2015年07月21日

◆愛国心とはアイデンティティの発見

Andy Chang



前号(AC通信No. 549)で愛国心について書いたらNさんからメールが来て、「愛国心があるかと聞かれたら答えに困る」と書いてきた。

愛国心かどうかわからないが、外国で日の丸の旗を見たり、オリンピックで日本チームが勝つと嬉しい。愛国心とは故郷に帰った時にホットする気持ち、ここでは鎧兜を脱いでも大丈夫という安堵感と似ている。そのくせ新聞やテレビを見ていると腹が立つこともある。
国に頼れる安心感と現状に腹が立って改善したい気持ちは同じく愛国心であると思う。

愛国心と言っても国に忠誠を尽くすと大上段に構える必要はない。国を愛するとは「私」という人間が国の一部一員として保護され、保護する感じではないだろうか。

愛国心があるかと考えるのは自己のアイデンティティ発見である。自分がどんな人間であるかを見極める過程である。世の中には自分がどんな人間か、どのような世間に生きているのかも考えずに一生を終える人も多い。自己のアイデンティティを考えることで人間は
一段と成長するのである。

●孔子の「修身斉家」

自己流の解釈かもしれないが、自己発見の過程とは孔子の「大学」にある、格物致知、誠意正心、修身斉家、治国平天下のプロセスである。

ある時事に触発されて詳細を知ることで結論が出る。これをどうするかと考えた挙句、誠心誠意日常の行いとする。このように自己を確立して家業をおこし、国を治めるために努力する。国民全体がこのようにすれば国家社会、つまり天下は平和になる。

国民全体が政治家になるのではなく、個人個人が物事について考え、事の正否を考えて行いを正す。人は「格物致知」の過程を経てこそ人生の意味がわかるのである。

●愛国心とはアイデンティティの発見

自己発見はみんなが政治家になって治国平天下をめざすのではない。自分がどんな人間かを考え、おのれと家庭、家族、故郷、国との関係を広げて考えることで生きる意味を悟るのである。自分を愛するのは勿論、自分自身から家庭、社会、故郷、国家と考える範囲を広げることだ。

人が成長して独立して結婚、家庭を作り、会社に勤め、ジャイアンツやタイガースのファンになる、そして同窓会、町会などで仲間意識を広げ、町や故郷や国を愛することに思考範囲を広げていくことで自分がこの世間でどんな立場にあるか理解するのだ。

●愛国意識の混乱

国家意識が混乱して考えがおかしいことに気が付かない台湾人はたくさんいる。たとえば台湾チームが国際スポーツ競技に出場すると中華民国の旗を振って応援する、またはチームが勝った時に中華民国の旗を見て感動する若者が多い。台湾人は中華民国を国と認めな
いのに、国際行事では対している旗で「台湾」意識を高揚させて矛盾を感じない。

台湾人は中国人ではない。台湾は中華民国ではないから中華民国の旗を振って応援するのはおかしい。年配の台湾人は台湾人意識が明確になり中国人でないとわかっているから中華民国の旗を見れば反感を覚える。小さい時から学校で中国人の洗脳教育を受けてきたか
ら台湾意識が混乱している若者は多い。年を取るとだんだんこの矛盾がわかってくる。

別のグループはアメリカ依頼心が強く、アメリカの星条旗を掲げれば中華民国の警察が干渉しないと思っている。これも台湾アイデンティティの混乱である。

米国台湾政府(TGUSA)と名乗るグループはアメリカが台湾の占領権を持っていると言いながらアメリカの許可もなく台湾政府をアメリカ公認の政府のようなウソの宣伝をしている。米国の国旗を掲げて台湾独立を叫んでいるが、米国は彼らに星条旗の使用を認可してい
ない。

米国に台湾の占領権があるなら米国の許可もなく「米国台湾政府」という米国か台湾かわからない主張はニセモノでしかない。しかも勝手に星条旗を掲げている彼らは「虎の皮をかぶった狐」である。最近では台湾パスポートを発行すると言い出したが、国際的に認可
されないパスポートは紙屑である。

●自己発見のプロセス

私は日本時代に生まれ日本語で育った。小学校4年の時に田舎に疎開し、田舎の子供たちと遊んで台湾語を覚えた。4年の終わりの夏休みに終戦を迎えた。父から台湾語で漢文の教育を受けた。終戦後は蒋介石が台湾を占領したので中学、大学は中国語で教育を受けた。
中国教育と同時に228事件の虐殺を経験し、38年にわたる白色恐怖、警察と特務に注意しながら成長した。中国の圧政に反感を持って米国に留学し米国籍を取得した。

日、台、中、米の教育を受け、自己アイデンティティを模索した挙句、愛国心とは政治的な国家帰属の外に、社会や郷土を愛することでもあると悟った。

台湾は生まれ育った故郷である、アメリカは自由で存分に自分を発揮できるところである、日本は幼時から受けた教育と読書のおかげで日本に住んだことはなくても心の故郷である。中国は台湾を占領し略奪し台湾人を迫害した敵である。

私の外にもアメリカに住む台湾人は中華民国を認めないから台湾独立に賛成である。米国には愛国心があるが、台湾を愛し独立運動に熱心になる気持ちも強い。米国と台湾を愛する気持ちを比較して考えることはない。これが在米台湾人のアイデンティティである。

◆天皇陛下の執刀医の「医師道」

伊勢 雅臣



なんとしても患者を救うという使命感と報恩の心が「医師道」の原動力。

■1.「天皇陛下がご健康になれば、国民も喜ぶ。みんなが元気になる」

近年の医学の発達ぶりには驚かされる。78歳の天皇陛下が心臓手術を受けられたのが平成24(2012)年2月18日。3月4日には退院された陛下は、3月11日には東日本大震災一周年追悼式にご出席、5月16日からはロンドンでの英女王ご即位60周年の式典に参加されるというご活躍ぶりだ。

陛下のご病気は、心臓を取り囲むように走って心筋に酸素を供給する冠動脈が流れにくくなり、胸が締め付けられるように痛む狭心症だった。手術はその冠動脈に別の血管をバイパスとして繋いで血流を良くするというもので、日本屈指の心臓外科医と言われる順天堂大学医学部の天野篤(あまの・あつし)教授が担当した。

天野医師は手術後に、バイパスの血流が勢いよく流れた瞬間に「自分としても、このうえなく満足のいく結果だった」と述懐している。

退院の直前には、陛下にこう申し上げた。

「手術をした血管は血流がとてもよい状態で、これから20〜30年は大丈夫です。同年齢の方が日本に何人いるかわかりませんが、血流状態に関しては10指に入る心臓だと思います」。[1,p62]

傍らにおられた皇后陛下が、「それはようございましたね」と、嬉しそうに言われた。

天野医師が、手術の翌日、新宿方面に出かけ、帰り道、病院で当直をしている医師たちにお弁当を買っていこうとデパートの食品売り場に立ち寄ったら、知らない人から次々と声をかけられた。「先生、ご苦労様でした」「ありがとうございました」

「天皇陛下がご健康になれば、国民も喜ぶ。みんなが元気になる」ということを身をもって実感したという。

■2.宮本武蔵を彷彿とさせる

天野医師の著書『一途一心、命をつなぐ』[1]を読んだ旧知の先生から、次のような便りが寄せられたという。

<医師として患者さんの命と向き合う毅然とした心と熱い愛情と心遣いをひしひしと臨場感をもって感じ取ることができました。(中略)

私は、宮本武蔵に関わる著書は (井上雄彦のバガボンドを含め) 殆ど読破しているつもりですが、剣の道を人生の苦悩と人の命と正対することで極めていく求道者として書画も極める武蔵に先生が重なるような思いに駆られています。「自らを高め、剣先をさらに鋭く磨きあげていく努力を続けたい」とする鋭い気迫が武蔵を彷彿とさせます。>[2,p194]

確かに天野医師の技術の追求の姿は、宮本武蔵を彷彿とさせる。たとえば、天野医師はオフポンプ手術という手法を日本に導入したパイオニアである。従来は手術の際に心臓を一旦止め、その間は人工心肺装置を使って血液を送り込んでいた。

オフポンプ手術とは、人工心肺装置を使わずに、心臓を動かしたままで手術をする手法である。これにより、患者の負担が軽くなり術後の回復が早くなる、脳梗塞などの合併症が起こるリスクも低くなり、高齢者や持病のある人への手術も可能となる。

しかし、心臓を動かしたまま、その表面に張り付いた冠動脈に別の血管を繋ぐには高度な腕がいる。

{心臓が動いている状態でどうやって手術するのかと不思議に思うかもしれないが、要は「集中」と「慣れ」だ。神経をグーッと研ぎ澄ませていくと動いている心臓が瞬間、止まって見える。出血していても、血が出ていないほんの一瞬がわかる。そのタイミングを見計らって、すかさず針を通す。}[1,p148]


