2011年08月02日

◆俳句にしたしむ外国人

毛馬 一三

日本語の「五七五音」を組み合わせて、情景描写と思いを滲ます「俳句」は、ことのほか難しい。どちらかと云えば長文を綴る私にとって、まさに「俳句」は、至難な分野に他ならない。

ところが、ある方のご紹介で、欧州ウクライナから今夏訪日された同国の国立大学助教授が、私たちが運営する市民講座「蕪村顕彰俳句大学」のゲスト受講生として参加して貰った。

同助教授は、ウクライナのキエフ国立建築建設大学建築学博士のシェフツオバ ガリーナさん(40)。ご両親が学者で日本とも親しみが深く、その縁でガリーナさんは大阪の近畿大学建築学部大学院で3年の修学を含めて、4年間在日されたという。

ところが、ガリーナさんは在日中に日本文化の魅力に捉われ、4年の間に日本各地の日本遺産の神社・仏閣を歴訪して日本の歴史を学び、かつ書道、俳句つくりにも夢中になられたという。

勿論日本語も驚くほど堪能で、何と受講生として「句会」に自作俳句6作品を出句された。6句とも中々の出来栄えで、特に下記の
・あご湾の満潮に閉じ仏陀の目
は、講座担当の山尾玉藻講師(俳句結社「火星」主宰)が絶賛し、外国人の作品とは思えないと評価されたほどだった。

「俳句講座」が終わって、ガリーナさんを囲んだ受講生仲間との懇談会が開かれた。やはりどうして上手な「俳句」が作れるのですかとの質問が集中した。日本から遠い国のウクライナ人が、「俳句」にしたしむことへの疑問からだった。

その前に、フリー百科辞典「ウィキぺディア」を参考に、ウクライナの国を、紹介しておきたい。

<ウクライナ(Україна)は、東ヨーロッパの国。東にロシア連邦、西にハンガリーやポーランド、スロバキア、ルーマニア、モルドバ、北にベラルーシ、南に黒海を挟みトルコが位置している。

歴史的・文化的には中央・東ヨーロッパの国々との関係も深い。17世紀から18世紀の間にはウクライナ・コサックの国家が興亡し、その後ロシア帝国の支配下に入った。

第一次世界大戦後に独立を宣言するも、ロシア内戦を赤軍が制したことで、ソビエト連邦内の構成国となった。1991年ソ連崩壊に伴い独立した。

16世紀以来「ヨーロッパの穀倉」地帯として知られ、19世紀以後産業の中心地帯として大きく発展している。天然資源に恵まれ、鉄鉱石や石炭など資源立地指向の鉄鋼業を中心として重化学工業が発達している。

ソ連時代にチェルノブイリ原子力発電所事故が起きたが、現代でも原子力発電は盛んである>。

ガリーナさんによると、ウクライナの人口は日本の半分、広さは4倍で、どちらかというと「農耕中心」地帯だという。

ガリーナさんが、どうして日本文化に魅力を感じ、日本フアンになったのか。どうやら日本各地の「文化遺産」を巡礼しながら、欧州には無い独特な日本文化の奥深さに魅力を感じたからだという。

「書道」も「俳句」も学び、日本文化の美しさ魅かれ、キエフではいま「書道教えており、ウクライナ語で編纂した「日本文化遺産の写真や俳句本(約100ページ)」も発刊し、ウクライナで日本文化を広める努力をされているという。

だが、ウクライナ人には、日本と距離感がある上、文化・経済交流も希薄なため、日本文化の紹介に実績を上げることは難しいのが現状だということだった。

ところで、この懇談中に驚かされたことがあった。ガリーナさんは俳人与謝蕪村の俳句が大好きで、代表的な句の「菜の花や月は東に日は西に」からは「景色と香り」が感じられると、蕪村俳句の真髄をしっかり捉えておられた。蕪村は、大阪の「誇り」だとも付け加えられた。

しかも蕪村俳句から「匂い=香り」を感じるという説は、外国人特異の感性ではないかと、胸を打つものがあった。そう云えば、「俳句」から「香り」が滲み出てくるという説は、耳にしたことが無い。

それならば、私たち主宰の「蕪村顕彰俳句大学」講座を窓口にキエフ国立大学と、蕪村を軸とした「俳句文化」の交流の可能性があるかどうかを質した処、「ご提案をおまちします」という前向きな返事が返ってきた。こんな嬉しいことはなかった。

建築学専門とは異なるものの、日本文化との交流に意欲を見せてくれたガリーナさんとこれから繋がりを深めて行くため、早速私たちで「両国の俳句文化交流計画案」作りに取りかかることにしたい。

ウクライナの国立大学の助教授ガリーナさんと知遇を得たことは、本当に最高だった(了)

2011年07月26日

◆美味な奄美のパッションフルーツ

毛馬 一三

畏友仲村友彦君から先日頂いた、鹿児島県奄美産の「フルーツ」を食したところ、何と筆舌にも託せない素敵な果汁の味覚を味合わせて貰った。

彼の故郷の知人が経営する奄美市の「奄美農園」で取れた果物「パッションフルーツ」で、頂いたひと箱には12個(1kg)入っていた。

恥ずかしながら、「パッションフルーツ」という果物の名前も知らないし、無論お目に掛かった事もない。果実の大きさは、縦8cm、横5cm位で、濃いグリーンの卵型。見ただけでも「新鮮果物」象徴そのものだ。

畏友の助言に従い、熟成の様子を確認して食してみた。ヘタの部分を上にして、果実を縦に半分に切ってみた。そうすると中から種子と果汁が一体となった半透明のゼリー状の果肉が現れた。果肉をスプーンで混ぜたあと、種子と果汁ごと噛まずにそのまま味わった。

熱帯産風の独特な味に加え、上品かつ独特な甘酸っぱさが口内に広がる。旨い。今までに味わったことのない「独特の味覚」だ。残り半分の果肉もゆっくり口に運び、味覚を思い切り楽しませて貰った。数日して、ヨーグルトに混ぜて食べてみた処、これまた格別の味で美味しかった。

「パッションフルーツ」の原産地は、どこなのか。

<「パッションフルーツ」(和名:クダモノトケイソウ(果物時計草)は、アメリカ中南部の亜熱帯地域を原産とするトケイソウ科の果物。日本では、古くは奄美を中心とした南西諸島や、近年では鹿児島県、沖縄県を中心に栽培されている。

