2013年07月16日

◆紫式部と「和紙」の縁

毛馬 一三


「源氏物語」の作者紫式部が、どうしてあのような長編小説「物語」を書くことができたのか。実は、父親の藤原為時が、都から遥か離れた「和紙」の里・福井県越前の武生に、国司として転任したの伴いに一緒に移住してきたことに、深い縁がある。そのことは追々。

福井県越前市には「和紙の里」がある。その越前市新在家町には「越前和紙の里・紙の文化会館」と隣接する「卯立の工芸館」、「パピルス館」があり、越前和紙の歴史を物語る種々の文献や和紙漉き道具、越前和紙歴史を現す模型や実物パネルなどが展示されている。

「パピルス館」を訪ねて、紙漉きを約20分掛けて自分の手でで作くる作業が体験が出来たのは、圧巻だった。

流し漉きといって、漉舟(水槽)に、水・紙料(原料)・ネリ(トロロアオイ)を入れてよくかき回したあと、漉簀ですくい上げ、両手で上下左右に巧みに動かしていくと、B5くらいの「和紙」が出来上がる。まさにマジックの世界だった。

ところで、この「越前和紙」の由来だが、今から約1500年前、越前の岡太川の上流に美しい姫が現れ、村人に紙の漉き方を伝授したからだという伝説がある。

山間での田畑だけに頼り切って乏し過ぎた集落の村人にとっては、この紙漉きの伝授で村の営みは豊かになり、以後村人は、この姫を「川上御前」と崇め、岡太神社(大瀧神社)の祭神として祀っている。

<その後大化の改新で、徴税のため全国の戸籍簿が作られはじめたことから、この越前「和紙」が、戸籍や税を記入するために欠かせない資材となった。

この思いがけない制度発足で、越前で大量の和紙が漉かれ出した。加えて仏教の伝来で写経用として和紙の需要は急増。「紙漉き」は、越前の地に根ざした地場業として大きな発展と村の利益増大を遂げている>。

さて本題。
長編小説「源氏物語」の作者紫式部は、執筆に取り掛かる6年前の24歳の時(996年)、都から遥か離れた「和紙」の里・越前武生に移住してきた。何故かというと、冒頭記述のようにご当地の国司に“転勤”となった父・藤原為時に連れだってきたのだ。

「和紙」の里・越前武生に居住することなったことで、山ほどの「和紙」に囲まれて、存分に文筆活動に励めた。当時、都で如何ほど「和紙」が手に入ったのかは、専門家も把握していないが、当時の物書きには、喉から手が出る程の「和紙」だったことは、間違いない。

<藤原為時は、中級の貴族で、国司の中で実際に任地へ赴く“転勤族”だったそうで、996年一旦淡路の国(下国)の国司に任命されるが、当時の権力者・藤原道長に賄賂などの手を使って、転勤先を越前の国(上国)の国守に変更してもらっている。はっきり言えば為時は、淡路の国(下国)には赴任したくなかったのだ。何故か。

当時、中国や高麗からの貿易船が日本にやってくる場合、海が荒れた時や海流の関係で、同船団が越前や若狭の国を母港とすることが多く、このため海外の貴重な特産品が国司のもとに届けられ、実入りは最高のものだったからだという>。

ところで、藤原為時一族は、中級の貴族ながら文才をもって宮中に名を覇せ、娘紫式部も為時の薫陶を受けて、幼少の頃から優れた才能で漢文を読みこなす程の才女に育てられたといわれる。

父親の愛情で物書き娘に育ててもらい、書き損じても幾らでも対処できる「和紙」を与えてもらえたことは、紫式部にとって最高の「父のご恩」であり、「幸運」だった。

<この為時の思いは、式部が後に書き始める「源氏物語」の中に、武生での生き様が生かされている。平安時代の歌集で、紫式部の和歌128 首を集めた「紫式部集」の中に、武生の地で詠んだ「雪の歌」が4 首ある。

越前武生での経験が、紫式部に将来の行き方に威力になったことはまちがいない。と同時に式部は、国司の父親のお陰で、結婚資金をたっぷり貯め込むことも成し遂げ、約2年の滞在の後、京都に戻り、27歳になった998年に藤原宣孝と結婚している>。

越前武生の過ごし方が、紫式部にとり「和紙」との出会いを果たして、世界最古の長編小説書きへの道を拓くことに繋げられた事は、紛れもない事実であろう。

<紫式部の書いた「源氏物語」の原本は現存していない。作者の手元にあった草稿本が、藤原道長によって勝手に持ち出されて外部に流出するなどしているため、「源氏物語」の原本は、当初から非常に複雑な伝幡経路を辿っていたという。

確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は現在のところ一つも見つかっておらず、この時期の写本を元に作成されたと見られる更なる「写本」すら、非常に数が限られているという>。
 
以前の話だが、北京五輪開会式の時、中国の古代4大自国発明の一つとして、「紙」を絵画の絵巻をCGで描き、国威を誇った。

その紙が、7〜800年後に日本に渡って「和紙」となり、その後、その「和紙」によって、世界最古の長編小説が日本の女性によって書かれたことを、中国では知られているだろうか。(了)   (修正再掲)

参考:ウィキペディア、: 青表紙証本「夕顔」 宮内庁書陵部蔵  

2013年07月08日

◆万葉集に軍事メッセージ

毛馬 一三 


「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語では判読出来ない歌のほとんどを、何と韓国語で詠んでみると、「未詳歌」ではなく、総て読み明かせると聞いた事を思い出した。

しかもその「万葉集の未詳歌」には、当時の日本と百済との間で「軍事、政治に関する驚くべきメッセージ」が秘められているということだ。

この話をしてくれたのは、以前のことだが、韓国の著名女流作家、李寧煕(いよんひ)氏。韓国大手新聞社「韓国日報」の政治部長・論説委員長から国会議員を経て、韓国女流文学会会長を歴任された。ただ、今もご健在か確認出来ていない。

筆者は、たまたま「韓国日報」からの紹介で、李氏が来日された折、2日間、奈良県桜井の「万葉の道」やその周辺の「古代天皇古墳群」散策の案内役を務めた。

その時李氏が、こもごもと語ってくれたのが、この「万葉集」に秘められた日本と百済との「軍事、政治に関する驚くべき秘話」だった。

李氏が、日本の「万葉集」と関わりを持ったのは、国会議員だった当時、日本の高校の歴史教科書に韓国関係記述が歪曲されているという問題が提起されているということから、日韓両国国会議員による特別委員会を設け、事実調査を始めたのがきっかけだったという。

つまり、歴史書が歪曲されているかどうかに探るには、古代史にまで遡って検証する必要があり、そのためには両国歴史書に目を通すことだった。

その時、日本の「万葉集」に魅せられて仕舞ったというのだった。その瞬間から「万葉仮名」の研究に励み出されたそうだ。

「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語では判読出来ない歌のほとんどを、何と韓国語で詠んでみると、「未詳歌」ではなく、総て読み明かせること分かったというのだ。これは大発見に違いなかった。

帰国した李氏から、筆者に李氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」が送られてきた。読んでいくうち「日本語訳では見えない様々な謎」が書き込まれていた。その中に、特に注目すべき下記の記述があった。

