2016年06月12日

◆望郷の念に浸っていた与謝蕪村

毛馬 一三



江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれている。

ところが、その生誕地が大阪毛馬村だと余り周知されていない。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、母親が若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。

蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも師事として俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。

蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、生誕地毛馬村をすり抜けて、頻繁に大阪にやって来ていた。

京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だった。ここから上がって大阪市内に居る数多くの門人弟子らを訪ねて回っている。

また蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねたり、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪市内いたる所を巡回している   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされている。だが実際は、大阪も上記の通り活躍の場だったのだ。これもあまり知られていない。

船着き場の源八橋から生誕地の毛馬まで歩こうとすれば、30分ほどしかかからない。それなのに蕪村は、生涯毛馬には一歩も足を踏み入れなかった。

やはり母の死後、家人から苛められ過ぎ、出家まで決意させられた辛い思いが、大坂に帰郷すれば脳裏を支配し、終生「怨念化」して立ち寄りを阻んだのだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎるものだったと思える。

とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いない。

自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。

蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。

筆者が主宰するNPO法人近畿ホーラム21主催の「蕪村顕彰俳句大学」では、大阪市立大学と共同し2016年の今年から「蕪村生誕300年祭行事」開催を進めている。
淀川神社、地元淀川連合町会や蕪村通り商店街、地元俳句愛好家とも、共同事業に参加して頂く。

「芭蕉・一茶」の生誕地では、生誕祭を含め様々な記念事業を行っている。しかし大阪では、大阪俳人蕪村生誕を顕彰する「お祭り」の過去実績は全くない。何としてでも「蕪村生誕300年祭」を成功させ、大阪俳人与謝蕪村の名を国内外に広めたいと考えている。

大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村を、「蕪村生誕300年祭」開催の時には、「蕪村魂」だけでも来場して貰いたいと思っている。「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を実現させることが、筆者の人生最後の願いでもある。(了)

2016年06月08日

◆蕪村生誕地を証明した「一通の書簡」

毛馬 一三



松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸時代の俳人与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だということは、江戸時代当時から知れ渡っていると思っていた。

仮にそうでなくとも、明治時代になって、蕪村俳句を初めて評価し世に紹介した正岡子規が、毛馬生誕地は把握し、世に広めていたに違いないと思い込んでいた。

ところが、事実は全くそうではないことが明らかになり、驚かされた。

それの事を知らされたのは、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授と、懇談した時であった。

結論から先にいうと、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は終戦直後のことだということだった。奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったというのである。

藤田教授の話によると、次のようなことだった。

(蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍していた江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという明確な「記録」は残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、いなかったのではないかというのだ。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。が、残念なことにその舞台となる馬堤近くが自分の「生誕地」だとは一切触れていない。

想像してもこの書き方では、「生誕地を毛馬村」と結びつけることは出来ない。

しかし、その後願ってもないことが起きていた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中で、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと綴っている。

春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それなら、これが物証となって、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かったのだろうが、そうならなかったのには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村直筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地複数説」を加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態だった。

しかし、前記の如く、奈良県で終戦直後偶然見つかった弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」が、「蕪村直筆」だと、公式に「認定」されたため、「毛馬生誕地」説が確定した。終戦直後の認定だから、遅きに失したと言わざるを得ないが、これは「蕪村生誕地複数説」を破棄し、毛馬村を生誕地とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになる。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

以後、生誕地が毛馬村であることを不動のものになったことになる。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村直筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも無かったことになるだろう。)

こうして、蕪村が大阪生誕の俳人と称されるようになってから七十余年しか経たない。そのため蕪村は、芭蕉や一茶とは異なり、江戸時代以来、生誕地大阪で「蕪村生誕顕彰」が疎かにされてきたことに繋がってきており、誠に慙愧に絶えない。

このために、今ですら地元大阪で「蕪村生誕地が毛馬村」であることを知らない市民は多い。次世代を担う児童生徒の学習の俎上にすら上がっていないことを考えると、児童生徒が生誕地のことを知らないことも当然のことだろう。残念で仕方がない。

だから、われわれ「蕪村顕彰俳句大学」では、今年の蕪村生誕三百年に合わせて、「三百年記念諸行事」を開催し、俳句文化活性と後世への伝承、そして国際化への発信を大々的に進めている。

余談ながら藤田教授との懇談の中で、更に驚いたことがあったことを記して置きたい。

「蕪村は淀川を下って源八橋から船を降りて浪速の弟子のもとに往き来きしていたようですが、それほど郷愁があったのなら、極く近郊にあった毛馬村の生家に立ち寄るのが自然だと思うのです。その痕跡はありませんか」

答えは「それを証明する歴史書類はありません。立ち寄ったか否かどうかも、わかりませんね」ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったとしても、生誕地へ何らかの理由で寄りたくない気持ちがあったのだろうという推察が浮上してくる。

恐らく奉公人だった母と実家の父が亡くなってから、家人たちによる極めつけの「いじめ」があり、そのために十七・八歳で家を出ざるを得なかったのではないか。そのことが「生家には生涯立ち寄らなかったこと」に結びついているのではないだろうか。これはあくまで私の推論である。

最後になりましたが、どうか、私たち主催の「蕪村生誕三百年記念諸行事」の開催に、是非共皆様のご賛同とご支援を伏してお願い申し上げます。(了)

2016年06月05日

◆驚く愛犬の習性

毛馬 一三



「犬は飼い主の足音を聞き分けている」という新聞の特集記事を読んだ。

これは、京都大の比較認知科学グループが様々な種類の犬を使った実験で、この通説を確かめたものだという。犬は飼い主の微妙な癖を覚え、聞き分けているのではないかというのだ。

<京大では、チワワやポメラニアン、ミックス(雑種)など様々な犬種の計21頭を、ドアや窓を閉め切ったマンションの一室に犬だけを入れて実験をした。

知らない人に部屋の外を2往復してもらい足音を聞かせた後、(1)その人が入ってくる(2)飼い主が入ってくる、逆に飼い主の足音を聞かせ、(3)飼い主が入ってくる(4)知らない人が入ってくる―の4パターンの実験。

入ってきた人を犬が見つめる時間を比較した結果、知らない人の足音を聞かせた後、飼い主が入ってきた時〈(2)〉は、知らない人が入ってきた時〈(1)〉より見つめる時間が平均で約2割長かった。

