2015年05月02日

◆今の大阪城は「太閤城」ではない

毛馬 一三



国の特別史跡に指定されている大阪城が、実は「太閤秀吉築城の大阪城」ではなく、総てが「徳川大阪城」だと知る人は、意外に少ない。

では秀吉が、織田信長から引継ぎ築城した元々の「大阪城」は、一体どこに姿を消したのか。それは追々―。

「聳える天守閣は、昭和初期に再構築され、城の堀は徳川方によって埋められたことは承知していたが、だからと言って秀吉大阪城の城跡が、些かも無いとは全く知らなかった」という人が多い。大阪城へ朝散歩する人々から異口同音に同様の返事が返ってくる。


天満橋から大手前、森の宮、新鴨野橋と城郭を一周する道筋を車で回ると、「大阪城の高い石垣と深い堀」が、雨滴の葉が陽光を跳ね返す樹林の間からと、大きく広がり、歴史の威容を誇らしげに見せ付ける。特に大手前周辺の高さ32mもある幾重もの「反りの石垣」には、当時の石垣構築技術の進歩の姿を覗かせる。

大阪夏の陣で豊臣家を滅亡させた徳川家康は、同戦いの2年後(1616)死ぬが、家康遺命を受けた秀忠が、元和6年(1620)から寛永6年(1629)までの10年3期にわたり、大阪城を大改築した。

その時徳川の威令を示すために、「太閤大阪城」の二の丸、三の丸を壊し、その上、総ての「堀」を埋め、「石垣」は地下に埋め尽して、「豊臣の痕跡」をことごとく消し去った。意図的な政治的行為である。

では「太閤大阪城」は、地下に眠ったままなのか。

「大阪城石垣群シンポジウム実行委員会」の論文をみると、そこに「太閤大阪城」が、地下に埋められたままになっていた遺跡の一部を発掘した調査記録が、下記のように書かれている。

<地下に埋蔵された「太閤大阪城」の石垣を最初に見つけたのは、大阪城総合学術調査の一環として大阪城本丸広場で行われたボーリング調査だった。昭和34年(1959)のことである。天守閣跡の南西にあたる地下8m から「石垣」が見つかったの
だ。

4m以上も積まれた石垣で、花崗岩だけでなく、様々な石を積み上げた「野面積み」だった。「野面積み」は、石の大小に規格がなく、積み方にも一定の法則が認められないもの。当時城郭作りの先駆者だった織田信長が手掛けた安土城の「野面積み」工法と同じだったことから、秀吉がその工法を導入して築いた「石垣」と断定された。

それから25年後の昭和61年(1986)になって、再び天守閣跡の南東部の地表1mの深さから地下7mまで、高さ6mの「石垣」が発見されている。

この石垣も「野面積み」だったうえ、その周辺で17世紀初頭の中国製の陶磁器が火災に遭って粉々の状態で見つかったことから、大阪夏の陣で被災した「太閤城」の「石垣」であると断定される2回目の発見となった。

両「石垣」の発見場所の位置と構造を頼りに、残された絵図と照合していくと、この「石垣」は本丸の中で最も重要な天守や、秀吉の家族が居住していた奥御殿のある「詰め丸」と呼ばれる曲輪(くるわ)の南東角にあたることが、明らかになったのである。

地下に消えた「石垣」は、切り石が少なく、自然石や転用石を沢山積み上げたもので、傾斜が比較的ゆるい、「徳川城」とは異なる「反り」の無い直線だった>。

第3の発見は偶然が幸いした。現在の「大阪城・西外堀」の外側の大阪城北西で、大阪府立女性総合センター建設の際の発掘調査で、地下から長さ25m に亘る「太閤大阪城の石垣」が出現したのだ。同石垣は、いま同センターの北の道沿いに移築復元されている。

「大阪城の石垣」の痕跡も、堀の外側にある学校法人追手門学院大手前センターの校庭で見つかり、保存されている。

何よりもこの発掘の価値が大きかったのは、今の大阪城郭から離れた外側の場所から「石垣」が現れたことだ。それは「徳川城」よりも、秀吉の「太閤城」の方が遥かに規模の大きかったことの証であり、今後の調査で城郭外から新たな「太閤大阪城」が出現する可能性を引き出したことだった。

地下に眠る遺跡の発掘調査は、エジプトやイタリアなど文明発祥地でブームになっているが、現在進められている大阪市の大阪城発掘調査で、「天下の台所」の基礎を築いた「太閤大阪城」の遺跡が、今の城郭外から見付かることを大いに期待したい。

余談ながら、私が主宰するNPO法人近畿フォーラム21活動の「蕪村顕彰俳句大学講座<学長 川原俊明学長(弁護士)>は、徳川秀忠が創り代えた、高く聳える「大阪城天守閣」と、傾斜作りの幾つもの「石垣」を見ながら、「蕪村顕彰俳句大學の句会講座」開講して5年半となる。眺めは四季に応じて彩りを代える樹木の美景に包まれて講座の雰囲気を盛り上げ、これほど愉しいことない。

しかし、その全景はあくまで「徳川城」の遺跡で、「太閤大阪城」でないと思うと、寂しさが、こころの中を翳める。(修正加筆・再掲)

2015年04月13日

◆「大阪都構想」はどうなる?

早川 昭三


統一地方選前半戦の大阪府・大阪市議選は12日に投開票した。大阪市を廃止して五つの特別区を新設する「大阪都構想」の賛否を問う住民投票を5月17日に控え、各党・各候補はその是非をめぐって激しい選挙戦を繰り広げた。

府市両議会で第1党の大阪維新の会は議席を増やして都構想実現に弾みをつけて、橋下代表の野望を実らせるか、それとも議会過半数を超える「反都構想結束の野党各党」が大阪維新を敗退させ 大阪維新の野望を棚上げさせるのか、その審判が迫られせる選挙戦であった。

開票の結果、大阪維新にとっては両議会で第1党の議席数は維持出来たものの、「反都構想結束の野党各党」との拮抗には勝てず、目標としていた過半数には届かなかった。

維新は、大阪市を廃止して五つの特別区を新設する「大阪都構想」実現を叶えるため、この大阪府・大阪市議選で野党結束を潰し、議会を制圧する過半数を超える議会体制を確立したかったのだが、できなかったのだ。

橋下氏が政治生命を賭けた「都構想」実現の夢は、停滞した。5月17日の住民投票を待たずして、いち早く「都構想」へ反対の住民意思のつよいことが、この結果で改めて事前に事実上示されたことになる。

