2014年02月14日

◆韓国「青瓦台」襲撃未遂事件

毛馬 一三


北朝鮮と韓問の間が依然緊迫している現状を考えていた時、ふと1968年に北朝鮮ゲリラが韓国大統領府「青瓦台」襲撃未遂事件のことを、思い出した。

私は当時NHK大阪府庁キャップをしていたが、同事件に深い関心を覚えたため、休暇をとって単独で渡韓し、既知の有力新聞社社長の紹介で政府公安機関の要人と面会し、事件の「詳細」を個人的に“取材”した。

その取材内容の詳細は、「公」には出来なかったが、思い出した序でに、書斎に補完していた当時の「取材メモ」を探し出し、あらためて読み直してみた。

その韓国青瓦台奇襲は、1968年1月21日夜10時を期して決行する命令が、金日成首領から金正泰を通じて出された。青瓦台奇襲部隊は組長の金鐘雄大尉(事件後4日目に射殺)ら31名で、唯一生き残った金新朝も一員だった。

全員が機関短銃1丁(実弾300発)、TT拳銃1丁、対戦車手投げ弾1発、防御用手投げ弾8発と短刀で武装した。

奇襲部隊は、1組が青瓦台の2階を奇襲して朴正煕大統領と閣僚を暗殺、2組は1階を襲撃して勤務員全員を殺し、3組は警備員、4組は秘書室全員射殺というのが任務だった。

16日の午後、黄街道延山基地を出発。途中軍事休戦ライン南方の非武装地帯を緊張しながら訓練通り過ぎ、ソウルに真っ直ぐのびる丘陵を辿った。歩哨所や検問に遭遇しなかったため。金組長は「南」の士気が乱れている所為だと勘違いした。このため、31人全員が隊列を組んで堂々と行軍するという行動に出た。

だが行軍しているうち、「戸迷い」にぶち当たった。所持した地図に従いソウルにいくら接近しても、「北」で教育されたような荒廃している筈のソウル市街は21日の夜になっても現れてこない。

南下すればするほど煌々とした市街地が現れてくるばかりだ。「これはソウルではない」。「じゃ、一体ここは何処なんだ」。「北」の教育が間違っているとは、一瞬たりとも気付かないミスを更に重ねた。

その上に韓国軍の服装、装備に身を固めている限り怪しまれることはないと思い上がった金組長が、敵地で初めて出会った韓国人2人に「訓練中に道に迷ったのだが、ソウルに行く道を教えてくれないか」と、さりげなく問うた。

奇襲隊に遭遇した2韓国人は、ソウルへの道筋を一応教えたものの、不審に思った。

<眼下に広がるソウルを韓国軍人が知らないなんておかしい。発音も韓国訛ではない。まして前年6月から「北」の武装スパイが上陸して韓国軍から射殺された事件も2人は知っていた>。2人は急ぎ山を降り、警察に通報した。

奇襲隊は21日夜9時、ソウル北方紫霞門の坂道を通過しようとして、警察の検問にひっかかった。尋問を受けた奇襲隊は慌てて機関短銃を乱射し、市バスと民家に見境なく手投げ弾を投げた。

奇襲隊は、青瓦台の800m手前まで迫りながら、韓国軍と警察の掃討作戦によりちりじりに撃退された。2週間に及ぶ掃討作戦により、金新朝1名が逮捕され、他は全滅させられた。この銃撃戦で韓国側は、崔警察署長を含め68名が死亡している。

序でながら私の「メモ帳」を見ると、青瓦台襲撃に失敗した「北」は、10ヶ月後の11月2日、襲撃組長金鐘雄大尉ら31名の同期生120人のいわゆるゲリラ別斑が、韓国慶尚北道蔚珍郡と荏原道三に海上から「南」に進入している。

このゲリラ隊は、山岳地帯の小部落を武力で占領、赤化せよという工作命令を受けていた。部落民を集めて赤化を強要する「部落拉致事件」。事実従わない者は短剣で刺し、石で殴り殺すという虐殺を行っている。

「共産党は嫌い」と叫んだ李承福という10歳の少年の口を引き裂いて殺した。断崖絶壁をロープでよじ登り、部落を占領して住民を」拉致し、赤化地帯にするという想像を絶するこの「北」のゲリラ事件は、何故かわが国では余り知られていない。

「メモ帳」を見返しながら、これら青瓦台襲撃未遂事件は、文世光事件がつながり、結局は、「北」による日本人大量拉致事件にも結びついていると、改めて考えざるをえない。

「北」はこのような稚拙な韓国急襲攻撃などを繰り返すことは無いだろう。

ところが、国連安全保障理事会の北朝鮮制裁委員会の安保理パネル年次報告によると、パナマが拿捕した北朝鮮貨物船から大量の兵器が見つかった事件の背後に、中国やシンガポールに拠点を置く複数企業関与があるとし、「制裁逃れを目的とした(国際)組織網」の存在が伺えるると明記した。(共同通信:2月13日)

つまり「北」は、今世界に向けて「兵器輸送に国際組織網」を創り上げているのだ。 だとすれば、今後「北」は対韓・対日にどのような改善対応をして行くのだろうか。(了)
  

2014年01月21日

◆「納豆」を食べよう!

毛馬 一三


私の苦手な「納豆」が、骨粗鬆症の予防に効果があるという記事を読んだ。だったら、これからもっと「納豆」を食べることに挑戦しなくてはなるまい。それはこのあと云々。

私は九州の筑後地方で幼少期を過ごした田舎育ち。日露戦争で活躍した日本旧陸軍「久留米師団」の軍事施設がわが家の近くにあったが、周辺全体が農村地帯だったので大東亜戦争が終ったあとも、米や野菜など食糧難に接した記憶はない。

だが、有明海や博多湾からはかけ離れていた所だったので、「海の生魚」には縁がなく、塩漬けのサバなどをリヤカーに積んで売り歩く行商から「塩漬け海魚」を買い求め、焼き魚にして食べさせられたことは、今でも思い出す。

ところが珍事がある。どうしたことかわがまちには「納豆」の売る店も、行商も一切なかった。だから「納豆」を食することはなく、名前すら知らなかった。勿論、我が家が「納豆」を何かの因縁で食膳から避けたという話も聞いたこともない。

「納豆」に初めて出会ったのは、18歳の時東京に進学して、下宿先の食卓だった。「納豆」にネギ、わさび、醤油をいれてかき回しご飯の混ぜて食べるものだったが、異常なねばりによる味と、腐ったような異臭に思わず顔を背けた。以来食しなかった。

しかし、横浜生まれで「納豆」常食していた家内と結婚してから、健康のために食べようと説得されたことで、「納豆」に卵の黄身、ネギ、醤油、からしを混ぜて食べることにチャレンジした。その食べ方が予想外に馴染んだので、「納豆」食べを始めた。

ところが、そのあと「納豆」にセットされて売り出された「味付き特別たれ」も美味しかったことから、その「たれ」をかけた「納豆」を「おかず」として食べるようになった。

そんな折、骨粗鬆症などの予防に「納豆」などに効果があるという新聞記事を読んだのだ。
同紙によると、

<納豆などに多く含まれる成分「ポリアミン」に骨量の減少を抑える効果があることを、金大医薬保健研究域薬学系の米田幸雄教授らの研究グループがマウスなどによる実験で突き止めた。

ポリアミンは老化抑制効果が注目されているが、骨への効果が判明したのは初めて。骨粗鬆症などに対する副作用が少ない予防、治療法の開発につながるとみられる。

米田教授や檜井栄一准教授らのグループは、骨粗鬆症モデルのマウスと、関節リウマチモデルのラットにそれぞれ28日間、ポリアミンを混ぜた水を投与した。

骨粗鬆症モデルでは何も与えない場合、骨量が3〜4割減少したが、ポリアミンを投与したマウスはほとんど減少しなかった。関節リウマチモデルでは、何も与えない場合と比べ、骨や軟骨が破壊される量が3分の1程度に抑えられた。

