2013年05月07日

◆「生誕日」が分からない蕪村と芭蕉

毛馬 一三


与謝蕪村、松尾芭蕉と並んで江戸時代の三大俳人と言われる小林一茶の「生誕250年を祝う」催しが、出身地の長野県信濃町で開かれた。

一茶は、今から250年前、江戸時代後期1763年=宝暦13年の5月5日に、今の信濃町で生まれている。

これを記念して信濃町では、5月5日、一茶の生誕250年を祝う催し「一茶まつり」が開かれました。町内にあるJR黒姫駅からは、地元の子どもたち40人を含むおよそ200人が、「一茶音頭」などの音楽に合わせて町を練り歩いた。

一茶の仮装をした人や、一茶のイラストを書いた手作りのプレートを持って歩く人もいて、沿道に集まった人たちを湧かせた。(05.05 NHKニュース)

ところで、大阪の与謝蕪村は、享保元年(1716年)、大阪市都島区毛馬町(当時の摂津国東成郡毛馬村)で生またが、肝腎の「生誕日」は、残念ながら今でも分かっていない。

しかも芭蕉も、同様に「生誕日」が不明。寛永21年(1644年)三重県伊賀市生まれたのは定かだが、「生誕日」はが分かっていないのだ。しかも厄介なことに、生誕地そのものも、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説と、柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説あり、困惑させられている。

だから、確定している「生誕日」に「お祝い」出来るのは小林一茶だけということになり、蕪村と芭蕉を顕彰する人達にとっては、大きな困惑だ。

となれば、「生誕日」が定かではない以上、まず蕪村については3年後の2016年に迫った生誕の「年内」の「然るべき時」に、「生誕300年の記念主要行事」をせざるを得ないことになる。

そこで、小林一茶の「生誕日」に「お祝いの行事」が行われた機会に、本誌でこれまで触れたことの無かった小林一茶の生涯等を、綴って置きたい。その訳はこのあと追々。

◆小林 一茶は、宝暦13年5月5日(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農の長男として生まれた。

3歳の時に生母を失い、8歳で継母がやってくる。しかし継母に馴染めず、安永6年(1777年)、14歳になった時、郷里を離れて江戸へ奉公に出向く。

25歳のとき、小林竹阿(二六庵竹阿)に師事して俳諧を学ぶことになり、一茶の俳諧への取り組みが開始される。

寛政3年(1791年)、29歳の時、一旦故郷に帰り、翌年から36歳の年まで俳諧の修行のために、近畿・四国・九州を歴遊する。

享和元年(1801年)、39歳のとき再び帰省。病気の父を看病するが、1ヶ月ほど後に父は死去。以後遺産相続を巡り、継母と12年間争うことになる。

一茶は再び江戸に戻り、俳諧の宗匠を務めつつも、遺産相続権は争い続ける。

文化9年(1812年)、50歳で故郷の信州柏原に帰り、その2年後28歳の妻・きくを娶り、3男1女をもうけるが、皆幼くして亡くす。きくも、痛風がもとで、37歳の生涯を閉じた。

62歳で2番目の妻(田中雪)を迎える。しかし老齢の夫に嫌気がさしたのか、半年で離婚。

64歳で結婚した3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける。(やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長するものの、一茶の血脈を後世に伝える。1873年に46歳で没。

一茶は、文政10年閨6月1日(1827年)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った粗末な「土蔵」暮らしをするようになる。

そして、その年の11月19日、その土蔵の中で、一茶は、64年半の生涯を閉じる。法名は釈一茶不退位。

◆さて、<一茶俳句の作風>だが、

幼少期を過ごした家庭環境から、いわゆる「継子一茶」、義母との間の精神的軋轢を発想の源とした自虐的な句風をはじめとして、風土と共に生きる百姓的な視点と、平易かつ素朴な語の運びに基づく「句作」が目を引く。

その作風は与謝蕪村の天明調に対して、化政調と呼ばれている。

◆<代表的な句>は
・雪とけて村いっぱいの子どもかな
・大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
・めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春
・やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
・悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
・雀の子そこのけそこのけお馬が通る
・蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん
・やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
・名月をとってくれろと泣く子かな
・これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
・うまさうな雪がふうはりふうはりと
・ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)

◆序でながら、<一茶の作った句の数>のことだが、句数は約2万句と言われ、芭蕉の約1000句、蕪村の約3000句に比べ非常に多い。

しかし、よく知られている「我と来て遊べや親のない雀」にも、「我と来て遊ぶや親のない雀」と「我と来て遊ぶ親のない雀」の「類句」があり、これを1句とするか3句とするかは、議論の分かれる。<参考:ウィキペディア>

以上、一茶「生誕日」祝賀会のニュースを知り、一茶生涯を掲載してみた。

ところがここで述べたかったのは蕪村が、「生まれた毛馬村」で父母の死後、私生児として味合う精神的軋轢と自虐的苦悩が、一茶の感慨と極めて類似したところが多々あることだ。

これが、一茶の生涯を明らかにすることによって、蕪村と重なる予期しない苦衷の共通点が見つかり、そのことを書き留めて置きたかった。

筆者が代表をしているNPO法人「近畿ホーラム21」では、大阪俳人・蕪村顕彰のために「生誕300年記念行事」を、大阪府・大阪市や大阪市大、地元の協力を得て大々的に実施したい方針で、今、諸計画を準備している。

「生誕日」が分からない蕪村だが、小林一茶の「生誕日祝賀」に劣らないような記念主行事を、3年後の適切な時に開催し、大阪の文化振興に貢献したいと考えている

どうか、この趣旨にご賛同を頂ける方々に大いなるご助力を賜ることを祈念したい。
                                           (了)

2013年05月05日

◆徳川を潰せなかった真田幸村

毛馬 一三


家康が、生涯の戦歴で死に損なったのは、2度ある。1度は、元亀3年(1573年1月25日)、武田信玄軍に徳川軍が惨敗した「三方ヶ原の戦い」の時。討ち死に寸前まで追い詰められたが、僅かな供回と必死で浜松城へ逃げ帰り、命拾いをした。

2度目の「死に損ない」は、慶長20年(1615年)年5月7日の「大阪夏の陣:茶臼山の戦い」(大阪市天王寺)の時だ。

家康は、この時二度「自害」しようとしたが、部下の将に諌められて逃亡。敗戦の将の汚名など、どうでもよかった。もし家康が命を取られていたら「徳川幕府」は「夢のまた夢」だったことに間違いはない。

この徳川幕府の存亡に繋がる家康の2度目の「死に損ない」地は、案外知られていない。

この「死」からの逃避は、1番目の「三方ヶ原の戦い」より比較にならないほど悲惨なものだった。歴史上でも実に深い意味合いも有する。そのことをこれから追々。

この連休の日を利用して、その戦火跡地・「大阪夏の陣:茶臼山の戦地」(大阪市天王寺)を友人たちと訪ねた。たまたま5月7日が近付いてきた所為もあった。

この大阪夏の陣:茶臼山の戦いで、家康を死に追いつめたのは、実は、真田幸村である。豊臣方の主将の一人だ。この真田幸村の戦闘ぶりは、徳川軍を総じて縮みあがらせた。

幸村は、茶臼山の戦の前日の慶長20年(1615年)年5月6日の「道明寺の戦い」で、徳川軍の先鋒隊・伊達政宗隊を銃撃戦の末に一時的に後退させている。先鋒隊撃破という、幸村の先勝だった。

