2015年05月20日

◆与謝蕪村の生誕300年記念祭 開催

毛馬 一三


与謝蕪村生誕日は不明だ。松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸時代の俳人与謝蕪村は、江戸の享保元年(1716)に生まれているが、肝腎の生誕日は不明だ。

しかも与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だということも、江戸時代から「正確」に知れ渡っていなかった。

生誕地は、明治時代になって、蕪村俳句を広く世に評価し紹介した正岡子規でさえ、蕪村生誕地が大阪毛馬村だと、論述していない。

生誕地が「毛馬町」だと分かったのは、なんと終戦直後戦後になって、やっと「証明」されたのだ。しかし前記のように「生誕日」は、今になっても分からない。

与謝蕪村の生誕300年の年になる、来年2016年の年に記念祭行事に取り組もうと「蕪村生誕300年記念祭行事活動」を始めようとした際、「生誕日」がまだ不明なのには、戸惑わされた。「生誕日」に合わせて300年記念祭をやれないのだ。

しかし、終戦直後戦後とはいえ、生誕地が「毛馬町」だと「証明」されたことで、蕪村が大阪俳人であることが明らかになった。「生誕日」は不明ながらも、来年から初めて「生誕記念祭」を、生誕地大阪毛馬町でやれるのは、こんな歓喜なことはない。

こるから与謝蕪村生誕のことを追々。

先ず、生誕地が大阪毛馬町だと「証明」されたのは、なんと終戦直後だという事を教えて頂いたのは、筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム21「蕪村顕彰俳句大学講座」で講師をお願いしている、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授だった。

結論から先にいうと、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったというのである。

藤田教授の話は、次のようなことだった。

<蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍していた江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという明確な「記録」は残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、いなかったのではないかというのだ。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。

しかし、残念なことにその舞台となる毛馬の淀川馬堤近くが自分の「生誕地」だとは、一切触れていない。想像してもこの書き方では、「生誕地を毛馬村」と結びつけることは出来ない。

だがその後、願ってもないことが起きた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中で、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと綴っている。

春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それなら、これを「物証」として、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かった筈だが、そうならなかった。これには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村直筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地の複数説」を逆に加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態だった。

ところが、「蕪村直筆」だと、公式に「認定」される「書簡」が前記の如く、終戦直後偶然にも、奈良県で見つかったのだ。
これが歴史的実証となった。弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「蕪村直筆」が、「毛馬生誕地」と確定したものの、終戦直後の認定だから、本当に遅きに失したと言わざるを得ない。

これが「蕪村生誕地の複数説」を打消しし、「毛馬村を生誕地」とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになった。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

これにより、生誕地が毛馬村であり、生誕の年も2016年(平成28年)であることが重複して不動のものになったことになる。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村直筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも、無かったことになるだろう。>

ところで、終戦後に生誕地が「大阪毛馬町と証明」が確定したが、今ですら地元大阪でも、「与謝蕪村が大阪俳人」であることを知らない市民が多い。

次世代を担う児童生徒の教科書に取り上げられていないことを考えると、文部科学省の無配慮が指摘され、全国の児童生徒が大阪毛馬の生誕地のことを知らないことは、これが主因だ。残念で仕方がない。

更にはまだ、蕪村生誕日が分かっていないことも、文科省の研究が進んでいないことだ。学者に呼びかけて、探究を進めてほしい。

筆者主宰の「蕪村顕彰俳句大学講座」では、2016年(平成28年)の蕪村生誕三百年に、生誕日は不明でも、この年に「三百年記念諸行事」を開催し、俳句文化振興と後世への伝承、そして国際化への発信を大々的に進めたいと考えている。

余談ながら、藤田教授との懇談の中で、更に驚いたことがあったことを記して置きたい。

「蕪村は淀川を下って源八橋から船を降りて浪速の弟子のもとに往き来きしていたようですが、それほど郷愁があったのなら、極く近郊にあった毛馬村の生家に立ち寄るのが自然だと思うのです。その痕跡はありませんか」と尋ねた

答えは、「それを証明する歴史書類はありません。立ち寄ったか否かどうかも、わかりませんね」ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったとしても、生誕地へ何らかの理由で寄りたくない気持ちがあったのだろうという推察が浮上する。

恐らく奉公人だった母と、庄屋・問屋の父が亡くなってから、家人たちによる私生児への極めつけの「いじめ」に合い、そのために十七・八歳で家を出奔、江戸に下ることを考えざるを得なかったのだろう。そのことが「生家には生涯立ち寄らなかったこと」に結びついているのではないだろうか。


どうか、蕪村生誕300年を迎える2016年・来年の春期から、私たち主催の「蕪村生誕三百年記念諸行事」開催を、まず大阪市立大学主導の「蕪村シンポジューム」開催を五月から始め、氏子蕪村が参拝した実績のある現「淀川神社」や近郊の「蕪村通り商店街」と共同し、適切な時期を選んで「300年記念お祭り」を進めることにしている。

是非共、皆様のご賛同とご支援を、改めてお願い申し上げます。(了)




2015年05月14日

◆「青瓦台」襲撃未遂事件 知ってる?

毛馬 一三


韓国の朴槿恵大統領が、日本の歴史問題を掲げて批判するたびに、思い出すことがある。

1968年、父の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領と閣僚の暗殺を狙って、北朝鮮の第124部隊第1中隊第1小隊に所属する31名が、休戦ラインを突破し侵入した事件だ。

この韓国大統領府「青瓦台」襲撃事件は未遂に終わったが、事件を背負っていることは、余り韓国では口に出さない。

筆者は、当時NHK大阪放送局の府庁キャップをしていた。同事件に深い関心を覚えたため個人的単身で渡韓し、既知の有力韓国新聞社社長の紹介を受けて、韓国政府公安機関KCIAの要人と面会し、事件の「詳細」を“取材”した。

勿論休暇をとっての行動だった。その取材内容は立場上「公」には出来なかったが、当時のCIAの要人からの「取材メモ」を探し出した。

そのメモが見つかった。下記に添えておきたい。

冒頭に記述したように、韓国青瓦台奇襲は、1968年1月21日夜10時を期して決行する命令が、金日成首領から金正泰を通じて出された。

青瓦台奇襲部隊は組長の金鐘雄大尉(事件後4日目に射殺)ら31名で、唯一生き残った金新朝も一員だった。

全員が機関短銃1丁(実弾300発)、TT拳銃1丁、対戦車手投げ弾1発、防
御用手投げ弾8発と短刀で武装した。

奇襲部隊は、1組が青瓦台の2階を奇襲して朴正煕大統領と閣僚を暗殺、2組は1階を襲撃して勤務員全員を殺し、3組は警備員、4組は秘書室全員射殺というのが任務だった。

16日の午後、黄街道延山基地を出発。途中軍事休戦ライン南方の非武装地帯を緊張しながら訓練通り過ぎ、ソウルに真っ直ぐのびる丘陵を辿った。歩哨所や検問に遭遇しなかったため、金組長は「南」の士気が乱れている所為だと勘違いした。このため、31人全員が隊列を組んで堂々と行軍するという行動に出た。

だが行軍しているうち、「戸迷い」にぶち当たった。所持した地図に従ってソウルにいくら接近しても、「北」で教育された荒廃している筈のソウル市街は、なんと21日の夜になっても現れてこない。

南下すればするほど煌々とした市街地が現れてくるばかりだ。「これはソウルではない」。「じゃ、一体ここは何処なんだ」。「北」の教育が間違っているとは一瞬たりとも気付かない、ミスを更に重ねた。

その上に韓国軍の服装、装備に身を固めている限り怪しまれることはないと思い上がった金組長が、敵地で初めて出会った韓国人2人に「訓練中に道に迷ったのだが、ソウルに行く道を教えてくれないか」と、呆れた質問をしている。

奇襲隊に遭遇した2韓国人は、ソウルへの道筋を教えたものの、不審に思った。

眼下に広がるソウルを韓国軍が見つけられない筈はない。発音も韓国訛ではない。まして前年6月から「北」の武装スパイが上陸して韓国軍から射殺された事件を2人は知っていた。

