2014年05月27日

◆大阪俳人与謝蕪村の名を広めたい

毛馬 一三


NPO法人近畿フォーラム21(筆者主宰)の九期講座「蕪村顕彰俳句大学」が、月刊全国誌「俳句界」の「兜カ學の森」と共催して、平成26年9月21日(日)午後1時から「蕪村顕彰全国俳句大会」を開催する。

会場は、蕪村生誕地に由緒ある毛馬近郊の大阪市立「淀川小学校」で開催。「大阪・毛馬の蕪村俳句の文化を振興継承する為」、前回7期に続いて、現在全国から俳句作品の応募を求めている。

前回7期の「蕪村顕彰全国俳句大会」には、全国から1060句が応募された。

この応募句には著名な選考者から選考して頂き、大阪府知事賞・大阪市長賞・蕪村顕彰俳句大学学長賞、文學の森賞をそれぞれ1名づつ授与した。

今回の9期「蕪村顕彰全国俳句大会」応募の締め切りは、7月31日となっており、優秀作品に新たに「公益法人関西・大阪21世紀協会理事長賞」を加え,5賞を授与する。

ところで、「蕪村顕彰全国俳句大会」を開催することになったのは、江戸時代の三大俳人の内、松尾芭蕉と小林一茶の生誕地は、江戸時代当時から知れ渡っているが、与謝蕪村の生誕地だけが、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だと、残念ながら知る人は少ない。蕪村を顕彰し、生誕地を広めることが主目的である

さて、蕪村の生誕地がなかなか分からず、やっと「定説」になったのは、戦後直後の事だったそうだ。この事を教えてくれたのは、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授であった。

奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったという。藤田教授の話によると、下記のようなことだった。

<蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍の舞台だった江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという「記録」すら残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、誰もいなかったのではないかという。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。ただ残念なことにその舞台となる淀川毛馬馬堤近が、肝腎の自分の「生誕地」だとは、「春風馬堤曲」には一切触れていない。

しかし、その後願ってもないことが起きた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた「書簡」の添え書きの中に、自分の生誕地が「毛馬村」だと、下記のように初めて綴ったのだ。これが生誕地解明の歴史的契機となった。

<<「春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。>>

それなら、これが物証となって、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かったのだろうが、そうならなかったのには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村真筆なのか判定出来ず、結局「蕪村生誕地複数説」を加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態が続いていたのだ。

ところが、終戦直後、奈良県で終戦直後偶然見つかった、先述の弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」が、やっと「蕪村直筆」だと「認定」されたのである。

これによって「毛馬生誕地」説が確定した。終戦直後の認定だから、遅きに失したと言わざるを得ない。しかしこれは「蕪村生誕地複数説」を破棄し、毛馬村を生誕地とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになる。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述に淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

以後、生誕地が毛馬村であることを不動のものになった。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村真筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも無かったことになるだろう。>

こうして、蕪村が大阪生誕俳人と称されるようになってから、七十余年しか経たない。

そのため蕪村は、芭蕉や一茶とは異なり、江戸時代以来、生誕地大阪で「蕪村生誕顕彰」が疎かにされ、これこそが生誕地を知る人が少なかったことに繋がってしまい、誠に慙愧に絶えない。

実は、与謝蕪村の生誕地毛馬村の庄屋(?)の家屋は、明治29年に明治政府の「淀川改修工事」で、国の河川淀川の川底に埋没させられ、今でも何処に生誕地の生家があたったかも判らない。

現在、毛馬の淀川堤防に「蕪村生誕地碑」があるが、この碑の場所が生誕地ではなく、その碑の眼下に流れる「淀川川底の何処かの場所」が生誕地ということになる。

このために、今でも地元大阪ですら「蕪村生誕地が毛馬村」であることを知らない市民は多い。次世代を担う児童生徒の教科書にも掲載されていないことを考えると、生誕地のことを知らない人が多いことはことも当然のことだろう。

だから、われわれ講座「蕪村顕彰俳句大学」では、文學の森と共催して、2年後の2016年に「蕪村生誕300年祭」を開催し、蕪村生誕地高揚と後世への伝承、そして国際化への発信を大々的に進めたいと考えている。

序でながら、筆者は藤田教授に下記の質問をした。

「蕪村は、淀川を下って源八橋から船を降り、浪速の弟子の下に吟行の往き来きしていましたが、「春風馬堤曲」に記述しているように、それほど生誕地の毛馬に望郷の念があったのであれば、源八橋の極く近郊にあった毛馬村生家に立ち寄ってはいないのは、何故なのでしょうか?その学説はありませんか?」

藤田教授の答えは次のようだった。
<それを証明する「学説」はありませんね。恐らく立ち寄ってはいないでしょう。蕪村が心秘めた深い望郷にも拘わらず、立ち寄ら無かったのは、それ超える幼少の頃の特別な事情があったのでしょう>
ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったのに、立ち寄りたくない強烈な想いがあったのだろうという推察が浮上してくる。

恐らく奉公人だった母と実家の父が亡くなってから、私生児だった蕪村は、実家も引き付けず、家人たちからも極めつけの「いじめ」を受けたのだろう。そのために十七・八歳で家を家を出ざるを得なかったのではないか。否、嫌気がさして決意して飛び出したのだろう。

そのことが「ひと一倍の望郷の念はあっても、いじめ抜かれた生家には生涯立ち寄りたくなかった」のではないだろうか。

最後になりましたが、どうか、2年後の「蕪村生誕300年祭記念行事」に、是非共 皆様のご賛同とご支援を伏してお願い申し上げます。(了)

◆「蕪村顕彰俳句大学」ホームページアドレス
http://www.buson-kensho-u.com/


2014年05月26日

◆懐かしい博多弁

毛馬 一三


恒例の「俳句講座」を終え、盟友5人が帰り道、いつもの喫茶店で集い、コーヒーを飲みながらいろいろ雑談を交わした。

そんな時、盟友の渡邉征一郎君が、福岡から持ち帰ってきた「博多かるた」を披露した。高さ17p、幅12p、厚さ3pの箱入りの新「かるた」<博多を語る会編・西日本新聞社刊>で、ユウモラスな絵と面白い筆書きが惹きつけた。

「かるた」には、「博多の行事・祭事・博多弁」が、「いろは順」で構成されている。熟視するほど、懐かしい「博多情景」が飛び出してくる。盟友全員が九州の福岡高校出身だけに、この異色「かるた」を凝視した。

私を除けば、全員が博多っ子。たまに帰省することはあっても、郷里を離れて4〜50余年経つため、「博多弁」はすっかり忘れているそうだ。そのため、少しでも記憶を呼び戻そうと気持ちを昂ぶらせていた。

良かったことは、同「かるた」に、解説書が付いていたことだ。解説を読めば、「札」の文意がわかるようになっている。そこで「かるたの博多弁」思い出して、「この通りやな」と頭を掻きながら大阪弁で呟く仲間もいた。

ところが、解説書を読んでも、何のことか分からない「博多弁」が幾つもあった。一例上げると、「そ」の札。「そおついて わかる博多のよかところ」と書いてある。「そおついて」って何?皆、「そおついて」に首を傾げる。

<古代から大陸との文化交流の地だった博多には、いたるところに名所旧跡、歴史の地がある。ゆっくり町を「そおついて」(歩いて)回ると、路地裏のようなところにも、隠れた歴史を発見できる>と解説書には書いてある。

なるほど、そんな意味の「博多弁」もあったのか。

渡邉君が「かるた」を持ち込んだことで、久しぶりに「博多弁や博多行事等」が話題となって楽しいひと時を過ごせた。しかし肝腎の郷里「博多弁」をすっかり忘れて仕舞っていたことに、苦笑いする仲間もいた。


