2016年05月24日

◆「新聞俳句・・・入選のコツ」って

NPO法人近畿フォーラム21 理事長
蕪村顕彰俳句大学      池尻 一寛(毛馬 一三)



筆者主宰の「蕪村ブログ」の「俳談」に連載して頂いている杉浦正章氏が、近月に「やぶにらみの正論」(一般社団法人 安保政策研究会・浅野勝人理事長)と共著して、「新聞俳句・入選のコツ」の冊子を 「時評社」から発刊されました。

本誌掲載の「俳談」の掲げられた杉浦正章氏の「新聞俳句入選句」に、日頃から感動しておりましたが、実際「その新聞俳句入選のコツ」は如何なるものか、
俳句愛好者とって極めて珍しい「新聞俳句」の舞台と、「その入選のコツ」の執筆を拝読し、益々驚きました。

一般の人、俳句愛好家、学生等のほとんどは、「新聞俳句・入選のコツ」を知っていることは在りません。是非拝読して「新聞俳句の投句」と云う新しい世界に関心を寄せて下さい。


杉浦正章が記載された著作の趣旨を、下記に添付しましょう。著者には失礼ですが。文量を察して「中略」も致します。それでもきっと過大な興味を抱いて拝読したくなるでしょうね。

杉浦正章氏の寄稿

◆「新聞俳句・入選のコツ」

<私は、政治評論の「永田町幹竹割り」をブログ掲載し、付録の意味で「俳談」を添付しておりました。その読者が全国大会で特選を受賞されるなどとは、夢に思っていませんでした。

しかもその俳句たるやまことにレベルが高い。これは私の「俳談」が導いたのではなく、もともと才能があった方が触発されたのだと思います。(省略)

出版の運びとなった時、「俳談」は主として新聞投句の入選句の「傾向と対策」を入選句の実例を挙げて記述することにしました。句歴30年、そして二十数年にわたる投句の経験、ノウハウの総てを投入しています。(省略)

俳人が書いた新聞俳壇対策の教科書はありますが、投句者による実践の裏付けられた「新聞俳壇入門書」は、珍しいと思います。(中略)松尾芭蕉、小林一茶、与謝蕪村など過去の天才俳人の句作にも言及しています。>

ここから「句作テーマ」が書かれており、想い付きに添付いたします。

<◆「まず傾向と対策から」―

 新聞俳壇は全国誌6紙に全部あります。掲載日は朝日、読売、毎日が毎週月曜日朝刊、日経、東京が日曜日朝刊、産經が水曜日朝刊です。

 私は約20年間20年間にわたり6紙に投句を続け、入選句は1,000句余りとなりました。(中略)毎日10句を作成し、週に70句作成。これを絞って毎週40句にして投句しています。入選はせいぜい2, 3句です。

新聞投句は初心者大歓迎です。朝日の選者によると、ベテランの句を選ぶより新人の句を選びがちになるそうです。今をときめく有名な女流俳人が別名で新聞投句をしているのを知っていますが、その理由は「武者修行」だといいます。とにかく実名でも別名でもいい、どんどん新聞投句して実力をつけるべきでしょう。

(中略)

◆「昭和ノスタルジア」−

時代を詠むと新聞俳壇によく採用されます。時代をどう詠むかといえば簡単です。
   降る雪や明治は遠くなりにけり

と詠んだように元号を一句に挿入すればよい。元号は、短歌で言う歌枕のような作用を及ぼします。

現在において明治や大正に詩的感慨を抱くことのできる人は少ないかも知れませんが、早くも平成は28年、昭和も遠くなりましたが、日本人の心の中に昭和に対するノスタルジアが生まれて、これが発酵しつつあります。

◆「初心者の時事詠は邪道」−

 俳句初心者はどうもニュースをテーマとしたがりますが、これほど陳腐なものは無いと心得るべきでしょう。俳句は古来永遠なる感情を詠むものであり、一過性の感情を詠まないのです。そのときのニュースを詠んでも、ほとんど成功しないのはなぜか。それは地名を読み込むのと同じでニュースの印象が強すぎて詩情を壊すからです。>

筆者が傾注している「与謝蕪村」の記述があって、一挙に感動しました。何故なら「蕪村俳句の視点」を知りたかったからです。著作文を挙げます。

<◆「俳句の絵画性」

 雪が降り積もった京都の夜景を描いた与謝蕪村の名画に「夜色桜台図」がある。2009年に国宝に指定されている。蕪村は俳句を作っても絵を描かせても超一流であった。その画才の影響もあってか、作る俳句も実に絵画的である。人口に膾炙した句に

菜の花や月は東に日は西に
があるが、いちいち説明はいらない、大きな景色をすべて短詩の中に込めている。

しかし絵画性を一層感じる句は
月天心貧しき町を通りけり
であろう。貧しい町に大きな月が出ている、大きな月と詠まなくても、貧しき町ガそれを語らしめる。なぜなら貧しい町は灯影もほそく、町全体が暗い。その対比として月が大きいのである。

これが例えば、(新宿の歌舞伎町なる月天心)で会ったらどうか。いくら満月でも月はネオンに邪魔されて小さく見えるし。風情も何もあったものではあるまい。この一句は蕪村ならではの才能が発揮されているのだ。

一般俳人も特には絵画のような句を作るとよい。

冬麗や隣の駅の電車見ゆ  毎日俳壇一席 杉の子:(杉浦正章)
 冬の水彩画のような空気感を詠んだ。
 金魚屋を漁師ら囲み秋祭り 読売俳壇一席 杉の子:(杉浦正章)
漁師町で漁師たちが金魚屋を冷かしている光景だ。油彩がのテーマだ。>以上

杉浦正章氏の著作は、150ページから310ページ迄、長編に及びます。
最後に「投句は継続することが何より大切でしょう。そのうちに自らの作句を上達させるとなっていることに気付くのです。頑張って下さい」と述べて居られます。

 ごく一部しかご紹介できませんが、「やぶにらみの正論」と共著とともに
拝読してください。「新聞俳句」の新分野がわかり、「入選にコツ」を読んで
俳句の世界を楽しんでくださいね。
                        
杉浦正章氏[プロフィール]

一般財団法人 安保政策研究会理事
・1940年愛知県西尾市生まれ。
・慶応大学独文科卒業。
・時事通信社政治部記者、ニューヨーク特派員、ワシントン特派員、内閣記者クラブキャップ、 政治部長、編集局次長、常務取締役編集局長。現在政治評論家として、毎日ネットにその日の政治評論を書いている。

以上
 

2016年05月13日

◆「納豆」好きになった理由

毛馬 一三



私の苦手な「納豆」が、骨粗鬆症の予防に効果があるという記事を読んだ。だったら、これからもっと早くから「納豆」を食べることに挑戦すべきだった。
「納豆」好きな人にとっては滑稽な話に違いないが、それはこれから追々。


私は九州の筑後地方で幼少期を過ごした田舎育ち。日露戦争で活躍した日本旧陸軍「久留米師団」の軍事施設がわが家の近くにあったが、周辺全体が農村地帯だったので大東亜戦争が終ったあとも、米や野菜など食糧難に接した記憶はない。

しかし、有明海や博多湾からかけ離れていた所だけに「海の生魚」には縁がなく、塩漬けのサバなどをリヤカーに積んで売り歩く行商から「塩漬け海魚」を買い求め、焼き魚にして食べさせられたことが日常だったと、今でも思い出す。

ところが珍事がある。どうしたことかわが町には「納豆」の売る店も、行商も一切なかった。だから「納豆」を食することはなく、名前すら知らなかった。勿論、我が家が「納豆」を何かの因縁で食膳から避けたという話も聞いたこともない。

「納豆」に初めて出会ったのは、18歳の時東京に進学して、下宿先の食卓だった。「納豆」にネギ、わさび、醤油をいれてかき回しご飯の混ぜて食べるものだったが、異常なねばりによる味と、腐ったような異臭に思わず顔を背けた。以来、食することはなかった。


