2011年11月12日

◆懐かしい博多弁

毛馬 一三

恒例の「俳句講座」を終え、盟友5人(1人欠席)が帰り道、いつもの喫茶店で集い、コーヒーを飲みながらいろいろ雑談を交わした。

そんな時、盟友の渡邉征一郎君が、福岡から持ち帰ってきた「博多かるた」を披露した。高さ17p、幅12p、厚さ3pの箱入りの新「かるた」<博多を語る会編・西日本新聞社刊>で、ユウモラスな絵と面白い筆書きが惹きつけた。

「かるた」には、「博多の行事・祭事・博多弁」が、「いろは順」で構成されている。熟視するほど、懐かしい「博多情景」が飛び出してくる。盟友全員が九州の福岡高校出身だけに、この異色「かるた」を凝視した。

私を除けば、全員が博多っ子。たまに帰省することはあっても、郷里を離れて4〜50余年経つため、「博多弁」はすっかり忘れているそうだ。そのため、少しでも記憶を呼び戻そうと気持ちを昂ぶらせていた。

良かったことは、同「かるた」に、解説書が付いていたことだ。解説を読めば、「札」の文意がわかるようになっている。そこで「かるたの博多弁」思い出して、「この通りやな」と頭を掻きながら大阪弁で呟く仲間もいた。

ところが、解説書を読んでも、何のことか分からない「博多弁」が幾つもあった。一例上げると、「そ」の札。「そおついて わかる博多のよかところ」と書いてある。「そおついて」って何?皆、「そおついて」に首を傾げる。

<古代から大陸との文化交流の地だった博多には、いたるところに名所旧跡、歴史の地がある。ゆっくり町を「そおついて」(歩いて)回ると、路地裏のようなところにも、隠れた歴史を発見できる>

と解説書には書いてある。

なるほど、そんな意味の「博多弁」もあったのか。

渡邉君が「かるた」を持ち込んだことで、久しぶりに「博多弁や博多行事等」が話題となって楽しいひと時を過ごせた。しかし肝腎の郷里「博多弁」をすっかり忘れて仕舞っていたことに、苦笑いする仲間もいた。


実は、私の故郷は久留米で、博多弁と久留米弁とはまるきり違う。越境入学で福岡高校に入ったが、博多弁が分からず、授業や仲間つくりにも苦労した。でも3年間経つ内に、何とか博多弁に馴染み、情緒も分かるようになった。

私にとって博多弁は第2の故郷弁だ。なのに、生まれ育った純粋の博多っ子の仲間が、懐かしい「博多弁」を咄嗟に思い出せないとは、時節の経過が災いする忘却の仕業なのだろうか。

そこでウイキペディアを参考にして、懐かしい「博多弁」を、頭の中に蘇らせてみた。

<◆名詞

•「かったりこうたい」…交互に。交代交替。
•「きさん」…貴様。
•「ど (ん) べ」…最下位。
•「こす」…こすいこと。
•「せこ」…せこいこと。
•「ちかちか」…チクチク
•「ごりょんさん」…主婦。

◆動詞
•「おっせこっせする」{サ行変格活用} …時間に追われてバタバタする。
•「くらす」 {サ行五段} …殴る。(「喰らわす」から)
•「くちのまめらん」{ラ行五段}…呂律が廻らない。
•「おらぶ」{バ行五段} …叫ぶ。
•「からう」{ワ行五段} …背負う。
•「きびる」{ラ行五段} … (紐などで) 縛る、束ねる。
•「こずむ」{マ行五段} …積み上げる。
•「ずんだれる」{ラ行下一段} …だらしない。
•「ぞろびく」{カ行五段} …引きずる。
•「たまがる」{ラ行五段} …びっくりする。
•「ねぶる」{ラ行五段} …舐める。
•「ねまる」{ラ行五段} …腐る。
•「のうならかす」{サ行五段} …なくす。
•「ねぶりかぶる」{ラ行五段} …うとうとする
•「腹かく」{カ行五段} …腹が立つ、苛立つ。
•「はわく」{カ行五段} …ほうき等で掃く。
•「ほがす」{サ行五段} …穴を開ける、穿孔する。
•「ほとびらかす」{サ行下二段} …ふやかす。
•まどう」{ワ行五段} …弁償する。

◆形容詞・形容動詞・副詞・連体詞
•「しゃあしい (か) 」(語源は「せわし」)「じゃかしい (か) 」「せからしい (か) 」{形・シク} …うるさい、騒がしい。「そわそわすんな。しゃあしかぞ」[共通語訳]「そわそわすんな。気が散る。」
•「しょんない」{形・ク} …仕方ない。
•「しかたもない」{形・ク} …1. くだらない。どうでもいい。2. 期待して損する。
•「いっちょん」{副} … (否定語を伴って) 少しも。全然。
•「えずい」{形・ク} 怖い。
•「すいい」{形・ク} …酸っぱい。
•「そげな」{連体} … そんな。「そ」+「が」+「やうなる」
•「そげん」{副} … そんなに。そんなこと。そんなふうに。「そ」+「が」+「やうに」
•「どげな」{連体} … どんな。
•「どげん」{副} … どんなに。どう。どんなふうに。
•「なし」「なして」{副} …なぜ、どうして。
•「いたらん」{連体} …余計な。多くは「いたらんこと (するな / 言うな) 」の形で使用される。
•「なんかなし」{副} …とにかく。「なんかなし、電子辞書ば使わんで紙の辞書ば使うて見れ」>。

まだまだ懐かしい「博多弁」は沢山ある。どうか博多から離れてお暮しの方が、博多で過ごされた時のことをこの「博多弁」から思い出して頂ければ幸いだ。(了)   2011.11.11

◆本稿は、11月12日(土)刊全国版メルマガ「頂門の一針」2430号に
掲載されました。他の寄稿者の卓見も、お手続きの上、ご拝読ください。

◆<2430号 目次>
・野田総理は食わせ者か:前田正晶
・外資離去楼市、進入実質下行周期?:宮崎正弘
・懐かしい博多弁:毛馬一三
・ユニークな江戸の刑罰:平井修一
・松茸がスカンク?:渡部亮次郎
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2011年10月17日

◆見逃してならない病気の「前兆」

毛馬 一三

畏友石岡荘十氏の<「あたる」前に必ず「かする」>の寄稿を本誌10月15日に掲載したが、まさにその内容が「脳卒中」や「心筋梗塞」に如何に重大なことであることを、改めて知らされた。実はそれに類する事態が私の周辺で起きたからだ。その件は追々。

