2016年02月15日

◆韓国「青瓦台」襲撃未遂事件

毛馬 一三



韓国の朴槿恵大統領が、日本の歴史問題を掲げて批判するたびに、思い出すことが在る。

1968年のことだ。父の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領と、閣僚の暗殺を狙って、北朝鮮の第124部隊第1中隊第1小隊に所属する31名が、休戦ラインを突破し侵入した事件だ。

この韓国大統領府「青瓦台」襲撃事件は未遂に終わったが、事件を背負っていることは、余り韓国では口に出さない。これから追々。

筆者は、当時NHK大阪放送局の府庁キャップをしていた。同事件に深い関心を覚えたため単身で渡韓し、既知の有力新聞社社長の紹介を受けて、韓国政府公安機関KCIAの要人と面会し、事件の「詳細」を“取材”した。

勿論休暇をとっての行動だった。その取材内容は立場上「公」には出来なかったが、当時のCIAの要人からの「取材メモ」を探し出した。そのメモが見つかった。下記に添えておきたい。

冒頭に記述したように、韓国青瓦台奇襲は、1968年1月21日夜10時を期して決行する命令が、金日成首領から金正泰を通じて出された。青瓦台奇襲部隊は組長の金鐘雄大尉(事件後4日目に射殺)ら31名で、唯一生き残った金新朝も一員だった。

全員が機関短銃1丁(実弾300発)、TT拳銃1丁、対戦車手投げ弾1発、防御用手投げ弾8発と短刀で武装した。

奇襲部隊は、1組が青瓦台の2階を奇襲して朴正煕大統領と閣僚を暗殺、2組は1階を襲撃して勤務員全員を殺し、3組は警備員、4組は秘書室全員射殺というのが任務だった。

16日の午後、黄街道延山基地を出発。途中軍事休戦ライン南方の非武装地帯を緊張しながら訓練通り過ぎ、ソウルに真っ直ぐのびる丘陵を辿った。歩哨所や検問に遭遇しなかったため、金組長は「南」の士気が乱れている所為だと勘違いした。このため、31人全員が隊列を組んで堂々と行軍するという行動に出た。

だが行軍しているうち、「戸迷い」にぶち当たった。所持した地図に従ってソウルにいくら接近しても、「北」で教育された荒廃している筈のソウル市街は、なんと21日の夜になっても現れてこない。

南下すればするほど煌々とした市街地が現れてくるばかりだ。「これはソウルではない」。「じゃ、一体ここは何処なんだ」。「北」の教育が間違っているとは一瞬たりとも気付かない、ミスを更に重ねた。

その上に韓国軍の服装、装備に身を固めている限り怪しまれることはないと思い上がった金組長が、敵地で初めて出会った韓国人2人に「訓練中に道に迷ったのだが、ソウルに行く道を教えてくれないか」と、呆れた質問をしている。

奇襲隊に遭遇した2韓国人は、ソウルへの道筋を教えたものの、不審に思った。

眼下に広がるソウルを韓国軍が見つけられない筈はない。発音も韓国訛ではない。まして前年6月から「北」の武装スパイが上陸して韓国軍から射殺された事件を2人は知っていた。

2人は急ぎ山を降り、警察に通報した。これが襲撃防止の貴重な要因となった。

奇襲隊は21日夜9時、ソウル北方紫霞門の坂道を通過しようとして、警察の検問にひっかかった。尋問を受けた奇襲隊は慌てて機関短銃を乱射し、市バスと民家に見境なく手投げ弾を投げた。

奇襲隊は、青瓦台の800m手前まで迫りながら、韓国軍と警察の掃討作戦によりちりぢりに撃退された。2週間に及ぶ掃討作戦により、金新朝1名が逮捕され、他は全滅させられた。この銃撃戦で韓国側は、崔警察署長を含め68名が死亡している。

序でながら私の「メモ帳」には、青瓦台襲撃に失敗した「北」が、10ヶ月後の11月2日、襲撃組長金鐘雄大尉ら31名の同期生120人のいわゆるゲリラ別斑が、韓国慶尚北道蔚珍郡と荏原道三に海上から「南」に進入しているとある。

このゲリラ隊は、山岳地帯の小部落を武力で占領、赤化せよという工作命令を受けていた。部落民を集めて赤化を強要する「部落拉致事件」。事実従わない者は短剣で刺し、石で殴り殺すという虐殺を行っている。

「共産党は嫌い」と叫んだ李承福という10歳の少年の口を引き裂いて殺した。断崖絶壁をロープでよじ登り、部落を占領して住民を」拉致し、赤化地帯にするという想像を絶するこの「北」のゲリラ事件は、何故かわが国では余り知られていない。

「メモ帳」に記した青瓦台奇襲して朴正煕大統領と閣僚を暗殺しようとした歴史的事実は」前述のように、今は韓国でも秘密のようで、余り知られていない。

北朝鮮は、いまミサイルを発射をして、韓国・日本・アメリカを威圧している。

日本は、韓国大統領襲撃事件の歴史には関わりはないが、朴槿恵大統領も、これからは、父大統領を研究して、日米との友好関係をもっと真剣に考えていくべきだ。しかも北朝鮮が、これから、どのような攻撃して来るのかを検索して、自国防衛の対抗策を整えるべきだ。                     (了)

  

2016年02月06日

◆「納豆」を食べよう!

毛馬 一三



私の苦手な「納豆」が、骨粗鬆症の予防に効果があるという記事を読んだ。だったら、これからもっと「納豆」を食べることに挑戦しなくてはなるまい。それはこのあと云々。

私は九州の筑後地方で幼少期を過ごした田舎育ち。日露戦争で活躍した日本旧陸軍「久留米師団」の軍事施設がわが家の近くにあったが、周辺全体が農村地帯だったので大東亜戦争が終ったあとも、米や野菜など食糧難に接した記憶はない。

だが、有明海や博多湾からはかけ離れていた所だったので、「海の生魚」には縁がなく、塩漬けのサバなどをリヤカーに積んで売り歩く行商から「塩漬け海魚」を買い求め、焼き魚にして食べさせられたことは、今でも思い出す。

ところが珍事がある。どうしたことかわが町には「納豆」の売る店も、行商も一切なかった。だから「納豆」を食することはなく、名前すら知らなかった。勿論、我が家が「納豆」を何かの因縁で食膳から避けたという話も聞いたこともない。

「納豆」に初めて出会ったのは、18歳の時東京に進学して、下宿先の食卓だった。「納豆」にネギ、わさび、醤油をいれてかき回しご飯の混ぜて食べるものだったが、異常なねばりによる味と、腐ったような異臭に思わず顔を背けた。以来食しなかった。

しかし、横浜生まれで「納豆」常食していた家内と結婚してから、健康のために食べようと説得されたことで、「納豆」に卵の黄身、ネギ、醤油、からしを混ぜて食べるようチャレンジした。

ところが、そのあと「納豆」にセットされて売り出された「味付き特別たれ」が意外に美味しかったことから、その「たれ」をかけた「納豆」だけを「おかず」として食べるようになった。

そんな折、骨粗鬆症などの予防に「納豆」などに効果があるという北国新聞の記事を読んだ。
同紙によると、

<納豆などに多く含まれる成分「ポリアミン」に骨量の減少を抑える効果があることを、金大医薬保健研究域薬学系の米田幸雄教授らの研究グループがマウスなどによる実験で突き止めたという。

