2012年08月06日

◆夏バテ防止に「おきゅうと」

毛馬 一三


福岡の友人が案内した大阪にある博多料理屋で、博多特産の「おきゅうと」が出た。まず、大阪市内の料理屋で「おきゅうと」が出されることは、珍しい。

「おきゅうと」は、エゴノリという海藻から作った食品で、生姜、ゴマ、かつおぶしなどを振りかけ、それにポン酢を注いで食する。涼感を誘うツルッとした味わいと、磯の香りの食感が口内いっぱい広がる。

久し振りの味は、淡泊ながら旨みと滋味に溢れた特有の食感で、郷愁を深く感じた。食べるのは盛夏の時期が本番。なぜかと言うと、暑い盛りに涼感効果を感じさせる伝統食品だからだ。

博多出身の畏友津嶋礼文君によると、この酢やポン酢を掛けただけの「おきゅうと」を食膳に出して貰うと、食欲を全く無くしていても、これだけでご飯一杯は優に食べられるという。文字通り「夏バテ防止」だと、と話してくれた。

意外なことに、この「おきゅうと」を知る人は少ない。私自身も、同じ福岡出身でありながら、福岡から離れた筑後・久留米で育ったため、「おきゅうと」の名前は幼少の頃から耳にしたことはなく、食膳に上った記憶も無い。海藻の採れる海岸から離れていることが主因。

しかし私が、料理の一品として魅せられたのは、社会人になってからだ。以来、「おきゅうと」の贔屓者になった。下戸なので、お酒のつまみではなく、専ら深みのある味を、ゆっくり箸を付けながら食するという楽しみ方だ。

<エゴノリが生育する日本海側の秋田、山形、新潟、長野の各県では「えご」、宮崎県では「キリンサイ」などと呼ばれて食用にされているらしいが、「おきゅうと」とは言わない。食べ方も博多とは全く異なるという。>

そこで、「おきゅうと」の名前の由来にふれてみよう。

<1.「沖の独活(ウド)」説。エゴノリはウドの木の様に早く育つので、沖のウドが転訛した。
2.沖からやってきた漁師が作り方を伝授したから「沖人」(おきうど)説。
3.飢饉の際に簡単で大量に作られ多くの人を救ったから「救人」。
などの諸説がある。>

肝腎なことは、「おきゅうと」の食べ方だ。

・真空パックの中に5枚入っている添加物は不使用
・厚さ約3mmの「おきうと」を、水洗いして、幅2〜3mmくらいに切る。
・それを器に盛りつけ、生姜、ゴマ、かつおぶしなどをふりかけ、醤油またはポン酢で  食べる。また、酢味噌などでもおいしい。

いとも簡単に食することができる。しかも、ふりかけ材の工夫では、味付けが自分の好みに合わせられるだけに,楽しみも倍増余地がある。

他府県の人が初めて、これを食べた時、変わった味覚と触覚だと戸惑う人が多いらしい。しかし再度出会うと、仄かな磯の香り・海苔の風味、涼感を誘う喉ごし、溢れる旨みと滋味に魅せられて、注文する人が増えてくると聞く。

「おきゅうと」は「めんたいこ」と共に、数百年の昔から朝食の一品を占め続けて来た博多の食文化であり、博多の人々はその重みを了知している。

毎月1回、俳句の「句会講座」に集まる福岡高校の同級生と、講座修了後にお茶を飲むと、決まって「二品」の話が話題となる。

残念なことに大阪では、「飲み屋」か「博多料理店」に行かないと「おきゅうと」にはお目にかかれない。しかし残念なことに「おきゅうと」が、その店のメニューにあるとは限らない。しかも最近になって近郊スーパーあったその姿もお目に掛かれなくなっている。淋しい話だ。

前述の福岡高校同級生1人が近く帰省し、地元でしか味合えない特製「おきゅうと」店に寄って、じっくり旨味と滋味を味わってくると自慢げに話していた。こればかりは、羨ましい限りだ。  (了)  
参考:ウィキペディア           

2012年07月17日

◆怒りっぽくなるのは認知症の症状

毛馬 一三


最近、仕事の予定が重なるとイラついたり、些細なことでも怒りっぽくなる。「老人性うつ病」ではないかと思って、余計に苛立ちを感じていた。

そんな折、大阪厚生年金病院の向市眞知氏(医療ソーシャルワーカー)が、下記の11症状が半年以上続いた場合、「認知症の症状」と思って専門病院へ行くべきと助言してくれていた「メモ書き」があったことをふと思い出し、取り出して読んでみた。

住友病院神経内科の宇高不可思医師による「こんな症状があったら要注意!」の11項目が、それを指摘しているという。

それによると、

1、同じことを何度も言ったり聞いたりする
2、ものの名前が出てこない
3、置き忘れやしまい忘れが目立つ
4、時間、日付、場所の感覚が不確かになった
5、病院からもらった薬の管理ができなくなった
6、以前はあった関心や興味が失われた
7、水道の蛇口やガス栓の閉め忘れが目立つ
8、財布を盗まれたといって騒ぐ
9、複雑なテレビドラマの内容が理解できない
10、計算のまちがいが多くなった
11、ささいなことで怒りっぽくなった

たしかに私自身、どうも2、3、4、11は該当する。歴史上人物や知人の名前すら出てこないことが多い。大切な「資料」を特別な場所に保管すると、その保管場所を忘れ、大騒ぎとなる。曜日の感覚も薄れてきた。だから該当する2,3,4の症状が「認知症」だと理解はできる。

ところが、まさか「ささいなことで怒りっぽくなった」の11項目が、「認知症」症状にあてはまるとは思いもよらなかった。ショックだった。

向市氏によると、
<やる気がおこらない意欲の低下もそうだし、ものごとを考える思考力や判断する力、そして手順よくし処理していた実行力の低下も、認知症の症状に該当する。

認知症高齢者自身の不安は、時間や場所がわからなくなったり、体験そのものを忘れていく中で暮らしているので、自分以外の外界のすべてが不安要因になってしまう。

また「まだらボケ」とか言うが、「正気の時もあるからやっかいだ」と表現される場合もある。しかしそれは逆で、やっかいと考えるのではなく、正気の部分があるのならその正気の部分を生かして日常生活を維持するように仕向けるべきだ>、という。
 
その上で、向市氏は
<「認知症と言ってもしかたない」と決めつけるのは悪循環。「認知症」の方の感じる外界への不安を考えると、情報が遮断されると余計に不安が大きくなる。

不安やストレスが増幅すれば、いら立ちが高まり、怒りぽっくなる。それを軽減するには、どしどし脳裏に諸情報を与えることが、効果があるそうだ。そのためには外出が最適>だという。

つまり「認知症」には、「散歩が大きな効果」があると向市氏は助言してくれていたのだ。外に出歩くことは、聴覚、視覚、嗅覚の刺激につながり、真新しい空気を吸うことによって、脳の活性化につながるからだそうだ。

そういえば、いらついて寝つきが悪かったり、些細なことに朝から腹を立つときなど、愛犬(ノーホークテリア8歳)と朝の散歩に小1時間ほど出かけて、四季の移り変わりに見とれたり、思い切り新鮮な朝の空気を50回ほど深呼吸すると、たしかにストレスや怒りぽさは軽くなり、むしろやる気を感じる意欲が込み上げてくる。

散歩の途中、愛犬仲間と朝の挨拶を交わすことも、同様な効果がある。仲間との会話は、脳の活性化に効果がある。

怒りっぽくなっるのが「認知症」の症状だとは、思いもよらなかった。これからは毎朝夕のワンちゃん散歩の時、思い切り深呼吸をしながら、聴覚、視覚、嗅覚、脳へ刺激を与えことに心がけ、愛犬散歩を楽しもう。(了)

