2016年04月26日

◆今年も「黄砂アレルギー」

毛馬 一三


<近畿 ことし初の黄砂を観測  (04月24日 12時27分 NHK関西ニュース)によると、近畿地方の広い範囲でことし初めて黄砂が観測されたニュースが入った。

気象台は、洗濯物への付着のほか、車の運転などにも注意するよう呼びかけている。
気象台によると、大阪市、京都市、神戸市、奈良市、滋賀県彦根市で、24日朝、ことし初めて黄砂が観測されたという。
 
数日前に中国で低気圧が発達して風が強まった影響とみられ、各地で見通しが悪い状態になっている。
24日午前9時現在の視界は、大阪市、神戸市、奈良市、彦根市で10キロ、京都市で8キロとなっている。

近畿地方では、黄砂の影響は続くと予想され、気象台は、洗濯物への付着のほか、車の運転などにも注意するよう呼びかけている。>以上


ここから本題、花粉症歴の経験が全く無い筆者にとって、軽い風邪症状の一種かなと思って、今まで余り気にも止めていなかった。

ところがとんでもない。次第に喉の違和感が痛みを伴うようになり、咳も痰も出るようになった。

そこで、NHKニュースを見て、慌てて近くの内科診療所に飛び込んだ。内科医は喉の症状を見た途端、「炎症がひどいですね」という。「原因は?」と訊いたら、「飛来してくる黄砂の黴によるものと思われます。花粉症ではありません」と教えてくれた。

同医師によると、黄砂によるいろんな健康被害で訪れる患者が、急増しているという。同医院から、

・抗生物質―フロモックス錠100mg(毎食後1錠・3日間分)
・咳を鎮める薬―メジコン錠15mg(毎食後2錠・7日分)
・痰や膿を薄めて、痰や鼻汁を出しやすくする薬―ムコダイン錠500mg(毎食後1錠・ 7日分)

・胃薬―セルベックスカプセル50mg(毎食後1カプセル・7日分)薬を貰った。

だが、マスクを付けて外出を余儀なくさせられたが、喉の炎症と咳、痰共に治まる気配が無い。再診の結果、まだ喉の炎症は完治してないと診断され、改めて下記の薬を貰った。

・咳を鎮める薬―メジコン錠15mg(毎食後2錠・7日分)
・痰や膿を薄めて、出しやすくする薬―クリアナール錠200mg(毎食後1錠・7日間分)
・炎症を抑えて腫れや痛みを和らげる薬―ダーゼン5mg錠(毎食後1錠・7日分)
・SPトローチ0.2mg(28錠・1日4回)
・アズノールうがい液4%(5ml・1日4回)

2度目の薬を飲んだり、うがいを励行したところ、数日後には喉の痛みや違和感がなくなり、咳と痰も出なくなるという。

喉にこのような強度な症状が出たのは初めてのことだ。しかも気にはなっていた飛来の「黄砂」によるものだ。

今強烈になっている中国の大気汚染と原因が重なっており、中国から飛来する「黄砂と大気汚染」が、日本に被害をなすりつけているのだ。気象庁も「中国で黄砂が急激に発生してる」と指摘している。日本が被害者になるのか。無性に腹が立つ。

話は先後するが、<黄砂(こうさ)とは、中国を中心とした東アジア内陸部の砂漠または乾燥地域の砂塵が、強風を伴う砂嵐などによって上空に巻き上げられ、春から東アジアなどの広範囲に飛来し、地上に降り注ぐ気象現象。あるいは、この現象を起こす砂自体のこと>である。

細かい砂の粒子や、粒子に付着した物質、黄砂とともに飛来する化学物質などにより、さまざまな健康被害が生じる。

即ち、咳、痰、喘息、鼻水、痒みといった呼吸器官への被害や、目や耳への被害が目立つ。黄砂が多い日には、花粉症、喘息、アトピーなどのアレルギー疾患の悪化が見られる。>という。 
参考―フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

花粉症で悩まされるだけでなく、黄砂アレルギーで健康被害を煩わされるのでは、堪ったものではない。

ところが肝腎の黄砂による呼吸器官への被害が、増えていることにはあまり知られていないようだ。

黄砂の飛来が顕著な九州や関西では、既にこの被害が出て問題化しているが、全国にも広がるだろう。

黄砂の飛来が予測される時は、TVの「天気予報」で早めに知らせてほしい。

しかも喉などに異常を感じたら、医療機関で診察を早めに受けられることをお勧めしたい。(了)     


2016年04月21日

◆大阪・八軒家浜船着場から熊野街道へ

毛馬 一三



大阪「淀川」から毛馬閘門を通り、1級河川「大川」(旧淀川)を少し下って、大阪三大橋の「天神橋」を抜けると、「八軒家浜船着場」に辿り着く。

この「八軒家浜」は、古代から京都と結ぶ水上交通の拠点だった。江戸時代ではこの浜の船着場周辺に、八軒の船宿があったことから「八軒家浜」と呼ばれたらしい。その「記念碑」が、阪神電鉄天神橋駅前の老舗・昆布屋門前に立っている。

この「碑」の先の坂を上ると、江戸時代の西洋医学者・緒方洪庵の塾屋敷跡がある。ここに集まる弟子たちも、この「八軒家浜船着場」を常時利用した。坂本竜馬も、西郷隆盛も、ここの船着き場から近郊にある「薩摩屋敷」に通っている。

この「八軒家浜船着場」は、京都から屋形船でやって来た人々が、この船着場から「熊野詣」に赴く道筋として利用していた。今になって、ここ「八軒家浜船着場」が、世界遺産となった「熊野街道」の起点となっているのだが、意外にもそれが知られていない。

さて、その「熊野街道」に触れておこう。

<この「八軒家浜」を起点に、四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)、堺、和歌山などを通り、紀州田辺を経て、中辺路または大辺路によって熊野三山へと向かう道筋。

この熊野街道を経て参台する「熊野詣」は、平安時代中期ごろ、熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集めるようになったのに伴い、法皇・上皇などの皇族、女院らや貴族の参詣が、相次ぐようになったのが始まりだった。

室町時代以降は、武士や庶民の参詣が盛んになった。その様子は、蟻の行列に例えて、「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいだったそうだ。江戸時代になると伊勢詣とも重なり、庶民も数多く詣でたため、賑わいは浪速で最高だったといわれる。ただ明治以降は、鉄道や道路の整備により参拝者は少なくなる>。
参考―フリー百科事典『ウィキペディア

このように霊場熊野三山まで橋渡しする歴史的街道の起点の「八軒家浜船着場」は、これを賑わいのある水都大阪再生拠点にしようと、民官協働で、京阪電車天満橋駅の北側の大川沿いに幅約10メートル、長さ約50メートルの3層からなる鋼鉄製の巨大な「船着場」が建設された。

同船着場では、ゆったりとしたスペースがある水上バス(アクアライナー)や大型遊覧船が、ここから発進し水都大阪の川辺に広がる眺望とクルージングを楽しむことができる。

遊覧船に乗って身を乗り出して、目上に広がる大阪のまちの姿を眺めると、立体的な水都の形が顕れ、両岸のまちなみが覆い被さるような3次元都市を実感させてくれる。実にマジックな風景の出現であり、感動そのものだ。これは体験してみないと絶対に分からない。

大阪大手企業本社の東京一局集中や、大手企業工場の他府県や外国への移籍が目立つなど、大阪の経済基盤の沈下に歯止めが掛からない中で、この「八軒家浜」を観光名所として再起させることが出来れば、集客効果は抜群だろう。

しかも「緒方洪庵の塾屋敷跡」、皇族をはじめ秀吉も通った「八軒家浜」から「熊野詣」への新観光ルートを創りだし、歴史の歩きの楽しみを味合わせる事業が始まれば、大阪への集客に繋がることは間違いない。

「八軒家浜」祭りだけで終わって仕舞う行事だけではあまりにも単純な気がして、実に勿体ない。しかも、「熊野街道」の起点となっている「八軒家浜船着場」の歴史的価値をなえがしろにしてきた大阪市文化行政の手抜かりは情けない。

今からでも遅くない。「八軒家浜船着場」から世界遺産となった「熊野詣で」を複活させるイベントや実際の「歩き会」を実施すべきだ

そう思うだけでも「八軒家浜船着場」碑が、老舗「昆布屋)門前にポッンと立っているだけで、寂しく見えて仕方がない。(了)

2016年04月16日

◆芭蕉随行の「曾良」は忍者?