一体、どうして大阪住民は、橋下氏の掲げる「都構想」の実現をさせようとしなかったのか。

はっきりしている事は、橋下氏の目指す「都構想」によって、住民が如何なるメリットがあるのか、一向に分からなかったことに他ならない。

橋下氏の街頭演説を聴いた知人は、下記のように感想を述べていた。

< そもそも、「都構想」が実現すれば,大阪府と大阪市の二重行政が解消されて,行政が効率化され,コストが縮減できるとしているが、そんなことはない。

「都構想」が出来ると、二重行政の解消というような「メリット」が生まれる可能性だけでなく、新たな「非効率」が産み出されるという驚くべき「デメリット」が生ずるリスクが強く懸念される。

そもそも、都構想が出来れば、大阪市という「1つの役所」が解体され,特別五区の「5つの役所」が出来あがり、それを通して行政コストがかえって高くなってしまう、ということが懸念されるのだ。

なぜなら5区役所に、各5区議会運営を始め、総務部等の重要部を作らざるを得ない結果、純粋に「5倍」ものコストがかかってしまうことになる。これは考えてみれば当たり前の事だ。>と述懐する。

加えて、<民間ビジネスの世界では「別々の会社を合併することで、効率化を図る」ということが行われているが、今回の大阪市の五分割案は、そうした効率化の取り組みの「真逆」の取り組となっている。今回の都構想は、正に「非効率化」「効率悪化」を引き起こす側面を、明確に持っている。>とも付け加える。

別の「反維新」の立場に立った別の友人は、こう述べた。

< そもそも、今は「大阪府・大阪市」の二重行政が問題だと言われているが、その都構想が実現してしまえば、驚くべき事に「大阪府・プチ大阪市役所(一部事務組合)・特別区」という三重構造が現れてしまう。

かつてならこういう、モメ事は起きるはずはなかった。なぜなら、大阪市内の行政には、たった一人の「大阪市長」というリーダーがいたから収められた。

ところが、「都構想」が実現し、大阪市が解体されて5つの特別区に分割されれば、そんなリーダーが不在となり、互いに利益の異なる5人の特別区長というバラバラのリーダーが存在することになる。

その区長は、それぞれの区民の選挙で選ばれた人達だから、選挙民の付託がある以上、選挙民の利益を最大化するために、他の区民の利益が損なわれようとも、自分の区民の利益を強く主張する局面は、必ず訪れる。つまり、異なる区同士の間に「利害対立」が生まれるだろう。

恐るべき混乱に陥るであろうことは必至だ。ところがそこに、5特別区の間の調整に大阪府が介入してくるとなると、話はさらにややこしくなっていく。

すなわち、ここに大阪府の存在も考慮に入れれば、あっというまに何ともややこしい「三重構造」が生まれることになる訳だ。>、以上。

結局、一体何のために分割するのかと云う事になる。これについて、下記のような意見も強く聴かされた。
<大阪市民はこれまで,一つの大阪市役所だけおカネを払えば,水道や下水やゴミ収集などの仕事を「一括」してやってもらえた訳だったが,これから5つの特別区と,一つのプチ大阪市役所(一部事務組合)に、おカネを払わないと行けなくなるのも決定的。

一部事務組合というプチ大阪市役所とは、この「独立後も、経費節減のために、共同利用するためにおいておく、昔の家の一部」というものなのだ。

つまり「都構想」は、行政の仕組みから考えれば、「5人家族で一つの家に暮らしていた」(現状の大阪市)のに、これからは「5つのアパート」(特別区)と「1つの共同利用のための家の一部」(一部事務組合)との、6つを利用して暮らすようにする、という話なわけだ。

もうこうなれば常識的に考えて市民へのサービスレベルが下がってしまうのは必至。

しかも、これから5人は対等の立場なので、その「元々住んでいた家」をどのように管理するのかで、モメることも、必至だ。モメるということは、行政コストが増えるということなのです。(そもそも、時間がかかってしまえば、それだけで、行政コストがかかってしまう。)

つまり、様々な行政サービスの手続きが「複雑化」してしまうことは必定だ。

こうして行政サービスが複雑化し、行政コストが上がると、結果的にサービス水準が低下することが懸念されるわけで、それと同時に、その行政コストをまかなうために、様々な料金が値上がりしていく可能性も、当然でて来る。

もちろん一寸先は闇、未来を断定的に論ずることはできないが、以上の意見の大要は、いろんな行政の手続きが「三重化」して複雑化すること、そしてその結果として、行政サービスが低下し、様々な公共料金が高まる深刻なリスクが生まれることは決定的である。

ましてや、特別区民のために使われるべき2200億円のおカネが、大阪府によって別の項目(大阪府の借金返済や、他の自治体のインフラ整備、まちづくり等)に「流用」されてしまう訳だから、行政サービス低下と、各種公共料金の値上げという「最悪の事態」が生ずる可能性は、ますます決定的なものだ。

「都構想」の是非を考える場合、こうした「デメリットのリスク」についても、しっかりと吟味し、考慮し、総合的に判断していくことが不可欠ではないかと深刻に考えた。だから、橋下代表の「都構想」の考えは、全く分からなかった。>以上

藤井聡 (京都大学院 教授)の見解も参考にしたが、維新に対する「都構想」実現の意味不明を述べる知人らの意見に、筆者も同感した。

となれば、地方選挙に敗れれば大阪市長を辞任すると、橋下氏は言及していたが、この結末は一体どうなるのだろうか。

「敗北」だとは思っていまい。議会大一党を維持できたにだから「勝利」したと思っているだろう。

しかし「都構想」の実現が野党各党の結束で阻まれるとなれば、「5月の世論調査」の行く末も懸念せざるを得まい。

橋下氏は、今後どのような「都構想」実現進路を選択するのだろうか。(了)


2015年04月05日

◆「黄砂アレルギー」に注意

毛馬  一三



花粉症歴の経験が全く無い筆者にとって、軽い風邪症状の一種かなと思って、余り気にも止めていなかった。

ところがとんでもない。次第に喉の違和感が痛みを伴うようになり、咳も痰も出るようになった。

そこで、慌てて近くの内科診療所に飛び込んだ。内科医は喉の症状を見た途端、「炎症がひどいですね」という。「原因は?」と訊いたら、「飛来してくる黄砂の黴によるものと思われます。花粉症ではありません」と教えてくれた。

同医師によると、黄砂によるいろんな健康被害で訪れる患者が、急増しているという。同医院から、

・抗生物質―フロモックス錠100mg(毎食後1錠・3日間分)
・咳を鎮める薬―メジコン錠15mg(毎食後2錠・7日分)
・痰や膿を薄めて、痰や鼻汁を出しやすくする薬―ムコダイン錠500mg(毎食後1錠・7 日分)
・胃薬―セルベックスカプセル50mg(毎食後1カプセル・7日分)薬を貰った。

