料理屋」で食した「がめ煮」の味も、改めて郷愁を誘ってくれた。
「がめ煮」の味は 底が深い。(了)

参考 フリー百科事典ウィキペディア

2016年11月19日

◆新著「角さん、ほめられ過ぎですよ!」

毛馬 一三



NHK記者の4年後輩の中尾庸蔵さんから自作新書「角さん、ほめられ過ぎですよ!」
を、送って来てくれた。

中尾庸蔵さんは東京NHK社会部在籍者で、筆者はその頃NHK東京政治部に勤務していたものの、所属部が違うため中尾さんと会ったことも無く名も聞くことが無かった。従って、今回突如の中尾著作の「新刊書」が送書されてきたにことに驚き、感激した。

さてその「新刊著書」だが、題名は「角さん、ほめられ過ぎですよ!」とされ、副題は
〜異常人気の「角栄本」の正しい読み方〜となっている。

一体どんな新刊著書なのか。筆者自体、角さんとは「決断と実行」の手練政治家であり、ロッキード事件に連座していた政治家でもあること程度の知識は、今でも脳裡から離れない。もともと興味津々だった角さんだ。それだけに新書に興味が湧いた。

肝腎の中尾さんの著書の「まえがき」に、
・盛りあがる角栄任期 虚像と神話も
・見返りを求めず金を渡す“ は本当か
・私と角さんの関係
・角さんの実像を明かし、正しい「角栄本」の読み方を手助け
と、著書の記載内容を記してある。

その中で、この新書は、「角さん」が戦後最大の疑獄事件といわれるロッキード事件に連座した時、当時中尾さんは社会部記者で、司法担当チームのメンバーだったために否応なく角さんを取材の終始直面することになったという経過が幸運だった。このことが著作に力が注げたことが分かる。

しかも中尾さんは、社会部記者として30代半ばから10年間、角栄取材に追い回されたことになったそうだ。しかもNHKでは異例なことだが、社会部記者がデスクの特命で訪米させられ、角さんの事件背景を現地取材して回っていており、事件の真相に切迫取材したことにも、大きな興味を招く。社会部記者が訪米することなどは、まず皆無に近い。

著書は、第一章から第九章の間に、ロッキード事件に関わった取材時間と取材内容を綴り、「角栄は、功も多き怪物“ではあるが、英雄”ではない」と記している。

著者の想いとして、角さんの「実行」は、実行しただけではだめで、必ず成就し、成果を上げなければならない。その必ず成就するための手段が「金」というわけ。角さんにとって「金」は、好き、嫌いの問題でなく、必須のアイテムなのだ。その角さんの「金」は人を縛る、暗さが付きまとうことが、「決断と実行」の「重点説」だと著者は解明している。そうしたことを素材に「角さんブームの批判」を見事に書き上げている。

この角さんとの密着長期取材結果によって、「田中角栄 礼賛の真偽」が良く分かる。記者特有の読心を揺さぶる見事な新刊著書に仕上げている。実に有能な取材経験を活かしてしか書けない、記者経験者の素晴らしい激高の著書である。

しかし角栄本のほとんどは、「角さんの虚像と神話に基づくものが多く、人心を惑わすものだというのが私の意見だ」としており、この自作の「正しい角栄本」読むように勧めているのが、著者の本音のひとつだ。

そこで著作者の中尾庸蔵さんから下記のコメントを頂いた。これを読んで、書店で早く購入されることをお勧めしたい。異常人気の「角栄本」の正しい読み方が出来るようになっているのだ。

◆中尾庸蔵のコメント
<ロッキード事件発覚から40年、事件で逮捕された角さん(田中角栄元首相)の人気が異常に高まり、とくにお金の渡し方が上手い、心がこもっている、などと称賛されている。

何かおかしい、日本社会がこんなことで良いのか!現役時代、角さん問題を密着取材した元NHK記者が、改めて取材メモを紐解き、角さんブーム批判、角さん批判書き上げた。

角さんについて、売らんがための虚像ではなく、実像を知りたい方には必読の一書。>

扶桑社新書「角さんほめられ過ぎですよ!〜異常人気の「角栄本」の正しい読み方〜」
(800円+税)
                          以上

        