ポリアミンは老化抑制効果が注目されているが、骨への効果が判明したのは初めて。骨粗鬆症などに対する副作用が少ない予防、治療法の開発につながるとみられる。

米田教授や檜井栄一准教授らのグループは、骨粗鬆症モデルのマウスと、関 節リウマチモデルのラットにそれぞれ28日間、ポリアミンを混ぜた水を投与した。

骨粗鬆症モデルでは何も与えない場合、骨量が3〜4割減少したが、ポリアミンを投与したマウスはほとんど減少しなかった。関節リウマチモデルでは、何も与えない場合と比べ、骨や軟骨が破壊される量が3分の1程度に抑えられた。

さらに培養細胞実験で、破骨細胞にポリアミンを加えると、細胞の働きが抑制されることも確認した。
米田教授は「ポリアミンは納豆など日本人になじみの深い食品で摂取でき、副作用も少ないとみられる。特定保健用食品や医薬品などの開発につながる」と話した>としている。

たしかに高齢の時期になってくると骨粗鬆症が原因で股関節を骨折し、寝たきりになったという話よく耳にする。

序ながら「骨粗鬆症」に触れておくと
<骨粗鬆症(osteoporosis)とは、骨形成速度よりも骨吸収速度が高いことにより、骨に小さな穴が多発する症状をいう。背中が曲がることに現れる骨の変形、骨性の痛み、さらに骨折の原因となる。

骨折は一般に強い外力が加わった場合に起こるが、骨粗鬆症においては、日常生活程度の負荷によって骨折を引き起こす。骨折による痛みや障害はもちろん、大腿骨や股関節の骨折はいわゆる高齢者の寝たきりにつながり、生活の質(QOL) を著しく低くする。> 出典:ウィキペディア

上記の金大医薬保健研究域薬学系の米田幸雄教授らの研究グループは、納豆などに多く含まれる成分「ポリアミン」に骨量の減少を抑える効果があることを英国薬理学雑誌(電子版)に発表し、特許を出願したという。
「納豆」好きな人には恥ずかしいことだが、これからは食べることに抵抗を感じなくなってきた「納豆」を、毎日何度か食べるような常食にしようかなという思いが湧いてきた。

なお、心臓病や脳梗塞の治療を受けて、「抗血液凝固剤「ワーファリン」を飲んでいる人は、「納豆」は禁忌とされているそうです。どうか「ワーファリン」を飲んでいる人は、絶対に「納豆」は食べないでください。        (了)

2016年02月05日

◆望郷の念から還って来る与謝蕪村

毛馬 一三



江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれている。

ところが、その生誕地が大阪毛馬村だと余り周知されていないのだ。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、母親が若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。

蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも師事として俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。

蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、生誕地毛馬村をすり抜けて、頻繁に大阪に下って来ていた。

京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だった。ここから上がって大阪市内に居る数多くの門人弟子らを訪ねて回っている。

また蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねたり、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪市内いたる所を巡回している   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされている。だが実際は、大阪も上記の通り活躍の場だったのだ。これもあまり知られていない。

船着き場の源八橋から生誕地の毛馬まで歩いてみても、30分ほどもかかからない。それなのに蕪村は、生涯毛馬村には一歩も足を踏み入れなかった。

やはり母の死後、家人から苛められ過ぎ、出家まで決意させられた辛い思いが、大坂に帰郷すれば脳裏を支配し、終生「怨念化」して立ち寄りを阻んだのだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎるものだったとしか思えない。

とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いない。

自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。

蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。

筆者が主宰するNPO法人近畿ホーラム21主催の「蕪村顕彰俳句大学」は、大阪市立大学と共同し今年の2016年に多彩な「蕪村生誕300年祭行事」開催を進めている。

先行事業とし今年1月23日、毛馬の淀川神社・地元淀川連合町会・蕪村通り商店街・地元俳句愛好家と共同事業として、「氏子の蕪村が幼少の頃と江戸へ下るマ迄に参詣し続けた「淀川神社」に、「蕪村銅像を建立」し「除幕式」を行った。

この自分の銅像を観て、蕪村が未還だって生誕地毛馬町に還ることが出来たのだ(朝日新聞)。これを知った蕪村フアンや地元の人が、大勢神社に銅像を見に来ている。先行事業が実を結んだし、蕪村を喜ばせた。

次の事業は、先述の大阪市立大学の村田正博教授と共同して5月1日(日)午後1時から、都島区民センターで、学者や俳句会主宰者などが「蕪村生誕300年を祝い」「俳句の面白さやつくる愉しみ」の講演や討論を行う「シンポジューム」を開催することだ。朝日新聞記事でこれも読んだ大阪府下や地元の人から「参加する」ための問い合せの電話が、驚くほど多くやってくる。歓喜だ。蕪村生誕300年祭事業にムードは盛り上がってきた。

「芭蕉・一茶」の生誕地では、生誕祭を含め様々な記念事業を行っている。しかし大阪俳人蕪村生誕を顕彰する「お祭り」の実績は全くない。何としてでもこうした「蕪村生誕300年祭」事業を成功させ、大阪俳人与謝蕪村の名を国内外に広めたいと考えている。まだ事業の計画は進んでいる。

大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村を、「蕪村生誕300年祭」開催の時には、淀川神社に「蕪村魂」だけでも還って来て貰いたいと思っていたことが実現するだろう。「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を生誕300年後に現実に繫いでやることが、筆者の重き願いでもある。(了)

2016年01月31日

◆徳川家康を亡ぼせなかった真田幸村

毛馬 一三



家康が、生涯の戦歴で死に損なったのは、2度である。1度は、元亀3年(1573年1月25日)、武田信玄軍に徳川軍が惨敗した「三方ヶ原の戦い」の時。討ち死に寸前まで追い詰められたが、僅かな供回と必死で浜松城へ逃げ帰り、命拾いをした。

2度目の「死に損ない」は、慶長20年(1615年)年5月7日の「大阪夏の陣:茶臼山の戦い」(大阪市天王寺)の時だ。

家康は、この時二度も「自害」しようとしたが、部下の将に諌められて逃亡。敗戦の将の汚名など、どうでもよかった。もし家康が命を取られていたら「徳川幕府」は「夢のまた夢」だったことに間違いはない。

この徳川幕府の存亡に繋がる家康の2度目の「死に損ない」地は、案外知られていない。

この「死」からの逃避は、1番目の「三方ヶ原の戦い」より比較にならないほど悲惨なものだった。歴史上でも実に深い意味合いも有する。そのことをこれから追々。

その戦火跡地・「大阪夏の陣:茶臼山の戦地」(大阪市天王寺)を、友人たちと訪ねた。

この大阪夏の陣:茶臼山の戦いで、家康を死に追いつめたのは、実は、真田幸村である。豊臣方の主将の一人だ。この真田幸村の戦闘ぶりは、徳川軍を総じて縮みあがらせた。

幸村は、茶臼山の戦の前日の慶長20年(1615年)年5月6日の「道明寺の戦い」で、徳川軍の先鋒隊・伊達政宗隊を銃撃戦の末に一時的に後退させている。先鋒隊撃破という、幸村の先勝だった。

この勝利で、真田隊は、豊臣全軍を一時撤収させた。撤収には、訳があった。豊臣方は主武将が相次いで討死した上、全軍も疲弊していたため、兵士に休息を与える配慮からだった。

