2015年07月06日

◆大阪毛馬の蕪村公園、ご存じ?

毛馬 一三             

与謝蕪村は、松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸俳諧を代表する俳人だが、その蕪村の生誕地がどこかということになると、あまりご存じない人が多い。

蕪村は、紛れも無く大阪市都島区毛馬橋東詰(摂津東成郡毛馬村)で生誕している。それを顕彰する「蕪村記念碑」が、現在淀川毛馬閘門側の堤防上に立っている。かの有名な蕪村の代表作・「春風や堤長うして家遠し」の句が、この記念碑に刻んである。

この他にも顕彰物は、毛馬閘門内に「記念碑」がある。更にはそこからから流れる大川(旧淀川)を南へ500mほど下った所に、橋名の「春風橋」があり、橋名に蕪村直筆文字の「春風橋の自筆」が刻まれている。有名な蕪村でありながら、生誕地周辺で蕪村を顕彰する記念碑は、残念ながら、この3件しかなかった。

ところがここで喜ばしいことに、「蕪村公園」が造成されたのだ。このことは追々。

さて蕪村は、享保元年(1716)に毛馬村の裕福な庄屋(問屋・宿屋も共営)で生まれた。母親は奉公人で、謂わば庄屋主との間に生まれた子供で、家系を引き継げない「私生児」だった。

幼くして両親を失なった不運が重なり、私生児扱いの蕪村は艱難辛苦重ね、結局、生誕家には居られなくなった。このため、18歳〜20歳の頃、毛馬村を出奔、江戸に向かった。

途中京都で俳人早野巴人知り合い、俳諧の修行に勤しんだあと、早野巴人と江戸に行き、弟子となった。運命の出会いだったのだ。

巴人師匠から俳諧を学び出したが、26歳の時、巴人師匠が没した。

師匠死後、芭蕉への思いの強かった蕪村は、芭蕉の跡を慕って奧羽地方を放浪。その後、宝暦元年(1751)、京に移って「俳諧」に励む一方、「南宋画」にも取り組み、池大雅と並ぶ名声を得ている。

京で68歳の生涯を閉じたが、終生大阪には何度も吟行に来たものの、故郷毛馬村には一歩も足を踏み入れていない。しかし生誕地への郷愁は人一倍強くて、「春風馬堤曲」を書き、「生誕地が毛馬であり、子供の頃楽しく遊んだこと想いながら綴ったものだ」と、弟子への手紙に記している。

このように大阪とは縁を絶ち切った蕪村だったから、いまだに大阪には蕪村に関する「伝承文献」が殆ど無いうえ、生誕地に関する資料すら皆無だ。(生誕地付近は、明治政府に依る河川工事で、一級河川「淀川」の底に沈められている。)

従って蕪村の生誕日が分からない。このため大阪では、「蕪村生誕祭」を開催出来ず、蕪村を顕彰する「資料館」すら、作ることも出来なかった。

しかし、10年頃前から生誕地大阪都島区毛馬町を中心に、蕪村を大々的に顕彰する「蕪村生誕祭」を進めようという運動が活発になりだした。筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム21も足並みを揃えて、大阪市長や助役らと協議しながら運動をおこなった。

こうした動きに応じ、大阪市が「蕪村公園」増設に乗り出した。時は平成18年度から2年で完成させた。大阪毛馬町の市有地1.1hrの土地で、約2億5千万円をかけて造営したのだ。

同「蕪村公園」の整備には、筆者らは当初から、公園内に蕪村の俳句や絵画の紹介する「写真集」や「蕪村句の石碑」、蕪村句に因んだ花木植栽をするよう要請した。

そうすれば蕪村生誕地が大阪であることが広く知れ渡り、蕪村俳句に関心が集まって、公園への集客にも繋がり、蕪村顕彰名所に成る筈だと申し入れ続けた。

出来上がった公園は。全国的に知られた大阪桜の名所・「毛馬桜の宮公園」の最北端に位置し、市の中心地中之島に通じる大川沿いの桜回廊の出発点に位置する。

いまは公園植栽も進み、公園整備はしっかり進められ「桜回廊」と同じ華やかさを見せており、顕彰されている蕪村本人も満足ではないだろうか。

しかし、芭蕉と一茶は「記念祭」を、地元生誕地で毎年行っているが、「蕪村公園」は完成したものの、「記念祭」は一度も行われていない。これが「蕪村公園」の名を広めていないことに繋がって居ると,筆者らは自戒している。

そこで筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム21主催:講座「蕪村顕彰俳句大学」を、蕪村顕彰と句会講座を毎年2期10回行い。受講生と児童生徒、国際俳句の応募俳句作品から表彰された「優秀句プレート碑」8基(2015年春現在)を「蕪村公園」に 既に建立している。

更には、大阪市立大学と共同して2016年には「蕪村生誕記念祭」を「蕪村公園で実施する。

また、地元毛馬町にある「淀川神社」には、生誕地毛馬の氏子だった蕪村が、幼少の頃参詣していたことも明らかになり、「蕪村公園での蕪村生誕記念祭」で「淀川神社」と共同して「お祭り」行うことを、7月3日決めた。

これら「蕪村生誕記念祭」が「蕪村公園」で継続開催していけば、「蕪村公園」の名は、どんどん広まって行くだろう。

是非、「蕪村公園」をご覧になり、「蕪村の望郷の念」を察して頂きたい。(了)


2015年06月30日

◆福岡志賀島で「金印出土の謎」

毛馬 一三


国宝の金印「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」には、子供のころから「謎」の思いがある。その「謎」の事は追々。
さて国宝「金印」の出土から今日までの経緯を記すと、下記のようだ。
<天明4年2月23日(1784年4月12日)、筑前国那珂郡志賀島村(現福岡市東区志賀島)南端・叶ノ浜の「叶崎」で出土。
発見したのは甚兵衛という地元の百姓である。ところが近年の研究では発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそれを那珂郡奉行に提出した人物だとうという説が有力。
水田の耕作中に偶然発見したとされる。一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。那珂郡奉行から福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥によって「後漢書」に記された金印であるとされた。
その後、この「金印」の「委」は「倭」の省略形で、中国史書「後漢書」(東夷伝の倭伝)に「後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に朝貢した倭奴国に印綬を下賜した」と記されており、この印綬が「漢委奴国王」印であることが確定した。
出土した後は、福岡藩主黒田家に伝えられ、明治維新後に黒田家が東京へ移った後は、東京国立博物館に寄託され、その後は福岡市美術館の開設に際して1978年(昭和53年)に福岡市に寄贈された。
最初は、1979年(昭和54年)から福岡市美術館で展示され、1990年(平成2年)からは、福岡市博物館で保管・展示されてきた>。参考ウィキペディア
それが今回、最初に寄贈された福岡市美術館へ、短期間ながら移されることになったのだ。 
さてここからが本題。

「金印」出土した場所は「志賀島」の南端・叶ノ浜の「叶崎」。そこは、福岡市内の辺鄙な処にある。JR香椎線(地方交通線)の西戸崎前から「海の中道」を経由して志賀島へ渡り、島の南側を行くと「金印公園」に至る。

私は小学生の頃、父に連れられて博多築港から遊覧船で志賀島に渡った。「金印」の出土現物を見る旅行だった。その時は「金印」が出土した出土現場の叶ノ浜の「叶崎」を見ることが出来たことには本当に感動した。
ところが、暫くして後漢の光武帝が下賜したという「金印」が、またどうして、このような辺鄙な「離れ島」で出土したのか。

