2016年04月10日

◆蕪村生誕地を証明した「一通の書簡

 
毛馬 一三



松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸時代の俳人与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だということは、江戸時代当時から知れ渡っていると思っていた。

仮にそうでなくとも、明治時代になって、蕪村俳句を初めて評価し世に紹介した正岡子規が、毛馬生誕地は把握し、これを世に広めていたに違いないと思い込んでいた。

ところが、事実は全くそうではないことが明らかになり、驚かされた。

それの事を知らされたのは、NPO法人近畿フォーラム21主催「蕪村顕彰俳句大学」講座で講師をお願いしている、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授と、懇談した時であった。

結論から先にいうと、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は終戦直後のことだということだった。奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったというのである。

藤田教授の話によると、次のようなことだった。

(蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍していた江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという明確な「記録」は残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、いなかったのではないかというのだ。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。が、残念なことにその舞台となる馬堤近くが自分の「生誕地」だとは一切触れていない。

想像してもこの書き方では、「生誕地を毛馬村」と結びつけることは出来ない。

しかし、その後願ってもないことが起きていた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中で、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと綴っている。

春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それなら、これが物証となって、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かったのだろうが、そうならなかったのには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村直筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地複数説」を加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態だった。

しかし、前記の如く、奈良県で終戦直後偶然見つかった弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」が、「蕪村直筆」だと、公式に「認定」されたため、「毛馬生誕地」説が確定した。終戦直後の認定だから、遅きに失したと言わざるを得ないが、これは「蕪村生誕地複数説」を破棄し、毛馬村を生誕地とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになる。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

以後、生誕地が毛馬村であることを不動のものになったことになる。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村直筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも無かったことになるだろう。)

こうして、蕪村が大阪生誕の俳人と称されるようになってから七十余年しか経たない。そのため蕪村は、芭蕉や一茶とは異なり、江戸時代以来、生誕地大阪で「蕪村生誕顕彰」が疎かにされてきたことに繋がってきており、誠に慙愧に絶えない。

このために、今ですら地元大阪で「蕪村生誕地が毛馬村」であることを知らない市民は多い。次世代を担う児童生徒の学習の俎上にすら上がっていないことを考えると、児童生徒が生誕地のことを知らないことも当然のことだろう。残念で仕方がない。

だから、われわれ「蕪村顕彰俳句大学」では、来年の蕪村生誕三百年に向けて、「三百年記念祭諸行事」を開催し、俳句文化活性と後世への伝承、そして国際化への発信を大々的に進めたいと考えている。

余談ながら藤田教授との懇談の中で、更に驚いたことがあったことを記して置きたい。

「蕪村は淀川を下って源八橋から船を降りて浪速の弟子のもとに往き来きしていたようですが、それほど郷愁があったのなら、極く近郊にあった毛馬村の生家に立ち寄るのが自然だと思うのです。その痕跡はありませんか」
答えは「それを証明する歴史書類はありません。立ち寄ったか否かどうかも、わかりませんね」ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったとしても、生誕地へ何らかの理由で寄りたくない気持ちがあったのだろうという推察が浮上してくる。

恐らく奉公人だった母と実家の父が亡くなってから、家人たちによる極めつけの「いじめ」があり、そのために十七・八歳で家を出ざるを得なかったのではないか。そのことが「生家には生涯立ち寄らなかったこと」に結びついているのではないだろうか。

これはあくまで私の推論である。

最後になりましたが、どうか、今年開催の私たち主催の「蕪村生誕三百年記念祭」の諸行事に、是非共皆様のご賛同と、ご支援を伏してお願い申し上げます。(了)再掲

2016年03月30日

◆軍事メッセージの万葉集

毛馬 一三


韓国百済の都扶余の遺跡から、618年に作成された「出挙(すいこ)」の木簡が、発見されている。

「出挙」とは、作付けの季節に農民に利子つきで貸出した「種もみ」を、収穫の秋に利子分を含めた作物を現物で回収する制度で、木簡には農民毎に回収した「作物の量」が記録されている。画期的な国家制度だ。

実はこの同じ木簡が、日本では飛鳥時代以前の遺跡から、発掘された。

つまり、この「出挙」は中国で発祥した超国家税収制度。それが百済を通じて、日本へ導入されているから、百済と日本の間に当時、極めて緊密な外交関係があったため、日本へこうした国家構築に属する機密が伝わって来たのだ。

この発掘記事を読んだとき、日本と百済との「秘めたる繋がり」の秘話を話してくれた、韓国の著名女流作家のことを思い出した。

同作家は、李寧煕(いよんひ)氏。韓国大手新聞社「韓国日報」の政治部長・論説委員長から国会議員を経て、韓国女流文学会会長を歴任。現況は連絡が取れない。

私は、「韓国日報」からの紹介で、李氏が来日した折、2日間奈良県桜井の「万葉の道」やその周辺の「古代天皇古墳群」散策の案内役を務めた。

その際李氏が、こもごもと語ってくれたのが、この「万葉集」に秘められた日本と百済との「軍事、政治に関する驚くべき秘話」だった。

李氏が、日本の「万葉集」と関わりを持ったのは、国会議員だった当時、日本の高校の歴史教科書に韓国関係記述が歪曲されているという問題が提起されたことから、日韓両国の国会議員による特別委員会が設けられ、事実調査を始めたのがきっかけだったという。

つまり、歴史書が歪曲されているかどうかに迫るには、どうしても古代史にまで遡って検証する必要があり、そのために両国の歴史書に目を通すうち、日本の「万葉集」に魅せられて仕舞ったという。

ここから「万葉仮名」の研究に惹かれたそうだ。ところが「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語では判読出来ない歌のほとんどを、何と韓国語で詠んでみると、「未詳歌」ではなく、総て読み明かせること分かったというのだ。これは当時としては大発見に違いなかった。

帰国した李氏から、私に李氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」が送られてきた。読んでいくうち「日本語訳では見えない様々な謎」が書き込まれて居た。その中で、特に驚くべきことが、こう記述されていた。

<万葉集20巻、4516首の内に、日本語では判読できない、正式に「未詳歌」は「3首」があり、このうちの1首に恐るべきメッセージが織り込められている。

斉明天皇(655年即位)の心中を、額田王(ぬかだのおおきみ)が代わって歌にしたのが、それである。

◆原文:  金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念 <巻1の7・未詳歌>

・日本語詠みだとこうなる。(秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 刈廬(かりいほ)し思ほゆ)

この歌は、「日本語解釈」では、下記のようになっている。
(秋の野の 萱(かや)を刈って屋根を葺き 旅宿りした 宇治のみやこの 仮の庵が思われる)。

この解釈だと、額田王が何を言いたいのか、さっぱり意味が伝わってこない。だからこの歌が、解釈不能または解意不明であることから、公式に「未詳歌」とされたのだろう。

そこでこの祥らかでないこの歌の原文を、韓国語で読んでみた・・・。すると、
(徐伐『そぼる』は 鉄磨ぐ 締め苦しむること勿れ 上の都は 刀来るぞよ 陣地固めよ)