だが、マスクを付けて外出を余儀なくされた1週間が過ぎても喉の炎症と咳、痰共に治まる気配が無い。再診の結果、まだ喉の炎症は完治してないと診断され、改めて下記の薬を貰った。

・咳を鎮める薬―メジコン錠15mg(毎食後2錠・7日分)
・痰や膿を薄めて、出しやすくする薬―クリアナール錠200mg(毎食後1錠・7日間分)
・炎症を抑えて腫れや痛みを和らげる薬―ダーゼン5mg錠(毎食後1錠・7日分)
・SPトローチ0.2mg(28錠・1日4回)
・アズノールうがい液4%(5ml・1日4回)

2度目の薬を飲んだり、うがいを励行したところ、数日でやっと喉の痛みや違和感がなくなり、咳と痰も出なくなった。

喉にこのような強度な症状が出たのは初めてのことだ。しかも気にはなっていた飛来の「黄砂」によるものだ。

今強烈になっている中国の大気汚染と原因が重なっているらしく、中国から飛来する「黄砂と大気汚染」が、日本に被害をなすりつけているのだ。気象庁も「中国で黄砂が急激に発生してる」と指摘している。日本が被害者になるのか。無性に腹が立つ。

話は後先になるが、<黄砂(こうさ)とは、中国を中心とした東アジア内陸部の砂漠または乾燥地域の砂塵が、強風を伴う砂嵐などによって上空に巻き上げられ、春を中心に東アジアなどの広範囲に飛来し、地上に降り注ぐ気象現象。あるいは、この現象を起こす砂自体のこと>である。

細かい砂の粒子や、粒子に付着した物質、黄砂とともに飛来する化学物質などにより、さまざまな健康被害が生じる。

即ち、咳、痰、喘息、鼻水、痒みといった呼吸器官への被害や、目や耳への被害が目立つ。黄砂が多い日には、花粉症、喘息、アトピーなどのアレルギー疾患の悪化が見られる。>という。 
参考―フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

花粉症で悩まされるだけでなく、黄砂アレルギーで健康被害を煩わされるのでは、堪ったものではない。

ところが肝腎の黄砂による呼吸器官への被害が、増えていることにはあまり知られていないようだ。

黄砂の飛来が顕著な九州や関西では、既にこの被害が出て問題化しているが、全国にも広がるだろう。

黄砂の飛来が予測される時は、TVの「天気予報」で早めに知らせてほしい。

しかも喉などに異常を感じたら、医療機関で診察を早めに受けられることをお勧めしたい。
                                         (了)
(全国版HP「頂門の一針」に、4月5日掲載 
      http://www.max.hi-o.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm)     


2015年04月03日

◆八女茶(やめちゃ)を嗜む

毛馬 一三



筆者の家では、食事の後や折を見て八女茶を毎日欠かさず10杯以上常飲している。祖母の実家が福岡県八女郡の八女茶(元は星野茶)の茶園だったのが縁で、子供の頃から八女茶の煎茶や玉露を嗜んできた。

その嗜みはいま尚継続しており、来月5月の一番茶の時期になると、八女茶生産元の祖母の実家から、注文した1年分の八女茶の煎茶と玉露が送られてくる。

70度位に冷ましたお湯をゆっくりと茶葉を入れた急須に移し、3〜4回ゆるりと左右に回したあと湯飲みに注いで飲み始めると、筆舌に尽くせないまろやかな風味と甘み、それに他所の茶より濃い味が口内に広がり、至福の瞬間がやってくる。

しかも茶に含まれるカテキンの成分が、ここ10年位の研究で、抗ガン作用と抗微生物作用に効果があることが明らかになってきたことから、意識して健康維持のためこの八女茶嗜みの習慣を続けている。

八女茶以外に全国には下記のような有名な茶の生産地がある。

<愛知県(三河茶)、茨城県、(奥久慈茶、猿島茶)、鹿児島県(かごしま茶)、京都府(宇治茶)、岐阜県(美濃茶)、熊本県(肥後茶)、高知県(土佐茶)、埼玉県(狭山茶)佐賀県(嬉野茶)、滋賀県(近江茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)、三重県(伊勢茶)、宮崎県(日向茶)、がある>(日本茶博物館www.kaburagien.co.jp/museum/museum/index.php - 14k -)

京都府(宇治茶)、佐賀県(嬉野茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)は過去に飲んだことがあるが、それなりに芳醇で美味な緑茶だったという印象と思い出がある。

ところで下記のような記事が出ていたことことを思い出す。これには目を惹かされた。

<緑茶を1日に7杯分ほど飲むことで、糖尿病になりかかっている人たちの血糖値が改善することが、静岡県立大などの研究でわかった。健康な人で緑茶をよく飲んでいると糖尿病になりにくいという報告はあるが、高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告は珍しいという。

血糖値が高めで、糖尿病と診断される手前の「境界型」などに該当する会社員ら60人を対象に緑茶に、含まれる渋み成分のカテキンの摂取量を一定にするため、いったん入れたお茶を乾燥させるなどして、実験用の粉末を作製。

これを毎日、湯に溶かして飲むグループと、飲まないグループに無作為に分け、2カ月後の「血糖値」を比べた。

平均的な血糖値の変化を、「Hb(ヘモグロビン)A1c」という指標でみると、緑茶粉末を飲んだ人たちは当初の6.2%が、2カ月後に5.9%に下がった。

飲まなかった人たちは変わらなかった。飲まなかった人たちに改めて飲んでもらうと、同じように2カ月間で6.1%から5.9%に下がった。

2グループで体格や摂取エネルギーなどに差はなく、緑茶からのカテキン摂取量が血糖値に影響したらしい。1日分の緑茶粉末は一般的な濃さの緑茶で湯飲み(約100ミリリットル)約5杯分のカテキンを含み、緑茶粉末を飲んだ人では普通に飲んだ緑茶と合わせ1日に約7杯分のカテキンをとっていた。

研究の中心で、今春に静岡県立大から移った吹野洋子常磐大教授(公衆栄養学)は「運動などの生活習慣改善とともに、食事の中で積極的に緑茶を取り入れてほしい」といっている>。(アサヒコム)


前記の様に、カテキンが抗ガン作用に効果が在ったり、良質な緑茶から抽出されたポリフェノールはビタミンEの10倍、ビタミンCの80倍というすぐれた抗酸化力を持っているといわれているが、緑茶僅か7杯の飲料で、高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告には驚かされた。

筆者の周りで糖尿病の一歩手前で悩んでいる先輩知人が最近多い。緑茶7杯で高血糖の人たちに効き目があるというなら、早速緑茶の常飲を勧めよう。お茶の嗜みは、心の安らぎも導いてくれるからだ。   (了)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年03月22日