それがまさに「謎」となった。「何故、志賀島から出土?」なのか。不思議でならなかった。
確かに金印が志賀島に埋められていた理由については、諸説がある。
A、遺棄説 2世紀に、倭国が大乱となったため棄てられた。
B、隠匿説 同じく倭国大乱で奴国が没落したため、人里離れた所に隠した。
C、墳墓説 奴国王の墓に副葬された。
D、王宮説 奴国王の宮殿が近くにあった。
E、祭祀遺構説 航海安全祈願の施設があったから、等々である。
出典:<「一大率・難升米の読み方と白日別の意味の一部から>。
どれも該当する可能性があるが、未だにはっきりしない。私の自身は、何とか調べる方法はないのか、悩んでいる。
国宝の金印を所蔵する福岡市博物館のホームページにも、この「謎」に関して、『なぜ金印が志賀島に埋められていたのか。これまで「墳墓説」「隠匿説」が唱えられ論争となった時期もあつたが、全く不可解』と記している。博物館でも、突き止めていない。結局「謎」のままだ。

序でながら、重複するが敢えて記して置く。
<志賀島から出た金印は、「蛇の紐通し(蛇の形の紐とおし)」が付いている。「蛇紐の金印」はそれまで中国本土はもとより、世界のどこからも発見されたことがなかった。だから偽物ではないかという風説が流れた時期もあった。
  
ところが、1956年に中国雲南省で前漢代の「てん(さんずいに眞)王之印」が発見され、これが「蛇紐」であったために、偽物説は一気に吹き飛んだ。
  
漢代の印綬制度では、漢王朝に仕える諸侯(内臣)は、黄金印に亀の紐。異民族の国家で漢に臣従したもの(外臣)は、北方民族には駱駝や羊の紐、そして東夷南蛮の王には「蛇紐の金印」が下賜されたていたことが明らかになった。

また福岡太宰府天満宮に伝わっている唐時代の辞書「翰苑」の巻三〇蛮夷の部の中の倭国の記事に「中元之際紫授之栄」とあり、紫綬の金印が光武帝より授けられたことが記されている。

これによって志賀島の「金印」は、前述のように後漢の光武帝から下賜されたことがしっかりと証明されたことになる>。参考:ウィキペディア

つまり光武帝からの下賜であることははっきりしたものの、その「金印」がどうして「志賀島から出土したか」は、これからも「謎」のままなのだろうか。

福岡の高校同級生友人から、考古学専門家から聞いたという面白い話を聞かされた。

その話によると、<「委奴国の部族神・綿津見神の本貫地と、卑弥呼の本貫地」が、同じ志賀島であるという説があるという。つまり両者は、同じ綿津見神を奉戴する同じ氏族集団発祥の地の部族の同じ出身であり、卑弥呼は委奴国の王族であるという説だ。

となると、光武帝からの下賜された「金印」の所有者の部族神は綿津見神であり、そのために「金印埋納場所」の場所が、部族の聖地であった志賀島に選ばれたのではないかということだ。

これが、志賀島で「金印」が出土したのかの「謎解きの新説」になるかも知れないと、考古学専門家は言っていた>と、友人は語っていた。

ご承知のように、2世紀後半に卑弥呼が委国の乱を収めて初代王になったことは、はっきりしているが、邪馬台国の存在はいまだに九州説と近畿説に分かれている。

しかし、志賀島が卑弥呼の本貫地だという新説を聴かされ、心が躍った。

志賀島での「金印の出土謎」は、まだ続くだろう。

「金印」:「一辺2.3pの四角形、台部分の厚さ約9o、総高約22o、重さ108.7gの純金製(22金)」にお目にかかれる日が楽しみにしている。早く出会いたいものだ。(了)

2015年06月27日

◆紫式部と「和紙」の縁

毛馬 一三


「源氏物語」の作者紫式部が、どうしてあのような長編小説「物語」を書くことができたのか。不思議で仕方がない

その訳に触れてみたい。

実は、父親の藤原為時が、都から遥か離れた「和紙」の里・福井県越前の武生に、国司として転任したの伴いに一緒に移住してきたことに、深い縁がある。
そのことは追々。

福井県越前市には「和紙の里」がある。その越前市新在家町には「越前和紙の里・紙の文化会館」と隣接する「卯立の工芸館」、「パピルス館」があり、越前和紙の歴史を物語る種々の文献や和紙漉き道具、越前和紙歴史を現す模型や実物パネルなどが展示されている。

「パピルス館」を訪ねて、紙漉きを約20分掛けて自分の手で作くる作業の体験が出来たのは、圧巻だった。

流し漉きといって、漉舟(水槽)に、水・紙料(原料)・ネリ(トロロアオイ)を入れてよくかき回したあと、漉簀ですくい上げ、両手で上下左右に巧みに動かしていくと、B5くらいの「和紙」が出来上がる。まさにマジックの世界だった。

ところで、この「越前和紙」の由来だが、今から約1500年前、越前の岡太川の上流に美しい姫が現れ、村人に紙の漉き方を伝授したからだという伝説がある。

山間での田畑だけに頼り切って乏し過ぎた集落の村人にとっては、この紙漉きの伝授で村の営みは豊かになり、以後村人は、この姫を「川上御前」と崇め、岡太神社(大瀧神社)の祭神として祀っている。

<その後大化の改新で、徴税のため全国の戸籍簿が作られはじめたことから、この越前「和紙」が、戸籍や税を記入するために欠かせない資材となった。

この思いがけない制度発足で、越前で大量の和紙が漉かれ出した。加えて仏教の伝来で写経用として和紙の需要は急増。「紙漉き」は、越前の地に根ざした地場業として大きな発展と村の利益増大を遂げている>。

さて本題。

長編小説「源氏物語」の作者紫式部は、執筆に取り掛かる6年前の24歳の時(996年)、都から遥か離れた「和紙」の里・越前武生に移住してきた。

何故かというと、冒頭記述のようにご当地の国司に“転勤”となった父・藤原為時に連れだってきたのだ。

「和紙」の里・越前武生に居住することなったことで、山ほどの「和紙」に囲まれて、存分に文筆活動に励めた。当時、都で如何ほど「和紙」が手に入ったのかは、専門家も把握していないが、当時の物書きには、喉から手が出る程の貴重な「和紙」だったことは、間違いない。

藤原為時は、中級の貴族で、国司の中で実際に任地へ赴く“転勤族”だったそうで、996年一旦淡路の国(下国)の国司に任命されるが、当時の権力者・藤原道長に賄賂などの手を使って、転勤先を越前の国(上国)の国守に変更してもらっている。はっきり言えば為時は、淡路の国(下国)には赴任したくなかったのだ。何故か。

当時、中国や高麗からの貿易船が日本にやってくる場合、海が荒れた時や海流の関係で、同船団が越前や若狭の国を母港とすることが多く、このため海外の貴重な特産品が国司のもとに届けられ、実入りは最高のものだったからだという。

ところで、藤原為時一族は、中級の貴族ながら文才をもって宮中に名を覇せ、娘紫式部も為時の薫陶を受けて、幼少の頃から優れた才能で漢文を読みこなす程の才女に育てられたといわれる。

父親の愛情で物書き娘に育ててもらい、書き損じても幾らでも対処できる「和紙」を与えてもらえたことは、紫式部にとって最高の「父のご恩」であり、「幸運」だった。

この為時の思いは、式部が後に書き始める「源氏物語」の中に、武生での生き様が生かされている。平安時代の歌集で、紫式部の和歌128 首を集めた「紫式部集」の中に、武生の地で詠んだ「雪の歌」が4 首ある。

越前武生での経験が、紫式部に将来の行き方に威力になったことはまちがいない。と同時に式部は、国司の父親のお陰で、結婚資金をたっぷり貯め込むことも成し遂げ、約2年の滞在の後、京都に戻り、27歳になった998年に藤原宣孝と結婚している。

