2017年02月10日

◆青瓦台襲撃未遂事件 知ってる?

毛馬 一三



韓国の朴槿恵大統領らが、日本の歴史問題を掲げて批判するたびに、思い出すことがある。

1968年、朴槿恵大統領の父の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領と閣僚の暗殺を狙って、北朝鮮の第124部隊第1中隊第1小隊に所属する31名が、休戦ラインを突破し侵入した事件のことだ。

この韓国大統領府「青瓦台」襲撃事件は未遂に終わったが、事件を背負っていることは、余り韓国では口に出さない。

筆者は、当時NHK大阪放送局の府庁キャップだった。同事件に深い関心を覚えたため個人的単身で渡韓し、既知の有力韓国新聞社社長の紹介を受けて、韓国政府公安機関KCIAの要人と面会し、事件の「詳細」を“取材”した。

勿論休暇をとっての行動だった。その取材内容は立場上「公」には出来なかったが、当時のCIAの要人からの「取材メモ」を探し出した。

そのメモが見つかった。下記に添えておきたい。

冒頭に記述したように、韓国青瓦台奇襲は、1968年1月21日夜10時を期して決行する命令が、金日成首領から金正泰を通じて出された。

青瓦台奇襲部隊は組長の金鐘雄大尉(事件後4日目に射殺)ら31名で、唯一生き残った金新朝も一員だった。

全員が機関短銃1丁(実弾300発)、TT拳銃1丁、対戦車手投げ弾1発、防
御用手投げ弾8発と短刀で武装した。

奇襲部隊は、1組が青瓦台の2階を奇襲して朴正煕大統領と閣僚を暗殺、2組は1階を襲撃して勤務員全員を殺し、3組は警備員、4組は秘書室全員射殺というのが任務だった。

16日の午後、黄街道延山基地を出発。途中軍事休戦ライン南方の非武装地帯を緊張しながら訓練通り過ぎ、ソウルに真っ直ぐのびる丘陵を辿った。歩哨所や検問に遭遇しなかったため、金組長は「南」の士気が乱れている所為だと勘違いした。このため、31人全員が隊列を組んで堂々と行軍するという行動に出た。

だが行軍しているうち、「戸迷い」にぶち当たった。所持した地図に従ってソウルにいくら接近しても、「北」で教育された荒廃している筈のソウル市街は、なんと21日の夜になっても現れてこない。

南下すればするほど煌々とした市街地が現れてくるばかりだ。「これはソウルではない」。「じゃ、一体ここは何処なんだ」。「北」の教育が間違っているとは一瞬たりとも気付かない、ミスを更に重ねた。

その上に韓国軍の服装、装備に身を固めている限り怪しまれることはないと思い上がった金組長が、敵地で初めて出会った韓国人2人に「訓練中に道に迷ったのだが、ソウルに行く道を教えてくれないか」と、呆れた質問をしている。

奇襲隊に遭遇した2韓国人は、ソウルへの道筋を教えたものの、不審に思った。

眼下に広がるソウルを韓国軍が見つけられない筈はない。発音も韓国訛ではない。まして前年6月から「北」の武装スパイが上陸して韓国軍から射殺された事件を2人は知っていた。

2人は急ぎ山を降り、警察に通報した。これが襲撃防止の貴重な要因となった。

奇襲隊は21日夜9時、ソウル北方紫霞門の坂道を通過しようとして、警察の検問にひっかかった。尋問を受けた奇襲隊は慌てて機関短銃を乱射し、市バスと民家に見境なく手投げ弾を投げた。

奇襲隊は、青瓦台の800m手前まで迫りながら、韓国軍と警察の掃討作戦によりちりぢりに撃退された。2週間に及ぶ掃討作戦により、金新朝1名が逮捕され、他は全滅させられた。

この銃撃戦で韓国側は、崔警察署長を含め68名が死亡している。

序でながら私の「メモ帳」には、青瓦台襲撃に失敗した「北」が、10ヶ月後の11月2日、襲撃組長金鐘雄大尉ら31名の同期生120人のいわゆるゲリラ別斑が、韓国慶尚北道蔚珍郡と荏原道三に海上から「南」に進入しているとある。

このゲリラ隊は、山岳地帯の小部落を武力で占領、赤化せよという工作命令を受けていた。部落民を集めて赤化を強要する「部落拉致事件」。

事実従わない者は短剣で刺し、石で殴り殺すという虐殺を行っている。

「共産党は嫌い」と叫んだ李承福という10歳の少年の口を引き裂いて殺した。断崖絶壁をロープでよじ登り、部落を占領して住民を」拉致し、赤化地帯にするという想像を絶するこの「北」のゲリラ事件は、何故かわが国では余り知られていない。

「メモ帳」に記した青瓦台奇襲して朴正煕大統領と閣僚を暗殺しようとした歴史的事実は、前述のように、今は韓国でも秘密のようで、余り知られていない。

北朝鮮は、潜水艦からミサイルを発射実験して、韓国・日本・中国。アメリカを威圧している。

日本は、韓国大統領襲撃事件の歴史には関係ないが、朴槿恵大統領らも、これからもっとトランプ米大統領を頼らず、日米と独自友好関係を、真剣に考えていくべきだろう。(了)

2017年01月27日

◆大阪を行脚していた与謝蕪村

毛馬 一三



江戸時代中期の大阪俳人で画家である与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれている。生誕地が大阪毛馬村と余り周知されていない事実のことは本誌で既に触れている。

しかし、蕪村が俳人として大阪の中心部を活躍の舞台にしていたことには触れていない。
むしろそれに気づかなかったのが本当のところだ。それはこれから追々。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸に下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な郷愁は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

おそらく、京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲からも過酷ないじめに遭わされたことなどから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。

しかも蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だ。だが、どうしてこんな超有名な俳人に師事し俳諧を学ぶことができたのか、田舎の毛馬村と江戸との結びつきや、師匠との今謂うコネがどうして出来たのか、ミステリーだらけだ。この時蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。


<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、頻繁に大阪にやって来ていたことが、最近分かってきた。船から陸地に上がったのは、生誕地毛馬村とは全く正反対西側の淀屋橋や源八橋からで、ここから大阪市内にある数多くの門人らを訪ねて回っている。

蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ね、大阪の蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回っている。大阪市内の各地を回ったことになる   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

早い話、蕪村にとり大阪は活躍の場だった訳だ。これもあまり知られていない。

こんな折、驚く情報と嬉しい要請が飛び込んできた。

大阪市北区梅田に茶屋町がある。ところがここに「菜の花や月は東に日は西に」の蕪村句を刻んだ高さ1m、幅50cmの碑があるのを初めて目撃した。この地では一昨年から地域の有志が「菜の花」を植え、「菜の花の散歩道」というまち起こしイベントを催している。