<万葉集20巻、4516首の内に、日本語では判読できない、正式に「未詳歌」は「3首」があり、このうちの1首に恐るべきメッセージが織り込められている。

斉明天皇(655年即位)の心の中を、額田王(ぬかだのおおきみ)が代わって歌にしたのが、それである。

◆原文: 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念 <巻1の7・未詳歌>

・日本語で詠むと、(秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 刈廬(かりいほ)し思ほゆ)

「日本語解釈」では、下記のようになっている。
(秋の野の 萱(かや)を刈って屋根を葺き 旅宿りした 宇治のみやこの 仮の庵が思われる)。

この解釈だと、額田王が何を言いたいのか、さっぱり意味が伝わってこない。だからこの歌が、解釈不能または解意不明であることから、公式に「未詳歌」とされたのだろう。

そこでこの詳らかでないこの歌の原文を、韓国語で読んでみた・・・。すると、
(徐伐『そぼる』は 鉄磨ぐ 締め苦しむること勿れ 上の都は 刀来るぞよ 陣地固めよ)。

・韓国語訳―(新羅は刀を磨いで戦いに備えている。締め苦しめないといいのに・・・。吾がお上の、百済の都は、敵が襲ってくるから、陣地をお固めなされ)>。

李氏の韓国語詠みによる解釈によると、これは明らかに斉明天皇が「百済」に送った「軍事警告メッセージ」だということが、はっきりと分かる。

となれば斉明天皇が百済に、これほどまでの「国家機密情報」を送らなければならなかった理由があったのか、、その疑問にブチ当たる。

<皇極天皇(斉明天皇と同じ・斉明天皇は二度即位)から斉明天皇の時代は、朝鮮半島では、新羅、百済、高句麗の3ヵ国の間が緊張状態にあった。

この歌(皇極時代の時の648年に入手していた機密情報)は、斉明天皇に即位してから、額田王に作らせた歌だ。百済が、新羅・唐連合軍に滅亡させられた661年より13年も前のメッセージだから、このメッセージ自体には「歴史的真実性」がある。

実は斉明天皇は、百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、百済を援けるため、難波(大阪)で武器と船舶を作らせ、自らその船に乗り込んで瀬戸内海を西に渡り、百済とは目と鼻の先の筑紫(福岡)の朝倉宮で新羅・唐との戦争に備えた。

だが斉明天皇は、遠征軍が百済に出陣する直前、その意志に貫けず、出陣先の筑紫(福岡)で亡くなった。

斉明天皇の異常なまでの「百済贔屓」について日韓学者間では、斉明天皇は実は、百済第三十代武王の娘の「宝」で、百済最後の王、義慈王の妹だった説がある>。

恐らく斉明天皇自身もさることながら、親族関係も「百済」と強力な血脈が在あったのではないだろうか。額田王の「万葉集」(未詳歌)歌に秘められた「軍事警告メッセージ」も、その視点で詠めば「未詳歌」ではなくなってくるような気がする。

ところが、「万葉集」を古代の珠玉の日本文学と仰ぐ人たちにとっては、この韓国語読みは認め難く、あくまで額田王作の「未詳歌」としてしか、今でも取り扱わない。

とは云え、このあと白村江の戦いの敗戦(663年)まで、百済国の救援にこだわり続けてきた日本の歴史を見れば、日本と百済との関係は極めて緊密であったことは明らかだ。

だとすれば、万葉集愛好家も「万葉集の未詳歌」に、韓国語で詠み明かされる新たな視点を投げかければ、「万葉集」珠玉を更に広げることになるのではないだろうか。詠みを広げてみては如何。

今、「韓ドラ」放映が人気を集めている。「万葉集の未詳歌」」に対する視点と解釈を変えて観れば、当時の歴史の激烈さが浮上して興味が増してくるのは間違いない(了)    (一部修正・再掲)

参考―・李寧煕氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」
   ・小林恵子著「白村江の戦いと壬申の乱・現代思潮社」
   ・ウィキぺディア

2013年07月04日

◆八軒家浜船着場から熊野街道へ

毛馬 一三



大阪「淀川」から毛馬閘門を通り、1級河川「大川」(旧淀川)を少し下って、大阪三大橋の「天神橋」を抜けると、「八軒家浜船着場」に辿り着く。

この「八軒家浜」は、古代から京都と結ぶ水上交通の拠点だった。江戸時代ではこの浜の船着場周辺に、八軒の船宿があったことから「八軒家浜」と呼ばれたらしい。その「記念碑」が、阪神電鉄天神橋駅前の老舗・昆布屋門前に立っている。

この「碑」の先の坂を上ると、江戸時代の西洋医学者・緒方洪庵の塾屋敷跡がある。ここに集まる弟子たちも、この「八軒家浜船着場」を常時利用した。坂本竜馬も、西郷隆盛も、ここの船着き場から近郊にある「薩摩屋敷」に通っている。

この「八軒家浜船着場」は、京都から屋形船でやって来た人々が、この船着場から「熊野詣」に赴く道筋として利用していた。今になって、ここ「八軒家浜船着場」が、世界遺産となった「熊野街道」の起点となっているのだが、意外にもそれが知られていない。

さて、その「熊野街道」に触れておこう。

<この「八軒家浜」を起点に、四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)、堺、和歌山などを通り、紀州田辺を経て、中辺路または大辺路によって熊野三山へと向かう道筋。

この熊野街道を経て参台する「熊野詣」は、平安時代中期ごろ、熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集めるようになったのに伴い、法皇・上皇などの皇族、女院らや貴族の参詣が、相次ぐようになったのが始まりだった。

室町時代以降は、武士や庶民の参詣が盛んになった。その様子は、蟻の行列に例えて、「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいだったそうだ。江戸時代になると伊勢詣とも重なり、庶民も数多く詣でたため、賑わいは浪速で最高だったといわれる。ただ明治以降は、鉄道や道路の整備により参拝者は少なくなる>。
参考―フリー百科事典『ウィキペディア

このように霊場熊野三山まで橋渡しする歴史的街道の起点の「八軒家浜船着場」は、これを賑わいのある水都大阪再生拠点にしようと、民官協働で、京阪電車天満橋駅の北側の大川沿いに幅約10メートル、長さ約50メートルの3層からなる鋼鉄製の巨大な「船着場」を建設された。

新設された同船着場では、ゆったりとしたスペースがある水上バス(アクアライナー)や大型遊覧船が、ここから発進し水都大阪の川辺に広がる眺望とクルージングを楽しむことができる。

遊覧船に乗って身を乗り出して、目上に広がる大阪のまちの姿を眺めると、立像的な水都の形で顕れ、両岸のまちなみが覆い被さるような3次元都市を実感させてくれる。実にマジックな風景の出現であり、感動そのものだ。これは体験してみないと絶対に分からない。

大阪大手企業本社の東京一局集中や、大手企業工場の他府県や外国への移籍が目立つなど、大阪の経済基盤の沈下に歯止めが掛からない中で、この「八軒家浜」を観光名所として再起させることが出来れば、集客効果は抜群だろう。

しかも「緒方洪庵の塾屋敷跡」、皇族をはじめ秀吉も通った「八軒家浜」から「熊野詣」への新観光ルートを創りだし、歴史の楽しみを味合わせる事業が始まれば、大阪への集客に繋がることは間違いない。