越前武生の生き方の中で、紫式部にとって「和紙」との出会いが、世界最古の長編小説書きへの道を拓くことに繋げられた事は、紛れもない事実であろう。

紫式部の書いた「源氏物語」の原本は現存していない。作者の手元にあった草稿本が、藤原道長によって勝手に持ち出されて外部に流出するなどしているため、「源氏物語」の原本は、当初から非常に複雑な伝幡経路を辿っていたという。

確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は現在のところ一つも見つかっておらず、この時期の写本を元に作成されたと見られる更なる「写本」すら、非常に数が限られているという。
 
ところで、中国は、古代4大自国発明の一つとして、「紙」を絵画の絵巻をCGで描き、国威を誇っている。

しかしその紙が、7〜800年後に日本に渡って「和紙」となり、その後、その「和紙」によって、世界最古の長編小説が日本の女性によって書かれたことを、中国では知られていない(了)    (修正再掲)

参考:ウィキペディア、: 青表紙証本「夕顔」 宮内庁書陵部蔵  


2015年06月25日

◆蕪村生誕地は淀川の川底

毛馬 一三



江戸時代の俳人与謝蕪村生家は、一体何処に在ったのか。正確な場所が未だに知られておりません。

大阪毛馬の淀川堤防の上に「蕪村生誕地」と書いた「記念碑」が建立されてはいます。しかし「蕪村生誕し幼少を過ごし
た生家」は、ここではないのです。

実は「蕪村生家」は、この堤防から眼下に見える「淀川の川底」に在ったのです。なぜ淀川の川底にあったのか、これには実は明治政府の「淀川河川改修工事」に係っています。

徳川時代の淀川は、よく手入れが行われていましたが、明治維新後は中々施されていなかったのです。

ところが、明治18年に淀川上流の枚方で大水害が起き、下流の大阪で大被害を受けたことをきっかけに、明治政府がやっと本格的淀川改修に乗り出しました。

その際明治政府は、改修工事に当り単なる災害防止ためだけではなく、大阪湾から大型蒸気船を京都伏見まで通わす航行による「経済効果」などの多目的工事に専念することを決めました。そのために淀川の河川周辺の陸地を埋め立て、それまでの小さな淀川を 大きな河川にする大改修を立案したのです。

これに伴い、旧淀川沿いにあった「蕪村生家」地域は、埋め立ての対象となり、すべて「河川改修工事」によって「川底」に埋められて仕舞いました。これについては追々。

さて、明治政府は関西の大型河川・淀川を大改修するため、オランダから招いた河川設計者・デ・レーケとフランス留学から帰国していた設計士沖野忠雄とを合わせ、「淀川大改修」の設計を依頼しました。

明治政府の依頼を受けた2人は、「大改修工事」の設計を創り上げ、明治29年から工事を開始しました。

とにかくこの大型改修設計は、大阪湾に京都の宇治川や桂川、奈良からの木津川を中津川に合流させ、一気に淀川として大阪湾に繫ぐ、巨大な設計でした。

そうすれば貨物蒸気船を大阪湾と京都を結んで航行させることが出来、逆に京都・枚方などで大水害が起きた場合でも大量の水量をさらりと、大阪湾に流すことが出来るのです。二本立ての「効果狙い設計」です。

勿論、上流の災害で流出してくる「土砂」が、大阪に被害を与えないような「毛馬閘門」設計も創りました。

これが淀川から大阪市内に分岐させる「毛馬閘門」設計の主旨だったのです。ここから分岐した河川は、「大川」と名付けられ、「水害に伴う上流からの土砂」の回避は実現し、大阪の上流からの水害から今日まで護られています。

このように2人による設計書は、世界の河川工事技術水準に準じたもので、明治政府が施工した「河川大改修工事」としては、全国的に見ても画期的なものでした。同工事は、明治43年に完成したのです。

ここから本題。この「河川大改修工事」によって、与謝蕪村が生まれ、幼少を過ごした大阪市都島区毛馬町(摂津国東成郡毛馬村)は、跡形もなく「淀川川底」に埋没し、深い川底に沈んで仕舞いました。

役所の指示でしたから、当時の住民は仕方なくそれに従ったようですが、川幅も660b(従来の10数倍)となり、浅かった河の深さも5bの巨大河川に変容したのです。

この住居埋没の強制工事で、前述の如く、蕪村生家(庄屋?)は勿論、お寺、菜の花畑、毛馬胡瓜畑跡などの位置も皆目全くわかりません。今は淀川の毛馬閘門近郊にある蕪村記念碑から、淀川の眼下に見える川底を想起すだけで、寂しい限りです。

淀川近郊の蕪村生誕家(庄屋?)の後継者の方といわれる家を訪ね、「家歴」を伺いましたが、結局、「お寺も埋没し、「過去帳」もないために、蕪村生誕地は「川底」にあると信じているだけ」という答えが返って来ただけでした。

「蕪村生誕300年記念」は、2016年に迎えます。どうか大阪毛馬町の「蕪村公園」と通り過ぎて、「毛馬閘門」と「蕪村記念碑」ある淀川堤防から下に流れる「淀川」を見ながら、その河底に蕪村生誕地があることを想いつつ、蕪村が幼少期をここで過ごしたのかと、眺めて頂きたく存じます。

2015年06月21日

◆国産ビール発祥地は大阪

毛馬 一三



いよいよ夏が近づく。どこでも夕食の食卓では、缶ビールをコップに移して一気に飲んで喉を潤す習慣が出来ていると聞く。

今やアルコールを飲めない人でも、アルコールの入っていない缶ビールを買い求めて、ビールの味を愉しむ時代にもなっている。ビールはもはや全盛時代だ。

以前、北海道のサッポロビール工場で、出来立てのビールをジョッキ杯で飲んだ経験がある。下戸の私は、ジョッキ杯飲みに躊躇いがあったが、喉越しに胃袋に入っていったその時の美味さは、何とも未経験の清々しい味だった。

その時ビールは、樽に入れて遠方へ運ぶと、清々しい美味さを失って仕舞い、ビール工場でのむ味とは、全然違うと聞かされた。

しかし最近では、ホテルや居酒屋などで飲むビールも、時代と共にビールの質向上技術が進んだのか、出来立てのサッポロビールの味と同じような感じがしだしてくるのを、下戸ながら感じ出した。

そんな中、「国産ビールの発祥の地」が、大阪だというという「碑」を見つけた。全国いたるところにあるといわれているビールの発祥の地が、まさか大阪だとは驚いた。

その「碑」は、大阪市営地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅から 東に300mほどの大阪・北新地のANAクラウンプラザホテルのすぐ側に建立してある。

よく見ると「碑」と「説明プレート」が建っている。

「碑」は、高さ1m50pで、隣接している「説明プレート」は1mの四角形。いずれにも大阪市教育委員会の説明が添えられている。

こう書いてある

<わが国におけるビールの醸造は幕末に横浜で外国人がおこなっていたが,日本人の手によるものとしては,澁谷庄三郎がこの地で醸造したのが最初といわれている。

当初は大阪通商会社で,明治四年(1871)に計画された。これは外国から醸造技師を招いた本格的なものだったが,実現には至らなかった。この計画を通商会社の役員のひとりであり,綿問屋や清酒の醸造を営んでいた天満の澁谷庄三郎が引継ぎ,明治五年三月から,このあたりに醸造所を設け,ビールの製造・販売を開始した。

銘柄は「澁谷ビール」といい,犬のマークの付いたラベルであった。年間約三二〜四五キロリットルを製造し,中之島近辺や川口の民留地の外国人らに販売した。―大阪市教育委員会>。