この句を、この茶屋町で蕪村が出句したかどうかはわからないが、北区茶屋町のこの周辺に蕪村が立ち寄っていたことは事実なので、これに因んでイベントを企画したという。しかも嬉しい要請とは、このイベントに私が主宰するNPO法人近畿ホーラム21の俳句つくり講座「句会」を催して欲しいとの要請が来たことだった。

このような話は、他の地域からも今も打診が相次いでいる。後世のために蕪村を顕彰し、俳句文化振興活動をしようという当NPO法人近畿フォーラム21の試みは、立ち上げてから既に10年が経ちようやく実り始めた。

大阪を行脚して回り俳人としての名を高めた与謝蕪村の俳句を、出来れば外国にも広めて行くことを、各大学と共同して進めたいとも考えている。(了) 

2017年01月26日

◆「黄砂アレルギー」に注意

毛馬 一三



花粉症歴の経験が全く無い筆者にとって、軽い風邪症状の一種かなと思って、余り気にも止めていなかった。

ところがとんでもない。次第に喉の違和感が痛みを伴うようになり、咳も痰も出るようになった。

そこで、慌てて近くの内科診療所に飛び込んだ。内科医は喉の症状を見た途端、「炎症がひどいですね」という。「原因は?」と訊いたら、「飛来してくる黄砂の黴によるものと思われます。花粉症ではありません」と教えてくれた。

同医師によると、黄砂によるいろんな健康被害で訪れる患者が、急増しているという。同医院から、

・抗生物質―フロモックス錠100mg(毎食後1錠・3日間分)
・咳を鎮める薬―メジコン錠15mg(毎食後2錠・7日分)
・痰や膿を薄めて、痰や鼻汁を出しやすくする薬―ムコダイン錠500mg(毎食後1錠・7日分)
・胃薬―セルベックスカプセル50mg(毎食後1カプセル・7日分)薬を貰った。

だが、マスクを付けて外出を余儀なくさせられた1週間が過ぎても喉の炎症と咳、痰共に治まる気配が無い。再診の結果、まだ喉の炎症は完治してないと診断され、改めて下記の薬を貰った。

・咳を鎮める薬―メジコン錠15mg(毎食後2錠・7日分)
・痰や膿を薄めて、出しやすくする薬―クリアナール錠200mg(毎食後1錠・7日間分)
・炎症を抑えて腫れや痛みを和らげる薬―ダーゼン5mg錠(毎食後1錠・7日分)
・SPトローチ0.2mg(28錠・1日4回)
・アズノールうがい液4%(5ml・1日4回)

2度目の薬を飲んだり、うがいを励行したところ、数日が経過してやっと喉の痛みや違和感がなくなり、咳と痰も出なくなった。

喉にこのような強度な症状が出たのは初めてのことだ。しかも気にはなっていた飛来の「黄砂」によるものだ。

今強烈になっている中国の大気汚染と原因が重なっているらしく、中国から飛来する「黄砂と大気汚染」が、日本に被害をなすりつけているのだ。気象庁も「中国で黄砂が急激に発生してる」と指摘している。日本が被害者になるのか。無性に腹が立つ。

話は後先になるが、<黄砂(こうさ)とは、中国を中心とした東アジア内陸部の砂漠または乾燥地域の砂塵が、強風を伴う砂嵐などによって上空に巻き上げられ、春を中心に東アジアなどの広範囲に飛来し、地上に降り注ぐ気象現象。あるいは、この現象を起こす砂自体のこと>である。

細かい砂の粒子や、粒子に付着した物質、黄砂とともに飛来する化学物質などにより、さまざまな健康被害が生じる。

即ち、咳、痰、喘息、鼻水、痒みといった呼吸器官への被害や、目や耳への被害が目立つ。黄砂が多い日には、花粉症、喘息、アトピーなどのアレルギー疾患の悪化が見られる。>という。 
参考―フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

花粉症で悩まされるだけでなく、黄砂アレルギーで健康被害を煩わされるのでは、堪ったものではない。

ところが肝腎の黄砂による呼吸器官への被害が、増えていることにはあまり知られていないようだ。

黄砂の飛来が顕著な九州や関西では、既にこの被害が出て問題化しているが、全国にも広がるだろう。

黄砂の飛来が予測される時は、TVの「天気予報」で早めに知らせてほしい。

しかも喉などに異常を感じたら、医療機関で診察を早めに受けられることをお勧めしたい。(了)     


2017年01月20日

◆敬愛愛犬の習性

毛馬 一三



「犬は飼い主の足音を聞き分けている」という新聞の特集記事を読んだ。

これは、京都大の比較認知科学グループが様々な種類の犬を使った実験で、この通説を確かめたものだという。犬は飼い主の微妙な癖を覚え、聞き分けているのではないかというのだ。

<京大では、チワワやポメラニアン、ミックス(雑種)など様々な犬種の計21頭を、ドアや窓を閉め切ったマンションの一室に犬だけを入れて実験をした。

知らない人に部屋の外を2往復してもらい足音を聞かせた後、(1)その人が入ってくる(2)飼い主が入ってくる、逆に飼い主の足音を聞かせ、(3)飼い主が入ってくる(4)知らない人が入ってくる―の4パターンの実験。

入ってきた人を犬が見つめる時間を比較した結果、知らない人の足音を聞かせた後、飼い主が入ってきた時(2)は、知らない人が入ってきた時(1)より見つめる時間が平均で約2割長かった。

犬は期待と反する現象が起きると、驚いてその対象を見つめる。(2)では足音を聞き分け「飼い主ではない」と思ったのに、現れたのは飼い主だったので驚いたとみられる。

京大比較認知科学グループによると、「飼い犬は、飼い主の歩き方のリズムや左右のちょっとしたアンバランスなどの癖を知っているのではないか」とみている>という。

実際この実験結果には、愛犬飼い主としておおいに納得できる内容だ。

我が家の愛犬は、11歳のテリア系の小型犬ノーフォークテリア。私や家内が外出先から帰ってくると、足音や歩き方のリズムなどで聞き分け、ドアを開けると「帰宅歓迎」の声を上げながら飛びついてくる。マンションの外側から僅か3段の階段を上がっただけの「足音」で、わたし達の帰宅を識別するのだろう。