開花・受粉から14日で玉伸びを終え、その後45日で完熟、自然落下する。収穫は自然落下したものを回収する(もしくは軽く触れると落下する程度)。蔓ごとに一番花は、人工授粉で、確実に受粉を行うのが栽培の要諦。
国内では、生食以外、希釈用のジュースやジャムとして人気が高い。主に他のジュースの香り付けやケーキ、ゼリーなどの洋菓子類、カクテルベース等需要が急増中>という。

しかも、栄養素も豊富で、カリウム・ビタミンA(ベーターカロテン)・ビタミンC・クエン酸などが含まれており、美容と健康にも貢献するという。

この素敵な味覚を初めて経験させて貰った生産地の「奄美農園」(鹿児島県奄美市笠利町節田225)では、製造者の奈良 一さんが、完全無農薬・無化学肥料にこだわり、作物つくりに専念しているという。製造者の心掛けに感動する。

送られた箱の中に、果物のほかに、奄美特産の薬草「奄美ハンダマ茶」が同封されていた。これも初めて接する「お茶」だ。ハンダマ(スイゼンジナ)葉・シークヮーサー・クエン酸が原料だそうで、3g包が15個入っていた。

約1リットルのお湯の中に同茶の1袋入れて、5分ほど沸騰させたあと、冷ましてポットに移した。なんと「赤み」が色鮮やかさに滲み出ている。飲んでみたら、甘みと香りが溢れた奄美特産「自然茶」だった。

奄美には、本当に素晴しい産物があるものだ。猛暑日が続く異常なこの真夏日に、未経験の素敵な味覚ばかりを味合うことが出来、感謝の気持ちで一杯。

「パッションフルーツ」は8月一杯販売しているそうだ。驚きと素敵な味覚を味合わえる「パッションフルーツ」と、「奄美ハンダマ茶」を、一度味わって頂けたら如何。(了)
参考:『ウィキペディア(Wikipedia)』







2011年07月18日

◆大感激!なでしこ、初の世界一

毛馬 一三

まさか「なでしこジャパン」が、サッカー女子ワールドカップで、世界1の米国を破るとは、想像だにしていなかった。18日朝3時に起きて同決勝戦の中継放送に見入った。

90分の試合の前半戦、後半戦共に先取点を取られ、これまでかと心を痛めたが、何といずれも同点にし、かつ延長戦も後半ギリギリで追いついて、ついにPK戦に持ち込んだ。

そのPK戦でも強豪米国を制し、国際サッカー連盟(FIFA)主催大会で、初の優勝を決めた。跳ね回りながら、体全体で喜びを表す選手たちに思わず感涙した。優勝するとは信じられない。本当に凄い事だ。

産経ニュースの速報によると、下記の通りだ。

<【フランクフルト共同】サッカーの第6回女子ワールドカップ(W杯)ドイツ大会は17日(日本時間18日)、フランクフルトで決勝を行い、日本代表「なでしこジャパン」は2―2の激闘からのPK戦を3―1で制し、3大会ぶり3度目の優勝を狙った米国を破って初優勝した。国際サッカー連盟(FIFA)主催大会での日本の優勝は、男女を通じて史上初めて。

後半に先制された日本は、MF宮間あやのゴールで追い付いた。延長も先行を許したが、主将のMF沢穂希が同点ゴールを決め、PK戦に持ち込んだ。沢は大会の最優秀選手に選出された>。

東北の大震災で落ち込んでいる日本に、「大きな力」を与えてくれた快挙だった。有難う!

2011年07月05日

◆大震災で大活躍の「ドクターヘリ」

毛馬 一三

東北大震災の被災地の患者救済活動に、全国に配備されているドクターヘリ26機のうち、18機もが派遣され、活躍していたことを初めて知った。ドクターヘリなら救急活動に大挙急行しているに違いないと思っていたが、それ以上だった。

これが分かったのは、認定NPO法人「救急ヘリ病院ネットワーク」の國松孝次理事長から送られてきた「HEM−Net誌」の「2011年夏号・東日本大震災特集」を拝読したからだった。

何といっても、今度の災害に全国のドクターヘリネットワークから18機も出動したこと自体、全国ドクターヘリネットワークの機動力と迅速な救急救命活動、加えてその成果を実際に物語るものと云っていい。

理事長は、「大震災におけるドクターヘリの活動は、おおむねよく調整され、隔世の感のある成果をあげましたが、いくつか、今後の課題も残りました」と、初の災害時出動に対する所管の添え書きを付していた。

さて「同特集」だが、対談「現場から、災害時におけるドクターヘリのあるべき姿を考える」、「災害時の具体的活動概要」、「現場に出動したフライトドクター・フライトナースの体験談」などで満載されている。

中でも、「救急ヘリ病院ネットワーク」理事の益子邦洋氏が綴った「出動したドクターヘリの活動状況について」の下記の一文が、まず目を惹いた。

<今回の震災の特徴として、亡くなられた方の9割以上が津波によって溺死されたものであったため、急性期の患者の救命救急活動に当たるケースは少なかったが、低体温患者、挫滅症候群の患者、骨折の患者等に現地で治療を行い搬送するなど、ドクターヘリの機能を活かした活動を行うことができた>、と活動の実態を記している。

ところで、大阪ドクター大阪大学医学部付属病院 高度救命救急センター 医師 田原 憲一氏が「ドクターヘリ震災地出動」についての経験報告は、身に沁みる。

<大阪ドクターヘリの運行規定には、大阪大学特殊救急部の阪神淡路大震災の検証作業によって導き出された「災害時には広域搬送が必須である」という強いメッセージがこめられています。東日本大震災における大阪ドクターヘリの活動では、これまで粛々と進めてきた準備が大変役に立った面と、まだまだ不十分であったという面、両面が見えてきました。

大阪ドクターへリは、震災2日目の夜明けに大阪を出発しました。仙台市の自衛隊霞目基地を活動拠点の一つとして計4日間の活動です。急性期患者の域外搬送は計3 件で1例目は瓦礫に12時間挟まれ近隣病院を経由し救出後5時間で域外搬送を行ったCrush症候群と診断された高齢男性でした。

輸液療法を継続し経皮心ぺーシングを待機しました。その後日没となり、停電、断水に加えて厳しい寒さのなかで夜を明かしました。

翌日に2件の搬送。最初は転倒による頭蓋内出血で意識障害が遷延した中年男性でした。搬送前に痙攣発作を来したため呼吸、循環を監視しながらの搬送です。

次に骨盤骨折の創外固定術後と骨盤ガーゼパッキング術後の若年女性で循環動態は安定していましたが、子供2 人を津波で失っており患者の情報取り扱いに細心の配慮を行いました。