「八軒家浜」祭りだけで終わって仕舞う行事だけではあまりにも単純な気がして、実に勿体ない。しかも、「熊野街道」の起点となっている「八軒家浜船着場」の歴史的価値をなえがしろにしてきた大阪市文化行政の手抜かりも情けない。

今からでも遅くない。「八軒家浜船着場」から世界遺産となった「熊野詣で」を複活させるイベントや実際の「歩き会」を実施すべきだ

そう思うだけでも「八軒家浜船着場」碑が、老舗門前にポッンと立っているだけで、寂しく見えて仕方がない。(了)

2013年06月23日

◆望郷の念を募らせていた与謝蕪村

毛馬 一三


江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれている。ところが、その生誕地が大阪毛馬村だと余り周知されていない。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、母親が若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。

蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも師事として俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。

蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、生誕地毛馬村をすり抜けて、頻繁に大阪にやって来ていた。

京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だった。ここから上がって大阪市内に居る数多くの門人弟子らを訪ねて回っている。

また蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねたり、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪市内いたる所を巡回している   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされている。だが実際は、大阪も上記の通り活躍の場だったのだ。これもあまり知られていない。

船着き場の源八橋から生誕地の毛馬まで歩こうとすれば、30分ほどしかかからない。それなのに蕪村は、生涯毛馬には一歩も足を踏み入れなかった。

やはり母の死後、家人から苛められ過ぎ、出家まで決意させられた辛い思いが、大坂に帰郷すれば脳裏を支配し、終生「怨念化」して立ち寄りを阻んだのだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎるものだったと思える。

とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いないようだ。

自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。

蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。

筆者が主宰するNPO法人近畿ホーラム21主催の「蕪村顕彰俳句大学」では、大阪市立大学と共同し3年後に迫った2016年に「蕪村生誕300年祭」開催の準備を進めている。
地元淀川連合町会や地元NPO法人とも、共同事業にする方向で折衝をしている。

「芭蕉・一茶」の生誕地では、生誕祭を含め様々な記念事業を行っている。しかし大阪俳人蕪村生誕を顕彰する「お祭り」の実績は全くない。何としてでも「蕪村生誕300年祭」を成功させ、大阪俳人与謝蕪村の名を国内外に広めたいと考えている。

大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村を、「蕪村生誕300年祭」開催の時には、「蕪村魂」だけでも来場して貰いたいと思っている。「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を実現させることが、筆者の人生最後の願いでもある。(了)

2013年06月18日

◆芭蕉随行の「曾良」は忍者?

毛馬 一三

もともと、松尾芭蕉の「終焉の地」が大阪・南御堂向かいにあった花屋仁左衛門の離れ座敷であったことや、辞世の句といわれる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が、この座敷の病の床で亡くなる4日前に詠んだものであることを、先般綴った。

芭蕉自身は、大阪で死ぬなどとは夢想だに思わず、早く床払いをして次の旅先長崎に向けて立ちたいたいとの気持であったと、様々な文献に記されている。

だが、思いもよらず病(食中毒といわれる)は悪化、意に反して終焉を迎えるのだが、見守る弟子たちの顔を眺めながら「死」が迫るのを悟ると、幸せな生涯だったと瞑目しながら、逍遥と死の旅についたといわれている。
この芭蕉に関して、「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏から連絡を頂いた。
<芭蕉記念館は、深川にある。徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。江戸の発展とともに新たな市街地、農地が必要となり、土地の開発が始まった。大阪からきていた深川八郎右衛門が新田を開発、慶長元年(1573年)深川村と称したのが始まり。

江戸の下町と言えばなんと言っても深川。出発地は都営新宿線森下駅。駅を出て新大橋通りを浜町方面に5分ほど歩いていくと隅田川にかかる橋が見えてくる。これがこの通りの名前になっている新大橋。橋の手前の十字路を左に曲がりしばらく歩いていくと最初の目的地「芭蕉記念館」がある。

芭蕉は延宝8年(1680年)江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ。元禄2年(1689年)3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる奥の細道。岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅。

「芭蕉記念館」には 当時、芭蕉が着ていた袈裟を初め、芭蕉庵を模したほこら、句碑 などがある。記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり。川沿いの道を左に少し歩いていくと史跡庭園があり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。 先日来日した李トウキ前台湾総統もご覧になって行った>。
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上記玉稿を読ませて貰った時、芭蕉に纏わる新たな衝撃が脳裏を駆け巡った。それは、
<徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。(そんな未開発の深川だったが、その深川から)元禄2年3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。(略)岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅>というくだりである。

江戸から東北、北陸地方を150日間で踏破した2400キロ(600里)の道程を踏破したと言うが、とんでもない距離だ。単純に計算しても、毎日16キロを歩いたことになる。だが当時の旅路は、そんな生易しいものではなかった筈だ。

江戸時代元禄期といっても、 江戸から東北、北陸地方には、のんびり歩き通せる平坦な道が整っていた筈はない。ほとんどが山道・峠道であり、山を越えて行く方法しかなかった。

筆者も以前、福井の江戸時代前からの「鯖街道」を歩いたことある。山道の勾配は天地の差ほどの高低を繰り返し上り下りし、僻々とした記憶がある。山道もない場所は絶壁を横切るしかない。ましてや橋はほとんどなかった。大雨で河が氾濫、足止めを食うことも日常茶飯事だったろう。

ところが、「奥の細道」によると、2人は何と1日に48キロ(12里)を 歩いた日があったという。幾ら昔の人が健脚だったとはいえ、老齢の域の芭蕉(46)と同行者曾良(41)が、そんな長距離を1日で踏破できたと考えるのは無理な話だ。

つまり芭蕉は、こうした異常な歩き方の速さや、伊賀の上野の生まれであることから「忍者」ではなかったかと論じられてきた。それはまた別の機会に譲るとして、ここで気になるのは、むしろ芭蕉の弟子として名を売り、旅の同伴者であった「曾良」の方だ。

「曾良」のことは、純朴な芭蕉のお供だという印象が強くて、「忍者説」はあまり知られていない。

ところが調べてみると、こんな具合だ。
<曾良は、幕府とのつながりが緊密で、当時日光工事普請を巡ってあった伊達藩と日光奉行の対立を探るための調査を、幕府から曾良に命じられたとされている。その目的と行動を隠すため、芭蕉の歌枕の旅を巧みに利用したというのが、芭蕉研究専門家では語られている。

曾良は、さらに社寺や港の荷役の動きを調べる任務も担っていたようで、北前舟が立ち寄る日本海沿岸の酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀の各港の貿易状況を丹念に探索して回っている痕跡も分かっている。

その任務行動が、なんと芭蕉の旅の日程と、見事に重なることから、この説には真実性が浮かび上がってくる。きっと幕府からの潤沢支度金を、俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の収入だけでは困窮していた芭蕉に手渡し、「曾良」の任務に手助けをしたものだという説もある>。

こう見てくると、「曾良」という旅の同伴者は、巧に芭蕉を取り入って芭蕉の弟子を装い、幕府隠密の任務を隠密裡に遂行していた“忍者”だったという説は真実味を帯びてくる。
果たして芭蕉の死後、「曾良」は芭蕉の追慕行脚は行わず、すぐに幕府から巡見使九州班員に就任させられている。

芭蕉の終焉の時、曾良の姿はその場になかった。しかも何だか分からない「公務」を理由に、恩師の葬儀にも参列していない。やはり芭蕉に心酔して傍に連れ添った弟子ではなかったのではないだろう。
正に曾良は、幕府から密命を受けて全国各地を調べて廻るために、芭蕉ににじり寄って随行した「忍者」だったに違いない。 (一部修正して再掲) 参考・ウィキぺディア  
           

2013年06月02日

◆紫蘇濃縮ジュースを作ろう!