ところが、セールスなどの外来訪者の足音だけが近づくと、むっくり起き上がって「警戒心と怒り」を剥き出しに大声を張り上げ、玄関に向かって走っていく。犬が、未知の外来訪者の足音に異常なほど敏感に反応する習性があるのは、飼い主ならどなたもご存知の筈だ。

この習性が、マンションでの空き巣等の犯罪防止に大きな効果をあげていると、団地内管理をしている大手ビル管理会社の役員から聞かされ、愛犬の習性を熟知して「家内安泰」に理解していることに感謝した。

ところがその「足音識別の習性」より、まだ優れた修正に驚かされることがある。

というのは、我が家の愛犬ノーフォークテリアは、私たちがさりげなく交わす「電話の会話中に、これからここにお出でなさい」というやり取りをすると、それをしっかり感知する習性があることだ。そうすると、すぐさま玄関ドアの前にじっと座り込んで、親近者が来るまで、じっと「待機」している。

単に「いらっしゃい」とか「お帰りになりますか」程度の短いフレーズの会話をなんと正確に聞き分けているのだ。しかもその親近者を、熟知している、親しい知人だと判断する能力があるのだろうか。その「聞き分け名人芸」には舌を巻かざるを得ない。

親近来訪者が玄関に現れると、愛犬はピンピン飛び付いて喜びを思い切り表す。私たちが「いらっしゃいませ」と発する前に、愛犬の行動を宥めるのが先の段取りとなる。

この人も愛犬の歓迎におおいに喜び、来訪の雰囲気が一気に盛り上がる。親近者を招き入れる私たちも、これに越したことはない。愛犬は、歓迎の飛び跳ねを終えると、次は先頭にたって来訪者を居間へと案内する。

愛犬の賢さは筆舌に尽くし難いが、電話のやり取りを聴いてから次への行動を起こすということは、人間の言葉がわかっているというだけではなく、歓迎の人間の喜びまではっきりと熟知しているということになる。

こうした賢い「習性」が日常的にいろいろな面で顕になると、家族以上の愛情が湧いてくるものだ。またその愛情をしっかり受け止め、それを待ち望んでいるだけに、愛犬は、実に「賢い」という言葉しか思い浮かばない。愛犬も11才と長生きしているが、この敬愛の才能が、筆者家族と共に長く長く続けて欲しいものだ。 (了)

2017年01月08日

◆世界最古の政治小説「源氏物語」

毛馬 一三



世界最古の長編小説「源氏物語」が一条天皇に献上されたのは、寛弘5年(1008年)11月17日。

紫式部が、父の赴任先の越前国で当時、何よりも貴重だった「越前和紙」とめぐり合い、2年間にわたって思いのままに、物書きに熱中したことは、本欄ですでに触れている。(平成20年8月29日号=和紙と生きた紫式部)

ところで、この「源氏物語献上」に先立つこと3年前の寛弘2年(1005年)12月29日に紫式部は、宮中に呼び出されている。何とこの召し上げの仕掛け人が、藤原道長だったのだ。

どうして藤原道長が、紫式部を宮中に召しあげたのか。それは当時宮中で繰り広げられていた壮絶な権力闘争と無関係ではない。

その権力闘争とは、道長の兄道隆盛の息子「伊周(これちか)と道長とが、真っ向から繰り広げていた藤原同族同士の宮廷内対決だった。

内大臣伊周に対抗するには、道長はこれを超える役職への昇進しかなかった。道長は画策した。一条天皇の生母で、実姉の強力な支援を懇願して、「関白」に次ぐ地位の「内覧」職を獲得し、役職の上では、一応互角に並んだ。

だが、道長にとっては、まだ後塵を拝する処があった。伊周は、妹の定子を一条天皇の中宮に送り込み、堅牢な地位を確保していたからだ。

道長にしては、この一角を何としてでも切り崩す必要があった。このため陰謀を試みたのが、それは一条天皇のもう一人の中宮に娘の彰子を送り込んだのである。

こののち中宮彰子は、1008年9月11日、「敦成(あつひら)親王」(後一条天皇)を出産。道長は、これによって、遂に権力の頂点を立ったのである。

しかしそれに至る以前に、政治家道長がなぜ紫式部の召し上げにまで手を打った老獪な魂胆とは一体何だったのか。

恐らく文学好きといわれた一条天皇の気を惹くため、紫式部の「源氏物語」の献上を早々と仕組んでいたと思われる。言い換えれば、天皇の歓心を買うための一種の「政争の具」として周到に紫式部の召し上げを準備していたのだろう。

紫式部は、中宮彰子の教育係として勤める傍ら、3年近く宮中の様々の人間模様、権力構造、熾烈な利害闘争などをつぶさに見ながら、冷静な考察と巧みな筋立てを描きながら、得意満面に「源氏物語」を書き綴っていったとみられる。

色とりどりの54帖の冊子、400字詰原稿用紙にすれば、2300枚ともなるとてつもない長編小説。

越前和紙と墨を使ったきらびやかな「源氏物語」の献上が、一条天皇の心を捉えて仕舞ったことは、想像に難くない。

次々と広がる物語の中で、天皇自身が、思い当たる舞台での隠れた暗闘と情念の世界の展開や登場人物への特定がすべて思い当たり共鳴感動したとしたら、天皇にとりこれに勝る興味を満たす悦楽は、他には無かったのではないか。

そう見ていくと、源氏物語は、「悲恋」、「純愛」、「禁断の恋」の物語ではない。むしろ宮中文化の中で、現場で目撃し鋭敏に感じ取った「政治暗闘の記録文学」だったのだ。

世界で最古の「政治小説」と言ってもいいかもしれない。「政治小説の源氏物語」となれば、また。評価も見方も読者層も、大きく変わっていくのではないだろうか。(了) 

2017年01月01日

◆学問の神様は「政治左遷」

毛馬 一三



明けましておめでとう御座います。

郷里九州福岡の友人から元旦、沢山の「年賀状」が届くが、今朝元旦に以前来たことある「興味ある添え書き」の友人年賀状内容のことを想い出した。

それは、「大宰府天満宮に初詣。道真公は、学問の神様というより政治家」と記されていたことだった。

筆者も、元旦の初詣は、福岡に居た時は大宰府天満宮に毎年お参りに参じていた。

今は、大阪市北区にある菅原道真を祀る「綱敷天神社」を詣出ている。福岡の大宰府に流される時、淀川のこの地の「梅」に目を留め立ち寄ったことを縁起とする、学問の神様の神社だと言われているからだそうだ。

