2012年11月13日

◆蕪村公園に「国際俳句交流」記念の植樹

毛馬 一三


私が主宰するNPO法人近畿フォーラム21は、大阪市が、与謝蕪村生誕地近郊の大阪市都島区毛馬町に「蕪村公園」を造営した2年後の平成21年に、市民講座「蕪村俳句大学」を立ち上げた。既に3年・6期講座を迎えている。

同市民講座を立ち上げたのには、深い想いがあった。というのは、俳人蕪村の名は知られているものの、生誕地が大阪毛馬町であることを知らない市民が意外にも多いことが分かり出した。芭蕉、一茶と並ぶ江戸時代の三大俳人の一人の蕪村生誕地を知られていないというのは、正に大阪市文化行政の失政。情けない話だ。

だから遅ればせながら「蕪村公園」を造営した機会に、NPO法人では、蕪村生誕地の告知と蕪村俳句を後世に広めると共に、俳句講座を通じて俳句文化の振興活動を高める支援をしてみようとしたのである。

与謝蕪村は、「なの花や 月は東に 日は西に」「春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな」などの俳句で知られ、江戸時代中期の1716年(享保元年、八代将軍徳川吉宗が将軍についた年)、大阪市都島区毛馬町(当時の摂津国(せっつのくに)東成郡(ごおり)毛馬村)に生まれている。ところがどうしたことか生年月日は不明。しかも生誕地の正確な場所の資料さえ未だに見つかっていない。

ところで、同講座開講の年に、蕪村公園内に蕪村句に登場する「くちなしの木50本」と「桂1本」の第1次植樹をし、それを前に講座の「優秀句プレート碑」を建立した。「プレート碑」は既に5基に達しており、同公園を散策する人々の目を魅き付けている。

これに続き、第2次の「植樹」を立案、同公園内に11月9日に「サクラ、ウメ、ツツジ」の植樹を行った。

植樹した「サクラ、ウメ、ツツジ」の樹木は、全部で7本。

・シダレザクラ   1本   (現在の高さ3.5m   樹齢 一千年)
・エドヒガンザクラ 1本   (現在の高さ3.5m   樹齢 二千年)
・イロハモミジ   1本    (現在の高さ 3.0m 樹齢 六百年)
・ウメ(白)    2本    (現在の高さ 2.5m 樹齢 千年)
・ウメ(紅)    2本    (現在の高さ 2.5m 樹齢 千年)

7本の樹木は、「5基プレート碑」より北側の、蕪村俳句の「斧入れて香におどろくや冬木立」石碑の真うしろあり、すぐに分かる。特に「樹齢」にこだわり、千年から二千年という樹木種を植樹できたので、この上にない安らぎを感じている。

そんな中、同NPO法人では、新たに「国際俳句蕪村賞」を設け、諸外国と「俳句を通して心を結ぶ国際俳句交流」を推進することにした。従来の「俳句講座」と二本立ての活動に力をいれていくことにした。

早速その手始めとして、第5期講座「表彰式」からフランス、ウクライナ、台湾から応募された作品のから初の「国際俳句蕪村賞」の「知事賞・市長賞・学長賞」を授与した。

幸運とは重なるもので、この10月30日に大阪集客プラン支援事業実行委員会(大阪市、大阪商工会議所、大阪観光コンベンション協会)から、当NPO法人の「国際俳句蕪村賞」の事業目的が認められ、平成24年度決定事業として“<情報発信部門>の大阪集客プラン事業”としての支援を得ることになった。

つまり、俳句情報を世界に発信していきながら、「国際俳句交流」を幅広く展開することが認定され、NPO法人の上記事業に支援をする公的事業として認められたことになる。これはNPO法人の目指す「国際俳句交流」にとって、超ラッキーな舞台作りとなったことになる。

そこで、今回の第2次植樹は、「「交際俳句蕪村賞」記念をアピールする植樹とすることに急遽決めた。既に国際俳句交流の絆を結んでいるフランス、ウクライナ、台湾から新たに俳句の出句を求めて作る「記念プレート碑」を、樹木の前に建立しようと考えている。

シダレザクラ、エドヒガンザクラ、ウメも、来年の春から花が咲くという。「国際俳句蕪村賞」記念する植樹により、「蕪村公園」の華やかさは増し、「国際俳句交流」を目指す「植樹」の効果は、大いに発揮されるだろう。

樹木は、年々幹は太くなり、しかも樹高も高くなり、成木になれば、高さが皆6〜7m、幹の直径は50p位となる。樹齢と想い合わせると見応えのある樹木になる。

NPO法人では、4年後に控えた「蕪村生誕300年記念事業」を実施する為、担当委員会を設けて諸記念事業計画を立案中だが、今回「国際俳句蕪村賞」記念の植樹として、世界中のこころとこころの拠り所とすることの初活動に繫げらたことは、歓喜に絶えない。

2012年11月04日

◆「腎臓癌」恐怖からの脱出

毛馬 一三


今年3月以来体調不良が続き、何をするのにも意欲を失った。体はだるい上、胃は痛むし、大腸にも異常を感じる。このような体調不良症状は初めてのことなので、まずは定期検診をうけている総合病院の内科医師に診察を依頼した。CT検査を受けたところ、何と「腎臓に癌の疑い」があると言われた。

「癌」など考えたこともなかったので、心因性疲労も加わって体調不良は増幅した。このため、本誌の発信も出来なくなり、「休刊」を迫られて仕舞った。

悩んだ末、畏友石岡荘十氏に相談したところ、「腎臓」なら権威のある大阪大学系の総合病院内科に行って、腎臓専門医に検診してもらうべきだと助言を受けた。「癌」は一日でも早い発見が、命を救うぞとの心に刺さる厳しい言葉が、今でも蘇ってくる。

すぐさま知り合いの阪大系総合病院名誉院長の紹介をうけて、同病院の腎臓内科医師のもとに駆け込んだ。

尋問を受けた後、特に痛みが強い「胃」と「大腸」の検査から始められた。


両検査とも初体験で、「胃」は鼻から内視鏡を入れて検査し、「大腸」は麻酔注射を打ちながら、肛門から内視鏡を入れて検査をした。ガスが体外に出るまでが苦しかったが、総体的には両検査ともたいした苦痛は無く無事終了した。
 

検査の結果は、「胃部」には潰瘍跡はあつかったが、「癌」は無い。「大腸」にも「癌」の転移はないと診断された。ひとまずホットした。

いよいよ、「腎臓」本体に「癌」が発症しているか否かの診断が、本題となった。このため、腎臓のCT検査が行うことになった。検査はその日ではなく、2週間ほど待たねばならない。

検査の結果、腎臓自体に「癌」はないと言われた。ただ、腎臓の「腎嚢胞(じんのほう)」に若干懸念があるので、腎臓内科から同院内の泌尿器科に移され、ヨード造影剤の注射をしながらCT検査行うことになった。腎臓に「癌の疑いがある」されたのは、この「腎嚢胞」の所為だったのだろうか。


また新たに「腎嚢胞」の異常が、「癌」に繋がるのではないかとの心配が芽生え出した
 

10日の後に泌尿器科の専門医師のもとで、ヨード造影剤を注射しながら「腎嚢胞」を検診するCT検査を行った。検査は30分ほどだった。


検査の結果、「腎嚢胞」に少々の肥大部分が見つかった。ただ肥大部分が「癌」に繋がる心配はないと診断された。念のため、これから半年か1年毎に「腎嚢胞」についてのエコー検査をうけるよう勧められた。

その上で同医師は、定期検診を受けている総合病院の医師に対して、「診断の結果」と「CT検査のCD」と「エコー検査を勧める書簡」を書いてくれて、定期検診医師に手渡すよう言われた。感謝の気持ちで一杯だった。