毛馬 一三

           
いよいよ作ってみる季節になって来た。なんとまあ、風味・舌触りなど、美味さ抜群の「紫蘇(しそ)濃縮ジュース」のことだ。私は、これにすっかり嵌ってしまっている。

この「紫蘇ジュース」は、紫蘇の栄養であるビタミン類、ミネラル類が含まれているので薬用効果があり、高血圧症、アレルギー体質、生活習慣病、食中毒予防等にも効果があるという。

特にお酒が飲めない人は、この「紫蘇ジュース」が「お酒代わりの馴染み」となるだろう。

さて、<紫蘇(しそ、学名Perilla frutescens)は、シソ科のシソ属の植物。中国原産。

紫蘇には、こんな由来がある。中国の後漢末、洛陽の若者が蟹を食べすぎて食中毒を起こし死にかけたが、名医・華陀が薬草を煎じ、「紫の薬」を作り、同薬を用いたところ、若者はたちまち健康を取り戻した。「紫」の「蘇る」薬だというので、これが語源となって、この薬草を「紫蘇」と呼ぶようになった>。

ところで、紫蘇品種には、「青紫蘇」と「赤紫蘇」の2種類がある。

<i)「青紫蘇」は、葉や花を香味野菜として刺身のつまみや、天ぷらなどにする。 「青紫蘇」の葉は、野菜としては「大葉(おおば)」とも呼ばれる。
 i)「赤紫蘇」は、梅干しなどの色づけに使用。また葉を乾燥させたものは香 辛料として(特に京都で使用)味唐辛子に配合され、ふりかけなどにも用いられる>。出典: フリー百科事典『ウィキペディア

自家製の「紫蘇濃縮ジュース」には、「赤紫蘇」を使う。作り方は幾通りもあるらしいが、知人のご夫人に教えてもらった作り方が最高の「風味・舌触り」の味合いとなるので、その作り方に従っている。下記紹介したい。

◆まず「紫蘇濃縮ジュース」を作る前に準備するもの。
・赤紫蘇1袋(約320g入り)
・砂糖   600g
・クエン酸 20g(薬局で買う)
・水    450g
・ゆず酢  大匙1杯弱(好みに応じて少量でも構わない・スーパーで買う)

さて肝腎の、<作り方>。

(1)紫蘇1袋(320g)を水で2回程きれいに洗い、「ざる」に上げて、軽く絞って水気を切り、鍋に入れる。
(2)鍋の中に砂糖、クエン酸、水(450g)を入れて、少し揉む。

(3)鍋をガスの中火で煮立てる。
(4)8分ほど沸騰させ、箸でまぜながら1〜2分したら、火を止める。

(5)ボールの上に「ざる」を置き、「ざる」の中に油こしの紙(百円均一店にある)を敷いて、煮立った紫蘇を、その上から上げて漉す。(漉したら、お玉かポテトマッシャ―で押し付けて、残り汁を絞る)。

(6)絞り紫蘇液が自然に冷めたら、その中に「ゆず酢」を入れる。(これがこの濃縮ジュースの「隠し味」)。

(7)瓶かペットボトル(900cc)に、じょうご(このなかにも油こし紙を敷く)を使って入れ、冷蔵庫で保存する。

(8)真っ赤な紫蘇濃縮ジュースが出来上がったら、氷を入れたコップに濃縮ジュースを好みに応じて注ぎ、水か炭酸水などで4〜5倍に薄めて飲む。

これだけの作り方で、出来上が「紫蘇濃縮ジュース」を冷蔵庫で保存すれば、半年の賞味期限がある。

手前勝手な風味・美味しさ抜群の「紫蘇濃縮ジュース」の作り方を紹介したが、このジュースが他の作り方と違う肝腎な点は、前記の隠し味「ゆず酢」だ。

いま出荷盛りの「赤紫蘇」を求めて作ってみられては如何。是非お奨めしたい。

     (了)    

2013年05月28日

◆芭蕉終焉の地って?

毛馬 一三


松尾芭蕉の「終焉(しゅうえん)の地」が、大阪だということを知っている人は少ないのではないか。「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」と詠んだ旅の俳聖松尾芭蕉だから、旅の果ての東北か北陸の辺りでの病死ではないか思っているのが普通だろう。

ところが、芭蕉の終焉の地は、大阪・南御堂沿いの花屋仁左衛門の離れ座敷だった。この終焉の地を知らない大阪人も、意外に多い。

芭蕉が亡くなった花屋仁右衛門宅は、今喫茶店になっているので、その屋敷跡から当時を髣髴させるものは何もない。あるとすれば、大阪のメインストリート・御堂筋南御堂前の緑地帯の中に、南に向いた「終焉(しゅうえん)ノ地」の小さな石碑が、ポツンと建っているだけだ。

「碑の銘」が、御堂筋の南側に向いて建てられているため、北から南への一方通行の御堂筋を車で走っても、車中から逆向きの「芭蕉終焉の地」の碑を「発見」することは、絶対に無理だ。

筆者が、その「碑」を見つけたのは、たまたま地下鉄御堂筋線・中央線「本町」から下車し、御堂筋に出て南へ向かう用事で、その場を通りかかった幸運からだった。
 
<元禄7年(1694)9月、芭蕉は故郷伊賀上野から奈良をすぎ暗峠を越え、2度目の来坂をした。長崎へ向かう旅の途中に大阪に立ち寄った。住吉大社を詣でたり、句会に参加するなどしたが、来阪の本当の目的は、当時大阪の芭蕉門人2人の確執を和らげ、円満に収めたかったためという。
 
芭蕉は、体の不調を訴え、大阪・住吉神社に詣でた後、発熱下痢を伴い花屋仁右衛門方離れ座敷で病臥。そして10月12日夕方息を引き取る。享年51歳だった。

ところで、最後の句として知られる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」は、その4日前に病床で詠まれたものとされている>。

ところが「秋深き 隣は何を する人とぞ」は、芭蕉が床に臥す直前に書いた句であった。世事に興味津々というか、「晩秋」の移ろいに鋭利な俳句感覚を失ってはいない。

となるとこの時芭蕉は、出来るだけ早く床上げして長崎へ旅立ちする気力と体力の自信を持っていたのではないかと思える。>   

だが病状が急変したのだろう。だから「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が、本人の意志に反して、「辞世の句」となってしまったのだ。

<臨終の時は、大勢の弟子達に見守られ、遺体は亡くなった日に舟で、現在の土佐堀川を上って芭蕉が遺言した近江の義仲寺に運ばれた>。

芭蕉は、木曾義仲の墓の隣に眠っている。

このことを書きたいと思ったのには、ひとつの想いがあった。「頂門の一針主宰者」の渡部亮次郎氏が、以前掲載された『老化は熟成である』の一節を思い出したからだ。

<老化するとは、死に近付くことでもあるが、酒や味噌のように美味しく熟成して他人の役に立ち、自分を誇りに思えることでもある。

生きるとは死ぬことである。生まれたら成長すると言うが、それが違うのだ。最後に来る死に向かって懸命に走っているに過ぎないのだ。ただゴールが何時かを自身が知らないだけだ。