2016年11月15日

◆黄砂アレルギーに注意

毛馬 一三



花粉症歴の経験が全く無い筆者にとって、軽い風邪症状の一種かなと思って、余り気にも止めていなかった。

ところがとんでもない。次第に喉の違和感が痛みを伴うようになり、咳も痰も出るようになった。

そこで、慌てて近くの内科診療所に飛び込んだ。内科医は喉の症状を見た途端、「炎症がひどいですね」という。「原因は?」と訊いたら、「飛来してくる黄砂の黴によるものと思われます。花粉症ではありません」と教えてくれた。

同医師によると、黄砂によるいろんな健康被害で訪れる患者が、急増しているという。同医院から、

・抗生物質―フロモックス錠100mg(毎食後1錠・3日間分)
・咳を鎮める薬―メジコン錠15mg(毎食後2錠・7日分)
・痰や膿を薄めて、痰や鼻汁を出しやすくする薬―ムコダイン錠500mg(毎食後1錠・7日分)
・胃薬―セルベックスカプセル50mg(毎食後1カプセル・7日分)薬を貰った。

だが、マスクを付けて外出を余儀なくさせられた1週間が過ぎても喉の炎症と咳、痰共に治まる気配が無い。再診の結果、まだ喉の炎症は完治してないと診断され、改めて下記の薬を貰った。

・咳を鎮める薬―メジコン錠15mg(毎食後2錠・7日分)
・痰や膿を薄めて、出しやすくする薬―クリアナール錠200mg(毎食後1錠・7日間分)
・炎症を抑えて腫れや痛みを和らげる薬―ダーゼン5mg錠(毎食後1錠・7日分)
・SPトローチ0.2mg(28錠・1日4回)
・アズノールうがい液4%(5ml・1日4回)

2度目の薬を飲んだり、うがいを励行したところ、数日が経過してやっと喉の痛みや違和感がなくなり、咳と痰も出なくなった。

喉にこのような強度な症状が出たのは初めてのことだ。しかも気にはなっていた飛来の「黄砂」によるものだ。

今強烈になっている中国の大気汚染と原因が重なっているらしく、中国から飛来する「黄砂と大気汚染」が、日本に被害をなすりつけているのだ。気象庁も「中国で黄砂が急激に発生してる」と指摘している。日本が被害者になるのか。無性に腹が立つ。

話は後先になるが、<黄砂(こうさ)とは、中国を中心とした東アジア内陸部の砂漠または乾燥地域の砂塵が、強風を伴う砂嵐などによって上空に巻き上げられ、春を中心に東アジアなどの広範囲に飛来し、地上に降り注ぐ気象現象。あるいは、この現象を起こす砂自体のこと>である。

細かい砂の粒子や、粒子に付着した物質、黄砂とともに飛来する化学物質などにより、さまざまな健康被害が生じる。

即ち、咳、痰、喘息、鼻水、痒みといった呼吸器官への被害や、目や耳への被害が目立つ。黄砂が多い日には、花粉症、喘息、アトピーなどのアレルギー疾患の悪化が見られる。>という。 
参考―フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

花粉症で悩まされるだけでなく、黄砂アレルギーで健康被害を煩わされるのでは、堪ったものではない。

ところが肝腎の黄砂による呼吸器官への被害が、増えていることにはあまり知られていないようだ。

黄砂の飛来が顕著な九州や関西では、既にこの被害が出て問題化しているが、全国にも広がるだろう。

黄砂の飛来が予測される時は、TVの「天気予報」で早めに知らせてほしい。

しかも喉などに異常を感じたら、医療機関で診察を早めに受けられることをお勧めしたい。(了)     


