2015年08月06日

◆芭蕉随行の『曾良』は忍者?

毛馬 一三



拙稿「芭蕉終焉(しゅうえん)の地って?」の第2弾。同稿が日本一メルマガ「頂門の一針」に掲載されたところ、当主宰者の渡部亮次郎氏からご寄稿を頂戴した。

もともと拙稿とは、松尾芭蕉の「終焉の地」が大阪・南御堂向かいにあった花屋仁左衛門の離れ座敷であったことや、辞世の句といわれる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が、この座敷の病の床で亡くなる4日前に詠んだものであることを、筆者は不覚にも知らなかったが、先般偶然このことを知る機会を得たことから、思い立って綴ったものだった。

その執筆中に、渡部亮次郎氏が以前本欄に掲載された『老化は熟成である』の記述の中に、<生きるとは死ぬことである。生まれたら成長すると言うが、それは違う。最後に来る死に向かって懸命に走っているに過ぎないのだ>という同氏の「死生観」が記述されていたことを思い出し、それと終焉の芭蕉の心境と重なるよう思えたので、同拙稿中に引用させて貰った。

芭蕉は、大阪で死ぬなどとは夢想だにせず、早く床払いをして好きな旅を続けたいとの気持であったと、様々な文献が記している。

だが、思いもよらず病(食中毒といわれる)は悪化、意に反して終焉を迎えるのだが、見守る弟子たちの顔を眺めながら「死」が迫るのを悟り、幸せな生涯だったと瞑目しながら、逍遥と死の旅についたようだ。渡部氏の『老化は熟成である』という「死生観」を、芭蕉も終焉のその瞬間同様の想いを脳裏の中に去来させたに違いないと筆者は思ったのだ。

「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏から頂いた寄稿は、下記の通りであった。

<深川・芭蕉記念館 は拙宅の近くです。徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。江戸の発展とともに新たな市街地、農地が必要となり、土地の開発が始まった。大阪からきていた深川八郎右衛門が新田を開発、慶長元年(1573年)深川村と称したのが始まり。

江戸の下町と言えばなんと言っても深川。出発地は都営新宿線森下駅。駅を出て新大橋通りを浜町方面に5分ほど歩いていくと隅田川にかかる橋が見えてくる。これがこの通りの名前になっている新大橋。橋の手前の十字路を左に曲がりしばらく歩いていくと最初の目的地「芭蕉記念館」がある。

芭蕉は延宝8年(1680年)江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ。元禄2年(1689年)3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる奥の細道。岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅。

「芭蕉記念館」には 当時、芭蕉が着ていた袈裟を初め芭蕉庵を模したほこら、句碑 などがある。記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり。川沿いの道を左に少し歩いていくと史跡庭園があり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。 先日来日した李トウキ前台湾総統もご覧になって行った>。
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この寄稿を読ませて貰った時、芭蕉に纏わる新たな衝撃が脳裏を駆け巡った。それは、<徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。(そんな未開発の深川だったが、その深川から)元禄2年3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。(略)岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅>というくだりである。

江戸から東北、北陸地方を150日間で踏破した2400キロ(600里)の道程を踏破したと言うが、とんでもない距離だ。単純に計算すると1日16キロ歩いたことになるが。だが当時の旅はそんな生易しいものではない。

江戸時代の元禄期といっても、 江戸から東北、北陸地方には、のんびり歩き通せる平坦な道が整っていた筈はない。ほとんどが山道・峠道であり、山を越えるしか方法はなかった。

筆者も数年前福井の江戸時代以前からの福井県の「鯖街道」を歩いたことある。山道の勾配は天地の差ほどの高低を繰り返し上り下りし、僻々した記憶がある。山道もない場所は絶壁を横切るしかない。ましてや橋はほとんどなかった。大雨で河が氾濫、足止めを食うことも日常茶飯事だったろう。

「奥の細道」によると、2人は何と1日に48キロ(12里)を 歩いた日があったという。幾ら昔の人が健脚だったとはいえ、老齢の域の芭蕉(46)と同行者曾良(41)が、そんな長距離を1日で踏破できたと考える方が無理な話だ。

だからここから「第2弾」を書きたくなった。つまり芭蕉は、こうした異常な歩き方の速さや、伊賀の上野の生まれであることから「忍者」ではなかったかと論じられてきた。それはまた別の機会に譲るとして、ここで気になるのは、むしろ芭蕉の弟子であり、旅の同伴者である「曾良」の方だ。

「曾良」のことは、純朴な芭蕉のお供だという印象が強くて、「忍者説」はあまり知られていない。

ところが調べてみると、こんな具合だ。<曾良は、幕府とのつながりが緊密で、当時日光工事普請を巡ってあった伊達藩と日光奉行の対立を探るための調査を、幕府から曾良に命じられたとされている。その目的と行動を秘匿するため、芭蕉の歌枕の旅が巧みに利用したというのが専門家の間では定説となっている。

その曾良は、さらに社寺や港の荷役の動きを調べる任務も担っていたらしく、北前舟が立ち寄る日本海沿岸の港として酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀を丹念に探索して回っている痕跡がある。

その任務行動が、なんと芭蕉の旅の日程と、無理なく調和した形になっている事実には驚かされる。きっと幕府からの支度金が潤沢だったため、俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の興行収入だけでは食えなかった芭蕉の懐具合が、この「曾良」の任務を受け入れことにやむを得ず、同調したのではないかと専門家は指摘する>。

こう見てくると、「曾良」という旅の同伴者は、芭蕉に接近して弟子に登用してもらい、巧に芭蕉を手なずけて幕府隠密の任務を隠密裡に遂行していた“忍者”だったという説は真実味を帯びてくる。果たして芭蕉の死後、「曾良」は、幕府巡見使九州班員に正式に収まっている。

芭蕉の終焉の時、曾良の姿はそこに無かった。公務を理由に葬儀に参列していない。やはり芭蕉に心酔して傍に連れ添った弟子ではなかったのではないか。 (了)   
    参考・ウィキべディア      2007年08月11日掲載


           


2015年08月02日

◆感動した蕪村実物「絵画と俳句」閲覧

毛馬 一三



 江戸時代の俳人与謝蕪村が、来年生誕300年の「年」を迎えるため、筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム21では、全国初の「生誕300年記念祭」の諸行事を全国に先駆けて、蕪村生誕地大阪毛馬で実施する計画を進めている。

 そんな折、蕪村の後世継承して行く考えに同意してくれている大阪市会議員(前議会副議長)の杉田忠裕氏が、「実は、蕪村と若冲の生誕三百年展覧会が、今滋賀県甲賀市信楽町の博物館「miho museum」で開かれているので行きませんか」と誘われた。

 これには驚きだった。我々と同趣旨の「生誕300年記念展覧会」と同じ表題を付けて、滋賀県の博物館で、何と半年も早く開催されているということ自体に、驚嘆だったのだ。瞬間的に、これを見逃す訳にはいけないと思った。杉田忠裕氏にご案内をお願いした。

 7月31日午後1時、杉田忠裕氏の運転する自家用車に、筆者と同じNPO理事渡邊征一郎氏を同乗させて貰い、大阪から新名神高速道路を疾走して、1時間40分掛かって信楽インターチェンジを下車。

 このあと、囲まれた山や谷を遠望しながら、幾つもトンネルのある狭い道路を抜けて15分走り、信楽町博物館の駐車場についた。そこからまたバスに乗り換えて10分ほど行き、ようやく本番の博物館の「mihomuseum」に着いた。

 同博物館は、1997年11月世界的な建築家・イオペイシの設計によるもの。80%を地中に埋設したユニークな設計。敷地面積:30万坪、美術館棟(床面積);17,400u。観ただけでも、博物館に入館して中をみても、巨大な建物だった。

