2016年10月11日

◆蕪村故郷・淀川神社で俳句献句いかが

毛馬 一三

筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム21と大阪毛馬の「淀川神社」との間で、共同して「蕪村顕彰活動」を、いよいよ今年の28年元旦から「蕪村神社を蕪村神社として広めましょう!」と合意しました。

このことを朝日新聞が、昨年暮12月30日「大阪版」に「蕪村故郷で一句いかが」として記事掲載をしたのです。

同記事を下記に掲載しましょう。

 <江戸時代の俳人・与謝蕪村(1716〜83)が生まれた大阪市都島区毛馬町にある「淀川神社」が、2015年の元日から参拝者が詠んだ俳句の「献句」を始める。「春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉(かな)」などの名句を残した地元の偉人について、16年の生誕300年に向けて広く関心を持ってもらおうとの試みだ。(中略)
 

「献句」を始める「淀川神社」の宮司の横路良さんは、「地元でも蕪村の故郷だと知らない人が多くなっている。蕪村と俳句に触れる機会を増やしたい」と考え、神社での献句を思い付いたという。

「菜の花や月は東に日は西に」の句と蕪村の自画像が描かれた縦約24a、横約6aの木製の絵巻を500円で販売。

裏面に自作を含む好きな句と願い事を書いて貰い、境内の絵馬掛けに1年間、かける。横呂さんは「蕪村の句にある土地の今を見て、思いを巡らせながら詠んでほしい」と話す。

献句は、1月1日午前0時からの歳旦祭への参加者から奉納がはじまる。
 
問い合わせは、「淀川神社・06・621・5980へ。横路良宮司 >。

序でに、筆者も加筆。

<氏神「淀川神社」を「蕪村神社」として広めましょう。

「淀川神社」は、大阪市毛馬町にある「蕪村公園」のすぐ南側、城北通り道路を渡り、すぐ側にあります。

氏神様「淀川神社」は、元々「十五神社」と称して、平安朝初期または、それ以前に創立されています。同神社は、そのままの形で、当時から摂津の国東成郡友渕村字外島(現・友渕町337番地)に在りました。

また、同じ旧東成郡には明治まで、同じ氏神様で「八幡神社」も在りました。つまり蕪村地の旧東成郡には、2つの「氏子神社」があったのですが、「八幡神社」は明治43年に他神社と合祀し、無くなりました。

ところで江戸時代の俳人与謝蕪村は、享保元年(1716年−生誕日は不明)に、この摂津国東成郡の長閑な村で生まれました。

生家は、父は庄屋で、問屋、宿屋も営む北国屋吉兵衛。母は丹後与謝から奉公人として来た「げん」でした。母「げん」は、器量と気立てが良くて、吉兵衛に気に入られ、2人の間に男の子(寅―後の蕪村)が誕生したのです。

北国屋吉兵衛は、庄屋、問屋でしたから、国東成郡友渕村の農作業を先導して商売に精を出し、特に菜の花から採れる菜種油の生産と販売を幕府から奨励を受けて励んだため、多くの使用人を使って、裕福な暮らしをしていたと云われます。

「氏子」の北国屋吉兵衛の一家が、「淀川神社」に正月などに参拝したのは、間違いありません。蕪村も生誕して両親に抱かれてお参りしたでしょうし、両親を亡くし実家運営苦衷の厄払いの時も、淀川神社に参拝したことは想像に難くは在りません。

17・18歳の時、蕪村が江戸に出奔する時も、「安全祈願」のため2「氏子神社」に行ったでしょう。つまり蕪村(寅)と「神社」の関係は、当時の江戸時代の風習から考えると、氏子として当然深い繋がりを持っていたものだったと思われます。

ところが、前述のようにもう1つの「八幡神社」は、明治43年に合祀して姿を消したので、蕪村生誕地近郊に現存する氏神様は、明治以来「淀川神社」だけになったのです。

つまり当時の蕪村の祈願念を引き継いでいるのは、「淀川神社」だけということになります>。

ところで2年前「淀川神社」宮司に就任された横路良さんが、蕪村顕彰と蕪村生誕300年記念行事を進めている私たちNPO法人と、大阪俳人与謝蕪村名と蕪村生誕地が毛馬町であることを、「淀川神社」を一つの拠点として、後世に継承して行こうと話合いを進め、同じ気持ちに歓喜して合意したのです。

つまり、「淀川神社」を「蕪村神社」として全国・海外に広めて行こうと合意したわけです。

その「絵馬」は、神社境内の「絵馬掛け」に1年間奉納することになるのです。沢山の俳句愛好家が鑑賞しています。

どうか「淀川神社」を参拝され、「絵馬」に「献句」されますようお勧めします。(加筆再掲)

2016年10月01日

◆芭蕉終焉の地って?

毛馬 一三



松尾芭蕉の「終焉(しゅうえん)の地」が、大阪だということを知っている人は少ないのではないか。「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」と詠んだ旅の俳聖松尾芭蕉だから、旅の果ての東北か北陸の辺りでの病死ではないか思うのが普通だろう。

ところが、芭蕉の終焉の地は大阪・南御堂向かいの花屋仁左衛門の離れ座敷だったのだ。大阪人ですら、知らない人が多い。芭蕉が亡くなった花屋仁右衛門宅は今喫茶店になっているので、その屋敷跡から当時を髣髴させるものは何もない。じつはその事実を告げる記念碑は、大阪のメインストリート・御堂筋南御堂前の、緑地帯の中に「終焉(しゅうえん)ノ地」と銘を打った石碑が、ポツンと建っているだけだ。

たまたま、筆者が地下鉄御堂筋線・地下鉄中央線「本町」下車して南へ向かう用事があったため、“偶然”にも発見出来たもので、それまでは不明にも目に止まったことはなかった。その「碑の銘」が南に向いて建っているため、北から南に通じる一方通行の御堂筋を車で通過する人目には、「芭蕉終焉の地」という文字を読み取ることは物理的に不可能だ。

ましてや道路の緩衝地帯の中だから、通路を通る人の関心を呼ぶことはまずない。その意味で、“発見”出来たのは偶然の目配りに感謝したいラッキーなことだった。
 
<元禄7年(1694)9月、芭蕉は故郷伊賀上野から奈良をすぎ暗峠を越え、2度目の来坂をした。長崎へ向かう旅の途中に大阪に立ち寄った。住吉大社を詣でたり、句会に参加するなどしていたが、当時大阪には俳壇をにぎわしていた2人の門人の仲に円満を欠くところがあり、それを取り持つための来坂が主目的であったとされている。
 
出発時から体の不調を訴えていたが、大阪・住吉神社に詣でた後、発熱下痢を伴い花屋仁右衛門方離れ座敷で病臥、10月12日夕方息を引き取る。51歳だった。最後の句として知られる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」は、その4日前に病床で詠まれたものだ>


ところが「秋深き 隣は何を する人とぞ」は、芭蕉が床に臥す直前に書いた句である。臥す直前まで世事に興味津々というか、「晩秋」の移ろいにも鋭利な感覚を失っていない。となると芭蕉は、出来るだけ早く床上げをして長崎へ向かう旅立ちへの気力と体力の自信に、この時なお溢れていたのではないかと思える。

<大坂御堂筋の花屋仁左衛門方で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死した(よく辞世の句と言われているが結果論である。「病中吟」との前詞があり、辞世とは当人も意識していなかった>という説がある。参考<ウイキぺディア>

だが病状は急変したのだろう。だから「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が、本人の意思に反して「辞世の句」となってしまったのだ。

<臨終の時は、大勢の弟子達に見守られ、遺体は亡くなった日に舟で、現在の土佐堀川を上って芭蕉が遺言した近江の義仲寺に運ばれた>。芭蕉は、木曾義仲の墓の隣に眠っている。

この欄を書きたいと思ったのにはひとつの感慨があった。「頂門の一針の主宰者」渡部亮次郎氏が掲載された『老化は熟成である』の記述の一節を思い出したからだ。

<老化するとは死に近付くことでもあるが酒や味噌のように美味しく熟成して他人の役に立ち、自分を誇りに思えることでもある。

生きるとは死ぬことである。生まれたら成長すると言うが、それが違うのだ。最後に来る死に向かって懸命に走っているに過ぎないのだ。ただゴールが何時かを自身が知らないだけだ。

盛者必衰の理(ことわり)通り身体の各部分は生まれた瞬間から衰えて行く。中年を過ぎれば皺もしみも方々に出来る。これは生物が生きている証拠として止むを得ないものである>、と渡部亮次郎氏は「生と死」にこう触れている。