・韓国語訳―(新羅は刀を磨いで戦いに備えている。締め苦しめないといいのに・・・。吾がお上の、百済の都は、敵が襲ってくるから、陣地をお固めなされ)。>
ということになるのだ。

李氏の韓国語詠みによる解釈によると、これは斉明天皇が百済に送った「軍事警告メッセージ」ということがはっきり分かる。

となれば斉明天皇が百済に、これほどまでの「国家機密情報」を送らなければならなかった理由とは何か、その疑問にブチ当たる。

<皇極天皇(斉明天皇と同じ・斉明天皇は二度即位)から斉明天皇の時代は、朝鮮半島では、新羅、百済、高句麗の3国が緊張状態にあった。

この歌(皇極時代の時の648年に入手していた情報)は、斉明天皇に即位してから額田王に作らせた歌だ。百済が、新羅・唐連合軍に滅亡させられた661年より13年も早いメッセージだから、このメッセージ自体に歴史的真実性がある。

実は斉明天皇は、百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、百済を援けるため、難波(大阪)で武器と船舶を作らせ、自らその船に乗り込んで瀬戸内海を西に渡り、百済とは目と鼻の先の筑紫(福岡)の朝倉宮で新羅・唐との戦争に備えた。

しかし斉明天皇は、遠征軍が百済に向かう前、意思に反して亡くなっている。

斉明天皇の異常なまでの「百済ひいき」について日韓学者の一部には、斉明天皇は百済第三十代武王の娘の「宝」で、百済最後の王、義慈王の妹だったとの説がある。>

恐らく斉明天皇自身さることながら、親族関係も百済と強力な血脈が在あり、この額田王の「万葉集」(未詳歌)歌に秘められた「軍事警告メッセージ」も、その視点で詠めば「未詳歌」ではなくなってくる。

「万葉集」を古代の珠玉の日本文学と仰ぐ人たちにとっては、この韓国語読みは認め難く、あくまで額田王作の「未詳歌」としてしか今でも取り扱わない。

しかし、このあと白村江の戦いの敗戦(663年)まで百済国の救援にこだわり続けてきた日本の歴史を見れば、日本と百済との関係は極めて緊密であったことは明らかだ。

だとすれば、万葉集愛好家も韓国語で詠み明かされる「万葉集の未詳歌」に、新たな視点を改めて投げかければ、「万葉集」の珠玉を更に広げることにはなるのではないだろうか。(了)再掲

参考―・李寧煕氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」
   ・小林恵子著「白村江の戦いと壬申の乱・現代思潮社」
   ・ウィキぺディア

2016年03月20日

◆顕微鏡検査で歯周病菌発見

毛馬 一三



奥歯に違和感があったので、近くの「歯科医」に診療に行った。これまで虫歯は一本もなかったので、歯科医院に行くのは10余年振りのことだった。

診察の結果、奥歯1本に軽度の虫歯があるとのことで、治療を開始することになった。とにかく軽い虫歯発見だけで済んだため、一旦は胸を撫で下ろした。

ところが驚いたことがあった。この歯科医院の診察室には「位相差顕微鏡」が備えられており、患者の口内に歯周病菌やカビ菌が有るか否かをたちどころに検査するシステムが整えられていた。

歯科医院には「顕微鏡と映像公開装置」のセットが10年ほど前から導入され始めたそうだが、長期ご無沙汰していた筆者にとっては、このようなセットがあるとは、全く知らなかった。

映し出された筆者の口内検査画面の映像をじっくり見ると、紐状の歪んだ塊が幾重もあり、その間を原虫みたいなものが無数に蠢いている。初めて見る映像だったので、不気味な映像に悪寒が込み上げてきた。


歯科医師の説明によると、映像で蠢いているのは歯周病菌で、紐状の塊はカビ菌だという。なんと口内で歯周病菌が見付かったのだ。

歯周病菌は、回し飲みや回し食い、箸の使い回し、キス、くしゃみなどが感染ルートとして上げられ、一旦口の中に進入すると定着して発症するケースが多いそうだ。外食の多い人には特に罹患の可能性が高いという

歯周病は、口の中で出血すると血管に入り、心臓で炎症を起こすという。歯周病の患者が心臓病になる確率は2〜3倍にあがり、このほか食道癌、糖尿病、早産、高血圧などにも関与しているという。

カビも酸を出すので歯を溶かし、虫歯につながるという。予防を怠れば、どちらも恐ろしい病気だ。

このため歯周病菌予防とカビ菌除去のために、「細菌の除去薬剤・シスロマック」とスプレー式カビ取り歯磨き剤の「ぺリオバスターN」を出してもらい、予防措置を講じた。

2週間後に再度行った「顕微鏡」検査で、症状に改良が確認されたので一安心したが、油断は禁物。今も歯の手入れには真剣に取り組んでいる

ところで、歯周病の進行を症状の具合でみると、
@ 口臭、ネバネバ感
A 歯ぐきに赤み、時々出血
B 歯ぐきの炎症、腫れ、赤みの悪化
C 歯ぐきを押すと膿が出る
D 口臭が更に悪化、出血がひどい、歯が揺れる、歯ぐきがよく腫れる
E 歯が痛くて噛めない、歯が揺れて噛めない、歯ぐきが常時腫れている

といった順序で進行いくという。無感覚の中で進行する場合もあるという。

であれば、定期的に歯科医院に通い、歯周病が再感染していないかを「顕微鏡」で調べる必要があるようだ。またカビ菌も歯周病菌の棲みかとなって歯周病に再感染する要因になるので、適切なクリーニングが求められる。

序でながら、義歯にもかなりのカビが付くので、歯周病と関わりがあり、義歯のブラッシングも留意すべきだそうだ。

歯周病菌が「顕微鏡」で発見されたものの、歯周病には患っていなかったのでラッキーだったが、この機会に歯の手入れには一層気を配って行こう。そうしないとこれから美味しいものが頂けなる。
参照:<国際歯周内科学研修会監修・顕微鏡検査のススメ>   

2016年03月17日

◆大阪市会で初めて「蕪村」の討議

毛馬 一三

         
大阪市会本会議で3月3日、「俳聖・与謝蕪村の生誕300年」の文化施策の展開の方針について、市会で初めて公明党の八尾進議員が、吉村洋文市長の考えを下記のように質しました。

◆八尾進議員

文化の振興に向けた取り組みについてお尋ねします。

・まずは、文化の振興に向けた取り組みについてであります。
・現在の文化振興計画は、本年3月で期限が切れ、新計画は秋に策定されるときいています。


・つまり、平成28年度当初予算における文化施策にかかる事業は、骨子となる計画のない中で組み立てられたものです。これでは、文化施策に対する認識が低いと言わざるを得ません。

・そこで今年は、大阪が生んだ「俳聖・与謝蕪村の生誕300年」という節目の年でもあり、このように文化的・歴史的に魅力のある大阪市に見合った文化施策の展開・充実が求められると考えます。市長は<「俳聖・与謝蕪村の生誕300年」>の文化の施策を如何にお考えでしょうか。

