2017年11月29日

◆淀川河底に沈んだままの蕪村の生家

 毛馬 一三                     

江戸時代の俳人与謝蕪村の生家は、淀川の河底に埋没しているのは間違いないのですが、一体河底の何処に埋没させられて仕舞ったのでしょうか。詳しい場所は未だ不明です。

確かに、大阪毛馬の淀川堤防に「蕪村生誕地」と書いた「記念碑」が建立されてはいます。しかし「蕪村生誕し幼少を過ごした生家」は、この場所ではないことははっきりしています。

実は「蕪村の生家」が、冒頭に記したように、淀川堤防から眼下に見える「淀川の川底」に在るのは事実です。なぜ淀川の川底に埋没されたのでしょうか。これは追々。

徳川時代の淀川は、よく手入れが行われていましたが、明治維新後は中々施されていなかったのです。ところが、明治18年に淀川上流の枚方で大水害が起き、下流の大阪で大被害を受けたことをきっかけに、明治政府がやっと淀川の本格的改修に乗り出しました。

その際明治政府は、単なる災害防止ためだけではなく、大阪湾から大型蒸気船を京都伏見まで通わるせる航行で「経済効果」などの多目的工事に専念することを決めました。

そのために淀川の河川周辺の陸地を大幅に埋め立て、それまでの小さな淀川を 大きな河川にする大改修を立案したのです。

これに伴い、旧淀川沿いにあった「蕪村生家」地域は埋め立ての対象となり、すべて「河川改修工事」によって川底に埋められて仕舞いました。

さて、明治政府は関西の大型河川・淀川を大改修するため、オランダから招いた河川設計者・デ・レーケとフランス留学から帰国していた設計士沖野忠雄とを引き合わせ、「淀川大改修」の設計を依頼しました。

明治政府の依頼を受けた2人は、「大改修工事」の設計を創り上げ、明治29年から工事を開始しました。

とにかくこの大型改修設計は、大阪湾に京都の宇治川や桂川、奈良からの木津川を中津川に合流させ、一気に淀川として大阪湾に繫ぐ、巨大な設計でした。

そうすれば貨物蒸気船を大阪湾と京都を結んで航行させることが出来、逆に京都・枚方などで大水害が起きた場合でも大量の水量をさらりと、大阪湾に流すことが出来るのです。二本立ての「効果狙いの設計」でした。

勿論、上流の災害で流出してくる「土砂」が、大阪に被害を与えないため「毛馬閘門」設計も創りました。

これが淀川から大阪市内に分岐させる「毛馬閘門」の設計主旨だったのです。この「毛馬閘門」からは、淀川本流から分岐して大阪市内へ流れる河川を設計しました。その河川の名を「大川」と名付けたのです。

この「大川への分岐設計」で、上流の水害に伴う土砂流失の回避は実現し、大阪の上流からの防災は、今日まで護られているのです。

このように2人による設計書は、世界の河川工事技術水準に準じたもので、明治政府が施工した「河川大改修工事」としては全国的に見ても画期的なものでした。

同工事は、明治29年から明治43年まで行われ、設計通り完成しました。

ここから本題。この「河川大改修工事」によって、与謝蕪村が生まれ、幼少を過ごした大阪市都島区毛馬町(摂津国東成郡毛馬村)は、跡形もなく淀川に埋没させられ、深い川底に沈んで仕舞いました。

明治政府の強制でしたから、当時の住民は仕方なくそれに従ったようですが、川幅も660b(従来の30数倍)となり、浅かった河の深さも5bの巨大河川に変容したのです。

この住居埋没の強制工事で、前述の如く、蕪村の生家(庄屋?)は勿論、お寺、菜の花畑、毛馬胡瓜畑跡などの、当時の地域の様子は皆目全くわかりません。今は淀川の毛馬閘門近郊にある蕪村記念碑から、淀川の眼下に見える川底が「蕪村が幼少を過ごした生家地域」だと想起出来るだけで、寂しい限りです。

淀川近郊の蕪村家(庄屋)の後継者の方といわれる毛馬町の家を訪ね、「家歴」を伺いました。しかし、「地図」も無いし、お寺も埋没して「過去帳」もないために、蕪村生誕地が淀川の河底にありことは間違いないですが、今でもどのあたりの河底にあるのか分かないのです。」という答えが返って来ただけでした。

「蕪村生誕300年記念」を過ごし、大阪毛馬町の「蕪村公園」と通り過ぎて、「毛馬閘門」と「蕪村記念碑」ある淀川堤防の上から眼下に流れる「淀川」を見ながら、その河底に蕪村生誕地があることを想いつつ、蕪村が幼少期をここで過ごしたのかと、ゆったりと瞑想して欲しいですね。

ところで本題。淀川近郊の蕪村家(庄屋)は、大阪毛馬町に在る「淀川神社」の氏子でした。このため年間の祭事や祈願の折は、この「淀川神社」に父母と一緒に蕪村「幼名―寅」は、参詣に通ったことが、江戸時代の慣習から推察出来ます。

また蕪村が、毛馬村を出奔し江戸へ下る決意を固めた時、氏子の立場から毛馬町の「淀川神社」に心底参詣し、将来の生き方を祈願したことは、当然のことと考えられます。

そこで、今の毛馬町「淀川神社」の境内に、蕪村生誕300年の前年の12月21日、協賛者のお力を頂いて高さ1m60pの銅製の「蕪村銅像」を建立しました。

望郷の念の強い「蕪村」は、この「生誕地参詣神社に銅像が建立したくれた」ことに喜んでくれて、これから自ら進んでここに帰郷して呉れるでしょう。また「淀川神社」も、「蕪村参詣神社」として、後世に伝承されるでしょう。

蕪村生誕300年を終え、これからは芭蕉・一茶に肩を並べるような「蕪村生誕祭」を進めて行く私たちの決意です。どうか与謝蕪村に厚意を寄せられる方は、この「蕪村生誕祭」の運営を進める私たちにお力を貸してください。お願い致します。