◆地元大川河畔公園の花見の宴

毛馬 一三


大阪の桜の咲き始めは、3月25日頃になるとNHKの天気予報士が告げていた。満開と好天気が重なり合って、最高の花見日和になることを、今から望んでやま無い。

大体、開花が始まっても、折悪しく降雨に合うと、すぐに散ってしまう。しかし大阪の桜の名所・大阪港天保山や、筆者地元の「旧淀川の大川河畔」で満開ともなれば、晴天・無風・花冷えもない好天気になると、満開の桜の下で、所狭しと花見宴が開かれる。

昨年、仲間からのお声掛かりで、旧淀川の大川河畔側の公園で花見の宴を行った。十畳位のビニールシートの上にダンボール箱を設え、花びらの重みで垂れた満開の桜の下で、お弁当にビール缶を並べて、ご婦人も加わった11人の宴が始まった。

火気を使ったバーべキュー宴はご法度で、われわれの酒宴も、焼肉の楽しみは、出来なくなった。

しかし焼肉だけは満開桜の下で出来ると宴は盛り上がる。最近のおつまみは多種多彩、下戸の筆者も、酒量を楽しむ友人たちも、これらを口にほおばりながら思わず酒量は進む。

今や、デパートから買い求めてきたお弁当、おかず、味の予想を超えた出来映えの逸品を楽しむ。食事も最高だ。バーべキュー宴に拘らなくなった。

昼前から始まる花見の宴は、なんと夕方5時ごろまで続く。話題は尽きない。ことしは「大阪都構想の住民投票の賛否」が、、文字通り甲論乙駁で続くだろう。

そんな折、お酒紙コップ内のやジュースのコップのふちに、2〜3片の桜の花びらが舞い落ちて浮かんだのを眺められたことは、貴重な経験だ。これが花見の醍醐味というのだろう。

昨年の花見の時、仲間の一人が言った。「こんな花見は、恐らくもう二度と経験出来ませんよ。満開と絶好の花日和、そして心を通わせられる仲間同士の宴。ほとにラッキーですね」。

太閤の「醍醐の花見」の絵巻が脳裏を横切った。

太閤秀吉が秀頼、北政所、淀殿、それに大名など約千三百名を従えて催した「醍醐の花見」のことだ。太閤絶頂期の一大行事だが、「桜」を使って「権力の威力と和」を誇示したことには違いは無い。

「桜」とはそんな舞台設定にしばしば登場する。
 
花見の宴とは全く無縁な筆者だったが、自然とは人の心をなごませ、和を図る不思議な力を、時間と空間を超えてもなお生きているものだとつくづく考えさせられると。今年もやってみたい。

地元大川河畔には、江戸時代の大阪俳人与謝蕪村が、京都から「船」でやって来て、「梅」や「桜」を見ながら、吟行して回ったに違いない。

本当に大川河畔の「桜」には感謝しよう。

2015年03月10日

◆早く作りたい紫蘇濃縮ジュース

毛馬 一三



ジュースとは、本来「果汁」を指すものだ。だが今ではコーラなどの炭酸飲料なども含めた甘いソフトドリンクまでも「ジュース」と称している。デパートやスーパーでは、山ほど陳列されたこの種のジュースが目に付くが、果たして健康に如何と思うと躊躇してしまう。

そんな折、体にいいから是非自家製でやりなさいと知人に勧められたことから、数年前から「紫蘇(しそ)濃縮ジュース」を我が家で作り始めた。

なんとまあ、風味・舌触りなど美味さは抜群、以来すっかり嵌ってしまい、原料の「赤紫蘇」が出回る6月が毎年待ち遠しい。

ところで、その紫蘇の話。

<紫蘇(しそ、学名Perilla frutescens)は、シソ科のシソ属の植物。中国原産。

紫蘇には、こんな由来がある。中国の後漢末、洛陽の若者が蟹を食べすぎて食中毒を起こし死にかけたが、名医・華陀が薬草を煎じ、「紫の薬」を作り、同薬を用いたところ、若者はたちまち健康を取り戻した。「紫」の「蘇る」薬だというので、この薬草を「紫蘇」というようになった>という。

品種は以下の2種類がある。「青紫蘇」と「赤紫蘇」である。

<i)「青紫蘇」は、葉や花を香味野菜として刺身のつまや天ぷらなどにする。青紫蘇の葉は野菜としては「大葉(おおば)」とも呼ばれる。
i)「赤紫蘇」は、梅干しなどの色づけに使用。また葉を乾燥させたものは香辛料として(特に京都で)味唐辛子に配合され、ふりかけなどにも用いられる>。
出典: ウィキペディア(Wikipedia)

そこで自家製で「紫蘇(しそ)濃縮ジュース」を作る場合は、「赤紫蘇」を使う。作り方は幾通りもあるが、知人から教えてもらった作り方が最高の紫蘇ジュースだと信じて、その方法を毎年励行している。

<作り方>
(1)紫蘇(350g)を水できれいに洗い、水気をよく切って鍋に入れる。
(2)鍋に水(450cc)を入れ、その中に砂糖(600g)とクエン酸(20g)を加える。
(3)紫蘇を満遍なく混ぜて、鍋をガスの中火で煮出す。
(4)10分ほど沸騰させ、紫蘇の中から泡が出したら火を止める。
(5)鍋で煮だった紫蘇を別のボールに、ザルで濾す。
(6)絞り紫蘇液が自然に冷めたら、その中に「ゆず酢」を大匙2杯弱入れる。これがこの濃縮ジュースの「隠  し味」。

(7)真っ赤な紫蘇濃縮ジュースが出来上がったら、氷を入れたコップに濃縮ジュースを好みに応じて注ぎ、水  や炭酸水などで4倍に薄めて飲む。

これだけの作り方で、900ccの「紫蘇濃縮ジュース」が出来上がる。冷蔵庫で保存すれば、なんと半年も賞味期限がある。

この「紫蘇ジュース」は、紫蘇の栄養であるビタミン類、ミネラル類が含まれているので、薬用効果がある。アレルギー体質、生活習慣病、食中毒予防等に効果があるというのだ。

私の風味・美味しさ・味覚に合う「紫蘇濃縮ジュース」の勝手な作り方を紹介したが、このジュースが他の作り方と違う点は、隠し味の「ゆず酢」。
 
早い話だが、6月が来たら「赤紫蘇」を求めて、自家製ジュースに挑戦しよう。 (了)