実は、私の故郷は久留米で、博多弁と久留米弁とはまるきり違う。越境入学で福岡高校に入ったが、博多弁が分からず、授業や仲間つくりにも苦労した。でも3年間経つ内に、何とか博多弁に馴染み、情緒も分かるようになった。

私にとって博多弁は第2の故郷弁だ。なのに、生まれ育った純粋の博多っ子の仲間が、懐かしい「博多弁」を咄嗟に思い出せないとは、時節の経過が災いする忘却の仕業なのだろうか。

そこで、懐かしい「博多弁」を、改めて頭の中に蘇らせみた。<ウイキペディアを参考>

<名詞
•「かったりこうたい」…交互に。交代交替。
•「きさん」…貴様。
•「ど (ん) べ」…最下位。
•「こす」…こすいこと。
•「せこ」…せこいこと。
•「ちかちか」…チクチク
•「ごりょんさん」…主婦。

動詞
•「おっせこっせする」{サ行変格活用} …時間に追われてバタバタする。
•「くらす」 {サ行五段} …殴る。(「喰らわす」から)
•「くちのまめらん」{ラ行五段}…呂律が廻らない。
•「おらぶ」{バ行五段} …叫ぶ。
•「からう」{ワ行五段} …背負う。
•「きびる」{ラ行五段} … (紐などで) 縛る、束ねる。
•「こずむ」{マ行五段} …積み上げる。
•「ずんだれる」{ラ行下一段} …だらしない。
•「ぞろびく」{カ行五段} …引きずる。
•「たまがる」{ラ行五段} …びっくりする。
•「ねぶる」{ラ行五段} …舐める。
•「ねまる」{ラ行五段} …腐る。
•「のうならかす」{サ行五段} …なくす。
•「ねぶりかぶる」{ラ行五段} …うとうとする
•「腹かく」{カ行五段} …腹が立つ、苛立つ。
•「はわく」{カ行五段} …ほうき等で掃く。
•「ほがす」{サ行五段} …穴を開ける、穿孔する。
•「ほとびらかす」{サ行下二段} …ふやかす。
•「まどう」{ワ行五段} …弁償する。

形容詞・形容動詞・副詞・連体詞
•「しゃあしい (か) 」(語源は「せわし」)「じゃかしい (か) 」「せからしい (か) 」{形・シク} …うるさい、騒がしい。「そわそわすんな。しゃあしかぞ」[共通語訳]「そわそわすんな。気が散る。」
•「しょんない」{形・ク} …仕方ない。
•「しかたもない」{形・ク} …1. くだらない。どうでもいい。2. 期待して損する。
•「いっちょん」{副} … (否定語を伴って) 少しも。全然。
•「えずい」{形・ク} 怖い。
•「すいい」{形・ク} …酸っぱい。
•「そげな」{連体} … そんな。「そ」+「が」+「やうなる」
•「そげん」{副} … そんなに。そんなこと。そんなふうに。「そ」+「が」+「やうに」
•「どげな」{連体} … どんな。
•「どげん」{副} … どんなに。どう。どんなふうに。
•「なし」「なして」{副} …なぜ、どうして。
•「いたらん」{連体} …余計な。多くは「いたらんこと (するな / 言うな) 」の形で使用される。
•「なんかなし」{副} …とにかく。「なんかなし、電子辞書ば使わんで紙の辞書ば使うて見れ」>。

まだまだ懐かしい「博多弁」は沢山ある。どうか博多から離れてお暮しの方が、博多で過ごされた時のことをこの「博多弁」から思い出して頂ければ幸いだ。(了)   


2014年05月17日

◆芭蕉随行の「曾良」とは

毛馬 一三


もともと、松尾芭蕉の「終焉の地」が大阪・南御堂向かいにあった花屋仁左衛門の離れ座敷であったことや、辞世の句といわれる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が、この座敷の病の床で亡くなる4日前に詠んだものであることを、先般綴った。

芭蕉自身は、大阪で死ぬなどとは夢想だに思わず、早く床払いをして次の旅先長崎に向けて立ちたいたいとの気持であったと、様々な文献に記されている。

だが、思いもよらず病(食中毒と思われる)は悪化、意に反して終焉を迎えるのだが、見守る弟子たちの顔を眺めながら「死」が迫るのを悟ると、幸せな生涯だったと瞑目して、逍遥と死の旅に立ったといわれている。
この芭蕉に関して、「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏が貴重なご意見を頂いた。

<芭蕉記念館は、深川にある。徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。江戸の発展とともに新たな市街地、農地が必要となり、土地の開発が始まった。大阪からきていた深川八郎右衛門が新田を開発、慶長元年(1573年)深川村と称したのが始まり。

江戸の下町と言えばなんと言っても深川。出発地は都営新宿線森下駅。駅を出て新大橋通りを浜町方面に5分ほど歩いていくと隅田川にかかる橋が見えてくる。これがこの通りの名前になっている新大橋。橋の手前の十字路を左に曲がりしばらく歩いていくと最初の目的地「芭蕉記念館」がある。

芭蕉は延宝8年(1680年)江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ。元禄2年(1689年)3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる奥の細道。岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅。

「芭蕉記念館」には 当時、芭蕉が着ていた袈裟を初め、芭蕉庵を模したほこら、句碑 などがある。記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり。川沿いの道を左に少し歩いていくと史跡庭園があり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。 以前来日した李トウキ前台湾総統もご覧になって行った>。
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上記のご意見を読ませて貰った時、芭蕉に纏わる新たな衝撃が脳裏を駆け巡った。
それは、<徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。(そんな未開発の深川だったが、その深川から)元禄2年3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。(略)岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅>というくだりである。

江戸から東北、北陸地方を150日間で踏破した2400キロ(600里)の道程を踏破したと言うが、とんでもない距離だ。単純に計算しても、毎日16キロを歩いたことになる。だが当時の旅路は、そんな生易しいものではなかった筈だ。

江戸時代元禄期といっても、 江戸から東北、北陸地方には、のんびり歩き通せる平坦な道が整っていた筈はない。ほとんどが山道・峠道であり、山を越えて行く方法しかなかった。

筆者も以前、福井の江戸時代前からの「鯖街道」を歩いたことある。山道の勾配は天地の差ほどの高低を繰り返し上り下りし、僻々とした記憶がある。山道もない場所は絶壁を横切るしかない。ましてや橋はほとんどなかった。大雨で河が氾濫、足止めを食うことも日常茶飯事だったろう。

ところが、「奥の細道」によると、2人は何と1日に48キロ(12里)を 歩いた日があったという。幾ら昔の人が健脚だったとはいえ、老齢の域の芭蕉(46)と、同行者曾良(41)が、そんな長距離を1日で踏破できたと考えるのは無理な話だ。

つまり芭蕉は、こうした異常な歩き方の速さや、伊賀の上野の生まれであることから「忍者」ではなかったかと論じられてきた。それはまた別の機会に譲るとして、ここで気になるのは、むしろ芭蕉の弟子として名を売り、旅の同伴者であった「曾良」の方だ。

「曾良」のことは、純朴な芭蕉のお供だという印象が強くて、「忍者説」はあまり知られていない。

ところが調べてみると、こんな具合だ。
<曾良は、幕府とのつながりが緊密で、当時日光工事普請を巡ってあった伊達藩と日光奉行の対立を探るための調査を、幕府から曾良に命じられたとされている。その目的と行動を隠すため、芭蕉の歌枕の旅を巧みに利用したというのが、芭蕉研究専門家では語られている。

曾良は、さらに社寺や港の荷役の動きを調べる任務も担っていたようで、北前舟が立ち寄る日本海沿岸の酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀の各港の貿易状況を丹念に探索して回っている痕跡も分かっている。

その任務行動が、なんと芭蕉の旅の日程と、見事に重なることから、この説には真実性が浮かび上がってくる。きっと幕府からの潤沢支度金を、俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の収入を、困窮していた芭蕉に手渡して、「曾良」の任務を果たしたという説もある>。