不安のどん底に落ち込まされ、迫られていた「腎臓癌」の恐怖から解放されたことになり、歓喜が体内に広がった。これに優る喜びは無かった。

私の「癌」脱出を知ったメルマガ全国版「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏から「体調不良」とは、どんな具合でしたかというご心配を添えての質問を頂いた。

これに対して私は下記のようなご返事を送った。
<当初の総合病院でのCT検査で、「腎臓癌に罹患している疑い」があるという診断を受けたことから、その不安による食欲不振と精神不安定が、強度の体調不良に結びついたものと思われます。

しかし、阪大系の総合病院に移って、幾つもの検査を行い、専門医師の診断を受けた結果、「腎臓癌」の疑いなしが判明したその日からは、体調が徐々に回復していくのを自覚しました。

ですから、阪大の主治医に、本当に「癌」への心配が体調不良に繋がっていたのでしょうかと訊いてみました。

すると同医師は、その心配もあるが、老化が進めば「仕事に伴うストレスの蓄積」が加増して体調不良を招くことが多く、その傾向が強かったとみるべきだと言われました。

「癌罹患の疑い」が体調不良のキッカケだったことは事実ですが、携わっているいろんな仕事の悩みや労苦に巻き込まれて生じた「ストレス」が体調不良を増幅させたのではないでしょうか。

答えになっているかどうか分かりませんが、これからは気楽な気持ちを維持し、「ストレス」が溜まらないようにして行こうと思っております。>

これに対して渡部亮次郎氏から
<良く分かりました。それにしても良かった。奥さんもやっと安眠できるようになったでしょう。おめでとう御座いました。私もそうです。>
という有難いお言葉を頂き感動した。

とにかく、人生初めての経験として苦しんだ「癌」から、解き放されてこんな感激はない。これからも、種々の仕事には追われることにはなるが、老化に伴って生じる「ストレス」を蓄積しないよう心掛けたいと思う。

ご心配をお掛けした皆さまに、予想もしなかった「喜び」をご報告したい。

◆本稿は、メイル・マガジン「頂門の一針」2775号(11月4日(日)刊)に掲載されました。
<目次>
・今年六十のお爺さん????:渡部亮次郎
・「腎臓癌」恐怖からの脱出:毛馬一三
・末期政権はロシアに手を出すな:山堂コラム 443
・亀井静香氏 「第4極」?を目指す:古澤 襄
・民主党が傾く「凡庸」路線:阿比留瑠比
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

◆「頂門の一針」を購読(無料)申し込み御希望の方は
下記のホームページで手続きして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

◆本誌常連寄稿者 渡邊好造さんからのコメント
<おめでとうございます。良かったですね。 私も昨年食欲がなく、何をするにも全身がだるい状態が続き、28日間3回にわけて入院し全身検査した結果、内臓にどこも悪いところはなく、残るは精神科だけだと宣告された直後から、元気になりました。おかげで10キロ減量です。今思えばどこか悪いところがあるはず、と思い込んでいたのでしょう。あとは足首のシビレだけです。 今後とも面白い、興味ある話を満載してください。期待しています>。      114.172.58.199



2012年08月06日

◆夏バテ防止に「おきゅうと」

毛馬 一三


福岡の友人が案内した大阪にある博多料理屋で、博多特産の「おきゅうと」が出た。まず、大阪市内の料理屋で「おきゅうと」が出されることは、珍しい。

「おきゅうと」は、エゴノリという海藻から作った食品で、生姜、ゴマ、かつおぶしなどを振りかけ、それにポン酢を注いで食する。涼感を誘うツルッとした味わいと、磯の香りの食感が口内いっぱい広がる。

久し振りの味は、淡泊ながら旨みと滋味に溢れた特有の食感で、郷愁を深く感じた。食べるのは盛夏の時期が本番。なぜかと言うと、暑い盛りに涼感効果を感じさせる伝統食品だからだ。

博多出身の畏友津嶋礼文君によると、この酢やポン酢を掛けただけの「おきゅうと」を食膳に出して貰うと、食欲を全く無くしていても、これだけでご飯一杯は優に食べられるという。文字通り「夏バテ防止」だと、と話してくれた。

意外なことに、この「おきゅうと」を知る人は少ない。私自身も、同じ福岡出身でありながら、福岡から離れた筑後・久留米で育ったため、「おきゅうと」の名前は幼少の頃から耳にしたことはなく、食膳に上った記憶も無い。海藻の採れる海岸から離れていることが主因。

しかし私が、料理の一品として魅せられたのは、社会人になってからだ。以来、「おきゅうと」の贔屓者になった。下戸なので、お酒のつまみではなく、専ら深みのある味を、ゆっくり箸を付けながら食するという楽しみ方だ。

<エゴノリが生育する日本海側の秋田、山形、新潟、長野の各県では「えご」、宮崎県では「キリンサイ」などと呼ばれて食用にされているらしいが、「おきゅうと」とは言わない。食べ方も博多とは全く異なるという。>

そこで、「おきゅうと」の名前の由来にふれてみよう。

<1.「沖の独活(ウド)」説。エゴノリはウドの木の様に早く育つので、沖のウドが転訛した。
2.沖からやってきた漁師が作り方を伝授したから「沖人」(おきうど)説。
3.飢饉の際に簡単で大量に作られ多くの人を救ったから「救人」。
などの諸説がある。>

肝腎なことは、「おきゅうと」の食べ方だ。

・真空パックの中に5枚入っている添加物は不使用
・厚さ約3mmの「おきうと」を、水洗いして、幅2〜3mmくらいに切る。
・それを器に盛りつけ、生姜、ゴマ、かつおぶしなどをふりかけ、醤油またはポン酢で  食べる。また、酢味噌などでもおいしい。

いとも簡単に食することができる。しかも、ふりかけ材の工夫では、味付けが自分の好みに合わせられるだけに,楽しみも倍増余地がある。

他府県の人が初めて、これを食べた時、変わった味覚と触覚だと戸惑う人が多いらしい。しかし再度出会うと、仄かな磯の香り・海苔の風味、涼感を誘う喉ごし、溢れる旨みと滋味に魅せられて、注文する人が増えてくると聞く。

「おきゅうと」は「めんたいこ」と共に、数百年の昔から朝食の一品を占め続けて来た博多の食文化であり、博多の人々はその重みを了知している。

毎月1回、俳句の「句会講座」に集まる福岡高校の同級生と、講座修了後にお茶を飲むと、決まって「二品」の話が話題となる。

残念なことに大阪では、「飲み屋」か「博多料理店」に行かないと「おきゅうと」にはお目にかかれない。しかし残念なことに「おきゅうと」が、その店のメニューにあるとは限らない。しかも最近になって近郊スーパーあったその姿もお目に掛かれなくなっている。淋しい話だ。

前述の福岡高校同級生1人が近く帰省し、地元でしか味合えない特製「おきゅうと」店に寄って、じっくり旨味と滋味を味わってくると自慢げに話していた。こればかりは、羨ましい限りだ。  (了)  
参考:ウィキペディア           

2012年07月17日

◆怒りっぽくなるのは認知症の症状

毛馬 一三


最近、仕事の予定が重なるとイラついたり、些細なことでも怒りっぽくなる。「老人性うつ病」ではないかと思って、余計に苛立ちを感じていた。

そんな折、大阪厚生年金病院の向市眞知氏(医療ソーシャルワーカー)が、下記の11症状が半年以上続いた場合、「認知症の症状」と思って専門病院へ行くべきと助言してくれていた「メモ書き」があったことをふと思い出し、取り出して読んでみた。

住友病院神経内科の宇高不可思医師による「こんな症状があったら要注意!」の11項目が、それを指摘しているという。

それによると、

1、同じことを何度も言ったり聞いたりする
2、ものの名前が出てこない
3、置き忘れやしまい忘れが目立つ
4、時間、日付、場所の感覚が不確かになった
5、病院からもらった薬の管理ができなくなった
6、以前はあった関心や興味が失われた
7、水道の蛇口やガス栓の閉め忘れが目立つ
8、財布を盗まれたといって騒ぐ
9、複雑なテレビドラマの内容が理解できない
10、計算のまちがいが多くなった
11、ささいなことで怒りっぽくなった