◆吉村洋文市長

・大阪では、文楽をはじめ日本を代表する文化が創造され、蕪村など幾多の創造性豊かな人材を輩出されるなど、都市の発展に文化が大きな役割を果たしてきました。

・文化施策における行政の役割は、文化振興と観光資源などとして国内外に発信すると共に、市民・団体の自主性、創意工夫による活発な文化活動が行われるようサポートすることです。

・こうした市民向け施策を盛り込み、大阪らしい文化充実を図って参ります。

以上が市会討議のやり取りです。


◆そこで市会で、「大阪の俳人与謝蕪村の生誕300年記念の年」を、初めて取り上げた八尾進議員に敬意を表します。

与謝蕪村は、江戸時代の三大俳人の一人ですが、今まで「蕪村生誕地」が大阪毛馬村であること自体が、地元でもあまり知られておらず、ましてや大阪市会で討議に出されたことも初めてです。

吉村市長は、「今年の与謝蕪村生誕300年記念の年」の行事には優先的に答えず、大阪文化振興の全体施策に意欲を示しました。勿論「与謝蕪村生誕300年記念の年行事」進行が、市長の脳裡には存在するものと信じます。

この意味でも、新人市長から直近の文化振興の方針を引き出した八尾議員の今回の討議成果を評価します。


ところでNPO法人近畿フォーラム21は、蕪村生誕300年記念事業として今年1月23日に、蕪村公園の隣「淀川神社」に「蕪村銅像を建立」しました。

3月15日には、蕪村生誕300年記念事業として「第12期蕪村顕彰俳句大学講座」の「優秀句記念プレート碑」を蕪村公園に建設しました。

・5月1日には、都島区民センターで「蕪村生誕300年記念シンポジューム」を開催します。村田正博氏(大阪市大教授・蕪村生誕300年記念実行委員会委員長)が主導して、学者・俳人の講演と演壇での討論も行います。

・また、今年9月11日には、市立淀川小学校で、「蕪村顕彰全国俳句大会表彰式」を開催し、地元・全国・海外の俳句愛好家・児童生徒からの俳句応募作品を選考して、優秀句に表彰状を授与致します。更に同日近郊の蕪村公園で「蕪村生誕300年祭」の行事を行ないます。

これは、大阪俳人蕪村の実績と生誕地が毛馬町で在ることを、後世に継承するのが、我々NPO法人近畿フォーラム21の念願です。

吉村市長、どうかこうした「蕪村生誕300年祭」にご協力を頂きますよう、切にお願い致します。

2016年03月12日

◆蕪村顕彰全国俳句大会に「文化庁が後援」を

毛馬 一三




画期的なことが、実現しました。

筆者主宰のNPO近畿フォーラム21は、活動主軸を「大阪文化の振興」に置いて、江戸時代の三大俳人の一人、大阪生誕の与謝蕪村を顕彰し、後世に伝承するために、平成22年4月に「蕪村顕彰俳句大学」第1期講座を開講し、今開講中の講座も既に第12期講座に達して、28年3月31日に終えることになります。

このNPO法人活動の開始と同時に大阪府、大阪市が「後援支援」に賛同して貰い、今は9団体が「後援団体」となっています。「蕪村顕彰俳句大学」の発展、と蕪村俳句の顕彰と当NPO法人の権威確保に力をお借りしています。

更に「俳句界」刊の兜カ學の森と協同して、第7期から「蕪村顕彰全国俳句大会」を開講し、地域主催の俳句講座の作品に加えて、全国から俳句応募作品を多数集められたことから 大いに母体の「蕪村顕彰俳句大学」は盛り上がりました。

こうした中で、筆者は、国の中央官庁に我々の文化振興の気概と積み上げてきた実績を評価して貰おうと、国レベルの官庁に「後援」を申請したいと考え、「文化庁」に実績書類と申請書を付けて懇請をしました。

「文化庁」としても、地方での文化活動実績の精査に長期に時間を懸け、何と平成28年3月7日付で、「文化庁後援名義の使用許可」を回答した文書を送付してくれたのです。「後援期間」は28年4月1日〜28年9月30日の「第13期蕪村顕彰俳句全国大会」の時期となっています。

筆者は、この「後援使用の回答」に、歓喜のあまり頭が真っ白になり感動しました。

つまり、28年の「蕪村生誕300年の年」に国の中央官庁から我々の事業に「後援」を頂いたことは、「夢」の実現だったからです。

早速、NPO法人近畿フォ−ラム主催で活動組織の「蕪村顕彰俳句大学の川原俊明学長(弁護士)」と「蕪村生誕300年記念行事実行委員会委員長(大阪市立大学分文学部教授)」に架電して知らせた処、二人からも最高の喜びの言辞が飛び出して返って来ました。

先ず、この「後援」を頂くで、5月1日に地元都島区民センターで行う学者、俳人の講演、俳人群と蕪村討論する「蕪村生誕300年記念シンポジューム」も、この「文化庁後援」を背景にして、おおいに盛り上がることは間違いありません。

更に9月11日に開催する「第13期蕪村顕彰俳句全国大会・表彰式」にしても、地元俳句受講生は勿論、全国・諸外国俳句愛好家、児童生徒から、従来を遥かに超える俳句作品の応募を決意して出句を増す感情を湧きだす事も、間違いありません。

どうしても「文化庁」が「後援を許可」してくれたこの機会に、大阪生誕であることの低い与謝蕪村の知名度を一層向上させると同時に、蕪村の名と、蕪村「俳句・絵画」を後世に継承することに絶大なお力を拝借させて頂けるものと信じます。

この意味で、今回の「文化庁後援許可」に対し、伏してお礼申し上げます。


2016年03月03日

◆蕪村が「生誕300年」の今年、還る

毛馬 一三



江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれている。ところが、その生誕地が大阪毛馬村だとは、余り周知されていない。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋主と結ばれて蕪村が産まれた。母親が若くして京都丹後の実家に帰郷したため、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことや、父の「庄屋家督継承」も出来なかったことから、意を決して毛馬村を飛び出したようだ。

蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも師事として俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。

蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。>以上
 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は江戸から帰り、定住していた京都から船で「淀川」を下って、生誕地毛馬村を横目に眺めながら、頻繁に大阪にやって来ている。

京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だった。ここから上がって大阪市内の数多い門人弟子らを訪ねて回り「吟行」を多重に行っている。

また蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねたり、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪以外のいたる所も巡行している   

<特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)>

ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされている。

それだけではなく蕪村は、上記の通り京都に還って来てから、大阪のいたる所を吟行して回り、大阪俳人として活躍の場としていたのだ。これもあまり知られていない。

船着き場の「源八橋から蕪村生誕地の毛馬まで歩いてみても、30分ほどしかかからない、短い距離に生誕地はあるのだ。それなのに蕪村は、生涯地・毛馬には一歩も足を踏み入れていない。

やはり母の帰郷後も、家人からは私生児のことをやり玉にあげられて過度の苛めに合い、出家まで決意させられた辛い思いで彷徨したこともあったという。大坂生誕地に帰郷すれば「怨念」が脳裏を支配し、これが立ち寄りを阻んだものだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎるものだったと思える。

とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いない。

自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。

蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。

筆者が主宰するNPO法人近畿ホーラム21主催の「講座・蕪村顕彰俳句大学」で、大阪市立大学と共同し 今年の2016年に「蕪村生誕300年記念祭行事」をする。

今年の1月23日に大阪蕪村公園の前に奈良時代から在る毛馬町の「淀川神社」に「蕪村銅像」を既に建立し、除幕式の御祭りを行った。

5月1日には「蕪村生誕300年記念行事実行委員会」(市大・村田正博教授)が、都島区役所のとなりに在る「区民センター」で、学者、俳人をまじえた画期的な「蕪村生誕300年記念シンポジューム」を開催する。

蕪村が氏子で生誕地から離れるまで参拝続けた現在の「淀川神社」をはじめ、長期に蕪村顕彰をしている「蕪村通り商店街」と共同事業もする。また地元淀川・大東連合町会や地元NPO法人とも、足並みを揃えていくことにしている。

「蕪村通り商店街」とは、9月11日の第13期の「蕪村顕彰全国俳句大会表彰式の開催したあと、同日近郊の蕪村公園で「踊り」を込めた「お祝いの行事」を計画している。

こんな中で「芭蕉・一茶」の生誕地では、生誕祭を含めた様々な記念事業や「大小各種の博物館」もあり、おおいに賑わいを集めて行っていろ。蕪村は「見送られている」状態。

それだけに、何としてでも今年2016年に「蕪村生誕300年祭」を敢行し、大阪俳人与謝蕪村の名を国内外に広めたいと考えている。

大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村を、「蕪村生誕300年祭」の時に、蕪村から「望郷魂」だけでも呼びたいと思っている。「淀川神社の蕪村銅像」建立は、「蕪村魂が還る」と朝日新聞が評価してくれた。今は、銅像の観に来る人がおおくなっているという。

「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を実現させることが、筆者の人生最後の願いでもある。(了)

2016年02月28日

◆選挙「出口調査」は大阪が始め

毛馬 一三



現在、米国での米大統領選挙に向けた候補者選びが、世界政治の最大の話題になっています。

こうした中、最近のNHKニュースで、ワシントン女性支局長が、上記の候補者選びの現場中継コメントの中で、ビックリする「発言」をしました。

それは、「選挙の出口調査“をしますと、共和党トランプの優勢が分かりました」と述べたのです。筆者としては「選挙出口調査」取材方法が、米国の選挙取材にも今は常用されているのだということが、思い掛けずにも知り得たからです。

筆者が、NHK大阪放送局(政治部出身・大阪府庁記者クラブキャップ)で、昭和51年衆院選挙の際、関西選挙デスクを務め、関西全記者の「候補者票詠み」と開票当時刻の「選挙管理委員会の速報」とを克明に照合しながら、候補者の「当選確実」を一瞬も早く打つ”、という極めて厳し記者業務を3回しました。

ところがそんな時、NHK大阪の岸和田支局の濱口忠昭記者が、投票を終えた有権者から投票所出口で「出口調査」を行い、それを選挙デスクへ「選挙情勢」として報告することを、臨時に試んだのです。

その報告を受けた時、デスクの筆者は、投票した有権者が投票後、党の動静を知られたくないために「本音」は云うまいと思い、その「当落」判断の時は、「候補者動静」の参考にさせてもらったのでした。

ところが、選挙後の反省会で、「当落」の結果と、この濱口記者の「出口調査」とを検証したところ、意外に合致していることが多いことが分かったのです。

これが貴重な「参考結果」になると判断と反省をし、選挙結果を早く知りたい「重要選挙区」を中心に、その次の総選挙から「出口調査」本格的に取り組みを開始し出しました。以来このことが、NHK報道局政治部内に広く知れ渡り、なんと全国NHK放送局にもひろがって、実施され出したのです

そのあと、世界にも徐々広がっているとの噂は聴いていましたが、今回ワシントンンNHK支局長のはっきりしたコメントを耳にした時、これが「大阪発出口調査」がキッカケであったことに、改めて歓喜したのです。
そこで、以前にこの出口調査のキッカケを作った濱口忠昭元記者の「発想と感想」の記事を頂いていましたので、再掲したいと思います。

◆濱口忠昭元NHK記者

「当選確実」の速さと正確さが、選挙報道に当たるメディアの真価を問われ熾烈な争いです。仮に「当選確実」を誤って出せば、そのメディアの信用は失われ、勿論担当の記者生命は終わりです。「当確」を打ち間違えて左遷された選挙デスクを何人も知っています。
 
ところで、ふとしたきっかけから、そうした願望をほぼ果たすのに効果があるのではないかと考え、数年にわたり試行錯誤を繰り返しながらようやく発案したのが「選挙当日の出口調査」でした。

そもそものきっかけは昭和46年、NHK大阪放送局報道部の岸和田通信部記者として選挙取材の時のことです。

投票所の近くで有権者の様子を取材中、たまたま投票を済ませた知人から声を掛けられた際、何気なく「誰に投票したのですか」と聞いた質問がそもそもの始まりでした。

選挙は中立、公平が大前提で、選挙管理委員会の発表前に投票結果を有権者個人から聞きだすのは、なんとなく憚れる雰囲気でした。

ところが驚いたことに、開票の後にこの「出口調査」の結果と候補者(政党)の得票数とを突き合わせて検証したところ、なんと両者が極めて近似傾向を示し、候補者間の優位さと政党間の得票順位を捉えていました。

「やった!この出口調査をやれば、当確が迅速・正確に打つことが出来、寸刻を争う他社メディアとの速報報道を制することができる」と、わが胸を躍らせました。

選挙後の会議でこの「出口調査」が検討された結果、有効であるとの結論が出され、以後NHK大阪報道部の選挙取材でこれが採用されたのです。「出口調査」が大きく羽ばたき出した瞬間でした。

最近の選挙報道では、「出口調査の結果によりますと」などと使われるのが、当たり前になってきたためでしょうか、取材される側の有権者もその心算で聞き取り気持ちよく応じているようで、トラブルは起きていません。ただ、特定政党にその調査結果を利用される恐れは無いのかと心配するのは私だけでしょうか。

いずれにしろ、投票所の前で、恐る恐る聞き出した私の素朴な発案が、時を経てまさかこんなに注目され、大きく飛躍しようとは思いもしなかっただけに余計に感無量です。<濱口元NHK記者再掲2009.02.05>

2016年02月23日

◆米原潜佐世保初入港のスクープ

毛馬 一三



筆者が初任地だったNHK佐世保放送局が、NHK長崎放送局に移され、今佐世保には「支局」となっているという話を、最近聞かされた。驚きだった。

初任地の勤務地は佐世保の高台にあり、そこからは「日本海軍基地」を引き継いだ「米海軍基地」の全貌が見え、航空母艦、戦艦の航行の姿をゆっくりと眺めることがでる良い場所だった。

しかし、その佐世保放送局が長崎に移って仕舞ったと聞いたとき、極めて寂しい思い出に包まれると共に、下記に綴って本誌に掲載、全国版「頂門の一針」にも掲載して頂いたことを思いだし、再掲となるが、「記者の生甲斐」ともむすびつくので、これから追々・・・。

