2015年06月29日

◆光も音もない世界で生きる東大教授

伊勢 雅臣


目は見えず、耳も聞こえない東大教授が問いかける生きる意味とは。


■1.「自分の人生においても、とにかく立ち続けたい」

月刊誌『致知』を読んでいて「へぇー、こんな人がいるのか」と驚かされた。盲聾者(もうろうしゃ)、すなわち目も見えず耳も聞こえないながら、東大教授をされているという福島智(さとし)氏である。

記事は『水滸伝』(全19巻)などで有名な作家の北方謙三氏との対談。耳の聞こえない福島さんは、自ら考案した指点字という方法を使う通訳者に入ってもらい、他者と会話をしている。

通訳者が福島さんと両手の人さし指と中指、薬指を重ねて、点字のタイプライターのキーに見立てて指を叩いて伝えるのである。この対談もそんな風に行われたのだろう。

 対談の中で、福島さんはこんな風に語っている。

「私が北方先生の作品に強く惹かれるのは、・・・登場人物が、男にしろ、女にしろ、筋を通して生きているということ。その筋というのも、他人から見るとつまらないと思われるようなものかもしれないけれども、それに懸けて生きるということ。そういった生き方がすごく私の心に突き刺さってきたし、私はそうありたいという願望にヒットしたんです」。[1]

その一例として、福島さんは北方作品の中から、こんなシーンを挙げている。

「先生のブラディ・ドール・シリーズに、遠山という画家が出てきますよね。彼は初老の男で、肉体的な力はあまりないけれども、一人の女性を守ろうとして、殴られても殴られてもフラフラになりながらも立ち続ける。

これなんかは、私の心の内の願望を見事に描いていただくようなシーンで、この男のようにありたいと強く思いましたね。自分の人生においても、とにかく立ち続けたいと」。[1]

■2.極限状態の意味は?

ちょうど、福島さんの最新著『ぼくの命は言葉とともにある』が出て、アマゾンでも高い評価を得ていたので、早速、読んでみた。それによると福島さんの障害は幼児の頃から徐々に進んだという。

「原因不明の病気によって右目を失明したのが三歳のときです。まだ幼く実感はほとんどありませんでしたが、九歳で左目も見えなくなったときは、さすがに、「ぼくはどうやら、周りのみんなとは違う世界で生きることになったなあ」と思ったものです。

しかし、もともと私は楽天的で切り替えも早かったので、視力を失っても音の世界がある、耳を使って外界とつながることができる、と考えていました。そして実際、音楽やスポーツ、落語などに夢中になって過ごしました。

ところが、その音自体もだんだん怪しくなってきて、十四歳の頃に右耳がほとんど聞こえなくなり、十八歳のときには残された左耳も聞こえなくなってしまったのです」。[2,p18]

光と音を奪われ、暗黒と沈黙の宇宙にただ一人漂っているような状態で、不安と恐怖に包まれた日々を過ごした。家族との会話も難しく、ラジオもテレビも聞こえないなかで、ひたすら点字の本を読み、点字で日記や手紙を書いて、自分が直面している極限状態の意味について考える日々が続いた。


■3.「ぼくは豚とは違うんや」

やがて、この状況にも意味があるのではないか、と考えるようになった。当時、友人に書き送った手記に、こう書いた。

<この苦渋の日々が俺の人生の中で何か意義がある時間であり、俺の未来を光らせるための土台として、神があえて与えたもうたものであることを信じよう。信仰なき今の俺にとってできることは、ただそれだけだ。

俺にもし使命というものが、生きるうえでの使命というものがあるとすれば、それは果たさねばならない。

そしてそれをなすことが必要ならば、この苦しみのときをくぐらねばならぬだろう。>[1,p20]

高校3年の頃、大学に進学しようと思った。父親は「無理して大学なんか行かんでもええ。好きなことしてのんびり暮らせばええやないか。これまでおまえはもう十分苦労した。おまえ一人ぐらいなんとでもなる」と反対した。福島さんは反発した。

<ぼくにも生きがいがほしいんや。安楽に暮らすだけではいやや。ぼくは豚とは違うんや。>[1,p180]

「自分の人生においても、とにかく立ち続けたい」とは、こういう姿勢だった。

昭和58(1983)年の春、福島さんは東京都立大学(現・首都大学東京)の人文学部に20歳で入学した。盲聾者としては日本で初めての大学進学だった。指点字で他者の発言や周囲の状況を伝えてくれる通訳・介護のボランティアの人々に支えられながら、大学に通った。


■4.「態度価値」

大学で、福島さんが自分の使命を探求する過程で出会ったのが、オーストリアの精神医学者ヴィクトール・E・フランクルの「態度価値」という考え方だった。

フランクルは人が生きるうえで実現する価値には3つの段階がある、という。第一は、美しい絵を描いたり、立派な仕事を通じて「世界」に何かを与える「創造価値」。第二はそういう美しい絵や立派な仕事に感動する「体験価値」。

第三の「態度価値」は、フランクルがナチスのアウシュビッツ強制収容所に囚われていたという極限状態で発見したものだろう。

<強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人びとについて、いくらでも語れるのではないだろうか>。[2,p37]


アウシュビッツのような極限状態でも、人間は崇高な態度をとりうる。その態度によって実現される価値を「態度価値」と呼んだ。

福島さんが暗黒の宇宙空間に漂うような孤独の中でも、「ぼくは豚とは違うんや」と言って、親に養って貰うだけの安楽な生活を拒否し、大学に行って自分の使命を探そうとした生き方も立派な態度価値である。

盲聾者として初めて大学に行き、東大教授までなったという実績は、多くの人々を感動させた創造価値だが、それとは別に福島さんの生き方自体に態度価値があるのである。


■5.小野田寛雄の態度価値

フランクルと同様の極限状態で生きた人として、福島さんは小野田寛雄(おのだひろを)氏を挙げている。

戦争が終わって29年後にフィリピンのルバング島にあるジャングルで見つかった小野田寛雄さんは、その29年間の間、「孤独感は一度も感じたことがない」と語った上で、その理由として次のような趣旨のことをおしゃったそうです。

「今まで生かされてきた中で多くの人から教えをいただき、この身体をいただいて自分は成り立っているのだから、自分は一人ではない」と。

これもフランクルの体験と一種響き合うものがあります。たぶん小野田さんの中には「日本のために戦う」という強い意識があり、また陸軍中野学校卒の情報将校として自分に授けられた使命があったから、自らの生には意味があるという気持ちを持っておられたのでしょう。[1,p46]

小野田少尉は「ゲリラ戦を指揮せよ」との命令を29年間守って、日本の敗戦後も米軍やフィリピン警察軍と戦った。

小野田さんが投降したのは、上官だった谷口義美・元少佐がやってきて「投降命令」を伝えた時だった。投降した小野田さんをマルコス大統領は肩を抱いて「あなたは立派な軍人だ」と称賛し、過去の行為の全てを赦した。[a]