2人は急ぎ山を降り、警察に通報した。これが襲撃防止の貴重な要因となった。

奇襲隊は21日夜9時、ソウル北方紫霞門の坂道を通過しようとして、警察の検問にひっかかった。尋問を受けた奇襲隊は慌てて機関短銃を乱射し、市バスと民家に見境なく手投げ弾を投げた。

奇襲隊は、青瓦台の800m手前まで迫りながら、韓国軍と警察の掃討作戦によりちりぢりに撃退された。2週間に及ぶ掃討作戦により、金新朝1名が逮捕され、他は全滅させられた。

この銃撃戦で韓国側は、崔警察署長を含め68名が死亡している。

序でながら私の「メモ帳」には、青瓦台襲撃に失敗した「北」が、10ヶ月後の11月2日、襲撃組長金鐘雄大尉ら31名の同期生120人のいわゆるゲリラ別斑が、韓国慶尚北道蔚珍郡と荏原道三に海上から「南」に進入しているとある。

このゲリラ隊は、山岳地帯の小部落を武力で占領、赤化せよという工作命令を受けていた。部落民を集めて赤化を強要する「部落拉致事件」。

事実従わない者は短剣で刺し、石で殴り殺すという虐殺を行っている。

「共産党は嫌い」と叫んだ李承福という10歳の少年の口を引き裂いて殺した。断崖絶壁をロープでよじ登り、部落を占領して住民を」拉致し、赤化地帯にするという想像を絶するこの「北」のゲリラ事件は、何故かわが国では余り知られていない。

「メモ帳」に記した青瓦台奇襲して朴正煕大統領と閣僚を暗殺しようとした歴史的事実は、前述のように、今は韓国でも秘密のようで、余り知られていない。

北朝鮮は、潜水艦からミサイルを発射実験をして、韓国・日本・中国。アメリカを威圧している。

日本は、韓国大統領襲撃事件の歴史には関係ないが、朴槿恵大統領も、これからもっと日米との友好関係を、真剣に考えていくべきだろう。(了)

★「頂門の一針主宰者・渡部亮次郎氏より」
:唯一生き残った金新朝氏に1973年訪韓しインタビューしたことがある。宣教師になっていた。ソウル市内を煌々と照らす光景を目にしたとき「隊長」は「しまった間違えて東京に上陸しちまった)とつぶやいたという。

  

2015年05月11日

◆「馬」の渡来地先は大阪四條畷

毛馬 一三



わが国古代王朝の威光を軍事面で支えた「馬」の渡来終着先が、なんと大阪府四条畷市であることを知らされ、ビックリした。

大阪湾(古代は難波津)に接している大阪柏原市に鉄技術、堺市に土器焼成技術が古代に朝鮮半島から渡来していたことは知っていたが、まさか生駒山系が迫り、大阪湾と些かも面していない四条畷市が、「馬」の渡来終着地だったとは夢にも思っていなかった。

ところが、先般四條畷市主催の会合で、古代王朝や豪族たちの権力の象徴となる「馬」の渡来先が四条畷市で、これを証明する「蔀屋北遺跡(しとみやきたいせきあと)」が、四條畷市にあることを知らされたのだ。

四條畷市の西にある現在の寝屋川は、古代には難波津に繋がる海路ルートとなっていた。しかもこの海路の条件と、清い水と牧草に恵まれた肥沃大地の馬飼いの環境が見事に合致したことから、ここが朝鮮半島からの渡来先の終着地になったらしい。

しかも、四條畷を南北に横たわる生駒山系を越えれば、比較的なだらか下り坂となり、「馬」に負担を掛けず「大和」へ供給できた立地の良さが王朝・豪族に認められ、四條畷(当時・讃良)を「馬」の機動力を軍事制度に組み入れる「馬飼いの里」として定着させたという。

朝鮮半島からは、比較的穏やかな初夏の海に「馬」を乗せた丸木船を2ヶ月かけて、玄界灘から筑紫(福岡)・豊浦(下関)・瀬戸内海、そして大阪湾(難波津)を経て、河内湖から寝屋川を通じて「蔀屋北遺跡」に辿り着いている。「馬」に同伴してきた渡来人もここに定住したそうだ。

そう云えば、「国内最古 馬の乳歯 四條畷」という記事が出ていたことを思い出した。

<四條畷市の「蔀屋北遺跡」で、国内最古となる5世紀中頃の馬の乳歯が2頭分、大阪府教委の調査で出土した。2〜2歳半とみられ、同時期の遺跡で、若い馬の存在が確認されたのは初めて。

同遺跡は、国内で初めて馬を本格的に飼った牧場とされ、府教委は「朝鮮半島から子馬を船に乗せて連れてきたか、生まれた子馬を飼育し、軍馬として増産したとみられ、国内最初期の馬生産の実態がわかる」としている。


3世紀の中国の史書「魏志倭人伝」に、日本に馬はいないと記されており、5世紀頃、朝鮮半島から馬と乗馬の風習が伝わったとされる。(略)
松井章・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長(動物考古学)は「乳歯はもろく、「蔀屋北遺跡」からの出土は珍しい。馬飼が、大規模に馬を生産していた様子がうかがえる」と話している>。(読売新聞)

たしかに「蔀屋北遺跡」とその周辺から、これまでに丁寧に埋葬された馬の骨(性別は不明)や永久歯計約500点、それにアブミ、鹿角製のハミ、鞍などの馬具も出土している。総数26基の井戸も発掘されており、このうち7基は、「馬」運びに使った舟を転用して、井戸枠を作っているのが分かっている。

その船は、西都原式といわれる準構造船で、実物が日本で初めてこの「蔀屋北遺跡」で発掘されている。復元船は、全長10b、幅1b、10人乗りの船。航海は2ノットぐらいの速度の船団だったと専門家は説明しているが、果たして1隻の船に一体何頭乗せて来たかは明らかではない。

四條畷市の「馬飼いの里」で繁殖された「馬」は、王朝や豪族の間で軍事・通信・運輸の活用に重用され、いわゆる権力誇示の証とされた。それだけに四條畷市の「馬渡来の終着地」の意義と「馬飼いの里」からの「馬」の供給価値が、権力側から高く受け入れられていた。

しかし文武4年(700年)になると、天皇に献上する公の牧場が諸国に作られ始められるようになり、そののち平城京遷都の時には、騎兵500人が威儀を正して行進し、「馬」が国家の資としての威容をみせつけている。

こうした時代の変遷のともない、平城京遷都の頃には、四條畷市の「馬渡来の終着地」の役割は終焉し、「馬飼いの里」は姿を消したという。

名所旧跡の多い四條畷市では、こうしたあまり知られていない歴史を積極的に広報して、まちへの集客へ繋げる「観光政策」に力を入れたいそうだ。(了)
 参考―四條畷市立歴史民族資料館刊「馬は船にのって」   

2015年05月10日

◆家康の2度目の死に損ない

毛馬 一三



家康が、生涯の戦歴で死に損なったのは、2度ある。1度は、元亀3年(1573年1月25日)、武田信玄軍に徳川軍が惨敗した「三方ヶ原の戦い」の時。

討ち死に寸前まで追い詰められたが、僅かな供と必死で浜松城へ逃げ帰り、命拾いをした。

2度目の「死に損ない」が注目に値する。慶長20年(1615年)年5月7日、「大阪夏の陣:茶臼山の戦い」(大阪市天王寺)の時だ。

家康は、この時二度「自害」しようとしたが、部下の将に諌められて逃亡。敗戦の将の汚名など、どうでもよかった。もし家康が命を取られていたら「徳川幕府」は「夢のまた夢」だったことに間違いはない。