毛馬 一三



拙稿「芭蕉終焉(しゅうえん)の地って?」の第2弾。

もともと拙稿とは、松尾芭蕉の「終焉の地」が大阪・南御堂向かいにあった花屋仁左衛門の離れ座敷であったことや、辞世の句といわれる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が、この座敷の病の床で亡くなる4日前に詠んだものであることを、筆者は不覚にも知らなかったが、先般偶然このことを知る機会を得たことから、思い立って綴った。

芭蕉は、大阪で死ぬなどとは夢想だにせず、早く床払いをして長崎に向けて旅を続けたいとの気持であったと、様々な文献に記されている。

だが、思いもよらず病(食中毒といわれる)は悪化、意に反して終焉を迎えるのだが、見守る弟子たちの顔を眺めながら「死」が迫るのを悟り、幸せな生涯だったと瞑目しながら、逍遥と死の旅についたようだ。

この芭蕉に関する玉稿を日本一メルマガ「頂門の一針」主宰で先輩の渡部亮次郎氏から頂いた。

<深川・芭蕉記念館 は拙宅の近くです。徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。江戸の発展とともに新たな市街地、農地が必要となり、土地の開発が始まった。大阪からきていた深川八郎右衛門が新田を開発、慶長元年(1573年)深川村と称したのが始まり。

江戸の下町と言えばなんと言っても深川。出発地は都営新宿線森下駅。駅を出て新大橋通りを浜町方面に5分ほど歩いていくと隅田川にかかる橋が見えてくる。これがこの通りの名前になっている新大橋。橋の手前の十字路を左に曲がりしばらく歩いていくと最初の目的地「芭蕉記念館」がある。

芭蕉は延宝8年(1680年)江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ。元禄2年(1689年)3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる奥の細道。岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅。

「芭蕉記念館」には 当時、芭蕉が着ていた袈裟を初め、芭蕉庵を模したほこら、句碑 などがある。記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり。川沿いの道を左に少し歩いていくと史跡庭園があり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。 先日来日した李トウキ前台湾総統もご覧になって行った>。
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この玉稿を読ませて貰った時、芭蕉に纏わる新たな衝撃が脳裏を駆け巡った。それは、<徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。(そんな未開発の深川だったが、その深川から)元禄2年3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。(略)岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅>というくだりである。

江戸から東北、北陸地方を150日間で踏破した2400キロ(600里)の道程を踏破したと言うが、とんでもない距離だ。単純に計算すると1日16キロ歩いたことになるが。だが当時の旅はそんな生易しいものではない。

江戸時代の元禄期といっても、 江戸から東北、北陸地方には、のんびり歩き通せる平坦な道が整っていた筈はない。ほとんどが山道・峠道であり、山を越えるしか方法はなかった。

筆者も数年前福井の江戸時代以前からの「鯖街道」を歩いたことある。山道の勾配は天地の差ほどの高低を繰り返し上り下りし、僻々とした記憶がある。山道もない場所は絶壁を横切るしかない。ましてや橋はほとんどなかった。大雨で河が氾濫、足止めを食うことも日常茶飯事だったろう。

「奥の細道」によると、2人は何と1日に48キロ(12里)を 歩いた日があったという。幾ら昔の人が健脚だったとはいえ、老齢の域の芭蕉(46)と同行者曾良(41)が、そんな長距離を1日で踏破できたと考える方が無理な話だ。

だからここから「第2弾」を書きたくなった。つまり芭蕉は、こうした異常な歩き方の速さや、伊賀の上野の生まれであることから「忍者」ではなかったかと論じられてきた。それはまた別の機会に譲るとして、ここで気になるのは、むしろ芭蕉の弟子として名を売り、旅の同伴者であった「曾良」の方だ。

「曾良」のことは、純朴な芭蕉のお供だという印象が強くて、「忍者説」はあまり知られていない。

ところが調べてみると、こんな具合だ。
<曾良は、幕府とのつながりが緊密で、当時日光工事普請を巡ってあった伊達藩と日光奉行の対立を探るための調査を、幕府から曾良に命じられたとされている。その目的と行動を隠すため、芭蕉の歌枕の旅を巧みに利用したというのが、一部専門家の間で語られている。

その曾良は、さらに社寺や港の荷役の動きを調べる任務も担っていたらしく、北前舟が立ち寄る日本海沿岸の酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀の各港の貿易状況を丹念に探索して回っている痕跡がある。

その任務行動が、なんと芭蕉の旅の日程と、見事に重なりことから、この説には真実性が浮かび上がってくる。きっと幕府からの支度金が潤沢だったため、俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の興行収入だけでは食えなかった芭蕉の懐具合に、この「曾良」の任務による稼ぎが手助けをしたものという説は、納得できる。>。

こう見てくると、「曾良」という旅の同伴者は、巧に芭蕉を取り入って芭蕉の弟子を装い、幕府隠密の任務を隠密裡に遂行していた“忍者”だったという説は真実味を帯びてくる。果たして芭蕉の死後、「曾良」は芭蕉の追慕行脚は行わず、すぐに幕府巡見使九州班員に正式に収まっている。

芭蕉の終焉の時、曾良の姿はそこにいなかった。公務を理由に恩師の葬儀にも参列していない。やはり芭蕉に心酔して傍に連れ添った真の弟子ではなかったのだろう。     参考・ウィキべディア  (再掲)
           

2016年04月13日

◆淀川河底に埋められた蕪村生家

毛馬 一三 
                    

江戸時代の俳人与謝蕪村の生家は、淀川の河底に埋没しているのは間違いないのですが、一体河底の何処に埋没させられて仕舞ったのでしょうか。詳しい場所は未だ不明です。

確かに、大阪毛馬の淀川堤防に「蕪村生誕地」と書いた「記念碑」が建立されてはいます。しかし「蕪村生誕し幼少を過ごした生家」は、この場所ではないことははっきりしています。

実は「蕪村の生家」が、冒頭に記したように、淀川堤防から眼下に見える「淀川の川底」に在るのは事実です。なぜ淀川の川底に埋没されたのでしょうか。これは追々。

徳川時代の淀川は、よく手入れが行われていましたが、明治維新後は中々施されていなかったのです。ところが、明治18年に淀川上流の枚方で大水害が起き、下流の大阪で大被害を受けたことをきっかけに、明治政府がやっと淀川の本格的改修に乗り出しました。