友人の「書き添え」を貰ったのには当時興味あった。菅原道真が右大臣という宮廷要職から大宰府に「左遷」されたことは承知していた。だが昔は、「左遷の背景」は、むしろ「学問の神様」として幼少の頃からは崇め、参拝し続けてきたのでである。

ところが友人がわざわざ「学問の神様というより政治家」と、この年になり改めて添え書きしたのは、道真が「大宰府まで流されてきたのは政治絡み」であったことを伝えたかったことだった。今は当たり前の常識だが、その年賀状を受けとった当時は心を揺さぶった想いが蘇る。

となると、道真の大宰府への「左遷」とは、秀でた「学識」に対する貴族や官僚達の妬みや、やっかみからではなく、右大臣道真である「政治家」としての暗闘の絡みがあったことを指していることになるのだ。

調べて行くうち、添え書きが納得出来る気がしてきたことも思い出す。それはこうだ。

道真は、父から天才教育を受けて育ち、862年(貞観4年)弱冠18歳で文章生に合格、さらに870年(貞観12年)26歳で国家試験に合格。祖父や父と同じく式部少輔、文章博士もつとめ、いわゆる宮廷筆頭学者として名声を博した。

こうした博学な道真に目を付けた宇多天皇が、道真を右大臣まで重用し、藤原氏を後ろ盾にしながら、有力皇親、賜姓源氏を抑え込む政略遂行に利用した。しかも宇多天皇が譲位の時、新帝への上奏と勅命旨達は、必ず道真を経るようにまでの権力を与えた。お陰で道真は、遣唐使廃止も強行している。


これらが裏目に出て、宇多天皇(その後上皇・法皇)と、譲位された醍醐天皇との政争に巻き込まれることになった。しかもこの抗争が、宇多天皇が擁護する右大臣道真と、醍醐天皇の懐刀の左大臣藤原時平と政敵になるまでに発展、宮廷内の政争は激化した。

醍醐天皇になって実権を握った藤原時平は、味方の有力皇親、賜姓源氏に加えて、藤原氏一派までも纏めて「反右大臣道真」組織を作り上げ、道真を急速に破局に追い込んで行った。

しかも道真の娘を斎世親王(醍醐天皇の弟)に嫁がせたことが、醍醐天皇を廃することを企図していることだとの噂を宮廷内に流し、道真を完全孤立化させた。

その後、昌泰4年(911)1月25日、突然道真に「太宰権帥(だざいのごんのそち)」への左遷の「宣命」が出されたのである。

伝えられる「宣命」によると、道真は、「寒門より取り立てられ大臣になったのに知足の分を知らず、専権の心を以って前上皇を欺き、廃立を行って父子(宇多先帝と醍醐天皇)の慈を離間し、兄弟(醍醐天皇と皇弟斎世)の愛を破ろうとする」となっている。

道真の左遷の報せを聞いた宇多上皇が、内裏に駆けつけ醍醐天皇との面会を申し出たが、結局叶わなかった。頼みの綱だった上皇の擁護も受けることができず、左遷は実行に移された。肝腎の道真には、一言の釈明、弁解も許されなかったという。

政敵藤原時平の完全勝利に終わったわけで、「政治左遷」が見事に成功したことになる。政争に敗れた道真は、筑紫下向に当たり、自邸の梅に向かって「東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」と屹然と詠んだと伝えられる。

友人は、今年の初詣でこれを知り得たことから、恐らく筆者も同類であろうと考え、添え書きを寄越したに違いない。それも謎めいた書き方で。

添え書きを貰って、新たな菅原道真像が浮かび上がってきた。純粋博学な「学問の神様」と信じ込んでいた道真も、関った激しい「政争」に敗れ、九州築紫の大宰府に「左遷」させられた政治家だったのだ。(了)

参考―平凡社発行 「菅原道真」      


2016年12月25日

◆賢い愛犬の習性

毛馬 一三


以前の新聞で、「犬は飼い主の足音を聞き分けている」という記事を読んだ。

これは、京都大の比較認知科学グループが様々な種類の犬を使った実験で、この通説を確かめたものだという。犬は飼い主の微妙な癖を覚え、聞き分けているのではないかというのだ。

<京大では、チワワやポメラニアン、ミックス(雑種)など様々な犬種の計21頭を、ドアや窓を閉め切ったマンションの一室に犬だけを入れて実験をした。

知らない人に部屋の外を2往復してもらい足音を聞かせた後、(1)その人が入ってくる(2)飼い主が入ってくる、逆に飼い主の足音を聞かせ、(3)飼い主が入ってくる(4)知らない人が入ってくる―の4パターンの実験。

入ってきた人を犬が見つめる時間を比較した結果、知らない人の足音を聞かせた後、飼い主が入ってきた時〈(2)〉は、知らない人が入ってきた時〈(1)〉より見つめる時間が平均で約2割長かった。

犬は期待と反する現象が起きると、驚いてその対象を見つめる。(2)では足音を聞き分け「飼い主ではない」と思ったのに、現れたのは飼い主だったので驚いたとみられる。

京大比較認知科学グループによると、「飼い犬は、飼い主の歩き方のリズムや左右のちょっとしたアンバランスなどの癖を知っているのではないか」とみている>という。

この実験の結果には、愛犬の飼い主の筆者も、おおいに納得できる内容だ。

我が家の愛犬は、11歳の小型ノーフォークテリアだが、私や家内が外出先から帰ってくると、その外出時間の長短に拘わらず、足音や歩き方のリズムなどで聞き分けるのか、ドアを開けると「帰宅歓迎」の声を上げながら飛びついてくる。マンションの外側から3段の階段を上がって来るまでの間に「足音」で、わたし達の帰宅を識別したのだろう。

ところが、セールスなどの来訪者の足音が近づくと、むっくり起き上がって「警戒心」剥き出しに大声を張り上げ、玄関に走っていく。犬が、知らない来訪者の足音には異常なほど敏感に反応する習性があるのは、飼い主なら皆ご存知の筈だ。

この習性が、マンションでの空き巣等の犯罪防止に大きな効果を挙げていると、団地内に住んでいる大手ビル管理会社の役員から聞かされ、なるほどと思ったことがある。

ところがその「足音識別の習性」より、私にはまだ驚かされることがある。

というのは、我が家の愛犬ノーフォークテリアは、私たちがさりげなく交わす電話の会話の中で、「これからここにお出でなさい」というと、そのやり取りをキチンと聞き分ける習性がある。そうすると、すぐさま玄関ドアの前まで移動し、じっと座り込んで来訪者が来るまで「待機」するのだ。