「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」を詠んだ芭蕉の心は、まだまだ死ぬまで好きな旅を続けたい気持ちを抱きながら、<最後に来る死に向かって懸命に走っているに過ぎない自分に気づいていた>のではないかとの想いが、重なったからである。死にたくはなかった芭蕉も、遂に終焉に気づいた瞬間は、きっと幸せな生涯だったと感じたに違いないと思う。

歴史のまち・大阪には多岐の名所旧跡や記念碑は散在するが、「生と死」を考えさせるものは、そう沢山あるものではない。(了)参考<ウイキぺディア> (再掲)

2016年09月26日

◆歴史現場に立ち会える記者稼業

毛馬 一三



NHK記者として入局したのは、早大卒業した昭和36年。入局直後、NHK「研修所」で、記者としての基礎的な受講を3か月受けた後、長崎・佐世保局に配属された。

佐世保局には、松尾龍彦デスクと現在評論家の日高義樹氏(元ワシントン支局長)が先輩記者として赴任しておられたため、現場記者としての取材の仕方、原稿の書き方など親身になって指導してもらった。

新人記者として、「警察」と「労働団体」、「米軍佐世保基地」回りを担当させられた。

佐世保局での取材は、取材範囲が広域なのと、米海軍の基地を抱えていたため、基地問題や労働諸問題に追われ、「夜討ち・朝駆け」の取材は日常のことだった。

その佐世保記者として、今でも忘れられない強烈なことが2つあっことを思い出す。それを以下、追々。

ひとつは、昭和38年11月22日、アメリカから最初に来た「衛星放送」で、ジョン・F・・ケネディー大統領が暗殺事件を見たことだった。最初の「衛星放送」が、大統領暗殺と重なったことに驚愕した。

米軍海軍基地に出入りが自由だった筆者は、同基地の通訳を通じて、大統領暗殺事件に対する基地内の混乱状況を記事にした。反響が大きかった。

二つ目は、筆者が「米原潜佐世保入港」を「スクープ」したことである。

その「スクープ」を出したのは、佐世保局からではなく、NHK福岡放送局からだった。しかも入港より丸1日早い、昭和39年11月11日早朝6時だったのである。

もともと、「米原潜佐世保米軍海軍基地入港」が最初に公表されたのは、昭和38年3月であった。この日から「何時、入港するのか」が、全国的に焦点となっていた。

この公表以来、佐世保では地元社会党系労働組合が「原潜入港反対闘争本部」を立ち上げ、市民団体も呼応して、大規模な「入港反対闘争」がはじまった。佐世保は、米海軍基地周辺を中心に騒然となり出した。「安保闘争の佐世保版」だった。

とりわけ被爆地長崎と隣り合わせの現場佐世保では、米原潜搭載の「核」持込みの懸念が市民らを強く刺激し、急遽集結した各地の革新団体や全学連が、デモ行進や集会を繰り広げ、騒動は日増しに激化していった。

その反対闘争の労働取材担当記者だった筆者は、入港反対闘争本部だった当時の佐世保地区労(佐世保地区労働組合会議)本部に、夜討ち朝駆けを行い、反対運動の動静を追い続けた。

当時、総評系の佐世保労働組合の中核組織「全駐労」の委員長だった石橋政嗣氏が、衆院議員に転身して社会党書記長に就任していたことから、この反対運動は当時野党第一党の社会党と緊密に連携しながら、全国規模の反対運動に発展していった。

筆者は、帰郷する石橋書記長に纏わり、「反対運動」の中央の方針をしつこく取材して回ったことから、気難しい石橋書記長から特に目を掛けて貰う間柄となった。

同時に、地元の社会党系「佐世保地区労闘争本部」の速見魁議長、小島亨事務局長、西村暢文本部員らからも熱心な取材を気に入られ、極めて親密な関係を築くことが出来た。

この取材は、歴史の現場を直に目撃できるという、正に「記者冥利」に尽きる無上の喜びであった。しかも現場で親交を深めた取材対象の人脈とも、立場を超えた人間同士の触れ合いが出来ることも嬉しかった。そうした教訓は、駆け出し記者の記者魂を育ててくれた。

そんな折の昭和39年11月10日の夜10時過ぎ、佐世保放送局で当直の勤務をしていた筆者に、佐世保地区労の小島事務局長から電話が入った。

「あなたの家に電話をしたら、当直と聞いたので電話をしました。実はね、石橋書記長から、あなただけに伝えなさいと今、指示があったので連絡します」。

小島事務局長はそう言った上で、「米原潜シードラゴンが12日朝、佐世保に入港する」という、極秘情報を伝えてきた。筆者は、足が諤諤と振るえ、感謝の意を短く伝えるのがやっとだった。

すぐさま、福岡放送局報道課長の自宅に架電して、その情報を伝えると共に、これから出稿する旨を伝えた。報道課長は「直ちに東京政治部の首相官邸キャップに連絡し、政府から確認を取って貰う。君は、米原潜12日入港の記事を急いで書き、送りなさい」という指示が出た。

11日の2時ごろ、原稿を送ろうとしているところに、報道課長から電話が来た。「官邸キャップが政府筋に確認したが、どうも煮え切らない返事だったようだ。東京政治部では、引き続き政府関係者に当たるが、「スクープ」として当面は福岡発から流しなさいと言っている。原稿をすぐ送ってくれないか」ということだった。

そこで、「米原潜あす佐世保入港、現地では大規模集会やデモ」という内容を原稿にすることにして、「闘争本部」幹部に再度裏付け取材をして上、急ぎ福岡局報道課に送稿した。「闘争本部」で特に友好の深い西村暢文氏に「他紙は気付いていませんよね」と念を押し、確認を取ることを忘れなかった。他紙は、知らなかった。

これが他社より1日早くNHK福岡局から「原潜あす佐世保入港」のスクープが全国に発せられたいきさつである。NHK東京発の同関連ニュースが放送されたのは、「米原潜」が入港する12日午前6時のニュースからであった。従って「他紙」「他放送局」を抜いた「スクープ」となった。

先述の西村暢文氏から、「あなたのスクープで、闘争本部が一層盛り上がり、原潜反対闘争のとっかかりになった。感謝」という予想外の電話が掛かって来た。

歴史の現場にいち早く立ち会える記者稼業とは、この上ない人生の幸せである。人脈が豊富になることも大いなる人生の財産だ。

いろいろ思い出はあるが、記者として佐世保局では、この2件の思い出を忘れることが出来ない(了)
                               (再掲)

2016年09月18日

◆大阪 八軒家浜船着場から熊野街道へ

毛馬 一三



大阪「淀川」から毛馬閘門を通り、1級河川「大川」(旧淀川)を少し下って、大阪三大橋の「天神橋」を抜けると、「八軒家浜船着場」に辿り着く。

この「八軒家浜」は、古代から京都と結ぶ水上交通の拠点だった。江戸時代ではこの浜の船着場周辺に、八軒の船宿があったことから「八軒家浜」と呼ばれたらしい。その「記念碑」が、阪神電鉄天神橋駅前の老舗・昆布屋門前に立っている。

この「碑」の先の坂を上ると、江戸時代の西洋医学者・緒方洪庵の塾屋敷跡がある。ここに集まる弟子たちも、この「八軒家浜船着場」を常時利用した。坂本竜馬も、西郷隆盛も、ここの船着き場から近郊にある「薩摩屋敷」に通っている。

この「八軒家浜船着場」は、京都から屋形船でやって来た人々が、この船着場から「熊野詣」に赴く道筋として利用していた。今になって、ここ「八軒家浜船着場」が、世界遺産となった「熊野街道」の起点となっているのだが、意外にもそれが知られていない。

さて、その「熊野街道」に触れておこう。

<この「八軒家浜」を起点に、四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)、堺、和歌山などを通り、紀州田辺を経て、中辺路または大辺路によって熊野三山へと向かう道筋。

この熊野街道を経て参台する「熊野詣」は、平安時代中期ごろ、熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集めるようになったのに伴い、法皇・上皇などの皇族、女院らや貴族の参詣が、相次ぐようになったのが始まりだった。

室町時代以降は、武士や庶民の参詣が盛んになった。その様子は、蟻の行列に例えて、「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいだったそうだ。江戸時代になると伊勢詣とも重なり、庶民も数多く詣でたため、賑わいは浪速で最高だったといわれる。ただ明治以降は、鉄道や道路の整備により参拝者は少なくなる>。
参考―フリー百科事典『ウィキペディア

