2014年08月06日

◆大阪俳人与謝蕪村の名を高めよう!

毛馬 一三


NPO法人近畿フォーラム21(筆者主宰)の九期講座「蕪村顕彰俳句大学」と、月刊全国誌「俳句界」の「兜カ學の森」とが共催して、平成26年9月21日(日)午後1時から「蕪村顕彰全国俳句大会」を開催する。

会場は、蕪村生誕地に由緒ある毛馬近郊の大阪市立「淀川小学校」で行うもので、「大阪・毛馬に俳句の文化を継承する為」、現在全国から俳句作品の応募を行った。

前回7期の同「蕪村顕彰全国俳句大会」には、全国から1060句が応募された。

この応募句には、著名な選考者から選考して頂き、大阪府知事賞・大阪市長賞・蕪村顕彰俳句大学学長賞、文學の森賞をそれぞれ1名づつ授与した。

「蕪村顕彰全国俳句大会」を開催することになったのは、江戸時代の三大俳人の内、松尾芭蕉と小林一茶の生誕地は、江戸時代当時から知れ渡っているが、与謝蕪村の生誕地だけが、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だとは、残念ながら知る人は少ない。

蕪村の生誕地がなかなか分からず、やっと「定説」になったのが、戦後直後の事だったそうだ。この事を教えてくれたのは、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授であった。

奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったという。藤田教授の話によると、下記のようなことだった。

(蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍の舞台だった江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという「記録」すら残されていない。このため、蕪村の生誕地を確知していた人が、誰もいなかったのではないかという。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。ただ残念なことに、その舞台となる淀川毛馬馬堤近が、肝腎の自分の「生誕地」だとは、「春風馬堤曲」には一切触れていない。

しかし、その後願ってもないことが起きた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中に、自分の生誕地が「毛馬村」だと、下記のように初めて綴ったのだ。これが生誕地解明の歴史的契機となった。

<「春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それなら、これが物証となって、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かったのだろうが、そうならなかったのには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村真筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地複数説」を加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態が続いていたのだ。

ところが、終戦直後、奈良県で終戦直後偶然見つかった、先述の弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」が、やっと「蕪村直筆」だと「認定」されたのがよかったのである。

これによって「毛馬生誕地」説が確定した訳だ。終戦直後の認定だから、遅きに失したと言わざるを得ない。しかしこれは「蕪村生誕地複数説」を破棄し、毛馬村を生誕地とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになる。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述に淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

以後、生誕地が毛馬村であることを不動のものになった。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村真筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも無かったことになるだろう。>

こうして、蕪村が大阪生誕俳人と称されるようになってから、余り時間は経っていない。

そのため蕪村は、芭蕉や一茶とは異なり、江戸時代以来、生誕地の大阪で「蕪村生誕顕彰」は疎かにされ、これこそが生誕地を知る人が少なかったことにつながり、誠に慙愧に絶えない。

実は、与謝蕪村の生誕地毛馬村の庄屋(?)の家屋は、明治29年に明治政府の「淀川改修工事」で、国の河川淀川の川底に埋没させられ、今でも何処に生誕地の生家があたったかも判らない。

現在、毛馬の淀川堤防に「蕪村生誕地碑」があるが、この碑の場所が生誕地ではなく、その碑の眼下に流れる「淀川川底の何処かの場所」が生誕地ということになる。

このために、今でも地元大阪ですら「蕪村生誕地が毛馬村」であることを知らない市民は多い。次世代を担う児童生徒の教科書にも掲載されていないことを考えると、生誕地のことを知らない人が多いことはことも当然のことだろう。

だから、われわれ主催講座「蕪村顕彰俳句大学」では、文學の森と共催して、2年後の2016年に「蕪村生誕300年祭」を開催し、蕪村生誕地高揚と後世への伝承、そして国際化への発信を大々的に進めたいと考えている。

序でながら、筆者は藤田教授に下記の質問をした。

「蕪村は、淀川を下って源八橋から船を降り、浪速の弟子の下に吟行の往き来きしていましたが、「春風馬堤曲」に記述しているように、それほど生誕地の毛馬に郷愁があったのであれば、源八橋の極く近郊にあった毛馬村生家に立ち寄ってはいないのは何故なのでしょうか?その学説はありませんか?」

藤田教授の答えは次のようだった。
<それを証明する「学説」はありませんね。恐らく一度も立ち寄ってはいないでしょう。蕪村が心秘めた深い郷愁にも拘わらず、立ち寄ら無かったのは、それ超える幼少の頃の特別な事情があったのでしょう>ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったのに、立ち寄りたくない強烈な想いがあったのだろうという推察が浮上してくる。

恐らく奉公人だった母と実家の父が亡くなってから、私生児だった蕪村は、実家も引き付けず、家人たちからも極めつけの「いじめ」を受けただろう。そのために十七・八歳で家を出家せざるを得なかったのではないか。

そのことが「ひと一倍の郷愁はあっても、いじめが再来する生家には生涯立ち寄りたくなかった」気持ちに間違いない。

最後になりましたが、どうか、2年後の「蕪村生誕300年祭記念行事」に、是非共 皆様のご賛同とご支援を伏してお願い申し上げます。(了)

◆「蕪村顕彰俳句大学」ホームページアドレス
http://www.buson-kensho-u.com/

2014年08月03日

◆大阪にある自然の「滝」をご存知?

毛馬 一三



大阪のまち中に、自然の「滝」があることを知ってる?と訊いても、多分大方の人は首を傾げる。ビルの屹立する大都会大阪のまち中に、そんな湧き水が集まり、自然「滝」となって流れ落ちる光景など想像出来ないからだろう。

紛れも無く私もその一人だった。が、つい先日知人が話の序でに教えてくれた上、そこに案内までしてくれたことがきっかけで、この「大阪市内で唯一の滝」に行くことが出来た。

その「滝」は、大阪市市内の夕陽が丘近郊にあった。名称を「玉出の滝」といった。聖徳太子が建立した四天王寺前の大阪市営地下鉄「夕陽ヶ丘駅」を出て谷町筋から西に向かうと、「天王寺七坂」や「安居神社」「一心寺」など、寺社や名所が点在する上町台地の歴史のまち、伶人町の中にある。

その天王寺七坂のひとつ、清水坂を登り、細い道を行くと清水寺に着く。本堂の前を抜けて墓地に挟まれた石段にさしかかると、水音がかすかに耳朶を打った。足早にそちらに向かうと、目指す「玉出の滝」に辿り着いた。

「玉出の滝」は、「那智の滝(和歌山)や不動の滝山(岩手)」のように、山の頂上から滝壺めがけて、怒涛のような勢いで流れ落ちる巨大な滝ではない。境内南側の崖から突き出した石造の三つの樋から、水道水の様な水が流れ落ちる、ささやかな滝なのである。

しかし5メートル下の石畳を打つ三筋の水の音は、大きな響きを伴い、その響きは人の心の奥底の隅々にまで行き渡る、いかにも行場の滝という感じだ。

知人によると、この「滝」には、落水で修行する常連の人がいるが、新年には滝に打たれて、延命長寿などを祈願する人が多いとい。

実は、この「玉出の滝」を見た瞬間、京都の清水寺の「音羽の滝」と瓜二つだと、感じた。

私の亡くなった母親のいとこの嫁ぎ先が京都清水寺の皿坂にある「清水焼の窯元」だったので、そこに遊びに行った時見たのが「音羽の滝」だった。

案の定この清水寺は、京都の清水寺を、寛永17(1641)年に模して建立した寺で、かつては京の清水にあるような懸造りの舞台も存在していたらしく、その時「音羽の滝」も、この「玉出の滝」として再現されたのだという。
 
周辺は、ビルばかり目立つ都会の環境だが、この大阪唯一の「玉出の滝」が、近くの四天王寺の金堂の下にある清竜池から湧き出る霊水がここで滝となっていると言い伝えもあるところから、大阪の歴史の香りを髣髴とさせる自然の造形といえる。