石岡氏は、それら疾患にはいずれも「前兆」があり、それを見逃してはならないと、こう綴っている。

<心臓の血管(冠動脈)が狭くなる狭心症、完全に塞がる心筋梗塞も高齢者に多い疾患だが、よくよく思い出すとほとんどの人にその前兆がある。血圧が高い、胸が痛くなったり、なんとなく重苦しい感じがしたりするが15分かそこらで治まるので、「ああよかった」とやり過ごす。

これを専門的には「放散痛」というが、大概の人はこれが心筋梗塞の前兆であることに気づかない。こんなときには、バカにせず、24時間緊急対応をしてくれる専門の医師と検査体制の整った病院へ行って診察を受けることが大切だ。

「脳卒中」や「心筋梗塞」で倒れることを、昔から業界では「あたる」といい、一過性の前ぶれを「かする」という。つまり「あたる」前に必ず「かする」前兆がある。

私は、10数年前から「かすった」段階で診察を受け、診察券を確保して、これを外出のときも肌身はなさず携帯して歩いている。そのくらいの心掛けがなければ、attackでよしんば一命をとりとめても、半身不随では快適な老後は過ごせない>。

つまり、胸が痛くなり、15分そこらで治まってもやり過ごすな。専門の医師と検査体制の整った病院に駆け込めと指摘している。さもないと命を落とすか、半身不随となって快適な老後はないと示唆しているのだ。

さて本題。

私の高校同窓生の畏友で、高齢になっても毎朝約2時間掛けて「1万歩」歩きを励行、昼間は、クラブスイミング、日によっては心筋を駆使する「詩吟」を行っている。余りにも想像を絶する運動量に、仲間たちも一様に懸念し、諌めることもしていた。

ところが、彼は9月25日(日)、ご当人はクラブスイミングの競泳大会に参加した。若者チームと競う「競泳」で、高齢者チーム4人メンバーの1員として出場。予選・決勝を合わせて2000bを、夜9時までかけて全力で泳いだ。

実は、この日朝もいつもの「1万歩」を歩いている。彼によるとこの日の「競泳」のためじっくり練習してきて体力維持には自信をもって臨んだらしいが、流石に夜になると疲れのためか、体はぐったりとしたという。「1万歩」の疲れも加わったようだ。

ところが、翌日朝になるとまた「1万歩」を歩いている。その際、途中で何度も頭や胸全体に気分の悪さを感じた。中断すればいいのに、それが治まるまで休憩し、落ち着くと再び歩きを継続し、何とかやり遂げたそうだ。

この気分の悪さを何かの「前兆」とは思わず、単なる疲れの所為だろうと考え、このあとスイミングクラブに出向いて何時もの通り泳ぎに挑んでいる。

この夜、急激な異変が起こり出した。

胸の痛みが激しくなり、奥さんの勧めで心臓の売薬を3回飲んだが効き目が出てこない。床に横になって安静にしても症状は治まらない。

時間が経過して27日の午前4時になったが症状が変わらないので、奥さんが近くの救急病院に診察を依頼した。しかし当院は外科医しかいないので対応出来ないと断られた。結果的には、この「断り」が幸いだった。

この後、地元消防署に連絡し、医師と検査体制が整った近大医学部付属病院を紹介して貰い、奥さんが同病院に搬送した。診察の結果、心臓の動脈が血栓によりふさがり、血液が流れなくなって動脈の支配する細胞・組織が壊死につながる「心筋梗塞」と診断された。

直ちに手術が行われた。心臓の動脈3枝の内、真ん中の1枝の先端が塞がっており、右足からカテーテルを挿入して空気を送り込み、塞がった部位を押し出す手術だった。手術は4時間かかり、塞がった部位を除去することに成功した。

1枝だけの梗塞でラッキーだったが、そのまま放置したままだったら、一命を落とすことになったであろう。

10月13日に無事退院出来た。主治医から、「1万歩」の歩き、水泳等心臓に負担をかける運動などは、絶対控えるよう厳しく注意を受けている。

彼は、学生時代は硬式野球部の選手で、これまで体力には自信があった。しかし日頃から「達成感を尊ぶ性格」の強さが裏目に出て、今度の騒動に結び付いたようだ。

そんな中、奥さんがいち早く検査体制が整った病院へ搬送してくれたことが、一命を救ったくれた最大幸運事であったことを、彼は忘れないと述懐している。

やはり歳に合わせて健康維持には気を配り、「心筋梗塞」や「脳梗塞」などの「前兆」には一層注意しなければならない教訓を、今度の友人の騒動は私たちに与えてくれた。

しかも、冒頭の石岡氏の指摘のように、専門の医師と検査体制が整った病院を事前に決めておき、そこの診察券を外出のときも肌身はなさず携帯して歩くこと。それが、一命をとりとめ、快適な老後を維持していく不可欠なことであることも教えられた。(了)
                                2011.10.16

◆本稿は、10月17日刊の全国版メルマガ「頂門の一針」2405号に掲載されました。
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2011年09月18日

◆足は第2の心臓

毛馬 一三

「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏が、足の痛みの入院からやっと解放された「歩行回復顛末記」(9月15日)と、畏友石岡荘十氏の「歳は足にくる」(9月12日)の寄稿を相次いで掲載した直後、なんと我が膝に強度の痛みが伴い、歩行が出来ない事態が起こった。

渡部亮次郎氏の入院には、いろいろ気の毒な経過が纏わり大変だったようだが、結局、老齢化も手伝った関節内血腫で、再発はないという診断をうけ退院できたという喜ばしいことだった。退院されたことに感動し、お祝いのご挨拶を送った。

この所為で、ひとつの決断をした。急激な痛みに襲われ出した我が膝の治療を受けに行き、渡部亮次郎氏と同じよい結果がでることを期待して病院に行こうと思ったのだ。畏友石岡荘十氏も「歳は足にくる」の中で、<歳は足にくる。専門の医師を選んで、治療を受ける必要がある>と警告していることも、間違いなく後押しした。 

急患扱いで、大阪厚生年金病院整形外科に16日午前8時半に出向き、9時からの受付を待った。運よく小1時間ほど待っただけで、医師の診察を受けることが出来た。膝が痛くなるまでの経過について、まず問診に答えた。

「半年前頃から左膝に違和感を覚えるようになり、その後少しづつ痛みが伴うようになり、歩行が困難になってきた。ところが数日前から両膝が急激に痛み出したうえ、歩行は勿論、正座も立ち上がりも出来なくなり、両膝の内側に腫れが生じてきた」と伝えた。