ところが、この徳川幕府の存亡に繋がる家康の2度目の「死に損ない」の事実は、案外知られていない。

この「死」からの逃避は、1番目の「三方ヶ原の戦い」より比較にならないほど悲惨なものだったのだ。歴史上でも実に深い意味合いも有する。そのことをこれから追々。

その戦火跡地・「大阪夏の陣:茶臼山の戦地」(大阪市天王寺)を、友人たちと訪ねた。たまたま5月7日が近付いてきたためであった。

この大阪夏の陣:茶臼山の戦いで、家康を死に追いつめたのは、実は、真田幸村である。豊臣方の主将の一人だ。この真田幸村の戦闘ぶりは、徳川軍を総じて縮みあがらせた。

幸村は、茶臼山の戦の前日の慶長20年(1615年)年5月6日の「道明寺の戦い」で、徳川軍の先鋒隊・伊達政宗隊を銃撃戦の末に一時的に後退させている。先鋒隊撃破という、幸村の先勝だった。

この勝利で、真田隊は、豊臣全軍を一時撤収させた。撤収には、訳があった。豊臣方は主武将が相次いで討死した上、全軍も疲弊していたため、兵士に休息を与える配慮からだった。

そこで幸村は、秘策を考え上奏を試みる。「兵士の士気を高め、徳川を打ち破るには、豊臣秀頼本人の直接出陣有るのみ」と直訴したのだ。

ところが豊臣譜代衆や、秀頼の母・淀殿に阻まれ、秀頼の出陣は実現しなかった。この誤った判断が、結果的に豊臣方の滅亡に繋がることになる。

そこで幸村は、「そんなことでは徳川方を追い込めない」として、5月7日、大野治房・明石全登・毛利勝永と共に、最後の作戦を立案した。

それは四天王寺・茶臼山付近の右翼に真田隊、左翼には毛利隊を布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して、家康の本陣を孤立させた上で、これを急襲・横撃させるという作戦だった。

ところが、思いがけなく作戦が狂った。毛利隊が合図を待たずに射撃を開始してしまったからだ。この有効な戦法は、断念せざるを得なかった。

そこで幸村は、腹を括った。「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!」と決心し、真っ正面から真一文字に徳川家康本陣のみに狙いを定めて、突撃を敢行した。

この突撃は真田隊のみではなく、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦。これにより徳川勢は壊乱し、総崩れに至った。

幸村は、後方の家康本陣に三度攻め込み、家康の親衛隊・旗本・重臣勢を蹴散らして本陣を蹂躙、「馬印」も倒した。

真田隊の凄まじさに追い詰められた家康は、二度も「自害」を覚悟したという。

もう一押し攻め込めていたら、家康の「自害」は確実だったとも言われている。家康は部下の将兵に諌められて、意に反して命からがら逃げた。

残念ながら、幸村の家康追いつめもここまでだった。兵力に勝る徳川勢に追い詰められ、幸村は負傷して仕舞う。やむなく一旦後退することを決め、近くの「安居神社」避難した。

幸村は、当神社の1本松にもたれ、傷を癒していた時、追っ手の越前主の兵士の槍で襲われた。幸村は「ここまでだ」と決意し、切腹して自害した。享年49だった。

「安居神社」に行くと、「武将姿の銅像」や高さ5メートほどの「幸村戦没の石碑」がある。

銅像と石碑を見ていると、切腹自害した幸村から「徳川潰しを果たせなかった」無念さの呟きが伝わってくるようだ。一方、「家康を追い詰めた」役目を立派に果たした豊臣方戦将としての誇りも聞こえてくるような気もする。

もし豊臣方が秀頼を先陣に立て、幸村を主将にした総力戦で「茶臼山の戦い」に臨んでいたら、確実に「家康を自害」させていたに違いない。

そうだとすると、家康不在となり、徳川勢力の後退は余儀なくされ、秀頼による豊臣時代が継続したという説に続く。

「安居神社」を出て、坂道を少し下ると、本誌で以前書いた大阪で唯一自然の滝:「玉出の滝」と出会う。ゆっくり眺めると、今度ばかりは「安居神社」の幸村の無念の想いが、滝の水に混じってドット流れ落ちているように見えた。

もし、淀君を始め豊臣譜代衆が「茶臼山の戦い」の決戦に挑んで「家康壊滅」を図る決断を下していたら、おそらくその後、別の歴史が展開していただろう。

時勢に応じて歴史を踏み外さない判断を下さなければならない指導者は、いつの世にも不可欠だ。名所旧跡の散策が、類する今の政治情勢とも結びつけてくれるだけに、心を弾ませてくれる。
<参考:ウィキペディア>


2015年05月09日

◆五月に咲き誇る平戸ツツジ

毛馬 一三



朝夕愛犬を連れて散歩するコースが、大阪府寝屋市と大阪市を結ぶ旧淀川1級河川の城北川堤防の側道。車が通らないので安全な上、その側道に沿っていろんな樹木のある区域が設けられているため、その都度、季節感を楽しめることが出来、気分が豊かになる。

植樹は、サクラやヤマモモ、菊、クスノキ、ツバキなど50種は超すようだが、両岸1`にわたって植えられている。

「平戸ツツジ」は今が満開で、緑の木の中から真っ赤な花が咲き誇り、目線を奪う。背丈がこじんまりしていて、手入れが要らない。今年は寒気が続いているためか、満開期も長持ちしているようだ。

ところで、私はNHK初任地が佐世保放送局だったため、平戸ツツジの原産地の平戸には取材でも、旅行にもよく出かけた。

平戸は平戸島とその周辺を行政区域とする市で長崎県と九州本土の市としては最西端に位置する都市。旧平戸藩松浦氏の城下町で、当時はまだ孤島だったため、今のような大型橋梁はなく、遊覧船で渡った。

海上から平戸の高台に平戸城が見えて歴史の想いを募らせる一方、陸に上がった途端この季節には、あちこちで平戸ツツジに囲まれた。

平戸商工会議所による平戸ツツジの説明によると

<平戸ツツジは、平戸原産の常緑のツツジで、平戸・松浦藩の武家屋敷にて種々な原種の交雑により、400年以上の悠久の時を経て育まれた門外不出の花でした。その大輪の花びらは世界一のツツジとも云われ、短い間ではありますが満開の時期にはびっしりと美しく咲き誇り、見る人の目を大いに楽しませてくれます。

その儚い生命の美しさを映そうと、摘み取った花びらを使って一枚一枚染め上げたのが「平戸つつじ染め」です。

自然の花びら染めは1本1本の木から得られる色が全て異なるので、ひとつとして同じ色はありません。また、上に咲く花と下に咲く花でも、染まる色は違ってきます。かけがえのない、その花の個性ひとつひとつを大切に、絹や綿、和紙に映しました。>だという。

さて、平戸が全国に名を馳せているのは、この「平戸ツツジ」と併せて「平戸の歴史」ということになる。
序でながら、平戸の歴史に触れておく。

<慶長5年(1600年)、日本の豊後国に漂着したオランダ船リーフデ号の乗組員の一員であったイギリス人ウィリアム・アダムスは、徳川家康の信頼を受けて江戸幕府の外交顧問となり、「三浦按針」の名を与えられるなど重用された。

慶長16年(1611年)、イギリス東インド会社はアダムスがイギリス本国に送った書簡によって事情を知り、国王ジェームズ1世の許可を得て彼を仲介人として「日本との通商関係」を結ぶ計画を立て、艦隊司令官ジョン・セーリスを日本に派遣することとなった。

慶長18年5月4日(1613年6月11日/同6月21日)に、平戸に到着したセーリスは、アダムスの紹介を得て駿府城で徳川家康に拝謁して国王ジェームス1世の国書を捧呈し、更に江戸城にて将軍徳川秀忠にも謁見。そしてアダムスの工作が功を奏して、この年の9月1日(10月4日/10月14日)には、家康によって「イギリスとの通商許可」が出された。

そこでセーリスは平戸で在留中国商人李旦から借り上げていた邸宅をイギリス商館とし、リチャード・コックスを商館長に任じて6人の部下を付け、更にアダムスを商館員として採用して顧問とした。