余談ながら、この「玉出の滝」の側に、冒頭に記述した「安居天神」がある。真田幸村の憤死の跡として知られている神社である。

大阪夏の陣で決戦を挑んだ西軍の真田幸村は、天王寺口(茶臼山付近)に布陣した。徳川方の主力が天王寺方面に進出してくることを予測してのことである。

真田幸村の狙いは、家康の首を取り豊臣家を再興させる戦略だった。真田隊は一丸となって突撃を開始、東軍の先鋒越前軍一万三千を撃破。ついに家康本陣営に突入、この真田陣の猛攻で、家康の旗本は大混乱に陥り、ついに家康の馬印までが倒された。

馬印が倒されたのは、武田信玄に惨敗した三方ヶ原の戦い以来、2度目だった。家康も本気で腹を切ろうとしたが、側近に制止され思い止まる。家康が幾多の合戦で切腹しようと決断を迫られたのは、後にも先にも、生涯でこの2度だけである。

が、真田隊も猛反撃に遭って劣勢となり、今度は家康が、総攻撃を命じた。

幸村の要請にも拘らず大阪城からの加勢は現れず、戦場で傷ついた幸村は、ここ「安居天神」の中の樹木に腰を下ろして手当てをしているところを、越前軍の兵に槍で刺され、落命した。

こんな大都会のまち中で、行場ともいうべき市内で唯一の「玉出の滝」が、真田幸村の戦場の近くであったことなども連想しながら、一度ゆっくり散策されることを勧めたい。(再掲)

2014年08月01日

◆NHK与謝蕪村特番 素晴らしい!

毛馬 一三
                         

NHKは、7月30日(水)夜10時から大阪俳人・「与謝蕪村の特別番組」を放映しました

この特番は、「歴史秘話ヒストリア」で放映されたので、このようなNHKの超人気番組で取り上げられたのには、大きな驚きであり、喜びを覚えました。

NHKは、<与謝蕪村は、俳句と絵画を極めた江戸のマルチ・アーティスト!「菜の花や月は東に日は西に」など名句風情の秘密とは?国宝「夜色桜台図」に秘められた感動の物語って?貧乏だけど自由なその人の人生を、愛して止まないイッセー尾形さんが演じます」とのキャッチフレーズを、放映事前に告知しました。

<“のたりのたりと”いきましょう>と題する「俳句と絵画を極める」与謝蕪村の生き様の演技は、イッセー尾形さんがこのキャッチフレーズに応じ、蕪村の人生を十分理解した上で、見事に演じました。

蕪村が、「俳句と絵画」に取り組みながら、貧乏と自由さの狭間の中で、実際に弟子たちと議論しながら俳句つくりに取り組む生き方を、なまなましく浮き彫りみせたのです。

特番によると実は、蕪村は12才で母親を大阪・毛馬の生家で亡くしたため、毛馬を出奔し江戸に向かい、幸いにも俳人巴人と出会い俳句に取り組んだのです。しかし巴人は蕪村が27歳の時この世を去り、蕪村は東北を放浪しました。

蕪村は、39才の時、母親の里・丹後の与謝に移り、絵画を志して励んだあと、京都に戻ったのです。ここからがイッセー尾形さんの演技がいきいきと蕪村の生き方を訴えたのに見応えがありました。これが特番の素晴らしい構成でした。

ところでこの特番で驚いたことがありました。「菜の花や月は東に日は西に」という句がどうして生まれたのか。この句は、雄大な写生句だと感じていただけでした。

ところが毛馬地域にとって「菜の花」は、大変な「生活の糧」だったのです。これは、この特番のゲストで出演した関西大学文学の蕪村学者・藤田真一教授が明らかにしました。

「菜の花」からは、「菜種油」が採れ、「行燈の灯り」にすることが出来たのです。イッセー尾形さんが演じる夜中のシーンで、「菜の花」が「灯りの元」となり、句会や俳句作りに役立っていたのです。流石、「菜の花」は、掛替えのないない産物であり。浪速の誇りだったのですね。

東京大学の佐藤康宏教授も、蕪村の魅力を解説され、参考になりました。

特番では、蕪村老年結婚で生まれた「くの」が離縁して蕪村の家に還り、以後老いと病と闘う蕪村がにじみ出てきました。

蕪村は、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明、68歳の生涯を閉じました。死因は従来、重症下痢症と診られていましたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされています。特番に出てくる蕪村の墓のある「金福寺」に行って来ています。

特番で、蕪村が大阪出身であること、とりわけ「蕪村という面白い・凄い人がいたのだ!」を伝えるのが特番の目的でした。

NHK制作プロジューサーのコメントによると、「蕪村生誕300記念の露払いとして、蕪村の事を一般に知らしめることができればと思います」というご連絡を頂いたのには、感動しました。私たちの「蕪村生誕300年記念行事」の支援になるのは、確かだからです。

とにかく「歴史秘話ヒストリア」で、蕪村のことが初めて放映されたこと自体、大いなる価値があります。

「蕪村生誕300年記念行事」の実行を、この9月から、共催の「文學の森」と共同して開始して参ります。

この素晴らしい「歴史秘話ヒストリア」特番で、7月30日に放映されたのを機会に、本格的に「記念行事を」進めて行きます。NHKでも「蕪村生誕300年記念」の2016年には、蕪村生誕大阪毛馬の生家での「蕪村の幼少の生き方」などを、再び「特番」にして頂きたいと祈念致します。

どうか、俳句愛好家、大阪市民の方は、「蕪村生誕300年記念行事」の推進にご参加・ご助力頂きます様、お願い致します。

2014年07月30日

◆「紫蘇濃縮ジュース」を作ろう

毛馬 一三
 
          
ジュースとは、本来「果汁」を指すものだが、今ではコーラなどの炭酸飲料なども含めた甘いソフトドリンクまでも「ジュース」と称している。デパートやスーパーに出掛けると、山ほど陳列されたこの種のジュースが目に付くが、果たして健康にいいかどうか考えると買い求めるのに躊躇してしまう。

そうした折、体にいいから是非と知人に勧められた「紫蘇(しそ)濃縮ジュース」を我が家で作ってみたところ、なんとまあ、風味・舌触りなど美味さ抜群、すっかり嵌ってしまった。

<紫蘇(しそ、学名Perilla frutescens)は、シソ科のシソ属の植物。中国原産。

紫蘇には、こんな由来がある。中国の後漢末、洛陽の若者が蟹を食べすぎて食中毒を起こし死にかけたが、名医・華陀が薬草を煎じ、「紫の薬」を作り、同薬を用いたところ、若者はたちまち健康を取り戻した。「紫」の「蘇る」薬だというので、この薬草を「紫蘇」というようになった>。

品種は以下の2種類がある。「青紫蘇」と「赤紫蘇」である。

<i)青紫蘇は、葉や花を香味野菜として刺身のつまや天ぷらなどにする。青紫蘇の葉は野菜としては「大葉(おおば)」とも呼ばれる。
i)赤紫蘇は、梅干しなどの色づけに使用。また葉を乾燥させたものは香辛料として(特に京都で)味唐辛子に配合され、ふりかけなどにも用いられる>。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

ところで自家製の「紫蘇(しそ)濃縮ジュース」には、「赤紫蘇」を使う。作り方は幾通りもあるが、知人から教えてもらった作り方が過去味わった紫蘇ジュースの中で最高だったので、その作り方をご紹介したい。

<作り方>
(1)紫蘇(350g)を水できれいに洗い、水気をよく切って鍋に入れる。
(2)鍋に水(450cc)を入れ、その中に砂糖(600g)とクエン酸(20g)を加える。
(3)紫蘇を満遍なく混ぜて、鍋をガスの中火で煮出す。
(4)10分ほど沸騰させ、紫蘇の中から泡が出したら火を止める。
(5)鍋で煮だった紫蘇を別のボールに、ザルで濾す。
(6)絞り紫蘇液が自然に冷めたら、その中に「ゆず酢」を大匙2杯弱入れる。これがこの濃縮ジュースの「隠し味」。
(7)真っ赤な紫蘇濃縮ジュースが出来上がったら、氷を入れたコップに濃縮ジュースを好みに応じて注ぎ、水や炭酸水などで4倍に薄めて飲む。

