伊勢 雅臣
〜 長谷川三千子『神やぶれたまはず』から
玉音放送の後の「あのシーンとした国民の心の一瞬」に、人々は何を聴きとっていたのか。
■1.それぞれの負けっぷり
イタリアを旅していた時、4月25日が「解放記念日」という全国的な祝日になっていると聞いて、「やれやれ、イタリアという国は」と思ったことがある。1945年4月25日は、ムッソリーニ首相が共産ゲリラに捕らえられ、銃殺されて、ミラノの広場で逆さ吊りされた日である。
ムッソリーニは1922年以来、約20年にわたり政権を維持し、議会でも第一党を維持してきた。日独と同盟を組んでの第二次大戦参戦は国家としての決定なのに、そこは頬被りして、ようやく独裁者から解放されました、と、その日を祝う。「敗戦」を「解放」と言い換えてしまうイタリア的な軽やかさには敵わない。
こんな所から「次はイタリア抜きでやろう」とドイツ人が日本人に言うジョークが出てくるのも、分からないでもない。しかし、ドイツの敗戦ぶりには、またドイツ人らしい頑迷さが見られる。
ヒトラーは、負けるくらいならドイツが滅んでしまった方が良いと考えて降伏を拒否し、勝ち目のない戦いに国家を 追い込んだ。ヒットラー暗殺計画が2度ほど試みられたが失敗。ドイツ全土が連合軍に蹂躙されると、ヒットラーは自殺し、政府要人はすべて自殺、逃亡、あるいは捕虜となり、政府が瓦解してしまったので、正式な降伏すらできなかった。
■2.「日本の戦略降伏のいちじるしい特徴」
独伊に比べると、日本の降伏は律儀なものだった。昭和20(1945)年8月14日、連合国側のポツダム宣言での降伏条件を閣議決定で受諾し、9月2日に降伏文書に調印している。
形の上だけでなく、内容においても雲泥の違いがある。入江隆則氏の『敗者の戦後』には、次のような一節がある。
<1945年の日本の戦略降伏の著しい特徴は、天皇を護ることを唯一絶対の条件にしたことだった。同時に天皇は国民を救うために『自分はどうなってもいい』という決心をされていて、こんな降伏の仕方をした民族は世界の近代史のなかに存在しないばかりか、古代からの歴史のなかでもきわめて珍しい例ではないかと思う>。[1,Chap10]
日本に降伏条件を示したポツダム宣言を受諾するかどうかで、最高戦争指導者会議(御前会議、天皇の御前にて開催されたが、天皇は通常、発言されない)が最後までまとまらなかったのは、果たしてこれで天皇が護れるかどうか、という点にあった。
第1次大戦で敗れたドイツに対し、皇帝ヴィルヘルム1世を訴追するとベルサイユ条約では定めていた。「戦争責任」を敗戦国指導者に負わせる、という傾向が強まっており、日本が降伏したら、天皇が訴追、処刑される、という恐れを誰もが抱いていた。
しかし、最後に昭和天皇の「私自身はいかになろうとも、私は国民の生命を助けたいと思う」という御発言により、全員の涙のうちに、降伏を決定したのである。[a]
国民は天皇の身を案じ、天皇はただ国民の命を助けようとする。ムッソリーニを逆さづりしたイタリア、ヒトラー暗殺に失敗して政府瓦解したドイツとの違いは著しい。
■3.「天皇の命とひきかへに自分たちが助かるといふ道」
降伏に際して、当時の日本政府、および国民が直面しなければならなかったジレンマを、長谷川三千子・埼玉大学名誉教授は次のように活写している。
{降伏すれば自分たちの命は助かるかもしれないが、それは敵に天皇陛下の首をさし出すことにほかならならない。
王を倒すことが正義であるといふイデオロギイを潜在的にかかへもった「立憲君主制」のもとの国民であれば、ケロリとして平気で国王をさし出すであらう。
しかし、形の上では同じ「立憲君主制」でありながら、「上下心を一に」することを国体の柱としてきた日本国民にとって、天皇の命とひきかへに自分たちが助かるといふ道は、取りえない道であつた。といふことはつまり、降伏は不可能だ、といふことになる。}[2,10章]
親子のように、天皇と国民が心を一つにしてきたのが我が国の「国体」、すなわち国柄であった。親の首を差し出して、自分たち子供だけが助かる、そんな事は子供として決してできないことであった。それをあえてするという事は、先祖代々数千年にわたって続けてきた国柄を破壊することだった。
親を思う子なら、自分を犠牲にしても、親は助けたいと願うだろう。「天皇陛下万歳」と叫びつつ、特攻に赴いた青年たちは、まさにその道を歩んだのである。