小野田さんはジャングルの中でただ一人生き残るという極限状況の中でも、軍人として使命を尽くした。その生き方は態度価値そのものである。


■6.「生涯忘れない」と語った米軍女性パイロット

この態度価値を発揮しうるのは、小野田さんのような特別な人ばかりではない。作家の百田尚樹氏は知人から次のような東日本大震災時のエピソードを聞いたという。

<・・・これは知人から聞いた話ですが、救援物資をヘリコプターで被災地に届けた米軍の女性パイロットは、着地が非常に恐ろしかったというのです。なぜなら、どこの国でもヘリコプターに人がワーっと殺到して大混乱が起き、奪い合いになって身の危険を感じることがよくあったからです。

日本の被災地でもそうなると覚悟して着地したのですが、近づいてきたのは代表者である初老の紳士一人、そして丁寧に謝意を述べ、バケツリレーのように搬入していいでしょうか、と許可を取って整列し、搬入が始まった。

すると途中で、「もうこれでけっこうです」とその紳士は言ったそうです。「なぜですか?」と訊ねると、「私たちはもう十分です。同じように被災されている方々が待つ他の避難所に届けてあげてください」と言った。

そのパイロットは、礼儀を重んじ、利他の精神で行動する日本人の姿に感動し、生涯忘れないと知人に語ったそうです。>[3]


アウシュビッツ強制収容所で「なけなしのパンを譲っていた人びと」と同じである。そんな態度価値を、いざという場合には普通に発揮できる人々がそこいらにゴロゴロしているというのが、我が国の特殊な国民性である。

他者を驚かせるような創造価値を発揮することは、よほど才能に恵まれた人でなければ難しいが、態度価値なら米軍女性パイロットに生涯の感動を与えた被災者たちのように、我々凡人にも可能なのである。


■7.幸福だった我が先人たち

国家レベルで考えれば、近代の創造価値のトップランナーは英国だった。で近代工業を生み出し、7つの海を支配する大帝国を築き上げた。

創造価値の次元では、江戸時代の日本はとうてい英国にかなう存在ではなかった。しかし、その英国から明治初年の日本を訪れた人々は、当時の日本人の暮らしぶりに目を見張ったのである。

たとえば、明治11(1878)年に来日したイギリス人の女性旅行家イザベラ・バードは、こんな旅行記を残している。

<私達は3等車で旅行した。「平民」のふるまいをぜひ見てみたかったからである。客車の仕切りは肩の高さしかなくて、たちまち最も貧しい日本人で一杯になった。

3時間の旅であったが、他人や私達に対する人びとの礼儀正しい態度、そしてすべてのふるまいに私はただただ感心するばかりだった。それは美しいものであった。とても礼儀正しくてしかも親切。

・・・老人や盲人に対する日本人の気配りもこの旅で見聞した。私達の最も良いマナーも日本人のマナーの気品、親切さには及ばない。>[b]


英国公使ヒュー・フレーザーの妻メアリは明治23(1890)年の鎌倉の海岸で見た光景をこう描写している。

<美しい眺めです。----青色の綿布をよじって腰にまきつけた褐色の男たちが海中に立ち、銀色の魚がいっぱい踊る網を延ばしている。・・・

さてこれからが、子供たちの収穫の時です。そして子供ばかりでなく、漁に出る男のいないあわれな後家も、息子をなくした老人たちも、漁師のまわりに集まり、彼らがくれるものを入れる小さな鉢や籠をさし出すのです。そして、食用にふさわしくとも市場に出すほどの良くない魚はすべて、この人たちの手に渡るのです。>[c]

■8.我が先人たちの叡知

ほんの百数十年前の我が先人たちの姿である。当時の日本人は貧しくとも、互いに礼儀正しく思いやりをもって暮らしていた。そういう生き方が幸せへの道であるという叡知を我が先人たちは持っていた。

福島さんは視覚も聴覚も失って、ラジオも聞けず、テレビも見られない、真っ暗な静寂の宇宙空間のような中で、一筋に人間の生きる意味を問い詰めていった。その果てに見えてきたのは、創造価値のみに重き置く近代文明に覆い隠されていた人間の真に生きる意味だった。

そして、福島さんの見つけた態度価値に重きを置いた生き方を、近代西洋文明に染まる以前の我が先人たちはそのまま実践して、幸福な社会を築いていたのである。



■リンク■

a. JOG(437) 小野田寛郎の30年戦争
「いまの日本が失ったものを持っている戦前の日本人の生の声が聞けるか
もしれない」
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h18/jog437.html

b. JOG(484) 美しい国だった日本
「方々の国で出会った旅行者は、みな感激 した面持ちで日本について
語ってくれた」
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog484.html

c. JOG(680) 江戸時代の庶民は幸福だった 貧しくとも、思いやりと助け合いの中で人々は幸福に暮らしていた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h22/jog680.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 福島智、北方謙三、対談『運命を切りひらく』、「致知」H27.2

2. 福島智『ぼくの命は言葉とともにある』★★★、致知出版社、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4800910722/japanontheg01-22/

◆みっともなくて見ていられない!

浅野 勝人(安保政策研究会理事長) 


OBとして、自民党の国会議員と認めるのを遠慮したい今回の「お粗末議員たち」は、憲法を読んだことさえないのではないか。

日本国憲法は、前文の冒頭、「日本国民は、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と書いている。

主権とは、国家の最高の意思および国の政治を最終的に決定する権力をいう。

中学生でも民主主義の主役は国民であり、それを主権在民ということくらい知っている。民主政治のイロハさえ理解していないから、与党の国会議員が権力を握っていると当たり前のように勘違いしている日頃の思い上がりが露呈した顛末としか言いようがない。

報道機関、ジャーナリズムは、中立公正を求めて、不偏不党をかざし、是々非々で時の政権と対峙するのが使命です。時の政権が、自民党であろうと、民主党であろうと、共産党であろうと、何党であろうが関係ありません。

だから、そのために報道の自由は何よりも大切な権利として認められています。そして、報道の自由は、強い責任感と高い倫理感を担保に保証されています。

このルールは、民主政治を享受する社会を支える根幹です。それを、新聞の紙面やテレビの画面が、自分の思いと異なって面白くないから潰せと言うのは、民主社会を破壊せよと言う全体主義と同じです。

これじゃ、ナチスのやり口や戦時中の大本営発表を同じになってしまいます。勉強会の講師も講師なら、生徒も生徒といわれても仕方ないでしょう。

講師の百田尚樹氏の本心は「本当につぶれてほしいと思っているのは、朝日新聞と毎日新聞と東京新聞」だそうですから、私たちはしっかり朝日と毎日と東京を応援しましょう。

今回のような発言を平然とする国会議員が当選できるのは、選挙制度と無縁ではありません。

衆議院の小選挙区比例代表制、なかんずく落選しても惜敗率によっては当選者として救ってもらえる世界に例のない「仲間救済インチキ制度」を改正しない限り、議員の劣化は防げません。

支持率の高い大政党にすがり付いておれば身分が保証されるからです。定員3名、全国100選挙区の中選挙区制に改正しませんか。

なでしこは、日本時間の今朝、激戦の末、オーストラリアを破って準決勝に進みました。宮間キャプテンは、インタビューで「見事にまた階段を一段登りましたね」と問われて、「一段目は、頂点に立ってから始まります」と答えました。

彼女たちの戦う姿を視ていると、“正しさ”を求めて全身全霊を捧げているように映り、心から尊敬の念を覚えます。(2015・6・28)
(元内閣官房副長官)



