2014年10月05日

◆与謝蕪村生誕地が改めて証明された

毛馬 一三


江戸時代の3大俳人・与謝蕪村の生誕地が、大阪市毛馬町であることが学説として定まったのは、何と終戦直後でした。それまで江戸時代から明治・大正・昭和20年頃に至るまで、蕪村生誕地は諸説が出回り、確定していなかったのですが、奈良県の学者によって毛馬町生誕地だと証明されたのです。(本誌に既載)。

この学説が出されたのが遅かった所為か、「蕪村生誕地が大阪毛馬町」であることは、残念ながら地元大阪でも、全国にも広まっておりません。

ところが、このほど改めて蕪村生誕地が毛馬町であることを証明する画期的な「証拠」が出現したのです。

これには目を剥き、歓喜に覆われました。

というのは先月末滋賀県で、これまで蕪村の幻の大作と云われる「蜀桟道図(しょくさんどうず)」が、蕪村自作絵画と、92年ぶりに確認されたのです。しかもこの蕪村が描いた絵の署名に、「蕪村生誕地」が大阪毛馬町であることが明記されたていたのです。蕪村自作絵画鑑定の署名ですから、間違いはありません。

これは終戦後の「学説」が出て以来の、「蕪村生誕地」が改めて裏付けされる証左となりました。詳しくはこれから追々。

まず前記のように、この「蜀桟道図」が、与謝蕪村が晩年に描き、所在が分からなくなっていた作品でしたが、滋賀県甲賀市の美術館が鑑定した結果、92年ぶりに所在と自作絵とが確認されたとして、公開されました。

 「蜀桟道図」は蕪村が亡くなる5年前、1778年に描いた作品で、縦およそ1メートル70センチ、横1メートル近い大作。1800年ほど前の中国の風景が絹地に墨と淡い色彩で緻密に描かれ、蕪村が晩年、絵画を描く際に使った「謝寅(しゃいん)」という署名が残されています。まずこれが大切なことです。

作品は、蕪村の愛好家として知られた実業家が1922年に出版した「蕪村画集」に収録されていましたが、その後、所在が分からなくなっていました。最近になってシンガポールの会社が所蔵しているという情報があり、滋賀県甲賀市の美術館が鑑定し、確認出来たというのです。

与謝蕪村の研究を続けている関西大学文学部の藤田真一教授は、この蕪村絵を観て「作品の大きさに驚き、表情豊かな人物の描き方とともに蕪村の意気込みを感じた。蕪村にとって美術と文学が切り離せないということを改めて示した作品だ」と話しています。

「蜀桟道図」は、来年3月に東京で公開されたあと、7月から甲賀市の「MIHOMUSEUM(ミホミュージアム)」で一般公開されます。<参考:NHKニュース>

さらに詰めて行きますと、この蕪村自作絵の末尾に、「生誕地」が大阪毛馬町であると証明する「蕪村署名」が書かれていたのです。

<読売新聞によりますと、この 「蜀桟道図」は、中国四川省北部に行くための険しい道「蜀桟道」を画題とし、縦167・5センチ、横98・9センチの絹地に墨と淡彩で山や空を描写。遠近感や奥行きを表現しながら、道を行く人々を軽やかなタッチで描いている。>と、書いています。

ここからが、貴重な記述です。

<この絵の画面右上に、「(とうせいしゃいん)東成謝寅」という署名を、自筆で書いています。実は「謝寅」は、蕪村が晩年に使った号で、生まれ故郷の摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)を意味する「東成」を冠したとみられるのです。>。

ということは、蕪村が生誕地を証明する見事な「署名」と残したと云わざるを得ません。
<しかも安永7年(1778年)、制作を依頼した俳人にあてて蕪村が、「『蜀桟道図』を完成させて送った」と書いた手紙の写しも残っており、亡くなる5年前のこの年の作品であることが分かる。>
と、読売新聞は記しています。

つまり、蕪村が晩年に使った「謝寅」の号に、生まれ故郷の摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)を意味する「東成」を冠したことが、自ら生誕地を「署名」で残したことになり、改めて「生誕地」が明らかになったのです。望郷の念が在りながら、「生誕地」を明らかにしたがらなかった蕪村にとっては、驚きです。死期の切迫を感じたため、敢て「署名」で告げたのでしょうか。

蕪村生誕地が毛馬町であることが、自作の絵画と鑑定された「蜀桟道図」の「謝寅」の号の署名によって、改めて証明されたことは、終戦直後の定まった「蕪村生誕地」以来、遂に更なる「証」となったのです。このような滋賀県甲賀市美術館で鑑定は、実に素晴らしいことです。

 とにかく上記の新証明は、筆者主宰のNPO法人と大阪市立大学と共同で立ち上げている「蕪村生誕300年行事実行委員会」の行事具体化躍進に貢献し、同時に「蕪村生誕地毛馬町名」を一層広げるでしょう。

2014年09月28日

◆与謝蕪村顕彰を高めていく

毛馬一三

江戸時代中期の大阪俳人で画家である与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれている。生誕地が大阪毛馬村と余り周知されていない事実のことは本誌で既に触れている。

しかし、蕪村が俳人として大阪の中心部を活躍の舞台にしていたことには触れていない。
むしろそれに気づかなかったのが本当のところだ。それはこれから追々。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出し、江戸に下っている。なぜ江戸に下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な郷愁は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

おそらく、京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲からも過酷ないじめに遭わされたことなどから、意を決して毛馬村を飛び出したのではないか。

しかも蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だ。だが、どうしてこんな超有名な俳人に師事しに訪ね、俳諧を学ぶことができたのか、田舎の毛馬村と江戸との結びつきや、師匠との今謂うコネがどうして出来たのか、これもミステリーだらけだ。この時蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、巴人師が没したあと江戸から脱し、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。

その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、頻繁に大阪に吟行のためやって来ていたことが、最近分かってきた。

船から陸地に上がったのは、生誕地毛馬村から2キロほご離れた西側の淀屋橋や源八橋からだ。ここには「検問所」があったためで、ここから大阪市内にある数多くの門人らを訪ねて回っている。源八橋付近は「梅」の木の囲まれていたという。

蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ね、大阪の蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回っている。つまり大阪市内の各地を回っている。   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで、大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

早い話、蕪村にとり大阪も活躍の場だった訳だ。これもあまり知られていない。

こんな折、驚くご縁と嬉しい話が飛び込んできた。

蕪村生誕地近郊に大阪市が5年前造営した「蕪村公園」の横に、「淀川神社」がある。しかも、大川(旧淀川)の前にある神社はここだけだ。私自身も拝礼しに行く神社はここだ。

ところが、地元の町内会長のご紹介で、「淀川神社の宮司」と会うことが出来た。宮司とは初めての対面だったが、宮司の実に素晴らしいご意向を聴かされた。

2年後の「蕪村生誕300年祭」行事を神社でも行いたいし、神社でも「俳句会」を行いたい。蕪村顕彰を後世の為に諸活動を進めて行きたい、などの強いご意向だった。

「蕪村顕彰」事業を既にすすめているNPO法人近畿フォーラム21で、私が活動していることを町内会長から聴かされたので、いち早く会いたかったと告げられた。このご縁とは、実に素晴らしいものだった。