被災から72時間が経過し、消防、自衛隊からの情報提供によって、津波による傷病者の特性が阪神淡路と異なる事を実感しました。

被災3日目にはドクターヘリでDMAT(災害医療派遣チーム)部隊を現場投入する役割を担い、前橋赤十字DMAT隊員を石巻市立病院へ搬送し、我々の部隊も後に患者避難に関わりました。

被災現場では停電に加えて携帯電話を始めとする通信が遮断されており、衛星電話を使用して飛行プランの確認を行うのがやっとでした。

通信については、医療用優先通信の改善が必要と実感しました。一方で、いくつもの問題を解決してゆくなかで目的を一つにする医療スタッフ同士の連携が深まり以後大切な絆となっています>。

このほか、「フライトナースの経験報告」などに、現場経験したスタッフしか分からない救急活動の緊張度と困難性が溢れていた。

一方で、「複数のドクターヘリが運用できたことは素晴しいことであったが、常に情報不足での状態で、情報入手手段と情報共有化の必要性を強く感じた」と、今後の震災の場合の有効な活動を求める課題について、経験者としての切望も記されていた。

大震災全体の課題として、今でも情報の正確さと情報の共有化が強く求められている。このドクターヘリの救急活動の経験者の一語一語には、今後発生する大地震の救急救命対応の仕方を強烈に示唆していると見ていい。(了)
                     2011.07.04

◆本稿は、7月5日(火)刊全国版メルマガ「頂門の一針」2310号に
掲載されました。同誌の他掲載寄稿もご拝読ください。

◆<2310号 目次>
・これほど白けた記念日はなかった(現地報告):宮崎正弘
・左翼貴族の「上から目線は何なのだ」:古澤 襄
・原子力村復活、菅は屈服:山堂コラム 376
・大震災で「ドクターヘリ」大活躍:毛馬一三
・曽我祐次、85歳が「語る」:岩見隆夫

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2011年07月04日

◆抜群の「紫蘇濃縮ジュース」つくり

毛馬 一三

我が家で「紫蘇(しそ)濃縮ジュース」をつくり出したのは、一昨年からだ。近所の知人の奥様から作り方を教えて貰ったのがキッカケで、去年もタイミングよく紫蘇(しそ)の販売時期に合わせてつくった。

つくってみたら、なんとまあ、風味・舌触り、美味さは抜群。ジュースの赤みの色合いにも魅かれて、すっかりハマってしまていった。

ところが、何と今年は所用に紛れ、嵌っていた筈の「紫蘇(しそ)濃縮ジュース」つくる時期の到来を、すっかり失念していた。

「7月初めが、紫蘇店頭売りの限界ですよ」とかの奥様からたまたま聞かされ、慌ててて3日の朝、スーパーマーケットに駆け込み「赤紫蘇」仕入れてきた。家内に頼み、今年の「紫蘇濃縮ジュース」つくりに挑んで貰った。まさに滑り込みセーフ。

<紫蘇(しそ、学名Perilla frutescens)は、シソ科のシソ属の植物。中国原産。
紫蘇には、こんな由来がある。中国の後漢末、洛陽の若者が蟹を食べすぎて食中毒を起こし死にかけたが、名医・華陀が薬草を煎じ、「紫の薬」を作り、同薬を用いたところ、若者はたちまち健康を取り戻した。「紫」の「蘇る」薬だというので、この薬草を「紫蘇」というようになった>。

紫蘇の品種は、「青紫蘇」と「赤紫蘇」の2種類。
<i)「青紫蘇」は、葉や花を香味野菜として刺身のつまみや天麩羅などにする。青紫蘇の葉は野菜としては「大葉(おおば)」とも呼ばれる。
A)「赤紫蘇」は、梅干しなどの色づけに使用。また葉を乾燥させたものは香辛料として(特に京都で)味唐辛子に配合され、ふりかけなどにも用いられる>。

ところで、自家で「紫蘇濃縮ジュース」をつくる時は、上記のように、A)の「赤紫蘇」を使う。作り方は幾通りもあるようが、手ほどきを受けた作り方が、手軽で、出来栄えも最高のようだ。

そこで、その作り方をご紹介したい。

<作り方>
(1)紫蘇(300g)を水できれいに洗い、水気をよく切って鍋に入れる。
(2)鍋に水(450cc)を入れ、その中に砂糖(600g)とクエン酸(20g)を加える。
(3)紫蘇を満遍なく混ぜて、鍋をガスの中火で煮出す。
(4)10分ほど沸騰させ、紫蘇の中から泡が出したら火を止める。
(5)鍋で煮だった紫蘇を別のボールに、ザルで濾す。
(6)絞り紫蘇液が自然に冷めたら、その中に「ゆず酢」を大匙2杯弱入れる。これがこの濃縮ジュースの「隠し味」。
(7)真っ赤な紫蘇濃縮ジュースが出来上がったら、氷を入れたコップに濃縮ジュースを好みに応じて注ぎ、水や炭酸水などで4倍に薄めて飲む。

これだけの作り方で、900ccの「紫蘇濃縮ジュース」が出来る。冷蔵庫で保存すれば、賞味期限は半年もある。

<この「紫蘇ジュース」は、紫蘇の栄養であるビタミン類、ミネラル類が含まれているので薬用効果があり、アレルギー体質、生活習慣病、食中毒予防等に効果があるそうだ。ただし糖分の加減で、飲む量は1日2杯に抑えたほうがいいという>。

風味・美味しさ抜群の「紫蘇濃縮ジュース」の作り方を紹介させて頂いたが、このジュースの作り方のコツは、(6)にように、隠し味が「ゆず酢」であること。お忘れなく。

今年は「猛暑日」が幾度となく来襲するだろう。そんな時、風味・舌触りなど美味さが抜群、薬用効果もある「紫蘇ジュース」を味合われてみては如何。「赤紫蘇」まだ2〜3日間は店頭に並んでいる筈。お勧めします。   (了)                             
参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

2011年06月27日

◆今年も届いた「八女茶の新茶」

毛馬 一三

日本の銘茶「八女茶」の生産地は、福岡県八女郡星野村で、私の祖母の生まれ故郷。それがもとで、子供の頃から朝夕「八女茶」ばかり常飲している。煎茶や玉露を飲むと、香ばしい匂いと独特の甘味に魅せられて、郷愁と幸せな予感がどっと沸いてくる。