取材先:国交省近畿地方整備局淀川河川事務所

2017年11月28日

◆今より大きかった「太閤大阪城」

毛馬 一三


国の特別史跡に指定されている大阪城が、実は「太閤秀吉築城の大阪城」ではなく、総てが「徳川大阪城」だと知る人は、意外に少ないのではないか。

では秀吉が、織田信長から引継ぎ築城した元々の「大阪城」は一体どこに姿を消したのか。

橋下徹前大阪府知事が、先般、大阪南港の元WTC高層ビルへの府庁舎全面移転を断念したことから、大阪本庁舎が元のまま活かされることになったため、本庁目の前の「大阪城」の歴史的価値とからんであらためてこの話題が持ち上がりだした。

そう言えば、大阪城を巡って様々な話題がある。

「聳える天守閣は昭和初期に再建され、城の堀は徳川方によって埋められたことは承知していたが、だからと言って秀吉大阪城の城跡が些かも無いとは全く知らなかった」云々である。

大阪城への朝の散歩を日課とする人々や大阪府庁の知人らからも、異口同音に同様の返事が返ってくる。

大阪城真近の天満橋から大手前、森の宮、新鴨野橋と城郭を一周する道筋からは、「大阪城の高い石垣と深い堀」が、雨滴の葉が陽光を跳ね返す樹林の間からと、大きく広がる視界の中から歴史の威容を誇らしげに見せ付ける。特に大手前周辺の高さ32mもある幾重もの「反りの石垣」には、当時の石垣構築技術の進歩の姿を覗かせる。

大阪夏の陣で豊臣家を滅亡させた徳川家康は、同戦いの2年後(1616)死ぬが、家康遺命を受けた秀忠が、元和6年(1620)から寛永6年(1629)までの10年3期にわたり大阪城を大改築する。その時徳川の威令を示すために、「太閤大阪城」の二の丸、三の丸を壊し、総ての「堀」は埋め、「石垣」は地下に埋め尽して、豊臣の痕跡をことごとく消し去ったとされている。

眺める大阪城は、総て「徳川の手になる城郭」だったのだ。では「太閤大阪城」は、どうなったのか。

「大阪城石垣群シンポジウム実行委員会」の論文をみると、そこに「太閤大阪城」が地下に埋められたままになっていた遺跡の一部を発掘した調査記録が下記のように書かれている。

<地下に埋蔵された「太閤大阪城」の石垣を最初に見つけたのは、大阪城総合学術調査の一環として大阪城本丸広場で行われたボーリング調査だった。昭和34年(1959)のことである。天守閣跡の南西にあたる地下8m から「石垣」が見つかった。

4m以上も積まれた石垣で、花崗岩だけでなく、様々な石を積み上げた「野面積み」だった。「野面積み」は、石の大小に規格がなく、積み方にも一定の法則が認められないもの。当時城郭作りの先駆者だった織田信長が手掛けた安土城の「野面積み」工法と同じだったことから、秀吉がその工法を導入して築いた「石垣」と断定された。

それから25年後の昭和61年(1986)になって、再び天守閣跡の南東部の地表1mの深さから地下7mまで、高さ6mの「石垣」が発見されている。

この石垣も「野面積み」だったうえ、その周辺で17世紀初頭の中国製の陶磁器が火災に遭って粉々の状態で見つかったことから、大阪夏の陣で被災した「太閤城」の「石垣」であると断定される2回目の発見となったのである。

両「石垣」の発見場所の位置と構造を頼りに、残された絵図と照合していくと、この「石垣」は本丸の中で最も重要な天守や、秀吉の家族が居住していた奥御殿のある「詰め丸」と呼ばれる曲輪(くるわ)の南東角にあたることが明らかになったのである。

地下に消えた「石垣」は、切り石が少なく、自然石や転用石を沢山積み上げたもので、傾斜が比較的ゆるい、「徳川城」とは異なる「反り」の無い直線だった>。

第3の発見は偶然が幸いした。現在の「大阪城・西外堀」の外側の大阪城北西で、平成4年に大阪府立女性総合センター(ドーンセンター)建設の際の発掘調査で、地下から長さ25m に亘る「太閤大阪城の石垣」が出現した。同石垣は、いま同センターの北の道沿いに移築復元されている。

何よりもこの発掘の価値が大きかったのは、今の大阪城郭からかなり離れた外側で「石垣」が現れたことだ。それは徳川の「城」よりも「太閤城」の方が遥かに規模が大きかったことの証ということになる。

しかも、上記ドーンセンターに隣接する学校法人追手門学院の校庭に「太閤大阪城」の石垣が、今も大切に保存されていることを、私は見た。

非公開なので、許可なしでは見ることができないが、ドーンセンターの石垣と同様、大阪城の外堀からかなり離れたところにあるため、あらためて「太閤大阪城」がいかに大きかったか確かめられる。出来れば学院に公開を求めたい。

地下に眠る遺跡の発掘調査は、エジプトやイタリアなど文明発祥地でブームになっているが、現在進められている大阪市の大阪城発掘調査で、「天下の台所」の基礎を築いた「太閤大阪城」の遺跡が、今の城郭の外側でさらに発見かることを期待したい。(了)

2017年11月27日

◆「納豆」を食べよう!