たしかに私自身、どうも2、3、4、11は該当する。歴史上人物や知人の名前すら出てこないことが多い。大切な「資料」を特別な場所に保管すると、その保管場所を忘れ、大騒ぎとなる。曜日の感覚も薄れてきた。だから該当する2,3,4の症状が「認知症」だと理解はできる。

ところが、まさか「ささいなことで怒りっぽくなった」の11項目が、「認知症」症状にあてはまるとは思いもよらなかった。ショックだった。

向市氏によると、
<やる気がおこらない意欲の低下もそうだし、ものごとを考える思考力や判断する力、そして手順よくし処理していた実行力の低下も、認知症の症状に該当する。

認知症高齢者自身の不安は、時間や場所がわからなくなったり、体験そのものを忘れていく中で暮らしているので、自分以外の外界のすべてが不安要因になってしまう。

また「まだらボケ」とか言うが、「正気の時もあるからやっかいだ」と表現される場合もある。しかしそれは逆で、やっかいと考えるのではなく、正気の部分があるのならその正気の部分を生かして日常生活を維持するように仕向けるべきだ>、という。
 
その上で、向市氏は
<「認知症と言ってもしかたない」と決めつけるのは悪循環。「認知症」の方の感じる外界への不安を考えると、情報が遮断されると余計に不安が大きくなる。

不安やストレスが増幅すれば、いら立ちが高まり、怒りぽっくなる。それを軽減するには、どしどし脳裏に諸情報を与えることが、効果があるそうだ。そのためには外出が最適>だという。

つまり「認知症」には、「散歩が大きな効果」があると向市氏は助言してくれていたのだ。外に出歩くことは、聴覚、視覚、嗅覚の刺激につながり、真新しい空気を吸うことによって、脳の活性化につながるからだそうだ。

そういえば、いらついて寝つきが悪かったり、些細なことに朝から腹を立つときなど、愛犬(ノーホークテリア8歳)と朝の散歩に小1時間ほど出かけて、四季の移り変わりに見とれたり、思い切り新鮮な朝の空気を50回ほど深呼吸すると、たしかにストレスや怒りぽさは軽くなり、むしろやる気を感じる意欲が込み上げてくる。

散歩の途中、愛犬仲間と朝の挨拶を交わすことも、同様な効果がある。仲間との会話は、脳の活性化に効果がある。

怒りっぽくなっるのが「認知症」の症状だとは、思いもよらなかった。これからは毎朝夕のワンちゃん散歩の時、思い切り深呼吸をしながら、聴覚、視覚、嗅覚、脳へ刺激を与えことに心がけ、愛犬散歩を楽しもう。(了)

2012年07月12日

◆地下に未だ眠る「太閤大阪城」

毛馬 一三


国の特別史跡に指定され、いつも眺めている大阪城が、実は「太閤秀吉が築城した大阪城」ではなく、総てが「徳川大阪城」であることを知る人は、意外に少ない。

では秀吉が、織田信長から引継ぎ、思いのままに築城した元々の「大阪城」は一体どこに姿を消したのか。それは追々―。

いつ眺めても、大手前、森の宮、新鴨野橋へと城郭を一周する道筋からは、「大阪城の高い石垣と深い堀」が、梅雨時の雨滴の葉が陽光を跳ね返す樹林の間から、歴史の威容を誇らしげに見せ付けている。

特に大手前周辺の高さ32mもある幾重もの「反りの石垣」には、太閤城より進んだ当時の石垣構築技術の進歩の有り様を如実に伺わせる。つまり、城壁の「反り」は、この構築技術の進歩の証だ。

大阪夏の陣で豊臣家を滅亡させた徳川家康は、同戦いの2年後(1616)死ぬが、家康遺命を受けた二大将軍秀忠が、元和6年(1620)から寛永6年(1629)までの10年にわたり、徳川大阪城の大改築に臨んだ。

その時徳川の威令を天下に示すため、「太閤城の象徴だった二の丸、三の丸」を総べて壊したうえ、総ての「堀」も埋め、「石垣」は地下に埋め尽した。即ち、豊臣家の痕跡をことごとく消し去ったのだ。

だとすれば、総て「徳川の手になる城郭」にしたのであれば、「太閤城」は、雲散霧消にされたのか、それとも未だ地下に眠ったままなのか。

「大阪城石垣群シンポジウム実行委員会」の論文をみると、そこに「太閤大阪城」が地下に埋められたままになっていた遺跡の一部を発掘した調査記録が下記のように書かれていた。

<地下に埋蔵された「太閤大阪城」の石垣を最初に見つけたのは、大阪城総合学術調査の一環として大阪城本丸広場で行われたボーリング調査だった。昭和34年のことである。天守閣跡の南西にあたる地下8m から「石垣」が見つかったのだ。

4m以上も積まれた石垣で、花崗岩だけでなく、様々な石を積み上げた「野面積み」だった。「野面積み」は、石の大小に規格がなく、積み方にも一定の法則が認められないもの。当時城郭作りの先駆者だった織田信長が手掛けた安土城の「野面積み」工法と同じだったことから、秀吉がその工法を導入して築いた「大阪城石垣」と断定された。

それから25年後の昭和61年になって、再び天守閣跡の南東部の地表1mの深さから地下7mまで、高さ6mの「石垣」が発見されている。

この石垣も「野面積み」だったうえ、その周辺で17世紀初頭の中国製の陶磁器が火災に遭って粉々の状態で見つかったことから、大阪夏の陣で被災した「太閤城」の「石垣」であると断定される2回目の発見となったのである。

両「石垣」の発見場所の位置と構造を頼りに、残された絵図と照合していくと、この「石垣」は本丸の中で最も重要な天守や、秀吉の家族が居住していた奥御殿のある「詰め丸」と呼ばれる曲輪(くるわ)の南東角にあたることが、明らかになったのである。

地下に消えた「石垣」は、切り石が少なく、自然石や転用石を沢山積み上げたもので、傾斜が比較的ゆるい、「徳川城」とは異なる「反り」の無い直線だった>。

第3の発見は偶然が幸いした。現在の「大阪城・西外堀」の外側の大阪城北西で、平成4年に大阪府立女性総合センター建設の際の発掘調査で、地下から長さ25m に亘る「太閤大阪城の石垣」が出現したのだ。同石垣は、いま同センターの北の道沿いに移築復元されている。

大阪城の南側にある追手門学院の校庭に、同石垣があることを知った。非公開なので一般の歴史愛好者は許可が必要だが、壊された石垣の一部が残されており、それを触りながら眺めると、太閤秀吉の築城への思いが胸に迫るような気がしてくる。

何よりもこうした発掘や発見の価値が大きかったのは、今の大阪城郭から離れた堀野の外側から「石垣」が現れたことだ。

それだけでも、今の「徳川城」よりも「太閤城」の方が遥かに規模の大きかったことの証であり、今後の調査で城郭外から新たな「太閤大阪城」が出現する可能性は、まだ残されている。

地下に眠る遺跡の発掘調査は、エジプトやイタリアなど文明発祥地でブームになっているが、現在進められている大阪市の大阪城発掘調査で、「天下の台所」の基礎を築いた「太閤大阪城」の遺跡が、今の城郭外から更に発見されることに期待したい。

                                             (完)
                         

2012年07月04日

◆国産ビールの発祥地は大阪

毛馬 一三


いよいよ夏本番、どこでも夕食の食卓では、缶ビールをコップに移して一気に飲んで、喉を潤すのが習慣になってきている。

今やアルコールを飲めない人でも、アルコールの入っていない缶ビールを買い求めてビールの味を愉しむ時代にもなっている。ビールはもはや全盛時代だ。

以前、北海道のサッポロビール工場で、出来立てのビールをジョッキ杯で飲んだ経験がある。下戸の私は、ジョッキ杯飲みに躊躇いがあったが、喉越しに胃袋に入っていったその時の美味さは、何とも清々しく旨いものだった。