さらに培養細胞実験で、破骨細胞にポリアミンを加えると、細胞の働きが抑制されることも確認した。

米田教授は「ポリアミンは納豆など日本人になじみの深い食品で摂取でき、副作用も少ないとみられる。特定保健用食品や医薬品などの開発につながる」と話した>としている。

たしかに高齢の時期になってくると「骨粗鬆症」が原因で股関節を骨折し、寝たきりになったという話よく耳にする。

序ながら「骨粗鬆症」に触れておこう。

<骨粗鬆症(osteoporosis)とは、骨形成速度よりも骨吸収速度が高いことにより、骨に小さな穴が多発する症状をいう。背中が曲がることに現れる骨の変形、骨性の痛み、さらに骨折の原因となる。

骨折は一般に強い外力が加わった場合に起こるが、骨粗鬆症においては、日常生活程度の負荷によって骨折を引き起こす。骨折による痛みや障害はもちろん、大腿骨や股関節の骨折はいわゆる高齢者の寝たきりにつながり、生活の質(QOL) を著しく低くする。> 出典:ウィキペディア

「納豆」好きな人には恥ずかしいことだが、これからは食べることに抵抗を感じなくなってきた「納豆」を、毎日食べるような常食にしようかなという思いが湧いてきた。

なお、心臓病や脳梗塞の治療を受けて、「抗血液凝固剤「ワーファリン」を飲んでいる人は、「納豆」は禁忌とされているそうです。どうか「ワーファリン」を飲んでいる人は、絶対に「納豆」は食べないでください。        (了)

2014年01月01日

◆明けましてお目出度う御座います

毛馬 一三


今年もよろしくお願い致します。

皆さには、本誌「百家争鳴」と「今日の切り抜き帳」等掲載の日刊「ネットメディアおおさか」を拝読頂き、厚くお礼申し上げます。

本誌には、先輩の渡部亮次郎氏主宰の「頂門の一針」(http://chomon-ryojiro.iza.ne.jp/blog/)と杉浦正章氏の「評論:永田町幹竹割り」(http://thenagatachou.blog.so-net.ne.jp/)から中央政界の情勢や外交問題、そして柔らかい話題等の原稿のご寄稿を頂くとともに、その他著名者からの特別寄稿も頂いております。今年も本誌は充実した記事発刊をつづけて参る所存でおります。

ところで今年の大阪は、何と言っても「橋下維新の会」動静が、最大の焦点となります。

維新の会発足の最大の目標は、「大阪都市構想」の実現でした。政党「維新の会」の代表になった橋下大阪市市長は、石原前東京都知事と連携し、中央政界でも注目を集めました。

しかし読売新聞によると、維新の会は、<5月の橋下氏のいわゆる従軍慰安婦問題についての発言で国民から厳しい批判を受け、7月の参院選で伸び悩んだ維新に、巻き返す力は残っていなかった。最後まで防戦一方。

しかも、2015年春の統一地方選に向けた日本維新の会の「近畿ブロック維新政治塾」(塾長=橋下徹共同代表)への応募者も、当初見込みの300人を大幅に下回る105人だったことがわかった。

昨春、国政進出に向けて初めて開講した「維新政治塾」には全国から3000人を超える応募があり、維新の退潮傾向が浮き彫りとなった形だ。

一方大阪市議会では、将来的に市立・府立両大学を統合して理事長を1人にするため、まずは市立大の理事長と学長の兼任をやめようとした議案も否決された。市営地下鉄・バス民営化議案は異例の3度目の継続審議となった。>と書いています。

注目すべきことは、「維新の会」が掲げている「大阪都市構想」実現を図る意向を示してため争った「大阪府堺市長選挙」で、同大阪都市構想に真っ向から反対する現職の竹山修身市長に敗れ、維新の会は大きな打撃を受けました。

維新の会としてはこれから、「大阪都市構想」の実現にむけて直接「住民投票」を求める議案を市議会に提出しますが、これも苦境です。

私自身は、安部総理の「靖国神社」参拝には賛意を持っています。しかし外交問題では、諸外国に理解を求めて行く安部総理の労苦は、これから始まるでしょう。ただ、中国韓国の主張する歴史認識の違いは、一向に理解できません。

マスコミは、いかにも中国韓国の主張が正しいように報じていますが、本誌「百家争鳴」の掲載寄稿を熟読して、わが国が進むべき途を熟慮して下さい。


ところで私事ながら、昨年の後半、厳しい腰痛や怪我に見舞われ大変な年でした。腰痛は6年前に行った「脊骨すべり症」の手術を行い、手術そのもは成功しました。

しかし脊骨の間に埋め込んだ滑り防止の囲みの鉄枠が下部位置の神経を刺激するようになって激しい腰痛となり、歩行が500bも出来なくなくなり、長時間椅子にも座る事も困難になりました。

このため、整形外科診療所の診断により、リハビリを昨年の7月から自転車で毎日通い続けていました。

ところが昨年12月初旬、登校で飛び出してきた生徒を避ける為、急ブレーキを掛けたところ誤って横倒しとなり、何と左肋骨内の肋軟骨複数を骨折しました。

左肋骨の軟骨は3か月を要するということで、毎日腰痛リハビリと合せて通院するため、止む無く自転車通いは続けています。「病気」、「不慮の事故」とは、恐ろしいものです。

しかし、新年からは健康と事故には特段の留意をして行きたいと思っております。私事ながら失礼しました。

今年も皆さまのご健康を心からお祈りいたし、本誌「百家争鳴」と「今日の切り抜き帳」に目を向けられ、特に「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏と杉浦正章氏の「評論:永田町幹竹割り」、特別寄稿者の方々の掲載記事を拝読されますようお願い申し上げます。                      (了)

2013年12月18日

◆「大阪維新の都構想」は頓挫か

早川 昭三


大阪維新の会(代表 橋下徹大阪市長)が掲げた最大の政治目標は、東京と並ぶ「大阪都構想」の実現だった。これを以て石原元東京都知事と意気投合し、政党「維新の会」を発足。中央政界に足を踏み込んだ。

ところが今回、大阪市議会だけでなく、大阪府議会でも過半数割れの事態となり、最大の政治目標の「大阪都構想」の実現が、頓挫する様相になってきた。

ところで橋下氏は、2011年12月に市長となった翌12年2月、まず「橋下改革に関する議案の提案し、定例大阪市議会で早速国歌起立条例などを可決した。

その上で、「大阪都構想」の実現に取り掛かった。大阪維新の会幹事長の松井一郎知事と手を組み。「府・市共同」して「大阪構想実現」を進め出した。

まず、大阪市を分割して府と再編するための「大都市制度推進協議会」の設置条例に精力を傾け、成立させた。この頃は市民から「改革市長」としての支持率の高さを受けていた。

しかし橋下氏が率いる大阪維新の会は、大阪市議会で過半数に満たない少数与党。その影響をもろにうけて、維新の立場が急変し出した。

風向きが急速に変わったのは、今年に入ってからだ。橋下氏のいわゆる従軍慰安婦を巡る発言があった5月、橋下氏の宿願でもあった大阪府内の水道事業一元化を目指す議案が、維新以外の各会派の反対で否決された。
議会では、次第に他会派の態度がさらに厳しくなりだした。

市立幼稚園の廃園・民営化議案は19園のうち認められたのは5園だけ。将来的に市立・府立両大学を統合して理事長を1人にするため、まずは市立大の理事長と学長の兼任をやめようとした議案も否決された。市営地下鉄・バス民営化議案は、異例の3度目の継続審議となった。他会派の反発強まった結果だ。

そんな中この度急変が起きた。大阪府議会で、知事与党で議会過半数を占める最大会派の維新議員4人が造反し、維新の松井知事が一気にやり抜こうと考えていた「「泉北高速鉄道」を米投資ファンドに売却する議案が、過半数に満たず否決された。

松井知事、橋下市長にとっては、夢にも抱いていなかったことだった。松井知事は、維新の会の4人の議員が採決で反対票を投じたことについて「維新の会として許せない」として、造反4議員を除名した。

その上で松井知事は「大阪市議会だけでなく、大阪府議会でも維新の会は過半数割れになる」と判断、これから維新が目指す最大政治目標の「大阪都市構想」実現に懸念を示した。

維新の目指す「大阪都構想」の前提となる「住民投票」を実施するには、まず大阪府議会と大阪市議会で、区割りなどを定めた協定書について過半数の賛成を得て可決しなければならない。

