2015年10月29日

◆「万葉集」に軍事メッセージ

毛馬 一三



韓国の百済の都扶余の遺跡から、618年に作成された「出挙(すいこ)」の木簡が、発見されている。

「出挙」とは、作付けの季節に農民に利子つきで貸出した「種もみ」を、収穫の秋に利子分を含めた作物を現物で回収する制度で、木簡には農民毎に回収した「作物の量」が記録されている。

勿論木簡は、日本では飛鳥時代以前の古代遺跡から、全く同じものが既に発掘されている。

つまり、中国から発祥した貴重な税収制度が百済を通じて、日本へ導入されていたことの証だが、もし百済と日本の間に当時、緊密友好な外交関係がなかったら、日本へこうした国家構築に属する機密情報が、伝わって来なかったであろうと想像に難くない。

この韓国の発掘記事を読んだとき、以前になるが(1989年11月)、日本と百済との「秘めたる繋がり」の逸話を話してくれた、韓国の著名女流作家のことを思い出した。

同作家は、李寧煕(いよんひ)氏。韓国大手新聞社「韓国日報」の政治部長・論説委員長から国会議員(1981年)を経て、韓国女流文学会会長を歴任。

筆者は、「韓国日報」からの紹介で、李氏が来日した折、2日間奈良県桜井の「万葉の道」やその周辺の「古代天皇の古墳群」散策の案内役を務めた。その際李氏が、こもごもに語ってくれたのが、この「万葉集」に秘められた「軍事、政治的なぞ」の話だった。

李氏によると、日本の「万葉集」と関わりを持ったのは、国会議員だった当時、日本の高校の歴史教科書に韓国関係記述が歪曲されているという問題が提起されたことから、日韓両国の国会議員による特別委員会が設けられ、事実の調査を始めたのがきっかけだったと言った。

つまり、歴史書が歪曲されているかどうかに迫るには、どうしても古代史にまで遡って検証する必要があり、そのために両国の歴史書に目を通すうち、李氏は日本の「万葉集」に魅せられたという。

ここから「万葉仮名」の研究に惹かれたらしいのだが、「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語で判読出来ない歌のほとんどを、"実は韓国語で読む"と、総て読み通せることを見つけ出したというのだ。これは当時では大発見に違いなかった。

帰国した李氏から、筆者に李氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊1989発刊」が送られてきた。読んでいくうち「日本語訳では見えない様々な謎」が書き込まれて居たことを思いだす。その中で、特に目を見張らせる下記のものがあった。

<万葉集20巻、4516首の内に、日本語では判読できない、正式に「未詳歌」とされている3首があり、このうちの1首に恐るべきメッセージが織り込められている。斉明天皇(655年即位)の意中を、額田王(ぬかだのおおきみ)が歌にしたのが、それである。

◆原文:  金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念<巻1の7・未詳歌>

・日本語よみー(秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 刈廬(かりいほ)し思ほゆ)

この歌は、従来からの「日本語解釈」では、次のようになっている。
(秋の野の 萱(かや)を刈って屋根を葺き 旅宿りした 宇治のみやこの 仮の庵が思われる)。

ところがこの解釈では、額田王が何を言いたいのか、さっぱり意味が伝わってこない。だからこの歌が、解釈不能または解意不明なことから、公式に「未詳歌」とされたのも当然であろうと思われる。

そこでこの祥らかでないこの歌の原文を、李氏が韓国語で読んでみた・・・。すると、
(徐伐『そぼる』は 鉄磨ぐ 締め苦しむること勿れ 上の都は 刀来るぞよ 陣地固めよ)

・韓国語訳―(新羅は刀を磨いで戦いに備えている。締め苦しめないといいのに・・・。吾がお上の、百済の都は、敵が襲ってくるから、陣地をお固めなされ)。>
ということが明らかになった訳だ。

李氏の韓国語解釈をそのまま読むと、これは斉明天皇が百済に送った「軍事警告メッセージ」ということがはっきり分かる。

だとすれば斉明天皇が百済に対して、これほどまでの機密「メッセージ」を送らなければならなかった理由とは何か、その疑問にブチ当たる。

<皇極天皇(斉明天皇と同じ・斉明天皇は二度即位)から斉明天皇の時代は、朝鮮半島では、新羅、百済、高句麗の3国の間が緊張状態にあった。

この歌(皇極時代の時の648年に入手していた情報)は、斉明天皇に即位してから額田王に歌として作らせたものといわれるが、百済が新羅・連合軍に滅亡させられた661年より13年も早くからこの事態を予測していたことになる。

当然百済が滅亡する相当前から、この「新羅の不穏な極秘情報」を、斉明天皇は歌に秘めて百済に伝達していたに違いない。即ち人一倍百済の存亡に長年心を砕いていた斉明天皇なら、国家存亡に関わる極秘情報を百済に提供しない訳は無い。

実は斉明天皇は、百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、百済を援けるため、難波(大阪)で武器と船舶を作らせ、自らその船に乗り込んで瀬戸内海を西に渡り、百済とは目と鼻の先の筑紫(福岡)の「朝倉宮」て新羅・唐との戦争に備えた。しかし斉明天皇は、遠征軍が百済に向かう前、失意の内に亡くなっている。

斉明天皇の異常なまでの「百済ひいき」について日韓学者の一部には、斉明天皇は「百済第三十代武王の娘の宝」で、百済最後の王、「義慈王の妹」だったとの説がある。>

上記説も考えられないこともない。恐らく斉明天皇自身、あるいは親族関係と百済との間に何らかの強力な繋がりが現実に在ったとしたら、「万葉集」歌に秘められた「軍事警告メッセージ」の存在も真実味を帯びてくる。

「万葉集」を古代の珠玉日本文学と仰ぐ人たちにとっては、この韓国語読みは認め難く、あくまで額田王作の「未詳歌」としてしか受け入れられないかもしれない。

しかし、このあと白村江の戦いの敗戦(663年)まで百済救国にこだわり続けてきた日本の歴史を見れば、日本と百済との関係は極めて緊密であったことを証明していることになる。

だとすれば、万葉集愛好家方々も韓国語で読み明かされる「万葉集の新たなメッセージ」に興味を抱かれことも、「万葉集」の珠玉の枠を更に広げることにはならないだろうか。(了)

参考―・李寧煕氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」
   ・小林恵子著「白村江の戦いと壬申の乱・現代思潮社」
   ・ウィキぺディア
                             

2015年10月26日

◆忍者「曾良」が松尾芭蕉に随行した

毛馬 一三


本誌に掲載した拙稿「芭蕉終焉(しゅうえん)の地って?」の第2弾。

上記拙稿とは、松尾芭蕉の「終焉の地」が大阪・南御堂向かいにあった花屋仁左衛門の離れ座敷であったことや、辞世の句といわれる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」を、この座敷の床で亡くなる4日前に詠んだものであることを、筆者は不覚にも知らなかった。それを偶然このことを知る機会を得たことから、驚きに見合って綴ったものだった。

芭蕉は、大阪などで死ぬなど夢だに思いもせず、早く床払いをして好きな旅を続けたいとの気持であったと、様々な文献が記している。

だが、思いもよらず病(食中毒といわれる)は悪化、意に反して終焉を迎えるのだが、見守る弟子たちの顔を眺めながら「死」が迫るのを悟り、幸せな生涯だったと瞑目しながら、逍遥と死の旅についたようだ。


冒頭の拙稿に、「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏から下記の寄稿頂いた。

<深川・芭蕉記念館 は拙宅の近くです。徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。江戸の発展とともに新たな市街地、農地が必要となり、土地の開発が始まった。大阪からきていた深川八郎右衛門が新田を開発、慶長元年(1573年)深川村と称したのが始まり。

