平井 修一
■8月3日(月)、朝は室温30度、快晴、猛暑の予感。犬はちょっと夏バテ、小生は昨夕、夜中にエアコンを止めて扇風機にしたが、お腹が冷えたためだろう、便意を催したので1/3散歩で切り上げた。
昨日は孫3人は屋上でプールとスイカ割りを楽しんだ。女どもが世話をしてくれるので助かる。女は育児のプロだ。専業主婦を増やさないと子供は増えない。
原英次郎・週刊ダイヤモンド論説委員の取材・構成記事「中国人の私がなぜ日本語通訳を志したのか 中国指導者の通訳が明かす日中国交正常化交渉『秘話』」(ダイヤモンドオンライン7/28)は大変有益だった。
<周斌(しゅう・ひん)氏は1958年に北京大学を卒業後、中国外交部(外務省)に入り、以来長期にわたって、中国の指導者たちの日本語通訳を務めてきた。先ごろ『私は中国の指導者の通訳だった――中国外交最後の証言』を上梓。
出版を記念して行われた日中関係学会での講演は、日中外交史を知るうえで貴重なエピソードに満ちている。講演の要旨を上下2回に分けてお送りする。第1回のテーマは、日中戦争の傷冷めやらぬ時代に、周氏がなぜ日本語通訳になったか>
この中で気になる行があった。
<――周斌氏は1934年生まれ。31年には満州事変が起こり、37年には盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まった。周氏の幼少時代は、日本の侵略が引き起こした戦争の時代だった。(平井:証拠を見せろよ)
周氏 実は私は戦争孤児でございます。37年12月に日本軍による南京虐殺事件が起こりました。私の父は南京でトラックの運転手をしていました。母は農民です。母の話ですと爆撃によって南京で死んだと聞かされました。一家にとっては大変な悲しみでした。
それから半年も経たないうちに日本軍が我が故郷、江蘇省南通県川港鎮――南京に近い町ですが――にやってきて占領しまた。さらに半年も経たないうちに、母が戦争の被害者となってこの世を去りました。
まだ4歳にも満たない私と7歳にもならない姉が残されました。祖母と叔父の助けで何とか生き延びたのですが、私の記憶ではお腹いっぱい食べたことも、新しい服を着た覚えもありません。冬は寒さに震え、夏は満身創痍です。衛生状態悪かったから。
ところが幸いなことに、45年、日本軍が負けて無条件降伏した直後に父が戻って来た。昆明(雲南省の省都)まで逃げたそうです。8年ぶりにお父さんと再会することができました。
父は再婚して新しいお母さんができました。幸いそのお母さんは「私を温かく迎え、温かく私を育てくれました。新しい母は紡績工場の労働者の出身。当時の中国で、最も下の層です。父も母も字を読めませんでした。生活は苦しかった>
“南京虐殺事件”で日本軍に殺されたはずの父親は、家族を放りだして出奔しただけだった、母親は「戦争の被害者となってこの世を去」ったが、誰が殺したのか、加害者は誰か、それとも自殺か、病気か。
実に嘘と曖昧の世界。共産主義はそんなものだ。ちなみに上記の著書の版元は岩波、中共の狗だ。
周氏は頭脳明晰で相当なコネもあったのだろう、エリートコースの共青団に入り、中共の奨学金で北京大学入学、日本語を専攻した。専攻は中共の指示だった。
<(大学の中共指導者は)さらに面白いことを言いました。「君は日本の被害者であり、日本語をやるには一番適任者だ。将来、誠心誠意、日本と戦うんだ」と。
さらに当時は党の決定に従わないと、除名されるかもしれません。これは大変なことです。ということで、仕方なく日本語学科に入ったわけです>
嫌々ながらだったが、やがて猛勉強するようになった。
<岡崎謙吉、鈴木重歳、児玉綾子の3人の日本人の先生にも、一生感謝しなければなりません。3人の先生は戦後も日本に帰らずに中国にいて、北京大学で日本語を教えておられました。3人の先生は深い「情」を持って私たちを教え、育ててくれました。