しかも「蕪村顕彰」を後世継承したい私の考えと全く一致し、地元の神社が蕪村顕彰の発信地となり、これから神社で「蕪村顕彰」祝事をして頂くとは、まさに“快挙”と言えよう。

しかも、蕪村が大阪に吟行に来ながら、一度も実家に寄らなかったわけがあっただけに、この時代になって旧実家の近くにある、ここ「淀川神社」で蕪村の望郷の念を繋いでやることは、蕪村も大いに喜ぶだろう。

宮司の話に感動し、近く再会して活動の進め方を話あうことになった。後世のために蕪村を顕彰し、俳句文化振興活動をしようという当NPO法人の試みは、立ち上げてから4年が経って画期的な話が舞い込んできたことになる。

大阪を行脚して回り俳人としての名を高めた与謝蕪村を、この地元「淀川神社」から全国・諸外国に広めて行こう。

2014年09月22日

◆蕪村顕彰全国大会 盛会裡に終わる

毛馬 一三



蕪村顕彰俳句大学主催・文學の森共同で「蕪村顕彰全国俳句大会表彰式」を、9月21日(日)午後1時から蕪村生誕地近郊の大阪市立淀川小学校で開催し、地元受講生・全国俳句愛好家から応募された俳句作品から、優秀句を選考し、賞状を授与致しました。

式典は、まず蕪村顕彰俳句大学の川原俊明学長と文學の森の松本佳子副編集長が「ご挨拶」を行ったあと、表彰式を行いました。

表彰式は、下記通りです。

「一般の部」では、大阪府知事賞に奈良県の中川晴美様、大阪市長賞に兵庫県の本村幸子様、公益財団法人関西・大阪21世紀協会理事賞に大阪府の徳岡美祢子様、蕪村顕彰俳句大学学長賞に大阪府の塙月夜様、文學の森賞に千葉県の原瞳子様が、それぞれ受賞されました。また20名に入賞状が授与されました。

続いて「児童生徒の部」では、大阪府知事賞に大阪市立大東小学校6年の岩下昂平様、大阪市教育委員会委員長賞に大阪市立咲くやこの花高校2年の藤田彩様、蕪村顕彰俳句大学学長賞に大阪市立鷺洲小学校2年の大浦璃来様が、それぞれ受賞し、20名に佳作賞が授与されました。

注目の「国際俳句蕪村賞」の大阪知事賞には、台湾の鄭芝宣様、独立行政法人国際交流基金理事長賞には台湾の張雅雯様が受賞し、ウクライナ」の1名が2佳作賞を授与しました。

100名定員の表彰会場はほぼ満席で、この受賞式のあと、メインイベントの「選考講演会」が行われました。文學の森の特別選者に指名されている宇田喜代子様(現代俳句協会名誉顧問)、千原叡子様(日本伝統俳句協会関西支部長)、三村純也様(大阪芸術大学教授)が、九期選考を巡る感想を、専門的な立場から作品の優秀さの評価の反面、新味の乏しさなどを交えながら語り合われました。耳を欹てる受講者・一般参加者に、非常に俳句の面白さを惹く催しとなりました。

このあと、当4講座の「講師推薦賞」の発表に移り、講師毎に受講生3名の作品の寸評が行われました。朝妻力講師賞の推薦3句は、谷野由紀子様,角野京子様、岡本明美様。大橋晄講師の推薦3句は、山田由利枝様、萩巣純子様、東野鈴子様。石川多歌司講師の推薦3句は、塙月夜、徳岡美祢子様、清野光代様。

山尾玉藻講師賞は、山本耀子様、大山文子様、河崎尚子様でした。(同講師欠席のため、寸評は代読)。

当4講座講師「講師推薦賞」の賞状は、当事務局理事が授与致しました。

こうして「第九期蕪村顕彰全国大会」は、成功裡に終り、来月10月からの第10期句会講座に進むことになりました。期を重ねる毎に「句会講座」が盛んになり、文學の森の共同主催も在ることが、隆盛の弾みとなっており、感激の極みです。

特に文學の森が発刊する「俳句界10月号」に三村純也教授が、この「第九期蕪村顕彰全国大会」の選考に当った時の「選評」の中で、

<「蕪村も(出句者の)力作の景色を見たかもしれないというような句、あるいは、どこか蕪村の作を、ふと思い浮かべるというような作品に、私は惹かれました。来るべき蕪村三百年祭に向けて、ますますいい句にお目にかかれることを願っています。」>
と綴っておられます。実に感動する言葉でした。

私たちは、これから蕪村三百年祭の諸行事を積極的に進め、蕪村を大阪の俳人であることを後世に継承して行くことに努力して行きます。


2014年09月21日

◆「蕪村顕彰俳句全国大会」開催

蕪村顕彰俳句大学 主催
                    兜カ學の森    共同
 

NPO近畿フォーラム21の「蕪村顕彰俳句大学」が主催、兜カ學の森が共同して開催する第九期「蕪村顕彰俳句全国大会表彰式」が、本日9月21日(日)午後1時に開催します。

 会場は、蕪村生誕地近くの大阪市都島区毛馬町の大阪市立淀川小学校です。

 蕪村顕彰俳句大学が兜カ學の森と共同して開催する今期の「蕪村顕彰俳句全国大会」は、七期につづく2回目の全国俳句大会の行事で、「全国の俳句愛好家と蕪村顕彰俳句大学の句会講座」の受講生から応募された俳句作品を、8名の選考者に選考して頂いた優秀句を表彰するものです。

 上記「一般の部」の優秀句には「大阪府知事賞、大阪市長賞、関西・大阪21世紀協会理事長賞、蕪村顕彰俳句大学学長賞、文學の森賞」の賞状を授与します。また20名に対しても、「入賞・佳作賞」を授与します。

 同時に大阪市内の公私立小中高を対象にした「児童生徒の部」では、選考されて優秀句に「大阪府知事賞、大阪市教育委員会委員長賞、蕪村顕彰俳句大学学長賞」の3賞と「佳作賞」を授与します。

 更に諸外国からの作品応募の中から選考された優秀句に「国際蕪村俳句賞」として、「大阪府知事賞、国際交流基金理事長賞」に賞状を授与致します。

 ところで、今回の「蕪村顕彰俳句全国大会」での注目は、勿論上記の受賞式ではありますが、式典次第のメインイベントとして「選考者」代表3名の方に、「優秀句選考の寸評」をして頂くことです。

 蕪村顕彰俳句大学の選考委員長を兼務して頂いております三村純也大阪芸術大学教授に司会を依頼し、現代俳句協会名誉顧問の宇田喜代子様と日本伝統俳句協会関西支部長の千原叡子様との間で、如何に今期の全国俳句大会の優秀句が優れているものだったかを合議して頂くものです。

 このあと、三村純也選考委員長に「児童生徒の部」と「国際俳句蕪村賞」の受賞者句の「寸評」をして頂きます。

 式典の最後には、蕪村顕彰俳句大学の「句会講座」をご担当して頂いた朝妻力、大橋晄、石川多歌司、山尾玉藻の各講師の「講師推薦賞」の受賞式を行い、(山尾講師は主宰句会の総部会のため、欠席)3名の講師に「講師推薦賞」を受賞される受講生受賞句3句の「寸評」をして頂き、賞状を授与致します。