■4.「美しくも恐ろしいジレンマ」
しかし、天皇から見れば「国体」には別の面があった。
{・・・日本の伝統的な「愛民」は、それが天皇ご自身の自己犠牲の決意にささへられてゐる、といふことを特色としている。・・・それがくっきりと際立つのは、元寇の際に亀山院が石清水八幡宮におこもりをされて「わが身をもつて国難に代へむ」と祈願されたといふ故事である。
また、まつたくの私的な日記である『花園院宸記』のうちにも、当時十七歳の少年天皇花園院が、大雨で死者の出た報を聞き、雨が止むようにと「民に代つて我が命を弃(す)つる」の祈願をした記述が見られる。
国民のために天皇がわが身を捨てるといふ伝統は、単なる建前ではなく、すでに代々の天皇の血肉となつてきたのである。昭和天皇の「自分はどうなってもいい」といふご決心も、まさしくこの血肉となつた伝統のうちからわき出てきたものと拝される。}[1,10章]
天皇から見れば、わが身を犠牲にしても民を護るのが国体であり、国民から見れば、自分たちが犠牲になっても、天皇をお護りすることが国体であった。これを長谷川氏は「美しくも恐ろしいジレンマ」と呼んでいる。
■5.「身はいかならむとも」
「この美しくも恐ろしいジレンマ」を断ち切ったのが、昭和天皇のご決断だった。その御心は次の御製に窺うことができる。
爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも和歌は57577の31音が基本だが、ここでは「爆撃に(5)」「たふれゆく民の(8)」「上をおもひ(6)」「いくさとめけり(7)」「身はいかならむとも(9)」と、4音も多い字余りになっている。
長谷川氏は、小田村寅二郎・亜細亜大学名誉教授の次のような解釈を引用
されている。
{・・・四音も多い和歌というものは、それをこちらが読む時に、つかえ、つかえ、してしまうものですけれども、不思議にこの歌は一気呵成に読み下せる。声を出して読んでも、一気に読めるのです。
一気にということは、作者のつくり方の状況を偲びますと、一気呵成に詠まれた歌だということです。そして、四音も余るということは、定型の三十一音では嵌まり切らない激しい御心中の激動の起伏が、この四音の余りというものを一気呵成に含み込んで、一首の歌として詠み下されたとしか偲びあげることができません。
そのことのなかに深い深いお悲しみと御決意と、それ以後の時世に対する天皇様の御決断が滲み出ているのではないでしょうか。最高戦争指導会議の席で述べられたお気持、その奥にある、御自分の命を捨てるという御決意、そういうものがこの一首の字余りの中に漂い尽しているかの如く感じます。}[2,Chap10]
■6.マッカーサーへの嘆願
終戦の後、この天皇の御覚悟はいつのまにか国民の間に知られていたらしい。占領軍司令部(GHQ)には日本国民から多くの投書がなされたが、圧倒的に多かったのは天皇助命の嘆願だった。たとえば、ある女性は次のような直訴状をマッカーサーに送っている。
「日本の天皇は平和を愛し給ふのが御本質でおいで遊されます。御自身に代えて救いたいと思召された国民が、そのお慈悲に御報ひすることを忘れた、現在の日本国民の一部の姿を世界に対して心から恥じてをります」。
また別の「大阪に住むとしは(年端)もいかない一女性」は、次のような手紙をマッカーサーに送っている。
「或本を読みますと共産主義者は『日本の生成発展を妨げるものは天皇制にあり』といつて居りますが、果たしてそうでせうか。いゝえ違ひます。終戦の時の詔書にも『朕ノ身ハ如何ニナロウトモ』と仰せられいつも国民の上に大御心をそゝがせ給ひます」。
実は、『朕ノ身ハ如何ニナロウトモ』とは終戦時の詔勅には書かれていない。この詔勅は、最高戦争指導者会議での天皇のご発言を下書きにして書かれたものだったが、「わたしはどうなってもかまわない」というお言葉が連合国に伝わったら、「ヒロヒトが自らの有罪を認めた」として、天皇訴追に動き出す恐れがあった。
そのために詔勅の作成者たちは、用心深く、このお言葉だけは詔勅に含めなかったのである。しかし、日本国民は一般の年端もいかぬ女性までもが、天皇が『朕ノ身ハ如何ニナロウトモ』というご覚悟で終戦の御決断を下された、と感じていたのだ。
