2015年09月16日

◆国際政治での夢と現実との乖離

加瀬 英明



1991年にヨーロッパ単一通貨『ユーロ』が導入された時に、日本経済新聞がユーロが将来、国際基軸通貨として、米ドルを凌駕することとなろうと、予想した。

私はユーロはかならず失敗すると、予見した。

理由は、ごく簡単なものだった。ギリシアをはじめとする国々が加わったが、母音で終わる通貨単位の国は、財政規律を欠いており、国民の生活態度が放縦だから、うまくゆくはずがなかった。

ギリシアの通貨はドラクマDrachmaだが、イタリアがリラLira、スペインがペソPesoというように、母音で終わっていた。

ヨーロッパでは、昔から「フランス人が働きはじめ、イタリア人が時間を守り、ギリシア人が借金を返しはじめたら、この世の終わりだ」と、いわれてきた。日本人やアメリカ人、ドイツ人が怠けはじめ、時間を守らず、借金を踏み倒すようになったら、この世の終わりだ。

私はワシントンで講演した時にそういって、笑わせた。そして「アメリカのドル、イギリスのポンド、ドイツのマルク、日本の円は子音で終わっている」と、安心させた。

極めつけは、ユーロEuroがo、中国の人民元Renminbiがiで終わっていると、加えた。ロシアのルーブルRubleも、eで終わる。その後、アイスランドがデフォルトしたが、通貨単位はクローナKronaだ。

「グレキジット」Grexitという新語が、流行っている。ギリシアGreeceとエクジットexit(出てゆく)を合成したものだが、ギリシアがユーロから離脱することを、意味している。

ギリシア危機は一時的に回避されたが、一時凌ぎでしかなく、すぐに戻ってこよう。

国際政治経済について論じる時には、何よりも民族性、または国柄を尺度とすべきだ。それぞれの国の育ちといってよい。人も育ちがよくないと、気をつけなければならない。

ここに、どのような教訓があるのだろうか。専門家として仰がれている人々を、そのまま信じてはならないのだ。

アメリカの著名な経済社会学者だったT・ベブレン(1929年没)が、「エジュケイテッド・インキャパシティ」という概念を残したが、1つのことを専門として深く研究するほど、判断力が失われることを、戒めたものだ。簡単にいえば、「学者バカ」である。

高名な学者が昼と夜との比較研究に、没頭したとしよう。

昼の中にも、暗がりがある。大先生は昼の暗がりと、夜の月明りの研究に、多年打ち込んだ末に、「夜は昼より、はるかに明るい」という結論に達する。

ところが、無学の労働者であれば、このような愚かな誤りをおかさない。

笑ってはならない。ついこのあいだまで、ソ連や、中国などの社会主義国を礼賛する、大学者が少なくなかった。真顔をして、夜のほうが昼よりも明るいと、説いていた。

私は日中国交正常化が昭和47(1972)年に行われた前から、中国が日本と異質な、正反対の歴史と文化を持っているから、「日中友好」を叫ぶ、空ろな世論を苦々しく思って、中国に対して心を許してはならないと、説いてきた。

日本国民の中国に対する善意に溢れた幻想は、泡沫(あぶく)のように弾けてしまった。いま日本は日中友好熱が冷めて、中国の脅威の前に戦(おのの)くようになっている。

私は国際機関には、諸国の代表がかならず民族衣装を着ることを、義務づけるべきだと思う。中国は弁髪に満服、韓国は韓服、ロシアはコサック服、ギリシアの男はスカートのフスタネラ‥‥役に立つ絵になると思う。

あらゆる法則に、例外がある。フランスのフランFranc、韓国のウォンWonのように子音で終わっているのが、それに当たる。


◆中国の経済成功都市のベストテン

宮崎 正弘
 

<平成27年(2015)9月15日(火曜日)弐 通算第4657号 > 

〜中国の経済成功都市のベストテンとは
  米国ミルケン研究所が成長率、インフラ、雇用などからランク付け〜
 
中国で、経済的にもっともパフォーマンスが良い都市は四川省成都であるそうな。

 いまや東京―成都間には直行便が行き交い、小生も就航一番機に乗ったことがあるが、全日空便は成都着が深夜になるので不便。

 さてミルケン研究所(カリフォルニア州サンタモニカに本拠)が撰んだベスト都市だが、その選別基準は、雇用と賃金、その成長率。地域のGDP、外国企業の直接投資の度合い、ハイテク産業と、そのインフラ構造が出来ているか、どうか。また付近の大学のレベルなどから諸都市を比較し、将来性をもっとも重視したという。

 当該研究成果によれば「大都市」の成功例を第一グループとして比較検討したところ、トップは成都、以下、上海、天津、大連、南京、合肥、厦門、長春、深セン、重慶の順番となる。

 中国の大都市は34都市。

第二グループは中規模の都市の例でトップは蘇州であるそうな。以下、南通、揚州、宿迂、泰州、慶楊、常州、無錫、吉安、宣昌となる。中国の中規模な都市の数は232。
http://www.best-cities-china.org/Best-Performing-Cities-China-Summary-English.pdf

 私事ながら第一グループの十都市はすべて取材したことがあるが、ミルケン研究所の結論には納得しかねることがある。しかし天津は大爆発事故の前、長春がはいっているのも、自動車不況の前の調査だからであろう。

 第二グループのなかで宿迂(江蘇省)、慶楊(甘粛省)、吉安(江西省)の三都市は、未踏である。蘇州は日本企業数百社が集中して進出しているが、南通は王子製紙が2300億円かけてつくった工場がまだ揉めている。旭化成も南通工業団地に進出しているが、上海からバスで四時間以上かかる。揚州は鑑真和尚で有名だが、江沢民の出身地。だから力の入れ方がちがったのであろうか。
 
 この研究成果は米国の実業界向けのレポートとはいえ、香港の「サウスチャイナ・モーニングポスト」などが大きく扱った。

 ▲かのマイケル・ミルケンは、変身していたのか。

 さて、このミルケン研究所。ひょっとしてあのマイケル・ミルケンが造ったシンクタンクだろうか、と連想してしらべたところ、やっぱりそうだった。

 拙著『ウォール街 凄腕の男たち』(世界文化社、1989年。絶版)にも書いたが、当時からカリフォルニアを拠点に、「ジャンク債の帝王」といわれた。

絶頂期にインサイダー取引が見つかって逮捕され、所属した「ドレクセル・バーナム・ランベール社」は倒産してしまう。

以後、ミルケンは証券界から足をあらって社会事業家、慈善事業活動家として知られる。その彼が1991年に設立したシンクタンクの由である。
  

◆「正しい歴史観」を求める資格あるか

石 平



今月3日、抗日戦勝70年を記念する行事が北京で行われた。習近平国家主席は「重要講話」の中で「中華民族の若者は不撓(ふとう)不屈の精神で徹底して日本軍国主義の侵略者を打ち負かした」と語った。

「抗日戦争」に対するこの総括はもちろん、歴史の事実には沿わない。昭和20(1945)年8月15日の終戦の時、日本軍の「支那派遣軍」は依然、中国大陸の大半を支配下に置き、105万の兵力はほとんど無傷のままであった。

つまり日本はアメリカに敗戦して全面降伏したが、決して中国によって「打ち負かされた」わけではない。

歴史の歪曲(わいきよく)はそれだけではない。昨年9月3日に開かれた「抗日戦争勝利69周年を記念する座談会」で習主席はこうも述べている。「中国人民の抗日戦争において中国共産党は常に中心的力であり、主導的な役割を果たしている」

もちろんそれもまた、歴史の事実に反するものだ。日中戦争当時の中国には中華民国政府という合法的な政府が存在しており、日本軍が戦った主な相手は、「国民革命軍」と呼ばれる中華民国の政府軍だった。共産党の率いる部隊はいわゆる「八路軍」として知られるが、八路軍の正式な名称は「国民革命軍第八路軍」であって、中華民国政府軍の一部隊にすぎなかった。

したがって、中国の抗日戦争において「主導的な役割」を果たしたのはあくまでも当時の中華民国政府軍である。習主席の上述の言葉は明らかに、共産党の自画自賛のための、歴史の粉飾である。

一国の元首が公然と歴史の歪曲・粉飾を行うのはいかなるものか、と首をかしげる日本人も多いだろうが、実は、歴史に対するこのような態度は中国の長い伝統である。

最初の正史である『史記』が前漢の時代に誕生して以来、中国で「二十四史」と称する多くの歴史書が編纂(へんさん)されたが、その大半は歴代王朝の官僚の手によるものだ。

しかも、新しくできた王朝の官僚が前王朝の歴史を書くのが普通だから、前王朝の歴史をできるだけ悪く書き、自分の仕える王朝のことを賛美するのは「春秋の筆法」として定着している。

たとえば唐王朝の2代目皇帝・太宗の時代、太宗に仕えた魏徴という高官が前王朝の隋朝の史書である『隋書』を書いたが、隋朝の末代皇帝の煬帝は希代の暴君として描かれた。

その結果、煬帝との対比で、反乱を起こして隋王朝を潰した唐の太宗父子、特に太宗本人は希代の英雄・名君として歴史に名を残した。

このような歴史の「作り方」を極限にまで発達させたのが今の中国共産党政権である。共産党政権下で編纂された歴史書や教科書のすべては、「前王朝」の中華民国時代を「暗黒時代」として徹底的におとしめる一方、共産党政権の治世を「人民が解放と幸福を享受した時代」だと賛美した。歴史の実態はむしろ正反対であろう。

共産党は自分自身の歴史に対しても隠蔽(いんぺい)と捏造を繰り返してきた。文革中に元国家主席の劉少奇が粛清されると彼に関するすべての公的記録が抹消され、天安門事件で元共産党総書記の趙紫陽が失脚した後、「改革開放」における彼の功績が闇に葬り去られる。