そこで幸村は、秘策を考え、上奏を試みる。「兵士の士気を高め、徳川を打ち破るには、豊臣秀頼本人の直接出陣有るのみ」と直訴したのだ。

ところが豊臣譜代衆や、秀頼の母・淀殿に阻まれ、秀頼の出陣は実現しなかった。

この怠慢な判断が、結果的に豊臣方の滅亡に繋がる。

そこで幸村は、「そんなことでは徳川方を追い込めない」として、5月7日、大野治房・明石全登・毛利勝永と共に、最後の作戦を立案した。

それは四天王寺・茶臼山付近の右翼に真田隊、左翼には毛利隊を布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して、家康の本陣を孤立させた上で、これを急襲・横撃させるという作戦だった。

ところが、思いもよらず作戦が狂った。一部の毛利隊が合図を待たずに射撃を開始してしまったからだ。この有効な戦法は、頓挫せざるを得なかった。

そこで幸村は、腹を括った。「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!」と決心し、真っ正面から真一文字に徳川家康本陣のみに狙いを定めて、突撃を敢行した。

この突撃は真田隊のみではなく、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦。これにより徳川勢は壊乱し、総崩れに至った。

幸村は、後方の家康本陣に三度攻め込み、家康の親衛隊・旗本・重臣勢を蹴散らして本陣を蹂躙、「馬印」も倒した。

真田隊の凄まじさに追い詰められた家康は、二度も「自害」を覚悟したという。もう一押し攻め込めていたら、家康の「落命」は確実だったとも言われている。家康は部下の将兵に諌められて、意に反して命からがら逃げた。

残念ながら、幸村の家康追いつめもここまでだった。

兵力に勝る徳川勢に追い詰められ、幸村は負傷して仕舞う。やむなく一旦後退することを決め、近くの「安居神社」避難せざるをえなかった。

幸村は、当神社の1本松にもたれ、傷を癒していた時、追っ手の越前主の兵士の槍で襲われた。幸村は「ここまでだ」と決意。切腹して自害した。享年49だった。

「安居神社」に行くと、「武将姿の銅像」や高さ5メートほどの「幸村戦没の石碑」がある。

銅像と石碑を見ていると、切腹自害した幸村から「徳川潰しを果たせなかった」無念さの呟きが伝わってくるようだ。一方、「家康を追い詰めた」役目を立派に果たした豊臣方戦将としての誇りの声も聞こえてくるような気もした。

もし豊臣方が秀頼を先陣に立て、幸村を主将にした総力戦で「茶臼山の戦い」に臨んでいたら、確実に「家康を自害」させていたに違いないという説もある。

そうだとすると、家康不在では徳川勢力の後退は余儀なくされ、秀頼による豊臣時代が継続したかも知れないという説に続く。

「安居神社」を出て、坂道を少し下ると、本誌で以前書いた大阪で唯一自然の滝:「玉出の滝」と出会う。ゆっくり眺めると、今度ばかりは「安居神社」の幸村の無念の想いが、滝の水に混じってドット流れ落ちているように見えた。

もし、淀君を始め豊臣譜代衆が「茶臼山の戦い」の決戦に挑んで「家康壊滅」を図る決断を下していたら、おそらくその後、別の歴史が展開していただろう。

時勢に応じて歴史を踏み外さない判断を下さなければならない指導者は、いつの世にも不可欠だ。名所旧跡の散策は、こうした現代の動きを連想させてくれるだけに、愉しいものだ。

<参考:ウィキペディア>


2016年01月24日

◆大阪の「与謝蕪村銅像」除幕式終わる 

毛馬 一三



今年2016年の「蕪村生誕300年記念行事の年」が始まりました。その手始めとして大阪毛馬町の氏神神社「淀川神社境内」に、建立した「与謝蕪村銅像」の除幕式を、1月23日(土)午後1時から、同神社境内で行いました。


「蕪村銅像」の建立は、筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム21と、大阪毛馬町に奈良時代以前からある「氏子淀川神社」と共同して、大阪俳人与謝蕪村顕彰と、後世にその名を継承する為、蕪村愛好家や地元の人たちの賛同で得た上で成し遂げたものです。当日は、狭隘の境内に見学者ら100人近くが集まり、華々しい除幕式が行われました。


除幕式は、まず淀川神社の横路良宮司に修祓、玉串奉納、献饌を行った後、主催を代表して蕪村顕彰俳句大学の川原俊明学長(弁護士)、蕪村生誕300年記念行事実行委員会の村田正博委員長(市大文学部教授)、横路良宮司が祝辞を述べました。


この後来賓代表と主催者側が白布で包まれた「銅像」に付けけられた紐を双方から引きますと、高さ1m60pの勇壮な坐像銅像の姿が現れました。蕪村の表情は、喜びを綻ばせているようでした、


続いてご来賓等のご紹介が行われ、この中でウクライナから京都大学工学部の教授としてこの1年在籍されるガリーナさんが、「この銅像建立は日本俳句文化の向上に繋がり、諸外国も関心を高めるでしょう」と挨拶し、参加者の方々から大きな拍手が湧きました。

上記が「除幕式」の概略です。

では「どうして蕪村望郷毛馬の淀川神社に蕪村銅像を建立したのか」。そのことを改めて書き添えたいと思います。これから追々。

注目の「淀川神社」は、平安朝初期、またはそれ以前に、与謝蕪村生誕地の摂津国東成郡毛馬村字外島(現・毛馬町1−2−11)に氏子神社として創建されました。ですから毛馬村に住む氏子たちは、その時代の頃から常慣習として淀川神社に参詣していたのです。

実は淀川神社は、今の毛馬町に、当時のまま存在しています。これが銅像建立との重大なご縁が結びつくのです。

蕪村は享保元年(1716年)に、この摂津毛馬村で生まれました。蕪村生家は、父が毛馬の庄屋主で、問屋、宿屋も営む「北国屋吉兵衛」。母は丹後与謝の名家から奉公人として来た「げん」でした。その2人の間に、男のこの(幼名・寅―後の蕪村)として誕生したのです。しかし家系を継承出来る「実子」ではなく、私生児だったのです。勿論肝腎の蕪村の「生誕日」も、未だ不明です。

北国屋庄屋は「淀川神社」の氏子でしたから、氏子慣習で、蕪村の生誕後も仲のいい両親と共に、正月や節句、お祝い、悩み払いの時などに「淀川神社」を参拝していたと思われます。

ところが両親を亡くした蕪村は、北国屋庄屋の実子ではなく、正妻の子でもなかったために、庄屋継続が出来ない苦境に追い込まれ、幼少の頃から庄屋親族から様々な苦衷に見遭わされたと思われます。その都度、悲境回避や厄払いなどのお願いを、この「淀川神社」に参詣をしたと推測されます。


結局、苦境に耐えらない17・18歳の頃、実家庄屋は、享保時代のバブルに見舞われて大阪豪商に庄屋を買い取られた為実家庄屋は破滅。結局蕪村は、故郷毛馬を出奔し、江戸に下る決断をします。その際も、きっと氏子として「淀川神社」に生涯安泰の祈願をして参拝したに違いあません。

蕪村と「淀川神社」は、こんな深い因縁の存在が幾つも予想され、無縁では絶対無かったのでしょう。

この歴史的な因縁を考えて、NPO法人近畿フォーラム21では、「淀川神社」と協議を進め、協力関係を確立しました。画期的なことでした。そして「蕪村銅像」を同神社境内に、昨年の暮に建立したのです。


その記念行事を世間に広めるために、冒頭記載のように1月23日(土)午後1時から、「蕪村銅像を建立した淀川神社で、除幕式」を行ったのです。


これから、与謝蕪村が出奔後切望していた生誕毛馬村への「望郷の念」を、今時代に充してやるとともに、蕪村生誕地が大阪毛馬村であることを、今年の「蕪村生誕300年の年記念行事」の先発行事として始め、地元、全国、諸外国にこうした「銅像建立」の理由の祭事として広めて行きたい考えです。