毛馬 一三

私の苦手な「納豆」が、骨粗鬆症の予防に効果があるという記事を読んだ。だったら、これからもっと「納豆」を食べることに挑戦しなくてはなるまい。それはこのあと云々。

私は九州の筑後地方で幼少期を過ごした田舎育ち。日露戦争で活躍した日本旧陸軍「久留米師団」の軍事施設がわが家の近くにあったが、周辺全体が農村地帯だったので大東亜戦争が終ったあとも、米や野菜など食糧難に接した記憶はない。

だが、有明海や博多湾からはかけ離れていた所だったので、「海の生魚」には縁がなく、塩漬けのサバなどをリヤカーに積んで売り歩く行商から「塩漬け海魚」を買い求め、焼き魚にして食べさせられたことは、今でも思い出す。

ところが珍事がある。どうしたことかわが町には「納豆」の売る店も、行商も一切なかった。だから「納豆」を食することはなく、名前すら知らなかった。勿論、我が家が「納豆」を何かの因縁で食膳から避けたという話も聞いたこともない。

「納豆」に初めて出会ったのは、18歳の時東京に進学して、下宿先の食卓だった。「納豆」にネギ、わさび、醤油をいれてかき回しご飯の混ぜて食べるものだったが、異常なねばりによる味と、腐ったような異臭に思わず顔を背けた。以来食しなかった。

しかし、横浜生まれで「納豆」常食していた家内と結婚してから、健康のために食べようと説得されたことで、「納豆」に卵の黄身、ネギ、醤油、からしを混ぜて食べるようチャレンジした。

ところが、そのあと「納豆」にセットされて売り出された「味付き特別たれ」が意外に美味しかったことから、その「たれ」をかけた「納豆」だけを「おかず」として食べるようになった。

そんな折、骨粗鬆症などの予防に「納豆」などに効果があるという北国新聞の記事を読んだ。
同紙によると、

<納豆などに多く含まれる成分「ポリアミン」に骨量の減少を抑える効果があることを、金大医薬保健研究域薬学系の米田幸雄教授らの研究グループがマウスなどによる実験で突き止めたという。

ポリアミンは老化抑制効果が注目されているが、骨への効果が判明したのは初めて。骨粗鬆症などに対する副作用が少ない予防、治療法の開発につながるとみられる。

米田教授や檜井栄一准教授らのグループは、骨粗鬆症モデルのマウスと、関 節リウマチモデルのラットにそれぞれ28日間、ポリアミンを混ぜた水を投与した。

骨粗鬆症モデルでは何も与えない場合、骨量が3〜4割減少したが、ポリアミンを投与したマウスはほとんど減少しなかった。関節リウマチモデルでは、何も与えない場合と比べ、骨や軟骨が破壊される量が3分の1程度に抑えられた。

さらに培養細胞実験で、破骨細胞にポリアミンを加えると、細胞の働きが抑制されることも確認した。
米田教授は「ポリアミンは納豆など日本人になじみの深い食品で摂取でき、副作用も少ないとみられる。特定保健用食品や医薬品などの開発につながる」と話した>としている。
たしかに高齢の時期になってくると骨粗鬆症が原因で股関節を骨折し、寝たきりになったという話よく耳にする。

序ながら「骨粗鬆症」に触れておくと
<骨粗鬆症(osteoporosis)とは、骨形成速度よりも骨吸収速度が高いことにより、骨に小さな穴が多発する症状をいう。背中が曲がることに現れる骨の変形、骨性の痛み、さらに骨折の原因となる。


骨折は一般に強い外力が加わった場合に起こるが、骨粗鬆症においては、日常生活程度の負荷によって骨折を引き起こす。骨折による痛みや障害はもちろん、大腿骨や股関節の骨折はいわゆる高齢者の寝たきりにつながり、生活の質(QOL) を著しく低くする。> 出典:ウィキペディア

2017年11月19日

◆望郷の念に浸っていた与謝蕪村

毛馬一三


江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれた。

ところが、その生誕地が大阪毛馬村だとは余り周知されていない。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、母親が若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。

蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも師事として俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。

蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、生誕地毛馬村をすり抜けて、頻繁に大阪にやって来ていた。

京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だった。ここから上がって大阪市内に居る数多くの門人弟子らを訪ねて回っている。

また蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねたり、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪市内いたる所を巡回している   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされている。だが実際は、大阪も上記の通り活躍の場だったのだ。これもあまり知られていない。

船着き場の源八橋から生誕地の毛馬まで歩こうとすれば、30分ほどしかかからない。それなのに蕪村は、生涯毛馬には一歩も足を踏み入れなかった。

やはり母の死後、家人から苛められ過ぎ、出家まで決意させられた辛い思いが、大坂に帰郷すれば脳裏を支配し、終生「怨念化」して立ち寄りを阻んだのだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎるものだったと思える。

とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いない。

自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。

蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。

こうした蕪村の郷里願望を叶えてやる為、芭蕉・一茶の諸行事より華やかな「蕪村生誕祭」を敢行したい気で満ちて、地元淀川連合町会や蕪村通り商店街、地元俳句愛好家ともに、いま準備を進めている。

「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を実現させることこそ、筆者の人生最後の願いでもある。(了)

2017年11月18日

◆望郷の念に浸っていた与謝蕪村

毛馬 一三

江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれた。

ところが、その生誕地が大阪毛馬村だとは余り周知されていない。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、母親が若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。

蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも師事として俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。

蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、生誕地毛馬村をすり抜けて、頻繁に大阪にやって来ていた。

京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だった。ここから上がって大阪市内に居る数多くの門人弟子らを訪ねて回っている。

また蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねたり、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪市内いたる所を巡回している   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされている。だが実際は、大阪も上記の通り活躍の場だったのだ。これもあまり知られていない。

船着き場の源八橋から生誕地の毛馬まで歩こうとすれば、30分ほどしかかからない。それなのに蕪村は、生涯毛馬には一歩も足を踏み入れなかった。

やはり母の死後、家人から苛められ過ぎ、出家まで決意させられた辛い思いが、大坂に帰郷すれば脳裏を支配し、終生「怨念化」して立ち寄りを阻んだのだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎるものだったと思える。

とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いない。

自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。

蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。

こうした蕪村の郷里願望を叶えてやる為、芭蕉・一茶の諸行事より華やかな「蕪村生誕祭」を敢行したい気で満ちて、地元淀川連合町会や蕪村通り商店街、地元俳句愛好家ともに、いま準備を進めている。

「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を実現させることこそ、筆者の人生最後の願いでもある。(了)

2017年10月30日

◆蕪村故郷・淀川神社に俳句献上いかが

                          毛馬 一三


今年3月解散した筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム21と大阪毛馬の「淀川神社」との間で、共同して「蕪村顕彰活動」を、28年元旦から「蕪村神社を蕪村神社を軸に広めましょう!」と合意しました。