江戸の下町と言えばなんと言っても深川。出発地は都営新宿線森下駅。駅を出て新大橋通りを浜町方面に5分ほど歩いていくと隅田川にかかる橋が見えてくる。これがこの通りの名前になっている新大橋。橋の手前の十字路を左に曲がりしばらく歩いていくと、最初の目的地「芭蕉記念館」がある。

芭蕉は、延宝8年(1680年)江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ。元禄2年(1689年)3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる奥の細道。岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅。

「芭蕉記念館」には 当時、芭蕉が着ていた袈裟を初め芭蕉庵を模したほこら、句碑 などがある。記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり。川沿いの道を左に少し歩いていくと史跡庭園があり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。 先日来日した李トウキ前台湾総統もご覧になって行った>。

この寄稿を読ませて貰った時、芭蕉に纏わる新たな衝撃が脳裏を駆け巡った。それは、<徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。(そんな未開発の深川だったが、その深川から)元禄2年3月、「曾良」を随行して奥の細道の旅に出発した。(略)岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅>というくだりである。

江戸から東北、北陸地方を150日間で踏破した2400キロ(600里)の道程を踏破したと言うが、とんでもない距離だ。単純に計算すると1日16キロ歩いたことになる。だが当時の旅はそんな生易しいものではない。

江戸時代の元禄期といっても、 江戸から東北、北陸地方には、のんびり歩き通せる平坦な道が整っていた筈はない。ほとんどが山道・峠道であり、山を越えるしか方法はなかった。

筆者も、数年前福井の江戸時代以前からある「鯖街道」を歩いたことある。山道の勾配は天地の差ほどの高低を繰り返し上り下りした。山道もない場所は絶壁を横切るしかない。ましてや橋はほとんどなかった。大雨で河が氾濫、足止めを食うことも日常茶飯事だったろう。

「奥の細道」によると、2人は何と1日に48キロ(12里)を 歩いた日があったという。幾ら昔の人が健脚だったとはいえ、老齢の芭蕉(46)と随行者曾良(41)が、そんな長距離を1日で踏破できたと考えるだけでも、驚きが渦巻く。

だから、ここから「第2弾」を書きたくなったのだ。

つまり芭蕉は、こうした異常な歩き方の速さや、伊賀の上野の生まれであることから「忍者」ではなかったかと論じられてきた。それはまた別の機会に譲るとして、ここで気になるのは、むしろ芭蕉の弟子扱いをされた、「曾良」の方だ。

「曾良」のことは、純朴な芭蕉の巡教なお供だという印象が強く、「忍者」だとはあまり知られていない。

調べてみると、こんな具合だ。

<曾良は、幕府とのつながりが緊密で、当時日光工事普請を巡ってあった伊達藩と日光奉行の対立を探る秘密裡の調べを、幕府が「曾良」に命じられたという。その目的と行動を秘匿するため、芭蕉の旅を巧みに利用したというのが、専門家の間では定説となっている。

その「曾良」は、さらに社寺や港の荷役の動きを調べる秘密任務も担っていたらしく、北前舟が立ち寄る日本海沿岸の港として酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀を丹念に秘索して回っている痕跡が残されている。

その秘索行動が、なんと芭蕉の旅の日程と、無理なく調合する形になっている事実が証拠なっているのには驚かされる。

きっと幕府からの支度金が潤沢だったため、俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の興行収入だけでは吟行生計が出来なかった芭蕉の懐具合が、この「曾良」の秘行任務を受け入れざるを得ないことになり、随行を認めたものであろうと専門家は指摘する>。

こう見てくると、「曾良」という旅の随行者は、芭蕉に接近して仮弟子に登用してもらい、巧に芭蕉を利用して、幕府隠密の任務を隠密裡に遂行していった紛れの無い“忍者”だったのだ。

芭蕉の終焉の時、「曾良」のその床の横には居なかった。公務を理由に葬儀にも参列しなかったという。やはり芭蕉に心酔して傍に連れ添った弟子ではなかったのだ。

果たして「曾良」は、芭蕉の死後、幕府巡見使九州班員に正式に身を転じている。
               (了)              参考・ウィキべディア
           

2015年10月23日

◆末期ガン患者の「在宅ケア」

毛馬 一三

末期ガン患者の治療などの「緩和ケア」を如何に進めるかが、いま大きな社会問題になっている。行政・医療機関・開業医が、末期ガン患者を在宅でサポートするため、如何にして有機的な連携を取れるかという課題だ。

しかしその連携だが、決して円滑だとは言い難い。医療機関で治療を受けている末期ガン患者が、<自宅で痛みをコントロールし自分らしい人生の最後を過ごしたい>と思ったとしても、現状は医療機関と地域ケアの軸となる開業医との取り組みが希薄な上、肝腎の「在宅ホスピス」専門開業医の不足が障害となっているからだ。

そんな中、大阪北千里で、医療法人永仁会・千里ペインクリニックが主催して「在宅ホスピス」の在り方を考える「勉強会」と「家族の会」とを兼ねた会合を、大勢の関係者が参加して開いている。

「在宅ホスピス」専門開業医の絶対数が極度に少ない大阪で、こうした「在宅ホスピス」現場の「会合」は、有効なものだ。

会合は、まず「在宅ホスピスとは・・」と題して、医療法人永仁会の松永美佳子理事長が、スライドを使って約30分間講演する。

@在宅ホスピスの意義A家と病院の違いAチーム医療の重要性とサポート体制B延命の利点・欠点C宅移行時の障害D入院に比べて費用は軽減E家と病院の違いF在宅ホスピスの課題などを軸に、医療現場での感激や悩み、それに病院との連携、経営維持の課題など現場で直面している諸問題について分かりやすく解説される。

特に「在宅ホスピスの意義」では、
☆最後まで自分らしい人生が送れる。
☆残された時間を有意義に使える。☆家族の絆が強くなる。
☆家族が死の受容をしやすい。☆みなが死について考える機会となる有意義性が顕著だと強調される。

また「家と病院の違い」の点では、点滴・各種ドレーン(体内の液を管で排出)の管理・人工呼吸など、(病院で行う手術・副作用の強い化学療法以外)殆ど家で出来ると、在宅ケアの実情を説明。

締め括りに取り上げた「在宅ホスピスの課題」は、患者のためには、より早い時期からの病院との連携が不可欠であることを指摘されると共に、通院していれば在宅医療を一切受けられないという現行制度の改正と、更には24時間・365日体制の経営維持ためには、関連諸制度の改正が避けて通れないなど、制度改正と医療機関との連携の重要性を熱ぽく訴え続けられる。

「在宅ホスピス」を利用した家族の声を聞いた。<在宅ケアに当ってくれた医師・看護師さんからの支えで、生前夫と心穏やかにゆっくり話が出来、なすべき事がすべて出来た。「在宅ホスピスの大切さ」を知ったし、この経験を広く伝えたい>と語っていたことを思い出す。

また末期ガンの母を看取った男性は、<在宅ホスピスのことを全く知らなかった私は、たまたまケアマネージャーから、ここ千里ペインクリニックのことを教えて貰った。知らないままだったら、家族で旅立つ母をおだやかに看取れなかった。まさに天が授けてくれた千里ペインクリニックだと思っている>と感謝の言葉もだされた。

問題はまだまだ山積している。医療機関と開業医の連携の問題もその一つだ。大阪厚生年金病院では、医師・看護師・ソーシャルワーカーなどによる「緩和ケア対策チーム」を結成、大阪厚生年金病院と連携できる開業医のピクアップを地域性や能力などの点から選定する作業に取り組む一方、ばらばらに実施している院内緩和ケアの現状を一本化する対策も進めていく活動が進められているる。