吉川英治の描く『宮本武蔵』では蠅を箸で捕まえるシーンが出てくるが、それを思い起こさせる話である。


■3.「心臓外科手術は決闘」

宮本武蔵は29歳までに六十余回の決闘をして、一度も負けなかったという。天野医師はこう語る。

<心臓外科手術に望む心境をたとえるなら、昔、決闘に向かった人々の気持ちと同じではないだろうかと感じることがある。勝負を挑み、いずれか果てるまで闘う。宮本武蔵もそう。戦国の武将もそう。>[2,p197]

外科手術は閻魔さまとの決闘だ。剣豪が決闘に負ければ自らの命が失われるが、心臓外科医が負けたら、患者の命は閻魔さまに持って行かれる。剣豪の決闘も心臓外科手術も真剣勝負である。

だから天野医師は手術件数と手術死亡率にこだわる。手術件数が多いことは、それだけ多くの人々の命を救う決闘の回数だし、手術死亡率を減らすことは、閻魔さまに対する勝利を増やすことだ。

心臓外科医として25年余りで、6千人を超える患者の手術をしてきた。その中で50人ほどは命を助けられなかった。

「今も亡くなった患者さんの顔が、事あるごとに浮かんでくる。病室や手術前の表情、交わした言葉、残された家族の方々...。その命をこの肩に背負って運び続けたかったのに、できなかったという悔しい思いが残る。・・・

もちろん、全力は尽くした。懸命に閻魔さまと闘った。しかし、それでも助けられなかったのは事実だ。なぜ助けられなかったのか、どうしていれば救えたのか。敗北の原因を必ず分析して、その結果を今後に生かすようにしている。

二度と同じ結果は招かない。絶対に無駄にはしないぞと心に決めている。亡くなった患者さんたちのことは、そうやって死ぬまでずっと引き摺っていく覚悟でいる」。[1,p31]

■4.つねに「完璧な完成度」を目指す

決闘に勝つためにも、天野医師の日頃の修練は凄まじい。たとえば、手術での糸結び。若い頃に、正確で速い糸結びが重要と教わって、暇さえあれば糸結びの練習をした。1分間に90回、繰り返し結ぶことができるようになった。それも患者の体内の深い所での結び方、片手しか入らない時に行う結び方など、さまざまな状況での結び方がある。

しかし6千人以上も手術をしても、技術を磨く道には行き止まりはない。

「むしろ、そこから先も私は、まだまだ成長していると思っている。血管のつなぎ方ひとつにも、それまでの「しっかり堅固に縫う」から、ときには「あえて緩く縫う」ことができるようになった。しなやかさを残して縫合することで、手術後の回復に良い結果が出ることもある」。[1,p152]


前述のオフポンプ手術も、こういう日頃の技の追求からもたらされたものだろう。

天野医師は、他科の先生から「手術、飽きないの?」とよく聞かれる。すると「飽きることはありません」と即座に答える。

「医療に限らず、自分で選んだ仕事をしていて自分の行っていることに「飽きる」という感覚があるとしたら、中途半端に妥協していることにほかならない。それは「このぐらいでいいだろう」という甘えにもつながっているからだ。

自分の行っている仕事につねに「完璧な完成度」を目指し、そこをひたすら求めていく限り、飽きるということはまったくない」。[2,p152]

一人でも多くの患者を救うために「完璧な完成度」を求め続ける一途な姿勢が、宮本武蔵のような求道者を思わせるのだろう。


■5.武士道と「医師道」

「武士道という言葉があるように、私は『医師道』というものもあると信じている」と天野医師は語る。[2,p13]

「医師となったからには、「医師道」をもって医師の道を究めたい
---。・・・

私は、武士道を次のように理解している。

「他の人々と共存し、支えあって自分の位置を築いている。だが、ひとたび、“いざ、鎌倉”となれば、武士は身を投げ打っても、人々のために尽くさねばならない。

これは医師の道も同じである。

ひとたび医師となったからには患者さんのために、すべてがある。医師にとっての「いざ鎌倉」は患者さんが医師に助けを求めたときである」。[2,p239]

毎日、手術に取り組む天野医師は、毎日が「いざ、鎌倉」である。まさに常住戦場だ。毎日、助けを求めてやってくる患者をいかに助けるか、その使命感があるからこそ、「完璧な完成度」を求めて技を磨くのである。


■6.「父を引っ張っていった閻魔さまと戦ってやる」

こうした使命感を持つに至ったのは、若い頃に父親を心臓弁膜症で亡くした体験からである。父親は3回の手術を受け、その3回目の手術でトラブルが重なり、天野医師の目の前で亡くなった。

3回目の手術は父親の家に近い病院で受けたのだが、心臓を補助していた人口心肺装置が外せなくなったり、下半身への血流が途絶えたりと、心臓の手術をする上で、「これだけはしてはいけない」というようなトラブルが、5つも6つも立て続けに起こった。

「あの手術室の中で、父は「心臓外科として、もうこれだけは絶対にやるなよ」というトラブルやミスを自分の体で僕に見せてくれた。命と引き換えに教えてくれた。・・・

 父の命には手が届かなかったが、その代わりに、これからたくさんの患者さんの命を救っていく、待っている家族に届ける。それが、自分に課せられた使命なのではないか。

父を引っ張っていった閻魔さまと戦ってやる....。

その気持ちが、心臓外科医として猛進していく原動力になった」。[1,p123]

■7.「自分が受けた恩恵を世の中に返したい」

医師道のもう一つの原動力は「自分が受けた恩恵を世の中に返したい」という報恩の心である。

「私は父の心臓弁膜症がきっかけとなり、医師への道を歩み出した。父は3度目の心臓手術の後、帰らぬ人となったが、そこまでには多くの医療の恩恵を受けてきた。私自身も直接に、間接に診察や手術などで医療の恩恵を受けたことで、今の自分があると思っている」。

しかも、医師になる過程で家族や世の中から多大の恩恵を受けている。親に育てられ、学校の教師から教わり、大学では、国立大学はもちろん私立大学の医学部も、国から相当の助成を受けている。

医師となってからも、恩師や先輩医師、そして患者からも様々に教えらされ、叱られ、励まされて、一人前に育っていく。自らが受けた恩恵を広く世の中に返したい、という初心があれは、情熱は自然と出てくる、と言う。

■8.「世のため人のためになってこそ価値がある」

使命感と報恩の心で世のため人のために尽くしていく。その道は「医師道」に限らないと天野医師は考える。

「医師は人の痛みを取り除く職業である。当然、世のため人のための思いがなければ医師であってはならないとさえ思う。「この人を絶対に助ける」という、熱い思いを持って、真剣勝負をしなければならない。

熱い思いで一生懸命になることが大切なのは、何も医師の世界だけのことではない。会社であれ、お役所であれ、お店であろうが、その存在と仕事が、世のため人のためになってこそ価値がある」。[2,p14]

たとえば、東日本大震災では自衛隊員、消防隊員は言うに及ばず、スーパーのおばさんから宅配便のお兄さんまで、一刻も早く住民の生活を再建しようと、それぞれの場で立派な働きをした。[a]

日頃から使命感と報恩の心で、それぞれの仕事に取り組んでいるからこそ、大震災という「いざ鎌倉」に際して、大きな力を発揮できたのである。

医師道に限らず、どんな職業も「道」だと考え、そこで自らの技量を磨き、世のため人のために尽くしていこうと志すのが、わが国の伝統的な職業観である。この職業観は、当人に使命感とやりがいを与えるだけでなく、互いへの思いやりに満ちた世の中をつくる。医師道を行く天野医師の生き方はその模範を示している。


■リンク■

a. JOG(699) 国柄は非常の時に現れる(上)〜 それぞれの「奉公」
 自衛隊員、消防隊員は言うに及ばず、スーパーのおばさんから宅配便のおにいさんまで、それぞれの場で立派な「奉公」をしている。
http://blog.jog-net.jp/201105/article_4.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介がめんに飛びます。

1. 天野篤『一途一心、命をつなぐ』★★★、飛鳥新社、H24
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4864102236/japanontheg01-22/

2.天野篤『熱く生きる』★★★、セブン&アイ出版、H26
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4860086279/japanontheg01-22/


◆木津川だより「上津道の散策」

白井 繁夫
 


この度、訪ねた「東大寺転害門」(てがいもん)は、泉津からの上津道と藤原京から平城京への上ツ道との接点であり、平城京の東端の東七坊大路に面し(地図Z:4番)、京方面から東大寺を訪れる人々を最初に出迎える大門です。
  地図Z:http://chizuz.com/map/map127235.html