しかし、横浜生まれで「納豆」常食していた家内と結婚してから、健康のために食べようと説かれたことで、「納豆」に卵の黄身、ネギ、醤油、からしを混ぜて食べる食べ方でチャレンジさせられた。

ところが、その「味付き特別たれ納豆」の食べ方が意外に美味しかったことから、その「たれ」をかけた「納豆」だけを「おかず」として食べるようになった。

そんな折、骨粗鬆症などの予防に「納豆」などに効果があるという記事も読んだ。

同紙によると、

<納豆などに多く含まれる成分「ポリアミン」に骨量の減少を抑える効果があることを、金沢大医薬保健研究域薬学系の研究グループが、マウスなどによる実験で突き止めたという。

ポリアミンは老化抑制効果が注目されているが、骨への効果が判明したのは初めて。骨粗鬆症などに対する副作用が少ない予防、治療法の開発につながるとみられる。

金沢大医薬保健研究域薬学系の研究グループは、骨粗鬆症モデルのマウスと、関節リウマチモデルのラットにそれぞれ28日間、ポリアミンを混ぜた水を投与した。

骨粗鬆症モデルでは何も与えない場合、骨量が3〜4割減少したが、ポリアミンを投与したマウスはほとんど減少しなかった。関節リウマチモデルでは、何も与えない場合と比べ、骨や軟骨が破壊される量が3分の1程度に抑えられた。

さらに培養細胞実験で、破骨細胞にポリアミンを加えると、細胞の働きが抑制されることも確認した。
同研究グループは「ポリアミンは納豆など日本人になじみの深い食品で摂取でき、副作用も少ないとみられる。特定保健用食品や医薬品などの開発につながる」と話した>としている。

たしかに高齢の時期になってくると骨粗鬆症が原因で股関節を骨折し、寝たきりになったという話よく耳にする。

序ながら「骨粗鬆症」に触れておくと
<骨粗鬆症(osteoporosis)とは、骨形成速度よりも骨吸収速度が高いことにより、骨に小さな穴が多発する症状をいう。背中が曲がることに現れる骨の変形、骨性の痛み、さらに骨折の原因となる。
骨折は一般に強い外力が加わった場合に起こるが、骨粗鬆症においては、日常生活程度の負荷によって骨折を引き起こす。骨折による痛みや障害はもちろん、大腿骨や股関節の骨折はいわゆる高齢者の寝たきりにつながり、生活の質(QOL) を著しく低くする。> 出典:ウィキペディア

上記の様に、高齢時になると骨粗鬆症が原因で、股関節を骨折し、寝たきりになったという話よく耳にする。
ところで筆者自身は、今、背骨と坐骨の神経を痛めて、2件に交通事故による「むちうち症」が加わって、毎日、整形外科と鍼灸院に通院しているほど、歩行に困難を強いられている。

歩行がよろけて9回も倒れ、足、腰、腕にけがをした。骨折は免れた。しかし骨粗鬆症との関わりを考えると、やはり背骨・坐骨神経を痛めては、骨粗鬆症には特に注意が必要になる。

以来、それまで「納豆」に軽い気持ちで、おかずで食してきた筆者は、今までよりも「好んで納豆」をご飯に混ぜて多食するようになった。「納豆」好きな人には恥ずかしいことだが、
「納豆」無関心だったのが、一挙に「納豆好き」なったのは、この理由からである。

なお、心臓病や脳梗塞の治療を受けて、「抗血液凝固剤「ワーファリン」を飲んでいる人は、「納豆」は禁忌とされているそうだ。どうか「ワーファリン」を飲んでいる人は、絶対に「納豆」は食べないでくださいと聴いており、医師に相談して下さい。           
                                (了)



2016年05月09日

◆老後の穏やかで豊穣な生き方

毛馬 一三



福岡高校の関西同級生会の6人の畏友グループが、月に2回開講の「俳句句会」を終えたあと、喫茶店で数時間、心おきなく懇談をするようになって8年目を迎える。

ところが時節を経るにつれ、話題が老化に伴う健康生活異変に移り出した。

6人中、現在比較的健康なのは、3人。残りの3人は、激しい腰痛や心臓病等に悩まされ出して動きがままならず、落ち込みの日々に見舞われている。

特に懸念されるのは、昨年7月に前立腺癌罹患と診断された某君。問題は癌手術をして癌細胞を除去しても、骨部への転移の可能性があるという。当人は、あと10年生きてポックリ逝けば満足だ等と、にこやかな笑みを覗かせる。グループは「癌にまけるな」と声を掛け励ましている。

筆者だが、今は交通事故の被害で「むち打ち症」に悩まされているが4年前には腎臓癌の疑いがあると定期検診先の総合病院内科で言われた。そこで、別の阪大系の総合病院内科に行って、腎臓専門医に検診をしてもらい、検査の結果、腎臓本体に癌症状はないと診断された。

ただ、腎臓の「腎嚢胞(じんのほう)」に若干懸念があるとして、同院内泌尿器科に繫いでもらい、ヨード造影剤の注射をしながらのCT検査行った。
 
その結果、「腎嚢胞」に少々の肥大部分が見られるが、癌に繋がる心配はないと診断され、これから半年毎にエコー検査をうけるよう勧められた。不安に取付かれて悩み続けていた腎臓癌から解放されたのは、超ラッキーだった。
 
悲喜こもごもの悩みや苦痛の真相を語り合えるようになったのは、月に2度定期に顔を合わせる日が出来、高校時代以上に心を許すグループになれたからだ。これからはこうしてなんでも打ち明け、悩みを吹き飛ばそうと約束し合った。
 
家族にも打ち明けられず一人で悩む「老後の生き方」を思いのまま話せるようになったのは、やはり「俳句つくり句会」で心の通い方を論じ合い、その余韻を日々持続させられることになったからであろう。これからも「俳句句会の楽しさ」を、老後の生き方に生かして挑戦して行こうと申し合わせている。

一日一日を重ねる歳月。これまで空しく過してきたとは思わないが、取り返しのつかぬ歳月というものが、近頃ほど重く心にかかるものはない。残りの時間が、はっきりしてきたからであろう。
 
この歳になると、人生を登山に例えると、確実に下山の途中である。山を登る時には、先へ先へと急ぎ、路を踏みしめ一歩一歩と足元のみを見詰める。

一方、山を下りる時には、視野が広がり、眼下の景色を楽しめる。こう考えれば、下山は決して寂しく惨めなことではないし、穏やかで豊穣で、それまでの知識・情報では及びもつかないような智恵にふれる、そう言う時期でもあるはずだ。 

中国明末期の儒者・呂 新吾(りょ こん)の「呻吟語」の中に、

・老いるは嘆くに足らず 嘆くべきはこれ老いて虚しく生きるなり
・死するは悲しむに足らず 悲しむべきはこれ死して聞こゆるなきなり   
という一説がある。

「老化」は、決して気落ちの要因にすべきことではない。老化や病にひるまず、「楽しみ」を生甲斐として突き進んで行くのが、これからの老後の豊穣な生き方ではないだろうか。福高関西同窓会の畏友グループ全員は、そう思うようになった。



◆老後を穏やかで豊穣な生き方

毛馬 一三


福岡高校の高関西同級生会の6人の畏友グループが、月に2回開講の「俳句句会」を終えたあと、喫茶店で数時間、心おきなく懇談をするようになって8年目を迎える。

ところが時節を経るにつれ、話題が老化に伴う健康生活異変に移り出した。

6人中、現在比較的健康なのは、3人。残りの3人は、激しい腰痛や心臓病等に悩まされ出して動きがままならず、落ち込みの日々に見舞われている。

特に懸念されるのは、昨年7月に前立腺癌罹患と診断された某君。問題は癌手術をして癌細胞を除去しても、骨部への転移の可能性があるという。当人は、あと10年生きてポックリ逝けば満足だ等と、にこやかな笑みを覗かせる。グループは「癌にまけるな」と声を掛け励ましている。