商館は後に正式に買い上げられ、イギリス人商館員や日本人使用人も増員された。商館員や使用人は平戸や江戸・京都・大坂・長崎などに派遣されて貿易の仲介を行ったり、平戸を拠点に商船を東南アジア各地に派遣して貿易業務を行った>。

こうして平戸は、我が国での最初の外国貿易の拠点となったのだ。

ところで、平戸を有名にさせているのは、キリスト教との関わりだ。

<平戸は、日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが三度にわたって布教に訪れた地であり、平戸島や生月島では多くの住民がカトリックの洗礼を受け、その後の江戸時代の禁教令下でも隠れキリシタンとして信仰を受け継いでいった人が多かった。

明治時代に禁教が解かれて、平戸でも宝亀、紐差などの教会が建てられた。聖フランシスコ・ザビエル記念教会のある平戸港周辺の市街地には、もともとカトリックの信徒は少なかったが、近隣各地からの移転により信徒が増えていった。

そして1931年(昭和6年)4月に現在の教会堂が建てられた。献堂40周年の1971年(昭和46年)9月には、聖フランシスコ・ザビエルの像が聖堂のそばに建立され、これに伴い「聖フランシスコ・ザビエル記念教会(あるいは聖堂)」とも呼ばれるようになった>。

余談だが、平戸経由で五島列島の島を取材した時、ある家で「オランダ製の火縄銃」と「隠れキリシタンの像」を見せて貰った。どちらも初めて見るもので興奮した記憶がある。特に「隠れキリシタンの像」は、正面は仏像だが、裏には「キリスト像」が設えてあった。

きっと、キリシタン禁教令下で仏教徒を装いながらも、実際は密かにキリシタン信仰を貫いていた江戸時代の隠れキリシタン徒の様子が浮かび上がってくるような気がして、感動した。

話は、平戸の歴史になってしまったが、毎朝夕の愛犬の散歩の時、平戸ツツジに惹かれる中で、やはり平戸の歴史が一度に蘇ってくる。平戸ツツジの美しさは、本当に歴史まで呼び起こし、心まで豊かにしてくれるものだ。(了)
参考:ウィキペディア、平戸市          


2015年05月05日

◆歴史現場に立ち会える記者稼業

毛馬 一三



筆者が、記者としてNHK報道局に入局したのは、昭和36年。入局直後、NHK「研修所」で、記者としての基礎的な受講を3か月受けた後、長崎・佐世保局に配属された。

佐世保局には、松尾龍彦デスクと日高義樹氏(元NHKワシントン支局長・現ハドソン研究所)が、先輩記者として赴任しておられたため、現場記者としての取材の仕方、原稿の書き方などをこと細かに指導してもらった。

新人記者として、最初は「サツ回り」を担当し、「4警察」と「労働団体」、「米軍佐世保基地」等の「社会ネタ」の中心に、夜討ち・朝駆けをバイク回りげ取材してまわった。

佐世保局での取材は、取材範囲が広域なのと、米海軍の基地を抱えていたことから、とくに70年の安保闘争を引き継いでの基地問題や労働諸問題に取材が追われた。

その佐世保記者として、今でも忘れられない強烈なことが2つあっことを思い出す。それを以下、追々。

ひとつは、昭和38年11月22日、アメリカから最初に放送された「衛星放送」で、ジョン・F・・ケネディー大統領が暗殺事件をテレビで見たことだった。最初の「衛星放送」が、大統領暗殺と重なったことに驚愕した。

米軍海軍基地に出入りが自由だった筆者は、同基地の通訳軍人に同行して貰い、大統領暗殺事件に対する米海軍基地を取材し、基地内の混乱状況を記事にした。勿論米軍海軍佐世保基地の記事として全国ニュースで報道した。反響が大きかった。

二つ目は、筆者が「米原潜シードラゴンの佐世保入港」を「スクープ」したことである。

その「スクープ」をしたのは、米原潜シードラゴン入港より丸1日早い、昭和39年11月11日早朝6時だったのである。

もともと、「米原潜が佐世保米軍海軍基地に入港する」と、国会で最初に公表されたのは、昭和38年3月であった。この日から「何時、入港するのか」が、全国的に焦点となっていた。特にNHKでは総括の福岡局が熱心で、佐世保局は煽られた。

この公表以来、佐世保では地元社会党系労働組合が「原潜入港反対闘争本部」を立ち上げ、市民団体も呼応して、大規模な「入港反対闘争」がはじまった。佐世保は、米海軍基地周辺を中心に騒然となり出した。「安保闘争の佐世保版」だった。

とりわけ被爆地長崎と隣り合わせの現場佐世保では、米原潜搭載の「核」持込みの懸念が市民らを強く刺激し、急遽集結した各地の革新団体や全学連が、デモ行進や集会を繰り広げ、騒動は日増しに激化していった。

その反対闘争取材担当記者だった筆者は、入港反対闘争本部だった当時の佐世保地区労(佐世保地区労働組合会議)本部に、夜討ち朝駆けを行い、反対運動の動静を追い続けた。

当時、総評系の佐世保労働組合の中核組織「全駐労」の委員長だった石橋政嗣氏が、衆院議員に転身して社会党書記長に就任していたことから、この反対運動は当時野党第一党の社会党と緊密に連携しながら、全国規模の反対運動に発展していた。

筆者は、帰郷する石橋書記長に纏わり、「反対運動」の中央の方針をしつこく取材して回ったことから気難しい石橋書記長から 特に目を掛けて貰う間柄となった。

同時に、地元の社会党系「佐世保地区労闘争本部」の速見魁議長、小島亨事務局長、西村暢文本部員らからも熱心な取材を気に入られ、極めて親密な関係を築くことが出来た。

この取材は、歴史の現場に立ち合え、動静を目撃できるという、正に「記者冥利」に尽きる無上の喜びであった。しかも現場で親交を深めた取材対象の人脈とも、立場を超えた人間同士の触れ合いが出来ることも嬉しかった。そうした教訓は、駆け出し記者の記者魂を育ててくれた。どうしたことか他社の記者に、それがなかったのは幸せだった。

そんな折の昭和39年11月10日の夜10時過ぎ、佐世保放送局で当直の勤務をしていた筆者に、佐世保地区労の小島事務局長から電話が入った。

「あなたの家に電話をしたら、当直と聞いたので電話をしました。実はね、石橋書記長から、あなただけに伝えなさいと今、指示があったので連絡します」。

小島事務局長はそう言った上で、「米原潜シードラゴンが12日朝、佐世保に入港する」という、極秘情報を伝えてきた。筆者は、足が諤諤と振るえ、感謝の意を短く伝えるのがやっとだった。

すぐさま、福岡放送局報道課長の自宅に架電して、その情報を伝えると共に、これから出稿する旨を伝えた。報道課長は「直ちに東京政治部の首相官邸キャップに連絡し、政府から確認を取って貰う。君は、米原潜12日入港の記事を急いで書き、送りなさい」という指示が出た。

11日の2時ごろ、書き終えた原稿を送ろうとしているところに、報道課長から電話が来た。「官邸キャップが政府の官房長官に確認したが、どうも煮え切らない返事だったようだ。東京政治部では、引き続き政府関係者に当たるが、「スクープ」として当面は福岡発から流しなさいと言っている。原稿をすぐ送ってくれないか」ということだった。

そこで、「米原潜あす佐世保入港、現地では大規模集会やデモ」という原稿を、急ぎ福岡局報道課に送稿した。「闘争本部」に再度確認すると、「他紙の動きはない」という回答だった。

これが他社より1日早く、NHK福岡局から「米原潜シードラゴンあす佐世保入港」のスクープが全国に発せられたいきさつである。

NHK東京発で同関連ニュースが放送されたのは、「米原潜」が入港する12日午前6時のニュースからであった。従って「他紙」「他放送局」を抜いた「スクープ」となったのだ。