このことを朝日新聞が、「大阪版」に「蕪村故郷で一句いかが」として記事掲載をしたのです。

同記事を下記に掲載します。

 <江戸時代の俳人・与謝蕪村(1716〜83)が生まれた大阪市都島区毛馬町にある「淀川神社」が、2015年の元日から参拝者が詠んだ俳句の「献句」を始める。「春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉(かな)」などの名句を残した地元の偉人について、16年の生誕300年に向けて広く関心を持ってもらおうとの試みだ。(中略)
 

「献句」を始める「淀川神社」の宮司の横路良さんは、「地元でも蕪村の故郷だと知らない人が多くなっている。蕪村と俳句に触れる機会を増やしたい」と考え、神社での献句を思い付いたという。

「菜の花や月は東に日は西に」の句と蕪村の自画像が描かれた縦約24a、横約6aの木製の絵巻を500円で販売。

裏面に自作を含む好きな句と願い事を書いて貰い、境内の絵馬掛けに1年間、かける。横呂さんは「蕪村の句にある土地の今を見て、思いを巡らせながら詠んでほしい」と話す。

献句は、1月1日午前0時からの歳旦祭への参加者から奉納がはじまる。
 
問い合わせは、「淀川神社・06・621・5980へ。横路良宮司 >。

序に、筆者も加筆。

<氏神「淀川神社」を「蕪村神社」として広めましょう。

「淀川神社」は、大阪市毛馬町にある「蕪村公園」のすぐ南側、城北通り道路を渡り、すぐ側にあります。

氏神様「淀川神社」は、元々「十五神社」と称して、平安朝初期または、それ以前に創立されています。同神社は、そのままの形で、当時から摂津の国東成郡友渕村字外島(現・友渕町337番地)に在りました。

また、同じ旧東成郡には明治まで、同じ氏神様で「八幡神社」も在りました。つまり蕪村地の旧東成郡には、2つの「氏子神社」があったのですが、「八幡神社」は明治43年に他神社と合祀し、無くなりました。

ところで江戸時代の俳人与謝蕪村は、享保元年(1716年−生誕日は不明)に、この摂津国東成郡の長閑な村で生まれました。

生家は、父は庄屋で、問屋、宿屋も営む北国屋吉兵衛。母は丹後与謝から奉公人として来た「げん」でした。母「げん」は、器量と気立てが良くて、吉兵衛に気に入られ、2人の間に男の子(寅―後の蕪村)が誕生したのです。

北国屋吉兵衛は、庄屋、問屋でしたから、国東成郡友渕村の農作業を先導して商売に精を出し、特に菜の花から採れる菜種油の生産と販売を幕府から奨励を受けて励んだため、多くの使用人を使って、裕福な暮らしをしていたと云われます。

「氏子」の北国屋吉兵衛の一家が、「淀川神社」に正月などに参拝したのは、間違いありません。蕪村も生誕して両親に抱かれてお参りしたでしょうし、両親を亡くし実家運営苦衷の厄払いの時も、淀川神社に参拝したことは想像に難くは在りません。

17・18歳の時、蕪村が江戸に出奔する時も、「安全祈願」のため2「氏子神社」に行ったでしょう。つまり蕪村(寅)と「神社」の関係は、当時の江戸時代の風習から考えると、氏子として当然深い繋がりを持っていたものだったと思われます。

ところが、前述のようにもう1つの「八幡神社」は、明治43年に合祀して姿を消したので、蕪村生誕地近郊に現存する氏神様は、明治以来「淀川神社」だけになったのです。

つまり蕪村の願いを「祈願」として念引き継いでいるのは、「淀川神社」だけということになります>。

ところで3年前「淀川神社」宮司に就任された横路良さんが、蕪村顕彰と蕪村生誕300年記念行事を進めていた私たちNPO法人と、大阪俳人与謝蕪村名と蕪村生誕地が毛馬町であることを、「淀川神社」を一つの拠点として、後世に継承して行こうと話合いを進め、同じ気持ちに歓喜して合意したのです。

つまり、「淀川神社」を「蕪村神社」として全国・海外に広めて行こうと合意したわけです。

その「絵馬」は、神社境内の「絵馬掛け」に1年間奉納することになるのです。沢山の俳句愛好家が鑑賞しています。

どうか「淀川神社」を参拝されて、「絵馬」に「献句」されますようお勧めします。

末筆になりましたが、「淀川神社」には、近郊の住民のご支援を得て「蕪村銅像」を建立したことは、既にお知らせしていますので、どうか「蕪村銅像」を拝顔されながら、季節の変わるごとの「蕪村俳句」を種じゅ想いだしながら、「淀川神社」に、自信のある俳句を「絵馬」に書いて、神社に飾りだして下さいね。

2017年09月28日

◆当分の間・休刊いたします。ご寛恕下さい。

当分の間、休刊します。ご寛恕下さい。

2017年09月26日

◆淀川八軒家浜船着場から熊野街道へ

毛馬 一三



大阪「淀川」から毛馬閘門を通り、1級河川「大川」(旧淀川)を少し下って、大阪三大橋の「天神橋」を抜けると、「八軒家浜船着場」に辿り着く。

この「八軒家浜」は、古代から京都と結ぶ水上交通の拠点だった。江戸時代ではこの浜の船着場周辺に、八軒の船宿があったことから「八軒家浜」と呼ばれ始めたらしい。その行事を祝して今「記念碑」が、阪神電鉄天神橋駅前の老舗・昆布屋門前に立っていて目立つ。

この「碑」の先の坂を少し南へ上ると、江戸時代の西洋医学者・緒方洪庵の塾屋敷跡がある。ここに集まる弟子たちも、この「八軒家浜船着場」を常時利用した。坂本竜馬も、西郷隆盛も、ここの船着き場から近郊にある「薩摩屋敷」に通っていたのだ。