筆者だが、今は交通事故の被害で「むち打ち症」に悩まされているが4年前には腎臓癌の疑いがあると定期検診先の総合病院内科で言われた。そこで、別の阪大系の総合病院内科に行って、腎臓専門医に検診をしてもらい、検査の結果、腎臓本体に癌症状はないと診断された。

ただ、腎臓の「腎嚢胞(じんのほう)」に若干懸念があるとして、同院内泌尿器科に繫いでもらい、ヨード造影剤の注射をしながらのCT検査行った。
 
その結果、「腎嚢胞」に少々の肥大部分が見られるが、癌に繋がる心配はないと診断され、これから半年毎にエコー検査をうけるよう勧められた。不安に取付かれて悩み続けていた腎臓癌から解放されたのは、超ラッキーだった。
 
悲喜こもごもの悩みや苦痛の真相を語り合えるようになったのは、月に2度定期に顔を合わせる日が出来、高校時代以上に心を許すグループになれたからだ。これからはこうしてなんでも打ち明け、悩みを吹き飛ばそうと約束し合った。
 
家族にも打ち明けられず一人で悩む「老後の生き方」を思いのまま話せるようになったのは、やはり「俳句つくり句会」で心の通い方を論じ合い、その余韻を日々持続させられることになったからであろう。これからも「俳句句会の楽しさ」を、老後の生き方に生かして挑戦して行こうと申し合わせている。

一日一日を重ねる歳月。これまで空しく過してきたとは思わないが、取り返しのつかぬ歳月というものが、近頃ほど重く心にかかるものはない。残りの時間が、はっきりしてきたからであろう。
 
この歳になると、人生を登山に例えると、確実に下山の途中である。山を登る時には、先へ先へと急ぎ、路を踏みしめ一歩一歩と足元のみを見詰める。

一方、山を下りる時には、視野が広がり、眼下の景色を楽しめる。こう考えれば、下山は決して寂しく惨めなことではないし、穏やかで豊穣で、それまでの知識・情報では及びもつかないような智恵にふれる、そう言う時期でもあるはずだ。 

中国明末期の儒者・呂 新吾(りょ こん)の「呻吟語」の中に、

・老いるは嘆くに足らず 嘆くべきはこれ老いて虚しく生きるなり
・死するは悲しむに足らず 悲しむべきはこれ死して聞こゆるなきなり   
という一説がある。

「老化」は、決して気落ちの要因にすべきことではない。老化や病にひるまず、「楽しみ」を生甲斐として突き進んで行くのが、これからの老後の豊穣な生き方ではないだろうか。福高関西関西同窓会の畏友グループ全員は、そう思うようになった。



2016年05月08日

◆大阪にある「自然の滝」

毛馬 一三

大阪のまち中に、自然の「滝」があることを知ってる?と訊いても、多分大方の人は首を傾げるに違いない。

ビルの屹立する大都会大阪のまち中で、そんな湧き水が集まり、「滝」となって流れ落ちる光景など想像出来ないからだろう。

紛れも無く私もその一人だった。が、つい先日知人が話の序でに教えてくれた上、そこに案内までしてくれたことがきっかけで、「大阪市内で唯一の滝」の在りかを知ることが出来た。

その「滝」は、大阪市市内の夕陽が丘近郊にあった。「玉出の滝」といった。聖徳太子が建立した四天王寺前の大阪市営地下鉄「夕陽ヶ丘駅」を出て谷町筋から西に向かうと、「天王寺七坂」や「安居神社」、「一心寺」など、寺社や名所が点在する上町台地の歴史のまち、伶人町の中にある。

その天王寺七坂のひとつ、清水坂を登り、細い道を行くと清水寺に着く。本堂の前を抜けて墓地に挟まれた石段にさしかかると、水音がかすかに耳朶を打った。足早にそちらに向かうと、目指す「玉出の滝」に着いた。

「玉出の滝」は、「那智の滝(和歌山)や不動の滝山(岩手)」のように山の頂上から滝壺めがけて怒涛のように流れ落ちる巨大な滝とはスケールが違う。

境内南側の崖から突き出した三つの石造樋から、水道水と同じ程度の量の水がまとまって流れ落ちる、こじまりとした滝だ。

しかし5メートル下の石畳を打つ三筋の水の音は、大きな響きを伴い、その響きは人の心の奥底の隅々にまで行き渡る、いかにも「行場の滝」という感じだ。

知人によると、この「滝」には、落水で修行する常連の人がいるが、新年には滝に打たれて、延命長寿などを祈願する人が訪れるという。

実は、この「玉出の滝」を見た瞬間、京都の清水寺にある「音羽の滝」と瓜二つだと感じた。私の亡くなった母親のいとこの嫁ぎ先が京都清水寺の皿坂にある清水焼の窯元だったので、そこに遊びに行った時見たのが、この「音羽の滝」だった。

案の定、この清水寺は京都の清水寺を、寛永17(1641)年に模して建立した寺で、かつては京の清水にあるような懸造りの舞台も存在していたらしい。

さて、大阪唯一のこの「玉出の滝」は、近くにある四天王寺の金堂の下の清竜池から湧き出る霊水が、ここまで流れてきて滝となっているという言い伝えもあるところから、大阪の歴史の香りと地形の面白さを感じさせてくれる。

余談ながら、この「玉出の滝」の側に、冒頭に記した「安居天神」がある。真田幸村の憤死の跡として知られている神社である。

大阪夏の陣で決戦を挑んだ西軍の真田幸村は、天王寺口(茶臼山付近)に布陣した。徳川方の主力が天王寺方面に進出してくることを予測してのことである。

真田幸村の狙いは、家康の首を取り豊臣家を再興させる戦略だった。真田隊は一丸となって突撃を開始、東軍の先鋒越前軍一万三千を撃破。ついに家康の本陣営に突入。この真田陣の猛攻で、家康の旗本は大混乱に陥り、ついに家康の馬印までが倒されたという。

馬印が倒されたのは、武田信玄に惨敗した三方ヶ原の戦い以来、2度目だった。家康も本気で腹を切ろうとしらしいが、側近に制止され思い止まる。家康が幾多の合戦で切腹の決断を迫られたのは、後にも先にも生涯でこれが2度目である。

だが、真田隊も猛反撃に遭って劣勢となり、今度は家康が、総攻撃を命じた。幸村の要請にも拘らず大阪城からの加勢は現れず、戦場で傷ついた幸村は、ここ「安居天神」の中の樹木に腰を下ろして手当てをしているところを、越前軍の兵に槍で刺され、落命した。

こんな大都会のまちのまん中で、行場ともいうべき市内で唯一の「玉出の滝」が、真田幸村の戦場の近くであったことなどと結びつけて思い馳せていくと、この小さい滝の周辺は見て回るだけでも楽しい歴史が蘇ってくる。(了)

2016年05月06日

◆春日局は光秀重臣の娘

毛馬 一三



春日局(かすが の つぼね)は、本名斎藤福(さいとう ふく)と云い、江戸幕府の3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」との名は、朝廷から賜った称号である。

ところが、福の父は本能寺の変で織田信長を暗殺した明智光秀の重臣・斎藤利三で、福はその娘だった。
斎藤利三は捕えられ斬首されたが、そんな本能寺の変の主役の娘・福をどうして江戸幕府の大奥に招き入れ、大奥の頭の「春日局」にまで優遇したのだろうか。「謎」の一つだ。