2012年07月12日

◆地下に未だ眠る「太閤大阪城」

毛馬 一三


国の特別史跡に指定され、いつも眺めている大阪城が、実は「太閤秀吉が築城した大阪城」ではなく、総てが「徳川大阪城」であることを知る人は、意外に少ない。

では秀吉が、織田信長から引継ぎ、思いのままに築城した元々の「大阪城」は一体どこに姿を消したのか。それは追々―。

いつ眺めても、大手前、森の宮、新鴨野橋へと城郭を一周する道筋からは、「大阪城の高い石垣と深い堀」が、梅雨時の雨滴の葉が陽光を跳ね返す樹林の間から、歴史の威容を誇らしげに見せ付けている。

特に大手前周辺の高さ32mもある幾重もの「反りの石垣」には、太閤城より進んだ当時の石垣構築技術の進歩の有り様を如実に伺わせる。つまり、城壁の「反り」は、この構築技術の進歩の証だ。

大阪夏の陣で豊臣家を滅亡させた徳川家康は、同戦いの2年後(1616)死ぬが、家康遺命を受けた二大将軍秀忠が、元和6年(1620)から寛永6年(1629)までの10年にわたり、徳川大阪城の大改築に臨んだ。

その時徳川の威令を天下に示すため、「太閤城の象徴だった二の丸、三の丸」を総べて壊したうえ、総ての「堀」も埋め、「石垣」は地下に埋め尽した。即ち、豊臣家の痕跡をことごとく消し去ったのだ。

だとすれば、総て「徳川の手になる城郭」にしたのであれば、「太閤城」は、雲散霧消にされたのか、それとも未だ地下に眠ったままなのか。

「大阪城石垣群シンポジウム実行委員会」の論文をみると、そこに「太閤大阪城」が地下に埋められたままになっていた遺跡の一部を発掘した調査記録が下記のように書かれていた。

<地下に埋蔵された「太閤大阪城」の石垣を最初に見つけたのは、大阪城総合学術調査の一環として大阪城本丸広場で行われたボーリング調査だった。昭和34年のことである。天守閣跡の南西にあたる地下8m から「石垣」が見つかったのだ。

4m以上も積まれた石垣で、花崗岩だけでなく、様々な石を積み上げた「野面積み」だった。「野面積み」は、石の大小に規格がなく、積み方にも一定の法則が認められないもの。当時城郭作りの先駆者だった織田信長が手掛けた安土城の「野面積み」工法と同じだったことから、秀吉がその工法を導入して築いた「大阪城石垣」と断定された。

それから25年後の昭和61年になって、再び天守閣跡の南東部の地表1mの深さから地下7mまで、高さ6mの「石垣」が発見されている。

この石垣も「野面積み」だったうえ、その周辺で17世紀初頭の中国製の陶磁器が火災に遭って粉々の状態で見つかったことから、大阪夏の陣で被災した「太閤城」の「石垣」であると断定される2回目の発見となったのである。

両「石垣」の発見場所の位置と構造を頼りに、残された絵図と照合していくと、この「石垣」は本丸の中で最も重要な天守や、秀吉の家族が居住していた奥御殿のある「詰め丸」と呼ばれる曲輪(くるわ)の南東角にあたることが、明らかになったのである。

地下に消えた「石垣」は、切り石が少なく、自然石や転用石を沢山積み上げたもので、傾斜が比較的ゆるい、「徳川城」とは異なる「反り」の無い直線だった>。

第3の発見は偶然が幸いした。現在の「大阪城・西外堀」の外側の大阪城北西で、平成4年に大阪府立女性総合センター建設の際の発掘調査で、地下から長さ25m に亘る「太閤大阪城の石垣」が出現したのだ。同石垣は、いま同センターの北の道沿いに移築復元されている。

大阪城の南側にある追手門学院の校庭に、同石垣があることを知った。非公開なので一般の歴史愛好者は許可が必要だが、壊された石垣の一部が残されており、それを触りながら眺めると、太閤秀吉の築城への思いが胸に迫るような気がしてくる。

何よりもこうした発掘や発見の価値が大きかったのは、今の大阪城郭から離れた堀野の外側から「石垣」が現れたことだ。

それだけでも、今の「徳川城」よりも「太閤城」の方が遥かに規模の大きかったことの証であり、今後の調査で城郭外から新たな「太閤大阪城」が出現する可能性は、まだ残されている。

地下に眠る遺跡の発掘調査は、エジプトやイタリアなど文明発祥地でブームになっているが、現在進められている大阪市の大阪城発掘調査で、「天下の台所」の基礎を築いた「太閤大阪城」の遺跡が、今の城郭外から更に発見されることに期待したい。

                                             (完)
                         

2012年07月04日

◆国産ビールの発祥地は大阪

毛馬 一三


いよいよ夏本番、どこでも夕食の食卓では、缶ビールをコップに移して一気に飲んで、喉を潤すのが習慣になってきている。

今やアルコールを飲めない人でも、アルコールの入っていない缶ビールを買い求めてビールの味を愉しむ時代にもなっている。ビールはもはや全盛時代だ。

以前、北海道のサッポロビール工場で、出来立てのビールをジョッキ杯で飲んだ経験がある。下戸の私は、ジョッキ杯飲みに躊躇いがあったが、喉越しに胃袋に入っていったその時の美味さは、何とも清々しく旨いものだった。

最近では、ホテルや居酒屋などでビールジョッキで飲むことがあるが、出来立てのサッポロビールの味と同じような感じがしだして、時代と共にビールの質が向上していることが伺える。

そんな中、「国産ビールの発祥の地」が、大阪だというという「碑」を見つけた。全国いたるところにあるといわれているビールの発祥の地が、まさか大阪だとは驚いた。

その「碑」は、大阪市営地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅から 東に300mほどの大阪・北新地のANAクラウンプラザホテル北東側にあった。

その場所にはしばしば行く所だが、ホテル北東側の3本の道路で囲まれた三角形の場所で交通量の多いところなので、不覚にもその「碑」には目が届かなかった。よく見ると「碑」と「説明プレート」が建っている。

「碑」は、高さ1m50pで、隣接している「説明プレート」は1mの四角形。いずれにも大阪市教育委員会の説明が添えられている。

こう書いてある

<わが国におけるビールの醸造は幕末に横浜で外国人がおこなっていたが,日本人の手によるものとしては,澁谷庄三郎がこの地で醸造したのが最初といわれている。

当初は大阪通商会社で,明治四年(1871)に計画された。これは外国から醸造技師を招いた本格的なものだったが,実現には至らなかった。この計画を通商会社の役員のひとりであり,綿問屋や清酒の醸造を営んでいた天満の澁谷庄三郎が引継ぎ,明治五年三月から,このあたりに醸造所を設け,ビールの製造・販売を開始した。

銘柄は「澁谷ビール」といい,犬のマークの付いたラベルであった。年間約三二〜四五キロリットルを製造し,中之島近辺や川口の民留地の外国人らに販売した。―大阪市教育委員会>。

しかし気になることがあった。「日本ビールの発祥地は、横浜」と言われていたことを思い出して気になった。

そこで、調べてみると、

<明治3年(1870年)、米国人のウィリアム・コープランドによって横浜・山手にビール醸造所「スプリング・バレー・ブルワリー」が設立され、日本で初めてビールの醸造・販売が開始された。

外国人の手による日本初だが、実は麒麟麦酒(キリンビール)がこれの流れを汲んでおり、世間的にはこれが「横浜が日本のビール発祥の地」と定着してしまったようだ。>

更には

<小規模なものなら、江戸時代にも日本でビールが造られていたらしい。文化9年(1812年)に、長崎の出島でオランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフによる“自家醸造”で、これが「日本で初めて醸造されたビール」とされている。