単に「いらっしゃい」とか「お出でになりますか」程度の短いフレーズの意味を正確に聞き取り、しかもその来訪者が、我が家と親しい間柄の知人だと判断するのだろうが、その「聞き分け名人芸」には、舌を巻く以外にはない。

暫くして来訪者が玄関に現れると、愛犬はピンピン飛び付いて喜びを思い切り表す。私たちが「いらっしゃいませ」と発する前に、愛犬の行動を宥めるのが先の段取りとなる。

訪問者も愛犬の歓迎におおいに喜び、来訪の雰囲気が一気に盛り上がる。訪問者を招き入れる私たちも、これにこしたことはない。愛犬は、歓迎の飛び跳ねを終えると、次は先頭にたって来訪者を居間へと案内する。

愛犬の賢さは筆舌に尽くし難いが、電話のやり取りから次への行動を起こすということは、人間の言葉がわかっているというだけではなく、飼い主や親しい知人の喜びの心理まではっきりと理解しているということになる。

こうした賢い「習性」が日常的にいろいろ顕になると、家族以上の愛情が湧いてくるものだ。またその愛情をしっかり理解し、それを待ち望んでいる愛犬に接していると、「賢い」という言葉しか見当たらない。(了)

2016年12月14日

◆芭蕉随行の『曾良』は忍者?


  毛馬 一三

拙稿「芭蕉終焉(しゅうえん)の地って?」の第2弾。同稿が日本一メルマガ「頂門の一針」に掲載されたところ、当主宰者の渡部亮次郎氏からご寄稿を頂戴した。

もともと拙稿とは、松尾芭蕉の「終焉の地」が大阪・南御堂向かいにあった花屋仁左衛門の離れ座敷であったことや、辞世の句といわれる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が、この座敷の病の床で亡くなる4日前に詠んだものであることを、筆者は不覚にも知らなかったが、先般偶然このことを知る機会を得たことから、思い立って綴ったものだった。

その執筆中に、渡部亮次郎氏が以前本欄に掲載された『老化は熟成である』の記述の中に、<生きるとは死ぬことである。生まれたら成長すると言うが、それは違う。最後に来る死に向かって懸命に走っているに過ぎないのだ>という同氏の「死生観」が記述されていたことを思い出し、それと終焉の芭蕉の心境と重なるよう思えたので、同拙稿中に引用させて貰った。

芭蕉は、大阪で死ぬなどとは夢想だにせず、早く床払いをして好きな旅を続けたいとの気持であったと、様々な文献が記している。

だが、思いもよらず病(食中毒といわれる)は悪化、意に反して終焉を迎えるのだが、見守る弟子たちの顔を眺めながら「死」が迫るのを悟り、幸せな生涯だったと瞑目しながら、逍遥と死の旅についたようだ。渡部氏の『老化は熟成である』という「死生観」を、芭蕉も終焉のその瞬間同様の想いを脳裏の中に去来させたに違いないと筆者は思ったのだ。

渡部亮次郎氏から頂いた寄稿は、下記の通りであった。
<深川・芭蕉記念館 は拙宅の近くです。徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。江戸の発展とともに新たな市街地、農地が必要となり、土地の開発が始まった。大阪からきていた深川八郎右衛門が新田を開発、慶長元年(1573年)深川村と称したのが始まり。

江戸の下町と言えばなんと言っても深川。出発地は都営新宿線森下駅。駅を出て新大橋通りを浜町方面に5分ほど歩いていくと隅田川にかかる橋が見えてくる。これがこの通りの名前になっている新大橋。橋の手前の十字路を左に曲がりしばらく歩いていくと最初の目的地「芭蕉記念館」がある。

芭蕉は延宝8年(1680年)江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ。元禄2年(1689年)3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる奥の細道。岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅。

「芭蕉記念館」には 当時、芭蕉が着ていた袈裟を初め芭蕉庵を模したほこら、句碑 などがある。記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり。川沿いの道を左に少し歩いていくと史跡庭園があり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。 先日来日した李トウキ前台湾総統もご覧になって行った>。

この寄稿を読ませて貰った時、芭蕉に纏わる新たな衝撃が脳裏を駆け巡った。それは、<徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。(そんな未開発の深川だったが、その深川から)元禄2年3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。(略)岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅>というくだりである。

江戸から東北、北陸地方を150日間で踏破した2400キロ(600里)の道程を踏破したと言うが、とんでもない距離だ。単純に計算すると1日16キロ歩いたことになるが。だが当時の旅はそんな生易しいものではない。

江戸時代の元禄期といっても、 江戸から東北、北陸地方には、のんびり歩き通せる平坦な道が整っていた筈はない。ほとんどが山道・峠道であり、山を越えるしか方法はなかった。

筆者も数年前福井の江戸時代以前からの「鯖街道」を歩いたことある。山道の勾配は天地の差ほどの高低を繰り返し上り下りし、僻々した記憶がある。山道もない場所は絶壁を横切るしかない。ましてや橋はほとんどなかった。大雨で河が氾濫、足止めを食うことも日常茶飯事だったろう。

「奥の細道」によると、2人は何と1日に48キロ(12里)を 歩いた日があったという。幾ら昔の人が健脚だったとはいえ、老齢の域の芭蕉(46)と同行者曾良(41)が、そんな長距離を1日で踏破できたと考える方が無理な話だ。

だからここから「第2弾」を書きたくなった。つまり芭蕉は、こうした異常な歩き方の速さや、伊賀の上野の生まれであることから「忍者」ではなかったかと論じられてきた。それはまた別の機会に譲るとして、ここで気になるのは、むしろ芭蕉の弟子であり、旅の同伴者である「曾良」の方だ。

「曾良」のことは、純朴な芭蕉のお供だという印象が強くて、「忍者説」はあまり知られていない。

ところが調べてみると、こんな具合だ。<曾良は、幕府とのつながりが緊密で、当時日光工事普請を巡ってあった伊達藩と日光奉行の対立を探るための調査を、幕府から曾良に命じられたとされている。その目的と行動を秘匿するため、芭蕉の歌枕の旅が巧みに利用したというのが専門家の間では定説となっている。

その曾良は、さらに社寺や港の荷役の動きを調べる任務も担っていたらしく、北前舟が立ち寄る日本海沿岸の港として酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀を丹念に探索して回っている痕跡がある。

その任務行動が、なんと芭蕉の旅の日程と、無理なく調和した形になっている事実には驚かされる。きっと幕府からの支度金が潤沢だったため、俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の興行収入だけでは食えなかった芭蕉の懐具合が、この「曾良」の任務を受け入れことにやむを得ず、同調したのではないかと専門家は指摘する>。