2015年03月06日

◆「黄砂アレルギー」に注意

毛馬 一三


喉に違和感を覚えるようになったのが2月下旬の頃。花粉症歴の無い筆者にとっては、軽い風邪症状の一種かなと思って、余り気にも止めていなかった。

ところがとんでもない。次第に喉の違和感が痛みを伴うようになり、咳も痰も出るようになった。

しかし発熱は無いので、夜の仲間の会合に参加し3時間ほど懇談したところ、なんと就寝直前から声が嗄れ出し、喉の痛みも増してきた。

そこで、慌てて近くの内科診療所に飛び込んだ。内科医は喉の症状を見た途端、「炎症がひどいですね」という。「原因は?」と訊いたら、「飛来してくる黄砂の黴によるものと思われます。花粉症ではありません」と教えてくれた。

同医師によると、黄砂によるいろんな健康被害で訪れる患者が、急増しているという。同医院から、

・抗生物質―フロモックス錠100mg(毎食後1錠・3日間分)
・咳を鎮める薬―メジコン錠15mg(毎食後2錠・7日分)
・痰や膿を薄めて、痰や鼻汁を出しやすくする薬―ムコダイン錠500mg(毎食後1錠・7日分)
・胃薬―セルベックスカプセル50mg(毎食後1カプセル・7日分)の薬を貰った。

だが、マスクを付けて外出を余儀なくさせられた1週間が過ぎても喉の炎症と咳、痰共に治まる気配が無い。再診の結果、まだ喉の炎症は完治してないと診断され、改めて下記の薬を貰った。

・咳を鎮める薬―メジコン錠15mg(毎食後2錠・7日分)
・痰や膿を薄めて、出しやすくする薬―クリアナール錠200mg(毎食後1錠・7日間分)
・炎症を抑えて腫れや痛みを和らげる薬―ダーゼン5mg錠(毎食後1錠・7日分)
・SPトローチ0.2mg(28錠・1日4回)
・アズノールうがい液4%(5ml・1日4回)

2度目の薬を飲んだり、うがいを励行したところ、数日が経過してやっと喉の痛みや違和感がなくなり、咳と痰も出なくなった。

喉にこのような強度な症状が出たのは初めてのことだ。しかも気にはなっていた飛来の「黄砂」によると共に、かつ、今強烈になっている中国の大気汚染とも原因が重なっているらしく、中国から飛来する「黄砂と大気汚染」に無性に腹が立つ。

話は後先になるが、<黄砂(こうさ)とは、中国を中心とした東アジア内陸部の砂漠または乾燥地域の砂塵が、強風を伴う砂嵐などによって上空に巻き上げられ、春を中心に東アジアなどの広範囲に飛来し、地上に降り注ぐ気象現象。あるいは、この現象を起こす砂自体のこと>である。

細かい砂の粒子や、粒子に付着した物質、黄砂とともに飛来する化学物質などにより、さまざまな健康被害が生じる。

即ち、咳、痰、喘息、鼻水、痒みといった呼吸器官への被害や、目や耳への被害が目立つ。黄砂が多い日には、花粉症、喘息、アトピーなどのアレルギー疾患の悪化が見られる。>という。 
参考―フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

花粉症で悩まされるだけでなく、黄砂アレルギーで健康被害を煩わされるのでは、堪ったものではない。ところが肝腎の黄砂による呼吸器官への被害が、増えていることにはあまり知られていないようだ。

黄砂の飛来が顕著な九州や関西では、既にこの被害が出て問題化しているようだが、全国にも広がるだろう。
黄砂の飛来が予測される時は、TVの「天気予報」で早めに知らせてほしい。

しかも喉などに異常を感じたら、医療機関で診察を早めに受けられることをお勧めしたい。(了)     

2015年02月23日

◆紫式部と「和紙」と源氏物語

毛馬 一三


書き出しは、与謝蕪村のことからだ。蕪村(幼名:寅)は、生誕地大阪毛馬村で幼少の頃、「和紙に絵」を描いて楽しんでいたことを、最近知った。

寅は、庄屋の子供だったから、高価な「和紙」を父から貰って、絵描きに自在に使ったらしい。その幼少の頃の絵心と嗜みが、苦難を乗り越えて江戸に下り、巴人と遭遇してから本格的な俳人となったのも、この幼少の頃「和紙」に挑んだ絵心とが結び付いたらしい。

このことは、「蕪村生誕300年祭」時に発行する記念誌に、この幼少の頃の「蕪村と和紙の絵」のことを「短編小説」にして掲載したいと思っている。

さて、本題―。

高貴な「和紙」の事を知った時、ジャンルは違うが、紫式部が思い切り使って「和紙」を使って「世界最古の長編小説・源氏物語」を書いたことを思い出した。

そのキッカケは、福井県越前市の「和紙の里」を訪ねてからである。

越前市新在家町にある「越前和紙の里・紙の文化会館」と隣接する「卯立の工芸館」、「パピルス館」を回り、越前和紙の歴史を物語る種々の文献や和紙漉き道具の展示、越前和紙歴史を現す模型や実物パネルなどを見て廻った。

中でも「パピルス館」での紙漉きを行い、汗を掻きかき約20分掛けて自作の和紙を仕上げたのは、今でもその時の感動が飛び出してくる。

流し漉きといって、漉舟(水槽)に、水・紙料(原料)・ネリ(トロロアオイ)を入れてよくかき回したあと、漉簀ですくい上げ、両手で上下左右に巧みに動かしていくと、B5くらいの「和紙」が出来上がる。まさにマジックの世界だ。

ところでこの越前和紙だが、今から約1500年前、越前の岡太川の上流に美しい姫が現れ、村人に紙の漉き方を伝授したという謂れがある。

山間で田畑に乏しかった集落の村人にとり、紙漉きを伝授されたことで、村の営みは豊かになり、以後村人はこの姫を「川上御前」と崇め、岡太神社(大瀧神社)の祭神として祀っている。

<その後大化の改新で、徴税のため全国の戸籍簿が作られることとなり、戸籍や税を記入するために必要となったのが「和紙」である。そのために、越前では大量の紙が漉かれ出したという。

加えて仏教の伝来で写経用として和紙の需要は急増し、紙漉きは越前の地に根ざした産業として大きな発展を遂げてきている>。

さて長編小説「源氏物語」の作者紫式部は、執筆に取り掛かる6年前の24歳の時(996年)、「和紙」の里・越前武生に居住することになり、山ほどの「和紙」に囲まれて、存分に文筆活動に励んだ。

当時、都では「和紙」への大量の需要があったらしく、宮廷人も物書きも喉から手が出る程の「和紙」だったが、手には入らなかった。

ではどうして都にいた紫式部が、遥か離れた「和紙」の里越前の武生に移住してきたのか。それはご当地の国司となった父の藤原為時の“転勤”に関わりがある。文才だけでなく、商才に長けた為時の実像が浮かび上がる。

<為時は、中級の貴族で、国司の中で実際に任地へ赴く“転勤族”だったそうで、996年一旦淡路の国(下国)の国司に任命されるが、当時の権力者・藤原道長に賄賂の手を使って、転勤先を越前の国(上国)の国守に変更してもらっている。はっきり言えば為時は、淡路の国(下国)には赴任したくなかったのだ。何故なのか。