これだけの作り方で、900ccの「紫蘇濃縮ジュース」が出来上がる。冷蔵庫で保存すれば、半年の賞味期限があると知人は教えてくれた。

この「紫蘇ジュース」は、紫蘇の栄養であるビタミン類、ミネラル類が含まれているので薬用効果があり、アレルギー体質、生活習慣病、食中毒予防等に効果があるという。

手前勝手な風味・美味しさ抜群の「紫蘇濃縮ジュース」の作り方を紹介させて頂いたが、このジュースが他の作り方と違う点は、隠し味の「ゆず酢」。興味を感じられたら、いま出荷盛りの赤紫蘇を求めて作ってみられては如何。                    (了)   

2014年07月24日

◆蕪村生家は、淀川の河底

毛馬 一三


江戸時代の俳人与謝蕪村の生家は、淀川の河底に埋没しているのは間違いないのですが、一体河底の何処に埋没させられて仕舞ったのでしょうか。詳しい場所は未だ不明です。

確かに、大阪毛馬の淀川堤防に「蕪村生誕地」と書いた「記念碑」が建立されてはいます。しかし「蕪村生誕し幼少を過ごした生家」は、この場所ではないことははっきりしています。

実は「蕪村の生家」が、冒頭に記したように、淀川堤防から眼下に見える「淀川の川底」に在るのは事実です。なぜ淀川の川底に埋没されたのでしょうか。これは追々。

徳川時代の淀川は、よく手入れが行われていましたが、明治維新後は中々施されていなかったのです。ところが、明治18年に淀川上流の枚方で大水害が起き、下流の大阪で大被害を受けたことをきっかけに、明治政府がやっと淀川の本格的改修に乗り出しました。

その際明治政府は、単なる災害防止ためだけではなく、大阪湾から大型蒸気船を京都伏見まで通わるせる航行で「経済効果」などの多目的工事に専念することを決めました。

そのために淀川の河川周辺の陸地を大幅に埋め立て、それまでの小さな淀川を 大きな河川にする大改修を立案したのです。

これに伴い、旧淀川沿いにあった「蕪村生家」地域は埋め立ての対象となり、すべて「河川改修工事」によって川底に埋められて仕舞いました。

さて、明治政府は関西の大型河川・淀川を大改修するため、オランダから招いた河川設計者・デ・レーケとフランス留学から帰国していた設計士沖野忠雄とを引き合わせ、「淀川大改修」の設計を依頼しました。

明治政府の依頼を受けた2人は、「大改修工事」の設計を創り上げ、明治29年から工事を開始しました。

とにかくこの大型改修設計は、大阪湾に京都の宇治川や桂川、奈良からの木津川を中津川に合流させ、一気に淀川として大阪湾に繫ぐ、巨大な設計でした。

そうすれば貨物蒸気船を大阪湾と京都を結んで航行させることが出来、逆に京都・枚方などで大水害が起きた場合でも大量の水量をさらりと、大阪湾に流すことが出来るのです。二本立ての「効果狙いの設計」でした。

勿論、上流の災害で流出してくる「土砂」が、大阪に被害を与えないため「毛馬閘門」設計も創りました。

これが淀川から大阪市内に分岐させる「毛馬閘門」の設計主旨だったのです。この「毛馬閘門」からは、淀川本流から分岐して大阪市内へ流れる河川を設計しました。その河川の名を「大川」と名付けたのです。

この「大川への分岐設計」で、上流の水害に伴う土砂流失の回避は実現し、大阪の上流からの防災は、今日まで護られているのです。

このように2人による設計書は、世界の河川工事技術水準に準じたもので、明治政府が施工した「河川大改修工事」としては全国的に見ても画期的なものでした。

同工事は、明治29年から明治43年まで行われ、設計通り完成しました。

ここから本題。この「河川大改修工事」によって、与謝蕪村が生まれ、幼少を過ごした大阪市都島区毛馬町(摂津国東成郡毛馬村)は、跡形もなく淀川に埋没させられ、深い川底に沈んで仕舞いました。

明治政府の強制でしたから、当時の住民は仕方なくそれに従ったようですが、川幅も660b(従来の30数倍)となり、浅かった河の深さも5bの巨大河川に変容したのです。

この住居埋没の強制工事で、前述の如く、蕪村の生家(庄屋?)は勿論、お寺、菜の花畑、毛馬胡瓜畑跡などの、当時の地域の様子は皆目全くわかりません。今は淀川の毛馬閘門近郊にある蕪村記念碑から、淀川の眼下に見える川底が「蕪村が幼少を過ごした生家地域」だと想起出来るだけで、寂しい限りです。

淀川近郊の蕪村家(庄屋?)の後継者の方といわれる毛馬町の家を訪ね、「家歴」を伺いました。しかし、「地図も無いし、お寺も埋没して「過去帳」もないために、蕪村生誕地が淀川の河底にありことは間違いないですが、今でもどのあたりの河底にあるのか分かないのです。」という答えが返って来ただけでした。

「蕪村生誕300年記念」を、2016年に迎えます。どうか大阪毛馬町の「蕪村公園」と通り過ぎて、「毛馬閘門」と「蕪村記念碑」ある淀川堤防の上から眼下に流れる「淀川」を見ながら、その河底に蕪村生誕地があることを想いつつ、蕪村が幼少期をここで過ごしたのかと、ゆったりと瞑想して欲しいですね。

取材:国交省近畿地方整備局淀川河川事務所

2014年07月19日

◆“与謝蕪村特番”をNHK放映

毛馬 一三

                  
NHKでは、これまで江戸時代の三代俳人・与謝蕪村について特別番組を放映したことはありません。ところが7月30日(水)夜10時から43分間、総合テレビの人気番組で放映することになったのです。

特別人気番組とは、皆さんもよくご存じの「歴史秘話ヒストリア」で放映されます。「“のたりのたり”といきましょう 与謝蕪村 俳句と絵画の極め方」の主旨で放映するそうです。

番組の中で蕪村を演じるのは、イッセー尾形さん。蕪村学者では関西大学文学部の藤田真一教授(当俳句大学の特別講師)や東京大学の佐藤康宏教授も出演されます。イッセー尾形さんが、蕪村をどのように演じるでしょうか。

特番担当プロジューサーによると、蕪村が大阪出身であること、とりわけ「蕪村という面白い・凄い人がいたのだ!」を伝えるのが特番の目的だそうです。

同プロジューサーの更なるコメントに、「蕪村生誕300記念の露払いとして、蕪村の事を知らしめることができればと思います」というご連絡を頂いたのには、感動しました。私たちの「蕪村生誕300年記念行事」の支援になるのは、確かだからです。

どのような番組展開になるのか分かりませんが、「歴史秘話ヒストリア」で蕪村のことが放映されるということ自体、大いに「価値」があります。

どうか皆様も、7月30日(水)の夜10時から放映の「蕪村を伝えるー歴史秘話ヒストリア」を、是非ご覧下さい。「蕪村生誕300年記念行事」の推進にご参加・ご助力頂きます様、お願い致します。

2014年07月12日

◆万葉集にある軍事メッセージ

毛馬 一三
 

「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語では判読出来ない歌のほとんどを、何と韓国語で詠んでみると、「未詳歌」ではなく、総て読み明かせると聞いた事を思い出した。

しかもその「万葉集の未詳歌」には、当時の日本と百済との間で「軍事、政治に関する驚くべきメッセージ」が秘められているということだ。

この話をしてくれたのは、以前のことだが、韓国の著名女流作家、李寧煕(いよんひ)氏。韓国大手新聞社「韓国日報」の政治部長・論説委員長から国会議員を経て、韓国女流文学会会長を歴任された。ただ、今もご健在か確認出来ていない。