こう見てくると、「曾良」という旅の同伴者は、芭蕉に接近して弟子に登用してもらい、巧に芭蕉を手なずけて幕府隠密の任務を隠密裡に遂行していた“忍者”だったという説は真実味を帯びてくる。果たして芭蕉の死後、「曾良」は、幕府巡見使九州班員に正式に収まっている。

芭蕉の終焉の時、曾良の姿はそこに無かった。公務を理由に葬儀に参列していない。やはり芭蕉に心酔して傍に連れ添った弟子ではなかったのではないか。                 (了)   
参考・ウィキべディア
           07.08.11

2016年12月02日

◆「蕪村顕彰俳句大学」を終え「蕪村祭」の運営に

毛馬 一三



松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸時代の俳人与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だということは、江戸時代当時から知れ渡っていると思っていた。

仮にそうでなくとも、明治時代になって、蕪村俳句を初めて評価し世に紹介した正岡子規が、毛馬生誕地は把握し、世に広めていたに違いないと思い込んでいた。

ところが、事実は全くそうではないことが明らかになり、驚かされた。

それの事を知らされたのは、NPO法人近畿フォーラム21主催「蕪村顕彰俳句大学」講座で講師をお願いしている、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授と、懇談した時であった。

結論から先にいうと、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は終戦直後のことだということだった。奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったというのである。

藤田教授の話によると、次のようなことだった。

(蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍していた江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという明確な「記録」は残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、いなかったのではないかというのだ。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。が、残念なことにその舞台となる馬堤近くが自分の「生誕地」だとは一切触れていない。

想像してもこの書き方では、「生誕地を毛馬村」と結びつけることは出来ない。

しかし、その後願ってもないことが起きていた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中で、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと綴っている。

春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それなら、これが物証となって、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かったのだろうが、そうならなかったのには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村直筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地複数説」を加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態だった。

しかし、前記の如く、奈良県で終戦直後偶然見つかった弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」が、「蕪村直筆」だと、公式に「認定」されたため、「毛馬生誕地」説が確定した。終戦直後の認定だから、遅きに失したと言わざるを得ないが、これは「蕪村生誕地複数説」を破棄し、毛馬村を生誕地とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになる。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

以後、生誕地が毛馬村であることを不動のものになったことになる。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村直筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも無かったことになるだろう。)

こうして、蕪村が大阪生誕の俳人と称されるようになってから七十余年しか経たない。そのため蕪村は、芭蕉や一茶とは異なり、江戸時代以来、生誕地大阪で「蕪村生誕顕彰」が疎かにされてきたことに繋がってきており、誠に慙愧に絶えない。

このために、今ですら地元大阪で「蕪村生誕地が毛馬村」であることを知らない市民は多い。次世代を担う児童生徒の学習の俎上にすら上がっていないことを考えると、児童生徒が生誕地のことを知らないことも当然のことだろう。残念で仕方がない。

だから、われわれ「蕪村顕彰俳句大学」では、今年の「蕪村生誕三百年記念に合わせて、「三百年記念諸行事」を開催し、俳句文化活性と後世への伝承、そして国際化への発信を大々的に進めたいと考えている。

余談ながら藤田教授との懇談の中で、更に驚いたことがあったことを記して置きたい。
「蕪村は淀川を下って源八橋から船を降りて浪速の弟子のもとに往き来きしていたようですが、それほど郷愁があったのなら、極く近郊にあった毛馬村の生家に立ち寄るのが自然だと思うのです。その痕跡はありませんか」

答えは「それを証明する歴史書類はありません。立ち寄ったか否かどうかも、わかりませんね」ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったとしても、生誕地へ何らかの理由で寄りたくない気持ちがあったのだろうという推察が浮上してくる。

恐らく奉公人だった母と実家の父が亡くなってから、家人たちによる極めつけの「いじめ」があり、そのために十七・八歳で家を出ざるを得なかったのではないか。そのことが「生家には生涯立ち寄らなかったこと」に結びついているのではないだろうか。
これはあくまで私の推論である。

最後になったが、私たちNPO法人近畿フォーラム21主催の「蕪村顕彰俳句大学 学長 川原俊明(弁護士)」は、今年迎えた「蕪村生誕三百年記念の年」が今年十二月で終わったことに合わせて、主行事「蕪村顕彰の俳句講座」を十三期で終焉した。つまり、大阪俳人蕪村の顕彰と蕪村生誕三百年記念諸行事を後世へと諸外国へ伝承する効果をささやかにも結びつける目的を達成できたたと自覚したからである。

これからは、「芭蕉・一茶の御祭り」に負けない「与謝蕪村祭」を、生誕地大阪毛馬町で実行していくことにしている。

是非共皆様のご賛同とご支援を伏してお願い申し上げます。(了)

2016年11月22日

◆ノロウイルス食中毒の予防

毛馬 一三



11月21日15時11分 のNHK関西ニュースで、下記の記事が流され驚きました。

<大阪・泉大津市の小学校で、児童と職員あわせて100人あまりが、下痢やおう吐の症状を訴え、保健所は、ノロウイルスによる集団感染とみて調べています。

大阪府医療対策課によりますと、泉大津市内の小学校で、今月10日から21日にかけて、1年生から6年生までの児童104人と、職員3人のあわせて107人が、相次いで下痢やおう吐の症状を訴えました。

重症になった人はおらず、症状を訴えた人たちは、おおむね快方に向かっているということです。

保健所の検査で、児童と職員あわせて6人から、ノロウイルスが検出されたことから、保健所では、ノロウイルスの集団感染とみて、感染経路などを調べています。

大阪府によりますと、府内のおよそ200の小児科から報告される、ノロウイルスなどによる感染性胃腸炎の患者数は、先月下旬から増え始め、今月13日までの1週間では、1912人と、前の週より4割以上増えたということです。

ノロウイルスは、感染力が非常に強く、特に、子どもやお年寄りは重症化しやすい傾向にあることから、大阪府は、調理や食事の前などには、せっけんを使って手をしっかり洗うよう呼びかけています。>
(NHK関西ニュース)

そこで大阪厚生年金病院の柴谷涼子感染管理認定看護師から、以前に「ノロウイルス食中毒の予防」の原稿を頂いて居りましたので、「予防の心がけ」を、下記に再掲致します。ご拝読下さい。

◆柴谷 涼子(大阪厚生年金病院)