2015年06月28日

◆「教育の中立性」を嫌う民主党の本音

阿比留 瑠比



本音は「日教組の手足を縛るな」
 
民主党の体質は、いつまでたっても変わらない−。選挙権年齢が18歳以上に引き下げられたのを受けて、同党の「主権者教育のあり方検討ワーキングチーム」がまとめた中間報告を読んでの感想である。

そこにはこう書かれていた。「『政治的中立性』という言葉に縛られ、現実にある課題や争点を避け、学生の思考力、判断力の涵養(かんよう)を怠るような教育のあり方は『主権者教育』とは言えず、再構築されるべきだ」

「教職員に対して、既存の法令以上の制限を課す必要はない」一見もっともらしいが、民主党の幹事長を務めた日教組のドン、輿石東参院副議長がかつて、こう述べていたことを連想させる。

「(日教組は)政権交代にも手を貸す。教育の政治的中立などといわれても、そんなものはありえない」(平成21年の日教組「新春の集い」あいさつ)つまり、中間報告の真意は「わが党の有力支持団体である日教組の手足を縛るな」ということだろう。

枝野幸男幹事長は先日、党の労組依存体質を批判した長島昭久元防衛副大臣を注意したとのことだが、労組、特に日教組や自治労など官公労の支持・支援がなかったら民主党はどうなるか。

興味深いのが、今年4月の大阪での統一地方選の結果である。民主党は大阪府議選(改選前8議席)に9人が立候補してわずか1人しか当選せず、大阪市議選(同6議席)では出馬した11人が全滅した。

大阪が維新の党の本拠地であることを差し引いても極端な結果だ。これについて閣僚の1人は、「大阪市と大阪府がそれぞれ24年と25年に、橋下徹市長の主導で『職員の政治的行為の制限に関する条例』を作ったのが大きい」と指摘する。

もともと政治的に中立であるべき地方公務員や教職員は、地方公務員法や教育公務員特例法などで政治活動に一定の制限を受けている。ところがこれらは「ザル法」で、刑事罰の適用もある国家公務員と異なり、地方公務員や教職員は事実上、野放し状態だった。

これに対し、大阪府・市は懲戒処分として「免職」も可能とする条例を制定したことが、統一地方選の結果に表れたのだ。民主党の前大阪市議はこう話す。

「影響は大きかった。条例が、もともと本心では選挙運動に積極的ではなかった職員や教師らに、『もう活動しなくていい』というお墨付きを与えた」 つまり、自治労や日教組などの動きが鈍れば、民主党はたちまちじり貧になるということである。

地方公務員や教職員の政治活動に国家公務員並の罰則規定を設ける法改正については10年前、自民、公明両党が幹事長会談でいったん合意したが、地方自治体の現業職に支持者の多い公明党が党利党略でひっくり返した経緯もある。だが、公明党は大阪府・市の条例には賛成している。

「統一地方選の大阪での選挙結果は、公明党説得の材料となる」

ある閣僚はこうも語っている。法改正の意味はもちろん、それだけではない。本来の職務に専念したい地方公務員や教職員にとっても、選挙のたびに政治活動に費やす時間や労力を省ける。ひいては地域住民や子供たちのためにもなる。「この法改正はやらないとダメだ」

安倍晋三首相も周囲にこう話すなど、首相官邸は法改正に前向きだとされる。教育正常化を進める上で、避けては通れない問題である。

                        (政治部編集委員)
産経ニュース【阿比留瑠比の極言御免】2015・6・25


◆イスラム過激派に分裂含みの変動

宮崎 正弘
 

<平成27年(2015)6月25日(木曜日)通算第4588号 >

〜「ISIS」(イスラム国)に参加したイスラム過激派に分裂含みの変動
中央アジア出身の過激派は四分五裂、しかも外人部隊をやめ故国へ帰る態勢に〜


現在、ISISに参加している中央アジア出身の過激派は新彊ウィグル自治区、タジキスタン、ウズベキスタン、カザフスタンなどからだが、ロシアからもチェチェンなどのイスラム教徒がおよそ1700名尤も後者はISISの軍事組織の中核である。

タジキスタンから300名、キルギスから330名、ウズベキスタンから数百、そして中国の新彊ウィグル自治区からおよそ300名と見積もられている。

このウィグル人の武装集団は「TPI」という。

トルキスタン・イスラム党の略称である。かれらの大半がアフガニスタンにあるISIS系列、あるいはアルカィーダの秘密軍事基地で訓練をうけて、トルコ経由シリアへ潜入した。

中国がもっとも神経をとがらせて行方を追っている集団である。
 
これまでTIPの上部組織と見られていたのが「IMU」(ウズベキスタン・イスラム運動)である。しかしIMUは、カリモフ大統領独裁に対抗し、いずれウズベキスタンをイスラム原理主義国家にしようとして、これまではタリバンとの共同行動が多かった。

過激活動を通じて、IMUは、ISISの「イスラム国」という新国家形式に目覚めたのである。

IMUは1990年代にフェルガナ盆地で結成され、アフガニスタン北部へ移動して、その中の一部がシリアへ渡った。

IMUはISISの主力メンバーとなったが、どうやら本家=アフガニスタンのIMU本部とはそりが合わず、アルカィーダと協調し始めている。
アフガニスタンの指導者オマル師とも、そりが合わず、タリバンは、いまや弱体化したという分析も欧米ではなされている。

タジキスタンの過激派は、もと内務省秘密警察司令官が率いていると言われ、ISISから離脱しタジキスタンへ帰国し、同国をイスラム原理主義国家にすると息巻く。これも「イスラム国」という国家形成のスタイルに刺戟を受けて、ISISから分離しようとうごめくのだ。

TPI(トルキスタン・イスラム党)は新彊ウィグルからシリアへやってきた過激派だが、殆どがウィグル人、ここにウズベク人と若干の中国系カザフ人、そして少数のロシア国籍の軍人が混ざり、中国がもっとも神経をとがらせる組織だ。

このTPIが、JN(ジャブハタアルナスラ)と共同作戦で、シリア政府軍との戦闘で勝ちシリア北部の都市イドリブを落とした。サウジ、カタール、トルコから支援がなされている。

彼らは優れた火砲をもち、新型機関銃で武装しており、一部の報告では1000名規模に膨れあがっているという。

 ▲彼らはシリア北西部の拠点を抑えた

シリア北西部の所謂「ISIS占領支配地」=イドリブは、かくしてJN,TPI主力の混成部隊が抑え、堂々と「東トルキスタン」の旗をたてている。

立場を鮮明にしたのである。

このため、ISIS本部とは意見の相違がくっきりと出てきた。

彼らは「イスラム国」樹立ではなく、新彊ウィグル自治区を「東トルキスタン」として独立させるための下準備、訓練が目的でシリアに入り込み、名目上は「ISIS」の傘下となって居たわけだ。

とくにシリア西北部とイラク西部を抑えたという意味は、ISISから離脱する可能性があり、かれら過激派連合がイドリブを支配したということは、新兵リクルートの通り道、そして支援物資の兵站ルートを抑えたという軍事的に大きな意味をもつのである。