筆者は、たまたま「韓国日報」からの紹介で、李氏が来日された折、2日間、奈良県桜井の「万葉の道」やその周辺の「古代天皇古墳群」散策の案内を務めた。

その時李氏が、こもごもと語ってくれたのが、この「万葉集」に秘められた日本と百済との「軍事、政治に関する驚くべき秘話」だった。

李氏が、日本の「万葉集」と関わりを持ったのは、国会議員だった当時、日本の高校の歴史教科書に韓国関係記述が歪曲されているという問題が提起されているということから、日韓両国国会議員による特別委員会を設け、事実調査を始めたのがきっかけだったという。

つまり、歴史書が歪曲されているかどうかに探るには、古代史にまで遡って検証する必要があり、そのためには両国歴史書に目を通すことだった。

その時、日本の「万葉集」に魅せられて仕舞ったというのだった。その瞬間から「万葉仮名」の研究に励み出されたそうだ。

「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語では判読出来ない歌のほとんどを、何と韓国語で詠んでみると、「未詳歌」ではなく、総て読み明かせること分かったというのだ。これは大発見に違いなかった。

帰国した李氏から、筆者に李氏の著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」を送られてきた。読んでいくうち「日本語訳では見えない様々な謎」が書き込まれていた。その中に、特に注目すべき下記の記述があった。

<万葉集20巻、4516首の内に、日本語では判読できない、正式に「未詳歌」は「3首」があり、このうちの1首に恐るべきメッセージが織り込められている。

斉明天皇(655年即位)の心の中を、額田王(ぬかだのおおきみ)が代わって歌にしたのが、それである。

◆原文: 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念 <巻1の7・未詳歌>

・日本語で詠むと、(秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 刈廬(かりいほ)し思ほゆ)

「日本語での解釈」では、下記のようになっている。
(秋の野の 萱(かや)を刈って屋根を葺き 旅宿りした 宇治のみやこの 仮の庵が思われる)。

この解釈だと、額田王が何を言いたいのか、さっぱり意味が伝わってこない。だからこの歌が、解釈不能または解意不明であるこため、公式に「未詳歌」とされたのだろう。

そこでこの詳らかでないこの歌の原文を、韓国語で読んでみると、・・・・
(徐伐『そぼる』は 鉄磨ぐ 締め苦しむること勿れ 上の都は 刀来るぞよ 陣地固めよ)。

・韓国語訳―(新羅は刀を磨いで戦いに備えている。締め苦しめないといいのに・・・。吾がお上の、百済の都は、敵が襲ってくるから、陣地をお固めなされ)>。

李氏の韓国語詠みによる解釈によると、これは明らかに斉明天皇が「百済」に送った「軍事警告メッセージ」だということが、はっきりと分かる。

となれば斉明天皇が百済に、これほどまでの「国家機密情報」を送らなければならなかった理由があったのか。その疑問にブチ当たる。

<皇極天皇(斉明天皇と同じ・斉明天皇は二度即位)から斉明天皇の時代は、朝鮮半島では、新羅、百済、高句麗の3ヵ国の間が緊張状態にあった。

この歌(皇極時代の時の648年に入手していた機密情報)は、斉明天皇に即位してから、額田王に作らせた歌だ。百済が、新羅・唐連合軍に滅亡させられた661年より13年も前のメッセージだから、このメッセージ自体には「歴史的真実性」がある。

実は斉明天皇は、百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、百済を援けるため、難波(大阪)で武器と船舶を作らせ、自らその船に乗り込んで瀬戸内海を西に渡り、百済とは目と鼻の先の筑紫(福岡)の朝倉宮で新羅・唐との戦争に備えた。

だが斉明天皇は、遠征軍が百済に出陣する直前、その意志に貫けず、出陣先の筑紫(福岡)で亡くなった。

斉明天皇の異常なまでの「百済贔屓」について日韓学者間では、斉明天皇は実は、百済第三十代武王の娘の「宝」で、百済最後の王、義慈王の妹だった説がある。

恐らく斉明天皇自身もさることながら、親族関係も「百済」と強力な血脈が在あったのではないだろうか。

額田王の「万葉集」(未詳歌)歌に秘められた「軍事警告メッセージ」も、その視点で詠めば「未詳歌」ではなくなっていたのではないかというような気がする。

ところが、「万葉集」を古代の珠玉の日本文学と仰ぐ人たちにとっては、この韓国語読みは認め難く、あくまで額田王作の「未詳歌」としてしか、今でも取り扱わない。

とは云え、このあと「白村江の戦い」の敗戦(663年)まで、百済国の救援にこだわり続けてきた日本の歴史を見れば、日本と百済との関係は極めて緊密であったことは明らかだ。

だとすれば、万葉集愛好家も「万葉集の未詳歌」に、韓国語で詠み明かされる新たな視点を投げかければ、「万葉集」珠玉を更に広げることになったのではないだろうか。詠みを広げてみては如何ではなかったか、という気がする。

今、「韓ドラ」放映が人気を集めている。「万葉集の未詳歌」」に対する視点と解釈を変えて観れば、当時の歴史の激烈さが浮上して興味が増してくるのは間違いない (了)    

参考―・李寧煕氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」
   ・小林恵子著「白村江の戦いと壬申の乱・現代思潮社」
   ・ウィキぺディア

2014年06月21日

◆「腰痛の原因」分からず

毛馬 一三


激腰痛等に悩まされ出して10か月が経つ。今は歩行が100b位しか出来ず道路で座り込んで仕舞う。バス・地下鉄には立ったまま乗車はできない。ましてや、地下鉄の階段は手すり棒にすがって上り降りをするが、酷い痛みにおそわれる。

家でも、椅子に座ってパソコンに向かい合うのも、30分とはもたない。どうしてこんな腰痛に絡む激痛が起こったのだろうか。昼間、欠かせない所要で外出先から帰宅すると、激痛を緩るため、布団に寝転ぶしかない。

腰痛といえば、6年前に脊髄部の「すべり症」に見舞われ、下半身が痺れて倒れる症状が起き、大阪厚生年金病院で手術をした。手術は成功し、「すべり症」からは完全回復したので、以後腰痛には何の懸念も抱いていなかった。

ところが、冒頭記述のように、突然10か月前から、腰痛が始まったのだ。そこで、今毎日、整形外科診療所に通って診察とリハビリを受けている。リハビリを受ければ次第に回復すると思っているが、中々痛みが減っては行かない。

整形外科診療医院での診察で、まずレントゲンを撮影し、「すべり症手術の後遺症」の有無を調べてもらったが、それはないとの診断だった。

しかし、痛みは、腰だけでなく、時間が経過するにつれて、右足の臀部、下肢ふくらはぎに広がり、3か月前からは右腕の筋肉にまで痛みが出だした。

腰痛だけでなく、右足・下肢の筋肉に痛みが広がり出したため、改めて診療所の院長に「病名」を質した。すると「仙腸関節炎」だと伝えられた。ではこの痛みの原因は何であるかを尋ねた処、「分からないです」との回答だった。

一体「仙腸関節炎」とは何か。日本仙腸関節研究会によると下記の様の記述されている。

<仙腸関節は、骨盤の骨である仙骨と腸骨の間にある関節であり、周囲の靭帯により強固に連結されている。仙腸関節は脊椎の根元に位置し、画像検査ではほとんど判らない程度の3〜5mmのわずかな動きを有している。
仙腸関節障害は決して稀ではない。仙腸関節障害で訴えられる“腰痛”の部位は、仙腸関節を中心とした痛みが一般的だが、臀部、鼠径部、下肢などにも痛みを生じることがある。

仙腸関節の捻じれが解除されないまま続くと慢性腰痛の原因にもなる。長い時間椅子に座れない、仰向けに寝れない、痛いほうを下にして寝れない、という症状が特徴的。

腰臀部、下肢の症状は、腰椎の病気(腰部脊柱管狭窄症・ようぶせきちゅうかんきょうさくしょう や 腰椎椎間板ヘルニア・ようついついかんばん など)による神経症状と似ているので、注意が必要。
また、腰椎と仙腸関節は近くにあり、関連しているので、腰椎の病気に合併することもあり得る。>