山崎豊子著の「運命の人」(全4巻・文藝春秋)が発刊され、ベストセラーになった。山崎豊子フアンの筆者は、先ず同書1巻を買い求め、読み始めた。ところが、読み始めたところ、「エッ!?」と思う記述が目に飛び込んできた。

その記述とは、第1章の「外交官ナンバー」に書かれている「米原潜日本初入港スクープ」のくだりである。

主人公の毎朝新聞政治部の外務省担当・弓成亮太が同省審議官から耳打ちされたことがキッカケで、政府公式発表前に米原潜佐世保入港当日の朝刊で「スクープ」したというのだ。

だが、その「スクープ」より先に「原潜佐世保入稿」の「スクープ」を発信したのは、NHK福岡放送局からだった。しかも入港より丸1日早い、昭和39年11月11日早朝6時だったのである。

この「特報記事」を書いたのは、当時現地NHK佐世保放送局の新人記者の筆者だった。当時の思いと事実経過を「回想」しながら、経過等を綴ってみる。

そもそも、「米原潜佐世保米軍海軍基地入港」が発表されたのは、昭和38年3月。以来、佐世保では地元社会党系労働組合が「原潜入港反対闘争本部」を立ち上げ、これに市民団体も呼応して、大規模な入港反対闘争がはじまり、佐世保市内は米海軍基地周辺を中心に騒然となり出した。

とりわけ被爆地長崎と隣り合わせの現場佐世保では、米原潜搭載「核」持込みの懸念が市民らを強く刺激し、急遽集結した各地の革新団体や全学連が、デモ行進や集会を繰り広げ、騒動は日増しに激化していった。

その反対闘争の取材担当が、当時NHK佐世保局に赴任して間もない筆者だった。「サツ回り」と兼務だったが、入港反対闘争本部だった当時の佐世保地区労(佐世保地区労働組合会議)本部に夜討ち朝駆けを行い、反対運動の動静を追い続けた。

当時、総評系の佐世保労働組合の中核組織「全駐労」の委員長だった石橋政嗣氏が、衆院議員に転身して社会党書記長に就任していたことなどから、この反対運動は当時、野党第一党の社会党と緊密に連携しながら、全国規模の反対運動に発展していった。

筆者は、佐世保へ帰郷する石橋書記長を掴まえ、「反対運動」の中央の方針をしつこく聞き取って回ったことから、気難しい石橋書記長から特に目を掛けて貰う間柄となった。

同時に、地元の社会党系「佐世保地区労闘争本部」の速見魁議長、小島亨事務局長、西村暢文本部員らからにも気に入られ、極めて親密な関係を築くことが出来た。

この仕事は、歴史の現場を直に目撃できて、当に「記者冥利」に尽きる無上の喜びであった。しかも現場で親交を深めた取材対象の人脈とも、立場を超えた人間同士の触れ合いが出来ることも、記者職業として学んだ。そうした教訓は、駆け出し記者の記者魂を助長してくれた。

そんな折の昭和39年11月10日の夜10時過ぎ、佐世保放送局で夜勤勤務をしていた筆者に、佐世保地区労の小島事務局次長から電話が来た。

「あなたの家に電話をしたら、当直と聞いたので電話したよ。実はね、東京の石橋さんからあなただけに伝えなさいと今、指示があったので連絡するんだが・・・」

小島事務局次長はそう言った上で、「米原潜シードラゴンが12日朝、佐世保に入港する」という極秘情報しっかりとした口調で伝えてくれた。筆者は、足が諤諤と振るえ、気は動転し、感謝の意を短く伝えるのがやっとだった。

すぐさま、福岡放送局の報道課長の自宅に架電してその情報を伝えると共に、これから出稿する旨を伝えた。報道課長は直ちに東京政治部の首相官邸キャップに連絡し、政府から確認を取って貰う。「君は、米原潜12日入港の記事を急いで書き、送りなさい」という指示が出た。

11日の2時ごろ、原稿を送ろうとしているところに、報道課長から電話が来た。「官邸キャップが官房長官に確認したが、どうも煮え切らない秘密事項にしているような返事だった。東京政治部では、引き続き政府関係者に当たるが政府公式発表は、まだ遅れることは必至。NHK「スクープ」として「福岡発」で流したらどうかと、東京報道部では言っている。原稿をすぐ送ってくれないか」ということだった。

そこで、「米原潜あす佐世保入港・現地では大規模集会やデモ」という原稿にすることを考え、「闘争本部」にデモ裏付け取材をして上、急ぎ福岡局報道課に電話送稿した。「闘争本部」で特に友好の深い西村暢文氏に「他社は気付いていませんよね」と念を押し、確認を取ることを忘れなかった。これも記者の「秘策行為」と信じての事だった。

これが他社より1日早く福岡局から午前6時から、全国に向けて「米原潜あす佐世保入港」の「スクープ」が発せられたいきさつである。

NHK東京から同関連スクープニュースが出たのは、「米原潜」が入港する12日午前7時のニュースからであった。従って、小説の毎朝新聞のスクープには遅れを取っていない。

これを綴るに当たり、先述の西村暢文氏に電話してみた。46年ぶりの懐かしい声に接した。西村氏は原潜闘争の後、佐世保市会議員を9期務め、既に引退されたという。「あなたのスクープで、闘争本部が一層盛り上がったことを、時折思い出していたよ」という嬉しい返事だった。

感涙の言葉だった。歴史の現場にいち早く立ち会える記者稼業とは、この上ない幸せ者である。(了)  2009.07.14

2016年02月15日

◆韓国「青瓦台」襲撃未遂事件

毛馬 一三



韓国の朴槿恵大統領が、日本の歴史問題を掲げて批判するたびに、思い出すことが在る。

1968年のことだ。父の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領と、閣僚の暗殺を狙って、北朝鮮の第124部隊第1中隊第1小隊に所属する31名が、休戦ラインを突破し侵入した事件だ。

この韓国大統領府「青瓦台」襲撃事件は未遂に終わったが、事件を背負っていることは、余り韓国では口に出さない。これから追々。

筆者は、当時NHK大阪放送局の府庁キャップをしていた。同事件に深い関心を覚えたため単身で渡韓し、既知の有力新聞社社長の紹介を受けて、韓国政府公安機関KCIAの要人と面会し、事件の「詳細」を“取材”した。

勿論休暇をとっての行動だった。その取材内容は立場上「公」には出来なかったが、当時のCIAの要人からの「取材メモ」を探し出した。そのメモが見つかった。下記に添えておきたい。

冒頭に記述したように、韓国青瓦台奇襲は、1968年1月21日夜10時を期して決行する命令が、金日成首領から金正泰を通じて出された。青瓦台奇襲部隊は組長の金鐘雄大尉(事件後4日目に射殺)ら31名で、唯一生き残った金新朝も一員だった。