この国宝の転害門は、度重なる戦乱に遭いながらも天平の東大寺創建時の場所で焼失せずに残っている数少ない建造物です。ですから、当時の平城京の復元図を作成する場合の測量などの時、定点となる重要な遺構です。
 
ところで、「東大寺の歴史」は皆様良くご存じと思いますので、短絡して記述します。

聖武天皇が、天平15年(743)、大仏造顕の詔を近江国紫香楽宮で発して大仏造立工事を始めましたが、その後、天皇は(難波宮を経て)平城京へ帰ってきました。天平17年に再開工事を平城京で着手し、天平勝宝4年(752)4月に大仏開眼供養が執り行われました。

しかし、台座をはじめ色々な建物が最終的に完成するのに、宝亀2年(771)までの歳月を要したのです。
 
当時の東大寺の寺地は平城京の条坊のサイズで計ると50町と云われていた広大な地所でした。そして、明治の廃仏毀釈で分離した手向山八幡宮も、元々は東大寺の鎮守でした。
「九州の宇佐八幡を勧請(天平勝宝元年:749)した。」と云われています。
但し、現在の手向山神社は創建時の地点から1237年に現在地に移転しています。

「転害門」は三間一戸、八脚門(柱間が前後三つで中央が戸口)の形式を持った堂々たる大門です。屋根は切妻造り、本瓦葺で創建以来立ち続けている門です。天平時代の雄大な伽藍建築が想像できる遺構です。

八脚門は格式の高い門であり、現存する天平時代の門では法隆寺の東大門とこの転害門だけだと云われています。

ところで、「転害門」の名称の由来には次のような説があります。

★ 東大寺の大仏殿(金堂)の西北にこの門があるので、吉祥の位置で害を転ずる意から「転害門」と云う。

★ 東大寺の鎮守八幡宮(手向山神社)が催行する10月5日の祭礼(転害会:手掻会)「宇佐八幡神が東大寺に影向の時、諸神を手招きし、手掻門より入る」のお旅所であったことに由来する。碾磑門(てんがいもん)→転害門(てがいもん)→手貝門

東大寺は治承4年(1180)12月、平重衡の兵火で巨大な伽藍は灰燼となり、寺地の周辺部の法華堂.開山堂.転害門などを残すのみで一面が焼け野原となりました。

(俊乗房)重源は、建築事業を学ぶため、三度渡宋した経験を見込まれ東大寺勧進職に任命されて大仏鋳造を開始し、文治5年(1185)大仏開眼供養を行い、それから10年後、金堂、中門などの完成を得て、建久6年(1195)3月、天皇の行幸を仰ぎ、鎌倉の将軍:頼朝も参加する盛大な金堂落慶供養が催行されました。

「転害門」の鎌倉期改修は、建久6年の大仏殿竣工式に合わせ、京街道側の東大寺への入口門をもっと雄大で立派な体裁に整えるための改造で、大きく改修した所は組物(くみもの)を平三斗から出組(でぐみ:一手先)に改造:組物を一段だけ「斗(ます):と肘木」高くして建物が立派に見えるように屋根を高くし、軒先も前に伸ばした大門です。

その後の戦乱:永禄10年(1567)の松永久秀の兵火で東大寺の伽藍はまた灰燼となりましたが、周辺地にあった「転害門」は焼失を免れて残りました。

「転害門」は別名:景清門とも云われています。(源頼朝を暗殺しようとして、平景清が潜んだとの伝説に由来)(再掲)

参考文献: 国宝 東大寺転害門調査報告書   (2003年3月)
                        奈良文化財研究センター
      古寺巡礼奈良  東大寺       淡交社

                          (郷土愛好家)

2015年07月20日

◆介護が提起する「低所得」把握

佐藤 好美
 


特別養護老人ホームなど介護施設に入所したときの食費・居住費の仕組みが8月から変わる。一定以上の預貯金などがあると、負担軽減を受けられなくなる。

手続きは始まっている。通帳のコピー提出を求められ、不愉快な気分になった人もいると思う。

施設の食費・居住費の負担軽減は、貧しい人の救済策だから、「誰が貧しいか」を把握するのが鍵になる。判定は現在、住民税頼りで行われる。

しかし、「住民税が課税されない世帯」が一概に貧しいとは限らない。例えば預貯金や株の配当が多いこともありうる。

住民税は、所得税と同様に「クロヨン」と呼ばれる所得捕捉の限界も抱える。

非課税年金である遺族年金や障害年金の情報も反映しない。非課税年金は「収入ゼロ」と見なされるから、同じ250万円の年金でも、「多くが遺族年金」という人は住民税が軽く、「多くが厚生年金」という人は住民税が重い。

その非課税年金の扱いも変更になる。来年8月からは食費・居住費の負担軽減で限定的にだが、判定の一つに加えられる。

市区町村には今、住民の非課税年金に関する情報はない。それが来年には年金保険者から届くようになる。極めて大きな変化だ。

制度の方向性は正しいと思う。新しい施策だけに細心の注意は必要だ。負担軽減が停止になる一人一人には、聞くべき事情があるかもしれない。

食費・居住費が高いことも影響を拡大させる一因だ。都会では月20万円近いところもある。介護保険施設には「ほどほど」があっていい気がする。

制度変更は、介護保険財政の逼迫(ひっぱく)が引き金だ。それでも、現行制度の限界を直視し、住民税一辺倒だった低所得者の判定を、一部とはいえ見直す意義は大きい。豊かさや貧しさを測る、より公平な指標づくりに向けた努力が問われる。


今回の改正は、介護保険サービスで負担軽減を決める指標が「住民税が課税されない世帯かどうか」だけだったのを、一部、見直すものだ。金融資産や非課税年金の収入も判定対象に加え、より公平な仕組みにする狙いがある。

骨格を決めたのは、厚生労働省の介護保険部会。経済学が専門のある委員は、締めくくりの部会でこの点に触れ、「社会保障をめぐる議論の中で必ずしも浮き彫りになっていなかった非常に重要なポイントが、介護保険から提起できた」と評価した。

公平を目指すとはいえ、初めての取り組みだから、実務の大変さは並ではない。

市区町村には、住民の預貯金や有価証券などの情報はない。だから、利用者や家族の自己申告に頼らざるを得ない。提出された書類が疑わしければ、金融機関に照会し、虚偽だと分かれば加算金を課すという。だが、あくまでも自己申告だから正直者が損をするのでは、という疑念はぬぐえない。

それでも、制度は導入された。現行制度が必ずしもフェアでないことを、厚労省や識者、関係者らが実感していたからだろう。(論説委員)
産経ニュース【一筆多論】2015.7.18

◆イサム・ノグチの母の生涯

櫻井よしこ



「日米で翻弄されながら生き抜いた」

私の手元に『レオニー・ギルモア イサム・ノグチの母の生涯』(彩流社)という500ページを超える大部の書がある。著者はエドワード・マークス氏。1963(昭和38)年、ロサンゼルスで生まれた氏は、現在愛媛大学で英米言語文化論を教える准教授だ。
 
彫刻家、イサム・ノグチは、波乱の人生を生きた山口淑子(李香蘭)の夫だったこともあり、その名は日本だけでなく米国でも広く知られている。

他方、その母、レオニーは比較的忘れられた存在だった。マークス氏はそのレオニーに光を当て、見事なアメリカンレディの生き方を描いてみせた。
 
彼女は1873(明治6)年、ニューヨークで生まれた。恐慌で職を失っ人々が溢れていた時代で、レオニーも労働者の子弟のために設立された授業料無料の「労働者学校」を卒業した。同校は子供たちに自分の手で物を作らせることを重視した。自分の手、つまり五感を使って理の真実を発見させることを目指した学校だった。
 
レオニーのその後の生き方を見ると、彼女はこの教えを基本に、2人の子供を育てたのではないか。彼女は子供たちに体を動かすこと、五感を磨く教育を施したが、そうして実を結んだのが、イサムであり、その妹で世界的なバレエダンサー、プリマバレリーナとなったアイレスだったと思う。
 
レオニーがイサムの父、つまり、米国で大活躍していた日本の詩人、野口米次郎と出会ったのは1901(明治34)年だった。彼の詩の英訳者として働いたのがレオニーだった。
 
レオニーの言語感覚は鋭く、やがて野口は彼女に彼の詩を「簡潔ですっきりした」表現に、「不必要な言葉は取り除いて、効果的に凝縮」させるようにと要請するようになった。彼女は米次郎の詩を英訳しつつ、作品として「仕上げる」役割も果たした。
 
1904(明治37)年、彼女はイサムを身ごもったことを米次郎に告げた。すると彼は「どうして妊娠したと分かるんだ」など、男の風上にも置けない言葉で応じた。

米次郎は妊娠したレオニーを置いて帰国し、別の米国人女性エセルを呼び寄せて結婚する気になっていたのだ。
 
レオニーはロサンゼルスに移り、1人でイサムを産んだが、このことは新聞に大きく報道された。米次郎がよく知られた詩人だったことや、当時、米国人は日露戦争で日本が勝つように応援していた時代である。
 
