2009年02月28日

◆梅に集う「秘鳥 メジロ」

    毛馬一三

<■本稿は、全国版メルマガ「頂門の一針」3月1日号(日)に掲載されました。同誌をお読みになりたい方は、本稿末尾から手続きしてください。>


大阪の中心部を横切る大川(旧淀川)の河畔や近郊の大阪城公園では、例年よりかなり早く、いま梅の花が満開となっている。

その梅の花をめがけて沢山のメジロが寄り付き、早春の日差しの中で、「チーチュルピーチュルチーチュル」とせわしく鳴きながら動き回っている。間近に迫る春本番を告げているように映り、何ともいえない安らぎと和みを与えてくれる。

<メジロは、スズメ目メジロ科に属し、低地から山地に生息する留鳥。西日本の常緑広葉樹のある暖地に多く生息している。北海道には少なく、寒地や山地のものは、冬になると暖地へ移動する。
 
全長約12cm、翼開長18cmになるスズメよりも小さな小鳥。上面はウグイス色で、目の周りは白く、下面は喉が黄色く、他は汚白色で、脇が栗色。
 
花や木の蜜や、柔らかい木の実、昆虫、カキの実なども好んで食べ、幹にとまって染み出した樹液を吸うこともある。近年では、市街地でも繁殖する例が増えている>。(そらいろネット)

ところが筆者にとって、このメジロと毎年身近に接することが出来るようになったのは、実はご当地・大阪大川河畔近くに住むようになってからのことだ。中々お目に掛かれなかったメジロとの出会いは、万感胸に迫る感激以外の何ものでもなかった。

生まれ育った郷里の福岡筑後地方は、まさに「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」の通り、自然風光に恵まれた穀倉地帯の土地柄だったため、幼少の頃は梅の木の茂る山間に足しげく通い、「メジロやうぐいす獲り」などに夢中になったものだ。

しかし、囮のメジロを入れた鳥篭にトリモチを仕掛けて、山間に半日間潜んでいても、メジロは姿を見せないばかりか、やっと現れても囮籠は見向きもせず飛び去るばかり。子供心にこれほど悔しかったことは無い。メジロは「珍鳥」どころか、まさに「幻の鳥」だった。

その「幻の鳥」が、なんと住居内の眼前の梅ノ木に複数羽で幾度となく現れるのを目撃した時は、「奇跡」ではないかと吾が目を疑った。ウグイス色、目の周りが白い姿のメジロは、幼少時代の様々な思い出までも運んでくれたのだ。

以来、メジロは梅ノ木の花の咲く頃の「季節の常連客」となり、わが屋の家族の心を捉えた「秘鳥」となったのである。

最近メジロは、市街地でも繁殖する例が増えているとのことだが、「鳥」も「昆虫」も、そして「天然魚」も、以前とは生態系に大きな変化を来たしているのではないという気がして成らない。

生態系で思い出したが、九州での盛夏の「蝉」は、ニイニイゼミから鳴き始め、アブラゼミ、ミンミンゼミ、クマゼミ、そして秋の到来を告げるツクツクボウシの順で、夏の主役を務める。

ところが、ご当地大阪では「クマゼミ」がひと夏を独り占めして、他の蝉はその姿の片鱗すら見せない。蝉に関する限り、大阪は実に寂しい生態系と言わざるをえない。

さて近所の友人が、ベランダに輪切りにした「みかん」1個を盆栽の「梅ノ木」の花の横に置いてみたところ、目聡いメジロが一羽偵察に訪れ、安全と珍味を確認したのか、もう一匹のメジロを呼び寄せ、なんと「つがい」で味見をして飛び去ったそうだ。

友人が、室内からデジタルカメラで苦心して撮影したメジロの写真を見せてもらったが、じっくり見るとやはりメジロは、梅の開花期に現れる文字通り「珍鳥」の王者だ。その上幼少時代のことまで思い出させる「秘鳥」そのものでもあった。(完)
2009.02.28
 ↑カメラ▲クリック


■メイル・マガジン「頂門の一針」 1459号 平成21(2009)年3月1日(日)
<同号目次>
・依然江沢民派が抑え込む中国軍:宮崎正弘
・新しい保守政治の構築を:古澤 襄
・襲来!糖尿病との闘い:渡部亮次郎
・梅に集う「秘鳥メジロ」:毛馬一三
・メジロ捕りで捕まった大臣:渡部亮次郎

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2009年01月26日

◆地下に眠る「太閤大阪城」


                        毛馬一三

国の特別史跡に指定されている大阪城が、実は「太閤秀吉築城の大阪城」ではなく、総てが「徳川大阪城」だと知る人は、意外に少ないのではないか。

では秀吉が、織田信長から引継ぎ築城した元々の「大阪城」は一体どこに姿を消したのか。それは追々―。

橋下徹大阪府知事が、大阪城大手門の真ん前にある大阪府庁舎を大阪南港のWTC(おおさかワールド・トレード・センター) へ移転する構想をブチ上げ、 眼前に聳える大阪のシンボル「大阪城」と敢えて決別する意向を示したことから、「大阪城」の歴史的価値を巡る議論が活発となった。

それに纏わり浮上したのがこの話題だった。「聳える天守閣は昭和初期に再建され、城の堀は徳川方によって埋められたことは承知していたが、だからと言って秀吉大阪城の城跡が些かも無いとは全く知らなかった」云々である。大阪城への朝の散歩を日課とする人々や大阪府庁の知人らからも、異口同音に同様の返事が返ってくる。

朝の小雨が上がり、陽光が漏れ出した23日の昼ごろ、大阪城周辺を車でゆっくり周回してみた。

天満橋から大手前、森の宮、新鴨野橋と城郭を一周する道筋からは、「大阪城の高い石垣と深い堀」が、雨滴の葉が陽光を跳ね返す樹林の間からと、大きく広がる視界の中から歴史の威容を誇らしげに見せ付ける。特に大手前周辺の高さ32mもある幾重もの「反りの石垣」には、当時の石垣構築技術の進歩の姿を覗かせる。

大阪夏の陣で豊臣家を滅亡させた徳川家康は、同戦いの2年後(1616)死ぬが、家康遺命を受けた秀忠が、元和6年(1620)から寛永6年(1629)までの10年3期にわたり大阪城を大改築する。その時徳川の威令を示すために、「太閤大阪城」の二の丸、三の丸を壊し、総ての「堀」は埋め、「石垣」は地下に埋め尽して、豊臣の痕跡をことごとく消し去ったとされている。

車で周遊しながら眺めた大阪城は、総て「徳川の手になる城郭」だったのだ。では「太閤大阪城」は、地下に眠ったままなのか。

「大阪城石垣群シンポジウム実行委員会」の論文をみると、そこに「太閤大阪城」が地下に埋められたままになっていた遺跡の一部を発掘した調査記録が下記のように書かれていた。

<地下に埋蔵された「太閤大阪城」の石垣を最初に見つけたのは、大阪城総合学術調査の一環として大阪城本丸広場で行われたボーリング調査だった。昭和34年(1959)のことである。天守閣跡の南西にあたる地下8m から「石垣」が見つかったのだ。

4m以上も積まれた石垣で、花崗岩だけでなく、様々な石を積み上げた「野面積み」だった。「野面積み」は、石の大小に規格がなく、積み方にも一定の法則が認められないもの。当時城郭作りの先駆者だった織田信長が手掛けた安土城の「野面積み」工法と同じだったことから、秀吉がその工法を導入して築いた「石垣」と断定された。

それから25年後の昭和61年(1986)になって、再び天守閣跡の南東部の地表1mの深さから地下7mまで、高さ6mの「石垣」が発見されている。

この石垣も「野面積み」だったうえ、その周辺で17世紀初頭の中国製の陶磁器が火災に遭って粉々の状態で見つかったことから、大阪夏の陣で被災した「太閤城」の「石垣」であると断定される2回目の発見となったのである。

両「石垣」の発見場所の位置と構造を頼りに、残された絵図と照合していくと、この「石垣」は本丸の中で最も重要な天守や、秀吉の家族が居住していた奥御殿のある「詰め丸」と呼ばれる曲輪(くるわ)の南東角にあたることが明らかになったのである。