そこで今、習近平が国家主席となった「おかげ」で、彼の父親で元政府高官の故習仲勲氏はいきなり、ケ小平と並ぶような「偉大なる政治家」として脚光を浴び始めた。

このように、時の政治権力の都合によって、歴史に対する恣意的な歪曲・捏造・粉飾を行うのは中国という国、とりわけ中国共産党政権の一貫したやり方である。

 その彼らが果たして、日本に対して「正しい歴史観」を求める資格はあるのか。

【プロフィル】石平

せき・へい 1962年中国四川省生まれ。北京大学哲学部卒。88年来日し、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。民間研究機関を経て、評論活動に入る。『謀略家たちの中国』など著書多数。平成19年、日本国籍を取得。

【夕刊フジ】【石平のChina Watch】 2015.09.14
                  〔情報収録 − 坂元 誠〕

◆国の安保危うくする歴史の譲歩

中西 輝政



これだけ見せつけられれば、もはや国会で審議中の安全保障関連法案の成立に反対する人はいなくなるだろう。9月3日の中国・北京での「抗日戦争勝利70 年」を記念した軍事パレードを見て強くそう思った。

 ≪メディアの際立った二面性≫

実際、日本のテレビ各局の報道も、中国のこの「戦後70年」記念行事の本質をこぞって、膨張する中国による「強大な軍事力の誇示」と大々的に報じた。 特に軍事パレードで登場した、米海軍の空母、日本列島やグアムにある米軍基地さら には米本土を直撃する中国軍の最新鋭のミサイル戦力が、日本の安全保障やアメリカ による日本への「核の傘」に与える深刻な脅威を、各メディアは専門家の解説入りで 詳しく報道していた。

当然、こうした認識を踏まえれば、現行の日本の安全保障体制は根底から揺らいでいることがわかり、安保法案は最低限の必要を満たすもの、ということも わかるだろうと思ったのである。

ところが、あれほど差し迫った調子で膨張する中国の「軍事的脅威」を報じていた当の同じメディアが、安保法案の報道になると、まるで手のひらを返した ように旧態依然の非武装的平和主義の議論を繰り返している。あたかも「あれはあ れ、これはこれ」とまったく無関係の話題として扱っているかのようだ。この際立った 二面性は一体、どこから来るのか。

それには大略、2つの理由があろう。1つは「世界認識の誤り」である。現代の世界では、国民の安全を守るための最も重要な手段は依然として軍事力をはじめとする国家のもつ力(パワー)に依存せざるを得ず、今のところその 各国家の力を互いに均衡させることによってしか平和は保てない。しかしこの認識が 戦後日本では極端に希薄なのであり、その根底に2つ目の理由、すなわち「歴史認識 の誤り」がある。

つまり、かつてのあの「邪悪な侵略戦争」をしたこの日本の軍隊(自衛隊のこと)は、他のどの国の軍隊よりも「悪い存在」「特に警戒すべき存在」と日本 人自身がとらえてしまうのである。

 ≪終わっていない東アジアの冷戦≫

そうすると、たとえ外界にどれほど深刻な変化があっても、それに対して日本が軍事的な抑止力を高めようとすると、むしろそれこそが平和を壊す「異次元 の悪」として忌避すべきものとなる。ここに、いつまでも自虐史観に囚(とら)われ ることの恐ろしさがあるのである。

あの日、天安門の上に並んで軍事パレードを閲兵していたのは、クリミアの侵略者となったロシアのプーチン大統領と、南シナ海と東シナ海で現に侵略を進 める中国の習近平主席の両首脳であり、この巨頭たちの姿は、かつて多くの衛星国の 首脳を従えクレムリンの台上に並んでいたスターリンと毛沢東の姿にまさに二重写し であった。

それゆえ9月3日付欄で西岡力氏は、今こそ「冷戦は終わっていな かった」という認識の大切さを強調しておられた。

氏はそこで私も委員の一人として関係した安倍晋三首相の戦後70年談話のための「21世紀構想懇談会」の報告書を取り上げ、「安倍談話とは違って(同報 告書には)納得できない部分が多い」と指摘している。(実は私も同意見だが)その 理由の一つとして、同報告書がこの東アジアの冷戦も含め、過去100年間の共産主義 による大規模な虐殺や主権・人権侵害をまったく捨象している点を挙げ、報告書を厳 しく批判する。

 ≪問題多い有識者懇談会の報告書≫

正鵠(せいこく)を射た意見と思うが、関係者の一人として(すでに多くの委員が私の名前も含め懇談会での議論の内容を明らかにしておられるので)信義 則に反しない範囲で言及すれば、実は私は西岡氏の指摘する諸点についても懇談会で 繰り返し提起したが、中国共産党への迎合からか、報告書では取り上げられることは なかった。

これ以外にも、同報告書の当初案には中国との和解に必要な具体策の提言として、靖国神社のいわゆる「A級戦犯」分祀(ぶんし)の推進ないし「代替施 設」建設の必要性を謳(うた)った個所があり、さらに慰安婦に対する日本政府の一層 の謝罪と補償ないし賠償のための新たな基金を日本政府が設けるよう求める趣旨の提 言もあった。

これらは私を含む複数の委員の反対によってかろうじて最終的には削除されたが、もはや表面上、痕跡をとどめていなくとも、こういった際どい個所が他に も多数あったのである。これ以上詳しいことは時が来るまで語れないが、歴史問題で の無原則な譲歩がやがて国の安全保障を根底から危うくすることを知るべきだ。

外国製の歴史観に則(のっと)って過去の日本を一方的に断罪し、それを誤って歴史の教訓”とすることと、強大なミサイル戦力を見せつけられても、な お「非武装」の理想にしがみつこうとするのは、国家観の喪失という点で同根の危 うさを宿しているのである。

(なかにし てるまさ・京都大学名誉教授)

産経ニュース【正論】2015.9.15               
              (採録:松本市 久保田 康文)

◆木津川だよりA 鹿背山の城

白井 繁夫


古代からの歴史に育まれたところ、鹿背山の古寺跡(鹿山寺:かせやまでら)西念寺を訪ねた折、皆さんに此処の地名に親しみを感じて頂きたいと思い、当地に絡む「万葉歌」に触れました。

今回訪ねる中世の山城(やまじろ)を最初に築城した人物は、一般的に云われる武家ではなく、大和の僧侶(興福寺)なのです。

この時の鹿背山城(かせやまじょう)を「第一期の城郭」とすると、その後、(約100年後)、松永弾正久秀が大和国と南山城(京都の相楽郡)を支配下にした時期を、「第二期の鹿背山城」と名付けて記述します。

木津川市は、山城国(やましろのくに:京都府南部)ですが、古代から明治の初めまで、木津の泉津(いずみのつ)は大和の玄関港として、木津川経由し全国に通じる交通の要衝でした。一方、興福寺は南山城にも多くの荘園を所有していました。

そこで、「第一期の鹿背山城跡」(かせやまじょうあと)を語る時、皆さんが良くご存知の「興福寺」について少し触れてみたいと思います。

「興福寺」と云えば、藤原不比等所縁の寺で、藤原一族の氏寺として古代より飛びぬけて格式の高い寺であり、政治、経済、軍事に絶大な力を持った法相宗の大本山でした。

門跡寺院、摂関家の寺院と云われる大乗院と一乗院の上に「興福寺」があり、比叡山延暦寺に対して、南都北嶺と称され、大和国一国に多大な荘園を領し、勢力は南山城にも及んでいました。

鎌倉、室町時代は武士の時代でしたが、幕府は大和に守護を置かなかったので、同寺は自ら大和一国を支配し大和武士と僧兵を擁し、その軍事力は大守護大名の畠山氏、細川氏や大内氏につぐ大勢力になっていました。

「興福寺」は、交通の要衝であり、且つ、大和の北部を抑える絶好の位置『鹿背山』に、城郭の規模では中世の山城国最大の山城を築城しました。

この城の正確な築城年月は不明ですが、『大乗院寺社雑事記』文明11年10月条(1479年)に記載されているのが、文献上に出た最も古い年代と云われています。

鹿背山城の地元(木津)には、「興福寺」の衆徒(被官)木津氏(木津執行)が300余騎の兵を従えて守りに就いていました。

一方、「興福寺」と関係が深い鹿山(かせやま)寺から見ると、『大乗院寺社雑事記』文明元(1459)年7月条に「鹿山」の記述があり、当初は「興福寺」と関連する仏教施設でしたが、後は軍事的性格を持った拠点として築造されたと考えられます。

更に100年後、『多聞院日記』永禄11(1568)年9月条に「鹿山城」との記述があり、戦国時代にかけて山城(やまじろ)として使用されていたと思われます。

鹿背山城跡は、西念寺(地図Z:4番)の北東、標高136mの「城山」の山頂にある石垣の無い中世の山城(やまじろ)です(地図Z:5番)。城郭は東西350m、南北300mあり、ほぼ鹿背山全山を城郭としています。
地図Z:http://chizuz.com/map/map141418.html

鹿背山城へは、木津川市立木津小学校の鹿背山分校に隣接する向かい東側の三差路に「鹿背山城跡」への石造の道標があり、北東の坂道を「西念寺」へ向かって登り、大手道に面する「西念寺」に着くと、同寺の山門に鹿背山城跡の案内板があり、その横の青緑色ボックスの中にA3の「鹿背山城跡配置図」があります。

この図面を参考にして大手道を登ると、約20分で山頂の「I主郭:しゅかく」に着き、そこから木津川を挟んで木津市街、生駒山、木津の学研都市等が一望できます。
(服装はハイキング又は軽登山用、手袋か軍手、水筒など必要)。