だが、米国世論はすぐに反日へと大きく変わっていく。日露戦争後、米国、とりわけ西海岸では日本人に対する人種差別は凄まじかった。人種差別の嵐の中で日本人詩人の子供を、シングルマザーとして育てることは大変なことだったはずだ。
 
レオニーとイサムはみすぼらしいテント張りの家に住んでいたというが、レオニーは貧しさを一向苦にしなかった。幼いイサムはテントの周りの自然の中で駆け回り、極めて利発な男の子として成長した。彼が2歳のころ、母と子は米次郎に迎えられて来日するが、その結婚生活もやがて破綻していく。
 
レオニーはその後、別の日本人男性との間に娘のアイレスを生む。この女児を世界的なプリマに育て上げたのは前述の通りだが、レオニーは生涯、父親の名前を口にしなかった。
 
日本と米国、2つの異なる文明の間で、自分を愛してくれなかった男性を、それでも愛し、やがて誇り高く独り立ちした女性がレオニーだった。
 
本書を読んで私はあらためて米国という多人種国について学んだ気がする。ちなみに本書は、シンクタンク、国家基本問題研究所の「寺田真理記念日本研究賞」の今年の受賞作品である。同賞は日本に関心を持ち、日本研究をしてくれる外国の研究者が対象である。少しでも日本理解が進んでほしいとの願いを私たちはこの賞に込めている。

『週刊ダイヤモンド』 2015年7月18日号 新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1092 
                (採録:松本市 久保田 康文)

◆習近平が突如、北朝鮮国境の街に出現

宮崎 正弘 



<平成27年(2015)7月18日(土曜日)弐通算第4607号 > 

 
〜習近平が突如、北朝鮮国境の街、延吉、図門、軍春に出現
  表向きの理由は東北三省の経済不況視察だったが。。。〜

習近平が総書記に就任以来、初めて吉林省の北朝鮮国境にある延辺朝鮮族自治区の中心土地、延吉に飛んだ。4月16日である。

同自治区一帯に住む朝鮮族は210万人といわれ、また脱北者の拠点でもある。

東北3省視察が表向きの目的で理由は全省のなかでもGDP成長が極端に悪い、遼寧省、吉林省、黒竜江省を視察することによって、いったい何が原因で経済発展から阻害されたのか、いかような対策が立てられるか現場の声を聞こうとするものだ。

現実に3月の全人代で習近平は東北3省の代表団に向かって発破をかけている。

公式GDP統計(2014年度)でも遼寧省GDP成長は5・6%,吉林省は6・5%,黒竜江省は5・8%となっており、遼寧省の工業生産はマイナス4・5%である。農業いがいこれという産業のない東北からは、若者の流失が顕著で、人口減という中国では珍しい現象を呈している。

しかし習近平は吉林省延辺自治区の中心都市、延吉で自動車工場を視察し、半分しか操業していないことに愕然としたらしい。

つぎに和龍市光東村(延吉から南西へ50キロ)という典型の朝鮮族集落を訪問し、そこからUターンして北朝鮮との国境の街、図門に向かった。

図門は目の前の図門江を挟んで対岸は北朝鮮である。貿易特区構想があり、72時間以内の滞在はヴィザ免除措置がとられている。

つぎに習近平は急ぎ足で軍春へ駆けつけ、いわゆる「三角地帯」、つまり北朝鮮とロシアとの国境地帯で工業団地がたちならぶ場所の視察を行った。

▲一時期、日本の日本海沿岸諸都市は『日本海経済圏』構想に熱中した

遠い昔になったが、この三角地帯の団地で生産される物品は貨車でロシアのポシェット港へ運ばれ、日本海を越えて、輸出されるという「日本海経済圏」プロジェクトの目玉でもあった。

一時期、日本の日本海沿岸諸都市、新潟、富山、金沢などの実業界は『日本海経済圏』構想に熱中したこともあった。

掛け声高く、しかし鉄道の開通は遅れ、進出企業が少なく(筆者が十数年前に取材したとき、日本企業の進出は僅か2社だった)、プロジェクトは半ば頓挫していた。

中国中央政府は、東北3省の農業生産を重視したものの、辺疆貿易にはあまり関心がなかった。
 
俄然、習近平が視察する気になった動機は5月のモスクワ訪問である。

5月8日から10日の訪問で、習近平はプーチンと会談し、日本海沿岸からシベリアにかけての経済開発、共同作業が語られた。プーチンはシベリア極東開発に異様な関心を寄せており、ウラジオストックにAPECを誘致したうえ、自動車産業を育成してきた。

習近平にとって、これは宿題ともなったらしい。

また軍春は中国が高らかに進める「一帯一路」(シルクロード構想)では、その出発点の一つと位置づけられた経緯もあるからだ。

こうみてくると、今回の北朝鮮国境視察は北朝鮮への政治的牽制でもあり、金正恩への冷遇には変化が無いようだ。

(註 図門の「門」はにんべん、軍春の「軍」は王扁)

(拙著『トンデモ中国 真実は路地裏にあり』(2008年、阪急コミュニケーションズ)の80−90pに、この周辺紀行を詳述)。

◆平気で嘘つくアカ系マスコミ

平井 修一



石井孝明氏/ジャーナリストの論考というかルポ『異様な安保法制反対デモ、「笑劇の現場」』(アゴラ7/18)は生々しく、衝撃的で、「やがて哀しき」の憐れさが漂っていた。(原文には写真が多数あるが、引用に際してはカットした)

<安全保障関連法案が衆議院の特別委員会で採決された15日(水曜日)、同本会議を通過した16日、国会議事堂周辺では早朝から、法案に反対するグループのメンバーらが集まり声を上げていた。

筆者はこの近くの共有オフィスを仕事場にしているため晴れの15日は午後1時ごろ、曇りの16日は午後4時ごろ、近辺を通った。奇妙で異様な雰囲気だった。

新聞では、「日本の将来を憂う」「正義感に満ちた純粋な」「普通の市民」が議事堂周辺に来て、デモを行ったという趣旨の、好意的な報道をしていた。筆者はテレビをみないが、そこでもそうだったらしい。

はっきり言うが、その描写は嘘だ。デモはそんな「かっこいい」雰囲気ではなかった。形容できる言葉を並べると「老い」「とげとげしさ」「政治団体の強い影響」「奇妙な人々による」という異様な雰囲気のデモだった。

*「老い」「とげとげしさ」「異様さ」

デモ参加の人々は国会周辺を議事堂の裏手にある議員会館前、そして正面の緑地に誘導されていた。警視庁機動隊は、注意を受けているためか、物腰は丁寧で警備慣れしていた。

メディアでは映されないが、組合ののぼりが立ち並んでいる。参加者の大半は、自発的に集まったのではなく、組織に動員されていた。「写真2」は日教組の固まった場所だった。平日から公務員が仕事をせずに、政治活動をしている。「写真3」は労働組合の「連合」の抗議だ。組合のすることは安保ではないはずだ。この組織はいったいなんのために存在しているのか。

写真2と3の現場の周辺の人は、60才前後に見えたが、これでも若い方だ。参加者は高齢者ばかりだった。全共闘の「敗残兵」であろうか。

15日は晴れで最高気温は都心で35度、16日は曇りでも30度になっていた。平均年齢は70−75才前後で、暑さでへたばっていた。健康を害するのは自己責任だが、視覚障がい者用のプレートや公道の上に座り込んでいた。その姿はマナー違反であり、とても見苦しい。

筆者は東アジア儒教文化圏に属する日本人として、高齢者への敬意を常に抱くが、この人々に「老醜」という言葉を使いたくなった。

デモでは、なぜか警察官にどなりちらす高齢者、参加者が常にいる。平和を訴える人たちのデモは、攻撃的でとげとげしかった。警察官の対応は、見る限りにおいて、中立だった。15日に警察官の胸ぐらをつかみ、公務執行妨害で2名が逮捕された。そのうち60才代の男は中核派の活動家だった。

そして、中にはぶつぶつと独り言を言って歩いているとか、奇妙な格好をして演説をしている人とかも、道路にそって20メートルに一人ほどいた。ゴテゴテとおかしな表示をした車で乗り付け、拡声器で騒いでいる人もいた。はっきり言うと、気味が悪い。

*若者代表「シールズ」の正体

ちなみに筆者は夜は多忙で現場を見なかった。そこでは学生団体と自称するシールズという団体が、国会前デモを仕切ったようだ。10万人の参加者と発表したらしい。国会前の緑地帯がいっぱいになる程度なら多くて数千人だろう。10万人も集まれば、へばった高齢者の中から病人も出ただろうし、糞尿の処理、東京都心の鉄道ダイヤ乱れで大変だっただろう。すぐばれる嘘はつかない方がいい。