こう見てくると、「曾良」という旅の同伴者は、実は巧に芭蕉を取り入って芭蕉の弟子を装い、幕府隠密の任務を隠密裡に遂行していた“忍者”だったという説が、ますます真実味を帯びてくる。
芭蕉の死後、「曾良」は芭蕉の追慕行脚は行わず、すぐに幕府から巡見使九州班員に就任させられている。

芭蕉の終焉の時、曾良の姿はその場になかった。しかも何だか分からない「公務」を理由に、恩師の葬儀にも参列していない。やはり芭蕉に心酔して傍に連れ添った弟子ではなかったのだ。葬儀の場に来る人々の目を避けるため姿を消したのだろう。
正に曾良は、幕府から密命を受けて全国各地を調べて廻るために、芭蕉ににじり寄って随行した「忍者」だったことに間違いはない。
  参考・ウィキぺディア  (一部加筆して再掲)
           

2014年05月08日

◆「がめ煮」の郷愁おもてなし

毛馬 一三


随分前に友人に大阪梅田のビルの地階の古い暖簾の「小料理屋」を紹介されたが、再びその「店」に行った。

店は、老主人が黙々と「料理」に専念し、老婦人が注文受けとお酒の配膳役を務める「こじんまり」とした小料理屋だ。壁に掛けられた「おつまみ品」には目を向けず、すぐに、以前に来た時食した「がめ煮」をすぐ注文した。

「がめ煮」は、私の出身の福岡筑後久留米の郷土料理の呼称だ。この名前で出される店は、大阪には無い。

そう言えばこの「がめ煮」は、筑後地方以外では「筑前煮」と呼ばれている。本当は「がめ煮」と「筑前煮」とは具材と味が違い、「がめ煮」の方が食の玄人向きだと、私は今でも思っている。

早速箸をつけて味わってみたが、本物の味と全く変わらない。九州出ではない主人にしては、出来すぎの料理だ。

さて、その「がめ煮」のことだが、久留米から離れた「博多」では、「がめくり込む」(「寄せ集める」などの意)と云い、その名前が名前の由来で「筑前煮」だと呼ぶ。

ところが、太閤秀吉が朝鮮半島を攻めた文禄の役の時に、朝鮮に出兵した兵士が、当時「どぶ亀」と呼ばれていたスッポンと食材と合わせた煮込の料理方法を、我が国に持ち帰って作ったのが始まりだとの説がある。

そのスッポンを使って煮込んだ「どぶ亀」をそのまま筑後地方で「がめ煮」という名で作り始めたと伝えられたと云われているから、「がめ煮」の名の方が筑後地方が先で、博多の「筑前煮」の名称の方が、後釜という説が強い。

ところがいつ頃からかは分からないが、「がめ煮」にスッポンは使わず、代わって「鶏肉」をいれるようになった。この作り方も、筑後地方の方が先に手を付け、郷土料理にしたと言われている。

子供の頃、「がめ煮」が食前に出る時は、お正月や婚礼式などの祝い事の時だった。しかも「がめ煮」は、お正月等の慶事の時の食べ物だったという記憶が蘇ってくる。

さて、作り方だが、

<本場筑後「がめ煮」と「筑前煮」との一番の違いは、具材を炒めて入れる手順にあるという。まずはだし汁、シイタケの戻し汁、酒、醤油、みりん、砂糖を混ぜて鍋で煮立たせるのから始まる。そこに、一口大に切った鶏肉を入れてひと煮立ちさせる。

そこまでの手順は一緒だが、その後、「筑前煮」は、里芋、干し椎茸を戻したもの、コンニャク、アクを抜いたゴボウ、レンコン、ニンジン、ナスで筍を一口大に切ったものなどを入れる。

「がめ煮」は、コンニャク、里芋、大根、ニンジンを入れ、鶏肉をじっくり煮込ませるやり方で、甘みを時間を掛けて滲ませるのが独特のやり方だ。

この点が「がめ煮」と「筑前煮」が違うところだ。野菜が柔らかくなるまで煮れば、出来上がり。煮あがったところに「筑前煮」の場合は、サヤエンドウを加えることもある。>

聞くところによると、久留米市は「久留米市食料・農業・農村基本計画」を作り、伝統の「がめ煮」の美味しさを広めて行く市政段取りを今でも進めているという。

「がめ煮」を郷土料理の誇りにしている。きっと「がめ煮」を筑後の「おもてなし」として後世に残したいためだろう。

郷里久留米の姉の家に寄ると、姉が昔ながらの見事な味の「がめ煮」を作ってくれる。「がめ煮」舌触りに接するだけで、子供の頃の郷愁が込み上げて来て感動するばかりだ。

今回「小料理屋」で食した「がめ煮」の味も、改めて郷愁を誘ってくれた。「がめ煮」だ
郷愁を誘う味は底が深い。(了)

参考 フリー百科事典ウィキペディア

2014年05月07日

◆末期ガン患者の「在宅ケア」

毛馬 一三


 末期ガン患者の治療などの「緩和ケア」を如何に進めるかが、いまも問題になっている。行政・医療機関・開業医が、末期ガン患者を在宅でサポートするため、如何にして有機的な連携を取れるかという課題だ。

 しかしその連携だが、今も円滑だとは言い難い。

 医療機関で治療を受けている末期ガン患者が、<自宅で痛みをコントロールし自分らしい人生の最後を過ごしたい>と思ったとしても、現状は医療機関と地域ケアの軸となる開業医との取り組みが希薄な上、肝腎の「在宅ホスピス」専門開業医の不足が障害となっているからだ。

 NHKが以前放映した特番「緩和ケア」が、反響を呼んだことを思いだす。特番が意図した上記連携不備の主要テーマよりも、その中にあった<自宅で痛みをコントロールし自分らしい人生の最後を過ごせる「在宅ホスピス」>の存在を初めて報道したことが反響をを呼んだのだ。

大阪北千里に、医療法人永仁会・千里ペインクリニックがある。

 千里ペインクリニックでは、「痛みの専門クリニック」の外来部門と、24時間・365日往診部門の「在宅ホスピス」を併設した診療所。

 関西でまだ数少ない「在宅ホスピス」を運用する診療所の1つ。特に注目されるのは、ここの「在宅ホスピス」部門で、ガン患者の在宅治療に当り、「死」に至るまでを看届けておらることだ。

「在宅ホスピスとは・・」について、医療法人永仁会千里ペインクリニックの松永美佳子理事長は、特に「在宅ホスピスの意義」で、☆最後まで自分らしい人生が送れる。☆残された時間を有意義に使える。☆家族の絆が強くなる。☆家族が死の受容をしやすい。☆みなが死について考える機会となる有意義性があると考えて居られる。

 また「家と病院の違い」で懸念される、点滴・各種ドレーン(体内の液を管で排出)の管理・人工呼吸など(病院で行う手術・副作用の強い化学療法以外)も、殆ど家で出来るという。

 従って、「在宅ホスピスの課題」こそが、患者のためには、より早い時期から医療機関と診療所との連携の重要性があると指摘しておられる。

 末期ガンの母を看取った男性が、<在宅ホスピスのことを全く知らなかった私は、たまたまケアマネージャーから、千里ペインクリニックのことを教えて貰った。知らないままだったら、家族で旅立つ母をおだやかに看取れなかった。まさに天が授けてくれた千里ペインクリニックだと思っている>と感謝している体験感想を、聴いた。

 従って、末期ガン患者の問題は、まだまだ山積している。医療機関と開業医の連携問題もその一つだ。

そんな中、大阪厚生年金病院では、医師・看護師・ソーシャルワーカーなどによる「緩和ケア対策チーム」を結成している。

 この大阪厚生年金病院と連携できる開業医のピクアップを地域性や能力などの点から選定する作業に取り組む一方、ばらばらに実施している院内緩和ケアの現状を一本化する対策も進めてる。主要医療機関として素晴らしい活動だ。