城山の山頂「I主郭」から東南に「U郭(曲輪)」、「V郭(曲輪)」と大きく三つ連なり、各主郭から西南の尾根には20余の腰曲輪(こしぐるわ)、大規模な畝状竪堀群や、堀切の点在など当城の防御施設、城郭は添付した「鹿背山城跡配置図」に記載の如く、中世の山城としては最新にして最高のレベルでした。

当城の第一期(15世紀)に築城した興福寺時代と、第二期の16世紀(永禄年間)の松永久秀時代とは、所有者が代わりました。しかし松永久秀は、天正元年織田信長に反抗したために、その後滅亡の道を辿ります。

「第二期の鹿背山城と松永久秀」については、次回に記載したいと思います。

参考資料:木津町史  本文篇
添付図面:鹿背山城跡配置図  木津の文化財と緑を守る会

                           2013.2.20


2015年09月15日

◆メルケル独首相、年内に訪中か

宮崎 正弘
 

<平成27年(2015)9月15日(火曜日)通算第4656号>

 
〜メルケル独首相、年内に急遽、訪中か
   人民元切り下げ、上海株暴落に慌てふためいたドイツ〜

 
メルケル独首相は年内にまたしても北京訪問の予定を立てている(多維新聞網、9月13日)。

上海株式暴落に慌てふためいたドイツは、フォルクスワーゲンが中国において、2倍の設備投資を決めたばかり。自動車販売は直後から10%減となり、設備投資過剰の現状に新工場がはたして必要かどうかの選択に迫られたからか。

メルケルは5月のロシアの軍事パレードには臨席しなかったが、プーチンのメンツを立てるため、翌日に訪ロした。

北京の軍事パレードには、もちろん欠席したが、その「埋め合わせ」を緊急挙の訪中でバランスをとる腹づもりなのかもしれない。

中国の外交予定はたて込み始め、9月23日に習近平は訪米の途につき、25日にオバマ大統領との首脳会談。28日に国連で演説する。ワシントン連邦議会での演説は、拒否されたが、いちおう、米国は国賓待遇で迎える。習はその後、英国訪問を予定している。

日時未定だが日中間3ヶ国の首脳会談もようやく開かれる運びとなり、また11月初旬にはフランスのオランド大統領が北京を訪問する。

ことし6月に李克強首相が訪独した折、陸のシルクロードはドイツを経由する計画であるとし、EU諸国には合計3150億ユーロ(邦貨換算42兆円)強)の投資が行われるだろうと大風呂敷を広げたが、その巨額にも目がくらんだのか。

独中関係は2014年3月に習近平が訪独、同年7月にメルケルが答礼訪問し、同年10月に李克強首相がまたまたドイツを訪問した。

日本より頻度激しく、首脳が往復しあうのは、それだけドイツが中国にのめり込んでいるからだ。

難民問題に頭をかかえるドイツ、中国からの不法移民もあとを絶たないというこの時期をわざわざ選んで、訪中を繰り返す必要があるのは、経済問題のほかに何か喫緊の問題をかかえたのかも知れない。
           

◆私の「身辺雑記」(260)

平井 修一



■9月12日(土)、5時50分、震度4〜5弱の大地震で叩き起こされた。びっくり。大雨で河川の氾濫が相次いだが、まったく「天災」大国だ。朝は室温25度、晴、犬は元気よくハーフ散歩。

難民問題という「人災」で欧州は揺れているが、デンマークが素晴らしい解決策を実行し始めた。『デンマーク「難民にとって魅力のない国」を目指して』(ニューズウィーク9/8)から。

<デンマークの移民・統合・住宅省は今週、難民の流入阻止を狙った広告キャンペーンを開始した。「デンマークは難民に関する規制を全面的に強化する」という内容で、レバノンで発行されている4つの新聞にアラビア語と英語で掲載された。

広告にはさらに、新たに入国する難民向けの支援金を最大で50%削減する法案を議会で可決したこと、永住権を獲得するために必要な言語力の引き上げや、永住権取得までの待機期間を最短でも5年とする、といった条件が列挙されている。仮にデンマークでの一時的な保護が認められたとしても、最初の1年間は家族を呼び寄せることができない。

ヨーロッパには今、移民や難民が前代未聞の規模で流入している。ドイツやオーストリアは彼らを温かく歓迎し、支援の輪はフランスやイギリスにも広がっている。ローマ法王(教皇)フランシスコも、バチカン自らが2組の難民家族を受け入れると言い、ヨーロッパ全土のカトリック教区に対して同様の対応を求めた。

これに対しデンマークでは、6月の総選挙で中道右派が勝利を収めて以来、ヨーロッパの人道主義からは距離を置き、難民問題に厳しい姿勢を取り始めた。2014年にデンマークは前年の倍の1万4815人の難民を受け入れたが、今年は5月で既にその人数を上回った。いつ途絶えるともわからない難民数の急増に対し、対抗策を取ると決めたわけだ。

7月にデンマークの新政権が難民への支援金を削減すると決めた直後から、インガ・ストイベア統合相は、難民に対する広告を出す意思を表明していた。雇用省の声明によると、「デンマークを難民にとって魅力のない国にすると同時に、仕事や社会活動を通じてデンマークに貢献できる人にとってはより魅力を増すだめ」の広告だという。

広告は9月7日付けで、ペルシャ語やロシア語など10の言語に翻訳され、デンマーク移民局のウェブサイトにも掲載されている。

こうした反移民政策に対し、一部の政治家は強い憤りを示している。コペンハーゲン市議会のミカエル・ガッテン議員は「不愉快きわまりない行為」と吐き捨て、社会自由主義政党「ラディケーリ」のセーニャ・スタンプはフェイスブックに以下の投稿をした。

「世界主義・人道主義のヨーロッパ人はきっとこう思うにちがいない。『一体、デンマークはどうしてしまったのか。かつては、開かれた心と寛容、平等を重んじ、迫害され貧しい世界の人々と連帯することで知られていた。それが突然、狭量で尊大な行動を取っている。投資や雇用、学問の地を選択するなら、ほかの国を考えた方がいいかもしれない』と」

デンマークのような反難民政策が、他のヨーロッパ諸国に波及しないよう祈ろう>(以上)

この記事を書いたスタブ・ジブ氏を含めた「洋式リベラルお花畑人」は今はデンマークを非難してエエカッコシーをしているが、そのうち競って真似るだろう。「難民に嫌われる国競争」! ゴングが鳴った。

寛容・平等・愛情で「国を潰す」か、非寛容・狭量・厳格で「国を守る」か。

「国境破れて難民ばかり。首都春にしてスラムと化す。混乱3年に連なり、家族も友も同胞も消えた。白頭掻けば抜けるばかり。後悔先に立たず。今さら泣いても後の祭り」

まことに「愛は世界を潰す」、正しく憎悪・反感・嫌悪・警戒そして安保対策が大事だ。難民はトロイの木馬のように災いをもたらしかねない。安直な同情が亡国をもたらす危険に十分配慮すべきである。

こんなことを言うと洋式リベラルから「極右の排外主義者」などとレッテルを貼られてヘイトされかねない。彼らは和式リベラル同様、保守派や右派にはまったく寛容ではなく、甚だしく憎悪をぶつけてくる。

大体、難民は「世界主義・人道主義」の善人であるはずがない。他宗派を呪い、時には攻撃してきた人ではないのか。今は情勢が変わって逃げ出してきた人もいるだろう。難民=被害者=善人という考えはイカレテいる。彼らは逆に我々異教徒が彼らの国に逃げ込んだら迫害するだろう。聖典には「異教徒とは仲良くするな」と書かれているのだから。

欧州で彼ら難民・移民は今は少数派だから弱者を装っているが、多数派になれば村、町、市、都府県、やがては国を乗っ取る。先住民は結果的に亡国の民となってさまようのだ。

デンマークの難民規制への転換をEUが倣うのならEUは延命する。「デンマークのような反難民政策が、他のヨーロッパ諸国に波及しないよう祈ろう」などとズロースを穿かない小4レベルのままなら来年でEUはお仕舞になるだろう。

現実無視のお花畑妄想は命取りになるということだ。鳩ポッポを観察すれば分かるように、リベラルは一種の精神疾患だから、殺される寸前でも事態を理解できずに、「神よ、彼らを許したまえ。彼らは何も知らないのだから」と友愛の念仏を繰り返すだけなのだ。

まあ、2度の大戦はドイツに引きづり回されたような印象がある。2度あることは3度ある、か? 来年で欧州の方向は決まるだろう。結束か、分裂・解体か。まあ、後者の方が自然の流れだろう。結束したのはここ2、30年でしかなく、数千年も喧嘩してきたのだから。

♪EU混乱、あちこち混乱、降っても降っても血の雨止まぬ、プーチン喜び、庭駆けまわる、オバマはレガシーで手一杯

頭が良さそうだったメルケルは反原発のリベラル(という狂信徒)、反日反米の中露(というヤクザ)、危険な難民(というテロ予備軍)に寄り添い過ぎた。多分、この亡国政策は(かつてはナチスに、今はリベラルに熱狂している有権者の票が欲しいから)修正はできない。ドイツはへたっていくだろう。自業自得。

EU:Europe Unionはどうなるか。今は Europe Unblessed とか EuropeUncertain だ。祝福されず、さまよう欧州。日本は日米とともに日英豪同盟を強化すべきである。

夕刻、小1女児が39.6度で集団的子育て。女児はふらふら、Nはパニック、ヒステリー気味で思考停止。一種の難民だな。まあ、家族だから受け入れるが・・・

■9月13日(日)、朝は室温26度、曇、ハーフ散歩。

中共は天下の歴史やGDPさえ捏造するから、企業がデタラメの数字や事業報告を出すのは“ほとんど常態”のようだ。しかも外国の親会社は中国企業の監査もできないようになってきたという。ほとんど滅茶苦茶、支離滅裂だ。