 式典はこれで終了させて頂き、つづいて近郊の「蕪村公園」で「優秀句記念プレート碑」の除幕式を行います。「優秀句記念プレート碑」は、今九期で、九基が並ぶことになりますが、ここでは式典と「記念撮影」などが盛大に行われます。

 どうか、本日午後1時からの「蕪村顕彰俳句全国大会表彰式」と近郊の「蕪村公園」での「優秀句記念プレート碑」除幕式に、是非ご参加頂きますようお願い致します。

2014年09月18日

◆激腰痛で歩行立脚に困窮

毛馬 一三



激腰痛等に悩まされ出して1年2か月が経つ。歩行が100b位しか出来ず道路で座り込んで仕舞う。バス・地下鉄には立ったまま乗車はできない。ましてや、地下鉄の階段は手すり棒にすがって上り降りをするが、激痛みに襲われている。

家でも、椅子に座ってパソコンに向かい合うのも、30分とはもたない。どうしてこんな腰痛に絡む激痛が起こったのだろうか。昼間、やむを得ない所要で外出先から帰宅すると、激痛のため、布団に寝転ぶしかない。

腰痛といえば、6年前に脊髄部の「すべり症」に見舞われ、下半身が痺れて倒れる症状が起き、大阪厚生年金病院で手術をした。手術は成功し、「すべり症」からは完全回復したので、以後腰痛には何の懸念も抱いていなかった。

ところが、冒頭記述のように、突然1年2か月前から、激腰痛が始まったのだ。そこで、今毎日、整形外科診療所に通って診察とリハビリを受けている。リハビリを受ければ次第に回復すると思っているが、中々痛みが減らない。

整形外科診療医院での診察で、まずレントゲンを撮影し、「すべり症手術の後遺症」の障害有無を調べてもらったが、それは無しとの診断だった。

しかし、痛みは、腰だけでなく、時間が経過するにつれて、右足の臀部、右下肢ふくらはぎに広がり、3か月前からは左右の腕筋肉にまで痛みが出だした。

腰痛だけでなく、右足・下肢の筋肉に痛みが広がり出したため、改めて診療所の院長に「病名」を質した。すると「仙腸関節炎」だと伝えられた。ではこの痛みの原因は何であるかを尋ねた処、「分からないです」との回答。

一体「仙腸関節炎」とは何か。日本仙腸関節研究会によると下記の様の記述されている。
<仙腸関節は、骨盤の骨である仙骨と腸骨の間にある関節であり、周囲の靭帯により強固に連結されている。仙腸関節は脊椎の根元に位置し、画像検査ではほとんど判らない程度の3〜5mmのわずかな動きを有している。
仙腸関節障害は決して稀ではない。仙腸関節障害で訴えられる“腰痛”の部位は、仙腸関節を中心とした痛みが一般的だが、臀部、鼠径部、下肢などにも痛みを生じることがある。
仙腸関節の捻じれが解除されないまま続くと慢性腰痛の原因にもなる。長い時間椅子に座れない、仰向けに寝れない、痛いほうを下にして寝れない、という症状が特徴的。
腰臀部、下肢の症状は、腰椎の病気(腰部脊柱管狭窄症・ようぶせきちゅうかんきょうさくしょう や 腰椎椎間板ヘルニア・ようついついかんばん など)による神経症状と似ているので、注意が必要。
また、腰椎と仙腸関節は近くにあり、関連しているので、腰椎の病気に合併することもあり得る。>

上記説明で、筆者の「仙腸関節炎」の症状や痛み箇所が一致し、神経症状と似ているとの指摘があったことからも、院長の病名診断に納得出来た。

しかし肝腎の「仙腸関節炎」の原因が何処から発生しているのかが分からないのでは、不安が増幅する。

どうすればこの激腰痛から脱出できるのだろうか。整形外科の分野で、「腰痛」の原因は、総じて分からないことが多いという説もある。

当診療医院で、2週間に1度、痛み止め注射(トリガーポイント注射、ノイロトロピン注射、ジプカルソー注射)を打ってもらい、1日3回・薬剤ザルトプロフェン錠80mgを飲んでいる。痛みの各局部には湿布も貼る。

また頼らざるを得ないのは、毎日の主軸治療の「リハビリ」だ。柔道整復師による局部マッサージのあと、ホットパック(タオルによる温め)、干渉波(電気)、腰の牽引の物理療法の4リハビリを40分間行っている。しかし局部の痛み緩和には余り効果はない。

「仙腸関節炎」の原因が分からない以上、対象療法しかないのは事実だ。だとすれば、歩けない、立てない、座れないのが強度になっていくばかりなので、日常寝たきりしかない。

こんな中、私が関与している重大な式典が9月21日開催される。当日も自宅で「寝たきり状態」で、事態の推移と緊急相談に携帯電話の連絡で対応するしかない。式典が無事完了したら、「入院して手術」を受けることにしている(了)

2014年09月11日

◆与謝蕪村が大阪生誕俳人ってご存知?

毛馬 一三


松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸俳諧の巨匠与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(現・大阪市都島区毛馬町)だと、江戸時代から「定説」になっていたものと信じていた。

ところがそうではないことが分かり、驚かされた。

というのは、私が代表のNPO近畿フォーラム21主催俳句講座「蕪村顕彰俳句大学」で、関西大学文学部の藤田真一教授の講演で初めて知ったのだ。

教授講演によると、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は終戦直後のことで、奈良県で「蕪村直筆の書簡」が見つかったのがキッカケだったとの説明だった。

藤田教授はさらに、次のように語った。

<<蕪村は、自分の故郷のことには何故か余り触れたがらず、唯一、安永6年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(20頁ほど)の冒頭に「春風馬堤曲」を書き、毛馬村の側の淀川の馬堤に触れながら、18首の俳句を添えている。

毛馬村の名前を出したのは、唯一この「春風馬堤曲」だけである。それでも自分の生誕地がこの毛馬村だったとは、弟子や俳人仲間にも殆ど触れていない。

ところが、蕪村が自ら生誕地が大阪毛馬村だと初めて記したのは、蕪村が主宰する「夜半楽」の弟子に、この「春風馬堤曲」の冊子を贈呈した手紙の冒頭添え書に書いていたことが後々に分かったのだ。

冊子を贈呈した大阪在住弟子とは、柳女・賀端(がつい)で、添え書きの中に、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと書いている。

(春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」)。

この添え書きは、一応江戸時代から「物証」の形を取ってはいたが、毛馬村が生誕地との確実説とはなっては居なかった。

何故なら、江戸時代の発刊諸本は複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。「夜半楽」弟子に宛てたこの「添え書き」ですら、複製か、それとも蕪村直筆なのか、多々異論が渦巻き、江戸時代以降長い間、確定していなかったのだ。

従って蕪村生誕地は、関西各地を含めた「複数説」が広がっていたという。

ところが前記の如く、終戦直後、奈良県で偶然見つかった同「書き添え書簡」が、「蕪村直筆」だと蕪村学者によって公式に認定された。

これよって、やっと「蕪村生誕地が毛馬村」であると確定したのである。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の、淀川風景の描写と切ない郷愁の18首も、毛馬が生誕地であることを補完する形を示すことになり、遂に毛馬村生誕地が不動のものになった訳だ。>>