ところが、市議会も府議会も過半数に満たないため、「都構想審議」への影響は必至だ。

維新代表の橋下市長は、造反が出て結束が崩れたことに対し「統一選改選が近付き、維新から離別の機会を探っていただけ」と、橋下流の口上で述べている。

しかし、橋下代表や維新の支持率は低迷してきているだけに、改選を迎える議員の維新離れは避けられそうにない。しかも橋下代表は、これから公明党と話し合いをしていったらいい」と述べ、公明党だけに頼る姿勢を覗かせている。

だが公明党は、「今回の府議会否決は、市民の意向を拾えなかったものであり、大阪都構想審議も議論すべき点が多過ぎるので、是々非々で臨む」と言っている。と云うことは、公明党も維新に近寄る気は見られない。

今、維新内には衝撃が走り、維新の会全体が窮地に追い込まれてしまった。要は、両議会とも過半数をわったことで、政党立脚お題目の「大阪都構想」が頓挫するという公算が強くなってきたと言えるだろう。  (了)

2013年12月04日

◆福岡市博物館に戻った「国宝金印」

毛馬 一三


国宝の金印「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」は、元々福岡市博物館に在ったが、平成23年12月から同館改修工事のため、福岡市美術館に一旦“移転”していた。その2年間の同館改修工事が終了し、「国宝の金印」は、先月11月3日福岡市博物館に戻り、「常設博物室」で展示され出した。

どうして「倭の国の印」が、筑前国那珂郡志賀島村(現福岡市東区志賀島)南端・叶ノ浜の「叶崎」で出土したのか。福岡生まれの私自身子供のころから、不思議で堪らなかった。その「謎」の事は追々。

さて、「国宝金印」の出土からの経緯を記すと、下記のようだ。

<天明4年2月23日(1784年4月12日)、筑前国那珂郡志賀島村(現福岡市東区志賀島)南端・叶ノ浜の「叶崎」で出土。発見したのは甚兵衛という地元の百姓である。ところが近年の研究では発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそれを那珂郡奉行に提出した人物だとうという説が有力。

水田の耕作中に偶然発見したとされる。一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に、存したという。那珂郡奉行から福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥によって「後漢書」に記された「金印」であるとされた。

その後、この「金印」の「委」は「倭」の省略形で、中国史書「後漢書」(東夷伝の倭伝)に「後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に朝貢した倭奴国に印綬を下賜した」と記されており、「漢委奴国王」と印綬された「印」であることが確定した。

出土した後は、福岡藩主黒田家に伝えられ、明治維新後に黒田家が東京へ移った後は、東京国立博物館に寄託され、その後は福岡市美術館の開設に伴い1978年(昭和53年)に福岡市に寄贈された。

最初は、1979年(昭和54年)から福岡市美術館で展示されたが、1990年(平成2年)から、福岡市博物館で保管・展示されてきた>。参考ウィキペディア

さてここからが本題。

「金印」出土した場所は「志賀島」の南端・叶ノ浜の「叶崎」。そこは、福岡市内の辺鄙な処にある。JR香椎線(地方交通線)の西戸崎前から「海の中道」を経由して志賀島へ渡り、島の南側を行くと「金印公園」に至る。

私は小学生の頃、父に連れられて博多築港から遊覧船で志賀島に渡った。「金印」の出土現物付近の見学旅行だった。その時初めて「金印」の出土現場の叶ノ浜の「叶崎」を目撃することが出来、感動した。

ところが、暫くして後漢の光武帝が下賜したという「金印」が、またどうして、このような辺鄙な「離れ島」で出土したのか。これからまさに「謎」となり頭を悩ませた。「何故、志賀島から出土?」なのか。

確かに金印が志賀島に埋められていた理由については、学説にも諸説がある。

A、遺棄説 2世紀に、倭国が大乱となったため棄てられた。
B、隠匿説 同じく倭国大乱で奴国が没落したため、人里離れた所に隠した。
C、墳墓説 奴国王の墓に副葬された。
D、王宮説 奴国王の宮殿が近くにあった。
E、祭祀遺構説 航海安全祈願の施設があったから、等々である。
       出典:<「一大率・難升米の読み方と白日別の意味の一部>。

どれも該当する可能性はあるが、未だにはっきりしない。私の自身、何とか調べる方法はないのかと探しているが、老いて今になっても「謎」のままだ。

国宝の金印を所蔵する福岡市博物館のホームページにも、この「謎」に関して、『なぜ金印が志賀島に埋められていたのか。これまで「墳墓説」「隠匿説」が唱えられ論争となった時期もあつたが、全く不可解』と記している。博物館でも、突き止めていない。結局「謎」のままだ。

そこで、重複するが敢えて記して置く。

<志賀島から出た金印は、「蛇の紐通し(蛇の形の紐とおし)」が付いている。「蛇紐の金印」はそれまで中国本土はもとより、世界のどこからも発見されたことがなかった。だから偽物ではないかという風説が流れた時期もあった。
  
ところが、1956年に中国雲南省で前漢代の「てん(さんずいに眞)王之印」が発見され、これが「蛇紐」であったために、「偽物説」は一蹴された。
  
漢代の印綬制度では、漢王朝に仕える諸侯(内臣)は、黄金印に亀の紐。異民族の国家で漢に臣従したもの(外臣)は、北方民族には駱駝や羊の紐、そして東夷南蛮の王には「蛇紐の金印」が下賜されたていたことが明らかになった。

また福岡の太宰府天満宮に伝わる唐時代の辞書「翰苑」の巻三〇蛮夷の部の中の倭国の記事に「中元之際紫授之栄」とあり、紫綬の金印が光武帝より授けられたことが記されている。

これによって志賀島の「金印」は、前述のように後漢の光武帝から下賜されたことがしっかりと証明されたことになる>。参考:ウィキペディア

つまり光武帝からの下賜であることははっきりしたものの、その「金印」がどうして「志賀島から出土したか」は、これからも「謎」のままなのだろうか。

序でながら、考古学者から聴いた「謎」に絡む話を記述しておきたい。

それよると、<「委奴国の部族神・綿津見神の本貫地と、卑弥呼の本貫地」が、同じ志賀島であるという説があるという。つまり両者は、同じ綿津見神を奉戴する同じ氏族集団発祥の地の部族の同じ出身であり、卑弥呼は委奴国の王族であるという説だ。

となると、光武帝からの下賜された「金印」の所有者の部族神は綿津見神であり、そのために「金印埋納場所」の場所が、部族の聖地であった志賀島に選ばれたのではないかということだ。

これが、志賀島で「金印」が出土した「謎解きの新説」になるかも知れないと、その考古学専門家は言っていた>。

ご承知のように、2世紀後半に卑弥呼が委国の乱を収めて初代王になったことははっきりしているが、邪馬台国の場所は、九州説と近畿説に分かれている。

だが、「志賀島が卑弥呼の本貫地」だという話を聴かされ、心が躍った。

志賀島での「金印の出土謎」は、まだ続くだろう。

不覚にも、「国宝金印」を、私は未だ見ていない。早い内に福岡市博物館を訪ね、展示されている「一辺2.3pの四角形、台部分の厚さ約9o、総高約22o、重さ108.7gの純金製(22金)」にお目にかかりたい。(了)

◆本稿は、本日12月4日の全国版Web「頂門の一針」に掲載されました。同誌には多彩な有名寄稿者の原稿が毎日掲載されています。どうか多岐に亘る興味深い同誌をご拝読下さい。

・購読(無料)申し込み御希望の方は、下記のホームページで手続きして下さい。
  http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm


2013年11月25日

◆「謎」に包まれた「俳人蕪村幼年期」

毛馬 一三


つい先日、寄稿者の眞邉峰松氏から「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏が執筆された(11月19日掲載)「ふるさとは遠きにありて」を読んだ処、「何か俳人与謝蕪村を彷彿させられました。そう感じませんか?」という連絡を貰った。

2年半後に大阪で「蕪村生誕300年祭」を実行する同志の眞邉峰松氏からの教唆だったが、確かに読めば
真から同じように感じたものだった。これに絡む蕪村の「謎」に包まれた「幼年期」もこれから追々。