5月の一番茶の時期になると八女茶生産元の祖母の実家から、注文した1年分の八女茶の煎茶と玉露が送られてくる。今年もこのほど届いた。

しかし、この「八女茶」つくりに長年携わってこられた祖母の親族が昨年亡くなられ、今年の「八女茶の新茶」は、その遺族の手によるものだった。ご存命中のお元気なお声が聞こえて来るようで、折角届いた「新茶」なのに、胸が詰まって、まだ試飲もしていない。

「八女茶」は70度位に冷ましたお湯を、茶葉を入れた急須にゆっくり移し、3〜4回ゆっくり左右に回したあと湯飲みに注ぐ。そこで飲み始めると、文字通り筆舌に尽くせないまろやかな風味と甘みが、他茶より濃く口内に広がり、至福の瞬間が現れる。

しかも茶に含まれるカテキンの成分が、ここ10年位の研究で抗ガン作用と抗微生物作用に効果があることが明らかになったため、わたしも健康維持のため「八女茶嗜みの習慣」は絶やさない。

八女茶の他にも、全国には有名な茶の生産地がある。

<愛知県(三河茶)、茨城県、(奥久慈茶、猿島茶)、鹿児島県(かごしま茶)、京都府(宇治茶)、岐阜県(美濃茶)、熊本県(肥後茶)、高知県(土佐茶)、埼玉県(狭山茶)佐賀県(嬉野茶)、滋賀県(近江茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)、三重県(伊勢茶)、宮崎県(日向茶)、がある>
(日本茶博物館www.kaburagien.co.jp/museum/museum/index.php - 14k -)

京都府(宇治茶)、佐賀県(嬉野茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)は過去に飲んだことがあるが、それなりに芳醇で美味な緑茶だったという印象がある。

ところで下記のような新聞記事のスクラップが出てきた。

<緑茶を1日に7杯分ほど飲むことで、糖尿病になりかかっている人たちの血糖値が改善することが、静岡県立大などの研究でわかった。健康な人で緑茶をよく飲んでいると糖尿病になりにくいという報告はあるが、高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告は珍しいという。

血糖値が高めで、糖尿病と診断される手前の「境界型」などに該当する会社員ら60人を対象に緑茶に含まれる渋み成分のカテキンの摂取量を一定にするため、一旦入れたお茶を乾燥させるなどして実験用の粉末を作製。

これを毎日、湯に溶かして飲むグループと、飲まないグループに無作為に分け、2カ月後の血糖値を比べた。

平均的な血糖値の変化を、「Hb(ヘモグロビン)A1c」という指標でみると、緑茶粉末を飲んだ人たちは当初の6.2%が、2カ月後に5.9%に下がった。飲まなかった人たちは変わらなかった。飲まなかった人たちに改めて飲んでもらうと、同じように2カ月間で6.1%から5.9%に下がった。

2グループで体格や摂取エネルギーなどに差はなく、緑茶からのカテキン摂取量が血糖値に影響したらしい。1日分の緑茶粉末は一般的な濃さの緑茶で湯飲み(約100ミリリットル)約5杯分のカテキンを含み、緑茶粉末を飲んだ人では普通に飲んだ緑茶と合わせ1日に約7杯分のカテキンをとっていた。

研究の中心で、今春に静岡県立大から移った吹野洋子常磐大教授(公衆栄養学)は「運動などの生活習慣改善とともに、食事の中で積極的に緑茶を取り入れてほしい」といっている>。

前記の様にカテキンが抗ガン作用に効果が在ったり、良質な緑茶から抽出されたポリフェノールはビタミンEの10倍、ビタミンCの80倍というすぐれた抗酸化力を持っているといわれているが、緑茶7杯の飲料で高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告には驚かされた。

わたしの周りで糖尿病で悩んでいる先輩、知人が意外に多い。一日緑茶7杯の常飲で高血糖の人たちに効き目があるというから、緑茶の常飲を勧めたい。お茶の嗜みは、心の安らぎも導いてくれる筈だからだ

余談だが、最近ご縁があって、わたしの主宰するNPO法人の理事になって頂いた平井孝明氏(音楽家)が、なんと福岡県八女市星野村の出身で、実家では以前「八女茶」つくりをやっておられるという。

まさか、遥かに遠い九州の同じ実家同士が、大阪で、しかも同じ志を持ち寄ったNPOの下で出合うなんて、ビックリ以外の何者でもなかった。

ひょっとしたらその昔、祖母の生まれ故郷の星野村のご先祖たちが、わたし達より先に「親密なお付き合い」をしていたかもしれない。そう思うと同じ生まれ故郷の有名なジャズ音楽家と偶然にも出合ったことに改めて驚かされ、世間の縁の狭さを実感したものだった。(了)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2011年06月17日

◆分からない「関電の節電要請」

毛馬 一三

大企業から一般家庭にまで一律に昨夏ピーク比15%の節電を求めた関西電力の要請には、正直驚いた。関西の私鉄やJR西日本、市営地下鉄は間引き運転を迫られ、市民生活には多大な影響が出るからだ。

どうして一律15%削減なのか。関電の説明では、なかなかわからない。

関電の八木誠社長は、節電要請は原発停止による電力供給不足であることを説明で強調した。しかし節電要請がなぜ首都圏と同じ15%で、時間帯も午前9時から午後8時までなのか。それすらも分からない。

案の定、橋下大阪府知事は反発の狼煙をあげ、「電力が足りないから原発が必要と言っているに過ぎない」と批判し、今旅先のインドネシア・ジャカルタから苦言を呈した。

また仁坂和歌山県知事は、「夏場の電力使用のピーク時に電力が少し足りないことはなんとなくわかったが、詳しい情報がないまま結論だけをもってくるのは乱暴だ」と述べ、関西電力には対応できない姿勢を示した。

そこで、今月22日から9月末まで、和歌山県内として、家庭とオフィスに5%の節電を、8月になってから10%以上の節電を呼びかけるとの考えを示した。

八木社長は 、「現時点で原発の再稼働の時期が明確でない。顧客から節電が必要なら早期に示してほしいと言われたので、夏が目前に迫り苦渋の選択をした」と、訳の分からぬ言い訳をしている。
今回の節電要請は、関西の経済と市民生活環境に深刻な影響を与えことは必至だ。

<りそな総合研究所の荒木秀之主任研究員は、「関西(福井県を含む2府5県)の年間域内総生産が0・5%減少」と試算した。節電要請がない場合は「生産部門の関西シフトを中心に、0・1%増を見込んでいた」という>。毎日新聞 6月11日 刊