この勝利で、真田隊は、豊臣全軍を一時撤収させた。撤収には、訳があった。豊臣方は主武将が相次いで討死した上、全軍も疲弊していたため、兵士に休息を与える配慮からだった。

そこで幸村は、秘策を考え上奏を試みる。「兵士の士気を高め、徳川を打ち破るには、豊臣秀頼本人の直接出陣有るのみ」と直訴したのだ。

ところが豊臣譜代衆や、秀頼の母・淀殿に阻まれ、秀頼の出陣は実現しなかった。この怠慢な判断が、結果的に豊臣方の滅亡に繋がる。

そこで幸村は、「そんなことでは徳川方を追い込めない」として、5月7日、大野治房・明石全登・毛利勝永と共に、最後の作戦を立案した。

それは四天王寺・茶臼山付近の右翼に真田隊、左翼には毛利隊を布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して、家康の本陣を孤立させた上で、これを急襲・横撃させるという作戦だった。

ところが、思いもよらず作戦が狂った。毛利隊が合図を待たずに射撃を開始してしまったからだ。この有効な戦法は、断念せざるを得なかった。

そこで幸村は、腹を括った。「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!」と決心し、真っ正面から真一文字に徳川家康本陣のみに狙いを定めて、突撃を敢行した。

この突撃は真田隊のみではなく、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦。これにより徳川勢は壊乱し、総崩れに至った。

幸村は、後方の家康本陣に三度攻め込み、家康の親衛隊・旗本・重臣勢を蹴散らして本陣を蹂躙、「馬印」も倒した。

真田隊の凄まじさに追い詰められた家康は、二度も「自害」を覚悟したという。もう一押し攻め込めていたら、家康の「落命」は確実だったとも言われている。家康は部下の将兵に諌められて、意に反して命からがら逃げた。

残念ながら、幸村の家康追いつめもここまでだった。兵力に勝る徳川勢に追い詰められ、幸村は負傷して仕舞う。やむなく一旦後退することを決め、近くの「安居神社」避難した。

幸村は、当神社の1本松にもたれ、傷を癒していた時、追っ手の越前主の兵士の槍で襲われた。幸村は「ここまでだ」と決意し、切腹して自害した。享年49だった。

「安居神社」に行くと、「武将姿の銅像」や高さ5メートほどの「幸村戦没の石碑」がある。

銅像と石碑を見ていると、切腹自害した幸村から「徳川潰しを果たせなかった」無念さの呟きが伝わってくるようだった。一方、「家康を追い詰めた」役目を立派に果たした豊臣方戦将としての誇りの声も聞こえてくるような気もした。

もし豊臣方が秀頼を先陣に立て、幸村を主将にした総力戦で「茶臼山の戦い」に臨んでいたら、確実に「家康を自害」させていたに違いないという説もある。

そうだとすると、家康不在では徳川勢力の後退は余儀なくされ、秀頼による豊臣時代が継続したかも知れないという説に続く。

「安居神社」を出て、坂道を少し下ると、本誌で以前書いた大阪で唯一自然の滝:「玉出の滝」と出会う。ゆっくり眺めると、今度ばかりは「安居神社」の幸村の無念の想いが、滝の水に混じってドット流れ落ちているように見えた。

もし、淀君を始め豊臣譜代衆が「茶臼山の戦い」の決戦に挑んで「家康壊滅」を図る決断を下していたら、おそらくその後、別の歴史が展開していただろう。

時勢に応じて歴史を踏み外さない判断を下さなければならない指導者は、いつの世にも不可欠だ。名所旧跡の散策は、こうした現代の動きを連想させてくれるだけに、愉しいものだ。
<参考:ウィキペディア>


2013年04月29日

◆城北川堤防の「平戸つつじ」満開

大型連休が始まった2日目の早朝、愛犬散歩で大阪「大川」支流の「城北川堤防」を散策していた時、堤防沿いの花壇に真っ赤な花で彩られた満開の大量の「平戸つつじ」を見た。

前日までは不安定な日和が続いていた所為か、ほとんどが満開ではなかった。この日は早朝からの強い陽射しと暖かい陽気だったので、見ただけでも約1000本の「平戸つつじ」が総て「赤」大輪の花を溢れさせ、その素晴らしさと規模の大きさに驚かされた。

「平戸つつじ」は、古くから長崎県平戸市で栽培されてきたことが、名前の由来とされている。1712年に出た『和漢三才図会』にはすでに「ヒラドツツジ」の名で紹介されていた。交配が重ねられ数多くの園芸品種がある。 平戸市の崎方公園には300種からなる原木園がある。『ウィキペディア(Wikipedia)』

「平戸つつじ」は、福岡県久留米市の実家の庭に、祖父が大量に植栽していた。実家の庭には多彩な大小の木々があった。葉桜のあとの季節木を受け継ぐ植木として、この「平戸つつじ」は大切にされていた。

しかも「手入れ」は花後だけに必要なだけで、あまり手入れは不要な珍しい植木だ。こうした手間の掛からない「平戸つつじ」は、造園家に大いに歓迎されていた。「赤色」で満ち溢れた庭先の姿を眺めながら、縁側で家族による「茶会」を楽しんでいたことを、今も思い出す。

「平戸つつじ」は、常緑低木で、ゴールデンウィークの象徴的な大輪。木の先端枝を仔細に眺めると、先端枝には5つほどの真っ赤な花が咲いており、枝の太さは、わずか5ミリほど、高さも10センチほどだ。

しかもその枝には小さな約20の葉を付けている。その細木枝を幾重も束ね合わせる形で、つつじ1本の大輪としている。自然とは素晴らしいとしか言いようがない。

大阪湾に繋がる地元「大川」周辺では、造幣局の「桜の通り抜け」などの行事が終わると春の季節が一段落するが、これに継ぐ形で「平戸つつじ」が初夏の訪れを告げる。「大川」支流の「城北川」堤防で、この移り変わりを大型連休の期間に楽しませてくれる。

序でながら、初夏の陽気が迫ってきた別の様子がこの「城北川」で見られるようになった。「城北川」は川の幅は50メートルほどあるが、水の温度が緩んで来た最近になって「釣り人」が増えだした。

「城北川」は、昭和10年から昭和15年にかけて運河としての利用を目的に掘削された。そのため現在でも「城北運河」と呼ぶ者も多い。しかし昭和の終わり頃になるとこれを運河として利用する船が減ったため、1985年(昭和60年)に一級河川となる。『ウィキペディア(Wikipedia)』

この「城北川」も、「平戸つつじ」と並んで、「淡水魚」の「釣り場」としても知られている。だが、1週間ほど前までは、川底の温度が低く「淡水魚」の動静も鈍かったため、「釣り人」も現れなかった。