北千里で始った「緩和ケア現場」のささやかな運動が、他の診療所や医療機関にも波及して、「痛みで苦しむ患者の救済」に益々年毎に発展することを願っている。

2015年10月21日

◆大阪にある芭蕉終焉の地

毛馬 一三



松尾芭蕉の「終焉(しゅうえん)の地」が、大阪だということを知っている人は少ないのではないか。

「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」と詠んだ旅の俳聖松尾芭蕉だから、旅の果ての東北か北陸の辺りでの病死ではないか思うのが普通だろう。

ところが、芭蕉の終焉の地は大阪・南御堂向かいの花屋仁左衛門の離れ座敷だったのだ。大阪人ですら、知らない人が多い。芭蕉が亡くなった花屋仁右衛門宅は今喫茶店になっているので、その屋敷跡から当時を髣髴させるものは何もない。

実はその事実を告げる記念碑は、大阪のメインストリート・御堂筋南御堂前の、緑地帯の中に「終焉(しゅうえん)ノ地」と銘を打った石碑が、ポツンと建っているだけだ。


その「碑の銘」が南側に向いて建っているため、北から南に通じる一方通行の御堂筋を通過する人目には、「芭蕉終焉の地」という文字を読み取ることは物理的に不可能だ。

ましてや道路の緩衝地帯の中にポツンと立っているから、人の関心を呼ぶことはまずない。その意味で、偶然にも筆者が“発見”出来たのはラッキーなことだった。
 
<元禄7年(1694)9月、芭蕉は故郷伊賀上野から奈良をすぎ暗峠を越え、2度目の来坂をした。長崎へ向かう旅の途中に大阪に立ち寄った。住吉大社を詣でたり、句会に参加するなどしていたが、当時大阪には俳壇をにぎわしていた2人の門人の仲に円満を欠くところがあり、それを取り持つための来坂が主目的であったとされている。
 
出発時から体の不調を訴えていたが、大阪・住吉神社に詣でた後、発熱下痢を伴い花屋仁右衛門方離れ座敷で病臥、10月12日夕方息を引き取る。

51歳だった。最後の句として知られる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」は、その4日前に病床で詠まれたものだ>

ところが「秋深き 隣は何を する人とぞ」は、芭蕉が床に臥す直前に書いた句である。臥す直前まで世事に興味津々というか、「晩秋」の移ろいにも鋭利な感覚を失っていない。となると芭蕉は、出来るだけ早く床上げをして長崎へ向かう旅立ちへの気力と体力の自信に、この時なお溢れていたのではないかと思える。

<大坂御堂筋の花屋仁左衛門方で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死した(よく辞世の句と言われているが結果論である。「病中吟」との前詞があり、辞世とは当人も意識していなかった>という説がある。参考<ウイキぺディア>

だが病状は急変したのだろう。だから「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が、本人の意思に反して「辞世の句」となってしまったのだ。

<臨終の時は、大勢の弟子達に見守られ、遺体は亡くなった日に舟で、現在の土佐堀川を上って芭蕉が遺言した近江の義仲寺に運ばれた>。芭蕉は、木曾義仲の墓の隣に眠っている。

この欄を書きたいと思ったのにはひとつの感慨があった。「頂門の一針の主宰者」渡部亮次郎氏が掲載された『老化は熟成である』の記述の一節を思い出したからだ。

<老化するとは死に近付くことでもあるが酒や味噌のように美味しく熟成して他人の役に立ち、自分を誇りに思えることでもある。

生きるとは死ぬことである。生まれたら成長すると言うが、それが違うのだ。最後に来る死に向かって懸命に走っているに過ぎないのだ。ただゴールが何時かを自身が知らないだけだ。

盛者必衰の理(ことわり)通り身体の各部分は生まれた瞬間から衰えて行く。中年を過ぎれば皺もしみも方々に出来る。これは生物が生きている証拠として止むを得ないものである>、と渡部亮次郎氏は「生と死」にこう触れている。

「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」を詠んだ芭蕉の心は、まだまだ死ぬまで好きな旅を続けたい気持ちを抱きながら、<最後に来る死に向かって懸命に走っているに過ぎない自分に気づいていた>のではないかとの想いが、重なったからである。

死にたくはなかった芭蕉も、遂に終焉に気づいた瞬間は、きっと幸せな生涯だったと感じたに違いないと思う。

歴史のまち・大阪には多岐の名所旧跡や記念碑は散在するが、「生と死」を考えさせるものは、そう沢山あるものではない。(了)参考<ウイキぺディア>

2015年10月16日

◆与謝蕪村の新212句見つかる

毛馬 一三



江戸時代の俳人与謝蕪村が詠んだ、これまで知られていない212句を収めた句集が見つかった。

の俳句集は、江戸時代後期に俳人や画家として活躍した与謝蕪村の弟子がまとめたもので、昭和時代の初期まで存在は確認されていたらしいが、その後行方不明になっていた。

ところが4年前、この句集は奈良の天理大学附属天理図書館が古書店から購入し、それを所蔵する奈良県の大学や専門家が、貴重な資料だとして研究していた。ところが最近になって、収録されている1903句中から212句が、蕪村の新しい句が分かったのだ。

このことを天理大学附属天理図書館が、14日に発表した。来年蕪村生誕300」年の「年」を迎えるために、記念行事事業を進める準備えを進めている筆者は、驚いた。

これら212句のうち、「傘も化て目のある月夜哉」、「我焼し野に驚や屮の花」、「蜻蛉や眼鏡をかけて飛歩行」)という句がある(読売新聞)。

蕪村を研究している関西大学の藤田真一教授は、「ぼろぼろになった傘の穴から月の光が差し込みお化けの目のように光っている様子を表現したユーモラスな句で、化け物を好んで題材にした蕪村らしい句だ」としている。

藤田教授は、「これだけの数の句がまとまって見つかりワクワクしている。蕪村の評価が進むことを期待したい」と話していた。筆者自身も親交のある藤田教授に、14日夕直接電話して「意外性」を確かめて処、「見つかったのは衝撃です。蕪村の残した手紙などと照合すれば、212句の時期や場所がわかるだろうし、愉しみです」と話してくれた。

ところで、蕪村が、芭蕉、一茶と並んで「江戸時代の三大俳人」であることや、「生誕地が大阪毛馬村であることを知ってひとは少ない」。生誕日は分からないものの、来年の生誕300年を控えてきたため、改めて蕪村に関して追々。

与謝蕪村は、江戸時代中期の享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれている。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸に下ったのか。これすら未だはっきりしない。蕪村が飛び出した先は、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。

ところがが、どうしてこんな超有名な俳人に師事し俳諧を学ぶことができたのか、田舎の毛馬村と江戸との結びつきや、師匠との今謂うコネがどうして出来たのか、ミステリーだらけだ。この時蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

蕪村は、師匠の早野巴人の弟子以来、京都や大阪などを吟行し、これまでに生誕地に一度も足を踏み入れていない。

蕪村が生まれたのは、毛馬村の裕福な庄屋(問屋・宿屋も共営)。母親は京都丹後から出て来た庄屋の奉公人で、庄屋主に愛されて生まれたこどもの私生児だった。

庄屋に娘がいたが、蕪村への家業の継承の話は一旦出たこと在ったものの、むしろ他の奉公人からのきつい苛めにあわせられ、生誕地毛馬村との接触も徐々に薄れて行った。しかも幼くして両親を失ったため、私生児扱いの蕪村は艱難辛苦を重ね、結局生家には居られなくなった。