まず、渡部亮次郎氏執筆の「ふるさとは遠きにありて」を改めて挙げさせて頂く。

<ふるさとは遠きにありて・・・

この言葉で始まる室生犀星(むろお さいせい)の詩は「・・・想うものものそして悲しくうたうもの よしやうらぶれて異土(いど=外国)の傍居(かたい=こじき)となるとても 帰るところにあるまじや」と結ばれていたと思う。高校のときに習った。

つまりこの詩は「ふるさとは帰るところではない」の意味なのに、今の人たちは「遠くにありて、懐かしさのあまり」呟く詩だと思っているようだ。

室生犀星は複雑な家庭に生まれた。だから早くに郷里を飛び出したが、都会も田舎者には冷たかった。だからたまにはふるさとを思い出して帰ってみた。だけど郷里は犀星を蔑み、冷遇した。そこで「悲しく詠うだけの土地。どんなに貧乏して、外国で乞食に落ちぶれたとしても、俺は死んでもあの故郷には帰るまい」と決意したのである。

「ふるさと」を懐かしむあまり軽々しく犀星の詩などを持ち出すとこうして無慈悲な欄に取り上げられ、教養の無さを散々むしられる事になる。それとも50年後の今は高校でも犀星は教えないのかも知れないね。>。

以上のように、「ふるさとは帰るまい」と決意した強力な室生犀星の意思が綴られている。

そこで俳人与謝蕪村の場合も、「大阪毛馬の家を飛び出してからは、終生郷里に足を踏み入れない」が、全く室生犀星の決意と同じだと推測される。

蕪村は、享保元年(1716)、大阪摂津の国東成郡毛馬村の村長(庄屋?)の家に生まれた。蕪村の母は、京都丹後の与謝から「毛馬村長の家」へ奉公人として来た。

ところが村長の妾となり、「蕪村」が生まれたのだ。しかし不幸にも蕪村が僅か13歳の頃、「毛馬」で母が亡くなった。間もなく村長も逝去して仕舞った。

これが蕪村の人生を大きく変えた。蕪村は、俗に云う「妾の児」だったため、父の村長家系から外されて家系を継げなくなり、村長家一族から「強い苛め」に遭わされ、以来、生家「村長家」で、蕪村は身を縮めて生きていかざるを得ない苦境に追い込まれていったという。これが室生犀星の状況と全く類似している。

そこで一人で力強く生きて抜くには、「毛馬」を離れ独り立ちするしかないと決意、江戸に上ることにした。父と母と住んでいた毛馬には「望郷想い」は強かったが、一族のいじめから「帰郷の念」を断ち切ったのだ。決意を固めた蕪村が郷里毛馬を離れ江戸へ発ったのは、17・8歳の頃と推測されている。

だが、実際の処、蕪村が辛苦に溢れた生活環境の下で出奔するまで毛馬での幼年期に関する記録古書は、一切無く「謎」に包まれたままだ。

蕪村研究の専門の関西大学文学部の藤田真一教授は、「この期は、資料が無く全く空白部分です。」と話してくれた。

従って、
・妾の児とはいえ、なぜ、家系を継げなかったのか
・「幼年期」に、どうして「江戸に上る」ことに思い付いたのか、
・江戸に上る金銭は、どこで準備したのか、財産を一部でも有していたのか、
・旅は、飢えもし、寒暑になやみ、辛苦にみちた旅であった筈だが、どのように耐えたのか
・田舎出の青年が、当時超有名な江戸の俳人師早野宋阿(巴人)の内弟子になったが、紹介者となった砂岡雁 宕にどうして巡り逢えたのか、

「謎は」山積し、いずれも未だ明らかになっていない。

江戸に上り俳人修業し、宋阿(巴人)が死んだあと、芭蕉を慕い関東・奥羽の漂白10年。旅をおえて36歳京に着いた蕪村は、画家を兼ねながら「春風馬堤曲」を書き、娘の「くの」を嫁がせるなど、江戸以降、京、母の里丹波与謝等での軌跡は、裏付けられている。

だから「幼年期」が不透明なのは歯痒いことだ。

室生犀星が、郷里の蔑みと冷遇によって「俺は死んでもあの故郷には帰るまい」とした決意を読んで、蕪村の「幼年期の謎」に包まれている部分があるとはいえ、室生犀星と同じ生活環境からの同じ決意と見做していいだろう。(了)



2013年11月17日

◆日本人講師が中国で特別連続講義

毛馬 一三


中国の北京大学で、特別講義をしたのは、私の畏友浅野勝人氏。2011年11月から2013年9月までに連続7回行っている。浅野氏が、7回も「特別講義」を行っていたとは全く知らなかった。

それを知ったのは、浅野氏が、「同講義の総議事録」を、「日中反目の連鎖を断とう」という著書を発刊(NHK出版)し、発売前に私に送って呉れたからだ。拝読したら、多岐の日中諸問題に関する講演を行っている。それはこれから追々。

著者浅野氏は、NHK政治記者から政界に転出し衆議院議員、参議院議員を務めた。この間、外務副大臣、内閣官房副長官等を歴任している。今は政界から退いて一般社団法人・安保政策研究会理事長を務めているが、これら経歴を通じて、中国との友好関係を深めてきている。

当講義は、中国要路の知人から誘われて始めたもので、「日本人講師が何を語るのか」に学生の興味が集まり、北京大学の300席階段教室が、毎回満席になったという。

さて、著書「日中反目の連鎖を断とう」に網羅された北京大学での「講義議事録」を示す、目次は、下記の通りである。

第1章  プーチョートン=ゴタゴタするな(2011年11月10日・第1回講義)
第2章 二等辺三角形の構築(2012年5月31日・第2回講義)
第3章 日本の人口が14人になる(2012年7月10日・第3回講義)
第4章 尖閣を「脅威の島」にするな(2013年7月16日・第4回講義)
第5章 長江と墨田川(2013年7月16日・第五回講義)
第6章 不可欠な反日教育の是正(2013年9月26日・第6回講義)
第7章 草創と守文と孰れが難き(2013年9月26日・第7回講義)
      <・上記4章の末尾に、浅野講義を聴いた学生の「感想レポート」が添えられている。>
     (注:上記講義は、同じ日に2回行われたのが2度ある)。

この著書には「中国のためは日本のため、日本のためは中国のため、日中のためはアジアの国々の平和と繁栄のため」という浅野氏の想いと主張がしつかり盛り込まれている。

そこで、7回講義のうち、特に興味を惹かされた浅講義議録の一部概略を上げてみる。

まず、「尖閣を「脅威の島」にするな」の4回目講義の概略。

<尖閣諸島(中国名・釣魚島)の領有権問題については、1978年8月、日中平和友好条約締結の折、ケ小平副主席は、園田外相に「このまま放っておけばいい」と述べて、尖閣諸島・釣魚島の帰属をめぐる論争を避け、条約の調印にこぎつけました。これが「領有権の帰属棚上げ」「喧嘩の棚上げ論」です。(中略)。

ところが、今になって。園田・ケ小平の会議議事録にそのくだりが見当たらないというのが「棚上げ論」否定の根拠になっています。

私は、むしろ微妙な暗黙の合意を文字にして残しておかないほうが無難だと、両者とも判断したのではないかと推測しています。

指摘しておきたいのは、多くの場合、「領有権の棚上げ」と「領有権の帰属をめぐる論争の棚上げ」とを混同して議論されている点です。「領有権の事実上の放棄」と「ひとまず言い争いは止めよう」というのとでは、全く内容が異なります。まるで意味が違います。(中略)。

領有権を主張し合ったら、条約交渉は大詰めで決裂です。お互いにテーブルを離れ、領有権の扱いには触れないで、領有権をめぐる帰属論争を棚上げ・先送りして、条約交渉を決着させることで「老練な政治家同士が握った」(合意した)のだと私は確信しています。(中略)。

そもそも尖閣諸島は、曲りなりにも日本が実行支配しています。

日中平和友好条約の締結から35年が経ちました。ケ小平が「20年でも30年でもこのまま放置しておけばいい」と言ってから、その歳月も過ぎ去りました。こんな状況をいつまでも放置しているのは、政治に知恵がなさ過ぎます。