ところが2〜3日ほど前から、「釣り人」が姿を見せるようになり、大型連休初日の昨日、平均身長40センチの「鯉2匹、鮒2匹、鰡1匹」を釣りあげた顔見知りの「釣り人」に出会った。この中で、釣り上げた鮒の1匹は、何と90センチだったという。

これもまた夕方の愛犬散歩の際の出来事だったが、鰡を釣り上げる瞬間を初めて一部始終を目撃した。この時の緊張感こそ、初夏の季節がもたらせてくれたものだ。

季節の移り変わりに随時接せられるほど、幸せなことはない。
                         2013.04.28 

2013年04月02日

◆大阪蕪村公園の「記念植樹桜」が満開

毛馬 一三


大阪市都島区毛馬町に生誕した江戸時代の俳人「与謝蕪村」が、3年後の平成28年に生誕300年を迎える。ところが肝心の、蕪村生誕日の記録は全く無く、不明のままだ。

しかも、蕪村生誕地の毛馬村は、明治29年に明治政府が、毛馬村全域を「淀川河川事業」で川底に埋没させる大河川改修工事をおこなったため、まさに毛馬村は「幻の村」の状態のまま、今でも確認出来ない。

筆者が代表のNPO近畿ホーラム21では、平成21年から「俳句市民講座」を開講し、「入賞句の表彰式」を行うと共に、24年からは蕪村生誕300年記念を祝賀するための「事業委員会」を設け、各種記念事業を開始し出した。

その手始めとして、諸外国との俳句交流を行う事業に、「国際俳句蕪村賞」を設けて上記記述の「表彰式」で、ウクライナ、台湾、フランスからの応募句優秀作品に大阪府知事賞・大阪市長賞等を授与した。国際俳句交流に着手したのだ。

これを記念して24年12月に、蕪村を顕彰する大阪市営「蕪村公園」で、この国際俳句交流開始を祝賀するための記念植樹祭を行ったのだ。

「蕪村俳句に登場」するサクラ・ウメ・モミジ7本を植樹し、この春のサクラの開花時期に樹齢5年ほどの幼木ながらも、この春に少しでも開花することを植樹祭参加者全員がひたすら祈っていた。

前置きが長くなったが、春の陽気に恵まれた4月1日の朝、筆者は「蕪村公園」に駆けつけ、植樹したサクラが開花しているかどうかを、不安な気持ちを秘めながら確かめに行った。

蕪村公園北側の植樹場所に近づいた。あっと驚いた。

何と植栽時に高さ5メートルほどしかなかったサクラ2本が、10メートル以上に生育していて、枝は細い状態にも拘わらず、枝全体に満開を彩っているではないか。自然の強靭さが目に飛び込んでくると、胸が感動で打ち震えた。ウメ4本も咲いていた。

「蕪村公園」にある淀川支流の「大川」沿いは、大阪の桜の名所として有名で、例年より10日早く、4月1日に満開日となったそうだ。筆者も「大川」沿いの満開の桜を毎年観に出かけている。

しかし、我々の手で記念植樹したサクラが満開を期した姿をこの目で目撃体験すること自体、初めてのことで、立って観ていながら終始感動に襲われた。満開のサクラの花びらは春の陽射しに浮かび上がって、見事な美しさとしか言いようがない。

早速、ウクライナ、台湾、フランスの交流先と、このほど交流を結んだロシアの俳句愛好家に、この感激をメールした。

とにかく、俳人与謝蕪村も、この「蕪村公園」に植樹したサクラの満開に、喜びと心の安らぎを覚えているに違いない。

2013年03月25日

◆感動の市民講座「俳句受賞句」

毛馬 一三


    〜第6期市民講座「蕪村顕彰俳句大学の表彰式」〜

NPO法人近畿フォーラム21主催の「蕪村顕彰俳句大学第6期市民講座」の「表彰式」が、3月24日午前10時から大阪市都島区毛馬町の大阪市立淀川小学校で開催した。

「表彰式」には、来賓をはじめ、第6期講座「一般の部」と「児童生徒の部」の受賞者、それに一般俳句愛好家の方など70余名が集まった。

式典は、まず当大学の川原俊明学長の「開会挨拶」の後、来賓のご紹介に続いて、蕪村生誕誕誕300年記念事業委員会委員長で、大阪市立大学文学部の村田正博教授が、「蕪村のことば」をテーマに講演を行った。

このあと「一般の部・児童生徒の部・国際俳句蕪村賞の部」の「受賞句の公表と選評」が、三村純也大阪芸術大学文学部教授(当講座選考委員会委員長)から行われた。

◆「第六期講座」の 受賞句は下記の通り。
<一般の部>
・大阪府知事賞
 人の訃にきれいな月の出でゐたり    神戸市  野澤 あき
・大阪市長賞
 茶の花にかすかな羽音蕪村の忌     西宮市  前田  忍
・学長賞
 かかへたる青葱匂ふ春星忌       大阪市  田中せつ子

<児童・生徒の部>
・大阪府知事賞
 しゃぼん玉われずにずっととんでゆけ  淀川小学校三年 中野 伊知子
・大阪市教育委員会委員長賞
 りすたちがぴょんぴょんはねる雪の森  鷺洲小学校三年  森川 愛美

<国際俳句蕪村賞>
・大阪府知事賞
 星月夜船遡る水の音      台湾(留学生)     施 偉杰
・大阪市長賞
 氷柱嘗め子供のころの懐かしさ ウクライナ シェフツォバ ガリーナ
・国際交流基金理事長賞
 氷海でゆるりと踊る白イルカ   ロシア  ディアナ  ミンダリョワ
・学長賞
 山眠る真白き毛布に包まれて   フランス    シャンタル ケロワ

上記「一般の部」の選考は、茨木和生俳人協会理事、宇多喜代子現代俳句協会特別顧問、千原叡子日本伝統俳句協会関西支部長、三村純也蕪村顕彰俳句大学選考委員長に対応して頂き、「児童生徒の部・国際俳句蕪村賞の部」には、三村純也蕪村顕彰俳句大学選考委員長にお願いした。


前期から始まった「国際俳句蕪村賞」の授与では、海外からの応募作品から選考された受賞句に「大阪府知事賞、大阪市長賞、俳句大学学長賞」の各賞状が渡された。だが今期からは新たに「独立行政法人・国際交流基金の理事長賞」が授与され、「国際俳句交流事業の成果」が評価されたことに感激している。

「表彰式」のあと、会場近郊の「蕪村公園」に移動し、受賞句を刻字した「プレート碑」の除幕式を行い、式典を締め締め括った。

桜の開花が始まった同公園での「記念プレート碑除幕式」では、受賞者や
家族、学長、大学教授、講師らが「記念プレート碑」を背景に「記念撮影」と相次いで行い、受賞のお祝いの言葉が飛び交う中で、これまでに無い感動の渦がどっと巻き起こった。

4月からは始まる第7期からは、「雨月」俳句会主宰の大橋晄講師による新講座が開講し、市民講座は3講座となる。

ところで、蕪村生誕300年記念「年」が、僅か3年後の平成28年に迫って来た。この記念「年」に向けて、NPO法人では諸事業の計画を進めている。

一昨日の23日には、25年の最初の事業として大阪市立大学と共催して「蕪村ゆかりに地歩き会」が行ったばかり。これから力を入れて行くのは、蕪村に象徴される大阪俳句文化を世界に広げていく「国際俳句交流事業」の推進。