これから本題。

 博物館で杉田氏の知人2人と合流、5人で閲覧を始めた。この日は平日の金曜なので 閲覧者は少ないだろうと思っていたが、なんと大勢が並んで見学している。

 「生誕三百年の蕪村と若冲」は、尾形光琳が亡くなった後の同い年の天才絵師同士だったのだ。蕪村は絵画・俳句も嗜んだが、若冲は画家として専念した人物。

 博物館での2人の絵画等は、223点陳列されていた。蕪村に関心のある我々5人は、「蕪村絵画と俳句添付絵画」を中心に凝視してまわった。現在展覧中の蕪村筆閲覧図は、80点ある。

 この中には、閲覧予定も含め

・「花守の」与謝蕪村筆:俳句付き
 ・「学問は」与謝蕪村筆:俳句付き(8月4日〜)
 ・「雪月花」与謝蕪村筆:俳句付き
 ・「盆踊図」与謝蕪村筆:俳句付き
 ・「又平に」与謝蕪村筆:俳句付き
 ・「奥の細道図巻」与謝蕪村筆
 ・「山水図屏風」 与謝蕪村筆
 ・「夜色楼台図」 与謝蕪村筆 (国宝・8月18日〜)
 ・「蜀桟道図」  与謝蕪村筆
  
  などがある。図画は、大きな屏風もあれば、高さが50pから1m・幅50pの大きさの物も在った。その中に「蕪村俳句と文言」が自筆されていた。
 
 蕪村の図画は、各種の書籍で同上の小さな「写真」を何度も見てきたが、目の前の大きな与謝蕪村筆の実物の絵と筆文字を見ることが出来た上、図画の末尾に「蕪村、謝寅、東成蕪村」と記した蕪村名の自筆を初めて見た時、不覚にも感動の涙が溢れ出て止まらなかった。蕪村がこの場にいるような気になったのだ。

 蕪村の生き様や強烈な郷愁の想いを、多少知っている筆者にとって、蕪村の実物画と自筆俳句・名前の実物が眼前に現れた時、その画像を書いた時の蕪村の心境が読み取れるような気がして、心は揺れた。それほど自筆画像と文言が与えるインパクトは、強烈だったのだ

 この閲覧の最中、博物館の梨純次参事から、去年新しく見つかった「蕪村絵画」3図があり、世間に余り知られていない3図だとして閲覧を進められた。

 維摩(ゆいま)、龍(りゅう)、虎図(とらず)の与謝蕪村筆3図であった。そういえば、維摩も龍、虎図は、確かに本でも写真でも見たことはない。これも今回閲覧の感動の一つだった。これは画期的なことであり、閲覧する価値が多いにあった。

 閲覧者は、我々の金曜閲覧日には900人もあったという。8月1日(土)には、1500余人超えたそうだ。

 「蕪村と若冲の生誕300年展覧会」は8月30日まで行われる。滋賀県信楽町の博物館は非常に遠いけど、筆者の涙を誘うような感動を招いてくれるのは確かだ。是非「蕪村俳句愛好家」の方は、博物館の閲覧をお勧めしたい。                                (了)

2015年07月29日

◆ペットも危ない「熱中症」

毛馬 一三



台風12号が去った途端、再び猛暑日がぶり返してきた。近畿全域では、日中最高気温が35度に達している。

毎朝の午前5時半過ぎ、小型愛犬ウォークテリアを連れてお決まりの「朝のコース」に出かける。これは、筆者「自身の腰痛症治療で、両足両腿の筋肉鍛錬」も込められている。

夏場の朝は、地面の温度が上がらない土の「公園内」を何周か回って、途中で切り上げ早々に帰ることにしている。

最近の朝、愛犬仲間の男性と出会った。朝の挨拶を交わしたあと、「同じマンションの10歳の老犬が熱中症に患って亡くなった」という話を聞かされた。

真昼の猛暑の時に散歩に連れ出したところ、途中で荒く喘ぐような息使いをし、大量のよだれを吐き出しながら倒れ込み、意識を失ったまま死亡したそうだ。間違いなく 「犬の熱中症」だ。

愛犬飼い主としては失格だ。おそらく仕事の都合で已む無く昼間に連れ出したのだろうが、それにしても老犬を35度超える日中散歩に連れ出すとは酷過ぎる。人間の熱中症がこれほど問題になっている折、愛犬の連れ出しを止めておかないのは、悲哀の一言に尽きる。

この夏、掛かり付けの動物病院の院長から事前に「熱中症対策」の助言を聞いていた。

犬はほとんど発汗しないため体温調節が難しく、人間以上に熱中症にかかりやすいそうだ。「数分で危険な状態になることがあるので、夏場は気を付けなさい」とのことだった。

更に、室内ではクーラーを稼動させ、1日中室温28度くらいを保った中で休養させることなどの予防対策が、基本だとも教えてもらっていた。

だから夕方の散歩も、7時過ぎに時間帯を変更し、コンクリートの道路も、ヒンヤリしているかどうか、自分の手で確かめたうえ連れて出す。しかしこの時間になっても猛暑の余熱は残っており、草むらや道端のコンクリート壁の間から熱風が吹き出てくる。

この余熱を浴び出すと発汗出来ない愛犬は、ハーハーと喘ぎ出すので、散歩も途中打ち切り早々に帰宅する。帰宅すると、すぐに風呂場で水道水を足にかけて冷やし、足の裏が冷えたのを確めて、クーラーの効いた居間に連れて行き、夜の食事を与える。これが筆者の愛犬を護る「熱中症」対策だ。

獣医師によると「犬の熱中症」とは、周りの高温、高湿度のため、体内に溜まった熱によって、高熱、脱水、虚脱などの症状起こすことだそうだ。屋外小屋での飼育が最も危険。シャンプーしたあと、乾燥目的で庭に放すことも体温を急激に引き揚げることに繋がるため、用心すべきだと指摘する。

家族が買い物や用事で出かけて「留守番」をさせる場合、クーラーを付けずに締め切ったままにしておくと、体温は一挙に上がってリスクは増すという。

特に散歩の場合も、直射日光は絶対避けるべきで、散歩の時間も運動も控えめにして、常に歩く状態を注視して、異常の有無をよく観察して欲しいと、指摘している。

もし、熱中症にかかったかもしれないと思ったら、小型犬なら風呂場で水をかけたり、バスに体ごと浸すのが効果的という。大型犬ならホースで脇の下や内股部に水をかけて冷やすのが一番だそうだ。

その上で、吸水器を使って少しずつ水を飲ませ、安静にさせておくのが最良だそうだが、それでも改善の兆しがなかったら動物病院に急ぎ連絡したほうがいいという。

家族一員である愛犬が、飼い主の不注意で不幸な憂き目に遭うことほど残酷なことはない。愛犬にも「熱中症」の危機があることを、愛犬家はよく認識すべきだろう          (了)                  


2015年07月23日

◆「博多弁」を思い出そう

毛馬 一三

  

筆者が主宰する蕪村顕彰俳句大學講座の毎月の「俳句句会」が終わると、同句会の受講生になってくれている同じ福岡高校卒の同級生5人と帰り道、いつもの喫茶店でコーヒーを飲みながら、雑談をしている。

その時、盟友のひとりの渡邉征一郎君が、福岡から持ち帰ってきた珍しい「博多かるた」を披露した。高さ17p、幅12p、厚さ3pの箱入りの新「かるた」。<博多を語る会編・西日本新聞社刊>で、ユーモラスな絵に面白い解説書きが添えられた異色の「かるた」だった。

「かるた」には、「博多の行事・祭事・博多弁」が、「いろは順」で構成されている。熟視するほど、懐かしい「博多情景」が飛び出してくる。全員が、この異色「かるた」に傾注した。。

私を除けば、全員が博多っ子。たまに帰省することはあっても、郷里を離れて4〜50余年経つため、同級生たちも「博多弁」うすっかり皆忘れている。そのため、少しでも記憶を呼び戻そうという気持ちを昂ぶらせながら見入ったのだ。

良かったことは、同「かるた」に、解説書が付いていたことだ。解説を読めば、「札の文意」がわかるようになっている。そこで「かるたで博多弁」思い出して、「この通りやな」と、頭を掻きながら大阪弁で呟く仲間もいた。