これが17歳のころ出奔して江戸へ下った主因だろうが、蕪村が生涯生誕地に戻らなかったのも、この幼少時代の悲痛心が導いていると思われる。

このような悲壮な幼少にくらべ、今回発見された句が「お化けを連想したりして遊び心にあふれた句」を作った蕪村の楽しむ心境を知りたいとおもい、212句のあたらしい句に早く接したい。

なおこの俳集は、10月19日から11月8日まで天理大学附属天理図書館で公開されるので、出かけてみたい(了)。

2015年10月14日

◆[南京大虐殺]の真実を正せ

毛馬 一三



菅義偉官房長官は13日午前の閣議後の記者会見で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産に中国が申請した「南京大虐殺文書」が登録されたことに関し、「文書が本物なのか専門家の検証を受けていない」と述べ、審議経過の不透明性や公正でない点に強い不快感を示した。

菅氏は、南京事件の歴史的事実の認識に日中間で違いがあることを指摘した上で、日本政府として登録された文書の中身を確認できていない実態を説明。「ユネスコは国々の友好発展のために機能すべきところが、政治利用されるような仕組みだ」と批判した。(産經新聞)
  

この菅義偉官房長官の記者会見の内容を知った時、大阪で2008年2月9日夜、映画「南京の真実」第一部『七人の死刑囚』の完成試写会が行われたことをあらためて思い出した。。

会場の大阪八尾市文化会館プリズムホールに友人と共に鑑賞に参じたが、1400人収容の会場がほぼ満席となる盛況ぶりだった。主催者の「南京の真実」関西上映実行委員会代表の挨拶に続き、同映画の製作・脚本・監督の水島総氏が登壇して、映画製作の意図を披露した。

<水島監督は、「東京裁判(極東国際軍事裁判)の原点は、でっち上げ「南京」の告発から始まったものだ。いい加減な証拠と証人で、7人が死刑に処せられた。歴史のウソを正し、南京の真実を後世に伝えるため、史実と1aも違わないリアルなセットを再現し撮影した」とのべた。

そして「この映画によって、『南京30万人大虐殺』はなかったという厳然たる事実を、未来のこども達に伝えなければならない」と、秘めた製作意志を熱ぽく語った。>

「試写会」が始まった。ストーリーは巣鴨プリズンに収監されていた「東京 裁判」の戦争指導者「7人(A級戦犯6名とBC級戦犯1名)の死刑囚」に 死刑執行が告知された瞬間から、執行までの24時間をドキュメンタリー タッチで描いたものだった。

ドラマは、執行時刻が刻々と切迫する中、一組の寝具と一脚の座り机しかない3畳ほどの独房で居ずまいを正す7人の実像を、際立った表情のクロー ズや強烈なノイズを折り混ぜながら、新事実のセットの中で展開していく。

主人公は、死刑判決を受け処刑された松井 石根中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官、陸軍大将(浜畑賢吉役)で、このでっちあげの「南京事件」の告発で、「東京裁判」での死刑判決が出されたと見方にもとづき、主役松井大将の証言を主軸に「東京裁判」そのものの不当性を暗示していく手法を執っていた。

映画の中で目を見張ったのは、南京陥落の翌日の昭和12年12月14日、「東宝映画撮影隊」が南京に直入し、その翌15日から正月にかけて、南京の状況を撮影した「記録映画」だった。

花山僧侶の問いかけに松井大将が述懐する話の内容に重ねあわせる形で映し出す映像である。多くの日本人が未だ見たことが少ない貴重なフイルムだった。

この中で、南京城内で中国人を「兵を民に分離」する登録風景が映し出されている。

仮に30万人虐殺があったのなら、憎しみのある日本軍に、にこやかな表情で長蛇の列を作り、分離署名に応じることはあるまい。

第一、日本兵が強姦・殺戮を平気でやる奴らだと思っていたら、憎しみと恐怖心から集うことは考え難い。子供たちが爆竹に笑顔で興じるシーンも続く。強制されたてものだったら、あんな飛び跳ねる楽しい仕種は出来ないだろう。

極めつけは、正月前の「餅つき」や「門松飾り」の行事だ。

虐殺と称されるあと累々と横たわる死骸の近くで、日本軍が平気で正月準備ができるはずがある筈はない。正月とは、日本における厳粛な行事だからだ。

この記録映画は、まさに「大虐殺」があったといわれる同時期のもだが、そんな雰囲気は微塵も感じさせない。

映画は、24時間切れのクライマックスへと移る。7人は2班に分かれ、別棟の刑場に向かう。水島監督が再現したセットの刑場で、7人は相前後して絞首刑の死刑執行に服した。絞首刑の全容に至るリアルな描写に息を呑む思いだった。

水島総監督は、なぜ「南京大虐殺」が捏造されたかについて、

i)中国共産党政権が繰り返してきた自国民に対する「大虐殺」を隠蔽するため。

i)一党独裁体制の内部矛盾への人民の怒りを、日本に転嫁するため。

i)日本に対して常に精神的優位に立つための決定的「歴史カード」を設定するため―の3理由をあげた。(映画「南京の真実」製作委員会・広報誌)

同監督は、「南京大虐殺」はなかったことを世界に知らしめ、日本と日本人の名誉と誇りを守るため、これから第二部「検証編」、第三部「米国編(英語版)」を製作したいとしていた。

確かに、この映画第一部「7人の死刑囚」試写会を見て、検証された歴史の事実とリアルな演出に感動し、「南京の捏造」に怒りを覚えた観客は多かったはずだ。

それだけに水島監督が日本の誇りの保持のために挑む、これからでも第二部「検証編」を見たい。

「ユネスコは国々の友好発展のために機能すべきところが、政治利用されるような仕組みだ」だと批判した菅義偉官房長官の言質をもとに、ユネスコは「南京大虐殺」中国主張を調べ直すべきだ。怒りが込み上げて来る。
                              (了)


◆大阪吟行するも生誕地に還らない蕪村

毛馬 一三



江戸時代中期の大阪俳人で画家である与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれている。生誕地が大阪毛馬村と余り周知されていない事実のことは本誌で既に触れている。

しかし、蕪村が俳人として大阪の中心部を活躍の舞台にしていたことには触れていない。むしろそれに気づかなかったのが本当のところだ。それはこれから追々。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下った。なぜ江戸に下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な郷愁は感じながらも、実際は生誕地「毛馬村」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだ。母親は若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎを委ねられたものの、正当嫡子でないために庄屋経営責任をも果たせず、周囲や同業からの過酷ないじめに遭わされたこともあって、意を決し毛馬村を飛び出したようだ。

しかも蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だ。だが、どうしてこんな超有名な俳人に師事し俳諧を学ぶことができたのか、田舎の毛馬村と江戸との結びつきや、師匠との今謂うコネがどうして出来たのか、ミステリーだらけだ。

この時蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明、68歳の生涯を閉じた。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

蕪村は、定住していた京都から船で淀川を下り、頻繁に吟行に大阪にやって来ていたことが、最近分かってきた。

船から陸地に上がったのは、生誕地毛馬村とは全く正反対西側の「淀屋橋か源八橋」からで、ここから大阪市内にある数多くの門人らを訪ねて回っている。

蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ね、大阪の蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回っている。大阪市内の各地を重点的に回っていたことになる   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