医師は、この症状報告をもとに、患部の両膝を触診した。強く指で押されると、両膝の内側の部位に激しい痛みを感じる。さすがプロだ。

医師は「半月板損傷か、鵞足炎(がしょうえん)のどちらかですね。レントゲン撮影をしましょう」と私に告げた。

診察室から、レントゲン室に移動。すぐに両膝のレントゲン撮影を行った。立ったたままの両膝、ベッドに横になり真上から両膝を左右に交差させた形などの8枚を撮影した。

撮影を完了し、整形外科の待合室で待機していた処、30分ほどして診察室に呼び込まれた。

医師は、「半月板の異常の可能性は薄く、膝の筋肉炎症の鵞足炎(がしょうえん)だと思われます」と告げた。早速両膝の痛みのある部位に炎症止めと、痛み止めを兼ねた3本の注射をした。膝に注射をされるのは初めてだったが、注射はかなり痛みを感じた。

医師によると、この注射の効果は2〜3日、あるいは4〜5日位あとに現れるということで、この間、痛み止め薬としてロキソニン錠1日3回服用、痛みが激しくなったら50_グラムの「座薬」、湿布剤を使用するようにと言われた。

この日の治療にもとづく炎症状態を診るため、2週間後に再診しましょうといわれた。ただ、日常生活は安静を保ち、外出や愛犬の散歩、自転車の運転は絶対に避けるようにとの注意も受けた。

ところが、驚いたことに治療を受けた数時間後のその日の夕方ころから、痛みの緩和が進行しだしたことだ。このあと来た渡部亮次郎氏のお見舞いのメールに感謝し、「痛みが緩和している」との返事を返したほどだった。

<鵞足炎(がそくえん)とは、ひざを曲げる筋肉に、縫工筋(ほうこうきん)・薄筋(はっきん)・半腱様筋(はんけんようきん)があり、これら3つの筋肉がくっついている形がちょうどガチョウの足のようなので、「鵞足部(がそくぶ)」という名前がついているという。

3つもの強い筋肉が、鵞足部にくっついているので、そこには負担がかかりやすい。ひざの屈伸、太ももの筋肉(特に鵞足部にくっついている筋)を酷使すると、鵞足部に炎症が発生し、痛みとなるという>。

医師によると、この鵞足炎(がそくえん)も老齢化が手伝った筋肉炎に間違いはないということだった。だが驚いたことに治療後わずか2日目なのに、痛みは治療初日の昨日よりも、はるかに緩和していることを実感していることだった。

渡部亮次郎氏の卓見に勇気を貰って、病院へ急いだのがよかった。

しかも、石岡氏のいうように「歳は足にくる」ものだ。大袈裟かもしれないが、「足は第2の心臓と」といってもいいかもしれない。大事にしよう(了)2011.09.17

2011年09月14日

◆驚く愛犬の習性

毛馬 一三

「犬は飼い主の足音を聞き分けている」という新聞の特集記事を読んだ。

これは、京都大の比較認知科学グループが様々な種類の犬を使った実験で、この通説を確かめたものだという。犬は飼い主の微妙な癖を覚え、聞き分けているのではないかというのだ。

<京大では、チワワやポメラニアン、ミックス(雑種)など様々な犬種の計21頭を、ドアや窓を閉め切ったマンションの一室に犬だけを入れて実験をした。

知らない人に部屋の外を2往復してもらい足音を聞かせた後、(1)その人が入ってくる(2)飼い主が入ってくる、逆に飼い主の足音を聞かせ、(3)飼い主が入ってくる(4)知らない人が入ってくる―の4パターンの実験。

入ってきた人を犬が見つめる時間を比較した結果、知らない人の足音を聞かせた後、飼い主が入ってきた時〈(2)〉は、知らない人が入ってきた時〈(1)〉より見つめる時間が平均で約2割長かった。

犬は期待と反する現象が起きると、驚いてその対象を見つめる。(2)では足音を聞き分け「飼い主ではない」と思ったのに、現れたのは飼い主だったので驚いたとみられる。
京大比較認知科学グループによると、「飼い犬は、飼い主の歩き方のリズムや左右のちょっとしたアンバランスなどの癖を知っているのではないか」とみている>という。

この実験結果には、愛犬飼い主ならおおいに納得できる内容だろう。

我が家の愛犬は、7歳の小型犬ノーフォークテリア。私や家内が外出先から帰ってくると、足音や歩き方のリズムなどで聞き分け、ドアを開けると「帰宅歓迎」の声を上げながら飛びついてくる。マンションの外側から僅か3段の階段を上がっただけの「足音」で、わたし達の帰宅を識別するのだろう。

ところが、セールスなどの来訪者の足音が近づくと、むっくり起き上がって「警戒心」剥き出しに大声を張り上げ、玄関に向かって走っていく。犬が、未知の来訪者の足音に異常なほど敏感に反応する習性があるのは、飼い主ならどなたもご存知の筈だ。

この習性が、マンションでの空き巣等の犯罪防止に大きな効果をあげていると、団地内に住んでいる大手ビル管理会社の役員から聞かされ、愛犬の習性に改めて感謝した。

ところがその「足音識別の習性」より、まだ優れた修正に驚かされることがある。

というのは、我が家の愛犬ノーフォークテリアは、私たちがさりげなく交わす電話の会話中に、「これからお出でなさい」というやり取りをすると、それをしっかり感知する習性がある。そうすると、すぐさま玄関ドアの前にじっと座り込んで、来訪者が来るまで「待機」する。

単に「いらっしゃい」とか「お出でになりますか」程度の短いフレーズを正確に聞き分け、しかもその来訪者が、愛犬も熟知している、親しい知人だと判断するのだろうか。その「聞き分け名人芸」には舌を巻かざるを得ない。

来訪者が玄関に現れると、愛犬はピンピン飛び付いて喜びを思い切り表す。私たちが「いらっしゃいませ」と発する前に、愛犬の行動を宥めるのが先の段取りとなる。

訪問者も愛犬の歓迎におおいに喜び、雰囲気が一気に盛り上がる。訪問者を招き入れる私たちも、これに越したことはない。愛犬は、歓迎の飛び跳ねを終えると、次は先頭にたって来訪者を居間へと案内する。

愛犬の賢さは筆舌に尽くし難いが、電話のやり取りから次への行動を起こすということは、人間の言葉がわかっているというだけではなく、愛犬の歓迎に人間の喜びまではっきりと熟知しているということになる。

こうした賢い「習性」が日常的にいろいろな面で顕になると、家族以上の愛情が湧いてくるものだ。またその愛情をしっかり受け止め、それを待ち望んでいるだけに、愛犬は、実に「賢い」という言葉しか思い浮かばない。(了)

2011年09月06日

◆世界最古の政治小説「源氏物語」

毛馬 一三

世界最古の長編小説「源氏物語」が一条天皇に献上されたのは、寛弘5年(1008年)11月17日。

紫式部が、父の赴任先の越前国で当時、何よりも貴重だった「越前和紙」とめぐり合い、2年間にわたって思いのままに、物書きに熱中したことは、本欄ですでに触れている。(平成20年8月29日号=和紙と生きた紫式部)

