毛馬 一三
与謝蕪村学者の藤田真一教授(関西大学文学部)が、「蕪村」〜日本人の心の言葉〜を綴った新著を発刊されました。
発行所は椛n元社で、8月中旬から書店で発売されています。(本体1200円+税)。
著者の藤田教授には、これまで「俳人蕪村」に関する多くの著書・監修誌がありますが、大部分は「蕪村俳句・絵画」についての専門学説の論述が主です。
ところが新著は「蕪村の絶妙な言語感覚」や「俳句を作る時の環境やこころの動静」などが中心に書かれており、著書内容によって学説では接したことがない「未知の蕪村像」が浮かび上がってくるのです。誠に異色著書と云えます。
そこで、この感動的な著書をご紹介したいと考え、著書の冒頭に書かれた「はじめに」の欄を、下記に掲載させて頂きます。是非、藤田教授新著の「蕪村〜日本人のこころの言葉」の、拝読をお勧め致したいと存じます。
<画家・俳人というと、描こう描きたい、吟じよう吟じたいという、作者本人の意欲というものが先行する気配があります。もちろん蕪村とて、みずからの意思や願望を抱いて制作にむかう気持ちはあり余るほどに有していたことでしょうが、それと併せて、依頼主や仲間の意向にも精いっぱいのこころを用いたはずです。
自己実現と周囲との協調とがあいまってこそ、蕪村の制作舞台は整えることができたのです。
蕪村は、一介の町絵師にすぎませんでした。むろんときには自発的に描きたいと思うこともあるでしょうが、それとて顧客の嗜好を無視することは出来ません。蕪村の絵筆は、贔屓し、支援してくれる人びとともにあったのです。
俳諧となるとなおさら、仲間や門人といったまわりの人びと(連衆)が欠かせません。句会でも、吟行でも、句集の出版でも、孤高・独断おいうことはまず考えられません。
蕪村も人並みに夜半亭という宗匠となりますが、蕪村にあっては、上に立って指導するというより、句作の上達をめざしてともに歩むという姿勢が強く感じられます。
顧客の好みや視線を意識しながら、蕪村にしか描けない絵をかき、蕪村にしかよめない句をつくったのです。そしてそれらが今なお、多くのひとを引きつけてやまないのです。
ジャンルをまたいで、散策することによって、蕪村の未知の魅力がさらに浮かび上がってくるにちがいありません。生誕三百年を目前に控えたまさに今、蕪村の神髄にいっそう迫る好機といってよいでしょう。
ただし作品を遠目から観察しているだけではだめです。蕪村の懐にはいり込もうとする心構えが何よりたいせつです。
その道を歩もうとするとき、手紙がかっこうの道しるべとなります。作品からは見えてこない蕪村の日常の姿を目にし、飾らない声を耳にすることができます。
先年完結した「蕪村全集」全九巻(講談社版)には、四百五十通もの手紙が収録されています。仕事にかかわる記事がもっとも目につきますが、身近な日常茶飯の話題にも事欠きません。家庭生活はもとより、門人・友人との応答、洛中の種々の噂、畿内また地方のトピックなど、多岐多端にわたり、そこから当人の息づかいが感じられるのです。
まさに蕪村の懐にはいる絶好の入り口となり、その時代のなかで蕪村の姿にまみえるにはうってつけつけです。本書では、これらさまざまなレベルの蕪村のことばに接することができるよう努めました。 >
身近な日常茶飯の話題や多岐多端にわたって蕪村の息づかいが感じられるのが素晴らしい内容です
これが、藤田真一教授著書の「はじめに」欄に記された著作の意向です。
序でながら、こうした意向を盛り込まれたあとに、本論の「目録」を期しておきましょう。
◆まず、「言葉編」で、
1.遅咲きの偉才
2.画俳ふた道の華
3.交誼の輪
4.時空の夢
が、綴られています。
◆締め括りとして「生涯編」があり、
1.略年譜
2.蕪村の生涯
と、なっています。
ところで、「生涯編」の「蕪村の生涯」の中に、非常に興味深い事実の綴りがありましたので、下記に紹介させて頂きます。
<貴族でも武家もなく、担い手がまさに庶民である俳諧は、家柄や身分にこだわらないので、誕生から幼少期の記録が残っていないことが多いのです。蕪村ですらそうです。