早い話、蕪村にとり「大阪」が活躍の舞台だった訳だ。これもあまり知られていない。

これを証ように、今の大阪市北区梅田茶屋町の商店街の広場に「菜の花や月は東に日は西に」の蕪村句を刻んだ高さ1m、幅50cmの碑があり、顕彰されている。

ここでは地域の有志が「菜の花」を植え、「菜の花の散歩道」という「まち起こしイベント」を催している。つまりこの辺りは、蕪村が毛馬橋から上がって、散策したところだ。

ところが、蕪村は正に近郊に存在する蕪村生誕地の「毛馬」に、前述の様に一歩も足を踏み入れていない。父母に対する「望郷」の念は強くあっても、幼少の苦節だけがそうさせたのだ。

さて、後世のために大阪俳人蕪村を顕彰し、蕪村俳句文化振興をしようという筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム主催「講座蕪村顕彰俳句大學」(学長 川原俊明弁護士)開講は、立ち上げてから、もう6年が経っ。

応募の優秀句には「知事、市長、教育委員会委員長、学長賞」、海外から応募の優秀句には「国際交流基金理事長賞」等の各賞を授与する「表彰式」を毎年2回行い、蕪村生誕地近郊の大阪市造営の「蕪村公園」に、「表彰式」のあと「優秀句記念プレート碑」を建立している。

この4月からは、第11期講座を始め、来年の蕪村生誕300年記念を控えて、9月には兜カ學の森と共同して「蕪村顕彰全国俳句大会表彰式」を行った。文學の森刊「俳句界」を通じて、俳句作品のご応募を読者の方にお願いした。

そんな折、驚くべきことが分かった。

大阪俳人としての名を高めた与謝蕪村が、生誕地毛馬村で幼少の頃、父母と一緒に「氏子」として参詣を続けていた氏神神社が今、大阪市毛馬町にある「淀川神社」であることが分かったのである。

これにより、昨年の暮、当NPO法人近畿フォーラム21と、「淀川神社」が共同して蕪村俳句顕彰し、蕪村参詣経験の「淀川神社」の名を広める等の諸活動を行うことになった。

その手始めに今年から「淀川神社」で、俳句愛好者が自作の俳句を「蕪村絵巻」に俳句自作を書き込み、境内に吊るす祭事を始め、マスコミも取り上げられた。

これからは、この活動が「望郷の念」の強かった蕪村が、来年28年の「蕪村生誕300年記念年」を控えて、現代の人たちが蕪村の「望郷の念」を引き継ぎ補ってくれることを喜ぶことになると思う。だから地元と協力して積極的蕪村顕彰を進めていきたい(了)

2015年10月07日

◆「馬」の渡来先は大阪四條畷

毛馬 一三



わが国古代王朝の威光を軍事面で支えた「馬」の渡来終着先が、なんと近郊の大阪府四条畷市であることを知らされ、ビックリした。

大阪湾(古代は難波津)に接している大阪柏原市に鉄技術、堺市に土器焼成技術が、古代に朝鮮半島から渡来していたことは知っていたが、まさか生駒山系が迫り、大阪湾と些かも面していない大阪四条畷市が、「馬」の渡来終着地だったとは、想像もしていなかった。

ところが、四條畷市主催の会合で、古代王朝や豪族たちの権力の象徴となる「馬」の渡来先が四条畷市で、これを証明する「蔀屋北遺跡(しとみやきたいせきあと)」が、四條畷市にあることを知らされたのだ。

四條畷市の西にある現在の寝屋川は、古代には難波津に繋がる海路ルートとなっていた。しかもこの海路の条件と、清い水と牧草に恵まれた肥沃大地の馬飼いの環境が見事に合致したことから、ここが朝鮮半島からの渡来先の終着地になったらしい。

しかも、四條畷を南北に横たわる生駒山系を越えれば、比較的なだらか下り坂となり、「馬」に負担を掛けず「大和」へ供給できた立地の良さが王朝・豪族に認められ、四條畷(当時・讃良)を「馬」の機動力を軍事制度に組み入れる「馬飼いの里」として定着させられたという。

朝鮮半島からは、比較的穏やかな初夏の海に「馬」を乗せた丸木船を2ヶ月かけて、玄界灘から筑紫(福岡)・豊浦(下関)・瀬戸内海、そして大阪湾(難波津)を経て、河内湖から寝屋川を通じて「蔀屋北遺跡」に辿り着いている。「馬」に同伴してきた多くの渡来人もここに定住したそうだ。

そう云えば、「国内最古 馬の乳歯 四條畷」という記事が出ていたことを思い出した。

<四條畷市の「蔀屋北遺跡」で、国内最古となる5世紀中頃の馬の乳歯が2頭分、大阪府教委の調査で出土した。2〜2歳半とみられ、同時期の遺跡で、若い馬の存在が確認されたのは初めて。

同遺跡は、国内で初めて馬を本格的に飼った牧場とされ、府教委は「朝鮮半島から子馬を船に乗せて連れてきたか、生まれた子馬を飼育し、軍馬として増産したとみられ、国内最初期の馬生産の実態がわかる」としている。>


3世紀の中国の史書「魏志倭人伝」に、日本に馬はいないと記されており、5世紀頃、朝鮮半島から馬と乗馬の風習が伝わったとされる。(略)

松井章・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長(動物考古学)は「乳歯はもろく、「蔀屋北遺跡」からの出土は珍しい。馬飼が、大規模に馬を生産していた様子がうかがえる」と話している。

たしかに「蔀屋北遺跡」とその周辺から、これまでに丁寧に埋葬された馬の骨(性別は不明)や永久歯計約500点、それにアブミ、鹿角製のハミ、鞍などの馬具も出土している。総数26基の井戸も発掘されており、このうち7基は、「馬」運びに使った舟を転用して、井戸枠を作っているのが分かっている。

その船は、西都原式といわれる準構造船で、実物が日本で初めてこの「蔀屋北遺跡」で発掘されている。復元船は、全長10b、幅1b、10人乗りの船。航海は2ノットぐらいの速度の船団だったと専門家は説明しているが、果たして1隻の船に一体何頭乗せて来たかは明らかではない。

四條畷市の「馬飼いの里」で繁殖された「馬」は、王朝や豪族の間で軍事・通信・運送の活用に重用され、いわゆる権力誇示の証とされた。それだけに四條畷市の「馬渡来の終着地」の意義と「馬飼いの里」からの「馬」の供給価値が、権力側から高く受け入れられていた。

しかし文武4年(700年)になると、天皇に献上する公の牧場が諸国に作られ始められるようになり、そののち平城京遷都の時には、騎兵500人が威儀を正して行進し、「馬」が国家の資としての威容をみせつけている。

こうした時代の変遷のともない、平城京遷都の頃には、四條畷市の「馬渡来の終着地」の役割は終焉し、「馬飼いの里」は姿を消したという。

名所旧跡の多い大阪府四條畷市では、こうしたあまり知られていない歴史を積極的に広報して、まちへの集客へ繋げる「観光政策」に力を入れたいそうだ。(了)
 
参考―四條畷市立歴史民族資料館刊「馬は船にのって」   

2015年10月06日

◆福岡志賀島で「金印出土の謎」

毛馬 一三



国宝の金印「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」には、子供のころから「謎」の思いがある。その「謎」の事は追々。

さて国宝「金印」の出土から今日までの経緯を記すと、下記のようだ。

<天明4年2月23日(1784年4月12日)、筑前国那珂郡志賀島村(現福岡市東区志賀島)南端・叶ノ浜の「叶崎」で出土。

発見したのは甚兵衛という地元の百姓である。ところが近年の研究では発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそれを那珂郡奉行に提出した人物だとうという説が有力。

水田の耕作中に偶然発見したとされる。一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。那珂郡奉行から福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥によって「後漢書」に記された金印であるとされた。