上記説明で、筆者の「仙腸関節炎」の症状や痛み箇所が一致し、神経症状と似ているとの指摘があったことからも、院長の病名診断に納得出来た。

しかし肝腎の「仙腸関節炎」の原因が何処から発生しているのかが分からないのは、不安が増幅する。

どうすればこの激腰痛から脱出できるのだろうか。整形外科の分野で、「腰痛」の原因は、総じて分からないことが多いという説もある。

当診療医院で、2週間に1度、痛み止め注射(トリガーポイント注射、ノイロトロピン注射、ジプカルソー注射)を打ってもらい、1日3回・薬剤ザルトプロフェン錠80mgを飲んでいる。痛みの各局部には湿布も貼る。

また頼らざるを得ないのは、毎日の主軸治療の「リハビリ」だ。柔道整復師による局部マッサージのあと、ホットパック(タオルによる温め)、干渉波(電気)、腰の牽引の物理療法の4リハビリを40分間行っている。局部マッサージは痛み緩和に効果はあることを感じる。

しかし、「仙腸関節炎」の原因が分からない以上、対象療法しかないのは事実だ。

だとすれば、歩けない、立てない、座れないのが今より強度になれば、寝たきりになる可能性も少なくなくはない。

これ以上悪くならないよう、毎日のリハビリに対応を託すしかない。(了)

◆「読者の声」
上記原稿が全国版「頂門の一針」に掲載されました処、下記「読者の声」が寄せられました。

<毛馬一三さんのお原稿、他人事と思えずメールをお送りしました。

以前から腰痛持ちでしたので、渡部先生にご紹介頂いた渋谷カイロで随分長くお世話になっておりましたが、実家の母の介護の後、渋谷カイロで施術してもらっても一向に腰から下肢にかけての張りと痛みが取れず、とうとう2年半前、腰椎と頸椎の椎間板ヘルニアの同時併発と診断され殆ど寝たきりになりました。

首と腰が痛いので、夜、寝返りが打てず、1時間半ごとに起きて、体位を変えるというような状態で、殆ど眠ることもできなくなり、食欲もなくなり、体重は13キロ減りました。神経圧迫で椅子にすわることも、殆ど歩くこともできない生活となりました。

かかりつけの整形外科でMRIも取り、保険適用内のリハビリも一通り受け、ブロック注射も受けましたが、これ以上できることはないと言われ、体重減少も気になるので、大学病院で診てもらった方がということで、大学病院に行くことになり、検査の結果、手術までは必要ない、痛みが酷いのは急激な体重減少で体を支える筋肉が痩せてしまったからと言われました。その頃は、下肢だけではなく、頸椎椎間板ヘルニアの影響で、握力も弱くなりマグカップが持てなくなっていました。

それから本当に根気のいる生活が続きました。

幸い、西早稲田整形外科に保険適用外で受けるパーソナルコンディショニングセンターが付設されており、そこでとにかく体の関節が固まらないように灸と、症状に合わせて器具を使わないリハビリトレーニングを続けました。たまたま私の担当になって下さった先生が鍼灸師でスポーツトレーナーでもあったので、それも回復に向かう上で幸運なことでした。、

最初は、寝た状態で片足ずつ上げるトレーニングから始まり、2年半たった今も骨盤をひねらないで正しくあるくためのトレーニングをしています。

もちろん、毎日のスクワットも欠かしません。スクワットが自力でできる身体に戻るまでに、寝たきりから実に、2年半かかりました。もちろん、今も神経痛はありますが、飲み薬もロキソニンテープも卒業しました。

早くよくなりたいと焦るのが人情ですが、炎症のあるときは無理しないことです。しかし、関節が固まらないように軽く体を動かし続けること、血流をよくすることだと思います。

もう一つ、私が毎日続けていることがあります。それは、コウケントウという可視総合光線療法です。

一般財団法人光線研究所というのが大久保にあるのですが、私も知人から教えて頂きました。電話での相談も可能です。

色々な病で行くあてのなくなった人々が、随分この治療で改善しいるそうです。抗ガン治療で弱った人々、糖尿病、その他色々な人が来ています。戦前からある治療法だそうです。私は、坐骨神経痛の酷い状態がこれで随分緩和されました、そして何より充分な睡眠がとれるようになり、体重も半分戻りました。免疫療法のようなものです。

http://kousenkenkyuusho.or.jp/

だいぶよくなったら、筋力を落とさない努力を続けることだと思います。先輩方に申し上げるのには、釈迦に説法ですね。申し訳ありません。しかし、どんな思いで、過ごしておられるのかと思うといてもたったもいられず、メール致しまた。

一番肝腎なことを書き忘れました。

リハビリの先生から、私の神経の痛みの出る部分は「仙腸関節」だということで、歩くときの姿勢、とくに骨盤のねじれが出ないように、腰に四つ折りにしたタオルをあてて両手でひっぱりながら歩く練習を今もしています。胸を張って歩く姿勢ができるので、背筋腹筋の強化にもなります。>
                                    (匿名希望) 
「頂門の一針」主宰者より:この方は主宰者の知人で、大学教授夫人です。


2014年06月08日

◆国宝金印の「謎」

毛馬 一三


国宝の漢委奴国金印「王印(かんのわのなのこくおういん)」には、子供のころから「謎」の思いがある。福岡に帰郷出来た時、まだ見たことのない「金印」をお目に掛かかり「謎」に迫ろうという思いがあった。その「謎」の事は追々。

さて国宝「金印」の出土から今日までの経緯を記すと、下記のようだ。
<天明4年2月23日(1784年4月12日)、筑前国那珂郡志賀島村(現福岡市東区志賀島)南端・叶ノ浜の「叶崎」で出土。

発見したのは甚兵衛という地元の百姓である。ところが近年の研究では発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそれを那珂郡奉行に提出した人物だとうという説が有力。

水田の耕作中に偶然発見したとされる。一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。那珂郡奉行から福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥によって「後漢書」に記された金印であるとされた。

その後、この「金印」の「委」は「倭」の省略形で、中国史書「後漢書」(東夷伝の倭伝)に「後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に朝貢した倭奴国に印綬を下賜した」と記されており、この印綬が「漢委奴国王」印であることが確定した。

出土した後は、福岡藩主黒田家に伝えられ、明治維新後に黒田家が東京へ移った後は、東京国立博物館に寄託され、その後は福岡市美術館の開設に際して1978年(昭和53年)に福岡市に寄贈された。

最初は、1979年(昭和54年)から福岡市美術館で展示され、1990年(平成2年)からは、福岡市博物館で保管・展示されてきた>。参考ウィキペディア

さてここからが本題。

「金印」出土した場所は「志賀島」の南端・叶ノ浜の「叶崎」。そこは、福岡市内の辺鄙な処にある。JR香椎線(地方交通線)の西戸崎前から「海の中道」を経由して志賀島へ渡り、島の南側を行くと「金印公園」に至る。

私は小学生の頃、父に連れられて博多築港から遊覧船で志賀島に渡った。「金印」の出土現物を見る旅行だった。その時は「金印」が出土した出土現場の叶ノ浜の「叶崎」を見ることが出来たことに本当に感動した。

ところが、暫くして後漢の光武帝が下賜したという「金印」が、またどうして、このような辺鄙な日本の「離れ島」で出土したのか。それがまさに「謎」だったのだ。「何故、志賀島から出土?」なのか。不思議でならなかった。

確かに金印が志賀島に埋められていた理由については、諸説がある。
A、遺棄説 2世紀に、倭国が大乱となったため棄てられた。
B、隠匿説 同じく倭国大乱で奴国が没落したため、人里離れた所に隠した。
C、墳墓説 奴国王の墓に副葬された。
D、王宮説 奴国王の宮殿が近くにあった。
E、祭祀遺構説 航海安全祈願の施設があったから、等々である。
出典:<「一大率・難升米の読み方と白日別の意味の一部から>。