盛者必衰の理(ことわり)通り、身体の各部分は生まれた瞬間から衰えて行く。中年を過ぎれば皺もしみも方々に出来る。これは生物が生きている証拠として止むを得ないものである>、

渡部亮次郎氏の「生と死」に対する想いには、いまでは身に沁みて納得させられる。

つまり、芭蕉が「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」を詠んだ心が、まだまだ死ぬまで好きな旅を続けたい気持ちを抱きながら、<最後に来る死に向かって懸命に走っているに過ぎない自分に気づいていた>のではないかとの想いに、重なったからである。

死にたくはなかった芭蕉も、遂に終焉に気づいた瞬間は、「きっと幸せな生涯だった」と感じたに違いないと思う。

歴史のまち・大阪には多岐の名所旧跡や記念碑は散在するが、「生と死」を考えさせるものは、そう沢山あるものではない。

ところで我々(NPO法人近畿フォーラム21)は、3年後に迫った大坂俳人・与謝蕪村の「生誕300年記念事業」を徐々に進めている。

肝腎の蕪村生誕の正確な期日は不明だが、永眠したのは、1783年(天明三年)12月25日未明。享年68歳であったことは、はっきりしている。

「しら梅に 明(あく)る夜ばかりと なりにけり」の辞世句をしつかり残し、新春の白梅を心に抱きつつ逝ったという。そこは芭蕉と異なる点だ。

蕪村の墓は、京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)の境内にある。

今まで世の中が顕彰を怠ってきた大阪俳人与謝蕪村の存在を後世に継承して行こうというにが、我々の願いだ。

芭蕉の「終焉の地」が大阪に在ることを広めると同時に、蕪村の「生誕300年祭」も、大いに盛り上げて行きたい。
                    (了)
参考<ウイキぺディア>


2013年05月27日

◆九州・八女茶(やめちゃ)に嗜む

毛馬 一三


筆者の家では、食事の後や折を見て八女茶を毎日欠かさず10杯以上は常飲している。祖母の実家が福岡県八女郡の八女茶(元は星野茶)の生産家だったのが縁で、子供の頃から八女茶の煎茶や玉露に嗜んできた。

その嗜みはいま尚継続しており、5月の一番茶の時期になると八女茶生産元の、既に亡くなった祖母の実家に、八女茶の上級煎茶と玉露1年分を注文する。そうすると6月になると注文品が送られてくる。

70度位に冷ましたお湯をゆっくりと茶葉を入れた急須に移し、3〜4回ゆるりと左右に回したあと湯飲みに注いで飲み始めると、筆舌に尽くせないまろやかな濃い風味と甘みが口の内中全体に広がり、至福の瞬間がやってくる。

しかも茶に含まれるカテキンの成分が、医学研究で抗ガン作用と抗微生物作用に効果があることが明らかになってきたため、健康維持のため、意識してこの八女茶嗜みの習慣を続けている。

八女茶以外に全国には、下記のような有名な「茶の生産地」がある。

<愛知県(三河茶)、茨城県、(奥久慈茶、猿島茶)、鹿児島県(かごしま茶)、京都府(宇治茶)、岐阜県(美濃茶)、熊本県(肥後茶)、高知県(土佐茶)、埼玉県(狭山茶)佐賀県(嬉野茶)、滋賀県(近江茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)、三重県(伊勢茶)、宮崎県(日向茶)、がある>(日本茶博物館www.kaburagien.co.jp/museum/museum/index.php - 14k -)

京都府(宇治茶)、佐賀県(嬉野茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)は過去に何度も頂いたが、それなりの芳醇さと美味だったという思い出がある。

ところで下記のような記事を読んだことがある

<緑茶を1日に7杯分ほど飲むことで、糖尿病になりかかっている人たちの血糖値が改善することが、静岡県立大などの研究でわかった。健康な人で緑茶をよく飲んでいると糖尿病になりにくいという報告はあるが、高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告は珍しいという。

血糖値が高めで、糖尿病と診断される寸前の「境界型」に該当する会社員ら60人を対象に、緑茶に含まれる渋み成分のカテキンの摂取量を一定にするため、いったんいれたお茶を乾燥させるなどして実験用の粉末を作製。

これを毎日、湯に溶かして飲むグループと、飲まないグループに無作為に分け、2カ月後の血糖値を比べた。

すると、平均的な血糖値の変化が、「Hb(ヘモグロビン)A1c」という指標でみると、緑茶粉末を飲んだ人たちは当初の6.2%が、2カ月後に5.9%に下がった。飲まなかった人たちは変わらなかった。飲まなかった人たちに改めて飲んでもらうと、同じように2カ月間で6.1%から5.9%に下がったという。

2つの試飲では、体格や摂取エネルギーなどに差はなく、緑茶からのカテキン摂取量が血糖値に影響したらしい。1日分の緑茶粉末は一般的な濃さの緑茶で湯飲み(約100ミリリットル)約5杯分のカテキンを含み、緑茶粉末を飲んだ人では普通に飲んだ緑茶と合わせ1日に約7杯分のカテキンを摂っていた。

研究の中心で、静岡県立大から移った吹野洋子常磐大教授(公衆栄養学)は「運動などの生活習慣改善とともに、食事の中で積極的に「緑茶」を取り入れてほしい」といっている>。(アサヒコム)

前記の様に、カテキンが抗ガン作用に効果が在ったり、良質な緑茶から抽出されたポリフェノールはビタミンEの10倍、ビタミンCの80倍というすぐれた抗酸化力を持っているといわれているが、緑茶7杯の飲料で高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告には驚かされた。

筆者の周りで糖尿病の一歩手前で悩んでいる先輩・知人が最近多い。緑茶7杯で高血糖の人たちに効き目があるというなら、早速緑茶の常飲するよう勧めてみよう。お茶の嗜みは、心の安らぎを導いてくれるからだ。

勿論筆者も、祖母の里の「八女茶」を毎日嗜飲して、祖母との思い出を思い浮かべながら、健康の維持のためにも嗜んて行こう。(了)

参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2013年05月07日

◆「生誕日」が分からない蕪村と芭蕉

毛馬 一三


与謝蕪村、松尾芭蕉と並んで江戸時代の三大俳人と言われる小林一茶の「生誕250年を祝う」催しが、出身地の長野県信濃町で開かれた。

一茶は、今から250年前、江戸時代後期1763年=宝暦13年の5月5日に、今の信濃町で生まれている。

これを記念して信濃町では、5月5日、一茶の生誕250年を祝う催し「一茶まつり」が開かれました。町内にあるJR黒姫駅からは、地元の子どもたち40人を含むおよそ200人が、「一茶音頭」などの音楽に合わせて町を練り歩いた。

一茶の仮装をした人や、一茶のイラストを書いた手作りのプレートを持って歩く人もいて、沿道に集まった人たちを湧かせた。(05.05 NHKニュース)

ところで、大阪の与謝蕪村は、享保元年(1716年)、大阪市都島区毛馬町(当時の摂津国東成郡毛馬村)で生またが、肝腎の「生誕日」は、残念ながら今でも分かっていない。