<福は父斎藤利三の所領のあった丹後国の黒井城下館(興禅寺)で生まれる。丹波は明智光秀の所領であり、利三は重臣として丹波国内に、光秀から領地を与えられていた。

光秀の居城を守護するため、福知山城近郊の要衝である黒井城を与えられ、氷上群全域を守護していたものと思われる。福は、黒井城の平常時の住居である下館(現興禅寺)で生まれたとされている。

こうして福は、城主の姫として、幼少期をすごした。

その後、父は光秀に従い、ともに本能寺の変で織田信長を討つが、羽柴秀吉に山崎の戦いで敗戦し、帰城後に坂本城下の近江国堅田で捕らえられて斬首され、他の兄弟も落ち武者となって各地を流浪していたと考えられている。

そうなって福は、母方の実家の稲葉家に引取られ、成人するまで美濃の清水城で過ごしたとみられ、母方の親戚に当たる「三条西公国」に養育された。これによって、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけることができた。>以上 ウイキペディア


このような歴史背景から見て行くと、明智光秀の重臣だった父親の血を惹く実の娘が、江戸幕府に召し上げられて、「春日局」となるとは、首を傾げたくなる訳だ。

大阪堺の歴史家によると、徳川家康は本能寺の変の前に、織田信長を訪ね酒杯を頂きながら戦況を交わしている。明智光秀はこの酒杯のお世話を担務したが、段取りを信長に嫌悪されて過激の叱責を受け、信長側近の地位を剥奪された。

そこで信長を将来の身を絶望恨み、本能寺の変を決意した。ここで重要なことだが、重臣斎藤利三を遣って、徳川家康に信長暗殺を秘かに伝え、本能寺の変に突入したのだそうだ。そして徳川家康には、無事に京都から大阪を経て、堺まで逃げ込む方策を告げたのだという。

密告通り、京都で「変」が起こったことを知った家康は、迎えに駆けつけてきた斎藤利三の強力家来に誘導されて方策通り、堺に向けて脱出。そのあと伊賀の多数の忍者に擁護されながら、本城の三河城に苦労して辿りついたという。

この行動は、恰も本能寺の変とは「無縁」であり、むしろ「被害者」たる姿勢を世間に見せ付ける行動を敢えて披露したように見える。堺にはそれを裏付ける資料もが少々あるというのだ。

つまり、家康にとって、斎藤利三は命の恩人ということになる。秀吉にとってもゆるせない反乱重臣の斎藤利三は、家康にとっては恩返しをしなければならない重要人物であることは間違いない。つまり、福は紛れもない命の恩人の娘だったのだ(歴史家)。


ところが、もう一つの見方もある。「謎」の二つ目である。

つまり、家康がすみやかに京都を脱出出来たのは、家康と光秀の間で、信長を暗殺する方策を事前から立案し合っていたものではないか。その脱出方策の実行を斎藤利三に任せ、家康の身の安全と、信長後任の詰めまでも、申し合わせていたのではないかと云う見方もある。つまり、家康こそ「暗殺首謀者」だとの見方だ。

方策は見事に成功した。だが、斎藤利三は斬首された。となれば上記と同様、家康は、紛れもない命の恩人の娘だった福に、父親の恩を返してやることを考えたに間違いないと考えられる。


さて、<福は、将軍家の乳母へあがるため、夫の正成と離婚する形をとった。慶長9年(1604年)に2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命される。このとき選考にあたり、福の家柄及び公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたといわれている。

家光の将軍就任に伴い、「将軍様御局」として大御台所・江の下で大奥の公務を取り仕切るようになる。寛永3年(1626年)の江の没後からは、家光の側室探しに尽力し、万や、楽、夏などの女性たちを次々と奥入りさせた。

また将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握る。
寛永6年(1629年)には、家光のほうそう治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、そのまま10月には上洛して御所への昇殿を図る。

しかし武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため、血族であり(福は三条西公条の玄孫になる)、育ての親でもある三条西公国の養女になろうとしたが、既に他界していたため、やむをえずその息子・三条西公条と猶妹の縁組をし、公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内する資格を得た。
そして三条西 藤原福子として同年10月10日、後水尾天皇や中宮和子に拝謁、従三位の位階と「春日局」の名号及び天酌御盃をも賜る。

その後、寛永9年(1632年)7月20日の再上洛の際に従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。よって二位局とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比定する位階となる。

寛永11年に正勝に先立たれ、幼少の孫正則を養育、後に兄の斎藤俊宗が後見人を務めた。寛永12年には家光の上意で義理の曾孫の堀田正敏を養子に迎えた。

寛永20年(1643年)9月14日に死去、享年64。辞世の句は「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」。法号は麟祥院殿仁淵了義尼大姉。墓所は東京都文京区の麟祥院、神奈川県小田原市の紹太寺にある〉。以上  ウイデペディア。

このように福の奇跡的な生涯を見て行くと、上記に<武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため>とあって、これを秘匿した工作がはっきりしてくる。「謎」の一つは解けそうだ。

しかも、素晴らしい殿中での政治的画策の実現を図る、福の明晰な頭脳が分かる。

しかし、家康と明智光秀が共謀者同士だったかの、二つ目の「謎」は分からない。
                                        
この「春日局」の生涯には、興味が深まる。              以上
                        2016.5.5

2016年05月04日

◆激腰痛で、歩けない

毛馬 一三



激腰痛等に悩まされ出して3年2か月が経つ。歩行が100b位しか出来ず道路で座り込んで仕舞う。バス・地下鉄には立ったまま乗車はできない。ましてや、地下鉄の階段は手すり棒にすがって上り降りをするが、激痛みに襲われている。

家でも、椅子に座ってパソコンに向かい合うのも、30分とはもたない。どうしてこんな腰痛に絡む激痛が起こったのだろうか。昼間、やむを得ない所要で外出先から帰宅すると、激痛のため、布団に寝転ぶしかない。

腰痛といえば、8年前に脊髄部の「すべり症」に見舞われ、下半身が痺れて倒れる症状が起き、大阪厚生年金病院で手術をした。手術は成功し、「すべり症」からは完全回復したので、以後腰痛には何の懸念も抱いていなかった。

ところが、冒頭記述のように、突然3年2か月前から、激腰痛が始まったのだ。そこで、今毎日、整形外科診療所に通って診察とリハビリを受けている。リハビリを受ければ次第に回復すると思っているが、中々痛みが減らない。

整形外科診療医院での診察で、まずレントゲンを撮影し、「すべり症手術の後遺症」の障害有無を調べてもらったが、それは「無し」との診断だった。

しかし、痛みは、腰だけでなく、時間が経過するにつれて、右足の臀部、右下肢ふくらはぎに広がり、3か月前からは左右の腕筋肉にまで痛みが出だした。

腰痛だけでなく、右足・下肢の筋肉に痛みが広がり出したため、改めて診療所の院長に「病名」を質した。すると「仙腸関節炎」だと伝えられた。ではこの痛みの原因は何であるかを尋ねた処、「分からないです」との回答。

一体「仙腸関節炎」とは何か。日本仙腸関節研究会によると下記の様の記述されている。
<仙腸関節は、骨盤の骨である仙骨と腸骨の間にある関節であり、周囲の靭帯により強固に連結されている。仙腸関節は脊椎の根元に位置し、画像検査ではほとんど判らない程度の3〜5mmのわずかな動きを有している。
仙腸関節障害は決して稀ではない。仙腸関節障害で訴えられる“腰痛”の部位は、仙腸関節を中心とした痛みが一般的だが、臀部、鼠径部、下肢などにも痛みを生じることがある。
仙腸関節の捻じれが解除されないまま続くと慢性腰痛の原因にもなる。長い時間椅子に座れない、仰向けに寝れない、痛いほうを下にして寝れない、という症状が特徴的。
腰臀部、下肢の症状は、腰椎の病気(腰部脊柱管狭窄症・ようぶせきちゅうかんきょうさくしょう や 腰椎椎間板ヘルニア・ようついついかんばん など)による神経症状と似ているので、注意が必要。
また、腰椎と仙腸関節は近くにあり、関連しているので、腰椎の病気に合併することもあり得る。>