どれも該当する可能性があるが、未だにはっきりしない。私の自身は、何とか調べる方法はないのかと思い出す度に今でも悩んでいる。

国宝の金印を所蔵する福岡市博物館のホームページにも、この「謎」に関して、『なぜ金印が志賀島に埋められていたのか。これまで「墳墓説」「隠匿説」が唱えられ論争となった時期もあつたが、全く不可解』と記している。博物館でも、突き止めていない。結局「謎」のままだ。

序でながら、重複するが敢えて記して置く。
<志賀島から出た金印は、「蛇の紐通し(蛇の形の紐とおし)」が付いている。「蛇紐の金印」はそれまで中国本土はもとより、世界のどこからも発見されたことがなかった。だから偽物ではないかという風説が流れた時期もあった。
  
ところが、1956年に中国雲南省で前漢代の「てん(さんずいに眞)王之印」が発見され、これが「蛇紐」であったために、「偽物説」は一気に吹き飛んだ。
  
漢代の印綬制度では、漢王朝に仕える諸侯(内臣)は、黄金印に亀の紐。異民族の国家で漢に臣従したもの(外臣)は、北方民族には駱駝や羊の紐、そして東夷南蛮の王には「蛇紐の金印」が下賜されたていたことが明らかになった。

また太宰府天満宮に伝わっている唐時代の辞書「翰苑」の巻三〇蛮夷の部の中の倭国の記事に「中元之際紫授之栄」とあり、紫綬の金印が光武帝より授けられたことが記されている。

これによって志賀島の「金印」は、前述のように後漢の光武帝から下賜されたことがしっかりと証明されたことになる>。参考:ウィキペディア

つまり光武帝からの下賜であることははっきりしたが、その「金印」がどうして「志賀島から出土したのか」だけは、これからも「謎」のままなのだろうか。

在る時、福岡の友人が、大学の考古学学者から聞いたという興味深い話を聞かせてくれた。

それによると、<「委奴国の部族神・綿津見神の本貫地と、卑弥呼の本貫地」が、同じ志賀島であるという説があるという。つまり両者は、同じ綿津見神を奉戴する同じ氏族集団発祥の地の部族の同じ出身であり、卑弥呼は委奴国の王族であるという説だ。

となると、後漢の光武帝からの下賜された「金印」の所有者の部族神は、綿津見神であり、そのために「金印埋納場所」の場所が、部族の聖地であった志賀島に選ばれたのではないかということだ。

これが、志賀島で「金印」が出土した「謎解きの新説」になるかも知れないと、考古学専門家は言っていた>と、友人は語っていた。

ご承知のように、2世紀後半に卑弥呼が委国の乱を収めて初代王になったことは、はっきりしているが邪馬台国の存在は九州説と近畿説に分かれている。

しかし、「志賀島が卑弥呼の本貫地」だという新説を初めて知り、心が躍った。でも志賀島での「金印の出土謎」は、まだ続くだろう。

ところで6月のNHK番組で、卑弥呼が委国の乱を収めて初代王になり、中国との駆け引きに奔走したという面白い放送をしたが、知りたかった「金印と卑弥呼の繋がりの謎」には触れなかった。残念な想いが残った。

早く郷里福岡に出向き、「一辺2.3pの四角形、台部分の厚さ約9o、総高約22o、重さ108.7gの純金製(22金)」の「金印」にお目にかかいたい。少しでも肝腎の「謎」に迫りたいものだ。 (加筆再掲)

2014年05月27日

◆大阪俳人与謝蕪村の名を広めたい

毛馬 一三


NPO法人近畿フォーラム21(筆者主宰)の九期講座「蕪村顕彰俳句大学」が、月刊全国誌「俳句界」の「兜カ學の森」と共催して、平成26年9月21日(日)午後1時から「蕪村顕彰全国俳句大会」を開催する。

会場は、蕪村生誕地に由緒ある毛馬近郊の大阪市立「淀川小学校」で開催。「大阪・毛馬の蕪村俳句の文化を振興継承する為」、前回7期に続いて、現在全国から俳句作品の応募を求めている。

前回7期の「蕪村顕彰全国俳句大会」には、全国から1060句が応募された。

この応募句には著名な選考者から選考して頂き、大阪府知事賞・大阪市長賞・蕪村顕彰俳句大学学長賞、文學の森賞をそれぞれ1名づつ授与した。

今回の9期「蕪村顕彰全国俳句大会」応募の締め切りは、7月31日となっており、優秀作品に新たに「公益法人関西・大阪21世紀協会理事長賞」を加え,5賞を授与する。

ところで、「蕪村顕彰全国俳句大会」を開催することになったのは、江戸時代の三大俳人の内、松尾芭蕉と小林一茶の生誕地は、江戸時代当時から知れ渡っているが、与謝蕪村の生誕地だけが、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だと、残念ながら知る人は少ない。蕪村を顕彰し、生誕地を広めることが主目的である

さて、蕪村の生誕地がなかなか分からず、やっと「定説」になったのは、戦後直後の事だったそうだ。この事を教えてくれたのは、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授であった。

奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったという。藤田教授の話によると、下記のようなことだった。

<蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍の舞台だった江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという「記録」すら残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、誰もいなかったのではないかという。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。ただ残念なことにその舞台となる淀川毛馬馬堤近が、肝腎の自分の「生誕地」だとは、「春風馬堤曲」には一切触れていない。

しかし、その後願ってもないことが起きた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた「書簡」の添え書きの中に、自分の生誕地が「毛馬村」だと、下記のように初めて綴ったのだ。これが生誕地解明の歴史的契機となった。

<<「春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。>>

それなら、これが物証となって、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かったのだろうが、そうならなかったのには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村真筆なのか判定出来ず、結局「蕪村生誕地複数説」を加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態が続いていたのだ。

ところが、終戦直後、奈良県で終戦直後偶然見つかった、先述の弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」が、やっと「蕪村直筆」だと「認定」されたのである。

これによって「毛馬生誕地」説が確定した。終戦直後の認定だから、遅きに失したと言わざるを得ない。しかしこれは「蕪村生誕地複数説」を破棄し、毛馬村を生誕地とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになる。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述に淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

以後、生誕地が毛馬村であることを不動のものになった。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村真筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも無かったことになるだろう。>

こうして、蕪村が大阪生誕俳人と称されるようになってから、七十余年しか経たない。

そのため蕪村は、芭蕉や一茶とは異なり、江戸時代以来、生誕地大阪で「蕪村生誕顕彰」が疎かにされ、これこそが生誕地を知る人が少なかったことに繋がってしまい、誠に慙愧に絶えない。

実は、与謝蕪村の生誕地毛馬村の庄屋(?)の家屋は、明治29年に明治政府の「淀川改修工事」で、国の河川淀川の川底に埋没させられ、今でも何処に生誕地の生家があたったかも判らない。

現在、毛馬の淀川堤防に「蕪村生誕地碑」があるが、この碑の場所が生誕地ではなく、その碑の眼下に流れる「淀川川底の何処かの場所」が生誕地ということになる。

このために、今でも地元大阪ですら「蕪村生誕地が毛馬村」であることを知らない市民は多い。次世代を担う児童生徒の教科書にも掲載されていないことを考えると、生誕地のことを知らない人が多いことはことも当然のことだろう。

だから、われわれ講座「蕪村顕彰俳句大学」では、文學の森と共催して、2年後の2016年に「蕪村生誕300年祭」を開催し、蕪村生誕地高揚と後世への伝承、そして国際化への発信を大々的に進めたいと考えている。

序でながら、筆者は藤田教授に下記の質問をした。

「蕪村は、淀川を下って源八橋から船を降り、浪速の弟子の下に吟行の往き来きしていましたが、「春風馬堤曲」に記述しているように、それほど生誕地の毛馬に望郷の念があったのであれば、源八橋の極く近郊にあった毛馬村生家に立ち寄ってはいないのは、何故なのでしょうか?その学説はありませんか?」