このように霊場熊野三山まで橋渡しする歴史的街道の起点の「八軒家浜船着場」は、これを賑わいのある水都大阪再生拠点にしようと、民官協働で、京阪電車天満橋駅の北側の大川沿いに幅約10メートル、長さ約50メートルの3層からなる鋼鉄製の巨大な「船着場」が建設された。

同船着場では、ゆったりとしたスペースがある水上バス(アクアライナー)や大型遊覧船が、ここから発進し水都大阪の川辺に広がる眺望とクルージングを楽しむことができる。

遊覧船に乗って身を乗り出して、目上に広がる大阪のまちの姿を眺めると、立体的な水都の形が顕れ、両岸のまちなみが覆い被さるような3次元都市を実感させてくれる。実にマジックな風景の出現であり、感動そのものだ。これは体験してみないと絶対に分からない。

大阪大手企業本社の東京一局集中や、大手企業工場の他府県や外国への移籍が目立つなど、大阪の経済基盤の沈下に歯止めが掛からない中で、この「八軒家浜」を観光名所として再起させることが出来れば、集客効果は抜群だろう。

しかも「緒方洪庵の塾屋敷跡」、皇族をはじめ秀吉も通った「八軒家浜」から「熊野詣」への新観光ルートを創りだし、歴史の歩きの楽しみを味合わせる事業が始まれば、大阪への集客に繋がることは間違いない。

「八軒家浜」祭りだけで終わって仕舞う行事だけではあまりにも単純な気がして、実に勿体ない。しかも、「熊野街道」の起点となっている「八軒家浜船着場」の歴史的価値をなえがしにしてきた大阪市文化行政の手抜かりも情けない。

今からでも遅くない。「八軒家浜船着場」から世界遺産となった「熊野詣で」を複活させるイベントや実際の「歩き会」を実施すべきだ

そう思うだけでも「八軒家浜船着場」碑が、老舗「昆布屋)門前にポッンと立っているだけで、寂しく見えて仕方がない。(了)

2016年09月11日

◆9月22日に蕪村生誕300年祭開催

毛馬 一三
                  
   

「蕪村公園」は、大阪市毛馬町の毛馬桜ノ宮公園の北端、毛馬閘門近くの大川沿いに大阪市が平成20年に造営した。

これで、都島南端、川崎橋あたりまでの毛馬桜ノ宮公園迄との道筋が完成することになり、春に桜の咲くころには大川河畔が新名所として市民が楽しむことが出来るようになった。

与謝蕪村は、松尾芭蕉、小林一茶と並んで江戸俳諧を代表する俳人だが、その蕪村の生誕地が何処かということになると、あまり知らない人が多い。

蕪村は、享保元年(1716)に大阪毛馬村の裕福な農家の主人と奉公人の母との間に生まれた。家督を引き継げない私生児にすぎなかった。その上不幸にも幼くして両親が亡くしため、家人から総いじめされたからか、この辛苦に耐えられず、蕪村は17歳の頃毛馬村を出奔して、江戸に出奔を決意。家出して京都に向かった。

京都で人生を定めることになると人物俳人早野巴人と出会っている。早野巴人を師匠にして俳句を学びながら一緒に暮らしていたが、その後、二人は江戸に旅たった。

江戸では、早野巴人の真弟子として俳諧の世界に没入したが、頼りにしていた早野巴人師が急没して仕舞った。蕪村が26歳の時だった。師匠の急逝を悲しみつつも、新しい「俳句の世界」へ身を投じなければと決断。かねてから愛着のあった芭蕉俳句を追求するため、芭蕉が訪ねて廻った奧羽地方を放浪した。

宝暦元年(1751)になって、京に移り俳諧に挑む一方、南宋画家として励み、池大雅と並ぶ名声を得るようになった。その上、蕪村は、早野巴人を継いで「夜半亭」(初代巴人)主宰となった。

蕪村は京都で68歳の生涯を閉じたが、終生故郷の毛馬村には一度も帰っていない。しかし蕪村にとっては、生まれ故郷毛馬村の「慕情」は消えることは無く、この想いを脳裡に巡らせながら、書き記した「春風馬堤曲」がある。奉公娘の帰省の物語になぞって書き綴り、俳句を添えて「望郷」の念を一気に発散させている。

いまだに大阪には、蕪村に関する「伝承文献」は皆無だ。しかも明治19年に政府による淀川の河川改修工事によって毛馬村が総て埋め尽くされたため、生誕地の痕跡も一切残されていない。これが長い間、大阪俳人の蕪村を顕彰することが出来なかった主因なのだろう。

しかし、明治になり正岡子規が「蕪村俳句」を顕彰するようになったが、それでも地元大阪では依然として関心が薄く、蕪村顕彰には誰も手を付けなかった。

そこで、10年ほど前地元の有力市議会議員と私が共同して「蕪村顕彰公園」建設を大阪市政に働きかけた。大阪俳人蕪村を大々的な顕彰しようという運動は、嬉しいことに活発になりだした。

この運動も契機となり、大阪市は平成18年度から2年計画で、前述の「記念碑」と「春風橋」の中間にある市有地1.1hrの土地に、約2億5千万円をかけて「蕪村公園」を整備することを決定。

同「蕪村公園」には、公園の中央に大広場、公園全体に「蕪村俳句石碑」の建立、「自画絵、春風馬堤曲」などの「蕪村説明写真集」の掲示、公園全体には樹木植栽をする計画が立てられた。大阪輩出の与謝蕪村名を高揚し、文化集客地にしたいと大阪市は考えたのだ。

同公園は、重要文化財の「毛馬閘門」の側にあり、有名な「毛馬桜の宮公園」の北端に位置して、市の中心地中之島に通じる大川沿いの「桜回廊」の出発点になっている。「屋形船」や「遊覧船」の折り返し地点でもある。

さて、今年こそが「蕪村生誕300年の年」であることを記しておきたい。

生誕300年を迎えた大阪毛馬町では、蕪村公園の南側にある「淀川神社」に住民の協力を得て1月に「蕪村銅像」を建立。5月には学者・俳句結社要人による蕪村生誕300年記念シンポジュームを盛大に開催。

9月22日午後1時から、「蕪村300年祭」として、文化庁の後援を頂き、地元・全国・諸外国から応募される俳句作品を選考し「全国俳句大会表彰式」を行う。

要は、蕪村生誕300年の記念行事を多々行い、大阪毛馬生誕の俳人蕪村の顕彰と後世への伝承を強く進めているのである。

元々蕪村公園の建立で、大川沿いの見事な桜回廊と繋がった一連の観光名所として、集客効果が進められ、生誕300年蕪村祭を、この蕪村公園の優れた姿の中で、これから種々進められる。

まずは、大阪市毛馬村にある「蕪村公園」に是非お訪ね頂きたい。序に生誕毛馬町に生還してきた蕪村の姿を、同公園横の「淀川神社に建立した蕪村銅像」を観ながら、蕪村想いを高揚して欲しい。

「皆様のお力をお借りして、蕪村俳句の後世への継承と俳句文化を、世界へ広める活動に、今後取り組んでいきたい」と決意して居り、是非ご賛同を願いたい。
 (了)


2016年09月02日

◆芭蕉随行の『曾良』は忍者?

毛馬 一三

拙稿「芭蕉終焉(しゅうえん)の地って?」の第2弾。同稿が日本一メルマガ「頂門の一針」に掲載されたところ、当主宰者の渡部亮次郎氏からご寄稿を頂戴した。

もともと拙稿とは、松尾芭蕉の「終焉の地」が大阪・南御堂向かいにあった花屋仁左衛門の離れ座敷であったことや、辞世の句といわれる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が、この座敷の病の床で亡くなる4日前に詠んだものであることを、筆者は不覚にも知らなかったが、先般偶然このことを知る機会を得たことから、思い立って綴ったものだった。

その執筆中に、渡部亮次郎氏が以前本欄に掲載された『老化は熟成である』の記述の中に、<生きるとは死ぬことである。生まれたら成長すると言うが、それは違う。最後に来る死に向かって懸命に走っているに過ぎないのだ>という同氏の「死生観」が記述されていたことを思い出し、それと終焉の芭蕉の心境と重なるよう思えたので、同拙稿中に引用させて貰った。

芭蕉は、大阪で死ぬなどとは夢想だにせず、早く床払いをして好きな旅を続けたいとの気持であったと、様々な文献が記している。

だが、思いもよらず病(食中毒といわれる)は悪化、意に反して終焉を迎えるのだが、見守る弟子たちの顔を眺めながら「死」が迫るのを悟り、幸せな生涯だったと瞑目しながら、逍遥と死の旅についたようだ。渡部氏の『老化は熟成である』という「死生観」を、芭蕉も終焉のその瞬間同様の想いを脳裏の中に去来させたに違いないと筆者は思ったのだ。