「痛みで苦しむ患者の救済」に発展することを願っている人たちは多い。まさに患者本はもとより、家族も悲願だ。

「在宅ケア」は、これから診療所と医療機関と連携が更に波及して行くべきだ。末期ガン患者のおだやかに看取りが可能になることを大いに期待したい。

2014年04月23日

◆大阪八軒家浜から熊野街道へ

毛馬 一三


大阪「淀川」から毛馬閘門を通り、1級河川「大川」(旧淀川)を少し下って、大阪三大橋の「天神橋」を抜けると、「八軒家浜船着場」に辿り着く。

この「八軒家浜」は、古代から京都と結ぶ水上交通の拠点だった。江戸時代ではこの浜の船着場周辺に、八軒の船宿があったことから「八軒家浜」と呼ばれたらしい。その「記念碑」が、阪神電鉄天神橋駅前の老舗・昆布屋門前に立っている。

この「碑」の先の坂を上ると、江戸時代の西洋医学者・緒方洪庵の塾屋敷跡がある。ここに集まる弟子たちも、この「八軒家浜船着場」を常時利用した。坂本竜馬も、西郷隆盛も、ここの船着き場から近郊にある「薩摩屋敷」に通っている。

この「八軒家浜船着場」は、京都から屋形船でやって来た人々が、この船着場から「熊野詣」に赴く道筋として利用していた。

今、ここ「八軒家浜船着場」が、世界遺産となった「熊野街道」の起点となっているのだが、意外にもそれが知られていない。

さて、その「熊野街道」に触れておこう。

<この「八軒家浜」を起点に、四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)、堺、和歌山などを通り、紀州田辺を経て、中辺路または大辺路によって熊野三山へと向かう道筋。

この熊野街道を経て参台する「熊野詣」は、平安時代中期ごろ、熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集めるようになったのに伴い、法皇・上皇などの皇族、女院らや貴族の参詣が、相次ぐようになったのが始まりだった。

室町時代以降は、武士や庶民の参詣が盛んになった。その様子は、蟻の行列に例えて、「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいだったそうだ。江戸時代になると伊勢詣とも重なり、庶民も数多く詣でたため、賑わいは浪速で最高だったといわれる。ただ明治以降は、鉄道や道路の整備により参拝者は少なくなる>。
参考―フリー百科事典『ウィキペディア

このように霊場熊野三山まで橋渡しする歴史的街道の起点の「八軒家浜船着場」は、これを賑わいのある水都大阪再生拠点にしようと、民官協働で、京阪電車天満橋駅の北側の大川沿いに幅約10メートル、長さ約50メートルの3層からなる鋼鉄製の巨大な「船着場」が建設された。

同船着場では、ゆったりとしたスペースがある水上バス(アクアライナー)や大型遊覧船が、ここから発進し水都大阪の川辺に広がる眺望とクルージングを楽しむことができる。

遊覧船に乗って身を乗り出して、目上に広がる大阪のまちの姿を眺めると、立体的な水都の形が顕れ、両岸のまちなみが覆い被さるような3次元都市を実感させてくれる。実にマジックな風景の出現であり、感動そのものだ。これは体験してみないと絶対に分からない。

大阪大手企業本社の東京一局集中や、大手企業工場の他府県や外国への移籍が目立つなど、大阪の経済基盤の沈下に歯止めが掛からない中で、この「八軒家浜」を観光名所として再起させることが出来れば、集客効果は抜群だろう。

しかも「緒方洪庵の塾屋敷跡」、皇族をはじめ秀吉も通った「八軒家浜」から「熊野詣」への新観光ルートを創りだし、歴史歩きの楽しみを味合わせる事業が始まれば、大阪への集客効果に繋がることは間違いない。

「八軒家浜」祭りだけで終わって仕舞う行事だけではあまりにも単純な気がして、実に勿体ない。しかも、「熊野街道」の起点となっている「八軒家浜船着場」の歴史的価値をなえがしろにしてきた大阪市文化行政の手抜かりも情けない。

今からでも遅くない。「八軒家浜船着場」から世界遺産となった「熊野詣で」を複活させるイベントや「実際の歩き会」を実施すべきだ

そう思うだけでも「八軒家浜船着場」碑が、老舗「昆布屋)門前にポッンと立っているだけで、寂しく見えて仕方がない。(了)

2014年04月16日

◆「大阪俳人与謝蕪村幼年期」の謎

毛馬 一三


「頂門の一針」主宰・渡部亮次郎氏から頂いた「ふるさとは遠きにありて」のお便りを掲載させて頂く。

<ふるさとは遠きにありて・・・

この言葉で始まる室生犀星(むろお さいせい)の詩は「・・・想うものものそして悲しくうたうもの よしやうらぶれて異土(いど=外国)の傍居(かたい=こじき)となるとても 帰るところにあるまじや」と結ばれていたと思う。高校のときに習った。

つまりこの詩は「ふるさとは帰るところではない」の意味なのに、今の人たちは「遠くにありて、懐かしさのあまり」呟く詩だと思っているようだ。

室生犀星は複雑な家庭に生まれた。だから早くに郷里を飛び出したが、都会も田舎者には冷たかった。だからたまにはふるさとを思い出して帰ってみた。だけど郷里は犀星を蔑み、冷遇した。そこで「悲しく詠うだけの土地。どんなに貧乏して、外国で乞食に落ちぶれたとしても、俺は死んでもあの故郷には帰るまい」と決意したのである。

「ふるさと」を懐かしむあまり軽々しく犀星の詩などを持ち出すとこうして無慈悲な欄に取り上げられ、教養の無さを散々むしられる事になる。それとも50年後の今は高校でも犀星は教えないのかも知れないね。>。

以上のように、「ふるさとは帰るまい」と決意した強力な室生犀星の意思を読まされた時、大阪俳人・与謝蕪村の事が脳裏に広がった。

与謝蕪村の場合も、大阪毛馬の家を飛び出してからは、終生郷里に足を踏み入れていない。全く室生犀星の決意と同じだと思われる。

蕪村は、享保元年(1716)、大阪摂津の国東成郡毛馬村の村長(庄屋?)の家に生まれた。蕪村の母は、京都丹後の与謝から「毛馬村長の家」へ「奉公人」として来ていた。

ところが時が移ると村長の妾となり、「蕪村」が生まれたのだ。
しかし不幸にも蕪村が僅か13歳の頃、「毛馬」で母が亡くなった。間もなく村長も逝去して仕舞ったといわれる。

これが蕪村の人生を大きく変えた。蕪村は、俗に云う「妾の児」だったため、父の村長家系から外されて家系を継げなくなり、村長家一族から「強い苛め」に遭わされ、以来、生家「村長家」で、蕪村は身を縮めて生きていかざるを得ない苦境に追い込まれていったという。これが室生犀星の状況と全く類似している。

そこで一人で力強く生きて抜くには、「毛馬」を離れ独り立ちするしかないと決意、江戸に上ることにした。父と母と住んでいた毛馬には「望郷想い」は強かったが、一族のいじめから「帰郷の念」を断ち切ったのだ。決意を固めた蕪村が郷里毛馬を離れ江戸へ発ったのは、17・8歳の頃と推測されている。

だが、実際の処、蕪村が辛苦に溢れた生活環境の下で出奔するまでの毛馬での幼年期に関する記録は、一切無く「謎」に包まれたままだ。

蕪村研究専門学者の関西大学文学部の藤田真一教授が、「この期は、資料が全く空白部分です」と話してくれた。しかし空白の内、生誕地毛馬で、幼少の頃楽しんだ「春風馬堤曲」の添え書きの実物が明らかになったのは、終戦直後だと、教えて頂いた。

