平井 修一
■7月7日(火)、朝は室温23度、曇り、久し振りにフル散歩。百日紅のピンクの花が満開だ。
七夕だが、旧暦だと今日は5月22日、五月雨、梅雨の真っ盛りだから、ほとんど毎年、七夕は曇りか雨だ。いささか興ざめ。旧暦の7月7日は新暦の8月20日。これなら真夏で晴れている確率は高いから、七夕を旧暦で祝うところもあるだろう。
中共の謀略で日本軍と蒋介石国民党軍が衝突した盧溝橋事件は1937年7月7日。習近平は大事な反日記念式典を急遽、欠席したが、テロを警戒したのだろう。
支那事変当時、蒋介石は中共を主敵とし、「わが国(中華民国)は病んでいる。共産党は心臓病だから真っ先に手当てをしなけれならない。日本は皮膚病だから大したことはない」と言っていたという。結局心臓病が進行して中華民国は大陸から消えてしまった。
台湾へ逃れた国民党は未だに延命しているが、台湾人(日本統治時代は日本人)は国民党の強権支配でひどい目に遭った。国民党(外省人)政権が倒れれば圧倒的多数の台湾人(本省人)にとっては前進だが、マスコミを含む有力企業の多くは外省人が握っているから、中共とは今の政温経熱から政冷経熱に変わるくらいで、大きな変化はないのではないか。
それでも国名を正式に「台湾」に改めることはできるだろう。まずは名を正し(台湾正名運動)、そこから改革が進むのではないか。
1970年刊の王育徳著「台湾」(増補改訂版)から。当時は蒋介石が戒厳令(1947〜1987年)で台湾人を厳しく抑え込んでいた。
<今、台湾人は国府(国民党政府)の圧制から逃れようと、自由陣営に助けを求めている。自由陣営というとき、大多数の台湾人が最初に思い浮かべるのは日本である。ある青年は次のように訴えている。
「かつて台湾人を強制して日本を母国と呼ばせ、51年間、日本政府に税金を納めさせ、何十万の生命を日本のために棄てさせた日本は、台湾人の運命をどう思っているのか。
日本帝国陸海軍健在なりしころなら、台湾人の権益を侵害するものは、容赦なく台湾海峡に叩き込んだであろうが、今はただ『台湾は放棄した、帰属は未定のはずである』と涼しい顔をして言っているだけである。
せめて国連で発言の権利を持たない台湾人に代わって、台湾問題を討議するときは、台湾人の意見を尊重すべきである、台湾人を参加させないで台湾問題を討議するのは正義人道に反することであると主張してもらいたい
ものだ。
日本人がこれだけの誠意を示してくれたなら、南洋に散った何万の台湾青年戦没者の霊も成仏するであろう。私の兄もオオギミに召されてマニラで散華した一人だ。死んだ者の生命の償いはしなくても、生き残った者に対して、これだけの手向けをしてほしい」(1963年3月「台湾青年」より)
これもこれまでの日本の政治的ムードを見るに、どれほどの効果があるか、疑わしいとせねばなるまい。
しかし、台湾人は決して失望しない。正義の声は必ずやいつか人々の良心を揺さぶることがあろうと信ずる。台湾人が挫折することなく戦い続ける限り、必ずやいつか勝利を得ることができよう。
古来、独立を求めて戦った民族で、独立を獲得できなかった民族はないのである、その戦いの時間に長短の差はあったとしても>(以上)
世界最大の親日国である台湾に対して、かつての同胞である日本はあまりにも不人情ではないか。中共の脅威にさらされている国同士でもあり、パートナーとしての協力関係を強化することは双方の国益である。ポスト国民党政権ではこの関係強化を大いに期待したい。
台湾出身の黄文雄氏(評論家、台湾独立建国連盟日本本部委員長、1938年- )は6年ほど前だろうか、反中共の集会・デモ(台湾の声/林建良氏主催)で初めて顔を見た。先の本「台湾」にはこんな行(くだり)もあった。
<70年4月24日、訪米中の蒋経国(蒋介石の息子で2代目総統)がニューヨークのホテルで、台湾独立連盟員の黄文雄と鄭自才の二人によって狙撃されたとのニュースは、世界中を驚かせた>