全員が機関短銃1丁(実弾300発)、TT拳銃1丁、対戦車手投げ弾1発、防御用手投げ弾8発と短刀で武装した。

奇襲部隊は、1組が青瓦台の2階を奇襲して朴正煕大統領と閣僚を暗殺、2組は1階を襲撃して勤務員全員を殺し、3組は警備員、4組は秘書室全員射殺というのが任務だった。

16日の午後、黄街道延山基地を出発。途中軍事休戦ライン南方の非武装地帯を緊張しながら訓練通り過ぎ、ソウルに真っ直ぐのびる丘陵を辿った。歩哨所や検問に遭遇しなかったため、金組長は「南」の士気が乱れている所為だと勘違いした。このため、31人全員が隊列を組んで堂々と行軍するという行動に出た。

だが行軍しているうち、「戸迷い」にぶち当たった。所持した地図に従ってソウルにいくら接近しても、「北」で教育された荒廃している筈のソウル市街は、なんと21日の夜になっても現れてこない。

南下すればするほど煌々とした市街地が現れてくるばかりだ。「これはソウルではない」。「じゃ、一体ここは何処なんだ」。「北」の教育が間違っているとは一瞬たりとも気付かない、ミスを更に重ねた。

その上に韓国軍の服装、装備に身を固めている限り怪しまれることはないと思い上がった金組長が、敵地で初めて出会った韓国人2人に「訓練中に道に迷ったのだが、ソウルに行く道を教えてくれないか」と、呆れた質問をしている。

奇襲隊に遭遇した2韓国人は、ソウルへの道筋を教えたものの、不審に思った。

眼下に広がるソウルを韓国軍が見つけられない筈はない。発音も韓国訛ではない。まして前年6月から「北」の武装スパイが上陸して韓国軍から射殺された事件を2人は知っていた。

2人は急ぎ山を降り、警察に通報した。これが襲撃防止の貴重な要因となった。

奇襲隊は21日夜9時、ソウル北方紫霞門の坂道を通過しようとして、警察の検問にひっかかった。尋問を受けた奇襲隊は慌てて機関短銃を乱射し、市バスと民家に見境なく手投げ弾を投げた。

奇襲隊は、青瓦台の800m手前まで迫りながら、韓国軍と警察の掃討作戦によりちりぢりに撃退された。2週間に及ぶ掃討作戦により、金新朝1名が逮捕され、他は全滅させられた。この銃撃戦で韓国側は、崔警察署長を含め68名が死亡している。

序でながら私の「メモ帳」には、青瓦台襲撃に失敗した「北」が、10ヶ月後の11月2日、襲撃組長金鐘雄大尉ら31名の同期生120人のいわゆるゲリラ別斑が、韓国慶尚北道蔚珍郡と荏原道三に海上から「南」に進入しているとある。

このゲリラ隊は、山岳地帯の小部落を武力で占領、赤化せよという工作命令を受けていた。部落民を集めて赤化を強要する「部落拉致事件」。事実従わない者は短剣で刺し、石で殴り殺すという虐殺を行っている。

「共産党は嫌い」と叫んだ李承福という10歳の少年の口を引き裂いて殺した。断崖絶壁をロープでよじ登り、部落を占領して住民を」拉致し、赤化地帯にするという想像を絶するこの「北」のゲリラ事件は、何故かわが国では余り知られていない。

「メモ帳」に記した青瓦台奇襲して朴正煕大統領と閣僚を暗殺しようとした歴史的事実は」前述のように、今は韓国でも秘密のようで、余り知られていない。

北朝鮮は、いまミサイルを発射をして、韓国・日本・アメリカを威圧している。

日本は、韓国大統領襲撃事件の歴史には関わりはないが、朴槿恵大統領も、これからは、父大統領を研究して、日米との友好関係をもっと真剣に考えていくべきだ。しかも北朝鮮が、これから、どのような攻撃して来るのかを検索して、自国防衛の対抗策を整えるべきだ。                     (了)

  

2016年02月06日

◆「納豆」を食べよう!

毛馬 一三



私の苦手な「納豆」が、骨粗鬆症の予防に効果があるという記事を読んだ。だったら、これからもっと「納豆」を食べることに挑戦しなくてはなるまい。それはこのあと云々。

私は九州の筑後地方で幼少期を過ごした田舎育ち。日露戦争で活躍した日本旧陸軍「久留米師団」の軍事施設がわが家の近くにあったが、周辺全体が農村地帯だったので大東亜戦争が終ったあとも、米や野菜など食糧難に接した記憶はない。

だが、有明海や博多湾からはかけ離れていた所だったので、「海の生魚」には縁がなく、塩漬けのサバなどをリヤカーに積んで売り歩く行商から「塩漬け海魚」を買い求め、焼き魚にして食べさせられたことは、今でも思い出す。

ところが珍事がある。どうしたことかわが町には「納豆」の売る店も、行商も一切なかった。だから「納豆」を食することはなく、名前すら知らなかった。勿論、我が家が「納豆」を何かの因縁で食膳から避けたという話も聞いたこともない。

「納豆」に初めて出会ったのは、18歳の時東京に進学して、下宿先の食卓だった。「納豆」にネギ、わさび、醤油をいれてかき回しご飯の混ぜて食べるものだったが、異常なねばりによる味と、腐ったような異臭に思わず顔を背けた。以来食しなかった。

しかし、横浜生まれで「納豆」常食していた家内と結婚してから、健康のために食べようと説得されたことで、「納豆」に卵の黄身、ネギ、醤油、からしを混ぜて食べるようチャレンジした。

ところが、そのあと「納豆」にセットされて売り出された「味付き特別たれ」が意外に美味しかったことから、その「たれ」をかけた「納豆」だけを「おかず」として食べるようになった。

そんな折、骨粗鬆症などの予防に「納豆」などに効果があるという北国新聞の記事を読んだ。
同紙によると、

<納豆などに多く含まれる成分「ポリアミン」に骨量の減少を抑える効果があることを、金大医薬保健研究域薬学系の米田幸雄教授らの研究グループがマウスなどによる実験で突き止めたという。

ポリアミンは老化抑制効果が注目されているが、骨への効果が判明したのは初めて。骨粗鬆症などに対する副作用が少ない予防、治療法の開発につながるとみられる。

米田教授や檜井栄一准教授らのグループは、骨粗鬆症モデルのマウスと、関 節リウマチモデルのラットにそれぞれ28日間、ポリアミンを混ぜた水を投与した。

骨粗鬆症モデルでは何も与えない場合、骨量が3〜4割減少したが、ポリアミンを投与したマウスはほとんど減少しなかった。関節リウマチモデルでは、何も与えない場合と比べ、骨や軟骨が破壊される量が3分の1程度に抑えられた。

さらに培養細胞実験で、破骨細胞にポリアミンを加えると、細胞の働きが抑制されることも確認した。
米田教授は「ポリアミンは納豆など日本人になじみの深い食品で摂取でき、副作用も少ないとみられる。特定保健用食品や医薬品などの開発につながる」と話した>としている。

たしかに高齢の時期になってくると骨粗鬆症が原因で股関節を骨折し、寝たきりになったという話よく耳にする。

序ながら「骨粗鬆症」に触れておくと
<骨粗鬆症(osteoporosis)とは、骨形成速度よりも骨吸収速度が高いことにより、骨に小さな穴が多発する症状をいう。背中が曲がることに現れる骨の変形、骨性の痛み、さらに骨折の原因となる。