これの実物書で、生誕地が毛馬であることは証明されたことははっきりしたが、肝腎の幼少時代の寅(幼少の名前)の生き様は、全くミステリーだらけだ。
下記に少し触れてみたい。

・妾の児とはいえ、なぜ、家系を継げなかったのか
・妾の児であっても、立派な家系ならどうして、寅を守る環境が無かったのか
・幼年期に、どうして「江戸に上る」ことに思い付いたのか、
・江戸に上る金銭は、どこで準備したのか、財産の一部を母から貰い蓄えていたのか、
・旅は、飢え、寒暑になやみ、辛苦にみちた旅であった筈だが、どのように耐えたのか
(僧侶になって、旅の飢えを凌いだという説がある)
・田舎出の青年が、当時超有名な江戸の俳人師早野宋阿(巴人)の内弟子になったが、紹介者となった砂岡雁 宕にどうして巡り逢えたのか、

「謎は」山積し、いずれも未だ明らかになっていない。

江戸に上り俳人修業し、宋阿(巴人)が死んだあと、芭蕉を慕い関東・奥羽の漂白10年。旅をおえて36歳、京に着いた。その後蕪村は、画家を兼ねながら「春風馬堤曲」を書き、娘の「くの」を嫁がせるなど、京や母の里丹波与謝への旅など軌跡の記録は残って居り、大部分裏付けられているという。

だから「幼年期」が不透明なのは、歯痒いことだ。

室生犀星が、郷里の蔑みと冷遇によって「俺は死んでもあの故郷には帰るまい」とした意を読んでみると、蕪村の「幼年期の謎」は、室生犀星と同じ環境と決意とが重複しているとみていいのではないだろうか。(了)


2014年03月11日

◆蕪村生誕300年祭を挙行 ◆与謝蕪村生誕300年祭を挙行

毛馬 一三


NPO法人近畿フォーラム21(筆者代表)第8期講座「蕪村顕彰俳句大学」の優秀句表彰式を、3月23日(日)に開催する。

会場は、蕪村生誕地近郊の大阪市立「淀川小学校」で行い、第8期表彰式に向けて受講生から1210句、児童生徒から187句、6諸外国から69句が応募された。

この応募句から優秀句を選考し、大阪府知事賞・大阪市長賞・公益財団法人関西・大阪21世紀協会理事長賞、独立行政法人国際交流基金理事長賞、大阪市教育委員会委員委員長賞、当俳句大学学長賞をそれぞれ授与、入賞句には「佳作賞」を授与する。

もともと「蕪村顕彰俳句大学」を4年前開講したのは、江戸時代の三大俳人の松尾芭蕉と小林一茶の生誕地は江戸時代当時から知れ渡っているが、与謝蕪村が大阪毛馬町生誕であることを知らない人が多かった。このため大阪俳人の蕪村顕彰し、俳句文化振興をするのが目的であった。このあと追々。

先般、講座「蕪村顕彰俳句大学」講座の講師で、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授とお会いし、蕪村生誕に纏わる様々な話を伺った。

藤田教授の話によると、蕪村の生誕地が大阪・毛馬町であることが「定説」になったのは、終戦後奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだということだった。これには耳を欹てた。教授の話は下記のようだった。

(蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍の舞台だった江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという「記録」すら残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、誰もいなかったのではないか。

ところが蕪村は、安永六年に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。しかしこの時残念なことにその舞台となる淀川毛馬馬堤近が、自分の「生誕地」だとは、一切触れていない。

ところが、その後願ってもないことが起きた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)への添え書きの「書簡」に、自分の生誕地が「毛馬村」だと、下記のように初めて綴ったのだ。

「春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それならこれが物証となって、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かったのだろうが、そうならなかったのには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多い上、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村直筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地複数説」を加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態だった。

ところが、終戦直後、奈良県で終戦直後偶然見つかった先述の弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」が、公式に「蕪村直筆」だと「認定」されたからである。

これによって「蕪村毛馬生誕地」説が確定した。終戦直後の認定だから遅きに失したと言わざるを得ない。しかしこれは沢山残されていた「蕪村生誕地複数説」が破棄され、毛馬村を生誕地とする歴史的な「決め手」となった。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述に淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

以後、生誕地が毛馬村であることを不動のものになった。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通のこの「蕪村直筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも無かったことになるだろう。)

こうして、「蕪村が大阪生誕俳人と称される」ようになってから、七十余年しか経たない。そのため蕪村は、芭蕉や一茶とは異なり、江戸時代以来、生誕地大阪で「蕪村生誕顕彰」が疎かにされたことで、それを知る人が少なかったことにも繋がっており、誠に慙愧に絶えない。

しかも、生誕した実家(庄屋?)は、明治29年の河川改修で川底に埋没させられ、棲んだ実家、お寺などの痕跡も皆無だ。姿、形も想像できない。

淀川堤防に「蕪村生誕地碑」、「蕪村句碑」があるが、生誕地はそこではなく、その堤防の眼下に流れる「淀川の川底」にあることになる。

ところで、平成28年(2016)には、蕪村生誕300年を迎える。だが、一番重要な「蕪村の生誕日」は未だに分からない。

だから、われわれ講座「蕪村顕彰俳句大学」は、2年半後に迫ってきた2016年に初の「蕪村生誕300年祭」を、2016年に開催し、蕪村生誕地高揚と後世への伝承、そして国際化への発信を大々的に進めたい挙行の具体化を、大阪市立大学と共同して進めている。

余談ながら、筆者は藤田教授に下記の質問をした。

「蕪村は、淀川を下って源八橋から船を降り、浪速の弟子の下に吟行の往き来きしていましたが、「春風馬堤曲」に記述しているように、それほど生誕地の毛馬に郷愁があったのであれば、源八橋の極く近郊の目と鼻の先にあるにある毛馬村生家に立ち寄ってはいないとの噂ですが、何故でしょうか?その学説はありませんか?」

藤田教授の答えは次のようだった。「それを証明する「学説」はありませんね。恐らく立ち寄ってはいないでしょう。深い郷愁にも拘わらず立ち寄ら無かったのには、その想いを超える何か実家に纏わる悲運があったからかもしれませんね」ということだった。

恐らく奉公人だった母と実家の父が亡くなってから、私生児だった蕪村は、家も引き継げず、家人たちからも極めつけの「いじめ」を受けただろう。そのために十七・八歳で家を出家せざるを得なかったのではないか。

こう考えて来ると、蕪村の幼少時の境遇と郷愁を慰撫する「歴史上初の生誕祭」を、必ず我々の手で成功させなければならないという想いが迫ってくる。

つまり、蕪村俳句の顕彰だけでなく、「蕪村が毛馬で生まれ、楽しい幼少を過ごしたものの、俳人となってからは望郷の念を捨ててまで毛馬に立ち寄らなかった悲痛な心を慰めるためにも、初の生誕祭をして崇めて上げなければならない」と思いが更に籠ってくるのだ。

今年の9月には、兜カ學の森(月刊誌:俳句界)と2回目共催の「蕪村俳句全国大会表彰式」を行うとともに、「蕪村生誕300年祭事業」も協同して行うことにしている。特に「蕪村生誕300年祭事業」は兜カ學の森の助力を得て、全国に広めて行く方針。

どうか、2年半後の秋に行う予定の初の「蕪村生誕300年祭」に、是非共 全国からご賛同とご支援を得て、成功させたいと切に願っている。どうか伏してお願い申し上げます。                                   (了)

本稿は、3月12日の全国版メルマガ「頂門の一針」に掲載されました。この他の卓見を拝読されたい方は、
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2014年02月14日

◆韓国「青瓦台」襲撃未遂事件

毛馬 一三


北朝鮮と韓問の間が依然緊迫している現状を考えていた時、ふと1968年に北朝鮮ゲリラが韓国大統領府「青瓦台」襲撃未遂事件のことを、思い出した。

私は当時NHK大阪府庁キャップをしていたが、同事件に深い関心を覚えたため、休暇をとって単独で渡韓し、既知の有力新聞社社長の紹介で政府公安機関の要人と面会し、事件の「詳細」を個人的に“取材”した。