2016年11月06日

◆懐かしい博多弁

毛馬 一三



恒例だった「俳句講座」は、今年の蕪村生誕300年記念の年に合せて、9月に行った「13期蕪村顕彰全国俳句大会表彰式の終了」に合致させて、残念にも終了した。

同講座が続いていた折のことだが、講座受講生で、同じ福岡高校卒の盟友5人と帰り道、いつもの喫茶店でコーヒーを飲みながら雑談を交わしていた。その雑談も出来なくなって仕舞って心が痛む。

そんな時、ふとその時のことを想いだした。

その時の一幕。
盟友のひとりの渡邉征一郎君が、福岡から持ち帰ってきた「博多かるた」を披露した。高さ17p、幅12p、厚さ3pの箱入りの新「かるた」<博多を語る会編・西日本新聞社刊>で、ユーモラスな絵に面白い解説書きが添えられた異色の「かるた」だった。

「かるた」には、「博多の行事・祭事・博多弁」が、「いろは順」で構成されている。熟視するほど、懐かしい「博多情景」が飛び出してくる。全員が、この異色「かるた」を凝視した。

私は筑後出身で、私以外は、全員が博多っ子。たまに帰省することはあっても、郷里を離れて4〜50余年経つため、「博多弁」はすっかり皆忘れている。そのためか、少しでも記憶を呼び戻そうと気持ちを昂ぶらせながら見入っていた。

良かったことは、同「かるた」に、解説書が付いていたことだ。解説を読めば、「札」の文意がわかるようになっている。そこで「かるたの博多弁」思い出して、「この通りやな」と、頭を掻きながら大阪弁で呟く盟友もいた。

ところが、解説書を読んでも、何のことか分からない「博多弁」が沢山あった。例を上げると、「そ」の札。「そおついて わかる博多のよかところ」と解説に書いてある。「そおついて」って何?皆、首を傾げる。

<古代から大陸との文化交流の地だった博多には、いたるところに名所旧跡、歴史の地がある。ゆっくり町を「そおついて」(歩いて)回ると、路地裏のようなところにも、隠れた歴史を発見できる>と、解説書にはある。

なるほど、そんな意味の「博多弁」だったのか。

「かるた」が持ち込まれたことで、久しぶりに「博多弁や博多行事等」が話題となって楽しいひと時を過ごせた。しかし肝腎の郷里「博多弁」をすっかり忘れて仕舞っていたことに、お互い苦笑いすることが何時ものことだった。

実は、私の故郷は久留米。これまた博多弁と久留米弁とはまるきり違う。越境入学で受験高の福岡高校に入学したのだが、入学当時は、博多弁で授業する先生の言葉になかなか慣れず、仲間つくりにも苦労した。でも3年間経つ内に、何とか博多弁に馴染み、言葉の情緒も分かるようになった。

その後、東京の早稲田大学を経てNHKに入局して記者になった。とはいえ、私にとって博多弁は第2の故郷弁だ。なのに、純粋の博多っ子の盟友たちですら、懐かしい「博多弁」を咄嗟に思い出せないのには、聊か驚いた。時節の経過が災いする忘却の仕業なのだろうか。

そこで、懐かしい「博多弁」を、ウイキペディアを参照しながら、改めて頭の中に蘇らせみた。

<名詞>
•「かったりこうたい」…交互に。交代交替。
•「きさん」…貴様。
•「ど (ん) べ」…最下位。
•「こす」…こすいこと。
•「せこ」…せこいこと。
•「ちかちか」…チクチク
•「ごりょんさん」…主婦。