当時、中国や高麗からの貿易船が日本にやってくる場合、海が荒れた時や海流の関係で、同船団が「越前や若狭」の国を母港とすることが多く、このため海外の貴重な特産品が国司のもとに届けられ、実入りは最高のものだったという>。

藤原為時一族は、中級の貴族ながら文才をもって宮中に名をはせ、娘紫式部自身も為時の薫陶よろしく、幼少の頃から当時の女性より優れた才能で漢文を読みこなす程の才女だったといわれる。

これも商才に長けたばかりでなく、父親の愛情として、物書きの娘に書き損じに幾らでも対処できる「和紙」提供の環境を与えたものといわれる。

<この為時の思いは、式部が後に書き始める「源氏物語」の中に、武生での生き様が生かされている。恐らく有り余る「和紙」を使い、後の長編小説「源氏物語」の大筋の筋書きをここで書き綴っていたのではないだろうか。平安時代の歌集で、紫式部の和歌128 首を集めた「紫式部集」の中に、武生の地で詠んだ「雪の歌」が4 首ある。

越前武生の地での経験が、紫式部に将来の行き方に影響を与えたことはまちがいない。と同時に式部は、国司の父親のお陰で結婚資金をたっぷり貯め込むことも成し遂げて、約2年の滞在の後、京都に戻り、27歳になった998年に藤原宣孝と結婚している>。

越前武生の生活は、紫式部にとり「和紙」との出会いを果たして、後の世界最古の長編小説への道を拓くことに繋げた事は、紛れもない事実であろう。

<紫式部の書いた「源氏物語」の原本は現存していない。作者の手元にあった草稿本が、藤原道長の手によって勝手に持ち出され外部に流出するなど、「源氏物語」の本文は当初から非常に複雑な伝幡経路を辿っていたという。

確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は、現在のところ一つも見つかっておらず、この時期の写本を元に作成されたと見られる写本も、非常に数が限られているという>。
 
この歴史の事実と筆者の推論を抱きながら、「紫式部公園」に回り、千年前の姿をした高い式部像に対面してきた。

北京五輪の開会式の時、中国の古代4大発明の一つとして「紙」を絵画の絵巻をCGで描き、国威を高らかに示した。

この紙が7〜800年後に日本に渡り、「和紙」となった。その後、「世界最古の長編小説を書いた女性が日本にいた」ということは、中国は勿論、諸外国は知らない。

参考:ウィキペディア、: 青表紙証本「夕顔」 宮内庁書陵部蔵 
(加筆修正・再掲) 

2015年02月13日

◆大阪行脚の蕪村 生誕地には帰らず

毛馬 一三



江戸時代中期の大阪俳人で画家である与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれている。生誕地が大阪毛馬村と余り周知されていない事実のことは本誌で既に触れている。

しかし、蕪村が俳人として大阪の中心部を活躍の舞台にしていたことには触れていない。むしろそれに気づかなかったのが本当のところだ。それはこれから追々。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下った。なぜ江戸に下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な郷愁は感じながらも、実際は生誕地「毛馬村」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだ。母親は若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎを委ねられたものの、正当嫡子でないために庄屋経営責任をも果たせず、周囲や同業からの過酷ないじめに遭わされたこともあって、意を決し毛馬村を飛び出したようだ。

しかも蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だ。だが、どうしてこんな超有名な俳人に師事し俳諧を学ぶことができたのか、田舎の毛馬村と江戸との結びつきや、師匠との今謂うコネがどうして出来たのか、ミステリーだらけだ。

この時蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。


<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

蕪村は、定住していた京都から船で淀川を下り、頻繁に大阪にやって来ていたことが、最近分かってきた。

船から陸地に上がったのは、生誕地毛馬村とは全く正反対西側の「淀屋橋や源八橋」からで、ここから大阪市内にある数多くの門人らを訪ねて吟行に回っている。

蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ね、大阪の蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回っている。大阪市内の各地を重点的に回っていたことになる   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

早い話、蕪村にとり「大阪」が活躍の場だった訳だ。これもあまり知られていない。

これを証ように、今の大阪市北区梅田茶屋町の商店街の広場に「菜の花や月は東に日は西に」の蕪村句を刻んだ高さ1m、幅50cmの碑があり、顕彰されている。

ここでは地域の有志が「菜の花」を植え、「菜の花の散歩道」という「まち起こしイベント」を催している。つまりこの辺りは、蕪村が毛馬橋から上がって、散策したところだ。

しかし、正に近郊の蕪村生誕地の「毛馬町」に、前述の様に一歩も足を踏み入れていない。父母に対する「望郷」の念は強くあっても、幼少の苦節がそうさせたのだ。

さて、後世のために大阪俳人蕪村を顕彰し、蕪村俳句文化振興をしようという筆者主宰のNPO法人近畿フォーラム主催「講座蕪村顕彰俳句大學」(学長 川原俊明弁護士)開講は、立ち上げてから、もう5年が経っ。

応募の優秀句には「知事、市長、教育委員会委員長、学長賞」、海外から応募の優秀句には「国際交流基金理事長賞」等の各賞を授与する「表彰式」を毎年2回行い、蕪村生誕地近郊の大阪市造営の「蕪村公園」に、「表彰式」のあと「優秀句記念プレート碑」を設置している。

この4月からは、第11期講座が始まり、来年の蕪村生誕300年記念を控えて、9月には兜カ學の森と共同して「蕪村顕彰全国俳句大会表彰式」を行う。是非、文學の森刊「俳句界」を通じて、俳句作品のご応募を読者の方にお願いした。

そんな折、驚くべきことが分かった。

大阪俳人としての名を高めた与謝蕪村が、生誕地毛馬村で幼少の頃、父母と一緒に「氏子」として参詣を続けていた氏神神社が今、大阪市毛馬町にある「淀川神社」であることが分かったのである。

これにより、昨年の暮、当NPO法人近畿フォーラム21と、「淀川神社」が共同して蕪村俳句顕彰し、蕪村参詣経験の「淀川神社」の名を広める等の諸活動を行うことになった。

その手始めに今年のお正月から「淀川神社」で、俳句愛好者が自作の俳句を「蕪村絵巻」に書き込み、境内に吊るす祭事を始め、マスコミも取り上げてくれた。

これからは、この活動が「望郷の念」の強かった蕪村が、来年28年の「蕪村生誕300年記念年」を控えて、現代の人たちが蕪村の「望郷の念」を引き継ぎ補ってくれることを喜ぶことになると思い、地元と協力して積極的に進めていきたい(了)

2015年02月08日

◆「おきゅうと」って知ってる?