最近では、ホテルや居酒屋などでビールジョッキで飲むことがあるが、出来立てのサッポロビールの味と同じような感じがしだして、時代と共にビールの質が向上していることが伺える。

そんな中、「国産ビールの発祥の地」が、大阪だというという「碑」を見つけた。全国いたるところにあるといわれているビールの発祥の地が、まさか大阪だとは驚いた。

その「碑」は、大阪市営地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅から 東に300mほどの大阪・北新地のANAクラウンプラザホテル北東側にあった。

その場所にはしばしば行く所だが、ホテル北東側の3本の道路で囲まれた三角形の場所で交通量の多いところなので、不覚にもその「碑」には目が届かなかった。よく見ると「碑」と「説明プレート」が建っている。

「碑」は、高さ1m50pで、隣接している「説明プレート」は1mの四角形。いずれにも大阪市教育委員会の説明が添えられている。

こう書いてある

<わが国におけるビールの醸造は幕末に横浜で外国人がおこなっていたが,日本人の手によるものとしては,澁谷庄三郎がこの地で醸造したのが最初といわれている。

当初は大阪通商会社で,明治四年(1871)に計画された。これは外国から醸造技師を招いた本格的なものだったが,実現には至らなかった。この計画を通商会社の役員のひとりであり,綿問屋や清酒の醸造を営んでいた天満の澁谷庄三郎が引継ぎ,明治五年三月から,このあたりに醸造所を設け,ビールの製造・販売を開始した。

銘柄は「澁谷ビール」といい,犬のマークの付いたラベルであった。年間約三二〜四五キロリットルを製造し,中之島近辺や川口の民留地の外国人らに販売した。―大阪市教育委員会>。

しかし気になることがあった。「日本ビールの発祥地は、横浜」と言われていたことを思い出して気になった。

そこで、調べてみると、

<明治3年(1870年)、米国人のウィリアム・コープランドによって横浜・山手にビール醸造所「スプリング・バレー・ブルワリー」が設立され、日本で初めてビールの醸造・販売が開始された。

外国人の手による日本初だが、実は麒麟麦酒(キリンビール)がこれの流れを汲んでおり、世間的にはこれが「横浜が日本のビール発祥の地」と定着してしまったようだ。>

更には

<小規模なものなら、江戸時代にも日本でビールが造られていたらしい。文化9年(1812年)に、長崎の出島でオランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフによる“自家醸造”で、これが「日本で初めて醸造されたビール」とされている。

となると、大阪の「発祥地」とはどういう意味なのかということになる。

そこで、時系列に追って整理すると、
・1812年(文化9年) 日本で初めてのビールが長崎でオランダ人によって醸  造される。
・1869年(明治2年) 横浜で、外国人による日本最初のビール醸造所が設立される。
・1872年(明治5年) 大阪堂島で、渋谷庄三郎によって、「渋谷ビール」という、日本人によって初めて産業的にビールが醸造・販売される。

そこではっきりした。「横浜」は外国人によって「日本で初めて産業的にビールがつくられた地」なのだ。「大阪」は日本人の手によって、初めて「国産ビールがつくられた地」だったということになる訳だ。

この「大阪の碑」の周辺は、今は不景気で活性化が無くなっている遊楽街「北新地」だが、「碑」に辺りに「国産ビール発祥地」を明らかにする施設や跡地は、どこにも見当たらない。

だが、現代のビール産業がこの場所から発祥したのだという事実は、この「碑」を目撃したことよって、先駆的だった大阪の時代があったこと改めて感じさせられた。これからも全国を引導していく大阪になって欲しいものだ。

2012年06月14日

◆「八軒家浜船着場」碑を知ってる?

毛馬 一三


大阪の毛馬の閘門から1級河川大川(旧淀川)を少し下り、大阪三大橋の「天神橋」を抜けると、「八軒家浜船着場」に辿り着く。

この「八軒家浜」は、古代から京都と結ぶ水上交通の拠点で、江戸時代ではこの浜の船着場周辺に、八軒の船宿があったことから「八軒家浜」と呼ばれたらしい。その「記念碑」が、阪神電鉄天神橋駅前の老舗・昆布屋の入り口に立っている。

この近くの坂を上ると、江戸時代の西洋医学者・緒方洪庵の塾屋敷跡がある。ここに集まる弟子たちも、この「八軒家浜船着場」を盛んに利用したと言われている。坂本竜馬も、ここの船着き場から「薩摩屋敷」に通った。

またこの「八軒家浜船着場」は、京都から屋形船でやって来た人々が、この船着場から下船して「熊野詣」に赴いた。ここは今、世界遺産となった「熊野街道」の起点となっている訳だが、意外にもそれを知る人は少ない。

さて、この「熊野街道」に触れておこう。

<この「八軒家浜」を起点に、四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)、堺、和歌山などを通り、紀州田辺を経て、中辺路または大辺路によって熊野三山へと向かう道筋。

この熊野街道を経て参台する「熊野詣」は、平安時代中期ごろ、熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集めるようになったのに伴い、法皇・上皇などの皇族、女院らや貴族の参詣が相次ぐようになったのが始まりだった。

室町時代以降は、武士や庶民の参詣が盛んになった。その様子は、蟻の行列に例えて、「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいだったそうだ。江戸時代になると伊勢詣とも重なり、庶民も数多く詣でたため、賑わいは浪速で最高だったといわれる。ただ明治以降は、鉄道や道路の整備により参拝者は少なくなる>。

このように霊場熊野三山まで橋渡しする歴史的街道の起点の「八軒家浜船着場」は、これを賑わいのある水都大阪再生の一拠点にしようと、民官協働で、京阪電車天満橋駅の北側の大川沿いに幅約10メートル、長さ約50メートルの3層からなる鋼鉄製の巨大な「船着場」を建設された。

新設された同船着場では、ゆったりとしたスペースがある水上バス(アクアライナー)や大型遊覧船が、ここから発進し水都大阪の川辺に広がる眺望とクルージングを楽しむことができる。

遊覧船内から身を乗り出して、目上に広がる大阪のまちの姿を眺めると、立体的な水都像の形で顕れ、両岸のまちなみが覆い被さるような3次元の都市を実感させてくれる。実にマジックな風景の出現であり、感動そのものだ。これは体験してみないと絶対に分からない。

大阪大手企業本社の東京一局集中や、大手企業工場の他府県や外国への移籍が目立つなど、大阪の経済基盤の沈下に歯止めが掛からない中で、こうした「八軒家浜」を観光名所として再起させることが出来れば、集客効果は抜群だろう。

しかも「緒方洪庵の塾屋敷跡」、皇族をはじめ秀吉も通った「八軒家浜」から「熊野詣」の新観光ルートを創りだし、歴史を甦らせながら旅行の楽しみを味合わせる事業が始めれば、観光客に歓迎されることは間違いない。「八軒家浜」祭りだけで終わって仕舞う行事だけではあまりにも単純な気がして、実に勿体ない。

「八軒家浜」からの「熊野街道」が世界遺産となった以上、これを結び付けた観光ルートとして活用しないのには、歯痒い感じがする。

大阪文化振興ために、「歩き」を折りこんだ「熊野街道」へのバス旅行、「八軒家浜」から鉄道をつないだ「熊野詣」、緒方洪庵塾など周辺のまちなみと結んだ「八軒家浜」の見どころ見学。いろんな案がすぐに浮かんでくる。

そう思うだけでも「八軒家浜船着場」碑は、老舗の前にポッンと立っているだけで、寂しく見えて仕方がない。(了)
参考―フリー百科事典『ウィキペディア

2012年06月09日

◆米原潜入港のスクープ

毛馬 一三


山崎豊子著の「運命の人」(文藝春秋)が発刊され、筆者が読み始めた時、「エッ!?」と思う記述が目に飛び込んできたことを思い出す。最近久しぶりに逢った佐世保出身の同級生と話している内、この話題に持ち上がった。