その後、この「金印」の「委」は「倭」の省略形で、中国史書「後漢書」(東夷伝の倭伝)に「後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に朝貢した倭奴国に印綬を下賜した」と記されており、この印綬が「漢委奴国王」印であることが確定した。

出土した後は、福岡藩主黒田家に伝えられ、明治維新後に黒田家が東京へ移った後は、東京国立博物館に寄託され、その後は福岡市美術館の開設に際して1978年(昭和53年)に福岡市に寄贈された。

最初は、1979年(昭和54年)から福岡市美術館で展示され、1990年(平成2年)からは、福岡市博物館で保管・展示されてきた>。参考ウィキペディア

それが今回、最初に寄贈された福岡市美術館へ、短期間ながら移されることになったのだ。 
さてここからが本題。

「金印」出土した場所は「志賀島」の南端・叶ノ浜の「叶崎」。そこは、福岡市内の辺鄙な処にある。JR香椎線(地方交通線)の西戸崎前から「海の中道」を経由して志賀島へ渡り、島の南側を行くと「金印公園」に至る。

私は小学生の頃、父に連れられて博多築港から遊覧船で志賀島に渡った。「金印」の出土現物を見る旅行だった。その時は「金印」が出土した出土現場の叶ノ浜の「叶崎」を見ることが出来たことには本当に感動した。
ところが、暫くして後漢の光武帝が下賜したという「金印」が、またどうして、このような辺鄙な「離れ島」で出土したのか。

それがまさに「謎」となった。「何故、志賀島から出土?」なのか。不思議でならなかった。
確かに金印が志賀島に埋められていた理由については、諸説がある。

A、遺棄説 2世紀に、倭国が大乱となったため棄てられた。
B、隠匿説 同じく倭国大乱で奴国が没落したため、人里離れた所に隠した。
C、墳墓説 奴国王の墓に副葬された。
D、王宮説 奴国王の宮殿が近くにあった。
E、祭祀遺構説 航海安全祈願の施設があったから、等々である。
出典:<「一大率・難升米の読み方と白日別の意味の一部から>。

どれも該当する可能性があるが、未だにはっきりしない。私の自身は、何とか調べる方法はないのか、悩んでいる。

国宝の金印を所蔵する福岡市博物館のホームページにも、この「謎」に関して、『なぜ金印が志賀島に埋められていたのか。これまで「墳墓説」「隠匿説」が唱えられ論争となった時期もあつたが、全く不可解』と記している。博物館でも、突き止めていない。結局「謎」のままだ。

序でながら、重複するが敢えて記して置く。

<志賀島から出た金印は、「蛇の紐通し(蛇の形の紐とおし)」が付いている。「蛇紐の金印」はそれまで中国本土はもとより、世界のどこからも発見されたことがなかった。だから偽物ではないかという風説が流れた時期もあった。
  
ところが、1956年に中国雲南省で前漢代の「てん(さんずいに眞)王之印」が発見され、これが「蛇紐」であったために、偽物説は一気に吹き飛んだ。
  
漢代の印綬制度では、漢王朝に仕える諸侯(内臣)は、黄金印に亀の紐。異民族の国家で漢に臣従したもの(外臣)は、北方民族には駱駝や羊の紐、そして東夷南蛮の王には「蛇紐の金印」が下賜されたていたことが明らかになった。

また福岡太宰府天満宮に伝わっている唐時代の辞書「翰苑」の巻三〇蛮夷の部の中の倭国の記事に「中元之際紫授之栄」とあり、紫綬の金印が光武帝より授けられたことが記されている。

これによって志賀島の「金印」は、前述のように後漢の光武帝から下賜されたことがしっかりと証明されたことになる>。参考:ウィキペディア

つまり光武帝からの下賜であることははっきりしたものの、その「金印」がどうして「志賀島から出土したか」は、これからも「謎」のままなのだろうか。

福岡の高校同級生友人から、考古学専門家から聞いたという面白い話を聞かされた。

その話によると、<「委奴国の部族神・綿津見神の本貫地と、卑弥呼の本貫地」が、同じ志賀島であるという説があるという。つまり両者は、同じ綿津見神を奉戴する同じ氏族集団発祥の地の部族の同じ出身であり、卑弥呼は委奴国の王族であるという説だ。

となると、光武帝からの下賜された「金印」の所有者の部族神は綿津見神であり、そのために「金印埋納場所」の場所が、部族の聖地であった志賀島に選ばれたのではないかということだ。

これが、志賀島で「金印」が出土したのかの「謎解きの新説」になるかも知れないと、考古学専門家は言っていた>と、友人は語っていた。

ご承知のように、2世紀後半に卑弥呼が委国の乱を収めて初代王になったことは、はっきりしているが、邪馬台国の存在はいまだに九州説と近畿説に分かれている。

しかし、志賀島が卑弥呼の本貫地だという新説を聴かされ、心が躍った。

志賀島での「金印の出土謎」は、まだ続くだろう。

「金印」:「一辺2.3pの四角形、台部分の厚さ約9o、総高約22o、重さ108.7gの純金製(22金)」にお目にかかれる日が楽しみにしている。早く出会いたいものだ。(再掲)

2015年09月30日

◆地下に未だ眠る「太閤大阪城」

毛馬 一三


国の特別史跡に指定され、いつも眺めている大阪城が、実は「太閤秀吉が築城した大阪城」ではなく、総てが「徳川大阪城」であることを知る人は、意外に少ない。

では秀吉が、織田信長から引継ぎ、思いのままに築城した元々の「大阪城」は、一体どこに姿を消したのか。それは追々―。

いつ眺めても、大手前、森の宮、新鴨野橋へと城郭を一周する道筋からは、「大阪城の高い石垣と深い堀」が、梅雨時の雨滴の葉が陽光を跳ね返す樹林の間から、歴史の威容を誇らしげに見せ付けている。

特に大手前周辺の高さ32mもある幾重もの「反りの石垣」には、太閤城より進んだ当時の石垣構築技術の進歩の有り様を如実に伺わせる。つまり、城壁の「反り」は、この構築技術の進歩の証だ。

大阪夏の陣で豊臣家を滅亡させた徳川家康は、同戦いの2年後(1616)死ぬが、家康遺命を受けた二大将軍秀忠が、元和6年(1620)から寛永6年(1629)までの10年にわたり、徳川大阪城の大改築に臨んだ。

その時徳川の威令を天下に示すため、「太閤城の象徴だった二の丸、三の丸」を総べて壊したうえ、総ての「堀」も埋め、「石垣」は地下に埋め尽した。即ち、豊臣家の痕跡をことごとく消し去ったのだ。

だとすれば、総て「徳川の手になる城郭」にしたのであれば、「太閤城」は、雲散霧消にされたのか、それとも未だ地下に眠ったままなのか。

「大阪城石垣群シンポジウム実行委員会」の論文をみると、そこに「太閤大阪城」が地下に埋められたままになっていた遺跡の一部を発掘した調査記録が下記のように書かれていた。

<地下に埋蔵された「太閤大阪城」の石垣を最初に見つけたのは、大阪城総合学術調査の一環として大阪城本丸広場で行われたボーリング調査だった。昭和34年のことである。天守閣跡の南西にあたる地下8m から「石垣」が見つかったのだ。

4m以上も積まれた石垣で、花崗岩だけでなく、様々な石を積み上げた「野面積み」だった。「野面積み」は、石の大小に規格がなく、積み方にも一定の法則が認められないもの。当時城郭作りの先駆者だった織田信長が手掛けた安土城の「野面積み」工法と同じだったことから、秀吉がその工法を導入して築いた「大阪城石垣」と断定された。