となると、大阪の「発祥地」とはどういう意味なのかということになる。

そこで、時系列に追って整理すると、
・1812年(文化9年) 日本で初めてのビールが長崎でオランダ人によって醸  造される。
・1869年(明治2年) 横浜で、外国人による日本最初のビール醸造所が設立される。
・1872年(明治5年) 大阪堂島で、渋谷庄三郎によって、「渋谷ビール」という、日本人によって初めて産業的にビールが醸造・販売される。

そこではっきりした。「横浜」は外国人によって「日本で初めて産業的にビールがつくられた地」なのだ。「大阪」は日本人の手によって、初めて「国産ビールがつくられた地」だったということになる訳だ。

この「大阪の碑」の周辺は、今は不景気で活性化が無くなっている遊楽街「北新地」だが、「碑」に辺りに「国産ビール発祥地」を明らかにする施設や跡地は、どこにも見当たらない。

だが、現代のビール産業がこの場所から発祥したのだという事実は、この「碑」を目撃したことよって、先駆的だった大阪の時代があったこと改めて感じさせられた。これからも全国を引導していく大阪になって欲しいものだ。

2012年06月14日

◆「八軒家浜船着場」碑を知ってる?

毛馬 一三


大阪の毛馬の閘門から1級河川大川(旧淀川)を少し下り、大阪三大橋の「天神橋」を抜けると、「八軒家浜船着場」に辿り着く。

この「八軒家浜」は、古代から京都と結ぶ水上交通の拠点で、江戸時代ではこの浜の船着場周辺に、八軒の船宿があったことから「八軒家浜」と呼ばれたらしい。その「記念碑」が、阪神電鉄天神橋駅前の老舗・昆布屋の入り口に立っている。

この近くの坂を上ると、江戸時代の西洋医学者・緒方洪庵の塾屋敷跡がある。ここに集まる弟子たちも、この「八軒家浜船着場」を盛んに利用したと言われている。坂本竜馬も、ここの船着き場から「薩摩屋敷」に通った。

またこの「八軒家浜船着場」は、京都から屋形船でやって来た人々が、この船着場から下船して「熊野詣」に赴いた。ここは今、世界遺産となった「熊野街道」の起点となっている訳だが、意外にもそれを知る人は少ない。

さて、この「熊野街道」に触れておこう。

<この「八軒家浜」を起点に、四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)、堺、和歌山などを通り、紀州田辺を経て、中辺路または大辺路によって熊野三山へと向かう道筋。

この熊野街道を経て参台する「熊野詣」は、平安時代中期ごろ、熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集めるようになったのに伴い、法皇・上皇などの皇族、女院らや貴族の参詣が相次ぐようになったのが始まりだった。

室町時代以降は、武士や庶民の参詣が盛んになった。その様子は、蟻の行列に例えて、「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいだったそうだ。江戸時代になると伊勢詣とも重なり、庶民も数多く詣でたため、賑わいは浪速で最高だったといわれる。ただ明治以降は、鉄道や道路の整備により参拝者は少なくなる>。

このように霊場熊野三山まで橋渡しする歴史的街道の起点の「八軒家浜船着場」は、これを賑わいのある水都大阪再生の一拠点にしようと、民官協働で、京阪電車天満橋駅の北側の大川沿いに幅約10メートル、長さ約50メートルの3層からなる鋼鉄製の巨大な「船着場」を建設された。

新設された同船着場では、ゆったりとしたスペースがある水上バス(アクアライナー)や大型遊覧船が、ここから発進し水都大阪の川辺に広がる眺望とクルージングを楽しむことができる。

遊覧船内から身を乗り出して、目上に広がる大阪のまちの姿を眺めると、立体的な水都像の形で顕れ、両岸のまちなみが覆い被さるような3次元の都市を実感させてくれる。実にマジックな風景の出現であり、感動そのものだ。これは体験してみないと絶対に分からない。

大阪大手企業本社の東京一局集中や、大手企業工場の他府県や外国への移籍が目立つなど、大阪の経済基盤の沈下に歯止めが掛からない中で、こうした「八軒家浜」を観光名所として再起させることが出来れば、集客効果は抜群だろう。

しかも「緒方洪庵の塾屋敷跡」、皇族をはじめ秀吉も通った「八軒家浜」から「熊野詣」の新観光ルートを創りだし、歴史を甦らせながら旅行の楽しみを味合わせる事業が始めれば、観光客に歓迎されることは間違いない。「八軒家浜」祭りだけで終わって仕舞う行事だけではあまりにも単純な気がして、実に勿体ない。

「八軒家浜」からの「熊野街道」が世界遺産となった以上、これを結び付けた観光ルートとして活用しないのには、歯痒い感じがする。

大阪文化振興ために、「歩き」を折りこんだ「熊野街道」へのバス旅行、「八軒家浜」から鉄道をつないだ「熊野詣」、緒方洪庵塾など周辺のまちなみと結んだ「八軒家浜」の見どころ見学。いろんな案がすぐに浮かんでくる。

そう思うだけでも「八軒家浜船着場」碑は、老舗の前にポッンと立っているだけで、寂しく見えて仕方がない。(了)
参考―フリー百科事典『ウィキペディア

2012年06月09日

◆米原潜入港のスクープ

毛馬 一三


山崎豊子著の「運命の人」(文藝春秋)が発刊され、筆者が読み始めた時、「エッ!?」と思う記述が目に飛び込んできたことを思い出す。最近久しぶりに逢った佐世保出身の同級生と話している内、この話題に持ち上がった。

それとは、「運命の人」第1章の「外交官ナンバー」に書かれている「米原潜日本初入港スクープ」のくだりである。小説では主人公の毎朝新聞政治部の外務省担当・弓成亮太が、同省審議官から耳打ちされたことがキッカケで、政府公式発表前に米原潜佐世保「入港当日の朝刊」で「スクープ」したと書かれていたことだ。

残念ながら本当の「スクープ」とは違う。

「運命の人・スクープ」より先に「原潜佐世保入稿」の「特報」を出したのは、NHK佐世保局経由福岡放送局からだった。しかも「入港より丸1日早い、昭和39年11月11日早朝6時」だったのだ。

この「特報記事」を書いたのは、当時現地NHK佐世保放送局の新人記者の筆者だったのである。自慢ではなく真実を述べてみたい。

当時の思いと事実経過を「回想」しながら、今回友人と話合った真実の「スクープ」の中味を綴ってみることにした。経過は追々・・。

そもそも、「米原潜佐世保米軍海軍基地入港」が発表されたのは、昭和38年3月。以来、佐世保では地元社会党系労働組合が「原潜入港反対闘争本部」を立ち上げ、これに市民団体も呼応して、大規模な入港反対闘争がはじまり、佐世保市内は米海軍基地周辺を中心に騒然となり出した。

とりわけ被爆地長崎と隣り合わせの現場佐世保では、米原潜搭載「核」持込みの懸念が市民らを強く刺激し、急遽集結した各地の革新団体や全学連が、デモ行進や集会を繰り広げ、騒動は日増しに激化していった。安保闘争以来の出来事だった。

その反対闘争の取材担当が、当時NHK佐世保局に赴任して間もない筆者だった。「サツ回り」と兼務だったが、入港反対闘争本部だった当時の佐世保地区労(佐世保地区労働組合会議)本部に夜討ち朝駆けを行い、反対運動の動静を追い続けた。

当時、総評系の佐世保労働組合の中核組織「全駐労」の委員長だった石橋政嗣氏が、衆院議員に転身して社会党書記長に就任していたことなどから、この反対運動は当時野党第一党の社会党と緊密に連携しながら、全国規模の反対運動に発展させていた。