さてTIPの今後だが、これまで共闘してきたIMU(ウズベキスタンイスラム運動)から離れるのは決定的となったようだ。

TIPは、もともとアフガニスタン、パキスタン国境にいたころからシリアへの移動を開始し、2013年にはアフガニスタンで殆ど目立たなくなっていたのだ。

新彊ウィグル自治区は中国の暴力的支配、圧政に立ちむかった多くのウィグル人があり、北京天安門広場での自爆テロ、雲南省昆明駅での無差別テロ、広州駅やウルムチ駅での自爆テロ、そのほかの事件がある。

自爆テロを行うおこなう未組織の、あるいは未確認のグループがあり、TIPの組織構成員とは別の集団と考えられてきたが、TIPは「あの自爆テロも自分たちだ」と政治宣伝を展開している。

 いずれにしても、中国に於けるウィグル人のイスラム原理主義過激派が、これから内外でますます荒れるのは、確実ではないのか。
 

◆私の「身辺雑記」(234)

平井 修一



■6月25日(木)、朝は室温26度、晴、爽やかな風、フル散歩。

昨日は意識的に昼寝をしたが、とても具合がいい。夕方からのフットワークが軽快になった。加齢とともに体力が落ちているから、1時間とか90分ほどの昼寝は体力の回復に有効のようだ。癖になりそう。かくして一人前の老人になるのか。

昨日の午後は30度になり、3時半には光化学スモッグ注意報が出た。もう夏本番みたいだ。今朝も10時には27度。暑くなりそうだ。夏子襲来のおもむき。梅雨子はどこへ行ったのか。

衆知6/19「石原慎太郎・戦後70年の回顧―歴史の十字路に立って」序章から。

<*こんな日本のために父祖は命を捧げたのか

戦後70年を経た日本は、物欲第一の時代を迎えてしまったようだ。振り返ってみると、戦後この方日本が享受してきた平和は世界の中で未曾有のものだったとも言える。

国家を只ならぬ緊張に哂す事態に遭遇することなく、アメリカに隷属することでの「平和の代償」を意識することもなく半世紀あまりを過ごせたのは人間の歴史の中でも稀有なことではあるまいか。

しかし、「平和の毒」というものは明らかにある。私は最近の日本の様相を眺めると、この言葉を是とせざるを得ない。政治が何を行うかは所詮、国民が何を望み欲しているかによって決まってくる。ならば今、大方の日本人が何を最も求め欲しているかといえば、端的にいって物欲を満たすこと、煎じつめれば、「金」でしかあるまいに。それも当面の生活を満たすための小金でしかない。

「大欲は無欲に似たり」というが、国民が抱いているものは日本という祖国の再起のための大欲には程遠く、政治は「国家」不在で小金に迎合する低俗な資質しか持ち合わせていない。

逆立ちしてもあり得ないような高福祉低負担の虚構の存続を国民は望み、それを補填するためのいかなる増税にも反対を唱える。いかなる政党も選挙の度にそれに媚びへつらって従うしかない。

「民意」なるものが物欲第一に向かうならば、それでは国家がもたないと説き伏せる指導者がいて然るべきだろうが、そもそも今の日本人にそうした指導者を望む意志があるのかも疑わしい。

こんな日本をもたらすために、私たちの父祖はたった一つしかない命をあの戦争に数多く捧げたものだったのではあるまいに。

*ある戦争未亡人のつくった歌

平成24年10月。私が任期途中で都知事を辞し、国政復帰という挙に出た一番強い所以を改めて明かせば、それ以前に靖国神社で聞いた90歳になる戦争未亡人のつくった歌に強い共感を覚えたことにあった。

彼女は歌っていた。

『かくまでも 醜き国に なりたれば 捧げし人の ただに惜しまる』と。

この方は20歳前後で結婚され子供ももうけた。しかし、御主人がすぐ戦死し、その子供も恐らく父親の顔を見ていはしまい。戦後は亡夫の両親の面倒を見、やがては子供も結婚し孫も出来、曾孫も出来たかも知れない。その人が90を超えた今この日本を眺めてこの歌をつくられた。

私の家内の父親も、家内が母親のお腹にいる間に戦死している。家内の母親は早世してしまったが、もし今も生きていたならきっと同じ感慨を抱いたに違いないと思う。

こうした日本の醜い姿を外国が眺めて軽蔑し、強い侮りとなって日本に対し理不尽な言動を仕掛けることを我々はもはや何とも思わなくなってしまっている。

かつては領土を不法に奪われ、今また領土を侵犯されようとしてい、近い過去には多くの同胞が拉致されてある者は殺されある者は還ることも出来ずに行方も知れずに放置され、それらの相手国はいずれも核兵器を保有し我々への恫喝を続けている。

こうした情けない祖国の実態を眺め、この戦争未亡人があの戦のために死んだ御主人を、自分の青春を想起しながらただに惜しむという心情を吐露されたのは、私には、むべなるかなという気がしてならない>(以上)

日本を除染し普通の国にする。難題だけれどもいつか実現できるだろう。そう思わないとわが身が持たない、崩れ落ちてしまうという切迫感がある。生活する上での知恵はあっても、いかに生きるべきかという知性のない中2坊主も、除染して日本の幕末から現在までの苦闘の歴史の真実を知らしめて行けば、いつか高2レベルになるのではないか。

楽天的でないと人生は乗り切れない。

■6月26日(金)、朝は室温26度、晴、ハーフ散歩。

夕べはひどい目に遭った。風を引いたようで、寒気がし、やがて腸がやられて激しい下痢に襲われた。30〜40分に1回のトイレ通い。今も体調は悪い。「助けてドラえもん!」と叫んだところで詮無いこと。わが身はわが身で守るしかない。

白岩賢太・産経デジタルオピニオンサイト「iRONNA」編集長の論考「スネ夫からジャイアンになれなかった橋下徹」(ウェッジ6/25)から。

<【産経新聞の連載「橋下徹研究」で、橋下本人や家族、友人ら関係者計107人を取材した筆者は、こう断言する。「橋下徹は政界復帰する」――】

政治家としての評価は今も賛否が分かれるが、橋下の発信力、インパクトはそれほど絶大だった。時に改革者と持ち上げられ、破壊者と恐れられた橋下徹とは結局、何者だったのか。

*ラグビーを始めたワケ

転校を繰り返し、母子家庭で育った橋下が、中学でラグビーを始めたのも、当時の荒れた学校や複雑な人間関係が深く関わっている。「一番ワルそうな部に入った方が安全だと思ったから」。かつて、入部の動機についてこう語ったが、ここに橋下の処世術のすべてが集約されているといっても過言ではない。

国民的人気アニメ「ドラえもん」で喩えるなら、ガキ大将のジャイアンにいつも媚びへつらうスネ夫のような生き方だろうか。橋下は自著『どうして君は友だちがいないのか』の中で「要するにスネ夫のような生き方といえばいいでしょうか」「ジャイアンのような強い人、強い存在とうまくつきあって生きていくことは、悪いことでもずるいことでもありません。その選択を非難できる大人なんて絶対にいないはずです」と記している。

このスネ夫的生き方を是とする橋下の考えは、昔も今も変わっていない。中学時代は、ラグビー仲間たちを心の中のジャイアンに見立てて自分の居場所を見つけたが、政治家となった現在の橋下にもジャイアンは存在する。それは「大衆」であり、選挙で一票を投じる「有権者」ではないだろうか。