2016年01月23日

◆きょう、淀川神社で「建立与謝蕪村銅像」除幕式 

毛馬 一三
                              

2016年に「蕪村生誕300年」を迎えました。このため、大阪毛馬町の氏神神社「淀川神社境内」に、「与謝蕪村銅像」を建立し、本日1月23日(土)午後1時から、同神社境内で「銅像除幕式」を行います。

この「蕪村銅像」が建立は、NPO法人近畿フォーラム21が、大阪俳人与謝蕪村を顕彰し、後世にその名を継承する為、大阪市毛馬町の「淀川神社」からご協同を得た上、蕪村愛好家や地元の人たちの賛同で出来たもので、銅製で高さ1m60pの勇壮な坐像の姿です。

ところで除幕式は、まず淀川神社の横路良宮司に修祓、玉串奉納、献饌を行った後、主催を代表して蕪村顕彰俳句大学の川原俊明学長(弁護士)、蕪村生誕300年記念行事実行委員会の村田正博委員長(市大文学部教授)、横路良宮司が祝辞を述べます。

このあとご来賓等のご紹介につづいて、参加者の方々から大きな拍手を頂きながら「除幕式典」を行います。

上記が「除幕式」の概略の記述です。

ここから「どうして蕪村望郷毛馬の淀川神社に蕪村銅像を建立したのか」。そのことを改めて書き添えたいと思います。これから追々。

焦点の「淀川神社」は、平安朝初期、またはそれ以前に、与謝蕪村生誕地の摂津国東成郡友渕村字外島(現・毛馬町1−2−11)に氏子神社として創建されました。ですから毛馬村に住む氏子たちは、その時代の常慣習として淀川神社に参詣していたのです。

実は淀川神社は、今の毛馬の場所に当時のまま存在しているのです。これに銅像建立の重大な理由とご縁が伴うのです。

ここから俳人与謝蕪村の参詣の縁の始まりです。蕪村は享保元年(1716年)に、この摂津毛馬村で生まれました。勿論、淀川神社の氏子であることは間違いありません。

さて、蕪村生家は、父が毛馬の庄屋主で、問屋、宿屋も営む「北国屋吉兵衛」。母は丹後与謝から奉公人として来た「げん」でした。その2人の間に、男の子(幼名・寅―後の蕪村)として誕生したのです。しかし肝腎の蕪村の「生誕日」は、未だ不明です。

北国屋庄屋が「淀川神社」の氏子でしたから、氏子慣習で、蕪村の生誕後も、両親と共に「淀川神社」を参拝していたでしょう。

その後両親を亡くした蕪村は、北国屋庄屋の実子ではなく、正妻の子でなかったために、庄屋継続が出来ない苦境に追い込まれ、幼少の頃から庄屋親族から様々な苦衷に見遭わされたと思われ、その都度、悲境回避や厄払いなどのお願いを、この「淀川神社」に参詣をしたと思われます。

結局、苦境に耐えらない17・18歳の頃、実家を出奔し江戸に下る決断をしますが、その際も、「淀川神社」に生涯安泰の祈願をして参拝をしたことでしょう。

この歴史的な因縁を考えて、NPO法人近畿フォーラム21は、「淀川神社」と協議を進め、協力関係を確立しました。画期的なことでした。そして「蕪村銅像」を同神社境内に、昨年の暮に建立したのです。
その記念行事を世間に広めるために、冒頭記載のように明日の1月23日(土)午後1時から、「蕪村銅像を建立した淀川神社で、除幕式」を行うことにしたのです。

これにより、与謝蕪村が出奔後切望していた生誕毛馬村への「望郷の念」を、今時代に充足してやれるとともに、蕪村生誕地が大阪毛馬村であることを、今年の「蕪村生誕300年の年記念行事」の先発として実行し、特に地元、全国、諸外国に精力的に広めて行きたい考えです。

いよいよ、明日の1月23日(土)に「蕪村銅像の除幕式」を開催いたします。どうか「除幕式」ご参加頂きたく存じます。

◆与謝蕪村銅像建立 除幕式
 平成28年1月23日(土) 13時〜15時
 「淀川神社 境内」  
  大阪市都島区毛馬町1−2−11


2016年01月18日

◆1月23日(土) 蕪村銅像建立 除幕式

毛馬 一三 
       

         NPO法人近畿フォーラム21主宰・蕪村顕彰俳句大学
         蕪村生誕三百年記念事業実行委員会・淀川神社

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淀川神社に蕪村銅像

大阪毛馬町の氏神神社「淀川神社」に、「与謝蕪村銅像」を建立いたしました。


NPO法人近畿フォーラム21主宰で、大阪俳人与謝蕪村を顕彰し後世にその名を継承する為に、「淀川神社」のご賛同を得て、淀川神社境内に「蕪村銅像」を建立ししました。


その上で、今年「蕪村生誕300年の記念の年」を迎えましたので、その最初の記念行事として「平成28年1月23日(土)13時から、同淀川神社境内で「蕪村銅像の除幕式を開催」することになりました。画期的祭事です。


「淀川神社」は、平安朝初期、またはそれ以前に、与謝蕪村生誕地の摂津国東成郡友渕村字外島(現・毛馬町1−2−11)に、氏子神社として創建されています。淀川神社は、合祀を重ねながらも、今の場所に当時のままの境内で存在しているのです。


俳人与謝蕪村は、享保元年(1716年)に、この摂津毛馬村で生まれました。生家は、父が毛馬の庄屋の主で、問屋、宿屋も営む「北国屋吉兵衛」。母は丹後与謝から奉公人として来た「げん」でした。その2人の間に、男の子(幼名・寅―後の蕪村)として誕生したのです。しかし肝腎の生誕日は未だに不明なのです。


こうした中で、北国屋庄屋が「淀川神社」の氏子でしたから、江戸時代の氏子慣習で、蕪村の生誕後、両親と共に「淀川神社」を参拝していたことは間違いありません。


しかしその後両親を亡くした蕪村は、庄屋を継承出来ないことを理由に様々な苦衷に遭わされて、結局庄屋を引き継ぎ出来ず、その苦難を払う為にこの氏子神社に御祓いの参詣したでしょう。


また17・18才になって実家を出奔し江戸の下る時にも、「淀川神社」に生涯安泰の祈願参拝をしたと思われます。


こうしたご縁を考えて、NPO法人近畿フォーラム21は、「淀川神社」と協力関係を確立し「蕪村銅像」をここに建立しました。そうして、記載の様に1月23日午後1時から「蕪村銅像建立除幕式」を行うことに致しました。


いよいよ今年は、蕪村生誕300年「記念の年」。どうか皆様 「銅像除幕式」にご参加頂きたく存じます。


◆建立除幕式 会場

平成28年1月23日(土) 13時〜15時
淀川神社 境内  
大阪市都島区毛馬町1−2−11



2016年01月04日

◆万葉集に軍事メッセージ

毛馬 一三 


福岡出身の筆者は、お正月には福岡大宰府にある文學の神様「菅原道真神社」を参詣した。大宰府の菅原神社から西の山手には「脊振山」があり、そこには新羅・唐との戦争に備えた「防衛城」があった。

このことを遠望しながら、当時の歴史事実を連想していたことを思い出す。そんな折、福岡の友人が、元旦、現地に参詣に行ったことを電話で知らせてきたので、下記に掲載していたことのあることを、再度思い出して、心が豊かになった。