藤田教授の答えは次のようだった。
<それを証明する「学説」はありませんね。恐らく立ち寄ってはいないでしょう。蕪村が心秘めた深い望郷にも拘わらず、立ち寄ら無かったのは、それ超える幼少の頃の特別な事情があったのでしょう>
ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったのに、立ち寄りたくない強烈な想いがあったのだろうという推察が浮上してくる。

恐らく奉公人だった母と実家の父が亡くなってから、私生児だった蕪村は、実家も引き付けず、家人たちからも極めつけの「いじめ」を受けたのだろう。そのために十七・八歳で家を家を出ざるを得なかったのではないか。否、嫌気がさして決意して飛び出したのだろう。

そのことが「ひと一倍の望郷の念はあっても、いじめ抜かれた生家には生涯立ち寄りたくなかった」のではないだろうか。

最後になりましたが、どうか、2年後の「蕪村生誕300年祭記念行事」に、是非共 皆様のご賛同とご支援を伏してお願い申し上げます。(了)

◆「蕪村顕彰俳句大学」ホームページアドレス
http://www.buson-kensho-u.com/


2014年05月26日

◆懐かしい博多弁

毛馬 一三


恒例の「俳句講座」を終え、盟友5人が帰り道、いつもの喫茶店で集い、コーヒーを飲みながらいろいろ雑談を交わした。

そんな時、盟友の渡邉征一郎君が、福岡から持ち帰ってきた「博多かるた」を披露した。高さ17p、幅12p、厚さ3pの箱入りの新「かるた」<博多を語る会編・西日本新聞社刊>で、ユウモラスな絵と面白い筆書きが惹きつけた。

「かるた」には、「博多の行事・祭事・博多弁」が、「いろは順」で構成されている。熟視するほど、懐かしい「博多情景」が飛び出してくる。盟友全員が九州の福岡高校出身だけに、この異色「かるた」を凝視した。

私を除けば、全員が博多っ子。たまに帰省することはあっても、郷里を離れて4〜50余年経つため、「博多弁」はすっかり忘れているそうだ。そのため、少しでも記憶を呼び戻そうと気持ちを昂ぶらせていた。

良かったことは、同「かるた」に、解説書が付いていたことだ。解説を読めば、「札」の文意がわかるようになっている。そこで「かるたの博多弁」思い出して、「この通りやな」と頭を掻きながら大阪弁で呟く仲間もいた。

ところが、解説書を読んでも、何のことか分からない「博多弁」が幾つもあった。一例上げると、「そ」の札。「そおついて わかる博多のよかところ」と書いてある。「そおついて」って何?皆、「そおついて」に首を傾げる。

<古代から大陸との文化交流の地だった博多には、いたるところに名所旧跡、歴史の地がある。ゆっくり町を「そおついて」(歩いて)回ると、路地裏のようなところにも、隠れた歴史を発見できる>と解説書には書いてある。

なるほど、そんな意味の「博多弁」もあったのか。

渡邉君が「かるた」を持ち込んだことで、久しぶりに「博多弁や博多行事等」が話題となって楽しいひと時を過ごせた。しかし肝腎の郷里「博多弁」をすっかり忘れて仕舞っていたことに、苦笑いする仲間もいた。


実は、私の故郷は久留米で、博多弁と久留米弁とはまるきり違う。越境入学で福岡高校に入ったが、博多弁が分からず、授業や仲間つくりにも苦労した。でも3年間経つ内に、何とか博多弁に馴染み、情緒も分かるようになった。

私にとって博多弁は第2の故郷弁だ。なのに、生まれ育った純粋の博多っ子の仲間が、懐かしい「博多弁」を咄嗟に思い出せないとは、時節の経過が災いする忘却の仕業なのだろうか。

そこで、懐かしい「博多弁」を、改めて頭の中に蘇らせみた。<ウイキペディアを参考>

<名詞
•「かったりこうたい」…交互に。交代交替。
•「きさん」…貴様。
•「ど (ん) べ」…最下位。
•「こす」…こすいこと。
•「せこ」…せこいこと。
•「ちかちか」…チクチク
•「ごりょんさん」…主婦。

動詞
•「おっせこっせする」{サ行変格活用} …時間に追われてバタバタする。
•「くらす」 {サ行五段} …殴る。(「喰らわす」から)
•「くちのまめらん」{ラ行五段}…呂律が廻らない。
•「おらぶ」{バ行五段} …叫ぶ。
•「からう」{ワ行五段} …背負う。
•「きびる」{ラ行五段} … (紐などで) 縛る、束ねる。
•「こずむ」{マ行五段} …積み上げる。
•「ずんだれる」{ラ行下一段} …だらしない。
•「ぞろびく」{カ行五段} …引きずる。
•「たまがる」{ラ行五段} …びっくりする。
•「ねぶる」{ラ行五段} …舐める。
•「ねまる」{ラ行五段} …腐る。
•「のうならかす」{サ行五段} …なくす。
•「ねぶりかぶる」{ラ行五段} …うとうとする
•「腹かく」{カ行五段} …腹が立つ、苛立つ。
•「はわく」{カ行五段} …ほうき等で掃く。
•「ほがす」{サ行五段} …穴を開ける、穿孔する。
•「ほとびらかす」{サ行下二段} …ふやかす。
•「まどう」{ワ行五段} …弁償する。

形容詞・形容動詞・副詞・連体詞
•「しゃあしい (か) 」(語源は「せわし」)「じゃかしい (か) 」「せからしい (か) 」{形・シク} …うるさい、騒がしい。「そわそわすんな。しゃあしかぞ」[共通語訳]「そわそわすんな。気が散る。」
•「しょんない」{形・ク} …仕方ない。
•「しかたもない」{形・ク} …1. くだらない。どうでもいい。2. 期待して損する。
•「いっちょん」{副} … (否定語を伴って) 少しも。全然。
•「えずい」{形・ク} 怖い。
•「すいい」{形・ク} …酸っぱい。
•「そげな」{連体} … そんな。「そ」+「が」+「やうなる」
•「そげん」{副} … そんなに。そんなこと。そんなふうに。「そ」+「が」+「やうに」
•「どげな」{連体} … どんな。
•「どげん」{副} … どんなに。どう。どんなふうに。
•「なし」「なして」{副} …なぜ、どうして。
•「いたらん」{連体} …余計な。多くは「いたらんこと (するな / 言うな) 」の形で使用される。
•「なんかなし」{副} …とにかく。「なんかなし、電子辞書ば使わんで紙の辞書ば使うて見れ」>。

まだまだ懐かしい「博多弁」は沢山ある。どうか博多から離れてお暮しの方が、博多で過ごされた時のことをこの「博多弁」から思い出して頂ければ幸いだ。(了)   


2014年05月17日

◆芭蕉随行の「曾良」とは

毛馬 一三


もともと、松尾芭蕉の「終焉の地」が大阪・南御堂向かいにあった花屋仁左衛門の離れ座敷であったことや、辞世の句といわれる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が、この座敷の病の床で亡くなる4日前に詠んだものであることを、先般綴った。

芭蕉自身は、大阪で死ぬなどとは夢想だに思わず、早く床払いをして次の旅先長崎に向けて立ちたいたいとの気持であったと、様々な文献に記されている。

だが、思いもよらず病(食中毒と思われる)は悪化、意に反して終焉を迎えるのだが、見守る弟子たちの顔を眺めながら「死」が迫るのを悟ると、幸せな生涯だったと瞑目して、逍遥と死の旅に立ったといわれている。
この芭蕉に関して、「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏が貴重なご意見を頂いた。

<芭蕉記念館は、深川にある。徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。江戸の発展とともに新たな市街地、農地が必要となり、土地の開発が始まった。大阪からきていた深川八郎右衛門が新田を開発、慶長元年(1573年)深川村と称したのが始まり。

江戸の下町と言えばなんと言っても深川。出発地は都営新宿線森下駅。駅を出て新大橋通りを浜町方面に5分ほど歩いていくと隅田川にかかる橋が見えてくる。これがこの通りの名前になっている新大橋。橋の手前の十字路を左に曲がりしばらく歩いていくと最初の目的地「芭蕉記念館」がある。