橋下にとって政治家としての発信力の源泉は、有権者の支持、つまり「民意」にある。ことあるごとに抵抗勢力と対峙し、過激な物言いでルサンチマンを煽る一方、一転して相手に歩み寄る姿勢をみせて最大限の譲歩も引き出す。すべて自分の思惑通り、計算ずくで畳み掛ける弁舌と交渉術を使い分ける政治手法は、「ポピュリズム(大衆主義)」の典型と揶揄され、アンチ橋下からは「独裁者」などといった非難の声が絶えない。

こうした批判的な見方に対し、橋下は自身のツイッターで「衆愚政治だ、ポピュリズムだと言う輩は、よほど自分に自信があるんでしょうね。一般大衆よりも自分は上だと言う。気持ち悪い」と辛辣に反論したこともある。この発言の裏には、政治は限られたエリートのものではなく、多数の意見で進めていくものだという「反エリート主義」の考えも透けて見える。

自分はスネ夫のような裕福な家庭で育ったわけではないが、スネ夫のようにジャイアンをおだてながら、その威を借りてしたたかに生きるやり方なら真似できる。政治家になった橋下にとって、「ジャイアン=有権者」が味方でいてくれる限り、自分は絶対に道を外れないという自信もあったはずだ。事実、得意の二項対立を何度仕掛けても、なかなか民意は離れなかった。

*変節した橋下がこだわったもの

では、なぜ大阪都構想は実現しなかったのか。一言でいえば、橋下がスネ夫ではなく、ジャイアンになろうとしたからに他ならない。ふわっとした民意を敏感につかみとる嗅覚と、大衆の劣情を煽る傑出した扇動者の才能を持ちながら、橋下は最後の最後で民意よりも政治家としての結果にこだわったのである。

「二重行政の無駄をなくす」と大風呂敷を広げた都構想は、有権者の支持が思った以上に広がらず、住民投票の最終盤になっても新聞・テレビの世論調査では劣勢が伝えられた。この期間中、有権者の反応を意識して政策の方向性を示す「橋下流」はすっかり影をひそめており、橋下自らが先頭に立って有権者をリードし、支持を求めるようになっていた。言い換えれば、この時既にスネ夫ではなくジャイアンになっていたのである。

橋下はいつからジャイアンになろうと思ったのか。橋下が2011年11月に大阪府知事から大阪市長へと鞍替えし、元部下だった堺市長、竹山修身と袂を分かったのは13年9月。都構想の法定協議会で橋下が求める特別区の区割り案が否決され、出直し市長選を仕掛けて当選したのが14年3月。これを機に橋下の言動は、都構想実現に向けた執念のような強引さばかりが際立つようになる。

「僕自身にイエスかノーか」。橋下にとって、出直し市長選は民意に寄り添う「改革者」から「権力者」へと変わろうとする、政治家としての分岐点だった。

だが、「にわかジャイアン」橋下への風当たりは、それから強まる一方だった。

「物事には譲歩できることとできないことがある。ただ、都構想は市役所を前提にした様々な団体の存続が危ぶまれる。話し合いで無理な場合は、最後は民意を使わせてもらわないといけない」。

政界引退を表明した記者会見でこう本音を述べた橋下だが、民意を「頼る」のではなく、民意を「使う」と表現したところに、土壇場での決断を迫られた橋下の苦悩が見て取れないだろうか。橋下はやはりジャイアンになろうとして最後の賭けをしたのである。

かつて橋下は自著『まっとう勝負!』で、自身が抱く政治家像を次のように記している。

「政治家を志すっちゅうのは、権力欲、名誉欲の最高峰だよ。自分の権力欲、名誉欲を満たすための手段として、嫌々国民のため、お国のために奉仕しなきゃならないわけだよ。別に政治家を志す動機が、権力欲や名誉欲でもいいじゃないか! 嘘をつけない奴は、政治家と弁護士にはなれないよ! 嘘つきは、政治家と弁護士の始まりなの!」

政治家と弁護士の両方の顔を持つ橋下は、この一節を鵜呑みにすれば「稀代の嘘つき」である。スネ夫からジャイアンになれなかった橋下だが、政治家として再び戻ってくる日はそう遠くはない。筆者はそう確信している>(以上)

橋下の「志」は何なのか、小生は知らない。劇場政治で大騒ぎして中2坊主から視聴率を稼いで、一体何をしたいのか。分かりやすく「志」を語るべきだ。

■6月27日(土)、朝は室温26度、微雨、ハーフ散歩。

昨日は体温38.4度、激しい下痢に悩まされた。体調不良だと気力も萎えてしまう。思考停止状態だ。今朝はようやく36.5度まで下がったが、下痢は間隔が長くなったとは言え、収まるまでには1日2日はかかりそうだ。

6歳女児が微熱のために預かる。仕事は待ったなしだ。

地政学者・奥山真司氏の論考6/23から。

<南シナ海の埋め立て問題ですが、とりあえずここ数日は大きくニュースで取り上げられることはなく、中国側の「埋め立て工事終わった」という報道で、一時的に「幕引き状態」となっているような感じです。

ここで問題になってくるのは、中国側が今後、戦略的に何をしたいのか?という点です。

先週の(ニコ動)生放送でも少し触れたように、それがスパイクマンのいうような「アジアの地中海」の支配かどうかはさておき、私は以前から個人的に、以下の3つのことが言えると考えております。

*1:戦略として統一見解のようなものはない

戦略というのは、当たり前ですが「集団」が練ってそれを実行するものです。では中国に確固たる「戦略」はあるのか?というと、実のところ、それは誰も知らず、更に言えば、もしかすると、北京政府自身さえもわかっていないのではないか?という疑念を抱かざるを得ない・・・ということ。

とりわけ現在は、習近平国家主席は、汚職取り締まりをかなり重点的に行っている時期です。

であるならばなおさら、習近平主席自身の意向がそのまま軍事行動などにも反映されてもよさそうなものですが、中南海での権力争いがいまだに継続中なのでしょうか、ハッキリとした「統一見解」のようものがまだ見えてきません。

まあ内紛中の13億人の中国の、これまた南シナ海という流動的な問題において、統一見解などが出てくるわけがないというのは当然でしょう。

余談ですが、最近、孫子関連の本を読んでいて改めて気付いたことがあります。

中国の戦略思想は、上位概念である「世界観」や「政策」はあるのに、その次の階層である「大戦略」や「軍事戦略」を完全にすっ飛ばして、いきなり「作戦」階層のことを実行してしまう・・・。そんなバランスの悪いことをよくやるわけです。

現在の南シナ海でのハチャメチャな行動など、まさにこれで説明できそうです。

*2:カプランの「できるからやる」

これはすでに他の媒体で私が説明したものでして、実は1の説明にもつながってくる重要なものです。

それは、ロバート・カプランが数年前に来日していた時に述べていた、「“できるからやってみる”戦略」です。これを英語でいえば、「capability-based approach」ということになります。

つまり、中国は周辺諸国に圧力をかけることができるほどの軍事力や経済力を持つようになったので、実際に様々な行動を起こします。

そして、ある程度の成功は収めつつも、その姿勢の根本には「能力があるからできることはやっている」という、ある意味で「闇雲」とでも言えそうな狙いがある、というものです。