それとは、「運命の人」第1章の「外交官ナンバー」に書かれている「米原潜日本初入港スクープ」のくだりである。小説では主人公の毎朝新聞政治部の外務省担当・弓成亮太が、同省審議官から耳打ちされたことがキッカケで、政府公式発表前に米原潜佐世保「入港当日の朝刊」で「スクープ」したと書かれていたことだ。

残念ながら本当の「スクープ」とは違う。

「運命の人・スクープ」より先に「原潜佐世保入稿」の「特報」を出したのは、NHK佐世保局経由福岡放送局からだった。しかも「入港より丸1日早い、昭和39年11月11日早朝6時」だったのだ。

この「特報記事」を書いたのは、当時現地NHK佐世保放送局の新人記者の筆者だったのである。自慢ではなく真実を述べてみたい。

当時の思いと事実経過を「回想」しながら、今回友人と話合った真実の「スクープ」の中味を綴ってみることにした。経過は追々・・。

そもそも、「米原潜佐世保米軍海軍基地入港」が発表されたのは、昭和38年3月。以来、佐世保では地元社会党系労働組合が「原潜入港反対闘争本部」を立ち上げ、これに市民団体も呼応して、大規模な入港反対闘争がはじまり、佐世保市内は米海軍基地周辺を中心に騒然となり出した。

とりわけ被爆地長崎と隣り合わせの現場佐世保では、米原潜搭載「核」持込みの懸念が市民らを強く刺激し、急遽集結した各地の革新団体や全学連が、デモ行進や集会を繰り広げ、騒動は日増しに激化していった。安保闘争以来の出来事だった。

その反対闘争の取材担当が、当時NHK佐世保局に赴任して間もない筆者だった。「サツ回り」と兼務だったが、入港反対闘争本部だった当時の佐世保地区労(佐世保地区労働組合会議)本部に夜討ち朝駆けを行い、反対運動の動静を追い続けた。

当時、総評系の佐世保労働組合の中核組織「全駐労」の委員長だった石橋政嗣氏が、衆院議員に転身して社会党書記長に就任していたことなどから、この反対運動は当時野党第一党の社会党と緊密に連携しながら、全国規模の反対運動に発展させていた。

筆者は、帰郷する石橋書記長を掴まえ「反対運動」の中央政局との関わりをしつこく聞き取って回ったことから、気難しい石橋書記長から地元記者として唯一親しく目を掛けて貰う間柄となった。

同時に、現場の社会党系「佐世保地区労闘争本部」の速見魁議長、小島亨事務局長、西村暢文本部員らとも、極めて親密な関係を築くことが出来た。

この仕事は、歴史現場を直に目撃できるという、「記者冥利」に尽きる無上の喜びであった。しかも現場で親交を深めた取材対象の人脈とも、立場を超えた人間同士の触れ合いが出来ることも学んだ。そうした教訓は、駆け出し記者の記者魂を助長してくれた。

そんな折の昭和39年11月10日の夜10時過ぎ、佐世保放送局で当直勤務をしていた筆者に、佐世保地区労の小島事務局次長から電話が入った。

「あなたの家に電話をしたら、当直と聞いたので電話したよ。実はね、上の方からあなただけに伝えなさいと今、指示があったので連絡するんだが・・・」。小島事務局次長はそう言った上で、「米原潜シードラゴンが12日朝、佐世保に入港する」という極秘情報を内々伝えてきた。筆者は、足が諤々と振るえ、気は動転し、感謝の意を伝えるのがやっとだった。これは石橋書記長から筆者への連絡だとも確信した。

すぐに、福岡放送局の報道課長の自宅に架電してその情報を伝えると共に、これから出稿する旨を伝えた。報道課長は直ちに東京政治部の首相官邸キャップに連絡し、政府から確認を取って貰うことになった。「特ダネだから、米原潜12日入港の記事を急いで書き、すぐ送りなさい」という報道課長からの指示が出た。

11日の2時ごろ、原稿を送ろうとしているところに、報道課長から電話が入った。「官邸キャップが官房長官に確認したが、どうも煮え切らない返事だった。東京政治部では、その煮え切らない口ぶりが、どうも事実を暗示しているようなので、取り敢えず佐世保発のスクープとして流しなさいと言っている。政治部も追いかけるという。佐世保発の原稿を至急東京政治部も、欲しい」ということだった。

そこで、「米原潜あす佐世保入港・現地では大規模集会やデモ」という原稿にすることを考え、「闘争本部」に裏付け取材をして上、急ぎ福岡局報道課に電話送稿した。「闘争本部」は「他社は気付いていませんよね」と念を押し、「気づいていない」との確認を取った。

これが他社より1日早く佐世保局を経由して福岡中央局から「原潜あす佐世保入港」のスクープが発せられたいきさつである。

NHK東京発の関連ニュースが放送されたのは、「米原潜」が入港する12日午前6時のニュースからだった。従って小説の毎朝新聞のスクープには絶対に遅れを取っていない。

先述の佐世保地区労の幹部が「あなたのスクープで、闘争本部が一層盛り上がったことを、時折思い出していたよ」という嬉しい返事が最近あったことも思い出し、友人にも披露した。。

感涙の言葉だった。歴史の現場にいち早く立ち会える記者稼業とは、この上ない幸せ者である。(了)

◆6月9日(土)刊全国版メルマガ「頂門の一針」2632号

<目次>
・これから2週間がヤマ場:古澤 襄
・小沢さん「国民と民主主義」が泣いているぞ:杉浦正章
・「維新・28%」をどうみるか:岩見隆夫
・富士康の成都工場で大暴動:宮崎正弘
・山東京伝の手鎖五十日:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

◆購読(無料)申し込み御希望の方は
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http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm
 


2012年05月21日

◆金環日食を見た

毛馬 一三


愛犬の散歩に出かけよと家を今朝7時20分に出たところ、住宅内の空き地に大勢の住民が空を見上げて歓声を上げている。大阪市内の住宅街でのことだ。

「金環日食だな」、そう思って住民のたまり場に駆け寄って、空を見上げた。

ところが、肝腎の空は曇り空で、「金環日食」はその中に姿を隠していて全く見えない。暫くじっと見上げていると、7時25分に「金環日食」が雲の切れ間から僅かに姿を現した。東南東の方角80度の上空だった。丸い光の輪の中に黒輪がどっかり占めている。

「見えたぞ!」と心の中で叫んだ途端、15秒ほどしてすぐ雲の中に姿を潜めた。サングラスを付けないと見えないといわれていたが、雲の切れ間のお蔭はっきりと、裸眼で目撃することが出来た。ラッキーだった。

もう見えないだろうと思って諦めかけたところ、再び姿を現した。今度は落ち着いて眺めた。7時30分から30秒ほどの僅かな時間だったが、前よりははっきりと確認できた。

「よかった!よかった!」と思いながら、その場を離れ何時もの愛犬散歩道の川沿いを歩いていたら、7時35分、今度は雲が移動した隙間から、金環日食が全貌を見せた。

最初何秒かは何とか見ることができたが、あとはサングラスがないため、眩しさに視力を奪われ、金環日食を見ることは出来なかった。

金環日食を見ることが出来るとは想像もしていなかっただけに、この瞬間に出合わせられたのは幸運だったとしか言いようがない。(了)   2012.05.21

2012年05月18日

◆芭蕉随行の「曾良」は忍者?