同じ人物なら32歳で決起したことになるが、調べたら別人だった。
<黄文雄(1937年10月2日 - )は台湾の政治家・独立運動家・人権活動家。
日本在住の評論家黄文雄と生年・政治的な主張が似ており、しかも双方とも台湾独立建国連盟の関係者であるため、混同されることも多いが、全くの別人である>(ウィキ)
当時、評論家の黄文雄氏は米国に滞在していたようで(これまたややこしい)、公式サイトのプロフィールにはこうあった。
<黄文雄の著述が大きな注目を集めたのは、アメリカで在米華人向けに出ている華字の新聞『台湾公論報』で2年にわたり連載された記事で、台湾で『中国之没落』とのタイトルで地下出版された。当時、きびしい言論統制がなされていた台湾では、独裁強権体制のもと、台湾の反体制運動の必読書となり、幅広い人々に読まれ、多くの台湾人に勇気を与えた>
二人の黄文雄・・・因縁めいているが、Wで攻めれば効果がありそう。お二人が達者なうちに台湾独立が叶うといいのだが・・・
■7月8日(水)、朝は室温24度、曇り、2/3散歩。
換気扇の掃除にてこずってグッタリした。モーターを中心とした本体は半年間も放置していたから油でべとべと。危険水域だった。2時間ほど踏ん張ってどうにかきれいになったが、せめて3か月ごとには掃除すべきだ、とつくづく思う。
ところが人間は生来が怠け者だから問題を先送りする。まったくどうしようもない。
ことは換気扇だから、まあ大した問題にはならないが、改革を先送りした中共はかなりまずいことになりそうだ。習近平・王岐山コンビは株の暴落を買い支えろと証券会社に命じたが、資金はたったの2.4兆円。これでは焼け石に水、今日も中国株は下落した。
あろうことか「8日の中国株式市場の上海、深セン取引所では約1300社の企業が売買停止。全上場企業2808社のうち約45%が売買できない状況となっている。市場の警戒感を強めているのは、中国政府のあわてぶりだ」(ロイター8日)。
2008年のリーマンショックの時に中共は50兆円をばらまいて危機を終息させた。今はたったの2.4兆円。金欠病じゃないか。
支那の王朝は基本的に地方分権だ。地方政府に任せ、「この額を上納せよ」とミカジメ料を求めるだけ。地方政府の役人はそれさえ守れば、後は好き放題。蓄財、蓄妾、酒池肉林、もうやりたい放題。年一回の報告書で財務状況を記すのだが、「数字で出世する」国柄だから、嘘八百を書く。
中央からは誰も監査には来ない(来ても接待漬けで籠絡する)から「わが省の国庫には100兆円あります」と書く。実際は空っぽ。こんなのは日常茶飯事だった。
中共は外貨準備高は○○億ドルとか言うけれど、実際にあるかどうかはまったく不明だ。インチキ投資銀行などで金を集めようとしているが、手元不如意のために詐欺に手を染め始めたのではないか。
以前なら土地の利用権を売れば金になった。国有企業を上場させれば、これまた金になった。二大「打ち出の小槌」だ。
ところが今は誰も買ってくれない。デベロッパーは売れない物件を抱えて真っ蒼になっている。投資家は持ち株を売り逃げしたいが、誰も買ってくれない。新規上場株を買うどころじゃない。
中流階級は皆、首を吊るしかない、と絶望し始めた。上流階級はとっくに逃げた。投資と無縁の貧民は、これまたとっくに絶望し、暴動の機会を待っている。中共中央は事態を沈静化、さらには好転させたくても金がない。金がなければ絶望の人民を救えない。
人民に、米と肉入りスープと野菜炒めと温かい寝床を約束したから中共は独裁を容認された。今は確かに飢えはなくなったろう。しかし、貧しさというのは相対的なもので、1日200円、1か月を6000円で暮らしている6億人は、その一方で半年分の3万6000円でディナーを食べている富裕層を見ているのである。
惨めになるわな。やってられない、と絶望的な気分になるわな。日本の幕末もそんな気分が蔓延していた。