この経過を考えると、弟子宛の蕪村生誕地を記述した1通の「蕪村直筆添え書き書簡」の学者公認の意味は大きい。

これがなかったら、蕪村が俳諧史に大阪俳人として登場することも無かったことになる。

蕪村が大阪毛馬生誕の俳人と定説になってから、僅か70年ほどしかならない。この影響があって、芭蕉や一茶とは異なり、大阪俳人として蕪村の顕彰が疎かにされてきたことは事実だ。

これからは2年後の蕪村生誕300年に向けて、私たちのNPO近畿フォーラム21で、生誕300年記念行事実行を進めることにしている。

目下検討中の”記念行事” は、   

@「国際俳句蕪村賞」を諸外国応募者に授与(大阪知事賞・大阪市長賞等)
A シンポジウム(俳句学者・俳人・俳句評論家が参加)
B 屋形船の「句会」(蕪村生誕地近郊の1級河川「淀川・大川」で)
C 蕪村歩こう会:(大阪市立大学文学部と共同事業)
D 蕪村公園内に「蕪村銅像建立」
E 蕪村公園へ植樹(蕪村俳句に詠まれた樹木)
F 蕪村生誕300年記念「俳句大会」(全国・海外から作品募集)
G 蕪村に宛てた絵手紙展(蕪村俳句からの絵手紙を募集・展示会)
H 蕪村カルタつくり(蕪村俳句から作ったカルタを募集・優秀作品を展示会)
I 蕪村紙芝居」と「蕪村顕彰ライブコンサート」同時開催
J 蕪村公園・毛馬閘門・毛馬胡瓜で生誕地都島区を広める「まちづくり」
K 2016年秋「生誕300年祭」を開催。諸外国俳句愛好家を招請

以上の事業を、推薦団体、協賛団体・協賛者のご協力を得て、生誕300年を迎える年迄に順次行いながら、2016年の生誕300年秋に盛大な「生誕記念祭」を行いたいと考えている。

既に、2年前から兜カ學の森と共同して、「蕪村顕彰全国俳句大会」を行うと共に、上記の「蕪村生誕記念祭」も共同で盛大に開催することを合意している。

大坂生誕与謝蕪村生誕記念事業をすすめることによって、後世継承と全国・諸外国に「世界最短の詩・俳句」文化振興を進めていきたいのが、私の願いである。 (了)
         (修正・加筆して再掲)
                         

2014年09月07日

◆初めて見た「歯周病菌」

毛馬 一三



奥歯に違和感があったので、「歯科医院」に診療に行った。これまで虫歯は一本もなかったので、歯科医院に行くのは10余年振りのことだった。

診察の結果、奥歯1本に軽度の虫歯があるとのことで、治療を開始することになった。とにかく軽い虫歯発見だけで済んだため、一旦は胸を撫で下ろした。

ところが驚いたことがあった。この歯科医院の診察室には「位相差顕微鏡」が備えられており、患者の口内に歯周病菌やカビ菌の有無をたちどころに検査するシステム機器が整えられていた。

歯科医院には「顕微鏡と映像公開装置」のセットが6年ほど前から導入され始めたそうだが、長期ご無沙汰していた私にとっては、このようなセットがあるとは、全く知らなかった。

映し出された口内検査画面映像をじっくり見ると、紐状の歪んだ塊が幾重もあり、その間を原虫みたいなものが無数に蠢いている。不気味な映像に悪寒が込み上げてきた。

歯科医師によると、映像で蠢いているのは歯周病菌で、紐状の塊はカビ菌だという。なんと口内で歯周病菌が見付かったのだ。

歯周病菌は、回し飲みや回し食い、箸の使い回し、キス、くしゃみなどが感染ルートとして上げられ、一旦口の中に進入すると定着して発症するケースが多いそうだ。外食の多い人には特に罹患の可能性が高いという

歯周病は、口の中で出血すると血管に入り、心臓で炎症を起こすという。歯周病の患者が心臓病になる確率は2〜3倍にあがり、このほか食道癌、糖尿病、早産、高血圧などにも関与しているという。

カビも酸を出すので歯を溶かし、虫歯につながるという。予防を怠れば、どちらも恐ろしい病気だ。


このため歯周病菌予防とカビ菌除去のために、「細菌の除去薬剤・シスロマック」と、スプレー式カビ取り歯磨き剤の「ぺリオバスターN」を出してもらい、予防措置を講じた。

2週間後に行った再度の「顕微鏡」検査で、症状に改良が確認されたので一安心したが、油断は禁物。今も歯の手入れには真剣に取り組んでいる

ところで、歯周病の進行を症状の具合でみると、
@ 口臭、ネバネバ感
A 歯ぐきに赤み、時々出血
B 歯ぐきの炎症、腫れ、赤みの悪化
C 歯ぐきを押すと膿が出る
D 口臭が更に悪化、出血がひどい、歯が揺れる、歯ぐきがよく腫れる
E 歯が痛くて噛めない、歯が揺れて噛めない、歯ぐきが常時腫れている

といった順序で進行いくという。無感覚の内に進行する場合があるという。

となれば、定期的に歯科医院に通い、歯周病が再感染していないかを「顕微鏡」で調べる必要がある。またカビ菌も歯周病菌の棲みかとなって歯周病に再感染する要因になるので、適切なクリーニングが求められる。

序でながら、義歯にもかなりのカビが付くので、歯周病と関わりがあり、義歯のブラッシングも留意すべきだそうだ。

歯周病菌が「顕微鏡」で発見されたものの、歯周病には患っていなかったので幸運だったが、この機会に歯の手入れには一層気を配って行こう。そうしないとこれから美味しいものが頂けなる。
参照:<国際歯周内科学研修会監修・顕微鏡検査のススメ>                 
    

2014年08月30日

◆「蕪村」のこころの言葉

毛馬 一三

                     
与謝蕪村学者の藤田真一教授(関西大学文学部)が、「蕪村」〜日本人の心の言葉〜を綴った新著を発刊されました。

発行所は椛n元社で、8月中旬から書店で発売されています。(本体1200円+税)。

著者の藤田教授には、これまで「俳人蕪村」に関する多くの著書・監修誌がありますが、大部分は「蕪村俳句・絵画」についての専門学説の論述が主です。

ところが新著は「蕪村の絶妙な言語感覚」や「俳句を作る時の環境やこころの動静」などが中心に書かれており、著書内容によって学説では接したことがない「未知の蕪村像」が浮かび上がってくるのです。誠に異色著書と云えます。

そこで、この感動的な著書をご紹介したいと考え、著書の冒頭に書かれた「はじめに」の欄を、下記に掲載させて頂きます。是非、藤田教授新著の「蕪村〜日本人のこころの言葉」の、拝読をお勧め致したいと存じます。

<画家・俳人というと、描こう描きたい、吟じよう吟じたいという、作者本人の意欲というものが先行する気配があります。もちろん蕪村とて、みずからの意思や願望を抱いて制作にむかう気持ちはあり余るほどに有していたことでしょうが、それと併せて、依頼主や仲間の意向にも精いっぱいのこころを用いたはずです。

自己実現と周囲との協調とがあいまってこそ、蕪村の制作舞台は整えることができたのです。

蕪村は、一介の町絵師にすぎませんでした。むろんときには自発的に描きたいと思うこともあるでしょうが、それとて顧客の嗜好を無視することは出来ません。蕪村の絵筆は、贔屓し、支援してくれる人びとともにあったのです。