金融ジャーナリスト・伊藤歩氏の論考「中国が監査で覇権掌握、日本なすすべなし? じわり増すビジネスリスク、米国も屈した」(東洋経済9/12)から。

伊藤氏のプロフィール:1962年、神奈川県生まれ。横浜国立大学教育学部卒業。ノンバンク、外資系銀行など複数の企業で融資、不良債権の回収、金融商品の販売などを経験。

16年間のサラリーマン生活時代に培った実務経験と知識を基に、経済専門誌を中心に執筆している。(アマゾン)

<日本企業に、じわりじわりと中国子会社への懸念が広がっている。

買収した独グローエに、もれなく付いてきた中国水栓メーカー・ジョウユウが破綻し、660億円もの損失処理を余儀なくされたLIXIL。

純資産225億円の江守グループホールディングスは、中国子会社の破綻で550億円の損失が発生。北陸を代表する超優良企業が瞬く間に倒産に追い込まれた。

企業の財務状態が適切に公表されているかどうかを評価する監査に、なすすべはないのだろうか。

同国に子会社を持つ日本の上場会社は多い。「中国経済が減速する中、本社側の経営者が中国子会社の内情に不安を抱くケースが増えている」(中国に進出している日系企業の相談業務を手掛ける鈴木幹太弁護士)という。

実際、「中国子会社で不正が起きていても本社側で把握することは難しい。最近は販売や製造だけでなく、財務の責任者も現地に送り込むケースが増えているが、それでも隣の席に座っている現地採用の営業担当者が何をしているのかが把握できない。

取引の相手方が現地スタッフの親族企業であるとか、その親族企業との間で循環取引が行われているといったことは、他のスタッフからの内部告発によって初めて発覚するケースがほとんど」(同)。

日本本社の報酬体系を海外子会社に持ち込むことで、不正を誘発している面もある様だ。

「中国では報酬やポストがすぐに得られなければ、基本的にはさっさと他社へ移る。だが、中にはその会社から回収しようとする人も出てくる。加えて一族の繁栄が最優先という価値観があり、かつ親族企業を潤す取引自体が不公正な利益供与に該当する可能性が高く問題だ、という感覚は希薄。ただ、取引実態の発覚を防ぐため、書類は完璧に整えているのが普通」(同)。

*監査任せではなく、企業が主導すべき

それでは監査法人なら把握可能なのかと言えばそれも違う。上場会社の監査に従事している公認会計士は、「最近、漠然と中国子会社をよく見てほしいと言ってくる経営者が増えているが、不正を働く従業員は巧妙に書類を整える。

社内でもわからないことを、部外者であり強制調査権もない会計士に解明できる余地はほとんどない。不安ならまず本社側が内部調査をし、そこで把握した証拠に基づいて一定の権限を会計士に与え、監査報酬の追加発生も覚悟すべき」と強調する。

現在、中国では新たに国内会計事務所に対し、対外的な監査書類の提供を原則禁止する「会計事務所監査管理暫定弁法」の制定も予定されている。8月15日にパブリックコメントの募集が終了しており、これから制定作業に入る。最終的にどうなるのかは不明だが、「規制強化の流れが反転する可能性はほぼない」(前出の海外監査に詳しい公認会計士)。

*金融庁は「コメントできない」

すでに、中国の会計事務所が日本の監査法人と共同で作成した資料を日本の監査法人が入手するには、中国政府の許可が事実上必要になっている。そこへ、中国の会計事務所単独で監査した場合にも網をかけようとしていることになる。中国子会社で突如巨額の損失が発生しても、事実の解明すらできなくなる可能性をもはらむ。

中国の法規制は、国内企業に海外上場のメリットを享受させる一方で、市場参加者が果たすべき義務の履行を回避させる効果を持つ。世界は中国企業の海外上場がもたらす恩恵を無視できない。中国企業にのみ特例を認めれば、世界中の資本市場の秩序は崩壊する。

(金融庁の)公認会計士・監査審査会に対策を聞いたが、「外国の法規制のことでもあり、コメント出来る立場にない」という回答だった。だが日本の監査制度に甚大な影響を与えるかもしれない今回の事態。コトは民間組織でしかない会計事務所や企業の次元を超えている。各国当局との連携も含めた対応が必要なはずだ>(以上)

経済版の「接近阻止、領域拒否」! 経営の透明性を拒否するのだ、「帳簿を見るな、この野郎!」と。完全にイカレテル。デタラメがまかり通る中共。国家独占強盗詐欺背任横領資本主義! 

こういうワルとつるんでいると必ず痛い目に遭う。日本企業は悪魔のように細心に撤収作戦を進めるべきだ。「中共と別れますか? それとも会社つぶしますか? ダメ絶対! 支那との交際は2020年を過ぎてから」

英国労働党の大将に極左が就いた。すでにスコットランドは完全に極左が握っている。EU分裂の前に英国分裂もありそうだ。大丈夫か。波乱含みの世界。

夕食後にN母子は自宅へ。おでんをお土産に持たせた。

■9月14日(月)、朝は室温24度、晴。雲があって、日射しがあって、涼しい風。これはもう完全に秋だ。犬は機嫌よくハーフ散歩。コオロギの音が増えた。

1か月ほど前に、経験したことがない雷を聞いた。突如、バリンッ!というすさまじい響きが一発だけ。その1週間ほど後にテナントがやってきて、「この前の雷で自動ドアが壊れちゃって、保険請求するので判子ください」。

「ああ、あの雷すごかったね、どこに落ちたの?」「すぐそこのエステ。工事用の鉄パイプに落ちたとか」

わが家から30mほどのエステでは当時、屋根の張り替え工事をしていたが、激しい雨で職人は屋内に避難していたから良かった。危機一髪だ。

3日ほど前にドン、ドンと雷が2発鳴った。なんと今度はわが家のガス釜(給湯機)が機能しなくなった。Nがノーリツのサイトで調べてくれた―

<屋外設置形の給湯機器の場合、雷が発生し始めたら、速やかに運転を停止し、給湯機器の電源プラグをコンセントから抜いてください。

給湯機器内部には落雷に対する安全装置が組み込まれていますが、近くに雷が落ちた場合、一時的な過電流が電子経路を通って給湯機器内部の制御用部品等を損傷する恐れがあります。

必ず、雨が降っていないときを見計らって、電源プラグを抜いてください。濡れた手でコンセントに触ると感電の恐れがありますのでご注意ください>

Nが直してくれて助かったが、そもそも過電流とは何か。

<雷によって一時的に大きな電気が電線を流れる事があり、この現象を過電流と呼びます。一般に雷によって家庭の電化製品が故障する場合、この過電流が主な原因です。パソコンも精密機器なので、過電流が発生するともれなく故障してしまうでしょう。

このような過電流による故障を避けるには、パソコンのコンセントを外してしまう事が一番効果的です。もちろん、ルーターやモデムのコンセントも合わせて抜いておきましょう>(データ復旧大図鑑)

電気は空気や地面を伝っても家庭に入り込むそうだ。油断大敵。

先月、長女一家が石垣島で体験した同島観測史上最大の風速71メートル。飛んできた石でレンタカーのガラスにヒビが入ったというので、グアムの台風パメラを思い出した。

<台風パメラ(1976年5月12日、最大風速300m)

台風パメラは直接グアムをヒットしたことで記録に残り、また暴風雨台風の典型として当時木造住宅が多かった家屋の多くがその被害を受け、以降コンクリート住宅が流行となっている。当時としては破格の500ミリオンダラーの損害を受けている>(ケン・芳賀のグアム体験ブログ)

グアム政府が「グアム観光20年史」を発行するというので当時のホテルマンに取材したら「ヤシの実が真横から飛んできてホテルの窓ガラスを直撃。まるで砲弾のよう。カーテンも目茶目茶、ベッドも家具も全部ダメ。館内すべて水浸しになりました」。

まったく天災はすさまじい。いずこの国も天災には苦労させられるが、「仕方がない、気を取り直して頑張ろう」という気持ちにはなりやすいのが、まあ救いではある。恨みや憎しみがずっと続きそうな人災よりははるかにマシかもしれない。

ホワイトハウスからのニュースによると、ハリケーン・カトリーナがルイジアナ州に大災害をもたらしてから10年だという。ある被災者は風雨で家業の店が壊れ、絶望を乗り越えて数か月後に避難先で店を再開したら、今度は洪水で再び店は壊滅。それでも夫婦で頑張って三度目の開業に漕ぎつけたという。

天災も過酷だが「恨みっこなし」。防ぎようがない。人災は防げるかもしれないが、「自ら人災を招いている」ケースが多いのではないか。五輪招致・・・評価はどうなのだろう。国民の多くは今は白けているようだが。阿蘇山噴火、やれやれ・・・(2015/9/14)

◆維新の党を壊したのは

〜実は“壊し屋”だった〜
高木 桂一
                  


これを「子供の喧嘩(けんか)」と言ったら子供たちに失礼であろう。内輪もめの末に分裂が決定的となった維新の党。結党からわずか1年で、破壊への道をたどった背景には何があったのか-。関係者の証言によれば、政界での存在感がとみに薄くなった、あの「壊し屋」の影がまたぞろ見え隠れする。

指定暴力団・六代目山口組(本部・神戸市)の内部抗争が表面化した8月27日。くしくも同じ関西でヤクザ顔負けの「もう一つの内紛」の狼煙が上げられた。

維新の党の「創業者」たる橋下徹大阪市長は同日、松井一郎大阪府知事とともに離党する一方、党分裂を回避する考えを示していた。ところが翌28日、一転 して10月に国政新党を結成する方針を表明した。