15%の節電を迫られると、特に高齢者世帯が昨年を超える猛暑に襲われた場合、熱中症で死者が増えることは確実。病院の手術室、CTUの維持はどうするのか。ましてや関西の中小企業の生産にはブレーキが掛かり、経済全体がどん底の落ち込むのは目に見えている。

肝腎の「節電要請根拠」がこのように不明確では、これに応じる訳にはいかないと、誰しもが思うのは当然だ。

一説によると、「経産省から関電が考えていなかった猛暑想定の試算の提出を求められ、その結果関電の需要ピークが「猛暑」想定パターンに引き上げられ、15%節電の要請へ変更になったといわれる。

もう一つは、この直前の「猛暑想定への変更」は、電力需要が大きくなるため、原発再開のため電力不足を演出しようとする、政府の意図があるようだという見方も出ている。

だとすれば、関電の「説明不足」だったのは、政府などの「節電アップ」の目論見があったことが浮かび上がり、関西企業と市民経済を無視した要請だったことに繋がることも予想される。。

 もしそうした「影からの要請」が無かったら、今夏が予想通りの「平年並み」の夏であれば、15%もの節電はいらなくなったはずだ。

15%の節電は、大きいことを東電は認識すべきだ。関西経済と市民生活維持に深刻な影響を与える「電力」だけに、「15%節電要請」の真実を、もっと分かり易く説明し、理解を求めるのが、関電に課せられた重要な責務ではないか(了)
   2011.06.16
   
 

2011年06月15日

◆大阪だった「芭蕉終焉の地」

毛馬 一三

松尾芭蕉の「終焉(しゅうえん)の地」を、知っている人は少ない。終焉の句が「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」であることが有名だから、誰もが旅の果ての東北か、北陸の辺りでの死去ではないか思うのは当たり前だ。

ところが、芭蕉の終焉の地は、実は大阪だ。

御堂筋の真ん中辺りの「南御堂」向かいの花屋仁左衛門の離れ座敷だったのだが、そんなことは大阪人のほとんどが知らない。芭蕉が亡くなった花屋仁右衛門宅は、今喫茶店になっており、その屋敷跡から当時の事を髣髴させるものは何もないのも、原因の一つかもしれない。

今は、南御堂前の左側の緑地帯の中に「終焉(しゅうえん)ノ地」と銘を打った碑が、ポツンと建っているだけで、車の通行に挟まれた緑地帯の中だから、通行人の目に止まる筈がない。

私はたまたま、地下鉄御堂筋線・地下鉄中央線「本町」下車して南へ向かう用事があったため歩いていた処、“偶然”にも目に入った。その場所をたまた通り掛けたお陰で、“発見”出来たのは、言葉でも云えないラッキーなことだった。
 
<元禄7年(1694)9月、芭蕉は、故郷伊賀上野から奈良をすぎ暗峠を越え、2度目の来坂をした。長崎へ向かう旅の途中に大阪に立ち寄り、住吉大社を詣でたり、句会に参加するなどしている。

しかし本当の來阪目的は、当時大阪俳壇をにぎわしていた2門人の仲違いが際立っていたため、それを収拾するのが主目的であったとも云われている。
 
伊賀上野の出発時から体調不良を訴えていたが、大阪・住吉神社に詣でたあと、発熱下痢を伴い花屋仁右衛門方離れ座敷で病臥。ついに10月12日夕方息を引き取る。51歳だった。最後の句として知られる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」は、その4日前に病床で詠んだものだという>。

ところが「秋深き隣は何をする人とぞ」は、芭蕉が床に臥す直前に詠んだ句である。臥す直前まで世事に興味津々というか、「晩秋」の移ろいにも鋭利な感覚を失っていない。となると芭蕉は、出来るだけ早く床上げをして長崎へ向かう旅立ちへの気力は、この時溢れていたのではないかと思える。

<大坂御堂筋の花屋仁左衛門方で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死した。(よく辞世の句と言われているが、結果論である。「病中吟」との前詞があり、辞世とは当人も意識していなかった)という説もある>。

しかし病状が急変したのは事実だ。その急変ぶりに死を予期し、「夢は枯野をかけ廻る」という七五を組み入れた句を編み出したのではないかと、私は思う。死期を悟った上での「辞世の句」だったと考えるのが、その頃の体調不良と考え合わせれば辻褄が合う気がする。

<臨終の時は、大勢の弟子達に見守られ、遺体は亡くなった日に舟で、土佐堀川を上り、芭蕉が遺言した近江の義仲寺に運ばれた>。芭蕉は、木曾義仲の墓の隣に眠っている。

序でながら、江戸時代の俳人与謝蕪村の終焉の地は、画人蕪村の活躍の場とも絡んで、京都だと知っている人は多い。ところが肝腎の蕪村生誕地が大阪毛馬だと知る人は意外に少ない。つまり蕪村と芭蕉のその辺りの謂れは、逆の形になっているのだ。

このため、蕪村の生誕地が大阪毛馬だと全国、世界に発信し、「生誕地と蕪村俳句」を後世のために伝えて行くために、わたしたちはいま様々な活動を進めている。(了)

参考<ウイキぺディア>

2011年05月25日

◆大阪でも「黄砂」の悪影響

毛馬一三

迂闊にも、渡部亮次郎氏主宰の5月23日刊「頂門の一針」2265号「反響欄」に掲載された前田正晶氏の「黄砂の悪影響」の記事を見逃し、翌5月24日に拝読して、「黄砂の悪影響」が大阪までも及んでいることに気付いた。

私自身同じ「黄砂の原因」で、今までに経験したことがない程の長期にわたる風邪気味の体調不良に襲われ、気力、体力共に失していたので、前田氏の「黄砂の恐ろしさ」原稿に改めて目を奪われた。

前田正晶氏によると、下記の通りだ。 

<先日、ゴールデン・ウイークに故郷の鹿児島に帰っていた50歳の女性から、黄砂の悪影響話を聞いた。

彼女がマスクをして咳をしていたので風邪ではなく黄砂の悪影響だった。その頃鹿児島では何とも言えない空の色で見通しが悪かったが、その根拠が黄砂の悪影響だと教えられた由。

彼女は黄砂に対する備えもなく、それほど重大なこととは認識していなかった。ところが、帰京して間もなく咳が止まらなくなって医師の診察を受けたそうだ。そこで、黄砂が肺に入っている状態で放置すれば肺炎になる危険性ありと、抗生物質を処方され何とか安定した状態になったそうである。