骨折は一般に強い外力が加わった場合に起こるが、骨粗鬆症においては、日常生活程度の負荷によって骨折を引き起こす。骨折による痛みや障害はもちろん、大腿骨や股関節の骨折はいわゆる高齢者の寝たきりにつながり、生活の質(QOL) を著しく低くする。> 出典:ウィキペディア

上記の金大医薬保健研究域薬学系の米田幸雄教授らの研究グループは、納豆などに多く含まれる成分「ポリアミン」に骨量の減少を抑える効果があることを英国薬理学雑誌(電子版)に発表し、特許を出願したという。
「納豆」好きな人には恥ずかしいことだが、これからは食べることに抵抗を感じなくなってきた「納豆」を、毎日何度か食べるような常食にしようかなという思いが湧いてきた。

なお、心臓病や脳梗塞の治療を受けて、「抗血液凝固剤「ワーファリン」を飲んでいる人は、「納豆」は禁忌とされているそうです。どうか「ワーファリン」を飲んでいる人は、絶対に「納豆」は食べないでください。        (了)

2016年02月05日

◆望郷の念から還って来る与謝蕪村

毛馬 一三



江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれている。

ところが、その生誕地が大阪毛馬村だと余り周知されていないのだ。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、母親が若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。

蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも師事として俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。

蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、生誕地毛馬村をすり抜けて、頻繁に大阪に下って来ていた。

京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だった。ここから上がって大阪市内に居る数多くの門人弟子らを訪ねて回っている。

また蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねたり、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪市内いたる所を巡回している   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされている。だが実際は、大阪も上記の通り活躍の場だったのだ。これもあまり知られていない。

船着き場の源八橋から生誕地の毛馬まで歩いてみても、30分ほどもかかからない。それなのに蕪村は、生涯毛馬村には一歩も足を踏み入れなかった。

やはり母の死後、家人から苛められ過ぎ、出家まで決意させられた辛い思いが、大坂に帰郷すれば脳裏を支配し、終生「怨念化」して立ち寄りを阻んだのだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎるものだったとしか思えない。

とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いない。

自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。

蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。

筆者が主宰するNPO法人近畿ホーラム21主催の「蕪村顕彰俳句大学」は、大阪市立大学と共同し今年の2016年に多彩な「蕪村生誕300年祭行事」開催を進めている。

先行事業とし今年1月23日、毛馬の淀川神社・地元淀川連合町会・蕪村通り商店街・地元俳句愛好家と共同事業として、「氏子の蕪村が幼少の頃と江戸へ下るマ迄に参詣し続けた「淀川神社」に、「蕪村銅像を建立」し「除幕式」を行った。

この自分の銅像を観て、蕪村が未還だって生誕地毛馬町に還ることが出来たのだ(朝日新聞)。これを知った蕪村フアンや地元の人が、大勢神社に銅像を見に来ている。先行事業が実を結んだし、蕪村を喜ばせた。

次の事業は、先述の大阪市立大学の村田正博教授と共同して5月1日(日)午後1時から、都島区民センターで、学者や俳句会主宰者などが「蕪村生誕300年を祝い」「俳句の面白さやつくる愉しみ」の講演や討論を行う「シンポジューム」を開催することだ。朝日新聞記事でこれも読んだ大阪府下や地元の人から「参加する」ための問い合せの電話が、驚くほど多くやってくる。歓喜だ。蕪村生誕300年祭事業にムードは盛り上がってきた。

「芭蕉・一茶」の生誕地では、生誕祭を含め様々な記念事業を行っている。しかし大阪俳人蕪村生誕を顕彰する「お祭り」の実績は全くない。何としてでもこうした「蕪村生誕300年祭」事業を成功させ、大阪俳人与謝蕪村の名を国内外に広めたいと考えている。まだ事業の計画は進んでいる。

大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村を、「蕪村生誕300年祭」開催の時には、淀川神社に「蕪村魂」だけでも還って来て貰いたいと思っていたことが実現するだろう。「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を生誕300年後に現実に繫いでやることが、筆者の重き願いでもある。(了)

2016年01月31日

◆徳川家康を亡ぼせなかった真田幸村

毛馬 一三



家康が、生涯の戦歴で死に損なったのは、2度である。1度は、元亀3年(1573年1月25日)、武田信玄軍に徳川軍が惨敗した「三方ヶ原の戦い」の時。討ち死に寸前まで追い詰められたが、僅かな供回と必死で浜松城へ逃げ帰り、命拾いをした。

2度目の「死に損ない」は、慶長20年(1615年)年5月7日の「大阪夏の陣:茶臼山の戦い」(大阪市天王寺)の時だ。

家康は、この時二度も「自害」しようとしたが、部下の将に諌められて逃亡。敗戦の将の汚名など、どうでもよかった。もし家康が命を取られていたら「徳川幕府」は「夢のまた夢」だったことに間違いはない。

この徳川幕府の存亡に繋がる家康の2度目の「死に損ない」地は、案外知られていない。

この「死」からの逃避は、1番目の「三方ヶ原の戦い」より比較にならないほど悲惨なものだった。歴史上でも実に深い意味合いも有する。そのことをこれから追々。

その戦火跡地・「大阪夏の陣:茶臼山の戦地」(大阪市天王寺)を、友人たちと訪ねた。

この大阪夏の陣:茶臼山の戦いで、家康を死に追いつめたのは、実は、真田幸村である。豊臣方の主将の一人だ。この真田幸村の戦闘ぶりは、徳川軍を総じて縮みあがらせた。

幸村は、茶臼山の戦の前日の慶長20年(1615年)年5月6日の「道明寺の戦い」で、徳川軍の先鋒隊・伊達政宗隊を銃撃戦の末に一時的に後退させている。先鋒隊撃破という、幸村の先勝だった。

この勝利で、真田隊は、豊臣全軍を一時撤収させた。撤収には、訳があった。豊臣方は主武将が相次いで討死した上、全軍も疲弊していたため、兵士に休息を与える配慮からだった。

そこで幸村は、秘策を考え、上奏を試みる。「兵士の士気を高め、徳川を打ち破るには、豊臣秀頼本人の直接出陣有るのみ」と直訴したのだ。

ところが豊臣譜代衆や、秀頼の母・淀殿に阻まれ、秀頼の出陣は実現しなかった。

この怠慢な判断が、結果的に豊臣方の滅亡に繋がる。

そこで幸村は、「そんなことでは徳川方を追い込めない」として、5月7日、大野治房・明石全登・毛利勝永と共に、最後の作戦を立案した。

それは四天王寺・茶臼山付近の右翼に真田隊、左翼には毛利隊を布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して、家康の本陣を孤立させた上で、これを急襲・横撃させるという作戦だった。

ところが、思いもよらず作戦が狂った。一部の毛利隊が合図を待たずに射撃を開始してしまったからだ。この有効な戦法は、頓挫せざるを得なかった。

そこで幸村は、腹を括った。「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!」と決心し、真っ正面から真一文字に徳川家康本陣のみに狙いを定めて、突撃を敢行した。