ところが、解説書を読んでも、何のことか分からない「博多弁」が沢山あった。

例を上げると、「そ」の札。「そおついて わかる博多のよかところ」と、解説に書いてある。「そおついて」って何?皆、首を傾げた。

<古代から大陸との文化交流の地だった博多には、いたるところに名所旧跡、歴史の地がある。ゆっくり町を「そおついて」(歩いて)回ると、路地裏のようなところにも、隠れた歴史を発見できる>と、解説書にはある。

なるほど、そんな意味の「博多弁」があったのか。

「かるた」が持ち込まれたことで、久しぶりに「博多弁や博多行事等」が話題となって、楽しいひと時を過ごせた。しかし肝腎の郷里「博多弁」をすっかり忘れて仕舞っていたことに、お互い苦笑いするばかりだった。

実は、私の実家は博多から電車に乗って40分ほど離れた久留米。これまた博多弁と久留米弁とはまるきり違う。越境入学で受験高の福岡高校に入学したのだが、入学当時は、博多弁で授業する先生の言葉になかなか慣れず、仲間つくりにも苦労した。

でも3年間経つ内に、何とか博多弁に馴染み、言葉の情緒も分かるようになった。

その後、東京の早稲田大学を経てNHKに入局して記者になった。とはいえ、私にとって博多弁は第2の故郷弁だ。

なのに、純粋の博多っ子の盟友たちが、自弁だった「博多弁」を、咄嗟に思い出せないのには、聊か驚いた。時節の経過が災いする忘却の仕業なのだろうか。

そこで、懐かしい「博多弁」をウイキペディアを参考に、改めて頭の中に蘇らせてみた。

<名詞>
•「かったりこうたい」…交互に。交代交替。
•「きさん」…貴様。
•「ど (ん) べ」…最下位。
•「こす」…こすいこと。
•「せこ」…せこいこと。
•「ちかちか」…チクチク
•「ごりょんさん」…主婦。

<動詞>
•「おっせこっせする」{サ行変格活用} …時間に追われてバタバタする。
•「くらす」 {サ行五段} …殴る。(「喰らわす」から)
•「くちのまめらん」{ラ行五段}…呂律が廻らない。
•「おらぶ」{バ行五段} …叫ぶ。
•「からう」{ワ行五段} …背負う。
•「きびる」{ラ行五段} … (紐などで) 縛る、束ねる。
•「こずむ」{マ行五段} …積み上げる。
•「ずんだれる」{ラ行下一段} …だらしない。
•「ぞろびく」{カ行五段} …引きずる。
•「たまがる」{ラ行五段} …びっくりする。
•「ねぶる」{ラ行五段} …舐める。
•「ねまる」{ラ行五段} …腐る。
•「のうならかす」{サ行五段} …なくす。
•「ねぶりかぶる」{ラ行五段} …うとうとする
•「腹かく」{カ行五段} …腹が立つ、苛立つ。
•「はわく」{カ行五段} …ほうき等で掃く。
•「ほがす」{サ行五段} …穴を開ける、穿孔する。
•「ほとびらかす」{サ行下二段} …ふやかす。
•「まどう」{ワ行五段} …弁償する。
<形容詞・形容動詞・副詞・連体詞>
•「しゃあしい (か) 」(語源は「せわし」)「じゃかしい (か) 」「せからしい (か) 」{形・シク} …うるさい、騒がしい。「そわそわすんな。しゃあしかぞ」[共通語訳]「そわそわすんな。気が散る。」
•「しょんない」{形・ク} …仕方ない。
•「しかたもない」{形・ク} …1. くだらない。どうでもいい。2. 期待して損する。
•「いっちょん」{副} … (否定語を伴って) 少しも。全然。
•「えずい」{形・ク} 怖い。
•「すいい」{形・ク} …酸っぱい。
•「そげな」{連体} … そんな。「そ」+「が」+「やうなる」
•「そげん」{副} … そんなに。そんなこと。そんなふうに。「そ」+「が」+「やうに」
•「どげな」{連体} … どんな。
•「どげん」{副} … どんなに。どう。どんなふうに。
•「なし」「なして」{副} …なぜ、どうして。
•「いたらん」{連体} …余計な。多くは「いたらんこと (するな / 言うな) 」の形で使用される。
•「なんかなし」{副} …とにかく。「なんかなし、電子辞書ば使わんで紙の辞書ば使うて見れ」>。

まだまだ懐かしい「博多弁」は沢山ある。どうか博多で生まれ育ち、今離れて暮らしている方が、博多で過ごされた時のことを思いだし、この豊富な「博多弁」思い出して頂ければ幸いだ。(再掲)  

2015年07月19日

◆自家製季節の「紫蘇濃縮ジュース」

毛馬 一三

今年も、いよいよ「紫蘇(しそ)濃縮ジュース」を、作る季節になった。
           
ところでジュースとは、本来「果汁」だったが、今ではコーラなどの炭酸飲料なども含めた甘いソフトドリンクまでも「ジュース」と称している。デパートやスーパーに出掛けると、山ほど陳列されたこの種のジュースが目に付くが、果たして健康にいいかどうか考えると、買い求めるのに躊躇してしまう。

そうした折、知人に勧めら体に是非いいから「紫蘇(しそ)濃縮ジュース」作りなさいと勧めらて以来、虜になったように、我が家で毎年自家製を試みている。

なんとまあ、風味・舌触り・美味さの面に、すっかり嵌ってしまった。

紫蘇(しそ)の事だが、これから追々。

<紫蘇(しそ、学名Perilla frutescens)は、シソ科のシソ属の植物。中国原産。

紫蘇には、こんな由来がある。中国の後漢末、洛陽の若者が蟹を食べすぎて食中毒を起こし死にかけたが、名医・華陀が薬草を煎じ、「紫の薬」を作り、同薬を用いたところ、若者はたちまち健康を取り戻した。「紫」の「蘇る」薬だというので、この薬草を「紫蘇」というようになった>。

品種は以下の2種類がある。「青紫蘇」と「赤紫蘇」である。

<i)青紫蘇は、葉や花を香味野菜として刺身のつまや天ぷらなどにする。青紫蘇の葉は野菜としては「大葉(おおば)」とも呼ばれる。
i)赤紫蘇は、梅干しなどの色づけに使用。また葉を乾燥させたものは香辛料として(特に京都で)味唐辛子に配合され、ふりかけなどにも用いられる>。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

ところで自家製の「紫蘇(しそ)濃縮ジュース」には、「赤紫蘇」を使う。

作り方は幾通りもあるが、過去から自家製に挑んでいる「紫蘇ジュース」のその作り方をご紹介したい。

<作り方>
(1)紫蘇(350g)を水できれいに洗い、水気をよく切って鍋に入れる。
(2)鍋に水(450cc)を入れ、その中に砂糖(600g)とクエン酸(20g)を加える。
(3)紫蘇を満遍なく混ぜて、鍋をガスの中火で煮出す。
(4)10分ほど沸騰させ、紫蘇の中から泡が出したら火を止める。
(5)鍋で煮だった紫蘇を別のボールに、ザルで濾す。
(6)絞り紫蘇液が自然に冷めたら、その中に「ゆず酢」を大匙2杯弱入れる。これがこの濃縮ジュースの「隠し味」。
(7)真っ赤な紫蘇濃縮ジュースが出来上がったら、氷を入れたコップに濃縮ジュースを好みに応じて注ぎ、水や炭酸水などで4倍に薄めて飲む。

これだけの作り方で、900ccの「紫蘇濃縮ジュース」が出来上がる。冷蔵庫で保存すれば、半年の賞味期限があるというのは、「貴重なジュースの一種」だ。

この「紫蘇ジュース」には、紫蘇の栄養であるビタミン類、ミネラル類が含まれているので薬用効果があり、アレルギー体質、生活習慣病、食中毒予防等に効果があるという。

手前勝手な風味・美味しさ抜群の「紫蘇濃縮ジュース」の作り方を紹介させて頂いたが、このジュースが他の作り方と違う点は、隠し味の「ゆず酢」。

興味を感じられたら、いま出荷盛りの赤紫蘇を求めて作ってみられては如何。                                                 (了)   