その歴史的事実と、興味深い「万葉集の詠み方」を これから追々。

さて、「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語では判読出来ない歌のほとんどを、何と韓国語で詠んでみると、「未詳歌」ではなく、総て読み明かせると聞いた。

しかもその「万葉集の未詳歌」には、当時の日本と百済との間で「軍事、政治に関する驚くべきメッセージ」が秘められているということだ。

この話をしてくれたのは、以前、韓国の著名女流作家、李寧煕(いよんひ)氏。韓国大手新聞社「韓国日報」の政治部長・論説委員長から国会議員を経て、韓国女流文学会会長を歴任された。ただ、今もご健在かどうか分からない。

筆者は、たまたま「韓国日報」からの紹介で、李氏が来日された折、2日間、奈良県桜井の「万葉の道」や、その周辺の「古代天皇古墳群」散策の案内役を務めた。

その時李氏が、こもごもと語ってくれたのが、この「万葉集」に秘められた日本と百済との「軍事、政治に関する驚くべき秘話」だった。

李氏が、日本の「万葉集」と関わりを持ったのは、国会議員だった当時、日本の高校の歴史教科書に韓国関係記述が歪曲されているという問題が提起されているということから、日韓両国国会議員による特別委員会を設け、事実調査を始めたのがきっかけだったという。

つまり、歴史書が歪曲されているかどうかに探るには、古代史にまで遡って検証する必要があり、そのためには両国歴史書に目を通すことだった。

その時、日本の「万葉集」に魅せられて仕舞ったというのだった。その瞬間から「万葉仮名」の研究に励み出されたそうだ。

「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語では判読出来ない歌のほとんどを、何と韓国語で詠んでみると、「未詳歌」ではなく、総て読み明かせること分かったというのだ。これは大発見に違いなかった。

帰国した李氏から、筆者に李氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」が送られてきた。読んでいくうち「日本語訳では見えない様々な謎」が書き込まれていた。その中に、特に注目すべき下記の記述があった。

<万葉集20巻、4516首の内に、日本語では判読できない、正式に「未詳歌」は「3首」があり、このうちの1首に恐るべきメッセージが織り込められている。

斉明天皇(655年即位)の心の中を、額田王(ぬかだのおおきみ)が代わって歌にしたのが、それである。

◆原文: 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念 <巻1の7・未詳歌>

・日本語で詠むと、(秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 刈廬(かりいほ)し思ほゆ)。「日本語解釈」では、下記のようになっている。
(秋の野の 萱(かや)を刈って屋根を葺き 旅宿りした 宇治のみやこの 仮の庵が思われる)。

この解釈だと、額田王が何を言いたいのか、さっぱり意味が伝わってこない。だからこの歌が、解釈不能または解意不明であることから、公式に「未詳歌」とされたのだろう。

そこでこの詳らかでないこの歌の原文を、韓国語で読んでみた・・・。すると、
(徐伐『そぼる』は 鉄磨ぐ 締め苦しむること勿れ 上の都は 刀来るぞよ 陣地固めよ)。

・韓国語訳―(新羅は刀を磨いで戦いに備えている。締め苦しめないといいのに・・・。吾がお上の、百済の都は、敵が襲ってくるから、陣地をお固めなされ)>。

李氏の韓国語詠みによる解釈によると、これは明らかに斉明天皇が「百済」に送った「軍事警告メッセージ」だということが、はっきりと分かる。

となれば斉明天皇が百済に、これほどまでの「国家機密情報」を送らなければならなかった理由があったのか、その疑問にブチ当たる。

<皇極天皇(斉明天皇と同じ・斉明天皇は二度即位)から斉明天皇の時代は、朝鮮半島では、新羅、百済、高句麗の3ヵ国の間が緊張状態にあった。

この歌(皇極時代の時の648年に入手していた機密情報)は、斉明天皇に即位してから、額田王に作らせた歌だ。百済が、新羅・唐連合軍に滅亡させられた661年より13年も前のメッセージだから、このメッセージ自体には「歴史的真実性」がある。

実は斉明天皇は、百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、百済を援けるため、難波(大阪)で武器と船舶を作らせ、自らその船に乗り込んで瀬戸内海を西に渡り、百済とは目と鼻の先の筑紫(福岡)の防衛基地を作り、新羅・唐との戦争に備えた。

だが斉明天皇は、遠征軍が百済に出陣する直前、その意志に貫けず、出陣先の筑紫(福岡)で亡くなった。

斉明天皇の異常なまでの「百済贔屓」について日韓学者間では、斉明天皇は実は、百済第三十代武王の娘の「宝」で、百済最後の王、義慈王の妹だった説がある>。

恐らく斉明天皇自身もさることながら、親族関係も「百済」と強力な血脈が在あったのではないだろうか。額田王の「万葉集」(未詳歌)歌に秘められた「軍事警告メッセージ」も、その視点で詠めば「未詳歌」ではなくなってくるような気がする。

ところが、「万葉集」を古代の珠玉の日本文学と仰ぐ人たちにとっては、この韓国語読みは認め難く、あくまで額田王作の「未詳歌」としてしか、今でも取り扱わない。

とは云え、このあと白村江の戦いの敗戦(663年)まで、百済国の救援にこだわり続けてきた日本の歴史を見れば、日本と百済との関係は極めて緊密であったことは明らかだ。

だとすれば、万葉集愛好家も「万葉集の未詳歌」に、韓国語で詠み明かされる新たな視点を投げかければ、「万葉集」珠玉を更に広げることになるのではないだろうか。詠みを広げてみては如何。

今、「韓ドラ」放映が人気を集めている。「万葉集の未詳歌」」に対する視点と解釈を変えて観れば、当時の歴史の激烈さが浮上して興味が増してくるのは間違いない(了)             (修正加筆再掲)

参考―・李寧煕氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」
   ・小林恵子著「白村江の戦いと壬申の乱・現代思潮社」
   ・ウィキぺディア


2016年01月01日

◆今年は「蕪村生誕300年」の「年」

毛馬 一三



明けましてお目出度う御座います。

いよいよ今年は2016年になり、「蕪村生誕300年」の「年」を迎えました。

そこで、我々NPO法人近畿フォーラムが主宰し、蕪村顕彰俳句大学(学長 川原俊明弁護士)、蕪村生誕300年記念行事実行委員会(委員長 村田正博大阪市大文学部教授)、兜カ學の森(社長 姜h東)、淀川神社(宮司 横路良)と共同して、新年から各種の「記念行事」を行います。

残念なことに、江戸時代の三大俳人の内、芭蕉と一茶は、生誕地で毎年盛大な「御祭り」が行われていますが、与謝蕪村だけは、生誕地の大阪毛馬町で「生誕記念御祭り」が行われたことが在りません。ですから、大阪地元ですら与謝蕪村が、大阪毛馬生誕の俳人だとは、中々知られていないのです。

これでこれを我々の努力で、俳人蕪村の顕彰と俳句文化の振興、そして大阪毛馬生誕蕪村を後世に継承しようというのが、行事共同者との目的であり、願いなのです。

では、「生誕300年」の「年」を迎える与謝蕪村のことを、改めてこれから追々。

与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれました。丁度今から300年前の享保元年です。これだけははっきりとしています。ところが、肝腎の「蕪村生誕日」が分らないのです。

蕪村(幼名―寅)は、京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて産まれまれました。庄屋の父の正妻には娘が居たようですが、蕪村は、庄屋を引き継ぎ出来ない私生児だとして、一族からは冷酷な扱いに遭わされたらしいようです。