犬は期待と反する現象が起きると、驚いてその対象を見つめる。(2)では足音を聞き分け「飼い主ではない」と思ったのに、現れたのは飼い主だったので驚いたとみられる。

京大比較認知科学グループによると、「飼い犬は、飼い主の歩き方のリズムや左右のちょっとしたアンバランスなどの癖を知っているのではないか」とみている>という。
この実験結果には、愛犬飼い主としておおいに納得できる内容だ。

我が家の愛犬は、12歳のテリア系の小型犬ノーフォークテリア。私や家内が外出先から帰ってくると、足音や歩き方のリズムなどで聞き分け、ドアを開けると「帰宅歓迎」の声を上げながら飛びついてくる。マンションの外側から僅か3段の階段を上がっただけの「足音」で、わたし達の帰宅を識別するのだろう。

ところが、セールスなどの来訪者の足音が近づくと、むっくり起き上がって「警戒心」剥き出しに大声を張り上げ、玄関に向かって走っていく。犬が、未知の来訪者の足音に異常なほど敏感に反応する習性があるのは、飼い主ならどなたもご存知の筈だ。

この習性が、マンションでの空き巣等の犯罪防止に大きな効果をあげていると、団地内に住んでいる大手ビル管理会社の役員から聞かされ、愛犬の習性に改めて感謝した。

ところがその「足音識別の習性」より、まだ優れた修正に驚かされることがある。

というのは、我が家の愛犬ノーフォークテリアは、私たちがさりげなく交わす電話の会話中に、「これからお出でなさい」というやり取りをすると、それをしっかり感知する習性がある。そうすると、すぐさま玄関ドアの前にじっと座り込んで、来訪者が来るまで「待機」する。

単に「いらっしゃい」とか「お出でになりますか」程度の短いフレーズを正確に聞き分け、しかもその来訪者が、愛犬も熟知している、親しい知人だと判断するのだろうか。その「聞き分け名人芸」には舌を巻かざるを得ない。

来訪者が玄関に現れると、愛犬はピンピン飛び付いて喜びを思い切り表す。私たちが「いらっしゃいませ」と発する前に、愛犬の行動を宥めるのが先の段取りとなる。

訪問者も愛犬の歓迎におおいに喜び、雰囲気が一気に盛り上がる。訪問者を招き入れる私たちも、これに越したことはない。愛犬は、歓迎の飛び跳ねを終えると、次は先頭にたって来訪者を居間へと案内する。

愛犬の賢さは筆舌に尽くし難いが、電話のやり取りから次への行動を起こすということは、人間の言葉がわかっているというだけではなく、愛犬の歓迎に人間の喜びまではっきりと熟知しているということになる。

こうした賢い「習性」が日常的にいろいろな面で顕になると、家族以上の愛情が湧いてくるものだ。またその愛情をしっかり受け止め、それを待ち望んでいるだけに、愛犬は、実に「賢い」という言葉しか思い浮かばない。(了)


2016年06月04日

◆激腰痛で、歩けない

毛馬 一三



激腰痛等に悩まされ出して3年2か月が経つ。歩行が100b位しか出来ず道路で座り込んで仕舞う。バス・地下鉄には立ったまま乗車はできない。ましてや、地下鉄の階段は手すり棒にすがって上り降りをするが、激痛みに襲われている。

家でも、椅子に座ってパソコンに向かい合うのも、30分とはもたない。どうしてこんな腰痛に絡む激痛が起こったのだろうか。昼間、やむを得ない所要で外出先から帰宅すると、激痛のため、布団に寝転ぶしかない。

腰痛といえば、6年前に脊髄部の「すべり症」に見舞われ、下半身が痺れて倒れる症状が起き、大阪厚生年金病院で手術をした。手術は成功し、「すべり症」からは完全回復したので、以後腰痛には何の懸念も抱いていなかった。

ところが、冒頭記述のように、突然3年2か月前から、激腰痛が始まったのだ。そこで、今毎日、整形外科診療所に通って診察とリハビリを受けている。リハビリを受ければ次第に回復すると思っているが、中々痛みが減らない。

整形外科診療医院での診察で、まずレントゲンを撮影し、「すべり症手術の後遺症」の障害有無を調べてもらったが、それは無しとの診断だった。

しかし、痛みは、腰だけでなく、時間が経過するにつれて、右足の臀部、右下肢ふくらはぎに広がり、3か月前からは左右の腕筋肉にまで痛みが出だした。

腰痛だけでなく、右足・下肢の筋肉に痛みが広がり出したため、改めて診療所の院長に「病名」を質した。すると「仙腸関節炎」だと伝えられた。ではこの痛みの原因は何であるかを尋ねた処、「分からないです」との回答。

一体「仙腸関節炎」とは何か。日本仙腸関節研究会によると下記の様の記述されている。

<仙腸関節は、骨盤の骨である仙骨と腸骨の間にある関節であり、周囲の靭帯により強固に連結されている。仙腸関節は脊椎の根元に位置し、画像検査ではほとんど判らない程度の3〜5mmのわずかな動きを有している。

仙腸関節障害は決して稀ではない。仙腸関節障害で訴えられる“腰痛”の部位は、仙腸関節を中心とした痛みが一般的だが、臀部、鼠径部、下肢などにも痛みを生じることがある。

仙腸関節の捻じれが解除されないまま続くと慢性腰痛の原因にもなる。長い時間椅子に座れない、仰向けに寝れない、痛いほうを下にして寝れない、という症状が特徴的。

腰臀部、下肢の症状は、腰椎の病気(腰部脊柱管狭窄症・ようぶせきちゅうかんきょうさくしょう や 腰椎椎間板ヘルニア・ようついついかんばん など)による神経症状と似ているので、注意が必要。
また、腰椎と仙腸関節は近くにあり、関連しているので、腰椎の病気に合併することもあり得る。>

上記説明で、筆者の「仙腸関節炎」の症状や痛み箇所が一致し、神経症状と似ているとの指摘があったことからも、院長の病名診断に納得出来た。

しかし肝腎の「仙腸関節炎」の原因が何処から発生しているのかが分からないのでは、不安が増幅する。

どうすればこの激腰痛から脱出できるのだろうか。整形外科の分野で、「腰痛」の原因は、総じて分からないことが多いという説もある。

当診療医院で、1週間に1度、痛み止め注射(トリガーポイント注射、ノイロトロピン注射、ジプカルソー注射)を打ってもらい、1日3回・薬剤ザルトプロフェン錠80mgを飲んでいる。痛みの各局部には湿布も貼る。