その際明治政府は、単なる災害防止ためだけではなく、大阪湾から大型蒸気船を京都伏見まで通わるせる航行で「経済効果」などの多目的工事に専念することを決めました。

そのために淀川の河川周辺の陸地を大幅に埋め立て、それまでの小さな淀川を 大きな河川にする大改修を立案したのです。

これに伴い、旧淀川沿いにあった「蕪村生家」地域は埋め立ての対象となり、すべて「河川改修工事」によって川底に埋められて仕舞いました。

さて、明治政府は関西の大型河川・淀川を大改修するため、オランダから招いた河川設計者・デ・レーケとフランス留学から帰国していた設計士沖野忠雄とを引き合わせ、「淀川大改修」の設計を依頼しました。

明治政府の依頼を受けた2人は、「大改修工事」の設計を創り上げ、明治29年から工事を開始しました。

とにかくこの大型改修設計は、大阪湾に京都の宇治川や桂川、奈良からの木津川を中津川に合流させ、一気に淀川として大阪湾に繫ぐ、巨大な設計でした。

そうすれば貨物蒸気船を大阪湾と京都を結んで航行させることが出来、逆に京都・枚方などで大水害が起きた場合でも大量の水量をさらりと、大阪湾に流すことが出来るのです。二本立ての「効果狙いの設計」でした。

勿論、上流の災害で流出してくる「土砂」が、大阪に被害を与えないため「毛馬閘門」設計も創りました。

これが淀川から大阪市内に分岐させる「毛馬閘門」の設計主旨だったのです。この「毛馬閘門」からは、淀川本流から分岐して大阪市内へ流れる河川を設計しました。その河川の名を「大川」と名付けたのです。

この「大川への分岐設計」で、上流の水害に伴う土砂流失の回避は実現し、大阪の上流からの防災は、今日まで護られているのです。

このように2人による設計書は、世界の河川工事技術水準に準じたもので、明治政府が施工した「河川大改修工事」としては全国的に見ても画期的なものでした。

同工事は、明治29年から明治43年まで行われ、設計通り完成しました。

ここから本題。この「河川大改修工事」によって、与謝蕪村が生まれ、幼少を過ごした大阪市都島区毛馬町(摂津国東成郡毛馬村)は、跡形もなく淀川に埋没させられ、深い川底に沈んで仕舞いました。

明治政府の強制でしたから、当時の住民は仕方なくそれに従ったようですが、川幅も660b(従来の30数倍)となり、浅かった河の深さも5bの巨大河川に変容したのです。

この住居埋没の強制工事で、前述の如く、蕪村の生家(庄屋?)は勿論、お寺、菜の花畑、毛馬胡瓜畑跡などの、当時の地域の様子は皆目全くわかりません。今は淀川の毛馬閘門近郊にある蕪村記念碑から、淀川の眼下に見える川底が「蕪村が幼少を過ごした生家地域」だと想起出来るだけで、寂しい限りです。

淀川近郊の蕪村家(庄屋)の後継者の方といわれる毛馬町の家を訪ね、「家歴」を伺いました。しかし、「地図」も無いし、お寺も埋没して「過去帳」もないために、蕪村生誕地が淀川の河底にありことは間違いないですが、今でもどのあたりの河底にあるのか分かないのです。」という答えが返って来ただけでした。

「蕪村生誕300年記念」の年が、2016年に迎えました。どうか大阪毛馬町の「蕪村公園」と通り過ぎて、「毛馬閘門」と「蕪村記念碑」ある淀川堤防の上から眼下に流れる「淀川」を見ながら、その河底に蕪村生誕地があることを想いつつ、蕪村が幼少期をここで過ごしたのかと、ゆったりと瞑想して欲しいですね。

ところで追記。淀川近郊の蕪村家(庄屋)は、大阪毛馬町に在る「淀川神社」の氏子でした。このため年間の祭事や祈願の折は、この「淀川神社」に父母と一緒に蕪村「幼名―寅」は、参詣に通ったことが、江戸時代の慣習から推察出来ます。

また蕪村が、毛馬村を出奔し江戸へ下る決意を固めた時、氏子の立場から「淀川神社」に参詣し、将来の生き方を祈願したことは、当然のことと考えられます。

そこで、今の「淀川神社」の境内に協賛者のお力を頂いて、高さ1m60pの銅製の「蕪村銅像」を建立しました。

そこで28年1月23日「蕪村銅像建立の除幕式」を行いました。既に本誌に詳細を掲載しています。

望郷の念の強い「蕪村」は、この「生誕地参詣神社に銅像建立」を喜んで、心の底で望郷の毛馬町に足を踏み入れて還ってくるでしょう。「淀川神社」も「蕪村参詣神社」として、後世に伝承されるでしょう。

どうか「淀川神社」の境内の「蕪村銅像」を見に来て頂き、蕪村の想いを想像しながら、境内で「俳句」を作り、張り付けて下さい。お願いしますね。

取材先:国交省近畿地方整備局淀川河川事務所
淀川神社

2016年04月11日

◆五月に咲き誇る平戸ツツジ

毛馬 一三

朝夕愛犬ノーホークテリア・ジェフリーを連れて散歩するコースが、大阪府寝屋市と大阪市を結ぶ旧淀川1級河川の城北川堤防の側道。車が通らないので安全な上、その側道に沿っていろんな「樹木」のある区域が設けられているため、その都度、季節感を楽しめることが出来、気分が豊かになる。

植樹は、サクラやヤマモモ、菊、クスノキ、ツバキなど50種は超すようだが、両岸1`にわたって植えられている。季節ごとに散歩する人の気持ちも盛り上げてくれる。

ここでの木立の優れた「平戸ツツジ」の満開は5月で、緑の木の中から真っ赤な花が咲き誇り、目線を奪う。背丈がこじんまりしていて、手入れが要らない。今年は寒暖が続いたためか、満開期も長持ちしているようだ。

ところで、筆者はNHK初任地が佐世保放送局だったため、平戸ツツジの原産地の平戸には取材にも、旅行にもよく出かけた。

平戸は平戸島とその周辺を行政区域とする市で長崎県と九州本土の市としては最西端に位置する都市。旧平戸藩松浦氏の城下町で、当時はまだ孤島だったため、今のような大型橋梁はなく、遊覧船で渡った。海上から平戸の高台に平戸城が見えて歴史の想いを募らせる一方、陸に上がった途端この季節には、あちこちで平戸ツツジに囲まれた。

平戸商工会議所による平戸ツツジの説明によると

<平戸ツツジは、平戸原産の常緑のツツジで、平戸・松浦藩の武家屋敷にて種々な原種の交雑により、400年以上の悠久の時を経て育まれた門外不出の花でした。その大輪の花びらは世界一のツツジとも云われ、短い間ではありますが満開の時期にはびっしりと美しく咲き誇り、見る人の目を大いに楽しませてくれます。

その儚い生命の美しさを映そうと、摘み取った花びらを使って一枚一枚染め上げたのが「平戸つつじ染め」です。

自然の花びら染めは1本1本の木から得られる色が全て異なるので、ひとつとして同じ色はありません。また、上に咲く花と下に咲く花でも、染まる色は違ってきます。かけがえのない、その花の個性ひとつひとつを大切に、絹や綿、和紙に映しました。>だという。

さて、平戸が全国に名を馳せているのは、この「平戸ツツジ」と併せて「平戸の歴史」ということになる。
序でながら、平戸の歴史に触れておく。

<慶長5年(1600年)、日本の豊後国に漂着したオランダ船リーフデ号の乗組員の一員であったイギリス人ウィリアム・アダムスは、徳川家康の信頼を受けて江戸幕府の外交顧問となり、「三浦按針」の名を与えられるなど重用された。