先述の西村暢文氏から、「あなたのスクープで、闘争本部が一層盛り上がり、原潜反対闘争のとっかかりになった。感謝」という予想外の電話が掛かって来た。

歴史の現場にいち早く立ち会える記者稼業とは、この上ない人生の幸せである。人脈が豊富になることも大いなる喜びだ。

いろいろ思い出はあるが、記者として佐世保局でのこの2件は忘れることが出来ない (了)

◆「生誕日」が分からない蕪村と芭蕉

毛馬 一三



与謝蕪村、松尾芭蕉と並んで江戸時代の三大俳人と言われる小林一茶は、江戸時代後期1763年=宝暦13年の5月5日に、信濃町で生まれている。

これを記念して信濃町では、5月5日、一茶の生誕250年を祝う催し「一茶まつり」が開かれ、町内にあるJR黒姫駅から、地元の子供も含む200余人が、「一茶音頭」などの音楽に合わせて町を練り歩く。

ところで、大阪の与謝蕪村は、享保元年(1716年)、大阪市都島区毛馬町(当時の摂津国東成郡毛馬村)で生またが、肝腎の「生誕日」は、残念ながら今でも分かっていない。

芭蕉も、同様に「生誕日」が不明。寛永21年(1644年)三重県伊賀市生まれたのは定かだが、「生誕日」はが分かっていない。しかも厄介なことに、生誕地そのものも、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説と、柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説あり、困惑させられる。

だから、確定している「生誕日」に「お祝い」出来るのは小林一茶だけということになり、蕪村と芭蕉を顕彰する人達にとっては、大きな悩みだ。

となれば、「生誕日」が定かではない以上、まず蕪村については来年の2016年に迫った生誕の「年」の「然るべき時」に、「生誕300年記念行事」をせざるを得ないことになる。

そこで、小林一茶の「生誕日」に「お祝いの行事」が行われた機会に、本誌でこれまで触れたことの無かった小林一茶の生涯等を、綴って置きたい。その訳はこのあと追々。

◆小林 一茶は、宝暦13年5月5日(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農の長男として生まれた。

3歳の時に生母を失い、8歳で継母がやってくる。しかし継母に馴染めず、安永6年(1777年)、14歳になった時、郷里を離れて江戸へ奉公に出向く。

25歳のとき、小林竹阿(二六庵竹阿)に師事して俳諧を学ぶことになり、一茶の俳諧への取り組みが開始される。

寛政3年(1791年)、29歳の時、一旦故郷に帰り、翌年から36歳の年まで俳諧の修行のために、近畿・四国・九州を歴遊する。

享和元年(1801年)、39歳のとき再び帰省。病気の父を看病するが、1ヶ月ほど後に父は死去。以後遺産相続を巡り、継母と12年間争うことになる。

一茶は再び江戸に戻り、俳諧の宗匠を務めつつも、遺産相続権は争い続ける。

文化9年(1812年)、50歳で故郷の信州柏原に帰り、その2年後28歳の妻・きくを娶り、3男1女をもうけるが、皆幼くして亡くす。きくも、痛風がもとで、37歳の生涯を閉じた。

62歳で2番目の妻(田中雪)を迎える。しかし老齢の夫に嫌気がさしたのか、半年で離婚。

64歳で結婚した3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける。(やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長するものの、一茶の血脈を後世に伝える。1873年に46歳で没。

一茶は、文政10年閨6月1日(1827年)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った粗末な「土蔵」暮らしをするようになる。

そして、その年の11月19日、その土蔵の中で、64年半の生涯を閉じる。法名は釈一茶不退位。

◆さて、<一茶俳句の作風>だが、
幼少期を過ごした家庭環境から、いわゆる「継子一茶」、義母との間の精神的軋轢を発想の源とした自虐的な句風をはじめとして、風土と共に生きる百姓的な視点と、平易かつ素朴な語の運びに基づく「句作」が目を引く。

その作風は与謝蕪村の天明調に対して、化政調と呼ばれている。

◆<代表的な句>は
雪とけて村いっぱいの子どもかな
大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春
やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
雀の子そこのけそこのけお馬が通る
蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん
やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
名月をとってくれろと泣く子かな
これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
うまさうな雪がふうはりふうはりと
ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)

◆序でながら、<一茶の作った句の数>のことだが、句数は約2万句と言われ、芭蕉の約1000句、蕪村の約3000句に比べ非常に多い。

しかし、よく知られている「我と来て遊べや親のない雀」にも、「我と来て遊ぶや親のない雀」と「我と来て遊ぶ親のない雀」の「類句」があり、これを1句とするか3句とするかは、議論の分かれる。<参考:ウィキペディア>

ところがここで述べたかったのは蕪村が、「生まれた毛馬村」で父母の死後、私生児として味合った精神的軋轢と自虐的苦悩が、一茶の感慨と極めて類似したところが多々あることだ。蕪村は、これが大阪毛馬村から抜け出し、江戸を目指したことに繋がっていく。

このことが、一茶の生涯を記述することによって、蕪村の共通の苦衷と繋がることが明らかになるだけに、上記のことを書き留めて置きたかった。

「NPO法人近畿ホーラム21」では、大阪俳人・蕪村顕彰のために「蕪村生誕300年祭記念行事」を、大阪府・大阪市や大阪市大、地元の協力を得て大々的に実施することにしようと、今、諸計画の準備を進めている。

「生誕日」が分からない蕪村だが、小林一茶の「生誕日祝賀」に劣らないような記念諸行事を、来年の適切な時に開催したい。大阪の俳句文化振興と蕪村俳句後世継承に貢献したいと考えているからだ。
(了)

2015年05月02日

◆今の大阪城は「太閤城」ではない

毛馬 一三



国の特別史跡に指定されている大阪城が、実は「太閤秀吉築城の大阪城」ではなく、総てが「徳川大阪城」だと知る人は、意外に少ない。

では秀吉が、織田信長から引継ぎ築城した元々の「大阪城」は、一体どこに姿を消したのか。それは追々―。

「聳える天守閣は、昭和初期に再構築され、城の堀は徳川方によって埋められたことは承知していたが、だからと言って秀吉大阪城の城跡が、些かも無いとは全く知らなかった」という人が多い。大阪城へ朝散歩する人々から異口同音に同様の返事が返ってくる。


天満橋から大手前、森の宮、新鴨野橋と城郭を一周する道筋を車で回ると、「大阪城の高い石垣と深い堀」が、雨滴の葉が陽光を跳ね返す樹林の間からと、大きく広がり、歴史の威容を誇らしげに見せ付ける。特に大手前周辺の高さ32mもある幾重もの「反りの石垣」には、当時の石垣構築技術の進歩の姿を覗かせる。

大阪夏の陣で豊臣家を滅亡させた徳川家康は、同戦いの2年後(1616)死ぬが、家康遺命を受けた秀忠が、元和6年(1620)から寛永6年(1629)までの10年3期にわたり、大阪城を大改築した。

その時徳川の威令を示すために、「太閤大阪城」の二の丸、三の丸を壊し、その上、総ての「堀」を埋め、「石垣」は地下に埋め尽して、「豊臣の痕跡」をことごとく消し去った。意図的な政治的行為である。

では「太閤大阪城」は、地下に眠ったままなのか。

「大阪城石垣群シンポジウム実行委員会」の論文をみると、そこに「太閤大阪城」が、地下に埋められたままになっていた遺跡の一部を発掘した調査記録が、下記のように書かれている。

<地下に埋蔵された「太閤大阪城」の石垣を最初に見つけたのは、大阪城総合学術調査の一環として大阪城本丸広場で行われたボーリング調査だった。昭和34年(1959)のことである。天守閣跡の南西にあたる地下8m から「石垣」が見つかったの
だ。

4m以上も積まれた石垣で、花崗岩だけでなく、様々な石を積み上げた「野面積み」だった。「野面積み」は、石の大小に規格がなく、積み方にも一定の法則が認められないもの。当時城郭作りの先駆者だった織田信長が手掛けた安土城の「野面積み」工法と同じだったことから、秀吉がその工法を導入して築いた「石垣」と断定された。