筆者は、帰郷する石橋書記長を掴まえ「反対運動」の中央政局との関わりをしつこく聞き取って回ったことから、気難しい石橋書記長から地元記者として唯一親しく目を掛けて貰う間柄となった。

同時に、現場の社会党系「佐世保地区労闘争本部」の速見魁議長、小島亨事務局長、西村暢文本部員らとも、極めて親密な関係を築くことが出来た。

この仕事は、歴史現場を直に目撃できるという、「記者冥利」に尽きる無上の喜びであった。しかも現場で親交を深めた取材対象の人脈とも、立場を超えた人間同士の触れ合いが出来ることも学んだ。そうした教訓は、駆け出し記者の記者魂を助長してくれた。

そんな折の昭和39年11月10日の夜10時過ぎ、佐世保放送局で当直勤務をしていた筆者に、佐世保地区労の小島事務局次長から電話が入った。

「あなたの家に電話をしたら、当直と聞いたので電話したよ。実はね、上の方からあなただけに伝えなさいと今、指示があったので連絡するんだが・・・」。小島事務局次長はそう言った上で、「米原潜シードラゴンが12日朝、佐世保に入港する」という極秘情報を内々伝えてきた。筆者は、足が諤々と振るえ、気は動転し、感謝の意を伝えるのがやっとだった。これは石橋書記長から筆者への連絡だとも確信した。

すぐに、福岡放送局の報道課長の自宅に架電してその情報を伝えると共に、これから出稿する旨を伝えた。報道課長は直ちに東京政治部の首相官邸キャップに連絡し、政府から確認を取って貰うことになった。「特ダネだから、米原潜12日入港の記事を急いで書き、すぐ送りなさい」という報道課長からの指示が出た。

11日の2時ごろ、原稿を送ろうとしているところに、報道課長から電話が入った。「官邸キャップが官房長官に確認したが、どうも煮え切らない返事だった。東京政治部では、その煮え切らない口ぶりが、どうも事実を暗示しているようなので、取り敢えず佐世保発のスクープとして流しなさいと言っている。政治部も追いかけるという。佐世保発の原稿を至急東京政治部も、欲しい」ということだった。

そこで、「米原潜あす佐世保入港・現地では大規模集会やデモ」という原稿にすることを考え、「闘争本部」に裏付け取材をして上、急ぎ福岡局報道課に電話送稿した。「闘争本部」は「他社は気付いていませんよね」と念を押し、「気づいていない」との確認を取った。

これが他社より1日早く佐世保局を経由して福岡中央局から「原潜あす佐世保入港」のスクープが発せられたいきさつである。

NHK東京発の関連ニュースが放送されたのは、「米原潜」が入港する12日午前6時のニュースからだった。従って小説の毎朝新聞のスクープには絶対に遅れを取っていない。

先述の佐世保地区労の幹部が「あなたのスクープで、闘争本部が一層盛り上がったことを、時折思い出していたよ」という嬉しい返事が最近あったことも思い出し、友人にも披露した。。

感涙の言葉だった。歴史の現場にいち早く立ち会える記者稼業とは、この上ない幸せ者である。(了)

◆6月9日(土)刊全国版メルマガ「頂門の一針」2632号

<目次>
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・小沢さん「国民と民主主義」が泣いているぞ:杉浦正章
・「維新・28%」をどうみるか:岩見隆夫
・富士康の成都工場で大暴動:宮崎正弘
・山東京伝の手鎖五十日:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm
 


2012年05月21日

◆金環日食を見た

毛馬 一三


愛犬の散歩に出かけよと家を今朝7時20分に出たところ、住宅内の空き地に大勢の住民が空を見上げて歓声を上げている。大阪市内の住宅街でのことだ。

「金環日食だな」、そう思って住民のたまり場に駆け寄って、空を見上げた。

ところが、肝腎の空は曇り空で、「金環日食」はその中に姿を隠していて全く見えない。暫くじっと見上げていると、7時25分に「金環日食」が雲の切れ間から僅かに姿を現した。東南東の方角80度の上空だった。丸い光の輪の中に黒輪がどっかり占めている。

「見えたぞ!」と心の中で叫んだ途端、15秒ほどしてすぐ雲の中に姿を潜めた。サングラスを付けないと見えないといわれていたが、雲の切れ間のお蔭はっきりと、裸眼で目撃することが出来た。ラッキーだった。

もう見えないだろうと思って諦めかけたところ、再び姿を現した。今度は落ち着いて眺めた。7時30分から30秒ほどの僅かな時間だったが、前よりははっきりと確認できた。

「よかった!よかった!」と思いながら、その場を離れ何時もの愛犬散歩道の川沿いを歩いていたら、7時35分、今度は雲が移動した隙間から、金環日食が全貌を見せた。

最初何秒かは何とか見ることができたが、あとはサングラスがないため、眩しさに視力を奪われ、金環日食を見ることは出来なかった。

金環日食を見ることが出来るとは想像もしていなかっただけに、この瞬間に出合わせられたのは幸運だったとしか言いようがない。(了)   2012.05.21

2012年05月18日

◆芭蕉随行の「曾良」は忍者?

毛馬 一三


〜拙稿「芭蕉終焉(しゅうえん)の地って?」の第2弾〜

もともとの拙稿とは、松尾芭蕉の「終焉の地」が大阪・南御堂向かいにあった花屋仁左衛門の離れ座敷であったことや、辞世の句といわれる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が、病の床で亡くなる4日前に詠んだものであることを筆者は不覚にも知らなかった。が、偶然にも知る機会を得たことから、以下思い立って綴った。

芭蕉自身、大阪で死ぬなどとは夢想だにしていない。早く床払いをして長崎に向けて旅を続けたいとの気持であったと、諸文献に記されている。

だが、思いもよらず病(食中毒らしい)は悪化、意に反して終焉を迎えるのだが、見守る弟子たちの顔を眺めながら「死」が迫るのを悟り、幸せな生涯だったと瞑目しつつ、逍遥と死の旅に着いたようだ。

この芭蕉に関して、全国版メルマガ「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏から、添文を頂いた。

<深川・芭蕉記念館 は拙宅の近くです。徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。江戸の発展とともに新たな市街地、農地が必要となり、土地の開発が始まった。大阪からきていた深川八郎右衛門が新田を開発、慶長元年(1573年)深川村と称したのが始まり。

江戸の下町と言えばなんと言っても深川。出発地は都営新宿線森下駅。駅を出て新大橋通りを浜町方面に5分ほど歩いていくと隅田川にかかる橋が見えてくる。これがこの通りの名前になっている新大橋。橋の手前の十字路を左に曲がりしばらく歩いていくと最初の目的地「芭蕉記念館」がある。

芭蕉は延宝8年(1680年)江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ。元禄2年(1689年)3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる奥の細道。岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅。

「芭蕉記念館」には 当時、芭蕉が着ていた袈裟を初め、芭蕉庵を模したほこら、句碑 などがある。記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり。川沿いの道を左に少し歩いていくと史跡庭園があり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。 先日来日した李トウキ前台湾総統もご覧になって行った>。

この添文を読ませて貰った時、芭蕉に纏わる新たな「示唆」が脳裏を駆け巡った。

それは、<徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。(そんな未開発の深川だったが、その深川から)元禄2年3月、「曾良」を伴い奥の細道の旅に出発した。(略)岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅>というくだりである。

江戸から東北、北陸地方を150日間で踏破した2400キロ(600里)の道程を踏破というが、とんでもない距離だ。単純に計算すると1日16キロも歩いたことになる。だが、当時の道筋はそんな生易しいものではない。