その取材内容の詳細は、「公」には出来なかったが、思い出した序でに、書斎に補完していた当時の「取材メモ」を探し出し、あらためて読み直してみた。

その韓国青瓦台奇襲は、1968年1月21日夜10時を期して決行する命令が、金日成首領から金正泰を通じて出された。青瓦台奇襲部隊は組長の金鐘雄大尉(事件後4日目に射殺)ら31名で、唯一生き残った金新朝も一員だった。

全員が機関短銃1丁(実弾300発)、TT拳銃1丁、対戦車手投げ弾1発、防御用手投げ弾8発と短刀で武装した。

奇襲部隊は、1組が青瓦台の2階を奇襲して朴正煕大統領と閣僚を暗殺、2組は1階を襲撃して勤務員全員を殺し、3組は警備員、4組は秘書室全員射殺というのが任務だった。

16日の午後、黄街道延山基地を出発。途中軍事休戦ライン南方の非武装地帯を緊張しながら訓練通り過ぎ、ソウルに真っ直ぐのびる丘陵を辿った。歩哨所や検問に遭遇しなかったため。金組長は「南」の士気が乱れている所為だと勘違いした。このため、31人全員が隊列を組んで堂々と行軍するという行動に出た。

だが行軍しているうち、「戸迷い」にぶち当たった。所持した地図に従いソウルにいくら接近しても、「北」で教育されたような荒廃している筈のソウル市街は21日の夜になっても現れてこない。

南下すればするほど煌々とした市街地が現れてくるばかりだ。「これはソウルではない」。「じゃ、一体ここは何処なんだ」。「北」の教育が間違っているとは、一瞬たりとも気付かないミスを更に重ねた。

その上に韓国軍の服装、装備に身を固めている限り怪しまれることはないと思い上がった金組長が、敵地で初めて出会った韓国人2人に「訓練中に道に迷ったのだが、ソウルに行く道を教えてくれないか」と、さりげなく問うた。

奇襲隊に遭遇した2韓国人は、ソウルへの道筋を一応教えたものの、不審に思った。

<眼下に広がるソウルを韓国軍人が知らないなんておかしい。発音も韓国訛ではない。まして前年6月から「北」の武装スパイが上陸して韓国軍から射殺された事件も2人は知っていた>。2人は急ぎ山を降り、警察に通報した。

奇襲隊は21日夜9時、ソウル北方紫霞門の坂道を通過しようとして、警察の検問にひっかかった。尋問を受けた奇襲隊は慌てて機関短銃を乱射し、市バスと民家に見境なく手投げ弾を投げた。

奇襲隊は、青瓦台の800m手前まで迫りながら、韓国軍と警察の掃討作戦によりちりじりに撃退された。2週間に及ぶ掃討作戦により、金新朝1名が逮捕され、他は全滅させられた。この銃撃戦で韓国側は、崔警察署長を含め68名が死亡している。

序でながら私の「メモ帳」を見ると、青瓦台襲撃に失敗した「北」は、10ヶ月後の11月2日、襲撃組長金鐘雄大尉ら31名の同期生120人のいわゆるゲリラ別斑が、韓国慶尚北道蔚珍郡と荏原道三に海上から「南」に進入している。

このゲリラ隊は、山岳地帯の小部落を武力で占領、赤化せよという工作命令を受けていた。部落民を集めて赤化を強要する「部落拉致事件」。事実従わない者は短剣で刺し、石で殴り殺すという虐殺を行っている。

「共産党は嫌い」と叫んだ李承福という10歳の少年の口を引き裂いて殺した。断崖絶壁をロープでよじ登り、部落を占領して住民を」拉致し、赤化地帯にするという想像を絶するこの「北」のゲリラ事件は、何故かわが国では余り知られていない。

「メモ帳」を見返しながら、これら青瓦台襲撃未遂事件は、文世光事件がつながり、結局は、「北」による日本人大量拉致事件にも結びついていると、改めて考えざるをえない。

「北」はこのような稚拙な韓国急襲攻撃などを繰り返すことは無いだろう。

ところが、国連安全保障理事会の北朝鮮制裁委員会の安保理パネル年次報告によると、パナマが拿捕した北朝鮮貨物船から大量の兵器が見つかった事件の背後に、中国やシンガポールに拠点を置く複数企業関与があるとし、「制裁逃れを目的とした(国際)組織網」の存在が伺えるると明記した。(共同通信:2月13日)

つまり「北」は、今世界に向けて「兵器輸送に国際組織網」を創り上げているのだ。 だとすれば、今後「北」は対韓・対日にどのような改善対応をして行くのだろうか。(了)
  

2014年01月21日

◆「納豆」を食べよう!

毛馬 一三


私の苦手な「納豆」が、骨粗鬆症の予防に効果があるという記事を読んだ。だったら、これからもっと「納豆」を食べることに挑戦しなくてはなるまい。それはこのあと云々。

私は九州の筑後地方で幼少期を過ごした田舎育ち。日露戦争で活躍した日本旧陸軍「久留米師団」の軍事施設がわが家の近くにあったが、周辺全体が農村地帯だったので大東亜戦争が終ったあとも、米や野菜など食糧難に接した記憶はない。

だが、有明海や博多湾からはかけ離れていた所だったので、「海の生魚」には縁がなく、塩漬けのサバなどをリヤカーに積んで売り歩く行商から「塩漬け海魚」を買い求め、焼き魚にして食べさせられたことは、今でも思い出す。

ところが珍事がある。どうしたことかわがまちには「納豆」の売る店も、行商も一切なかった。だから「納豆」を食することはなく、名前すら知らなかった。勿論、我が家が「納豆」を何かの因縁で食膳から避けたという話も聞いたこともない。

「納豆」に初めて出会ったのは、18歳の時東京に進学して、下宿先の食卓だった。「納豆」にネギ、わさび、醤油をいれてかき回しご飯の混ぜて食べるものだったが、異常なねばりによる味と、腐ったような異臭に思わず顔を背けた。以来食しなかった。

しかし、横浜生まれで「納豆」常食していた家内と結婚してから、健康のために食べようと説得されたことで、「納豆」に卵の黄身、ネギ、醤油、からしを混ぜて食べることにチャレンジした。その食べ方が予想外に馴染んだので、「納豆」食べを始めた。

ところが、そのあと「納豆」にセットされて売り出された「味付き特別たれ」も美味しかったことから、その「たれ」をかけた「納豆」を「おかず」として食べるようになった。

そんな折、骨粗鬆症などの予防に「納豆」などに効果があるという新聞記事を読んだのだ。
同紙によると、

<納豆などに多く含まれる成分「ポリアミン」に骨量の減少を抑える効果があることを、金大医薬保健研究域薬学系の米田幸雄教授らの研究グループがマウスなどによる実験で突き止めた。

ポリアミンは老化抑制効果が注目されているが、骨への効果が判明したのは初めて。骨粗鬆症などに対する副作用が少ない予防、治療法の開発につながるとみられる。

米田教授や檜井栄一准教授らのグループは、骨粗鬆症モデルのマウスと、関節リウマチモデルのラットにそれぞれ28日間、ポリアミンを混ぜた水を投与した。

骨粗鬆症モデルでは何も与えない場合、骨量が3〜4割減少したが、ポリアミンを投与したマウスはほとんど減少しなかった。関節リウマチモデルでは、何も与えない場合と比べ、骨や軟骨が破壊される量が3分の1程度に抑えられた。