それから25年後の昭和61年(1986)になって、再び天守閣跡の南東部の地表1mの深さから地下7mまで、高さ6mの「石垣」が発見されている。

この石垣も「野面積み」だったうえ、その周辺で17世紀初頭の中国製の陶磁器が火災に遭って粉々の状態で見つかったことから、大阪夏の陣で被災した「太閤城」の「石垣」であると断定される2回目の発見となった。

両「石垣」の発見場所の位置と構造を頼りに、残された絵図と照合していくと、この「石垣」は本丸の中で最も重要な天守や、秀吉の家族が居住していた奥御殿のある「詰め丸」と呼ばれる曲輪(くるわ)の南東角にあたることが、明らかになったのである。

地下に消えた「石垣」は、切り石が少なく、自然石や転用石を沢山積み上げたもので、傾斜が比較的ゆるい、「徳川城」とは異なる「反り」の無い直線だった>。

第3の発見は偶然が幸いした。現在の「大阪城・西外堀」の外側の大阪城北西で、大阪府立女性総合センター建設の際の発掘調査で、地下から長さ25m に亘る「太閤大阪城の石垣」が出現したのだ。同石垣は、いま同センターの北の道沿いに移築復元されている。

「大阪城の石垣」の痕跡も、堀の外側にある学校法人追手門学院大手前センターの校庭で見つかり、保存されている。

何よりもこの発掘の価値が大きかったのは、今の大阪城郭から離れた外側の場所から「石垣」が現れたことだ。それは「徳川城」よりも、秀吉の「太閤城」の方が遥かに規模の大きかったことの証であり、今後の調査で城郭外から新たな「太閤大阪城」が出現する可能性を引き出したことだった。

地下に眠る遺跡の発掘調査は、エジプトやイタリアなど文明発祥地でブームになっているが、現在進められている大阪市の大阪城発掘調査で、「天下の台所」の基礎を築いた「太閤大阪城」の遺跡が、今の城郭外から見付かることを大いに期待したい。

余談ながら、私が主宰するNPO法人近畿フォーラム21活動の「蕪村顕彰俳句大学講座<学長 川原俊明学長(弁護士)>は、徳川秀忠が創り代えた、高く聳える「大阪城天守閣」と、傾斜作りの幾つもの「石垣」を見ながら、「蕪村顕彰俳句大學の句会講座」開講して5年半となる。眺めは四季に応じて彩りを代える樹木の美景に包まれて講座の雰囲気を盛り上げ、これほど愉しいことない。

しかし、その全景はあくまで「徳川城」の遺跡で、「太閤大阪城」でないと思うと、寂しさが、こころの中を翳める。(修正加筆・再掲)

2015年04月13日

◆「大阪都構想」はどうなる?

早川 昭三


統一地方選前半戦の大阪府・大阪市議選は12日に投開票した。大阪市を廃止して五つの特別区を新設する「大阪都構想」の賛否を問う住民投票を5月17日に控え、各党・各候補はその是非をめぐって激しい選挙戦を繰り広げた。

府市両議会で第1党の大阪維新の会は議席を増やして都構想実現に弾みをつけて、橋下代表の野望を実らせるか、それとも議会過半数を超える「反都構想結束の野党各党」が大阪維新を敗退させ 大阪維新の野望を棚上げさせるのか、その審判が迫られせる選挙戦であった。

開票の結果、大阪維新にとっては両議会で第1党の議席数は維持出来たものの、「反都構想結束の野党各党」との拮抗には勝てず、目標としていた過半数には届かなかった。

維新は、大阪市を廃止して五つの特別区を新設する「大阪都構想」実現を叶えるため、この大阪府・大阪市議選で野党結束を潰し、議会を制圧する過半数を超える議会体制を確立したかったのだが、できなかったのだ。

橋下氏が政治生命を賭けた「都構想」実現の夢は、停滞した。5月17日の住民投票を待たずして、いち早く「都構想」へ反対の住民意思のつよいことが、この結果で改めて事前に事実上示されたことになる。

一体、どうして大阪住民は、橋下氏の掲げる「都構想」の実現をさせようとしなかったのか。

はっきりしている事は、橋下氏の目指す「都構想」によって、住民が如何なるメリットがあるのか、一向に分からなかったことに他ならない。

橋下氏の街頭演説を聴いた知人は、下記のように感想を述べていた。

< そもそも、「都構想」が実現すれば,大阪府と大阪市の二重行政が解消されて,行政が効率化され,コストが縮減できるとしているが、そんなことはない。

「都構想」が出来ると、二重行政の解消というような「メリット」が生まれる可能性だけでなく、新たな「非効率」が産み出されるという驚くべき「デメリット」が生ずるリスクが強く懸念される。

そもそも、都構想が出来れば、大阪市という「1つの役所」が解体され,特別五区の「5つの役所」が出来あがり、それを通して行政コストがかえって高くなってしまう、ということが懸念されるのだ。

なぜなら5区役所に、各5区議会運営を始め、総務部等の重要部を作らざるを得ない結果、純粋に「5倍」ものコストがかかってしまうことになる。これは考えてみれば当たり前の事だ。>と述懐する。

加えて、<民間ビジネスの世界では「別々の会社を合併することで、効率化を図る」ということが行われているが、今回の大阪市の五分割案は、そうした効率化の取り組みの「真逆」の取り組となっている。今回の都構想は、正に「非効率化」「効率悪化」を引き起こす側面を、明確に持っている。>とも付け加える。

別の「反維新」の立場に立った別の友人は、こう述べた。

< そもそも、今は「大阪府・大阪市」の二重行政が問題だと言われているが、その都構想が実現してしまえば、驚くべき事に「大阪府・プチ大阪市役所(一部事務組合)・特別区」という三重構造が現れてしまう。

かつてならこういう、モメ事は起きるはずはなかった。なぜなら、大阪市内の行政には、たった一人の「大阪市長」というリーダーがいたから収められた。

ところが、「都構想」が実現し、大阪市が解体されて5つの特別区に分割されれば、そんなリーダーが不在となり、互いに利益の異なる5人の特別区長というバラバラのリーダーが存在することになる。

その区長は、それぞれの区民の選挙で選ばれた人達だから、選挙民の付託がある以上、選挙民の利益を最大化するために、他の区民の利益が損なわれようとも、自分の区民の利益を強く主張する局面は、必ず訪れる。つまり、異なる区同士の間に「利害対立」が生まれるだろう。

恐るべき混乱に陥るであろうことは必至だ。ところがそこに、5特別区の間の調整に大阪府が介入してくるとなると、話はさらにややこしくなっていく。

すなわち、ここに大阪府の存在も考慮に入れれば、あっというまに何ともややこしい「三重構造」が生まれることになる訳だ。>、以上。

結局、一体何のために分割するのかと云う事になる。これについて、下記のような意見も強く聴かされた。
<大阪市民はこれまで,一つの大阪市役所だけおカネを払えば,水道や下水やゴミ収集などの仕事を「一括」してやってもらえた訳だったが,これから5つの特別区と,一つのプチ大阪市役所(一部事務組合)に、おカネを払わないと行けなくなるのも決定的。

一部事務組合というプチ大阪市役所とは、この「独立後も、経費節減のために、共同利用するためにおいておく、昔の家の一部」というものなのだ。

つまり「都構想」は、行政の仕組みから考えれば、「5人家族で一つの家に暮らしていた」(現状の大阪市)のに、これからは「5つのアパート」(特別区)と「1つの共同利用のための家の一部」(一部事務組合)との、6つを利用して暮らすようにする、という話なわけだ。

もうこうなれば常識的に考えて市民へのサービスレベルが下がってしまうのは必至。

しかも、これから5人は対等の立場なので、その「元々住んでいた家」をどのように管理するのかで、モメることも、必至だ。モメるということは、行政コストが増えるということなのです。(そもそも、時間がかかってしまえば、それだけで、行政コストがかかってしまう。)