地下に消えた「石垣」は、切り石が少なく、自然石や転用石を沢山積み上げたもので、傾斜が比較的ゆるい、「徳川城」とは異なる「反り」の無い直線だった>。

第3の発見は偶然が幸いした。現在の「大阪城・西外堀」の外側の大阪城北西で、平成4年に大阪府立女性総合センター建設の際の発掘調査で、地下から長さ25m に亘る「太閤大阪城の石垣」が出現したのだ。同石垣は、いま同センターの北の道沿いに移築復元されている。

何よりもこの発掘の価値が大きかったのは、今の大阪城郭から離れた外側の場所から「石垣」が現れたことだ。それは「徳川城」よりも「太閤城」の方が遥かに規模の大きかったことの証であり、今後の調査で城郭外から新たな「太閤大阪城」が出現する可能性を引き出したことだった。

地下に眠る遺跡の発掘調査は、エジプトやイタリアなど文明発祥地でブームになっているが、現在進められている大阪市の大阪城発掘調査で、「天下の台所」の基礎を築いた「太閤大阪城」の遺跡が、今の城郭外から見付かることを期待したい。

橋下府知事の府庁舎移転構想の議論は、図らずも面白い話題までも引き出してくれたものだ。(完)
                          2001.01.23

2009年01月16日

◆どうなる「大阪都心移転構想」

(本稿は、全国版メルマガ「頂門の一針」1426号・1月16日(金)に掲載されました。同号目次は、本稿の後に紹介)
                       
                   毛馬一三

「暴れん坊将軍」ならぬ「暴れん坊知事、官と戦う」というタイトルで、橋下徹大阪府知事と堺屋太一氏(作家・元経済企画庁長官)との対談が、文藝春秋(2月特別号)に載った。

堺屋太一氏との対談なら橋下知事は、知事就任以来この1年間に誰にも漏らさなかった「本音」を、誰憚ることなく吐露しているに違いないと思いページを繰った。

ご承知のように堺屋太一氏は、橋下知事が08年1月27日の大阪府知事選挙に出馬した際、関西財界や与党政党との繋ぎ役をしたほか、自ら橋下陣営の陣頭指揮を執った後ろ盾で、橋下知事にとっては知事誕生の“恩人”いうべき立場の人物だったのである。(本誌08年1月10日号「大阪知事選を左右する人物!?」掲載)

予想に違わず、堺屋氏の絶妙な話術に導かれて、知事1年間の努力の成果を揚々と語っている。

特に、小中学生全国学力テストデータの公開をめぐり、文部科学省に「バカ官僚」と過激発言をして国の官僚と戦った上での教育改革の成果や、大胆な財政改革の強行実施内容を明らかにし、1年目知事としても並みの知事でないとの世間の評価を裏付けている。

ところが、筆者だけでなく多くの読者は、橋下知事が2年目から政治目生命をかけて挑むと最近強烈にブチ上げている「大阪府庁舎を移転」して、新しい「大阪都心を創造する構想」が、同誌上で一言も触れられていないのにはいささか拍子抜けしたのではないか。

注目される「府庁舎移転による新都心構想」とは。

事のきっかけは、橋下知事が08年8月に大阪南港にある大阪市の「破綻第3セクター・WTC (大阪ワールド・トレード・センター)」を買収し、そこに大阪市中央区大手前にある今の大阪府の庁舎をそっくり移転する構想を発表したことが始まりである。

WTC へ庁舎移転すれば、関西国際空港や神戸港へのアクセスの良さや、周辺に利用可能な空き地が多いことなどの有利な立地条件を活用して、企業誘致や港をフル使った輸出入港湾事業の拡大を導けば、大阪経済を一挙に再建できる「新都心」の創造を可能に出来ると言うのが、知事の持論だ。

年が明けた09年1月9日に橋下知事は、府庁内に職員による「庁舎移転構想推進チーム」を結成。2月大阪府議会に提出する新都心構想や、移転先の防災課題を盛り込んだ「庁舎移転議案」の具体的な検討に入ったのである。こうした動きで大阪では、いよいよ「移転構想」が現実課題として捉えられるようになってきた。

ところで移転先に挙げられたWTCとは、どんなものなのか。

WTCは、95年に大阪市が総事業費1193億円をかけて完成させた高さ256.0m、階数55階・地下3階、延べ面積150.000uの日本第3位の超高層ビル。  

ところが、同ビルへのアクセスの不便やバブル崩壊で大阪市が計画した周辺の開発が一向に進まなかったため、同ビルへのテナントが集まらず、大阪市は04年2月に特定調停を成立させて再建を進めていた。

この間入居率が低迷したため大阪市は、市港湾局や建設局など市役所5局を同ビルに移転入居させる対策を取っており、WTCは「大阪市役所第2庁舎」などと揶揄されていた。そこへきてこの橋下知事の「府庁移転構想」が飛び出したことから、大阪市は歓迎の姿勢を示した。

とは言えこの移転構想に対して、大阪府民の間では、賛否両論が渦巻き出した。賛成論は、「庁舎移転」によって、南港周辺に大手企業、商社、金融機関が進出するようになれば、「新都心」が現実のものになるほか、これまで過疎状態だった今の都心から南港へ通じる東西軸の街並みの活性化が期待できるため、大阪が息を吹き返す大きなチャンスになると知事案に賛意を見せている。

知事がこの構想を打ち上げた直後には、京阪電気鉄道が今ある京阪中之島線をWTCまで延伸の検討を開始したことを明らかにするなど、財界では知事構想支持の動きも目立ってきている。

これに対し、消極論もしくは反対論は、
・大阪の北西端に位置するWTC へのアクセスの不便は、府民にとって
時間と経費が嵩み過ぎて通うことが難しく、府政運営の妨げるとなる。
・大阪市が計画して実現できなかった南港の開発を、この新都心構想で再起させることは困難。
・南港からの輸出入の増大は、隣接する神戸港や韓国釜山港のハブ港と競合するため、その実現までには時間が掛かりすぎる−等々である。

一方、知事発案ののち、大阪市のWTCの最新の評価額が153臆円に対して、大阪府の評価額が95億円と58億円もの差があることが明らかとなり、ひとまず橋下知事に歓迎の姿勢を示していた大阪市も、この評価額の差にどう応じるか迷っている状態だ。

最大の難関は、大阪府議会で知事提案の「移転構想議案」が可決されるのには議員3分の2の賛成が必要とされるが、議会筋によると定員112人のうち今のところ賛成派はほぼ半数程度で、議決に漕ぎ着けられるかどうかは極めて困難な情勢だという。

こうした情勢を敢えて踏まえながら橋下知事は、この「移転構想」を実現させることが大阪の生き残りを託す不可欠な課題であることの不変の決意を、広く府民に理解を得るため各地で府民集会を開いていくという。

将来を担う子供たちの教育改革を全国に先駆けて提唱、実績を残した知事が、就任2年目を迎えるこの2月から知事の政治生命をかけて進める「構想実現」の議論は、一層盛んになることは確実だ。(了)
参考・フリー百科辞典「ウイキぺディア」

■本稿が掲載された全国版メルマガ「頂門の一針」1426号・平成21年1月16日(金)の目次は下記の通りです。

<1426号 目次>

・どうなる「大阪都心移転構想」:毛馬一三
・自慢の最新鋭ジェット機が墜落:宮崎正弘
・オバ政権の外交政策:翻訳:平井修一
・建築の未来・ BAU 2009:永冶ベックマン啓子
・アメリカ人はキャジュアルか:前田正晶

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2009年01月06日

◆新年早々の感動

毛馬一三

<本稿は、全国版メイル・マガジン「頂門の一針」1416号・1月5日(月)に掲載されました>

長男から、「快気祝い」と称して、正月4日の早朝から車で連れ出された行き先が、30余年ほど前の思い出に胸震わせることになろうとは、予期もしないことだった。

正月元旦の恒例家族祝い会の席上、昨年暮れ受けた「白内障の手術」のお陰で、筆者が青年時代の視力と気力を取り戻した話を聞いた長男が思い巡らせて、このお祝い企画をしてくれたのだった。(「頂門の一針」08年12月26日号に「白内障手術の素晴らしさ!」で掲載)。