市民が自発的に集まることなど、めったにない。ロジ(平井:運送・搬送・送迎?)、動員を行う組織があると考えることが自然だ。

ちなみにこのシールズと称する学生団体は主宰者が不明だ。メディアに出た名前を検索すると、共産党系の学生団体の民青の活動家、共産党地方議員の子弟の名前が簡単にひっかかった。私は3人確認した。活動家たちは、最近は名前を出さないようになった。

シールズは、おそらく共産党の戦略として、かっこいい名前をつけて中立色を強め、18才への選挙権拡大をにらみ、この騒動をきっかけに若者を取り込もうという意図の、大衆運動なのだろう。シールズは米海軍特殊部隊の名前だ。何も知らないで集まった若者を、オルグ(組織に引き込む)するのかもしれない。

こんなの5分あれば怪しい集団と、ネット検索から分かる話だ。日本の新聞(毎日、東京、朝日、共同通信)・テレビ(TBS・JNN)は、こうした団体を「若者代表」という扱いで大きく取り上げていた。偏向報道だ。

さらに民主党は滑稽だ。枝野幸男幹事長は、この共産党の仮面団体(らしい)シールズの集会で演説していた。野党勢力の共闘の名目で、共産党の党勢拡大に協力している。きつい言葉を使えば「まぬけ」と評価できるだろうし、民主党で中道の立場の支持者は、こうした左傾化を怒っていい話だ。

ちなみに枝野氏の支持母体の一つとされる極左暴力集団革マル派は、共産党と長い対立の歴史があるのだが、スポンサーの意向を彼は知らないのだろうか。

*バイアスのかかった報道と政治活動

こうして現実のデモの奇妙さ、異様さを目にして、筆者はメディアに流れる安保法制をめぐる情報が、偏向していることを確認した。そして安保法制をめぐる無駄な政治騒擾が、あほくさく、むなしくなった。くだらない騒ぎに、くだらない政治家が乗っかっているのだ。

もちろん、筆者の見た情景は一部だろうが、とても「怪しい」人々が集まっている。もし疑問に思ったら、こうしたデモを見に行けばいい。筆者が描写をたいして誇張していないことが分かるだろう。

こうした騒擾への対応に無駄なエネルギーを、政府も私たち「普通の」市民も、割くことはばかばかしい。池田信夫氏が、60年安保と今回のデモを比較し、「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は笑劇として」とマルクスの言葉を引用して、デモの光景を皮肉った。(記事「安保法制反対デモの笑劇」)

このデモは、たしかに奇妙で滑稽な「笑劇」だった。現実を目にした筆者もデモを笑った。しかし、その笑いでは軽蔑を込めた「冷笑」しか浮かばなかった。共感などかけらも感じられなかった。「戦争法案反対」と叫んでいたが、そもそもそんな法案はないのだから。

たしかに今回審議の進む安保法制には、憲法との整合性を含めて多くの問題があるだろう。しかし過剰に反対を主張する人は、どうもおかしな人がそろっていた。私たちは、この奇妙な人たちにかかわる必要はない。

現実に中国の脅威は深刻になり、そして経済の成長率の鈍化という危機は進行している。無駄な主張をする反対派を相手にせずに、粛々と安保体制の整備と問題点の是正、「税金に寄生する人」を減らして経済を強くする取り組みを進めたい>(以上)

この老人たちの多くは日共関係者なのだろうか。そう言えば以前にこんな記事があった。

毎日新聞4/21日「【辺野古移設】反基地運動のリーダー、悪性リンパ腫のため闘病生活へ 今年2月には逮捕された経験も」から。

<長く沖縄で反基地運動の先頭に立ち、沖縄県名護市辺野古で米軍普天間飛行場移設の抗議活動を続けている沖縄平和運動センター議長、山城博治(ひろじ)さん(62)が、悪性リンパ腫のため闘病生活に入ることになり、21日で抗議活動からいったん離れることになった。少なくとも数カ月は治療に専念するという。

山城さんは大学卒業後、県職員になり、その後は自治労沖縄県本部副委員長や平和運動センター事務局長を務めて沖縄の平和運動の中心にいた。

昨夏から始まった辺野古のキャンプ・シュワブゲート前の座り込みの抗議は21日で289日目となるが、山城さんは仮設テントに寝泊まりするなどして現場をまとめてきた。

山城さんは「闘いはこれからだと思っていた矢先に長期離脱するのは悔しい」と目を潤ませながらも、いつもと同じようにマイクを握って「政府が総がかりで抑えようとしても、20年近く頑張ってきた沖縄の決意は変わらない。病気を克服して必ずゲート前に帰ってくる。戦後70年の節目に、未来を県民の手にたぐりよせることができる時代をつくろう」と話した>(以上)

老いれば病気になるし、涙腺緩む。アカはいずこも高齢化。それにしてもこの方はどうやって飯を食っているのだろう。カンパで稼いでいるのだろうか。

琉球新報2014/5/19『雨の中「普天間返せ」』記事中に「参加者の声:県民の参加少なく残念」というコラムがあった。

<比嘉有仁さん(70)=北谷町 平和行進には、平和憲法を次世代に継いめの意味合いもあると思って参加しているが、県民の参加者が少ないように思えることが残念だ>

沖縄で騒いでいる人の多くは本土からの活動家ということだ。琉球新報はこの秘密をばらしてしまった。大チョンボ。

国会デモの老人たちは年金暮らしなのだろうか。日当は出るのだろうか。分からないことばかりだ。赤旗7/16は「国会前 6万人余が抗議」と書いたが、同7/17は「戦争法案廃案求め 国会前 数万人」とあった。白髪三千丈のデマか。平気で嘘をつく。アカ系マスコミはそんな類だろう。   
                       (2015/7/18)

                  

◆白いあごひげの仙人

舞の海秀平



明治時代、大阪の谷町(たにまち)に相撲を愛した医師がおり、力士を無料で診察したことから、いつしか熱心な後援者のことを「タニマチ」と呼ぶようになったとされている。

16年前の名古屋。西の十両筆頭として土俵に立っていた。その頃はけがが重なっていたこともあって幕内に戻れる最後のチャンス、という思いで臨んでいた。

しかし、古傷の右足首の状態は悪化する一方。痛みでかかとをつくことすらできない。救いの手を差し伸べてくれたのが、愛知・尾張旭で整形外科を開業していた可知宏之先生だった。

白く伸ばしたあごひげは仙人のよう。診察してもらうと「よし、ワシが何とかしてやる」とだけ言う。痛み止めは1、2時間程度しか効かないから、と院長自ら忙しい合間に病院を抜け出して、本場所中の支度部屋に毎日来てくれた。

他の力士に弱みを見せられないため、明け荷のふたを衝立代わりにして、出番前に太い注射針を足首に刺してもらっていた。

そこまで献身的に支えてくれるからこそ勝って報いたかったが、負け越してしまった。負けた日の夜、連れ立って出かけた食事先で私生活のことを尋ねてくる店員を、先生は「酒を飲んでいるときに所帯じみた話をするな」と一喝。自分がいま、どんな気持ちでいるかを痛いほどわかってくれていた。

先生はもともと、出羽海部屋を応援してくれていた。相撲が強い子がいると聞けば、自ら足を運んで部屋に新弟子が入るように話をつけてくれることもあった。祝儀を渡したり、食事に連れて行ったりするばかりではなく、心の底から部屋の発展を願っていた。

兄弟子からは入院したときに病院食では足りないだろうと、隣のステーキハウスから出前をとってくれたという話も聞いた。力士の診察代を受け取ることはなかった。

9年前。ホテルで自伝を出版する打ち合わせ中に倒れて、そのまま帰らぬ人となった。もし今でも先生が生きておられたら、と思うことがよくある。名古屋の歓楽街に出て、ピアノの伴奏で十八番の「名古屋ブルース」を歌っているに違いない。

医院を継いだ先生のご長男とは今でもお付き合いさせていただいている。昔の話を聞くと、開業したばかりのとき、先生は患者の自宅へ往診に行ってそこで食事をごちそうになり、横に布団を敷いてもらって患者と並んでそのまま眠ってしまうこともあったという。誰かのためになりふりかまわず行動する人だった。

名古屋場所が来ると、先生の自宅にお邪魔して毎年線香をあげさせてもらっている。その足で隣接する病院に慰問へ向かう。そこでお年寄りの方々と触れ合っていると、片隅で先生がほほえんでくれている気がする。                 
(元小結 舞の海秀平)
産経ニュース【舞の海の相撲“俵”論】2015.7.