日中双方が互譲の精神に基づき、原点に返って、争いを封じ込める新しい考え、尖閣諸島が両国にとって脅威とならない存在にしなければなりません。そのための話し合いのテーブルに着くことは。アジア・太平洋の平和と繁栄に責任を共有する日中両国政府の務めです。この問題の早期解決を図ることこそ賢者の選択です>。

上記が、浅野氏講義一部の概略だが、これに対して、北京大学物理学院11級学生が次のような感想を述べている。

<私にとって日本人の話に耳を傾ける初めての経験でした。中国と日本には長い歴史のつながりがあるにもかかわらず、お互いに本当の意味における相互理解が欠けているため、常にさまざまな偏見によって理性がまともに機能しなくなっています。(中略)。

しかし今こそ、日中両国の民衆は交流を深め、協力を増やし、お互いにもっと知りあうように努めて共に前進することがなにより大切です。

私たち中国人も包容心を持って、日本人と仲よくし、お互いにさまざまな誤解を克服して初めて、両国の真の平和につながると確信します。浅野先生が熱意を込めて訴えた「足りない相互理解の努力」を実践していきたいと思います>。

このように浅野氏の「講義」を評価し、これからの日中関係の進むべき方向性をしっかり捉えた感想を、中国学生が率直に記述していることは異例なことだ。

更に加筆しておきたい「講義」を進めている。それは日本への重大な影響をもたらす可能性のある「中国の環境汚染問題」だ。

「急げ!北京のスモッグ対策」と題して、まず大気汚染状況を取り上げている。

この中で、WHOの調査を参考に、そのひどい順番は、二酸化硫黄の大気濃度は重慶、北京、上海。二酸化窒素の大気汚染は北京、上海、重慶。粒子状物質の大気汚染は重慶、北京、上海となっていると、浅野氏は指摘している。

なお心配なのは、PM2.5の微小粒子物質に数値が跳ね上がり、喘息や不整脈を招き、更には肺がんのリスクも懸念される。中国政府も防止対策は進めているものの、この冬はひどい状況になっていると、自ら目撃した状況を述べている。

また、自動車から排出される窒素酸化物と発がん性を有する粒子状物質の規制も重要で、これを急いで実行していく必要があると指摘した。

さらに重要なのは、この20年間に中国の電力需要は6倍に伸び、石炭火力発電に中国では約70%頼っていることだ。今後10年間に1000基の発電所新設が見込まれると予測される。

ところが、「石炭火力」は、硫黄酸化物、窒素酸化物、二酸化炭素を大量に排出する難点があり、かつ地球温暖化の元凶ともいわれる最悪の難題を抱えている。だkら、石炭火力による排出物の制御に力をいれる急務があると力説している。

とにかく、地球環境の保全は、日本だけが大気の汚染を少なくしたところで大きな効果は期待出来ない。中国やインドを中心に、アジアの国々が協力することによって担保できるものだと語った。

そのために、北京大学の学生諸君は、日本の技術を学び、日本を追い抜いていく熱意と気概が求められていると、浅野氏は訴えたのだ。

これに関連し、講演聴取の北京大学の学生が、下記の感想を記述している。

<浅野先生の講義は、データを駆使して、中国が高度な経済発展を遂げる一方で、凄まじい環境汚染に見舞われている実態に懸念を示しました。かって同じ問題に直面した日本が、政府と民間が一体となって深刻な環境汚染を克服した具体的な事例を挙げて、中国の環境改善への努力を促しました。

浅野先生の中国に対する関心度の高さに私は感動し、震撼とさせられました。私たちの仲間は、先生の姿勢に民族を超越した博愛に気づきました。

現在の中国では民族主義感情が日一日と高まり、私たちの心の中で中華民族の利益を全てに優先させるのが何より重要なことだと認識していました。その意味では、浅野先生の講義が私たちに与えた衝撃は多大でした。自分たちの立場を改めて考え、世界を見直す必要のあることを感じさせられました。

講義に出席してみて、中日関係が国交正常化以来、最悪の時だからこそ、北京大学まで足を運んでくれた浅野先生に感謝致します>。

浅野氏は、今後も、引き続き、同大学で「アジア太平洋地域における日中関係を軸とする国際関係論の講義」を続けるそうだ。

浅野氏が本書を郵送してきた時の「添え文」に、「日中国交正常化以来、40年余の歴史に対して良心に恥じない著作と自負しております。1人でも多くの日本人に読んでもらって、隔たらない中国観を感じる素材にしてほしいと念願しています」と記していた。

実の処、今の日中関係は、日中国交正常化以来最悪に近い状態と言っても過言ではない。しかしそんな中、次世代を背負う中国学生相手に、日中の友好関係の再構築の必然性と合理性に溢れた講演を行い、北京大学学生から理性に基づいた積極的な賛同を得られた浅野氏に敬服したい。

とにかく、北京大学学生が「対日友好関係再構築」の将来方向の想いを、率直に講座記録の著書に併記したこと自体、過去には例のないことで、素晴らしい「著書」になっていると言っていいだろう。

だから特に日本の学生諸君に、是非この書籍を読んで貰いたいと願っている。

同書は11月20日から全国の書店で発売される(了)

2013年10月25日

◆「源氏物語」は世界最古の政治小説

毛馬 一三



世界最古の長編小説「源氏物語」が一条天皇に献上されたのは、寛弘5年(1008年)11月17日。

紫式部が、父の赴任先の越前国で当時、何よりも貴重だった「越前和紙」とめぐり合い、2年間にわたって思いのままに、物書きに熱中したことは、本欄ですでに触れている。(平成20年8月29日号=和紙と生きた紫式部)

ところで、この「源氏物語献上」に先立つこと3年前の寛弘2年(1005年)12月29日に、紫式部は、宮中に呼び出されている。何とこの召し上げの仕掛け人が、藤原道長だったのだ。

藤原道長が、どうして紫式部を宮中に召しあげたのか。それは当時宮中で繰り広げられていた、壮絶な権力闘争の暴露利用に大きな目的があった。

その権力闘争とは、道長の兄道隆盛の息子「伊周(これちか)と道長とが、真っ向から繰り広げていた藤原同族の宮廷内の対決だった。

内大臣伊周に対抗するには、叔父の道長はこれを超える役職へ昇進するしかなかった。

道長は画策した。一条天皇の生母で、道長実姉の強力な支援を懇願して、「関白」に次ぐ地位である「内覧」職を獲得し、役職の上では、伊周とは一応互角に並んだ。

だが、道長にとっては、まだ伊周より後塵を拝していた。つまり伊周は、妹定子を一条天皇の中宮に送り込み、堅固な地位を確保していたのだ。

道長にしては、この何としてでもこの壁を突き崩す必要があった。このため何と一条天皇のもう一人の中宮に、娘の彰子を送り込んだのである。

こののち中宮彰子は、1008年9月11日、「敦成(あつひら)親王」(後一条天皇)を出産。道長は、これによって、権力の頂点を完全に立った。

しかしそれに至る以前に、なぜ紫式部の召し上げにまで手を打っていた政治家道長の老獪な魂胆とは一体何だったのか。

恐らく文学好みとの一条天皇の気を惹くため、紫式部の「源氏物語」の献上を早々と仕組んでいたと思われる。言い換えれば、天皇の歓心を買うための一種の「政争の具」として、紫式部の召し上げを完備していたのだろう。

そんな中で紫式部は、中宮彰子の教育係として勤める傍ら、3年近く宮中の様々の人間模様、権力構造、熾烈な利害闘争などをつぶさに観察しながら、冷静な考察と巧みな筋立てを組み立てながら、「源氏物語」を書き綴っていたに違いない。

色とりどりの54帖の冊子、400字詰原稿用紙にすれば、2300枚ともなるとてつもない長編小説。

越前和紙と墨を使ったきらびやかな「源氏物語」の献上が、一条天皇の心を捉えて仕舞ったことは、想像に難くない。

次々と広がる物語の中で、天皇自身が、思い当たる舞台での隠れた「政治暗闘と情念の世界の展開」が、登場人物への特定にすべて繋がり、天皇にとりこれに勝る宮中裏舞台の政治暗闘と政治を操る宮中同士の悦楽ぶりには、眼を光らせたであろう。

そう見ていくと、源氏物語は、「悲恋」、「純愛」、「禁断の恋」の物語ではない。むしろ宮中現場で目撃し、鋭敏に感じ取った我が国の最初の政治記録文学と思える。

ひょっとしたら世界で最古の「政治小説」と言ってもいいかもしれない。「政治小説の源氏物語」となれば、また。評価の仕方も見方も読者層も、大きく変わっていくのではないだろうか。(了) 再掲

2013年10月16日

◆八女茶(やめちゃ)を嗜む

毛馬 一三


筆者の家では、食事の後や折を見て八女茶を毎日欠かさず10杯以上常飲している。祖母の実家が福岡県八女郡の八女茶(元は星野茶)の生産家だったのが縁で、子供の頃から八女茶の煎茶や玉露を嗜んできた。

その嗜みはいま尚継続しており、5月の一番茶の時期になると八女茶生産元の祖母の実家から、注文した1年分の八女茶の煎茶と玉露が送られてくる。

70度位に冷ましたお湯をゆっくりと茶葉を入れた急須に移し、3〜4回ゆるりと左右に回したあと湯飲みに注いで飲み始めると、筆舌に尽くせないまろやかな風味と甘み、それに他所の茶より濃い味が口内に広がり、至福の瞬間がやってくる。

しかも茶に含まれるカテキンの成分が、ここ10年位の研究で抗ガン作用と抗微生物作用に効果があることが明らかになってきたことから、意識して健康維持のためこの八女茶嗜みの習慣を続けている。

八女茶以外に全国には下記のような有名な茶の生産地がある。

<愛知県(三河茶)、茨城県、(奥久慈茶、猿島茶)、鹿児島県(かごしま茶)、京都府(宇治茶)、岐阜県(美濃茶)、熊本県(肥後茶)、高知県(土佐茶)、埼玉県(狭山茶)佐賀県(嬉野茶)、滋賀県(近江茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)、三重県(伊勢茶)、宮崎県(日向茶)、がある>(日本茶博物館www.kaburagien.co.jp/museum/museum/index.php - 14k -)

京都府(宇治茶)、佐賀県(嬉野茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)は過去に飲んだことがあるが、それなりに芳醇で美味な緑茶だったという印象と思い出がある。

ところで最近下記のような記事が出て、目を惹いた。

<緑茶を1日に7杯分ほど飲むことで、糖尿病になりかかっている人たちの血糖値が改善することが、静岡県立大などの研究でわかった。健康な人で緑茶をよく飲んでいると糖尿病になりにくいという報告はあるが、高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告は珍しいという。

血糖値が高めで、糖尿病と診断される手前の「境界型」などに該当する会社員ら60人を対象に緑茶に含まれる渋み成分のカテキンの摂取量を一定にするため、いったんいれたお茶を乾燥させるなどして実験用の粉末を作製。

これを毎日、湯に溶かして飲むグループと、飲まないグループに無作為に分け、2カ月後の血糖値を比べた。

平均的な血糖値の変化を、「Hb(ヘモグロビン)A1c」という指標でみると、緑茶粉末を飲んだ人たちは当初の6.2%が、2カ月後に5.9%に下がった。飲まなかった人たちは変わらなかった。飲まなかった人たちに改めて飲んでもらうと、同じように2カ月間で6.1%から5.9%に下がった。

2グループで体格や摂取エネルギーなどに差はなく、緑茶からのカテキン摂取量が血糖値に影響したらしい。1日分の緑茶粉末は一般的な濃さの緑茶で湯飲み(約100ミリリットル)約5杯分のカテキンを含み、緑茶粉末を飲んだ人では普通に飲んだ緑茶と合わせ1日に約7杯分のカテキンをとっていた。

研究の中心で、吹野洋子常磐大教授(公衆栄養学)は「運動などの生活習慣改善とともに、食事の中で積極的に緑茶を取り入れてほしい」といっている>。(アサヒコム)


前記の様にカテキンが抗ガン作用に効果が在ったり、良質な緑茶から抽出されたポリフェノールはビタミンEの10倍、ビタミンCの80倍というすぐれた抗酸化力を持っているといわれているが、緑茶7杯の飲料で高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告には驚かされた。

筆者の周りで糖尿病の一歩手前で悩んでいる先輩友人が多い。緑茶7杯で高血糖の人たちに効き目があるというなら、早速緑茶の常飲を勧めてみよう。お茶の嗜みは、心の安らぎも導いてくれる筈だから。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア』

2013年09月15日

◆徳川を潰せなかった真田幸村

毛馬 一三


家康が、生涯の戦歴で死に損なったのは、2度ある。1度は、元亀3年(1573年1月25日)、武田信玄軍に徳川軍が惨敗した「三方ヶ原の戦い」の時。討ち死に寸前まで追い詰められたが、必死で浜松城へ逃げ帰り、命拾いをした。

2度目の「死に損ない」は、慶長20年(1615年)年5月7日の「大阪夏の陣:茶臼山の戦い」(大阪市天王寺)の時だ。

家康は、この時二度「自害」しようとしたが、部下の将に諌められて逃げた。敗戦の将の汚名など、どうでもよかった。もし家康が命を取られていたら「徳川幕府」は「夢のまた夢」だったことに間違いはない。

この徳川幕府の存亡に繋がる家康の2度目の「死に損ない」地は、案外知られていない。

しかもこの「死」からの逃避は、1番目の「三方ヶ原の戦い」より比較にならないほど緊迫し悲惨なものだった。歴史上でも実に深い意味合いも有する。そのことをこれから追々。

休日を利用して、その戦火跡地・「大阪夏の陣:茶臼山の戦地」(大阪市天王寺)を、友人たちと訪ねた。この大阪夏の陣:茶臼山の戦いで、家康を死に追いつめたのは、実は、真田幸村である。豊臣方の主将の一人だ。この真田幸村の戦闘ぶりは、徳川軍を総じて縮みあがらせた。

幸村は、茶臼山の戦の前日の慶長20年(1615年)年5月6日の「道明寺の戦い」で、徳川軍の先鋒隊・伊達政宗隊を銃撃戦の末に一時的に後退させている。先鋒隊による撃破という幸村の先勝だった。

この勝利で、真田隊は、豊臣全軍を一時撤収させた。撤収には、訳があった。豊臣方は主武将が相次いで討死した上、全軍も疲弊していたため、兵士に休息を与える配慮からだった。

そこで幸村は、秘策を考え上奏を試みる。「兵士の士気を高め、徳川を打ち破るには、豊臣秀頼本人の直接出陣有るのみ」と直訴したのだ。

ところが豊臣譜代衆や、秀頼の母・淀殿に阻まれ、秀頼の出陣は実現しなかった。この怠慢な判断が、結果的に豊臣方の滅亡に繋がることになる訳だ。

そこで幸村は、「そんなことでは徳川方を追い込めない」として、5月7日、大野治房・明石全登・毛利勝永と共に、最後の別作戦を立案した。

それは四天王寺・茶臼山付近の右翼に真田隊、左翼には毛利隊を布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して、家康の本陣を孤立させた上で、これを急襲・横撃させるという狙いだった。

ところが、思いもよらず作戦が狂った。毛利隊が合図を待たずに勝手に射撃を開始してしまった。この有効な戦法は、断念せざるを得ない情勢にあった。

そこで幸村は、腹を括った。「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!」と決心し、真っ正面から真一文字に徳川家康本陣のみに狙いを定めて、突撃を敢行した。

この突撃は真田隊のみではなく、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦。これにより徳川勢は壊乱し、総崩れに至った。

幸村は、後方の家康本陣に三度攻め込み、家康の親衛隊・旗本・重臣勢を蹴散らして本陣を蹂躙、「馬印」までも倒した。

真田隊の凄まじさに追い詰められた家康は、二度も「自害」を覚悟したという。もう一押し攻め込めていたら、家康の「落命」は確実だったとも言われている。家康は部下の将兵に諌められ命からがら逃げた。

残念ながら、幸村の家康追いつめもここまでだった。兵力に勝る徳川勢に追い詰められ、幸村は負傷して仕舞う。やむなく一旦後退することを決め、近くの「安居神社」避難した。

幸村は、当神社の1本松にもたれ、傷を癒していた時、追っ手の越前主の兵士の槍で襲われた。幸村は「ここまでだ」と決意し、切腹して自害した。享年49だった。

「安居神社」に行くと、「武将姿の銅像」や高さ5メートほどの「幸村戦没の石碑」がある。

銅像と石碑を見ていると、切腹自害した幸村から「徳川潰しを果たせなかった」無念さの呟きが伝わってくるようだ。一方、「家康を追い詰めた」役目を立派に果たした豊臣方戦将としての誇りも聞こえてくるような気もする。

もし豊臣方が秀頼を先陣に立て、幸村を主将にした総力戦で「茶臼山の戦い」に臨んでいたら、確実に「家康を自害」させていたに違いない.