また頼らざるを得ないのは、毎日の主軸治療の「リハビリ」だ。柔道整復師による局部マッサージのあと、ホットパック(タオルによる温め)、干渉波(電気)、腰の牽引の物理療法の4リハビリを40分間行っている。しかし局部の痛み緩和には余り効果はない。

「仙腸関節炎」の原因が分からない以上、対象療法しかないのは事実だ。だとすれば、歩けない、立てない、座れないのが強度になっていくばかりなので、日常寝たきりしかない。

こんな中、私が関与している重大な式典が9月22日開催される。当日も自宅で「寝たきり状態」で、事態の推移と緊急相談に携帯電話の連絡で対応するしかない。式典が無事完了したら、「入院して手術」を受けることにしている(了)

2016年06月03日

◆大阪を行脚していた与謝蕪村

毛馬 一三



江戸時代中期の大阪俳人で画家である与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれている。生誕地が大阪毛馬村と余り周知されていない事実のことは本誌で既に触れている。

しかし、蕪村が俳人として大阪の中心部を活躍の舞台にしていたことには触れていない。むしろそれに気づかなかったのが本当のところだ。それはこれから追々。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸に下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な郷愁は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

おそらく、京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲からも過酷ないじめに遭わされたことなどから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。

しかも蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だ。だが、どうしてこんな超有名な俳人に師事し俳諧を学ぶことができたのか、田舎の毛馬村と江戸との結びつきや、師匠との今謂うコネがどうして出来たのか、ミステリーだらけだ。この時蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。


<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、頻繁に大阪にやって来ていたことが、最近分かってきた。船から陸地に上がったのは、生誕地毛馬村とは全く正反対西側の淀屋橋や源八橋からで、ここから大阪市内にある数多くの門人らを訪ねて回っている。

蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ね、大阪の蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回っている。大阪市内の各地を回ったことになる   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

早い話、蕪村にとり大阪は活躍の場だった訳だ。これもあまり知られていない。

こんな折、驚く情報と嬉しい要請が飛び込んできた。

大阪市北区梅田に茶屋町がある。ところがここに「菜の花や月は東に日は西に」の蕪村句を刻んだ高さ1m、幅50cmの碑があるのを初めて目撃した。この地では一昨年から地域の有志が「菜の花」を植え、「菜の花の散歩道」というまち起こしイベントを催している。

この句を、この茶屋町で蕪村が出句したかどうかはわからないが、北区茶屋町のこの周辺に蕪村が立ち寄っていたことは事実なので、これに因んでイベントを企画したという。しかも嬉しい要請とは、このイベントに私が主宰するNPO法人近畿ホーラム21の俳句つくり講座「句会」を催して欲しいとの要請が来たことだった。


この4月からは、NPO法人近畿ホーラム21の俳句つくり講座「句会」は、第13期講座を開講している。

大阪を行脚して回り俳人としての名を高めた与謝蕪村の俳句を、出来れば外国にも広めて行くことを、各大学と共同して進めたいとも考えている。(了) 2011.03.01

2016年06月02日

◆大阪は本当に「日本最貧!?」か?

 
毛馬 一三



大阪の経済は、米ニューヨーク.タイムスが<意気消沈するニッポン>と題した特集記事を載せたのを思い出した。

特集記事によれば、<(あれほどリッチだった日本が)これほど急激に経済が逆転してしまった国は世界でも珍しい>と、日本経済の有り様を指摘していた。

その上で、何と<そんな凋落ニッポンの“象徴”が「大阪」なのだと書き立てている>のだ。

しかも、<誇り高き商都・大阪では、商人たちが極端な行動に走り始めている。街には10円で缶入りドリンクを売る自販機が並び、レストランに行けば50円でビールが飲める>と書き、<日本のデフレスパイラルを激化させるだけだ>と切り捨てている。

この論評に「週刊新潮は」、<まるで大阪がデフレで今にも沈没しそうといわんばかり」だと補足し、日本のことになると嫌がらせみたいな記事ばかり載せるNYタイムスの記事だから、多少割引いて読むべきだと示唆している。

ここまで商都大阪をコケにされていいのか。

たしかにあれほど賑わっていた歓楽街・北新地の閑散ぶりは目に余るものがあり、今では土曜日に営業している店はほとんど無く、居るのは人待ちタクシーばかりだ。とわ言え、この閑散ぶりが大阪低迷の総てを語るものではなかろう。

街歩きが好きな大阪の知人数人に聞いてみても、10円の自販機など北と南の繁華街で見たことは無く、ましてや50円ビール看板に出会ったことはないという。早い話、NYタイムスの記事は、ゴミ箱をほじくった類の記事だと見下す。

NYタイムスは、大阪商人の商売根性を知らないようだ。どうやら浪速商魂とデフレ化とを混同しているとしか思えない。

驚くような「値下げ」して商売するのは、決して商買破綻の表れではない。ましてやデフレの象徴でもない。

「労せずしてカネ儲けは出来ない!」ことを家訓とする商家では、大根1本でも鮮度に合わせだんだんと値下げをしながら、その日に売り捌き、元を取ってしまえば、残りはタダにする。これが次に繋がると考えるのが浪速商法だ。

「常に人のせんことをしなはれ」と真似らない知恵を出せ。万一真似られても「古井戸と知恵は枯れぬ」の例え通り、汲めば汲むほど湧き出るものだ。
<あきない夜話・和田亮介著>

つまり、浪速商法を「永続」したいと思えば、「利を取るより(信用)をとれ」と戒め、買い手を楽しませ、買い手側に喜ばれる方法で商売を乗り切れとの定法を取ってきたのだ。

NYタイムスが載せた大阪・千林商店街では、第3回の「100円商店街」を開催した。食料品・衣類・雑貨アクセサリーなど153店舗が100円均一の品揃えをして販売したので見学に行って見たが、予想を越える賑わいだった。

タイムスが載せた<結果は、皆を落胆させるばかりだった>との記事は、とても想像できないことだった。

いずれにしても、「安い値段」が「商都大阪のデフレ」を見せつけ、「凋落ニッポンを象徴している」という見方は、皮相的であり、真実を伝えていない。

集客を拡大して将来の浪速商法を発展させるために、長期視野にたった「知恵」を絞って商いをしている実像を、NYタイムスはよく見極めて欲しいものだ。(了)                 再掲                   