そのうえ母親と父が若くして死去したあと、蕪村が庄屋跡継ぎに成れることはなく、後年に一時、後継者の役割を果して欲しいという身勝手な一族要請の仕掛けもあったようですが、「後継者資格なし」の理由が再興して、結局、生誕庄屋自体は大阪豪商から奪われるように買い取られ、家伝庄屋は潰れてしまったのです。

このためでしょうか蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬の出奔を余儀なくされ、江戸に下ったのです。上記の劣悪な諸事情からでしょうか、蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていないのです。

蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人でした。蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号しています。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師早野巴人が没したあとは、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊しました。その際「蕪村」と号したのです。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えました。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けたのです。島原(嶋原)角屋で俳句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごしました。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されています。

蕪村は、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明、京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、68歳の生涯を閉じました。> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、生誕地毛馬村をすり抜けて、頻繁に大阪に苦吟にやって来ています。京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場でした。ここから、大阪市内に居る数多くの門人弟子らを訪ねて回っているのです。

しかし船着き場の源八橋から「生誕地だった毛馬村」まで歩いても、僅か30分ほどしかかかりません。それなのに蕪村は、生涯毛馬には一歩も足を踏み入れなかったのです。

やはり母と父の死後、家人から苛められ過ぎて、再び帰郷すれば脳裏全体に辛苦が走ることを考え、終生このことが「怨念化」して郷里立ち寄りを阻んだのでしょう。とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いありません。

さて、ここから大切な私たちの「蕪村生誕300年の年」の行事の活動です

蕪村の父はいまも存在する「淀川神社」氏子でした。ですから父母と一緒に蕪村は「淀川神社」に参詣しことは江戸時代の常習でした。蕪村は幼少の頃から江戸へ出奔するまでの苦衷の念に浸されていたのころ、氏子として「淀川神社」に祈願参詣したでしょう。

従ってこのご縁を取り入れ、念願の「蕪村生誕300年の御祭り」の最初行事として、今もある淀川神社境内に、協賛者のご協力をえて昨年暮、高さ1m60pの「蕪村銅像を建立」しました。

そして、建立した「蕪村銅像の除幕式」を、正月23日午後1時から行うことにしています。まさに最初の「記念行事」になります。

続いては、3月10日に、大阪市大と協力して大阪天神橋六丁目の「大阪区民センター」で「講演会」開催し、蕪村通り商店街の会長や建築家に出演してもらい、蕪村に馴染むまちづくり計画の提示を基に「討論会」を実施します。これが「蕪村生誕300年の年」からの蕪村まちづくりに着手する二次目の行事です。

更に5月1日の午後1時からは、「都島区民センター」で、蕪村生誕300年行事実行委員長・村田正博市大教授主導で、盛大な「蕪村生誕300年シンポジューム」を、学者や俳人、受講講師、弁護士が参加して「講演会」「討論会」を開催します。大阪で「蕪村を主題としたシンポジューム」が開かれるのは、これが初めてです。

そして9月11日には、株o句界と共同して、全国・地元・諸外国から俳句作品を募集し、優秀句の「表彰式」を行います。その優秀句を近郊の蕪村公園に「プレート碑を建立し、除幕式を行います。更にはその公園内に「生誕300年を祝する記念植樹」や「御祭り踊り」等の「300年記念行事」を行うことにしています。

何としてでも「蕪村生誕300年記念祭」に実効をあげ、大阪俳人与謝蕪村の名を、NPO法人のホームページや都島区役所の広報、地元・全国俳句愛好家等を通じて、国内外に広めたいと考えています。後世の継承していくのも、当然の使命です。

大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村を、今年の「蕪村生誕300年記念祭」開催時に、「蕪村の魂」だけでも大阪毛馬の地に飛来して貰いたいと思っています。「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を実現させることが、願いなのです。(了)

2015年12月31日

◆「馬」の渡来地は大阪四條畷市

毛馬 一三



わが国古代王朝の威光を軍事面で支えた「馬」の渡来終着先が、なんと大阪府四条畷市であることを知らされ、ビックリした。

大阪湾(古代は難波津)に接している大阪柏原市に鉄技術、堺市に土器焼成技術が古代に朝鮮半島から渡来していたことは分かっていたが、まさか生駒山系が迫り、大阪湾と些かも面していない大阪四条畷市が、「馬」の渡来終着地だったとは夢にも思っていなかった。

ところが、先般四條畷市主催の会合で、古代王朝や豪族たちの権力の象徴となる「馬」の渡来先が四条畷市で、これを証明する「蔀屋北遺跡(しとみやきたいせきあと)」が、四條畷市にあることが公表されたのだ。

四條畷市の西にある現在の寝屋川は、古代には難波津に繋がる海路ルートとなっていた。しかもこの海路の条件と、清い水と牧草に恵まれた肥沃大地の馬飼いの環境が見事に合致したことから、ここが朝鮮半島からの渡来先の終着地になったらしいのだ。

しかも、四條畷を南北に横たわる生駒山系を越えれば、比較的なだらか下り坂となり、「馬」に負担を掛けず「大和」へ供給できる立地の良さが王朝・豪族に認められ、四條畷(当時・讃良)を「馬」の機動性を軍事制度に組み入れる「馬飼いの里」として定着させたという。

朝鮮半島からは、比較的穏やかな初夏の海に「馬」を乗せた丸木船を2ヶ月かけて、玄界灘から筑紫(福岡)・豊浦(下関)・瀬戸内海、そして大阪湾(難波津)を経て、河内湖から寝屋川を通じて「蔀屋北遺跡」に辿り着いている。「馬」に同伴してきた渡来人もここに定住したそうだ。

そう云えば、「国内最古 馬の乳歯 四條畷」という記事が出ていたことも思い出した。

四條畷市の「蔀屋北遺跡」で、国内最古となる5世紀中頃の馬の乳歯が2頭分、大阪府教委の調査で出土した。2〜2歳半とみられ、同時期の遺跡で、若い馬の存在が確認されたのは初めてである。

同遺跡は、国内で初めて馬を本格的に飼った牧場とされ、大阪府教育委員会は「朝鮮半島から子馬を船に乗せて連れてきたか、生まれた子馬を飼育し、軍馬として増産したとみられ、国内最初期の馬生産の実態がわかる」としている。

動物考古学者によると、「乳歯はもろく、「蔀屋北遺跡」からの出土は珍しい。馬飼が、大規模に馬を生産していた様子がうかがえる」と話している。

たしかに「蔀屋北遺跡」とその周辺から、これまでに丁寧に埋葬された馬の骨(性別は不明)や永久歯計約500点、それにアブミ、鹿角製のハミ、鞍などの馬具も出土している。総数26基の井戸も発掘されており、このうち7基は、「馬」運びに使った舟を転用して、井戸枠を作っているのが分かっている。

その船は、西都原式といわれる準構造船で、実物が日本で初めてこの「蔀屋北遺跡」で発掘されている。復元船は、全長10b、幅1b、10人乗りの船。航海は2ノットぐらいの速度の船団だったと専門家は説明しているが、果たして1隻の船に一体何頭乗せて来たかは分からない。

そこで、四條畷市の「馬飼いの里」で繁殖された「馬」は、王朝や豪族の間で軍事・通信・運輸の活用に重用され、いわゆる権力誇示の証とされた。それだけに四條畷市の「馬渡来の終着地」の意義と「馬飼いの里」からの「馬」の供給価値は、権力側から高く評価されていた。