渡部亮次郎氏から頂いた寄稿は、下記の通りであった。
<深川・芭蕉記念館 は拙宅の近くです。徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。江戸の発展とともに新たな市街地、農地が必要となり、土地の開発が始まった。大阪からきていた深川八郎右衛門が新田を開発、慶長元年(1573年)深川村と称したのが始まり。

江戸の下町と言えばなんと言っても深川。出発地は都営新宿線森下駅。駅を出て新大橋通りを浜町方面に5分ほど歩いていくと隅田川にかかる橋が見えてくる。これがこの通りの名前になっている新大橋。橋の手前の十字路を左に曲がりしばらく歩いていくと最初の目的地「芭蕉記念館」がある。

芭蕉は延宝8年(1680年)江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ。元禄2年(1689年)3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる奥の細道。岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅。

「芭蕉記念館」には 当時、芭蕉が着ていた袈裟を初め芭蕉庵を模したほこら、句碑 などがある。記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり。川沿いの道を左に少し歩いていくと史跡庭園があり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。 先日来日した李トウキ前台湾総統もご覧になって行った>。
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この寄稿を読ませて貰った時、芭蕉に纏わる新たな衝撃が脳裏を駆け巡った。それは、<徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。(そんな未開発の深川だったが、その深川から)元禄2年3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。(略)岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅>というくだりである。

江戸から東北、北陸地方を150日間で踏破した2400キロ(600里)の道程を踏破したと言うが、とんでもない距離だ。単純に計算すると1日16キロ歩いたことになるが。だが当時の旅はそんな生易しいものではない。

江戸時代の元禄期といっても、 江戸から東北、北陸地方には、のんびり歩き通せる平坦な道が整っていた筈はない。ほとんどが山道・峠道であり、山を越えるしか方法はなかった。

筆者も数年前福井の江戸時代以前からの「鯖街道」を歩いたことある。山道の勾配は天地の差ほどの高低を繰り返し上り下りし、僻々した記憶がある。山道もない場所は絶壁を横切るしかない。ましてや橋はほとんどなかった。大雨で河が氾濫、足止めを食うことも日常茶飯事だったろう。

「奥の細道」によると、2人は何と1日に48キロ(12里)を 歩いた日があったという。幾ら昔の人が健脚だったとはいえ、老齢の域の芭蕉(46)と同行者曾良(41)が、そんな長距離を1日で踏破できたと考える方が無理な話だ。

だからここから「第2弾」を書きたくなった。つまり芭蕉は、こうした異常な歩き方の速さや、伊賀の上野の生まれであることから「忍者」ではなかったかと論じられてきた。それはまた別の機会に譲るとして、ここで気になるのは、むしろ芭蕉の弟子であり、旅の同伴者である「曾良」の方だ。

「曾良」のことは、純朴な芭蕉のお供だという印象が強くて、「忍者説」はあまり知られていない。

ところが調べてみると、こんな具合だ。<曾良は、幕府とのつながりが緊密で、当時日光工事普請を巡ってあった伊達藩と日光奉行の対立を探るための調査を、幕府から曾良に命じられたとされている。その目的と行動を秘匿するため、芭蕉の歌枕の旅が巧みに利用したというのが専門家の間では定説となっている。

その曾良は、さらに社寺や港の荷役の動きを調べる任務も担っていたらしく、北前舟が立ち寄る日本海沿岸の港として酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀を丹念に探索して回っている痕跡がある。

その任務行動が、なんと芭蕉の旅の日程と、無理なく調和した形になっている事実には驚かされる。きっと幕府からの支度金が潤沢だったため、俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の興行収入だけでは食えなかった芭蕉の懐具合が、この「曾良」の任務を受け入れことにやむを得ず、同調したのではないかと専門家は指摘する>。

こう見てくると、「曾良」という旅の同伴者は、芭蕉に接近して弟子に登用してもらい、巧に芭蕉を手なずけて幕府隠密の任務を隠密裡に遂行していた“忍者”だったという説は真実味を帯びてくる。果たして芭蕉の死後、「曾良」は、幕府巡見使九州班員に正式に収まっている。

芭蕉の終焉の時、曾良の姿はそこに無かった。公務を理由に葬儀に参列していない。やはり芭蕉に心酔して傍に連れ添った弟子ではなかったのではないか。      (了) 
参考・ウィキべディア   (再掲)
           


2016年08月23日

◆「腎臓癌」恐怖からの脱出

毛馬 一三


数年前のことだが、体調不良が続き、何をするのにも意欲を失った。体はだるい上、胃は痛むし、大腸にも異常を感じる。このような体調不良症状は初めてのことなので、まずは定期検診をうけている総合病院の内科医師に診察を依頼した。CT検査を受けたところ、何と「腎臓に癌の疑い」があると言われた。

「癌」など考えたこともなかったので、心因性疲労も加わって体調不良は増幅した。

悩んだ末、畏友石岡荘十氏に相談したところ、「腎臓」なら権威のある大阪大学系の総合病院内科に行って、腎臓専門医に検診してもらうべきだと指示を受けた。「癌」は一日でも早い発見が、命を救うぞとの心に刺さる厳しい助言が、今でも蘇ってくる。

すぐさま知り合いの阪大系総合病院名誉院長の紹介をうけて、同病院の腎臓内科医師のもとに駆け込んだ。

尋問を受けた後、特に痛みが強い「胃」と「大腸」の検査から始められた。両検査とも初体験で、「胃」は鼻から内視鏡を入れて検査し、「大腸」は麻酔注射を打ちながら、肛門から内視鏡を入れて検査をした。ガスが体外に出るまでが苦しかったが、総体的には両検査ともたいした苦痛は無く無事終了した。

検査の結果は、「胃部」には潰瘍跡はあつかったが、「癌」は無い。「大腸」にも「癌」の転移はないと診断された。ひとまずホットした。

いよいよ、「腎臓」本体に「癌」が発症しているか否かが、本題となった。このため、腎臓のCT検査を行うことになった。検査はその日ではなく、2週間ほど待たねばならない。

検査の結果、腎臓自体に「癌」はないと言われた。ただ、腎臓の「腎嚢胞(じんのほう)」に若干懸念があるので、腎臓内科から同院内の泌尿器科に移され、ヨード造影剤の注射をしながらCT検査行うことになった。腎臓に「癌の疑いがある」されたのは、この「腎嚢胞」の所為だったのだろうか。

また「腎嚢胞」の異常が、「癌」に繋がるのではないかという新たな心配が芽生え出した
 
10日後に泌尿器科の専門医師のもとで、ヨード造影剤を注射しながら「腎嚢胞」を検診するCT検査を行った。検査は30分ほどだった。

検査の結果、「腎嚢胞」の一部に肥大部分が見つかった。ただ同肥大部分が「癌」に繋がる心配はないと診断された。念のため、これから半年か1年毎に「腎嚢胞」についてのエコー検査をうけるよう勧められた。

同医師は、定期検診を受けている総合病院の医師に対して、「診断の結果」と「エコー検査を勧める書簡」を書いてくれた上、「CT検査CD」も定期検診医師に手渡すよう施してくれた。感謝の気持ちで一杯だった。

不安のどん底に落ち込まされ、迫られていた「腎臓癌」の恐怖から解放された歓喜が体中に広がった。これに優る喜びは無かった。

こんな折、私の「癌」恐怖からの脱出を知ったメルマガ全国版「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏から「体調不良」とは、どんな具合でしたかというご心配を添えての質問を頂いた。

これに対して私は下記のようなご返事を送った。
<当初の総合病院でのCT検査で、「腎臓癌に罹患している疑い」があるという診断を受けたことから、その不安による食欲不振と精神不安定が、強度の体調不良に結びついたものと思われます。

しかし、阪大系の総合病院に移って、幾つもの検査を行い、専門医師の診断を受けた結果、「腎臓癌」の疑いなしが判明したその日からは、体調が徐々に回復していくのを自覚しました。

そこで、阪大の主治医に、「癌」への心配が体調不良に繋がっていたのでしょうかと訊いてみました。

すると同医師は、その心配も無くもないが、老化が進めば「仕事に伴うストレスの蓄積」が加増して体調不良を招くことが多く、その傾向が強かったとみるべきでしょうと言われました。

ですから「癌罹患の疑い」が体調不良のキッカケだったことは事実ですが、携わっているいろんな仕事の悩みや労苦に巻き込まれて生じた「ストレス」が、体調不良を増幅させたのではないでしょうか。