                        

2016年05月31日

◆この秋蕪村公園で、初の「蕪村祭」を実施

毛馬 一三
 


与謝蕪村は、松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸俳諧を代表する俳人だが、その蕪村の生誕地がどこかということになると、あまりご存じない人が多い。

蕪村は、紛れも無く大阪市都島区毛馬橋東詰(摂津東成郡毛馬村)で生誕している。それを顕彰する「蕪村記念碑」が、淀川毛馬閘門側の堤防に立っている。かの有名な蕪村の代表作・「春風や堤長うして家遠し」の句も、この記念碑に刻んである。

この他の顕彰物は、毛馬閘門内に「記念碑」がある。更にはそこからから流れる大川(旧淀川)を南へ500mほど下った所の橋の名だ「春風橋」で、蕪村直筆文字の「春風橋」が刻まれている。ところが、有名な蕪村でありながら、生誕地周辺で蕪村を顕彰する記念碑は、この3件しかなかった。ここに「蕪村公園」が誕生したのだ。このことは追々。

さて蕪村は、享保元年(1716)に毛馬村の裕福な農家(庄屋・問屋・宿屋)で生まれた。母親は奉公人で、謂わば庄屋主との間に生まれた子供で、家系を引き継げない「私生児」だった。

幼くして両親を失った不運が重なり、私生児扱いの蕪村は艱難辛苦重ね、結局生誕家には居られなくなった。このため、18歳〜20歳の頃、毛馬村を出奔、江戸に向かった。

途中京都で俳人早野巴人知り合い、俳諧の修行に勤しんだあと、早野巴人と江戸に行き、弟子となった。運命の出会いだったのだ。巴人師匠から俳諧を学び出したが、26歳の時、巴人師匠が没した。師匠死後、芭蕉への思いの強かった蕪村は、芭蕉の跡を慕って奧羽地方を放浪。その後、宝暦元年(1751)、京に移って俳諧に励む一方、南宋画家にも取り組み、池大雅と並ぶ名声を得ている。

京で68歳の生涯を閉じたが、終生大阪には何度も吟行に来たものの、故郷毛馬村には一歩も足を踏み入れていない。しかし生誕地への郷愁は人一倍強くて、「春風馬堤曲」を書き、「生誕地が毛馬であり、子供の頃楽しく遊んだこと想いながら綴ったものだ」と、弟子への手紙に記している。

このように大阪とは縁を絶ち切った蕪村だったから、いまだに大阪には蕪村に関する伝承文献が殆ど無ければ、生誕地に関する資料すら皆無だ。これ迄の長い間、大阪で「蕪村生誕祭」が開催出来ず、蕪村を顕彰する「資料館」すら、作ることにも想い付かなかった主理由だった。

しかし、10年頃前から都島区内を中心に、地元俳聖蕪村を大々的に顕彰しようという関係者の運動が活発になりだした。筆者も足並みを揃えて、大阪市長や助役らと協議しながら運動をおこなった。

こうした動きに応じて、大阪市が18年度から2年計画で、前述の「記念碑」と「春風橋」の中間にある市有地1.1hrの土地に、約2億5千万円をかけて「蕪村公園」を整備した。

同「蕪村公園」の整備には、当初、蕪村の俳句や絵を紹介する「東屋」を建てるほか、公園内に大きな広場、その周辺には蕪村の句の石碑や蕪村句に因んだ花木植栽をするよう要請した。

そうすれば大阪が蕪村生誕地であることが知れ渡り、蕪村への集客に繋がることによって、都島区名所に成る筈だと申し入れ続けた。しかし、蕪村公園のシンボルの「東屋」は、浮浪者の溜まり場となり、管理運営上難しいとの判断から、「同屋」の建設は見送られた。

序で乍ら、出来上がった同公園は、全国的に知られた大阪桜の名所・「毛馬桜の宮公園」の最北端に位置し、市の中心地中之島に通じる大川沿いの桜回廊の出発点に位置する。また学生レガッタ練習や「花見遊覧船」の折り返し地点となっており、近くには国の重要文化財「毛馬閘門」がある。

いまは公園植栽も進み、公園整備はしっかり進められ「桜回廊」と同じ華やかさを見せており、顕彰されている蕪村本人も満足ではないだろうか。

私が主宰するNPO法人近畿フォーラム21講座「蕪村顕彰俳句大学」は、受講生の「入賞作品プレート碑」を既に10基(2015年春現在)建立。「蕪村句」に登場する樹木の記念植栽を支援しており、2016年の秋には蕪村としては初めて、ここ蕪村公園で「蕪村生誕記念祭」を実施する。

是非、「蕪村公園」をご覧になり、「蕪村望郷の念」を察して頂きたい。(了)

2016年05月30日

◆蕪村生誕地はいま淀川の河底

毛馬 一三



生誕日は分かりませんが、与謝蕪村が生まれたのは江戸時代の享保元年の1716年で、300年前の今年です。その与謝蕪村生れ育った家は、一体何処に在ったのか、これも正確には知られておりません。

確かに、大阪毛馬の淀川堤防の上に「蕪村生誕地」と書いた「記念碑」が建立されてはいます。しかし「蕪村生誕し幼少を過ごした生家」は、ここではないのです。

実は「蕪村生家」は、この堤防から眼下に見える「淀川の川底」に在ったのです。なぜ淀川の川底にあったのか、これには実は明治政府の「淀川河川改修工事」に係っています。

徳川時代の淀川は、よく手入れが行われていましたが、明治維新後は中々施されていなかったのです。ところが、明治18年に淀川上流の枚方で大水害が起き、下流の大阪で大被害を受けたことをきっかけに、明治政府がやっと本格的淀川改修に乗り出しました。

その際明治政府は、改修工事に当り単なる災害防止ためだけではなく、大阪湾から大型蒸気船を京都伏見まで通わ航行による「経済効果」などの多目的工事に専念することを決めました。そのために淀川の河川周辺の陸地を埋め立て、それまでの小さな淀川を 大きな河川にする大改修を立案したのです。

これに伴い、旧淀川沿いにあった「蕪村生家」地域は、埋め立ての対象となり、すべて「河川改修工事」によって川底に埋められて仕舞いました。これについては追々。

さて、明治政府は関西の大型河川・淀川を大改修するため、オランダから招いた河川設計者・デ・レーケとフランス留学から帰国していた設計士沖野忠雄とを合わせ、「淀川大改修」の設計を依頼しました。(→リンク先の写真参照)。