「ノロウイルス」について正しく理解し、ご自身も感染しないよう予防しましょう。

★ノロウイルス感染症とは・・・
 
ノロウイルスが人の小腸で増殖して引き起こされる急性胃腸炎です。

@ カキや貝類を十分に加熱せず食べた場合
A 生ガキや貝類で汚染された調理器具で調理した生野菜などを食べた場合
B ウイルスに感染したヒトの便や吐物に触れた手で調理をした場合・・・などに感染する可能性があります。

★症状
  
年齢に関係なく感染は起こりますが、高齢者や抵抗力の弱ったヒトでは重症化する例もあります。嘔気・嘔吐・下痢が主症状です。
 
腹痛、頭痛、発熱、悪寒、筋痛、咽頭痛などを伴うこともあります。 高齢者の場合、症状が出て、水分摂取ができなくなるとすぐに脱水症状を起す可能性がありますので、早めに病院の診察を受けて下さい。

★予防

生のカキや貝類は内部まで十分に加熱してから食べるようにしましょう。カキの処理に使用したまな板などは、よく水洗いし、熱湯消毒をしてから使用しましょう。

★冬場はこのノロウイルスに限らず、様々な感染症が流行します。感染予防としてもっとも重要なのは、普段からの手洗いやうがいです。

外から帰ったあとは必ず手洗いとうがいをする習慣をつけましょう。

 <参考文献;>

1.国立感染症研究所 感染症情報センター感染症発生動向調査週報 感染症の話
 http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k04/k04_11.html
2.大阪府食の安全推進科    http://www.pref.osaka.jp/shokuhin/noro/
3.厚生労働省ノロウイルス食中毒の予防に関するQ&A
http://www.mhlw.go.jp/topics/syokuchu/kanren/tobou/040204-1.html
          (大阪厚生年金病院 感染管理認定看護師 )

2016年11月20日

◆「がめ煮」の郷愁おもてなし

毛馬 一三



随分前に友人に案内されて行った大阪梅田のビルの地階の古い暖簾の「小料理屋」に、再々度その友人と一緒に行った。

店は、老主人が黙々と「料理」に専念し、老婦人が注文受けとお酒の配膳役を務める「こじんまり」とした小料理屋だ。壁に掛けられた「おつまみ品」には目を向けず、すぐに、以前に来た時食した「ガメ煮」をすぐ注文した。

「がめ煮」は、私の出身の福岡筑後久留米の郷土料理の呼称だが、この名前で出される店は、大阪には無い。

そう言えばこの「がめ煮」は、筑後地方以外では「筑前煮」と呼ばれている。本当は「がめ煮」と「筑前煮」とは具材と味が違い、「がめ煮」の方が食の玄人向きだと、私は今でも思っている。

早速箸をつけて味わってみたが、前回の味と全く変わらない。九州出ではない主人にしては、出来すぎの料理だ。

さて、その「がめ煮」のことだが、博多地方の方言では、「がめくり込む」(「寄せ集める」などの意)が、その名前の由来だとの説がある。

ところが、太閤秀吉が朝鮮半島を攻めた文禄の役の時に、朝鮮に出兵した兵士が、当時「どぶ亀」と呼ばれていたスッポンと食材と合わせた煮込の料理方法を、我が国に持ち帰って作ったのが始まりだとの説がある。

そのスッポンを使って煮込んだ「どぶ亀」をそのまま筑後地方で「がめ煮」という名で作り始めたと伝えられているから、「がめ煮」の名の方が筑後地方が先で、博多の「筑前煮」は後釜という説の方がある。

ところがいつ頃からかは分からないが、「がめ煮」にスッポンは使わず、代わって「鶏肉」をいれるようになった。この作り方も、筑後地方の方が先に手を付け、郷土料理にしたと言われている。

子供の頃、「がめ煮」が食前に出る時は、お正月や婚礼式などの祝い事の時だった。「がめ煮」は慶事の時の食べ物だったという記憶が蘇ってくる。

さて、作り方だが、

<本場筑後「がめ煮」と「筑前煮」との一番の違いは、具材を炒めて入れる手順にあるという。まずはだし汁、シイタケの戻し汁、酒、醤油、みりん、砂糖を混ぜて鍋で煮立たせるのから始まる。そこに、一口大に切った鶏肉を入れてひと煮立ちさせる。

そこまでの手順は一緒だが、その後、「筑前煮」は、里芋、干し椎茸を戻したもの、コンニャク、アクを抜いたゴボウ、レンコン、ニンジン、ナスで筍を一口大に切ったものなどを入れる。

「がめ煮」は、コンニャク、里芋、大根、ニンジンを入れ、鶏肉をじっくり煮込ませるやり方で、甘みを時間を掛けて滲ませるのが独特のやり方だ。

この点が「がめ煮」と「筑前煮」が違うところだ。野菜が柔らかくなるまで煮れば、出来上がり。煮あがったところに「筑前煮」の場合は、サヤエンドウを加えることもある。>

聞くところによると、久留米市は「久留米市食料・農業・農村基本計画」を作り、伝統の「がめ煮」の美味しさを広めて行く市政段取りを今でも進めているという。

「がめ煮」を郷土料理の誇りにしている。きっと「がめ煮」を筑後の「おもてなし」として後世に残したいためだろう。

郷里久留米の姉の家に寄ると、姉が昔ながらの見事な味の「がめ煮」を作ってくれる。「がめ煮」舌触りに接するだけで、子供の頃の郷愁が込み上げて来て感動するばかりだ。

今回「小料理屋」で食した「がめ煮」の味も、改めて郷愁を誘ってくれた。
「がめ煮」の味は 底が深い。(了)

参考 フリー百科事典ウィキペディア

2016年11月19日

◆新著「角さん、ほめられ過ぎですよ!」

毛馬 一三



NHK記者の4年後輩の中尾庸蔵さんから自作新書「角さん、ほめられ過ぎですよ!」
を、送って来てくれた。

中尾庸蔵さんは東京NHK社会部在籍者で、筆者はその頃NHK東京政治部に勤務していたものの、所属部が違うため中尾さんと会ったことも無く名も聞くことが無かった。従って、今回突如の中尾著作の「新刊書」が送書されてきたにことに驚き、感激した。

さてその「新刊著書」だが、題名は「角さん、ほめられ過ぎですよ!」とされ、副題は
〜異常人気の「角栄本」の正しい読み方〜となっている。

一体どんな新刊著書なのか。筆者自体、角さんとは「決断と実行」の手練政治家であり、ロッキード事件に連座していた政治家でもあること程度の知識は、今でも脳裡から離れない。もともと興味津々だった角さんだ。それだけに新書に興味が湧いた。