◆法律上の父親と血縁上の父親

〜法律コラム〜
阪下 慎太郎(弁護士)



民法772条1項では「妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する。」と規定され、婚姻中に妊娠した子について、その父親は夫であると法的な推定がはたらくことになります。

一方で、過去の判例によると、妻の懐胎期間が、事実上の離婚や夫が遠隔地にいる場合(夫の収監や海外赴任等)など夫婦間の性交渉がおよそあり得ない場合には、法律上の推定がはたらかないと考えられています。

夫の子であると法律上推定される場合、父子間の親子関係を否定するためには、夫が子の出生を知ったときから1年以内に家庭裁判所に「嫡出否認の訴え」を提起しなければなりません。

一方で、法律上の推定がはたらかない場合には、父子間の親子関係を否定するためには、「親子関係不存在の訴え」を提起する必要がありますが、これは基本的には誰からでもいつでも提起することができます。

今回ご紹介する事例においては、妻が婚姻期間中に夫以外の男性の子を妊娠してしまったけれど、夫婦間で性交渉はおよそあり得ないとはいえない場合で、かつ、夫も自分の子ではないことを認識して、1年以上がたってしまいました。

その後、夫婦は離婚し、その後子から夫(父)に対して「親子関係不存在の訴え」が提起されました。

このとき、DNA鑑定によると、この夫以外の男性が子の生物学上父親である確率は、99.99……%でした。

しかし、最高裁は、この事案において、「夫と子との間に生物学上の父子関係が認められないことが科学的証拠により明らかであり、……という事情があっても、子の身分関係の法的安定を保持する必要が当然になくなるものではないから、……親子関係不存在確認の訴えをもって当該父子関係の存否を争うことはできない」としています。

つまり、仮にDNA鑑定で99%父子関係はないとしても、法律上の父子関係が推定される場合には、父親が子の出生を知ったときから1年以内に「嫡出否認の訴え」を提起するしか、親子関係を否定する方法はないというのである。

確かに、DNA鑑定が法律に優先するとしたら、いたるところで親子関係を確認するためにDNA鑑定が行われる等の事態となってしまうかもしれません。

しかし、自分の父親が誰であるかという重要な事実を確定させるために、DNA鑑定を行っても法的な推定を破れないとするのは、子どもにとっては重大なことです。

法的な安定、生物学的な根拠、みなさんはどちらを優先すべきだと思いますか。


                    (川原総合法律事務所)


2015年07月19日

◆私の「身辺雑記」(241)

平井 修一


■7月16日(木)、朝は室温29度、どしゃ降り、8時過ぎに止んだのでハーフ散歩。

昨日は衆院特別委で安保法制案が可決されたが、今朝の産経の法案解説を読んでもチンプンカンプンだった。ま、お友達を守るためにも中共を叩けることになるのだなあ、世界中で機雷の掃海をして海の安全に貢献できるのだなあ、普通の国にある程度近づくのだなあ、ということだろう。

そのうちに米国から核ミサイルをレンタルすることになれば、抑止力はさらに増すだろう。レンタルの交渉を始めること自体が抑止力にもなる。9条狂徒は卒倒して寝込んで、やがて黄泉の国へ行くのだなあと思うと大いに楽しみだ。

昨日の国会デモで60代の中核派がパクられたそうだが、高齢化は著しい。保守系政治ブログの「依存症の独り言」は結構有名だが、プロフィールにはこうあった。

<坂 眞(ばんまこと)はペンネーム。年齢は「全共闘世代」のちょっと下。最初は公務員だったが、故あって職業を転々。モノ書きのハシクレ。

政治的には激烈なる反中派であり、かつ嫌韓派。腐臭ただよう傲慢中共と永遠の被害者・韓国の妄動に吐き気をもよおすこのごろ。

男は優しくなければ生きている資格がない、が、たくましくなければ生きていけないからね、つらいよ...ホント>

この方も、パクられた中核派老人も、元中核派の小生も同世代だろう。で、この方がこう書いている。

<元過激派として思うのだが、60歳を超えて過激派、もしくは極左というのは、私の想像の域を超えている。

荒川碩哉氏(警官殺害で実刑、2000年に満期出所。中核派は“不屈の英雄”として組織の大幹部に据えていたが、なんと公安のスパイだった)が事件を起こした1971年当時(平井:11月の渋谷暴動。9月にパクられた小生は独房でこれを知った)は、私もバリバリの過激派だったが、この日本で暴力革命なんてありえないとすぐに悟った。

私には、掲げた目標を50年以上経っても達成できない政治組織が存続していること自体が理解できない。しかも勢力は衰退の一途なのに、そんな組織に加入して意気揚々と活動している感覚が異常としか思えない。きっと私の思いは、大半の方が感じていることだと思う。

中核派や革マル派だけではない。社民党や共産党も同じだ。彼らが掲げる目標は何十年経っても達成できないどころか、年々勢力は後退し、今や極少派である。

支持率も、社民、共産、過激派を合計して2%程度にすぎない。それでも「私たちは正しい」「国民大衆の理解が足りないだけ」ってか>(以上)

オツムの弱い議員など中2坊主どもは「戦争反対、徴兵にNO!」なんて叫んでいるけれど、そもそも今の日本は大東亜戦争によって生まれたわけよ。この戦争がなければ大日本帝国憲法が今でもあるわけだ。

さらにさかのぼって戊辰戦争がなければ徳川幕府が今でも続いていたかもしれない。戦争は歴史を動かす巨大な歯車だ。残念ながら「血降って地固まる」が現実だ。

「棄憲」の小生にとって9条狂徒らは理解不能、異星人どころか(選挙で)駆除すべき害獣だ。

■7月17日(金)、朝は室温28度、曇り、怪しげな黒雲がすごい速さで北へ流れていく。台風の影響だ。犬の都合(老いているから疲れやすい)でハーフ散歩。

小生の「座右の書」は塩野七生「マキアヴェッリ語録」、「何用あって月世界へ 山本夏彦名言集」、マルクス・アウレーリウス「自省録」、そして「毛主席語録」だ。

毛沢東が政敵を叩くために作った嘘八百の「毛語録」は習近平も当然読んでいるだろうが、小生にとっては中共を叩く際の参考になる。こんな一節があった。

<百花斉放・百家争鳴の方針は、芸術の発展と科学(平井:学問全般のこと)の進歩を促す方針であり、わが国の社会主義文化の繁栄を促す方針である。

芸術上の異なった形式や風格は自由に発展させればよいし、科学上の異なった学派は自由に論争させればよい。行政的な力を利用して、強制的に一種類の風格や一種類の学派を押し広め、他の種類の風格や他の種類の学派を禁止することは、芸術と科学の発展にとって有害である、と我々は考える。

芸術と科学における是非の問題は、芸術界と科学界の自由な討論によって解決し、芸術と科学の実践を通じて解決すべきであって、単純な方法によって解決すべきではない(1957年2月27日「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」)>(以上)

人の好い人民、特に知識人は「ほー、そうか、それなら」と色々発言し、あれこれ書いた。そして毛は中共を批判する人を「右派」として大弾圧(拘束、収監、追放、処刑)を加えたのだ。つまりは「百花斉放・百家争鳴」は毛の反右派(反毛)闘争の「罠」だったのだ。

殺人狂の毛沢東は実に悪知恵の働く悪党だった。スケールが大きく、まさにスターリンと並ぶほどの世紀の大悪党だった。

<1957年2月27日、毛沢東は「民主的諸政党」の代表者や中国共産党の幹部を呼んで最高国務会議を招集し、改めて中国共産党に対する批判を呼びかけた。

これ以後、知識人の間で中国共産党に対する批判が徐々に出始めるようになり、時がたつにつれてその批判は強烈なものに変わっていった。知識人たちは共産党が中華人民共和国を支配することに異を唱え始め、毛沢東の指導力まで公に批判されるようになった。

1957年5月15日、毛沢東は批判続出の事態に危機を感じ、新聞に対して党の批判とあわせて「右派」に対する批判も行うように奨励し、党中央宣伝部長の胡喬木に対して「右派」を批判する準備を行うように命じた。ただし、この時毛沢東は「右派らは有頂天になっている。まだ釣り上げてはならない」と述べている。

1957年6月8日、人民日報は「右派分子が社会主義を攻撃している」という毛沢東が執筆した社説を掲載した。これによって党を思い切って批判した知識人たちは毛沢東によって社会主義政権破壊を画策した「右派」というレッテルを貼られた。

知識人の粛清運動である反右派闘争は、この時から始まった。以後1976年に毛沢東が死ぬまで、中国で自由な言論が許されることはなかった>
(ウィキ)