長男の運転する車は、筆者と家内、長男家族を乗せて、国道1号線を京都方面に向かい出した。時折訪れる兵庫県有馬温泉とは方角が違う。何処に向かうのだろう。行き先は「お楽しみ」と言って、長男は頬を緩めるだけだ。

早朝からの好天の所為もあって、国道1号線沿いに立ち並ぶ街並みの立体感と鮮やかな色合いが両眼に吃驚するほどの鮮やかさで飛び込んでくる。5年間も続いた深刻な視力の悩みは、見事に何処かに失せて仕舞った。霞目からの脱却は、予想を超えたマジック世界への転入のようだ。

古色蒼然とした昔のままの守口市役所の庁舎を眺めながら進んだ後、松下電器からパナソニックに社名を変更したばかり同社前で、これを誇示するカラフルな巨大看板の林立が目に入る。30分程走った後、「木屋」と示された道路標識を見て右折して、東に向い出した。

道幅の広い道路をしばらく進むと、私鉄京阪電車 の「香里園駅」前に出た。駅の手前を左折して、急な坂道を登り始めた。「成田山神社」への初詣かと思いきや、そちらには向かわず直進する。


見覚えのある景色が次々と現れ始め、そのあとから記憶が付いてくる。大きなゴルフ練習場も左手に広がって見えた。「親父ここだよ」。長男がバス通りを右折して、すぐ車を停めた。見れば、3階建ての瀟洒なマンションの佇まいの前だった。おお!32年振りに見る、昔の棲家じゃないか。

この「NHK香里園職員寮」は、当時5階建て2棟だったが、今は3階建ての1棟だけに建替えられていた。駐車場のある広い庭と子供がたむろし遊べる広い敷地もあったが、それも手狭になっている。

そういえばこの寮には、本欄主宰の渡部亮次郎氏が、筆者の上階3階に住んでいたことを思い出した。当時の若々しい渡部氏の姿が再び目の前に現れるよう気がして、懐かしさが澱みなく込み上げて来る。30余年前へのタイムスリップだ。

今や著名なカメラマンの網代守男氏も、隣の棟に住んでいた。生方アナ、島村俊治アナ、井上善夫アナなどもここにいた。


NHK政治部の中核だった渡部氏が、どうして大阪放送局の「香里園寮」に住むようになったのか、田中角栄に左遷されたというおぞましい経過や心の闇まで知る由も無かった。そんなことよりも30余年前の当時は、後輩記者たちにとり、熟練政治記者の渡部氏の鋭利なセンスによって、放送前の原稿を手直してもらえるのが無常の喜びであったことを思い出す。

35年ぶりの感動は、筆者だけに留まらない。小学高学年から中学3年まで近郊の学校に通った長男も、PTAを通じて近隣の親と親しくなった家内も、「香里園寮」を眺めたり、近隣に現存する1戸建ての表札を見ると、思い出もひとしおのようだった。

「もうひとつ行く先があるよ」。長男が向かったのは、「香里園寮」を下って住宅街を抜け、30年前見たことのある鬱蒼とした竹林の方角だった。

広大な竹林な中に車を入れていくと、高台に天然温泉「香里・長者の湯」があった。長男は快気祝いの締め括りを、ここ癒しの天然温泉に案内したかったようだ。

地下1200m から湧き出る温泉で、泉温37度。分あたり湧出量485リットル。泉質ナトリウム 塩化物温泉などが多く含まれる療養泉だという。神経痛、関節のこわばり、慢性消化器病、慢性婦人病等に効果があるそうだ。

関西最大級の広さを誇るというだけあって、高台に聳え目を見張らせていたあの大規模竹林の自然を巧みに活かした温泉ではあった。

入浴客は、正月休み最終日のためか超満員。天然温泉のかけ流し「露天風呂」や「漢方薬草塩サウナ」等、男性16、女性6の浴場は、いずれも順番待ちの混みようだった。

陽は照っているとはいえ外気は冷え切っている。身震いしながら素早く「露天風呂」に浸かると、体だけは十分温まり気分は最高。

30余年ぶりの思いがけない香里園の訪問だったが、様変わりした竹林の下での温泉で、懐かしき思い出に浸りながら心身ともに癒せたのも、正月早々から身に余る喜びだった。(了)

◆本稿が掲載された全国版メイル・マガジン「頂門の一針」1416号
(平成21(2009)年1月5日(月) )の目次は、下記通りです

<目次>
・米国経済構造の欠陥(1):前田正晶
・ハマス・ロケットは中国製:宮崎正弘
・インドネシア独立を支援した皇軍:平井修一
・独で飛んでるジロコプター:永冶ベックマン啓子
・新年早々の感動:毛馬一三

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記


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2008年12月26日

◆「白内障手術」の素晴らしさ!

毛馬一三

<本稿は、全国メルマガ「頂門の一針」1406号・12月26日(金)に掲載されました。詳細は下段をご高覧ください>

・「白内障手術」を受けるため、8日間入院したが、今週初めの22日、無事退院を果たした。退院直後に驚いたことは、想像を遥かに超えた驚くべき視力を取り戻せたことだった。

白内障(はくないしょう・cataract)とは、目の疾患の一つ。白内障水晶体が灰白色や茶褐色に濁り、物が翳んだり、ぼやけて見えたりするようになる。以前は「白底翳」(しろそこひ)と呼ばれていたものだ。

視力低下を自覚して診察を最初に受けたのは4年程前。「今後の症状を見ながら、手術の時期を考えましょう」という診断だった。

ところが、昨秋頃から視力低下が急速に進み、読書や文章綴りにも支障を来たすようになってきたばかりか、遠近両方ともに視界がぼやけ出して車の運転もままならなくなり、気分を落ち込ませる事態となってきたのである。

更に今年9月頃からは症状が更にひどくなり、11月上旬「大阪市立総合医療センター眼科」での診察の結果、「入院ベッドが空き次第、即手術を行いましょう」という診断が出された。この時の矯正視力は、右眼0.4、左眼0.2だった。

待機すること1ヶ月余りの12月15日、遂に入院した。入院初日、再検査の後、主治医(松川みう医師)から下記のような「手術に関する説明」を受けた。

1)白内障の視力低下は水晶体が濁っているために起こるもので、濁りを透明にする薬はないため、手術しかない。

2)手術は、濁った水晶体を、水晶体を包む袋(水晶体後嚢)を残して取り除き、代わりに眼内レンズを挿入する。手術時間は20分前後。

3)手術は、局所麻酔で行うため、痛みはない。もしあれば、麻酔を追加する。

4)後嚢が弱いと、眼内レンズが挿入できない場合があるので、その場合は眼内レンズを目の壁に縫い付ける手術を行う。

5)通常は発生しない事態が起こることもある。たとえば、稀に病原体の眼内感染症により、視力障害が起こることがある(0.05%)。また眼底からの激しい出血(駆逐性出血)による重大な視力障害が起きることがあるが、これは全国で年間1例あるか無いかの頻度。

全体としては安全な手術だとの説明だったが、手術が目前に迫ると流石、不安が募る。ごく親しい知人に「白内障の手術」を受けて左目を失明した人が居り、聞かされた経過の話が頭をよぎる度に心は穏やかではなくなる。

その時、思い出したのが、記者の先輩で全国メルマガ「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏からの励ましだった。

「体験者から一言。何の痛さもなし。少年時代に戻ったような視力を得られる。10年ぐらい前にやりました。乱視はなくなる。大いにお勧めします」。これが不安を吹き飛ばしてくれた極めつけの言葉だった。

いよいよ手術。入院翌日の16日に右眼、1日置き18日に左眼の順で行われた。広い手術室で松川主治医ら2人の医師と看護師3人が対応した。

この術前後の期間、点滴(セファメジン・100cc)1日1回4日間と、点眼 の抗生剤(クラビット)、アレルギー予防(リンデロンA)、充血防止( ジクロフェナック)の3種類を1日4回注入。同点眼は退院後も続けている。