<1859年(安政6)、信州伊那郡南山36ヶ村の強訴では、「(役人が)徒党強訴は天下のご法度だ、村々の制札にある第一の御制禁だぞ、不埒至極の者なり、と仰せられ候えば、(強訴の)総代お答えに、『その徒党強訴を致すようなこと、誰がし出しました。皆お前のなされ方がよろしくないゆえ、かく一同お願い申し上げるのでござる。
道は天下の往来、お通し下されずとも通ります。お縛りなされても、お斬りなされても、通れるだけの者は通ります。千五六百人お縛りなされてもお殺しなさるとも思し召し次第、きっと通ります』
と言った(「南山一件文書」)>(北島正元「江戸時代」)
凄い覚悟だ。追い詰められた人民は「惨めな暮らしを続けるより、命懸けで明日にかけるのだ、搾取階級を倒して富を分配するのだ、もう死んだって、今の暮らしより増しだ」と決起するのは、いつの時代、どこの国でも同じなのだろう。
中共崩壊・・・中共は「大躍進」運動での餓死者3000万人を含めて8000万人を殺したという。血は血で贖うのが筋だ。中共党員は奇しくも8000万人。これを絶滅すれば殺された人々の慰藉になるだろう。
殲滅されたくない党員はさっさと脱党し、海外逃亡することだ。小生は「去る者は追わず」主義だが、人民は「墓を暴く」ほどの怨み骨髄的執念があるから、海外で誅されるかもしれない。ま、自業自得だが。
■7月9日(木)、朝は室温24度、曇り、フル散歩。
子供の頃、わが街にはインテリが2人いた。インテリ、知識人、文化人はほとんど死語で、今は「有識者」と言うようだ。戦後にチヤホヤされた「進歩的知識人」なんて今では暗愚のようにバカにされている。「岩波文化人」なんて「ただのアカ≒バカ」になってしまった。
わが街のインテリだが、1人目は弁護士の茅根さん。今は孫の代で、先日、古くなった家を壊していた。敷地は50メートル四方もあり、20本ほど10メートルを超す椎の木があり、鬱蒼としている。以前は30本ほどあったが、かなり整理されたとはいえ、ほとんど森の風情だ。
敷地の南側にワンルームマンションを持っており、その名も「椎の木ハイツ」。茅根さんは代々、椎の木が大好きなのだろう。
自宅を建て直すかと思っていたら、御主人はマンションに手を加えてそこで生活を始めたようだ。敷地の門扉を撤去したから誰でも入れ、小生も散歩がてらに入ってみたが、日が射さないからじめじめしており、蚊に刺された。自然があれば蚊もいる。
茅根家とわが家は付き合いはないが、2人目のインテリの沼尻さんとは交流があった。沼尻さんは労働医学の研究者で、郷土史家でもあり、「宿河原周辺の伝説と史話を尋ねて」という著書は、小生の基礎知識になっている。
奥さまは薬剤師で薬局・化粧品店を経営していた。娘さんも薬剤師だったが、娘さんが年頃になって、何と小生の従兄(本家の次男)に一目ぼれ。「一緒になれないのなら私は一生結婚しません」と言うので、周囲は大慌て。小さな街の大事件に。
これにわが母が俄然興奮して、「おばさんに任せなさい」。従兄は渋っていたが、「惚れた相手と一緒になりたいというのは分かるけれど、惚れられて一緒になってごらん、一生大事にされるよ、おばんさんを信じなさい」。
数年後には従兄は母に「ほんと、おばさんの言った通りだよ、俺は大事にされ、本当に幸せだ」としょっちゅう言っていた。
沼尻家にとっては母は縁結びの神様だから、それはもう感謝感激。小生がナニを買いに行くと、もうひと箱とドリンク剤数本もサービスしてくれた。母が亡くなっても中元歳暮を欠かさないので、小生はいささか心苦しく、謝辞しつつお断りしたものだ。
世話好きのオバサン・・・濃厚なコミュニティが消えると、そんなオバサンもいなくなった。マンションはどんどん建つが、歩いているのは知らない人ばかり。無住の戸建ても目立ってきた。都市化というのは結構味気ないものだ。
今夜は集団的子育て、クリームシチューなどでもてなす。(2015/7/9)