江戸時代の元禄期といっても、 江戸から東北、北陸地方には、のんびり歩き通せる平坦な道が整っていた筈はない。ほとんどが山道・峠道であり、山を越えるしかなかった。

余談だが、筆者も数年前江戸時代初期からある福井の「鯖街道」を歩いたことがある。山道の勾配は、天地の差ほどの高低を繰り返し上り下りし、息が途切れる程の険しい街道だった記憶が蘇る。江戸時代当時の道には、橋はほとんどなかったらしい。大雨で河が氾濫、足止めを食うことも日常茶飯事だったろう。

そう思うと、「奥の細道」の道すがらも、大変だったことは間違いない。

この芭蕉に関する拙稿に対して、日本一メルマガ「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏から玉稿を頂いた。

<深川・芭蕉記念館 は拙宅の近くです。徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。江戸の発展とともに新たな市街地、農地が必要となり、土地の開発が始まった。大阪からきていた深川八郎右衛門が新田を開発、慶長元年(1573年)深川村と称したのが始まり。

江戸の下町と言えばなんと言っても深川。出発地は都営新宿線森下駅。駅を出て新大橋通りを浜町方面に5分ほど歩いていくと隅田川にかかる橋が見えてくる。これがこの通りの名前になっている新大橋。橋の手前の十字路を左に曲がりしばらく歩いていくと最初の目的地「芭蕉記念館」がある。

芭蕉は延宝8年(1680年)江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ。元禄2年(1689年)3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる奥の細道。岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅。

「芭蕉記念館」には 当時、芭蕉が着ていた袈裟を初め、芭蕉庵を模したほこら、句碑 などがある。記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり。川沿いの道を左に少し歩いていくと史跡庭園があり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。 先日来日した李トウキ前台湾総統もご覧になって行った>。

この玉稿を読ませて貰った直後、芭蕉に纏わる新たな衝撃が脳裏を駆け巡った。

それは、<徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。(そんな未開発の深川だったが、その深川から)元禄2年3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。(略)岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅>というくだりである。

江戸から東北、北陸地方を150日間で踏破した2400キロ(600里)の道程を踏破したと言うが、とんでもない距離だ。単純に計算すると1日16キロ歩いたことになるが。だが当時の旅はそんな生易しいものではない。

江戸時代の元禄期といっても、 江戸から東北、北陸地方には、のんびり歩き通せる平坦な道が整っていた筈はない。ほとんどが山道・峠道であり、山を越えるしか方法はなかった。

筆者も数年前奈良時代からの福井の「鯖街道」を歩いたことがある。山道の勾配は天地の差ほどの高低を幾度となく繰り返して上り下りし、僻々とした記憶がある。昔は山道もない場所は絶壁に張り付くようにして横切るしかなく、ましてや橋はほとんどなかった。大雨で河が氾濫、足止めを食うことも日常茶飯事だったろう。

さて「奥の細道」によると、2人は何と1日に48キロ(12里)を 歩いた日があったという。幾ら昔の人が健脚だったとはいえ、老齢の域の芭蕉(46)と同行者曾良(41)が、そんな長距離を1日で踏破できたと考える方が無理な話だ。

だからここから「第2弾」を書きたくなった。

つまり芭蕉は、こうした異常な歩き方の速さや、伊賀の上野の生まれであることから「忍者」ではなかったかと論じられてきている。それはまた別の機会に譲るとして、ここで書きたいのは、むしろ芭蕉の弟子として名を売り、旅の同伴者であった「曾良」の方だ。

「曾良」のことは、純朴な芭蕉のお供だという印象が強く、「忍者説」はあまり共合わない。

ところが調べてみると、そうではない。
<曾良は、幕府とのつながりが緊密で、当時日光工事普請を巡ってあった伊達藩と日光奉行の対立を探るための調査を、幕府から曾良に命じられたとされている。その目的と行動を隠すため、芭蕉の歌枕の旅を巧みに利用したというのが、一部専門家の間で語られている。

その曾良は、さらに社寺や港の荷役の動きを調べる任務も担っていたらしく、北前舟が立ち寄る日本海沿岸の酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀の各港の貿易状況を丹念に探索して回っている痕跡がある。

その任務行動が、なんと芭蕉の旅の日程と、見事に重なりことから、この説には真実性が浮かび上がってくる。きっと幕府からの支度金が潤沢だったため、俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の興行収入だけでは食えなかった芭蕉の懐具合に、この「曾良」の任務による稼ぎが手助けをしたという説もあり、納得できる>。

こう見てくると、「曾良」という旅の同伴者は、巧に芭蕉を取り入って芭蕉の弟子を装い、幕府隠密の任務を隠密裡に遂行していた“忍者”だったという説は真実味を帯びてくる。果たして芭蕉の死後、「曾良」は芭蕉の追慕行脚や吟行などは一切行わず、すぐに幕府巡見使九州班員の役職に正式に収まっている。

芭蕉の終焉の時、曾良の姿はそこにいなかった。公務を理由に恩師の葬儀にも参列していない。やはり芭蕉に心酔して傍に連れ添った弟子ではなかったのではないか。               (了)                     参考・ウィキべディア  (再掲)
           

によると、2人は何と1日に48キロ(12里)を 歩いた日があったという。幾ら昔の人が健脚だったとはいえ、老齢の域の芭蕉(46)と同行者曾良(41)が、そんな長距離を1日で踏破できたと考える方が無理な話だ。

だからここから「第2弾」を書きたくなった。つまり芭蕉は、こうした異常な歩き方の速さや、伊賀の上野の生まれであることから「忍者」ではなかったかと論じられてきた。それはまた別の機会に譲るとして、ここで気になるのは、むしろ芭蕉の弟子として名を売り、旅の同伴者であった「曾良」の方だ。

「曾良」のことは、純朴な芭蕉のお供だという印象が強くて、「忍者説」はあまり知られていない。

ところが調べてみると、こんな具合だ。
<曾良は、幕府とのつながりが緊密で、当時日光工事普請を巡ってあった伊達藩と日光奉行の対立を探るための調査を、幕府から曾良に命じられたとされている。その目的と行動を隠すため、芭蕉の歌枕の旅を巧みに利用したというのが、一部専門家の間で語られている。

その曾良は、さらに社寺や港の荷役の動きを調べる任務も担っていたらしく、北前舟が立ち寄る日本海沿岸の酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀の各港の貿易状況を丹念に探索して回っている痕跡がある。

その任務行動が、なんと芭蕉の旅の日程と、見事に重なりことから、この説には真実性が浮かび上がってくる。きっと幕府からの支度金が潤沢だったため、俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の興行収入だけでは食えなかった芭蕉の懐具合に、この「曾良」の任務による稼ぎが手助けをしたものという説は、納得できる。>。

こう見てくると、「曾良」という旅の同伴者は、巧に芭蕉の弟子を装い、幕府隠密の任務を隠密裡に遂行していた“忍者”だったという説は真実味を帯びてくる。果たして芭蕉の死後、「曾良」は芭蕉の追慕行脚も行わず、すぐに幕府巡見使九州班員に直ぐに収まっている。

芭蕉の終焉の時、曾良の姿は芭蕉の枕元にはいなかった。公務を理由に師匠の葬儀にも参列していない。やはり芭蕉に心酔して傍に連れ添った弟子ではなく、芭蕉を利用して全国を探索して回る「隠密」とみるのが、どうも本当のようだ。  (了)               参考・ウィキべディア  (再掲)
           

2012年05月14日

◆五月に咲き誇る平戸ツツジ

毛馬 一三


朝夕愛犬を連れて散歩するコースが、大阪府寝屋市と大阪市を結ぶ旧淀川1級河川の城北川堤防の側道。車が通らないので安全な上、その側道に沿っていろんな樹木が植えてある区域が設けられているため、その都度、季節感を楽しめることが出来、気分が豊かになる。