この「八軒家浜船着場」は、京都から屋形船でやって来た人々が、この船着場から「熊野詣」に赴く道筋として利用していた。今になって、ここ「八軒家浜船着場」が、世界遺産となった「熊野街道」の起点となっているのだが、意外にもそれが知られていない。

さて、その「熊野街道」に触れておこう。

<この「八軒家浜」を起点に、四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)、堺、和歌山などを通り、紀州田辺を経て、中辺路または大辺路によって熊野三山へと向かう道筋。

この熊野街道を経て参台する「熊野詣」は、平安時代中期ごろ、熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集めるようになったのに伴い、法皇・上皇などの皇族、女院らや貴族の参詣が、相次ぐようになったのが始まりだった。

室町時代以降は、武士や庶民の参詣が盛んになった。その様子は、蟻の行列に例えて、「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいだったそうだ。江戸時代になると伊勢詣とも重なり、庶民も数多く詣でたため、賑わいは浪速で最高だったといわれる。ただ明治以降は、鉄道や道路の整備により参拝者は少なくなる>。
参考―フリー百科事典『ウィキペディア

このように霊場熊野三山まで橋渡しする歴史的街道の起点の「八軒家浜船着場」は、これを賑わいのある水都大阪再生拠点にしようと、民官協働で、京阪電車天満橋駅の北側の大川沿いに幅約10メートル、長さ約50メートルの3層からなる鋼鉄製の巨大な「船着場」が建設された。

同船着場では、ゆったりとしたスペースがある水上バス(アクアライナー)や大型遊覧船が、ここから発進し水上バスに乗船すると、水都大阪に広がる眺望とクルージングを楽しむことができる。

遊覧船に乗って身を乗り出し、目上に広がる大阪のまちの姿を眺めると、立体的な水都の形が顕れ、両岸のまちなみが覆い被さるような3次元都市を実感させてくれる。実にマジックな風景の出現であり、感動そのものだ。これは体験してみないと絶対に分からない。

大阪大手企業本社の東京一局集中や、大手企業工場の他府県や外国への移籍が目立つなど、大阪の経済基盤の沈下に歯止めが掛からない中で、この「八軒家浜」を観光名所として再起させることが出来れば、集客効果は抜群だろう。

しかも「緒方洪庵の塾屋敷跡」、皇族をはじめ秀吉も通った「八軒家浜」から「熊野詣」への新観光ルートを創りだし、歴史の歩きの楽しみを味合わせる事業が始まれば、大阪への集客に繋がることは間違いない。

「八軒家浜」祭りだけで終わって仕舞う行事だけではあまりにも単純な気がして、実に勿体ない。しかも、「熊野街道」の起点となっている「八軒家浜船着場」の歴史的価値をなえがしにしてきた大阪市文化行政の手抜かりも情けない。

今からでも遅くない。「八軒家浜船着場」から世界遺産となった「熊野詣」を複活させるイベントや実際の「歩き会」を実施すべきだ。

そう思うだけでも「八軒家浜船着場」碑が、老舗「昆布屋)門前にポッンと立っているだけで、寂しく見えて仕方がない。(了)

2017年09月19日

◆大阪にある「自然の滝」

毛馬 一三



大阪のまち中に、自然の「滝」があることを知ってる?と訊いても、多分大方の人は首を傾げるに違いない。ビルの屹立する大都会大阪のまち中で、そんな湧き水が集まり、「滝」となって流れ落ちる光景など想像出来ないからだろう。

紛れも無く私もその一人だった。が、つい先日知人が話の序でに教えてくれた上、そこに案内までしてくれたことがきっかけで、「大阪市内で唯一の滝」の在りかを知ることが出来た。

その「滝」は、大阪市市内の夕陽が丘近郊にあった。「玉出の滝」といった。聖徳太子が建立した四天王寺前の大阪市営地下鉄「夕陽ヶ丘駅」を出て谷町筋から西に向かうと、「天王寺七坂」や「安居神社」、「一心寺」など、寺社や名所が点在する上町台地の歴史のまち、伶人町の中にある。

その天王寺七坂のひとつ、清水坂を登り、細い道を行くと清水寺に着く。本堂の前を抜けて墓地に挟まれた石段にさしかかると、水音がかすかに耳朶を打った。足早にそちらに向かうと、目指す「玉出の滝」に着いた。

「玉出の滝」は、「那智の滝(和歌山)や不動の滝山(岩手)」のように山の頂上から滝壺めがけて怒涛のように流れ落ちる巨大な滝とはスケールが違う。

境内南側の崖から突き出した三つの石造樋から、水道水と同じ程度の量の水がまとまって流れ落ちる、こじまりとした滝だ。

しかし5メートル下の石畳を打つ三筋の水の音は、大きな響きを伴い、その響きは人の心の奥底の隅々にまで行き渡る、いかにも「行場の滝」という感じだ。

知人によると、この「滝」には、落水で修行する常連の人がいるが、新年には滝に打たれて、延命長寿などを祈願する人が訪れるという。

実は、この「玉出の滝」を見た瞬間、京都の清水寺にある「音羽の滝」と瓜二つだと感じた。私の亡くなった母親のいとこの嫁ぎ先が京都清水寺の皿坂にある清水焼の窯元だったので、そこに遊びに行った時見たのが、この「音羽の滝」だった。

案の定、この清水寺は京都の清水寺を、寛永17(1641)年に模して建立した寺で、かつては京の清水にあるような懸造りの舞台も存在していたらしい。

さて、大阪唯一のこの「玉出の滝」は、近くにある四天王寺の金堂の下の清竜池から湧き出る霊水が、ここまで流れてきて滝となっているという言い伝えもあるところから、大阪の歴史の香りと地形の面白さを感じさせてくれる。

余談ながら、この「玉出の滝」の側に、冒頭に記した「安居天神」がある。真田幸村の憤死の跡として知られている神社である。

大阪夏の陣で決戦を挑んだ西軍の真田幸村は、天王寺口(茶臼山付近)に布陣した。徳川方の主力が天王寺方面に進出してくることを予測してのことである。

真田幸村の狙いは、家康の首を取り豊臣家を再興させる戦略だった。真田隊は一丸となって突撃を開始、東軍の先鋒越前軍一万三千を撃破。ついに家康の本陣営に突入。この真田陣の猛攻で、家康の旗本は大混乱に陥り、ついに家康の馬印までが倒されたという。