2015年07月15日

◆3時間以内の搬送

毛馬 一三



脳の病気も心臓の病気も怖い。父親が68歳で、また私のすぐ下の弟も45歳で、「脳溢血」で亡くなった。家系が高血圧症みたいで、私自身も40歳を境に血圧が閾値を越えるようなったため、以後病院の血圧降下剤を朝夕服用している。

子供の頃から偏頭痛持ちで、加齢と共に頭痛に襲われる度に、「脳溢血」ではないかと身が縮む思いがする。

今は、大阪市総合医療センターで2か月1度、同センターの腎臓高血圧症科の外来診察を受けている。診察毎の問診、血圧測定に加え、定期的に血液検査やCT検査を受けて、「とくに症状に問題はない」との診断結果が出ると、ホット胸をナデ降ろす。

ところで以前の外来診察担当の脳外科安井敏裕元部長が、大阪市総合医療センター3Fの「さくらホール」(定員350人)で市民公開講座で講演をした。

その講演の演題が、なんと「もし脳卒中になったら」だった。脳卒中になった本人があれこれ手筈できる訳はないので、<脳卒中になった肉親を発見したら、家族はどうしたらいいのか>、であろうと考えいた頃である。

安井元部長の後援腰を抜かすようなことを告げられ、大いに驚いた。

<脳溢血で倒れたら、2時間59分以内に専門病院に搬送してください。3時間以内だと助かる可能性は大です。3年くらい前にその時間内だと助かる薬が出たからです>と述べた後、<大切なことは、倒れた時間をしっかり確認し、それを医師に必ず知らせることが必須条件。搬送後の各種検査には最低でも1時間かかります。一刻を争うことをしっかり認識していて欲しいです>。
安井敏裕元部長の講演内容はこんなことだった。

3時間が勝負の時間か。そういえば、元NHK同期記者の石岡荘十氏も、本欄で「脳溢血」「心筋梗塞」は、3時間内に病院に搬送されれば、救命率は高いと書いていた。

そこで、「3時間の搬送」とは内容が少し異なるが、石岡氏が日本一メルマガ「頂門の一針」に掲載した「異端の心臓外科医」を、同メルマガの掲載の許諾を得て 下記に転載した。心臓手術で生を与えてくれた一人の医師が浮かび上がる。命の尊さを考えるのにいい機会だと思うからである。

<◆「異端の心臓外科医」>
石岡荘十

この病院には、日本の北の端、南の涯から、1人の医師のウデを信じた患者が群がっている。そう、大袈裟ではなく患者が群がって来る感じなのだ。

小田急相模大野駅に隣接したホテルの最大ホールに、どっちかといえば、飾りつけ豪華な会場の雰囲気に似つかわしくない高齢者が続々と参集した。その数520人。「考心会」のメンバーである、といっても誰もわからない。「心臓手術後の生活を考える会」の創立10周年の総会の時である。

「考心会」の会員は現在なんと1000人。その共通点は、かつて同じひとりの心臓外科医の“手にかかった”患者だということだ。南淵宏明医師に胸を切り開かれたという“過去”を持っている人たちである。心臓手術経験者の患者の会としては、多分、最大だろう。

南淵宏明医師は、神奈川県大和市にある大和成和病院で心臓手術を始めた時から、自分が手がけてきた患者の“予後”、つまり手術後の生活がどうなっているか、そこまで面倒を見るのが心臓手術外科医の責任だと考えている。

といっても、南淵医師がその日集まった元患者の全員を覚えているわけは、当然ない。患者にとって自分の執刀医はただ1人、彼だが、彼にとっては、記憶の限界を超える患者1人ひとりを覚えていられるはずはない。

南淵医師はその日の記念講演で、こう言う。

「お集まりの皆さん全員を、正直言って全部覚えているわけではありません。ですが、これはやばいぞって、冷汗をかきながら必死になって手術した患者さんのことは良く覚えています。今日ここにいらっしゃる○○さんとか---。あれは危なかった(笑)。大部分の皆さんのことを覚えていないということは、大部分はうまくいったということです。もしいま不具合がありましたら、このあと遠慮なく言ってください」

考心会は、年1回総会を開き、その都度、南淵医師を始め、ほかの医師や看護師も出席して、術後・予後の相談に乗っている。もちろん無料だからか、長い列ができる。それだけでなく、あちこちで患者が医師にせがんで一緒に記念写真まで撮っている。これは同窓会では、と思わせる風景である。 

南淵医師は奈良医科大学出身。まあ、はっきりいって、わが国の医師のキャリアでいえば、「うん?」という出自だが、彼は飛び出した。それも流行のアメリカではなく、オーストラリア、シンガポールで修行を積む。

というと、わが国では、「なーんだ、そんな国で?」と思うかもしれないが、心臓手術に関しては、かの国はじつはわが国の心臓外科技術を遥かに超えるとんでもない先進国なのである。

わが国のレベルは先進国の中では最低、という現実は知られていない。国民は、日本はアジアの先進国だと思わされている。だから帰国した彼を、受け入れない、叩く、排除する。いじめである。この国の業界は一旦、医局を飛び出した医者は受け入れない掟がある。

しかし、たまたまいろいろあってたどり着いた今の病院で、心臓外科部門を創設、年間数百例という手術実績とその成功率で群を抜き、その合間を縫って、あろうことかタケシの番組に出演して業界告発まがいの発言を繰り返し、軟派の週刊誌に週1連載エッセイ(週刊現代「異端のメス」)を書き、業界内幕の実態暴露に近い本を続々出版。

こんなことをすれば村八分になるのは当然だけど、心臓手術で人工心肺を使わず、心臓を動かしたまま細い血管の縫合をやってのけるバイパス心臓手術(オフポンプ)の実績を重ねて、特にこの分野で名を成す。

で、「あいつは一体何者だ」と業界だけではなく、その評判は心臓に不安を抱える素人にまで関心をもたれる存在となった。だが、相変わらず業界では“異端”である。

つまり業界の常識から言えば「変わり者」なのだが、患者の気持ちから言えば、この人しかないと思うのは当たり前だろう。それが本文冒頭の現象をもたらしている。

地域住民が、いつも頼りにしている立派な建物の病院に駆け込んでも、心臓病に関する限り、まともな治療、特に外科治療をできるところは稀である。治療が難しい患者が来ると手に負えない。そこでどうするか。

「そうだあの心臓病専門病院に転送しよう」ということになる。リスクを回避しようと逃げまわっているのだ。そんな患者が、大学病院から、それも東北の大学病院からヘリコプターで南淵医師のいる病院に送られてくることもある。珍しいことではない。
 
南淵医師は、48歳。身長180センチを超える大男だ。指も、これが心臓外科医かと思わせるほど太い。だが、繊細な感覚の持ち主、と見た。患者に接する笑顔は少年のそれである。

本メルマガ618号(11/3)で紹介した、心臓手術では世界屈指といわれ、数少ない応援団のひとり、京都大学医学部の米田正始心臓外科教授は、こう言う。

「彼とは考え方が同じです。ほかでは手に負えない手術だからこそやりがいがある」と。




2015年07月12日

◆今年の福岡八女茶 届く

毛馬 一三

筆者の家では、食事の後や日常折を見て八女茶を毎日欠かさず5杯くらい常飲している。祖母の実家が福岡県八女郡の八女茶(元は星野茶)の茶園出身だったのが縁で、子供の頃から八女茶の煎茶や玉露を嗜んできた。