明治政府の依頼を受けた2人は、「大改修工事」の設計を創り上げ、明治29年から工事を開始しました。

とにかくこの大型改修設計は、大阪湾に京都の宇治川や桂川、奈良からの木津川を中津川に合流させ、一気に淀川として大阪湾に繫ぐ、巨大な設計でした。そうすれば貨物蒸気船を大阪湾と京都を結んで航行させることが出来、逆に京都・枚方などで大水害が起きた場合でも大量の水量をさらりと、大阪湾に流すことが出来るのです。二本立ての「効果狙い設計」です。

勿論、上流の災害で流出してくる「土砂」が、大阪に被害を与えないような「毛馬閘門」設計も創りました。

これが淀川から大阪市内に分岐させる「毛馬閘門」の設計主旨だったのです。ここから分岐した河川は「大川」と名付けられ、「水害に伴う上流からの土砂」の回避は実現し、大阪の上流からの水害から今日まで護られているのです。

このように2人による設計書は、世界の河川工事技術水準に準じたもので、明治政府が施工した「河川大改修工事」としては全国的に見ても画期的なものでした。同工事は、明治43年に完成したのです。

ここから本題。この「河川大改修工事」によって、与謝蕪村が生まれ、幼少を過ごした大阪市都島区毛馬町(摂津国東成郡毛馬村)は、跡形もなく淀川に埋没し、深い川底に沈んで仕舞いました。

役所の指示でしたから、当時の住民は仕方なくそれに従ったようですが、川幅も660b(従来の10数倍)となり、浅かった河の深さも5bの巨大河川に変容したのです。

この住居埋没の強制工事で、前述の如く、蕪村生家(庄屋?)は勿論、お寺、菜の花畑、毛馬胡瓜畑跡などの位置も皆目全くわかりません。今は淀川の毛馬閘門近郊にある蕪村記念碑から、淀川の眼下に見える川底を想起すだけで、寂しい限りです。

淀川近郊の蕪村生誕家(庄屋?)の後継者の方といわれる家を訪ね、「家歴」を伺いましたが、結局、「お寺も埋没し「過去帳」もないために、蕪村生誕地は「川底」にあると信じているだけ」という答えが返って来ただけでした。

「蕪村生誕300年記念の年」は2016年、今年に迎えました。どうか大阪毛馬町の「蕪村公園」と通り過ぎて、「毛馬閘門」と「蕪村記念碑」ある淀川堤防から下に流れる「淀川」を見ながら、その河底に蕪村生誕地があることを想いつつ、蕪村が幼少期をここで過ごしたのかと、眺めて頂きたく存じます。

2016年05月24日

◆「新聞俳句・・・入選のコツ」って

NPO法人近畿フォーラム21 理事長
蕪村顕彰俳句大学      池尻 一寛(毛馬 一三)



筆者主宰の「蕪村ブログ」の「俳談」に連載して頂いている杉浦正章氏が、近月に「やぶにらみの正論」(一般社団法人 安保政策研究会・浅野勝人理事長)と共著して、「新聞俳句・入選のコツ」の冊子を 「時評社」から発刊されました。

本誌掲載の「俳談」の掲げられた杉浦正章氏の「新聞俳句入選句」に、日頃から感動しておりましたが、実際「その新聞俳句入選のコツ」は如何なるものか、
俳句愛好者とって極めて珍しい「新聞俳句」の舞台と、「その入選のコツ」の執筆を拝読し、益々驚きました。

一般の人、俳句愛好家、学生等のほとんどは、「新聞俳句・入選のコツ」を知っていることは在りません。是非拝読して「新聞俳句の投句」と云う新しい世界に関心を寄せて下さい。


杉浦正章が記載された著作の趣旨を、下記に添付しましょう。著者には失礼ですが。文量を察して「中略」も致します。それでもきっと過大な興味を抱いて拝読したくなるでしょうね。

杉浦正章氏の寄稿

◆「新聞俳句・入選のコツ」

<私は、政治評論の「永田町幹竹割り」をブログ掲載し、付録の意味で「俳談」を添付しておりました。その読者が全国大会で特選を受賞されるなどとは、夢に思っていませんでした。

しかもその俳句たるやまことにレベルが高い。これは私の「俳談」が導いたのではなく、もともと才能があった方が触発されたのだと思います。(省略)

出版の運びとなった時、「俳談」は主として新聞投句の入選句の「傾向と対策」を入選句の実例を挙げて記述することにしました。句歴30年、そして二十数年にわたる投句の経験、ノウハウの総てを投入しています。(省略)

俳人が書いた新聞俳壇対策の教科書はありますが、投句者による実践の裏付けられた「新聞俳壇入門書」は、珍しいと思います。(中略)松尾芭蕉、小林一茶、与謝蕪村など過去の天才俳人の句作にも言及しています。>

ここから「句作テーマ」が書かれており、想い付きに添付いたします。

<◆「まず傾向と対策から」―

 新聞俳壇は全国誌6紙に全部あります。掲載日は朝日、読売、毎日が毎週月曜日朝刊、日経、東京が日曜日朝刊、産經が水曜日朝刊です。

 私は約20年間20年間にわたり6紙に投句を続け、入選句は1,000句余りとなりました。(中略)毎日10句を作成し、週に70句作成。これを絞って毎週40句にして投句しています。入選はせいぜい2, 3句です。

新聞投句は初心者大歓迎です。朝日の選者によると、ベテランの句を選ぶより新人の句を選びがちになるそうです。今をときめく有名な女流俳人が別名で新聞投句をしているのを知っていますが、その理由は「武者修行」だといいます。とにかく実名でも別名でもいい、どんどん新聞投句して実力をつけるべきでしょう。

(中略)

◆「昭和ノスタルジア」−

時代を詠むと新聞俳壇によく採用されます。時代をどう詠むかといえば簡単です。
   降る雪や明治は遠くなりにけり

と詠んだように元号を一句に挿入すればよい。元号は、短歌で言う歌枕のような作用を及ぼします。

現在において明治や大正に詩的感慨を抱くことのできる人は少ないかも知れませんが、早くも平成は28年、昭和も遠くなりましたが、日本人の心の中に昭和に対するノスタルジアが生まれて、これが発酵しつつあります。