その意味では、7期・8期と「独立行政法人・国際交流基金」から「後援」の承認と「理事長賞」授与支援をもらえることになったのは、諸外国との国際俳句交流を盛り上げていく弾みに繋がると考えられるだけに、感動している。

「世界最短の詩・俳句」が海外諸国で意外に俳句愛好者が多く、俳句つくり研究が想像以上に盛んであることが、分かった。まさかこんな動静が諸外国にあるとは、想像もしていなかっただけに、実に喜ばしいことだと実感している。

大阪と諸外国とこの「俳句文化」を通じて繋がりを深め、大阪「蕪村ゆかりの地」へ諸外国から集客を図ろうという計画も進めている。

「300年記念事業」の目玉は、3年後までに「蕪村公園内に蕪村銅像」を建立して大阪市に寄贈すること。「蕪村公園」のシンボルに実現させたいと考えている。

今度の「表彰式と受賞句記念碑」の映像と式次第は、
http://www.buson-kensho-u.com/ に
「リンク」して頂ければ、ご覧いただけるようにしている。諸外国の俳句愛好家の方々も、是非ご一読願いたい。
(We have English translation for “Message from President”, ”Lecture from professor Murata” and ”Comments on Winning Entries” on the pamphlet. )。

どうか、今後とも皆様のご尽力を賜りますよう心から祈念致します。
                              以上

2013年03月24日

◆俳人蕪村「幻の生誕地」を見た

毛馬 一三
 
              
NPO近畿フォーラム21主催「蕪村生誕300年記念事業委員会」が、
大阪市立大学と共催して、「蕪村生誕300年記念事業」を、いよいよ本格化し始めた。
 
本事業は、昨年24年の暮に、国際俳句交流となる「国際交流蕪村賞」授与記念として、大阪市毛馬町の「蕪村公園内」でサクラ・ウメ・モミジの植樹祭を行い、その第1歩を踏み出した。
 
今回は25年の最初の事業として、大阪俳人蕪村ゆかりの地を巡る「毛馬まち歩き会」事業を、大阪市大学とNPO法人近畿フォーラム21主催の「蕪村生誕300年記念事業委員会」が共催して行ったものだ。

この「毛馬まち歩き会」では、当初一般参加者を公募したところ、定員20名にアッという間に応募が集まり、大阪俳人蕪村ゆかりの地巡行への関心の高さを知らされた。

同事業は、同日13時に大阪市北区天神橋六丁目の「大阪市住まいいの情報センター」に一般参加者と関係共催団体から30名が集合。

まず大阪市立大学の大場茂明教授が、参加者に対して、当日の「毛馬まち歩き会」の主旨と巡行の道順の説明を行ったあと、本番の「歩き会」を開始した。

まず長柄八幡宮へ→淀川河川事務所→毛馬閘門・蕪村生誕の碑(淀川堤防)→蕪村公園を経て→飛翔橋で解散。約3時間をかけた「歩き会」の巡行だった。

この巡行の内「淀川河川事務所」では2人の係官が、国の重要文化財「毛馬閘門」の周辺部を細部に誘導しながら諸説明をして呉れた。特に「毛馬閘門」を施工した明治時代の技術が、如何に優れていたものだったかを、参加者の土木技術者に実感させていた。

更に参加者を驚かせたのは、蕪村生誕地「毛馬村」の所在が、実は明治29年の淀川河川工事によって完全に埋め立てられ、「毛馬村」は川底に埋没させられ、村全体が消滅して仕舞た事実の説明だった。
つまり、川底に埋没したままになっている「幻の生誕地毛馬村」が、現在の淀川堤防の上から、はっきりと遠望出来たのである。目の前の川底に消滅した「幻の毛馬村」を目撃出来た参加者のほとんどが、胸を打ち震わせていた。

つづいて「蕪村生誕の碑(淀川堤防)」を巡ったあと、淀川支流の「大川」の側にある「蕪村公園等」に辿り付いた。

そこで大阪市立大学の村田正博教授(蕪村生誕300年記念事業委員会・委員長)が、「毛馬村が蕪村生誕地であることを証明」する「古文書」のコピーを参加者に配布して講演。NPO法人からも大阪市造営の「蕪村公園」の構造、蕪村俳句の句碑の配置などについて、説明をした。

大川の桜並木の開花が進み、春めいてきた陽気の下での「毛馬まち歩き会」は、参加者から大いに感動を誘ったようだった。その様子を見ながら「蕪村生誕300年記念事業」の本格的開始が、一応成功裡に終わったことに心から感謝した。

これからは更に「蕪村生誕300年記念事業」を本格化していく方針。今度の「歩き会」ご協力頂いた大阪市住まいいの情報センターにお礼を申しあげたい。


ところでこれから「蕪村生誕300年記念事業」は、「海外諸国との国際俳句交流活発化と俳句作品の募集」、「蕪村学者による蕪村シンポジューム」、締め括りは「蕪村公園に蕪村銅像の建立」の計画を進めていく方針。どうか皆様のご協力、ご助力を賜りますようお願いしたい。

今日の3月24日は、市民講座「蕪村顕彰俳句大学」第6期の「優秀句表彰式」と近郊の「蕪村公園」での「同表彰句の記念プレート碑」の除幕式を行う。

どうか俳句つくりご興味のある方、また俳句をこよなく愛する方々に是非ともご参加頂きますようお願いしたい。
                             以上

2013年02月06日

◆初めて見た「歯周病菌」

毛馬 一三


奥歯に違和感があったので、「歯科医院」に診療に行った。これまで虫歯は一本もなかったので、歯科医院に行くのは10余年振りのことだった。

診察の結果、奥歯1本に軽度の虫歯があるとのことで、治療を開始することになった。とにかく軽い虫歯発見だけで済んだため、一旦は胸を撫で下ろした。

ところが驚いたことがあった。この歯科医院の診察室には「位相差顕微鏡」が備えられており、患者の口内に歯周病菌やカビ菌の有無をたちどころに検査するシステム機器が整えられていた。

歯科医院には「顕微鏡と映像公開装置」のセットが5年ほど前から導入され始めたそうだが、長期ご無沙汰していた私にとっては、このようなセットがあるとは、全く知らなかった。

映し出された口内検査画面映像をじっくり見ると、紐状の歪んだ塊が幾重もあり、その間を原虫みたいなものが無数に蠢いている。不気味な映像に悪寒が込み上げてきた。

歯科医師によると、映像で蠢いているのは歯周病菌で、紐状の塊はカビ菌だという。なんと口内で歯周病菌が見付かったのだ。

歯周病菌は、回し飲みや回し食い、箸の使い回し、キス、くしゃみなどが感染ルートとして上げられ、一旦口の中に進入すると定着して発症するケースが多いそうだ。外食の多い人には特に罹患の可能性が高いという

歯周病は、口の中で出血すると血管に入り、心臓で炎症を起こすという。歯周病の患者が心臓病になる確率は2〜3倍にあがり、このほか食道癌、糖尿病、早産、高血圧などにも関与しているという。