つまり、様々な行政サービスの手続きが「複雑化」してしまうことは必定だ。

こうして行政サービスが複雑化し、行政コストが上がると、結果的にサービス水準が低下することが懸念されるわけで、それと同時に、その行政コストをまかなうために、様々な料金が値上がりしていく可能性も、当然でて来る。

もちろん一寸先は闇、未来を断定的に論ずることはできないが、以上の意見の大要は、いろんな行政の手続きが「三重化」して複雑化すること、そしてその結果として、行政サービスが低下し、様々な公共料金が高まる深刻なリスクが生まれることは決定的である。

ましてや、特別区民のために使われるべき2200億円のおカネが、大阪府によって別の項目(大阪府の借金返済や、他の自治体のインフラ整備、まちづくり等)に「流用」されてしまう訳だから、行政サービス低下と、各種公共料金の値上げという「最悪の事態」が生ずる可能性は、ますます決定的なものだ。

「都構想」の是非を考える場合、こうした「デメリットのリスク」についても、しっかりと吟味し、考慮し、総合的に判断していくことが不可欠ではないかと深刻に考えた。だから、橋下代表の「都構想」の考えは、全く分からなかった。>以上

藤井聡 (京都大学院 教授)の見解も参考にしたが、維新に対する「都構想」実現の意味不明を述べる知人らの意見に、筆者も同感した。

となれば、地方選挙に敗れれば大阪市長を辞任すると、橋下氏は言及していたが、この結末は一体どうなるのだろうか。

「敗北」だとは思っていまい。議会大一党を維持できたにだから「勝利」したと思っているだろう。

しかし「都構想」の実現が野党各党の結束で阻まれるとなれば、「5月の世論調査」の行く末も懸念せざるを得まい。

橋下氏は、今後どのような「都構想」実現進路を選択するのだろうか。(了)


2015年04月05日

◆「黄砂アレルギー」に注意

毛馬  一三



花粉症歴の経験が全く無い筆者にとって、軽い風邪症状の一種かなと思って、余り気にも止めていなかった。

ところがとんでもない。次第に喉の違和感が痛みを伴うようになり、咳も痰も出るようになった。

そこで、慌てて近くの内科診療所に飛び込んだ。内科医は喉の症状を見た途端、「炎症がひどいですね」という。「原因は?」と訊いたら、「飛来してくる黄砂の黴によるものと思われます。花粉症ではありません」と教えてくれた。

同医師によると、黄砂によるいろんな健康被害で訪れる患者が、急増しているという。同医院から、

・抗生物質―フロモックス錠100mg(毎食後1錠・3日間分)
・咳を鎮める薬―メジコン錠15mg(毎食後2錠・7日分)
・痰や膿を薄めて、痰や鼻汁を出しやすくする薬―ムコダイン錠500mg(毎食後1錠・7 日分)
・胃薬―セルベックスカプセル50mg(毎食後1カプセル・7日分)薬を貰った。

だが、マスクを付けて外出を余儀なくされた1週間が過ぎても喉の炎症と咳、痰共に治まる気配が無い。再診の結果、まだ喉の炎症は完治してないと診断され、改めて下記の薬を貰った。

・咳を鎮める薬―メジコン錠15mg(毎食後2錠・7日分)
・痰や膿を薄めて、出しやすくする薬―クリアナール錠200mg(毎食後1錠・7日間分)
・炎症を抑えて腫れや痛みを和らげる薬―ダーゼン5mg錠(毎食後1錠・7日分)
・SPトローチ0.2mg(28錠・1日4回)
・アズノールうがい液4%(5ml・1日4回)

2度目の薬を飲んだり、うがいを励行したところ、数日でやっと喉の痛みや違和感がなくなり、咳と痰も出なくなった。

喉にこのような強度な症状が出たのは初めてのことだ。しかも気にはなっていた飛来の「黄砂」によるものだ。

今強烈になっている中国の大気汚染と原因が重なっているらしく、中国から飛来する「黄砂と大気汚染」が、日本に被害をなすりつけているのだ。気象庁も「中国で黄砂が急激に発生してる」と指摘している。日本が被害者になるのか。無性に腹が立つ。

話は後先になるが、<黄砂(こうさ)とは、中国を中心とした東アジア内陸部の砂漠または乾燥地域の砂塵が、強風を伴う砂嵐などによって上空に巻き上げられ、春を中心に東アジアなどの広範囲に飛来し、地上に降り注ぐ気象現象。あるいは、この現象を起こす砂自体のこと>である。

細かい砂の粒子や、粒子に付着した物質、黄砂とともに飛来する化学物質などにより、さまざまな健康被害が生じる。

即ち、咳、痰、喘息、鼻水、痒みといった呼吸器官への被害や、目や耳への被害が目立つ。黄砂が多い日には、花粉症、喘息、アトピーなどのアレルギー疾患の悪化が見られる。>という。 
参考―フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

花粉症で悩まされるだけでなく、黄砂アレルギーで健康被害を煩わされるのでは、堪ったものではない。

ところが肝腎の黄砂による呼吸器官への被害が、増えていることにはあまり知られていないようだ。

黄砂の飛来が顕著な九州や関西では、既にこの被害が出て問題化しているが、全国にも広がるだろう。

黄砂の飛来が予測される時は、TVの「天気予報」で早めに知らせてほしい。

しかも喉などに異常を感じたら、医療機関で診察を早めに受けられることをお勧めしたい。
                                         (了)
(全国版HP「頂門の一針」に、4月5日掲載 
      http://www.max.hi-o.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm)     


2015年04月03日

◆八女茶(やめちゃ)を嗜む

毛馬 一三



筆者の家では、食事の後や折を見て八女茶を毎日欠かさず10杯以上常飲している。祖母の実家が福岡県八女郡の八女茶(元は星野茶)の茶園だったのが縁で、子供の頃から八女茶の煎茶や玉露を嗜んできた。

その嗜みはいま尚継続しており、来月5月の一番茶の時期になると、八女茶生産元の祖母の実家から、注文した1年分の八女茶の煎茶と玉露が送られてくる。

70度位に冷ましたお湯をゆっくりと茶葉を入れた急須に移し、3〜4回ゆるりと左右に回したあと湯飲みに注いで飲み始めると、筆舌に尽くせないまろやかな風味と甘み、それに他所の茶より濃い味が口内に広がり、至福の瞬間がやってくる。

しかも茶に含まれるカテキンの成分が、ここ10年位の研究で、抗ガン作用と抗微生物作用に効果があることが明らかになってきたことから、意識して健康維持のためこの八女茶嗜みの習慣を続けている。

八女茶以外に全国には下記のような有名な茶の生産地がある。

<愛知県(三河茶)、茨城県、(奥久慈茶、猿島茶)、鹿児島県(かごしま茶)、京都府(宇治茶)、岐阜県(美濃茶)、熊本県(肥後茶)、高知県(土佐茶)、埼玉県(狭山茶)佐賀県(嬉野茶)、滋賀県(近江茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)、三重県(伊勢茶)、宮崎県(日向茶)、がある>(日本茶博物館www.kaburagien.co.jp/museum/museum/index.php - 14k -)

京都府(宇治茶)、佐賀県(嬉野茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)は過去に飲んだことがあるが、それなりに芳醇で美味な緑茶だったという印象と思い出がある。

ところで下記のような記事が出ていたことことを思い出す。これには目を惹かされた。

<緑茶を1日に7杯分ほど飲むことで、糖尿病になりかかっている人たちの血糖値が改善することが、静岡県立大などの研究でわかった。健康な人で緑茶をよく飲んでいると糖尿病になりにくいという報告はあるが、高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告は珍しいという。

血糖値が高めで、糖尿病と診断される手前の「境界型」などに該当する会社員ら60人を対象に緑茶に、含まれる渋み成分のカテキンの摂取量を一定にするため、いったん入れたお茶を乾燥させるなどして、実験用の粉末を作製。