しかし気になることがあった。「日本ビールの発祥地は、横浜」と言われていたことを思い出して、気になった。

そこで、調べてみると、

明治3年(1870年)、米国人のウィリアム・コープランドによって横浜・山手にビール醸造所「スプリング・バレー・ブルワリー」が設立され、日本で初めてビールの醸造・販売が開始された。

外国人の手による日本初だが、実は麒麟麦酒(キリンビール)がこれの流れを汲んでおり、世間的にはこれが「横浜が日本のビール発祥の地」と定着していたようだ。

更に、小規模なものなら、江戸時代にも日本でビールが造られていたらしい。文化9年(1812年)に、長崎の出島でオランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフによる“自家醸造”で、これが「日本で初めて醸造されたビール」とされている。

となると、大阪の「発祥地」とはどういう意味なのかということになる。

そこで、時系列に追って整理すると、

・1812年(文化9年) 日本で初めてのビールが長崎でオランダ人によって醸  造される。

・1869年(明治2年) 横浜で、外国人による日本最初のビール醸造所が設立される。

・1872年(明治5年) 大阪堂島で、渋谷庄三郎によって、「渋谷ビール」という、日本人によって「初めて産業的にビールが醸造・販売」される。

そこではっきりした。「横浜」は、外国人によって「日本で初めて産業的にビールがつくられた地」であって、「大阪」は、日本人の手によって、初めて「国産ビールがつくられた地」だったということになる訳だ。

この「大阪の碑」の周辺は、今は不景気で活性化が無くなっている遊楽街「北新地」だが、「碑」に辺りに「国産ビール発祥地」を明らかにする施設や跡地は、どこにも見当たらない。

だが、現代のビール産業がこの場所から発祥したのだという事実は、この「碑」を目にしたことよって、先駆的だった大阪の時代があったこと改めて感じさせられた。これから何事でも全国を引導していく「大阪」になって欲しいものだ。

2015年06月19日

◆蕪村生誕地を証明した「一通の書簡」

毛馬 一三



松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸時代の俳人与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だということは、江戸時代当時から知れ渡っていると思っていた。

仮にそうでなくとも、明治時代になって、蕪村俳句を初めて評価し世に紹介した正岡子規が、毛馬生誕地は把握し、世に広めていたに違いないと思い込んでいた。

ところが、事実は全くそうではないことが明らかになり、驚かされた。

それの事を知らされたのは、NPO法人近畿フォーラム21主催「蕪村顕彰俳句大学」講座で講師をお願いしている、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授と、懇談した時であった。

結論から先にいうと、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は終戦直後のことだということだった。奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったというのである。

藤田教授の話によると、次のようなことだった。

(蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍していた江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという明確な「記録」は残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、いなかったのではないかというのだ。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。が、残念なことにその舞台となる馬堤近くが自分の「生誕地」だとは一切触れていない。

想像してもこの書き方では、「生誕地を毛馬村」と結びつけることは出来ない。

しかし、その後願ってもないことが起きていた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中で、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと綴っている。

春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それなら、これが物証となって、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かったのだろうが、そうならなかったのには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村直筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地複数説」を加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態だった。

しかし、前記の如く、奈良県で終戦直後偶然見つかった弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」が、「蕪村直筆」だと、公式に「認定」されたため、「毛馬生誕地」説が確定した。終戦直後の認定だから、遅きに失したと言わざるを得ないが、これは「蕪村生誕地複数説」を破棄し、毛馬村を生誕地とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになる。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

以後、生誕地が毛馬村であることを不動のものになったことになる。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村直筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも無かったことになるだろう。)

こうして、蕪村が大阪生誕の俳人と称されるようになってから七十余年しか経たない。そのため蕪村は、芭蕉や一茶とは異なり、江戸時代以来、生誕地大阪で「蕪村生誕顕彰」が疎かにされてきたことに繋がってきており、誠に慙愧に絶えない。

このために、今ですら地元大阪で「蕪村生誕地が毛馬村」であることを知らない市民は多い。次世代を担う児童生徒の学習の俎上にすら上がっていないことを考えると、児童生徒が生誕地のことを知らないことも当然のことだろう。残念で仕方がない。

だから、われわれ「蕪村顕彰俳句大学」では、来年の蕪村生誕三百年に向けて、「三百年記念祭諸行事」を開催し、俳句文化活性と後世への伝承、そして国際化への発信を大々的に進めたいと考えている。

余談ながら藤田教授との懇談の中で、更に驚いたことがあったことを記して置きたい。

「蕪村は淀川を下って源八橋から船を降りて浪速の弟子のもとに往き来きしていたようですが、それほど郷愁があったのなら、極く近郊にあった毛馬村の生家に立ち寄るのが自然だと思うのです。その痕跡はありませんか」
答えは「それを証明する歴史書類はありません。立ち寄ったか否かどうかも、わかりませんね」ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったとしても、生誕地へ何らかの理由で寄りたくない気持ちがあったのだろうという推察が浮上してくる。

恐らく奉公人だった母と実家の父が亡くなってから、家人たちによる極めつけの「いじめ」があり、そのために十七・八歳で家を出ざるを得なかったのではないか。そのことが「生家には生涯立ち寄らなかったこと」に結びついているのではないだろうか。

これはあくまで私の推論である。

最後になりましたが、どうか、来年開催の私たち主催「蕪村生誕三百年記念祭」の諸行事に、是非共皆様のご賛同と、ご支援を伏してお願い申し上げます。(了)

2015年06月15日

◆緩和しない「激腰痛」

毛馬 一三



激腰痛等に悩まされ出して1年6か月が経つ。歩行が200b位しか出来ず道路脇に座り込んで仕舞う。バス・地下鉄には立ったまま乗車もできない。ましてや、地下鉄の階段の上り下りは、両足の激痛みに襲われて辛い。

家でも、椅子に座ってパソコンに向かい合うのも、2時間ともたない。どうしてこんな腰痛に絡む激痛が起こったのだろうか。昼間、やむを得ない所要で近辺に行く場合電動自転車で外出するが、帰宅すると腰・両足が激痛に襲われ、寝転ぶしかない。

腰痛といえば、7年前に脊髄部の下半身が痺れる「すべり症」に見舞われ、大阪厚生年金病院で手術をした。手術は成功し、「すべり症」からは完全回復した。だから、以後腰痛とは何の懸念もないものと思い込んでいた。

ところが、冒頭記述のように、突然1年6か月前から、腰・両足に激痛が始まったのだ。そこで、今毎日、整形外科診療所に通い、診察とリハビリを受けている。リハビリを受ければ次第に回復すると思っているが、中々痛みが減らない。

整形外科診療医院での診察でレントゲンを撮影し、「すべり症手術の後遺症」の障害有無を調べてもらったが、それは「無し」との診断だった。

しかし、痛みは、腰だけでなく、時間が経過するにつれて、右足の臀部、右下肢ふくらはぎにも広がり出だした。以後もレントゲン撮影を繰り返し行っているが、骨盤や膝、足の骨に異常はない。

腰痛だけでなく、右足・下肢の筋肉にも痛みが及び出したため、同診療所院長に「病名」を質した。すると「仙腸関節炎」だと伝えられた。

ではこの痛みの原因は何かと尋ねた処、「痛みは骨盤神経に関わりがあり、慢性腰痛になる可能性」がある。効果的な治療方法は、リハビリで痛みを和らげるしかなく、暫くこの治療で症状の具合を検診して行こうとの回答。