植樹は、平戸ツツジ、サクラやヤマモモ、菊、クスノキ、ツバキなど50種は超すようだが、300メートルにわたって植えられている。中でも「平戸ツツジ」は今が満開で、緑の木の中から真っ赤な花が咲き誇り、目を奪う。今年は未だに寒気が続いているためか、満開期も長持ちしているようだ。

ところで、私はNHK初任地が佐世保放送局だったため、平戸ツツジの原産地の平戸には取材でも、旅行にもよく出かけた。

平戸は平戸島とその周辺を行政区域とする市で長崎県と九州本土の市としては最西端に位置する都市。旧平戸藩松浦氏の城下町で、当時はまだ孤島だったため、今のような大型橋梁はなく、遊覧船で渡った。海上から平戸の高台に平戸城が見えて歴史の想いを募らせる一方、陸に上がった途端この季節には、あちこちで平戸ツツジに囲まれた。

平戸商工会議所による平戸ツツジの説明によると

<平戸ツツジは、平戸原産の常緑のツツジで、平戸・松浦藩の武家屋敷にて種々な原種の交雑により、400年以上の悠久の時を経て育まれた門外不出の花でした。その大輪の花びらは世界一のツツジとも云われ、短い間ではありますが満開の時期にはびっしりと美しく咲き誇り、見る人の目を大いに楽しませてくれます。

その儚い生命の美しさを映そうと、摘み取った花びらを使って一枚一枚染め上げたのが「平戸つつじ染め」です。

自然の花びら染めは1本1本の木から得られる色が全て異なるので、ひとつとして同じ色はありません。また、上に咲く花と下に咲く花でも、染まる色は違ってきます。かけがえのない、その花の個性ひとつひとつを大切に、絹や綿、和紙に映しました>だという。

さて、平戸が全国に名を馳せているのは、この「平戸ツツジ」と併せて「平戸の歴史」ということになる。
序でながら、平戸の歴史に触れておく。

<慶長5年(1600年)、日本の豊後国に漂着したオランダ船リーフデ号の乗組員の一員であったイギリス人ウィリアム・アダムスは、徳川家康の信頼を受けて江戸幕府の外交顧問となり、「三浦按針」の名を与えられるなど重用された。

慶長16年(1611年)、イギリス東インド会社はアダムスがイギリス本国に送った書簡によって事情を知り、国王ジェームズ1世の許可を得て彼を仲介人として「日本との通商関係」を結ぶ計画を立て、艦隊司令官ジョン・セーリスを日本に派遣することとなった。

慶長18年5月4日(1613年6月11日/同6月21日)に、平戸に到着したセーリスは、アダムスの紹介を得て駿府城で徳川家康に拝謁して国王ジェームス1世の国書を捧呈し、更に江戸城にて将軍徳川秀忠にも謁見。そしてアダムスの工作が功を奏して、この年の9月1日(10月4日/10月14日)には、家康によって「イギリスとの通商許可」が出された。

そこでセーリスは平戸で在留中国商人李旦から借り上げていた邸宅をイギリス商館とし、リチャード・コックスを商館長に任じて6人の部下を付け、更にアダムスを商館員として採用して顧問とした。

商館は後に正式に買い上げられ、イギリス人商館員や日本人使用人も増員された。商館員や使用人は平戸や江戸・京都・大坂・長崎などに派遣されて貿易の仲介を行ったり、平戸を拠点に商船を東南アジア各地に派遣して貿易業務を行った>。
こうして平戸は、我が国での最初の外国貿易の拠点となったのだ

ところで、平戸を有名にさせているのは、キリスト教との関わりである。

<平戸は、日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが三度にわたって布教に訪れた地であり、平戸島や生月島では多くの住民がカトリックの洗礼を受け、その後の江戸時代の禁教令下でも隠れキリシタンとして信仰を受け継いでいった人が多かった。

明治時代に禁教が解かれて、平戸でも宝亀、紐差などの教会が建てられた。聖フランシスコ・ザビエル記念教会のある平戸港周辺の市街地には、もともとカトリックの信徒は少なかったが、近隣各地からの移転により信徒が増えていった。

そして1931年(昭和6年)4月に現在の教会堂が建てられた。献堂40周年の1971年(昭和46年)9月には、聖フランシスコ・ザビエルの像が聖堂のそばに建立され、これに伴い「聖フランシスコ・ザビエル記念教会(あるいは聖堂)」とも呼ばれるようになった>。

余談だが、平戸経由で五島列島の島を取材した時、ある家で「オランダ製の火縄銃」と「隠れキリシタンの像」を見せて貰った。どちらも初めて見るもので興奮した記憶がある。特に「隠れキリシタンの像」は、正面は仏像だが、裏には「キリスト像」が設えてあった。

きっと、キリシタン禁教令下で仏教徒を装いながらも、実際は密かにキリシタン信仰を貫いていた江戸時代の隠れキリシタン徒の様子が浮かび上がってくるような気がして、感動した。

話は、平戸の歴史になってしまったが、毎朝夕の愛犬の散歩の時、平戸ツツジに惹かれる中で、やはり平戸の歴史が一度に蘇ってくる。平戸ツツジの美しさは、本当に歴史まで呼び起こし、心まで豊かにしてくれるものだ。(了)
参考:ウィキペディア、平戸市ホームページ          2012.05.20


2012年04月19日

◆早く作りたい紫蘇濃縮ジュース

毛馬 一三

           
ジュースとは、本来「果汁」を指すものだ。だが今ではコーラなどの炭酸飲料なども含めた甘いソフトドリンクまでも「ジュース」と称している。デパートやスーパーでは、山ほど陳列されたこの種のジュースが目に付くが、果たして健康に如何と思うと躊躇してしまう。

そんな折、体にいいから是非自家製でやりなさいと知人に勧められたことから、数年前「紫蘇(しそ)濃縮ジュース」を我が家で作ってみた。なんとまあ、風味・舌触りなど美味さは抜群、以来すっかり嵌ってしまい、原料の「赤紫蘇」が出回る6月が毎年待ち遠しい。

ところで、その紫蘇の話。

<紫蘇(しそ、学名Perilla frutescens)は、シソ科のシソ属の植物。中国原産。

紫蘇には、こんな由来がある。中国の後漢末、洛陽の若者が蟹を食べすぎて食中毒を起こし死にかけたが、名医・華陀が薬草を煎じ、「紫の薬」を作り、同薬を用いたところ、若者はたちまち健康を取り戻した。「紫」の「蘇る」薬だというので、この薬草を「紫蘇」というようになった>という。

品種は以下の2種類がある。「青紫蘇」と「赤紫蘇」である。

<i)「青紫蘇」は、葉や花を香味野菜として刺身のつまや天ぷらなどにする。青紫蘇の葉は野菜としては「大葉(おおば)」とも呼ばれる。
i)「赤紫蘇」は、梅干しなどの色づけに使用。また葉を乾燥させたものは香辛料として(特に京都で)味唐辛子に配合され、ふりかけなどにも用いられる>。
出典: ウィキペディア(Wikipedia)

そこで自家製で「紫蘇(しそ)濃縮ジュース」を作る場合は、「赤紫蘇」を使う。作り方は幾通りもあるが、知人から教えてもらった作り方が最高の紫蘇ジュースだと信じて、その方法を毎年励行している。