もちろんこのようなアプローチは、capability、具体的には軍事に変換できるだけの「経済力」や「財力」があるからこそ実現可能なものでして、最近、噂されているように、中国の国家財政が破綻してしまえばその「能力」も無くなってしまうので、元も子もありません。

このような手当たりしだいの(=累積)戦略というのは、傍から見ていると恐怖感を引き起こさずにはいられません。

*3:「抵抗最弱部位」を狙う戦略

私たちが中国のことを考える際に、最も警戒しなければならない戦略は、おそらくこの概念です。

ある媒体でインタビューされた時に、私は中国の戦略を理解するカギとして、「ローカス・ミノリス・レジステンティエ」(locus minorisresistentiae)という医学用語を挙げたことがあります。

これはつまり、身体の中で抵抗力が落ちている「抵抗最弱部位」のことであり、たとえば膝に古傷がある人が梅雨時になるとシクシク傷んだり、肺が弱い人が少し体調を崩すと肺に障害が出やすくなるというものです。

中国の場合もこれと同じで、相手の最も弱ったところ、つまり抵抗が最も弱い部分を狙って、そこに攻撃を仕掛けてくるというものです。

具体的に対日戦略の例でいえば、年金記録などの個人情報にハッキングを仕掛ける、等が手っ取り早いやり方でしょう。そもそも、日本人一般はセキュリティ意識が低い、とはよく言われるところですが、その戦略効果は他の国と比べても飛び抜けて高いといえそうです。

そういえば中国がアメリカに仕掛けているとされているハッキング事件も最近暴露されたばかりです。

南シナ海での行動を見ていても、アメリカが強く出てくる場合には引いており、(埋め立てた島に大砲を配備したが米側に指摘されるとすぐ撤去)何もない場合にはせっせと埋めてやハッキングを実行するなど、まさに「抵抗最弱部位」を「手当たり次第にできるところから」やっている感じです。

もちろん、その合間を縫って、尖閣沖の接続水域へちゃっかりしっかり侵入しているのは相変わらずです>(以上)

中共は建国以来独裁政権で、永らく竹のカーテンの内側に引き篭ってきたから、外交=血を流さない戦争で鍛えられることが少なく、「俺様こそが世界のルールなのだ」と勘違いしているのだろう。言論の自由のないプーチン・ロシアも似たようなものだ。

中露は匪賊ISと同様に周辺国にとっては実に「悪しき隣人」だ。この世にはルールがあり、自分が礼儀をもって遇されたいのなら、隣人もそのように遇さなければならない、ということを教え込まなければならない。鞭をもって調教しなければならない。痛い目に遭わせることが必要だ。

「頂門の一針」が昨日から復活した。PIPEMANさんからメール「頂門の一針が再開されて、実に嬉しいです。改めて平井様のご健筆を期待しております」。渡部氏から電話をもらったが、声が弾んでいた。「頂門」を読むことは朝の習慣になっているから、ほっとした。(2015/6/27)

         

◆韓国は日本の疫病神だ

池田 元彦



戦前には(昭和14年)朝鮮人100万人が在日居住し、戦後(昭和20年)は200万人、即ち100万人増加した。全て自ら進んで日本に職を探しに来た個或は家族、その子孫か、工鉱・木事職等の募集に応募して来日した人達だ。戦後は140万人が、朝鮮に帰還した。

残留した61万人の内徴用労務者は245人だけだと、朝日新聞が1959年に報道している。

収監中の囚人以外は、全て自らの意思で日本残留していることも同じ報道記事にある。

日本は朝鮮にある国有・個人資産53億ドルを寄贈した。韓国は戦勝国でもないのに請求権を翳し、合計8億ドルの有償無償・借款を日韓基本条約で得た。対馬や竹島の割譲を米国に要求し拒絶された。江の傭兵の父河野一郎は竹島割譲を韓国に密約したとの話もある。

1949年吉田茂は朝鮮人暴行・犯罪事件多発に音を上げ、マッカーサーに日本の費用負担で構わないから朝鮮人送還をしたいと文書要請した。在留朝鮮人の過半数は密航者で、大多数は日本経済復興に全く貢献せず、かつ日本の経済法令の常習的違反者であると主張した。

多くは共産主義者並びにそのシンパで、最も悪辣で政治犯罪を侵す傾向が強く、常時7千名以上が獄中におり、犯罪分子が大きな割合を占めていること、これら朝鮮人の為に大量の食糧輸入による対米負債を、日本の将来の世代に負わせることは不公平だと切に訴えた。

残留希望者は日本経済復興に貢献する能力ある者のみ許可する、了解されるなら即予算等一切の措置を進めるとしたが、GHQはそうはさせなかった。将来の火種を温存したのだ。

1952年、李承晩ラインが一方的に引かれ、日本漁船は日本領海において、一方的に拿捕され、船員は抑留、船は没収された。日本人抑留者3929人、拿捕された船舶数328隻、死傷者は44人を数えた。この時、GHQの反対を無視して韓国は竹島を強奪占拠したのだ。

日本人抑留者返還要求に対し、李承晩は重大犯罪朝鮮人472名の放免と在留許諾を要求した。日本政府は要求を呑んだが、釈放した重大犯罪者の韓国送還は拒否した。釈放された重大犯罪人472名は日本各地に跋扈し、在日韓国人やくざ発祥の中心核になった。

朝鮮人暴動は、大正期から度々あるが、戦後は著しく特に日本の国際復帰の1952年には20数件以上を数える。警察署や交番、裁判所・税務署等手あたり次第の集団暴行だ。近年の残虐無軌道な殺人事件等の多くは彼らの仕業だが、マスゴミは通名報道で本名を隠す。

 2006年外国特派員協会で菅沼光弘元公安調査官は、やくざ構成員9万人の内3万人が在日だと明言した。2013年度収監外国人中、最大数1200人が韓国・朝鮮人であり、同年受刑者も韓国・朝鮮人が一番多く、対人口比率(日本人・在日数比)では5倍の受刑者率だ。

韓国朝鮮人にも立派な方が多くいる。が、民族としては李氏朝鮮の悪癖を受け継ぎ、事大主義、裏切り工作や贈賄、人種差別、学歴重視、地道な製品作りなく、職務遂行意識に欠ける。その癖、誇りだけ高く、今やウリジナル、ファンタジー歴史観と世界は揶揄する。

朴槿恵大統領は未だ慰安婦問題に拘り首脳会談拒絶、韓国国会は慰安婦否定政治家等の入国禁止法案審議中。日本の世界遺産登録を邪魔し、世界に妨害工作迄した。6月22日の日韓基本条約50周年の外相訪問で多少軟化を見せたが、韓国はこのままだと疫病神だ。

2015年06月27日

◆尖閣は「海洋限定戦争」になる

平井 修一


防衛研究所戦史研究センター安全保障政策史研究室の平野龍二氏の論考『「海洋限定戦争」としてみた日清・日露戦争 ジュリアン・コルベットの戦略論の視点から」はとても勉強になった。以下はその要約。

<*はじめに

明治における近代国家形成は、日清戦争と日露戦争に勝利して、独立を完全に確保したことによりその完成を見た。この2つの戦争の勝利が近代国家形成に大きな役割を果たしたことは論を俟たない。