毛馬 一三



福岡の友人が初めて案内してくれた博多料理屋で、「おきゅうと」が出た。

エゴノリという海藻から作った食品で、生姜、ゴマ、かつおぶしなどを振りかけ、それにポン酢を注いで食する。涼感を誘うツルッとした味わいと、磯の香りの食感が口内いっぱい広がった。

久し振りの味は、淡泊ながら旨みと滋味に溢れた、福岡特産の食感を十分に嗜め、郷愁を身近に感じた。

ところが、この「おきゅうと」を知る人は意外に少ない。筆者自身も、福岡出身でありながら、福岡から僅か離れた筑後・久留米で育ったので、「おきゅうと」の名前は幼少の頃から耳にしたことはなく、食膳に上った記憶も無い。

筆者が、料理の一品として魅せられたのは、社会人になってからだ。以来、「おきゅうと」の愛好者になった。下戸なので、お酒のつまみではなく、専ら深みのある味を、ゆっくり箸を付けながら食する楽しみ方だ。

エゴノリが生育する日本海側の秋田、山形、新潟、長野の各県では「えご」、宮崎県では「キリンサイ」などと呼ばれて食用にされているらしいが、「おきゅうと」とは言わない。食べ方も福岡とは全く異なる。

さて、肝腎の「おきゅうと」の名前の由来だが、
1.「沖の独活(ウド)」説。エゴノリはウドの木の様に早く育つので、沖のウドが転訛した。
2.沖からやってきた漁師が作り方を伝授したから「沖人」(おきうど)説。
3.飢饉の際に簡単で大量に作られ多くの人を救ったから「救人」。
などの諸説あるらしい。

「おきゅうと」の食べ方だが、
・真空パックの中に5枚入っている添加物不使用
・厚さ約3mmの「おきうと」を、水洗いして、幅2〜3mmくらいに切る。
・それを器に盛りつけ、生姜、ゴマ、かつおぶしなどをふりかけ、醤油またはポン酢で食べる。また、酢味噌などでもおいしい。

いとも簡単に食することができる。しかもふりか材の工夫では、味付けが自分の好みに合わせられるだけに,楽しみも倍増だ。

大阪人でも初めて食べた時は、独特な味覚と触覚に戸惑うらしい。しかし2度目からは、仄かな磯の香り・海苔の風味、涼感を誘う喉ごし、溢れる旨みと滋味に魅せられて、愛好者は増えていると云う。

「おきゅうと」は「めんたいこ」と共に、数百年の昔から朝食の一品を占め続けて来た福岡・博多の食文化の代表であり、福岡・博多の人々はその重みを了知している。

残念なことに大阪では、「飲み屋」か「博多料理店」に行かないと「おきゅうと」にはお目にかかれない。近郊スーパーにはその姿が消えてから長い。情けない話だ。

郷里福岡に帰省した福岡高校同窓会の先輩が、地元でしか味合えない特製「おきゅうと」の店に立ち寄り、味わいを実感してきたと述懐していたのを聴いた。
こればかりは、羨ましい限りだ。(了)  
参考:ウィキペディア       

2015年02月03日

◆「源氏物語」は世界最古の政治小説

毛馬 一三



世界最古の長編小説「源氏物語」が一条天皇に献上されたのは、寛弘5年(1008年)11月17日。丁度1007年前のことである。

紫式部は、幸いなことに父の赴任先の越前国で当時、何よりも貴重だった「越前和紙」とめぐり合った。まさに父在任中の2年間にわたって、思いのままに、「物書き」に熱中出来たのだ。

ここから本題―。

この「源氏物語献上」に先立つこと3年前の寛弘2年(1005年)12月29日に紫式部は、宮中に呼び出されている。何とこの召し上げの仕掛け人が、藤原道長だったのだ。

どうして藤原道長が、紫式部を宮中に召しあげたのか。それは当時宮中で繰り広げられていた、壮絶な権力闘争と大きな関連とつながる。

その権力闘争とは、道長の兄道隆盛の息子「伊周(これちか)と道長とが、真っ向から繰り広げていた藤原同族同士の宮廷内対決だった。

内大臣伊周に対抗するには、叔父の道長はこれを超える役職への昇進しかなかった。道長は画策した。一条天皇の生母で、実姉の強力な支援を懇願して、「関白」に次ぐ地位の「内覧」職を獲得し、役職の上では、一応互角に並んだ。

だが、道長にとっては、まだ後塵を拝する部分があった。伊周は、妹の定子を一条天皇の中宮に送り込み、堅牢な地位を確保していたのだ。

道長にしては、この一郭を何としてでも突き崩す必要があった。このため何と一条天皇のもう一人の中宮に娘の彰子を送り込んだのである。

こののち中宮彰子は、1008年9月11日、「敦成(あつひら)親王」(後一条天皇)を出産。道長は、これによって、権力の頂点を完全に立った。

しかしそれに至る以前に、なぜ紫式部の召し上げにまで手を打っていた政治家道長の老獪な魂胆とは、一体何だったのか。恐らく文学好きといわれた一条天皇の気を惹くため、紫式部の「源氏物語」の献上を早々と仕組んでいたと思われる。言い換えれば、天皇の歓心を買うための一種の「政争の具」として周到に準備していたのだろう。

紫式部は、中宮彰子の教育係として勤める傍ら、3年近く宮中の様々の人間模様、権力構造、熾烈な利害闘争などをつぶさに見ながら、冷静な考察と巧みな筋立てを描きながら、得意満面に「源氏物語」を書き綴っていたに違いない。

色とりどりの54帖の冊子、400字詰原稿用紙にすれば、2300枚ともなるとてつもない長編小説。

越前和紙と墨を使ったきらびやかな「源氏物語」の献上が、一条天皇の心を捉えて仕舞ったであろうことは、想像に難くない。

次々と広がる物語の中で、天皇自身が、思い当たる舞台での隠れた暗闘と情念の世界の展開や登場人物への特定がすべて思い当たり共鳴感動したとしたら、天皇にとってこれに勝る悦楽は、他には無かったのではないだろうか。

そう見ていくと、源氏物語は、「悲恋」、「純愛」、「禁断の恋」の物語ではないように思える。

むしろ宮中文化の中で、現場で目撃し鋭敏に感じ取った「政治暗闘の記録」文学と見える。

ひょっとしたら世界で最古の「政治小説」と言ってもいいかもしれない。「政治小説の源氏物語」となれば、また、宮廷の評価も貴族たちの暗躍の見方も、「源氏物語」読者フアンの間で、大きく変わっていくのではないだろうか。(了)