しかし文武4年(700年)になると、天皇に献上する公の牧場が、いたる所で作られるようになり、その所為か平城京遷都の時には、騎兵500人が威儀を正して行進し、「馬」が国家の資としての威容をみせつけている。

こうした時代の変遷のともない、平城京遷都の頃には、四條畷市の「馬渡来の終着地」の役割は終焉し、「馬飼いの里」は姿を消したことみなる。

名所旧跡の多い大阪四條畷市では、こうしたあまり知られていない歴史を積極的に広報して、まちへの集客へ繋げる「観光政策」に力を入れている。(了)
 参考―四條畷市立歴史民族資料館刊「馬は船にのって」   

2015年12月30日

◆「源氏物語」は世界最古の政治小説

毛馬 一三



世界最古の長編小説「源氏物語」が一条天皇に献上されたのは、寛弘5年(1008年)11月17日。1007年前のことである。

紫式部は、幸いなことに父の赴任先の越前国で当時、何よりも貴重だった「越前和紙」とめぐり合った。まさに父在任中の2年間にわたって、思いのままに、「物書き」に熱中出来たのだ。

ここから本題―。

この「源氏物語献上」に先立つこと3年前の寛弘2年(1005年)12月29日に紫式部は、宮中に呼び出されている。何とこの召し上げの仕掛け人が、藤原道長だったのだ。

どうして藤原道長が、紫式部を宮中に召しあげたのか。それは当時宮中で繰り広げられていた、壮絶な権力闘争と大きな関連とつながる。

その権力闘争とは、道長の兄道隆盛の息子「伊周(これちか)と道長とが、真っ向から繰り広げていた藤原同族同士の宮廷内対決だった。

内大臣伊周に対抗するには、叔父の道長はこれを超える役職への昇進しかなかった。道長は画策した。一条天皇の生母で、実姉の強力な支援を懇願して、「関白」に次ぐ地位の「内覧」職を獲得し、役職の上では、一応互角に並んだ。

だが、道長にとっては、まだ後塵を拝する部分があった。伊周は、妹の定子を一条天皇の中宮に送り込み、堅牢な地位を確保していたのだ。

道長にしては、この一郭を何としてでも突き崩す必要があった。このため何と一条天皇のもう一人の中宮に娘の彰子を送り込んだのである。

こののち中宮彰子は、1008年9月11日、「敦成(あつひら)親王」(後一条天皇)を出産。道長は、これによって、権力の頂点を完全に立った。

しかしそれに至る以前に、なぜ紫式部の召し上げにまで手を打っていた政治家道長の老獪な魂胆とは、一体何だったのか。恐らく文学好きといわれた一条天皇の気を惹くため、紫式部の「源氏物語」の献上を早々と仕組んでいたと思われる。言い換えれば、天皇の歓心を買うための一種の「政争の具」として周到に準備していたのだろう。

紫式部は、中宮彰子の教育係として勤める傍ら、3年近く宮中の様々の人間模様、権力構造、熾烈な利害闘争などをつぶさに見ながら、冷静な考察と巧みな筋立てを描きながら、得意満面に「源氏物語」を書き綴っていたに違いない。

色とりどりの54帖の冊子、400字詰原稿用紙にすれば、2300枚ともなるとてつもない長編小説。

越前和紙と墨を使ったきらびやかな「源氏物語」の献上が、一条天皇の心を捉えて仕舞ったであろうことは、想像に難くない。

次々と広がる物語の中で、天皇自身が、思い当たる舞台での隠れた暗闘と情念の世界の展開や登場人物への特定がすべて思い当たり共鳴感動したとしたら、天皇にとってこれに勝る悦楽は、他には無かったのではないだろうか。

そう見ていくと、源氏物語は、「悲恋」、「純愛」、「禁断の恋」の物語ではないように思える。

むしろ宮中文化の中で、現場で目撃し鋭敏に感じ取った「政治暗闘の記録」文学と見える。

ひょっとしたら世界で最古の「政治小説」と言ってもいいだろう。「政治小説の源氏物語」となれば、また、宮廷の評価も貴族たちの暗躍の見方も、「源氏物語」フアンの感覚が、大きく変わっていくのではないだろうか。(了)

2015年12月25日

◆淀川河底の「蕪村の生家」と「蕪村銅像」

毛馬 一三 
                    


江戸時代の俳人与謝蕪村の生家は、淀川の河底に埋没しているのは間違いないのですが、一体河底の何処に埋没させられて仕舞ったのでしょうか。詳しい場所は未だ不明です。

確かに、大阪毛馬の淀川堤防に「蕪村生誕地」と書いた「記念碑」が建立されてはいます。しかし「蕪村生誕し幼少を過ごした生家」は、この場所ではないことははっきりしています。

実は「蕪村の生家」が、冒頭に記したように、淀川堤防から眼下に見える「淀川の川底」に在るのは事実です。なぜ淀川の川底に埋没されたのでしょうか。これは追々。

徳川時代の淀川は、よく手入れが行われていましたが、明治維新後は中々施されていなかったのです。ところが、明治18年に淀川上流の枚方で大水害が起き、下流の大阪で大被害を受けたことをきっかけに、明治政府がやっと淀川の本格的改修に乗り出しました。

その際明治政府は、単なる災害防止ためだけではなく、大阪湾から大型蒸気船を京都伏見まで通わるせる航行で「経済効果」などの多目的工事に専念することを決めました。

そのために淀川の河川周辺の陸地を大幅に埋め立て、それまでの小さな淀川を 大きな河川にする大改修を立案したのです。

これに伴い、旧淀川沿いにあった「蕪村生家」地域は埋め立ての対象となり、すべて「河川改修工事」によって川底に埋められて仕舞いました。

さて、明治政府は関西の大型河川・淀川を大改修するため、オランダから招いた河川設計者・デ・レーケとフランス留学から帰国していた設計士沖野忠雄とを引き合わせ、「淀川大改修」の設計を依頼しました。

明治政府の依頼を受けた2人は、「大改修工事」の設計を創り上げ、明治29年から工事を開始しました。

とにかくこの大型改修設計は、大阪湾に京都の宇治川や桂川、奈良からの木津川を中津川に合流させ、一気に淀川として大阪湾に繫ぐ、巨大な設計でした。

そうすれば貨物蒸気船を大阪湾と京都を結んで航行させることが出来、逆に京都・枚方などで大水害が起きた場合でも大量の水量をさらりと、大阪湾に流すことが出来るのです。二本立ての「効果狙いの設計」でした。

勿論、上流の災害で流出してくる「土砂」が、大阪に被害を与えないため「毛馬閘門」設計も創りました。

これが淀川から大阪市内に分岐させる「毛馬閘門」の設計主旨だったのです。この「毛馬閘門」からは、淀川本流から分岐して大阪市内へ流れる河川を設計しました。その河川の名を「大川」と名付けたのです。

この「大川への分岐設計」で、上流の水害に伴う土砂流失の回避は実現し、大阪の上流からの防災は、今日まで護られているのです。

このように2人による設計書は、世界の河川工事技術水準に準じたもので、明治政府が施工した「河川大改修工事」としては全国的に見ても画期的なものでした。

同工事は、明治29年から明治43年まで行われ、設計通り完成しました。

ここから本題。この「河川大改修工事」によって、与謝蕪村が生まれ、幼少を過ごした大阪市都島区毛馬町(摂津国東成郡毛馬村)は、跡形もなく淀川に埋没させられ、深い川底に沈んで仕舞いました。