◆「初心者の時事詠は邪道」−

 俳句初心者はどうもニュースをテーマとしたがりますが、これほど陳腐なものは無いと心得るべきでしょう。俳句は古来永遠なる感情を詠むものであり、一過性の感情を詠まないのです。そのときのニュースを詠んでも、ほとんど成功しないのはなぜか。それは地名を読み込むのと同じでニュースの印象が強すぎて詩情を壊すからです。>

筆者が傾注している「与謝蕪村」の記述があって、一挙に感動しました。何故なら「蕪村俳句の視点」を知りたかったからです。著作文を挙げます。

<◆「俳句の絵画性」

 雪が降り積もった京都の夜景を描いた与謝蕪村の名画に「夜色桜台図」がある。2009年に国宝に指定されている。蕪村は俳句を作っても絵を描かせても超一流であった。その画才の影響もあってか、作る俳句も実に絵画的である。人口に膾炙した句に

菜の花や月は東に日は西に
があるが、いちいち説明はいらない、大きな景色をすべて短詩の中に込めている。

しかし絵画性を一層感じる句は
月天心貧しき町を通りけり
であろう。貧しい町に大きな月が出ている、大きな月と詠まなくても、貧しき町ガそれを語らしめる。なぜなら貧しい町は灯影もほそく、町全体が暗い。その対比として月が大きいのである。

これが例えば、(新宿の歌舞伎町なる月天心)で会ったらどうか。いくら満月でも月はネオンに邪魔されて小さく見えるし。風情も何もあったものではあるまい。この一句は蕪村ならではの才能が発揮されているのだ。

一般俳人も特には絵画のような句を作るとよい。

冬麗や隣の駅の電車見ゆ  毎日俳壇一席 杉の子:(杉浦正章)
 冬の水彩画のような空気感を詠んだ。
 金魚屋を漁師ら囲み秋祭り 読売俳壇一席 杉の子:(杉浦正章)
漁師町で漁師たちが金魚屋を冷かしている光景だ。油彩がのテーマだ。>以上

杉浦正章氏の著作は、150ページから310ページ迄、長編に及びます。
最後に「投句は継続することが何より大切でしょう。そのうちに自らの作句を上達させるとなっていることに気付くのです。頑張って下さい」と述べて居られます。

 ごく一部しかご紹介できませんが、「やぶにらみの正論」と共著とともに
拝読してください。「新聞俳句」の新分野がわかり、「入選にコツ」を読んで
俳句の世界を楽しんでくださいね。
                        
杉浦正章氏[プロフィール]

一般財団法人 安保政策研究会理事
・1940年愛知県西尾市生まれ。
・慶応大学独文科卒業。
・時事通信社政治部記者、ニューヨーク特派員、ワシントン特派員、内閣記者クラブキャップ、 政治部長、編集局次長、常務取締役編集局長。現在政治評論家として、毎日ネットにその日の政治評論を書いている。

以上
 

2016年05月13日

◆「納豆」好きになった理由

毛馬 一三



私の苦手な「納豆」が、骨粗鬆症の予防に効果があるという記事を読んだ。だったら、これからもっと早くから「納豆」を食べることに挑戦すべきだった。
「納豆」好きな人にとっては滑稽な話に違いないが、それはこれから追々。


私は九州の筑後地方で幼少期を過ごした田舎育ち。日露戦争で活躍した日本旧陸軍「久留米師団」の軍事施設がわが家の近くにあったが、周辺全体が農村地帯だったので大東亜戦争が終ったあとも、米や野菜など食糧難に接した記憶はない。

しかし、有明海や博多湾からかけ離れていた所だけに「海の生魚」には縁がなく、塩漬けのサバなどをリヤカーに積んで売り歩く行商から「塩漬け海魚」を買い求め、焼き魚にして食べさせられたことが日常だったと、今でも思い出す。

ところが珍事がある。どうしたことかわが町には「納豆」の売る店も、行商も一切なかった。だから「納豆」を食することはなく、名前すら知らなかった。勿論、我が家が「納豆」を何かの因縁で食膳から避けたという話も聞いたこともない。

「納豆」に初めて出会ったのは、18歳の時東京に進学して、下宿先の食卓だった。「納豆」にネギ、わさび、醤油をいれてかき回しご飯の混ぜて食べるものだったが、異常なねばりによる味と、腐ったような異臭に思わず顔を背けた。以来、食することはなかった。


しかし、横浜生まれで「納豆」常食していた家内と結婚してから、健康のために食べようと説かれたことで、「納豆」に卵の黄身、ネギ、醤油、からしを混ぜて食べる食べ方でチャレンジさせられた。

ところが、その「味付き特別たれ納豆」の食べ方が意外に美味しかったことから、その「たれ」をかけた「納豆」だけを「おかず」として食べるようになった。

そんな折、骨粗鬆症などの予防に「納豆」などに効果があるという記事も読んだ。

同紙によると、

<納豆などに多く含まれる成分「ポリアミン」に骨量の減少を抑える効果があることを、金沢大医薬保健研究域薬学系の研究グループが、マウスなどによる実験で突き止めたという。

ポリアミンは老化抑制効果が注目されているが、骨への効果が判明したのは初めて。骨粗鬆症などに対する副作用が少ない予防、治療法の開発につながるとみられる。

金沢大医薬保健研究域薬学系の研究グループは、骨粗鬆症モデルのマウスと、関節リウマチモデルのラットにそれぞれ28日間、ポリアミンを混ぜた水を投与した。

骨粗鬆症モデルでは何も与えない場合、骨量が3〜4割減少したが、ポリアミンを投与したマウスはほとんど減少しなかった。関節リウマチモデルでは、何も与えない場合と比べ、骨や軟骨が破壊される量が3分の1程度に抑えられた。

さらに培養細胞実験で、破骨細胞にポリアミンを加えると、細胞の働きが抑制されることも確認した。
同研究グループは「ポリアミンは納豆など日本人になじみの深い食品で摂取でき、副作用も少ないとみられる。特定保健用食品や医薬品などの開発につながる」と話した>としている。