上記説明で、筆者の「仙腸関節炎」の症状や痛み箇所が一致し、神経症状と似ているとの指摘があったことからも、院長の病名診断に納得出来た。

しかし肝腎の「仙腸関節炎」の原因が何処から発生しているのかが分からないのでは、不安が増幅する。

どうすればこの激腰痛からいつ脱出できるのだろうか。整形外科の分野で、「腰痛」の原因は、総じて分からないことが多いという説もある。

当診療医院で、1週間に1度、痛み止め注射(トリガーポイント注射、ノイロトロピン注射、ジプカルソー注射)を打ってもらい、1日3回・薬剤ザルトプロフェン錠80mgを飲んでいる。痛みの各局部には湿布も貼る。

また頼らざるを得ないのは、毎日の主軸治療の「リハビリ」だ。柔道整復師による局部マッサージのあと、ホットパック(タオルによる温め)、干渉波(電気)、腰の牽引の物理療法の4リハビリを40分間行っている。しかし局部の痛み緩和には余り効果はない。

「仙腸関節炎」の原因が分からない以上、対象療法しかないのは事実だ。だとすれば、歩けない、立てない、座れないのが強度になっていくばかりなので、日常寝たきりしかない。

(了)

2016年05月03日

◆国産ビール発祥地は大阪

毛馬 一三


いよいよ夏場突入。どこでも夕食の食卓では、缶ビールをコップに移して一気に飲んで、喉を潤すのが習慣になっている。

今やアルコールを飲めない人でも、アルコールの入っていない缶ビールを買い求めてビールの味を愉しむ時代にもなっている。ビールはもはや全盛時代だ。

以前、NHK赴任先の北海道のサッポロビール工場で、出来立てのビールをジョッキ杯で飲んだ経験がある。下戸の私は、ジョッキ杯飲みに躊躇いがあったが、喉越しに胃袋に入っていったその時の美味さは、何とも清々しく旨いものだった。

最近では、ホテルや居酒屋などでビールジョッキで飲むことがあるが、出来立てのサッポロビールの味と同じような感じがしだして、時代と共にビールの質が向上していることが伺える。

そんな中、「国産ビールの発祥の地」が、大阪だというという「碑」を見つけた。全国いたるところにあるといわれているビールの発祥の地が、まさか大阪だとは驚いた。

その「碑」は、大阪市営地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅から 東に300mほどの大阪・北新地のANAクラウンプラザホテル北東側にあった。

その場所にはしばしば行く所だが、ホテル北東側の3本の道路で囲まれた三角形の場所で交通量の多いところなので、一般の人には不覚にもその「碑」には目が届かない。よく見ると「碑」と「説明プレート」が建っている。

「碑」は、高さ1m50pで、隣接している「説明プレート」は1mの四角形。いずれにも大阪市教育委員会の説明が添えられている。

こう書いてある

<わが国におけるビールの醸造は幕末に横浜で外国人がおこなっていたが,日本人の手によるものとしては,澁谷庄三郎がこの地で醸造したのが最初といわれている。

当初は大阪通商会社で,明治四年(1871)に計画された。これは外国から醸造技師を招いた本格的なものだったが,実現には至らなかった。この計画を通商会社の役員のひとりであり,綿問屋や清酒の醸造を営んでいた天満の澁谷庄三郎が引継ぎ,明治五年三月から,このあたりに醸造所を設け,ビールの製造・販売を開始した。

銘柄は「澁谷ビール」といい,犬のマークの付いたラベルであった。年間約三二〜四五キロリットルを製造し,中之島近辺や川口の民留地の外国人らに販売した。―大阪市教育委員会>。

しかし気になることがあった。「日本ビールの発祥地は、横浜」と言われていたことを思い出して気になった。

そこで、調べてみると、

<明治3年(1870年)、米国人のウィリアム・コープランドによって横浜・山手にビール醸造所「スプリング・バレー・ブルワリー」が設立され、日本で初めてビールの醸造・販売が開始された。

外国人の手による日本初だが、実は麒麟麦酒(キリンビール)がこれの流れを汲んでおり、世間的にはこれが「横浜が日本のビール発祥の地」と定着してしまったようだ。>

更には

<小規模なものなら、江戸時代にも日本でビールが造られていたらしい。文化9年(1812年)に、長崎の出島でオランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフによる“自家醸造”で、これが「日本で初めて醸造されたビール」とされている。

となると、大阪の「発祥地」とはどういう意味なのかということになる。

そこで、時系列に追って整理すると、
・1812年(文化9年) 日本で初めてのビールは、長崎でオランダ人によって醸造される。
・1869年(明治2年) 横浜で、外国人による日本最初のビール醸造所が設立される。

・1872年(明治5年) 大阪堂島で、渋谷庄三郎によって、「渋谷ビール」という、日本人によって初めて産業的にビールが醸造・販売されたのだ。

そこではっきりした。「横浜」は、外国人によって「日本で初めて産業的にビールがつくられた地」で、「日本人の手によって、初めて「国産ビールがつくられた地」は「大阪」だったということになる訳だ。

この「大阪の碑」の周辺は、今は不景気で活性化が無くなっている遊楽街「北新地」だが、「碑」に辺りに「国産ビール発祥地」を明らかにする施設や跡地は、どこにも見当たらない。

だが、現代のビール産業がこの場所から発祥したのだという事実は、この「碑」を目撃したことよって、先駆的だった大阪の時代があったこと改めて感じさせられた。これから「ビール発祥地」のように、全国を引導していく大阪になって欲しいものだ。

2016年05月02日

◆蕪村生誕300年記念 シンポジューム開催

毛馬 一三

             

大阪市都島区役所横の「都島区民センター」で、5月1日午後1時から、「蕪村生誕300年記念シンポジューム」を開催致しました。今年 2016年は、大阪の俳人・与謝蕪村の生誕300年の「年」です。

蕪村の生誕300年行事の第1陣は、1月23日の大阪毛馬町の「淀川神社境内」に「高さ1m60pの蕪村銅像」を建立しました。今日はこれに続く第2陣として、「シンポジューム」を開催したもので、まさにこれは、「蕪村生誕300年記念行事」の本格的諸行事となりました。

蕪村生誕300年記念行事をお祝して頂くこのシンポジュームに、「国の文化庁」から「後援」を頂きました。

こうしたことから「俳句愛好家」、「俳句の興味のある方」、「大阪毛馬生誕の与謝蕪村の生き様を知りたい方」、「一般の方・学生・外国の方・大阪市役所も幹部」など250余名が参加されました。

このシンポジュームは、NPO法人近畿フォーラム21主催の主要内部組織の蕪村顕彰俳句大学と蕪村生誕300年記念事業実行委員会が共同して開催したものです。

シンポジュームはまず、開会挨拶を川原俊明蕪村顕彰俳句大学学長(弁護士)が述べた後、                 
◆第T部の「講 演」に移りました。

まず大阪市立大学名誉教授・博士(文学)の村田正博氏が
・「いにしえの毛馬を求めて」を30分に亘って語られた後、

・俳句結社「火星」主宰の山尾玉藻氏が、30分に亘ってお題「俳句に感謝」を語られました。

続いて、
◆第U部の「4人対談」に進みました。
村田 正博教授が「対談」を先行し「蕪村へ、そして蕪村から」のお題を巡って、                                  
  ・大橋 晄(雨月主宰)、 ・山尾 玉藻氏、・柴田 多鶴子氏(鳰の子主宰) が対談を展開しました。