さらに培養細胞実験で、破骨細胞にポリアミンを加えると、細胞の働きが抑制されることも確認した。

米田教授は「ポリアミンは納豆など日本人になじみの深い食品で摂取でき、副作用も少ないとみられる。特定保健用食品や医薬品などの開発につながる」と話した>としている。

たしかに高齢の時期になってくると「骨粗鬆症」が原因で股関節を骨折し、寝たきりになったという話よく耳にする。

序ながら「骨粗鬆症」に触れておこう。

<骨粗鬆症(osteoporosis)とは、骨形成速度よりも骨吸収速度が高いことにより、骨に小さな穴が多発する症状をいう。背中が曲がることに現れる骨の変形、骨性の痛み、さらに骨折の原因となる。

骨折は一般に強い外力が加わった場合に起こるが、骨粗鬆症においては、日常生活程度の負荷によって骨折を引き起こす。骨折による痛みや障害はもちろん、大腿骨や股関節の骨折はいわゆる高齢者の寝たきりにつながり、生活の質(QOL) を著しく低くする。> 出典:ウィキペディア

「納豆」好きな人には恥ずかしいことだが、これからは食べることに抵抗を感じなくなってきた「納豆」を、毎日食べるような常食にしようかなという思いが湧いてきた。

なお、心臓病や脳梗塞の治療を受けて、「抗血液凝固剤「ワーファリン」を飲んでいる人は、「納豆」は禁忌とされているそうです。どうか「ワーファリン」を飲んでいる人は、絶対に「納豆」は食べないでください。        (了)

2014年01月01日

◆明けましてお目出度う御座います

毛馬 一三


今年もよろしくお願い致します。

皆さには、本誌「百家争鳴」と「今日の切り抜き帳」等掲載の日刊「ネットメディアおおさか」を拝読頂き、厚くお礼申し上げます。

本誌には、先輩の渡部亮次郎氏主宰の「頂門の一針」(http://chomon-ryojiro.iza.ne.jp/blog/)と杉浦正章氏の「評論:永田町幹竹割り」(http://thenagatachou.blog.so-net.ne.jp/)から中央政界の情勢や外交問題、そして柔らかい話題等の原稿のご寄稿を頂くとともに、その他著名者からの特別寄稿も頂いております。今年も本誌は充実した記事発刊をつづけて参る所存でおります。

ところで今年の大阪は、何と言っても「橋下維新の会」動静が、最大の焦点となります。

維新の会発足の最大の目標は、「大阪都市構想」の実現でした。政党「維新の会」の代表になった橋下大阪市市長は、石原前東京都知事と連携し、中央政界でも注目を集めました。

しかし読売新聞によると、維新の会は、<5月の橋下氏のいわゆる従軍慰安婦問題についての発言で国民から厳しい批判を受け、7月の参院選で伸び悩んだ維新に、巻き返す力は残っていなかった。最後まで防戦一方。

しかも、2015年春の統一地方選に向けた日本維新の会の「近畿ブロック維新政治塾」(塾長=橋下徹共同代表)への応募者も、当初見込みの300人を大幅に下回る105人だったことがわかった。

昨春、国政進出に向けて初めて開講した「維新政治塾」には全国から3000人を超える応募があり、維新の退潮傾向が浮き彫りとなった形だ。

一方大阪市議会では、将来的に市立・府立両大学を統合して理事長を1人にするため、まずは市立大の理事長と学長の兼任をやめようとした議案も否決された。市営地下鉄・バス民営化議案は異例の3度目の継続審議となった。>と書いています。

注目すべきことは、「維新の会」が掲げている「大阪都市構想」実現を図る意向を示してため争った「大阪府堺市長選挙」で、同大阪都市構想に真っ向から反対する現職の竹山修身市長に敗れ、維新の会は大きな打撃を受けました。

維新の会としてはこれから、「大阪都市構想」の実現にむけて直接「住民投票」を求める議案を市議会に提出しますが、これも苦境です。

私自身は、安部総理の「靖国神社」参拝には賛意を持っています。しかし外交問題では、諸外国に理解を求めて行く安部総理の労苦は、これから始まるでしょう。ただ、中国韓国の主張する歴史認識の違いは、一向に理解できません。

マスコミは、いかにも中国韓国の主張が正しいように報じていますが、本誌「百家争鳴」の掲載寄稿を熟読して、わが国が進むべき途を熟慮して下さい。


ところで私事ながら、昨年の後半、厳しい腰痛や怪我に見舞われ大変な年でした。腰痛は6年前に行った「脊骨すべり症」の手術を行い、手術そのもは成功しました。

しかし脊骨の間に埋め込んだ滑り防止の囲みの鉄枠が下部位置の神経を刺激するようになって激しい腰痛となり、歩行が500bも出来なくなくなり、長時間椅子にも座る事も困難になりました。

このため、整形外科診療所の診断により、リハビリを昨年の7月から自転車で毎日通い続けていました。

ところが昨年12月初旬、登校で飛び出してきた生徒を避ける為、急ブレーキを掛けたところ誤って横倒しとなり、何と左肋骨内の肋軟骨複数を骨折しました。

左肋骨の軟骨は3か月を要するということで、毎日腰痛リハビリと合せて通院するため、止む無く自転車通いは続けています。「病気」、「不慮の事故」とは、恐ろしいものです。

しかし、新年からは健康と事故には特段の留意をして行きたいと思っております。私事ながら失礼しました。

今年も皆さまのご健康を心からお祈りいたし、本誌「百家争鳴」と「今日の切り抜き帳」に目を向けられ、特に「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏と杉浦正章氏の「評論:永田町幹竹割り」、特別寄稿者の方々の掲載記事を拝読されますようお願い申し上げます。                      (了)

2013年12月18日

◆「大阪維新の都構想」は頓挫か

早川 昭三


大阪維新の会(代表 橋下徹大阪市長)が掲げた最大の政治目標は、東京と並ぶ「大阪都構想」の実現だった。これを以て石原元東京都知事と意気投合し、政党「維新の会」を発足。中央政界に足を踏み込んだ。

ところが今回、大阪市議会だけでなく、大阪府議会でも過半数割れの事態となり、最大の政治目標の「大阪都構想」の実現が、頓挫する様相になってきた。

ところで橋下氏は、2011年12月に市長となった翌12年2月、まず「橋下改革に関する議案の提案し、定例大阪市議会で早速国歌起立条例などを可決した。

その上で、「大阪都構想」の実現に取り掛かった。大阪維新の会幹事長の松井一郎知事と手を組み。「府・市共同」して「大阪構想実現」を進め出した。

まず、大阪市を分割して府と再編するための「大都市制度推進協議会」の設置条例に精力を傾け、成立させた。この頃は市民から「改革市長」としての支持率の高さを受けていた。

しかし橋下氏が率いる大阪維新の会は、大阪市議会で過半数に満たない少数与党。その影響をもろにうけて、維新の立場が急変し出した。

風向きが急速に変わったのは、今年に入ってからだ。橋下氏のいわゆる従軍慰安婦を巡る発言があった5月、橋下氏の宿願でもあった大阪府内の水道事業一元化を目指す議案が、維新以外の各会派の反対で否決された。
議会では、次第に他会派の態度がさらに厳しくなりだした。

市立幼稚園の廃園・民営化議案は19園のうち認められたのは5園だけ。将来的に市立・府立両大学を統合して理事長を1人にするため、まずは市立大の理事長と学長の兼任をやめようとした議案も否決された。市営地下鉄・バス民営化議案は、異例の3度目の継続審議となった。他会派の反発強まった結果だ。

そんな中この度急変が起きた。大阪府議会で、知事与党で議会過半数を占める最大会派の維新議員4人が造反し、維新の松井知事が一気にやり抜こうと考えていた「「泉北高速鉄道」を米投資ファンドに売却する議案が、過半数に満たず否決された。

松井知事、橋下市長にとっては、夢にも抱いていなかったことだった。松井知事は、維新の会の4人の議員が採決で反対票を投じたことについて「維新の会として許せない」として、造反4議員を除名した。