俳諧となるとなおさら、仲間や門人といったまわりの人びと(連衆)が欠かせません。句会でも、吟行でも、句集の出版でも、孤高・独断おいうことはまず考えられません。

蕪村も人並みに夜半亭という宗匠となりますが、蕪村にあっては、上に立って指導するというより、句作の上達をめざしてともに歩むという姿勢が強く感じられます。

顧客の好みや視線を意識しながら、蕪村にしか描けない絵をかき、蕪村にしかよめない句をつくったのです。そしてそれらが今なお、多くのひとを引きつけてやまないのです。

ジャンルをまたいで、散策することによって、蕪村の未知の魅力がさらに浮かび上がってくるにちがいありません。生誕三百年を目前に控えたまさに今、蕪村の神髄にいっそう迫る好機といってよいでしょう。

ただし作品を遠目から観察しているだけではだめです。蕪村の懐にはいり込もうとする心構えが何よりたいせつです。

その道を歩もうとするとき、手紙がかっこうの道しるべとなります。作品からは見えてこない蕪村の日常の姿を目にし、飾らない声を耳にすることができます。

先年完結した「蕪村全集」全九巻(講談社版)には、四百五十通もの手紙が収録されています。仕事にかかわる記事がもっとも目につきますが、身近な日常茶飯の話題にも事欠きません。家庭生活はもとより、門人・友人との応答、洛中の種々の噂、畿内また地方のトピックなど、多岐多端にわたり、そこから当人の息づかいが感じられるのです。

まさに蕪村の懐にはいる絶好の入り口となり、その時代のなかで蕪村の姿にまみえるにはうってつけつけです。本書では、これらさまざまなレベルの蕪村のことばに接することができるよう努めました。 >

身近な日常茶飯の話題や多岐多端にわたって蕪村の息づかいが感じられるのが素晴らしい内容です

これが、藤田真一教授著書の「はじめに」欄に記された著作の意向です。

序でながら、こうした意向を盛り込まれたあとに、本論の「目録」を期しておきましょう。

◆まず、「言葉編」で、
1.遅咲きの偉才
2.画俳ふた道の華
3.交誼の輪
4.時空の夢
が、綴られています。

◆締め括りとして「生涯編」があり、
1.略年譜
2.蕪村の生涯
と、なっています。

ところで、「生涯編」の「蕪村の生涯」の中に、非常に興味深い事実の綴りがありましたので、下記に紹介させて頂きます。

<貴族でも武家もなく、担い手がまさに庶民である俳諧は、家柄や身分にこだわらないので、誕生から幼少期の記録が残っていないことが多いのです。蕪村ですらそうです。

蕪村のばあいも、生い立ちにかかわる事象はほとんど謎に包まれています。蕪村はことさらに、みずからの意思で、あからさまにすることを控えていたふしがみられます。

生前、他人に報じた唯一の資料は、伏見の柳女・賀隋母子に宛てた手紙に、「春風馬堤曲」に、(馬堤は毛馬塘也、則。余が故園也)という一節があるのみです。

柳女の夫は、鶴英と号した俳人で、蕪村と活動をともにした人物です。没後、妻子が蕪村門に入ったのですが、そんな人でも蕪村の出身を知らなかったことになります。生家については、いっそう明かせない何かがあったようです。

ただ、一番弟子」の几董はさすがに承知していたらしく、追悼文の初稿では、「浪速津の辺りちかき村長の家に生い出て」と書き、さらに病床にはふたりの姉が見舞いに来たとしるしてあります。

そういえば後年、京都から何度も大阪におもむくことがあっても、ただの一度たりとも実家に立ち寄った形跡はありません。伏見から船で淀川をくだるとき、かならず目前を毛馬の村がよぎるにもかかわらず、です。先ほどの手紙には続けて「言葉編」冒頭に出したこの文章がきます。

  余、幼童之時、春色清和の日には、必共どちとこの堤上にのぼりて遊び候。
  水ニハ上下ノ船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ。

還暦を過ぎての回想だけになつかしむ心情に満ちあふれています。けしてふるさとを嫌っていたわけではないのです。でも、どうしてだか帰省するに至っていないのです。この引き裂かれた気持ちが、絵にも俳諧にただよう。なつかしさの香りにつながるのかもしれません。>

ところで、蕪村が俳諧、絵画に向かった時の「環境と心のあり様」は、新著をじっくり、読み感動したましが、筆者にはまだまだ「蕪村幼少期の謎」の想いが心を巡ります。
蕪村は、享保元年(1716)、大阪摂津の国東成郡毛馬村の庄屋の家に生まれました。蕪村の母は、京都丹後の与謝から「毛馬村長の家」へ「奉公人」として来ていました。ところが時が移ると、村長の妾となり、蕪村が生まれたのです。生誕日は不明。
こうした中、「春風馬堤曲」にあるように「幼少期」は、家系を継ぐ者としてか、家族からも、もてはやされ楽しい時を過ごしていたことは間違いないと思われます。

ところが、蕪村の人生を大きく変えることが起きました。蕪村が僅か13歳の頃、毛馬で母が亡くなり、村長も跡を追う様に間もなく逝去して仕舞う不幸が舞い込んできたのです。

蕪村は、結局「妾の子」だったため、一転して村長家一族からからは「過酷な苛め」に遭わされたようになったようです。しかも父の死去に伴い毛馬の庄屋家業も、「極貧庄屋宅」に変容して仕舞い、蕪村に家系を継ぐ話など出る筈もなかったのでしょう。

以来、生家「庄屋宅」で、蕪村は身を縮めて生きていかざるを得ない苦境に追い込まれていったというのです。これは室生犀星の状況と全く類似していると「学説」にも出ていると聞いています。

つまり、この「幼少期の不幸」が、望郷の念は人一倍ありながらも、毛馬の生家へ一度も寄らなかったのは、「幼少期の極いじめの経過」が、「帰郷拒否の念」心境増幅に繋がり、帰郷する気持ちを完全に阻んだものに違いありません。

藤田教授の新著「蕪村」は、学説とは少々異なり、教授の想いが随所に現れていて、本当に感動して読める書物になっています。

こうした中で、筆者の前記の想いを繋げて心を浮き立たせ、ミステリー小説としてでも書こうかと思っています。

最後に記述しておきたいのは、著作の背表紙に「生誕300年ー響いてやまぬ絶妙な言語感覚」書かれています。

筆者らは、2016年に迫って来た「蕪村生誕300年記念行事」を大阪市立大学と兜カ學の森と共同して、俳句文化振興と後世への伝承のために実行いたします。

どうか、芭蕉、一茶と並ぶ江戸時代の俳人「蕪村」をよく知ってもらい、生誕300年記念のためにも、この貴重な藤田真一教授の新著「蕪村」(創元社刊)に目を通して頂きたいと存じます。    (了)

2014年08月23日

◆夏バテ防止に「おきゅうと」

毛馬 一三


福岡出身の畏友が案内した大阪にある博多料理屋で、博多特産の「おきゅうと」が出た。まず、大阪市内の料理屋で「おきゅうと」が出されることは、珍しい。

「おきゅうと」は、エゴノリという海藻から作った食品で、生姜、ゴマ、かつおぶしなどを振りかけ、それにポン酢を注いで食する。涼感を誘うツルッとした味わいと、磯の香りの食感が口内いっぱい広がる。