肝腎の中尾さんの著書の「まえがき」に、
・盛りあがる角栄任期 虚像と神話も
・見返りを求めず金を渡す“ は本当か
・私と角さんの関係
・角さんの実像を明かし、正しい「角栄本」の読み方を手助け
と、著書の記載内容を記してある。

その中で、この新書は、「角さん」が戦後最大の疑獄事件といわれるロッキード事件に連座した時、当時中尾さんは社会部記者で、司法担当チームのメンバーだったために否応なく角さんを取材の終始直面することになったという経過が幸運だった。このことが著作に力が注げたことが分かる。

しかも中尾さんは、社会部記者として30代半ばから10年間、角栄取材に追い回されたことになったそうだ。しかもNHKでは異例なことだが、社会部記者がデスクの特命で訪米させられ、角さんの事件背景を現地取材して回っていており、事件の真相に切迫取材したことにも、大きな興味を招く。社会部記者が訪米することなどは、まず皆無に近い。

著書は、第一章から第九章の間に、ロッキード事件に関わった取材時間と取材内容を綴り、「角栄は、功も多き怪物“ではあるが、英雄”ではない」と記している。

著者の想いとして、角さんの「実行」は、実行しただけではだめで、必ず成就し、成果を上げなければならない。その必ず成就するための手段が「金」というわけ。角さんにとって「金」は、好き、嫌いの問題でなく、必須のアイテムなのだ。その角さんの「金」は人を縛る、暗さが付きまとうことが、「決断と実行」の「重点説」だと著者は解明している。そうしたことを素材に「角さんブームの批判」を見事に書き上げている。

この角さんとの密着長期取材結果によって、「田中角栄 礼賛の真偽」が良く分かる。記者特有の読心を揺さぶる見事な新刊著書に仕上げている。実に有能な取材経験を活かしてしか書けない、記者経験者の素晴らしい激高の著書である。

しかし角栄本のほとんどは、「角さんの虚像と神話に基づくものが多く、人心を惑わすものだというのが私の意見だ」としており、この自作の「正しい角栄本」読むように勧めているのが、著者の本音のひとつだ。

そこで著作者の中尾庸蔵さんから下記のコメントを頂いた。これを読んで、書店で早く購入されることをお勧めしたい。異常人気の「角栄本」の正しい読み方が出来るようになっているのだ。

◆中尾庸蔵のコメント
<ロッキード事件発覚から40年、事件で逮捕された角さん(田中角栄元首相)の人気が異常に高まり、とくにお金の渡し方が上手い、心がこもっている、などと称賛されている。

何かおかしい、日本社会がこんなことで良いのか!現役時代、角さん問題を密着取材した元NHK記者が、改めて取材メモを紐解き、角さんブーム批判、角さん批判書き上げた。

角さんについて、売らんがための虚像ではなく、実像を知りたい方には必読の一書。>

扶桑社新書「角さんほめられ過ぎですよ!〜異常人気の「角栄本」の正しい読み方〜」
(800円+税)
                          以上

        

2016年11月15日

◆黄砂アレルギーに注意

毛馬 一三



花粉症歴の経験が全く無い筆者にとって、軽い風邪症状の一種かなと思って、余り気にも止めていなかった。

ところがとんでもない。次第に喉の違和感が痛みを伴うようになり、咳も痰も出るようになった。

そこで、慌てて近くの内科診療所に飛び込んだ。内科医は喉の症状を見た途端、「炎症がひどいですね」という。「原因は?」と訊いたら、「飛来してくる黄砂の黴によるものと思われます。花粉症ではありません」と教えてくれた。

同医師によると、黄砂によるいろんな健康被害で訪れる患者が、急増しているという。同医院から、

・抗生物質―フロモックス錠100mg(毎食後1錠・3日間分)
・咳を鎮める薬―メジコン錠15mg(毎食後2錠・7日分)
・痰や膿を薄めて、痰や鼻汁を出しやすくする薬―ムコダイン錠500mg(毎食後1錠・7日分)
・胃薬―セルベックスカプセル50mg(毎食後1カプセル・7日分)薬を貰った。

だが、マスクを付けて外出を余儀なくさせられた1週間が過ぎても喉の炎症と咳、痰共に治まる気配が無い。再診の結果、まだ喉の炎症は完治してないと診断され、改めて下記の薬を貰った。

・咳を鎮める薬―メジコン錠15mg(毎食後2錠・7日分)
・痰や膿を薄めて、出しやすくする薬―クリアナール錠200mg(毎食後1錠・7日間分)
・炎症を抑えて腫れや痛みを和らげる薬―ダーゼン5mg錠(毎食後1錠・7日分)
・SPトローチ0.2mg(28錠・1日4回)
・アズノールうがい液4%(5ml・1日4回)

2度目の薬を飲んだり、うがいを励行したところ、数日が経過してやっと喉の痛みや違和感がなくなり、咳と痰も出なくなった。

喉にこのような強度な症状が出たのは初めてのことだ。しかも気にはなっていた飛来の「黄砂」によるものだ。

今強烈になっている中国の大気汚染と原因が重なっているらしく、中国から飛来する「黄砂と大気汚染」が、日本に被害をなすりつけているのだ。気象庁も「中国で黄砂が急激に発生してる」と指摘している。日本が被害者になるのか。無性に腹が立つ。

話は後先になるが、<黄砂(こうさ)とは、中国を中心とした東アジア内陸部の砂漠または乾燥地域の砂塵が、強風を伴う砂嵐などによって上空に巻き上げられ、春を中心に東アジアなどの広範囲に飛来し、地上に降り注ぐ気象現象。あるいは、この現象を起こす砂自体のこと>である。

細かい砂の粒子や、粒子に付着した物質、黄砂とともに飛来する化学物質などにより、さまざまな健康被害が生じる。

即ち、咳、痰、喘息、鼻水、痒みといった呼吸器官への被害や、目や耳への被害が目立つ。黄砂が多い日には、花粉症、喘息、アトピーなどのアレルギー疾患の悪化が見られる。>という。 
参考―フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

花粉症で悩まされるだけでなく、黄砂アレルギーで健康被害を煩わされるのでは、堪ったものではない。

ところが肝腎の黄砂による呼吸器官への被害が、増えていることにはあまり知られていないようだ。

黄砂の飛来が顕著な九州や関西では、既にこの被害が出て問題化しているが、全国にも広がるだろう。

黄砂の飛来が予測される時は、TVの「天気予報」で早めに知らせてほしい。

しかも喉などに異常を感じたら、医療機関で診察を早めに受けられることをお勧めしたい。(了)