馬印が倒されたのは、武田信玄に惨敗した三方ヶ原の戦い以来、2度目だった。家康も本気で腹を切ろうとしらしいが、側近に制止され思い止まる。家康が幾多の合戦で切腹の決断を迫られたのは、後にも先にも生涯でこれが2度目である。

だが、真田隊も猛反撃に遭って劣勢となり、今度は家康が、総攻撃を命じた。幸村の要請にも拘らず大阪城からの加勢は現れず、戦場で傷ついた幸村は、ここ「安居天神」の中の樹木に腰を下ろして手当てをしているところを、越前軍の兵に槍で刺され、落命した。

こんな大都会のまちのまん中で、行場ともいうべき市内で唯一の「玉出の滝」が、真田幸村の戦場の近くであったことなどと結びつけて思い馳せていくと、この小さい滝の周辺は見て回るだけでも楽しい歴史が蘇ってくる。(了)

2017年09月10日

◆見逃してならない病気の「前兆」

毛馬 一三



畏友石岡荘十氏の<「あたる」前に必ず「かする」>の寄稿を本誌に掲載したが、まさにその内容が「脳卒中」や「心筋梗塞」に如何に重大なことであることを、改めて知らされた。実はそれに類する事態が私の周辺で起きたからだ。その件は追々。

石岡氏は、それら疾患にはいずれも「前兆」があり、それを見逃してはならないと、こう綴っている。

<心臓の血管(冠動脈)が狭くなる狭心症、完全に塞がる心筋梗塞も高齢者に多い疾患だが、よくよく思い出すとほとんどの人にその前兆がある。血圧が高い、胸が痛くなったり、なんとなく重苦しい感じがしたりするが15分かそこらで治まるので、「ああよかった」とやり過ごす。

これを専門的には「放散痛」というが、大概の人はこれが心筋梗塞の前兆であることに気づかない。こんなときには、バカにせず、24時間緊急対応をしてくれる専門の医師と検査体制の整った病院へ行って診察を受けることが大切だ。

「脳卒中」や「心筋梗塞」で倒れることを、昔から業界では「あたる」といい、一過性の前ぶれを「かする」という。つまり「あたる」前に必ず「かする」前兆がある。

私は、10数年前から「かすった」段階で診察を受け、診察券を確保して、これを外出のときも肌身はなさず携帯して歩いている。そのくらいの心掛けがなければ、attackでよしんば一命をとりとめても、半身不随では快適な老後は過ごせない>。

つまり、胸が痛くなり、15分そこらで治まってもやり過ごすな。専門の医師と検査体制の整った病院に駆け込めと指摘している。さもないと命を落とすか、半身不随となって快適な老後はないと示唆しているのだ。

さて本題。

私の高校同窓生の畏友で、高齢になっても毎朝約2時間掛けて「1万歩」歩きを励行、昼間は、クラブスイミング、日によっては心筋を駆使する「詩吟」を行っている。余りにも想像を絶する運動量に、仲間たちも一様に懸念し、諌めることもしていた。

ところが、ご当人はクラブスイミングの競泳大会に参加した。若者チームと競う「競泳」で、高齢者チーム4人メンバーの1員として出場。予選・決勝を合わせて2000bを、夜9時までかけて全力で泳いだ。

実は、この日朝もいつもの「1万歩」を歩いている。彼によるとこの日の「競泳」のためじっくり練習してきて体力維持には自信をもって臨んだらしいが、流石に夜になると疲れのためか、体はぐったりとしたという。「1万歩」の疲れも加わったようだ。

ところが、翌日朝になるとまた「1万歩」を歩いている。その際、途中で何度も頭や胸全体に気分の悪さを感じた。中断すればいいのに、それが治まるまで休憩し、落ち着くと再び歩きを継続し、何とかやり遂げたそうだ。

この気分の悪さを何かの「前兆」とは思わず、単なる疲れの所為だろうと考え、このあとスイミングクラブに出向いて何時もの通り泳ぎに挑んでいる。

この夜、急激な異変が起こり出した。

胸の痛みが激しくなり、奥さんの勧めで心臓の売薬を3回飲んだが効き目が出てこない。床に横になって安静にしても症状は治まらない。

時間が経過して午前4時になったが症状が変わらないので、奥さんが近くの救急病院に診察を依頼した。しかし当院は外科医しかいないので対応出来ないと断られた。結果的には、この「断り」が幸いだった。

この後、地元消防署に連絡し、医師と検査体制が整った近大医学部付属病院を紹介して貰い、奥さんが同病院に搬送した。診察の結果、心臓の動脈が血栓によりふさがり、血液が流れなくなって動脈の支配する細胞・組織が壊死につながる「心筋梗塞」と診断された。

直ちに手術が行われた。心臓の動脈3枝の内、真ん中の1枝の先端が塞がっており、右足からカテーテルを挿入して空気を送り込み、塞がった部位を押し出す手術だった。手術は4時間かかり、塞がった部位を除去することに成功した。

1枝だけの梗塞でラッキーだったが、そのまま放置したままだったら、一命を落とすことになったであろう。

そのあと無事退院出来た際主治医から、「1万歩」の歩き、水泳等心臓に負担をかける運動などは、絶対控えるよう厳しく注意を受けている。

彼は、学生時代は硬式野球部の選手で、これまで体力には自信があった。しかし日頃から「達成感を尊ぶ性格」の強さが裏目に出て、今度の騒動に結び付いたようだ。

そんな中、奥さんがいち早く検査体制が整った病院へ搬送してくれたことが、一命を救ったくれた最大幸運事であったことを、彼は忘れないと述懐している。

やはり歳に合わせて健康維持には気を配り、「心筋梗塞」や「脳梗塞」などの「前兆」には一層注意しなければならない教訓を、今度の友人の騒動は私たちに与えてくれた。

しかも、冒頭の石岡氏の指摘のように、専門の医師と検査体制が整った病院を事前に決めておき、そこの診察券を外出のときも肌身はなさず携帯して歩くこと。それが、一命をとりとめ、快適な老後を維持していく不可欠なことであることも教えられた。(了)
                             