特に4人個人が自分で選んだ好みの蕪村俳句について、作風の背景見方や 新しい解釈など個人の意見を語り合う「対談」は見事でした。

◆第V部は、特にNPO法人と共同して、蕪村俳句宣伝やまちづくり、俳句作品応募活動を進めている3人を演台に上がって貰い、参加者全員に紹介しました。その方々は、・蕪村通り商店街会長 金子清治氏、・毛馬胡瓜の会代表 清原風早子氏、そしてウクライナから俳句を友人と共に応募されているウクライナ国立大学教授で,現在京都大学研究生で来日されているシェフツオバ ガリーナ教授で、一言づつ挨拶を受けました。淀川神社宮司の横路良宮司にも演台に上がって貰う予定でしたが、祭事と重なったため残念ながら欠席され紹介出来ませんでした。

  ◆この後休 憩 。休憩が済んだあと、                               
◆第W部からは 特別講演を始めました。

特別講演は、大阪城南女子短期大学の小林 孔教授が、「蕪村 語りを描く―奥の細道画巻の発想 ―」を1時間にわたって講演されました。

 特に注目されたのは、蕪村が描いた「絵」の横に書き添えられた「長文」そのものは、「絵」とのバランスを生かすために、空間を巧く活用して作られた意味があることが考えられたーと述べられました。参加者に配られたカラーの「絵」を観ながら論説を聴くと、初めての見方に感動させられました。

これでシンポジュームを終焉とし、閉会の挨拶を、司会をしていた筆者(NPO法人近畿フォーラム21理事長)が締めくくりました。      

この中で「淀川神社に蕪村銅像を建立」したのは、氏子として江戸時代の慣習に従い「淀川神社を幾度も参詣したことは不動の事実だ認識し、協賛者のご協力を得て建てたこと。更に文化庁後援期の今年9月11日の「蕪村顕彰全国俳句大会表彰式」は「蕪村祭」と銘打って、諸行事を実行しますと述べ、参加者の大拍手を頂いて終わりました。

 大盛会でした。講師の方々、参加者、共同者の方々に心からお礼申し上げます。
                                     以上                                       
                                         

2016年05月01日

◆歴史現場に立ち合える記者

毛馬 一三



NHK記者として入局したのは、早大卒業した昭和36年。入局直後、NHK「研修所」で、記者としての基礎的な受講を3か月受けた後、長崎・佐世保局に配属した。

佐世保局には、松尾龍彦デスクと現在評論家の日高義樹氏(元ワシントン支局長)が先輩記者として赴任しておられたため、現場記者としての取材の仕方、原稿の書き方など親身になって指導してもらった。

新人記者として、「警察」と「労働団体」、「米軍佐世保基地」回りを担当させられた。

佐世保局での取材は、取材範囲が広域なのと、米海軍の基地を抱えていたため、基地問題や労働諸問題に追われ、「夜討ち・朝駆け」の取材は日常のことだった。

その佐世保記者として、今でも忘れられない強烈なことが2つあっことを思い出す。それを以下、追々。

ひとつは、昭和38年11月22日、アメリカから最初に来た「衛星放送」で、ジョン・F・・ケネディー大統領が暗殺事件を見たことだった。最初の「衛星放送」が、大統領暗殺と重なったことに驚愕した。

米軍海軍基地に出入りが自由だった筆者は、同基地の通訳を通じて、大統領暗殺事件に対する基地内の混乱状況を記事にした。反響が大きかった。

二つ目は、筆者が「米原潜佐世保入港」を「スクープ」したことである。

その「スクープ」を出したのは、佐世保局からではなく、NHK福岡放送局からだった。しかも入港より丸1日早い、昭和39年11月11日早朝6時だったのである。

もともと、「米原潜佐世保米軍海軍基地入港」が最初に公表されたのは、昭和38年3月であった。この日から「何時、入港するのか」が、全国的に焦点となっていた。

この公表以来、佐世保では地元社会党系労働組合が「原潜入港反対闘争本部」を立ち上げ、市民団体も呼応して、大規模な「入港反対闘争」がはじまった。佐世保は、米海軍基地周辺を中心に騒然となり出した。「安保闘争の佐世保版」だった。

とりわけ被爆地長崎と隣り合わせの現場佐世保では、米原潜搭載の「核」持込みの懸念が市民らを強く刺激し、急遽集結した各地の革新団体や全学連が、デモ行進や集会を繰り広げ、騒動は日増しに激化していった。

その反対闘争の労働取材担当記者だった筆者は、入港反対闘争本部だった当時の佐世保地区労(佐世保地区労働組合会議)本部に、夜討ち朝駆けを行い、反対運動の動静を追い続けた。

当時、総評系の佐世保労働組合の中核組織「全駐労」の委員長だった石橋政嗣氏が、衆院議員に転身して社会党書記長に就任していたことから、この反対運動は当時野党第一党の社会党と緊密に連携しながら、全国規模の反対運動に発展していった。

筆者は、帰郷する石橋書記長に纏わり、「反対運動」の中央の方針をしつこく取材して回ったことから、気難しい石橋書記長から特に目を掛けて貰う間柄となった。

同時に、地元の社会党系「佐世保地区労闘争本部」の速見魁議長、小島亨事務局長、西村暢文本部員らからも熱心な取材を気に入られ、極めて親密な関係を築くことが出来た。

この取材は、歴史の現場を直に目撃できるという、正に「記者冥利」に尽きる無上の喜びであった。しかも現場で親交を深めた取材対象の人脈とも、立場を超えた人間同士の触れ合いが出来ることも嬉しかった。そうした教訓は、駆け出し記者の記者魂を育ててくれた。

そんな折の昭和39年11月10日の夜10時過ぎ、佐世保放送局で当直の勤務をしていた筆者に、佐世保地区労の小島事務局長から電話が入った。

「あなたの家に電話をしたら、当直と聞いたので電話をしました。実はね、石橋書記長から、あなただけに伝えなさいと今、指示があったので連絡します」。

小島事務局長はそう言った上で、「米原潜シードラゴンが12日朝、佐世保に入港する」という、極秘情報を伝えてきた。筆者は、足が諤諤と振るえ、感謝の意を短く伝えるのがやっとだった。

すぐさま、福岡放送局報道課長に架電して、その情報を伝えると共に、これから出稿する旨を伝えた。報道課長は「直ちに東京政治部の首相官邸キャップに連絡し、政府から確認を取って貰う。君は、米原潜12日入港の記事を急いで書き、送りなさい」という指示が出た。

11日の2時ごろ、原稿を送ろうとしているところに、報道課長から電話が来た。「官邸キャップが政府筋に確認したが、どうも煮え切らない返事だったようだ。東京政治部では、引き続き政府関係者に当たるが、「スクープ」として当面は福岡発から流しなさいと言っている。原稿をすぐ送ってくれないか」ということだった。

そこで、「米原潜あす佐世保入港、現地では大規模集会やデモ」という内容を原稿にすることにして、「闘争本部」幹部に再度裏付け取材をして上、急ぎ福岡局報道課に送稿した。「闘争本部」で特に友好の深い西村暢文氏に「他紙は気付いていませんよね」と念を押し、確認を取ることを忘れなかった。他紙は、知らなかった。

これが他社より1日早くNHK福岡局から「原潜あす佐世保入港」のスクープが全国に発せられたいきさつである。NHK東京発の同関連ニュースが放送されたのは、「米原潜」が入港する12日午前6時のニュースからであった。従って「他紙」「他放送局」を抜いた「スクープ」となった。

米原潜が12日、静かに、悠然とした姿で佐世保港の中央を航行し、入港を済ませる姿を筆者は、特別に許可を得た米軍基地内から目撃した。

先述の西村暢文氏から、「あなたのスクープで、闘争本部が一層盛り上がり、原潜反対闘争のとっかかりになった。感謝」という予想外の電話が掛かって来た。

歴史の現場にいち早く立ち合える記者稼業とは、この上ない人生の幸せである。人脈が豊富になることも大いなる喜びだ。

いろいろ思い出はあるが、記者として佐世保局でのこのことは忘れることが出来ない(了 修正再掲)