ところで、この「源氏物語献上」に先立つこと3年前の寛弘2年(1005年)12月29日に紫式部は、宮中に呼び出されている。何とこの召し上げの仕掛け人が、藤原道長だったのだ。

どうして藤原道長が、紫式部を宮中に召しあげたのか。それは当時宮中で繰り広げられていた壮絶な権力闘争と無関係ではない。

その権力闘争とは、道長の兄道隆盛の息子「伊周(これちか)と道長とが、真っ向から繰り広げていた藤原同族同士の宮廷内対決だった。

内大臣伊周に対抗するには、道長はこれを超える役職への昇進しかなかった。道長は画策した。一条天皇の生母で、実姉の強力な支援を懇願して、「関白」に次ぐ地位の「内覧」職を獲得し、役職の上では、一応互角に並んだ。

だが、道長にとっては、まだ後塵を拝する処があった。伊周は、妹の定子を一条天皇の中宮に送り込み、堅牢な地位を確保していたからだ。

道長にしては、この一角を何としてでも切り崩す必要があった。このため陰謀を試みたのが、それは一条天皇のもう一人の中宮に娘の彰子を送り込んだのである。

こののち中宮彰子は、1008年9月11日、「敦成(あつひら)親王」(後一条天皇)を出産。道長は、これによって、遂に権力の頂点を立ったのである。

しかしそれに至る以前に、政治家道長がなぜ紫式部の召し上げにまで手を打った老獪な魂胆とは一体何だったのか。

恐らく文学好きといわれた一条天皇の気を惹くため、紫式部の「源氏物語」の献上を早々と仕組んでいたと思われる。言い換えれば、天皇の歓心を買うための一種の「政争の具」として周到に紫式部の召し上げを準備していたのだろう。

紫式部は、中宮彰子の教育係として勤める傍ら、3年近く宮中の様々の人間模様、権力構造、熾烈な利害闘争などをつぶさに見ながら、冷静な考察と巧みな筋立てを描きながら、得意満面に「源氏物語」を書き綴っていったとみられる。

色とりどりの54帖の冊子、400字詰原稿用紙にすれば、2300枚ともなるとてつもない長編小説。

越前和紙と墨を使ったきらびやかな「源氏物語」の献上が、一条天皇の心を捉えて仕舞ったことは、想像に難くない。

次々と広がる物語の中で、天皇自身が、思い当たる舞台での隠れた暗闘と情念の世界の展開や登場人物への特定がすべて思い当たり共鳴感動したとしたら、天皇にとりこれに勝る興味を満たす悦楽は、他には無かったのではないか。

そう見ていくと、源氏物語は、「悲恋」、「純愛」、「禁断の恋」の物語ではない。むしろ宮中文化の中で、現場で目撃し鋭敏に感じ取った「政治暗闘の記録文学」だったのだ。

世界で「最古の政治小説」と言ってもいい。「政治小説の源氏物語」となれば、また。評価も見方も読者層も、大きく変わっていくのではないだろうか。(了)2008.11.17  再掲




2011年08月13日

◆米寿で挑戦する富士登山

毛馬 一三


米寿のお年寄りが、大阪にある日本一低い山・天保山(標高4.53m)から480km歩いて、日本最高峰の富士山(3776m)山頂を目指すという驚くべき試みに、8月12日午前9時に挑戦し出した。

このお年寄りは、大阪の高槻市南平台に住む、大正13年生まれの戸田 巽さん。

戸田さんはこれまで、人生の節目である・古希の時に、登山でキリマンジャロ(5895m)登頂。
・喜寿には 登山でアララット山(5165m)登頂、スキーで札幌国際スキーマラソン50qを完走。

・傘寿には 切り絵で個展を大阪で開催するなど、人生の節目に「納得のいく人生を営みたい」として、登山やスキー、切り絵など、様々な趣味の挑戦に取り組んできたという。

しかし、傘寿を過ぎた頃から体力・気力が薄れ、「趣味への挑戦」も尻すぼみになっていた。

ところが、84歳になった時、胃がん・腎臓がんだと告知されてことから、残された人生に「新たな挑戦」をする気力が急激に湧きだし、米寿になったのを機会に、今回の「挑戦」を決意したという。

今日の出発地となった天保山山頂の広場では、午前8時過ぎから友人、仲間、家族など45人の支援者が集まり激励集会が開かれた。戸田さんは、とても米寿だとは思えない引き締まった体系、話ぶりも健在そのもの。

集会に張られた横断幕には、「戸田さん、がんばれ」の文字のほか、「がんばれ 日本」と、東北震災に元気エールを訴えながら戸田さんが持ち歩く「旗」などが備えられていた。

天保山山頂は、朝から日差しが強く、温度も30度を超えていたが、登山の服装に身を包み、若さ溢れる戸田さんに、支援者からさかんな拍手と激励の挨拶が次々に送られた。

声援に感謝した戸田さんは、「一度しかない人生だから、納得いく人生にするため、この挑戦を必ず成功させます。88歳老人の挑戦を東北震災の被災者にも見て頂き、勇気と生甲斐を感じて貰えれば、こんな幸せはありません」と挨拶。

汗がダクダク出る集会は、「戸田さん、元気で!」と支援者全員がこぶしを突き上げて激励コールを叫び合って締め括った。

戸田さんは、深々と頭を下げ、付き添い2人を従えて、予定通り午前9時に日本最高峰富士山を目指し、天保山を下りて歩き出した。

初日の今日は、大川(旧淀川)の川沿いを通って自宅のある高槻市まで歩く計画だが、途中、大川沿いにある私の家近くの「与謝蕪村顕彰公園」の横を歩いて行くそうだ。

富士山の御殿場には8月24日に到着、28日に山頂に達するという。

米寿のお年寄りが480qを歩き続けて富士山を目指すこと自体、驚異的なことだ。ましてや東北震災の方ばかりでなく、私たち自身にも、「人生の過ごし方」を考え直させる「奇跡の挑戦」と思えて仕方がなかった。(了)
                        2011.08.12

2011年08月12日

◆お祝いのメッセージ

毛馬 一三

私たちの畏友であり、NPO法人近畿フォーラム21が主宰する市民講座「蕪村顕彰俳句大学」の川原俊明学長(弁護士)が、このほど123年の伝統を受け継ぐ学校法人追手門学院の理事長に就任された。

追手門学院には、幼稚園・小・中・高学校、大手前中・高校、それに追手門学院大学・大学院がある。川原氏は、追手門学院大手前中・高校の卒業生で、卒業生が同校の理事長に就任するのは、初めてだそうだ。