今でも中共には「自由な言論」なんてこれっぱかりもありはしない。中共をヨイショする言論とクチパクだけだ。社会科学院の学者どもは習近平に恫喝されて失禁したまま、呆然自失。習にとって不都合な人民はすべて猿轡をはめられ、言葉を奪われるのだ。

個人投資家は上海株暴落を「股災=株の災い」と呼んでいるが、この言葉さえも「一時、検索不能にした。社会不安を招くような情報はどんどん削除されている」(日刊ゲンダイ7/14)という。

習近平はひたすらラストエンペラーの道を進んでいる。道連れになりたくないのなら習を排除することだ。9月3日はチャンスだろう。ゴルゴ13、アンタの出番だ。

■7月18日(土)、朝は室温28.5度、台風一過、快晴、爽やかな風、今朝も犬の都合でハーフ散歩。

生活するためのオツムソフトを「知恵」=戦術とすれば、いかに生きるべきかというオツムソフトは「知性」=戦略にあたるだろう。両方備わっている方がいいのかどうかは知らないが、知性だけで知恵がなければ「生活力のない奇人変人」に過ぎない。

この世は知恵さえあれば生きられるから、これが基本ソフトだ。低学歴で無学でも、実に生活力に富んでいる人、生きる上で賢明な人、生存本能にたけた人はいるものだ。「いかに生きるべきか、人間とは何か、どこから来て、どこへ行こうとしているのか」なんて(余計なことは)まったく考えもしない。「知恵者」はタフである。

ほとんどの人は「知恵者」で、一方で「知性者」「知恵+知性者」はまれにおり、大体社長/リーダーになっている。知性しかなくても良き知恵者がそばにいれば(番頭さん)大いに開花するケースは多い。

「知恵者」は経験、修行を重ねて、やがては優れた「知恵+知性者」になるケースも多い。優れた職人、匠は哲人の風格がある。

一方でまったく成長しない「知性者」も多く、「痴性者」というしかない人もいる。大江とか東大出の憲法学者とか、細川、小泉、村山、河野、鳩山、菅カラもそんな人だろう。現実を見る目がなく、己の世界に閉じこもった仙人のようであり、救いようがない。「痴性者」はこの世のガンだ。

で、結論。

1)リアリズム、現実から乖離した正義や理想は、往々にして夢想妄想になるから、特に国政に携わる政治家、官僚は、世界のなか、歴史のなかで日本の位置をしっかり確かめながら針路を決めるという、より良き「知恵+知性者」を目指すべきである。名こそ惜しめ。

2)現実主義で行くのであれば、新国立競技場については、池田信夫氏も指摘しているように、コンペでの2位、3位を検討すべきである(9.11跡地のモニュメントは2位の作品だそうな)。コンペのやり直しは不要。

3)強権的な個人独裁風経営トップが東芝を誤った。部下というものは上司の喜ぶ(自分も出世する)数字をあげる(作る)。粉飾決算。エンロンもやった、ギリシャもやった、小生もやった、みんなやっている。ばれない範囲、ばれても「見解の相違」で済む程度の粉飾にとどめるべきだ。中共はやり過ぎ。

4)習近平という強権的な個人独裁風政治家が権力闘争を激化させ、中共を破滅へ導いている。番頭は刎頚の友である王岐山。悪のツートップで安政の大獄のように弁護士を200人以上も拘束した。

国際弁護士・村尾龍雄氏の論考「中国律師の大量拘束の後に来るもの−中国の友人の立場から」7/14から。

<今でも冤罪事件にチャンレジし続ける弁護士を見ると、心からのリスペクトを覚えてしまいます。渉外弁護士(国際弁護士)をやっていても、人権関係の案件は弁護士の心の故郷的要素が強いのです。

世界の弁護士には私のようなしがない中小企業グループのおやじもいる一方で、オバマ大統領やヒラリー・クリントン次期大統領候補がそうであるように、国家及び地域の指導的立場にある弁護士出身者が星の数ほど存在します(与党でも谷垣自民党幹事長のように弁護士出身者が散見されますね)。

そして、彼らもまた現在は人権擁護派の活動に一切従事していないとしても、そのような活動に従事する弁護士に対するリスペクトを持ち続けるはずだ、と思います。

このような文脈で考える場合、中国における人権擁護派の弁護士の大量拘束のニュースを見た際の彼らのパブロフの犬的反応として「彼らを何とかして助けなければ」という第一反応と、「でも、そのために自分は何ができるだろうか?」という第二反応の連鎖が起きるだろうと推測することができます。

中国が常々主張するとおり、中国国内で行われる様々な事象は「内政問題であり、諸外国が口出しすべきものでない」のは正論ですが、中国の友人の立場から、人権擁護派の律師(弁護士)の大量拘束は、それがいずれも刑事処罰の対象となり、長期拘束を受ける場合、中長期に亘り「世界中の弁護士資格を有する者」という新たな批判者を登場させる可能性が非常に高いことを強い懸念として指摘しておきたいと思います。

私のように中国大好きの親中論者も世界中の弁護士に多数存在するのですが、今回の事態が本来は中国に中立的、場合により無関心であった世界中の弁護士を新たな嫌中派にしてしまう側面が強いのではないか、と心配しています。

世界から愛される平和的台頭を旨とする中国(夢想と非難されようとも、それこそが私的「中国の夢」です)があればこそ、真の日中友好関係の樹立が可能となると確信する立場からも、国家安全管理部門には今後の処断をどうするかを真剣かつ慎重にご検討いただきたいと希望する次第です>(以上)

親中派からも苦情が出た。万国の弁護士、団結せよ!「痴性者」習王はどこまで暴走するか。「もうどうにも止まらない」か。

5)日本およびアジア諸国にとって喫緊の課題は中共封じ込めである。政治家は外交においてはこの一点に最大のエネルギーを注ぐべきだ。人民網7/17「安倍内閣が安保法案を強行採決、降りかかる無限の災い」から。

<瓶の中で長い間封印されてきた「悪魔」が逃げ出せば、恐ろしい結果が待っている。懸念すべきは、かつて悪魔を瓶に閉じ込めた国、米国が今、悪魔が瓶から逃げるのを黙認していることだ。悪魔が復活すれば、世界に対して何をしでかすか、米国は知っているはずだ。もし米国が本当にそれを知らないならば、愚かで無知なだけだ。米国がそれを知りながら放任しているならば、結局は米国に災いが及ぶことになる>

悪魔が来たりて笛を吹く。中共殲滅、支那解放! 悪魔のように細心に、天使のように大胆に、崖っぷちの中共の背中を押してあげよう。それとも自滅するのか。(2015/7/18)

◆議会人は大局を論じ本質を説け

芳賀 綏



衆議院の壇上に突発した“腹切り問答”-政治史に残る緊迫のドラマから筆を進め、現代の国会、政党に覚醒を求めようと思う。

≪議場揺るがした腹切り問答≫

昭和12年1月21日。永田町にできた新議事堂(現在の議事堂)で第70帝国議会が幕を開けた。空前の傍聴希望者数というコケラ落としの日に、政党政治家が奮迅してハプニングを現出したのだ。

時の首相は広田弘毅、陸相は陸軍大将、寺内寿一。政友会の代表質問者が超ベテランの浜田国松だった。政府演説への彼の質問の主眼は政党と議会を圧迫する陸軍横暴の糾弾にあった。

38度の発熱を押して登壇した小躯(しょうく)の大論客は、まず、軍は自分らが乗り出して政治を支配せねば「蒼生(そうせい)(国民)を如何(いかん)せん」というハラだと、分を知らぬ思い上がりを一撃した。

「憲政の常道を排する」と常々言うのは憲政自体を排撃することではないか、「あまりにも不謹慎だ」と叱り、“軍民一致協力”と繰り返す発信を痛撃する。

「軍人なりとて国民じゃありませぬか。国民一致協力の政治と何ゆえ言わない」。一般国民と別に軍という特殊の政治勢力を想定するところに「一君万民政治に非(あら)ざるものがある(拍手)」。

弁舌は熱を帯び「一国一党」を強く否認して複数政党間の摩擦と相克の価値を教え、軍人が政治をやりたいなら「軍服と剣を捨て丸腰になって」参加せよとたたみかけた。グウの音も出ぬほどの正論である。

防戦に苦しんだ陸相は「ご演説の中に軍に対していささか侮辱するごとき言辞があるのは、かえって国民一致に反する」と答弁した。浜田の怒りと闘志は燃え、質問許容限度の3度目まで登壇する。

「私の何らの言辞が軍を侮辱したか。事実をあげなさい」「巷間(こうかん)市井のならず者のように、論拠もなく事実もなくして人の不名誉を断ずることができるか(拍手)。速記録を調べて僕が軍隊を侮辱した言葉があったら割腹して君に謝する。なかったら君が割腹せよ!」