慶長16年(1611年)、イギリス東インド会社はアダムスがイギリス本国に送った書簡によって事情を知り、国王ジェームズ1世の許可を得て彼を仲介人として「日本との通商関係」を結ぶ計画を立て、艦隊司令官ジョン・セーリスを日本に派遣することとなった。

慶長18年5月4日(1613年6月11日/同6月21日)に、平戸に到着したセーリスは、アダムスの紹介を得て駿府城で徳川家康に拝謁して国王ジェームス1世の国書を捧呈し、更に江戸城にて将軍徳川秀忠にも謁見。そしてアダムスの工作が功を奏して、この年の9月1日(10月4日/10月14日)には、家康によって「イギリスとの通商許可」が出された。

そこでセーリスは平戸で在留中国商人李旦から借り上げていた邸宅をイギリス商館とし、リチャード・コックスを商館長に任じて6人の部下を付け、更にアダムスを商館員として採用して顧問とした。

商館は後に正式に買い上げられ、イギリス人商館員や日本人使用人も増員された。商館員や使用人は平戸や江戸・京都・大坂・長崎などに派遣されて貿易の仲介を行ったり、平戸を拠点に商船を東南アジア各地に派遣して貿易業務を行った>。

こうして平戸は、我が国での最初の外国貿易の拠点となったのだ。

ところで、平戸を有名にさせているのは、キリスト教との関わりだ。

<平戸には、日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが三度にわたって布教に訪れた地であり、平戸島や生月島では多くの住民がカトリックの洗礼を受け、その後の江戸時代の禁教令下でも隠れキリシタンとして信仰を受け継いでいった人が多かった。

明治時代に禁教が解かれて、平戸でも宝亀、紐差などの教会が建てられた。聖フランシスコ・ザビエル記念教会のある平戸港周辺の市街地には、もともとカトリックの信徒は少なかったが、近隣各地からの移転により信徒が増えていった。
そして1931年(昭和6年)4月に現在の教会堂が建てられた。献堂40周年の1971年(昭和46年)9月には、聖フランシスコ・ザビエルの像が聖堂のそばに建立され、これに伴い「聖フランシスコ・ザビエル記念教会(あるいは聖堂)」とも呼ばれるようになった>。

余談だが、筆者が平戸経由で五島列島の島を取材した時、ある家で「オランダ製の火縄銃」と「隠れキリシタンの像」を見せて貰った。どちらも初めて見るもので驚きと大きく興奮した記憶がある。特に「隠れキリシタンの像」は、正面は仏画像だが、裏には「キリスト画像」が設えてあった。

きっと、キリシタン禁教令下で仏教徒を装いながらも、実際は密かにキリシタン信仰を貫いていた江戸時代の隠れキリシタン徒の様子が浮かび上がってきて、感動した。

話は、平戸の歴史になってしまったが、毎朝夕の愛犬の散歩の時、平戸ツツジに美しさに惹かれる毎年、やはり平戸の歴史が鮮明に蘇ってくる。小じんまりとした平戸ツツジであり乍ら、本当に歴史まで呼び起こし、心まで豊かにしてくれる結構な植木だ。
  
参考:ウィキペディア、平戸市          


2016年04月10日

◆蕪村生誕地を証明した「一通の書簡

 
毛馬 一三



松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸時代の俳人与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だということは、江戸時代当時から知れ渡っていると思っていた。

仮にそうでなくとも、明治時代になって、蕪村俳句を初めて評価し世に紹介した正岡子規が、毛馬生誕地は把握し、これを世に広めていたに違いないと思い込んでいた。

ところが、事実は全くそうではないことが明らかになり、驚かされた。

それの事を知らされたのは、NPO法人近畿フォーラム21主催「蕪村顕彰俳句大学」講座で講師をお願いしている、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授と、懇談した時であった。

結論から先にいうと、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は終戦直後のことだということだった。奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったというのである。

藤田教授の話によると、次のようなことだった。

(蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍していた江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという明確な「記録」は残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、いなかったのではないかというのだ。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。が、残念なことにその舞台となる馬堤近くが自分の「生誕地」だとは一切触れていない。

想像してもこの書き方では、「生誕地を毛馬村」と結びつけることは出来ない。

しかし、その後願ってもないことが起きていた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中で、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと綴っている。

春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それなら、これが物証となって、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かったのだろうが、そうならなかったのには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村直筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地複数説」を加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態だった。

しかし、前記の如く、奈良県で終戦直後偶然見つかった弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」が、「蕪村直筆」だと、公式に「認定」されたため、「毛馬生誕地」説が確定した。終戦直後の認定だから、遅きに失したと言わざるを得ないが、これは「蕪村生誕地複数説」を破棄し、毛馬村を生誕地とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになる。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

以後、生誕地が毛馬村であることを不動のものになったことになる。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村直筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも無かったことになるだろう。)

こうして、蕪村が大阪生誕の俳人と称されるようになってから七十余年しか経たない。そのため蕪村は、芭蕉や一茶とは異なり、江戸時代以来、生誕地大阪で「蕪村生誕顕彰」が疎かにされてきたことに繋がってきており、誠に慙愧に絶えない。

このために、今ですら地元大阪で「蕪村生誕地が毛馬村」であることを知らない市民は多い。次世代を担う児童生徒の学習の俎上にすら上がっていないことを考えると、児童生徒が生誕地のことを知らないことも当然のことだろう。残念で仕方がない。

だから、われわれ「蕪村顕彰俳句大学」では、来年の蕪村生誕三百年に向けて、「三百年記念祭諸行事」を開催し、俳句文化活性と後世への伝承、そして国際化への発信を大々的に進めたいと考えている。

余談ながら藤田教授との懇談の中で、更に驚いたことがあったことを記して置きたい。

「蕪村は淀川を下って源八橋から船を降りて浪速の弟子のもとに往き来きしていたようですが、それほど郷愁があったのなら、極く近郊にあった毛馬村の生家に立ち寄るのが自然だと思うのです。その痕跡はありませんか」
答えは「それを証明する歴史書類はありません。立ち寄ったか否かどうかも、わかりませんね」ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったとしても、生誕地へ何らかの理由で寄りたくない気持ちがあったのだろうという推察が浮上してくる。

恐らく奉公人だった母と実家の父が亡くなってから、家人たちによる極めつけの「いじめ」があり、そのために十七・八歳で家を出ざるを得なかったのではないか。そのことが「生家には生涯立ち寄らなかったこと」に結びついているのではないだろうか。

これはあくまで私の推論である。

最後になりましたが、どうか、今年開催の私たち主催の「蕪村生誕三百年記念祭」の諸行事に、是非共皆様のご賛同と、ご支援を伏してお願い申し上げます。(了)再掲

2016年03月30日

◆軍事メッセージの万葉集

毛馬 一三


韓国百済の都扶余の遺跡から、618年に作成された「出挙(すいこ)」の木簡が、発見されている。

「出挙」とは、作付けの季節に農民に利子つきで貸出した「種もみ」を、収穫の秋に利子分を含めた作物を現物で回収する制度で、木簡には農民毎に回収した「作物の量」が記録されている。画期的な国家制度だ。