久し振りの味は、淡泊ながら旨みと滋味に溢れた特有の食感で、郷愁を深く感じた。食べるのは盛夏の時期が本番。なぜかと言うと、暑い盛りに涼感効果を感じさせる伝統食品だからだ。

畏友によると、この酢やポン酢を掛けただけの「おきゅうと」を食膳に出して貰うと、食欲を全く無くしていても、これだけでご飯一杯は優に食べられるという。文字通り「夏バテ防止」だと、と話してくれた。

意外なことに、この「おきゅうと」を知る人は少ない。私自身も、同じ福岡出身でありながら、福岡から離れた筑後・久留米で育ったため、「おきゅうと」の名前は幼少の頃から耳にしたことはなく、食膳に上った記憶も無い。海藻の採れる海岸から離れていることが主因。

しかし私が、料理の一品として魅せられたのは、社会人になってからだ。以来、「おきゅうと」の贔屓者になった。下戸なので、お酒のつまみではなく、専ら深みのある味を、ゆっくり箸を付けながら食するという楽しみ方だ。

<エゴノリが生育する日本海側の秋田、山形、新潟、長野の各県では「えご」、宮崎県では「キリンサイ」などと呼ばれて食用にされているらしいが、「おきゅうと」とは言わない。食べ方も博多とは全く異なるという。>

そこで、「おきゅうと」の名前の由来にふれてみよう。

<1.「沖の独活(ウド)」説。エゴノリはウドの木の様に早く育つので、沖のウドが転訛した。
2.沖からやってきた漁師が作り方を伝授したから「沖人」(おきうど)説。
3.飢饉の際に簡単で大量に作られ多くの人を救ったから「救人」。
などの諸説がある。>

肝腎なことは、「おきゅうと」の食べ方だ。

・真空パックの中に5枚入っている添加物は不使用
・厚さ約3mmの「おきうと」を、水洗いして、幅2〜3mmくらいに切る。
・それを器に盛りつけ、生姜、ゴマ、かつおぶしなどをふりかけ、醤油またはポン酢で  食べる。また、酢味噌などでもおいしい。

いとも簡単に食することができる。しかも、ふりかけ材の工夫では、味付けが自分の好みに合わせられるだけに,楽しみも倍増余地がある。

他府県の人が初めて、これを食べた時、変わった味覚と触覚だと戸惑う人が多いらしい。しかし再度出会うと、仄かな磯の香り・海苔の風味、涼感を誘う喉ごし、溢れる旨みと滋味に魅せられて、注文する人が増えてくると聞く。

「おきゅうと」は「めんたいこ」と共に、数百年の昔から朝食の一品を占め続けて来た博多の食文化であり、博多の人々はその重みを了知している。

毎月1回、蕪村俳句「句会講座」に集まる福岡高校の同窓生と、講座後にお茶を飲むと、決まって「二品」の話が話題となる。

残念なことに大阪では、「飲み屋」か「博多料理店」に行かないと「おきゅうと」にはお目にかかれない。しかし残念なことに「おきゅうと」が、その店のメニューにあるとは限らない。淋しい話だ。

前述の福岡高校同級生1人が近く帰省し、地元でしか味合えない特製「おきゅうと」店に寄って、じっくり旨味と滋味を味わってくると自慢げに話していた。こればかりは、羨ましい限りだ。  (了)  
参考:ウィキペディア           

2014年08月18日

◆「蕪村公園」をご存知?

毛馬 一三
                  
   

「蕪村公園」は、大阪市毛馬町の毛馬桜ノ宮公園の北端、毛馬閘門近くの大川沿いに大阪市が平成20年に造営した。

これで、都島南端、川崎橋あたりまでの毛馬桜ノ宮公園迄との道筋が完成することになり、春に桜の咲くころには大川河畔が新名所として市民が楽しむことが出来るようになった。

与謝蕪村は、松尾芭蕉、小林一茶と並んで江戸俳諧を代表する俳人だが、その蕪村の生誕地が何処かということになると、あまり知らない人が多い。

蕪村は、享保元年(1716)に大阪毛馬村の庄屋の主人と奉公人の母との間に生まれた。家督を引き継げない私生児にすぎなかった。その上不幸にも幼くして両親が亡くしため、家人から総いじめされたからか、この辛苦に耐えられず、蕪村は20歳の頃(18歳説も)毛馬村を出奔して、江戸に行くを決意。家出して京都に向かった。

京都で人生を定めることになると人物と出会っている。それが俳人早野巴人だった。早野巴人を師匠として俳句を学びながら一緒に暮らしていたが、その後、二人は江戸に旅たった。

江戸では、早野巴人の真弟子として俳諧の世界に没入したが、頼りにしていた早野巴人師が急没して仕舞った。蕪村が26歳の時だった。師匠の急逝を悲しみつつも、新しい「俳句の世界」へ身を投じなければと決断。かねてから愛着のあった芭蕉俳句を追求するため、芭蕉が訪ねて廻った奧羽地方を放浪した。

こののち、宝暦元年(1751)に、京に戻り俳諧に挑む一方、南宋画家としても精を出し、池大雅と並ぶ名声を得るようになった。その上、蕪村は、早野巴人を継いで「夜半亭」(初代巴人)主宰となった。

蕪村は京都で68歳の生涯を閉じたが、終生故郷の毛馬村には一度も帰っていない。

しかし蕪村にとっては、生まれ故郷毛馬村の「慕情」は消えることは無く、この想いを脳裡に巡らせながら、書き記した「春風馬堤曲」がある。文章の書き方は、奉公の帰省物語になぞって書き綴り、俳句を添えて「望郷」の念を一気に発散させている。

いまだに大阪には、蕪村に関する「伝承文献」は皆無だ。しかも明治2年に政府による淀川の河川改修工事によって毛馬村が総て埋め尽くされたため、生誕地の痕跡も一切残されていない。これが長い間、大阪俳人の蕪村を顕彰することが出来なかった主因なのだろう。

しかし、明治になり正岡子規が「蕪村俳句」を顕彰するようになるまで、蕪村俳句自体も評価されず、蕪村顕彰には誰も手を付けなかった。

そこで15年ほど前から大阪市会員と私たちは気を通じて蕪園建設を大阪市に働きかけた。大阪俳人蕪村を大々的な顕彰しようという運動は、嬉しいことに活発になりだした。

この運動も契機となり、大阪市は平成18年度から2年計画で、前述の「記念碑」と「春風橋」の中間にある市有地1.1hrの土地に、約2億5千万円をかけて「蕪村公園」を整備することを決定。

同「蕪村公園」には、公園の中央に大広場、公園全体に「蕪村俳句石碑」の建立、「自画絵、春風馬堤曲」などの「蕪村説明写真集」の掲示、公園全体には樹木植栽をする計画が立てられた。大阪輩出の与謝蕪村名を高揚し、文化集客地にしたいと大阪市は考えたのだ。

同公園は、重要文化財の「毛馬閘門」の西側にあり、有名な毛馬桜の宮公園の北端に位置して、市の中心地中之島に通じる大川沿いの「桜回廊」の出発点になっている。「屋形船」や「遊覧船」の折り返し地点でもある。

いまや、同公園の建立で、大川沿いの見事な桜回廊と繋がった一連の観光名所として、集客効果が期待されている。

私が後世の為に傾注している「講座 蕪村顕彰俳句大學」を開講して4年目を迎え、今年9月21日(日)には、兜カ學の森と共催して、2回目の「蕪村顕彰全国俳句大会」を開催する。優秀句は「記念プレート碑」にして「蕪村公園」に建立する。