一番茶の時期になると、八女茶生産元の祖母の実家から、注文した八女茶の煎茶と玉露が送られてくる。

今年は、注文した今年の特選煎茶が30本届いた。

早速、今年の特選煎茶に味わいを試みた。

70度位に冷ましたお湯をゆっくりと茶葉を入れた急須に移し、3〜4回ゆるりと左右に回したあと湯飲みに注いで飲み始めると、筆舌に尽くせないまろやかな風味と甘み、それに他所の茶より濃い味が口内に広がり、至福の瞬間がやってくる。急須に残った煎茶も飲む。

茶に含まれるカテキンの成分が、最近、抗ガン作用と抗微生物作用に効果があることが広まってきたことから、健康維持のためこの八女茶嗜みの習慣を続けている。

八女茶以外に全国には下記のような有名な茶の生産地がある。

<愛知県(三河茶)、茨城県、(奥久慈茶、猿島茶)、鹿児島県(かごしま茶)、京都府(宇治茶)、岐阜県(美濃茶)、熊本県(肥後茶)、高知県(土佐茶)、埼玉県(狭山茶)佐賀県(嬉野茶)、滋賀県(近江茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)、三重県(伊勢茶)、宮崎県(日向茶)、がある>(日本茶博物館www.kaburagien.co.jp/museum/museum/index.php - 14k -)

京都府(宇治茶)、佐賀県(嬉野茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)は過去に飲んだことがあるが、それなりに芳醇で美味な緑茶だったという印象と思い出がある。

ところで下記のような記述の本が出ていた。これには目を惹かされた。

<緑茶を1日に7杯分ほど飲むことで、糖尿病になりかかっている人たちの血糖値が改善することが、静岡県立大などの研究でわかった。健康な人で緑茶をよく飲んでいると糖尿病になりにくいという報告はあるが、高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告は珍しいという。

血糖値が高めで、糖尿病と診断される手前の「境界型」などに該当する会社員ら60人を対象に緑茶に、含まれる渋み成分のカテキンの摂取量を一定にするため、いったん入れたお茶を乾燥させるなどして、実験用の粉末を作製。

これを毎日、湯に溶かして飲むグループと、飲まないグループに無作為に分け、2カ月後の「血糖値」を比べた。

平均的な血糖値の変化を、「Hb(ヘモグロビン)A1c」という指標でみると、緑茶粉末を飲んだ人たちは当初の6.2%が、2カ月後に5.9%に下がった。

飲まなかった人たちは変わらなかった。飲まなかった人たちに改めて飲んでもらうと、同じように2カ月間で6.1%から5.9%に下がった。

2グループで体格や摂取エネルギーなどに差はなく、緑茶からのカテキン摂取量が血糖値に影響したらしい。1日分の緑茶粉末は一般的な濃さの緑茶で湯飲み(約100ミリリットル)約5杯分のカテキンを含み、緑茶粉末を飲んだ人では普通に飲んだ緑茶と合わせ1日に約7杯分のカテキンをとっていた。

研究の中心で、今春に静岡県立大から移った吹野洋子常磐大教授(公衆栄養学)は「運動などの生活習慣改善とともに、食事の中で積極的に緑茶を取り入れてほしい」といっている>。(以上)

前記の様に、カテキンが抗ガン作用に効果が在ったり、良質な緑茶から抽出されたポリフェノールはビタミンEの10倍、ビタミンCの80倍というすぐれた抗酸化力を持っているといわれているが、緑茶僅か7杯の飲料で、高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告には驚かされた。

筆者の周りで糖尿病の一歩手前で悩んでいる先輩知人が最近多い。緑茶7杯で高血糖の人たちに効き目があるというなら、早速緑茶の常飲を勧めよう。お茶の嗜みは、心の安らぎも導いてくれるからだ。   (了)

2015年07月10日

◆顕微鏡検査で歯周病菌発見

毛馬 一三



奥歯に違和感があったので、近くの「歯科医」に診療に行った。これまで虫歯は一本もなかったので、歯科医院に行くのは10余年振りのことだった。

診察の結果、奥歯1本に軽度の虫歯があるとのことで、治療を開始することになった。とにかく軽い虫歯発見だけで済んだため、一旦は胸を撫で下ろした。

ところが驚いたことがあった。この歯科医院の診察室には「位相差顕微鏡」が備えられており、患者の口内に歯周病菌やカビ菌が有るか否かをたちどころに検査するシステムが整えられていた。

歯科医院には「顕微鏡と映像公開装置」のセットが5年ほど前から導入され始めたそうだが、長期ご無沙汰していた筆者にとっては、このようなセットがあるとは、全く知らなかった。

映し出された筆者の口内検査画面の映像をじっくり見ると、紐状の歪んだ塊が幾重もあり、その間を原虫みたいなものが無数に蠢いている。初めて見る映像だったので、不気味な映像に悪寒が込み上げてきた。

歯科医師の説明によると、映像で蠢いているのは歯周病菌で、紐状の塊はカビ菌だという。なんと口内で歯周病菌が見付かったのだ。

歯周病菌は、回し飲みや回し食い、箸の使い回し、キス、くしゃみなどが感染ルートとして上げられ、一旦口の中に進入すると定着して発症するケースが多いそうだ。外食の多い人には特に罹患の可能性が高いという

歯周病は、口の中で出血すると血管に入り、心臓で炎症を起こすという。歯周病の患者が心臓病になる確率は2〜3倍にあがり、このほか食道癌、糖尿病、早産、高血圧などにも関与しているという。

カビも酸を出すので歯を溶かし、虫歯につながるという。予防を怠れば、どちらも恐ろしい病気だ。

このため歯周病菌予防とカビ菌除去のために、「細菌の除去薬剤・シスロマック」とスプレー式カビ取り歯磨き剤の「ぺリオバスターN」を出してもらい、予防措置を講じた。

2週間後に再度行った「顕微鏡」検査で、症状に改良が確認されたので一安心したが、油断は禁物。今も歯の手入れには真剣に取り組んでいる

ところで、歯周病の進行を症状の具合でみると、
@ 口臭、ネバネバ感
A 歯ぐきに赤み、時々出血
B 歯ぐきの炎症、腫れ、赤みの悪化
C 歯ぐきを押すと膿が出る
D 口臭が更に悪化、出血がひどい、歯が揺れる、歯ぐきがよく腫れる
E 歯が痛くて噛めない、歯が揺れて噛めない、歯ぐきが常時腫れている

といった順序で進行いくという。無感覚の中で進行する場合もあるという。

であれば、定期的に歯科医院に通い、歯周病が再感染していないかを「顕微鏡」で調べる必要があるようだ。またカビ菌も歯周病菌の棲みかとなって歯周病に再感染する要因になるので、適切なクリーニングが求められる。

序でながら、義歯にもかなりのカビが付くので、歯周病と関わりがあり、義歯のブラッシングも留意すべきだそうだ。

歯周病菌が「顕微鏡」で発見されたものの、歯周病には患っていなかったのでラッキーだったが、この機会に歯の手入れには一層気を配って行こう。そうしないとこれから美味しいものが頂けなる。
参照:<国際歯周内科学研修会監修・顕微鏡検査のススメ>                 
                          



2015年07月06日

◆大阪毛馬の蕪村公園、ご存じ?