当然、橋下氏にコバンザメのようにくっついている維新内の「大阪系」はこれに合流するわけで、松野頼久代表を中心とする「非大阪系」との分裂は既定路 線となった。

もともと首相官邸の方を向いている大阪系と、民主党との連携はじめ野党共闘を目指す松野氏ら非大阪系との間には大きな「溝」があった。それが一気に分 裂へと加速させる“大義”となったのが、9月13日投開票の山形市長選だった。

維新は山形市長選を事実上の自主投票としていたが、非大阪系の柿沢未途幹事長(当時)が8月14日、民主党や共産党が推す候補者を勝手に応援演説した として大阪系が激怒し、柿沢氏に辞任を迫った。

大阪系には党の金庫を握る幹事長ポストを手中に収め、当初11月に予定されていた党代表選で主導権を握る思惑もあった。しかし松野氏が公然と突っぱねた ため、双方の対立は抜き差しならぬものとなった。

新聞やテレビが報じる分裂劇の背景は、おおむね以上のようなストーリーだ。だが要因はそれにとどまらない。舞台裏で「影の主役」となった人物がいたと いうのだ。それは、生活の党の小沢一郎共同代表である。

小沢氏といえば、少なくとも数年前までは政党の離合集散で常に中心にいて、政党をつくっては壊し、壊してはつくるを繰り返してきた。その「壊し屋」が 維新を壊すことにもからんでいた。

維新は6月、来る代表選で党員と所属国会議員の「一票の格差」をなくし、同等に扱う方針を決めた。これも党員拡大に自信をもつ大阪系の主導だった。狙 いは言うまでなく代表選を制することにあった。

維新の議員たちは代表選の投票権をウリに党員拡大に奔走した。その結果、6月上旬で約8000人だった党員は8月末時点で8倍以上の約7万人となった。

そこで「剛腕」の出番である。打ち明けるのは、小沢氏に近い維新関係者だ。

「小沢氏自身が維新の党員集めに動き、生活の党の現職議員や次期参院選・衆院選に出馬を予定する元議員らに一人200〜300のノルマを課したほど。思惑は 代表選で松野氏を勝たせることだった」

来年夏の参院選に向け野党の「統一戦線」を張る必要性を強く訴えている小沢氏にとって、民主党など野党の共闘路線を説く松野氏が「望ましい維新代表」 である。民主党幹部時代から松野氏との関係も良好だ。これに対し、労働組合の支持 を仰ぐ民主党とは絶対に手を組まないと公言する橋下氏率いる大阪系とは肌が合わない。

「小沢氏の狙いはそれこそ、野党としての維新の『純化路線』だ。小沢氏にすれば、裏で官邸・自民党と通底する大阪系は邪魔者であり敵でしかない。代 表選に向けて松野氏を援護射撃することで維新の分裂を仕掛けた。

維新の分裂はもと もと時間の問題とみられていたが、小沢氏の動きで少し早まった」(小沢氏に近い維 新関係者)

「数の力」をなおも信奉する小沢氏の戦略は維新内の“小沢分子”にも浸透していたようだ。別の維新関係者によると、維新の党員集めで蓋をあけてみた ら、かつて小沢氏の側近だった松木謙公幹事長代行が一人で約1万人を集めたほか、牧 義夫国対委員長は約1000人を確保した。

松野氏も3000人集めたという。党員が支払う 党費は1人2000円。松木氏はざっと約2000万円を党の金庫に入れた形だ。

言葉は悪いが、かつての自民党総裁選よろしく、集められた党員にはネコやイヌも相当数含まれているという見方がある。とはいえ「小沢系」の攻勢に橋下 氏ら大阪系がたじろぎ、水面下での小沢氏による松野氏支援の動きを嗅ぎ取ったこと は言うまでもない。

「小沢氏の力を買いかぶりかもしれないが、『小沢ファクター』も維新分裂を誘発する一つの要因になったことは間違いない。結局、橋下氏は代表選で大阪 系が負ける前に先手を打つ形で党を割って飛び出す決断至ったようだ」(維新関係者)

ここ数年、小沢氏の思い通りに物事は進まず、政治力も確実に低下しているが、こと「壊す」ことにかけては面目躍如といったところか。

「小沢氏のもとには民主党時代の部下だった側近幹部職員がいまも日参している。小沢氏は岡田克也代表への助言をこの幹部職員に託し、それを伝え聞く岡田氏も『その方法があったのかぁ〜』と感激し、党運営に反映させることはしばし ば。

野党再編に向け小沢、岡田両氏の良好な関係が構築されつつある」ある民主党幹部はそう打ち明ける。

山本太郎参院議員たる“異分子”を含めて小沢氏の手勢はわずか5人にすぎない。その神通力には明らかに陰りが見えているが、はたして野党再編に向けて 本当の“出番”はあるのか。

とまれ、「政界引退」を表明しながら一向に政治から離れる気配をみせない橋下氏に、とっくに「お役御免」とみられながら、なおもただでは死ねないとば かりに動く小沢氏。どちらが先に“退場”するか見物ではある。                  
(政治部編集委員)
産経ニュース【高木桂一の『ここだけ』の話】2015.9.13
                 (採録:松本市 久保田 康文)

◆米FRBは「ハムレット」

松浦 肇



米国の長期金利と株価収益率

米連邦準備制度理事会(FRB)が16、17両日に開催する米連邦公開市場委員会(FOMC)に合わせて、ニューヨーク金融記者会が3人のエコノミストを招いた討論会を先週催した。議題は「2006年以来となる利上げのタイミングはいつなのか?」。

FRBが8月19日に公表した7月のFOMC議事録では、利上げの根拠となる経 済見通しに対する見解がバラバラだった。FRBのためらいを象徴するかのように、イ エレン議長はこの1カ月ほど公の場から姿を消している。

そもそも、合議制で運営されるFOMCの思考経路は読みにくい。用いられる経済データの軽重は分からない。議事録は編集されているうえ、理事個人の実名が 出ない。

FOMC後の記者会見も、質問者がたいがい事前に決まっている事実上の「やらせ」だ。

だからこそ、市井の市場関係者は、競馬の予想屋のような「政策判断の当てっこ」を好むのだが、討論会では見方が割れてしまった。各エコノミストの言い 分はこうだ。

ファクト・アンド・オピニオン・エコノミクスの主任エコノミスト、ロバート・ブルスカ氏は「年内の利上げは無理」とみる。米ドル高や原油安によるディ ス・インフレ現象に加えて、「米国が構造的に低成長時代に入っており、慎重になる べきだ」という。

「12月説」を支持するのは、スタンダード・アンド・プアーズの米国主任エコノミスト、ベス・アン・ボビーノ氏。「市場の混乱と成長鈍化への懸念が高 まっているのは事実だが、低金利が続いて(投資家が)過度にリスクを取り始めるのは 問題だ」

ハイフリークエンシー・エコノミクスで主任米国エコノミストを務めるジム・オサリバン氏は、「10月説」を唱える。記者会見がない10月は大きな政策変更 がないとされているが、「10月になればFRBが気にする市場混乱は収まるだろうし、 経済データを見る限りは利上げには『青信号』がともっている」とする。

FRBが注目する労働市場の需給や鉱工業生産は改善、失業率も低下したが、今夏の市場混乱はいわゆる「1994年危機」を想起させた。

94年は、FRBが利上げに踏み切ると新興国から資金が流出し、海外市場 の混乱が米国に跳ね返った。94年の“新興国”はメキシコだったが、今回は中
国である。

「利上げの機は熟した」と大筋合意しても、具体的な時期については市場関係者の見方が異なるわけで、これはFRB内部でも同じだろう。

今年に入り、FOMCが近づくたびに「利上げ近し」との観測が出て、結果的に「先送り」が決まるのが毎度のことになっている。なぜか。

FRBが念頭にあるのは、日銀とスウェーデン中央銀行の失敗だとされ る。日銀は2000年、スウェーデン中銀は10年に金融引き締めに転じたが、景気が後退 し、政策を反転せざるを得なかった。

米ウォール街では神格視されるFRBも「人の子」なのだ。「利上げした 後に読み間違えて(景気が後退して)、再び利下げに動くのだけは避けたい」(ボ ビーノ氏)。失敗が怖いのである。

ただでさえ、FRBは米議会から情報漏洩(ろうえい)問題などで突き上 げをくらっており、人事面で抜本的な制度改革を求められている。本業のミスが政治 化するのだけは避けたいはずだ。

債券運用で知られるビル・グロス氏は長らく、早期の利上げを提唱していた。著名投資家のスタンリー・ドラッケンミラー氏も年初の講演で、「ゼロ金利の 長期化で負債が積み上がり始めており、利上げすべきだ」としている。

稼いだ純利益の何倍まで株式が買われているかを示す株価収益率と米長期金利の動き=グラフ=を比較すると、両氏の言い分も納得できる。

13年までは、長期金利が上昇して景況感が改善すると株価収益率も上げた(成長期待が高まる)。一方で、長期金利が低下して景況感が悪化すると株価収益 率も下げる(成長期待が薄まる)という、相関関係が存在した。

だが、14年初めからは関係が崩れる。長期金利が低下しても株価収益率が高まった。「FRBは利上げできないだろう」とマーケットが高をくくった「ミ ニ・バブル」が発生したわけだ。

 利上げすべきか、否か。

シェークスピア作の悲劇に登場する王子ハムレットの名せりふではないが、迷っているうちに中国バブルの源泉となった過剰流動性を看過しまった FRB。グロス氏が言うように、「FRBは15年初めに到来した利上げの機会を逃した」のか もしれな
い。
(ニューヨーク駐在編集委員)
            産経ニュース【日曜経済講座】2015.9.13
               (採録: 松本市 久保田 康文)