<作り方>
(1)紫蘇(350g)を水できれいに洗い、水気をよく切って鍋に入れる。
(2)鍋に水(450cc)を入れ、その中に砂糖(600g)とクエン酸(20g)を加える。
(3)紫蘇を満遍なく混ぜて、鍋をガスの中火で煮出す。
(4)10分ほど沸騰させ、紫蘇の中から泡が出したら火を止める。
(5)鍋で煮だった紫蘇を別のボールに、ザルで濾す。
(6)絞り紫蘇液が自然に冷めたら、その中に「ゆず酢」を大匙2杯弱入れる。これがこの濃縮ジュースの「隠し味」。

(7)真っ赤な紫蘇濃縮ジュースが出来上がったら、氷を入れたコップに濃縮ジュースを好みに応じて注ぎ、水や炭酸水などで4倍に薄めて飲む。

これだけの作り方で、900ccの「紫蘇濃縮ジュース」が出来上がる。冷蔵庫で保存すれば、なんと半年も賞味期限がある。

この「紫蘇ジュース」は、紫蘇の栄養であるビタミン類、ミネラル類が含まれているので薬用効果があるということで、アレルギー体質、生活習慣病、食中毒予防等に効果があるという。

私の風味・美味しさ・味覚に合う「紫蘇濃縮ジュース」の勝手な作り方を紹介したが、このジュースが他の作り方と違う点は、隠し味の「ゆず酢」。6月が来たら、「赤紫蘇」を求めて自家製ジュースに挑戦しては如何。              (了)   

2012年03月19日

◆「納豆」を食べよう!

毛馬 一三


私の苦手な「納豆」が、骨粗鬆症の予防に効果があるという記事を読んだ。だったら、これからもっと「納豆」を食べることに挑戦しなくてはなるまい。それはこのあと云々。

私は九州の筑後地方で幼少期を過ごした田舎育ち。日露戦争で活躍した日本旧陸軍「久留米師団」の軍事施設がわが家の近くにあったが、周辺全体が農村地帯だったので大東亜戦争が終ったあとも、米や野菜など食糧難に接した記憶はない。

だが、有明海や博多湾からはかけ離れていた所だったので、「海の生魚」には縁がなく、塩漬けのサバなどをリヤカーに積んで売り歩く行商から「塩漬け海魚」を買い求め、焼き魚にして食べさせられたことは、今でも思い出す。

ところが珍事がある。どうしたことかわが町には「納豆」の売る店も、行商も一切なかった。だから「納豆」を食することはなく、名前すら知らなかった。勿論、我が家が「納豆」を何かの因縁で食膳から避けたという話も聞いたこともない。

「納豆」に初めて出会ったのは、18歳の時東京に進学して、下宿先の食卓だった。「納豆」にネギ、わさび、醤油をいれてかき回しご飯の混ぜて食べるものだったが、異常なねばりによる味と、腐ったような異臭に思わず顔を背けた。以来食しなかった。

しかし、横浜生まれで「納豆」常食していた家内と結婚してから、健康のために食べようと説得されたことで、「納豆」に卵の黄身、ネギ、醤油、からしを混ぜて食べるようチャレンジした。

ところが、そのあと「納豆」にセットされて売り出された「味付き特別たれ」が意外に美味しかったことから、その「たれ」をかけた「納豆」だけを「おかず」として食べるようになった。

そんな折、骨粗鬆症などの予防に「納豆」などに効果があるという北国新聞の記事を読んだ。
同紙によると、

<納豆などに多く含まれる成分「ポリアミン」に骨量の減少を抑える効果があることを、金大医薬保健研究域薬学系の米田幸雄教授らの研究グループがマウスなどによる実験で突き止めたという。

ポリアミンは老化抑制効果が注目されているが、骨への効果が判明したのは初めて。骨粗鬆症などに対する副作用が少ない予防、治療法の開発につながるとみられる。

米田教授や檜井栄一准教授らのグループは、骨粗鬆症モデルのマウスと、関 節リウマチモデルのラットにそれぞれ28日間、ポリアミンを混ぜた水を投与した。

骨粗鬆症モデルでは何も与えない場合、骨量が3〜4割減少したが、ポリアミンを投与したマウスはほとんど減少しなかった。関節リウマチモデルでは、何も与えない場合と比べ、骨や軟骨が破壊される量が3分の1程度に抑えられた。

さらに培養細胞実験で、破骨細胞にポリアミンを加えると、細胞の働きが抑制されるこ とも確認した。
米田教授は「ポリアミンは納豆など日本人になじみの深い食品で摂取でき、副作用も少ないとみられる。特定保健用食品や医薬品などの開発につながる」と話した>としている。

たしかに高齢の時期になってくると骨粗鬆症が原因で股関節を骨折し、寝たきりになったという話よく耳にする。

序ながら「骨粗鬆症」に触れておくと
<骨粗鬆症(osteoporosis)とは、骨形成速度よりも骨吸収速度が高いことにより、骨に小さな穴が多発する症状をいう。背中が曲がることに現れる骨の変形、骨性の痛み、さらに骨折の原因となる。

骨折は一般に強い外力が加わった場合に起こるが、骨粗鬆症においては、日常生活程度の負荷によって骨折を引き起こす。骨折による痛みや障害はもちろん、大腿骨や股関節の骨折はいわゆる高齢者の寝たきりにつながり、生活の質(QOL) を著しく低くする。> 出典:ウィキペディア

上記の金大医薬保健研究域薬学系の米田幸雄教授らの研究グループは、納豆などに多く含まれる成分「ポリアミン」に骨量の減少を抑える効果があることを英国薬理学雑誌(電子版)に発表し、特許を出願したという。

「納豆」好きな人には恥ずかしいことだが、これからは食べることに抵抗を感じなくなってきた「納豆」を、毎日何度か食べるような常食にしようかなという思いが湧いてきた。

なお、心臓病や脳梗塞の治療を受けて、「抗血液凝固剤「ワーファリン」を飲んでいる人は、「納豆」は禁忌とされているそうです、どうか「ワーファリン」を飲んでいる人は、絶対に「納豆」は食べないでください。        (了)2010.03.17

◆本稿は、3月19日(月)刊・全国版メルマガ「頂門の一針」2554号に掲載されました。
同誌には、主宰者の渡部亮次郎氏をはじめ沢山の寄稿者の「卓見」が多数掲載されています。
どうか、下記のホームページで手続きして、拝読をしてください。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm


2012年03月02日

◆宮廷政治の中で生き抜いた紫式部

毛馬 一三


世界最古の長編小説「源氏物語」が一条天皇に献上されたのは、寛弘5年(1008年)11月17日。千四年前である。

紫式部が、父の赴任先に同伴して越前国に行った当時、何よりも貴重だった「越前和紙」と出合い、2年間にわたって思いのままに、物書きに熱中したことは、本欄ですでに触れている。(平成20年8月29日号=和紙と生きた紫式部)

ところで、この「源氏物語献上」に先立つこと、3年前の寛弘2年(1005年)12月29日に紫式部は、宮中に召し上げられている。何とこの仕掛け人が、藤原道長だったのだ。

どうして藤原道長が、紫式部を宮中に召しあげたのか。それは当時宮中で繰り広げられていた、壮絶な権力闘争と壮絶な同族闘争との絡みがあった。それは追々。

壮絶な権力闘争とは、道長の兄道隆盛の息子「伊周」(これちか)と道長とが、真っ向から繰り広げていた藤原同族同士の宮廷内確執だったのである。

上位を占める同族の内大臣「伊周」に対峙するには、道長は内大臣を超える役職への昇進の道しかなかった。道長は策略を弄している。一条天皇の生母で、実姉の強力な支援を懇願して、「関白」に次ぐ地位の「内覧」職を獲得し、役職の上では、一応互角に並んだ。