ところで川原俊明氏には、大阪市毛馬町生誕の江戸時代の3大俳人・与謝蕪村を顕彰し、大阪の文化振興に貢献するため、昨年4月に開講したNPO法人近畿フォーラム21主宰の市民講座「蕪村顕彰俳句大学」の学長に就任し活動に参加をして頂いている。学長の最大の狙いは、「蕪村大阪生誕を」全国・世界に発信することだ。

その川原氏が、このたび学校法人追手門学院の理事長に就任されことに対して、NPO法人近畿フォーラム21を代表して、心からお祝いを申し上げ、今後のご活躍を祈念致したい。

ところで、理事長に就任された川原俊明氏が、理事長就任の決意と意欲を明示されたメッセージを、下記に紹介しておきたい。

<未来にチャレンジ
      学校法人追手門学院  理事長 川原俊明


このたび、大木令司前理事長の後を受け、7月1日より理事長を拝命いたしました。大木前理事長におかれましては、約10年の長きにわたり、学院運営に多大なご尽力をいただきました。

その間、創立120周年記念事業を大成功に導き、総工費140億円もの各学舎キャンパスリニューアルという大事業を成しとげられました。

私は、その後を受け継ぎ、新たな体制のもとで学院運営に関わることになりました。

私も、追手門学院の卒業生であります。竜田学院長も、学院の卒業生です。理事長と学院長に、いずれも卒業生が就任することによって、123年の伝統を受け継ぐ追手門学院は、新たな歴史を刻むことになりました。

追手門学院は、未来ある大切な学生・生徒・児童・園児をお預かりしています。
123年の歴史ある私学として、最高峰の教育を施すことが目標です。

追手門独自の人間教育、心の教育、あるいは志の教育をめざします。それは、まさに人間力を高める教育、ということでしょう。人それぞれに生まれつき備わっている個性・能力を、社会において存分に開花させる教育、につきます。

追手門学院は、学力向上と共に、追手門独自の人間育成教育を徹底したいと思います。

追手門学院には、卒業生の仲間意識が大変強く、人脈の広がりは学院の大きな財産です。親子3代、あるいは親子4代いずれもが、追手門学院出身者というご家族も多数おられます。まさに追手門ファミリーそのものです。追手門独特の結束力。この結束力を、今後もさらに強化・拡大していきたいと考えています。

人間教育とともに重視していることは、国際化教育へのチャレンジです。近い将来、世界に通用する人材を追手門学院から多数輩出したいと思います。

みなさまのご協力で、世界の追手門をめざしましょう。>

http://www.otemon.ac.jp/guide/guest/index.html

2011年08月02日

◆俳句にしたしむ外国人

毛馬 一三

日本語の「五七五音」を組み合わせて、情景描写と思いを滲ます「俳句」は、ことのほか難しい。どちらかと云えば長文を綴る私にとって、まさに「俳句」は、至難な分野に他ならない。

ところが、ある方のご紹介で、欧州ウクライナから今夏訪日された同国の国立大学助教授が、私たちが運営する市民講座「蕪村顕彰俳句大学」のゲスト受講生として参加して貰った。

同助教授は、ウクライナのキエフ国立建築建設大学建築学博士のシェフツオバ ガリーナさん(40)。ご両親が学者で日本とも親しみが深く、その縁でガリーナさんは大阪の近畿大学建築学部大学院で3年の修学を含めて、4年間在日されたという。

ところが、ガリーナさんは在日中に日本文化の魅力に捉われ、4年の間に日本各地の日本遺産の神社・仏閣を歴訪して日本の歴史を学び、かつ書道、俳句つくりにも夢中になられたという。

勿論日本語も驚くほど堪能で、何と受講生として「句会」に自作俳句6作品を出句された。6句とも中々の出来栄えで、特に下記の
・あご湾の満潮に閉じ仏陀の目
は、講座担当の山尾玉藻講師(俳句結社「火星」主宰)が絶賛し、外国人の作品とは思えないと評価されたほどだった。

「俳句講座」が終わって、ガリーナさんを囲んだ受講生仲間との懇談会が開かれた。やはりどうして上手な「俳句」が作れるのですかとの質問が集中した。日本から遠い国のウクライナ人が、「俳句」にしたしむことへの疑問からだった。

その前に、フリー百科辞典「ウィキぺディア」を参考に、ウクライナの国を、紹介しておきたい。

<ウクライナ(Україна)は、東ヨーロッパの国。東にロシア連邦、西にハンガリーやポーランド、スロバキア、ルーマニア、モルドバ、北にベラルーシ、南に黒海を挟みトルコが位置している。

歴史的・文化的には中央・東ヨーロッパの国々との関係も深い。17世紀から18世紀の間にはウクライナ・コサックの国家が興亡し、その後ロシア帝国の支配下に入った。

第一次世界大戦後に独立を宣言するも、ロシア内戦を赤軍が制したことで、ソビエト連邦内の構成国となった。1991年ソ連崩壊に伴い独立した。

16世紀以来「ヨーロッパの穀倉」地帯として知られ、19世紀以後産業の中心地帯として大きく発展している。天然資源に恵まれ、鉄鉱石や石炭など資源立地指向の鉄鋼業を中心として重化学工業が発達している。

ソ連時代にチェルノブイリ原子力発電所事故が起きたが、現代でも原子力発電は盛んである>。

ガリーナさんによると、ウクライナの人口は日本の半分、広さは4倍で、どちらかというと「農耕中心」地帯だという。

ガリーナさんが、どうして日本文化に魅力を感じ、日本フアンになったのか。どうやら日本各地の「文化遺産」を巡礼しながら、欧州には無い独特な日本文化の奥深さに魅力を感じたからだという。

「書道」も「俳句」も学び、日本文化の美しさ魅かれ、キエフではいま「書道教えており、ウクライナ語で編纂した「日本文化遺産の写真や俳句本(約100ページ)」も発刊し、ウクライナで日本文化を広める努力をされているという。

だが、ウクライナ人には、日本と距離感がある上、文化・経済交流も希薄なため、日本文化の紹介に実績を上げることは難しいのが現状だということだった。

ところで、この懇談中に驚かされたことがあった。ガリーナさんは俳人与謝蕪村の俳句が大好きで、代表的な句の「菜の花や月は東に日は西に」からは「景色と香り」が感じられると、蕪村俳句の真髄をしっかり捉えておられた。蕪村は、大阪の「誇り」だとも付け加えられた。

しかも蕪村俳句から「匂い=香り」を感じるという説は、外国人特異の感性ではないかと、胸を打つものがあった。そう云えば、「俳句」から「香り」が滲み出てくるという説は、耳にしたことが無い。