術後に主治医が、検査した結果、手術には問題がなく、経過も順調とのことだった。ただ右眼術後3日目に眼内にゴロゴロした違和感が生じたため、炎症を防ぐクリーム(クリビート軟膏)を3日間塗った結果、違和感は消滅した。

術後に視力検査を行った結果、矯正視力は両眼ともに1.5に回復していると驚異的な数値を示され、喜びは頂点に達した。

こうして入院後8日目の22日(月)の午後、両眼を保護するアクリル製の眼帯をつけたままで退院した。

帰宅を急ぐタクシーから外の景色を眺めると、外界は限りなく眩しく映り、木立や橋梁、川面の彩りが美しく、鮮やかに浮かび上がりながら行き過ぎて往く。

帰宅すると、 夕方なのに信じられないほど室内全体が明るい。テーブルの上にあった新聞を見遣ると、眼鏡無しでも今までぼやけていた文字が鮮明に見える。飾り棚にある有田焼や三川内焼(陶器)の紺・赤・緑の模様が、何十年前に見た時と同じ彩の輝きを放ちながら飛び込んでくる。

これを読む「白内障手術」経験者にとって筆者の驚きと感激は、いとも陳腐なものかも知れない。だが、読書ができる、ペンも執れる、パソコンとも向かい合えるなどということは、明日からの新しい生き甲斐を与えてもらったといっても過言ではない。

主治医の話では、数ヶ月から数年後に、「後発白内障」といって後嚢が濁って見えにくくなることがあるが、これは通院でレーザー治療により、濁りを取ることが可能だという。この将来不安を払拭してくれた主治医(松川医師)やスタッフへの感謝の気持ちが込上げてくる。

「白内障手術」が、これ程までに素晴らしい生き甲斐を与えてくれるとは思いもしなかった・・・。<了>2008.12.25
参考―フリー百科事典ウィキペディア


■本稿が掲載されたメイル・マガジン「頂門の一針」1406号 <平成20年12月26日(金)>。

◆<第1406号・掲載目次>
・「お上に傳へてくれ」!?:上西俊雄
・ジャブジャブ、ジャーブジャブ:平井修一
・麻生さんの気力次第だ:花岡信昭
・「白内障手術」の素晴らしさ!:毛馬一三
・Native Speakerの活用法:Plagiarismの勧め:前田正晶

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2008年12月15日

◆軍事メッセージの「万葉集」


                     毛馬一三

<本稿は、12月14日発刊の全国版メルマガ「頂門の一針」に掲載されました>

・韓国の百済の都扶余の遺跡から、618年に作成された「出挙(すいこ)」の木簡が、先頃発見された。

「出挙」とは、作付けの季節に農民に利子つきで貸出した「種もみ」を、収穫の秋に利子分を含めた作物を現物で回収する制度で、木簡には農民毎に回収した「作物の量」が記録されている。

この木簡は、日本では飛鳥時代以前の古代遺跡から、全く同じものが既に発掘されている。

つまり、中国から発祥した貴重な税収制度が百済を通じて、日本へ導入されていたことの証だが、もし百済と日本の間に当時、緊密友好な外交関係がなかったら、日本へこうした国家構築に属する機密情報が、伝わって来なかったであろうことは想像に難くない。

この韓国の発掘記事を読んだとき、随分以前になるが(1989年11月)、日本と百済との「秘めたる繋がり」の逸話を話してくれた、韓国の著名女流作家のことを思い出した。

同作家は、李寧煕(いよんひ)氏。韓国大手新聞社「韓国日報」の政治部長・論説委員長から国会議員(1981年)を経て、韓国女流文学会会長を歴任。

筆者は、「韓国日報」からの紹介で、李氏が来日した折、2日間奈良県桜井の「万葉の道」やその周辺の「古代天皇の古墳群」散策の案内役を務めた。その際李氏が、こもごもに語ってくれたのが、この「万葉集」に秘められた「軍事、政治的なぞ」の話だった。

李氏によると、日本の「万葉集」と関わりを持ったのは、国会議員だった当時、日本の高校の歴史教科書に韓国関係記述が歪曲されているという問題が提起されたことから、日韓両国の国会議員による特別委員会が設けられ、事実の調査を始めたのがきっかけだったという。

つまり、歴史書が歪曲されているかどうかに迫るには、どうしても古代史にまで遡って検証する必要があり、そのために両国の歴史書に目を通すうち、日本の「万葉集」に魅せられて仕舞ったという。

ここから「万葉仮名」の研究に惹かれたらしいのだが、「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語で判読出来ない歌のほとんどを、実は韓国語で読むと総て読み通せることを見つけ出したというのだ。これは当時としては大発見に違いなかった。

帰国した李氏から、筆者に李氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊1989発刊」が送られてきた。読んでいくうち「日本語訳では見えない様々な謎」が書き込まれて居たことを思いだす。その中で、特に目を見張らせる下記のものがあった。

<万葉集20巻、4516首の内に、日本語では判読できない、正式に「未詳歌」とされている3首があり、このうちの1首に恐るべきメッセージが織り込められている。斉明天皇(655年即位)の意中を、額田王(ぬかだのおおきみ)が歌にしたのが、それである。

◆原文:  金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念<巻1の7・未詳歌>

・日本語よみー(秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 刈廬(かりいほ)し思ほゆ)

この歌は、従来からの「日本語解釈」では、次のようになっている。
(秋の野の 萱(かや)を刈って屋根を葺き 旅宿りした 宇治のみやこの 仮の庵が思われる)。

しかしこの解釈では、額田王が何を言いたいのか、さっぱり意味が伝わってこない。だからこの歌が、解釈不能または解意不明なことから、公式に「未詳歌」とされたのも当然であろう。

そこでこの祥らかでないこの歌の原文を、韓国語で読んでみた・・・。すると、
(徐伐『そぼる』は 鉄磨ぐ 締め苦しむること勿れ 上の都は 刀来るぞよ 陣地固めよ)

・韓国語訳―(新羅は刀を磨いで戦いに備えている。締め苦しめないといいのに・・・。吾がお上の、百済の都は、敵が襲ってくるから、陣地をお固めなされ)。>
ということが明らかになった。

李氏の韓国語解釈をそのまま読むと、これは斉明天皇が百済に送った「軍事警告メッセージ」ということがはっきり分かる。だとすれば斉明天皇が百済に対して、これほどまでの機密「メッセージ」を送らなければならなかった理由とは何か、その疑問にブチ当たる。

<皇極天皇(斉明天皇と同じ・斉明天皇は二度即位)から斉明天皇の時代は、朝鮮半島では、新羅、百済、高句麗の3国が緊張状態にあった。

この歌(皇極時代の時の648年に入手していた情報)は、斉明天皇に即位してから額田王に歌として作らせたものといわれるが、百済が新羅・連合軍に滅亡させられた661年より13年も早くからこの事態を予測していたことになる。

当然百済が滅亡する相当前から、この「新羅の不穏な極秘情報」を、斉明天皇は歌に秘めて百済に伝達していたに違いない。即ち人一倍百済の存亡に長年心を砕いていた斉明天皇なら、国家存亡に関わる極秘情報を百済に提供しない訳は無い。

実は斉明天皇は、百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、百済を援けるため、難波(大阪)で武器と船舶を作らせ、自らその船に乗り込んで瀬戸内海を西に渡り、百済とは目と鼻の先の筑紫(福岡)の朝倉宮て新羅・唐との戦争に備えた。しかし斉明天皇は、遠征軍が百済に向かう前、失意の内に亡くなっている。

斉明天皇の異常なまでの「百済ひいき」について日韓学者の一部には、斉明天皇は百済第三十代武王の娘の宝で、百済最後の王、義慈王の妹だったとの説がある。>

上記説も考えられないこともない。恐らく斉明天皇自身、あるいは親族関係と百済との間に何らかの強力な繋がりが現実に在ったとしたら、「万葉集」歌に秘められた「軍事警告メッセージ」の存在も真実味を帯びてくる。