毛馬 一三


〜拙稿「芭蕉終焉(しゅうえん)の地って?」の第2弾〜

もともとの拙稿とは、松尾芭蕉の「終焉の地」が大阪・南御堂向かいにあった花屋仁左衛門の離れ座敷であったことや、辞世の句といわれる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が、病の床で亡くなる4日前に詠んだものであることを筆者は不覚にも知らなかった。が、偶然にも知る機会を得たことから、以下思い立って綴った。

芭蕉自身、大阪で死ぬなどとは夢想だにしていない。早く床払いをして長崎に向けて旅を続けたいとの気持であったと、諸文献に記されている。

だが、思いもよらず病(食中毒らしい)は悪化、意に反して終焉を迎えるのだが、見守る弟子たちの顔を眺めながら「死」が迫るのを悟り、幸せな生涯だったと瞑目しつつ、逍遥と死の旅に着いたようだ。

この芭蕉に関して、全国版メルマガ「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏から、添文を頂いた。

<深川・芭蕉記念館 は拙宅の近くです。徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。江戸の発展とともに新たな市街地、農地が必要となり、土地の開発が始まった。大阪からきていた深川八郎右衛門が新田を開発、慶長元年(1573年)深川村と称したのが始まり。

江戸の下町と言えばなんと言っても深川。出発地は都営新宿線森下駅。駅を出て新大橋通りを浜町方面に5分ほど歩いていくと隅田川にかかる橋が見えてくる。これがこの通りの名前になっている新大橋。橋の手前の十字路を左に曲がりしばらく歩いていくと最初の目的地「芭蕉記念館」がある。

芭蕉は延宝8年(1680年)江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ。元禄2年(1689年)3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる奥の細道。岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅。

「芭蕉記念館」には 当時、芭蕉が着ていた袈裟を初め、芭蕉庵を模したほこら、句碑 などがある。記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり。川沿いの道を左に少し歩いていくと史跡庭園があり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。 先日来日した李トウキ前台湾総統もご覧になって行った>。

この添文を読ませて貰った時、芭蕉に纏わる新たな「示唆」が脳裏を駆け巡った。

それは、<徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。(そんな未開発の深川だったが、その深川から)元禄2年3月、「曾良」を伴い奥の細道の旅に出発した。(略)岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅>というくだりである。

江戸から東北、北陸地方を150日間で踏破した2400キロ(600里)の道程を踏破というが、とんでもない距離だ。単純に計算すると1日16キロも歩いたことになる。だが、当時の道筋はそんな生易しいものではない。

江戸時代の元禄期といっても、 江戸から東北、北陸地方には、のんびり歩き通せる平坦な道が整っていた筈はない。ほとんどが山道・峠道であり、山を越えるしかなかった。

余談だが、筆者も数年前江戸時代初期からある福井の「鯖街道」を歩いたことがある。山道の勾配は、天地の差ほどの高低を繰り返し上り下りし、息が途切れる程の険しい街道だった記憶が蘇る。江戸時代当時の道には、橋はほとんどなかったらしい。大雨で河が氾濫、足止めを食うことも日常茶飯事だったろう。

そう思うと、「奥の細道」の道すがらも、大変だったことは間違いない。

この芭蕉に関する拙稿に対して、日本一メルマガ「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏から玉稿を頂いた。

<深川・芭蕉記念館 は拙宅の近くです。徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。江戸の発展とともに新たな市街地、農地が必要となり、土地の開発が始まった。大阪からきていた深川八郎右衛門が新田を開発、慶長元年(1573年)深川村と称したのが始まり。

江戸の下町と言えばなんと言っても深川。出発地は都営新宿線森下駅。駅を出て新大橋通りを浜町方面に5分ほど歩いていくと隅田川にかかる橋が見えてくる。これがこの通りの名前になっている新大橋。橋の手前の十字路を左に曲がりしばらく歩いていくと最初の目的地「芭蕉記念館」がある。

芭蕉は延宝8年(1680年)江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ。元禄2年(1689年)3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる奥の細道。岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅。

「芭蕉記念館」には 当時、芭蕉が着ていた袈裟を初め、芭蕉庵を模したほこら、句碑 などがある。記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり。川沿いの道を左に少し歩いていくと史跡庭園があり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。 先日来日した李トウキ前台湾総統もご覧になって行った>。

この玉稿を読ませて貰った直後、芭蕉に纏わる新たな衝撃が脳裏を駆け巡った。

それは、<徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。(そんな未開発の深川だったが、その深川から)元禄2年3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。(略)岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅>というくだりである。

江戸から東北、北陸地方を150日間で踏破した2400キロ(600里)の道程を踏破したと言うが、とんでもない距離だ。単純に計算すると1日16キロ歩いたことになるが。だが当時の旅はそんな生易しいものではない。

江戸時代の元禄期といっても、 江戸から東北、北陸地方には、のんびり歩き通せる平坦な道が整っていた筈はない。ほとんどが山道・峠道であり、山を越えるしか方法はなかった。

筆者も数年前奈良時代からの福井の「鯖街道」を歩いたことがある。山道の勾配は天地の差ほどの高低を幾度となく繰り返して上り下りし、僻々とした記憶がある。昔は山道もない場所は絶壁に張り付くようにして横切るしかなく、ましてや橋はほとんどなかった。大雨で河が氾濫、足止めを食うことも日常茶飯事だったろう。

さて「奥の細道」によると、2人は何と1日に48キロ(12里)を 歩いた日があったという。幾ら昔の人が健脚だったとはいえ、老齢の域の芭蕉(46)と同行者曾良(41)が、そんな長距離を1日で踏破できたと考える方が無理な話だ。

だからここから「第2弾」を書きたくなった。

つまり芭蕉は、こうした異常な歩き方の速さや、伊賀の上野の生まれであることから「忍者」ではなかったかと論じられてきている。それはまた別の機会に譲るとして、ここで書きたいのは、むしろ芭蕉の弟子として名を売り、旅の同伴者であった「曾良」の方だ。

「曾良」のことは、純朴な芭蕉のお供だという印象が強く、「忍者説」はあまり共合わない。

ところが調べてみると、そうではない。
<曾良は、幕府とのつながりが緊密で、当時日光工事普請を巡ってあった伊達藩と日光奉行の対立を探るための調査を、幕府から曾良に命じられたとされている。その目的と行動を隠すため、芭蕉の歌枕の旅を巧みに利用したというのが、一部専門家の間で語られている。

その曾良は、さらに社寺や港の荷役の動きを調べる任務も担っていたらしく、北前舟が立ち寄る日本海沿岸の酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀の各港の貿易状況を丹念に探索して回っている痕跡がある。

その任務行動が、なんと芭蕉の旅の日程と、見事に重なりことから、この説には真実性が浮かび上がってくる。きっと幕府からの支度金が潤沢だったため、俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の興行収入だけでは食えなかった芭蕉の懐具合に、この「曾良」の任務による稼ぎが手助けをしたという説もあり、納得できる>。

こう見てくると、「曾良」という旅の同伴者は、巧に芭蕉を取り入って芭蕉の弟子を装い、幕府隠密の任務を隠密裡に遂行していた“忍者”だったという説は真実味を帯びてくる。果たして芭蕉の死後、「曾良」は芭蕉の追慕行脚や吟行などは一切行わず、すぐに幕府巡見使九州班員の役職に正式に収まっている。

芭蕉の終焉の時、曾良の姿はそこにいなかった。公務を理由に恩師の葬儀にも参列していない。やはり芭蕉に心酔して傍に連れ添った弟子ではなかったのではないか。               (了)                     参考・ウィキべディア  (再掲)
           

によると、2人は何と1日に48キロ(12里)を 歩いた日があったという。幾ら昔の人が健脚だったとはいえ、老齢の域の芭蕉(46)と同行者曾良(41)が、そんな長距離を1日で踏破できたと考える方が無理な話だ。

だからここから「第2弾」を書きたくなった。つまり芭蕉は、こうした異常な歩き方の速さや、伊賀の上野の生まれであることから「忍者」ではなかったかと論じられてきた。それはまた別の機会に譲るとして、ここで気になるのは、むしろ芭蕉の弟子として名を売り、旅の同伴者であった「曾良」の方だ。