では、「仙腸関節炎」とは何か。日本仙腸関節研究会によると下記の様の記述されている。
<仙腸関節は、骨盤の骨である仙骨と腸骨の間にある関節であり、周囲の靭帯により強固に連結されている。仙腸関節は脊椎の根元に位置し、画像検査ではほとんど判らない程度の3〜5mmのわずかな動きを有している。
仙腸関節障害は決して稀ではない。仙腸関節障害で訴えられる“腰痛”の部位は、仙腸関節を中心とした痛みが一般的だが、臀部、鼠径部、下肢などにも痛みを生じることがある。
仙腸関節の捻じれが解除されないまま続くと慢性腰痛の原因にもなる。長い時間椅子に座れない、仰向けに寝れない、痛いほうを下にして寝れない、という症状が特徴的。
腰臀部、下肢の症状は、腰椎の病気(腰部脊柱管狭窄症・ようぶせきちゅうかんきょうさくしょう や 腰椎椎間板ヘルニア・ようついついかんばん など)による神経症状と似ているので、注意が必要。
また、腰椎と仙腸関節は近くにあり、関連しているので、腰椎の病気に合併することもあり得る。>

上記説明で、筆者の「仙腸関節炎」の症状や痛み箇所が一致し、神経症状と似ているとの指摘があったことからも、院長の病名診断に納得出来た。

しかし肝腎の「仙腸関節炎」の原因が何処から発生しているのかが分からないのでは、不安が増幅する。

どうすればこの激腰痛から脱出できるのだろうか。整形外科の分野で、「腰痛」の原因は、総じて分からないことが多いという説もある。

当診療医院で、1週間に1度、痛み止め注射(トリガーポイント注射、ノイロトロピン注射、ジプカルソー注射)を打ってもらい、1日3回・薬剤ザルトプロフェン錠80mgを飲んでいる。痛みの各局部には湿布も貼る。

また頼らざるを得ないのは、毎日の主軸治療の「リハビリ」だ。柔道整復師による局部マッサージのあと、ホットパック(タオルによる温め)、干渉波(電気)、腰の牽引の物理療法の4リハビリを40分間行っている。しかし局部痛みの緩和に余り効果は感じない。

「仙腸関節炎」の原因が分からない以上、対象療法しかないのは事実だ。だとすれば、歩けない、立てない、座れないのが強度になっていくばかりなので、これからどう対応したらいいのだろうか。
(了)

2015年06月14日

◆漸く「納豆」好きになったわけ

毛馬 一三



私の苦手な「納豆」が、骨粗鬆症の予防に効果があるという記事を読んだ。だったら、これからもっと早くから「納豆」を食べることに挑戦すべきだった。

「納豆」の常食の人にとっては滑稽な話に違いないが、それはこれから追々。


私は九州の筑後地方で幼少期を過ごした田舎育ち。日露戦争で活躍した日本旧陸軍「久留米師団」の軍事施設がわが家の近くにあったが、周辺全体が農村地帯だったので大東亜戦争が終ったあとも、米や野菜など食糧難に接した記憶はない。

しかし、有明海や博多湾からかけ離れていた所だけに「海の生魚」には縁がなく、塩漬けのサバなどをリヤカーに積んで売り歩く行商から「塩漬け海魚」を買い求め、焼き魚にして食べさせられたことが日常だったと、今でも思い出す。

ところが珍事がある。どうしたことかわが町には「納豆」の売る店も、行商も一切なかった。だから「納豆」を食することはなく、名前すら知らなかった。勿論、我が家が「納豆」を何かの因縁で食膳から避けたという話も聞いたこともない。

「納豆」に初めて出会ったのは、18歳の時東京に進学して、下宿先の食卓だった。「納豆」にネギ、わさび、醤油をいれてかき回しご飯の混ぜて食べるものだったが、異常なねばりによる味と、腐ったような異臭に思わず顔を背けた。以来、食することはなかった。

しかし、横浜生まれで「納豆」常食していた家内と結婚してから、健康のために食べようと説かれたことで、「納豆」に卵の黄身、ネギ、醤油、からしを混ぜて食べる食べ方でチャレンジさせられた。

ところが、その「味付き特別たれ納豆」の食べ方が意外に美味しかったことから、その「たれ」をかけた「納豆」だけを「おかず」として食べるようになった。

そんな折、骨粗鬆症などの予防に「納豆」などに効果があるという記事も読んだ。

同紙によると、

<納豆などに多く含まれる成分「ポリアミン」に骨量の減少を抑える効果があることを、金沢大医薬保健研究域薬学系の研究グループが、マウスなどによる実験で突き止めたという。

ポリアミンは老化抑制効果が注目されているが、骨への効果が判明したのは初めて。骨粗鬆症などに対する副作用が少ない予防、治療法の開発につながるとみられる。

金沢大医薬保健研究域薬学系の研究グループは、骨粗鬆症モデルのマウスと、関節リウマチモデルのラットにそれぞれ28日間、ポリアミンを混ぜた水を投与した。

骨粗鬆症モデルでは何も与えない場合、骨量が3〜4割減少したが、ポリアミンを投与したマウスはほとんど減少しなかった。関節リウマチモデルでは、何も与えない場合と比べ、骨や軟骨が破壊される量が3分の1程度に抑えられた。

さらに培養細胞実験で、破骨細胞にポリアミンを加えると、細胞の働きが抑制されることも確認した。

同研究グループは「ポリアミンは納豆など日本人になじみの深い食品で摂取でき、副作用も少ないとみられる。特定保健用食品や医薬品などの開発につながる」と話した>としている。

たしかに高齢の時期になってくると骨粗鬆症が原因で股関節を骨折し、寝たきりになったという話よく耳にする.

序ながら「骨粗鬆症」に触れておくと

<骨粗鬆症(osteoporosis)とは、骨形成速度よりも骨吸収速度が高いことにより、骨に小さな穴が多発する症状をいう。背中が曲がることに現れる骨の変形、骨性の痛み、さらに骨折の原因となる。

骨折は一般に強い外力が加わった場合に起こるが、骨粗鬆症においては、日常生活程度の負荷によって骨折を引き起こす。骨折による痛みや障害はもちろん、大腿骨や股関節の骨折はいわゆる高齢者の寝たきりにつながり、生活の質(QOL) を著しく低くする。> 出典:ウィキペディア

上記の様に、高齢時になると骨粗鬆症が原因で、股関節を骨折し、寝たきりになったという話よく耳にする。
ところで筆者自身は、今、背骨と坐骨の神経を痛めて、毎日、整形外科と鍼灸院に通院しているほど、歩行に困難を強いられている。

歩行がよろけて4回も倒れ、足、腰、腕にけがをした。骨折は免れた。しかし骨粗鬆症との関わりを考えると、やはり背骨・坐骨神経を痛めては、骨粗鬆症には特に注意が必要になる。

以来、それまで「納豆」に軽い気持ちで、おかずで食してきた筆者は、今までよりも「好んで納豆」をご飯に混ぜて多食するようになった。「納豆」好きな人には恥ずかしいことだが、「納豆」無関心だったのが、一挙に「納豆好き」なったのは、この理由からである。

なお、心臓病や脳梗塞の治療を受けて、「抗血液凝固剤「ワーファリン」を飲んでいる人は、「納豆」は禁忌とされているそうだ。どうか「ワーファリン」を飲んでいる人は、絶対に「納豆」は食べないでくださいと聴いており、医師に相談して下さい。           (了)


2015年06月07日

◆咲き誇りが短った「平戸ツツジ」

毛馬 一三



朝夕愛犬を連れて散歩するコースが、大阪府寝屋市と大阪市を結ぶ旧淀川1級河川の城北川堤防の側道。車が通らないので安全な上、その側道に沿っていろんな樹木のある区域が設けられているため、その都度、季節感を楽しめることが出来、気分が豊かになる。