<動詞>
•「おっせこっせする」{サ行変格活用} …時間に追われてバタバタする。
•「くらす」 {サ行五段} …殴る。(「喰らわす」から)
•「くちのまめらん」{ラ行五段}…呂律が廻らない。
•「おらぶ」{バ行五段} …叫ぶ。
•「からう」{ワ行五段} …背負う。
•「きびる」{ラ行五段} … (紐などで) 縛る、束ねる。
•「こずむ」{マ行五段} …積み上げる。
•「ずんだれる」{ラ行下一段} …だらしない。
•「ぞろびく」{カ行五段} …引きずる。
•「たまがる」{ラ行五段} …びっくりする。
•「ねぶる」{ラ行五段} …舐める。
•「ねまる」{ラ行五段} …腐る。
•「のうならかす」{サ行五段} …なくす。
•「ねぶりかぶる」{ラ行五段} …うとうとする
•「腹かく」{カ行五段} …腹が立つ、苛立つ。
•「はわく」{カ行五段} …ほうき等で掃く。
•「ほがす」{サ行五段} …穴を開ける、穿孔する。
•「ほとびらかす」{サ行下二段} …ふやかす。
•「まどう」{ワ行五段} …弁償する。

<形容詞・形容動詞・副詞・連体詞>
•「しゃあしい (か) 」(語源は「せわし」)「じゃかしい (か) 」「せからしい (か) 」{形・シク} …うるさい、騒がしい。「そわそわすんな。しゃあしかぞ」[共通語訳]「そわそわすんな。気が散る。」
•「しょんない」{形・ク} …仕方ない。
•「しかたもない」{形・ク} …1. くだらない。どうでもいい。2. 期待して損する。
•「いっちょん」{副} … (否定語を伴って) 少しも。全然。
•「えずい」{形・ク} 怖い。
•「すいい」{形・ク} …酸っぱい。
•「そげな」{連体} … そんな。「そ」+「が」+「やうなる」
•「そげん」{副} … そんなに。そんなこと。そんなふうに。「そ」+「が」+「やうに」
•「どげな」{連体} … どんな。
•「どげん」{副} … どんなに。どう。どんなふうに。
•「なし」「なして」{副} …なぜ、どうして。
•「いたらん」{連体} …余計な。多くは「いたらんこと (するな / 言うな) 」の形で使用される。
•「なんかなし」{副} …とにかく。「なんかなし、電子辞書ば使わんで紙の辞書ば使うて見れ」>。
まだまだ懐かしい「博多弁」は沢山ある。どうか博多から離れてお暮しの方が、博多で過ごされた時のことをこの「博多弁」から思い出して頂ければ幸いだ。(了)   

2016年10月31日

◆春日局は光秀重臣の娘

毛馬 一三



春日局(かすが の つぼね)は、本名斎藤福(さいとう ふく)と云い、江戸幕府の3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」との名は、朝廷から賜った称号である。

ところが、福の父は本能寺の変で織田信長を暗殺した明智光秀の重臣・斎藤利三で、福はその娘だった。
斎藤利三は捕えられ斬首されたが、そんな本能寺の変の主役の娘・福がどうして江戸幕府の大奥に招き入れられ、大奥の頭の「春日局」にまで昇進したのだろうか。「謎」の一つだ。

<福は父斎藤利三の所領のあった丹後国の黒井城下館(興禅寺)で生まれる。丹波は明智光秀の所領であり、利三は重臣として丹波国内に、光秀から領地を与えられていた。

光秀の居城を守護するため、福知山城近郊の要衝である黒井城を与えられ、氷上群全域を守護していたものと思われる。福は、黒井城の平常時の住居である下館(現興禅寺)で生まれたとされている。
こうして福は、城主の姫として、幼少期をすごした。

その後、父は光秀に従い、ともに本能寺の変で織田信長を討つが、羽柴秀吉に山崎の戦いで敗戦し、帰城後に坂本城下の近江国堅田で捕らえられて斬首され、他の兄弟も落ち武者となって各地を流浪していたと考えられている。

そうなって福は、母方の実家の稲葉家に引取られ、成人するまで美濃の清水城で過ごしたとみられ、母方の親戚に当たる「三条西公国」に養育された。これによって、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけることができた。>ウイキペディア

このような歴史背景から見て行くと、明智光秀の重臣だった父親の血を惹く実の娘が、江戸幕府に召し上げられて、「春日局」となるとは、首を傾げたくなる訳だ。

大阪堺の歴史家によると、徳川家康は本能寺の変の前に、織田信長を訪ね酒杯を頂きながら戦況を交わしている。明智光秀はこの酒杯のお世話を担務したが、段取りを信長に嫌悪されて過激の叱責を受け、信長側近の地位を剥奪された。