2015年01月26日

◆淀川神社の「絵馬献句」記事

〜きょう 産經新聞が文化面に掲載〜

毛馬 一三



朝日新聞が昨年12月30日の紙面に、私が主宰のNPO法人近畿フォーラム21と「淀川神社」が共同で進めている活動について、「淀川神社:「蕪村故郷で一句いかが・生誕300年へ新年から献句」という記事が、「大阪版」に掲載されました。

この記事を読んだ読者や、地元の俳句愛好者の人たちが、元旦から「淀川神社」を参拝し出して「絵馬献句」奉納新活動が進み出して、話題が大きく広がりだしました。「淀川神社」を「蕪村神社」として広めましょう!というキャッチフレーズも同様に広がり出したのです。

新年1月も、1か月になろうとしているこれまでに、「淀川神社」には「絵馬に献句しよう」と、地元の人や、俳句講座を受講生、親に連れられて来た児童生徒らによって献句された「絵馬」は100枚余に達しています。

「淀川神社」を「蕪村神社」として広めましょう!との目標を掲げて、蕪村顕彰と蕪村俳句を後世と全国・世界へ広めながら、大阪遺産の未来へ伝承していく活動は、少しづつ進展して行くのに喜びを感じています。

そんな折、1月26日産經新聞の21面に、「蕪村の氏神に俳句奉納」。
〜淀川神社、生誕300年前に:(「俳句絵巻」写真掲載)〜
という記事が掲載されました。下記に掲載します。

<大阪で生まれた江戸時代の俳人、与謝蕪村(1716〜83年)の氏神を祭る淀川神社(大阪市都島区)が、元旦から俳句絵巻の奉納を始めた。

来年の生誕300年前を前に。地元では蕪村を顕彰する機運が高まっており、同神社は今後、蕪村にちなんだ句会も予定している。

 蕪村は摂津国東成郡毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬町)で誕生。その後、江戸や京都に移り住み、俳人、画家として活躍した。

生誕地である毛馬村の氏神祭っていた神社は現在はないが、ご神体は合祀などを経て淀川神社に移されたという。

 絵馬は縦24.5a、横6a。表には蕪村の句「菜の花や 月は東に 日は西に」が書かれており、裏面に参拝者が自作の俳句と願い事を記す。

俳句愛好家や家族連れが次々に献句しており、横路良宮司(40)は「蕪村も喜んで下さっていると思う。子供や若者が俳句に親しむきっかけになれば」と話している。>

このように報道機関のご支援も得て、大阪俳人・蕪村顕彰と蕪村俳句を後世と全国・世界へ広めながら、大阪遺産を未来へ伝承していく活動を、積極的に進めて行きたいと思っております。

どうか、蕪村生誕300年記念行事をこれから頑張って始めます。皆様のご賛同を心からお待ちしております。

◆福岡・八女茶(やめちゃ)を嗜む

毛馬 一三



筆者の家では、食事の後や折を見て「八女茶」を、毎日欠かさず一人10杯以上常飲している。

祖母の実家が福岡県八女郡の八女茶(元は星野茶)の生産家だったのが縁で、子供の頃から「八女茶の煎茶や玉露茶」を嗜んできた。

その嗜みはいまも尚継続しており、5月の一番茶の時期になると八女茶生産元の祖母の実家から、注文した1年分の「八女茶の煎茶と玉露茶」が送られてくる。

70度位に冷ましたお湯をゆっくりと茶葉を入れた急須に移し、3〜4回ゆるりと左右に回したあと湯飲みに注いで飲み始めると、筆舌に尽くせないまろやかな風味と甘み、それに他所の茶より濃い味が口内に広がり、至福の瞬間がやってくる。

しかも茶に含まれるカテキンの成分が、ここ10年位の研究で抗ガン作用と抗微生物作用に効果があることが明らかになってきたことから、意識して健康維持のためこの八女茶嗜みの習慣を続けている。

八女茶以外に全国には、下記のような有名な茶の生産地がある。

<愛知県(三河茶)、茨城県、(奥久慈茶、猿島茶)、鹿児島県(かごしま茶)、京都府(宇治茶)、岐阜県(美濃茶)、熊本県(肥後茶)、高知県(土佐茶)、埼玉県(狭山茶)佐賀県(嬉野茶)、滋賀県(近江茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)、三重県(伊勢茶)、宮崎県(日向茶)、がある>(日本茶博物館www.kaburagien.co.jp/museum/museum/index.php - 14k -)

京都府(宇治茶)、佐賀県(嬉野茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)は過去に飲んだことがあるが、それなりに芳醇で美味な緑茶だったという印象と思い出がある。

ところで最近下記のような記事が出て、目を惹いた。

<緑茶を1日に7杯分ほど飲むことで、糖尿病になりかかっている人たちの血糖値が改善することが、静岡県立大などの研究でわかった。健康な人で緑茶をよく飲んでいると糖尿病になりにくいという報告はあるが、高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告は珍しいという。

血糖値が高めで、糖尿病と診断される手前の「境界型」などに該当する会社員ら60人を対象に緑茶に含まれる渋み成分のカテキンの摂取量を一定にするため、いったんいれたお茶を乾燥させるなどして実験用の粉末を作製。

これを毎日、湯に溶かして飲むグループと、飲まないグループに無作為に分け、2カ月後の血糖値を比べた。

平均的な血糖値の変化を、「Hb(ヘモグロビン)A1c」という指標でみると、緑茶粉末を飲んだ人たちは当初の6.2%が、2カ月後に5.9%に下がった。飲まなかった人たちは変わらなかった。飲まなかった人たちに改めて飲んでもらうと、同じように2カ月間で6.1%から5.9%に下がった。

2グループで体格や摂取エネルギーなどに差はなく、緑茶からのカテキン摂取量が血糖値に影響したらしい。1日分の緑茶粉末は一般的な濃さの緑茶で湯飲み(約100ミリリットル)約5杯分のカテキンを含み、緑茶粉末を飲んだ人では普通に飲んだ緑茶と合わせ1日に約7杯分のカテキンをとっていた。

研究の中心で、今春に静岡県立大から移った吹野洋子常磐大教授(公衆栄養学)は「運動などの生活習慣改善とともに、食事の中で積極的に緑茶を取り入れてほしい」といっている>。(アサヒコム)


前記の様にカテキンが抗ガン作用に効果が在ったり、良質な緑茶から抽出されたポリフェノールはビタミンEの10倍、ビタミンCの80倍というすぐれた抗酸化力を持っているといわれているが、緑茶7杯の飲料で高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告には驚かされた。

筆者の周りで糖尿病の一歩手前で悩んでいる先輩知人が最近多い。緑茶7杯で高血糖の人たちに効き目があるというなら、早速緑茶の常飲を勧めてみよう。お茶の嗜みは、心の安らぎも導いてくれる筈だから。
(了)
参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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