答えになっているかどうか分かりませんが、これからは気楽な気持ちを維持し、「ストレス」が溜まらないようにして行こうと思っております>。

これに対して渡部亮次郎氏から
<良く分かりました。それにしても良かった。奥さんもやっと安眠できるようになったでしょう。おめでとう御座いました。私もそうです。>
という有難いお言葉を頂き感動した。

とにかく、人生初めての経験として苦しんだ「癌」から解き放されたことで、こんな感激はない。これからも、種々の仕事には追われることにはなるが、老化に伴って生じる「ストレス」を蓄積しないよう心掛けたいと思う。あれほどの体調不良は二度と味わいたくない。
                                 以上



2016年08月18日

◆国産ビール発祥地は大阪

毛馬 一三



いよいよ夏本番、どこでも夕食の食卓では、缶ビールをコップに移して一気に飲んで、喉を潤すのが習慣になってきている。

今やアルコールを飲めない人でも、アルコールの入っていない缶ビールを買い求めてビールの味を愉しむ時代にもなっている。ビールはもはや全盛時代だ。

以前、北海道のサッポロビール製造工場で、出来立てのビールをジョッキ杯で飲んだ経験がある。下戸の私は、ジョッキ杯飲みに躊躇いがあったが、喉越しに胃袋に入っていったその時の美味さは、何とも清々しく旨いものだった。

最近では、ホテルや居酒屋などでビールジョッキで飲むことがあるが、出来立てのサッポロビールの味と同じような感じがしだして、時代と共にビールの質が向上していることが伺える。

そんな中、「国産ビールの発祥の地」が、大阪だというという「碑」を見つけた。全国いたるところにあるといわれているビールの発祥の地が、まさか大阪だとは驚いた。

その「碑」は、大阪市営地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅から 東に300mほどの大阪・北新地のANAクラウンプラザホテル北東側にあった。

その場所にはしばしば行く所だが、ホテル北東側の3本の道路で囲まれた三角形の場所で交通量の多いところなので、不覚にもその「碑」には目が届かなかった。よく見ると「碑」と「説明プレート」が建っている。

「碑」は、高さ1m50pで、隣接している「説明プレート」は1mの四角形。いずれにも大阪市教育委員会の説明が添えられている。

こう書いてある

<わが国におけるビールの醸造は幕末に横浜で外国人がおこなっていたが,日本人の手によるものとしては,澁谷庄三郎がこの地で醸造したのが最初といわれている。

当初は大阪通商会社で,明治四年(1871)に計画された。これは外国から醸造技師を招いた本格的なものだったが,実現には至らなかった。この計画を通商会社の役員のひとりであり,綿問屋や清酒の醸造を営んでいた天満の澁谷庄三郎が引継ぎ,明治五年三月から,このあたりに醸造所を設け,ビールの製造・販売を開始した。

銘柄は「澁谷ビール」といい,犬のマークの付いたラベルであった。年間約三二〜四五キロリットルを製造し,中之島近辺や川口の民留地の外国人らに販売した。―大阪市教育委員会>。

しかし気になることがあった。「日本ビールの発祥地は、横浜」と言われていたことを思い出して気になった。

そこで、調べてみると、

<明治3年(1870年)、米国人のウィリアム・コープランドによって横浜・山手にビール醸造所「スプリング・バレー・ブルワリー」が設立され、日本で初めてビールの醸造・販売が開始された。

外国人の手による日本初だが、実は麒麟麦酒(キリンビール)がこれの流れを汲んでおり、世間的にはこれが「横浜が日本のビール発祥の地」と定着してしまったようだ。>

更には

<小規模なものなら、江戸時代にも日本でビールが造られていたらしい。文化9年(1812年)に、長崎の出島でオランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフによる“自家醸造”で、これが「日本で初めて醸造されたビール」とされている。

となると、大阪の「発祥地」とはどういう意味なのかということになる。

そこで、時系列に追って整理すると、
・1812年(文化9年) 日本で初めてのビールが長崎でオランダ人によって醸  造される。
・1869年(明治2年) 横浜で、外国人による日本最初のビール醸造所が設立される。
・1872年(明治5年) 大阪堂島で、渋谷庄三郎によって、「渋谷ビール」という、日本人によって初めて産業的にビールが醸造・販売される。

そこではっきりした。「横浜」は外国人によって「日本で初めて産業的にビールがつくられた地」なのだ。「大阪」は日本人の手によって、初めて「国産ビールがつくられた地」だったということになる訳だ。

この「大阪の碑」の周辺は、今は不景気で活性化が無くなっている遊楽街「北新地」だが、「碑」に辺りに「国産ビール発祥地」を明らかにする施設や跡地は、どこにも見当たらない。

だが、現代のビール産業がこの場所から発祥したのだという事実は、この「碑」を目撃したことよって、先駆的だった大阪の時代があったこと改めて感じさせられた。これからも全国を引導していく大阪になって欲しいものだ。(再掲)

2016年08月12日

◆紫式部と蕪村の「和紙」への試み

毛馬 一三

書き出しは、大阪俳人与謝蕪村のことからだ。蕪村(幼名:寅)は、生誕地大阪毛馬村で幼少の頃、母親から手ほどきをうけて高価な「和紙」を使って「絵」を描いて、幼少時期を楽しんでいたことを、最近知った。

寅は、庄屋の子供だったから、高価な「和紙」を父から自在に貰って、絵描きに思いのままに使ったらしい。

その幼少の頃の絵心と嗜みが、苦難を乗り越えて江戸に下り、巴人と遭遇してから本格的な俳人となったのも、この幼少の頃「和紙」に挑んだ「絵心」とが、成人となって俳人としての心構えに結び付いたらしい。


さて、本題―。

高貴な「和紙」の事を知った時、ジャンルは違うが、紫式部が思い切り使って「和紙」を使って「世界最古の長編小説・源氏物語」を書いたことを思い出した。

そのキッカケは、福井県越前市の「和紙の里」を訪ねてからである。

越前市新在家町にある「越前和紙の里・紙の文化会館」と隣接する「卯立の工芸館」、「パピルス館」を回り、越前和紙の歴史を物語る種々の文献や和紙漉き道具の展示、越前和紙歴史を現す模型や実物パネルなどを見て廻った。

中でも「パピルス館」での紙漉きを行い、汗を掻きかき約20分掛けて自作の和紙を仕上げたのは、今でもその時の感動が飛び出してくる。

流し漉きといって、漉舟(水槽)に、水・紙料(原料)・ネリ(トロロアオイ)を入れてよくかき回したあと、漉簀ですくい上げ、両手で上下左右に巧みに動かしていくと、B5くらいの「和紙」が出来上がる。まさにマジックの世界だ。

ところでこの越前和紙だが、今から約1500年前、越前の岡太川の上流に美しい姫が現れ、村人に紙の漉き方を伝授したという謂れがある。

山間で田畑に乏しかった集落の村人にとり、紙漉きを伝授されたことで、村の営みは豊かになり、以後村人はこの姫を「川上御前」と崇め、岡太神社(大瀧神社)の祭神として祀っている。

<その後大化の改新で、徴税のため全国の戸籍簿が作られることとなり、戸籍や税を記入するために必要となったのが「和紙」である。そのために、越前では大量の紙が漉かれ出したという。

加えて仏教の伝来で写経用として和紙の需要は急増し、紙漉きは越前の地に根ざした産業として大きな発展を遂げてきている>。

さて長編小説「源氏物語」の作者紫式部は、執筆に取り掛かる6年前の24歳の時(996年)、「和紙」の里・越前武生に居住することになり、山ほどの「和紙」に囲まれて、存分に文筆活動に励んだ。

当時、都では「和紙」への大量の需要があったらしく、宮廷人も物書きも喉から手が出る程の「和紙」だったが、手には入らなかった。

ではどうして都にいた紫式部が、遥か離れた「和紙」の里越前の武生に移住してきたのか。それはご当地の国司となった父の藤原為時の“転勤”に関わりがある。文才だけでなく、商才に長けた為時の実像が浮かび上がる。

<為時は、中級の貴族で、国司の中で実際に任地へ赴く“転勤族”だったそうで、996年一旦淡路の国(下国)の国司に任命されるが、当時の権力者・藤原道長に賄賂の手を使って、転勤先を越前の国(上国)の国守に変更してもらっている。はっきり言えば為時は、淡路の国(下国)には赴任したくなかったのだ。何故なのか。