そこで信長を将来の身を絶望恨み、本能寺の変を決意した。ここで重要なことだが、重臣斎藤利三を遣って、徳川家康に信長暗殺を秘かに伝え、本能寺の変に突入したのだそうだ。そして徳川家康には、無事に京都から大阪を経て、堺まで逃げ込む方策を告げたのだという。

密告通り、京都で「変」が起こったことを知った家康は、迎えに駆けつけてきた斎藤利三の強力家来に誘導されて方策通り、堺に向けて脱出。そのあと「伊賀の多数忍者」に擁護されながら、本城の三河城に苦労して辿りついたという。

この家康の行動は、恰も本能寺の変とは「無縁」で、むしろ「被害者」たる姿勢を世間に見せ付ける様子を敢えて披露したように見える。堺にはそれを裏付ける資料もが少々あるというのだ。

つまり、家康にとって、斎藤利三は命の恩人ということになる。信長にとってゆるせない反乱重臣の斎藤利三は、家康にとっては恩返しをしなければならない重要人物であったことは間違いない。
つまり、福は紛れもない命の恩人の娘だったのだ。>

<ところが、もう一つの見方もある。「謎」の二つ目である。

つまり、家康がすみやかに京都を脱出出来たのは、家康と光秀の間で、信長を暗殺する方策を事前から立案し合っていたものではないか。その脱出方策の実行を斎藤利三に任せ、家康の身の安全と、信長後任の詰めまでも、申し合わせていたのではないかと云う見方だ。つまり、家康こそむしろ「暗殺首謀者」だとの見方だ。

方策は見事に成功した。だが、斎藤利三は斬首された。となれば上記と同様、家康は、紛れもない命の恩人の娘だった福に、父親の恩を返してやることを考えたに間違いないと考えられるべきだろう。>

さて、<福は、将軍家の乳母へあがるため、夫の正成と離婚する形をとった。慶長9年(1604年)に2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命される。このとき選考にあたり、福の家柄及び公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたといわれている。

家光の将軍就任に伴い、「将軍様御局」として大御台所・江の下で大奥の公務を取り仕切るようになる。寛永3年(1626年)の江の没後からは、家光の側室探しに尽力し、万や、楽、夏などの女性たちを次々と奥入りさせた。

また将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握る。

寛永6年(1629年)には、家光のほうそう治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、そのまま10月には上洛して御所への昇殿を図る。

しかし武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため、血族であり(福は三条西公条の玄孫になる)、育ての親でもある三条西公国の養女になろうとしたが、既に他界していたため、やむをえずその息子・三条西公条と猶妹の縁組をし、公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内する資格を得た。
そして三条西 藤原福子として同年10月10日、後水尾天皇や中宮和子に拝謁、従三位の位階と「春日局」の名号及び天酌御盃をも賜る。

その後、寛永9年(1632年)7月20日の再上洛の際に従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。よって二位局とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比定する位階となる。
寛永11年に正勝に先立たれ、幼少の孫正則を養育、後に兄の斎藤俊宗が後見人を務めた。寛永12年には家光の上意で義理の曾孫の堀田正敏を養子に迎えた。

寛永20年(1643年)9月14日に死去、享年64。辞世の句は「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」。法号は麟祥院殿仁淵了義尼大姉。墓所は東京都文京区の麟祥院、神奈川県小田原市の紹太寺にある〉。  ウイデペディア。
このように福の奇跡的な生涯を見て行くと、上記に<武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため>とあって、これを秘匿した工作がはっきりしてくる。「謎」の一つは解けそうだ。

しかも、素晴らしい殿中での政治的画策の実現を図る、福の明晰な頭脳が分かる。

しかし、家康と明智光秀が共謀者同士だったかの、二つ目の「謎」は分からない。
                                        
この「春日局」の生涯には、興味が深い。
                        

2016年10月24日

◆「納豆」を食べよう!