ところが、その勝利は決して必然のものではなかった。日清・日露戦争では、陸海軍の戦力においても、総合的な国力おいても、日本は劣勢であった。欧米においても、日本が清国やロシアに勝利できるとは、あまり考えられておらず、日本にとって決して勝算のある戦争ではなかった。

しかしながら、政府と大本営は軍事作戦と外交政策を巧みに織り交ぜながら戦局を有利に進め、優位な状況で講和条約を締結して戦争に勝利することができたのである。

日本は、なぜこの2つの戦争に勝利して、その戦争目的を達成することができたのであろうか。この課題について、英国の海洋戦略家であり海軍史家でもあるコルベット(Julian Corbett)が論じた「海洋限定戦争」の概念を視点として検討してみたい。

*1「海洋限定戦争」とは

コルベットの戦略論の主要概念である「海洋限定戦争」の概念は、クラウゼヴィッツから大きな影響を受けているが、その理論を全面的に是認しているわけではない。

クラウゼヴィッツと同様にコルベットは、政治目的が中核的に重要なため、敵を完全に打倒するまで戦う戦争を「絶対戦争」と捉えている。敵の打倒とは、その軍隊を完全に壊滅させるか武装解除することにより、無力化することを指す。

一方で、限定された政治目的を達成した時点で終わらせることができる戦争を「限定戦争」とした。この場合、敵軍の完全な撃滅は必要を越えており、政治目的を達成したならば、戦争を終わらせることができるのである。

クラウゼヴィッツの「限定戦争」論は、隣接する大陸国家間の戦争を想定しており、獲得すべき限定目標は国境付近にある領土であった。

これに対しコルベットは、「そのような目標は真に限定された目標ではない」と反論する。

その理由として、1)そのような領土は、敵がその保持のために「絶対戦争」を決意するほど重要な地域である、2)その目標に対して、敵は全軍を使用することに戦略的障害はない、と主張した。

そこで限定目標の概念を満足させるためには、1)単に限定された地域ではなく、政治的重要性も限定されている、2)戦略的に(戦場が地理的に)孤立している、ことが必要であると考えた。

この状態が存在しなければ、戦争は「絶対戦争」になるであろうとコルベットは指摘する。したがって、大陸国家間の「限定戦争」と「絶対戦争」に真の違いなく、あくまでも程度の違いに過ぎないと考えたのである。

一方で海洋によって隔てられると、「限定戦争」と「絶対戦争」の区別は直ちに本質的なものになるとコルベットは指摘する。海洋により、その地域は真の「限定戦争」の状態を設定するのに十分なほど孤立化されるからである。

ここに、「限定戦争」は島嶼や半島のように限定目標が海洋によって離隔されている場合のみ可能であるというコルベットの主要命題、「海洋限定戦争」の概念が導かれる。

コルベットは、強力な大陸列強を相手に英国が成功した秘訣をこの「海洋限定戦争」に求めている。

「限定戦争」の勝敗は、交戦国の全体としての軍事的強さではなく、決勝点(決定的場面)において発揮する意志と能力の強さの総量によって決定される。

コルベットは、これを海洋戦略に応用し、戦争は目標の政治的重要度が限定されているため全力を投入しないからだけでなく、海洋という物理的障害によって目標が戦略的に孤立化されることにより限定されることを、英国を巡る海洋戦争史の中から紡ぎ出し、一連の著作で示した。

この「海洋限定戦争」の概念の中で、コルベットは制海の理論を位置づけた。「海洋限定戦争」において、海軍作戦は必ずしも敵艦隊の撃滅を追求する必要はなく、部分的な制海により、陸軍を揚陸して限定目標を奪取することが重要であることを論じたのである。

*2 日清戦争

1894(明治27)年7月25日、豊島沖海戦が起こり、日清戦争が始まった。続いて成歓の戦闘でも日本は勝利を収め、陸上においても初戦を飾る。その後の戦局は、日清両国共に平壌へ陸軍を集中するための努力を軸に推移する。

一方、開戦前に策定されたと考えられる「作戦ノ大方針」の第一期は、海軍による制海掌握の作戦に主体を置き、朝鮮半島における陸上作戦を牽制作戦と位置付けていた。

第二期は、制海掌握状況により3つの作戦方針が定められていたが、制海を得た場合には陸軍主力を渤海湾岸に海上輸送して北京周辺の直隷平野で決戦を行うことにしていた。その最終目的は、首都を攻略して清国の死命を制することにあった。日本は、日清戦争を「絶対戦争」と位置付けていたのである。

この「作戦ノ大方針」に基づき、聯合艦隊は仁川沖南方で清国北洋艦隊の来襲を警戒し、全力で艦隊決戦に備える。

このため、仁川までの航路の安全は保証できず、参謀総長に陸軍兵力の揚陸地を釜山とすることを推薦する。

開戦前の第五師団の第1次輸送と第2次輸送は仁川に行ったが、これにより第3次輸送は揚陸先を釜山に変更して陸路で北上することになり、平壌への兵力集中に悪影響を及ぼした。

8月9日、艦隊決戦が遅れて十分な制海がないことや輸送船の不足から「作戦ノ大方針」が変更され、戦争初期における大きな転換点となった。

これにより朝鮮半島における陸上作戦は牽制作戦から主作戦となり、作戦続行中の第五師団に加え、直隷平野における決戦に使用する予定であった第三師団も投入することになった。

朝鮮半島という戦略目標から清国軍を排除することに重点が置かれたのである。これは「絶対戦争」から「限定戦争」への転換であった。

これにより聯合艦隊も艦隊決戦の任務から解放され、清国艦隊の捜索を中止して陸軍輸送船団の護衛に専念することが可能となった。

第五師団の第4次輸送は、第3次輸送と同様に釜山へ揚陸して陸路で北上することが訓令されていたが、大本営は聯合艦隊の護衛により仁川に揚陸させることを命じた。

日本は朝鮮半島の確保に努力を限定することにより、聯合艦隊を船団護衛に振り向け、無事に陸軍部隊を仁川へ揚陸したのである。これが平壌への速やかな兵力集中に繋がり、戦局は有利に進んでいく。

上陸を終えた第五師団は、9月16日、平壌を陥落させる。続いて、第一軍(第三・第五師団)輸送の海上護衛を終えた聯合艦隊は、9月17日、黄海海戦に勝利する。また平壌攻略以降も、第一軍は朝鮮半島を北上し、鴨緑江畔に到達した。ここに日本軍は朝鮮半島を完全に制圧する。

その後、第一軍は南満洲を進撃し、要地を奪取していった。遼東半島作戦も第二軍が上陸して順調に進み、11月22日、旅順が陥落した。

ところが、この順調な作戦進行によって、大本営は再び冬季の直隷決戦を検討し始める。戦争が継続している以上、大本営が全力をもって敵の打倒を目指すことは当然であった。渤海北岸への上陸作戦を企図して、聯合艦隊へ上陸点の調査を命じる。