どうか、大阪市毛馬町の蕪村公園」を是非お訪ね頂きたい。皆様のお力をお借りして、蕪村俳句の後世への継承と俳句文化を世界へ広める積極的な活動に組んでいきたいと願っている。
 (了)


2014年08月08日

◆地下に眠る「太閤大阪城」

毛馬 一三


国の特別史跡に指定されている大阪城が、実は「太閤秀吉築城の大阪城ではなく」、総てが「徳川大阪城」だと知る人は、意外に少ないのではないか。

では秀吉が織田信長から引継ぎ築城した、元々の「大阪城」は一体どこに姿を消したのか。それは追々―。

それが話題になると、「聳える天守閣は、昭和初期に再建され、城の堀は徳川方によって埋められたことは承知していたが、だからと言って秀吉大阪城の城跡が些かも無いとは全く知らなかった」云々である。大阪城への朝の散歩を日課とする人々や大阪城の眼の前にある大阪府庁の知人らからも、同様の返事が返ってくる。

大阪天満橋から大手前、森の宮、新鴨野橋と「城郭を一周する道筋」からは、「大阪城の高い石垣と深い堀」が、雨滴の葉が陽光を跳ね返す樹林の間からと、大きく広がる視界の中から歴史の威容を誇らしげに見せ付ける。

特に大手前周辺の高さ32mもある幾重もの「反りの石垣」には、当時の石垣構築技術の進歩の姿を覗かせる。

大阪夏の陣で豊臣家を滅亡させた徳川家康は、同戦いの2年後(1616)死ぬが、家康の遺命を受けた秀忠が、元和6年(1620)から寛永6年(1629)までの10年3期にわたり、大阪城を大改築した。

その時徳川の威令を示すために、「太閤大阪城」の二の丸、三の丸を壊し、総ての「堀」は埋め、「石垣」は地下に埋め尽して、豊臣の痕跡をことごとく消し去ったとされている。

では「太閤大阪城」は、地下に眠ったままなのか。

「大阪城石垣群シンポジウム実行委員会」の論文をみると、そこに「太閤大阪城」が地下に埋められたままになっていた遺跡の一部を発掘した調査記録が下記のように書かれていた。

<地下に埋蔵された「太閤大阪城」の石垣を最初に見つけたのは、大阪城総合学術調査の一環として大阪城本丸広場で行われたボーリング調査だった。昭和34年(1959)のことである。天守閣跡の南西にあたる地下8m から「石垣」が見つかったのだ。

4m以上も積まれた石垣で、花崗岩だけでなく、様々な石を積み上げた「野面積み」だった。「野面積み」は、石の大小に規格がなく、積み方にも一定の法則が認められないもの。当時城郭作りの先駆者だった織田信長が手掛けた安土城の「野面積み」工法と同じだったことから、秀吉がその工法を導入して築いた「石垣」と断定された。

それから25年後の昭和61年(1986)になって、再び天守閣跡の南東部の地表1mの深さから、地下7mまで、高さ6mの「石垣」が発見されている。

この石垣も「野面積み」だったうえ、その周辺で17世紀初頭の中国製の陶磁器が火災に遭って粉々の状態で見つかったことから、大阪夏の陣で被災した「太閤城」の「石垣」であると断定される2回目の発見となったのである。

両「石垣」の発見場所の位置と構造を頼りに、残された絵図と照合していくと、この「石垣」は本丸の中で最も重要な天守や、秀吉の家族が居住していた奥御殿のある「詰め丸」と呼ばれる曲輪(くるわ)の南東角にあたることが明らかになったのである。

地下に消えた「石垣」は、切り石が少なく、自然石や転用石を沢山積み上げたもので、傾斜が比較的ゆるい、「徳川城」とは異なる「反り」の無い直線だった>。

第3の発見は偶然が幸いした。現在の「大阪城・西外堀」の外側の大阪城北西で、平成4年に大阪府立女性総合センター建設の際の発掘調査で、地下から長さ25m に亘る「太閤大阪城の石垣」が出現したのだ。同石垣は、いま同センターの北の道沿いに移築復元されている。

何よりもこの発掘の価値が大きかったのは、今の大阪城郭から離れた外側の場所から「石垣」が現れたことだ。

それは「徳川城」よりも「太閤城」の方が遥かに規模の大きかったことの証であり、今後の調査で城郭外から新たな「太閤大阪城」が出現する可能性を引き出したことだった。

地下に眠る遺跡の発掘調査は、エジプトやイタリアなど文明発祥地でも研究の対象になっているが、現在も進められている大阪市の大阪城発掘調査で、「天下の台所」の基礎を築いた「太閤大阪城」の遺跡が、これからも城郭外から沢山見付かることを期待したい。

大阪城の堀の外側に学校法人追手門学院があるが、その校内の中で「秀吉大阪城」の城郭外の石垣が見つかっている。堀の外にある石垣跡だから、如何に「秀吉大阪城」が大きかったか、それだけでも知ることが出来る。 (一部加筆・再掲)
                          

2014年08月06日

◆大阪俳人与謝蕪村の名を高めよう!

毛馬 一三


NPO法人近畿フォーラム21(筆者主宰)の九期講座「蕪村顕彰俳句大学」と、月刊全国誌「俳句界」の「兜カ學の森」とが共催して、平成26年9月21日(日)午後1時から「蕪村顕彰全国俳句大会」を開催する。

会場は、蕪村生誕地に由緒ある毛馬近郊の大阪市立「淀川小学校」で行うもので、「大阪・毛馬に俳句の文化を継承する為」、現在全国から俳句作品の応募を行った。

前回7期の同「蕪村顕彰全国俳句大会」には、全国から1060句が応募された。

この応募句には、著名な選考者から選考して頂き、大阪府知事賞・大阪市長賞・蕪村顕彰俳句大学学長賞、文學の森賞をそれぞれ1名づつ授与した。

「蕪村顕彰全国俳句大会」を開催することになったのは、江戸時代の三大俳人の内、松尾芭蕉と小林一茶の生誕地は、江戸時代当時から知れ渡っているが、与謝蕪村の生誕地だけが、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だとは、残念ながら知る人は少ない。

蕪村の生誕地がなかなか分からず、やっと「定説」になったのが、戦後直後の事だったそうだ。この事を教えてくれたのは、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授であった。

奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったという。藤田教授の話によると、下記のようなことだった。

(蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍の舞台だった江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという「記録」すら残されていない。このため、蕪村の生誕地を確知していた人が、誰もいなかったのではないかという。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。ただ残念なことに、その舞台となる淀川毛馬馬堤近が、肝腎の自分の「生誕地」だとは、「春風馬堤曲」には一切触れていない。

しかし、その後願ってもないことが起きた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中に、自分の生誕地が「毛馬村」だと、下記のように初めて綴ったのだ。これが生誕地解明の歴史的契機となった。

<「春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それなら、これが物証となって、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かったのだろうが、そうならなかったのには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村真筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地複数説」を加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態が続いていたのだ。

ところが、終戦直後、奈良県で終戦直後偶然見つかった、先述の弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」が、やっと「蕪村直筆」だと「認定」されたのがよかったのである。