カビも酸を出すので歯を溶かし、虫歯につながるという。予防を怠れば、どちらも恐ろしい病気だ。

このため歯周病菌予防とカビ菌除去のために、「細菌の除去薬剤・シスロマック」とスプレー式カビ取り歯磨き剤の「ぺリオバスターN」を出してもらい、予防措置を講じた。

2週間後に行った再度の「顕微鏡」検査で、症状に改良が確認されたので一安心したが、油断は禁物。今も歯の手入れには真剣に取り組んでいる

ところで、歯周病の進行を症状の具合でみると、
@ 口臭、ネバネバ感
A 歯ぐきに赤み、時々出血
B 歯ぐきの炎症、腫れ、赤みの悪化
C 歯ぐきを押すと膿が出る
D 口臭が更に悪化、出血がひどい、歯が揺れる、歯ぐきがよく腫れる
E 歯が痛くて噛めない、歯が揺れて噛めない、歯ぐきが常時腫れている

といった順序で進行いくという。無感覚の内に進行する場合があるという。

となれば、定期的に歯科医院に通い、歯周病が再感染していないかを「顕微鏡」で調べる必要がある。またカビ菌も歯周病菌の棲みかとなって歯周病に再感染する要因になるので、適切なクリーニングが求められる。

序でながら、義歯にもかなりのカビが付くので、歯周病と関わりがあり、義歯のブラッシングも留意すべきだそうだ。

歯周病菌が「顕微鏡」で発見されたものの、歯周病には患っていなかったので幸運だったが、この機会に歯の手入れには一層気を配って行こう。そうしないとこれから美味しいものが頂けなる。
参照:<国際歯周内科学研修会監修・顕微鏡検査のススメ>                 
     

2013年02月01日

◆懐かしい博多弁

毛馬 一三


恒例の「俳句講座」を終え、同講座受講生で同じ福岡高校卒の盟友5人と帰り道、いつもの喫茶店でコーヒーを飲みながら雑談を交わした。

その時、盟友のひとりの渡邉征一郎君が、福岡から持ち帰ってきた「博多かるた」を披露した。高さ17p、幅12p、厚さ3pの箱入りの新「かるた」<博多を語る会編・西日本新聞社刊>で、ユーモラスな絵に面白い解説書きが添えられた異色の「かるた」だった。

「かるた」には、「博多の行事・祭事・博多弁」が、「いろは順」で構成されている。熟視するほど、懐かしい「博多情景」が飛び出してくる。全員が、この異色「かるた」を凝視した。

私を除けば、全員が博多っ子。たまに帰省することはあっても、郷里を離れて4〜50余年経つため、「博多弁」はすっかり皆忘れている。そのため、少しでも記憶を呼び戻そうという気持ちを昂ぶらせながら見入っていた。

良かったことは、同「かるた」に、解説書が付いていたことだ。解説を読めば、「札」の文意がわかるようになっている。そこで「かるたの博多弁」思い出して、「この通りやな」と、頭を掻きながら大阪弁で呟く仲間もいた。

ところが、解説書を読んでも、何のことか分からない「博多弁」が沢山あった。例を上げると、「そ」の札。「そおついて わかる博多のよかところ」と解説に書いてある。「そおついて」って何?皆、首を傾げる。

<古代から大陸との文化交流の地だった博多には、いたるところに名所旧跡、歴史の地がある。ゆっくり町を「そおついて」(歩いて)回ると、路地裏のようなところにも、隠れた歴史を発見できる>と、解説書にはある。

なるほど、そんな意味の「博多弁」もあったのか。

「かるた」が持ち込まれたことで、久しぶりに「博多弁や博多行事等」が話題となって楽しいひと時を過ごせた。しかし肝腎の郷里「博多弁」をすっかり忘れて仕舞っていたことに、お互い苦笑いするばかりだった。

実は、私の故郷は久留米。これまた博多弁と久留米弁とはまるきり違う。越境入学で受験高の福岡高校に入学したのだが、入学当時は、博多弁で授業する先生の言葉になかなか慣れず、仲間つくりにも苦労した。でも3年間経つ内に、何とか博多弁に馴染み、言葉の情緒も分かるようになった。

その後、東京の早稲田大学を経てNHKに入局して記者になった。とはいえ、私にとって博多弁は第2の故郷弁だ。なのに、純粋の博多っ子の盟友たちが、懐かしい「博多弁」を咄嗟に思い出せないのには、聊か驚いた。時節の経過が災いする忘却の仕業なのだろうか。

そこで、懐かしい「博多弁」をウイキペディアを参考に、改めて頭の中に蘇らせみた。

<名詞>
•「かったりこうたい」…交互に。交代交替。
•「きさん」…貴様。
•「ど (ん) べ」…最下位。
•「こす」…こすいこと。
•「せこ」…せこいこと。
•「ちかちか」…チクチク
•「ごりょんさん」…主婦。

<動詞>
•「おっせこっせする」{サ行変格活用} …時間に追われてバタバタする。
•「くらす」 {サ行五段} …殴る。(「喰らわす」から)
•「くちのまめらん」{ラ行五段}…呂律が廻らない。
•「おらぶ」{バ行五段} …叫ぶ。
•「からう」{ワ行五段} …背負う。
•「きびる」{ラ行五段} … (紐などで) 縛る、束ねる。
•「こずむ」{マ行五段} …積み上げる。
•「ずんだれる」{ラ行下一段} …だらしない。
•「ぞろびく」{カ行五段} …引きずる。
•「たまがる」{ラ行五段} …びっくりする。
•「ねぶる」{ラ行五段} …舐める。
•「ねまる」{ラ行五段} …腐る。
•「のうならかす」{サ行五段} …なくす。
•「ねぶりかぶる」{ラ行五段} …うとうとする
•「腹かく」{カ行五段} …腹が立つ、苛立つ。
•「はわく」{カ行五段} …ほうき等で掃く。
•「ほがす」{サ行五段} …穴を開ける、穿孔する。
•「ほとびらかす」{サ行下二段} …ふやかす。
•「まどう」{ワ行五段} …弁償する。

<形容詞・形容動詞・副詞・連体詞>
•「しゃあしい (か) 」(語源は「せわし」)「じゃかしい (か) 」「せからしい (か) 」{形・シク} …うるさい、騒がしい。「そわそわすんな。しゃあしかぞ」[共通語訳]「そわそわすんな。気が散る。」
•「しょんない」{形・ク} …仕方ない。
•「しかたもない」{形・ク} …1. くだらない。どうでもいい。2. 期待して損する。
•「いっちょん」{副} … (否定語を伴って) 少しも。全然。
•「えずい」{形・ク} 怖い。
•「すいい」{形・ク} …酸っぱい。
•「そげな」{連体} … そんな。「そ」+「が」+「やうなる」
•「そげん」{副} … そんなに。そんなこと。そんなふうに。「そ」+「が」+「やうに」
•「どげな」{連体} … どんな。
•「どげん」{副} … どんなに。どう。どんなふうに。
•「なし」「なして」{副} …なぜ、どうして。
•「いたらん」{連体} …余計な。多くは「いたらんこと (するな / 言うな) 」の形で使用される。
•「なんかなし」{副} …とにかく。「なんかなし、電子辞書ば使わんで紙の辞書ば使うて見れ」>。

まだまだ懐かしい「博多弁」は沢山ある。どうか博多から離れてお暮しの方が、博多で過ごされた時のことをこの「博多弁」から思い出して頂ければ幸いだ。(了)   

2013年01月05日

◆大阪「蕪村公園」をご存知?