実はこの同じ木簡が、日本では飛鳥時代以前の遺跡から、発掘された。

つまり、この「出挙」は中国で発祥した超国家税収制度。それが百済を通じて、日本へ導入されているから、百済と日本の間に当時、極めて緊密な外交関係があったため、日本へこうした国家構築に属する機密が伝わって来たのだ。

この発掘記事を読んだとき、日本と百済との「秘めたる繋がり」の秘話を話してくれた、韓国の著名女流作家のことを思い出した。

同作家は、李寧煕(いよんひ)氏。韓国大手新聞社「韓国日報」の政治部長・論説委員長から国会議員を経て、韓国女流文学会会長を歴任。現況は連絡が取れない。

私は、「韓国日報」からの紹介で、李氏が来日した折、2日間奈良県桜井の「万葉の道」やその周辺の「古代天皇古墳群」散策の案内役を務めた。

その際李氏が、こもごもと語ってくれたのが、この「万葉集」に秘められた日本と百済との「軍事、政治に関する驚くべき秘話」だった。

李氏が、日本の「万葉集」と関わりを持ったのは、国会議員だった当時、日本の高校の歴史教科書に韓国関係記述が歪曲されているという問題が提起されたことから、日韓両国の国会議員による特別委員会が設けられ、事実調査を始めたのがきっかけだったという。

つまり、歴史書が歪曲されているかどうかに迫るには、どうしても古代史にまで遡って検証する必要があり、そのために両国の歴史書に目を通すうち、日本の「万葉集」に魅せられて仕舞ったという。

ここから「万葉仮名」の研究に惹かれたそうだ。ところが「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語では判読出来ない歌のほとんどを、何と韓国語で詠んでみると、「未詳歌」ではなく、総て読み明かせること分かったというのだ。これは当時としては大発見に違いなかった。

帰国した李氏から、私に李氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」が送られてきた。読んでいくうち「日本語訳では見えない様々な謎」が書き込まれて居た。その中で、特に驚くべきことが、こう記述されていた。

<万葉集20巻、4516首の内に、日本語では判読できない、正式に「未詳歌」は「3首」があり、このうちの1首に恐るべきメッセージが織り込められている。

斉明天皇(655年即位)の心中を、額田王(ぬかだのおおきみ)が代わって歌にしたのが、それである。

◆原文:  金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念 <巻1の7・未詳歌>

・日本語詠みだとこうなる。(秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 刈廬(かりいほ)し思ほゆ)

この歌は、「日本語解釈」では、下記のようになっている。
(秋の野の 萱(かや)を刈って屋根を葺き 旅宿りした 宇治のみやこの 仮の庵が思われる)。

この解釈だと、額田王が何を言いたいのか、さっぱり意味が伝わってこない。だからこの歌が、解釈不能または解意不明であることから、公式に「未詳歌」とされたのだろう。

そこでこの祥らかでないこの歌の原文を、韓国語で読んでみた・・・。すると、
(徐伐『そぼる』は 鉄磨ぐ 締め苦しむること勿れ 上の都は 刀来るぞよ 陣地固めよ)

・韓国語訳―(新羅は刀を磨いで戦いに備えている。締め苦しめないといいのに・・・。吾がお上の、百済の都は、敵が襲ってくるから、陣地をお固めなされ)。>
ということになるのだ。

李氏の韓国語詠みによる解釈によると、これは斉明天皇が百済に送った「軍事警告メッセージ」ということがはっきり分かる。

となれば斉明天皇が百済に、これほどまでの「国家機密情報」を送らなければならなかった理由とは何か、その疑問にブチ当たる。

<皇極天皇(斉明天皇と同じ・斉明天皇は二度即位)から斉明天皇の時代は、朝鮮半島では、新羅、百済、高句麗の3国が緊張状態にあった。

この歌(皇極時代の時の648年に入手していた情報)は、斉明天皇に即位してから額田王に作らせた歌だ。百済が、新羅・唐連合軍に滅亡させられた661年より13年も早いメッセージだから、このメッセージ自体に歴史的真実性がある。

実は斉明天皇は、百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、百済を援けるため、難波(大阪)で武器と船舶を作らせ、自らその船に乗り込んで瀬戸内海を西に渡り、百済とは目と鼻の先の筑紫(福岡)の朝倉宮で新羅・唐との戦争に備えた。

しかし斉明天皇は、遠征軍が百済に向かう前、意思に反して亡くなっている。

斉明天皇の異常なまでの「百済ひいき」について日韓学者の一部には、斉明天皇は百済第三十代武王の娘の「宝」で、百済最後の王、義慈王の妹だったとの説がある。>

恐らく斉明天皇自身さることながら、親族関係も百済と強力な血脈が在あり、この額田王の「万葉集」(未詳歌)歌に秘められた「軍事警告メッセージ」も、その視点で詠めば「未詳歌」ではなくなってくる。

「万葉集」を古代の珠玉の日本文学と仰ぐ人たちにとっては、この韓国語読みは認め難く、あくまで額田王作の「未詳歌」としてしか今でも取り扱わない。

しかし、このあと白村江の戦いの敗戦(663年)まで百済国の救援にこだわり続けてきた日本の歴史を見れば、日本と百済との関係は極めて緊密であったことは明らかだ。

だとすれば、万葉集愛好家も韓国語で詠み明かされる「万葉集の未詳歌」に、新たな視点を改めて投げかければ、「万葉集」の珠玉を更に広げることにはなるのではないだろうか。(了)再掲

参考―・李寧煕氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」
   ・小林恵子著「白村江の戦いと壬申の乱・現代思潮社」
   ・ウィキぺディア

2016年03月20日

◆顕微鏡検査で歯周病菌発見

毛馬 一三



奥歯に違和感があったので、近くの「歯科医」に診療に行った。これまで虫歯は一本もなかったので、歯科医院に行くのは10余年振りのことだった。

診察の結果、奥歯1本に軽度の虫歯があるとのことで、治療を開始することになった。とにかく軽い虫歯発見だけで済んだため、一旦は胸を撫で下ろした。

ところが驚いたことがあった。この歯科医院の診察室には「位相差顕微鏡」が備えられており、患者の口内に歯周病菌やカビ菌が有るか否かをたちどころに検査するシステムが整えられていた。

歯科医院には「顕微鏡と映像公開装置」のセットが10年ほど前から導入され始めたそうだが、長期ご無沙汰していた筆者にとっては、このようなセットがあるとは、全く知らなかった。

映し出された筆者の口内検査画面の映像をじっくり見ると、紐状の歪んだ塊が幾重もあり、その間を原虫みたいなものが無数に蠢いている。初めて見る映像だったので、不気味な映像に悪寒が込み上げてきた。


歯科医師の説明によると、映像で蠢いているのは歯周病菌で、紐状の塊はカビ菌だという。なんと口内で歯周病菌が見付かったのだ。

歯周病菌は、回し飲みや回し食い、箸の使い回し、キス、くしゃみなどが感染ルートとして上げられ、一旦口の中に進入すると定着して発症するケースが多いそうだ。外食の多い人には特に罹患の可能性が高いという

歯周病は、口の中で出血すると血管に入り、心臓で炎症を起こすという。歯周病の患者が心臓病になる確率は2〜3倍にあがり、このほか食道癌、糖尿病、早産、高血圧などにも関与しているという。