しかも芭蕉も、同様に「生誕日」が不明。寛永21年(1644年)三重県伊賀市生まれたのは定かだが、「生誕日」はが分かっていないのだ。しかも厄介なことに、生誕地そのものも、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説と、柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説あり、困惑させられている。

だから、確定している「生誕日」に「お祝い」出来るのは小林一茶だけということになり、蕪村と芭蕉を顕彰する人達にとっては、大きな困惑だ。

となれば、「生誕日」が定かではない以上、まず蕪村については3年後の2016年に迫った生誕の「年内」の「然るべき時」に、「生誕300年の記念主要行事」をせざるを得ないことになる。

そこで、小林一茶の「生誕日」に「お祝いの行事」が行われた機会に、本誌でこれまで触れたことの無かった小林一茶の生涯等を、綴って置きたい。その訳はこのあと追々。

◆小林 一茶は、宝暦13年5月5日(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農の長男として生まれた。

3歳の時に生母を失い、8歳で継母がやってくる。しかし継母に馴染めず、安永6年(1777年)、14歳になった時、郷里を離れて江戸へ奉公に出向く。

25歳のとき、小林竹阿(二六庵竹阿)に師事して俳諧を学ぶことになり、一茶の俳諧への取り組みが開始される。

寛政3年(1791年)、29歳の時、一旦故郷に帰り、翌年から36歳の年まで俳諧の修行のために、近畿・四国・九州を歴遊する。

享和元年(1801年)、39歳のとき再び帰省。病気の父を看病するが、1ヶ月ほど後に父は死去。以後遺産相続を巡り、継母と12年間争うことになる。

一茶は再び江戸に戻り、俳諧の宗匠を務めつつも、遺産相続権は争い続ける。

文化9年(1812年)、50歳で故郷の信州柏原に帰り、その2年後28歳の妻・きくを娶り、3男1女をもうけるが、皆幼くして亡くす。きくも、痛風がもとで、37歳の生涯を閉じた。

62歳で2番目の妻(田中雪)を迎える。しかし老齢の夫に嫌気がさしたのか、半年で離婚。

64歳で結婚した3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける。(やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長するものの、一茶の血脈を後世に伝える。1873年に46歳で没。

一茶は、文政10年閨6月1日(1827年)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った粗末な「土蔵」暮らしをするようになる。

そして、その年の11月19日、その土蔵の中で、一茶は、64年半の生涯を閉じる。法名は釈一茶不退位。

◆さて、<一茶俳句の作風>だが、

幼少期を過ごした家庭環境から、いわゆる「継子一茶」、義母との間の精神的軋轢を発想の源とした自虐的な句風をはじめとして、風土と共に生きる百姓的な視点と、平易かつ素朴な語の運びに基づく「句作」が目を引く。

その作風は与謝蕪村の天明調に対して、化政調と呼ばれている。

◆<代表的な句>は
・雪とけて村いっぱいの子どもかな
・大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
・めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春
・やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
・悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
・雀の子そこのけそこのけお馬が通る
・蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん
・やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
・名月をとってくれろと泣く子かな
・これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
・うまさうな雪がふうはりふうはりと
・ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)

◆序でながら、<一茶の作った句の数>のことだが、句数は約2万句と言われ、芭蕉の約1000句、蕪村の約3000句に比べ非常に多い。

しかし、よく知られている「我と来て遊べや親のない雀」にも、「我と来て遊ぶや親のない雀」と「我と来て遊ぶ親のない雀」の「類句」があり、これを1句とするか3句とするかは、議論の分かれる。<参考:ウィキペディア>

以上、一茶「生誕日」祝賀会のニュースを知り、一茶生涯を掲載してみた。

ところがここで述べたかったのは蕪村が、「生まれた毛馬村」で父母の死後、私生児として味合う精神的軋轢と自虐的苦悩が、一茶の感慨と極めて類似したところが多々あることだ。

これが、一茶の生涯を明らかにすることによって、蕪村と重なる予期しない苦衷の共通点が見つかり、そのことを書き留めて置きたかった。

筆者が代表をしているNPO法人「近畿ホーラム21」では、大阪俳人・蕪村顕彰のために「生誕300年記念行事」を、大阪府・大阪市や大阪市大、地元の協力を得て大々的に実施したい方針で、今、諸計画を準備している。

「生誕日」が分からない蕪村だが、小林一茶の「生誕日祝賀」に劣らないような記念主行事を、3年後の適切な時に開催し、大阪の文化振興に貢献したいと考えている

どうか、この趣旨にご賛同を頂ける方々に大いなるご助力を賜ることを祈念したい。
                                           (了)

2013年05月05日

◆徳川を潰せなかった真田幸村

毛馬 一三


家康が、生涯の戦歴で死に損なったのは、2度ある。1度は、元亀3年(1573年1月25日)、武田信玄軍に徳川軍が惨敗した「三方ヶ原の戦い」の時。討ち死に寸前まで追い詰められたが、僅かな供回と必死で浜松城へ逃げ帰り、命拾いをした。

2度目の「死に損ない」は、慶長20年(1615年)年5月7日の「大阪夏の陣:茶臼山の戦い」(大阪市天王寺)の時だ。

家康は、この時二度「自害」しようとしたが、部下の将に諌められて逃亡。敗戦の将の汚名など、どうでもよかった。もし家康が命を取られていたら「徳川幕府」は「夢のまた夢」だったことに間違いはない。

この徳川幕府の存亡に繋がる家康の2度目の「死に損ない」地は、案外知られていない。

この「死」からの逃避は、1番目の「三方ヶ原の戦い」より比較にならないほど悲惨なものだった。歴史上でも実に深い意味合いも有する。そのことをこれから追々。

この連休の日を利用して、その戦火跡地・「大阪夏の陣:茶臼山の戦地」(大阪市天王寺)を友人たちと訪ねた。たまたま5月7日が近付いてきた所為もあった。

この大阪夏の陣:茶臼山の戦いで、家康を死に追いつめたのは、実は、真田幸村である。豊臣方の主将の一人だ。この真田幸村の戦闘ぶりは、徳川軍を総じて縮みあがらせた。

幸村は、茶臼山の戦の前日の慶長20年(1615年)年5月6日の「道明寺の戦い」で、徳川軍の先鋒隊・伊達政宗隊を銃撃戦の末に一時的に後退させている。先鋒隊撃破という、幸村の先勝だった。

この勝利で、真田隊は、豊臣全軍を一時撤収させた。撤収には、訳があった。豊臣方は主武将が相次いで討死した上、全軍も疲弊していたため、兵士に休息を与える配慮からだった。

そこで幸村は、秘策を考え上奏を試みる。「兵士の士気を高め、徳川を打ち破るには、豊臣秀頼本人の直接出陣有るのみ」と直訴したのだ。

ところが豊臣譜代衆や、秀頼の母・淀殿に阻まれ、秀頼の出陣は実現しなかった。この怠慢な判断が、結果的に豊臣方の滅亡に繋がる。

そこで幸村は、「そんなことでは徳川方を追い込めない」として、5月7日、大野治房・明石全登・毛利勝永と共に、最後の作戦を立案した。

それは四天王寺・茶臼山付近の右翼に真田隊、左翼には毛利隊を布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して、家康の本陣を孤立させた上で、これを急襲・横撃させるという作戦だった。

ところが、思いもよらず作戦が狂った。毛利隊が合図を待たずに射撃を開始してしまったからだ。この有効な戦法は、断念せざるを得なかった。

そこで幸村は、腹を括った。「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!」と決心し、真っ正面から真一文字に徳川家康本陣のみに狙いを定めて、突撃を敢行した。

この突撃は真田隊のみではなく、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦。これにより徳川勢は壊乱し、総崩れに至った。

幸村は、後方の家康本陣に三度攻め込み、家康の親衛隊・旗本・重臣勢を蹴散らして本陣を蹂躙、「馬印」も倒した。

真田隊の凄まじさに追い詰められた家康は、二度も「自害」を覚悟したという。もう一押し攻め込めていたら、家康の「落命」は確実だったとも言われている。家康は部下の将兵に諌められて、意に反して命からがら逃げた。

残念ながら、幸村の家康追いつめもここまでだった。兵力に勝る徳川勢に追い詰められ、幸村は負傷して仕舞う。やむなく一旦後退することを決め、近くの「安居神社」避難した。

幸村は、当神社の1本松にもたれ、傷を癒していた時、追っ手の越前主の兵士の槍で襲われた。幸村は「ここまでだ」と決意し、切腹して自害した。享年49だった。

「安居神社」に行くと、「武将姿の銅像」や高さ5メートほどの「幸村戦没の石碑」がある。

銅像と石碑を見ていると、切腹自害した幸村から「徳川潰しを果たせなかった」無念さの呟きが伝わってくるようだった。一方、「家康を追い詰めた」役目を立派に果たした豊臣方戦将としての誇りの声も聞こえてくるような気もした。

もし豊臣方が秀頼を先陣に立て、幸村を主将にした総力戦で「茶臼山の戦い」に臨んでいたら、確実に「家康を自害」させていたに違いないという説もある。

そうだとすると、家康不在では徳川勢力の後退は余儀なくされ、秀頼による豊臣時代が継続したかも知れないという説に続く。

「安居神社」を出て、坂道を少し下ると、本誌で以前書いた大阪で唯一自然の滝:「玉出の滝」と出会う。ゆっくり眺めると、今度ばかりは「安居神社」の幸村の無念の想いが、滝の水に混じってドット流れ落ちているように見えた。

もし、淀君を始め豊臣譜代衆が「茶臼山の戦い」の決戦に挑んで「家康壊滅」を図る決断を下していたら、おそらくその後、別の歴史が展開していただろう。

時勢に応じて歴史を踏み外さない判断を下さなければならない指導者は、いつの世にも不可欠だ。名所旧跡の散策は、こうした現代の動きを連想させてくれるだけに、愉しいものだ。
<参考:ウィキペディア>


2013年04月29日

◆城北川堤防の「平戸つつじ」満開

大型連休が始まった2日目の早朝、愛犬散歩で大阪「大川」支流の「城北川堤防」を散策していた時、堤防沿いの花壇に真っ赤な花で彩られた満開の大量の「平戸つつじ」を見た。

前日までは不安定な日和が続いていた所為か、ほとんどが満開ではなかった。この日は早朝からの強い陽射しと暖かい陽気だったので、見ただけでも約1000本の「平戸つつじ」が総て「赤」大輪の花を溢れさせ、その素晴らしさと規模の大きさに驚かされた。

「平戸つつじ」は、古くから長崎県平戸市で栽培されてきたことが、名前の由来とされている。1712年に出た『和漢三才図会』にはすでに「ヒラドツツジ」の名で紹介されていた。交配が重ねられ数多くの園芸品種がある。 平戸市の崎方公園には300種からなる原木園がある。『ウィキペディア(Wikipedia)』

「平戸つつじ」は、福岡県久留米市の実家の庭に、祖父が大量に植栽していた。実家の庭には多彩な大小の木々があった。葉桜のあとの季節木を受け継ぐ植木として、この「平戸つつじ」は大切にされていた。

しかも「手入れ」は花後だけに必要なだけで、あまり手入れは不要な珍しい植木だ。こうした手間の掛からない「平戸つつじ」は、造園家に大いに歓迎されていた。「赤色」で満ち溢れた庭先の姿を眺めながら、縁側で家族による「茶会」を楽しんでいたことを、今も思い出す。

「平戸つつじ」は、常緑低木で、ゴールデンウィークの象徴的な大輪。木の先端枝を仔細に眺めると、先端枝には5つほどの真っ赤な花が咲いており、枝の太さは、わずか5ミリほど、高さも10センチほどだ。

しかもその枝には小さな約20の葉を付けている。その細木枝を幾重も束ね合わせる形で、つつじ1本の大輪としている。自然とは素晴らしいとしか言いようがない。

大阪湾に繋がる地元「大川」周辺では、造幣局の「桜の通り抜け」などの行事が終わると春の季節が一段落するが、これに継ぐ形で「平戸つつじ」が初夏の訪れを告げる。「大川」支流の「城北川」堤防で、この移り変わりを大型連休の期間に楽しませてくれる。

序でながら、初夏の陽気が迫ってきた別の様子がこの「城北川」で見られるようになった。「城北川」は川の幅は50メートルほどあるが、水の温度が緩んで来た最近になって「釣り人」が増えだした。

「城北川」は、昭和10年から昭和15年にかけて運河としての利用を目的に掘削された。そのため現在でも「城北運河」と呼ぶ者も多い。しかし昭和の終わり頃になるとこれを運河として利用する船が減ったため、1985年(昭和60年)に一級河川となる。『ウィキペディア(Wikipedia)』

この「城北川」も、「平戸つつじ」と並んで、「淡水魚」の「釣り場」としても知られている。だが、1週間ほど前までは、川底の温度が低く「淡水魚」の動静も鈍かったため、「釣り人」も現れなかった。

ところが2〜3日ほど前から、「釣り人」が姿を見せるようになり、大型連休初日の昨日、平均身長40センチの「鯉2匹、鮒2匹、鰡1匹」を釣りあげた顔見知りの「釣り人」に出会った。この中で、釣り上げた鮒の1匹は、何と90センチだったという。

これもまた夕方の愛犬散歩の際の出来事だったが、鰡を釣り上げる瞬間を初めて一部始終を目撃した。この時の緊張感こそ、初夏の季節がもたらせてくれたものだ。

季節の移り変わりに随時接せられるほど、幸せなことはない。
                         2013.04.28 

2013年04月02日

◆大阪蕪村公園の「記念植樹桜」が満開

毛馬 一三


大阪市都島区毛馬町に生誕した江戸時代の俳人「与謝蕪村」が、3年後の平成28年に生誕300年を迎える。ところが肝心の、蕪村生誕日の記録は全く無く、不明のままだ。

しかも、蕪村生誕地の毛馬村は、明治29年に明治政府が、毛馬村全域を「淀川河川事業」で川底に埋没させる大河川改修工事をおこなったため、まさに毛馬村は「幻の村」の状態のまま、今でも確認出来ない。

筆者が代表のNPO近畿ホーラム21では、平成21年から「俳句市民講座」を開講し、「入賞句の表彰式」を行うと共に、24年からは蕪村生誕300年記念を祝賀するための「事業委員会」を設け、各種記念事業を開始し出した。

その手始めとして、諸外国との俳句交流を行う事業に、「国際俳句蕪村賞」を設けて上記記述の「表彰式」で、ウクライナ、台湾、フランスからの応募句優秀作品に大阪府知事賞・大阪市長賞等を授与した。国際俳句交流に着手したのだ。

これを記念して24年12月に、蕪村を顕彰する大阪市営「蕪村公園」で、この国際俳句交流開始を祝賀するための記念植樹祭を行ったのだ。

「蕪村俳句に登場」するサクラ・ウメ・モミジ7本を植樹し、この春のサクラの開花時期に樹齢5年ほどの幼木ながらも、この春に少しでも開花することを植樹祭参加者全員がひたすら祈っていた。

前置きが長くなったが、春の陽気に恵まれた4月1日の朝、筆者は「蕪村公園」に駆けつけ、植樹したサクラが開花しているかどうかを、不安な気持ちを秘めながら確かめに行った。

蕪村公園北側の植樹場所に近づいた。あっと驚いた。

何と植栽時に高さ5メートルほどしかなかったサクラ2本が、10メートル以上に生育していて、枝は細い状態にも拘わらず、枝全体に満開を彩っているではないか。自然の強靭さが目に飛び込んでくると、胸が感動で打ち震えた。ウメ4本も咲いていた。

「蕪村公園」にある淀川支流の「大川」沿いは、大阪の桜の名所として有名で、例年より10日早く、4月1日に満開日となったそうだ。筆者も「大川」沿いの満開の桜を毎年観に出かけている。

しかし、我々の手で記念植樹したサクラが満開を期した姿をこの目で目撃体験すること自体、初めてのことで、立って観ていながら終始感動に襲われた。満開のサクラの花びらは春の陽射しに浮かび上がって、見事な美しさとしか言いようがない。

早速、ウクライナ、台湾、フランスの交流先と、このほど交流を結んだロシアの俳句愛好家に、この感激をメールした。

とにかく、俳人与謝蕪村も、この「蕪村公園」に植樹したサクラの満開に、喜びと心の安らぎを覚えているに違いない。

2013年03月25日

◆感動の市民講座「俳句受賞句」

毛馬 一三


    〜第6期市民講座「蕪村顕彰俳句大学の表彰式」〜

NPO法人近畿フォーラム21主催の「蕪村顕彰俳句大学第6期市民講座」の「表彰式」が、3月24日午前10時から大阪市都島区毛馬町の大阪市立淀川小学校で開催した。

「表彰式」には、来賓をはじめ、第6期講座「一般の部」と「児童生徒の部」の受賞者、それに一般俳句愛好家の方など70余名が集まった。

式典は、まず当大学の川原俊明学長の「開会挨拶」の後、来賓のご紹介に続いて、蕪村生誕誕誕300年記念事業委員会委員長で、大阪市立大学文学部の村田正博教授が、「蕪村のことば」をテーマに講演を行った。

このあと「一般の部・児童生徒の部・国際俳句蕪村賞の部」の「受賞句の公表と選評」が、三村純也大阪芸術大学文学部教授(当講座選考委員会委員長)から行われた。

◆「第六期講座」の 受賞句は下記の通り。
<一般の部>
・大阪府知事賞
 人の訃にきれいな月の出でゐたり    神戸市  野澤 あき
・大阪市長賞
 茶の花にかすかな羽音蕪村の忌     西宮市  前田  忍
・学長賞
 かかへたる青葱匂ふ春星忌       大阪市  田中せつ子

<児童・生徒の部>
・大阪府知事賞
 しゃぼん玉われずにずっととんでゆけ  淀川小学校三年 中野 伊知子
・大阪市教育委員会委員長賞
 りすたちがぴょんぴょんはねる雪の森  鷺洲小学校三年  森川 愛美

<国際俳句蕪村賞>
・大阪府知事賞
 星月夜船遡る水の音      台湾(留学生)     施 偉杰
・大阪市長賞
 氷柱嘗め子供のころの懐かしさ ウクライナ シェフツォバ ガリーナ
・国際交流基金理事長賞
 氷海でゆるりと踊る白イルカ   ロシア  ディアナ  ミンダリョワ
・学長賞
 山眠る真白き毛布に包まれて   フランス    シャンタル ケロワ

上記「一般の部」の選考は、茨木和生俳人協会理事、宇多喜代子現代俳句協会特別顧問、千原叡子日本伝統俳句協会関西支部長、三村純也蕪村顕彰俳句大学選考委員長に対応して頂き、「児童生徒の部・国際俳句蕪村賞の部」には、三村純也蕪村顕彰俳句大学選考委員長にお願いした。


前期から始まった「国際俳句蕪村賞」の授与では、海外からの応募作品から選考された受賞句に「大阪府知事賞、大阪市長賞、俳句大学学長賞」の各賞状が渡された。だが今期からは新たに「独立行政法人・国際交流基金の理事長賞」が授与され、「国際俳句交流事業の成果」が評価されたことに感激している。

「表彰式」のあと、会場近郊の「蕪村公園」に移動し、受賞句を刻字した「プレート碑」の除幕式を行い、式典を締め締め括った。

桜の開花が始まった同公園での「記念プレート碑除幕式」では、受賞者や
家族、学長、大学教授、講師らが「記念プレート碑」を背景に「記念撮影」と相次いで行い、受賞のお祝いの言葉が飛び交う中で、これまでに無い感動の渦がどっと巻き起こった。

4月からは始まる第7期からは、「雨月」俳句会主宰の大橋晄講師による新講座が開講し、市民講座は3講座となる。

ところで、蕪村生誕300年記念「年」が、僅か3年後の平成28年に迫って来た。この記念「年」に向けて、NPO法人では諸事業の計画を進めている。

一昨日の23日には、25年の最初の事業として大阪市立大学と共催して「蕪村ゆかりに地歩き会」が行ったばかり。これから力を入れて行くのは、蕪村に象徴される大阪俳句文化を世界に広げていく「国際俳句交流事業」の推進。

その意味では、7期・8期と「独立行政法人・国際交流基金」から「後援」の承認と「理事長賞」授与支援をもらえることになったのは、諸外国との国際俳句交流を盛り上げていく弾みに繋がると考えられるだけに、感動している。

「世界最短の詩・俳句」が海外諸国で意外に俳句愛好者が多く、俳句つくり研究が想像以上に盛んであることが、分かった。まさかこんな動静が諸外国にあるとは、想像もしていなかっただけに、実に喜ばしいことだと実感している。

大阪と諸外国とこの「俳句文化」を通じて繋がりを深め、大阪「蕪村ゆかりの地」へ諸外国から集客を図ろうという計画も進めている。

「300年記念事業」の目玉は、3年後までに「蕪村公園内に蕪村銅像」を建立して大阪市に寄贈すること。「蕪村公園」のシンボルに実現させたいと考えている。

今度の「表彰式と受賞句記念碑」の映像と式次第は、
http://www.buson-kensho-u.com/ に
「リンク」して頂ければ、ご覧いただけるようにしている。諸外国の俳句愛好家の方々も、是非ご一読願いたい。
(We have English translation for “Message from President”, ”Lecture from professor Murata” and ”Comments on Winning Entries” on the pamphlet. )。

どうか、今後とも皆様のご尽力を賜りますよう心から祈念致します。
                              以上

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