毛馬 一三             

与謝蕪村は、松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸俳諧を代表する俳人だが、その蕪村の生誕地がどこかということになると、あまりご存じない人が多い。

蕪村は、紛れも無く大阪市都島区毛馬橋東詰(摂津東成郡毛馬村)で生誕している。それを顕彰する「蕪村記念碑」が、現在淀川毛馬閘門側の堤防上に立っている。かの有名な蕪村の代表作・「春風や堤長うして家遠し」の句が、この記念碑に刻んである。

この他にも顕彰物は、毛馬閘門内に「記念碑」がある。更にはそこからから流れる大川(旧淀川)を南へ500mほど下った所に、橋名の「春風橋」があり、橋名に蕪村直筆文字の「春風橋の自筆」が刻まれている。有名な蕪村でありながら、生誕地周辺で蕪村を顕彰する記念碑は、残念ながら、この3件しかなかった。

ところがここで喜ばしいことに、「蕪村公園」が造成されたのだ。このことは追々。

さて蕪村は、享保元年(1716)に毛馬村の裕福な庄屋(問屋・宿屋も共営)で生まれた。母親は奉公人で、謂わば庄屋主との間に生まれた子供で、家系を引き継げない「私生児」だった。

幼くして両親を失なった不運が重なり、私生児扱いの蕪村は艱難辛苦重ね、結局、生誕家には居られなくなった。このため、18歳〜20歳の頃、毛馬村を出奔、江戸に向かった。

途中京都で俳人早野巴人知り合い、俳諧の修行に勤しんだあと、早野巴人と江戸に行き、弟子となった。運命の出会いだったのだ。

巴人師匠から俳諧を学び出したが、26歳の時、巴人師匠が没した。

師匠死後、芭蕉への思いの強かった蕪村は、芭蕉の跡を慕って奧羽地方を放浪。その後、宝暦元年(1751)、京に移って「俳諧」に励む一方、「南宋画」にも取り組み、池大雅と並ぶ名声を得ている。

京で68歳の生涯を閉じたが、終生大阪には何度も吟行に来たものの、故郷毛馬村には一歩も足を踏み入れていない。しかし生誕地への郷愁は人一倍強くて、「春風馬堤曲」を書き、「生誕地が毛馬であり、子供の頃楽しく遊んだこと想いながら綴ったものだ」と、弟子への手紙に記している。

このように大阪とは縁を絶ち切った蕪村だったから、いまだに大阪には蕪村に関する「伝承文献」が殆ど無いうえ、生誕地に関する資料すら皆無だ。(生誕地付近は、明治政府に依る河川工事で、一級河川「淀川」の底に沈められている。)

従って蕪村の生誕日が分からない。このため大阪では、「蕪村生誕祭」を開催出来ず、蕪村を顕彰する「資料館」すら、作ることも出来なかった。

しかし、10年頃前から生誕地大阪都島区毛馬町を中心に、蕪村を大々的に顕彰する「蕪村生誕祭」を進めようという運動が活発になりだした。筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム21も足並みを揃えて、大阪市長や助役らと協議しながら運動をおこなった。

こうした動きに応じ、大阪市が「蕪村公園」増設に乗り出した。時は平成18年度から2年で完成させた。大阪毛馬町の市有地1.1hrの土地で、約2億5千万円をかけて造営したのだ。

同「蕪村公園」の整備には、筆者らは当初から、公園内に蕪村の俳句や絵画の紹介する「写真集」や「蕪村句の石碑」、蕪村句に因んだ花木植栽をするよう要請した。

そうすれば蕪村生誕地が大阪であることが広く知れ渡り、蕪村俳句に関心が集まって、公園への集客にも繋がり、蕪村顕彰名所に成る筈だと申し入れ続けた。

出来上がった公園は。全国的に知られた大阪桜の名所・「毛馬桜の宮公園」の最北端に位置し、市の中心地中之島に通じる大川沿いの桜回廊の出発点に位置する。

いまは公園植栽も進み、公園整備はしっかり進められ「桜回廊」と同じ華やかさを見せており、顕彰されている蕪村本人も満足ではないだろうか。

しかし、芭蕉と一茶は「記念祭」を、地元生誕地で毎年行っているが、「蕪村公園」は完成したものの、「記念祭」は一度も行われていない。これが「蕪村公園」の名を広めていないことに繋がって居ると,筆者らは自戒している。

そこで筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム21主催:講座「蕪村顕彰俳句大学」を、蕪村顕彰と句会講座を毎年2期10回行い。受講生と児童生徒、国際俳句の応募俳句作品から表彰された「優秀句プレート碑」8基(2015年春現在)を「蕪村公園」に 既に建立している。

更には、大阪市立大学と共同して2016年には「蕪村生誕記念祭」を「蕪村公園で実施する。

また、地元毛馬町にある「淀川神社」には、生誕地毛馬の氏子だった蕪村が、幼少の頃参詣していたことも明らかになり、「蕪村公園での蕪村生誕記念祭」で「淀川神社」と共同して「お祭り」行うことを、7月3日決めた。

これら「蕪村生誕記念祭」が「蕪村公園」で継続開催していけば、「蕪村公園」の名は、どんどん広まって行くだろう。

是非、「蕪村公園」をご覧になり、「蕪村の望郷の念」を察して頂きたい。(了)


2015年06月30日

◆福岡志賀島で「金印出土の謎」

毛馬 一三


国宝の金印「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」には、子供のころから「謎」の思いがある。その「謎」の事は追々。
さて国宝「金印」の出土から今日までの経緯を記すと、下記のようだ。
<天明4年2月23日(1784年4月12日)、筑前国那珂郡志賀島村(現福岡市東区志賀島)南端・叶ノ浜の「叶崎」で出土。
発見したのは甚兵衛という地元の百姓である。ところが近年の研究では発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそれを那珂郡奉行に提出した人物だとうという説が有力。
水田の耕作中に偶然発見したとされる。一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。那珂郡奉行から福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥によって「後漢書」に記された金印であるとされた。
その後、この「金印」の「委」は「倭」の省略形で、中国史書「後漢書」(東夷伝の倭伝)に「後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に朝貢した倭奴国に印綬を下賜した」と記されており、この印綬が「漢委奴国王」印であることが確定した。
出土した後は、福岡藩主黒田家に伝えられ、明治維新後に黒田家が東京へ移った後は、東京国立博物館に寄託され、その後は福岡市美術館の開設に際して1978年(昭和53年)に福岡市に寄贈された。
最初は、1979年(昭和54年)から福岡市美術館で展示され、1990年(平成2年)からは、福岡市博物館で保管・展示されてきた>。参考ウィキペディア
それが今回、最初に寄贈された福岡市美術館へ、短期間ながら移されることになったのだ。 
さてここからが本題。

「金印」出土した場所は「志賀島」の南端・叶ノ浜の「叶崎」。そこは、福岡市内の辺鄙な処にある。JR香椎線(地方交通線)の西戸崎前から「海の中道」を経由して志賀島へ渡り、島の南側を行くと「金印公園」に至る。

私は小学生の頃、父に連れられて博多築港から遊覧船で志賀島に渡った。「金印」の出土現物を見る旅行だった。その時は「金印」が出土した出土現場の叶ノ浜の「叶崎」を見ることが出来たことには本当に感動した。
ところが、暫くして後漢の光武帝が下賜したという「金印」が、またどうして、このような辺鄙な「離れ島」で出土したのか。

それがまさに「謎」となった。「何故、志賀島から出土?」なのか。不思議でならなかった。
確かに金印が志賀島に埋められていた理由については、諸説がある。
A、遺棄説 2世紀に、倭国が大乱となったため棄てられた。
B、隠匿説 同じく倭国大乱で奴国が没落したため、人里離れた所に隠した。
C、墳墓説 奴国王の墓に副葬された。
D、王宮説 奴国王の宮殿が近くにあった。
E、祭祀遺構説 航海安全祈願の施設があったから、等々である。
出典:<「一大率・難升米の読み方と白日別の意味の一部から>。
どれも該当する可能性があるが、未だにはっきりしない。私の自身は、何とか調べる方法はないのか、悩んでいる。
国宝の金印を所蔵する福岡市博物館のホームページにも、この「謎」に関して、『なぜ金印が志賀島に埋められていたのか。これまで「墳墓説」「隠匿説」が唱えられ論争となった時期もあつたが、全く不可解』と記している。博物館でも、突き止めていない。結局「謎」のままだ。

序でながら、重複するが敢えて記して置く。
<志賀島から出た金印は、「蛇の紐通し(蛇の形の紐とおし)」が付いている。「蛇紐の金印」はそれまで中国本土はもとより、世界のどこからも発見されたことがなかった。だから偽物ではないかという風説が流れた時期もあった。
  