これを毎日、湯に溶かして飲むグループと、飲まないグループに無作為に分け、2カ月後の「血糖値」を比べた。

平均的な血糖値の変化を、「Hb(ヘモグロビン)A1c」という指標でみると、緑茶粉末を飲んだ人たちは当初の6.2%が、2カ月後に5.9%に下がった。

飲まなかった人たちは変わらなかった。飲まなかった人たちに改めて飲んでもらうと、同じように2カ月間で6.1%から5.9%に下がった。

2グループで体格や摂取エネルギーなどに差はなく、緑茶からのカテキン摂取量が血糖値に影響したらしい。1日分の緑茶粉末は一般的な濃さの緑茶で湯飲み(約100ミリリットル)約5杯分のカテキンを含み、緑茶粉末を飲んだ人では普通に飲んだ緑茶と合わせ1日に約7杯分のカテキンをとっていた。

研究の中心で、今春に静岡県立大から移った吹野洋子常磐大教授(公衆栄養学)は「運動などの生活習慣改善とともに、食事の中で積極的に緑茶を取り入れてほしい」といっている>。(アサヒコム)


前記の様に、カテキンが抗ガン作用に効果が在ったり、良質な緑茶から抽出されたポリフェノールはビタミンEの10倍、ビタミンCの80倍というすぐれた抗酸化力を持っているといわれているが、緑茶僅か7杯の飲料で、高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告には驚かされた。

筆者の周りで糖尿病の一歩手前で悩んでいる先輩知人が最近多い。緑茶7杯で高血糖の人たちに効き目があるというなら、早速緑茶の常飲を勧めよう。お茶の嗜みは、心の安らぎも導いてくれるからだ。   (了)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年03月22日

◆地元大川河畔公園の花見の宴

毛馬 一三


大阪の桜の咲き始めは、3月25日頃になるとNHKの天気予報士が告げていた。満開と好天気が重なり合って、最高の花見日和になることを、今から望んでやま無い。

大体、開花が始まっても、折悪しく降雨に合うと、すぐに散ってしまう。しかし大阪の桜の名所・大阪港天保山や、筆者地元の「旧淀川の大川河畔」で満開ともなれば、晴天・無風・花冷えもない好天気になると、満開の桜の下で、所狭しと花見宴が開かれる。

昨年、仲間からのお声掛かりで、旧淀川の大川河畔側の公園で花見の宴を行った。十畳位のビニールシートの上にダンボール箱を設え、花びらの重みで垂れた満開の桜の下で、お弁当にビール缶を並べて、ご婦人も加わった11人の宴が始まった。

火気を使ったバーべキュー宴はご法度で、われわれの酒宴も、焼肉の楽しみは、出来なくなった。

しかし焼肉だけは満開桜の下で出来ると宴は盛り上がる。最近のおつまみは多種多彩、下戸の筆者も、酒量を楽しむ友人たちも、これらを口にほおばりながら思わず酒量は進む。

今や、デパートから買い求めてきたお弁当、おかず、味の予想を超えた出来映えの逸品を楽しむ。食事も最高だ。バーべキュー宴に拘らなくなった。

昼前から始まる花見の宴は、なんと夕方5時ごろまで続く。話題は尽きない。ことしは「大阪都構想の住民投票の賛否」が、、文字通り甲論乙駁で続くだろう。

そんな折、お酒紙コップ内のやジュースのコップのふちに、2〜3片の桜の花びらが舞い落ちて浮かんだのを眺められたことは、貴重な経験だ。これが花見の醍醐味というのだろう。

昨年の花見の時、仲間の一人が言った。「こんな花見は、恐らくもう二度と経験出来ませんよ。満開と絶好の花日和、そして心を通わせられる仲間同士の宴。ほとにラッキーですね」。

太閤の「醍醐の花見」の絵巻が脳裏を横切った。

太閤秀吉が秀頼、北政所、淀殿、それに大名など約千三百名を従えて催した「醍醐の花見」のことだ。太閤絶頂期の一大行事だが、「桜」を使って「権力の威力と和」を誇示したことには違いは無い。

「桜」とはそんな舞台設定にしばしば登場する。
 
花見の宴とは全く無縁な筆者だったが、自然とは人の心をなごませ、和を図る不思議な力を、時間と空間を超えてもなお生きているものだとつくづく考えさせられると。今年もやってみたい。

地元大川河畔には、江戸時代の大阪俳人与謝蕪村が、京都から「船」でやって来て、「梅」や「桜」を見ながら、吟行して回ったに違いない。

本当に大川河畔の「桜」には感謝しよう。

2015年03月10日

◆早く作りたい紫蘇濃縮ジュース

毛馬 一三



ジュースとは、本来「果汁」を指すものだ。だが今ではコーラなどの炭酸飲料なども含めた甘いソフトドリンクまでも「ジュース」と称している。デパートやスーパーでは、山ほど陳列されたこの種のジュースが目に付くが、果たして健康に如何と思うと躊躇してしまう。

そんな折、体にいいから是非自家製でやりなさいと知人に勧められたことから、数年前から「紫蘇(しそ)濃縮ジュース」を我が家で作り始めた。

なんとまあ、風味・舌触りなど美味さは抜群、以来すっかり嵌ってしまい、原料の「赤紫蘇」が出回る6月が毎年待ち遠しい。

ところで、その紫蘇の話。

<紫蘇(しそ、学名Perilla frutescens)は、シソ科のシソ属の植物。中国原産。

紫蘇には、こんな由来がある。中国の後漢末、洛陽の若者が蟹を食べすぎて食中毒を起こし死にかけたが、名医・華陀が薬草を煎じ、「紫の薬」を作り、同薬を用いたところ、若者はたちまち健康を取り戻した。「紫」の「蘇る」薬だというので、この薬草を「紫蘇」というようになった>という。

品種は以下の2種類がある。「青紫蘇」と「赤紫蘇」である。

<i)「青紫蘇」は、葉や花を香味野菜として刺身のつまや天ぷらなどにする。青紫蘇の葉は野菜としては「大葉(おおば)」とも呼ばれる。
i)「赤紫蘇」は、梅干しなどの色づけに使用。また葉を乾燥させたものは香辛料として(特に京都で)味唐辛子に配合され、ふりかけなどにも用いられる>。
出典: ウィキペディア(Wikipedia)

そこで自家製で「紫蘇(しそ)濃縮ジュース」を作る場合は、「赤紫蘇」を使う。作り方は幾通りもあるが、知人から教えてもらった作り方が最高の紫蘇ジュースだと信じて、その方法を毎年励行している。

<作り方>
(1)紫蘇(350g)を水できれいに洗い、水気をよく切って鍋に入れる。
(2)鍋に水(450cc)を入れ、その中に砂糖(600g)とクエン酸(20g)を加える。
(3)紫蘇を満遍なく混ぜて、鍋をガスの中火で煮出す。
(4)10分ほど沸騰させ、紫蘇の中から泡が出したら火を止める。
(5)鍋で煮だった紫蘇を別のボールに、ザルで濾す。
(6)絞り紫蘇液が自然に冷めたら、その中に「ゆず酢」を大匙2杯弱入れる。これがこの濃縮ジュースの「隠  し味」。

(7)真っ赤な紫蘇濃縮ジュースが出来上がったら、氷を入れたコップに濃縮ジュースを好みに応じて注ぎ、水  や炭酸水などで4倍に薄めて飲む。

これだけの作り方で、900ccの「紫蘇濃縮ジュース」が出来上がる。冷蔵庫で保存すれば、なんと半年も賞味期限がある。

この「紫蘇ジュース」は、紫蘇の栄養であるビタミン類、ミネラル類が含まれているので、薬用効果がある。アレルギー体質、生活習慣病、食中毒予防等に効果があるというのだ。

私の風味・美味しさ・味覚に合う「紫蘇濃縮ジュース」の勝手な作り方を紹介したが、このジュースが他の作り方と違う点は、隠し味の「ゆず酢」。
 
早い話だが、6月が来たら「赤紫蘇」を求めて、自家製ジュースに挑戦しよう。 (了)