最後の一句に超党派の歓呼と拍手が議場を揺るがした。録音で何度となく聴いているが、臨場感横溢(おういつ)。結びの凛(りん)たる響きは耳に薄れない。「一の国士が全軍を相手に立ちふさがる凄絶(せぜつ)な光景」(軍事評論家・伊藤正徳)である。

≪心魂に響く言論の衰退≫

憤懣(ふんまん)おさまらぬ陸相が言論の府に横車を押して議会は停会。広田内閣は総辞職に追い込まれた。その後の紆余(うよ)曲折を経て2月2日、林銑十郎陸軍大将の内閣が発足したが、陸軍の圧力で、政党人は党籍を捨てねば入閣させぬと決定した。

昭和7年の5・15事件以後、もう政党内閣は存在しなかったが、ここに及んで政党に命脈は残されず、12年7月の日中開戦を経て、14年浜田は逝き、15年夏には全政党が解党した。

政党死守を期した先人が腹切り問答まで演じた風雪の時代と、今も同じ議事堂だが、時代状況は百八十度違う。

政治にのしかかる軍部勢力も無く、徴兵制の恐怖などは時代錯誤の言でしかない。

現憲法は国会を「国権の最高機関」と定めている。政党も安泰の地位にある。議会人の多くは先人の苦難が想像できぬほどだろう。

いまや国会の地位は格段に高く、議員はこの上なく高貴な職分である。そうなら、地位高き者には無限に「貴き者の責任」(ノブレス・オブリージュ)が伴う。厳粛な自覚ありやと、苦闘した先人たちは問うている。

現代は議員も高学歴揃いで、戦後初期などに比べれば政策知識も平均して高くなったはずだ。それと反比例するかのように、大局を論じ本質を説く声が減った。

心魂に響く言論の受発信が衰退しても嘆く風もない。一群の政治家が“チルドレン”と呼ばれて恥とも思わぬ矮小(わいしょう)化は、地位の高さと矛盾しすぎる。

≪先達の後ろ姿に学べ≫

戦前の議場にはヤジの名作がよく生まれた。ウイットの躍(おど)る寸言こそがヤジだが、そんなセンスも持たぬ幼児的な喧噪(けんそう)は現今の“高学歴無教養時代”の象徴である。

戦後国会は本会議本位から委員会中心に移行した。だから議論は精密なったが、スケールが小さくなったと、言い訳すべきではない。昭和26年、講和特別委での吉田茂・芦田均論戦の格調と重量感を見よ。関嘉彦参院議員が質疑に示す見識は政府や他党を啓発した。近年では、野田佳彦首相を諭した伊吹文明議員の委員会質疑に「国士」の風格があった。

人間的蓄積が生む発言は滋味深く、人格的求心力が政治の品格を高くする。その先達の後ろ姿に学ぶ感覚が若い議員に鈍磨するなら政治の水準は低下が進む。真の「選良」には有権者を啓蒙(けいもう)し導く使命があるとともに、与野党の別なく、在野の健康さと謙虚さをも失ってはならない。

地位高き者はあくまで見識は高邁(こうまい)に、言動には重みを。その境地を解さぬ議会人には浜田国松の大喝が頭上に響く、「顔を洗って出直せ」と。      
(はが やすし・東京工業大学名誉教授)
                  産経ニュース【正論】2015.7

                 (採録*松本市 久保田 康文)

◆李克強首相が「安倍密使」と異例面談

宮崎 正弘 


<平成27年(2015)7月18日(土曜日)通算第4606号 > 

 
〜李克強首相が「安倍密使」の谷内局長と異例の面談
  ついに強欲凶暴な中国が日本に再度、近寄る必要に迫られたのだ〜

安保法案は衆議院と通過した。弐ヶ月後、成立する運びとなる。

中国は静かに反対の態度を表してはいるものの、いつものような絶対反対の絶叫はなく、軍国主義復活などと無謀な宣伝文句もが見られない。不思議である。

なにかの予兆を示唆している。

香港の『サウスチャイナ・モーミングポスト』などは「日本の法律改正は戦争の機会を増大させたと中国専門家が分析」などセンセーショナルは報道だったが、南シナ海の中国軍の蛮行を前になにをほざくかという印象である。

日中間のささくれだった空気は中国が一方的に醸成したもので、東シナ海にガス井建設の無鉄砲から、さらにエスカレートして尖閣諸島周辺へ中国海監の艦船が出没して領海侵犯を繰り返し、小笠原諸島近海からは赤珊瑚をごっそり盗んでいった。

領空侵犯による自衛隊のスクランブル出動も年初来110回以上である。

日本が尖閣諸島の国有化をなすと、言いがかりを付けての反日暴動とやりたい放題。すっかり嫌気がさした日本企業がどっと撤退をはじめ、「チャイナ・プラス・ワン」の合い言葉の元、アセアン諸国からインドへの進出を加速させた。

賃金高騰により「世界の工場」ではなくなった中国は輸出に支えられて高度成長を遂げてきたのに、国有工場で生産した品物は売れ残り、在庫の山が各地でみられ、暴動も頻発し、社会不安が拡大した。

こうした環境の下で、海外からの直接投資が激減しては経済が立ちゆかなくなる。ドイツと韓国以外、中国に投資を増加させた国はない。

苦肉の策として在庫処分と中国企業の海外でのビジネス拡大を目的としてAIIBに、信用格付けの問題から、どうしても日本に加盟して欲しかったが、日本はすげなく、鳴り物入りの銀行の船出となった6月26日の「署名式」では7ヶ国が署名しなかった。

そして上海株暴落が開始された。

中国は焦りだした。
 

 ▲中国は本格的に焦っているのだ

華夷秩序のフォロアーと思っていたフィリピン、ベトナムが鮮やかに反旗を翻し、シャングリラ対話では米国から名指しの非難を受け、四面楚歌の状態にあることを中国はやっとこさ認識できた。 

14年11月の北京APECでは安倍首相と会談した習近平のよそよそしい態度が際立ったが、15年4月のインドネシア会議を利用しての日中首脳会談は、むしろ中国側から呼びかけてきた。

習は気味悪いほどに、にこにこ笑っていた。

そして5月、自民党の二階総務会長は安倍親書を携えて訪中した。3千人の人民大会堂での夕食会に、習近平が忽然と現れ、日中友好は子々孫々までと、あっと驚くようなおべんちゃらをのうのうと言ってのけた。

こうした変化を背景に、安倍密使として谷内安全保障局長が密かに北京入りした。

7月16日に中国外交を司る楊潔チ国務委員(前外相)と五時間以上も会談した。これにより9月初旬の安倍訪中に関しての事前調整の大筋がみえてきた。

そして17日、李克勝首相と谷内局長は35分間会談した。政治家でもない政府高官と首相がじきじきに会談するのは異例のことである。

それだけ中国は日本に秋波を送りたいのである。いや、日本に近づかなければ行けない事情が国内にあるからだ。

記者会見によれば、安保法案、安倍談話などの話はまったく出なかったというが、他に喫緊の議題はない。要はこれで9月初旬の安倍訪中の段取りが殆ど決まったとみて良いだろう。

      

◆50年後に“聖地”であるために

榊 輝朗



スポーツ界の声反映を

見直しが遅きに失した感は否めない。しかし、首都の中心に建設される“聖地”に、スポーツ界の願いを反映させる最後の好機が訪れたともいえる。日本サッカー協会の大仁邦弥会長はこの日、「8万人の観客数、可動席、観客席に屋根をかけるのは国際公約」と改めて強調。日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長も「8万人は守ってもらいたい」と約
束の履行を求めた。

将来的に男子W杯招致を目指すサッカー界にとっては死活問題だ。開催要件には「8万人以上のスタジアム」が含まれ、この数字が崩れれば、サッカー界の将来設計も変更を余儀なくされる。

日本はクラブW杯の前身のトヨタ・カップ、若年層のW杯など、サッカーの国際大会を数多く開催してきた。その背景を日本協会の小倉純二名誉会長は「日本なら大丈夫という安心感があった」と分析していた。

そして日本への信頼を支えた旧国立には「世界一」とも称された芝生があった。生育に欠かせない日照時間や風通しを確保して生み出された素晴らしい緑の絨毯。世界のサッカー関係者が、旧国立での試合を心から楽しみにしていたとも聞く。

旧国立はスポーツの聖地だった。サッカー以外にも世界陸上やラグビーの日本選手権決勝などが行われ、数え切れない名勝負とともに、人々の記憶にも刻まれている。

50年後、新国立が“聖地”であるためには、スポーツ界の願いを反映させることが不可欠だ。安倍首相は「国民、選手が主役」と語った。いまこそ「アスリートファースト(選手第一)」の舞台を生み出さないと「白紙」の意味はなくなる。

産経ニュース【新国立競技場 】2015.7.18