当時、中国や高麗からの貿易船が日本にやってくる場合、海が荒れた時や海流の関係で、同船団が「越前や若狭」の国を母港とすることが多く、このため海外の貴重な特産品が国司のもとに届けられ、実入りは最高のものだったという>。

藤原為時一族は、中級の貴族ながら文才をもって宮中に名をはせ、娘紫式部自身も為時の薫陶よろしく、幼少の頃から当時の女性より優れた才能で漢文を読みこなす程の才女だったといわれる。

これも商才に長けたばかりでなく、父親の愛情として、物書きの娘に書き損じに幾らでも対処できる「和紙」提供の環境を与えたものといわれる。

<この為時の思いは、式部が後に書き始める「源氏物語」の中に、武生での生き様が生かされている。恐らく有り余る「和紙」を使い、後の長編小説「源氏物語」の大筋の筋書きをここで書き綴っていたのではないだろうか。平安時代の歌集で、紫式部の和歌128 首を集めた「紫式部集」の中に、武生の地で詠んだ「雪の歌」が4 首ある。

越前武生の地での経験が、紫式部に将来の行き方に影響を与えたことはまちがいない。と同時に式部は、国司の父親のお陰で結婚資金をたっぷり貯め込むことも成し遂げて、約2年の滞在の後、京都に戻り、27歳になった998年に藤原宣孝と結婚している>。

越前武生の生活は、紫式部にとり「和紙」との出会いを果たして、後の世界最古の長編小説への道を拓くことに繋げた事は、紛れもない事実であろう。

<紫式部の書いた「源氏物語」の原本は現存していない。作者の手元にあった草稿本が、藤原道長の手によって勝手に持ち出され外部に流出するなど、「源氏物語」の本文は当初から非常に複雑な伝幡経路を辿っていたという。

確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は、現在のところ一つも見つかっておらず、この時期の写本を元に作成されたと見られる写本も、非常に数が限られているという>。
 
この歴史の事実と筆者の推論を抱きながら、「紫式部公園」に回り、千年前の姿をした高い式部像に対面してきた。

北京五輪の開会式の時、中国の古代4大発明の一つとして「紙」を絵画の絵巻をCGで描き、国威を高らかに示した。

この紙が7〜800年後に日本に渡り、「和紙」となった。その後、「世界最古の長編小説を書いた女性が日本にいた」ということは、中国は勿論諸外国は知らない。

参考:ウィキペディア、: 青表紙証本「夕顔」 宮内庁書陵部蔵 
(加筆修正・再掲) 

2016年08月05日

◆万葉集に軍事メッセージ

毛馬 一三 



「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語では判読出来ない歌のほとんどを、何と韓国語で詠んでみると、「未詳歌」ではなく、総て読み明かせると聞いた事を思い出した。

しかもその「万葉集の未詳歌」には、当時の日本と百済との間で「軍事、政治に関する驚くべきメッセージ」が秘められているということだ。

この話をしてくれたのは、以前のことだが、韓国の著名女流作家、李寧煕(いよんひ)氏。韓国大手新聞社「韓国日報」の政治部長・論説委員長から国会議員を経て、韓国女流文学会会長を歴任された。ただ、今もご健在か分からない。

筆者は、たまたま「韓国日報」からの紹介で、李氏が来日された折、2日間、奈良県桜井の「万葉の道」やその周辺の「古代天皇古墳群」散策の案内役を務めた。

その時李氏が、こもごもと語ってくれたのが、この「万葉集」に秘められた日本と百済との「軍事、政治に関する驚くべき秘話」だった。

李氏が、日本の「万葉集」と関わりを持ったのは、国会議員だった当時、日本の高校の歴史教科書に韓国関係記述が歪曲されているという問題が提起されているということから、日韓両国国会議員による特別委員会を設け、事実調査を始めたのがきっかけだったという。

つまり、歴史書が歪曲されているかどうかに探るには、古代史にまで遡って検証する必要があり、そのためには両国歴史書に目を通すことだった。

その時、日本の「万葉集」に魅せられて仕舞ったというのだった。その瞬間から「万葉仮名」の研究に励み出されたそうだ。

「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語では判読出来ない歌のほとんどを、何と韓国語で詠んでみると、「未詳歌」ではなく、総て読み明かせること分かったというのだ。これは大発見に違いなかった。

帰国した李氏から、筆者に李氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」が送られてきた。読んでいくうち「日本語訳では見えない様々な謎」が書き込まれていた。その中に、特に注目すべき下記の記述があった。

<万葉集20巻、4516首の内に、日本語では判読できない、正式に「未詳歌」は「3首」があり、このうちの1首に恐るべきメッセージが織り込められている。

斉明天皇(655年即位)の心の中を、額田王(ぬかだのおおきみ)が代わって歌にしたのが、それである。

◆原文: 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念 <巻1の7・未詳歌>

・日本語で詠むと、(秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 刈廬(かりいほ)し思ほゆ)

「日本語解釈」では、下記のようになっている。
(秋の野の 萱(かや)を刈って屋根を葺き 旅宿りした 宇治のみやこの 仮の庵が思われる)。

この解釈だと、額田王が何を言いたいのか、さっぱり意味が伝わってこない。だからこの歌が、解釈不能または解意不明であることから、公式に「未詳歌」とされたのだろう。

そこでこの詳らかでないこの歌の原文を、韓国語で読んでみた・・・。すると、
(徐伐『そぼる』は 鉄磨ぐ 締め苦しむること勿れ 上の都は 刀来るぞよ 陣地固めよ)。

・韓国語訳―(新羅は刀を磨いで戦いに備えている。締め苦しめないといいのに・・・。吾がお上の、百済の都は、敵が襲ってくるから、陣地をお固めなされ)>。

李氏の韓国語詠みによる解釈によると、これは明らかに斉明天皇が「百済」に送った「軍事警告メッセージ」だということが、はっきりと分かる。

となれば斉明天皇が百済に、これほどまでの「国家機密情報」を送らなければならなかった理由があったのか、その疑問にブチ当たる。

<皇極天皇(斉明天皇と同じ・斉明天皇は二度即位)から斉明天皇の時代は、朝鮮半島では、新羅、百済、高句麗の3ヵ国の間が緊張状態にあった。

この歌(皇極時代の時の648年に入手していた機密情報)は、斉明天皇に即位してから、額田王に作らせた歌だ。百済が、新羅・唐連合軍に滅亡させられた661年より13年も前のメッセージだから、このメッセージ自体には「歴史的真実性」がある。

実は斉明天皇は、百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、百済を援けるため、難波(大阪)で武器と船舶を作らせ、自らその船に乗り込んで瀬戸内海を西に渡り、百済とは目と鼻の先の筑紫(福岡)の朝倉宮で新羅・唐との戦争に備えた。

だが斉明天皇は、遠征軍が百済に出陣する直前、その意志に貫けず、出陣先の筑紫(福岡)で亡くなった。

斉明天皇の異常なまでの「百済贔屓」について日韓学者間では、斉明天皇は実は、百済第三十代武王の娘の「宝」で、百済最後の王、義慈王の妹だった説がある>。

恐らく斉明天皇自身もさることながら、親族関係も「百済」と強力な血脈が在あったのではないだろうか。額田王の「万葉集」(未詳歌)歌に秘められた「軍事警告メッセージ」も、その視点で詠めば「未詳歌」ではなくなってくるような気がする。

ところが、「万葉集」を古代の珠玉の日本文学と仰ぐ人たちにとっては、この韓国語読みは認め難く、あくまで額田王作の「未詳歌」としてしか、今でも取り扱わない。

とは云え、このあと白村江の戦いの敗戦(663年)まで、百済国の救援にこだわり続けてきた日本の歴史を見れば、日本と百済との関係は極めて緊密であったことは明らかだ。

だとすれば、万葉集愛好家も「万葉集の未詳歌」に、韓国語で詠み明かされる新たな視点を投げかければ、「万葉集」珠玉を更に広げることになるのではないだろうか。詠みを広げてみては如何。

今、「韓ドラ」放映が人気を集めている。「万葉集の未詳歌」」に対する視点と解釈を変えて観れば、当時の歴史の激烈さが浮上して興味が増してくるのは間違いない(了)    (修正加筆再掲)

参考―・李寧煕氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」
   ・小林恵子著「白村江の戦いと壬申の乱・現代思潮社」
   ・ウィキぺディア

2016年07月31日

◆春日局は光秀重臣の娘

毛馬 一三



春日局(かすが の つぼね)は、本名斎藤福(さいとう ふく)と云い、江戸幕府の3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」との名は、朝廷から賜った称号である。