しかし、道長にとっては、まだ「伊周」の後塵を拝する部分があった。というのは、「伊周」が妹の定子を一条天皇の中宮に送り込み、堅固な地位を確立していたからだ。つまり、皇族ではなかったのだ。

道長にしては、この一角を何としてでも突き崩す必要があった。このため、一条天皇のもう一人の中宮に娘の彰子を送り込んだのである。中宮になり、第一皇子を産んでもらうことが狙いだった。

その狙いが見事に成功し、中宮彰子は1008年9月11日、「敦成(あつひら)親王」(後一条天皇)を出産。道長は狂喜した。これにより、やっと「伊周」を凌ぎ、権力の頂点に昇り詰めことが出来たのだ。

これからが紫式部が絡む話。

この絶大権力の座を占める策略を進める手立てとして、これに至る2年前から、紫式部を宮中に召し上げる手を打っていたのだ。ここには政治家道長の老獪な手腕があった。

というのも、文学がこよなく好きな一条天皇の気を惹くため、紫式部の「源氏物語」の献上を早々
と行っていたのだ。

言い換えればこの「献上」によって、道長は天皇の歓心を惹きつけ、親密にしてもらうための「政争の具」に利用したのである。「源氏物語」巧みに利用し、これで娘彰子を中宮に送り込む手立てにも結び付けていったのだ。

紫式部は、中宮彰子の教育係として勤める傍ら、3年近く宮中の様々の権力闘争、貴族確執、熾烈な利害闘争などをつぶさに見つつ、冷静な考察を弄して宮中葛藤のシナリオを組み立てながら、「源氏物語」を書き綴った。

色とりどりの54帖の冊子、400字詰原稿用紙にすれば、2300枚ともなるとてつもない長編小説。
越前和紙と墨を使ったきらびやかな「源氏物語」の面白さが、一条天皇の心を捉えて仕舞ったであろうことは、想像に難くない。

色とりどりに展開するこの物語を通して、天皇自身が、宮廷内部の隠れた暗闘と情念の世界の新鮮さや登場人物の特定を推定できた訳で、宮廷ドキュメントとして共鳴かつ括目していったことは当然。天皇もこれに勝る情報は、あったとは思えない。

そう見ていくと、源氏物語は、表向きは今でも「悲恋」、「純愛」、「禁断の恋」の物語となっているが、実際はそうではなく、むしろ宮廷での「政治暗闘の記録」が妥当のような気がする。一条天皇も、きっとそのような感覚で「源氏物語」から宮廷暗闘を読み耽っていただろう。

まさに世界で最古の「政治小説」だが、と同時に宮廷政治をつぶさに書き込んだ紫式部は、まさに宮廷政治の中で生き抜いたことになる。

そう見ていくと「政治小説源氏物語」は、またまた、評価も面白さも増してくる。(了) 
修正 03.02

2012年02月14日

◆龍馬も怒る「船中愚策」の空論 維新の公約

杉浦 正章



「船中八策」と銘打って打ち出すというからどんなに斬新な政策かと思ったが、何のことはない、実現不能な「船中愚策」だ。坂本龍馬も「馬鹿にするな」と怒る。


それも柱が首相公選制や一院制では元首相・中曽根康弘や都知事・石原慎太郎の顔が浮かんで、仏壇からはたきを掛けて取り出したような古くささを感じる。憲法改正が不可欠であり、しょせんは机上の空論となる。


掛け捨て年金制度も大幅な資産課税も憲法の財産権に抵触しかねない。民主党のマニフェストは、有権者をだましただけあって「知能犯」だったが、大阪維新の会の衆院選公約は「粗暴犯」で、これで風が吹くようではまたまた有権者のガバナビリティー(被統治能力)が問われる。


大阪維新の会は「維新政治塾」への応募者が最終集計で3326人だったと発表した。大阪人らしいのは「少数精鋭でいく」と言っていた市長・橋下徹が「12万円は大きい」「日本も捨てたものでもない」ともろ手を挙げて歓迎。単純計算でも年間受講料12万円かける3326で、4億円の実入りになる方を勘定高く選ぶらしい。


難破船から逃げ出すように民主党の衆院議員・高橋昭一(兵庫4区)が願書を出したが、維新の会は断った。入会希望の議員は数人いると言われるが予想外に行動に出る国会議員が少ないのは、まだ見極めがつかないのだろう。小沢チルドレンも小沢一郎の締め付けがきついに違いない。
 

その維新の会の選挙公約だが、どうも石原の影響があるような気がしてならない。首相公選も一院制も石原がかねてから主張してきたところだし、手あかに汚れていて新鮮味などない。


まず首相公選は、若いころの中曽根が主張したもので、小泉純一郎も首相時代に懇談会までつくって検討した。いずれも国民的人気のある政治家が、公選なら首相になりやすいという発想で検討を進めたことになる。


自民、民主両党とも党員参加による党首選出を採用しているが、これも首相公選論の「名残り」だ。公選論は首相と国民統合の象徴である天皇との関係が問題点として指摘され、また首相の所属政党と議会の多数政党が異なるねじれ現象が常態化する可能性があることなどマイナス面が多く、盛りあがらないままお蔵入り状態となっている。


橋下は「現行法のままで実現できる首相公選がないか」と述べているが、ないわけではない。野党第一党と与党第一党が、党首選出手続きを国民一般に開かれたものにする案だ。事実上の首相公選だが、民主、自民両党ともやりそうもない。結局、改憲が必要となり不可能だ。
 

一院制も古い。確かに緑風会に代表される戦後の一時期と違って参院の政党化は著しく「衆議院のカーボンコピー」化は事実だ。この参議院不要論は古くからの自民党のおはこであった。与党時代の自民党は参院で伯仲国会やねじれ国会になれば不要論を唱え、逆に参院で過半数または安定多数になれば不要論を唱えなくなる傾向が目立った。


その古い不要論を、橋下が唱えて実現性があるかといえば、ゼロだ。これも改憲が必要だからだ。橋下の一院制の主張からは問答無用の全体主義的発想が背景にあるような気がする。


公約は年金制度について、現役世代がまかなう現行の「賦課方式」から「積み立て方式」への変更が眼目だ。橋下はこれをさらに進めて「掛け捨て方式」を主張している。「資産をもった人には年金を払わない」のだと言うが、荒唐無稽だ。最初から制度が成り立たない。


一種の強制貯蓄をさせておいて、これを取り上げれば憲法の財産権に抵触しかねないし、だいいち年金を納める意欲が失せる。公約は概して大ざっぱすぎて、焦点の問題を避けて通っているように見える。


とりわけ普天間移設など、外交・安保上の喫緊の課題がなおざりにされている。唯一具体的な消費税導入と環太平洋経済連携協定(TPP)参加も、民主党と一体どこが違うのか。
 

なぜあえて不可能なものを柱に据えたのかと言えば、石原の助言または調整があったのだろう。橋下が自らの国政転向を否定していることと考え合わせると、水面下で石原新党がうごめいているのかも知れない。


しかし、石原政治路線は「核武装」まで行くことが分かっていない。そろそろ有権者は、維新の会がもくろむような「風の政治」から、離脱すべき時ではないか。


最新の世論調査は維新の会への期待値が高いが、公約が出される前の調査だ。有権者は今度こそ公約をしっかり研究することだ。民主党マニフェストにだまされて、最低保障年金はもらえず、子ども手当は撤回され、高速道路も無料にならない。


日本は民主党政権で空白の3年間を作ってしまった。こんどは地方の国政を知らない政治家がタレント的な人気があるといって、海のものとも山のものとも知れぬ“維新チルドレン”を大量につくって、国政を混乱させてよいのか。もう国家にそのゆとりはないのではないか。

      <今朝のニュース解説から抜粋> (政治評論家・元時事通信編集局長)