「万葉集」を古代の珠玉の日本文学と仰ぐ人たちにとっては、この韓国語読みは認め難く、あくまで額田王作の「未詳歌」としてしか受け入れられないかもしれない。

しかし、このあと白村江の戦いの敗戦(663年)まで百済救国にこだわり続けてきた日本の歴史を見れば、日本と百済との関係は極めて緊密であったことを証明していることになる。

だとすれば、万葉集愛好家方々も韓国語で読み明かされる「万葉集の新たなメッセージ」に興味を抱かれことも、「万葉集」の珠玉の枠を更に広げることにはならないだろうか。(了)2008.12.13

参考―・李寧煕氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」
   ・小林恵子著「白村江の戦いと壬申の乱・現代思潮社」
   ・ウィキぺディア
                             
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◆メイル・マガジン「頂門の一針」1397号<2008年12月14日(日)>
<同号 目次>
・中国「08憲章」の衝撃:平井修一
・貧すれば鈍す(!)):山堂コラム:244
・今や絶滅寸前花柳界:渡部亮次郎
・軍事メッセージの「万葉集」:毛馬一三
・英会話に謙りの心は不要:前田正晶

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2008年11月17日

◆「源氏物語」は世界最古の政治小説

 (本稿は全国版メルマガ「頂門の一針」11月17日号に掲載されました。同欄17日号の掲載目次は、下段に掲載。ご拝読の程を。)                       
                      毛馬一三


世界最古の長編小説「源氏物語」が一条天皇に献上されたのは、寛弘5年(1008年)11月17日。丁度千年前の今日である。

紫式部が、父の赴任先の越前国で当時、何よりも貴重だった「越前和紙」とめぐり合い、2年間にわたって思いのままに、物書きに熱中したことは、本欄ですでに触れている。(平成20年8月29日号=和紙と生きた紫式部)

ところで、この「源氏物語献上」に先立つこと3年前の寛弘2年(1005年)12月29日に紫式部は、宮中に呼び出されている。何とこの召し上げの仕掛け人が、藤原道長だったのだ。

どうして藤原道長が、紫式部を宮中に召しあげたのか。それは当時宮中で繰り広げられていた、壮絶な権力闘争と大きな関連がある。

その権力闘争とは、道長の兄道隆盛の息子「伊周(これちか)と道長とが、真っ向から繰り広げていた藤原同族同士の宮廷内対決だった。

内大臣伊周に対抗するには、叔父の道長はこれを超える役職への昇進しかなかった。道長は画策した。一条天皇の生母で、実姉の強力な支援を懇願して、「関白」に次ぐ地位の「内覧」職を獲得し、役職の上では、一応互角に並んだ。

だが、道長にとっては、まだ後塵を拝する部分があった。伊周は、妹の定子を一条天皇の中宮に送り込み、堅牢な地位を確保していたのだ。

道長にしては、この一郭を何としてでも突き崩す必要があった。このため何と一条天皇のもう一人の中宮に娘の彰子を送り込んだのである。

このんち中宮彰子は、1008年9月11日、「敦成(あつひら)親王」(後一条天皇)を出産。道長は、これによって、権力の頂点を完全に立った。

しかしそれに至る以前に、なぜ紫式部の召し上げにまで手を打っていた政治家道長の老獪な魂胆とは一体何だったのか。恐らく文学好きといわれた一条天皇の気を惹くため、紫式部の「源氏物語」の献上を早々と仕組んでいたと思われる。言い換えれば、天皇の歓心を買うための一種の「政争の具」として周到に準備していたのだろう。

紫式部は、中宮彰子の教育係として勤める傍ら、3年近く宮中の様々の人間模様、権力構造、熾烈な利害闘争などをつぶさに見ながら、冷静な考察と巧みな筋立てを描きながら、得意満面に「源氏物語」を書き綴っていたに違いない。

色とりどりの54帖の冊子、400字詰原稿用紙にすれば、2300枚ともなるとてつもない長編小説。
越前和紙と墨を使ったきらびやかな「源氏物語」の献上が、一条天皇の心を捉えて仕舞ったであろうことは、想像に難くない。

次々と広がる物語の中で、天皇自身が、思い当たる舞台での隠れた暗闘と情念の世界の展開や登場人物への特定がすべて思い当たり共鳴感動したとしたら、天皇にとりこれに勝る悦楽は、他には無かったのではないだろうか。

そう見ていくと、源氏物語は、「悲恋」、「純愛」、「禁断の恋」の物語ではないように思える。むしろ宮中文化の中で、現場で目撃し鋭敏に感じ取った政治暗闘の記録文学とも見える。

ひょっとしたら世界で最古の「政治小説」と言ってもいいかもしれない。「政治小説の源氏物語」となれば、また。評価の仕方も見方も読者層も、大きく変わっていくのではないだろうか。(了)2008.11.17

■メイル・マガジン「頂門の一針」1383号 平成20年11月17日(月)
<同欄目次>
・政治を劣化させた小選挙区制度:古澤 襄
・「源氏物語」は世界最古の政治小説:毛馬一三
・G20合意は砂上の楼閣?:宮崎正弘
・世界は節目を迎えている:平井修一
・現場を知らない幹部(2):前田正晶

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2008年11月13日

◆兵庫県知事発言の真意(差し替え)

                    毛馬一三

<本稿は、全国版メルマガ「頂門の一針」14日号に掲載されました。同メルマガをお読みになりたい方は、下段ご案内から手続き下さい>


井戸敏三兵庫県知事の「関東大震災が起きればチャンスになる」とした発言を、マスコミが不適切発言だと騒いでいる。しかも河村官房長官が記者会見で、井戸知事発言に敢えて自戒を求めたり、石原東京都知事が強い反発の構えを見せたことから、事態はヒートアップしている

事の起こりは、11日に和歌山市で開かれた近畿ブロック知事会議で、井戸知事が「関西経済をめぐる議論」の中で、切り出した発言だった。

同知事の発言は概略以下の通りである。

「東京一極集中をどうやって打破するかという旗を掲げないといけない。物理的には、関東大震災なんかが起きれば、相当なダメージを受ける。これはチャンスですね。

チャンスを生かす、そのための準備をしておかないといけない。機能的には金融なんです。金融とマスコミが東京一極集中になっている。東京に行った企業をもう一度関西に戻せというカムバック作戦を展開していく必要がある。

(中略)そういう意味では、防災首都機能を関西が引き受けられるような準備をしておかないといけない」。(朝日新聞)

これを見る限り、やや言葉足らずはあるものの、首都圏の震災時に果たす関西の役割を主張したものと受け取るのが普通で、大震災県である知事がその立場を逸脱した不謹慎な言及と決め付けるのには、些か行き過ぎを感じる。

ところがこの発言にマスコミが一斉に批判の矛先を向けた。知事発言の中の「関東大震災とチャンス」の言葉だけを連動させて、「阪神淡路大震災を経験した兵庫県知事が、関東大震災をチャンスだと述べるのは、不謹慎だ」と厳しく決め付けたのだ。

オモシロ可笑しく煽ることが、読者(視聴者)の気を惹く好材料との思いから動き出したことは紛れも無い事実。この瞬間に井戸知事の真意は、雲散霧消した。

会議参加の知事らも、マスコミの意向に応じる形で、「表現は不適切であり、訂正すべきではないか」と指摘する意見を次々に明らかにした。

その上で河村官房長官が、「兵庫県は阪神・淡路大震災で大変苦労し、痛みを十分知っているはずだ。また、大震災の時は全国も心配して協力した。その県の知事の発言だから残念だ」と述べ、石原知事も「不謹慎極まりなく、話にならない」と切り捨てた。

マスコミの報道で、明らかに井戸知事の発言意図とは食い違った批判ムードが一人歩きし、知事自身の見識や人格問題にまで踏み込むような予期しない事態に発展して仕舞ったのには、首を傾げたくなる。

果たして、井戸知事はその日の記者会見で、「東京一局集中へのリスクへの高まりとリスクへの備えを引き受けるのが関西の引き受けるチャンスとなるという意味を言いたかった」と発言の意図を説明した。

しかし騒ぎが収まらないのに配慮したのか、13日改めて記者会見し、「不用意に“チャンス”という言葉を使ったことは適切ではなく、深く反省しており、取り消せるものなら取り消したい」と述べている。