たしかに高齢の時期になってくると骨粗鬆症が原因で股関節を骨折し、寝たきりになったという話よく耳にする。

序ながら「骨粗鬆症」に触れておくと
<骨粗鬆症(osteoporosis)とは、骨形成速度よりも骨吸収速度が高いことにより、骨に小さな穴が多発する症状をいう。背中が曲がることに現れる骨の変形、骨性の痛み、さらに骨折の原因となる。
骨折は一般に強い外力が加わった場合に起こるが、骨粗鬆症においては、日常生活程度の負荷によって骨折を引き起こす。骨折による痛みや障害はもちろん、大腿骨や股関節の骨折はいわゆる高齢者の寝たきりにつながり、生活の質(QOL) を著しく低くする。> 出典:ウィキペディア

上記の様に、高齢時になると骨粗鬆症が原因で、股関節を骨折し、寝たきりになったという話よく耳にする。
ところで筆者自身は、今、背骨と坐骨の神経を痛めて、2件に交通事故による「むちうち症」が加わって、毎日、整形外科と鍼灸院に通院しているほど、歩行に困難を強いられている。

歩行がよろけて9回も倒れ、足、腰、腕にけがをした。骨折は免れた。しかし骨粗鬆症との関わりを考えると、やはり背骨・坐骨神経を痛めては、骨粗鬆症には特に注意が必要になる。

以来、それまで「納豆」に軽い気持ちで、おかずで食してきた筆者は、今までよりも「好んで納豆」をご飯に混ぜて多食するようになった。「納豆」好きな人には恥ずかしいことだが、
「納豆」無関心だったのが、一挙に「納豆好き」なったのは、この理由からである。

なお、心臓病や脳梗塞の治療を受けて、「抗血液凝固剤「ワーファリン」を飲んでいる人は、「納豆」は禁忌とされているそうだ。どうか「ワーファリン」を飲んでいる人は、絶対に「納豆」は食べないでくださいと聴いており、医師に相談して下さい。           
                                (了)



2016年05月09日

◆老後の穏やかで豊穣な生き方

毛馬 一三



福岡高校の関西同級生会の6人の畏友グループが、月に2回開講の「俳句句会」を終えたあと、喫茶店で数時間、心おきなく懇談をするようになって8年目を迎える。

ところが時節を経るにつれ、話題が老化に伴う健康生活異変に移り出した。

6人中、現在比較的健康なのは、3人。残りの3人は、激しい腰痛や心臓病等に悩まされ出して動きがままならず、落ち込みの日々に見舞われている。

特に懸念されるのは、昨年7月に前立腺癌罹患と診断された某君。問題は癌手術をして癌細胞を除去しても、骨部への転移の可能性があるという。当人は、あと10年生きてポックリ逝けば満足だ等と、にこやかな笑みを覗かせる。グループは「癌にまけるな」と声を掛け励ましている。

筆者だが、今は交通事故の被害で「むち打ち症」に悩まされているが4年前には腎臓癌の疑いがあると定期検診先の総合病院内科で言われた。そこで、別の阪大系の総合病院内科に行って、腎臓専門医に検診をしてもらい、検査の結果、腎臓本体に癌症状はないと診断された。

ただ、腎臓の「腎嚢胞(じんのほう)」に若干懸念があるとして、同院内泌尿器科に繫いでもらい、ヨード造影剤の注射をしながらのCT検査行った。
 
その結果、「腎嚢胞」に少々の肥大部分が見られるが、癌に繋がる心配はないと診断され、これから半年毎にエコー検査をうけるよう勧められた。不安に取付かれて悩み続けていた腎臓癌から解放されたのは、超ラッキーだった。
 
悲喜こもごもの悩みや苦痛の真相を語り合えるようになったのは、月に2度定期に顔を合わせる日が出来、高校時代以上に心を許すグループになれたからだ。これからはこうしてなんでも打ち明け、悩みを吹き飛ばそうと約束し合った。
 
家族にも打ち明けられず一人で悩む「老後の生き方」を思いのまま話せるようになったのは、やはり「俳句つくり句会」で心の通い方を論じ合い、その余韻を日々持続させられることになったからであろう。これからも「俳句句会の楽しさ」を、老後の生き方に生かして挑戦して行こうと申し合わせている。

一日一日を重ねる歳月。これまで空しく過してきたとは思わないが、取り返しのつかぬ歳月というものが、近頃ほど重く心にかかるものはない。残りの時間が、はっきりしてきたからであろう。
 
この歳になると、人生を登山に例えると、確実に下山の途中である。山を登る時には、先へ先へと急ぎ、路を踏みしめ一歩一歩と足元のみを見詰める。

一方、山を下りる時には、視野が広がり、眼下の景色を楽しめる。こう考えれば、下山は決して寂しく惨めなことではないし、穏やかで豊穣で、それまでの知識・情報では及びもつかないような智恵にふれる、そう言う時期でもあるはずだ。 

中国明末期の儒者・呂 新吾(りょ こん)の「呻吟語」の中に、

・老いるは嘆くに足らず 嘆くべきはこれ老いて虚しく生きるなり
・死するは悲しむに足らず 悲しむべきはこれ死して聞こゆるなきなり   
という一説がある。

「老化」は、決して気落ちの要因にすべきことではない。老化や病にひるまず、「楽しみ」を生甲斐として突き進んで行くのが、これからの老後の豊穣な生き方ではないだろうか。福高関西同窓会の畏友グループ全員は、そう思うようになった。



◆老後を穏やかで豊穣な生き方

毛馬 一三


福岡高校の高関西同級生会の6人の畏友グループが、月に2回開講の「俳句句会」を終えたあと、喫茶店で数時間、心おきなく懇談をするようになって8年目を迎える。

ところが時節を経るにつれ、話題が老化に伴う健康生活異変に移り出した。

6人中、現在比較的健康なのは、3人。残りの3人は、激しい腰痛や心臓病等に悩まされ出して動きがままならず、落ち込みの日々に見舞われている。

特に懸念されるのは、昨年7月に前立腺癌罹患と診断された某君。問題は癌手術をして癌細胞を除去しても、骨部への転移の可能性があるという。当人は、あと10年生きてポックリ逝けば満足だ等と、にこやかな笑みを覗かせる。グループは「癌にまけるな」と声を掛け励ましている。

筆者だが、今は交通事故の被害で「むち打ち症」に悩まされているが4年前には腎臓癌の疑いがあると定期検診先の総合病院内科で言われた。そこで、別の阪大系の総合病院内科に行って、腎臓専門医に検診をしてもらい、検査の結果、腎臓本体に癌症状はないと診断された。