そうだとすると、家康不在となり、徳川勢力の後退は余儀なくされ、秀頼による豊臣時代が継続したに違いないという説に続く。

「安居神社」を出て、坂道を少し下ると、本誌で以前書いた大阪で唯一自然の滝:「玉出の滝」と出会う。ゆっくり眺めると、今度ばかりは「安居神社」の幸村の無念の想いが、滝の水に混じってドット流れ落ちているように見えた。

もし、淀君を始め豊臣譜代衆が「茶臼山の戦い」の決戦に挑んで「家康壊滅」を図る決断を下していたら、おそらくその後、別の歴史が展開していただろう。

時勢に応じて歴史を踏み外さない判断を下さなければならない指導者は、いつの世にも不可欠だ。名所旧跡の散策は、こうした現代の政治行動や外交問題まで連想させてくれるだけに、愉しいものだ。
<参考:ウィキペディア>


2013年09月02日

◆大阪俳人与謝蕪村の名を広めたい

毛馬 一三


NPO法人近畿フォーラム21(筆者主宰)の講座「蕪村顕彰俳句大学」と、月刊全国誌「俳句界」の「兜カ學の森」とが共同して、9月22日(日)午後1時から「蕪村顕彰全国俳句大会」を開催することになった。

会場は、蕪村生誕地に由緒ある毛馬近郊の大阪市立「淀川小学校」で行うもので、「大阪・毛馬に俳句の文化を継承する為」の共同事業として、全国から俳句作品を募集したところ、1060句が応募された。

この応募句を選考し、大阪府知事賞・大阪市長賞・蕪村顕彰俳句大学学長賞、文學の森賞をそれぞれ1名づつ授与、20人の作品には入賞状を授与する。

この「蕪村顕彰全国俳句大会」を開催することになったのは、江戸時代の三大俳人の内、松尾芭蕉と小林一茶の生誕地は、江戸時代当時から知れ渡っていたが、与謝蕪村の生誕地だけが大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だと「定説」になったのは、随分遅い戦後直後の事である。これにつては追々。

この事を教えてくれたのは、講座「蕪村顕彰俳句大学」講座で講師をお願いしている、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授であった。

奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったという。藤田教授の話によると、下記のようなことだった。

(蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍の舞台だった江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという「記録」すら残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、誰もいなかったのではないかという。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。しかしこの時残念なことにその舞台となる淀川毛馬馬堤近が、肝腎の自分の「生誕地」だとは一切触れていない。

しかし、その後願ってもないことが起きた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中に、自分の生誕地が「毛馬村」だと、下記のように初めて綴ったのだ。これが生誕地解明の歴史的契機となった。

「春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それなら、これが物証となって、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かったのだろうが、そうならなかったのには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村直筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地複数説」を加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態だった。

ところが、終戦直後、奈良県で終戦直後偶然見つかった先述の弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」が、公式に「蕪村直筆」だと「認定」されたのである。

これによって「毛馬生誕地」説が確定した。終戦直後の認定だから、遅きに失したと言わざるを得ない。しかしこれは「蕪村生誕地複数説」を破棄し、毛馬村を生誕地とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになる。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述に淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

以後、生誕地が毛馬村であることを不動のものになった。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村直筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも無かったことになるだろう。)

こうして、蕪村が大阪生誕俳人と称されるようになってから、七十余年しか経たない。そのため蕪村は、芭蕉や一茶とは異なり、江戸時代以来、生誕地大阪で「蕪村生誕顕彰」が疎かにされ、それを知る人が少なかったことに繋がっており、誠に慙愧に絶えない。

実は、与謝蕪村の生誕地毛馬村の庄屋(?)の家屋は、明治29年に明治政府の「淀川改修工事」で、国の河川淀川の川底に埋没させられ、今でも何処に生誕地の生家があたったかも判然としない。

現在、淀川堤防の毛馬に「蕪村生誕地碑」があるが、この碑の場所が生誕地ではなく、その碑の眼下に流れる「淀川川底の何処かの場所」が生誕地ということになる。

このために、今でも地元大阪ですら「蕪村生誕地が毛馬村」であることを知らない市民は多い。次世代を担う児童生徒の教科書にも掲載されていないことを考えると、生誕地のことを知らない人が多いことはことも当然のことだろう。残念で仕方がない。

だから、われわれ講座「蕪村顕彰俳句大学」では、文學の森と共同して、3年後の2016年に「蕪村生誕300年祭」を開催し、蕪村生誕地高揚と後世への伝承、そして国際化への発信を大々的に進めたいと考えている。

余談ながら、筆者は藤田教授に下記の質問をした。

「蕪村は、淀川を下って源八橋から船を降り、浪速の弟子の下に苦吟の往き来きしていましたが、「春風馬堤曲」に記述しているように、それほど生誕地の毛馬に郷愁があったのであれば、源八橋の極く近郊にあった毛馬村生家に立ち寄ってはいないとの噂ですが、何故でしょうか?その学説はありませんか?」

藤田教授の答えは次のようだった。(それを証明する「学説」はありませんね。恐らく立ち寄ってはいないでしょう。深い郷愁にも拘わらず立ち寄れ無かったのには、それ超える事情があったのかもしれませんね)ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったのに、立ち寄りたくない感慨があったのだろうという推察が浮上してくる。

恐らく奉公人だった母と実家の父が亡くなってから、私生児だった蕪村は、家も引き付けず、家人たちからも極めつけの「いじめ」を受けただろう。そのために十七・八歳で家を出家せざるを得なかったのではないか。

そのことが「ひと一倍の郷愁はあっても、いじめが再来する生家には生涯立ち寄りたくなかった」のではないだろうか。

最後になりましたが、どうか、3年後の「蕪村生誕300年祭記念行事」に、是非共 皆様のご賛同とご支援を伏してお願い申し上げます。(了)

◆「蕪村顕彰俳句大学」ホームページアドレス
http://www.buson-kensho-u.com/

2013年08月15日

◆歴史現場に立ち会える記者稼業

毛馬 一三


NHK記者として入局したのは、早大卒業した昭和36年。入局直後、NHK「研修所」で、記者としての基礎的な受講を3か月受けた後、長崎・佐世保局に配属された。

佐世保局には、松尾龍彦デスクと現在評論家の日高義樹氏(元ワシントン支局長)が先輩記者として赴任しておられたため、現場記者としての取材の仕方、原稿の書き方など親身になって指導してもらった。

新人記者として、「警察」と「労働団体」、「米軍佐世保基地」回りを担当させられた。

佐世保局での取材は、取材範囲が広域なのと、米海軍の基地を抱えていたため、基地問題や労働諸問題に追われ、「夜討ち・朝駆け」の取材は日常のことだった。

その佐世保記者として、今でも忘れられない強烈なことが2つあっことを思い出す。それを以下、追々。

ひとつは、昭和38年11月22日、アメリカから最初に来た「衛星放送」で、ジョン・F・・ケネディー大統領が暗殺事件を見たことだった。最初の「衛星放送」が、大統領暗殺と重なったことに驚愕した。