毛馬 一三
                  
   
「蕪村公園」は、大阪市毛馬町の毛馬桜ノ宮公園の北端、毛馬閘門近くの大川沿いに大阪市が平成20年に造営した。

これで、都島南端、川崎橋あたりまでの毛馬桜ノ宮公園迄との道筋が完成することになり、春に桜の咲くころには大川河畔が新名所として市民が楽しむことが出来るようになった。

与謝蕪村は、松尾芭蕉、小林一茶と並んで江戸俳諧を代表する俳人だが、その蕪村の生誕地が何処かということになると、あまり知らない人が多い。

蕪村は、享保元年(1716)に大阪毛馬村の裕福な農家の主人と奉公人の母との間に生まれた。家督を引き継げない私生児にすぎなかった。その上不幸にも幼くして両親が亡くしため、家人から総いじめされたからか、この辛苦に耐えられず、蕪村は20歳の頃(18歳の説も)毛馬村を出奔して、江戸に出奔を決意。家出して京都に向かった。

京都で人生を定めることになると人物と出会っている。それが俳人早野巴人だった。早野巴人を師匠として俳句を学びながら一緒に暮らしていたが、その後、二人は江戸に旅たった。

江戸では、早野巴人の真弟子として俳諧の世界に没入したが、頼りにしていた早野巴人師が急没して仕舞った。蕪村が26歳の時だった。師匠の急逝を悲しみつつも、新しい「俳句の世界」へ身を投じなければと決断。かねてから愛着のあった芭蕉俳句を追求するため、芭蕉が訪ねて廻った奧羽地方を放浪した。

宝暦元年(1751)になって、京に移り俳諧に挑む一方、南宋画家として励み、池大雅と並ぶ名声を得るようになった。その上、蕪村は、早野巴人を継いで「夜半亭」(初代巴人)主宰となった。

蕪村は京都で68歳の生涯を閉じたが、終生故郷の毛馬村には一度も帰っていない。しかし蕪村にとっては、生まれ故郷毛馬村の「慕情」は消えることは無く、この想いを脳裡に巡らせながら、書き記した「春風馬堤曲」がある。奉公娘の帰省の物語になぞって書き綴り、俳句を添えて「望郷」の念を一気に発散させている。

いまだに大阪には、蕪村に関する「伝承文献」は皆無だ。しかも明治19年に政府による淀川の河川改修工事によって毛馬村が総て埋め尽くされたため、生誕地の痕跡も一切残されていない。これが長い間、大阪俳人の蕪村を顕彰することが出来なかった主因なのだろう。

しかし、明治になり正岡子規が「蕪村俳句」を顕彰するようになったが、それでも地元大阪では依然として関心が薄く、蕪村顕彰には誰も手を付けなかった。

そこで、10年ほど前地元の有力市議会議員と私は共同して「蕪村顕彰公園」建設を大阪市政に働きかけました。大阪俳人蕪村を大々的な顕彰しようという運動は、嬉しいことに活発になりだした。

この運動も契機となり、大阪市は平成18年度から2年計画で、前述の「記念碑」と「春風橋」の中間にある市有地1.1hrの土地に、約2億5千万円をかけて「蕪村公園」を整備することを決定。

同「蕪村公園」には、公園の中央に大広場、公園全体に「蕪村俳句石碑」の建立、「自画絵、春風馬堤曲」などの「蕪村説明写真集」の掲示、公園全体には樹木植栽をする計画が立てられた。大阪輩出の与謝蕪村名を高揚し、文化集客地にしたいと大阪市は考えたのだ。

同公園は、重要文化財の「毛馬閘門」の側にあり、有名な「毛馬桜の宮公園」の北端に位置して、市の中心地中之島に通じる大川沿いの「桜回廊」の出発点になっている。「屋形船」や「遊覧船」の折り返し地点でもある。

いまや、同公園の建立で、大川沿いの見事な桜回廊と繋がった一連の観光名所として、集客効果が期待されている。

どうか、大阪市毛馬村の「蕪村公園」を是非お訪ね頂きたい。皆様のお力をお借りして、蕪村俳句の後世への継承と俳句文化を世界へを広める活動に、今後取り組んでいきたい。
 (了)

◆本稿は、1月5日(土)刊:全国版メイル・マガジン「頂門の一針」2838号に
掲載されました。
<2838号 目次>
・米国製憲法の「決定的証拠」:西村眞悟
・選挙協力は維新の意思統一が焦点:古澤 襄
・「こんにちは!鶴蒔靖夫です」:加瀬英明
・テレビと認知症 関係ある:平井修一
◆「蕪村公園」をご存知?:毛馬一三
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
◆購読(無料)申し込み御希望の方は
 下記のホームページで手続きして下さい。
  http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2012年12月26日

◆台湾から「東日本大震災」へ俳句

毛馬 一三

               

「東日本大震災」の被災地について、今なお被害状況や復興の進み具合に諸外国から大きな懸念と関心が寄せられている。

こうした中、私が代表のNPO法人近畿フォーラム21に、台湾・義守大学の花城可裕講師から「東日本大震災に寄せる想いの俳句」が寄稿されてきた。
 
台湾から俳句が来たのは、今年の3月から当NPO法人が進めている「国際俳句交流」活動に、フランス、ウクライナ、台湾との間で「連携の絆」を結べたことがきっかけだ。

恐らく台湾で、東日本大震災の被災に寄せる懸念が広がっていることから、台湾の人たちの想いを伝えるため、「俳句」に託して送られたのに違いない。

台湾の花城講師は、「俳句に秘めた想い」を次のように記述している。

「下記掲載の3句とも、東日本大震災とかかわりのある句ですが、復興の遅々として進まぬ中、心を巡らせれば被災地のことが思われるのは、何も私だけの事ではないものと思われます」と添付している。

花城講師自作の「俳句3句」と「句の説明」を下記に掲載する。

◆<さまざまの事は忘れて櫻かな >
 元は「ざまざまの事は忘れて瀧櫻」と言う句でした。ここ数年、政治的空白や一向に回復しない景気、それに東日本大震災など、日本人は辛い日々を送って参りました。殊に去年の大震災が日本人に与えた衝撃は測り知ることはできません。そんな暗い世の中を少しでも明るくするかのように、瀧櫻は今年も満開の花を咲かせました。
満開の瀧櫻を見た日本人は日常の苦難を一瞬忘れたことでしょう。上の句は、「瀧櫻」を「櫻かな」に代えて地域限定をせず、一般化したものです。