2017年09月02日

◆万葉集に軍事メッセージ

毛馬 一三 



「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語では判読出来ない歌のほとんどを、何と韓国語で詠んでみると、「未詳歌」ではなく、総て読み明かせると聞いた事を思い出した。

しかもその「万葉集の未詳歌」には、当時の日本と百済との間で「軍事、政治に関する驚くべきメッセージ」が秘められているということだ。

この話をしてくれたのは、以前のことだが、韓国の著名女流作家、李寧煕(いよんひ)氏。韓国大手新聞社「韓国日報」の政治部長・論説委員長から国会議員を経て、韓国女流文学会会長を歴任された。ただ、今もご健在か確認出来ていない。

筆者は、以前「韓国日報」からの紹介で、李氏が来日された折、2日間、奈良県桜井の「万葉の道」やその周辺の「古代天皇古墳群」散策の案内役を務めた。

その時李氏が、こもごもと語ってくれたのが、この「万葉集」に秘められた日本と百済との「軍事、政治に関する驚くべき秘話」だった。

李氏が、日本の「万葉集」と関わりを持ったのは、国会議員だった当時、日本の高校の歴史教科書に韓国関係記述が歪曲されているという問題が提起されているということから、日韓両国国会議員による特別委員会を設け、事実調査を始めたのがきっかけだったという。

つまり、歴史書が歪曲されているかどうかに探るには、古代史にまで遡って検証する必要があり、そのためには両国歴史書に目を通すことだった。

その時、日本の「万葉集」に魅せられて仕舞ったというのだった。その瞬間から「万葉仮名」の研究に励み出されたそうだ。

「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語では判読出来ない歌のほとんどを、何と韓国語で詠んでみると、「未詳歌」ではなく、総て読み明かせること分かったというのだ。これは大発見に違いなかった。

帰国した李氏から、筆者に李氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」が送られてきた。読んでいくうち「日本語訳では見えない様々な謎」が書き込まれていた。その中に、特に注目すべき下記の記述があった。

<万葉集20巻、4516首の内に、日本語では判読できない、正式に「未詳歌」は「3首」があり、このうちの1首に恐るべきメッセージが織り込められている。

斉明天皇(655年即位)の心の中を、額田王(ぬかだのおおきみ)が代わって歌にしたのが、それである。

◆原文: 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念 <巻1の7・未詳歌>

・日本語で詠むと、(秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 刈廬(かりいほ)し思ほゆ)

「日本語解釈」では、下記のようになっている。
(秋の野の 萱(かや)を刈って屋根を葺き 旅宿りした 宇治のみやこの 仮の庵が思われる)。

この解釈だと、額田王が何を言いたいのか、さっぱり意味が伝わってこない。だからこの歌が、解釈不能または解意不明であることから、公式に「未詳歌」とされたのだろう。

そこでこの詳らかでないこの歌の原文を、韓国語で読んでみた・・・。すると、
(徐伐『そぼる』は 鉄磨ぐ 締め苦しむること勿れ 上の都は 刀来るぞよ 陣地固めよ)。

・韓国語訳―(新羅は刀を磨いで戦いに備えている。締め苦しめないといいのに・・・。吾がお上の、百済の都は、敵が襲ってくるから、陣地をお固めなされ)>。

李氏の韓国語詠みによる解釈によると、これは明らかに斉明天皇が「百済」に送った「軍事警告メッセージ」だということが、はっきりと分かる。

となれば斉明天皇が百済に、これほどまでの「国家機密情報」を送らなければならなかった理由があったのか、その疑問にブチ当たる。

<皇極天皇(斉明天皇と同じ・斉明天皇は二度即位)から斉明天皇の時代は、朝鮮半島では、新羅、百済、高句麗の3ヵ国の間が緊張状態にあった。

この歌(皇極時代の時の648年に入手していた機密情報)は、斉明天皇に即位してから、額田王に作らせた歌だ。百済が、新羅・唐連合軍に滅亡させられた661年より13年も前のメッセージだから、このメッセージ自体には「歴史的真実性」がある。

実は斉明天皇は、百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、百済を援けるため、難波(大阪)で武器と船舶を作らせ、自らその船に乗り込んで瀬戸内海を西に渡り、百済とは目と鼻の先の筑紫(福岡)の朝倉宮で新羅・唐との戦争に備えた。

だが斉明天皇は、遠征軍が百済に出陣する直前、その意志に貫けず、出陣先の筑紫(福岡)で亡くなった。

斉明天皇の異常なまでの「百済贔屓」について日韓学者間では、斉明天皇は実は、百済第三十代武王の娘の「宝」で、百済最後の王、義慈王の妹だった説がある>。

恐らく斉明天皇自身もさることながら、親族関係も「百済」と強力な血脈が在あったのではないだろうか。額田王の「万葉集」(未詳歌)歌に秘められた「軍事警告メッセージ」も、その視点で詠めば「未詳歌」ではなくなってくるような気がする。

ところが、「万葉集」を古代の珠玉の日本文学と仰ぐ人たちにとっては、この韓国語読みは認め難く、あくまで額田王作の「未詳歌」としてしか、今でも取り扱わない。

とは云え、このあと白村江の戦いの敗戦(663年)まで、百済国の救援にこだわり続けてきた日本の歴史を見れば、日本と百済との関係は極めて緊密であったことは明らかだ。

だとすれば、万葉集愛好家も「万葉集の未詳歌」に、韓国語で詠み明かされる新たな視点を投げかければ、「万葉集」珠玉を更に広げることになるのではないだろうか。詠みを広げてみては如何。