しかし、医師からは未だ油断は禁物と聞かされて、あらためて黄砂の恐ろしさを実感したと語っていた。(中略)

黄砂も放射性物質が福島から足柄まで風に乗って飛んでくるのであれば、中国で発生し偏西風に乗れば福島から足柄よりも遙かに遠い鹿児島に飛来して、そういう影響を及ぼすと知った>。

私の場合は、最初咽喉に痛みがあったので、「花粉症」に違いないと考え、耳鼻咽喉科医院で診てもらった。しかし咽喉の痛みと痰のが激しくなる一方、鼻什もひどくなり、微熱を伴うなど風邪症状に似た体調に変わってきたので、慌ててかかり付け内科医院に駆け込んだ。

診断によると、咽喉と鼻の炎症がひどく、早急な治療が必要だと言う診断で、原因は「黄砂」が一つの要因に絡んでいるという事だった。いまご当地では高齢者に広がっているそうだ。

そこで、・抗生物質として「メイアクトMS錠100g」、・咳を鎮める「メジコン錠15mg」、・痰や膿をうすめて痰や鼻什を出しやすくする「ムコダイン錠500mg」、・アレルギー性の鼻水等を抑える「アレグラ錠60mg」、・胃粘膜薬「テプレノンカプセル50mgト―ワ」、・それにうがい薬アズノール4%」の薬を出して貰った。マスクも常用が必要だそうだ

この3週間にわたった診察と薬服用で、何とか本日ごろから、症状はやや回復に向かいつつある

ただ、前田氏の原稿にあるように「黄砂が肺に入っている状態で放置すれば肺炎になる危険性が十分あり、注意が必要だ」との同じ診断は伝えられたし、今後も発症初期症状には十分気を配るよう、注意を受けた

ともかく中国から発生、偏西風に乗に乗って「日本」に与えている「黄砂」による悪影響は、鹿児島だけではなく、現実に大阪の私の友人や近郊の人たちまでにも広がっており、全国的に深刻になっているのではないだろうか。

マンションなどの駐車場に駐車している車のフロントガラスや車体全体に、「黄砂」がへばり付き、手洗いや洗車に毎日追われる苦情はあちこちで噴出している。

こうした悪影響の顕著な「黄砂」対応に、政府は何も関心を示していない。ましてや、気象庁もメディアも最近は「黄砂の悪影響」の実態に全く触れないし、「黄砂」の飛来予測も報じない。

前田氏が指摘するように、原発汚染が「黄砂」によって同時に運ばれてくる可能性が否定できないと考えると、身の毛がよだつ思いがする。

この「黄砂」についての政府の全く無関心に改めて苛立つ。情けない限りだ。
(了)2011.05.24

2011年05月14日

◆「万葉集」の軍事メッセージ

毛馬一三

韓国の「百済の都・扶余」の遺跡から、618年に作成された「出挙(すいこ)」の木簡が、2008年前後に発見されている。

「出挙」とは、作付けの季節に農民に利子つきで貸出した「種もみ」を、収穫の秋に利子分を含めた作物を現物で回収する制度で、木簡には農民毎に回収した「作物の量」が記録されている。

この木簡は、日本でも飛鳥時代以前の古代遺跡から、全く同じものが既に発掘されている。

つまり、中国から発祥した貴重な税収制度が、百済を通じて日本へ導入されていたことの証だが、もし百済と日本の間に、当時緊密友好な関係がなかったら、日本へこうした国家構築に属する機密情報が、伝わって来なかったであろうことは想像に難くない。

この韓国の発掘記事を読んだのは、随分以前のことだが、こうした日本と百済との「秘めたる繋がり」の驚くべき逸話を話してくれた、韓国の著名女流作家のことを思い出し、本稿を書いてみた。

同作家は、李寧煕(いよんひ)氏。韓国大手新聞社「韓国日報」の政治部長・論説委員長から国会議員(1981年)を経て、韓国女流文学会会長を歴任。

私は、李氏が来日されたた折、2日間奈良県桜井の「万葉の道」やその周辺の「古代天皇の古墳群」散策の案内役を務めたことがある。

その際李氏が、「軍事、政治メッセージに秘められた万葉集」という驚くべき学説を聴かされたのである。

韓国の李氏が、どうして日本の「万葉集」と関わりを持ったかというと、李氏が韓国国会議員だった当時、日本の高校の歴史教科書に韓国関係の記述が歪曲されているという問題が提起されたことから、日韓両国の国会議員による特別委員会が設けられ、その委員として調査に乗り出したのがきっかけだったという。

つまり、歴史書が歪曲されているかどうかに追求するには、どうしても日本の古代史にまで遡って検証する必要があった。そのために両国歴史書を克明に調べている内に、日本の「万葉集」に魅せられて仕舞ったのだという。

まずは「万葉仮名」の研究に惹かれたらしいが、その中で重大なことは「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語で判読出来ないとされている歌のほとんどを、韓国語で詠んでみると、総て詠み通せるうえ、解釈も可能であることを見つけ出したというのだ。

これは当時としては大発見に間違いなかった。

帰国した李氏から、私に李氏著書「もう一つの万葉集」(文藝春秋刊1989発刊)が送られてきた。読んでいくうち「日本語訳では見えない様々な謎」が書き込まれおり、驚愕した。

その中で、特に目を見張らせる下記の記述だった。

<万葉集20巻、4516首の内に、日本語では判読できない「未詳歌」とされているのは3首あり、このうちの1首に恐るべきメッセージが織り込められている。斉明天皇(655年即位)の意中を、額田王(ぬかだのおおきみ)が代詠した歌が、それである。

◆原文:  金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念<巻1の7・未詳歌>
・日本語よみー(秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 刈廬(かりいほ)し思ほゆ)

・この歌は、従来の「日本語解釈」では、こうなっている。
(秋の野の 萱(かや)を刈って屋根を葺き 旅宿りした 宇治のみやこの 仮の庵が思われる)。

しかしこの解釈では、額田王が何を言いたいのか、さっぱり意味が伝わってこない。だからこの歌が、解釈不能または解意不明なことから、公式に「未詳歌」とされてしまったのだ。

そこでこの祥らかでないこの歌の原文を、韓国語で読んでみると・・・。

(徐伐『そぼる』は 鉄磨ぐ 締め苦しむること勿れ 上の都は 刀来るぞよ 陣地固めよ)
・韓国語で詠むと―(新羅は刀を磨いで戦いに備えている。締め苦しめないといいのに・・・。吾がお 上の、百済の都は、敵が襲ってくるから、陣地をお固めなされ)。>
 ということが明らかになる。