■7.「あのシーンとした国民の心の一瞬」
終戦の詔勅は、昭和20 (1945)年8月15日正午にラジオを通じた玉音放送として伝えられた。あらかじめ「正午には必ず国民はこれを聴くように」との予告がなされたので、多くの国民は起立して玉音放送を聴いた。
しかし、雑音がひどく、また難解な漢語が多数含まれていたため、内容を聞き取れなかった国民も多かった。それでも、国史上初めて天皇が直接マイクの前に立たれるということで、終戦だと直感した国民も多かったろう。文芸評論家の河上徹太郎は、こう書いている。[2,3章1]
{国民の心を、名も形もなく、たゞ在り場所をはつきり抑へねばならない。幸ひ我々はその瞬間を持つた。それは、八月十五日の御放送の直後の、あのシーンとした国民の心の一瞬である。理窟をいひ出したのは十六日以後である。あの一瞬の静寂に間違はなかつた。
又、あの一瞬の如き瞬間を我々民族が曽て持つたか、否、全人類の歴史であれに類する時が幾度あつたか、私は尋ねたい。御望みなら私はあれを国民の天皇への帰属の例証として挙げようとすら決していはぬ。たゞ国民の心といふものが紛れもなくあの一点に凝集されたといふ厳然たる事実を、私は意味深く思ひ起したいのだ。}[1,3章1]
「あのシーンとした国民の心の一瞬」に国民は何を感じていたのか。前節の「大阪に住むとしは(年端)もいかない一女性」のように、天皇が詔勅では語らなかった『朕ノ身ハ如何ニナロウトモ』という御覚悟を聴いていた国民も多かったのではないか。
■8.『神やぶれたまはず』
翌年2月から始められた昭和天皇の全国御巡幸は、8年半かけて沖縄を除く全都道府県に及び、各地で数万の群衆に歓迎されたが、石一つ投げられたことはなかった。イギリスの新聞は、次のように驚きを伝えている。
<日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている>。[b]
大東亜戦争で軍人・民間人あわせて200万人以上の犠牲者が出て、国土は焼け野原になったのに、なぜ国民は天皇に対し「超人的な存在に対するように敬礼した」のか?
それは国民の多くが、8月15日正午の「あのシーンとした国民の心の一瞬」に、天皇がわが身を省みずに国民を戦火から救おうとしている事を実感していたからだ、と考えれば納得できる。
「超人的な存在」とは、日本語で言えば「神」である。ラフカディオ・ハーンは、高台の自分の田の稲むらに火をつけて、村人を呼び集め、津波から救ったという濱口儀兵衛の義挙を『生神様』と題する物語に発表している[c]。キリスト教のゴッドとは違って、我が国では現世の人でありながら、人々のために妙なる徳を発揮した人を「生神様」と呼んだ。
「生神様」と同じ意味で、我が先人たちは代々の天皇の「国民のために天皇がわが身を捨てる」といふ伝統から、天皇を「現人神」と呼んできた。8月15日正午、国は敗れたが、「あのシーンとした国民の心の一瞬」に国民が聞いたのは、その現人神の声であった。
『神やぶれたまはず』という長谷川氏の著書のタイトルはここから来ている。
■リンク■
a. JOG(101) 鈴木貫太郎(下)
終戦の聖断を引き出した老宰相。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_2/jog101.htmlb. JOG(136) 復興への3万3千キロ
「石のひとつでも投げられりゃあいいんだ」占領軍の声をよそに、昭和
天皇は民衆の中に入っていかれた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog136.htmlc. JOG(050) 稲むらの火
村民を津波から救った義挙
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h10_2/jog050.html■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
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1. 長谷川三千子『神やぶれたまはず - 昭和二十年八月十五日正午』
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