カビも酸を出すので歯を溶かし、虫歯につながるという。予防を怠れば、どちらも恐ろしい病気だ。

このため歯周病菌予防とカビ菌除去のために、「細菌の除去薬剤・シスロマック」とスプレー式カビ取り歯磨き剤の「ぺリオバスターN」を出してもらい、予防措置を講じた。

2週間後に再度行った「顕微鏡」検査で、症状に改良が確認されたので一安心したが、油断は禁物。今も歯の手入れには真剣に取り組んでいる

ところで、歯周病の進行を症状の具合でみると、
@ 口臭、ネバネバ感
A 歯ぐきに赤み、時々出血
B 歯ぐきの炎症、腫れ、赤みの悪化
C 歯ぐきを押すと膿が出る
D 口臭が更に悪化、出血がひどい、歯が揺れる、歯ぐきがよく腫れる
E 歯が痛くて噛めない、歯が揺れて噛めない、歯ぐきが常時腫れている

といった順序で進行いくという。無感覚の中で進行する場合もあるという。

であれば、定期的に歯科医院に通い、歯周病が再感染していないかを「顕微鏡」で調べる必要があるようだ。またカビ菌も歯周病菌の棲みかとなって歯周病に再感染する要因になるので、適切なクリーニングが求められる。

序でながら、義歯にもかなりのカビが付くので、歯周病と関わりがあり、義歯のブラッシングも留意すべきだそうだ。

歯周病菌が「顕微鏡」で発見されたものの、歯周病には患っていなかったのでラッキーだったが、この機会に歯の手入れには一層気を配って行こう。そうしないとこれから美味しいものが頂けなる。
参照:<国際歯周内科学研修会監修・顕微鏡検査のススメ>   

2016年03月17日

◆大阪市会で初めて「蕪村」の討議

毛馬 一三

         
大阪市会本会議で3月3日、「俳聖・与謝蕪村の生誕300年」の文化施策の展開の方針について、市会で初めて公明党の八尾進議員が、吉村洋文市長の考えを下記のように質しました。

◆八尾進議員

文化の振興に向けた取り組みについてお尋ねします。

・まずは、文化の振興に向けた取り組みについてであります。
・現在の文化振興計画は、本年3月で期限が切れ、新計画は秋に策定されるときいています。


・つまり、平成28年度当初予算における文化施策にかかる事業は、骨子となる計画のない中で組み立てられたものです。これでは、文化施策に対する認識が低いと言わざるを得ません。

・そこで今年は、大阪が生んだ「俳聖・与謝蕪村の生誕300年」という節目の年でもあり、このように文化的・歴史的に魅力のある大阪市に見合った文化施策の展開・充実が求められると考えます。市長は<「俳聖・与謝蕪村の生誕300年」>の文化の施策を如何にお考えでしょうか。

◆吉村洋文市長

・大阪では、文楽をはじめ日本を代表する文化が創造され、蕪村など幾多の創造性豊かな人材を輩出されるなど、都市の発展に文化が大きな役割を果たしてきました。

・文化施策における行政の役割は、文化振興と観光資源などとして国内外に発信すると共に、市民・団体の自主性、創意工夫による活発な文化活動が行われるようサポートすることです。

・こうした市民向け施策を盛り込み、大阪らしい文化充実を図って参ります。

以上が市会討議のやり取りです。


◆そこで市会で、「大阪の俳人与謝蕪村の生誕300年記念の年」を、初めて取り上げた八尾進議員に敬意を表します。

与謝蕪村は、江戸時代の三大俳人の一人ですが、今まで「蕪村生誕地」が大阪毛馬村であること自体が、地元でもあまり知られておらず、ましてや大阪市会で討議に出されたことも初めてです。

吉村市長は、「今年の与謝蕪村生誕300年記念の年」の行事には優先的に答えず、大阪文化振興の全体施策に意欲を示しました。勿論「与謝蕪村生誕300年記念の年行事」進行が、市長の脳裡には存在するものと信じます。

この意味でも、新人市長から直近の文化振興の方針を引き出した八尾議員の今回の討議成果を評価します。


ところでNPO法人近畿フォーラム21は、蕪村生誕300年記念事業として今年1月23日に、蕪村公園の隣「淀川神社」に「蕪村銅像を建立」しました。

3月15日には、蕪村生誕300年記念事業として「第12期蕪村顕彰俳句大学講座」の「優秀句記念プレート碑」を蕪村公園に建設しました。

・5月1日には、都島区民センターで「蕪村生誕300年記念シンポジューム」を開催します。村田正博氏(大阪市大教授・蕪村生誕300年記念実行委員会委員長)が主導して、学者・俳人の講演と演壇での討論も行います。

・また、今年9月11日には、市立淀川小学校で、「蕪村顕彰全国俳句大会表彰式」を開催し、地元・全国・海外の俳句愛好家・児童生徒からの俳句応募作品を選考して、優秀句に表彰状を授与致します。更に同日近郊の蕪村公園で「蕪村生誕300年祭」の行事を行ないます。

これは、大阪俳人蕪村の実績と生誕地が毛馬町で在ることを、後世に継承するのが、我々NPO法人近畿フォーラム21の念願です。

吉村市長、どうかこうした「蕪村生誕300年祭」にご協力を頂きますよう、切にお願い致します。

2016年03月12日

◆蕪村顕彰全国俳句大会に「文化庁が後援」を

毛馬 一三




画期的なことが、実現しました。

筆者主宰のNPO近畿フォーラム21は、活動主軸を「大阪文化の振興」に置いて、江戸時代の三大俳人の一人、大阪生誕の与謝蕪村を顕彰し、後世に伝承するために、平成22年4月に「蕪村顕彰俳句大学」第1期講座を開講し、今開講中の講座も既に第12期講座に達して、28年3月31日に終えることになります。

このNPO法人活動の開始と同時に大阪府、大阪市が「後援支援」に賛同して貰い、今は9団体が「後援団体」となっています。「蕪村顕彰俳句大学」の発展、と蕪村俳句の顕彰と当NPO法人の権威確保に力をお借りしています。

更に「俳句界」刊の兜カ學の森と協同して、第7期から「蕪村顕彰全国俳句大会」を開講し、地域主催の俳句講座の作品に加えて、全国から俳句応募作品を多数集められたことから 大いに母体の「蕪村顕彰俳句大学」は盛り上がりました。

こうした中で、筆者は、国の中央官庁に我々の文化振興の気概と積み上げてきた実績を評価して貰おうと、国レベルの官庁に「後援」を申請したいと考え、「文化庁」に実績書類と申請書を付けて懇請をしました。

「文化庁」としても、地方での文化活動実績の精査に長期に時間を懸け、何と平成28年3月7日付で、「文化庁後援名義の使用許可」を回答した文書を送付してくれたのです。「後援期間」は28年4月1日〜28年9月30日の「第13期蕪村顕彰俳句全国大会」の時期となっています。

筆者は、この「後援使用の回答」に、歓喜のあまり頭が真っ白になり感動しました。

つまり、28年の「蕪村生誕300年の年」に国の中央官庁から我々の事業に「後援」を頂いたことは、「夢」の実現だったからです。

早速、NPO法人近畿フォ−ラム主催で活動組織の「蕪村顕彰俳句大学の川原俊明学長(弁護士)」と「蕪村生誕300年記念行事実行委員会委員長(大阪市立大学分文学部教授)」に架電して知らせた処、二人からも最高の喜びの言辞が飛び出して返って来ました。

先ず、この「後援」を頂くで、5月1日に地元都島区民センターで行う学者、俳人の講演、俳人群と蕪村討論する「蕪村生誕300年記念シンポジューム」も、この「文化庁後援」を背景にして、おおいに盛り上がることは間違いありません。