李氏の韓国語解釈をそのまま読むと、これは斉明天皇が百済に送った「軍事警告メッセージ」というのとが明確となる。

だとすれば斉明天皇が百済に対して、これほどの機密「メッセージ」を送らなければならなかった理由とは何か、その疑問にブチ当たる。

皇極天皇(斉明天皇と同じ・斉明天皇は二度即位)から斉明天皇の時代は、朝鮮半島では、新羅、百済、高句麗の3国間は極端な緊張状態にあった。

特に重要なことはこの歌は、百済が新羅・連合軍に滅亡させられた661年より13年も早く、斉明天皇自身が国家危機を予測して、あえて百済に「軍事機密メッセージ」を伝えていたことになる。

となれば、「新羅の不穏な極秘情報」を、斉明天皇は歌に秘めて、百済が滅亡する相当前から「軍事メッセージ」として伝達していたに違いない。

実は斉明天皇は、百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、百済を援けるため、難波(大阪)で武器と船舶を作らせ、自らその船に乗り込んで瀬戸内海を西に渡り、百済とは目と鼻の先の筑紫(福岡)の朝倉宮て新羅・唐との戦争に備えた。

ところが斉明天皇は、遠征軍が百済に向かう前、失意の内に亡くなっている。

斉明天皇のこれほど異常な「百済ひいき」について日韓学者の一部には、斉明天皇は、百済第三十代武王の娘の「宝」で、百済最後の王、義慈王の妹だったとの説もある。

これが事実ならば、恐らく斉明天皇自身、「万葉集」歌に秘めた「軍事警告メッセージ」の存在だ真実味を帯びてくる。

「万葉集」を古代の珠玉の日本文学と仰ぐ人たちにとっては、「万葉集の韓国語詠み」は認め難いらしく、額田王作の「未詳歌」はあくまで「未詳歌」として位置付けている。

しかし、このあと白村江の戦いの敗戦(663年)まで、百済救国にこだわり続けてきた当時の日本の歴史を見ていけば、日本と百済との関係は極めて緊密であったことは証明されている。

だとすれば万葉集愛好家でも、万葉集の中に「軍事メッセージが込められた」「未詳歌」の存在に興味を抱かれるかも知れない。「万葉集」は奥が深い。(了)


参考―・李寧煕氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」
   ・小林恵子著「白村江の戦いと壬申の乱・現代思潮社」
   ・ウィキぺディア
                             




2011年04月17日

◆始まった「大阪市長選挙」争乱

毛馬一三

統一地方選挙の前半選が終わり1週間が経ったばかりだが、橋下徹知事が代表の「大阪維新の会」が大坂で躍進したことから、今秋行われる「大阪市長選挙」へ向けた動乱が早くも始まった。

事の発端は、橋下徹知事が開票から2日後の13日に開いた「維新の会」全体会議で、「市長選に合わせて知事を辞職し、(市長選と知事選の)ダブル選という政治日程をつくる」と明言したことキッカケだった。

席上、橋下知事はダブル選を「大阪秋の陣」と表現し、「市長選、知事選で大阪の将来像を決め、大阪市役所に従わせる」と付け加えた。

ただ、自ら市長選に打って出るかどうかまでは言及しなかったが、維新の会の幹部によると、知事は大阪府・市再編を進めるため、市長選に出馬する方向に居ると示唆している。

ところで知事は、すぐさま大阪市議会第一党になった「維新の会」と、大阪市議会の「公明、自民、民主の既成政党3会派」が、「大坂都構想を協議する場」を設置したいと申し入れる二の手を打った。

ただ、橋下知事は、協議はあくまでも政党間で行うもので、「大阪府や知事としては協議には参加しない。府は政党間の交渉のサポートに徹したい」と述べ、平松市長と協議する意思の無いとの予防線を張っている。

これに対して公自民の既成政党3会派は、知事がこの協議の場では「大阪都構想」は「白紙」で臨みたいとの意向を示していることなどから、これを拒否する理由はないとして参加に前向きな意向を見せている。

そんな中で、大きな動きが出た。いままで「反・都構想」で市長と共闘してきた自民党大阪市議団の幹事長が15日、今秋の大阪市長選では、自民として独自候補の擁立を検討する意向を表明したのだ。

同市議団でも「当たり前の判断」として、幹事長発言を支持する声が圧倒的だ。

同じ共闘会派だった公明会派も、市長自ら街宣車で、「維新の会」の「都構想」を「亡構想」だと街頭演説することも無く、特に「反都構想」を訴える候補者の個人応援にも駆けつけなかったことにも反発。この辺りから平松市長と距離を置く見解が広まりつつある。

一方、肝腎の平松市長を支えて来た与党の民主党も、中央政局の影響も加わって、議席が選挙前の半数以下に惨敗した。今や「市長選挙まで考えている余裕はない」と、身動き取れない本音を漏らしている。

それもそうだが、高い人気を誇る知事が市長選に出馬すれば、まともに対抗できる候補者の擁立は不可能な上、敢えて「負ける戦はしたくないし、橋下氏との対決はしたくない」という判断が公自民会派で支配的になってきている。

それらが平松邦夫市長の再選を目指す動きを、「静観」するか、「阻む」かの動きに広がる要因に結びつきつつある。

当の平松市長は、次期市長選への態度決定の時期について、「(次期市長選の直前)ギリギリでも構わない」と発言して、静観の態度を通す姿勢を見せている。

いずれにしても、「市議会3会派との協議」は「白紙」で臨むという知事の公言は、レトリックに等しいとみる向きもあり、故に「区長の公選制」や「市の8分割」の「都構想」は受け入れない態度は崩さないとしている。

従って、この「協議の場」が今後どのように進展するかは未知数で、今秋の市長選までに開かれる5月、9月、10月議会開催期間の中で、この動向を平松市長がどのように使い分けて、動乱を凌ぎ、市長再選へ繋げて行くかも一つの鍵になりそうだ。(了)
                                     2011.04.16


2011年03月02日

◆大阪を行脚していた与謝蕪村

毛馬一三

江戸時代中期の大阪俳人で画家である与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれている。生誕地が大阪毛馬村と余り周知されていない事実のことは本誌で既に触れている。

しかし、蕪村が俳人として大阪の中心部を活躍の舞台にしていたことには触れていない。むしろそれに気づかなかったのが本当のところだ。それはこれから追々。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸に下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な郷愁は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