この堤防側道の植樹は、サクラやヤマモモ、菊、クスノキ、ツバキなど50種は超すようにある。季節ごとに散歩する人の気持ちを豊かに盛り上げてくれる。

中でも、「平戸ツツジ」は毎年五月からが満開で、緑の木の中から真っ赤な花が咲き誇り、目線を奪う。背丈がこじんまりしていて、手入れが要らない。植栽管理には便利な樹木だ。

しかし今年は寒気が続いた所為か、五月の満開期は短かった。六月に入った途端、咲き誇っていた真っ赤な魅力の花は、枯れ落ちて仕舞い、寂しさを追らせた。

ところで、私はNHK初任地が佐世保放送局だったため、平戸ツツジの原産地平戸に取材にも、旅行にもよく出かけた。この時から「平戸ツツジ」に魅かれる人生となった。

平戸は平戸島とその周辺を行政区域とする市で長崎県と九州本土の市としては最西端に位置する都市。旧平戸藩松浦氏の城下町で、当時はまだ孤島だったため、今のような大型橋梁はなく、遊覧船で渡った。海上から平戸の高台に平戸城が見えて歴史の想いを募らせる一方、陸に上がった途端この季節には、あちこちで平戸ツツジに囲まれていた。

平戸商工会議所による平戸ツツジの説明によると
<平戸ツツジは、平戸原産の常緑のツツジで、平戸・松浦藩の武家屋敷にて種々な原種の交雑により、400年以上の悠久の時を経て育まれた門外不出の花でした。その大輪の花びらは世界一のツツジとも云われ、短い間ではありますが満開の時期にはびっしりと美しく咲き誇り、見る人の目を大いに楽しませてくれます。

その儚い生命の美しさを映そうと、摘み取った花びらを使って一枚一枚染め上げたのが「平戸つつじ染め」です。

自然の花びら染めは1本1本の木から得られる色が全て異なるので、ひとつとして同じ色はありません。また、上に咲く花と下に咲く花でも、染まる色は違ってきます。かけがえのない、その花の個性ひとつひとつを大切に、絹や綿、和紙に映しました。>だという。

さて、平戸が全国に名を馳せているのは、この「平戸ツツジ」と併せて「平戸の歴史」ということになる。
序でながら、平戸の歴史に触れておく。

<慶長5年(1600年)、日本の豊後国に漂着したオランダ船リーフデ号の乗組員の一員であったイギリス人ウィリアム・アダムスは、徳川家康の信頼を受けて江戸幕府の外交顧問となり、「三浦按針」の名を与えられるなど重用された。

慶長16年(1611年)、イギリス東インド会社はアダムスがイギリス本国に送った書簡によって事情を知り、国王ジェームズ1世の許可を得て彼を仲介人として「日本との通商関係」を結ぶ計画を立て、艦隊司令官ジョン・セーリスを日本に派遣することとなった。

慶長18年5月4日(1613年6月11日/同6月21日)に、平戸に到着したセーリスは、アダムスの紹介を得て駿府城で徳川家康に拝謁して国王ジェームス1世の国書を捧呈し、更に江戸城にて将軍徳川秀忠にも謁見。そしてアダムスの工作が功を奏して、この年の9月1日(10月4日/10月14日)には、家康によって「イギリスとの通商許可」が出された。

そこでセーリスは平戸で在留中国商人李旦から借り上げていた邸宅をイギリス商館とし、リチャード・コックスを商館長に任じて6人の部下を付け、更にアダムスを商館員として採用して顧問とした。

商館は後に正式に買い上げられ、イギリス人商館員や日本人使用人も増員された。商館員や使用人は平戸や江戸・京都・大坂・長崎などに派遣されて貿易の仲介を行ったり、平戸を拠点に商船を東南アジア各地に派遣して貿易業務を行った>。

こうして平戸は、我が国での最初の外国貿易の拠点となったのだ。

ところで、平戸を有名にさせているのは、キリスト教との関わりだ。

<平戸は、日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが三度にわたって布教に訪れた地であり、平戸島や生月島では多くの住民がカトリックの洗礼を受け、その後の江戸時代の禁教令下でも隠れキリシタンとして信仰を受け継いでいった人が多かった。

明治時代に禁教が解かれて、平戸でも宝亀、紐差などの教会が建てられた。聖フランシスコ・ザビエル記念教会のある平戸港周辺の市街地には、もともとカトリックの信徒は少なかったが、近隣各地からの移転により信徒が増えていった。

そして1931年(昭和6年)4月に現在の教会堂が建てられた。献堂40周年の1971年(昭和46年)9月には、聖フランシスコ・ザビエルの像が聖堂のそばに建立され、これに伴い「聖フランシスコ・ザビエル記念教会(あるいは聖堂)」とも呼ばれるようになった>。

余談だが、平戸経由で五島列島の島を取材した時、ある家で「オランダ製の火縄銃」と「隠れキリシタンの像」を見せて貰った。どちらも初めて見るもので興奮した記憶がある。特に「隠れキリシタンの像」は、正面は仏像だが、裏には「キリスト像」が設えてあった。

きっと、キリシタン禁教令下で仏教徒を装いながらも、実際は密かにキリシタン信仰を貫いていた江戸時代の隠れキリシタン徒の様子が浮かび上がってくるような気がして、感動した。

話は、平戸の歴史になってしまったが、毎朝夕の愛犬の散歩の時、平戸ツツジに惹かれる中で、やはり平戸の歴史が一度に蘇ってくる。平戸ツツジの美しさは、本当に歴史まで呼び起こし、心まで豊かにしてくれるものだ。(了)
参考:ウィキペディア、平戸市          


2015年05月26日

◆「生誕300年祭」は蕪村の夢

毛馬 一三



江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれている。ところが、その生誕地が大阪毛馬村だとは、余り周知されていない。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋主と結ばれて蕪村が産まれた。母親が若くして京都丹後の実家に帰郷したため、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことや、父の「庄屋家督継承」も出来なかったことから、意を決して毛馬村を飛び出したようだ。

蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも師事として俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。

蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。>以上
 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は江戸から帰り、定住していた京都から船で「淀川」を下って、生誕地毛馬村を横目に眺めながら、頻繁に大阪にやって来ている。

京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だった。ここから上がって大阪市内の数多い門人弟子らを訪ねて回り「吟行」を多重に行っている。

また蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねたり、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪以外のいたる所も巡行している   

<特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)>

ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされている。

それだけではなく蕪村は、上記の通り京都に還って来てから、大阪のいたる所を吟行して回り、大阪俳人として活躍の場としていたのだ。これもあまり知られていない。

船着き場の「源八橋から蕪村生誕地の毛馬まで歩いてみても、30分ほどしかかからない、短い距離に生誕地はあるのだ。それなのに蕪村は、生涯地・毛馬には一歩も足を踏み入れていない。

やはり母の帰郷後も、家人からは私生児のことをやり玉にあげられて過度の苛めに合い、出家まで決意させられた辛い思いで彷徨したこともあったという。大坂生誕地に帰郷すれば「怨念」が脳裏を支配し、これが立ち寄りを阻んだものだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎるものだったと思える。

とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いない。

自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。

蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。

筆者が主宰するNPO法人近畿ホーラム21主催の「講座・蕪村顕彰俳句大学」で、大阪市立大学と共同し 来年に迫った2016年の年に「蕪村生誕300年祭」開催の準備を進めている。来年5月には「蕪村生誕300年記念行事実行委員会」(市大・村田正博教授)が、画期的な「シンポジューム」を開催することにしている。