毛馬 一三



私の苦手な「納豆」が、骨粗鬆症の予防に効果があるという記事を読んだ。だったら、これからもっと「納豆」を食べることに挑戦しなくてはなるまい。それはこのあと追々。

私は九州の筑後地方で幼少期を過ごした田舎育ち。日露戦争で活躍した日本旧陸軍「久留米師団」の軍事施設がわが家の近くにあったが、周辺全体が農村地帯だったので大東亜戦争が終ったあとも、米や野菜など食糧難に接した記憶はない。

だが、有明海や博多湾からはかけ離れていた所だったので、「海の生魚」には縁がなく、塩漬けのサバなどをリヤカーに積んで売り歩く行商から「塩漬け海魚」を買い求め、焼き魚にして食べさせられたことは、今でも思い出す。

ところが珍事がある。どうしたことかわが町には「納豆」の売る店も、行商も一切なかった。だから「納豆」を食することはなく、名前すら知らなかった。勿論、我が家が「納豆」を何かの因縁で食膳から避けたという話も聞いたこともない。

「納豆」に初めて出会ったのは、18歳の時東京に進学して、下宿先の食卓だった。「納豆」にネギ、わさび、醤油をいれてかき回しご飯の混ぜて食べるものだったが、異常なねばりによる味と、腐ったような異臭に思わず顔を背けた。以来食しなかった。

しかし、横浜生まれで「納豆」常食していた家内と結婚してから、健康のために食べようと説得されたことで、「納豆」に卵の黄身、ネギ、醤油、からしを混ぜて食べるようチャレンジした。

ところが、そのあと「納豆」にセットされて売り出された「味付き特別たれ」が意外に美味しかったことから、その「たれ」をかけた「納豆」だけを「おかず」として食べるようになった。

そんな折、骨粗鬆症などの予防に「納豆」などに効果があるという北国新聞の記事を読んだ。
同紙によると、

<納豆などに多く含まれる成分「ポリアミン」に骨量の減少を抑える効果があることを、金大医薬保健研究域薬学系の米田幸雄教授らの研究グループがマウスなどによる実験で突き止めたという。

ポリアミンは老化抑制効果が注目されているが、骨への効果が判明したのは初めて。骨粗鬆症などに対する副作用が少ない予防、治療法の開発につながるとみられる。

米田教授や檜井栄一准教授らのグループは、骨粗鬆症モデルのマウスと、関 節リウマチモデルのラットにそれぞれ28日間、ポリアミンを混ぜた水を投与した。

骨粗鬆症モデルでは何も与えない場合、骨量が3〜4割減少したが、ポリアミンを投与したマウスはほとんど減少しなかった。関節リウマチモデルでは、何も与えない場合と比べ、骨や軟骨が破壊される量が3分の1程度に抑えられた。

さらに培養細胞実験で、破骨細胞にポリアミンを加えると、細胞の働きが抑制されるこ とも確認した。
米田教授は「ポリアミンは納豆など日本人になじみの深い食品で摂取でき、副作用も少ないとみられる。特定保健用食品や医薬品などの開発につながる」と話した>としている。

たしかに高齢の時期になってくると骨粗鬆症が原因で股関節を骨折し、寝たきりになったという話よく耳にする。

序ながら「骨粗鬆症」に触れておくと
<骨粗鬆症(osteoporosis)とは、骨形成速度よりも骨吸収速度が高いことにより、骨に小さな穴が多発する症状をいう。背中が曲がることに現れる骨の変形、骨性の痛み、さらに骨折の原因となる。

骨折は一般に強い外力が加わった場合に起こるが、骨粗鬆症においては、日常生活程度の負荷によって骨折を引き起こす。骨折による痛みや障害はもちろん、大腿骨や股関節の骨折はいわゆる高齢者の寝たきりにつながり、生活の質(QOL) を著しく低くする。> 出典:ウィキペディア