◆木津川だより 鹿背山の寺『西念寺』

白井 繁夫

木津の東部にある「鹿背山(かせやま)」は、万葉集にも詠われている山であり、聖武天皇時代の恭仁宮(くにきゅう)跡とは至近距離です。

「木津川」左岸、南面東の泉津(いずみのつ)上の渡から上津道(かみつみち)を利用して大和平城京へ向かう街道の中間地点『馬場南遺跡』(橘諸兄に因む謎の寺『神雄寺:かんのおじ』跡)にも近く、北麓には山城国分尼寺跡もあって、1300年余の歴史の古さを物語る所です。

今回訪ねる『西念寺』は、中世の『山城:やまじろ』としては、山城国で一番と云われている鹿背山城跡(地図Z:5番)の大手道にあります。
地図Z; http://chizuz.com/map/map141418.html

ところで、この寺のルーツは奈良時代に遡ると鹿背山の大池近くの『古寺跡』と云われている所に、僧行基が堂塔を建立した鹿山寺(かせやまでら)で、本尊として薬師如来をお祀りしていました。

<伝説>:『鹿山寺略縁起』(享保五年の版木):三頭の鹿を背負った猟師に出会った行基が彼らに殺生ななりわいをせぬよう諌めたが、逆に僧が食すればこの獲物を与えると回答、行基はその鹿三頭を食した。それから彼らの面前の川で、口をすすぐと、口から出て来た鹿は生き返り、山へ逃げていった。云々と)。

「鹿山寺の起源」―この古寺跡は地誌類の調査から二つの説が考えられる。
@ 『山城名跡巡行志』(宝暦4年刊):橘清友の加勢山の墓...『続日本後記』より 
A ―1 行基創建説 地誌『雍州府志』真享元年刊  
A −2西念寺所蔵の『鹿山寺(かせやまでら)略縁起』(享保五年:1920年)や宝永2年の本堂棟札、同3年の薬師堂棟札等の資料。

当寺院は元応三(1321)年に兵火で焼亡したため、一旦、城山の峰に移され、天正十七(1589)年現在地に移転しました。

現在の寺院は鹿背山村人の先祖をお祀りする浄土宗の寺として、江戸時代(元禄6年)に『西念寺』と改名し、本尊阿弥陀如来座像をお祀りしています。

◆当寺院の寺宝には @ 平安時代後期の二躯の仏像として―
・阿弥陀如来座像(像高:56.3cm)平安の都の本流に繋がる
 仏師の作と推定される)
・薬師如来座像(像高:50.7cm 行基建立の鹿山寺の本尊か?)
           
◆江戸時代時代の一躯の仏像としてー(延宝五年:1677年の銘記)
・本尊阿弥陀如来座像(定印 像高89.77cm 台座天板裏面に山城国井手里の安称の寄進)。
以上、併せて三躯の仏像があります。
<参考資料>:木津町史 『本文篇』及び木津町の歴史 『コラム 鹿山寺をたづねて』

当寺院を語るには奈良時代からの興福寺のご祈願所としての関係や大和西大寺との繋がりもと思いますが、その話題は鹿背山城跡の散策の時として、今回はまず万葉歌に出る鹿背山を皆さんに知っていただき、URが現在宅地開発している木津中央区の開発が鹿背山不動のすぐ近くまで押し寄せました。
我々(木津の文化財と緑を守る会)にとっては幸いなことに、大手道にある西念寺、鹿背山城跡など、古代から受け継がれた自然は残りました。

当寺院を秋に訪ねると大変綺麗な紅葉が出迎えてくれ、鹿背山城跡へ散策すると万葉集に登場する木や草花も観察できます。(但し、夏場は蛇などが出るため、お薦めできません。)

今回は、古代の鹿背山を詠った万葉歌を思い起こし、万葉の草花も観察できる散策が出来れば幸せと思い下記の歌を転載しました。

◎ 万葉集(1057)
 鹿背(かせ)の山 樹立(こだち)を繁み朝去らず 来鳴きとよもす 鶯のこえ
  (鹿背山の木立が茂っているので、朝ごとに来ては鳴いて響かせている鶯の声よ、

 春の日に三香原(みかのはら)の荒れた宮址を悲しみ傷んで作った歌)
◎ 万葉集(1059)
 三香原 久迩(くに)の都は 山高く 川の瀬清み 住み良しと 人は言へども
 あり良しと 我は思へど 古り(ふり)にし 里にしあれば 国見れど 人も通はず
 里見れば 家も荒れたり はしけやし かくありけるか 三諸(みもろ)つく
 鹿背山のまに 咲く花の 色めずらしく 百鳥(ももとり)の 声なつかしき ありが
 欲し 住みよき里の 荒るらく惜しも

 (三香原の久邇の都は、山高く川瀬清くて、住みよいと人は言うけれど、ずっといたい
  とわたしは思うけれど、古びた里であるので、国を見れば人も行き来せず、里を見ると家も荒れている。ああまったく、このようになるものだったのか。「三諸つく」鹿背山のほとりに、咲く花は色美しいものだし、百鳥の声も心引かれるもの。いつまでもここにいたい、住みよい里が荒れて行くのは惜しいことだ。)
 
★「三諸つく」:鹿背山の枕詞であり、大和の三輪山(大神神社)と同じ枕詞です。
みもろの(み)は神霊、(もろ)は森.杜の意で神聖な場所を指します。

◎ 古今和歌集(408)
 宮こ出(い)でて今日(けふ)みかのはらいづみ河かわかぜさむし衣かせ山
(都を出て今日は三日目、「瓶(みか)の原」にいる。いつ見るかと思ったこの「泉川」
  は川風が寒いことだ。衣を貸してくれ、「桛(かせ)」という名の「鹿背山」よ。)

久しぶりに西念寺の近辺を古人の歌の詞を思い出しながら散策しました。万葉の植物としては つばき、もみじ、さくらなどの木々はともかくとして、冬の季節ですが、すみれの緑の葉やまんりょうの赤い実を見つけて今も昔と同じでしょうかとふと思いました。

ここ鹿背山は観光地として整備されていませんので、レストラン、コンビニ、公衆トイレなどがありません。今後この地を散策される場合は、弁当持参のうえ、トイレはJR木津駅(地図Z:1番)、市役所、東部交流会館(地図Z:2番)等公的機関の利用をお願います。

次はJR木津駅から徒歩30分以内で行けて、古代の自然と歴史が残る鹿背山で、中世の水準では最高の防御設備を備えた山城(やまじろ)に登り、鹿背山城の主郭から木津川と共に歩んだ木津市街を望もうと思っています。(完)2013.1.26

◆<主宰より:古代日本文明を創り上げる役割を果たした「木津川」の歴史と当時の実情を、再読したいという読者の要望が多いので、頃合いをみて、白井 繁夫氏特筆の「木津川だより」を再掲させて頂きます>

2015年09月14日

◆NYで見る日米中の力関係

内畠 嗣雅



ニューヨークは今月下旬、国連総会に出席する世界の首脳らを迎えるが、各国外交団でにぎわう老舗高級ホテル「ウォルドーフ・アストリア」の様子は、例年とは少し異なるかもしれない。

格式が高く、市街中心部にあって足の便も良いこのホテルは、米外交団が毎年拠点としてきたが、今年は利用しないと伝えられた。中国資本に買収されたため、盗聴が懸念されるからだという。

米政府職員らの個人情報がサイバー攻撃により大量に盗まれた事件は、中国の関与が強く疑われており、ワシントンで開催される米中首脳会談でも取り上げられる。米側が「情報漏れ」に神経質になるのも当然だろう。

ところで、昨年のこのホテルの買収劇を、1989年の三菱地所による複合施設「ロックフェラー・センター」の買収劇と重ね合わせた人は少なくない。この施設のビル群もニューヨーク市街の真ん中にある。

海外資産への巨額投資という日本のバブル期を象徴する出来事で、ニューヨークのランドマークを買い取ったため、米国人のプライドを傷つけ、日本への風当たりが強くなるきっかけともなった。

当時のニューヨークを振り返ってみると、5番街は高級ブランドを物色する日本人買い物客の姿が目立った。人数と買い物量で見劣りするとはいえ、東京・銀座で「爆買い」する中国人のようなものだったろう。

だが、しばらくすると、米国での日本へのあからさまな反感は影をひそめる。代わって中国が台頭してきたからだ。かつての日本がそうだったように、最初はヒトやカネでなくモノ、「メード・イン・チャイナ」だった。

ニューヨークの土産物店に並ぶ小さな「自由の女神像」など商品の多くが中国製になった。米国土産が中国製では興ざめである。Tシャツだけは米国製が多かったが、流行の柄をすぐにプリントして販売するには、中国製では間に合わないためだったらしい。

中国経済はいまや世界第2位となった。チャイナ・マネーは世界の不動産を買いあさり、アジアインフラ投資銀行(AIIB)という中国主導の国際金融機関が、欧州諸国を含む多数の国の参加で設立された。だが、このところ中国は、輸出や消費の低迷などで景気が減速し、世界同時株安の震源地ともなった。潮目は変わりつつあるようだ。

中国はこの間、軍事的にも台頭し、東シナ海や南シナ海で海洋進出を拡大させた。今月初めのオバマ米大統領のアラスカ州訪問中、中国の軍艦が同州の米領海を通過したことが確認されている。

このタイミングで、中国の習近平国家主席が初の公式訪問として米国を訪れ、オバマ氏と会談する。ニューヨークでは、国連本部での演説に臨む。

安倍晋三首相もニューヨーク入りするが、今年は国連創設70年であることから、例年以上に多くの首脳が顔をそろえ、さまざまな組み合わせで2国間外交が活発に展開されよう。その結果、米中や日本を含む各国の力関係の転変が見えてくるのではないか。(論説委員)