芭蕉は延宝8年(1680年)江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ。元禄2年(1689年)3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる奥の細道。岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅。

「芭蕉記念館」には 当時、芭蕉が着ていた袈裟を初め、芭蕉庵を模したほこら、句碑 などがある。記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり。川沿いの道を左に少し歩いていくと史跡庭園があり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。 以前来日した李トウキ前台湾総統もご覧になって行った>。
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上記のご意見を読ませて貰った時、芭蕉に纏わる新たな衝撃が脳裏を駆け巡った。
それは、<徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。(そんな未開発の深川だったが、その深川から)元禄2年3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。(略)岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅>というくだりである。

江戸から東北、北陸地方を150日間で踏破した2400キロ(600里)の道程を踏破したと言うが、とんでもない距離だ。単純に計算しても、毎日16キロを歩いたことになる。だが当時の旅路は、そんな生易しいものではなかった筈だ。

江戸時代元禄期といっても、 江戸から東北、北陸地方には、のんびり歩き通せる平坦な道が整っていた筈はない。ほとんどが山道・峠道であり、山を越えて行く方法しかなかった。

筆者も以前、福井の江戸時代前からの「鯖街道」を歩いたことある。山道の勾配は天地の差ほどの高低を繰り返し上り下りし、僻々とした記憶がある。山道もない場所は絶壁を横切るしかない。ましてや橋はほとんどなかった。大雨で河が氾濫、足止めを食うことも日常茶飯事だったろう。

ところが、「奥の細道」によると、2人は何と1日に48キロ(12里)を 歩いた日があったという。幾ら昔の人が健脚だったとはいえ、老齢の域の芭蕉(46)と、同行者曾良(41)が、そんな長距離を1日で踏破できたと考えるのは無理な話だ。

つまり芭蕉は、こうした異常な歩き方の速さや、伊賀の上野の生まれであることから「忍者」ではなかったかと論じられてきた。それはまた別の機会に譲るとして、ここで気になるのは、むしろ芭蕉の弟子として名を売り、旅の同伴者であった「曾良」の方だ。

「曾良」のことは、純朴な芭蕉のお供だという印象が強くて、「忍者説」はあまり知られていない。

ところが調べてみると、こんな具合だ。
<曾良は、幕府とのつながりが緊密で、当時日光工事普請を巡ってあった伊達藩と日光奉行の対立を探るための調査を、幕府から曾良に命じられたとされている。その目的と行動を隠すため、芭蕉の歌枕の旅を巧みに利用したというのが、芭蕉研究専門家では語られている。

曾良は、さらに社寺や港の荷役の動きを調べる任務も担っていたようで、北前舟が立ち寄る日本海沿岸の酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀の各港の貿易状況を丹念に探索して回っている痕跡も分かっている。

その任務行動が、なんと芭蕉の旅の日程と、見事に重なることから、この説には真実性が浮かび上がってくる。きっと幕府からの潤沢支度金を、俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の収入を、困窮していた芭蕉に手渡して、「曾良」の任務を果たしたという説もある>。

こう見てくると、「曾良」という旅の同伴者は、実は巧に芭蕉を取り入って芭蕉の弟子を装い、幕府隠密の任務を隠密裡に遂行していた“忍者”だったという説が、ますます真実味を帯びてくる。
芭蕉の死後、「曾良」は芭蕉の追慕行脚は行わず、すぐに幕府から巡見使九州班員に就任させられている。

芭蕉の終焉の時、曾良の姿はその場になかった。しかも何だか分からない「公務」を理由に、恩師の葬儀にも参列していない。やはり芭蕉に心酔して傍に連れ添った弟子ではなかったのだ。葬儀の場に来る人々の目を避けるため姿を消したのだろう。
正に曾良は、幕府から密命を受けて全国各地を調べて廻るために、芭蕉ににじり寄って随行した「忍者」だったことに間違いはない。
  参考・ウィキぺディア  (一部加筆して再掲)
           

2014年05月08日

◆「がめ煮」の郷愁おもてなし

毛馬 一三


随分前に友人に大阪梅田のビルの地階の古い暖簾の「小料理屋」を紹介されたが、再びその「店」に行った。

店は、老主人が黙々と「料理」に専念し、老婦人が注文受けとお酒の配膳役を務める「こじんまり」とした小料理屋だ。壁に掛けられた「おつまみ品」には目を向けず、すぐに、以前に来た時食した「がめ煮」をすぐ注文した。

「がめ煮」は、私の出身の福岡筑後久留米の郷土料理の呼称だ。この名前で出される店は、大阪には無い。

そう言えばこの「がめ煮」は、筑後地方以外では「筑前煮」と呼ばれている。本当は「がめ煮」と「筑前煮」とは具材と味が違い、「がめ煮」の方が食の玄人向きだと、私は今でも思っている。

早速箸をつけて味わってみたが、本物の味と全く変わらない。九州出ではない主人にしては、出来すぎの料理だ。

さて、その「がめ煮」のことだが、久留米から離れた「博多」では、「がめくり込む」(「寄せ集める」などの意)と云い、その名前が名前の由来で「筑前煮」だと呼ぶ。

ところが、太閤秀吉が朝鮮半島を攻めた文禄の役の時に、朝鮮に出兵した兵士が、当時「どぶ亀」と呼ばれていたスッポンと食材と合わせた煮込の料理方法を、我が国に持ち帰って作ったのが始まりだとの説がある。

そのスッポンを使って煮込んだ「どぶ亀」をそのまま筑後地方で「がめ煮」という名で作り始めたと伝えられたと云われているから、「がめ煮」の名の方が筑後地方が先で、博多の「筑前煮」の名称の方が、後釜という説が強い。

ところがいつ頃からかは分からないが、「がめ煮」にスッポンは使わず、代わって「鶏肉」をいれるようになった。この作り方も、筑後地方の方が先に手を付け、郷土料理にしたと言われている。

子供の頃、「がめ煮」が食前に出る時は、お正月や婚礼式などの祝い事の時だった。しかも「がめ煮」は、お正月等の慶事の時の食べ物だったという記憶が蘇ってくる。

さて、作り方だが、

<本場筑後「がめ煮」と「筑前煮」との一番の違いは、具材を炒めて入れる手順にあるという。まずはだし汁、シイタケの戻し汁、酒、醤油、みりん、砂糖を混ぜて鍋で煮立たせるのから始まる。そこに、一口大に切った鶏肉を入れてひと煮立ちさせる。

そこまでの手順は一緒だが、その後、「筑前煮」は、里芋、干し椎茸を戻したもの、コンニャク、アクを抜いたゴボウ、レンコン、ニンジン、ナスで筍を一口大に切ったものなどを入れる。

「がめ煮」は、コンニャク、里芋、大根、ニンジンを入れ、鶏肉をじっくり煮込ませるやり方で、甘みを時間を掛けて滲ませるのが独特のやり方だ。

この点が「がめ煮」と「筑前煮」が違うところだ。野菜が柔らかくなるまで煮れば、出来上がり。煮あがったところに「筑前煮」の場合は、サヤエンドウを加えることもある。>

聞くところによると、久留米市は「久留米市食料・農業・農村基本計画」を作り、伝統の「がめ煮」の美味しさを広めて行く市政段取りを今でも進めているという。

「がめ煮」を郷土料理の誇りにしている。きっと「がめ煮」を筑後の「おもてなし」として後世に残したいためだろう。

郷里久留米の姉の家に寄ると、姉が昔ながらの見事な味の「がめ煮」を作ってくれる。「がめ煮」舌触りに接するだけで、子供の頃の郷愁が込み上げて来て感動するばかりだ。

今回「小料理屋」で食した「がめ煮」の味も、改めて郷愁を誘ってくれた。「がめ煮」だ
郷愁を誘う味は底が深い。(了)

参考 フリー百科事典ウィキペディア