◆<もみじ葉のしをりの痕や歎異抄>
 以前に古書店で購入した文学書の頁を捲っていると、もみじの葉の栞の痕が残っていました。葉の方はすでにありませんでしたが、赤い色素が本に移っていました。これに歎異抄を附けた訳ですが、歎異抄と言えば、門徒でなくとも「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という親鸞聖人のお言葉が連想されるものと思います。

今般の津波は善人・悪人の区別無く呑み込んでしまいましたが、亡くなられた方々の無念さは如何ばかりでしょう。古書のもみじの葉がすでに無くなっていたように、津波で亡くなられた方々も弥陀のご加護を得て極楽往生されたものと信じたく思います。
 この句は今回の為に作りました。「もみじ」に掛らないところが難点ですが、「凧きのふの空のありどころ」の句もございますから、瑕瑾刺するにあたわざる程度のものでしょう。むしろ、「難点」を以って「難を転ずる」ことができれば望外の幸いです。

◆<うめ咲きて返歌いただく心地かな>
 元は「梅一枝返歌頂く心地かな」という句でした。私は東日本大震災の年、弊校の俳誌『ゆうかりぷたす』第2号に於いて、「東北関東大震災祈祷平安歌文集」の特集を致しましたが、今年になって、東北在住の書家の方から、この歌文集に掲載した私の短歌を書いた作品を頂戴致しました。
 その歌は、「津波避け孤立してなお嬰児を囲み暖むる人の心根」です。
頂いたのは返歌ではありませんでしたが、返歌を頂いたような心持ちになりました。
 頃はちょうど好文木・梅の咲く時節でした。<花城可裕>

台湾でも「東日本大震災」の被災地が、一日でも早く復興することを願う想いが強いことを、この3句から伺い知ることが出来、台湾の方々にお礼を申し上げたい。

2012年12月16日

◆ロシアと「国際俳句交流」の絆

毛馬 一三


4年後の2016年に迫った与謝蕪村生誕300年記念に向け、私が代表のNPO法人近畿フォーラム21は、その記念事業として、諸外国と「国際俳句交流」をする活動を中心に進めている。

「国際俳句交流」とは、江戸時代の俳人与謝蕪村を輩出した大阪の伝統俳句文化を諸外国に広めると共に、世界諸国でブームになっている「世界最短の詩」五七五の日本伝統俳句を通して国際交流を図るのも目的だ。

そこで、当NPO法人が主催する市民講座「蕪村顕彰俳句大学」で、今年の春に「国際俳句蕪村賞」を設け、「国際俳句交流」を呼びかけた。するとフランス、ウクライナ、台湾の俳句愛好会や大学生等から俳句作品が応募されてきた。

これにより、大阪府知事、大阪市長、当大学学長名でフランス、ウクライナ、台湾の出句優秀句に「同賞」を授与した。
 

つまり、「国際俳句交流」を掲げる第一次の「国際俳句蕪村賞」の授与が出来、順調なスタートがきれた。その授与優秀句を顕彰するため「記念プレート碑」を、大阪市毛馬町の「蕪村公園」内に建立している。
 

こうした中で、今度は、ロシアとの俳句交流が新しく実現した。この交流には、「サンクトペテルブルグ日本センター」の代表・松原斉氏に多大なご協力を頂いて実を結んだのだ。

同日本文化センター代表・松原斉氏から、下記のお便りを頂いた。

「ご依頼の件につきましては、当地の日本総領事館文化部および、露日友好協会幹部ほか、日本語専攻のあるサンクトペテルブルグ大学日本語学科大学にも要請しております。特に特に露日友好協会の副会長kalinia V.A.女史(弊日本センター内の日本語講師でもあります)に協力をお願いしております」。

このようにロシアの「サンクトペテルブルグ日本センター」として、積極的に交流を進める意思が伝えられた。遂にロシアとも俳句を通して、心を通わせることが出来るようになったのだ。

ところで、サンクトペテルブルグとは、
<ロシア西部、バルルト海のフィンランド湾最東端、ネヴァ川河口デルタに位置する。ロシア有数の世界都市、港湾都市であるとともに、鉄道・国際航路の要衝でもあり、モスクワに次ぐロシア第二の都市。

第一次世界大戦開戦以降(1914 - 24年)は「ペトログラード」、ソ連時代(1924 - 91年)は、「レニングラード」だったが、今は、英語圏では「セントピーターズバーグ」、日本では「サンクトペテルスブルク」と呼ばれている>
ということだ。(参考:ウイキペディア)

「レニングラード」だった「サンクトペテルブルグ」が、モスクワに次ぐロシア第2の大都市であり、その「サンクトペテルブルグ日本センター」との「交流」が、松原斉氏によって絆が出来たのには、感謝の極みだった。

それだけではない。松原斉氏は更に、モスクワへも働きかけ、モスクワの「国際交流基金モスクワ日本文化センター」で活動をしている坂上陽子さんに「交流」の橋渡しをしてくれた。
 
これによってロシアの2大都市との「俳句国際交流」が実現したのである。
 
早速、モスクワの坂上陽子さんからも便りが来た。
「ロシアでも俳句の愛好する方々は多く、ロシア語俳句コンクールも実施されています。今年で5回を迎えましたが、例年、2500句から3000句ほどの俳句が集まります。

ただ、ロシア語での俳句ですから、そのまま日本語の俳句にすることは難しいですね。しかしご連絡いただいたコンクールへの応募は、当センターのサイトに掲載すれば、関心をもつ日本語学習者がいるかもしれません。どうぞ当センターと俳句交流等に関しまして、よろしくお願いします」。
という誠に有難い便りだった。
 
ロシアと「俳句交流」が出来るようになったことは、画期的で非常に意義ある繋がりと言える。松原斉氏と坂上陽子さんに改めて「俳句交流」にお力添えを求めると共に、第6期講座表彰式の「国際俳句蕪村賞授与」を目指して、2013年2月1日までにロシアの方々に俳句応募して頂くようお願いした。

2012年12月11日

◆「がめ煮」が呼ぶ郷愁の味

毛馬 一三


随分前に友人に案内されて行った大阪梅田のビルの地階の古い暖簾の「小料理屋」に、またその友人と一緒に訪ねた。

店は、老主人が黙々と「料理」に専念し、老婦人が注文受けとお酒の配膳役を務める「こじんまり」とした小料理屋だ。壁に掛けられた「おつまみ品」には目を向けず、すぐに、以前に来た時食した「ガメ煮」をすぐ注文した。

「がめ煮」は、私の出身の福岡筑後久留米の郷土料理の呼称だが、この名前で出される店は、大阪には滅多に無い。

そう言えばこの「がめ煮」は、筑後地方以外では「筑前煮」と呼ばれている。本当は「がめ煮」と「筑前煮」とは具材と味が違い、「がめ煮」の方が食の玄人向きだと、私は今でも思っている。

早速箸をつけて味わってみたが、前回の味と全く変わらない。九州出ではない主人にしては、出来すぎの料理だ。

さて、その「がめ煮」のことだが、博多地方の方言では、「がめくり込む」(「寄せ集める」などの意)が、その名前の由来だとの説がある。

ところが、太閤秀吉が朝鮮半島を攻めた文禄の役の時に、朝鮮に出兵した兵士が、当時「どぶ亀」と呼ばれていたスッポンと食材と合わせた煮込の料理方法を、我が国に持ち帰って作ったのが始まりだとの説がある。