産経ニュース【一筆多論】2015.9.12

(採録:松本市 久保田 康文)

◆元寇 〜 鎌倉武士たちの祖国防衛

伊勢 雅臣


フビライの日本侵略の野望を打ち砕いた時宗と鎌倉武士たち。

■1.「武力を用いるのは朕の本意ではない」

13世紀の初め、チンギス・ハンはモンゴル帝国を建て、無敵の騎馬軍団で中国から、中央アジア、東ヨーロッパまで広がる大帝国を築いた。5代皇帝フビライ・ハンは現在の北京に都を定め、国号を元と称した。

そのフビライが日本への侵略を企てた様子を、自由社版歴史教科書は次のように記述している。

{元寇 フビライは、東アジアへの支配を拡大し、独立を保っていた日本を征服しようと企てた。フビライは、まず日本にたびたび使いを送って、服属するように求めた。しかし、朝廷と鎌倉幕府は一致して、これをはねつけた。幕府は、執権の北条時宗を中心に、元の襲来に備えた。}[1,p86]

この一節の横には、コラムで「フビライの国書(1268年)」を引用している。

{わが祖先が天下を領有して以来、その威を恐れ徳を慕う異国は数え切れない。高麗もわが東の藩属国として、あたかも君臣、父子のようにしている。日本は高麗に近接し、過去には中国と交流していたようだが、朕が即位してからまだ一度も使いをよこさない。武力を用いるのは朕の本意ではない。日本の王は、その点よく考えよ。}(「蒙古国牒状」)[1,p86]

「服属せよ、さもなくば武力征服する」との明らかな最後通牒である。

自由社版では触れていないが、この国書は上段に「大蒙古国皇帝奉書(大蒙古国皇帝は書を奉る)」と書き、その下に小さく「日本国王(日本国王へ)」とあった。皇帝は世界の中心であり、王は皇帝から任じられた一地方の統治者に過ぎない。

時の執権、18歳の北条時宗は「これは無礼な」と眉を逆立てた。「戦さを防ぐためにも、形式的に属国となっては」という声に時宗は「礼なければ仁(おもいやり)なく、仁なき交わりは、禽獣(動物)の交わりにもおよびません」と答えた。[a]


■2.「ユーラシア世界史の誕生」

一方、東京書籍版歴史教科書(東書版)は、モンゴル帝国を「ユーラシア世界史の誕生」というコラムで次のように説明する。

{日本は平氏政権の時代から急速に大陸との交流を深めていました。宋銭が国内に出回り、陶磁器が輸入され、僧の行き来もさかんになりました。このように、東アジア世界の交流が活発化していたところに、モンゴル帝国が内陸アジアからやってきたのです。

モンゴル帝国は、東アジアだけでなく、遠くヨーロッパにも影響を与えました。ユーラシア大陸全体が、一つの世界を築き始めることになったと言えます。}[2,p59]

このモンゴル帝国の日本襲来は次のように解説する。

<2度の襲来 フビライは日本を従えようと、たびたび使者を送ってきましたが、執権の北条時宗がこれを斥けたために、高麗の軍勢をも合わせて攻め入ってきました>。[2,p58]

この2つを合わせ読むと、「ユーラシア大陸全体が、一つの世界を築き始め」たのに、日本だけがそれへの参加を拒否して、戦争になった、と言いたいようである。


■3.蒙古兵に蹂躙された朝鮮の悲劇

そもそも、モンゴルの侵略ぶりは朝鮮半島だけを見ても次のような過酷なものであった。

<
朝鮮は二十数年の間、全土を蒙古兵に踏み荒らされたが、とくに大軍の侵略があった1254年には、蒙古兵にとらえられた朝鮮人は男女二十万余、殺された者は数知らず、ひとたび蒙古兵の通ったあとは、村も町もすべて荒廃しつくしたとさえいわれている>。[3,p170]

日本への襲来は「高麗の軍勢も合わせて」というが、このように国土を蹂躙された上、日本への侵略にまで駆り出された高麗兵の悲劇を思いやるべきだ。さらに「ヨーロッパへの影響」とは、ポーランドなど東欧諸国が同様の悲惨な戦いを経て、国土を守ったという事である。

半島の悲惨な状況は、日本にも伝わっていたはずで、フビライに服属すれば、同様の運命が待ち構えていたことは明らかだった。だからこそ、フビライの国書を「朝廷と鎌倉幕府は一致して、これをはねつけた」のである。

こうしたわが先人の危機感に思いを寄せることもなく、「ユーラシア世界史の誕生」などとお花畑的な世界史理論を振り回すのは、国家と子孫のために命懸けで闘った先人の思いを踏みにじるものだ。

こういう教科書で歴史を学んだ人々が、現在の中国の周辺諸国への軍事拡張主義も目に入らずに、集団的自衛権や沖縄の米軍基地に反対しているのだろう。


■4.「対馬・壱岐を経て」

元の襲来について東書版はこう述べる。

<1274(文永11)年には、対馬・壱岐をへて北九州博多湾に上陸し、集団戦法と優れた火器により、日本軍を悩ましたすえ、引き上げました(文永の役)>。[1,p58]


「対馬・壱岐を経て」とは、途中に立ち寄ったに過ぎないような書きぶりだが、渡部昇一の『日本の歴史 2』では具体的に次のように記述している。

<元(蒙古)軍はおよそ4万人、そのうち八千人は高麗兵である。朝鮮半島の合浦(がっぽ)を出港した元軍は、対馬を襲い、残虐の限りをつくして全島を奪った。対馬守宗助国(そうすけくに)はわずか八十騎を率いて迎え撃ったが、無残に玉砕した。

続いて元軍は壱岐に上陸。守護代平景隆(かげたか)も大軍に抗しきれず自決。その家族も皆殺しにされた。これらの惨状は、明治時代の画家、矢田一嘯(いっしょう)が迫力のある大パノラマ画に描いている。

元寇については戦後あまり語られなくなったが、われわれの子供の頃は「対馬・壱岐の女子供が手に穴をあけられて船べりに吊された」といったような、悲惨な話を聞かされたものである>。[4,p101]


文永の役の翌年、フビライから何度も使者が来て、幕府内でも「和を結んでは」との声があがったが、時宗は「対馬、壱岐の無辜の民を多く殺害したその暴を詫びぬとあれば、それは人間の道ではござらぬ」と言い切っている。[a]


■5.「日本軍を悩ましたすえ、引き上げました」

対馬・壱岐を蹂躙した後、博多湾に上陸した元軍は「日本軍を悩ましたすえ、引き上げました」と東書版は言うが、なぜ引き上げたのかが、説明されていない。

高麗側の記録では、総司令官の忻都(きんと)は「疲れた兵をもって日ごとにふえる敵軍と戦おうとするのは、正しい作戦とはいえない」と言って、退却を決めたとしている。一日だけの戦いだったが、鎌倉武士の勇戦で、勝ち目はないと判断したのである。[a]

幕府側も、いったん蒙古軍の上陸を許すと、陸上戦では不利である事が判って、執権時宗は博多湾の沿岸十数キロに渡って石塁を築かせた。また御家人たちが自分ひとりの勲功を揚げようと、勝手な抜け駆けをしたことが、統制のとれなかった原因だとして、時宗は鎮西奉行を置き、その統制のもとで一致協力して戦いに臨むよう、通達を出した。

7年後の弘安4(1281)年、元は2度目の軍勢を送り出した。この間に元は南宋をも滅ぼしていたので、今回は、蒙古・漢・高麗兵4万からなる東路軍に加えて、水軍に長けた南宋人10万からなる江南軍も編成されて、前回の数倍もの大軍であった。日本占領後の農業用具までも持参していた。


■6.「神風」と「独立」

弘安の役に関して、東書版は、こう説明する。

<」1281(弘安4)年には、ふたたび攻めてきましたが、御家人の活躍や、海岸に築かれた石塁などの防備もあって、元の大軍は上陸できないまま、暴風雨にあって大損害を受け、退きました>。[2,p58]


この記述は正確である。元寇は「神風」だけで勝った、という先入観があるが、史実は鎌倉武士たちの抵抗で、元軍は2ヶ月近くも上陸できずに海上におり、そこを台風が襲ったのである。[a]

自由社版は、2度の戦役をまとめて、こう解説している。

<]元・高麗連合軍は、1274(文永11)年と、7年後の1281(弘安4)年の2回にわたって、大船団を仕立てて日本をおそった。日本側は、略奪と残虐な暴行の被害を受け、新規な兵器にも悩まされた。しかし、鎌倉武士は、これを国難として受けとめ、よく戦った。

元軍は、のちに「神風」とよばれた暴風雨にもおそわれて、敗退した。こうして日本は、独立を保つことができた。この2度にわたる元軍の襲来を、元寇という>。[1,p87]


「鎌倉武士は、これを国難として受けとめ、よく戦った」とは、その通りだが、その戦い振りをもう少し具体的に記述しないと、中学生には伝わらないだろう。

ただ、「神風」についての言及は大事である。この国難を救った暴風雨を以後、「神風」と感謝した先人たちの心映えを偲ぶべきだ。また大東亜戦争での「神風特攻隊」も、祖国を守る神風にならんとする思いから名付けられたものである。日本人の精神史を辿る上で、「神風」の出てこない東書版の記述は、重大な欠陥と言うべきだろう。

さらに自由社版の言う「こうして日本は、独立を保つことができた」という視点が、東書版には欠落している。元寇は我が国の独立維持のための戦いだった事を、中学生には教えなくてはならない。