この突撃は真田隊のみではなく、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦。これにより徳川勢は壊乱し、総崩れに至った。

幸村は、後方の家康本陣に三度攻め込み、家康の親衛隊・旗本・重臣勢を蹴散らして本陣を蹂躙、「馬印」も倒した。

真田隊の凄まじさに追い詰められた家康は、二度も「自害」を覚悟したという。もう一押し攻め込めていたら、家康の「落命」は確実だったとも言われている。家康は部下の将兵に諌められて、意に反して命からがら逃げた。

残念ながら、幸村の家康追いつめもここまでだった。

兵力に勝る徳川勢に追い詰められ、幸村は負傷して仕舞う。やむなく一旦後退することを決め、近くの「安居神社」避難せざるをえなかった。

幸村は、当神社の1本松にもたれ、傷を癒していた時、追っ手の越前主の兵士の槍で襲われた。幸村は「ここまでだ」と決意。切腹して自害した。享年49だった。

「安居神社」に行くと、「武将姿の銅像」や高さ5メートほどの「幸村戦没の石碑」がある。

銅像と石碑を見ていると、切腹自害した幸村から「徳川潰しを果たせなかった」無念さの呟きが伝わってくるようだ。一方、「家康を追い詰めた」役目を立派に果たした豊臣方戦将としての誇りの声も聞こえてくるような気もした。

もし豊臣方が秀頼を先陣に立て、幸村を主将にした総力戦で「茶臼山の戦い」に臨んでいたら、確実に「家康を自害」させていたに違いないという説もある。

そうだとすると、家康不在では徳川勢力の後退は余儀なくされ、秀頼による豊臣時代が継続したかも知れないという説に続く。

「安居神社」を出て、坂道を少し下ると、本誌で以前書いた大阪で唯一自然の滝:「玉出の滝」と出会う。ゆっくり眺めると、今度ばかりは「安居神社」の幸村の無念の想いが、滝の水に混じってドット流れ落ちているように見えた。

もし、淀君を始め豊臣譜代衆が「茶臼山の戦い」の決戦に挑んで「家康壊滅」を図る決断を下していたら、おそらくその後、別の歴史が展開していただろう。

時勢に応じて歴史を踏み外さない判断を下さなければならない指導者は、いつの世にも不可欠だ。名所旧跡の散策は、こうした現代の動きを連想させてくれるだけに、愉しいものだ。

<参考:ウィキペディア>


2016年01月24日

◆大阪の「与謝蕪村銅像」除幕式終わる 

毛馬 一三



今年2016年の「蕪村生誕300年記念行事の年」が始まりました。その手始めとして大阪毛馬町の氏神神社「淀川神社境内」に、建立した「与謝蕪村銅像」の除幕式を、1月23日(土)午後1時から、同神社境内で行いました。


「蕪村銅像」の建立は、筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム21と、大阪毛馬町に奈良時代以前からある「氏子淀川神社」と共同して、大阪俳人与謝蕪村顕彰と、後世にその名を継承する為、蕪村愛好家や地元の人たちの賛同で得た上で成し遂げたものです。当日は、狭隘の境内に見学者ら100人近くが集まり、華々しい除幕式が行われました。


除幕式は、まず淀川神社の横路良宮司に修祓、玉串奉納、献饌を行った後、主催を代表して蕪村顕彰俳句大学の川原俊明学長(弁護士)、蕪村生誕300年記念行事実行委員会の村田正博委員長(市大文学部教授)、横路良宮司が祝辞を述べました。


この後来賓代表と主催者側が白布で包まれた「銅像」に付けけられた紐を双方から引きますと、高さ1m60pの勇壮な坐像銅像の姿が現れました。蕪村の表情は、喜びを綻ばせているようでした、


続いてご来賓等のご紹介が行われ、この中でウクライナから京都大学工学部の教授としてこの1年在籍されるガリーナさんが、「この銅像建立は日本俳句文化の向上に繋がり、諸外国も関心を高めるでしょう」と挨拶し、参加者の方々から大きな拍手が湧きました。

上記が「除幕式」の概略です。

では「どうして蕪村望郷毛馬の淀川神社に蕪村銅像を建立したのか」。そのことを改めて書き添えたいと思います。これから追々。

注目の「淀川神社」は、平安朝初期、またはそれ以前に、与謝蕪村生誕地の摂津国東成郡毛馬村字外島(現・毛馬町1−2−11)に氏子神社として創建されました。ですから毛馬村に住む氏子たちは、その時代の頃から常慣習として淀川神社に参詣していたのです。

実は淀川神社は、今の毛馬町に、当時のまま存在しています。これが銅像建立との重大なご縁が結びつくのです。

蕪村は享保元年(1716年)に、この摂津毛馬村で生まれました。蕪村生家は、父が毛馬の庄屋主で、問屋、宿屋も営む「北国屋吉兵衛」。母は丹後与謝の名家から奉公人として来た「げん」でした。その2人の間に、男のこの(幼名・寅―後の蕪村)として誕生したのです。しかし家系を継承出来る「実子」ではなく、私生児だったのです。勿論肝腎の蕪村の「生誕日」も、未だ不明です。

北国屋庄屋は「淀川神社」の氏子でしたから、氏子慣習で、蕪村の生誕後も仲のいい両親と共に、正月や節句、お祝い、悩み払いの時などに「淀川神社」を参拝していたと思われます。

ところが両親を亡くした蕪村は、北国屋庄屋の実子ではなく、正妻の子でもなかったために、庄屋継続が出来ない苦境に追い込まれ、幼少の頃から庄屋親族から様々な苦衷に見遭わされたと思われます。その都度、悲境回避や厄払いなどのお願いを、この「淀川神社」に参詣をしたと推測されます。


結局、苦境に耐えらない17・18歳の頃、実家庄屋は、享保時代のバブルに見舞われて大阪豪商に庄屋を買い取られた為実家庄屋は破滅。結局蕪村は、故郷毛馬を出奔し、江戸に下る決断をします。その際も、きっと氏子として「淀川神社」に生涯安泰の祈願をして参拝したに違いあません。

蕪村と「淀川神社」は、こんな深い因縁の存在が幾つも予想され、無縁では絶対無かったのでしょう。

この歴史的な因縁を考えて、NPO法人近畿フォーラム21では、「淀川神社」と協議を進め、協力関係を確立しました。画期的なことでした。そして「蕪村銅像」を同神社境内に、昨年の暮に建立したのです。


その記念行事を世間に広めるために、冒頭記載のように1月23日(土)午後1時から、「蕪村銅像を建立した淀川神社で、除幕式」を行ったのです。


これから、与謝蕪村が出奔後切望していた生誕毛馬村への「望郷の念」を、今時代に充してやるとともに、蕪村生誕地が大阪毛馬村であることを、今年の「蕪村生誕300年の年記念行事」の先発行事として始め、地元、全国、諸外国にこうした「銅像建立」の理由の祭事として広めて行きたい考えです。



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