その上で松井知事は「大阪市議会だけでなく、大阪府議会でも維新の会は過半数割れになる」と判断、これから維新が目指す最大政治目標の「大阪都市構想」実現に懸念を示した。

維新の目指す「大阪都構想」の前提となる「住民投票」を実施するには、まず大阪府議会と大阪市議会で、区割りなどを定めた協定書について過半数の賛成を得て可決しなければならない。

ところが、市議会も府議会も過半数に満たないため、「都構想審議」への影響は必至だ。

維新代表の橋下市長は、造反が出て結束が崩れたことに対し「統一選改選が近付き、維新から離別の機会を探っていただけ」と、橋下流の口上で述べている。

しかし、橋下代表や維新の支持率は低迷してきているだけに、改選を迎える議員の維新離れは避けられそうにない。しかも橋下代表は、これから公明党と話し合いをしていったらいい」と述べ、公明党だけに頼る姿勢を覗かせている。

だが公明党は、「今回の府議会否決は、市民の意向を拾えなかったものであり、大阪都構想審議も議論すべき点が多過ぎるので、是々非々で臨む」と言っている。と云うことは、公明党も維新に近寄る気は見られない。

今、維新内には衝撃が走り、維新の会全体が窮地に追い込まれてしまった。要は、両議会とも過半数をわったことで、政党立脚お題目の「大阪都構想」が頓挫するという公算が強くなってきたと言えるだろう。  (了)

2013年12月04日

◆福岡市博物館に戻った「国宝金印」

毛馬 一三


国宝の金印「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」は、元々福岡市博物館に在ったが、平成23年12月から同館改修工事のため、福岡市美術館に一旦“移転”していた。その2年間の同館改修工事が終了し、「国宝の金印」は、先月11月3日福岡市博物館に戻り、「常設博物室」で展示され出した。

どうして「倭の国の印」が、筑前国那珂郡志賀島村(現福岡市東区志賀島)南端・叶ノ浜の「叶崎」で出土したのか。福岡生まれの私自身子供のころから、不思議で堪らなかった。その「謎」の事は追々。

さて、「国宝金印」の出土からの経緯を記すと、下記のようだ。

<天明4年2月23日(1784年4月12日)、筑前国那珂郡志賀島村(現福岡市東区志賀島)南端・叶ノ浜の「叶崎」で出土。発見したのは甚兵衛という地元の百姓である。ところが近年の研究では発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそれを那珂郡奉行に提出した人物だとうという説が有力。

水田の耕作中に偶然発見したとされる。一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に、存したという。那珂郡奉行から福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥によって「後漢書」に記された「金印」であるとされた。

その後、この「金印」の「委」は「倭」の省略形で、中国史書「後漢書」(東夷伝の倭伝)に「後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に朝貢した倭奴国に印綬を下賜した」と記されており、「漢委奴国王」と印綬された「印」であることが確定した。

出土した後は、福岡藩主黒田家に伝えられ、明治維新後に黒田家が東京へ移った後は、東京国立博物館に寄託され、その後は福岡市美術館の開設に伴い1978年(昭和53年)に福岡市に寄贈された。

最初は、1979年(昭和54年)から福岡市美術館で展示されたが、1990年(平成2年)から、福岡市博物館で保管・展示されてきた>。参考ウィキペディア

さてここからが本題。

「金印」出土した場所は「志賀島」の南端・叶ノ浜の「叶崎」。そこは、福岡市内の辺鄙な処にある。JR香椎線(地方交通線)の西戸崎前から「海の中道」を経由して志賀島へ渡り、島の南側を行くと「金印公園」に至る。

私は小学生の頃、父に連れられて博多築港から遊覧船で志賀島に渡った。「金印」の出土現物付近の見学旅行だった。その時初めて「金印」の出土現場の叶ノ浜の「叶崎」を目撃することが出来、感動した。

ところが、暫くして後漢の光武帝が下賜したという「金印」が、またどうして、このような辺鄙な「離れ島」で出土したのか。これからまさに「謎」となり頭を悩ませた。「何故、志賀島から出土?」なのか。

確かに金印が志賀島に埋められていた理由については、学説にも諸説がある。

A、遺棄説 2世紀に、倭国が大乱となったため棄てられた。
B、隠匿説 同じく倭国大乱で奴国が没落したため、人里離れた所に隠した。
C、墳墓説 奴国王の墓に副葬された。
D、王宮説 奴国王の宮殿が近くにあった。
E、祭祀遺構説 航海安全祈願の施設があったから、等々である。
       出典:<「一大率・難升米の読み方と白日別の意味の一部>。

どれも該当する可能性はあるが、未だにはっきりしない。私の自身、何とか調べる方法はないのかと探しているが、老いて今になっても「謎」のままだ。

国宝の金印を所蔵する福岡市博物館のホームページにも、この「謎」に関して、『なぜ金印が志賀島に埋められていたのか。これまで「墳墓説」「隠匿説」が唱えられ論争となった時期もあつたが、全く不可解』と記している。博物館でも、突き止めていない。結局「謎」のままだ。

そこで、重複するが敢えて記して置く。

<志賀島から出た金印は、「蛇の紐通し(蛇の形の紐とおし)」が付いている。「蛇紐の金印」はそれまで中国本土はもとより、世界のどこからも発見されたことがなかった。だから偽物ではないかという風説が流れた時期もあった。
  
ところが、1956年に中国雲南省で前漢代の「てん(さんずいに眞)王之印」が発見され、これが「蛇紐」であったために、「偽物説」は一蹴された。
  
漢代の印綬制度では、漢王朝に仕える諸侯(内臣)は、黄金印に亀の紐。異民族の国家で漢に臣従したもの(外臣)は、北方民族には駱駝や羊の紐、そして東夷南蛮の王には「蛇紐の金印」が下賜されたていたことが明らかになった。

また福岡の太宰府天満宮に伝わる唐時代の辞書「翰苑」の巻三〇蛮夷の部の中の倭国の記事に「中元之際紫授之栄」とあり、紫綬の金印が光武帝より授けられたことが記されている。

これによって志賀島の「金印」は、前述のように後漢の光武帝から下賜されたことがしっかりと証明されたことになる>。参考:ウィキペディア

つまり光武帝からの下賜であることははっきりしたものの、その「金印」がどうして「志賀島から出土したか」は、これからも「謎」のままなのだろうか。

序でながら、考古学者から聴いた「謎」に絡む話を記述しておきたい。

それよると、<「委奴国の部族神・綿津見神の本貫地と、卑弥呼の本貫地」が、同じ志賀島であるという説があるという。つまり両者は、同じ綿津見神を奉戴する同じ氏族集団発祥の地の部族の同じ出身であり、卑弥呼は委奴国の王族であるという説だ。

となると、光武帝からの下賜された「金印」の所有者の部族神は綿津見神であり、そのために「金印埋納場所」の場所が、部族の聖地であった志賀島に選ばれたのではないかということだ。

これが、志賀島で「金印」が出土した「謎解きの新説」になるかも知れないと、その考古学専門家は言っていた>。

ご承知のように、2世紀後半に卑弥呼が委国の乱を収めて初代王になったことははっきりしているが、邪馬台国の場所は、九州説と近畿説に分かれている。

だが、「志賀島が卑弥呼の本貫地」だという話を聴かされ、心が躍った。

志賀島での「金印の出土謎」は、まだ続くだろう。

不覚にも、「国宝金印」を、私は未だ見ていない。早い内に福岡市博物館を訪ね、展示されている「一辺2.3pの四角形、台部分の厚さ約9o、総高約22o、重さ108.7gの純金製(22金)」にお目にかかりたい。(了)

◆本稿は、本日12月4日の全国版Web「頂門の一針」に掲載されました。同誌には多彩な有名寄稿者の原稿が毎日掲載されています。どうか多岐に亘る興味深い同誌をご拝読下さい。

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