「曾良」のことは、純朴な芭蕉のお供だという印象が強くて、「忍者説」はあまり知られていない。

ところが調べてみると、こんな具合だ。
<曾良は、幕府とのつながりが緊密で、当時日光工事普請を巡ってあった伊達藩と日光奉行の対立を探るための調査を、幕府から曾良に命じられたとされている。その目的と行動を隠すため、芭蕉の歌枕の旅を巧みに利用したというのが、一部専門家の間で語られている。

その曾良は、さらに社寺や港の荷役の動きを調べる任務も担っていたらしく、北前舟が立ち寄る日本海沿岸の酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀の各港の貿易状況を丹念に探索して回っている痕跡がある。

その任務行動が、なんと芭蕉の旅の日程と、見事に重なりことから、この説には真実性が浮かび上がってくる。きっと幕府からの支度金が潤沢だったため、俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の興行収入だけでは食えなかった芭蕉の懐具合に、この「曾良」の任務による稼ぎが手助けをしたものという説は、納得できる。>。

こう見てくると、「曾良」という旅の同伴者は、巧に芭蕉の弟子を装い、幕府隠密の任務を隠密裡に遂行していた“忍者”だったという説は真実味を帯びてくる。果たして芭蕉の死後、「曾良」は芭蕉の追慕行脚も行わず、すぐに幕府巡見使九州班員に直ぐに収まっている。

芭蕉の終焉の時、曾良の姿は芭蕉の枕元にはいなかった。公務を理由に師匠の葬儀にも参列していない。やはり芭蕉に心酔して傍に連れ添った弟子ではなく、芭蕉を利用して全国を探索して回る「隠密」とみるのが、どうも本当のようだ。  (了)               参考・ウィキべディア  (再掲)
           

2012年05月14日

◆五月に咲き誇る平戸ツツジ

毛馬 一三


朝夕愛犬を連れて散歩するコースが、大阪府寝屋市と大阪市を結ぶ旧淀川1級河川の城北川堤防の側道。車が通らないので安全な上、その側道に沿っていろんな樹木が植えてある区域が設けられているため、その都度、季節感を楽しめることが出来、気分が豊かになる。

植樹は、平戸ツツジ、サクラやヤマモモ、菊、クスノキ、ツバキなど50種は超すようだが、300メートルにわたって植えられている。中でも「平戸ツツジ」は今が満開で、緑の木の中から真っ赤な花が咲き誇り、目を奪う。今年は未だに寒気が続いているためか、満開期も長持ちしているようだ。

ところで、私はNHK初任地が佐世保放送局だったため、平戸ツツジの原産地の平戸には取材でも、旅行にもよく出かけた。

平戸は平戸島とその周辺を行政区域とする市で長崎県と九州本土の市としては最西端に位置する都市。旧平戸藩松浦氏の城下町で、当時はまだ孤島だったため、今のような大型橋梁はなく、遊覧船で渡った。海上から平戸の高台に平戸城が見えて歴史の想いを募らせる一方、陸に上がった途端この季節には、あちこちで平戸ツツジに囲まれた。

平戸商工会議所による平戸ツツジの説明によると

<平戸ツツジは、平戸原産の常緑のツツジで、平戸・松浦藩の武家屋敷にて種々な原種の交雑により、400年以上の悠久の時を経て育まれた門外不出の花でした。その大輪の花びらは世界一のツツジとも云われ、短い間ではありますが満開の時期にはびっしりと美しく咲き誇り、見る人の目を大いに楽しませてくれます。

その儚い生命の美しさを映そうと、摘み取った花びらを使って一枚一枚染め上げたのが「平戸つつじ染め」です。

自然の花びら染めは1本1本の木から得られる色が全て異なるので、ひとつとして同じ色はありません。また、上に咲く花と下に咲く花でも、染まる色は違ってきます。かけがえのない、その花の個性ひとつひとつを大切に、絹や綿、和紙に映しました>だという。

さて、平戸が全国に名を馳せているのは、この「平戸ツツジ」と併せて「平戸の歴史」ということになる。
序でながら、平戸の歴史に触れておく。

<慶長5年(1600年)、日本の豊後国に漂着したオランダ船リーフデ号の乗組員の一員であったイギリス人ウィリアム・アダムスは、徳川家康の信頼を受けて江戸幕府の外交顧問となり、「三浦按針」の名を与えられるなど重用された。

慶長16年(1611年)、イギリス東インド会社はアダムスがイギリス本国に送った書簡によって事情を知り、国王ジェームズ1世の許可を得て彼を仲介人として「日本との通商関係」を結ぶ計画を立て、艦隊司令官ジョン・セーリスを日本に派遣することとなった。

慶長18年5月4日(1613年6月11日/同6月21日)に、平戸に到着したセーリスは、アダムスの紹介を得て駿府城で徳川家康に拝謁して国王ジェームス1世の国書を捧呈し、更に江戸城にて将軍徳川秀忠にも謁見。そしてアダムスの工作が功を奏して、この年の9月1日(10月4日/10月14日)には、家康によって「イギリスとの通商許可」が出された。

そこでセーリスは平戸で在留中国商人李旦から借り上げていた邸宅をイギリス商館とし、リチャード・コックスを商館長に任じて6人の部下を付け、更にアダムスを商館員として採用して顧問とした。

商館は後に正式に買い上げられ、イギリス人商館員や日本人使用人も増員された。商館員や使用人は平戸や江戸・京都・大坂・長崎などに派遣されて貿易の仲介を行ったり、平戸を拠点に商船を東南アジア各地に派遣して貿易業務を行った>。
こうして平戸は、我が国での最初の外国貿易の拠点となったのだ

ところで、平戸を有名にさせているのは、キリスト教との関わりである。

<平戸は、日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが三度にわたって布教に訪れた地であり、平戸島や生月島では多くの住民がカトリックの洗礼を受け、その後の江戸時代の禁教令下でも隠れキリシタンとして信仰を受け継いでいった人が多かった。

明治時代に禁教が解かれて、平戸でも宝亀、紐差などの教会が建てられた。聖フランシスコ・ザビエル記念教会のある平戸港周辺の市街地には、もともとカトリックの信徒は少なかったが、近隣各地からの移転により信徒が増えていった。

そして1931年(昭和6年)4月に現在の教会堂が建てられた。献堂40周年の1971年(昭和46年)9月には、聖フランシスコ・ザビエルの像が聖堂のそばに建立され、これに伴い「聖フランシスコ・ザビエル記念教会(あるいは聖堂)」とも呼ばれるようになった>。

余談だが、平戸経由で五島列島の島を取材した時、ある家で「オランダ製の火縄銃」と「隠れキリシタンの像」を見せて貰った。どちらも初めて見るもので興奮した記憶がある。特に「隠れキリシタンの像」は、正面は仏像だが、裏には「キリスト像」が設えてあった。

きっと、キリシタン禁教令下で仏教徒を装いながらも、実際は密かにキリシタン信仰を貫いていた江戸時代の隠れキリシタン徒の様子が浮かび上がってくるような気がして、感動した。

話は、平戸の歴史になってしまったが、毎朝夕の愛犬の散歩の時、平戸ツツジに惹かれる中で、やはり平戸の歴史が一度に蘇ってくる。平戸ツツジの美しさは、本当に歴史まで呼び起こし、心まで豊かにしてくれるものだ。(了)
参考:ウィキペディア、平戸市ホームページ          2012.05.20


2012年04月19日

◆早く作りたい紫蘇濃縮ジュース

毛馬 一三

           
ジュースとは、本来「果汁」を指すものだ。だが今ではコーラなどの炭酸飲料なども含めた甘いソフトドリンクまでも「ジュース」と称している。デパートやスーパーでは、山ほど陳列されたこの種のジュースが目に付くが、果たして健康に如何と思うと躊躇してしまう。