米軍海軍基地に出入りが自由だった筆者は、同基地の通訳を通じて、大統領暗殺事件に対する基地内の混乱状況を記事にした。反響が大きかった。

二つ目は、筆者が「米原潜佐世保入港」を「スクープ」したことである。

その「スクープ」を出したのは、佐世保局からではなく、NHK福岡放送局からだった。しかも入港より丸1日早い、昭和39年11月11日早朝6時だったのである。

もともと、「米原潜佐世保米軍海軍基地入港」が最初に公表されたのは、昭和38年3月であった。この日から「何時、入港するのか」が、全国的に焦点となっていた。

この公表以来、佐世保では地元社会党系労働組合が「原潜入港反対闘争本部」を立ち上げ、市民団体も呼応して、大規模な「入港反対闘争」がはじまった。佐世保は、米海軍基地周辺を中心に騒然となり出した。「安保闘争の佐世保版」だった。

とりわけ被爆地長崎と隣り合わせの現場佐世保では、米原潜搭載の「核」持込みの懸念が市民らを強く刺激し、急遽集結した各地の革新団体や全学連が、デモ行進や集会を繰り広げ、騒動は日増しに激化していった。

その反対闘争の労働取材担当記者だった筆者は、入港反対闘争本部だった当時の佐世保地区労(佐世保地区労働組合会議)本部に、夜討ち朝駆けを行い、反対運動の動静を追い続けた。

当時、総評系の佐世保労働組合の中核組織「全駐労」の委員長だった石橋政嗣氏が、衆院議員に転身して社会党書記長に就任していたことから、この反対運動は当時野党第一党の社会党と緊密に連携しながら、全国規模の反対運動に発展していった。

筆者は、帰郷する石橋書記長に纏わり、「反対運動」の中央の方針をしつこく取材して回ったことから、気難しい石橋書記長から特に目を掛けて貰う間柄となった。

同時に、地元の社会党系「佐世保地区労闘争本部」の速見魁議長、小島亨事務局長、西村暢文本部員らからも熱心な取材を気に入られ、極めて親密な関係を築くことが出来た。

この取材は、歴史の現場を直に目撃できるという、正に「記者冥利」に尽きる無上の喜びであった。しかも現場で親交を深めた取材対象の人脈とも、立場を超えた人間同士の触れ合いが出来ることも嬉しかった。そうした教訓は、駆け出し記者の記者魂を育ててくれた。

そんな折の昭和39年11月10日の夜10時過ぎ、佐世保放送局で当直の勤務をしていた筆者に、佐世保地区労の小島事務局長から電話が入った。

「あなたの家に電話をしたら、当直と聞いたので電話をしました。実はね、石橋書記長から、あなただけに伝えなさいと今、指示があったので連絡します」。

小島事務局長はそう言った上で、「米原潜シードラゴンが12日朝、佐世保に入港する」という、極秘情報を伝えてきた。筆者は、足が諤諤と振るえ、感謝の意を短く伝えるのがやっとだった。

すぐさま、福岡放送局報道課長の自宅に架電して、その情報を伝えると共に、これから出稿する旨を伝えた。報道課長は「直ちに東京政治部の首相官邸キャップに連絡し、政府から確認を取って貰う。君は、米原潜12日入港の記事を急いで書き、送りなさい」という指示が出た。

11日の2時ごろ、原稿を送ろうとしているところに、報道課長から電話が来た。「官邸キャップが政府筋に確認したが、どうも煮え切らない返事だったようだ。東京政治部では、引き続き政府関係者に当たるが、「スクープ」として当面は福岡発から流しなさいと言っている。原稿をすぐ送ってくれないか」ということだった。

そこで、「米原潜あす佐世保入港、現地では大規模集会やデモ」という内容を原稿にすることにして、「闘争本部」幹部に再度裏付け取材をして上、急ぎ福岡局報道課に送稿した。「闘争本部」で特に友好の深い西村暢文氏に「他紙は気付いていませんよね」と念を押し、確認を取ることを忘れなかった。他紙は、知らなかった。

これが他社より1日早くNHK福岡局から「原潜あす佐世保入港」のスクープが全国に発せられたいきさつである。NHK東京発の同関連ニュースが放送されたのは、「米原潜」が入港する12日午前6時のニュースからであった。従って「他紙」「他放送局」を抜いた「スクープ」となった。

先述の西村暢文氏から、「あなたのスクープで、闘争本部が一層盛り上がり、原潜反対闘争のとっかかりになった。感謝」という予想外の電話が掛かって来た。

歴史の現場にいち早く立ち会える記者稼業とは、この上ない人生の幸せである。人脈が豊富になることも大いなる喜びだ。

いろいろ思い出はあるが、記者として佐世保局でのこの2件は忘れることが出来ない(了)

2013年08月05日

◆世界最古の政治小説は「源氏物語」か

 
毛馬 一三


長編小説「源氏物語」が一条天皇に献上されたのは、寛弘5年(1008年)11月17日。1005年前のことである。

紫式部が、父の赴任先の越前国で当時、何よりも貴重だった「越前和紙」とめぐり合い、2年間にわたって思いのままに、物書きに熱中したことは、本欄ですでに触れている。

ところで、この「源氏物語献上」に先立つこと3年前の寛弘2年(1005年)12月29日に紫式部は、宮中に呼び出されている。何とこの召し上げの仕掛け人が、藤原道長だったのだ。

どうして藤原道長が、紫式部を宮中に召しあげたのか。それは当時宮中で繰り広げられていた、壮絶な権力闘争と大きな関連があった。

権力闘争とは、道長の兄道隆盛の息子「伊周(これちか)と道長とが、真っ向から繰り広げていた、藤原家の宮廷内での権力地位争いだった。

内大臣伊周に対抗するには、叔父の道長は伊周を超える役職へ昇進する道しかなかった。道長は暗躍した。一条天皇の生母で、実姉の強力な支援を懇願して、「関白」に次ぐ地位の「内覧」職を獲得した。役職上では、一応互角に並んだことになる。

だが、道長にとっては、まだ後塵を拝する部分があった。伊周は、妹の定子を一条天皇の中宮に送り込み、堅固な地位を確保していたのだ。

道長にしては、これを何としてでも突き崩す必要があった。このため、何と一条天皇のもう一人の中宮に、娘の彰子を送り込んだのである。

こののち中宮彰子は、1008年9月11日、「敦成(あつひら)親王」(後一条天皇)を出産。道長は、これによって、権力の頂点を完全に立ったことになる。

しかしそれに至る以前に、道長は、なぜ紫式部の宮中召し上げまで手を打っていたのか。政治家道長の老獪な魂胆とは一体何だったのだろうか。

恐らく文学好きといわれた一条天皇の気を惹くため、紫式部の「源氏物語」の献上を早々と仕組んでいたと思われる。言い換えれば、天皇の歓心を買うための一種の「政争の具」として周到な手管を労したのだ。

紫式部は、中宮彰子の教育係として勤める傍ら、3年近く宮中の様々の人間関係、権力構造、熾烈な利害闘争などをつぶさに見ながら、冷静な考察と巧みな筋立てをしながら、その視点で「源氏物語」を書き綴っていたに違いない。

色とりどりの54帖の冊子、400字詰原稿用紙にすれば、2300枚ともなるとてつもない長編小説。歴史上でも優れれた「文學作品であることには間違いない。

越前和紙と墨を使ったきらびやかな「源氏物語」が、道長を通して一条天皇に献上され、天皇の心を捉えて仕舞った。

と云うのは、天皇自身が物語を精読すると、宮中裏面舞台の政治暗闘や、それに纏わる登場人物への確執等を操り、各場面で善処していたことが、見事に暗示展開されている。天皇にとりこれほどの自己満足と悦楽は、無かったのではないだろうか。

そう考えると、源氏物語は、「悲恋」、「純愛」、「禁断の恋」の物語だと決めつける見方は、偏っているとも言えるかも知れない。

作者の真意は、道長の意図を汲み取り、一条天皇を取り込むために、こうした「政治暗闘」を暗に臭わせる作風を駆使したに違いない。結果は、天皇をは喜び、紫式部に惹きつけられた。これがその後の道長の躍進に貢献したことも否定できないだろう。

だとすれば、「源氏物語」は、紛れも無く世界最古の「政治小説」と言ってもいい。「政治小説の源氏物語」となれば、また。評価も見方も、日本文学上、大きく変わっていくのではないだろうか。
(了)    <修正再掲>

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