明治政府の強制でしたから、当時の住民は仕方なくそれに従ったようですが、川幅も660b(従来の30数倍)となり、浅かった河の深さも5bの巨大河川に変容したのです。

この住居埋没の強制工事で、前述の如く、蕪村の生家(庄屋?)は勿論、お寺、菜の花畑、毛馬胡瓜畑跡などの、当時の地域の様子は皆目全くわかりません。今は淀川の毛馬閘門近郊にある蕪村記念碑から、淀川の眼下に見える川底が「蕪村が幼少を過ごした生家地域」だと想起出来るだけで、寂しい限りです。

淀川近郊の蕪村家(庄屋)の後継者の方といわれる毛馬町の家を訪ね、「家歴」を伺いました。しかし、「地図」も無いし、お寺も埋没して「過去帳」もないために、蕪村生誕地が淀川の河底にありことは間違いないですが、今でもどのあたりの河底にあるのか分かないのです。」という答えが返って来ただけでした。

「蕪村生誕300年記念」を、2016年に迎えます。どうか大阪毛馬町の「蕪村公園」と通り過ぎて、「毛馬閘門」と「蕪村記念碑」ある淀川堤防の上から眼下に流れる「淀川」を見ながら、その河底に蕪村生誕地があることを想いつつ、蕪村が幼少期をここで過ごしたのかと、ゆったりと瞑想して欲しいですね。

そこで本題。

淀川近郊の蕪村家(庄屋)は、大阪毛馬町に在る「淀川神社」の氏子でした。このため年間の祭事や祈願の折は、この「淀川神社」に父母と一緒に蕪村「幼名―寅」は、参詣に通ったことが、江戸時代の慣習から推察出来ます。

また蕪村が、毛馬村を出奔し江戸へ下る決意を固めた時、氏子の立場から「淀川神社」に参詣し、将来の生き方を祈願したことは、当然のことと考えられます。

そこで、今の「淀川神社」の境内に、12月21日協賛者のお力を頂いて高さ1m60pの銅製の「蕪村銅像」を建立しました。

来年28年1月からは「蕪村生誕300年の年」です。そこで1月23日午後1時から「蕪村銅像建立の除幕式」を行います。

望郷の念の強い「蕪村」は、この「生誕地参詣神社に銅像が建立する」ことに喜んでくれるでしょう。また「淀川神社」も「蕪村参詣神社」として、後世に伝承されるでしょう。

どうか来年1月23日午後1時からの「銅像除幕式」にご参加をお願い致します。

取材先:国交省近畿地方整備局淀川河川事務所

2015年12月23日

◆今より大きかった「太閤大阪城」

毛馬 一三



国の特別史跡に指定されている大阪城が、実は「太閤秀吉築城の大阪城」ではなく、総てが「徳川大阪城」だと知る人は、意外に少ない。

では秀吉が、織田信長から引継ぎ築城した元々の「大阪城」は一体どこに姿を消したのか。

そう言えば、大阪城を巡って市民の中から様々な意見がある。

「聳える天守閣は昭和初期に再建され、城の堀は徳川方によって埋められたことは承知していたが、だからと言って、秀吉大阪城の城跡が、些かも無いとは全く知らなかった」云々である。

大阪城への朝の散歩を日課とする人々や大阪城の目の前にある大阪府庁の親しい職員らからも、異口同音に同様の返事が返ってくる。

大阪城真近の天満橋から大手前、森の宮、新鴨野橋と城郭を一周する道筋からは、「大阪城の高い石垣と深い堀」が、雨滴の葉が陽光を跳ね返す樹林の間からと、大きく広がる視界の中から歴史の威容を誇らしげに見せ付ける。特に大手前周辺の高さ32mもある幾重もの「反りの石垣」には、当時の石垣構築技術の進歩の姿を覗かせる。

大阪夏の陣で豊臣家を滅亡させた徳川家康は、同戦いの2年後(1616)死ぬが、家康遺命を受けた秀忠が、元和6年(1620)から寛永6年(1629)までの10年3期にわたり大阪城を大改築する。その時徳川の威令を示すために、「太閤大阪城」の二の丸、三の丸を総て壊し、かつ総ての「堀」も埋め、城の偉大さを誇らしげに見せる「石垣」も地下に埋め尽して、豊臣の痕跡をことごとく消し去ったとされている。

眺める大阪城は、総て「徳川の手になる城郭」だと称されるのだ。では「太閤大阪城」は、どうなったのか。

「大阪城石垣群シンポジウム実行委員会」の論文をみると、そこに「太閤大阪城」が地下に埋められたままになっていた遺跡の一部を発掘した調査記録が下記のように書かれている。

<地下に埋蔵された「太閤大阪城」の石垣を最初に見つけたのは、大阪城総合学術調査の一環として大阪城本丸広場で行われたボーリング調査だった。昭和34年(1959)のことである。天守閣跡の南西にあたる地下8m から「石垣」が見つかった。

4m以上も積まれた石垣で、花崗岩だけでなく、様々な石を積み上げた「野面積み」だった。「野面積み」は、石の大小に規格がなく、積み方にも一定の法則が認められないもの。当時城郭作りの先駆者だった織田信長が手掛けた安土城の「野面積み」工法と同じだったことから、秀吉がその工法を導入して築いた「石垣」と断定された。

それから25年後の昭和61年(1986)になって、再び天守閣跡の南東部の地表1mの深さから地下7mまで、高さ6mの「石垣」が発見されている。

この石垣も「野面積み」だったうえ、その周辺で17世紀初頭の中国製の陶磁器が火災に遭って粉々の状態で見つかったことから、大阪夏の陣で被災した「太閤城」の「石垣」であると断定される2回目の発見となったのである。

両「石垣」の発見場所の位置と構造を頼りに、残された絵図と照合していくと、この「石垣」は本丸の中で最も重要な天守や、秀吉の家族が居住していた奥御殿のある「詰め丸」と呼ばれる曲輪(くるわ)の南東角にあたることが明らかになったのである。

地下に消えた「石垣」は、切り石が少なく、自然石や転用石を沢山積み上げたもので、傾斜が比較的ゆるい、「徳川城」とは異なる信長城を継続した「反り」の無い直線だった>。

第3の発見は偶然が幸いした。現在の「大阪城・西外堀」の外側の大阪城北西で、平成4年に大阪府立女性総合センター(ドーンセンター)建設の際の発掘調査で、地下から長さ25m に亘る「太閤大阪城の石垣」が出現したのだ。同石垣は、いま同センターの北の道沿いに移築復元されている。

何よりもこの発掘の価値が大きかったのは、今の大阪城郭からかなり離れた外側で「石垣」が現れたことだ。それは徳川の「城」よりも「太閤城」の方が遥かに「規模」が大きかった証ということになる。

しかも、上記ドーンセンターに隣接する学校法人追手門学院の校庭に「太閤大阪城」の石垣が、今も大切に保存されていることを、筆者は見た。

非公開なので、許可なしでは見ることができないが、ドーンセンターの石垣と同様、大阪城の外堀からかなり離れたところにあるため、あらためて「太閤大阪城」がいかに大きかったか確かめられる。出来れば追手門学院に公開を求めたい。

地下に眠る遺跡の発掘調査は、エジプトやイタリアなど文明発祥地で今でも盛んに実施されているが、現在進められている大阪市の大阪城発掘調査で、「天下の台所」の基礎を築いた「太閤大阪城」の遺跡が、今の城郭の「外側」で、さらに発見かることを期待したい。(了)