それから25年後の昭和61年になって、再び天守閣跡の南東部の地表1mの深さから地下7mまで、高さ6mの「石垣」が発見されている。

この石垣も「野面積み」だったうえ、その周辺で17世紀初頭の中国製の陶磁器が火災に遭って粉々の状態で見つかったことから、大阪夏の陣で被災した「太閤城」の「石垣」であると断定される2回目の発見となったのである。

両「石垣」の発見場所の位置と構造を頼りに、残された絵図と照合していくと、この「石垣」は本丸の中で最も重要な天守や、秀吉の家族が居住していた奥御殿のある「詰め丸」と呼ばれる曲輪(くるわ)の南東角にあたることが、明らかになったのである。

地下に消えた「石垣」は、切り石が少なく、自然石や転用石を沢山積み上げたもので、傾斜が比較的ゆるい、「徳川城」とは異なる「反り」の無い直線だった>。

第3の発見は偶然が幸いした。現在の「大阪城・西外堀」の外側の大阪城北西で、平成4年に大阪府立女性総合センター建設の際の発掘調査で、地下から長さ25m に亘る「太閤大阪城の石垣」が出現したのだ。同石垣は、同センターの北の道沿いに移築復元されている。

大阪城の南側にある追手門学院の校庭に、同石垣があることを知った。非公開なので一般の歴史愛好者は許可が必要だが、壊された石垣の一部が残されており、それを触りながら眺めると、太閤秀吉の築城への思いが胸に迫るような気がしてくる。

何よりもこうした発掘や発見の価値が大きかったのは、今の大阪城郭から離れた堀野の外側から「石垣」が現れたことだ。

それだけでも、今の「徳川城」よりも「太閤城」の方が遥かに規模の大きかったことの証であり、今後の調査で城郭外から新たな「太閤大阪城」が出現する可能性は、まだ残されている。

地下に眠る遺跡の発掘調査は、エジプトやイタリアなど文明発祥地で関心が寄せられているが、現在進められている大阪市の大阪城発掘調査で、「天下の台所」の基礎を築いた「太閤大阪城」の遺跡が、今の城郭外から更に発見されることに期待したい。(再掲)
                  

                                                                     

2015年09月24日

◆「生誕日」が分からない蕪村と芭蕉

毛馬 一三



一茶は、今から250年前、江戸時代後期1763年=宝暦13年の5月5日に、今の信濃町で生まれている。

これを記念して信濃町では、5月5日、一茶の生誕250年を祝う催し「一茶まつり」が開かれた。町内にあるJR黒姫駅からは、地元の子どもたち40人を含むおよそ200人が、「一茶音頭」などの音楽に合わせて町を練り歩いた。

一茶の仮装をした人や、一茶のイラストを書いた手作りのプレートを持って歩く人もいて、沿道に集まった人たちを湧かせていた。

ところで、大阪の与謝蕪村は、享保元年(1716年)、大阪市都島区毛馬町(当時の摂津国東成郡毛馬村)で生またが、肝腎の「生誕日」は、残念ながら今でも分かっていない。

しかも芭蕉も、同様に「生誕日」が不明。寛永21年(1644年)三重県伊賀市生まれたのは定かだが、「生誕日」はが分かっていないのだ。しかも厄介なことに、生誕地そのものも、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説と、柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説あり、困惑させられている。

だから、確定している「生誕日」に「お祝い」出来るのは、小林一茶だけということになり、蕪村と芭蕉を顕彰する人達にとっては、大きな戸惑いだ。

となれば、「生誕日」が定かではない以上、まず蕪村については来年の2016年に迫った生誕の「年」の「然るべき時」に、「生誕300年の記念行事」をせざるを得ないことになる。

そこで、小林一茶の「生誕日」に「お祝いの行事」が行われた機会に、本誌でこれまで触れたことの無かった小林一茶の生涯等を、綴って置きたい。その訳はこのあと追々。

◆小林 一茶は、宝暦13年5月5日(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農の長男として生まれた。

3歳の時に生母を失い、8歳で継母がやってくる。しかし継母に馴染めず、安永6年(1777年)、14歳になった時、郷里を離れて江戸へ奉公に出向く。

25歳のとき、小林竹阿(二六庵竹阿)に師事して俳諧を学ぶことになり、一茶の俳諧への取り組みが開始される。

寛政3年(1791年)、29歳の時、一旦故郷に帰り、翌年から36歳の年まで俳諧の修行のために、近畿・四国・九州を歴遊する。

享和元年(1801年)、39歳のとき再び帰省。病気の父を看病するが、1ヶ月ほど後に父は死去。以後遺産相続を巡り、継母と12年間争うことになる。

一茶は再び江戸に戻り、俳諧の宗匠を務めつつも、遺産相続権は争い続ける。

文化9年(1812年)、50歳で故郷の信州柏原に帰り、その2年後28歳の妻・きくを娶り、3男1女をもうけるが、皆幼くして亡くす。きくも、痛風がもとで、37歳の生涯を閉じた。

62歳で2番目の妻(田中雪)を迎える。しかし老齢の夫に嫌気がさしたのか、半年で離婚。

64歳で結婚した3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける。(やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長するものの、一茶の血脈を後世に伝える。1873年に46歳で没。

一茶は、文政10年閨6月1日(1827年)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った粗末な「土蔵」暮らしをするようになる。

そして、その年の11月19日、その土蔵の中で、64年半の生涯を閉じる。法名は釈一茶不退位。

◆さて、<一茶俳句の作風>だが、幼少期を過ごした家庭環境から、いわゆる「継子一茶」、義母との間の精神的軋轢を発想の源とした自虐的な句風をはじめとして、風土と共に生きる百姓的な視点と、平易かつ素朴な語の運びに基づく「句作」が目を引く。

その作風は与謝蕪村の天明調に対して、化政調と呼ばれている。

◆<代表的な句>は
雪とけて村いっぱいの子どもかな
大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春
やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
雀の子そこのけそこのけお馬が通る
蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん
やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
名月をとってくれろと泣く子かな
これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
うまさうな雪がふうはりふうはりと
ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)

◆序でながら、<一茶の作った句の数>のことだが、句数は約2万句と言われ、芭蕉の約1000句、蕪村の約3000句に比べ非常に多い。

しかし、よく知られている「我と来て遊べや親のない雀」にも、「我と来て遊ぶや親のない雀」と「我と来て遊ぶ親のない雀」の「類句」があり、これを1句とするか3句とするかは、議論の分かれる。<参考:ウィキペディア>

以上、一茶「生誕日」祝賀会を知り、一茶の生涯を掲載してみた。

ところがここで述べたかったのは、蕪村が、「生まれた毛馬村」で父母の死後、私生児として味合う精神的軋轢と自虐的苦悩が、一茶の感慨と極めて類似したところが多々あったことだ。

これが、一茶の生涯を明らかにすることによって、蕪村と重なる予期しない苦衷の共通点が見つかり、そのことを書き留めて置きたかった。

筆者が主宰する「NPO法人近畿ホーラム21」では、大阪俳人・蕪村顕彰のために「生誕300年記念行事」を、大阪府・大阪市や大阪市大、地元の協力を得て大々的に実施したい方針で、今、諸計画を準備している。間もなく具体化する。

「生誕日」が分からない蕪村だが、小林一茶の「生誕日祝賀」に劣らないような記念主行事を、来年の適切な時に開催し、大阪の俳句文化振興に貢献し、後世に伝承したいと考えている
(了)

