2019年09月01日

◆蕪村生家は、淀川の河底

毛馬 一三


江戸時代の俳人与謝蕪村の生家は、淀川の河底に埋没しているのは間違いないのですが、一体河底の何処に埋没させられて仕舞ったのでしょうか。詳しい場所は未だ不明です。

確かに、大阪毛馬の淀川堤防に「蕪村生誕地」と書いた「記念碑」が建立されてはいます。しかし「蕪村生誕し幼少を過ごした生家」は、この場所ではないことははっきりしています。

実は「蕪村の生家」が、冒頭に記したように、淀川堤防から眼下に見える「淀川の川底」に在るのは事実です。なぜ淀川の川底に埋没されたのでしょうか。これは追々。

徳川時代の淀川は、よく手入れが行われていましたが、明治維新後は中々施されていなかったのです。ところが、明治18年に淀川上流の枚方で大水害が起き、下流の大阪で大被害を受けたことをきっかけに、明治政府がやっと淀川の本格的改修に乗り出しました。

その際明治政府は、単なる災害防止ためだけではなく、大阪湾から大型蒸気船を京都伏見まで通わるせる航行で「経済効果」などの多目的工事に専念することを決めました。

そのために淀川の河川周辺の陸地を大幅に埋め立て、それまでの小さな淀川を 大きな河川にする大改修を立案したのです。

これに伴い、旧淀川沿いにあった「蕪村生家」地域は埋め立ての対象となり、すべて「河川改修工事」によって川底に埋められて仕舞いました。

さて、明治政府は関西の大型河川・淀川を大改修するため、オランダから招いた河川設計者・デ・レーケとフランス留学から帰国していた設計士沖野忠雄とを引き合わせ、「淀川大改修」の設計を依頼しました。

明治政府の依頼を受けた2人は、「大改修工事」の設計を創り上げ、明治29年から工事を開始しました。

とにかくこの大型改修設計は、大阪湾に京都の宇治川や桂川、奈良からの木津川を中津川に合流させ、一気に淀川として大阪湾に繫ぐ、巨大な設計でした。

そうすれば貨物蒸気船を大阪湾と京都を結んで航行させることが出来、逆に京都・枚方などで大水害が起きた場合でも大量の水量をさらりと、大阪湾に流すことが出来るのです。二本立ての「効果狙いの設計」でした。

勿論、上流の災害で流出してくる「土砂」が、大阪に被害を与えないため「毛馬閘門」設計も創りました。

これが淀川から大阪市内に分岐させる「毛馬閘門」の設計主旨だったのです。この「毛馬閘門」からは、淀川本流から分岐して大阪市内へ流れる河川を設計しました。その河川の名を「大川」と名付けたのです。

この「大川への分岐設計」で、上流の水害に伴う土砂流失の回避は実現し、大阪の上流からの防災は、今日まで護られているのです。

このように2人による設計書は、世界の河川工事技術水準に準じたもので、明治政府が施工した「河川大改修工事」としては全国的に見ても画期的なものでした。

同工事は、明治29年から明治43年まで行われ、設計通り完成しました。

ここから本題。この「河川大改修工事」によって、与謝蕪村が生まれ、幼少を過ごした大阪市都島区毛馬町(摂津国東成郡毛馬村)は、跡形もなく淀川に埋没させられ、深い川底に沈んで仕舞いました。

明治政府の強制でしたから、当時の住民は仕方なくそれに従ったようですが、川幅も660b(従来の30数倍)となり、浅かった河の深さも5bの巨大河川に変容したのです。

この住居埋没の強制工事で、前述の如く、蕪村の生家(庄屋?)は勿論、お寺、菜の花畑、毛馬胡瓜畑跡などの、当時の地域の様子は皆目全くわかりません。今は淀川の毛馬閘門近郊にある蕪村記念碑から、淀川の眼下に見える川底が「蕪村が幼少を過ごした生家地域」だと想起出来るだけで、寂しい限りです。

淀川近郊の蕪村家(庄屋?)の後継者の方といわれる毛馬町の家を訪ね、「家歴」を伺いました。しかし、「地図も無いし、お寺も埋没して「過去帳」もないために、蕪村生誕地が淀川の河底にありことは間違いないですが、今でもどのあたりの河底にあるのか分かないのです。」という答えが返って来ただけでした。

大阪毛馬町の「蕪村公園」と通り過ぎて、「毛馬閘門」と「蕪村記念碑」ある淀川堤防の上から眼下に流れる「淀川」を見ながら、その河底に蕪村生誕地があることを想いつつ、蕪村が幼少期をここで過ごしたのかと、ゆったりと瞑想して欲しいですね。

取材:国交省近畿地方整備局淀川河川事務所

2019年08月31日

◆「紫蘇濃縮ジュース」を作ろう

毛馬 一三

 
          
ジュースとは、本来「果汁」を指すものだが、今ではコーラなどの炭酸飲料なども含めた甘いソフトドリンクまでも「ジュース」と称している。デパートやスーパーに出掛けると、山ほど陳列されたこの種のジュースが目に付くが、果たして健康にいいかどうか考えると買い求めるのに躊躇してしまう。

そうした折、体にいいから是非と知人に勧められた「紫蘇(しそ)濃縮ジュース」を作ってみたところ、なんとまあ、風味・舌触りなど美味さ抜群、すっかり嵌ってしまった。

<紫蘇(しそ、学名Perilla frutescens)は、シソ科のシソ属の植物。中国原産。

紫蘇には、こんな由来がある。中国の後漢末、洛陽の若者が蟹を食べすぎて食中毒を起こし死にかけたが、名医・華陀が薬草を煎じ、「紫の薬」を作り、同薬を用いたところ、若者はたちまち健康を取り戻した。「紫」の「蘇る」薬だというので、この薬草を「紫蘇」というようになった>。

品種は以下の2種類がある。「青紫蘇」と「赤紫蘇」である。

<i)青紫蘇は、葉や花を香味野菜として刺身のつまや天ぷらなどにする。青紫蘇の葉は野菜としては「大葉(おおば)」とも呼ばれる。
i)赤紫蘇は、梅干しなどの色づけに使用。また葉を乾燥させたものは香辛料として(特に京都で)味唐辛子に配合され、ふりかけなどにも用いられる>。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

ところで自家製の「紫蘇(しそ)濃縮ジュース」には、「赤紫蘇」を使う。作り方は幾通りもあるが、知人から教えてもらった作り方が過去味わった紫蘇ジュースの中で最高だったので、その作り方をご紹介したい。