そのスッポンを使って煮込んだ「どぶ亀」をそのまま筑後地方で「がめ煮」という名で作り始めたと伝えられているから、「がめ煮」の名の方が筑後地方が先で、博多の「筑前煮」は後釜という説の方がある。

ところがいつ頃からかは分からないが、「がめ煮」にスッポンは使わず、代わって「鶏肉」をいれるようになった。この作り方も、筑後地方の方が先に手を付け、郷土料理にしたと言われている。

子供の頃、「がめ煮」が食前に出る時は、お正月や婚礼式などの祝い事の時だった。「がめ煮」は慶事の時の食べ物だったという記憶が蘇ってくる。

さて、作り方だが、

<本場筑後「がめ煮」と「筑前煮」との一番の違いは、具材を炒めて入れる手順にあるという。まずはだし汁、シイタケの戻し汁、酒、醤油、みりん、砂糖を混ぜて鍋で煮立たせるのから始まる。そこに、一口大に切った鶏肉を入れてひと煮立ちさせる。

そこまでの手順は一緒だが、その後、「筑前煮」は、里芋、干し椎茸を戻したもの、コンニャク、アクを抜いたゴボウ、レンコン、ニンジン、ナスで筍を一口大に切ったものなどを入れる。

「がめ煮」は、コンニャク、里芋、大根、ニンジンを入れ、鶏肉をじっくり煮込ませるやり方で、甘みを時間を掛けて滲ませるのが独特のやり方だ。

この点が「がめ煮」と「筑前煮」が違うところだ。野菜が柔らかくなるまで煮れば、出来上がり。煮あがったところに「筑前煮」の場合は、サヤエンドウを加えることもある。>

聞くところによると、久留米市は「久留米市食料・農業・農村基本計画」を作り、伝統の「がめ煮」を調理することのできる市民の割合を、2014年度までに65%とする目標を立てている。

「がめ煮」を郷土料理の誇りにしている。きっと「がめ煮」を筑後の伝統料理として後世に残したいためだろう。

年に1度郷里久留米の姉の家に寄ると、姉が昔ながらの見事な味の「がめ煮」を作ってくれる。「がめ煮」舌触りに接するだけで、子供の頃の郷愁が込み上げて来て感動するばかりだ。

今回「小料理屋」で食した「がめ煮」の味も、改めて郷愁を誘ってくれた。「食べ物」とは底が深い。(了)

参考 フリー百科事典

2012年12月09日

◆与謝蕪村が大阪生誕俳人ってご存知?

毛馬 一三


松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸俳諧の巨匠与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(現・大阪市都島区毛馬町)だとは、江戸時代から「定説」になっていたものと信じていた。

ところがそうではないことが分かり、驚かされた。

というのは、私が代表のNPO近畿フォーラム21主催俳句講座「蕪村顕彰俳句大学」で、関西大学文学部の藤田真一教授の講演で初めて知ったのだ。

結論からいうと、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は終戦後のことで、奈良県で「蕪村直筆の書簡」が見つかったのがキッカケだったとの説明だった。

藤田教授は講演の中で、次のような説明だった。

蕪村は、自分の故郷のことには何故か余り触れたがらず、唯一、安永6年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(20頁ほど)の冒頭に「春風馬堤曲」を書き、毛馬村の側の淀川の馬堤に触れながら、18首の俳句を添えている。

毛馬村の名前を出したのは、唯一この「春風馬堤曲」だけだが、それでも自分の生誕地がこの毛馬村だったとは触れていない。

ところが、蕪村が自ら生誕地が大阪毛馬村だと初めて記したのは、蕪村が主宰する「夜半楽」の弟子に、この「春風馬堤曲」の冊子を贈呈した手紙の冒頭添え書に残されていった。

冊子を贈呈した大阪在住弟子は、柳女・賀端(がつい)で、添え書きの中に、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと書いている。

<春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」>。

この添え書きは、江戸時代から「物証」となって、毛馬村が生誕地と既知されていてもおかしくはないと思うのだが、そうならなかったのには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。「夜半楽」弟子に宛てたこの「添え書き」ですら、複製ものなのか、それとも蕪村直筆なのか、江戸時代以降長い間、判定されていなかった。従ってこのために蕪村生誕地には複数説が広がっていたという。

ところが前記の如く、終戦後奈良県で偶然見つかった同「書き添え書簡」が、「蕪村直筆」だと、専門家によって公式に認認された。これよって、やっと「蕪村生誕地が毛馬村」であると確定したのである。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の、淀川風景の描写と切ない郷愁の18首も、毛馬が生誕地であることを補完する形を示すことになり、遂に毛馬村生誕地が不動のものになった訳だ。

この経過を考えると、弟子宛の蕪村生誕地を記述した1通の「蕪村直筆添え書き書簡」公認の意味は大きい。

これがなかったら、蕪村が俳諧史に大阪俳人として登場することも無かったことになる。

蕪村が大阪毛馬生誕の俳人と定説になってから、僅か70年ほどしかならない。この影響があって、芭蕉や一茶とは異なり、大阪俳人として蕪村の顕彰が疎かにされてきたことは事実だ。

これからは4年後の蕪村生誕300年に向けて、私たちのNPO近畿フォーラム21で、生誕300年記念事業を進めることにしている。

目下検討中の”記念行事” は、   

@「国際俳句蕪村賞」を外国応募者に授与
Aシンポジウム(俳句学者・俳人・俳句評論家が参加)
B屋形船の「句会」(蕪村生誕地の1級河川「淀川・大川」で)
C蕪村歩こう会:(大阪市立大学文学部と共同事業)

D蕪村公園内に「蕪村銅像建立」
E蕪村公園へ植樹(蕪村俳句に詠まれた樹木)
F蕪村生誕300年記念「俳句大会」(海外から作品募集)
G蕪村に宛てた絵手紙展(蕪村俳句の絵手紙募集・展示会)

H蕪村カルタつくり(蕪村俳句カルタ募集・優秀作品展示会)
I蕪村紙芝居」と「蕪村顕彰ライブコンサート」同時開催
J蕪村公園・毛馬閘門・毛馬胡瓜で生誕地「まちづくり」
K2016年秋「生誕300年祭」開催。外国俳句愛好家を招請

以上の事業を、推薦団体、協賛団体・協賛者のご協力を得て、生誕300年を迎える年迄に順次行いながら、2016年の生誕300年秋に盛大な「生誕記念祭」を行いたいと考えている。

大坂生誕与謝蕪村生誕記念事業をすすめることによって、後世と諸外国に「世界最短の詩・俳句」文化振興を進めていきたいのが、私の願いでもある。

◆本稿は、12月9日(日)刊全国版メルマガ「頂門の一針」2810号に掲載されました。
<2810号の目次>   
・民進党の滅亡が台湾を救う:Andy Chang
・1等米、3等米、古々米:山堂コラム 448
・キャサリン妃入院先の看護師自殺で:古澤 襄
★与謝蕪村が大阪生誕俳人ってご存知?:毛馬一三
・マタギがいた時代:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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