2016年04月30日

◆福岡八女茶 今年も届いた

毛馬 一三



筆者の家では、食事後や折を見て八女茶を毎日欠かさず、10杯以上常飲している。祖母の実家が福岡県八女郡の八女茶(元は星野茶)の茶園だったのが縁で、子供の頃から八女茶の煎茶や玉露を嗜んできた。

その嗜みはいま尚継続しており、5月の一番茶の時期になると、八女茶生産元の祖母の実家から、注文した1年分の八女茶の煎茶と玉露が送られてくる。

今年早くも、「特選煎茶」が20本届いた。1年分だ。

早速、今年の「特選新煎茶」の味わいを試みた。

70度位に冷ましたお湯をゆっくりと茶葉を入れた急須に移し、3〜4回ゆるりと左右に回したあと湯飲みに注いで飲み始めると、筆舌に尽くせないまろやかな風味と甘み、それに他所の茶より濃い味が口内に広がり、至福の瞬間がやってくる。

しかも茶に含まれるカテキンの成分が、抗ガン作用と抗微生物作用に効果があることが広まってきたことから、健康維持のためこの八女茶嗜みの習慣を続けている。

八女茶以外に全国には、下記のような有名な茶の生産地がある。

<愛知県(三河茶)、茨城県、(奥久慈茶、猿島茶)、鹿児島県(かごしま茶)、京都府(宇治茶)、岐阜県(美濃茶)、熊本県(肥後茶)、高知県(土佐茶)、埼玉県(狭山茶)佐賀県(嬉野茶)、滋賀県(近江茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)、三重県(伊勢茶)、宮崎県(日向茶)、がある>(日本茶博物館www.kaburagien.co.jp/museum/museum/index.php - 14k -)

京都府(宇治茶)、佐賀県(嬉野茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)は過去に飲んだことがあるが、それなりに芳醇で美味な緑茶だったという印象と思い出がある。

ところで下記のような記述の本が出ていた。これには目を惹かされた。

<緑茶を1日に7杯分ほど飲むことで、糖尿病になりかかっている人たちの血糖値が改善することが、静岡県立大などの研究でわかった。健康な人で緑茶をよく飲んでいると糖尿病になりにくいという報告はあるが、高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告は珍しいという。

血糖値が高めで、糖尿病と診断される手前の「境界型」などに該当する会社員ら60人を対象に緑茶に、含まれる渋み成分のカテキンの摂取量を一定にするため、いったん入れたお茶を乾燥させるなどして、実験用の粉末を作製。

これを毎日、湯に溶かして飲むグループと、飲まないグループに無作為に分け、2カ月後の「血糖値」を比べた。

平均的な血糖値の変化を、「Hb(ヘモグロビン)A1c」という指標でみると、緑茶粉末を飲んだ人たちは当初の6.2%が、2カ月後に5.9%に下がった。

飲まなかった人たちは変わらなかった。飲まなかった人たちに改めて飲んでもらうと、同じように2カ月間で6.1%から5.9%に下がった。

2グループで体格や摂取エネルギーなどに差はなく、緑茶からのカテキン摂取量が血糖値に影響したらしい。1日分の緑茶粉末は一般的な濃さの緑茶で湯飲み(約100ミリリットル)約5杯分のカテキンを含み、緑茶粉末を飲んだ人では普通に飲んだ緑茶と合わせ1日に約7杯分のカテキンをとっていた。

研究の中心で、今春に静岡県立大から移った吹野洋子常磐大教授(公衆栄養学)は「運動などの生活習慣改善とともに、食事の中で積極的に緑茶を取り入れてほしい」といっている>。(以上)

前記の様に、カテキンが抗ガン作用に効果が在ったり、良質な緑茶から抽出されたポリフェノールはビタミンEの10倍、ビタミンCの80倍というすぐれた抗酸化力を持っているといわれているが、緑茶僅か7杯の飲料で、高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告には驚かされた。

筆者の周りで糖尿病の一歩手前で悩んでいる先輩知人が、最近多い。緑茶7杯で高血糖の人たちに効き目があるというなら、早速緑茶の常飲を勧めよう。お茶の嗜みは、心の安らぎも導いてくれるからだ。   (了)

2016年04月28日

◆大阪「蕪村公園」に来て欲しい

毛馬 一三

                  
   
「蕪村公園」は、大阪市毛馬町の毛馬桜ノ宮公園の北端、毛馬閘門近くの大川沿いに大阪市が平成20年に造営した。

これで、都島南端、川崎橋あたりまでの毛馬桜ノ宮公園迄との道筋が完成することになり、春に桜の咲くころには大川河畔が新名所として市民が楽しむことが出来るようになった。

与謝蕪村は、松尾芭蕉、小林一茶と並んで江戸俳諧を代表する俳人だが、その蕪村の生誕地が何処かということになると、あまり知らない人が多い。

蕪村は、享保元年(1716)に大阪毛馬村の裕福な庄屋主人と奉公人の母との間に生まれた。家督を引き継げない子供にすぎなかった。その上不幸にも幼くして両親が亡くしため、庄屋家人から総いじめされたからか、この辛苦に耐えられず、蕪村は17歳から18歳の頃毛馬村を出奔して、江戸に出奔を決意。家出して京都に向かった。

京都で人生を定めることになると人物俳人早野巴人と出会っている。早野巴人を師匠にして俳句を学びながら一緒に暮らしていたが、その後、二人は江戸に旅たった。

江戸では、早野巴人の真弟子として俳諧の世界に没入したが、頼りにしていた早野巴人師が急没して仕舞った。蕪村が26歳の時だった。師匠の急逝を悲しみつつも、新しい「俳句の世界」へ身を投じなければと決断。かねてから愛着のあった芭蕉俳句を追求するため、芭蕉が訪ねて廻った奧羽地方を放浪した。

宝暦元年(1751)になって、京に移り俳諧に挑む一方、南宋画家として励み、池大雅と並ぶ名声を得るようになった。その上、蕪村は、早野巴人を継いで「夜半亭」(初代巴人)主宰となった。

蕪村は京都で68歳の生涯を閉じたが、終生故郷の毛馬村には一度も帰っていない。しかし蕪村にとっては、生まれ故郷毛馬村の「慕情」は消えることは無く、この想いを脳裡に巡らせながら、書き記した「春風馬堤曲」がある。奉公娘の帰省の物語になぞって書き綴り、俳句を添えて「望郷」の念を一気に発散させている。

いまだに大阪には、蕪村に関する「伝承文献」は皆無だ。しかも明治19年に政府による淀川の河川改修工事によって毛馬村が総て埋め尽くされたため、生誕地の痕跡も一切残されていない。これが長い間、大阪俳人の蕪村を顕彰することが出来なかった主因なのだろう。

しかし、明治になり正岡子規が「蕪村俳句」を顕彰するようになったが、それでも地元大阪では依然として関心が薄く、蕪村顕彰には誰も手を付けなかった。

そこで、18年ほど前地元の有力市議会議員と私は共同して「蕪村顕彰公園」建設を大阪市政に働きかけた。大阪俳人蕪村を大々的な顕彰しようという運動は、嬉しいことに活発になりだした。

この運動も契機となり、大阪市は平成18年度から2年計画で、前述の「記念碑」と「春風橋」の中間にある市有地1.1hrの土地の間に、約2億5千万円をかけて「蕪村公園」を整備することを決定。博物館か俳句苦吟館作りは、見送った。

さて、同「蕪村公園」には、公園の中央に大広場、公園全体に「蕪村俳句石碑」の建立、「自画絵、春風馬堤曲」などの「蕪村説明写真集」の掲示、公園全体には樹木植栽をする計画が立てられた。大阪輩出の与謝蕪村名を高揚し、文化集客地にしたいと大阪市は考えたのだ。