その後、私が日本に対して良い感情を持つようになったのは、その3人の先生のおかげです。こういう人たちが、我々が尊敬すべき日本人だ、昔の兵隊さんの悪事は水に流してしまいましょう、と>
兵隊さんの悪事とは何か。抗日記念館の嘘八百の展示物か。周氏が生で身近に接した日本人の先生は恩人だ。同じ日本人でも兵隊×、先生○か。単純すぎないか。
白か黒か、革命派か走資派か、敵か味方か、毛沢東主義か修正主義か、レッテルを貼って中共中央の指示するように動く・・・除名されるのを恐れて今でも8000万人党員は言いなりなのだ。
まあ、日本でも意見の違う者を「抵抗勢力」と断じて選挙に勝った単“純”脳のポピュリスト宰相もいたから、えばれたものではないけれど、この世には多様な意見があり、気に入らないからと暴力や暴力的なつるし上げ、衆を頼んでの糾弾などで叩くことは、結局は社会の健全な発展を阻害してしまう。
結果的にボスに諫言する者がいなくなり、イエスマンばかりになる。東芝同様、いい数字、いい話しか上がってこなくなり、経営が怪しくなる。政治も同じ。
中共の言う「7%成長」なんて信じているのは世界中で中共中央のチャイナセブンしかいないだろう。李克強は昔からGDPを信じていなかったから6人しかいない。嗤うべし。
中共、親中派は敵である、敵は叩くべし・・・小生もバカの一つ覚えの単細胞だから複雑な連立方程式は解けないけれど、習近平は大学生に「マルクス主義を勉強しろ」と命令している。時代錯誤というか、ほとんどアホである。
痴呆の中共、ヘタレの米国、狂犬ロシア。次席はヨイショの日本。戦後70周年、世界はまったく素敵な役者ばかりだ。
夜から集団的子育て。他人丼(なんでもありの乱交丼だな)、長芋、大根、モズクなどの、これまた乱交サラダを楽しむ。
もうこの際だから反中共の一点で民主国家(まあ西側より)による「反共乱交統一戦線」で習を追い詰めるしかない。宗教の壁、国の壁、人種の壁、全部スルーして、叩く対象を中共一点に絞り込む。
ヨイショの(仮面をつけた臥薪嘗胆70年の)日本が頑張れば、中共は揺らぐ。どういう国を造るのか、それは人民の創意工夫による。西側はいろいろ知恵を授けるといい。日本は支那大陸と朝鮮半島には距離を置くのが一
番いい。
■8月4日(火)、朝は室温31.5度、快晴、猛暑の予感。噛みつきそうな日射しを避けながらハーフ散歩。
Nが「弁当のおかずもよろしく」というので早朝から大車輪。スパゲティ、焼きそば、天丼を作った。
暑いと脳みその働きが落ちる。終日、犬とクーラー部屋で過ごすが、いいアイディアが浮かばない。
夕食は手抜きでコロッケ(冷凍)、カレー(レトルト)、残り物のサラダのリメイク。カレーは辛口で、カミサンの舌には合わなかった。
熱帯地方は甘い料理派と辛い料理派に分かれるかもしれない。カミサンの故郷、奄美には辛い料理はない。醤油も普通のものは甘い(寿司のアナゴに塗るタレ=ニキリ(煮切り)みたい)。生の刺身もそれで食べるので、シマッチュは本土で普通の醤油で食べると、とても辛く(まずく)感じるようだ(すぐに慣れるが)。
南米は辛い料理が多いようだ。タバスコソース、チリソースは有名。亀田製菓は北米で「柿ピー」を発売するに当たりチリソース味を開発したそうだ。米国人はチリソースが好きなようだ。(日本の醤油味はあまり好まれないみたい)
インドはカレー風味など香辛料を使った料理が多いが、タイのトムヤンクンのようにヒーヒー言うほどには辛くないようだ(都内のレストランでの体験しかないが)。
ヒンズー教徒は(地域によっては)酒を飲まない代わりにスイーツを楽しむのだが、この甘さが半端ではなく、頭がカキーンとなるほどで、友人からインド旅行のお土産にもらったスイーツはカミサンも受け付けなかった。
韓国料理には唐辛子のイメージがあるが、激辛というほどのものはないのではないか。甘口と辛口。白菜キムチ以外はあまり印象に残らない味だ。(韓国はこの点、損をしている)
インドネシア(バリ島)の青唐辛子の炒め物は胃袋が壊れそうなほど強烈だった。キャイン!