■7.フビライの野望を挫いたもの

 東書版は、元寇の項を次の文章で結ぶ。

<この2度の襲来(元寇)のあとも、元は日本への遠征を行おうとしましたが、計画だけで終わりました>。[2,p59]

 なぜ、計画だけで終わったのか、これまた大事な事が書かれていない。フビライは、その後も繰り返し、日本への遠征を命じ、その都度、高麗は大量の軍船や兵員の準備を命ぜられた。

しかし、2度の日本遠征により、元の財政は破綻し、一般民衆は疲弊して、ベトナムや江南では反乱が相次いだ。弘安の役の12年後、日本を脅した最初の国書を送ってから25年後の1293年、フビライは日本遠征への最後の命令を下したが、一高官が命をかけて反対したため、中止となった。

フビライはその年明けに80歳で日本征服の野望を果たせぬまま病没する。結局、3度目の遠征を諦めさせ、フビライの野望を抑止したのは、鎌倉武士たちの勇戦だった。


■8.「かまくら山の松の嵐」

渡部昇一は、元寇が執権・北条時宗の時代であったことが、幸いだったと言う。

<日本中が上も下も不安に包まれているとき、鎌倉にすわったままでいる青年武将を見て武士たちは大きな山を仰いだような気がしたとう。・・・

青年時宗の精神力は日本中の武士たちに電流のように通じた。もし総大将に少しでも動揺の色があれば、鎮西の武士たちもあれほど勇敢には戦えなかったであろう。[4,p105]

時宗はフビライから国書が来た2ヶ月後に、わずか18歳で執権となった。

2度の国難を乗り切り、弘安の役のわずか3年後に数え34歳の若さで病没してしまう。「まことに元寇から国を守るために生まれてきたような武将であった」と渡部昇一は表している。

昭憲皇太后(明治天皇の皇后)は次のお歌を詠まれている。

あだ波は ふたたび寄せずなりにけり かまくら山の 松の嵐に

あだ波を寄せ返した「かまくら山の松の嵐」とは時宗と鎌倉武士たちの国と子孫を守るための戦いであったろう。神頼みの暴風雨ではなく、鎌倉武士たちの国家と子孫を守ろうとする意思こそが「神風」であった、と皇太后は詠まれているのである。


■リンク■

a. JOG(207) 元寇 〜鎌倉武士たちの「一所懸命」
 蒙古の大軍から国土を守ったのは、子々孫々のためには命を惜しまない
鎌倉武士たちだった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h13/jog207.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 藤岡信勝『新しい歴史教科書―市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237613/japanontheg01-22/

2.五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み

3. 安田元久『日本の歴史文庫(7) 鎌倉武士』★★★、講談社、S50

4.渡部昇一『「日本の歴史」〈第2巻〉中世篇―日本人のなかの武士と天皇』★★★、ワック、H22
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4898311539/japanontheg01-22/

◆中国に阿る潘基文国連事務総長

櫻井よしこ


日本人の間には根強い国連信仰がある。国連に、理想の国際社会の姿を重ねる人々は、日本国憲法前文や9条を至上の価値と崇める人々とも重なる。
 
韓国出身の国連事務総長、潘基文氏が9月3日、北京の抗日戦争勝利記念式典に参加する。氏の行動は、国連信仰が如何に幻想に近いものであるかを巧まずして示している。
 
国連はあらゆる意味で、十分に機能し得ていない。200近い国々の集合体には幅広い意見や主張が存在する。5つの常任理事国は拒否権を有し、自国に不都合 な決議を葬り去る。

このような事情で国連が機能しにくいことを承知していながら、 それでも機能させるべく努力しているのが国際社会の現状である。国連事務総長はそ の努力の先頭に立つべき存在だ。事務総長の依って立つ基盤は、従って、国際法であ り、自由と人権擁護の普遍的価値観でなければならない。
 
出身国によって、或いはその人物の個性によって多少の違いはあるが歴代の事務総長の多くは右の基準を満たすべく出身国の利害を超えて活動した。
 
国連事務総長の出身国は初代がノルウェー(1946年〜52年)、次がスウェーデン(53年〜61年)、3代がビルマ(61年〜71年)、4代がオーストリア(72年〜81 年)、5代がペルー(82年〜91年)、6代がエジプト(92年〜96年)、7代がガーナ (97年〜06年)、8代が韓国(07年〜)だ。
 
こうして見ると、概して小国或いは中位国の出身者である。そのわけは、拒否権という特別の権利を有する国々が常任理事国として中枢を占める国連が、大国 だけの意思で運営されることのないように、弱小諸国の立場や価値観、国益を守るた めである。
 
かつて国連で活躍したある関係者は、国際社会の基軸となる普遍的価値観を擁護する重大な責任が事務総長にあるのは明らかだが、8人の中には、国際社会に 大きく貢献した人もいれば、自身の野心の実現のために「生臭い活動」をした人物も いると語る。

彼は、歴代事務総長の中で、恐らく最も尊敬されているのが2代事務 総長、スウェーデン出身のハマーショルド氏ではないかと、振り返った。

世界の外交官
「彼の在職は1953年から61年で、米韓両国に対して北朝鮮と中国が戦いを仕掛けた朝鮮戦争以降、東西冷戦が本格化していました。そうした中、ハマーショル ド氏は中国軍の捕虜になった米軍パイロットの解放を周恩来と交渉して実現させました」
 
50年6月25日の朝鮮戦争勃発から4か月後の10月25日に、中国は参戦した。国連軍は北朝鮮を中朝国境まで追いつめていたが、中国軍は反転攻勢に出て国連軍の 北上を阻止する。11月下旬には北朝鮮の首都・平壌奪還作戦へとさらなる反撃の段階 に入った。
 
中国が「抗米援朝」のスローガンを掲げて戦った米中の対立構造の中で、ハマーショルド氏はトップとして、国連なりの平和への道を探ったのだ。このような 冷静な姿勢こそが、国連の目指すべきものだ。
 
エジプト出身の6代事務総長、ブトロス・ガリ氏も偉大な人物だったと、この関係者は述懐する。

「日本のカンボジア平和維持活動(PKO)について、多くの国々は成功は見込めないと否定的に見ていました。ただ、ガリ氏は日本を信頼し協力し評価して いた。日本にとっては非常に心強い存在でしたが、残念ながらソマリア紛争などで米 国と対立し、米国によって再任を拒否されました」
 
シンクタンク・国家基本問題研究所副理事長の田久保忠衛氏も、日本の立場で見ると、ガリ氏は最も印象的な事務総長だと語った。

「彼は来日の度に東郷神社に参拝していました。英国など大国の支配を受け続けた西の国から見ると、東方で日本がロシアに勝ったことは大変な驚きで、尊敬 の対象なのです。

彼は、大東亜戦争で敗北したとはいえ日本がいつまでも米国製の憲 法に縛られて自主独立の道を歩めないのはおかしい、それは国際社会のあるべき姿で はないとして、日本の憲法改正を表立って支援していました」
 
先の国連関係者が続ける。

「ガリ氏と7代事務総長、ガーナ出身のコフィ・アナン氏は、日本やドイツは安全保障理事会の常任理事国になるべきだとの考えでした。ガリ氏はその思いを 隠さず率直に語っていました。欧米列強に対し、第三世界の外交官として毅然と物を 言うガリ氏の気概は、サムライの心と相通ずるものがあると感じました」

歴代事務総長はいずれも、小国或いは中位国出身であるからこそ、国際社会がひと握りの大国によって、その大きな力を背景に恣意的かつ独善的に左右される ことのないよう、普遍的価値観に基づいて筋を通すよう、努力した。そのような歴代 事務総長の姿勢と較べると、潘氏はどうか。

「一言でいえば生臭さを感ずる」というのが先の国連関係者の実感である。潘氏の言動は政治的にすぎるということであろう。

普遍的価値観を守る
 
クルト・ワルトハイム氏は、4代事務総長を辞した後、オーストリアの大統領に就任した。政治的野心をもって事務総長に名乗りを上げたと見る人もいる。

潘 氏が韓国大統領選挙に出馬する可能性も報じられており、氏の近年の言動の中には、 韓国の世論を意識したと思えるものがある。
 
たとえば、13年8月26日、ソウルでの記者会見の発言だ。氏は安倍政権の歴史認識について「正しい歴史(認識)が、良き国家関係を維持する。日本の政治指 導者には深い省察と、国際的な未来を見通す展望が必要だ」と批判した。

正しい歴史 認識とは韓国の立場に立った認識なのかと、日本人なら思うだろう。一国の見方に与 し、他国の見方をあからさまに排除する姿勢は、国連事務総長としての立場を忘れ 去ったものだ。
 
他方、普遍的価値観を守ることも重要な責務のひとつである国連の事務総長として氏は中国にもロシアにもまともな発言はなし得ていない。昨年2月、ロシ アのソチ五輪開会式には欧米主要国が欠席する中、出席したが、プーチン大統領によ る苛烈な人権侵害問題には抗議もしなかった。

氏は今回、中国で何を語るのか。
 
かつて北朝鮮を支えることで朝鮮戦争を長引かせ、朝鮮全土に凄まじい犠牲者を出す原因となったのが中国の軍事介入だ。中国はいまも国際社会を脅かす暴力 要素である。東シナ海、南シナ海で継続する侵略行為チベット、ウイグル、モン ゴルの各民族への民族浄化、世界最悪の不透明な軍拡。これらについて、潘氏は本 来、強く抗議すべき立場だ。

氏の北京訪問はあるべき国連トップの言動から外れたもの で、国連のみならず、韓国への信頼をさらに低下させるだけであろう。『週刊新潮』 2015年9月10日号 日本ルネッサンス 第670回
            (採録:松本市  久保田 康文)