毛馬一三
松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸俳諧の巨匠与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だと江戸時代から「定説」になっていたものと信じていた。
ところがそうではないことが分かり、驚かされた。
というのは、6月24日開催の俳句講座「蕪村顕彰俳句大学」で、関西大学文学部の藤田真一教授の講演で聴かされたのだ。
結論からいうと、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は終戦後のことで、奈良県で「蕪村直筆の書簡」が見つかったのがキッカケだったという。
藤田教授は講演の中で、更に次のように説明した。
蕪村は、自分の故郷のことには何故か余り触れたがらず、唯一、安永6年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(20頁ほど)の冒頭に「春風馬堤曲」を書き、毛馬村の側の淀川の馬堤に触れながら、18首の俳句を添えている。
だがこの書き様では、生誕地が毛馬村だとは断定出来ない。
ところが蕪村が、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中に、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと書いている。
<春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」>。
それなら、これが物証となって、江戸時代から毛馬村が生誕地となっても良かった筈だが、そうならなかったのには理由がある。
というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。「夜半楽」の添え状である肝腎の「書簡」ですら、複製ものなのか、それとも蕪村直筆のものか判定すら出来ず、これが生誕地複数説を加速させた。
ところが前記の如く、終戦後奈良県で偶然見つかった同「書簡」が、「蕪村直筆」と公に認定された。これによって、やっと蕪村生誕地が毛馬村であると確定したのである。
しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の、淀川風景の描写と切ない郷愁の18首も、この「書簡」を補完する形となり、生誕地が毛馬村であることを不動のものにすることなった訳だ。
この意義を考えると、蕪村生誕地を定めた1通の「蕪村直筆書簡」の存在は大きい。
これがなかったら、蕪村が大阪俳諧史に大阪俳人として登場することも無かったことになる。
蕪村が大阪の誇る俳人となってから65年ほどしかならない。だからといって芭蕉や一茶と異なり、65年間も大阪で俳人蕪村の顕彰が疎かにされてきたことを、さらりと許容する気にはなれない。
だから、これからは6年後の蕪村生誕300年に向けて、大阪俳人蕪村を顕彰する大阪俳句文化活性化が大々的に進むことを期待したいものだ。(了)2010.06.27