同公園は、重要文化財の「毛馬閘門」の側にあり、有名な「毛馬桜の宮公園」の北端に位置して、市の中心地中之島に通じる大川沿いの「桜回廊」の出発点になっている。「カヌー」や「遊覧船」の折り返し地点でもある。

いまや、同公園の建立で、大川沿いの見事な桜回廊と繋がった一連の観光名所として、集客効果が期待されている。

どうか、蕪村が生誕して300年を迎えた今年、是非大阪市毛馬村の「蕪村公園」を是非お訪ね頂きたい。

この生誕から300年の年の今年1月23日には、蕪村が父母や独自で「幸せ」を祈る参詣を繰り返した毛馬町の「淀川神社」(蕪村公園の南側)に、「蕪村銅像を建立」して除幕式を行った。今、仏像見物者が大勢神社を訪れている。

皆様のお力をお借りして、蕪村俳句の後世への継承と、俳句文化を世界へ広める活動に、今後取り組んでいきたいと願っている。

5月1日午後1時からは、都島区民センターで、文化庁の後援を頂き「蕪村生誕300年記念シンポジューム」を行う。

どうか、シンポジュームに参加して頂きたいし、繰り返しになるが、目玉の「蕪村公園」と「蕪村銅像」を是非観にきて頂きたいとお願いしたい。
 (了)

2016年04月27日

◆紫式部に絡む「和紙」のこと

毛馬 一三



書き出しは、与謝蕪村のことからだ。蕪村(幼名:寅)は、享保元年(1716)、丁度300年前、大阪阪毛馬村で生まれた。幼少の頃は「謎」に包まれているが、母親の勧めで「和紙に絵」を描いて楽しみ、「絵」の教師にも学びに行き、「絵書き」に没頭している。

寅は、庄屋の子供だったから、高価な「和紙」を父から貰って、絵描きに自在に使ったらしい。その幼少の頃の絵心と嗜みが、苦難を乗り越えて江戸に下り、俳人巴人と遭遇してから本格的な俳人となったのも、この幼少の頃「和紙」に挑んだ「絵心」とが結び付いている。

また池大雅と並ぶ「絵の大家」になったが、江戸で「宗画」を学び、京都・浪速で「俳人・絵画人」で名を広めている。

このことは、今年の「蕪村生誕300年祭」時に発行する記念誌に、この幼少の頃の「蕪村と和紙の絵」のことを「短編小説」にして掲載したいと思っている。

さて、本題―。

高貴な「和紙」の事を知った時、ジャンルは違うが、紫式部が思い切り使って「和紙」を使って「世界最古の長編小説・源氏物語」を書いたことを思い出した。

そのキッカケは、福井県越前市の「和紙の里」を訪ねてからである。

越前市新在家町にある「越前和紙の里・紙の文化会館」と隣接する「卯立の工芸館」、「パピルス館」を回り、越前和紙の歴史を物語る種々の文献や和紙漉き道具の展示、越前和紙歴史を現す模型や実物パネルなどを見て廻った。

中でも「パピルス館」での「紙漉き」を行い、汗を掻きかき約20分掛けて自作の和紙を仕上げたのは、今でもその時の感動が飛び出してくる。

流し漉きといって、漉舟(水槽)に、水・紙料(原料)・ネリ(トロロアオイ)を入れてよくかき回したあと、漉簀ですくい上げ、両手で上下左右に巧みに動かしていくと、B5くらいの「和紙」が出来上がる。まさにマジックの世界だ。

ところでこの越前和紙だが、今から約1500年前、越前の岡太川の上流に美しい姫が現れ、村人に紙の漉き方を伝授したという伝説がある。

山間で田畑に乏しかった集落の村人にとり、紙漉きを伝授されたことで、村の営みは豊かになり、以後村人はこの姫を「川上御前」と崇め、岡太神社(大瀧神社)の祭神として祀っている。

<その後大化の改新で、徴税のため全国の戸籍簿が作られることとなり、戸籍や税を記入するために必要となったのが「和紙」である。そのために、越前では大量の紙が漉かれ出したという。

加えて仏教の伝来で写経用として和紙の需要は急増し、紙漉きは越前の地に根ざした産業として大きな発展を遂げてきている>。

さて、長編小説「源氏物語」の作者紫式部は、執筆に取り掛かる6年前の24歳の時(996年)、「和紙」の里・越前武生に居住することになり、山ほどの「和紙」に囲まれて、存分に文筆活動に励んだ。

当時、都では「和紙」への大量の需要があったらしく、宮廷人も物書きも喉から手が出る程の「和紙」だったが、手には入らなかった。

ではどうして都にいた紫式部が、遥か離れた「和紙」の里越前の武生に移住してきたのか。それはご当地の国司となった父の藤原為時の“転勤”に関わりがある。文才だけでなく、商才に長けた父為時の実像が浮かび上がる。

<為時は、中級の貴族で、国司の中で実際に任地へ赴く“転勤族”だったそうで、996年一旦淡路の国(下国)の国司に任命されるが、当時の権力者・藤原道長に賄賂の手を使って、転勤先を越前の国(上国)の国守に変更してもらっている。はっきり言えば為時は、淡路の国(下国)には赴任したくなかったのだ。何故なのか。

当時、中国や高麗からの貿易船が日本にやってくる場合、海が荒れた時や海流の関係で、同船団が「越前や若狭」の国を母港とすることが多く、このため海外の貴重な特産品が国司のもとに届けられ、実入りは最高のものだったという>。

藤原為時一族は、中級の貴族ながら文才をもって宮中に名をはせ、娘紫式部自身も為時の薫陶よろしく、幼少の頃から当時の女性より優れた才能で漢文を読みこなす程の才女だったといわれる。

これも商才に長けたばかりでなく、父親の愛情として、物書きの娘に書き損じに幾らでも対処できる「和紙」提供の環境を与えたものといわれる。

<この為時の思いは、式部が後に書き始める「源氏物語」の中に、越前武生での生き様が生かされている。恐らく有り余る「和紙」を使い、後の長編小説「源氏物語」の大筋の筋書きをここで書き綴っていたのではないだろうか。平安時代の歌集で、紫式部の和歌128 首を集めた「紫式部集」の中に、武生の地で詠んだ「雪の歌」が4 首ある。

武生の地での経験が、紫式部に将来の行き方に影響を与えたことはまちがいない。と同時に式部は、国司の父親のお陰で結婚資金をたっぷり貯め込むことも成し遂げて、約2年の滞在の後京都に戻り27歳になった998年に藤原宣孝と結婚している>。

越前武生の生活は、紫式部にとり「和紙」との出会いを果たして、後の世界最古の長編小説への道を拓くことに繋げた事は、紛れもない事実であろう。

<紫式部の書いた「源氏物語」の原本は現存していない。作者の手元にあった草稿本が、藤原道長の手によって勝手に持ち出され外部に流出するなど、「源氏物語」の本文は当初から非常に複雑な伝幡経路を辿っていった。

確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は、現在のところ一つも見つかっておらず、この時期の写本を元に作成されたと見られる写本も、非常に数が限られているという>。
 
この歴史の事実と筆者の推論を抱きながら、「紫式部公園」に回り、千年前の姿をそのまま見せる高い式部像に対面してきた。

昔の話だが、北京五輪の開会式の時、中国の古代4大発明の一つとして「紙」を絵画の絵巻をCGで描き、国威を高らかに示していることも、これで知った。

この紙が7〜800年後に日本に渡り、日本の「和紙」となった。その後、「世界最古の長編小説を書いた女性が日本にいた」ということは、中国は勿論諸外国は知らない。

参考:ウィキペディア、: 青表紙証本「夕顔」 宮内庁書陵部蔵 
(加筆修正・再掲)