海外旅行は好奇心(&感動する心)旺盛な若い時にすべきだ。バイトで金を貯め、親のすねをかじってでも1年ほど見て回れば、世界の何たるかはおおよそ分かるのではないか。体感、実感することが大事だ。
1964年に海外旅行が自由化されると多くの若者が雄飛した。24歳の篠山紀信もその一人で、大きなカメラを担いでヨーロッパを撮りまくった。これがデビュー作となった。28歳の横尾忠則、同年齢の和田誠も一緒だった。ヨーロッパ体験が彼らの人生の大きな糧になった。べらぼうな金がかかったが、いい投資だった。
大学の1年間を世界漫遊に充ててはどうか。素晴らしい体験、資産になるはずだ。(紛争地は避けよ、君子危うきに近寄らず。「毛を見てせざるは勇なきなり」と迫る美女の仰向きにも近寄らない方がいい)
■8月5日(水)、朝は室温31度、快晴、猛暑の予感。今日も噛みつきそう
な日射し、雨はまだか。ハーフ散歩。
小1女児を預かる。宿題をやったり、ピアノを練習したりで、あまり手間がかからない。
時事通信8/4「カメラ生産、完全自動化へ=国内工場で18年めど―キヤノン」は衝撃的だった。地方が工場を誘致しても雇用の創出は大してなされない時代になりそうだ。ロボットが人間の仕事を奪うという時代は日本でも急速に進みそうだ。
<キヤノンは4日、国内でのデジタルカメラ生産を完全自動化する方針を発表した。自動化に必要なロボットや機械などの生産技術を開発する総合技術棟を、大分県国東市に2016年末までに建設し、自社製造ラインの開発を加速。18年以降順次、大分、長崎、宮崎の各県にある国内4工場への導入を目指す。
総合技術棟の建設には約133億円を投じ、技術者約500人が開発に当たる。完全自動化は高級モデルのカメラや交換レンズも対象で、これにより生産コストを2割程度削減できると見込む。
自動化後、カメラ部門の国内生産比率を現在の6割から7割に上昇させ、国内生産回帰を進める方針。
組み立てを完全自動化すれば、組み立てラインに従事する従業員は半分以下になる見込みだが、技術者への職種転換や他部門への配置転換により従業員の雇用は維持する。
大分県庁で4日記者会見した大分キヤノンの増子律夫社長は「将来的には部品加工から最終製品まで生産性をアップして原価を低減し、事業拡大を図る」と述べた>(以上)
毎日新聞8/4「<中年フリーター>氷河期の非正社員ら、歯止めかからず273万人に」も空恐ろしい記事だった。
<日本の非正規雇用労働者の数は、1990年代前半のバブル崩壊後に経済が長期停滞した「失われた20年」の間に右肩上がりに増加し、その数は2015年1〜3月期平均で1979万人と、労働者全体の37.7%に達している。
ここ数年は景気が比較的安定し採用環境も改善していることなどから34歳までのいわゆる「若年フリーター」はピークの03年からは減少している。
だが、90年代後半からの「就職氷河期」に直撃された世代を含む35歳以上の「中年フリーター」については増加に歯止めがかかっていない。年金・保険などセーフティーネットの強化や正社員への転換を後押しする制度作りなどに社会全体で取り組む姿勢が求められている。
現在、「中年フリーター」はどのくらい存在するのか。政府の明確なデータが存在しないため、その定義を「35〜54歳の非正規の職員・従業員(女性は既婚者を除く)」とし、雇用問題に詳しい三菱UFJリサーチ&コンサルティング調査部の尾畠未輝研究員に試算してもらった。
それによると、中年フリーターの数は90年代は130万人台で安定していたが、バブル崩壊から約10年が経過した2000年代に入ってから目立って増え始め、15年には273万人に達している。
就職氷河期にフリーターとなった経験を原点に作家活動をしている雨宮処凛さんは、毎日新聞のインタビューに「(非正規雇用労働者の問題に)どこかに決着の地点があると思ったけれど、10年たってもまったくない。10年前は若者の貧困だったけど、今はもう若者じゃない。中年になっていて、それがどんどん初老になり、高齢者になっていく」と強い危機感を語った>(以上)
技術の進歩が人の幸福を奪うのか。厚生労働省は5日、5月に生活保護を受給した世帯が前月より1601増えて、過去最多の162万2525世帯になったと発表した。高齢化もあって貧者は増える一方なのか。小生のオツムではこの連立方程式を解けない。天才学者出でよ!(2015/8/5)