蕪村のばあいも、生い立ちにかかわる事象はほとんど謎に包まれています。蕪村はことさらに、みずからの意思で、あからさまにすることを控えていたふしがみられます。
生前、他人に報じた唯一の資料は、伏見の柳女・賀隋母子に宛てた手紙に、「春風馬堤曲」に、(馬堤は毛馬塘也、則。余が故園也)という一節があるのみです。
柳女の夫は、鶴英と号した俳人で、蕪村と活動をともにした人物です。没後、妻子が蕪村門に入ったのですが、そんな人でも蕪村の出身を知らなかったことになります。生家については、いっそう明かせない何かがあったようです。
ただ、一番弟子」の几董はさすがに承知していたらしく、追悼文の初稿では、「浪速津の辺りちかき村長の家に生い出て」と書き、さらに病床にはふたりの姉が見舞いに来たとしるしてあります。
そういえば後年、京都から何度も大阪におもむくことがあっても、ただの一度たりとも実家に立ち寄った形跡はありません。伏見から船で淀川をくだるとき、かならず目前を毛馬の村がよぎるにもかかわらず、です。先ほどの手紙には続けて「言葉編」冒頭に出したこの文章がきます。
余、幼童之時、春色清和の日には、必共どちとこの堤上にのぼりて遊び候。
水ニハ上下ノ船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ。
還暦を過ぎての回想だけになつかしむ心情に満ちあふれています。けしてふるさとを嫌っていたわけではないのです。でも、どうしてだか帰省するに至っていないのです。この引き裂かれた気持ちが、絵にも俳諧にただよう。なつかしさの香りにつながるのかもしれません。>
ところで、蕪村が俳諧、絵画に向かった時の「環境と心のあり様」は、新著をじっくり、読み感動したましが、筆者にはまだまだ「蕪村幼少期の謎」の想いが心を巡ります。
蕪村は、享保元年(1716)、大阪摂津の国東成郡毛馬村の庄屋の家に生まれました。蕪村の母は、京都丹後の与謝から「毛馬村長の家」へ「奉公人」として来ていました。ところが時が移ると、村長の妾となり、蕪村が生まれたのです。生誕日は不明。
こうした中、「春風馬堤曲」にあるように「幼少期」は、家系を継ぐ者としてか、家族からも、もてはやされ楽しい時を過ごしていたことは間違いないと思われます。
ところが、蕪村の人生を大きく変えることが起きました。蕪村が僅か13歳の頃、毛馬で母が亡くなり、村長も跡を追う様に間もなく逝去して仕舞う不幸が舞い込んできたのです。
蕪村は、結局「妾の子」だったため、一転して村長家一族からからは「過酷な苛め」に遭わされたようになったようです。しかも父の死去に伴い毛馬の庄屋家業も、「極貧庄屋宅」に変容して仕舞い、蕪村に家系を継ぐ話など出る筈もなかったのでしょう。
以来、生家「庄屋宅」で、蕪村は身を縮めて生きていかざるを得ない苦境に追い込まれていったというのです。これは室生犀星の状況と全く類似していると「学説」にも出ていると聞いています。
つまり、この「幼少期の不幸」が、望郷の念は人一倍ありながらも、毛馬の生家へ一度も寄らなかったのは、「幼少期の極いじめの経過」が、「帰郷拒否の念」心境増幅に繋がり、帰郷する気持ちを完全に阻んだものに違いありません。
藤田教授の新著「蕪村」は、学説とは少々異なり、教授の想いが随所に現れていて、本当に感動して読める書物になっています。
こうした中で、筆者の前記の想いを繋げて心を浮き立たせ、ミステリー小説としてでも書こうかと思っています。
最後に記述しておきたいのは、著作の背表紙に「生誕300年ー響いてやまぬ絶妙な言語感覚」書かれています。
筆者らは、2016年に迫って来た「蕪村生誕300年記念行事」を大阪市立大学と兜カ學の森と共同して、俳句文化振興と後世への伝承のために実行いたします。
どうか、芭蕉、一茶と並ぶ江戸時代の俳人「蕪村」をよく知ってもらい、生誕300年記念のためにも、この貴重な藤田真一教授の新著「蕪村」(創元社刊)に目を通して頂きたいと存じます。 (了)