おそらく、京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲からも過酷ないじめに遭わされたことなどから、意を決して毛馬村を飛び出したのに違いない。

しかも蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だ。だが、どうしてこんな超有名な俳人に師事し俳諧を学ぶことができたのか、田舎の毛馬村と江戸との結び付きや、師匠との今謂うコネがどうして在ったのか、ミステリーだらけだ。しかもこの時蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。


<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、頻繁に大阪にやって来ていたことが、最近分かってきた。船から陸地に上がったのは、生誕地毛馬村とは全く正反対西側の淀屋橋や源八橋からで、ここから大阪市内にある数多くの門人らを訪ねて回っている。

蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ね、大阪の蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を巡行している。ということは大阪市内のいたる処を回っていたことになる   

特に、門人の吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この間「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚も活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

早い話、蕪村にとり大阪は活躍の場だった訳だ。これもあまり知られていない。

こんな折、驚く情報と嬉しい要請が飛び込んできた。

大阪市中心部の北区梅田に茶屋町がある。ところがここに「菜の花や月は東に日は西に」の蕪村句を刻んだ高さ1m、幅50cmの碑があるのを初めて知り、見に行ってきた。この地では一昨年から地域の有志がこの句碑を中心に菜の花を植え、「菜の花の散歩道」というテーマを掲げて、いろんなまち起こしイベントを催している。

この句を、この茶屋町で蕪村が出句したかどうかはわからないが、茶屋町の周辺に蕪村が立ち寄っていたことは事実なので、これに因んでイベントを企画したという。しかも嬉しい要請とは、このイベントに私が主宰するNPO法人近畿ホーラム21の俳句つくり講座「句会」を催して欲しいとの要請があったことだ。

申し出を受け、この3月の同イベントの一環で、2回「句会」を行うことになった。

こうした話は、他の地域からも打診が相次いでいる。後世のために大阪俳人蕪村を顕彰し、文化振興活動をしようという当NPO法人の「句会」の試みは、立ち上げから1年が経ってようやく実り始めた。

本命の俳句つくり本「句会」講座も2期目を終え、この3月27日、「知事、市長、教育委員会委員長」の各賞を授与する「表彰式」を大阪市造営の「蕪村公園」で行う。と同時に4月からは、第3期講座を開講する。

大阪を行脚して回り俳人としての名を高めた与謝蕪村の俳句を、出来れば外国にも広めて行くことを、各大学と共同して進めたいとも考えている。(了) 2011.03.01

2011年02月07日

◆どうなる「大阪都構想」

毛馬一三

名古屋市長選、愛知県知事選、名古屋市議会の解散の是非を問う住民投票が6日、投開票された。

市長選では地域政党「減税日本」代表の河村たかし氏(62)が再選を果たし、知事選では同党推薦の大村秀章氏(50)が初当選。河村氏が主導した住民投票は賛成多数で、政令指定市で初めてリコールが成立し、即日解散された
 
ところで、この選挙結果に欣喜雀躍しているのは、「大阪都構想」を掲げてこの春の統一地方選挙に臨もうとする大阪府の橋下徹知事ではないだろうか。

橋下知事の目指す「大阪都構想」とは、大阪府庁と大阪市役所を解体し、広域行政は大阪都、住民サービスは特別区が担い、区長は公選制にするというもの。

この「大阪都構想」を実現するため、地域政党「大阪維新の会」を昨年立ち上げ、自ら党首となって今回の愛知県知事選・名古屋市長選挙に70人の党員とともに現地入りし、応援演説などに駆け回った。

確かに、名古屋市が主張する「中京都構想」は、広域行政を一本化するものの、名古屋市は存続させ、区長公選は想定していないなど、具体的な仕組みの点では「大阪都構想」とは異なる。

構想自体が異なっていたとしても、自治体の長が今春の統一地方選に向け新党を結成し、目指す構想を訴えて勝利したという斬新な事例については、これからの橋下知事の挑戦と重なって映ったのだろう。

「沈み行く“大阪丸”の都市制度を一度壊し、大阪都として再生させるしかない」。橋下知事は、こんな論旨で有権者とのタウンミーティングで訴えてきている。

ところが、愛知県知事選と名古屋市長選の勝利とは裏腹に、大阪都構想を進めたい橋下知事には、異常な事態が立ちはだかって来だしている。事態は急転しているのだ。

橋下知事の当初の戦略は、今春の統一地方選挙の大阪府会・大阪市会・堺市会3選挙で議席の過半数を獲り、過半数が確保出きれば、任期途中で知事を辞任し、今秋予定される大阪市長選挙の出馬、市長に収まって「大阪都構想」を実現するものだった。

しかも、「もし、過半数取れなければ、知事を辞職し自宅に籠もる」とまで言い切った。つまり、過半数獲得には、70%余の異常な高支持率の知事に支えられた維新の党の候補者はほぼ当選し、結果として3議会での過半数は確実に握れるとの自信があったのではないか。

ところがその思惑が今急激に崩れ出している。有権者の意向も知事の「都構想」の説明不足に不満を募らせている。しかも市長選出馬にも諸手を上げていない。

<知事が可能性をちらつかせる自らの大阪市長選出馬については、知事支持層からも反対意見が強かった。 知事が可能性を言及している自らの大阪市長への転身は、都構想に賛意を示す人でも賛成46%、反対40%と意見が割れた。知事の支持層では反対が45%で、賛成の39%を上回った>。 <朝日世論調査>

こうした中、知事と平松市長のバトルは、日増しに激化している。「大阪府にとって大阪市の存在は目の上のたんこぶかもしれない。ずっと我慢してきたが、大阪都構想は『大阪都妄想』でしかない」と、平松市長は厳しく「大阪都構想」を批判している。

これに加え、民主・自民・共産各党は反対し、公明党も知事と一線を画す。

となれば、知事が目指す大阪市議会での「過半数獲得」の読みは、事実上崩れた格好になっている。

さらには、これまで知事と親密だった竹山修身堺市長までもが、「大阪都構想」と距離を置くことを表明した。しかもこの動きを受けたためか、堺市議会の会派からは「維新の会」の候補者として出馬する議員が出ない事態がおきている。

となると、知事の当初の戦略は、根本から見直さなければならなくなってくる。議会の「過半数獲得」が不能であれば、大阪市長選出馬も現実味が薄れてくる。

はたして、「過半数獲得」を反故にし、それとは切り離して強引に市長選出馬を目指す政治手法を選択するだろうか。府民の動向に敏感な知事の選択肢にはおそらく、それはないだろう。(了)         2011.02.06