更に9月11日に開催する「第13期蕪村顕彰俳句全国大会・表彰式」にしても、地元俳句受講生は勿論、全国・諸外国俳句愛好家、児童生徒から、従来を遥かに超える俳句作品の応募を決意して出句を増す感情を湧きだす事も、間違いありません。

どうしても「文化庁」が「後援を許可」してくれたこの機会に、大阪生誕であることの低い与謝蕪村の知名度を一層向上させると同時に、蕪村の名と、蕪村「俳句・絵画」を後世に継承することに絶大なお力を拝借させて頂けるものと信じます。

この意味で、今回の「文化庁後援許可」に対し、伏してお礼申し上げます。


2016年03月03日

◆蕪村が「生誕300年」の今年、還る

毛馬 一三



江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれている。ところが、その生誕地が大阪毛馬村だとは、余り周知されていない。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋主と結ばれて蕪村が産まれた。母親が若くして京都丹後の実家に帰郷したため、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことや、父の「庄屋家督継承」も出来なかったことから、意を決して毛馬村を飛び出したようだ。

蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも師事として俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。

蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。>以上
 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は江戸から帰り、定住していた京都から船で「淀川」を下って、生誕地毛馬村を横目に眺めながら、頻繁に大阪にやって来ている。

京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だった。ここから上がって大阪市内の数多い門人弟子らを訪ねて回り「吟行」を多重に行っている。

また蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねたり、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪以外のいたる所も巡行している   

<特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)>

ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされている。

それだけではなく蕪村は、上記の通り京都に還って来てから、大阪のいたる所を吟行して回り、大阪俳人として活躍の場としていたのだ。これもあまり知られていない。

船着き場の「源八橋から蕪村生誕地の毛馬まで歩いてみても、30分ほどしかかからない、短い距離に生誕地はあるのだ。それなのに蕪村は、生涯地・毛馬には一歩も足を踏み入れていない。

やはり母の帰郷後も、家人からは私生児のことをやり玉にあげられて過度の苛めに合い、出家まで決意させられた辛い思いで彷徨したこともあったという。大坂生誕地に帰郷すれば「怨念」が脳裏を支配し、これが立ち寄りを阻んだものだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎるものだったと思える。

とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いない。

自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。

蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。

筆者が主宰するNPO法人近畿ホーラム21主催の「講座・蕪村顕彰俳句大学」で、大阪市立大学と共同し 今年の2016年に「蕪村生誕300年記念祭行事」をする。

今年の1月23日に大阪蕪村公園の前に奈良時代から在る毛馬町の「淀川神社」に「蕪村銅像」を既に建立し、除幕式の御祭りを行った。

5月1日には「蕪村生誕300年記念行事実行委員会」(市大・村田正博教授)が、都島区役所のとなりに在る「区民センター」で、学者、俳人をまじえた画期的な「蕪村生誕300年記念シンポジューム」を開催する。

蕪村が氏子で生誕地から離れるまで参拝続けた現在の「淀川神社」をはじめ、長期に蕪村顕彰をしている「蕪村通り商店街」と共同事業もする。また地元淀川・大東連合町会や地元NPO法人とも、足並みを揃えていくことにしている。

「蕪村通り商店街」とは、9月11日の第13期の「蕪村顕彰全国俳句大会表彰式の開催したあと、同日近郊の蕪村公園で「踊り」を込めた「お祝いの行事」を計画している。

こんな中で「芭蕉・一茶」の生誕地では、生誕祭を含めた様々な記念事業や「大小各種の博物館」もあり、おおいに賑わいを集めて行っていろ。蕪村は「見送られている」状態。

それだけに、何としてでも今年2016年に「蕪村生誕300年祭」を敢行し、大阪俳人与謝蕪村の名を国内外に広めたいと考えている。

大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村を、「蕪村生誕300年祭」の時に、蕪村から「望郷魂」だけでも呼びたいと思っている。「淀川神社の蕪村銅像」建立は、「蕪村魂が還る」と朝日新聞が評価してくれた。今は、銅像の観に来る人がおおくなっているという。

「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を実現させることが、筆者の人生最後の願いでもある。(了)

2016年02月28日

◆選挙「出口調査」は大阪が始め

毛馬 一三



現在、米国での米大統領選挙に向けた候補者選びが、世界政治の最大の話題になっています。

こうした中、最近のNHKニュースで、ワシントン女性支局長が、上記の候補者選びの現場中継コメントの中で、ビックリする「発言」をしました。

それは、「選挙の出口調査“をしますと、共和党トランプの優勢が分かりました」と述べたのです。筆者としては「選挙出口調査」取材方法が、米国の選挙取材にも今は常用されているのだということが、思い掛けずにも知り得たからです。

筆者が、NHK大阪放送局(政治部出身・大阪府庁記者クラブキャップ)で、昭和51年衆院選挙の際、関西選挙デスクを務め、関西全記者の「候補者票詠み」と開票当時刻の「選挙管理委員会の速報」とを克明に照合しながら、候補者の「当選確実」を一瞬も早く打つ”、という極めて厳し記者業務を3回しました。

ところがそんな時、NHK大阪の岸和田支局の濱口忠昭記者が、投票を終えた有権者から投票所出口で「出口調査」を行い、それを選挙デスクへ「選挙情勢」として報告することを、臨時に試んだのです。

その報告を受けた時、デスクの筆者は、投票した有権者が投票後、党の動静を知られたくないために「本音」は云うまいと思い、その「当落」判断の時は、「候補者動静」の参考にさせてもらったのでした。

ところが、選挙後の反省会で、「当落」の結果と、この濱口記者の「出口調査」とを検証したところ、意外に合致していることが多いことが分かったのです。

これが貴重な「参考結果」になると判断と反省をし、選挙結果を早く知りたい「重要選挙区」を中心に、その次の総選挙から「出口調査」本格的に取り組みを開始し出しました。以来このことが、NHK報道局政治部内に広く知れ渡り、なんと全国NHK放送局にもひろがって、実施され出したのです

そのあと、世界にも徐々広がっているとの噂は聴いていましたが、今回ワシントンンNHK支局長のはっきりしたコメントを耳にした時、これが「大阪発出口調査」がキッカケであったことに、改めて歓喜したのです。
そこで、以前にこの出口調査のキッカケを作った濱口忠昭元記者の「発想と感想」の記事を頂いていましたので、再掲したいと思います。

◆濱口忠昭元NHK記者

「当選確実」の速さと正確さが、選挙報道に当たるメディアの真価を問われ熾烈な争いです。仮に「当選確実」を誤って出せば、そのメディアの信用は失われ、勿論担当の記者生命は終わりです。「当確」を打ち間違えて左遷された選挙デスクを何人も知っています。
 
ところで、ふとしたきっかけから、そうした願望をほぼ果たすのに効果があるのではないかと考え、数年にわたり試行錯誤を繰り返しながらようやく発案したのが「選挙当日の出口調査」でした。

そもそものきっかけは昭和46年、NHK大阪放送局報道部の岸和田通信部記者として選挙取材の時のことです。

投票所の近くで有権者の様子を取材中、たまたま投票を済ませた知人から声を掛けられた際、何気なく「誰に投票したのですか」と聞いた質問がそもそもの始まりでした。

選挙は中立、公平が大前提で、選挙管理委員会の発表前に投票結果を有権者個人から聞きだすのは、なんとなく憚れる雰囲気でした。

ところが驚いたことに、開票の後にこの「出口調査」の結果と候補者(政党)の得票数とを突き合わせて検証したところ、なんと両者が極めて近似傾向を示し、候補者間の優位さと政党間の得票順位を捉えていました。