ところが、1956年に中国雲南省で前漢代の「てん(さんずいに眞)王之印」が発見され、これが「蛇紐」であったために、偽物説は一気に吹き飛んだ。
  
漢代の印綬制度では、漢王朝に仕える諸侯(内臣)は、黄金印に亀の紐。異民族の国家で漢に臣従したもの(外臣)は、北方民族には駱駝や羊の紐、そして東夷南蛮の王には「蛇紐の金印」が下賜されたていたことが明らかになった。

また福岡太宰府天満宮に伝わっている唐時代の辞書「翰苑」の巻三〇蛮夷の部の中の倭国の記事に「中元之際紫授之栄」とあり、紫綬の金印が光武帝より授けられたことが記されている。

これによって志賀島の「金印」は、前述のように後漢の光武帝から下賜されたことがしっかりと証明されたことになる>。参考:ウィキペディア

つまり光武帝からの下賜であることははっきりしたものの、その「金印」がどうして「志賀島から出土したか」は、これからも「謎」のままなのだろうか。

福岡の高校同級生友人から、考古学専門家から聞いたという面白い話を聞かされた。

その話によると、<「委奴国の部族神・綿津見神の本貫地と、卑弥呼の本貫地」が、同じ志賀島であるという説があるという。つまり両者は、同じ綿津見神を奉戴する同じ氏族集団発祥の地の部族の同じ出身であり、卑弥呼は委奴国の王族であるという説だ。

となると、光武帝からの下賜された「金印」の所有者の部族神は綿津見神であり、そのために「金印埋納場所」の場所が、部族の聖地であった志賀島に選ばれたのではないかということだ。

これが、志賀島で「金印」が出土したのかの「謎解きの新説」になるかも知れないと、考古学専門家は言っていた>と、友人は語っていた。

ご承知のように、2世紀後半に卑弥呼が委国の乱を収めて初代王になったことは、はっきりしているが、邪馬台国の存在はいまだに九州説と近畿説に分かれている。

しかし、志賀島が卑弥呼の本貫地だという新説を聴かされ、心が躍った。

志賀島での「金印の出土謎」は、まだ続くだろう。

「金印」:「一辺2.3pの四角形、台部分の厚さ約9o、総高約22o、重さ108.7gの純金製(22金)」にお目にかかれる日が楽しみにしている。早く出会いたいものだ。(了)

2015年06月27日

◆紫式部と「和紙」の縁

毛馬 一三


「源氏物語」の作者紫式部が、どうしてあのような長編小説「物語」を書くことができたのか。不思議で仕方がない

その訳に触れてみたい。

実は、父親の藤原為時が、都から遥か離れた「和紙」の里・福井県越前の武生に、国司として転任したの伴いに一緒に移住してきたことに、深い縁がある。
そのことは追々。

福井県越前市には「和紙の里」がある。その越前市新在家町には「越前和紙の里・紙の文化会館」と隣接する「卯立の工芸館」、「パピルス館」があり、越前和紙の歴史を物語る種々の文献や和紙漉き道具、越前和紙歴史を現す模型や実物パネルなどが展示されている。

「パピルス館」を訪ねて、紙漉きを約20分掛けて自分の手で作くる作業の体験が出来たのは、圧巻だった。

流し漉きといって、漉舟(水槽)に、水・紙料(原料)・ネリ(トロロアオイ)を入れてよくかき回したあと、漉簀ですくい上げ、両手で上下左右に巧みに動かしていくと、B5くらいの「和紙」が出来上がる。まさにマジックの世界だった。

ところで、この「越前和紙」の由来だが、今から約1500年前、越前の岡太川の上流に美しい姫が現れ、村人に紙の漉き方を伝授したからだという伝説がある。

山間での田畑だけに頼り切って乏し過ぎた集落の村人にとっては、この紙漉きの伝授で村の営みは豊かになり、以後村人は、この姫を「川上御前」と崇め、岡太神社(大瀧神社)の祭神として祀っている。

<その後大化の改新で、徴税のため全国の戸籍簿が作られはじめたことから、この越前「和紙」が、戸籍や税を記入するために欠かせない資材となった。

この思いがけない制度発足で、越前で大量の和紙が漉かれ出した。加えて仏教の伝来で写経用として和紙の需要は急増。「紙漉き」は、越前の地に根ざした地場業として大きな発展と村の利益増大を遂げている>。

さて本題。

長編小説「源氏物語」の作者紫式部は、執筆に取り掛かる6年前の24歳の時(996年)、都から遥か離れた「和紙」の里・越前武生に移住してきた。

何故かというと、冒頭記述のようにご当地の国司に“転勤”となった父・藤原為時に連れだってきたのだ。

「和紙」の里・越前武生に居住することなったことで、山ほどの「和紙」に囲まれて、存分に文筆活動に励めた。当時、都で如何ほど「和紙」が手に入ったのかは、専門家も把握していないが、当時の物書きには、喉から手が出る程の貴重な「和紙」だったことは、間違いない。

藤原為時は、中級の貴族で、国司の中で実際に任地へ赴く“転勤族”だったそうで、996年一旦淡路の国(下国)の国司に任命されるが、当時の権力者・藤原道長に賄賂などの手を使って、転勤先を越前の国(上国)の国守に変更してもらっている。はっきり言えば為時は、淡路の国(下国)には赴任したくなかったのだ。何故か。

当時、中国や高麗からの貿易船が日本にやってくる場合、海が荒れた時や海流の関係で、同船団が越前や若狭の国を母港とすることが多く、このため海外の貴重な特産品が国司のもとに届けられ、実入りは最高のものだったからだという。

ところで、藤原為時一族は、中級の貴族ながら文才をもって宮中に名を覇せ、娘紫式部も為時の薫陶を受けて、幼少の頃から優れた才能で漢文を読みこなす程の才女に育てられたといわれる。

父親の愛情で物書き娘に育ててもらい、書き損じても幾らでも対処できる「和紙」を与えてもらえたことは、紫式部にとって最高の「父のご恩」であり、「幸運」だった。

この為時の思いは、式部が後に書き始める「源氏物語」の中に、武生での生き様が生かされている。平安時代の歌集で、紫式部の和歌128 首を集めた「紫式部集」の中に、武生の地で詠んだ「雪の歌」が4 首ある。

越前武生での経験が、紫式部に将来の行き方に威力になったことはまちがいない。と同時に式部は、国司の父親のお陰で、結婚資金をたっぷり貯め込むことも成し遂げ、約2年の滞在の後、京都に戻り、27歳になった998年に藤原宣孝と結婚している。

越前武生の生き方の中で、紫式部にとって「和紙」との出会いが、世界最古の長編小説書きへの道を拓くことに繋げられた事は、紛れもない事実であろう。

紫式部の書いた「源氏物語」の原本は現存していない。作者の手元にあった草稿本が、藤原道長によって勝手に持ち出されて外部に流出するなどしているため、「源氏物語」の原本は、当初から非常に複雑な伝幡経路を辿っていたという。

確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は現在のところ一つも見つかっておらず、この時期の写本を元に作成されたと見られる更なる「写本」すら、非常に数が限られているという。
 
ところで、中国は、古代4大自国発明の一つとして、「紙」を絵画の絵巻をCGで描き、国威を誇っている。

しかしその紙が、7〜800年後に日本に渡って「和紙」となり、その後、その「和紙」によって、世界最古の長編小説が日本の女性によって書かれたことを、中国では知られていない(了)    (修正再掲)