ただ、「発言の趣旨は東京への一極集中が進む中、首都直下型地震が危ぐされており、危機管理の面で関西が第2首都機能や防災機能を高めなければならないと指摘したかったものだ」と繰り返し強調し、肝心の発言の趣旨は事実上撤回していない。

ところで最近地方の知事が、地方分権と地域政策の質的向上を目指して、国などに向けて大胆な発言を行う事態が目立っている。

大阪、京都、滋賀、三重の4府県知事が11日、国土交通省が河川法に基づき、河川整備計画に盛り込まれた大戸川ダム(大津市)に反対する共同意見を出したのも直近の一例だ。国の計画案に知事が反対意見を出すこと自体初めてのことで、国側の計画見直しは必至だといわれている。

要は地方の意向が、知事の発言や共同合意で改革の旗印が翳される時代になりつつあるのだ。

だとすれば、多少知事の発言に突発性と意外性、加えて多少表現の拙さがあったとしても、マスコミはその発言の真意を洞察すべきで、ただ興味本位に事実を曲げて煽り立てる今の対応は、地方で芽生えつつある新しい政治手法の変化に気づいていないということになる。

地方の知事にとっては今税収の逼迫による財政上大きな危機に迫られている。そんな危機的状況の時だけに、知事は地域の活性化に向けての発言や行動には誰にも気兼ねすることなく、思い切り発言し、その反応を見ながら地方改革を大胆に進めるよう願うものだ。

となれば、揚げ足とりの煽り立て報道や人格見識まで踏み込み過ぎる各界の反論は控えるべきで、それこそ思い切った知事の真意に耳を貸す機運づくりを歓迎するのが、いま求められていている要件ではないだろうか(了)2008.11.13

■メイル・マガジン「頂門の一針」1380号 平成20年11月14日(金)
<同号目次>
・●●党への謝罪金2兆円:渡部亮次郎
・兵庫県知事発言の真意:毛馬一三
・日本の体質は戦前と不変:加瀬英明
・幹部に現場経験なし:前田正晶
・1000億ドルも拠金の日本を無視:宮崎正弘

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2008年10月30日

◆大阪府知事の演出勝ち

                    毛馬一三

<本稿は、全国版メルマガ「頂門の一針」10月31日(金)号に掲載されました。同メルマガの目次は下段に掲載>


さて、橋下大阪府知事と日教組が応酬し合った「大阪の教育を考える府民討論会」の過激なやり取りが、テレビ番組等で取り上げられている。これらは、会場からのヤジへの橋下知事対応ぶりを中心に興味本位に伝えている。

ところが橋下知事が、日教組と激しく応酬し合えばその分、推進する府の教育改革の内容を府民に周知できるという、したたかな読みと思惑があったことには、些かも触れていない。、

この討論会は、大阪府教育委員会と大阪府が主催して開いたものだが、事前の抽選で決まった意見開陳15人の代表の中に、日教組の組合員が含まれていることを、知事は予め予知していたと知事周辺の関係者は言う。

知事は、自らが目指す府政運営に不合理を感じると即座にマスコミに「発言」を行い、府民の反応を探りながら施策方針を決めていく、いわば「橋下劇場」の政治手法を取り、それなりに実績を上げている。

早い話、「発言」が如何なる反響を呼ぼうとも、要は府民の台所で関心を巻き起こし、真の賛否が伺えれば願ったり叶ったりという訳だ。

だからこの討論会の冒頭から、知事が教育改革の実績と自負している「自治体別結果を学力テストの公表」などを巡って、参加する日教祖が猛反発するだろうことは、当然折り込み済みだった筈だ。

議論はハナから罵声と支援者の拍手とが交錯し、テンションが上がれば上がるほど府民の関心を惹く討論会になるに違いないと期していたことも、あながち外れていないと、関係者はいう。

その意味で橋下知事の予測は、的中した。

<最初に日教組の組合員という女性が、「中山成彬前国交相の(日教組の強いところは学力が低いという)発言について知事は『本質を突いている』と述べたが、どういうつもりか。大阪の場合、学力の問題の背景には離婚率の高さなどさまざまな背景があるはずだ」と質問した。

これに対し橋下知事は「どんな理由があろうとも、大阪の学力が全国からするとかなり低い。そのことから逃げてはならない」と切り出し、「私には子供たちの学力を上げる責任がある。そのために知事に立候補し、当選させてもらった」と訴えた。

しかし発言中はヤジが多く、たまりかねた橋下知事は「まず人の話を聞きなさい。いい大人なんだから」。続く言葉で「こういう先生に子供たちを任せておくことはできない。中山前国交相の発言こそ正しいじゃないですか」と持論を述べると、知事の発言を支持する他の参加者たちから大きな拍手がわいた>。

更に知事はこうも発言している。

<「学校の先生は(学力低迷の問題について)責任を取らなくても一生公務員としてぬくぬくとやっていける」。さらに「トップの方針に学校の先生が従わない。どこの会社に、社長の方針に従わない部下がいますか。そんな部下がいたらクビになる」と持論を展開、「9割の先生は一生懸命やっている。

地域や家庭の皆さんが学校運営にかかわり、1割のどうしようもない先生を排除してください」と呼びかけた>。(産経新聞))

案の定、メディアは過激なやり取りの討論会として取り上げ、コメンテーターは「知事発言は公人としての域を超えた行き過ぎ発言」とか「傲慢発言」と決め付けるのが目立った。

だが知事は、恐らくこの討論会がバトルと称されるに至ったことにニンマリしているのではないか。府民の理解を得るために敢えて、その光景を見てもらうために行った、知事演出のシナリオそのものだったに違いないと、周辺関係者は言う。

そうであれば、反対論とヤジを飛ばし続けた日教組の組合員らは、橋下知事の術中にそっくり嵌ったという見方も出来ないこともない。言い換えれば、日教組の“読み負け”ということにもなる。

「大阪の教育を考える府民討論会」は、2回目が近く開かれる。今度はどのような読みと展開が繰り広げられるだろうか。

■<全国版メルマガ「頂門の一針」10月31日(金)号の目次は、下記の通りです。どうぞご拝読ください>


◆メイル・マガジン「頂門の一針」 1365号平成20年10月31日(金)

<目次>
・麻生「したたか」消費税10%:渡部亮次郎
・大阪府知事の作戦勝ち:毛馬一三
・円高を武器としてなすべきこと:宮崎正弘
・キリンの杜撰さ:前田正晶
・「介護戦争」事始:平井修一

・話 の 福 袋
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2008年10月22日

◆橋下知事vs朝日新聞

                      毛馬一三

<本稿は、全国版メルマガ「頂門の一針」10月23日(木)号に掲載されました。>

橋下知事と朝日新聞との“バトル”が大阪では話題になっている。「頂門の一針」10月21日号掲載の同欄常連寄稿者の花岡信昭氏の「橋下知事の発信力」を拝見し同感した。

実は、この話題に熟知する知事周辺の知人を回り、聴き取った反響を纏める心積りだったが、いち早く示された花岡氏の卓見に先に接した次第。
 
同氏は、<橋下(はしもと)大阪府知事の発言がまたまた話題を呼んでいる。発信力のある人だ。東国原知事もそうだが、存在感と発信力がものをいう。

今度は「朝日新聞のような大人が増えれば日本はだめになる」というのだから、よくぞ言ったと大歓迎だ。

こういう刺激的な発言の応酬を、明るく、からっとやればいい。それこそが、言論・表現の自由というものだ。>と記述しておられる。

ご指摘の通りだと思う。確かに橋下知事は、不合理な過去からの行政実態に立ち向かうと、時を置かずすぐさま「問題提起」とそれに伴う行動を起こす。

一見荒唐無稽、やや感情的な「発言」と受け取られることもないではないが、しかしそこには深謀な計算と配慮が秘められていると、知事側近の知人が明かした。

つまり、知事はその意図する真意を府民に投げ掛けることによって、知事の思考と政策論の是非を推し量ろうという手法を取っているもので、知事は側近にも相談せず、マスコミの前で進んで「発言・行動」を起こすのが常道だそうだ。