今、「韓ドラ」放映が人気を集めている。「万葉集の未詳歌」」に対する視点と解釈を変えて観れば、当時の歴史の激烈さが浮上して興味が増してくるのは間違いない(了)    (修正加筆再掲)

参考―・李寧煕氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」
   ・小林恵子著「白村江の戦いと壬申の乱・現代思潮社」
   ・ウィキぺディア

2017年08月31日

◆大阪を行脚していた大阪俳人与謝蕪村

 
毛馬 一三



江戸時代中期の大阪俳人で画家である与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれている。生誕地が大阪毛馬村と余り周知されていない事実のことは本誌で既に触れている。

しかし、蕪村が俳人として大阪の中心部を活躍の舞台にしていたことには触れていない。
むしろそれに気づかなかったのが本当のところだ。それはこれから追々。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸に下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な郷愁は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

おそらく、京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲からも過酷ないじめに遭わされたことなどから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。

しかも蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だ。だが、どうしてこんな超有名な俳人に師事し俳諧を学ぶことができたのか、田舎の毛馬村と江戸との結びつきや、師匠との今謂うコネがどうして出来たのか、ミステリーだらけだ。この時蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、頻繁に大阪にやって来ていたことが、最近分かってきた。船から陸地に上がったのは、生誕地毛馬村とは全く正反対西側の淀屋橋や源八橋からで、ここから大阪市内にある数多くの門人らを訪ねて回っている。

蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ね、大阪の蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回っている。大阪市内の各地を回ったことになる   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

早い話、蕪村にとり大阪は活躍の場だった訳だ。これもあまり知られていない。

こんな折、驚く情報飛び込んできた。

大阪市北区梅田に茶屋町がある。ところがここに「菜の花や月は東に日は西に」の蕪村句を刻んだ高さ1m、幅50cmの石碑が出来たのだ。この地では一昨年から地域の有志が「菜の花」を植え、「菜の花の散歩道」というまち起こしの「イベント」を適宜も催している。

この句を、この茶屋町その場所で蕪村が出句したかどうかはわからないが、北区茶屋町のこの周辺に蕪村が立ち寄っていたことは事実だ、これに因んでイベントを企画したという。しかも嬉しい要請とは、このイベントに私が主宰したNPO法人近畿ホーラム21(今は散会)で俳句つくり講座「句会」を催して欲しいとの要請が来て、要請を受けたことが在る。

このような話は、他の地域からも打診が相次いでいる。後世のために蕪村を顕彰し、俳句文化振興活動は、立ち上げてから数年が経ってようやく実り始めた。

大阪を行脚して回り俳人としての名を高めた大阪俳人与謝蕪村の俳句を、出来れば外国にも広めて行くことを、各大学と共同して進めたいとも考えている。(了) 2011.03.01

2017年08月24日

◆大阪は本当に「日本最貧!?」か?

 
毛馬 一三



大阪の経済は、米ニューヨーク.タイムスが<意気消沈するニッポン>と題した特集記事を載せたのを思い出した。

特集記事によれば、<(あれほどリッチだった日本が)これほど急激に経済が逆転してしまった国は世界でも珍しい>と、日本経済の有り様を指摘していた。

その上で、何と<そんな凋落ニッポンの“象徴”が「大阪」なのだと書き立てている>のだ。

しかも、<誇り高き商都・大阪では、商人たちが極端な行動に走り始めている。街には10円で缶入りドリンクを売る自販機が並び、レストランに行けば50円でビールが飲める>と書き、<日本のデフレスパイラルを激化させるだけだ>と切り捨てている。

ただ、今は諸外国の旅行者が近畿の歴史建造物や独特景観を楽しんだあと、浪花の街を参遊に来て賑わっていることは事実だ。

当時は、商都大阪はコケにされたが、それで良かったのか。

たしかにあれほど賑わっていた歓楽街・北新地の閑散ぶりは目に余るものがあり、今では土曜日に営業している店はほとんど無く、居るのは人待ちタクシーばかりだ。とは言え、この閑散ぶりが大阪低迷の総てを語るものではなかろう。

街歩きが好きな大阪の知人数人に聞いてみても、10円の自販機など北と南の繁華街で見たことは一切無く、ましてや50円ビール看板に出会ったこともないという。早い話、NYタイムスの記事は、ゴミ箱をほじくった類の記事だと見下す。

NYタイムスは、大阪商人の商売根性を知らないようだ。どうやら浪速商魂とデフレ化とを混同しているとしか思えない。

驚くような「値下げ」して商売するのは、決して商買破綻の表れではない。ましてやデフレの象徴でもない。

「労せずしてカネ儲けは出来ない!」ことを家訓とする商家では、大根1本でも鮮度に合わせだんだんと値下げをしながら、その日に売り捌き、元を取ってしまえば、残りはタダにする。これが次に繋がると考えるのが浪速商法だ。

「常に人のせんことをしなはれ」と真似らない知恵を出せ。万一真似られても「古井戸と知恵は枯れぬ」の例え通り、汲めば汲むほど湧き出るものだ。
<あきない夜話・和田亮介著>

つまり、浪速商法を「永続」したいと思えば、「利を取るより(信用)をとれ」と戒め、買い手を楽しませ、買い手側に喜ばれる方法で商売を乗り切れとの定法を取ってきたのだ。

NYタイムスが載せた大阪・千林商店街では、第3回の「100円商店街」を開催した。食料品・衣類・雑貨アクセサリーなど153店舗が100円均一の品揃えをして販売したので見学に行って見たが、予想を越える賑わいだった。

タイムスが載せた<結果は、皆を落胆させるばかりだった>との記事は、とても想像できないことだったようだ。

いずれにしても、「安い値段」が「商都大阪のデフレ」を見せつけ、「凋落ニッポンを象徴している」という見方は、皮相的であり、真実を伝えていない。

外国人の集客を拡大して将来の浪速商法を発展させるために、長期視野にたった「知恵」を絞って商いをしている実像を、改めてNYタイムスはよく見極めて欲しいものだと思う。(了)                 加筆再掲