それならば、私たち主宰の「蕪村顕彰俳句大学」講座を窓口にキエフ国立大学と、蕪村を軸とした「俳句文化」の交流の可能性があるかどうかを質した処、「ご提案をおまちします」という前向きな返事が返ってきた。こんな嬉しいことはなかった。

建築学専門とは異なるものの、日本文化との交流に意欲を見せてくれたガリーナさんとこれから繋がりを深めて行くため、早速私たちで「両国の俳句文化交流計画案」作りに取りかかることにしたい。

ウクライナの国立大学の助教授ガリーナさんと知遇を得たことは、本当に最高だった(了)

2011年07月26日

◆美味な奄美のパッションフルーツ

毛馬 一三

畏友仲村友彦君から先日頂いた、鹿児島県奄美産の「フルーツ」を食したところ、何と筆舌にも託せない素敵な果汁の味覚を味合わせて貰った。

彼の故郷の知人が経営する奄美市の「奄美農園」で取れた果物「パッションフルーツ」で、頂いたひと箱には12個(1kg)入っていた。

恥ずかしながら、「パッションフルーツ」という果物の名前も知らないし、無論お目に掛かった事もない。果実の大きさは、縦8cm、横5cm位で、濃いグリーンの卵型。見ただけでも「新鮮果物」象徴そのものだ。

畏友の助言に従い、熟成の様子を確認して食してみた。ヘタの部分を上にして、果実を縦に半分に切ってみた。そうすると中から種子と果汁が一体となった半透明のゼリー状の果肉が現れた。果肉をスプーンで混ぜたあと、種子と果汁ごと噛まずにそのまま味わった。

熱帯産風の独特な味に加え、上品かつ独特な甘酸っぱさが口内に広がる。旨い。今までに味わったことのない「独特の味覚」だ。残り半分の果肉もゆっくり口に運び、味覚を思い切り楽しませて貰った。数日して、ヨーグルトに混ぜて食べてみた処、これまた格別の味で美味しかった。

「パッションフルーツ」の原産地は、どこなのか。

<「パッションフルーツ」(和名:クダモノトケイソウ(果物時計草)は、アメリカ中南部の亜熱帯地域を原産とするトケイソウ科の果物。日本では、古くは奄美を中心とした南西諸島や、近年では鹿児島県、沖縄県を中心に栽培されている。

開花・受粉から14日で玉伸びを終え、その後45日で完熟、自然落下する。収穫は自然落下したものを回収する(もしくは軽く触れると落下する程度)。蔓ごとに一番花は、人工授粉で、確実に受粉を行うのが栽培の要諦。
国内では、生食以外、希釈用のジュースやジャムとして人気が高い。主に他のジュースの香り付けやケーキ、ゼリーなどの洋菓子類、カクテルベース等需要が急増中>という。

しかも、栄養素も豊富で、カリウム・ビタミンA(ベーターカロテン)・ビタミンC・クエン酸などが含まれており、美容と健康にも貢献するという。

この素敵な味覚を初めて経験させて貰った生産地の「奄美農園」(鹿児島県奄美市笠利町節田225)では、製造者の奈良 一さんが、完全無農薬・無化学肥料にこだわり、作物つくりに専念しているという。製造者の心掛けに感動する。

送られた箱の中に、果物のほかに、奄美特産の薬草「奄美ハンダマ茶」が同封されていた。これも初めて接する「お茶」だ。ハンダマ(スイゼンジナ)葉・シークヮーサー・クエン酸が原料だそうで、3g包が15個入っていた。

約1リットルのお湯の中に同茶の1袋入れて、5分ほど沸騰させたあと、冷ましてポットに移した。なんと「赤み」が色鮮やかさに滲み出ている。飲んでみたら、甘みと香りが溢れた奄美特産「自然茶」だった。

奄美には、本当に素晴しい産物があるものだ。猛暑日が続く異常なこの真夏日に、未経験の素敵な味覚ばかりを味合うことが出来、感謝の気持ちで一杯。

「パッションフルーツ」は8月一杯販売しているそうだ。驚きと素敵な味覚を味合わえる「パッションフルーツ」と、「奄美ハンダマ茶」を、一度味わって頂けたら如何。(了)
参考:『ウィキペディア(Wikipedia)』







2011年07月18日

◆大感激!なでしこ、初の世界一

毛馬 一三

まさか「なでしこジャパン」が、サッカー女子ワールドカップで、世界1の米国を破るとは、想像だにしていなかった。18日朝3時に起きて同決勝戦の中継放送に見入った。

90分の試合の前半戦、後半戦共に先取点を取られ、これまでかと心を痛めたが、何といずれも同点にし、かつ延長戦も後半ギリギリで追いついて、ついにPK戦に持ち込んだ。

そのPK戦でも強豪米国を制し、国際サッカー連盟(FIFA)主催大会で、初の優勝を決めた。跳ね回りながら、体全体で喜びを表す選手たちに思わず感涙した。優勝するとは信じられない。本当に凄い事だ。

産経ニュースの速報によると、下記の通りだ。

<【フランクフルト共同】サッカーの第6回女子ワールドカップ(W杯)ドイツ大会は17日(日本時間18日)、フランクフルトで決勝を行い、日本代表「なでしこジャパン」は2―2の激闘からのPK戦を3―1で制し、3大会ぶり3度目の優勝を狙った米国を破って初優勝した。国際サッカー連盟(FIFA)主催大会での日本の優勝は、男女を通じて史上初めて。

後半に先制された日本は、MF宮間あやのゴールで追い付いた。延長も先行を許したが、主将のMF沢穂希が同点ゴールを決め、PK戦に持ち込んだ。沢は大会の最優秀選手に選出された>。

東北の大震災で落ち込んでいる日本に、「大きな力」を与えてくれた快挙だった。有難う!

2011年07月05日

◆大震災で大活躍の「ドクターヘリ」

毛馬 一三

東北大震災の被災地の患者救済活動に、全国に配備されているドクターヘリ26機のうち、18機もが派遣され、活躍していたことを初めて知った。ドクターヘリなら救急活動に大挙急行しているに違いないと思っていたが、それ以上だった。

これが分かったのは、認定NPO法人「救急ヘリ病院ネットワーク」の國松孝次理事長から送られてきた「HEM−Net誌」の「2011年夏号・東日本大震災特集」を拝読したからだった。

何といっても、今度の災害に全国のドクターヘリネットワークから18機も出動したこと自体、全国ドクターヘリネットワークの機動力と迅速な救急救命活動、加えてその成果を実際に物語るものと云っていい。

理事長は、「大震災におけるドクターヘリの活動は、おおむねよく調整され、隔世の感のある成果をあげましたが、いくつか、今後の課題も残りました」と、初の災害時出動に対する所管の添え書きを付していた。

さて「同特集」だが、対談「現場から、災害時におけるドクターヘリのあるべき姿を考える」、「災害時の具体的活動概要」、「現場に出動したフライトドクター・フライトナースの体験談」などで満載されている。

中でも、「救急ヘリ病院ネットワーク」理事の益子邦洋氏が綴った「出動したドクターヘリの活動状況について」の下記の一文が、まず目を惹いた。

<今回の震災の特徴として、亡くなられた方の9割以上が津波によって溺死されたものであったため、急性期の患者の救命救急活動に当たるケースは少なかったが、低体温患者、挫滅症候群の患者、骨折の患者等に現地で治療を行い搬送するなど、ドクターヘリの機能を活かした活動を行うことができた>、と活動の実態を記している。

ところで、大阪ドクター大阪大学医学部付属病院 高度救命救急センター 医師 田原 憲一氏が「ドクターヘリ震災地出動」についての経験報告は、身に沁みる。

<大阪ドクターヘリの運行規定には、大阪大学特殊救急部の阪神淡路大震災の検証作業によって導き出された「災害時には広域搬送が必須である」という強いメッセージがこめられています。東日本大震災における大阪ドクターヘリの活動では、これまで粛々と進めてきた準備が大変役に立った面と、まだまだ不十分であったという面、両面が見えてきました。

大阪ドクターへリは、震災2日目の夜明けに大阪を出発しました。仙台市の自衛隊霞目基地を活動拠点の一つとして計4日間の活動です。急性期患者の域外搬送は計3 件で1例目は瓦礫に12時間挟まれ近隣病院を経由し救出後5時間で域外搬送を行ったCrush症候群と診断された高齢男性でした。

輸液療法を継続し経皮心ぺーシングを待機しました。その後日没となり、停電、断水に加えて厳しい寒さのなかで夜を明かしました。

翌日に2件の搬送。最初は転倒による頭蓋内出血で意識障害が遷延した中年男性でした。搬送前に痙攣発作を来したため呼吸、循環を監視しながらの搬送です。

次に骨盤骨折の創外固定術後と骨盤ガーゼパッキング術後の若年女性で循環動態は安定していましたが、子供2 人を津波で失っており患者の情報取り扱いに細心の配慮を行いました。

被災から72時間が経過し、消防、自衛隊からの情報提供によって、津波による傷病者の特性が阪神淡路と異なる事を実感しました。

被災3日目にはドクターヘリでDMAT(災害医療派遣チーム)部隊を現場投入する役割を担い、前橋赤十字DMAT隊員を石巻市立病院へ搬送し、我々の部隊も後に患者避難に関わりました。

被災現場では停電に加えて携帯電話を始めとする通信が遮断されており、衛星電話を使用して飛行プランの確認を行うのがやっとでした。

通信については、医療用優先通信の改善が必要と実感しました。一方で、いくつもの問題を解決してゆくなかで目的を一つにする医療スタッフ同士の連携が深まり以後大切な絆となっています>。

このほか、「フライトナースの経験報告」などに、現場経験したスタッフしか分からない救急活動の緊張度と困難性が溢れていた。

一方で、「複数のドクターヘリが運用できたことは素晴しいことであったが、常に情報不足での状態で、情報入手手段と情報共有化の必要性を強く感じた」と、今後の震災の場合の有効な活動を求める課題について、経験者としての切望も記されていた。

大震災全体の課題として、今でも情報の正確さと情報の共有化が強く求められている。このドクターヘリの救急活動の経験者の一語一語には、今後発生する大地震の救急救命対応の仕方を強烈に示唆していると見ていい。(了)
                     2011.07.04

◆本稿は、7月5日(火)刊全国版メルマガ「頂門の一針」2310号に
掲載されました。同誌の他掲載寄稿もご拝読ください。

◆<2310号 目次>
・これほど白けた記念日はなかった(現地報告):宮崎正弘
・左翼貴族の「上から目線は何なのだ」:古澤 襄
・原子力村復活、菅は屈服:山堂コラム 376
・大震災で「ドクターヘリ」大活躍:毛馬一三
・曽我祐次、85歳が「語る」:岩見隆夫

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

◆「頂門の一針」購読(無料)申し込み御希望の方は
下記のホームページで手続きして下さい。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2011年07月04日

◆抜群の「紫蘇濃縮ジュース」つくり

毛馬 一三

我が家で「紫蘇(しそ)濃縮ジュース」をつくり出したのは、一昨年からだ。近所の知人の奥様から作り方を教えて貰ったのがキッカケで、去年もタイミングよく紫蘇(しそ)の販売時期に合わせてつくった。

つくってみたら、なんとまあ、風味・舌触り、美味さは抜群。ジュースの赤みの色合いにも魅かれて、すっかりハマってしまていった。

ところが、何と今年は所用に紛れ、嵌っていた筈の「紫蘇(しそ)濃縮ジュース」つくる時期の到来を、すっかり失念していた。

「7月初めが、紫蘇店頭売りの限界ですよ」とかの奥様からたまたま聞かされ、慌ててて3日の朝、スーパーマーケットに駆け込み「赤紫蘇」仕入れてきた。家内に頼み、今年の「紫蘇濃縮ジュース」つくりに挑んで貰った。まさに滑り込みセーフ。

<紫蘇(しそ、学名Perilla frutescens)は、シソ科のシソ属の植物。中国原産。
紫蘇には、こんな由来がある。中国の後漢末、洛陽の若者が蟹を食べすぎて食中毒を起こし死にかけたが、名医・華陀が薬草を煎じ、「紫の薬」を作り、同薬を用いたところ、若者はたちまち健康を取り戻した。「紫」の「蘇る」薬だというので、この薬草を「紫蘇」というようになった>。

紫蘇の品種は、「青紫蘇」と「赤紫蘇」の2種類。
<i)「青紫蘇」は、葉や花を香味野菜として刺身のつまみや天麩羅などにする。青紫蘇の葉は野菜としては「大葉(おおば)」とも呼ばれる。
A)「赤紫蘇」は、梅干しなどの色づけに使用。また葉を乾燥させたものは香辛料として(特に京都で)味唐辛子に配合され、ふりかけなどにも用いられる>。

ところで、自家で「紫蘇濃縮ジュース」をつくる時は、上記のように、A)の「赤紫蘇」を使う。作り方は幾通りもあるようが、手ほどきを受けた作り方が、手軽で、出来栄えも最高のようだ。

そこで、その作り方をご紹介したい。

<作り方>
(1)紫蘇(300g)を水できれいに洗い、水気をよく切って鍋に入れる。
(2)鍋に水(450cc)を入れ、その中に砂糖(600g)とクエン酸(20g)を加える。
(3)紫蘇を満遍なく混ぜて、鍋をガスの中火で煮出す。
(4)10分ほど沸騰させ、紫蘇の中から泡が出したら火を止める。
(5)鍋で煮だった紫蘇を別のボールに、ザルで濾す。
(6)絞り紫蘇液が自然に冷めたら、その中に「ゆず酢」を大匙2杯弱入れる。これがこの濃縮ジュースの「隠し味」。
(7)真っ赤な紫蘇濃縮ジュースが出来上がったら、氷を入れたコップに濃縮ジュースを好みに応じて注ぎ、水や炭酸水などで4倍に薄めて飲む。

これだけの作り方で、900ccの「紫蘇濃縮ジュース」が出来る。冷蔵庫で保存すれば、賞味期限は半年もある。

<この「紫蘇ジュース」は、紫蘇の栄養であるビタミン類、ミネラル類が含まれているので薬用効果があり、アレルギー体質、生活習慣病、食中毒予防等に効果があるそうだ。ただし糖分の加減で、飲む量は1日2杯に抑えたほうがいいという>。

風味・美味しさ抜群の「紫蘇濃縮ジュース」の作り方を紹介させて頂いたが、このジュースの作り方のコツは、(6)にように、隠し味が「ゆず酢」であること。お忘れなく。

今年は「猛暑日」が幾度となく来襲するだろう。そんな時、風味・舌触りなど美味さが抜群、薬用効果もある「紫蘇ジュース」を味合われてみては如何。「赤紫蘇」まだ2〜3日間は店頭に並んでいる筈。お勧めします。   (了)                             
参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

2011年06月27日

◆今年も届いた「八女茶の新茶」

毛馬 一三

日本の銘茶「八女茶」の生産地は、福岡県八女郡星野村で、私の祖母の生まれ故郷。それがもとで、子供の頃から朝夕「八女茶」ばかり常飲している。煎茶や玉露を飲むと、香ばしい匂いと独特の甘味に魅せられて、郷愁と幸せな予感がどっと沸いてくる。

5月の一番茶の時期になると八女茶生産元の祖母の実家から、注文した1年分の八女茶の煎茶と玉露が送られてくる。今年もこのほど届いた。

しかし、この「八女茶」つくりに長年携わってこられた祖母の親族が昨年亡くなられ、今年の「八女茶の新茶」は、その遺族の手によるものだった。ご存命中のお元気なお声が聞こえて来るようで、折角届いた「新茶」なのに、胸が詰まって、まだ試飲もしていない。

「八女茶」は70度位に冷ましたお湯を、茶葉を入れた急須にゆっくり移し、3〜4回ゆっくり左右に回したあと湯飲みに注ぐ。そこで飲み始めると、文字通り筆舌に尽くせないまろやかな風味と甘みが、他茶より濃く口内に広がり、至福の瞬間が現れる。

しかも茶に含まれるカテキンの成分が、ここ10年位の研究で抗ガン作用と抗微生物作用に効果があることが明らかになったため、わたしも健康維持のため「八女茶嗜みの習慣」は絶やさない。

八女茶の他にも、全国には有名な茶の生産地がある。

<愛知県(三河茶)、茨城県、(奥久慈茶、猿島茶)、鹿児島県(かごしま茶)、京都府(宇治茶)、岐阜県(美濃茶)、熊本県(肥後茶)、高知県(土佐茶)、埼玉県(狭山茶)佐賀県(嬉野茶)、滋賀県(近江茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)、三重県(伊勢茶)、宮崎県(日向茶)、がある>
(日本茶博物館www.kaburagien.co.jp/museum/museum/index.php - 14k -)

京都府(宇治茶)、佐賀県(嬉野茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)は過去に飲んだことがあるが、それなりに芳醇で美味な緑茶だったという印象がある。

ところで下記のような新聞記事のスクラップが出てきた。

<緑茶を1日に7杯分ほど飲むことで、糖尿病になりかかっている人たちの血糖値が改善することが、静岡県立大などの研究でわかった。健康な人で緑茶をよく飲んでいると糖尿病になりにくいという報告はあるが、高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告は珍しいという。

血糖値が高めで、糖尿病と診断される手前の「境界型」などに該当する会社員ら60人を対象に緑茶に含まれる渋み成分のカテキンの摂取量を一定にするため、一旦入れたお茶を乾燥させるなどして実験用の粉末を作製。

これを毎日、湯に溶かして飲むグループと、飲まないグループに無作為に分け、2カ月後の血糖値を比べた。

平均的な血糖値の変化を、「Hb(ヘモグロビン)A1c」という指標でみると、緑茶粉末を飲んだ人たちは当初の6.2%が、2カ月後に5.9%に下がった。飲まなかった人たちは変わらなかった。飲まなかった人たちに改めて飲んでもらうと、同じように2カ月間で6.1%から5.9%に下がった。

2グループで体格や摂取エネルギーなどに差はなく、緑茶からのカテキン摂取量が血糖値に影響したらしい。1日分の緑茶粉末は一般的な濃さの緑茶で湯飲み(約100ミリリットル)約5杯分のカテキンを含み、緑茶粉末を飲んだ人では普通に飲んだ緑茶と合わせ1日に約7杯分のカテキンをとっていた。

研究の中心で、今春に静岡県立大から移った吹野洋子常磐大教授(公衆栄養学)は「運動などの生活習慣改善とともに、食事の中で積極的に緑茶を取り入れてほしい」といっている>。

前記の様にカテキンが抗ガン作用に効果が在ったり、良質な緑茶から抽出されたポリフェノールはビタミンEの10倍、ビタミンCの80倍というすぐれた抗酸化力を持っているといわれているが、緑茶7杯の飲料で高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告には驚かされた。

わたしの周りで糖尿病で悩んでいる先輩、知人が意外に多い。一日緑茶7杯の常飲で高血糖の人たちに効き目があるというから、緑茶の常飲を勧めたい。お茶の嗜みは、心の安らぎも導いてくれる筈だからだ

余談だが、最近ご縁があって、わたしの主宰するNPO法人の理事になって頂いた平井孝明氏(音楽家)が、なんと福岡県八女市星野村の出身で、実家では以前「八女茶」つくりをやっておられるという。

まさか、遥かに遠い九州の同じ実家同士が、大阪で、しかも同じ志を持ち寄ったNPOの下で出合うなんて、ビックリ以外の何者でもなかった。

ひょっとしたらその昔、祖母の生まれ故郷の星野村のご先祖たちが、わたし達より先に「親密なお付き合い」をしていたかもしれない。そう思うと同じ生まれ故郷の有名なジャズ音楽家と偶然にも出合ったことに改めて驚かされ、世間の縁の狭さを実感したものだった。(了)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』