これによって「毛馬生誕地」説が確定した訳だ。終戦直後の認定だから、遅きに失したと言わざるを得ない。しかしこれは「蕪村生誕地複数説」を破棄し、毛馬村を生誕地とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになる。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述に淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

以後、生誕地が毛馬村であることを不動のものになった。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村真筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも無かったことになるだろう。>

こうして、蕪村が大阪生誕俳人と称されるようになってから、余り時間は経っていない。

そのため蕪村は、芭蕉や一茶とは異なり、江戸時代以来、生誕地の大阪で「蕪村生誕顕彰」は疎かにされ、これこそが生誕地を知る人が少なかったことにつながり、誠に慙愧に絶えない。

実は、与謝蕪村の生誕地毛馬村の庄屋(?)の家屋は、明治29年に明治政府の「淀川改修工事」で、国の河川淀川の川底に埋没させられ、今でも何処に生誕地の生家があたったかも判らない。

現在、毛馬の淀川堤防に「蕪村生誕地碑」があるが、この碑の場所が生誕地ではなく、その碑の眼下に流れる「淀川川底の何処かの場所」が生誕地ということになる。

このために、今でも地元大阪ですら「蕪村生誕地が毛馬村」であることを知らない市民は多い。次世代を担う児童生徒の教科書にも掲載されていないことを考えると、生誕地のことを知らない人が多いことはことも当然のことだろう。

だから、われわれ主催講座「蕪村顕彰俳句大学」では、文學の森と共催して、2年後の2016年に「蕪村生誕300年祭」を開催し、蕪村生誕地高揚と後世への伝承、そして国際化への発信を大々的に進めたいと考えている。

序でながら、筆者は藤田教授に下記の質問をした。

「蕪村は、淀川を下って源八橋から船を降り、浪速の弟子の下に吟行の往き来きしていましたが、「春風馬堤曲」に記述しているように、それほど生誕地の毛馬に郷愁があったのであれば、源八橋の極く近郊にあった毛馬村生家に立ち寄ってはいないのは何故なのでしょうか?その学説はありませんか?」

藤田教授の答えは次のようだった。
<それを証明する「学説」はありませんね。恐らく一度も立ち寄ってはいないでしょう。蕪村が心秘めた深い郷愁にも拘わらず、立ち寄ら無かったのは、それ超える幼少の頃の特別な事情があったのでしょう>ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったのに、立ち寄りたくない強烈な想いがあったのだろうという推察が浮上してくる。

恐らく奉公人だった母と実家の父が亡くなってから、私生児だった蕪村は、実家も引き付けず、家人たちからも極めつけの「いじめ」を受けただろう。そのために十七・八歳で家を出家せざるを得なかったのではないか。

そのことが「ひと一倍の郷愁はあっても、いじめが再来する生家には生涯立ち寄りたくなかった」気持ちに間違いない。

最後になりましたが、どうか、2年後の「蕪村生誕300年祭記念行事」に、是非共 皆様のご賛同とご支援を伏してお願い申し上げます。(了)

◆「蕪村顕彰俳句大学」ホームページアドレス
http://www.buson-kensho-u.com/

2014年08月03日

◆大阪にある自然の「滝」をご存知?

毛馬 一三



大阪のまち中に、自然の「滝」があることを知ってる?と訊いても、多分大方の人は首を傾げる。ビルの屹立する大都会大阪のまち中に、そんな湧き水が集まり、自然「滝」となって流れ落ちる光景など想像出来ないからだろう。

紛れも無く私もその一人だった。が、つい先日知人が話の序でに教えてくれた上、そこに案内までしてくれたことがきっかけで、この「大阪市内で唯一の滝」に行くことが出来た。

その「滝」は、大阪市市内の夕陽が丘近郊にあった。名称を「玉出の滝」といった。聖徳太子が建立した四天王寺前の大阪市営地下鉄「夕陽ヶ丘駅」を出て谷町筋から西に向かうと、「天王寺七坂」や「安居神社」「一心寺」など、寺社や名所が点在する上町台地の歴史のまち、伶人町の中にある。

その天王寺七坂のひとつ、清水坂を登り、細い道を行くと清水寺に着く。本堂の前を抜けて墓地に挟まれた石段にさしかかると、水音がかすかに耳朶を打った。足早にそちらに向かうと、目指す「玉出の滝」に辿り着いた。

「玉出の滝」は、「那智の滝(和歌山)や不動の滝山(岩手)」のように、山の頂上から滝壺めがけて、怒涛のような勢いで流れ落ちる巨大な滝ではない。境内南側の崖から突き出した石造の三つの樋から、水道水の様な水が流れ落ちる、ささやかな滝なのである。

しかし5メートル下の石畳を打つ三筋の水の音は、大きな響きを伴い、その響きは人の心の奥底の隅々にまで行き渡る、いかにも行場の滝という感じだ。

知人によると、この「滝」には、落水で修行する常連の人がいるが、新年には滝に打たれて、延命長寿などを祈願する人が多いとい。

実は、この「玉出の滝」を見た瞬間、京都の清水寺の「音羽の滝」と瓜二つだと、感じた。

私の亡くなった母親のいとこの嫁ぎ先が京都清水寺の皿坂にある「清水焼の窯元」だったので、そこに遊びに行った時見たのが「音羽の滝」だった。

案の定この清水寺は、京都の清水寺を、寛永17(1641)年に模して建立した寺で、かつては京の清水にあるような懸造りの舞台も存在していたらしく、その時「音羽の滝」も、この「玉出の滝」として再現されたのだという。
 
周辺は、ビルばかり目立つ都会の環境だが、この大阪唯一の「玉出の滝」が、近くの四天王寺の金堂の下にある清竜池から湧き出る霊水がここで滝となっていると言い伝えもあるところから、大阪の歴史の香りを髣髴とさせる自然の造形といえる。

余談ながら、この「玉出の滝」の側に、冒頭に記述した「安居天神」がある。真田幸村の憤死の跡として知られている神社である。

大阪夏の陣で決戦を挑んだ西軍の真田幸村は、天王寺口(茶臼山付近)に布陣した。徳川方の主力が天王寺方面に進出してくることを予測してのことである。

真田幸村の狙いは、家康の首を取り豊臣家を再興させる戦略だった。真田隊は一丸となって突撃を開始、東軍の先鋒越前軍一万三千を撃破。ついに家康本陣営に突入、この真田陣の猛攻で、家康の旗本は大混乱に陥り、ついに家康の馬印までが倒された。

馬印が倒されたのは、武田信玄に惨敗した三方ヶ原の戦い以来、2度目だった。家康も本気で腹を切ろうとしたが、側近に制止され思い止まる。家康が幾多の合戦で切腹しようと決断を迫られたのは、後にも先にも、生涯でこの2度だけである。

が、真田隊も猛反撃に遭って劣勢となり、今度は家康が、総攻撃を命じた。

幸村の要請にも拘らず大阪城からの加勢は現れず、戦場で傷ついた幸村は、ここ「安居天神」の中の樹木に腰を下ろして手当てをしているところを、越前軍の兵に槍で刺され、落命した。

こんな大都会のまち中で、行場ともいうべき市内で唯一の「玉出の滝」が、真田幸村の戦場の近くであったことなども連想しながら、一度ゆっくり散策されることを勧めたい。(再掲)