蕪村が氏子で生誕地から離れるまで参拝続けた現在の「淀川神社」をはじめ、長期に蕪村顕彰をしている「蕪村通り商店街」と共同事業をする。また地元淀川・大東連合町会や地元NPO法人とも、足並みを揃えていく方向で打合せをしている。

「芭蕉・一茶」の生誕地では、生誕祭を含め様々な記念事業を行っているが、なんと大阪俳人蕪村生誕を顕彰する「お祭り」する実績は、大阪ではない。情けないことだ。

それだけに、何としてでも2016年の年に「蕪村生誕300年祭」を敢行し、大阪俳人与謝蕪村の名を国内外に広めたいと考えている。

大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村を、「蕪村生誕300年祭」開催の時に、蕪村から「望郷魂」だけでも貰いたいと思っている。

「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を実現させることが、筆者の人生最後の願いでもある。

<蕪村顕彰俳句:ホームページ
   http://www.buson-kensho-u.com/ をご拝読ください。>
                                             (了)

2015年05月22日

◆大阪八軒家浜船着場から歩こう

毛馬 一三


大阪「淀川」から毛馬閘門を通り、1級河川「大川」(旧淀川)を少し下って、大阪三大橋の「天神橋」を抜けると、「八軒家浜船着場」に辿り着く。

この「八軒家浜」は、古代から京都と結ぶ水上交通の拠点だった。江戸時代ではこの浜の船着場周辺に、八軒の船宿があったことから「八軒家浜」と呼ばれたらしい。その「記念碑」が、阪神電鉄天神橋駅前の老舗・昆布屋門前に立っている。

この「碑」の先の坂を上ると、江戸時代の西洋医学者・緒方洪庵の塾屋敷跡がある。ここに集まる弟子たちも、この「八軒家浜船着場」を常時利用した。坂本竜馬も、西郷隆盛も、ここの船着き場から近郊にある「薩摩屋敷」に通っている。

この「八軒家浜船着場」は、京都から屋形船でやって来た人々が、この船着場から「熊野詣」に赴く道筋として利用していた。今になって、ここ「八軒家浜船着場」が、世界遺産となった「熊野街道」の起点となっているのだが、意外にもそれが知られていない。

さて、その「熊野街道」に触れておこう。

<この「八軒家浜」を起点に、四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)、堺、和歌山などを通り、紀州田辺を経て、中辺路または大辺路によって熊野三山へと向かう道筋。

この熊野街道を経て参台する「熊野詣」は、平安時代中期ごろ、熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集めるようになったのに伴い、法皇・上皇などの皇族、女院らや貴族の参詣が、相次ぐようになったのが始まりだった。

室町時代以降は、武士や庶民の参詣が盛んになった。その様子は、蟻の行列に例えて、「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいだったそうだ。江戸時代になると伊勢詣とも重なり、庶民も数多く詣でたため、賑わいは浪速で最高だったといわれる。ただ明治以降は、鉄道や道路の整備により参拝者は少なくなる>。
参考―フリー百科事典『ウィキペディア

このように霊場熊野三山まで橋渡しする歴史的街道の起点の「八軒家浜船着場」は、これを賑わいのある水都大阪再生拠点にしようと、民官協働で、京阪電車天満橋駅の北側の大川沿いに幅約10メートル、長さ約50メートルの3層からなる鋼鉄製の巨大な「船着場」が建設された。

同船着場では、ゆったりとしたスペースがある水上バス(アクアライナー)や大型遊覧船が、ここから発進し水都大阪の川辺に広がる眺望とクルージングを楽しむことができる。

遊覧船に乗って身を乗り出して、目上に広がる大阪のまちの姿を眺めると、立体的な水都の形が顕れ、両岸のまちなみが覆い被さるような3次元都市を実感させてくれる。実にマジックな風景の出現であり、感動そのものだ。これは体験してみないと絶対に分からない。

大阪大手企業本社の東京一局集中や、大手企業工場の他府県や外国への移籍が目立つなど、大阪の経済基盤の沈下に歯止めが掛からない中で、この「八軒家浜」を観光名所として再起させることが出来れば、集客効果は抜群だろう。

しかも「緒方洪庵の塾屋敷跡」、皇族をはじめ秀吉も通った「八軒家浜」から「熊野詣」への新観光ルートを創りだし、歴史の歩きの楽しみを味合わせる事業が始まれば、大阪への集客に繋がることは間違いない。

「八軒家浜」祭りだけで終わって仕舞う行事だけではあまりにも単純な気がして、実に勿体ない。しかも、「熊野街道」の起点となっている「八軒家浜船着場」の歴史的価値をなえがしろにしてきた大阪市文化行政の手抜かりは情けない。

今からでも遅くない。「八軒家浜船着場」から世界遺産となった「熊野詣」を複活させる、イベントや「歩き会」を実施すべきだ

そう思うだけでも「八軒家浜船着場」碑が、老舗「昆布屋)門前にポッンと立っているだけでは、寂し過ぎて仕方がない。(了)

2015年05月20日

◆与謝蕪村の生誕300年記念祭 開催

毛馬 一三


与謝蕪村生誕日は不明だ。松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸時代の俳人与謝蕪村は、江戸の享保元年(1716)に生まれているが、肝腎の生誕日は不明だ。

しかも与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だということも、江戸時代から「正確」に知れ渡っていなかった。

生誕地は、明治時代になって、蕪村俳句を広く世に評価し紹介した正岡子規でさえ、蕪村生誕地が大阪毛馬村だと、論述していない。

生誕地が「毛馬町」だと分かったのは、なんと終戦直後戦後になって、やっと「証明」されたのだ。しかし前記のように「生誕日」は、今になっても分からない。

与謝蕪村の生誕300年の年になる、来年2016年の年に記念祭行事に取り組もうと「蕪村生誕300年記念祭行事活動」を始めようとした際、「生誕日」がまだ不明なのには、戸惑わされた。「生誕日」に合わせて300年記念祭をやれないのだ。

しかし、終戦直後戦後とはいえ、生誕地が「毛馬町」だと「証明」されたことで、蕪村が大阪俳人であることが明らかになった。「生誕日」は不明ながらも、来年から初めて「生誕記念祭」を、生誕地大阪毛馬町でやれるのは、こんな歓喜なことはない。

こるから与謝蕪村生誕のことを追々。

先ず、生誕地が大阪毛馬町だと「証明」されたのは、なんと終戦直後だという事を教えて頂いたのは、筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム21「蕪村顕彰俳句大学講座」で講師をお願いしている、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授だった。

結論から先にいうと、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったというのである。

藤田教授の話は、次のようなことだった。

<蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍していた江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという明確な「記録」は残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、いなかったのではないかというのだ。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。

しかし、残念なことにその舞台となる毛馬の淀川馬堤近くが自分の「生誕地」だとは、一切触れていない。想像してもこの書き方では、「生誕地を毛馬村」と結びつけることは出来ない。

だがその後、願ってもないことが起きた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中で、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと綴っている。

春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それなら、これを「物証」として、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かった筈だが、そうならなかった。これには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村直筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地の複数説」を逆に加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態だった。

ところが、「蕪村直筆」だと、公式に「認定」される「書簡」が前記の如く、終戦直後偶然にも、奈良県で見つかったのだ。
これが歴史的実証となった。弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「蕪村直筆」が、「毛馬生誕地」と確定したものの、終戦直後の認定だから、本当に遅きに失したと言わざるを得ない。

これが「蕪村生誕地の複数説」を打消しし、「毛馬村を生誕地」とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになった。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

これにより、生誕地が毛馬村であり、生誕の年も2016年(平成28年)であることが重複して不動のものになったことになる。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村直筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも、無かったことになるだろう。>