「やった!この出口調査をやれば、当確が迅速・正確に打つことが出来、寸刻を争う他社メディアとの速報報道を制することができる」と、わが胸を躍らせました。

選挙後の会議でこの「出口調査」が検討された結果、有効であるとの結論が出され、以後NHK大阪報道部の選挙取材でこれが採用されたのです。「出口調査」が大きく羽ばたき出した瞬間でした。

最近の選挙報道では、「出口調査の結果によりますと」などと使われるのが、当たり前になってきたためでしょうか、取材される側の有権者もその心算で聞き取り気持ちよく応じているようで、トラブルは起きていません。ただ、特定政党にその調査結果を利用される恐れは無いのかと心配するのは私だけでしょうか。

いずれにしろ、投票所の前で、恐る恐る聞き出した私の素朴な発案が、時を経てまさかこんなに注目され、大きく飛躍しようとは思いもしなかっただけに余計に感無量です。<濱口元NHK記者再掲2009.02.05>

2016年02月23日

◆米原潜佐世保初入港のスクープ

毛馬 一三



筆者が初任地だったNHK佐世保放送局が、NHK長崎放送局に移され、今佐世保には「支局」となっているという話を、最近聞かされた。驚きだった。

初任地の勤務地は佐世保の高台にあり、そこからは「日本海軍基地」を引き継いだ「米海軍基地」の全貌が見え、航空母艦、戦艦の航行の姿をゆっくりと眺めることがでる良い場所だった。

しかし、その佐世保放送局が長崎に移って仕舞ったと聞いたとき、極めて寂しい思い出に包まれると共に、下記に綴って本誌に掲載、全国版「頂門の一針」にも掲載して頂いたことを思いだし、再掲となるが、「記者の生甲斐」ともむすびつくので、これから追々・・・。

山崎豊子著の「運命の人」(全4巻・文藝春秋)が発刊され、ベストセラーになった。山崎豊子フアンの筆者は、先ず同書1巻を買い求め、読み始めた。ところが、読み始めたところ、「エッ!?」と思う記述が目に飛び込んできた。

その記述とは、第1章の「外交官ナンバー」に書かれている「米原潜日本初入港スクープ」のくだりである。

主人公の毎朝新聞政治部の外務省担当・弓成亮太が同省審議官から耳打ちされたことがキッカケで、政府公式発表前に米原潜佐世保入港当日の朝刊で「スクープ」したというのだ。

だが、その「スクープ」より先に「原潜佐世保入稿」の「スクープ」を発信したのは、NHK福岡放送局からだった。しかも入港より丸1日早い、昭和39年11月11日早朝6時だったのである。

この「特報記事」を書いたのは、当時現地NHK佐世保放送局の新人記者の筆者だった。当時の思いと事実経過を「回想」しながら、経過等を綴ってみる。

そもそも、「米原潜佐世保米軍海軍基地入港」が発表されたのは、昭和38年3月。以来、佐世保では地元社会党系労働組合が「原潜入港反対闘争本部」を立ち上げ、これに市民団体も呼応して、大規模な入港反対闘争がはじまり、佐世保市内は米海軍基地周辺を中心に騒然となり出した。

とりわけ被爆地長崎と隣り合わせの現場佐世保では、米原潜搭載「核」持込みの懸念が市民らを強く刺激し、急遽集結した各地の革新団体や全学連が、デモ行進や集会を繰り広げ、騒動は日増しに激化していった。

その反対闘争の取材担当が、当時NHK佐世保局に赴任して間もない筆者だった。「サツ回り」と兼務だったが、入港反対闘争本部だった当時の佐世保地区労(佐世保地区労働組合会議)本部に夜討ち朝駆けを行い、反対運動の動静を追い続けた。

当時、総評系の佐世保労働組合の中核組織「全駐労」の委員長だった石橋政嗣氏が、衆院議員に転身して社会党書記長に就任していたことなどから、この反対運動は当時、野党第一党の社会党と緊密に連携しながら、全国規模の反対運動に発展していった。

筆者は、佐世保へ帰郷する石橋書記長を掴まえ、「反対運動」の中央の方針をしつこく聞き取って回ったことから、気難しい石橋書記長から特に目を掛けて貰う間柄となった。

同時に、地元の社会党系「佐世保地区労闘争本部」の速見魁議長、小島亨事務局長、西村暢文本部員らからにも気に入られ、極めて親密な関係を築くことが出来た。

この仕事は、歴史の現場を直に目撃できて、当に「記者冥利」に尽きる無上の喜びであった。しかも現場で親交を深めた取材対象の人脈とも、立場を超えた人間同士の触れ合いが出来ることも、記者職業として学んだ。そうした教訓は、駆け出し記者の記者魂を助長してくれた。

そんな折の昭和39年11月10日の夜10時過ぎ、佐世保放送局で夜勤勤務をしていた筆者に、佐世保地区労の小島事務局次長から電話が来た。

「あなたの家に電話をしたら、当直と聞いたので電話したよ。実はね、東京の石橋さんからあなただけに伝えなさいと今、指示があったので連絡するんだが・・・」

小島事務局次長はそう言った上で、「米原潜シードラゴンが12日朝、佐世保に入港する」という極秘情報しっかりとした口調で伝えてくれた。筆者は、足が諤諤と振るえ、気は動転し、感謝の意を短く伝えるのがやっとだった。

すぐさま、福岡放送局の報道課長の自宅に架電してその情報を伝えると共に、これから出稿する旨を伝えた。報道課長は直ちに東京政治部の首相官邸キャップに連絡し、政府から確認を取って貰う。「君は、米原潜12日入港の記事を急いで書き、送りなさい」という指示が出た。

11日の2時ごろ、原稿を送ろうとしているところに、報道課長から電話が来た。「官邸キャップが官房長官に確認したが、どうも煮え切らない秘密事項にしているような返事だった。東京政治部では、引き続き政府関係者に当たるが政府公式発表は、まだ遅れることは必至。NHK「スクープ」として「福岡発」で流したらどうかと、東京報道部では言っている。原稿をすぐ送ってくれないか」ということだった。

そこで、「米原潜あす佐世保入港・現地では大規模集会やデモ」という原稿にすることを考え、「闘争本部」にデモ裏付け取材をして上、急ぎ福岡局報道課に電話送稿した。「闘争本部」で特に友好の深い西村暢文氏に「他社は気付いていませんよね」と念を押し、確認を取ることを忘れなかった。これも記者の「秘策行為」と信じての事だった。

これが他社より1日早く福岡局から午前6時から、全国に向けて「米原潜あす佐世保入港」の「スクープ」が発せられたいきさつである。

NHK東京から同関連スクープニュースが出たのは、「米原潜」が入港する12日午前7時のニュースからであった。従って、小説の毎朝新聞のスクープには遅れを取っていない。

これを綴るに当たり、先述の西村暢文氏に電話してみた。46年ぶりの懐かしい声に接した。西村氏は原潜闘争の後、佐世保市会議員を9期務め、既に引退されたという。「あなたのスクープで、闘争本部が一層盛り上がったことを、時折思い出していたよ」という嬉しい返事だった。

感涙の言葉だった。歴史の現場にいち早く立ち会える記者稼業とは、この上ない幸せ者である。(了)  2009.07.14