ところが、福の父は本能寺の変で織田信長を暗殺した明智光秀の重臣・斎藤利三で、福はその娘だった。

斎藤利三は捕えられ斬首されたが、そんな本能寺の変の主役の娘・福をどうして江戸幕府の大奥に招き入れ、大奥の頭の「春日局」にまで優遇したのだろうか。「謎」の一つだ。

<福は父斎藤利三の所領のあった丹後国の黒井城下館(興禅寺)で生まれる。丹波は明智光秀の所領であり、利三は重臣として丹波国内に、光秀から領地を与えられていた。

光秀の居城を守護するため、福知山城近郊の要衝である黒井城を与えられ、氷上群全域を守護していたものと思われる。福は、黒井城の平常時の住居である下館(現興禅寺)で生まれたとされている。

こうして福は、城主の姫として、幼少期をすごした。

その後、父は光秀に従い、ともに本能寺の変で織田信長を討つが、羽柴秀吉に山崎の戦いで敗戦し、帰城後に坂本城下の近江国堅田で捕らえられて斬首され、他の兄弟も落ち武者となって各地を流浪していたと考えられている。

そうなって福は、母方の実家の稲葉家に引取られ、成人するまで美濃の清水城で過ごしたとみられ、母方の親戚に当たる「三条西公国」に養育された。これによって、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけることができた。>ウイキペディア

このような歴史背景から見て行くと、明智光秀の重臣だった父親の血を惹く実の娘が、江戸幕府に召し上げられて、「春日局」となるとは、首を傾げたくなる訳だ。

大阪堺の歴史家によると、徳川家康は本能寺の変の前に、織田信長を訪ね酒杯を頂きながら戦況を交わしている。明智光秀はこの酒杯のお世話を担務したが、段取りを信長に嫌悪されて過激の叱責を受け、信長側近の地位を剥奪された。

そこで信長を将来の身を絶望恨み、本能寺の変を決意した。ここで重要なことだが、重臣斎藤利三を遣って、徳川家康に信長暗殺を秘かに伝え、本能寺の変に突入したのだそうだ。そして徳川家康には、無事に京都から大阪を経て、堺まで逃げ込む方策を告げたのだという。

密告通り、京都で「変」が起こったことを知った家康は、迎えに駆けつけてきた斎藤利三の強力家来に誘導されて方策通り、堺に向けて脱出。そのあと伊賀の多数の忍者に擁護されながら、本城の三河城に苦労して辿りついたという。

この行動は、恰も本能寺の変とは「無縁」であり、むしろ「被害者」たる姿勢を世間に見せ付ける行動を敢えて披露したように見える。堺にはそれを裏付ける資料もが少々あるというのだ。

つまり、家康にとって、斎藤利三は命の恩人ということになる。秀吉にとってもゆるせない反乱重臣の斎藤利三は、家康にとっては恩返しをしなければならない重要人物であることは間違いない。つまり、福は紛れもない命の恩人の娘だったのだ(歴史家)。

ところが、もう一つの見方もある。「謎」の二つ目である。

つまり、家康がすみやかに京都を脱出出来たのは、家康と光秀の間で、信長を暗殺する方策を事前から立案し合っていたものではないか。その脱出方策の実行を斎藤利三に任せ、家康の身の安全と、信長後任の詰めまでも、申し合わせていたのではないかと云う見方もある。つまり、家康こそ「暗殺首謀者」だとの見方だ。

方策は見事に成功した。だが、斎藤利三は斬首された。となれば上記と同様、家康は、紛れもない命の恩人の娘だった福に、父親の恩を返してやることを考えたに間違いないと考えられる。

さて、<福は、将軍家の乳母へあがるため、夫の正成と離婚する形をとった。慶長9年(1604年)に2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命される。このとき選考にあたり、福の家柄及び公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたといわれている。

家光の将軍就任に伴い、「将軍様御局」として大御台所・江の下で大奥の公務を取り仕切るようになる。寛永3年(1626年)の江の没後からは、家光の側室探しに尽力し、万や、楽、夏などの女性たちを次々と奥入りさせた。

また将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握る。

寛永6年(1629年)には、家光のほうそう治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、そのまま10月には上洛して御所への昇殿を図る。

しかし武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため、血族であり(福は三条西公条の玄孫になる)、育ての親でもある三条西公国の養女になろうとしたが、既に他界していたため、やむをえずその息子・三条西公条と猶妹の縁組をし、公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内する資格を得た。

そして三条西 藤原福子として同年10月10日、後水尾天皇や中宮和子に拝謁、従三位の位階と「春日局」の名号及び天酌御盃をも賜る。

その後、寛永9年(1632年)7月20日の再上洛の際に従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。よって二位局とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比定する位階となる。

寛永11年に正勝に先立たれ、幼少の孫正則を養育、後に兄の斎藤俊宗が後見人を務めた。寛永12年には家光の上意で義理の曾孫の堀田正敏を養子に迎えた。

寛永20年(1643年)9月14日に死去、享年64。辞世の句は「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」。法号は麟祥院殿仁淵了義尼大姉。墓所は東京都文京区の麟祥院、神奈川県小田原市の紹太寺にある〉。  ウイデペディア。

このように福の奇跡的な生涯を見て行くと、上記に<武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため>とあって、これを秘匿した工作がはっきりしてくる。「謎」の一つは解けそうだ。

しかも、素晴らしい殿中での政治的画策の実現を図る、福の明晰な頭脳が分かる。

しかし、家康と明智光秀が共謀者同士だったかの、二つ目の「謎」は分からない。
                                        
この「春日局」の生涯には、興味が深い。
以上(再掲)
                        

2016年07月18日

◆9月22日(秋分の日)に「蕪村顕彰全国俳句大会」

毛馬 一三 
                    


江戸時代の俳人与謝蕪村の生家は、淀川の河底に埋没しているのは間違いないのですが、一体河底の何処に埋没させられて仕舞ったのでしょうか。詳しい場所は未だ不明です。

確かに、大阪毛馬の淀川堤防に「蕪村生誕地」と書いた「記念碑」が建立されてはいます。しかし「蕪村生誕し幼少を過ごした生家」は、この場所ではないことははっきりしています。

実は「蕪村の生家」が、冒頭に記したように、淀川堤防から眼下に見える「淀川の川底」に在るのは事実です。なぜ淀川の川底に埋没されたのでしょうか。これは追々。

徳川時代の淀川は、よく手入れが行われていましたが、明治維新後は中々施されていなかったのです。ところが、明治18年に淀川上流の枚方で大水害が起き、下流の大阪で大被害を受けたことをきっかけに、明治政府がやっと淀川の本格的改修に乗り出しました。

その際明治政府は、単なる災害防止ためだけではなく、大阪湾から大型蒸気船を京都伏見まで通わるせる航行で「経済効果」などの多目的工事に専念することを決めました。

そのために淀川の河川周辺の陸地を大幅に埋め立て、それまでの小さな淀川を 大きな河川にする大改修を立案したのです。

これに伴い、旧淀川沿いにあった「蕪村生家」地域は埋め立ての対象となり、すべて「河川改修工事」によって川底に埋められて仕舞いました。

さて、明治政府は関西の大型河川・淀川を大改修するため、オランダから招いた河川設計者・デ・レーケとフランス留学から帰国していた設計士沖野忠雄とを引き合わせ、「淀川大改修」の設計を依頼しました。

明治政府の依頼を受けた2人は、「大改修工事」の設計を創り上げ、明治29年から工事を開始しました。

とにかくこの大型改修設計は、大阪湾に京都の宇治川や桂川、奈良からの木津川を中津川に合流させ、一気に淀川として大阪湾に繫ぐ、巨大な設計でした。

そうすれば貨物蒸気船を大阪湾と京都を結んで航行させることが出来、逆に京都・枚方などで大水害が起きた場合でも大量の水量をさらりと、大阪湾に流すことが出来るのです。二本立ての「効果狙いの設計」でした。

勿論、上流の災害で流出してくる「土砂」が、大阪に被害を与えないため「毛馬閘門」設計も創りました。

これが淀川から大阪市内に分岐させる「毛馬閘門」の設計主旨だったのです。この「毛馬閘門」からは、淀川本流から分岐して大阪市内へ流れる河川を設計しました。その河川の名を「大川」と名付けたのです。

この「大川への分岐設計」で、上流の水害に伴う土砂流失の回避は実現し、大阪の上流からの防災は、今日まで護られているのです。

このように2人による設計書は、世界の河川工事技術水準に準じたもので、明治政府が施工した「河川大改修工事」としては全国的に見ても画期的なものでした。

同工事は、明治29年から明治43年まで行われ、設計通り完成しました。

ここから本題。この「河川大改修工事」によって、与謝蕪村が生まれ、幼少を過ごした大阪市都島区毛馬町(摂津国東成郡毛馬村)は、跡形もなく淀川に埋没させられ、深い川底に沈んで仕舞いました。