ただ、腎臓の「腎嚢胞(じんのほう)」に若干懸念があるとして、同院内泌尿器科に繫いでもらい、ヨード造影剤の注射をしながらのCT検査行った。
 
その結果、「腎嚢胞」に少々の肥大部分が見られるが、癌に繋がる心配はないと診断され、これから半年毎にエコー検査をうけるよう勧められた。不安に取付かれて悩み続けていた腎臓癌から解放されたのは、超ラッキーだった。
 
悲喜こもごもの悩みや苦痛の真相を語り合えるようになったのは、月に2度定期に顔を合わせる日が出来、高校時代以上に心を許すグループになれたからだ。これからはこうしてなんでも打ち明け、悩みを吹き飛ばそうと約束し合った。
 
家族にも打ち明けられず一人で悩む「老後の生き方」を思いのまま話せるようになったのは、やはり「俳句つくり句会」で心の通い方を論じ合い、その余韻を日々持続させられることになったからであろう。これからも「俳句句会の楽しさ」を、老後の生き方に生かして挑戦して行こうと申し合わせている。

一日一日を重ねる歳月。これまで空しく過してきたとは思わないが、取り返しのつかぬ歳月というものが、近頃ほど重く心にかかるものはない。残りの時間が、はっきりしてきたからであろう。
 
この歳になると、人生を登山に例えると、確実に下山の途中である。山を登る時には、先へ先へと急ぎ、路を踏みしめ一歩一歩と足元のみを見詰める。

一方、山を下りる時には、視野が広がり、眼下の景色を楽しめる。こう考えれば、下山は決して寂しく惨めなことではないし、穏やかで豊穣で、それまでの知識・情報では及びもつかないような智恵にふれる、そう言う時期でもあるはずだ。 

中国明末期の儒者・呂 新吾(りょ こん)の「呻吟語」の中に、

・老いるは嘆くに足らず 嘆くべきはこれ老いて虚しく生きるなり
・死するは悲しむに足らず 悲しむべきはこれ死して聞こゆるなきなり   
という一説がある。

「老化」は、決して気落ちの要因にすべきことではない。老化や病にひるまず、「楽しみ」を生甲斐として突き進んで行くのが、これからの老後の豊穣な生き方ではないだろうか。福高関西関西同窓会の畏友グループ全員は、そう思うようになった。



2016年05月08日

◆大阪にある「自然の滝」

毛馬 一三

大阪のまち中に、自然の「滝」があることを知ってる?と訊いても、多分大方の人は首を傾げるに違いない。

ビルの屹立する大都会大阪のまち中で、そんな湧き水が集まり、「滝」となって流れ落ちる光景など想像出来ないからだろう。

紛れも無く私もその一人だった。が、つい先日知人が話の序でに教えてくれた上、そこに案内までしてくれたことがきっかけで、「大阪市内で唯一の滝」の在りかを知ることが出来た。

その「滝」は、大阪市市内の夕陽が丘近郊にあった。「玉出の滝」といった。聖徳太子が建立した四天王寺前の大阪市営地下鉄「夕陽ヶ丘駅」を出て谷町筋から西に向かうと、「天王寺七坂」や「安居神社」、「一心寺」など、寺社や名所が点在する上町台地の歴史のまち、伶人町の中にある。

その天王寺七坂のひとつ、清水坂を登り、細い道を行くと清水寺に着く。本堂の前を抜けて墓地に挟まれた石段にさしかかると、水音がかすかに耳朶を打った。足早にそちらに向かうと、目指す「玉出の滝」に着いた。

「玉出の滝」は、「那智の滝(和歌山)や不動の滝山(岩手)」のように山の頂上から滝壺めがけて怒涛のように流れ落ちる巨大な滝とはスケールが違う。

境内南側の崖から突き出した三つの石造樋から、水道水と同じ程度の量の水がまとまって流れ落ちる、こじまりとした滝だ。

しかし5メートル下の石畳を打つ三筋の水の音は、大きな響きを伴い、その響きは人の心の奥底の隅々にまで行き渡る、いかにも「行場の滝」という感じだ。

知人によると、この「滝」には、落水で修行する常連の人がいるが、新年には滝に打たれて、延命長寿などを祈願する人が訪れるという。

実は、この「玉出の滝」を見た瞬間、京都の清水寺にある「音羽の滝」と瓜二つだと感じた。私の亡くなった母親のいとこの嫁ぎ先が京都清水寺の皿坂にある清水焼の窯元だったので、そこに遊びに行った時見たのが、この「音羽の滝」だった。

案の定、この清水寺は京都の清水寺を、寛永17(1641)年に模して建立した寺で、かつては京の清水にあるような懸造りの舞台も存在していたらしい。

さて、大阪唯一のこの「玉出の滝」は、近くにある四天王寺の金堂の下の清竜池から湧き出る霊水が、ここまで流れてきて滝となっているという言い伝えもあるところから、大阪の歴史の香りと地形の面白さを感じさせてくれる。

余談ながら、この「玉出の滝」の側に、冒頭に記した「安居天神」がある。真田幸村の憤死の跡として知られている神社である。

大阪夏の陣で決戦を挑んだ西軍の真田幸村は、天王寺口(茶臼山付近)に布陣した。徳川方の主力が天王寺方面に進出してくることを予測してのことである。

真田幸村の狙いは、家康の首を取り豊臣家を再興させる戦略だった。真田隊は一丸となって突撃を開始、東軍の先鋒越前軍一万三千を撃破。ついに家康の本陣営に突入。この真田陣の猛攻で、家康の旗本は大混乱に陥り、ついに家康の馬印までが倒されたという。

馬印が倒されたのは、武田信玄に惨敗した三方ヶ原の戦い以来、2度目だった。家康も本気で腹を切ろうとしらしいが、側近に制止され思い止まる。家康が幾多の合戦で切腹の決断を迫られたのは、後にも先にも生涯でこれが2度目である。

だが、真田隊も猛反撃に遭って劣勢となり、今度は家康が、総攻撃を命じた。幸村の要請にも拘らず大阪城からの加勢は現れず、戦場で傷ついた幸村は、ここ「安居天神」の中の樹木に腰を下ろして手当てをしているところを、越前軍の兵に槍で刺され、落命した。

こんな大都会のまちのまん中で、行場ともいうべき市内で唯一の「玉出の滝」が、真田幸村の戦場の近くであったことなどと結びつけて思い馳せていくと、この小さい滝の周辺は見て回るだけでも楽しい歴史が蘇ってくる。(了)

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