参考:ウィキペディア、: 青表紙証本「夕顔」 宮内庁書陵部蔵  


2015年06月25日

◆蕪村生誕地は淀川の川底

毛馬 一三



江戸時代の俳人与謝蕪村生家は、一体何処に在ったのか。正確な場所が未だに知られておりません。

大阪毛馬の淀川堤防の上に「蕪村生誕地」と書いた「記念碑」が建立されてはいます。しかし「蕪村生誕し幼少を過ごし
た生家」は、ここではないのです。

実は「蕪村生家」は、この堤防から眼下に見える「淀川の川底」に在ったのです。なぜ淀川の川底にあったのか、これには実は明治政府の「淀川河川改修工事」に係っています。

徳川時代の淀川は、よく手入れが行われていましたが、明治維新後は中々施されていなかったのです。

ところが、明治18年に淀川上流の枚方で大水害が起き、下流の大阪で大被害を受けたことをきっかけに、明治政府がやっと本格的淀川改修に乗り出しました。

その際明治政府は、改修工事に当り単なる災害防止ためだけではなく、大阪湾から大型蒸気船を京都伏見まで通わす航行による「経済効果」などの多目的工事に専念することを決めました。そのために淀川の河川周辺の陸地を埋め立て、それまでの小さな淀川を 大きな河川にする大改修を立案したのです。

これに伴い、旧淀川沿いにあった「蕪村生家」地域は、埋め立ての対象となり、すべて「河川改修工事」によって「川底」に埋められて仕舞いました。これについては追々。

さて、明治政府は関西の大型河川・淀川を大改修するため、オランダから招いた河川設計者・デ・レーケとフランス留学から帰国していた設計士沖野忠雄とを合わせ、「淀川大改修」の設計を依頼しました。

明治政府の依頼を受けた2人は、「大改修工事」の設計を創り上げ、明治29年から工事を開始しました。

とにかくこの大型改修設計は、大阪湾に京都の宇治川や桂川、奈良からの木津川を中津川に合流させ、一気に淀川として大阪湾に繫ぐ、巨大な設計でした。

そうすれば貨物蒸気船を大阪湾と京都を結んで航行させることが出来、逆に京都・枚方などで大水害が起きた場合でも大量の水量をさらりと、大阪湾に流すことが出来るのです。二本立ての「効果狙い設計」です。

勿論、上流の災害で流出してくる「土砂」が、大阪に被害を与えないような「毛馬閘門」設計も創りました。

これが淀川から大阪市内に分岐させる「毛馬閘門」設計の主旨だったのです。ここから分岐した河川は、「大川」と名付けられ、「水害に伴う上流からの土砂」の回避は実現し、大阪の上流からの水害から今日まで護られています。

このように2人による設計書は、世界の河川工事技術水準に準じたもので、明治政府が施工した「河川大改修工事」としては、全国的に見ても画期的なものでした。同工事は、明治43年に完成したのです。

ここから本題。この「河川大改修工事」によって、与謝蕪村が生まれ、幼少を過ごした大阪市都島区毛馬町(摂津国東成郡毛馬村)は、跡形もなく「淀川川底」に埋没し、深い川底に沈んで仕舞いました。

役所の指示でしたから、当時の住民は仕方なくそれに従ったようですが、川幅も660b(従来の10数倍)となり、浅かった河の深さも5bの巨大河川に変容したのです。

この住居埋没の強制工事で、前述の如く、蕪村生家(庄屋?)は勿論、お寺、菜の花畑、毛馬胡瓜畑跡などの位置も皆目全くわかりません。今は淀川の毛馬閘門近郊にある蕪村記念碑から、淀川の眼下に見える川底を想起すだけで、寂しい限りです。

淀川近郊の蕪村生誕家(庄屋?)の後継者の方といわれる家を訪ね、「家歴」を伺いましたが、結局、「お寺も埋没し、「過去帳」もないために、蕪村生誕地は「川底」にあると信じているだけ」という答えが返って来ただけでした。

「蕪村生誕300年記念」は、2016年に迎えます。どうか大阪毛馬町の「蕪村公園」と通り過ぎて、「毛馬閘門」と「蕪村記念碑」ある淀川堤防から下に流れる「淀川」を見ながら、その河底に蕪村生誕地があることを想いつつ、蕪村が幼少期をここで過ごしたのかと、眺めて頂きたく存じます。

2015年06月21日

◆国産ビール発祥地は大阪

毛馬 一三



いよいよ夏が近づく。どこでも夕食の食卓では、缶ビールをコップに移して一気に飲んで喉を潤す習慣が出来ていると聞く。

今やアルコールを飲めない人でも、アルコールの入っていない缶ビールを買い求めて、ビールの味を愉しむ時代にもなっている。ビールはもはや全盛時代だ。

以前、北海道のサッポロビール工場で、出来立てのビールをジョッキ杯で飲んだ経験がある。下戸の私は、ジョッキ杯飲みに躊躇いがあったが、喉越しに胃袋に入っていったその時の美味さは、何とも未経験の清々しい味だった。

その時ビールは、樽に入れて遠方へ運ぶと、清々しい美味さを失って仕舞い、ビール工場でのむ味とは、全然違うと聞かされた。

しかし最近では、ホテルや居酒屋などで飲むビールも、時代と共にビールの質向上技術が進んだのか、出来立てのサッポロビールの味と同じような感じがしだしてくるのを、下戸ながら感じ出した。

そんな中、「国産ビールの発祥の地」が、大阪だというという「碑」を見つけた。全国いたるところにあるといわれているビールの発祥の地が、まさか大阪だとは驚いた。

その「碑」は、大阪市営地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅から 東に300mほどの大阪・北新地のANAクラウンプラザホテルのすぐ側に建立してある。

よく見ると「碑」と「説明プレート」が建っている。

「碑」は、高さ1m50pで、隣接している「説明プレート」は1mの四角形。いずれにも大阪市教育委員会の説明が添えられている。

こう書いてある

<わが国におけるビールの醸造は幕末に横浜で外国人がおこなっていたが,日本人の手によるものとしては,澁谷庄三郎がこの地で醸造したのが最初といわれている。

当初は大阪通商会社で,明治四年(1871)に計画された。これは外国から醸造技師を招いた本格的なものだったが,実現には至らなかった。この計画を通商会社の役員のひとりであり,綿問屋や清酒の醸造を営んでいた天満の澁谷庄三郎が引継ぎ,明治五年三月から,このあたりに醸造所を設け,ビールの製造・販売を開始した。

銘柄は「澁谷ビール」といい,犬のマークの付いたラベルであった。年間約三二〜四五キロリットルを製造し,中之島近辺や川口の民留地の外国人らに販売した。―大阪市教育委員会>。

しかし気になることがあった。「日本ビールの発祥地は、横浜」と言われていたことを思い出して、気になった。

そこで、調べてみると、

明治3年(1870年)、米国人のウィリアム・コープランドによって横浜・山手にビール醸造所「スプリング・バレー・ブルワリー」が設立され、日本で初めてビールの醸造・販売が開始された。

外国人の手による日本初だが、実は麒麟麦酒(キリンビール)がこれの流れを汲んでおり、世間的にはこれが「横浜が日本のビール発祥の地」と定着していたようだ。

更に、小規模なものなら、江戸時代にも日本でビールが造られていたらしい。文化9年(1812年)に、長崎の出島でオランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフによる“自家醸造”で、これが「日本で初めて醸造されたビール」とされている。

となると、大阪の「発祥地」とはどういう意味なのかということになる。

そこで、時系列に追って整理すると、

・1812年(文化9年) 日本で初めてのビールが長崎でオランダ人によって醸  造される。

・1869年(明治2年) 横浜で、外国人による日本最初のビール醸造所が設立される。

・1872年(明治5年) 大阪堂島で、渋谷庄三郎によって、「渋谷ビール」という、日本人によって「初めて産業的にビールが醸造・販売」される。

そこではっきりした。「横浜」は、外国人によって「日本で初めて産業的にビールがつくられた地」であって、「大阪」は、日本人の手によって、初めて「国産ビールがつくられた地」だったということになる訳だ。

この「大阪の碑」の周辺は、今は不景気で活性化が無くなっている遊楽街「北新地」だが、「碑」に辺りに「国産ビール発祥地」を明らかにする施設や跡地は、どこにも見当たらない。

だが、現代のビール産業がこの場所から発祥したのだという事実は、この「碑」を目にしたことよって、先駆的だった大阪の時代があったこと改めて感じさせられた。これから何事でも全国を引導していく「大阪」になって欲しいものだ。

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