明治政府の強制でしたから、当時の住民は仕方なくそれに従ったようですが、川幅も660b(従来の30数倍)となり、浅かった河の深さも5bの巨大河川に変容したのです。

この住居埋没の強制工事で、前述の如く、蕪村の生家(庄屋?)は勿論、お寺、菜の花畑、毛馬胡瓜畑跡などの、当時の地域の様子は皆目全くわかりません。今は淀川の毛馬閘門近郊にある蕪村記念碑から、淀川の眼下に見える川底が「蕪村が幼少を過ごした生家地域」だと想起出来るだけで、寂しい限りです。

淀川近郊の蕪村家(庄屋)の後継者の方といわれる毛馬町の家を訪ね、「家歴」を伺いました。しかし、「地図」も無いし、お寺も埋没して「過去帳」もないために、蕪村生誕地が淀川の河底にありことは間違いないですが、今でもどのあたりの河底にあるのか分かないのです。」という答えが返って来ただけでした。

「蕪村生誕300年記念の年」を、2016年に迎えました。どうか大阪毛馬町の「蕪村公園」と通り過ぎて、「毛馬閘門」と「蕪村記念碑」ある淀川堤防の上から眼下に流れる「淀川」を見ながら、その河底に蕪村生誕地があることを想いつつ、蕪村が幼少期をここで過ごしたのかと、ゆったりと瞑想して欲しいですね。

ところで本題。淀川近郊の蕪村家(庄屋)は、大阪毛馬町に在る「淀川神社」の氏子でした。このため年間の祭事や祈願の折は、この「淀川神社」に父母と一緒に蕪村「幼名―寅」は、参詣に通ったことが、江戸時代の慣習から推察出来ます。

また蕪村が、毛馬村を出奔し江戸へ下る決意を固めた時、氏子の立場から「淀川神社」に参詣し、将来の生き方を祈願したことは、当然のことと考えられています。

そこで、今の「淀川神社」の境内に、昨年12月協賛者のお力を頂いて、高さ1m60pの銅製の「蕪村銅像」を建立しました。

というのは今年28年1月からは「蕪村生誕300年の年」だからです。そこで1月23日午後1時から「蕪村銅像建立の除幕式」を行いました。

望郷の念の強い「蕪村」は、この「生誕地参詣神社に銅像が建立する」ことに喜んで還ってきてくれていると信じています。また「淀川神社」も、「蕪村参詣神社」として、後世に伝承されるでしょう。

9月22日(秋分の日)に市立淀川小学校で、兜カ學の森と協力して、蕪村生誕300年を祝う行事の「蕪村顕彰全国俳句大会」を、文化庁の後援を頂いて開催します。

全国・地元の応募者の俳句作品を著名な俳人から「選考」して頂き、大阪府知事賞、大阪市長等を授与すると共に、「児童・生徒の部」「国際蕪村俳句賞」も、いずれも優秀句を授与します。どうか9月22日の「蕪村顕彰全国俳句大会」に、是非共ご参加されますよう、お願い申し上げます。(修正再掲)

取材先:国交省近畿地方整備局淀川河川事務所

2016年07月03日

◆蕪村公園と蕪村生誕300年祭

毛馬 一三
                  
   

「蕪村公園」は、大阪市毛馬町の毛馬桜ノ宮公園の北端、毛馬閘門近くの大川沿いに大阪市が平成20年に造営した。

これで、都島南端、川崎橋あたりまでの毛馬桜ノ宮公園迄との道筋が完成することになり、春に桜の咲くころには大川河畔が新名所として市民が楽しむことが出来るようになった。

与謝蕪村は、松尾芭蕉、小林一茶と並んで江戸俳諧を代表する俳人だが、その蕪村の生誕地が何処かということになると、あまり知らない人が多い。

蕪村は、享保元年(1716)に大阪毛馬村の裕福な農家の主人と奉公人の母との間に生まれた。家督を引き継げない私生児にすぎなかった。その上不幸にも幼くして両親が亡くしため、家人から総いじめされたからか、この辛苦に耐えられず、蕪村は17歳の頃毛馬村を出奔して、江戸に出奔を決意。家出して京都に向かった。

京都で人生を定めることになると人物俳人早野巴人と出会っている。早野巴人を師匠にして俳句を学びながら一緒に暮らしていたが、その後、二人は江戸に旅たった。

江戸では、早野巴人の真弟子として俳諧の世界に没入したが、頼りにしていた早野巴人師が急没して仕舞った。蕪村が26歳の時だった。師匠の急逝を悲しみつつも、新しい「俳句の世界」へ身を投じなければと決断。かねてから愛着のあった芭蕉俳句を追求するため、芭蕉が訪ねて廻った奧羽地方を放浪した。

宝暦元年(1751)になって、京に移り俳諧に挑む一方、南宋画家として励み、池大雅と並ぶ名声を得るようになった。その上、蕪村は、早野巴人を継いで「夜半亭」(初代巴人)主宰となった。

蕪村は京都で68歳の生涯を閉じたが、終生故郷の毛馬村には一度も帰っていない。しかし蕪村にとっては、生まれ故郷毛馬村の「慕情」は消えることは無く、この想いを脳裡に巡らせながら、書き記した「春風馬堤曲」がある。奉公娘の帰省の物語になぞって書き綴り、俳句を添えて「望郷」の念を一気に発散させている。

いまだに大阪には、蕪村に関する「伝承文献」は皆無だ。しかも明治19年に政府による淀川の河川改修工事によって毛馬村が総て埋め尽くされたため、生誕地の痕跡も一切残されていない。これが長い間、大阪俳人の蕪村を顕彰することが出来なかった主因なのだろう。

しかし、明治になり正岡子規が「蕪村俳句」を顕彰するようになったが、それでも地元大阪では依然として関心が薄く、蕪村顕彰には誰も手を付けなかった。

そこで、10年ほど前地元の有力市議会議員と私が共同して「蕪村顕彰公園」建設を大阪市政に働きかけた。大阪俳人蕪村を大々的な顕彰しようという運動は、嬉しいことに活発になりだした。

この運動も契機となり、大阪市は平成18年度から2年計画で、前述の「記念碑」と「春風橋」の中間にある市有地1.1hrの土地に、約2億5千万円をかけて「蕪村公園」を整備することを決定。

同「蕪村公園」には、公園の中央に大広場、公園全体に「蕪村俳句石碑」の建立、「自画絵、春風馬堤曲」などの「蕪村説明写真集」の掲示、公園全体には樹木植栽をする計画が立てられた。大阪輩出の与謝蕪村名を高揚し、文化集客地にしたいと大阪市は考えたのだ。

同公園は、重要文化財の「毛馬閘門」の側にあり、有名な「毛馬桜の宮公園」の北端に位置して、市の中心地中之島に通じる大川沿いの「桜回廊」の出発点になっている。「屋形船」や「遊覧船」の折り返し地点でもある。

序でながら、今年こそが「蕪村生誕300年の年」であることを記しておきたい。

生誕300年を迎えた大阪毛馬町では、蕪村公園の南側にある「淀川神社」に住民の協力を得て1月に「蕪村銅像」を建立。5月には学者・俳句結社要人による蕪村生誕300年記念シンポジュームを盛大に開催。

9月には、「蕪村300年祭」として、地元・全国から応募される俳句作品を選考し「全国大会表彰式」を行う。こうした一連の300年祭に、文化庁から予想外の「後援」を頂き、いまも気を盛り上げている。

要は、蕪村生誕300年の記念行事を多々行い、大阪毛馬生誕の俳人蕪村の顕彰と後世への伝承を強く進めているのである。

元々蕪村公園の建立で、大川沿いの見事な桜回廊と繋がった一連の観光名所として、集客効果が進められ、生誕300年蕪村祭を、この蕪村公園の優れた姿の中で、これから種々進められる。

まずは、大阪市毛馬村にある「蕪村公園」に是非お訪ね頂きたい。序に生誕毛馬町に生還してきた蕪村の姿を、同公園横の「蕪村銅像」を観ながら、蕪村想いを高揚して欲しい。

「皆様のお力をお借りして、蕪村俳句の後世への継承と俳句文化を、世界へ広める活動に、今後取り組んでいきたい」と決意して居り、是非ご賛同を願いたい。
  (了)