ところで、終戦後に生誕地が「大阪毛馬町と証明」が確定したが、今ですら地元大阪でも、「与謝蕪村が大阪俳人」であることを知らない市民が多い。

次世代を担う児童生徒の教科書に取り上げられていないことを考えると、文部科学省の無配慮が指摘され、全国の児童生徒が大阪毛馬の生誕地のことを知らないことは、これが主因だ。残念で仕方がない。

更にはまだ、蕪村生誕日が分かっていないことも、文科省の研究が進んでいないことだ。学者に呼びかけて、探究を進めてほしい。

筆者主宰の「蕪村顕彰俳句大学講座」では、2016年(平成28年)の蕪村生誕三百年に、生誕日は不明でも、この年に「三百年記念諸行事」を開催し、俳句文化振興と後世への伝承、そして国際化への発信を大々的に進めたいと考えている。

余談ながら、藤田教授との懇談の中で、更に驚いたことがあったことを記して置きたい。

「蕪村は淀川を下って源八橋から船を降りて浪速の弟子のもとに往き来きしていたようですが、それほど郷愁があったのなら、極く近郊にあった毛馬村の生家に立ち寄るのが自然だと思うのです。その痕跡はありませんか」と尋ねた

答えは、「それを証明する歴史書類はありません。立ち寄ったか否かどうかも、わかりませんね」ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったとしても、生誕地へ何らかの理由で寄りたくない気持ちがあったのだろうという推察が浮上する。

恐らく奉公人だった母と、庄屋・問屋の父が亡くなってから、家人たちによる私生児への極めつけの「いじめ」に合い、そのために十七・八歳で家を出奔、江戸に下ることを考えざるを得なかったのだろう。そのことが「生家には生涯立ち寄らなかったこと」に結びついているのではないだろうか。


どうか、蕪村生誕300年を迎える2016年・来年の春期から、私たち主催の「蕪村生誕三百年記念諸行事」開催を、まず大阪市立大学主導の「蕪村シンポジューム」開催を五月から始め、氏子蕪村が参拝した実績のある現「淀川神社」や近郊の「蕪村通り商店街」と共同し、適切な時期を選んで「300年記念お祭り」を進めることにしている。

是非共、皆様のご賛同とご支援を、改めてお願い申し上げます。(了)




2015年05月14日

◆「青瓦台」襲撃未遂事件 知ってる?

毛馬 一三


韓国の朴槿恵大統領が、日本の歴史問題を掲げて批判するたびに、思い出すことがある。

1968年、父の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領と閣僚の暗殺を狙って、北朝鮮の第124部隊第1中隊第1小隊に所属する31名が、休戦ラインを突破し侵入した事件だ。

この韓国大統領府「青瓦台」襲撃事件は未遂に終わったが、事件を背負っていることは、余り韓国では口に出さない。

筆者は、当時NHK大阪放送局の府庁キャップをしていた。同事件に深い関心を覚えたため個人的単身で渡韓し、既知の有力韓国新聞社社長の紹介を受けて、韓国政府公安機関KCIAの要人と面会し、事件の「詳細」を“取材”した。

勿論休暇をとっての行動だった。その取材内容は立場上「公」には出来なかったが、当時のCIAの要人からの「取材メモ」を探し出した。

そのメモが見つかった。下記に添えておきたい。

冒頭に記述したように、韓国青瓦台奇襲は、1968年1月21日夜10時を期して決行する命令が、金日成首領から金正泰を通じて出された。

青瓦台奇襲部隊は組長の金鐘雄大尉(事件後4日目に射殺)ら31名で、唯一生き残った金新朝も一員だった。

全員が機関短銃1丁(実弾300発)、TT拳銃1丁、対戦車手投げ弾1発、防
御用手投げ弾8発と短刀で武装した。

奇襲部隊は、1組が青瓦台の2階を奇襲して朴正煕大統領と閣僚を暗殺、2組は1階を襲撃して勤務員全員を殺し、3組は警備員、4組は秘書室全員射殺というのが任務だった。

16日の午後、黄街道延山基地を出発。途中軍事休戦ライン南方の非武装地帯を緊張しながら訓練通り過ぎ、ソウルに真っ直ぐのびる丘陵を辿った。歩哨所や検問に遭遇しなかったため、金組長は「南」の士気が乱れている所為だと勘違いした。このため、31人全員が隊列を組んで堂々と行軍するという行動に出た。

だが行軍しているうち、「戸迷い」にぶち当たった。所持した地図に従ってソウルにいくら接近しても、「北」で教育された荒廃している筈のソウル市街は、なんと21日の夜になっても現れてこない。

南下すればするほど煌々とした市街地が現れてくるばかりだ。「これはソウルではない」。「じゃ、一体ここは何処なんだ」。「北」の教育が間違っているとは一瞬たりとも気付かない、ミスを更に重ねた。

その上に韓国軍の服装、装備に身を固めている限り怪しまれることはないと思い上がった金組長が、敵地で初めて出会った韓国人2人に「訓練中に道に迷ったのだが、ソウルに行く道を教えてくれないか」と、呆れた質問をしている。

奇襲隊に遭遇した2韓国人は、ソウルへの道筋を教えたものの、不審に思った。

眼下に広がるソウルを韓国軍が見つけられない筈はない。発音も韓国訛ではない。まして前年6月から「北」の武装スパイが上陸して韓国軍から射殺された事件を2人は知っていた。

2人は急ぎ山を降り、警察に通報した。これが襲撃防止の貴重な要因となった。

奇襲隊は21日夜9時、ソウル北方紫霞門の坂道を通過しようとして、警察の検問にひっかかった。尋問を受けた奇襲隊は慌てて機関短銃を乱射し、市バスと民家に見境なく手投げ弾を投げた。

奇襲隊は、青瓦台の800m手前まで迫りながら、韓国軍と警察の掃討作戦によりちりぢりに撃退された。2週間に及ぶ掃討作戦により、金新朝1名が逮捕され、他は全滅させられた。

この銃撃戦で韓国側は、崔警察署長を含め68名が死亡している。

序でながら私の「メモ帳」には、青瓦台襲撃に失敗した「北」が、10ヶ月後の11月2日、襲撃組長金鐘雄大尉ら31名の同期生120人のいわゆるゲリラ別斑が、韓国慶尚北道蔚珍郡と荏原道三に海上から「南」に進入しているとある。

このゲリラ隊は、山岳地帯の小部落を武力で占領、赤化せよという工作命令を受けていた。部落民を集めて赤化を強要する「部落拉致事件」。

事実従わない者は短剣で刺し、石で殴り殺すという虐殺を行っている。

「共産党は嫌い」と叫んだ李承福という10歳の少年の口を引き裂いて殺した。断崖絶壁をロープでよじ登り、部落を占領して住民を」拉致し、赤化地帯にするという想像を絶するこの「北」のゲリラ事件は、何故かわが国では余り知られていない。

「メモ帳」に記した青瓦台奇襲して朴正煕大統領と閣僚を暗殺しようとした歴史的事実は、前述のように、今は韓国でも秘密のようで、余り知られていない。

北朝鮮は、潜水艦からミサイルを発射実験をして、韓国・日本・中国。アメリカを威圧している。

日本は、韓国大統領襲撃事件の歴史には関係ないが、朴槿恵大統領も、これからもっと日米との友好関係を、真剣に考えていくべきだろう。(了)

★「頂門の一針主宰者・渡部亮次郎氏より」
:唯一生き残った金新朝氏に1973年訪韓しインタビューしたことがある。宣教師になっていた。ソウル市内を煌々と照らす光景を目にしたとき「隊長」は「しまった間違えて東京に上陸しちまった)とつぶやいたという。