そこである程度府民の賛意の意向が掴めると、事務方(職員)に具体案づくりを指示し、府議会与党とも折衝して、成案実現に向けて走り出すという。

仮に自分の「発言」に対して府民の反発が強いと、その部分の修正対応に少しも意に介せず、柔軟この上なく臨んでいるとも、明かしてくれた。

そう云えば、今まで国の法律で保護されてきた「教育委員会」の聖域を、「全国小中生学力テスト」成績公表を突破口に情報開示の方向に介入出来る体勢を築いたことは、府民の賛意を背景に仕上げた最近の一例であることは周知の事実だ。

大阪の歴代知事は、部局内の職員に予算から事業計画まで何事も任せ切りだったのが実態で、府民の意向を考慮するための「発言」を積極的に行うなどの事例は皆無だった。その意味でもこの手法を駆使する橋下知事は、異色の政治家といえるのではないかとと思える。

さて今回の“知事VS朝日新聞”の件だが、知事は自分の意思に反する攻撃だと認識して、19日陸上自衛隊伊丹駐屯地での祝辞の中で、「口ばっかりで、人の悪口ばっかり言っているような朝日新聞のような大人が増えれば、日本はだめになる」と発言。

更に20日には「事実誤認したらすぐ廃業しろ」と批判している。

花岡氏はこうも書いておられる。

<当然のことだが、「責任」が伴う。そこを前提とすれば、とことん、きつい表現を使うことで、論争の真実が見えてくる。これが中途半端に終わると、誤解されて伝わることになる。言論・表現の自由の許容度を上げていくこと。これが必要だ。

朝日側もどんどん言い返せばいい。このケンカ(というのもなんだが)徹底的に、行き着くところまでやってほしい>。

「発言」に当然責任が伴うことを十二分に承知している知事が、きつい表現で相手に喧嘩を売るだけが目的でないことだけは、最近見えてきた知事「発言」の真意の軌跡を見れば、納得がいく。

要は、論争の真の意味合いがはっきりと見えてくることが最も大切なことであり、府民が橋下知事、朝日新聞に求めていることではないだろうか。(了)2008.10.22

★メイル・マガジン「頂門の一針」1357号 平成20年10月23日(木)

<目次>
・「排出量取引」への疑義:平井修一
・ドル基軸体制の崩落過程:宮崎正弘
・「橋下知事の発信力」余聞:毛馬一三
・ 秋が来れば遠からず冬:前田正晶
・盲目で死んだ北原白秋:渡部亮次郎

 ・話 の 福 袋
 ・反     響
 ・身 辺 雑 記

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2008年10月13日

◆八女茶(やめちゃ)を嗜む

 
                            毛馬 一三

筆者の家では、食事の後や折を見て八女茶を毎日欠かさず10杯以上常飲している。祖母の実家が福岡県八女郡の八女茶(元は星野茶)の生産家だったのが縁で、子供の頃から八女茶の煎茶や玉露を嗜んできた。

その嗜みはいま尚継続しており、5月の一番茶の時期になると八女茶生産元の祖母の実家から、注文した1年分の八女茶の煎茶と玉露が送られてくる。

70度位に冷ましたお湯をゆっくりと茶葉を入れた急須に移し、3〜4回ゆるりと左右に回したあと湯飲みに注いで飲み始めると、筆舌に尽くせないまろやかな風味と甘み、それに他所の茶より濃い味が口内に広がり、至福の瞬間がやってくる。

しかも茶に含まれるカテキンの成分が、ここ10年位の研究で抗ガン作用と抗微生物作用に効果があることが明らかになってきたことから、意識して健康維持のためこの八女茶嗜みの習慣を続けている。

八女茶以外に全国には下記のような有名な茶の生産地がある。

<愛知県(三河茶)、茨城県、(奥久慈茶、猿島茶)、鹿児島県(かごしま茶)、京都府(宇治茶)、岐阜県(美濃茶)、熊本県(肥後茶)、高知県(土佐茶)、埼玉県(狭山茶)佐賀県(嬉野茶)、滋賀県(近江茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)、三重県(伊勢茶)、宮崎県(日向茶)、がある>(日本茶博物館www.kaburagien.co.jp/museum/museum/index.php - 14k -)

京都府(宇治茶)、佐賀県(嬉野茶)、静岡県(静岡茶)、長崎県(彼杵茶)、奈良県(大和茶)は過去に飲んだことがあるが、それなりに芳醇で美味な緑茶だったという印象と思い出がある。

ところで最近下記のような記事が出て、目を惹いた。

<緑茶を1日に7杯分ほど飲むことで、糖尿病になりかかっている人たちの血糖値が改善することが、静岡県立大などの研究でわかった。健康な人で緑茶をよく飲んでいると糖尿病になりにくいという報告はあるが、高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告は珍しいという。

血糖値が高めで、糖尿病と診断される手前の「境界型」などに該当する会社員ら60人を対象に緑茶に含まれる渋み成分のカテキンの摂取量を一定にするため、いったんいれたお茶を乾燥させるなどして実験用の粉末を作製。

これを毎日、湯に溶かして飲むグループと、飲まないグループに無作為に分け、2カ月後の血糖値を比べた。

平均的な血糖値の変化を、「Hb(ヘモグロビン)A1c」という指標でみると、緑茶粉末を飲んだ人たちは当初の6.2%が、2カ月後に5.9%に下がった。飲まなかった人たちは変わらなかった。飲まなかった人たちに改めて飲んでもらうと、同じように2カ月間で6.1%から5.9%に下がった。

2グループで体格や摂取エネルギーなどに差はなく、緑茶からのカテキン摂取量が血糖値に影響したらしい。1日分の緑茶粉末は一般的な濃さの緑茶で湯飲み(約100ミリリットル)約5杯分のカテキンを含み、緑茶粉末を飲んだ人では普通に飲んだ緑茶と合わせ1日に約7杯分のカテキンをとっていた。

研究の中心で、今春に静岡県立大から移った吹野洋子常磐大教授(公衆栄養学)は「運動などの生活習慣改善とともに、食事の中で積極的に緑茶を取り入れてほしい」といっている>。(アサヒコム)


前記の様にカテキンが抗ガン作用に効果が在ったり、良質な緑茶から抽出されたポリフェノールはビタミンEの10倍、ビタミンCの80倍というすぐれた抗酸化力を持っているといわれているが、緑茶7杯の飲料で高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告には驚かされた。

筆者の周りで糖尿病の一歩手前で悩んでいる先輩知人が最近多い。緑茶7杯で高血糖の人たちに効き目があるというなら、早速緑茶の常飲を勧めてみよう。お茶の嗜みは、心の安らぎも導いてくれる筈だから。
(了)2008.10.13
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2008年10月01日

◆「中山発言」は本当に失言か?


                        毛馬一三

<本稿は、全国版メルマガ「頂門の一針」(10月1日号)に掲載されました。>

麻生太郎首相は、29日臨時国会の所信表明演説の中で、就任5日目で辞任した中山成彬国土交通相の一連の発言を取り上げ、「閣僚としてははなはだ不適切。国民各位、関係している方々に心からお詫びを申し上げる」と異例の陳謝を行った。

中山氏は成田空港の反対派住民を「ゴネ得」と批判。また、教育行政の正常化を手がけた元文部科学相の立場で「大分県教育委員会の体たらくなんて日教組(が原因)だ。日教組の子供なんて成績が悪くても先生になる。だから大分県の学力は低い」と発言した。

これを重大失言だとマスコミや野党が槍玉に上げ、中山氏は辞任に追い込まれた。中山氏は「(自分の発言で)国会に審議が滞ることには耐えられないという思いから、潔く身を引く決意をした」と記者会見で心境を語っている。

確かに中山氏の一連の発言は、国務現職大臣としての見解表明としては必ずしも適切だとは思えないという意見があることは事実だ。

だがほんとうに同氏の発言は「失言」なのだろうか。むしろ「失言」と決め付けるのは的外れで、声なき声の「代弁である」と評価同調する人たちが多数潜在しているのも紛れも無い事実である。