そんな折、体にいいから是非自家製でやりなさいと知人に勧められたことから、数年前「紫蘇(しそ)濃縮ジュース」を我が家で作ってみた。なんとまあ、風味・舌触りなど美味さは抜群、以来すっかり嵌ってしまい、原料の「赤紫蘇」が出回る6月が毎年待ち遠しい。

ところで、その紫蘇の話。

<紫蘇(しそ、学名Perilla frutescens)は、シソ科のシソ属の植物。中国原産。

紫蘇には、こんな由来がある。中国の後漢末、洛陽の若者が蟹を食べすぎて食中毒を起こし死にかけたが、名医・華陀が薬草を煎じ、「紫の薬」を作り、同薬を用いたところ、若者はたちまち健康を取り戻した。「紫」の「蘇る」薬だというので、この薬草を「紫蘇」というようになった>という。

品種は以下の2種類がある。「青紫蘇」と「赤紫蘇」である。

<i)「青紫蘇」は、葉や花を香味野菜として刺身のつまや天ぷらなどにする。青紫蘇の葉は野菜としては「大葉(おおば)」とも呼ばれる。
i)「赤紫蘇」は、梅干しなどの色づけに使用。また葉を乾燥させたものは香辛料として(特に京都で)味唐辛子に配合され、ふりかけなどにも用いられる>。
出典: ウィキペディア(Wikipedia)

そこで自家製で「紫蘇(しそ)濃縮ジュース」を作る場合は、「赤紫蘇」を使う。作り方は幾通りもあるが、知人から教えてもらった作り方が最高の紫蘇ジュースだと信じて、その方法を毎年励行している。

<作り方>
(1)紫蘇(350g)を水できれいに洗い、水気をよく切って鍋に入れる。
(2)鍋に水(450cc)を入れ、その中に砂糖(600g)とクエン酸(20g)を加える。
(3)紫蘇を満遍なく混ぜて、鍋をガスの中火で煮出す。
(4)10分ほど沸騰させ、紫蘇の中から泡が出したら火を止める。
(5)鍋で煮だった紫蘇を別のボールに、ザルで濾す。
(6)絞り紫蘇液が自然に冷めたら、その中に「ゆず酢」を大匙2杯弱入れる。これがこの濃縮ジュースの「隠し味」。

(7)真っ赤な紫蘇濃縮ジュースが出来上がったら、氷を入れたコップに濃縮ジュースを好みに応じて注ぎ、水や炭酸水などで4倍に薄めて飲む。

これだけの作り方で、900ccの「紫蘇濃縮ジュース」が出来上がる。冷蔵庫で保存すれば、なんと半年も賞味期限がある。

この「紫蘇ジュース」は、紫蘇の栄養であるビタミン類、ミネラル類が含まれているので薬用効果があるということで、アレルギー体質、生活習慣病、食中毒予防等に効果があるという。

私の風味・美味しさ・味覚に合う「紫蘇濃縮ジュース」の勝手な作り方を紹介したが、このジュースが他の作り方と違う点は、隠し味の「ゆず酢」。6月が来たら、「赤紫蘇」を求めて自家製ジュースに挑戦しては如何。              (了)   

2012年03月19日

◆「納豆」を食べよう!

毛馬 一三


私の苦手な「納豆」が、骨粗鬆症の予防に効果があるという記事を読んだ。だったら、これからもっと「納豆」を食べることに挑戦しなくてはなるまい。それはこのあと云々。

私は九州の筑後地方で幼少期を過ごした田舎育ち。日露戦争で活躍した日本旧陸軍「久留米師団」の軍事施設がわが家の近くにあったが、周辺全体が農村地帯だったので大東亜戦争が終ったあとも、米や野菜など食糧難に接した記憶はない。

だが、有明海や博多湾からはかけ離れていた所だったので、「海の生魚」には縁がなく、塩漬けのサバなどをリヤカーに積んで売り歩く行商から「塩漬け海魚」を買い求め、焼き魚にして食べさせられたことは、今でも思い出す。

ところが珍事がある。どうしたことかわが町には「納豆」の売る店も、行商も一切なかった。だから「納豆」を食することはなく、名前すら知らなかった。勿論、我が家が「納豆」を何かの因縁で食膳から避けたという話も聞いたこともない。

「納豆」に初めて出会ったのは、18歳の時東京に進学して、下宿先の食卓だった。「納豆」にネギ、わさび、醤油をいれてかき回しご飯の混ぜて食べるものだったが、異常なねばりによる味と、腐ったような異臭に思わず顔を背けた。以来食しなかった。

しかし、横浜生まれで「納豆」常食していた家内と結婚してから、健康のために食べようと説得されたことで、「納豆」に卵の黄身、ネギ、醤油、からしを混ぜて食べるようチャレンジした。

ところが、そのあと「納豆」にセットされて売り出された「味付き特別たれ」が意外に美味しかったことから、その「たれ」をかけた「納豆」だけを「おかず」として食べるようになった。

そんな折、骨粗鬆症などの予防に「納豆」などに効果があるという北国新聞の記事を読んだ。
同紙によると、

<納豆などに多く含まれる成分「ポリアミン」に骨量の減少を抑える効果があることを、金大医薬保健研究域薬学系の米田幸雄教授らの研究グループがマウスなどによる実験で突き止めたという。

ポリアミンは老化抑制効果が注目されているが、骨への効果が判明したのは初めて。骨粗鬆症などに対する副作用が少ない予防、治療法の開発につながるとみられる。

米田教授や檜井栄一准教授らのグループは、骨粗鬆症モデルのマウスと、関 節リウマチモデルのラットにそれぞれ28日間、ポリアミンを混ぜた水を投与した。

骨粗鬆症モデルでは何も与えない場合、骨量が3〜4割減少したが、ポリアミンを投与したマウスはほとんど減少しなかった。関節リウマチモデルでは、何も与えない場合と比べ、骨や軟骨が破壊される量が3分の1程度に抑えられた。

さらに培養細胞実験で、破骨細胞にポリアミンを加えると、細胞の働きが抑制されるこ とも確認した。
米田教授は「ポリアミンは納豆など日本人になじみの深い食品で摂取でき、副作用も少ないとみられる。特定保健用食品や医薬品などの開発につながる」と話した>としている。

たしかに高齢の時期になってくると骨粗鬆症が原因で股関節を骨折し、寝たきりになったという話よく耳にする。

序ながら「骨粗鬆症」に触れておくと
<骨粗鬆症(osteoporosis)とは、骨形成速度よりも骨吸収速度が高いことにより、骨に小さな穴が多発する症状をいう。背中が曲がることに現れる骨の変形、骨性の痛み、さらに骨折の原因となる。

骨折は一般に強い外力が加わった場合に起こるが、骨粗鬆症においては、日常生活程度の負荷によって骨折を引き起こす。骨折による痛みや障害はもちろん、大腿骨や股関節の骨折はいわゆる高齢者の寝たきりにつながり、生活の質(QOL) を著しく低くする。> 出典:ウィキペディア

上記の金大医薬保健研究域薬学系の米田幸雄教授らの研究グループは、納豆などに多く含まれる成分「ポリアミン」に骨量の減少を抑える効果があることを英国薬理学雑誌(電子版)に発表し、特許を出願したという。

「納豆」好きな人には恥ずかしいことだが、これからは食べることに抵抗を感じなくなってきた「納豆」を、毎日何度か食べるような常食にしようかなという思いが湧いてきた。

なお、心臓病や脳梗塞の治療を受けて、「抗血液凝固剤「ワーファリン」を飲んでいる人は、「納豆」は禁忌とされているそうです、どうか「ワーファリン」を飲んでいる人は、絶対に「納豆」は食べないでください。        (了)2010.03.17

◆本稿は、3月19日(月)刊・全国版メルマガ「頂門の一針」2554号に掲載されました。
同誌には、主宰者の渡部亮次郎氏をはじめ沢山の寄稿者の「卓見」が多数掲載されています。
どうか、下記のホームページで手続きして、拝読をしてください。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm