毛馬 一三
江戸時代の三大俳人の一人・与謝蕪村の生誕地は大阪市都島区毛馬町。我々が運営するNPO法人「近畿フォーラム21」では、4年後に迫った蕪村生誕300年の記念事業を華々しく開催したい方針で、諸準備に取り組んでいる。
蕪村は享保元年(1716年)同上の毛馬村で生まれた。亡くなったには京都市下京区の仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明。享年68歳だった。
蕪村は、絵画や句会で名を馳せていたのが京都中心だったことから、終焉地が京都であることはよく知られている。勿論、大阪にもしばしば帰阪し、浪速の地を回っている。
ところが、松尾芭蕉の終焉の地は、何処かということになると、案外知る人は少ない。「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」と詠んだ旅の俳聖芭蕉のことだから、旅の果ての東北か北陸の辺りで病死したにではないか思っている人が多いようだ。
ところが、芭蕉の終焉の地は大阪・南御堂向かいの花屋仁左衛門の離れ座敷だった。芭蕉が亡くなった花屋仁右衛門宅は今喫茶店になっているので、その屋敷跡から当時を髣髴させるものは何もない。
実はその場所を告げる記念碑が、大阪のメインストリート・御堂筋南御堂前の、緑地帯の中に「終焉(しゅうえん)ノ地」と銘を打った石碑が、ポツンと建っている。
たまたま、私も地下鉄御堂筋線・地下鉄中央線「本町」下車して南へ向かう用事があったため、“偶然”発見出来たもので、それまでは不明にも目に止まったことはなかった。
その「碑の銘」も南に向いて建ててあるため、北から南へ一方通行の御堂筋を車で通過する人の目には、「芭蕉終焉の地」という文字を読み取ることは物理的に不可能。
ましてや道路の緩衝地帯の中だから、通路を通る人の関心を呼ぶことはまずない。その意味で、偶然の“発見”に感謝した次第だった。
<元禄7年(1694)9月、芭蕉は故郷伊賀上野から奈良をすぎ暗峠を越え、2度目の来坂をした。長崎へ向かう旅の途中に大阪に立ち寄った。住吉大社を詣でたり、句会に参加するなどしていたが、当時大阪には俳壇をにぎわしていた2人の門人の仲に円満を欠くところがあり、それを取り持つための来坂が主目的であったとされている。
出発時から体の不調を訴えていたが、大阪・住吉神社に詣でた後、発熱下痢を伴い花屋仁右衛門方離れ座敷で病臥、10月12日夕方息を引き取る。享年51歳だった。最後の句として知られる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」は、その4日前に病床で詠まれたものだ>。
ところが「秋深き 隣は何を する人とぞ」は、芭蕉が床に臥す直前に書いた句である。
臥す直前まで世事に興味津々というか、「晩秋」の移ろいにも鋭利な感覚を失っていない。となると芭蕉は、出来るだけ早く床上げをして次の訪問地長崎へ向かう旅立ちの気力と体力との自信に、なお溢れていたのではないかと思える。
<大坂御堂筋の花屋仁左衛門方で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死した(よく辞世の句と言われているが結果論である。「病中吟」との前詞があり、辞世とは当人も意識していなかった>という説がある。参考<ウイキぺディア>
だが病状は急変したのだろう。だから「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が、本人の意思に反して「辞世の句」となってしまった。
<臨終の時は、大勢の弟子達に見守られ、遺体は亡くなった日に舟で、現在の土佐堀川を上って芭蕉が遺言した近江の義仲寺に運ばれた>。芭蕉は、木曾義仲の墓の隣に眠っている。
この欄を書きたいと思ったのにはひとつの感慨があった。「頂門の一針」の主宰者渡部亮次郎氏が掲載された『老化は熟成である』の記述の一節を思い出したからだ。
<老化するとは死に近付くことでもあるが酒や味噌のように美味しく熟成して他人の役に立ち、自分を誇りに思えることでもある。
生きるとは死ぬことである。生まれたら成長すると言うが、それが違うのだ。最後に来る死に向かって懸命に走っているに過ぎないのだ。ただゴールが何時かを自身が知らないだけだ。
盛者必衰の理(ことわり)通り身体の各部分は生まれた瞬間から衰えて行く。中年を過ぎれば皺もしみも方々に出来る。これは生物が生きている証拠として止むを得ないものである>。
渡部亮次郎氏は「生と死」にこう触れている。
「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」を詠んだ芭蕉の心は、まだまだ死ぬまで好きな旅を続けたい気持ちを抱きながら、<最後に来る死に向かって懸命に走っているに過ぎない自分に気づいていた>のではないかとの想いが、重なったからである。
死にたくはなかった芭蕉も、遂に終焉に気づいた瞬間は、きっと幸せな生涯だったと感じたに違いないと思う。
歴史のまち・大阪には多岐の名所旧跡や記念碑は散在するが、「生と死」を考えさせるものは、そう沢山あるものではない。(了)再掲(一部加筆) 参考<ウイキぺディア>