「頂門の一針」の常連寄稿者・阿比留瑠比氏が29日号の同欄に下記のような記述掲載されている。

<中山前国土交通相の一連の発言が波紋を広げています。私も、野党やマスコミに揚げ足をとられたり、追及されてレッテルを貼られたりすると分かっているようなことを、何も注目を集める公式の場で言うことはないと思いますし、この人は以前から言葉が軽いところがあるので、その意味では不適切だったと思っています。

ただ、中山氏の発言の中で、日教組に関する指摘には、強い共感を覚えます。「日教組は日本の教育の『がん』だ」という発言は、まさに事実そのものであると思っています>。

この阿比留氏が中山氏に寄せる共感に対し、これに共鳴する声が大阪の知人の間から筆者の下に寄せられている。加えて中山氏の「日教組の解体」の発言こそ、日頃から抱いている「日教組に対する不合理な思い」をよくぞ代弁してくれたという、謝意の意が目立つ。

中山氏は、地元宮崎市での自民党宮崎県連の会合で「日教組は過激な性教育を行い、国旗・国歌も教えず、道徳教育にも反対している。民主党の最大の支持母体である日教組を解体する。ぶっ壊す」と述べ、引き続き日教組と全面対決していく考えを強調している。

「頂門の一針29日号・話の福袋欄に(なみお)さんは下記のように記述されている。

<そもそも教職員が自ら労働者として成り下がるようなこうした組織がある限り、日本の教育は立ち直れません。かって教職は聖職なりと言われていた時代にはこんなモラル崩壊や先生の不祥事などは考えられなかったものです。(中略)

戦前、戦中を通じての比較対照をもつ人間としては万死に値する無念さを感じざるを得ません。将来の健全な子どもたちを育成し、日本をもう一度世界に冠たる民族として認知さ
せるためにも声を大にして「日教組は解体せよ!」と云いたいものです>。
 
前述のように、麻生首相が敢えて所信表明演説の冒頭で、中山氏の一連の発言に陳謝したが、これはあくまで国会審議や総選挙への影響を最小限に抑える必要からの判断と思われる。

だとすれば、そうした次元とは離れて、この中山氏の発言をきっかけに日教組の実態を改めて真剣に見直す必要があるのではないか。大阪府の橋下知事も中山氏にエールを送っている。

とりわけ週5日制の「ゆとり教育」の実施を文部科学省に迫り、小中学生の学習意欲と学力の低下要因をつくり上げる肩棒を担いだ日教組が、日常的には労働組合を隠れ蓑に地位保全のみに執着し、日本の教育を枉げていると指摘される実態を検証する好機となるだろう。

中山氏が一国会議員の立場で「日教組解体」叫んでも、これほど問題にはなっていない。閣僚としての発言だったことが、「日教組」のあり方の再考に火をつけたものだと指摘する関係者は多い。中山氏の発言が本当に「失言」だったかどうか、明らかになる筈だ。

◆メイル・マガジン「頂門の一針」1333号 平成20(年10月1日(水)
<目次>
・日米は選挙を延期せよ:平井修一
・中華人民共和国の成立:渡部亮次郎
・「中山発言」は本当に失言か?:毛馬一三
・日教組組織率と学力は無関係:平井修一
・「教育勅語」に文法の誤り?:池田一貴

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2008年09月16日

◆「敬老優待パス」を見直し?


                     毛馬一三

大阪市で70歳以上の高齢者にとって嬉しいことは、市の敬老優待乗車証、すなわち市営バスや地下鉄利用料金が全て無料となる「敬老優待パス」が、
大阪市から交付されることだ。

この「敬老優待パス」を利用すれば、年金生活者の高齢者にとっては、経済的に大きな支えとなり、楽しみ方の利用度も広がる。

ところが、この「敬老優待パス」の見直しすることを大阪市の平松市長が表明したことから、高齢者の間で動揺と怒りが湧き上がってきた。

平松市長は9月4日、「他都市に比べ受益者負担を求めないまま残っている事業の削減に手を付けたい」と発表、「敬老優待パス」の一部有料化などを名指して、経費削減の柱にその見直しを盛り込んだ。

見直し案は、いま制限の無い「パス」の利用上限額を月5千円に止め、所得に応じて一部負担金を徴収するという。市長によると、これにより市の持ち出しは27億円節約できるという。

ついでなだら付記すると、見直しはこの「パス」以外に、他都市では実施していない「上下水道月額基本料金(1576円)の全額免除制度」や、「一人暮らしの高齢者の孤独死防止のため市が貸与している電話の基本使用料の助成制度」の削減も含まれる。まさに「姥捨て山」同然の高齢者軽視の一連の見直しだ。

高齢者の怒りは、市長が「大阪市がこの種のサービスを継続するのは無理。高齢者にも応分の痛みを分かち合って貰う」と、高齢者への思いがまったく感じられない発言に及んだことにも集中した。

「敬老優待パス」の交付は、70歳までの長期にわたって(またそれ以降も引き続き)納税の義務と責任を忠実に果たし、市の発展に貢献してきた高齢者の功績に、市当局が「敬意と謝意」の意思を示す趣旨の下に、全国に先駆けて72年から実施され、現在31万人が交付の対象者になっている。

「パス」の交付対象者には、終戦の年に小学校に入学した人たちが今年から新たに加わったが、明治・大正から昭和13年までに生まれた人たちが占める。

だからこの高齢者たちは、太平洋戦争の戦前戦中にはお国のために尽くし、戦後は廃墟からの復興に汗を流し、以後高度成長期、そしてオイルショック、バブル崩壊期など混乱期に国と大阪の再建に懸命に取り組んできた階層に他ならない。

そうした貢献者の高齢者に対し、どうして「応分の痛みを分担」させる発想が芽生えるのか、市長の良識を疑うというのが批判の論拠だ。「恩顧」のある国民から、その「謝恩精神」を取り去り、あらたな「負担を課す」という政治は、先進諸国ではまず見当たらない。

大阪市の調査によると、「パス」1枚あたりの平均利用額は08年7月で2470円だそうだ。しかしそのような少ない利用状況なのだろうか。

実情を多少なりとも把握するため日頃「パス」を常用している知人の高齢者10数人に個別に聞き取り調査をしたところ、ほとんどの人が市の発表の「平均利用金額」の数値に首を傾げる。

「パス」利用を克明に記録している72歳の知人の男性は、2医療機関への通院と趣味の学習受講、それに買い物による、月に合わせて17回の利用で7820円の利用をしているという。2000円台で済むことは在り得無いという。

またバス1区間乗車の病院へ月10日間通院のための往復利用している女性高齢者は、4千円は軽くオーバー。加えて週に1度梅田や難波方面に安売り特売の食料品を買いに出向くので、利用金額は5千円を超えてしまうと訴える。

早い話、大阪市がハジキだした平均利用額2470円の数字は、利用料総額を31万人利用者の総数で単純に割っただけの数値であって、実際の利用者の平均利用額に相当しないと、誰もが指摘する。

だから、平均利用額が2000円台だから、5000円に限度額を設定するという市長の考えは合理的ではなく、役所一流のまやかしに過ぎないと指弾する。

しかも市長は、「パスの交付者」を「受益者」と誤認し、「負担金の削除」の当然の対象とするなどの過ちだけは、改めて欲しいと願っている。

市長が本気で「パス」の見直しに着手するならば、すでに大阪市が明らかにしている「8万円以上に上る不正利用発覚」の摘発に取り組むなど、徹底した不正利用の調査と摘発に乗り出し、真実のムダの排除に当るべきだろう。

敢えて言えば、市交通局が長期勤務者OBに発行している「3年無料乗車証」や終身無料の「永年勤続乗車券」を廃止するなど半世紀も続く「身内優遇の悪弊」を先に断ち切のが、長期納税者の「恩顧」に応える道筋ではなかろうか。

どうも橋下府知事の「痛み分けの分散化」の狙いを誤解し、市への貢献者である高齢者への「謝恩」の切り捨てに踏み込もうとしている姿勢には、危機を感じる。

稚拙すぎる政治手法の市長に対する批判が、高齢者を中心に強まっていることを、市長はご存知だろうか。(了)2008.09016