<作り方>
(1)紫蘇(350g)を水できれいに洗い、水気をよく切って鍋に入れる。
(2)鍋に水(450cc)を入れ、その中に砂糖(600g)とクエン酸(20g)を加える。
(3)紫蘇を満遍なく混ぜて、鍋をガスの中火で煮出す。
(4)10分ほど沸騰させ、紫蘇の中から泡が出したら火を止める。
(5)鍋で煮だった紫蘇を別のボールに、ザルで濾す。
(6)絞り紫蘇液が自然に冷めたら、その中に「ゆず酢」を大匙2杯弱入れる。これがこの濃縮ジュースの「隠し味」。
(7)真っ赤な紫蘇濃縮ジュースが出来上がったら、氷を入れたコップに濃縮ジュースを好みに応じて注ぎ、水や炭酸水などで4倍に薄めて飲む。

これだけの作り方で、900ccの「紫蘇濃縮ジュース」が出来上がる。冷蔵庫で保存すれば、半年の賞味期限があると知人は教えてくれた。

この「紫蘇ジュース」は、紫蘇の栄養であるビタミン類、ミネラル類が含まれているので薬用効果があり、アレルギー体質、生活習慣病、食中毒予防等に効果があるという。

手前勝手な風味・美味しさ抜群の「紫蘇濃縮ジュース」の作り方を紹介させて頂いたが、このジュースが他の作り方と違う点は、隠し味の「ゆず酢」。興味を感じられたら、いま出荷盛りの赤紫蘇を求めて作ってみられては如何。                    (了 再掲)   

2019年08月30日

◆蕪村生誕地を証明した「一通の書簡」

毛馬 一三


松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸時代の俳人与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だということは、江戸時代当時から知れ渡っていると思っていた。

仮にそうでなくとも、明治時代になって、蕪村俳句を初めて評価し世に紹介した正岡子規が、毛馬生誕地は把握し、世に広めていたに違いないと思っていたからだ。

ところが、事実は全くそうではないことが明らかになり、驚かされた。

それの事を知らされたのは、、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授と、懇談した時であった。

結論から先にいうと、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は終戦直後のことだということだった。奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったというのである。

藤田教授の話によると、次のようなことだった。

(蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍していた江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという明確な「記録」は残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、いなかったのではないかというのだ。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。が、残念なことにその舞台となる馬堤近くが自分の「生誕地」だとは一切触れていない。

想像してもこの書き方では、「生誕地を毛馬村」と結びつけることは出来ない。

しかし、その後願ってもないことが起きていた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中で、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと綴っている。

春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それなら、これが物証となって、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かったのだろうが、そうならなかったのには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村直筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地複数説」を加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態だった。

しかし、前記の如く、奈良県で終戦直後偶然見つかった弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」が、「蕪村直筆」だと、公式に「認定」されたため、「毛馬生誕地」説が確定した。終戦直後の認定だから、遅きに失したと言わざるを得ないが、これは「蕪村生誕地複数説」を破棄し、毛馬村を生誕地とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになる。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

以後、生誕地が毛馬村であることを不動のものになったことになる。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村直筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも無かったことになるだろう。)

こうして、蕪村が大阪生誕の俳人と称されるようになってから七十余年しか経たない。そのため蕪村は、芭蕉や一茶とは異なり、江戸時代以来、生誕地大阪で「蕪村生誕顕彰」が疎かにされてきたことに繋がってきており、誠に慙愧に絶えない。

このために、今ですら地元大阪で「蕪村生誕地が毛馬村」であることを知らない市民が多い。次世代を担う児童生徒の学習にすら上がっていないことを考えると、児童生徒が生誕地のことを知らないことも当然のことだろう。残念で仕方がない。


余談ながら藤田教授との懇談の中で、更に驚いたことがあったことを記して置きたい。
「蕪村は淀川を下って源八橋から船を降りて浪速の弟子のもとに往き来きしていたようですが、それほど郷愁があったのなら、極く近郊にあった毛馬村の生家に立ち寄るのが自然だと思うのです。その痕跡はありませんか」

答えは「それを証明する歴史書類はありません。立ち寄ったか否かどうかも、わかりませんね」ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったとしても、生誕地へ何らかの理由で寄りたくない気持ちがあったのだろうという推察が浮上してくる。

恐らく奉公人だった母と実家の父が亡くなってから、家人たちによる極めつけの「いじめ」があり、そのために十七・八歳で家を出ざるを得なかったのではないか。そのことが「生家には生涯立ち寄らなかったこと」に結びついているのではないだろうか。

これはあくまで私の推論である。
(了)

2019年08月28日

◆大阪八軒家浜から熊野街道へ

毛馬 一三



大阪「淀川」から毛馬閘門を通り、1級河川「大川」(旧淀川)を少し下って、大阪三大橋の「天神橋」を抜けると、「八軒家浜船着場」に辿り着く。

この「八軒家浜」は、古代から京都と結ぶ水上交通の拠点だった。江戸時代ではこの浜の船着場周辺に、八軒の船宿があったことから「八軒家浜」と呼ばれたらしい。その「記念碑」が、阪神電鉄天神橋駅前の老舗・昆布屋門前に立っている。

この「碑」の先の坂を上ると、江戸時代の西洋医学者・緒方洪庵の塾屋敷跡がある。ここに集まる弟子たちも、この「八軒家浜船着場」を常時利用した。坂本竜馬も、西郷隆盛も、ここの船着き場から近郊にある「薩摩屋敷」に通っている。

この「八軒家浜船着場」は、京都から屋形船でやって来た人々が、この船着場から「熊野詣」に赴く道筋として利用していた。

今、ここ「八軒家浜船着場」が、世界遺産となった「熊野街道」の起点となっているのだが、意外にもそれが知られていない。

さて、その「熊野街道」に触れておこう。

<この「八軒家浜」を起点に、四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)、堺、和歌山などを通り、紀州田辺を経て、中辺路または大辺路によって熊野三山へと向かう道筋。

この熊野街道を経て参台する「熊野詣」は、平安時代中期ごろ、熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集めるようになったのに伴い、法皇・上皇などの皇族、女院らや貴族の参詣が、相次ぐようになったのが始まりだった。

室町時代以降は、武士や庶民の参詣が盛んになった。その様子は、蟻の行列に例えて、「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいだったそうだ。江戸時代になると伊勢詣とも重なり、庶民も数多く詣でたため、賑わいは浪速で最高だったといわれる。ただ明治以降は、鉄道や道路の整備により参拝者は少なくなる>。
参考―フリー百科事典『ウィキペディア

このように霊場熊野三山まで橋渡しする歴史的街道の起点の「八軒家浜船着場」は、これを賑わいのある水都大阪再生拠点にしようと、民官協働で、京阪電車天満橋駅の北側の大川沿いに幅約10メートル、長さ約50メートルの3層からなる鋼鉄製の巨大な「船着場」が建設された。

同船着場では、ゆったりとしたスペースがある水上バス(アクアライナー)や大型遊覧船が、ここから発進し水都大阪の川辺に広がる眺望とクルージングを楽しむことができる。

遊覧船に乗って身を乗り出して、目上に広がる大阪のまちの姿を眺めると、立体的な水都の形が顕れ、両岸のまちなみが覆い被さるような3次元都市を実感させてくれる。実にマジックな風景の出現であり、感動そのものだ。これは体験してみないと絶対に分からない。

大阪大手企業本社の東京一局集中や、大手企業工場の他府県や外国への移籍が目立つなど、大阪の経済基盤の沈下に歯止めが掛からない中で、この「八軒家浜」を観光名所として再起させることが出来れば、集客効果は抜群だろう。

しかも「緒方洪庵の塾屋敷跡」、皇族をはじめ秀吉も通った「八軒家浜」から「熊野詣」への新観光ルートを創りだし、歴史歩きの楽しみを味合わせる事業が始まれば、大阪への集客効果に繋がることは間違いない。

「八軒家浜」祭りだけで終わって仕舞う行事だけではあまりにも単純な気がして、実に勿体ない。しかも、「熊野街道」の起点となっている「八軒家浜船着場」の歴史的価値をなえがしろにしてきた大阪市文化行政の手抜かりも情けない。

今からでも遅くない。「八軒家浜船着場」から世界遺産となった「熊野詣で」を複活させるイベントや「実際の歩き会」を実施すべきだ

そう思うだけでも「八軒家浜船着場」碑が、老舗「昆布屋)門前にポッンと立っているだけで、寂しく見えて仕方がない。(了)

2019年08月27日

◆蕪村公園をご存知?

毛馬 一三

                  
 「蕪村公園」は、大阪市毛馬町の毛馬桜ノ宮公園の北端、毛馬閘門近くの大川沿いに大阪市が平成20年に造営した。

これで、都島南端、川崎橋あたりまでの毛馬桜ノ宮公園迄との道筋が完成することになり、春に桜の咲くころには大川河畔が新名所として市民が楽しむことが出来るようになった。

与謝蕪村は、松尾芭蕉、小林一茶と並んで江戸俳諧を代表する俳人だが、その蕪村の生誕地が何処かということになると、あまり知らない人が多い。

蕪村は、享保元年(1716)に大阪毛馬村の庄屋の主人と奉公人の母との間に生まれた。家督を引き継げない私生児にすぎなかった。その上不幸にも幼くして両親が亡くしため、家人から総いじめされたからか、この辛苦に耐えられず、蕪村は20歳の頃(18歳説も)毛馬村を出奔して、江戸に行くを決意。家出して京都に向かった。

京都で人生を定めることになると人物と出会っている。それが俳人早野巴人だった。早野巴人を師匠として俳句を学びながら一緒に暮らしていたが、その後、二人は江戸に旅たった。

江戸では、早野巴人の真弟子として俳諧の世界に没入したが、頼りにしていた早野巴人師が急没して仕舞った。蕪村が26歳の時だった。師匠の急逝を悲しみつつも、新しい「俳句の世界」へ身を投じなければと決断。かねてから愛着のあった芭蕉俳句を追求するため、芭蕉が訪ねて廻った奧羽地方を放浪した。

こののち、宝暦元年(1751)に、京に戻り俳諧に挑む一方、南宋画家としても精を出し、池大雅と並ぶ名声を得るようになった。その上、蕪村は、早野巴人を継いで「夜半亭」(初代巴人)主宰となった。

蕪村は京都で68歳の生涯を閉じたが、終生故郷の毛馬村には一度も帰っていない。

しかし蕪村にとっては、生まれ故郷毛馬村の「慕情」は消えることは無く、この想いを脳裡に巡らせながら、書き記した「春風馬堤曲」がある。文章の書き方は、奉公の帰省物語になぞって書き綴り、俳句を添えて「望郷」の念を一気に発散させている。

いまだに大阪には、蕪村に関する「伝承文献」は皆無だ。しかも明治2年に政府による淀川の河川改修工事によって毛馬村が総て埋め尽くされたため、生誕地の痕跡も一切残されていない。これが長い間、大阪俳人の蕪村を顕彰することが出来なかった主因なのだろう。

しかし、明治になり正岡子規が「蕪村俳句」を顕彰するようになるまで、蕪村俳句自体も評価されず、蕪村顕彰には誰も手を付けなかった。

そこで15年ほど前から大阪市会員と私たちは気を通じて蕪園建設を大阪市に働きかけた。大阪俳人蕪村を大々的な顕彰しようという運動は、嬉しいことに活発になりだした。

この運動も契機となり、大阪市は平成18年度から2年計画で、前述の「記念碑」と「春風橋」の中間にある市有地1.1hrの土地に、約2億5千万円をかけて「蕪村公園」を整備することを決定。

同「蕪村公園」には、公園の中央に大広場、公園全体に「蕪村俳句石碑」の建立、「自画絵、春風馬堤曲」などの「蕪村説明写真集」の掲示、公園全体には樹木植栽をする計画が立てられた。大阪輩出の与謝蕪村名を高揚し、文化集客地にしたいと大阪市は考えたのだ。

同公園は、重要文化財の「毛馬閘門」の西側にあり、有名な毛馬桜の宮公園の北端に位置して、市の中心地中之島に通じる大川沿いの「桜回廊」の出発点になっている。「屋形船」や「遊覧船」の折り返し地点でもある。

いまや、同公園の建立で、大川沿いの見事な桜回廊と繋がった一連の観光名所として、集客効果が期待されている。


どうか、大阪市毛馬町の蕪村公園」を是非お訪ね頂きたい。皆様のお力をお借りして、蕪村俳句の後世への継承と俳句文化を世界へ広める積極的な活動に組んでいきたいと願っている。
 (了)

2019年08月26日

◆大阪にある自然の「滝」をご存知?

毛馬 一三

大阪のまち中に、自然の「滝」があることを知ってる?と訊いても、多分大方の人は首を傾げる。ビルの屹立する大都会大阪のまち中に、そんな湧き水が集まり、自然「滝」となって流れ落ちる光景など想像出来ないからだろう。

紛れも無く私もその一人だった。が、つい先日知人が話の序でに教えてくれた上、そこに案内までしてくれたことがきっかけで、この「大阪市内で唯一の滝」に行くことが出来た。

その「滝」は、大阪市市内の夕陽が丘近郊にあった。名称を「玉出の滝」といった。聖徳太子が建立した四天王寺前の大阪市営地下鉄「夕陽ヶ丘駅」を出て谷町筋から西に向かうと、「天王寺七坂」や「安居神社」「一心寺」など、寺社や名所が点在する上町台地の歴史のまち、伶人町の中にある。

その天王寺七坂のひとつ、清水坂を登り、細い道を行くと清水寺に着く。本堂の前を抜けて墓地に挟まれた石段にさしかかると、水音がかすかに耳朶を打った。足早にそちらに向かうと、目指す「玉出の滝」に辿り着いた。

「玉出の滝」は、「那智の滝(和歌山)や不動の滝山(岩手)」のように、山の頂上から滝壺めがけて、怒涛のような勢いで流れ落ちる巨大な滝ではない。境内南側の崖から突き出した石造の三つの樋から、水道水の様な水が流れ落ちる、ささやかな滝なのである。

しかし5メートル下の石畳を打つ三筋の水の音は、大きな響きを伴い、その響きは人の心の奥底の隅々にまで行き渡る、いかにも行場の滝という感じだ。

知人によると、この「滝」には、落水で修行する常連の人がいるが、新年には滝に打たれて、延命長寿などを祈願する人が多いとい。

実は、この「玉出の滝」を見た瞬間、京都の清水寺の「音羽の滝」と瓜二つだと、感じた。

私の亡くなった母親のいとこの嫁ぎ先が京都清水寺の皿坂にある「清水焼の窯元」だったので、そこに遊びに行った時見たのが「音羽の滝」だった。

案の定この清水寺は、京都の清水寺を、寛永17(1641)年に模して建立した寺で、かつては京の清水にあるような懸造りの舞台も存在していたらしく、その時「音羽の滝」も、この「玉出の滝」として再現されたのだという。
 
周辺は、ビルばかり目立つ都会の環境だが、この大阪唯一の「玉出の滝」が、近くの四天王寺の金堂の下にある清竜池から湧き出る霊水がここで滝となっていると言い伝えもあるところから、大阪の歴史の香りを髣髴とさせる自然の造形といえる。

余談ながら、この「玉出の滝」の側に、冒頭に記述した「安居天神」がある。真田幸村の憤死の跡として知られている神社である。

大阪夏の陣で決戦を挑んだ西軍の真田幸村は、天王寺口(茶臼山付近)に布陣した。徳川方の主力が天王寺方面に進出してくることを予測してのことである。

真田幸村の狙いは、家康の首を取り豊臣家を再興させる戦略だった。真田隊は一丸となって突撃を開始、東軍の先鋒越前軍一万三千を撃破。ついに家康本陣営に突入、この真田陣の猛攻で、家康の旗本は大混乱に陥り、ついに家康の馬印までが倒された。

馬印が倒されたのは、武田信玄に惨敗した三方ヶ原の戦い以来、2度目だった。家康も本気で腹を切ろうとしたが、側近に制止され思い止まる。家康が幾多の合戦で切腹しようと決断を迫られたのは、後にも先にも、生涯でこの2度だけである。

が、真田隊も猛反撃に遭って劣勢となり、今度は家康が、総攻撃を命じた。

幸村の要請にも拘らず大阪城からの加勢は現れず、戦場で傷ついた幸村は、ここ「安居天神」の中の樹木に腰を下ろして手当てをしているところを、越前軍の兵に槍で刺され、落命した。

こんな大都会のまち中で、行場ともいうべき市内で唯一の「玉出の滝」が、真田幸村の戦場の近くであったことなども連想しながら、一度ゆっくり散策されることを勧めたい。(再掲)

2019年08月22日

◆「万葉集」の軍事メッセージ

毛馬一三


韓国の「百済の都・扶余」の遺跡から、618年に作成された「出挙(すいこ)」の木簡が、2008年前後に発見されている。

「出挙」とは、作付けの季節に農民に利子つきで貸出した「種もみ」を、収穫の秋に利子分を含めた作物を現物で回収する制度で、木簡には農民毎に回収した「作物の量」が記録されている。

この木簡は、日本でも飛鳥時代以前の古代遺跡から、全く同じものが既に発掘されている。

つまり、中国から発祥した貴重な税収制度が、百済を通じて日本へ導入されていたことの証だが、もし百済と日本の間に、当時緊密友好な関係がなかったら、日本へこうした国家構築に属する機密情報が、伝わって来なかったであろうことは想像に難くない。

この韓国の発掘記事を読んだのは、随分以前のことだが、こうした日本と百済との「秘めたる繋がり」の驚くべき逸話を話してくれた、韓国の著名女流作家のことを思い出し、本稿を書いてみた。

同作家は、李寧煕(いよんひ)氏。韓国大手新聞社「韓国日報」の政治部長・論説委員長から国会議員(1981年)を経て、韓国女流文学会会長を歴任。

私は、李氏が来日されたた折、2日間奈良県桜井の「万葉の道」やその周辺の「古代天皇の古墳群」散策の案内役を務めたことがある。

その際李氏から、「軍事、政治メッセージに秘められた万葉集」という驚くべき学説を聴かされたのである。

韓国の李氏が、どうして日本の「万葉集」と関わりを持ったかというと、李氏が韓国国会議員だった当時、日本の高校の歴史教科書に韓国関係の記述が歪曲されているという問題が提起されたことから、日韓両国の国会議員による特別委員会が設けられ、その委員として調査に乗り出したのがきっかけだったという。

つまり、歴史書が歪曲されているかどうかに追求するには、どうしても日本の古代史にまで遡って検証する必要があった。そのために両国歴史書を克明に調べている内に、日本の「万葉集」に魅せられて仕舞ったのだという。

まずは「万葉仮名」の研究に惹かれたらしいが、その中で重大なことは「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語で判読出来ないとされている歌のほとんどを、韓国語で詠んでみると、総て詠み通せるうえ、解釈も可能であることを見つけ出したというのだ。

これは当時としては大発見に間違いなかった。

帰国した李氏から、私に李氏著書「もう一つの万葉集」(文藝春秋刊1989発刊)が送られてきた。読んでいくうち「日本語訳では見えない様々な謎」が書き込まれおり、驚愕した。

その中で、特に目を見張らせる下記の記述だった。

<万葉集20巻、4516首の内に、日本語では判読できない「未詳歌」とされているのは3首あり、このうちの1首に恐るべきメッセージが織り込められている。斉明天皇(655年即位)の意中を、額田王(ぬかだのおおきみ)が代詠した歌が、それである。

◆原文:  金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念<巻1の7・未詳歌>
・日本語よみー(秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 刈廬(かりいほ)し思ほゆ)

・この歌は、従来の「日本語解釈」では、こうなっている。
(秋の野の 萱(かや)を刈って屋根を葺き 旅宿りした 宇治のみやこの 仮の庵が思われる)。

しかしこの解釈では、額田王が何を言いたいのか、さっぱり意味が伝わってこない。だからこの歌が、解釈不能または解意不明なことから、公式に「未詳歌」とされてしまったのだ。

そこでこの祥らかでないこの歌の原文を、韓国語で読んでみると・・・。

(徐伐『そぼる』は 鉄磨ぐ 締め苦しむること勿れ 上の都は 刀来るぞよ 陣地固めよ)
・韓国語で詠むと―(新羅は刀を磨いで戦いに備えている。締め苦しめないといいのに・・・。吾がお 上の、百済の都は、敵が襲ってくるから、陣地をお固めなされ)。>
 ということが明らかになる。

李氏の韓国語解釈をそのまま読むと、これは斉明天皇が百済に送った「軍事警告メッセージ」というのとが明確となる。

だとすれば斉明天皇が百済に対して、これほどの機密「メッセージ」を送らなければならなかった理由とは何か、その疑問にブチ当たる。

皇極天皇(斉明天皇と同じ・斉明天皇は二度即位)から斉明天皇の時代は、朝鮮半島では、新羅、百済、高句麗の3国間は極端な緊張状態にあった。

特に重要なことはこの歌は、百済が新羅・連合軍に滅亡させられた661年より13年も早く、斉明天皇自身が国家危機を予測して、あえて百済に「軍事機密メッセージ」を伝えていたことになる。

となれば、「新羅の不穏な極秘情報」を、斉明天皇は歌に秘めて、百済が滅亡する相当前から「軍事メッセージ」として伝達していたに違いない。

実は斉明天皇は、百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、百済を援けるため、難波(大阪)で武器と船舶を作らせ、自らその船に乗り込んで瀬戸内海を西に渡り、百済とは目と鼻の先の筑紫(福岡)の朝倉宮て新羅・唐との戦争に備えた。

ところが斉明天皇は、遠征軍が百済に向かう前、失意の内に亡くなっている。

斉明天皇のこれほど異常な「百済ひいき」について日韓学者の一部には、斉明天皇は、百済第三十代武王の娘の「宝」で、百済最後の王、義慈王の妹だったとの説もある。

これが事実ならば、恐らく斉明天皇自身、「万葉集」歌に秘めた「軍事警告メッセージ」の存在だ真実味を帯びてくる。

「万葉集」を古代の珠玉の日本文学と仰ぐ人たちにとっては、「万葉集の韓国語詠み」は認め難いらしく、額田王作の「未詳歌」はあくまで「未詳歌」として位置付けている。

しかし、このあと白村江の戦いの敗戦(663年)まで、百済救国にこだわり続けてきた当時の日本の歴史を見ていけば、日本と百済との関係は極めて緊密であったことは証明されている。

だとすれば万葉集愛好家でも、万葉集の中に「軍事メッセージが込められた」「未詳歌」の存在に興味を抱かれるかも知れない。「万葉集」は奥が深い。(了  再掲)


参考―・李寧煕氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」
   ・小林恵子著「白村江の戦いと壬申の乱・現代思潮社」
   ・ウィキぺディア
                             

2019年08月20日

◆大阪八軒家浜から熊野街道へ

毛馬 一三

大阪「淀川」から毛馬閘門を通り、1級河川「大川」(旧淀川)を少し下って、大阪三大橋の「天神橋」を抜けると、「八軒家浜船着場」に辿り着く。

この「八軒家浜」は、古代から京都と結ぶ水上交通の拠点だった。江戸時代ではこの浜の船着場周辺に、八軒の船宿があったことから「八軒家浜」と呼ばれたらしい。その「記念碑」が、阪神電鉄天神橋駅前の老舗・昆布屋門前に立っている。

この「碑」の先の坂を上ると、江戸時代の西洋医学者・緒方洪庵の塾屋敷跡がある。ここに集まる弟子たちも、この「八軒家浜船着場」を常時利用した。坂本竜馬も、西郷隆盛も、ここの船着き場から近郊にある「薩摩屋敷」に通っている。

この「八軒家浜船着場」は、京都から屋形船でやって来た人々が、この船着場から「熊野詣」に赴く道筋として利用していた。

今、ここ「八軒家浜船着場」が、世界遺産となった「熊野街道」の起点となっているのだが、意外にもそれが知られていない。

さて、その「熊野街道」に触れておこう。

<この「八軒家浜」を起点に、四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)、堺、和歌山などを通り、紀州田辺を経て、中辺路または大辺路によって熊野三山へと向かう道筋。

この熊野街道を経て参台する「熊野詣」は、平安時代中期ごろ、熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集めるようになったのに伴い、法皇・上皇などの皇族、女院らや貴族の参詣が、相次ぐようになったのが始まりだった。

室町時代以降は、武士や庶民の参詣が盛んになった。その様子は、蟻の行列に例えて、「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいだったそうだ。江戸時代になると伊勢詣とも重なり、庶民も数多く詣でたため、賑わいは浪速で最高だったといわれる。ただ明治以降は、鉄道や道路の整備により参拝者は少なくなる>。
参考―フリー百科事典『ウィキペディア

このように霊場熊野三山まで橋渡しする歴史的街道の起点の「八軒家浜船着場」は、これを賑わいのある水都大阪再生拠点にしようと、民官協働で、京阪電車天満橋駅の北側の大川沿いに幅約10メートル、長さ約50メートルの3層からなる鋼鉄製の巨大な「船着場」が建設された。

同船着場では、ゆったりとしたスペースがある水上バス(アクアライナー)や大型遊覧船が、ここから発進し水都大阪の川辺に広がる眺望とクルージングを楽しむことができる。

遊覧船に乗って身を乗り出して、目上に広がる大阪のまちの姿を眺めると、立体的な水都の形が顕れ、両岸のまちなみが覆い被さるような3次元都市を実感させてくれる。実にマジックな風景の出現であり、感動そのものだ。これは体験してみないと絶対に分からない。

大阪大手企業本社の東京一局集中や、大手企業工場の他府県や外国への移籍が目立つなど、大阪の経済基盤の沈下に歯止めが掛からない中で、この「八軒家浜」を観光名所として再起させることが出来れば、集客効果は抜群だろう。

しかも「緒方洪庵の塾屋敷跡」、皇族をはじめ秀吉も通った「八軒家浜」から「熊野詣」への新観光ルートを創りだし、歴史歩きの楽しみを味合わせる事業が始まれば、大阪への集客効果に繋がることは間違いない。

「八軒家浜」祭りだけで終わって仕舞う行事だけではあまりにも単純な気がして、実に勿体ない。しかも、「熊野街道」の起点となっている「八軒家浜船着場」の歴史的価値をなえがしろにしてきた大阪市文化行政の手抜かりも情けない。

今からでも遅くない。「八軒家浜船着場」から世界遺産となった「熊野詣で」を複活させるイベントや「実際の歩き会」を実施すべきだ

そう思うだけでも「八軒家浜船着場」碑が、老舗「昆布屋)門前にポッンと立っているだけで、寂しく見えて仕方がない。(了)

2019年08月17日

◆歴史現場に立ち会える記者稼業

毛馬 一三

NHK記者として入局したのは、早大卒業の昭和36年。入局直後、NHK「研修所」で、記者としての基礎的な受講を3か月受けた後、長崎・佐世保局に配属された。

佐世保局には、松尾龍彦デスクと評論家の日高義樹氏(元ワシントン支局長)が先輩記者として赴任しておられたため、現場記者としての取材の仕方、原稿の書き方など親身になって指導してもらった。

新人記者として、「警察」と「労働団体」、「米軍佐世保基地」回りを担当させられた。

佐世保局での取材は、取材範囲が広域なのと、米海軍の基地を抱えていたため、基地問題や労働諸問題に追われ、「夜討ち・朝駆け」の取材は日常のことだった。

その佐世保記者として、今でも忘れられない強烈なことが2つあっことを思い出す。それを以下、追々。

ひとつは、昭和38年11月22日、アメリカから最初に来た「衛星放送」で、ジョン・F・・ケネディー大統領が暗殺事件を見たことだった。最初の「衛星放送」が、大統領暗殺と重なったことに驚愕した。

米軍海軍基地に出入りが自由だった筆者は、同基地の通訳を通じて、大統領暗殺事件に対する基地内の混乱状況を記事にした。反響が大きかった。

二つ目は、筆者が「米原潜佐世保入港」を「スクープ」したことである。

その「スクープ」を出したのは、佐世保局からではなく、NHK福岡放送局からだった。しかも入港より丸1日早い、昭和39年11月11日早朝6時だったのである。

もともと、「米原潜佐世保米軍海軍基地入港」が最初に公表されたのは、昭和38年3月であった。この日から「何時、入港するのか」が、全国的に焦点となっていた。

この公表以来、佐世保では地元社会党系労働組合が「原潜入港反対闘争本部」を立ち上げ、市民団体も呼応して、大規模な「入港反対闘争」がはじまった。佐世保は、米海軍基地周辺を中心に騒然となり出した。「安保闘争の佐世保版」だった。

とりわけ被爆地長崎と隣り合わせの現場佐世保では、米原潜搭載の「核」持込みの懸念が市民らを強く刺激し、急遽集結した各地の革新団体や全学連が、デモ行進や集会を繰り広げ、騒動は日増しに激化していった。

その反対闘争の労働取材担当記者だった筆者は、入港反対闘争本部だった当時の佐世保地区労(佐世保地区労働組合会議)本部に、夜討ち朝駆けを行い、反対運動の動静を追い続けた。

当時、総評系の佐世保労働組合の中核組織「全駐労」の委員長だった石橋政嗣氏が、衆院議員に転身して社会党書記長に就任していたことから、この反対運動は当時野党第一党の社会党と緊密に連携しながら、全国規模の反対運動に発展していった。

筆者は、帰郷する石橋書記長に纏わり、「反対運動」の中央の方針をしつこく取材して回ったことから、気難しい石橋書記長から特に目を掛けて貰う間柄となった。

同時に、地元の社会党系「佐世保地区労闘争本部」の速見魁議長、小島亨事務局長、西村暢文本部員らからも熱心な取材を気に入られ、極めて親密な関係を築くことが出来た。

この取材は、歴史の現場を直に目撃できるという、正に「記者冥利」に尽きる無上の喜びであった。しかも現場で親交を深めた取材対象の人脈とも、立場を超えた人間同士の触れ合いが出来ることも嬉しかった。そうした教訓は、駆け出し記者の記者魂を育ててくれた。

そんな折の昭和39年11月10日の夜10時過ぎ、佐世保放送局で当直の勤務をしていた筆者に、佐世保地区労の小島事務局長から電話が入った。

「あなたの家に電話をしたら、当直と聞いたので電話をしました。実はね、石橋書記長から、あなただけに伝えなさいと今、指示があったので連絡します」。

小島事務局長はそう言った上で、「米原潜シードラゴンが12日朝、佐世保に入港する」という、極秘情報を伝えてきた。筆者は、足が諤諤と振るえ、感謝の意を短く伝えるのがやっとだった。

すぐさま、福岡放送局報道課長の自宅に架電して、その情報を伝えると共に、これから出稿する旨を伝えた。報道課長は「直ちに東京政治部の首相官邸キャップに連絡し、政府から確認を取って貰う。君は、米原潜12日入港の記事を急いで書き、送りなさい」という指示が出た。

11日の2時ごろ、原稿を送ろうとしているところに、報道課長から電話が来た。「官邸キャップが政府筋に確認したが、どうも煮え切らない返事だったようだ。東京政治部では、引き続き政府関係者に当たるが、「スクープ」として当面は福岡発から流しなさいと言っている。原稿をすぐ送ってくれないか」ということだった。

そこで、「米原潜あす佐世保入港、現地では大規模集会やデモ」という内容を原稿にすることにして、「闘争本部」幹部に再度裏付け取材をして上、急ぎ福岡局報道課に送稿した。「闘争本部」で特に友好の深い西村暢文氏に「他紙は気付いていませんよね」と念を押し、確認を取ることを忘れなかった。他紙は、知らなかった。

これが他社より1日早くNHK福岡局から「原潜あす佐世保入港」のスクープが全国に発せられたいきさつである。NHK東京発の同関連ニュースが放送されたのは、「米原潜」が入港する12日午前6時のニュースからであった。従って「他紙」「他放送局」を抜いた「スクープ」となった。

先述の西村暢文氏から、「あなたのスクープで、闘争本部が一層盛り上がり、原潜反対闘争のとっかかりになった。感謝」という予想外の電話が掛かって来た。

歴史の現場にいち早く立ち会える記者稼業とは、この上ない人生の幸せである。人脈が豊富になることも大いなる喜びだ。

いろいろ思い出はあるが、記者として佐世保局でのこの2件は忘れることが出来ない(了 再掲)

2019年08月16日

◆「黄砂アレルギー」に注意

毛馬 一三

花粉症歴の経験が全く無い筆者にとって、軽い風邪症状の一種かなと思って、余り気にも止めていなかった。

ところがとんでもない。次第に喉の違和感が痛みを伴うようになり、咳も痰も出るようになった。

そこで、慌てて近くの内科診療所に飛び込んだ。内科医は喉の症状を見た途端、「炎症がひどいですね」という。「原因は?」と訊いたら、「飛来してくる黄砂の黴によるものと思われます。花粉症ではありません」と教えてくれた。

同医師によると、黄砂によるいろんな健康被害で訪れる患者が、急増しているという。同医院から、

・抗生物質―フロモックス錠100mg(毎食後1錠・3日間分)
・咳を鎮める薬―メジコン錠15mg(毎食後2錠・7日分)
・痰や膿を薄めて、痰や鼻汁を出しやすくする薬―ムコダイン錠500mg(毎食後1錠・7日分)
・胃薬―セルベックスカプセル50mg(毎食後1カプセル・7日分)薬を貰った。

だが、マスクを付けて外出を余儀なくさせられた1週間が過ぎても喉の炎症と咳、痰共に治まる気配が無い。再診の結果、まだ喉の炎症は完治してないと診断され、改めて下記の薬を貰った。

・咳を鎮める薬―メジコン錠15mg(毎食後2錠・7日分)
・痰や膿を薄めて、出しやすくする薬―クリアナール錠200mg(毎食後1錠・7日間分)
・炎症を抑えて腫れや痛みを和らげる薬―ダーゼン5mg錠(毎食後1錠・7日分)
・SPトローチ0.2mg(28錠・1日4回)
・アズノールうがい液4%(5ml・1日4回)

2度目の薬を飲んだり、うがいを励行したところ、数日が経過してやっと喉の痛みや違和感がなくなり、咳と痰も出なくなった。

喉にこのような強度な症状が出たのは初めてのことだ。しかも気にはなっていた飛来の「黄砂」によるものだ。

今強烈になっている中国の大気汚染と原因が重なっているらしく、中国から飛来する「黄砂と大気汚染」が、日本に被害をなすりつけているのだ。気象庁も「中国で黄砂が急激に発生してる」と指摘している。日本が被害者になるのか。無性に腹が立つ。

話は後先になるが、<黄砂(こうさ)とは、中国を中心とした東アジア内陸部の砂漠または乾燥地域の砂塵が、強風を伴う砂嵐などによって上空に巻き上げられ、春を中心に東アジアなどの広範囲に飛来し、地上に降り注ぐ気象現象。あるいは、この現象を起こす砂自体のこと>である。

細かい砂の粒子や、粒子に付着した物質、黄砂とともに飛来する化学物質などにより、さまざまな健康被害が生じる。

即ち、咳、痰、喘息、鼻水、痒みといった呼吸器官への被害や、目や耳への被害が目立つ。黄砂が多い日には、花粉症、喘息、アトピーなどのアレルギー疾患の悪化が見られる。>という。 
参考―フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

花粉症で悩まされるだけでなく、黄砂アレルギーで健康被害を煩わされるのでは、堪ったものではない。

ところが肝腎の黄砂による呼吸器官への被害が、増えていることにはあまり知られていないようだ。

黄砂の飛来が顕著な九州や関西では、既にこの被害が出て問題化しているが、全国にも広がるだろう。

黄砂の飛来が予測される時は、TVの「天気予報」で早めに知らせてほしい。

しかも喉などに異常を感じたら、医療機関で診察を早めに受けられることをお勧めしたい。(了  再掲)     


2019年08月11日

◆「がめ煮」が呼ぶ郷愁の味

                           毛馬 一三


随分前に大阪梅田のビルの地階の古い暖簾の「小料理屋」に、友人と一緒に訪ねたことがある。

店は、老主人が黙々と「料理」に専念し、老婦人が注文受けとお酒の配膳役を務める「こじんまり」とした小料理屋だ。壁に掛けられた「おつまみ品」には目を向けず、すぐに、以前に来た時食した「ガメ煮」をすぐ注文した。

「がめ煮」は、私の出身の福岡筑後久留米の郷土料理の呼称だが、この名前で出される店は、大阪には滅多に無い。

そう言えばこの「がめ煮」は、筑後地方以外では「筑前煮」と呼ばれている。本当は「がめ煮」と「筑前煮」とは具材と味が違い、「がめ煮」の方が食の玄人向きだと、私は今でも思っている。

早速箸をつけて味わってみたが、前回の味と全く変わらない。九州出ではない主人にしては、出来すぎの料理だ。

さて、その「がめ煮」のことだが、博多地方の方言では、「がめくり込む」(「寄せ集める」などの意)が、その名前の由来だとの説がある。

ところが、太閤秀吉が朝鮮半島を攻めた文禄の役の時に、朝鮮に出兵した兵士が、当時「どぶ亀」と呼ばれていたスッポンと食材と合わせた煮込の料理方法を、我が国に持ち帰って作ったのが始まりだとの説がある。

そのスッポンを使って煮込んだ「どぶ亀」をそのまま筑後地方で「がめ煮」という名で作り始めたと伝えられているから、「がめ煮」の名の方が筑後地方が先で、博多の「筑前煮」は後釜という説の方がある。

ところがいつ頃からかは分からないが、「がめ煮」にスッポンは使わず、代わって「鶏肉」をいれるようになった。この作り方も、筑後地方の方が先に手を付け、郷土料理にしたと言われている。

子供の頃、「がめ煮」が食前に出る時は、お正月や婚礼式などの祝い事の時だった。「がめ煮」は慶事の時の食べ物だったという記憶が蘇ってくる。

さて、作り方だが、

<本場筑後「がめ煮」と「筑前煮」との一番の違いは、具材を炒めて入れる手順にあるという。まずはだし汁、シイタケの戻し汁、酒、醤油、みりん、砂糖を混ぜて鍋で煮立たせるのから始まる。そこに、一口大に切った鶏肉を入れてひと煮立ちさせる。

そこまでの手順は一緒だが、その後、「筑前煮」は、里芋、干し椎茸を戻したもの、コンニャク、アクを抜いたゴボウ、レンコン、ニンジン、ナスで筍を一口大に切ったものなどを入れる。

「がめ煮」は、コンニャク、里芋、大根、ニンジンを入れ、鶏肉をじっくり煮込ませるやり方で、甘みを時間を掛けて滲ませるのが独特のやり方だ。

この点が「がめ煮」と「筑前煮」が違うところだ。野菜が柔らかくなるまで煮れば、出来上がり。煮あがったところに「筑前煮」の場合は、サヤエンドウを加えることもある。>

聞くところによると、久留米市は「久留米市食料・農業・農村基本計画」を作り、伝統の「がめ煮」を調理することのできる市民の割合を、2014年度までに65%とする目標を立てている。

「がめ煮」を郷土料理の誇りにしている。きっと「がめ煮」を筑後の伝統料理として後世に残したいためだろう。

郷里久留米の姉の家に寄ると、姉が昔ながらの見事な味の「がめ煮」を作ってくれたのだった。「がめ煮」舌触りに接するだけで、子供の頃の郷愁が込み上げて来て感動するばかりだ。

今回「小料理屋」で食した「がめ煮」の味も、改めて郷愁を誘ってくれた。「食べ物」とは底が深い。(了 再掲)

参考 フリー百科事典

2019年08月10日

◆国産ビールの発祥地は大阪

毛馬 一三

いよいよ夏化、どこでも夕食の食卓では、缶ビールをコップに移して一気に飲んで、喉を潤すのが習慣になってきている。

今やアルコールを飲めない人でも、アルコールの入っていない缶ビールを買い求めてビールの味を愉しむ時代にもなっている。ビールはもはや全盛時代だ。

以前、北海道のサッポロビール工場で、出来立てのビールをジョッキ杯で飲んだ経験がある。下戸の私は、ジョッキ杯飲みに躊躇いがあったが、喉越しに胃袋に入っていったその時の美味さは、何とも清々しく旨いものだった。

ホテルや居酒屋などでビールジョッキで飲むことがたまにあるが、出来立てのサッポロビールの味と同じような感じがしだして、時代と共にビールの質が向上していることが伺える。

そんな中、「国産ビールの発祥の地」が、大阪だというという「碑」を見つけた。全国いたるところにあるといわれているビールの発祥の地が、まさか大阪だとは驚いた。

その「碑」は、大阪市営地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅から 東に300mほどの大阪・北新地のANAクラウンプラザホテル北東側にあった。

その場所にはしばしば行く所だが、ホテル北東側の3本の道路で囲まれた三角形の場所で交通量の多いところなので、不覚にもその「碑」には目が届かなかった。よく見ると「碑」と「説明プレート」が建っている。

「碑」は、高さ1m50pで、隣接している「説明プレート」は1mの四角形。いずれにも大阪市教育委員会の説明が添えられている。

こう書いてある

<わが国におけるビールの醸造は幕末に横浜で外国人がおこなっていたが,日本人の手によるものとしては,澁谷庄三郎がこの地で醸造したのが最初といわれている。

当初は大阪通商会社で,明治四年(1871)に計画された。これは外国から醸造技師を招いた本格的なものだったが,実現には至らなかった。この計画を通商会社の役員のひとりであり,綿問屋や清酒の醸造を営んでいた天満の澁谷庄三郎が引継ぎ,明治五年三月から,このあたりに醸造所を設け,ビールの製造・販売を開始した。

銘柄は「澁谷ビール」といい,犬のマークの付いたラベルであった。年間約三二〜四五キロリットルを製造し,中之島近辺や川口の民留地の外国人らに販売した。―大阪市教育委員会>。

しかし気になることがあった。「日本ビールの発祥地は、横浜」と言われていたことを思い出して気になった。

そこで、調べてみると、

<明治3年(1870年)、米国人のウィリアム・コープランドによって横浜・山手にビール醸造所「スプリング・バレー・ブルワリー」が設立され、日本で初めてビールの醸造・販売が開始された。

外国人の手による日本初だが、実は麒麟麦酒(キリンビール)がこれの流れを汲んでおり、世間的にはこれが「横浜が日本のビール発祥の地」と定着してしまったようだ。>

更には

<小規模なものなら、江戸時代にも日本でビールが造られていたらしい。文化9年(1812年)に、長崎の出島でオランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフによる“自家醸造”で、これが「日本で初めて醸造されたビール」とされている。

となると、大阪の「発祥地」とはどういう意味なのかということになる。

そこで、時系列に追って整理すると、
・1812年(文化9年) 日本で初めてのビールが長崎でオランダ人によって醸  造される。
・1869年(明治2年) 横浜で、外国人による日本最初のビール醸造所が設立される。
・1872年(明治5年) 大阪堂島で、渋谷庄三郎によって、「渋谷ビール」という、日本人によって初めて産業的にビールが醸造・販売される。

そこではっきりした。「横浜」は外国人によって「日本で初めて産業的にビールがつくられた地」なのだ。「大阪」は日本人の手によって、初めて「国産ビールがつくられた地」だったということになる訳だ。

この「大阪の碑」の周辺は、今は不景気で活性化が無くなっている遊楽街「北新地」だが、「碑」に辺りに「国産ビール発祥地」を明らかにする施設や跡地は、どこにも見当たらない。

だが、現代のビール産業がこの場所から発祥したのだという事実は、この「碑」を目撃したことよって、先駆的だった大阪の時代があったこと改めて感じさせられた。これからも全国を引導していく大阪になって欲しいものだ。

2019年08月08日

◆大阪だった「芭蕉終焉の地」

毛馬 一三


松尾芭蕉の「終焉(しゅうえん)の地」を、知っている人は少ない。終焉の句が「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」であることが有名だから、誰もが旅の果ての東北か、北陸の辺りでの死去ではないか思うのは当たり前だ。

ところが、芭蕉の終焉の地は、実は大阪だ。

御堂筋の真ん中辺りの「南御堂」向かいの花屋仁左衛門の離れ座敷だったのだが、そんなことは大阪人のほとんどが知らない。芭蕉が亡くなった花屋仁右衛門宅は、今喫茶店になっており、その屋敷跡から当時の事を髣髴させるものは何もないのも、原因の一つかもしれない。

今は、南御堂前の左側の緑地帯の中に「終焉(しゅうえん)ノ地」と銘を打った碑が、ポツンと建っているだけで、車の通行に挟まれた緑地帯の中だから、通行人の目に止まる筈がない。

私はたまたま、地下鉄御堂筋線・地下鉄中央線「本町」下車して南へ向かう用事があったため歩いていた処、“偶然”にも目に入った。その場所をたまた通り掛けたお陰で、“発見”出来たのは、言葉でも云えないラッキーなことだった。
 
<元禄7年(1694)9月、芭蕉は、故郷伊賀上野から奈良をすぎ暗峠を越え、2度目の来坂をした。長崎へ向かう旅の途中に大阪に立ち寄り、住吉大社を詣でたり、句会に参加するなどしている。

しかし本当の來阪目的は、当時大阪俳壇をにぎわしていた2門人の仲違いが際立っていたため、それを収拾するのが主目的であったとも云われている。
 
伊賀上野の出発時から体調不良を訴えていたが、大阪・住吉神社に詣でたあと、発熱下痢を伴い花屋仁右衛門方離れ座敷で病臥。ついに10月12日夕方息を引き取る。51歳だった。最後の句として知られる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」は、その4日前に病床で詠んだものだという>。

ところが「秋深き隣は何をする人とぞ」は、芭蕉が床に臥す直前に詠んだ句である。臥す直前まで世事に興味津々というか、「晩秋」の移ろいにも鋭利な感覚を失っていない。となると芭蕉は、出来るだけ早く床上げをして長崎へ向かう旅立ちへの気力は、この時溢れていたのではないかと思える。

<大坂御堂筋の花屋仁左衛門方で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死した。(よく辞世の句と言われているが、結果論である。「病中吟」との前詞があり、辞世とは当人も意識していなかった)という説もある>。

しかし病状が急変したのは事実だ。その急変ぶりに死を予期し、「夢は枯野をかけ廻る」という七五を組み入れた句を編み出したのではないかと、私は思う。死期を悟った上での「辞世の句」だったと考えるのが、その頃の体調不良と考え合わせれば辻褄が合う気がする。

<臨終の時は、大勢の弟子達に見守られ、遺体は亡くなった日に舟で、土佐堀川を上り、芭蕉が遺言した近江の義仲寺に運ばれた>。芭蕉は、木曾義仲の墓の隣に眠っている。

序でながら、江戸時代の俳人与謝蕪村の終焉の地は、画人蕪村の活躍の場とも絡んで、京都だと知っている人は多い。ところが肝腎の蕪村生誕地が大阪毛馬だと知る人は意外に少ない。つまり蕪村と芭蕉のその辺りの謂れは、逆の形になっているのだ。

このため、蕪村の生誕地が大阪毛馬だと全国、世界に発信し、「生誕地と蕪村俳句」を後世のために伝えて行くために、わたしたちはいま様々な活動を進めている。
(了 再掲)