2015年09月13日

◆きょう 蕪村顕彰全国俳句大会

〜全国・地元・諸外国から応募俳句作品の表彰式〜

NPO法人近畿フォーラム21主宰
毛馬一三
 


「蕪村顕彰全国俳句大会第11期表彰式」が、いよいよ本日9月13日(日)午後1時から、大阪市立淀川小学校で開催致します。 全国誌「俳句界」発刊の兜カ學の森と共同して行います。

全国の俳句愛好家と蕪村顕彰俳句大學運営の「句会講座」受講生の応募作品から、著名専門家に優秀句を選考して頂いた「一般の部」では、「大阪府知事賞、大阪市長賞、公益財団法人関西・大阪21世紀協会理事長賞、当学長賞、兜カ學の森賞」を授与致します。

また、大阪市立、私立の小中高校から俳句作品を応募頂いた「児童生徒の部」の優秀句も、蕪村顕彰俳句大學の選考委員長に選考して頂き、「大阪府知事賞、大阪市教育委員会委員長賞、当学長賞、それに今期から新規に設けた淀川神社賞」を授与します。
 
 さらに、諸外国から応募された俳句作品の「国際俳句蕪村賞の部」で、優秀句も同上の選考委員長に選考して頂き、「大阪府知事賞、大阪市長賞、独立行政法人国際交流基金理事長賞」を授与致します。

 このほか、上記3部に「佳作賞」を授与し、蕪村顕彰俳句大學の3「句会講座」講師からの「推薦賞」も授与いたします。

 江戸時代の俳人・与謝蕪村生誕300年の「年」が、来年平成28年に迎えますので、今期全国俳句大会第11期表彰式は、その「お祭り」の前哨となりますので、おおいに盛り上がるものと思います。

 式典が終了したら、蕪村生誕地近郊の「蕪村公園」に、表彰された「優秀句の記念碑」を建立します。「11期目記念碑」となります。

どうか、大阪毛馬生誕の蕪村に関心を抱いて居られる俳句愛好家の方は、大阪市立淀川小学校での「表彰式」「蕪村公園の記念碑」をご覧にお出でくださるよう、伏してお願いいたします。与謝蕪村も歓迎しているでしょう。

2015年09月09日

◆迫ってきた蕪村生誕三百年

毛馬 一三
             

与謝蕪村は、松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸俳諧を代表する俳人だが、肝腎の蕪村の生誕地がどこかということになると、あまりご存じない人が多い。

蕪村は、紛れも無く大阪市都島区毛馬橋東詰(摂津東成郡毛馬村)で生誕している。それを顕彰する「蕪村記念碑」が、現在淀川毛馬閘門側の堤防上に立っている。かの有名な蕪村の代表作・「春風や堤長うして家遠し」の句が、この記念碑に刻んである。

この他にも顕彰物は、毛馬閘門内に「記念碑」がある。更にはそこからから流れる大川(旧淀川)を南へ500mほど下った所に、橋名の「春風橋」があり、橋名に蕪村直筆文字の「春風橋の自筆」が刻まれている。有名な蕪村でありながら、生誕地周辺で蕪村を顕彰する記念碑は、残念ながら、この3件しかなかった。

ところがここで喜ばしいことに、「蕪村公園」が造成されたのだ。このことは追々。

さて蕪村は、享保元年(1716)に毛馬村の裕福な庄屋(問屋・宿屋も共営)で生まれた。母親は奉公人で、謂わば庄屋主との間に生まれた子供で、家系を引き継げない「私生児」だった。

幼くして両親を失なった不運が重なり、私生児扱いの蕪村は艱難辛苦重ね、結局、生誕家には居られなくなった。このため、18歳〜20歳の頃、毛馬村を出奔、江戸に向かった。

途中京都で俳人早野巴人知り合い、俳諧の修行に勤しんだあと、早野巴人と江戸に行き、弟子となった。運命の出会いだったのだ。

巴人師匠から俳諧を学び出したが、26歳の時、巴人師匠が没した。

師匠死後、芭蕉への思いの強かった蕪村は、芭蕉の跡を慕って奧羽地方を放浪。その後、宝暦元年(1751)、京に移って「俳諧」に励む一方、「南宋画」にも取り組み、池大雅と並ぶ名声を得ている。

京で68歳の生涯を閉じたが、終生大阪には何度も吟行に来たものの、故郷毛馬村には一歩も足を踏み入れていない。しかし生誕地への郷愁は人一倍強くて、「春風馬堤曲」を書き、「生誕地が毛馬であり、子供の頃楽しく遊んだこと想いながら綴ったものだ」と、弟子への手紙に記している。

このように大阪とは縁を絶ち切った蕪村だったから、いまだに大阪には蕪村に関する「伝承文献」が殆ど無いうえ、生誕地に関する資料すら皆無だ。(生誕地付近は、明治政府に依る河川工事で、一級河川「淀川」の底に沈められている。)

従って蕪村の生誕日が分からない。このため大阪では、「蕪村生誕祭」を開催出来ず、蕪村を顕彰する「資料館」すら、作ることも出来なかった。

しかし、10年頃前から生誕地大阪都島区毛馬町を中心に、蕪村を大々的に顕彰する「蕪村生誕祭」を進めようという運動が活発になりだした。筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム21も足並みを揃えて、大阪市長や助役らと協議しながら運動をおこなった。

こうした動きに応じ、大阪市が「蕪村公園」増設に乗り出した。時は平成18年度から2年で完成させた。大阪毛馬町の市有地1.1hrの土地で、約2億5千万円をかけて造営したのだ。

同「蕪村公園」の整備には、筆者らは当初から、公園内に蕪村の俳句や絵画の紹介する「写真集」や「蕪村句の石碑」、蕪村句に因んだ花木植栽をするよう要請した。

そうすれば蕪村生誕地が大阪であることが広く知れ渡り、蕪村俳句に関心が集まって、公園への集客にも繋がり、蕪村顕彰名所に成る筈だと申し入れ続けた。

出来上がった公園は、全国的に知られた大阪桜の名所・「毛馬桜の宮公園」の最北端に位置し、市の中心地中之島に通じる大川沿いの桜回廊の出発点に位置する。

いまは公園植栽も進み、公園整備はしっかり進められ「桜回廊」と同じ華やかさを見せており、顕彰されている蕪村本人も満足ではないだろうか。

しかし、芭蕉と一茶は「記念祭」を、地元生誕地で毎年行っているが、「蕪村公園」は完成したものの、「記念祭」は一度も行われていない。これが「蕪村公園」の名を広めていないことに繋がって居ると,筆者は自戒している。

そこで筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム21主催:講座「蕪村顕彰俳句大学」を、蕪村顕彰と句会講座を毎年2期・これまで10回行い。受講生と児童生徒、国際俳句の応募俳句作品から表彰された「優秀句プレート碑」10基を「蕪村公園」に 既に建立している。

更には、大阪市立大学と共同して2016年には「蕪村生誕記念祭」を「蕪村公園で実施する。また第九期から、「全国誌・俳句界」を発刊している「文學の森」と協力して、「蕪村顕彰全国俳句大会」を始め、今月十三日(日)午後一時から、第十一期の「全国俳句大会・表彰式」を行う。段々、全国に知られ出した。

こんな中、地元毛馬町にある「淀川神社」には、生誕地毛馬の氏子だった蕪村が、幼少の頃参詣していたことも明らかになり、「蕪村公園での蕪村生誕記念祭」で「淀川神社」と共同して「お祭り」行うことを、決めた。

これら「蕪村生誕記念祭」が「蕪村公園」で継続開催していけば、「蕪村公園」の名も、どんどん広まって行くだろう。

是非、「蕪村公園」をご覧になり、「蕪村の望郷の念」を察して頂きたい。(了)