これは、大本営が冬季中速やかに直隷決戦を実施しようと意図し始めたことを示すものであり、戦争を再び「絶対戦争」に戻すことを意味した。

この直後の12月4日、伊藤博文首相は大本営へ「威海衛ヲ衝キ台湾ヲ略スヘキ方略」を提出する。(海軍の拠点である)威海衛を攻略して清国北洋艦隊を壊滅させ、さらに領土割譲の布石として台湾の占領を提言することにより、冬季中の直隷決戦に反対した。

決戦で清国軍を壊滅させたとしても、その結果として講和を結ぶべき清国政府も崩壊し、戦争終結への糸口を失うことを憂いたのである。

これは「絶対戦争」の否定であった。海軍の北洋艦隊撃滅の希望もあって伊藤首相の意見が通り、直隷決戦を延期して威海衛を攻略するという「限定戦争」に沿った作戦が決定された。

もし、この時に直隷決戦を強行していたならば、戦争を「限定戦争」から再び「絶対戦争」に転換することになる。そうなれば日本は戦争の終結方法を失い、後年のように困難な状況に陥った可能性も否定できない。

「限定戦争」の継続を主張したことは、伊藤首相の慧眼であった。その後も日本は、この「海洋限定戦争」戦略に沿って戦い、下関講和条約へと結実させたのである。

*3 日露戦争

日清戦争により、朝鮮半島における清国の影響力を排除したものの、今度はロシアの勢力浸透を許してしまう。北清事変によりロシアが満洲を占領し、さらに朝鮮半島を窺うに至って、1904(明治37)年2月、日本はついにロシアと戦うことになった。

開戦が決定されると、聯合艦隊は陸軍の韓国臨時派遣隊を載せた運送船を護衛して佐世保を出撃する。

開戦時の旅順口攻撃において、聯合艦隊は徹底した攻撃を行わなかったため、ロシアの旅順艦隊を撃滅できなかったが、新鋭戦艦2隻と巡洋艦1隻を大破させ、当分の間は行動不能にした。

一方、仁川に向かった陸軍運送船と護衛艦艇は、無事に陸軍派遣隊の揚陸を完了した。派遣隊は、直ちに京城へ進入する。また、この間に起きた仁川沖海戦にも勝利した。

当初の作戦計画では、開戦後に第十二師団を馬山浦へ揚陸することにしていたが、海戦結果からの情勢判断に基づき、上陸地を仁川に変更する。

2月に行われた閉塞作戦と2度の旅順口攻撃は大きな戦果を挙げることができなかったが、その間に第十二師団が仁川上陸を完了して京城を確保した。聯合艦隊の一連の作戦は、京城確保という戦略目標の達成に大きく寄与したと言える。

この間、軍事力を背景として日韓議定書が締結され、日本とロシアの間で動揺していた韓国は明確に日本側につくことになった。これにより、日本は韓国における軍事行動の自由を担保したのである。

3月には、平壌に近い鎮南浦へ第一軍主力の上陸が行われた。同時に行われた度重なる聯合艦隊の旅順口攻撃と閉塞作戦は大きな戦果を挙げられなかったが、この活動により旅順艦隊は港内に封じられ、第一軍主力は無事に上陸する。京城から北進してきた第十二師団と合わせて、速やかに平壌を確保した。

その後、第一軍は義州に向けて北上し、鴨緑江でロシア軍と激突する。海軍による重砲等の海上輸送支援は、この戦闘で日本が圧勝する決定的要因となった。ここに日本は概ね朝鮮半島を確保する。

ここまでの戦闘経過は、まさに海洋を利用して限定戦略目標を確保するという「海洋限定戦争」であった。

8月中旬、聯合艦隊は黄海海戦と蔚山沖海戦に勝利して、極東海域における海軍力の優位を保つ。ところが、聯合艦隊は旅順艦隊の撃滅に失敗し、旅順口封鎖を続けなければならかった。陸軍の旅順要塞への総攻撃も失敗する。

9月4日には天王山と目された遼陽会戦に勝利して同地を占領したが、ロシア軍主力の撃滅にも失敗した。陸軍は北方のロシア軍主力に対する作戦と旅順攻略の二正面作戦を強いられる。

バルチック艦隊の極東に向けた出港も近づいており、来航して残存の旅順艦隊と合同すれば、日本は制海を失って大陸への海上輸送路を閉ざされる。陸軍は満洲で孤立し、シベリア鉄道によって増強されたロシア軍に殲滅されてしまうことが予想された。旅順の早期攻略が戦局を展開させる鍵であった。

遼陽会戦後の戦略目標については、満洲軍総司令部内において北進継続が検討される。しかし、山縣有朋参謀総長と児玉源太郎満洲軍総参謀長との間で、翌春に兵力増強が整うまで満洲軍は北進せず、当面は旅順攻略を優先することが確認された。北は守勢をとり旅順攻略に努力を集中する戦略が固まったのである。

その後10月には、ロシア軍の攻勢により、沙河の会戦が起こるが、満洲軍はロシア軍を撃退する。山縣参謀総長の指示もあり、この時も追撃は停止され、沙河守勢・旅順重視の戦略は堅持された。

その後、満洲軍は弾薬の補充に努め、一ヶ月余りで所要数を概ね集積する。そこで、満洲軍総司令部は戦局打開のため再度北進を企図した。目前のロシア軍に対して決戦に臨む作戦計画等が参謀達から度々上申されたのである。

これらの作戦計画は、決戦によりロシア軍に再起できないほどの大打撃を与えることを目的としており、講和を含めた戦争全体への配慮に欠け、戦略目標の優先度についての理解が不足していた。「限定戦争」というよりも、敵の打倒のみを考える「絶対戦争」に近い戦略思想である。

しかしながら、これらの上申は児玉総参謀長の機略により抑えられた。

一方、大本営は第三軍に第七師団を増援し、旅順攻略にその努力を集中する。12月5日、第三軍が激戦の末に二〇三高地を奪取すると、陸上からの砲撃によって旅順艦隊が壊滅した。翌1905(明治38)年1月1日、ついに旅順要塞も陥落し、日露戦争は新たな局面に入る。

日本は当初の戦争目的であった「韓国保全」を達成した上、さらに遼東半島まで占領したのである。講和に向けて、この有利な情勢を維持したまま、戦争を終わらせる必要があった。

3月10日、満洲軍は奉天会戦に勝利して同地を占領するものの、ロシア軍の主力を逃し、その撃滅にまたも失敗する。この会戦後、満洲軍を奉天北方の鉄嶺付近に留め、ハルビンへの北進を断念する作戦方針が大本営で起案される。

ところが3月30日、「明治三十八年三月以降における作戦方針」が策定内奏され、先の作戦方針は覆されて再びハルビンへの前進が企図された。戦争拡大が計画されたのである。

これは「絶対戦争」とまでは言えないが、「限定戦争」からの逸脱であった。特に、大陸奥深くまで陸軍を進めることは、海洋利用を前提とした「海洋限定戦争」からの逸脱であった。

このような中、3月末から上京していた児玉総参謀長は、北進阻止を主張している長岡外史参謀次長と協力して元老や大本営及び政府首脳と協議を重ね、拡大する戦略を抑制し、「限定戦争」への復帰に努力する。

4月8日、「日露戦役中に於ける作戦並外交歩調一致に関する件」が閣議決定され、ロシア軍の撃滅ではなく、守勢の中で有利な地位を占めるように戦争を進めていくことが画策された。

また、講和に向けて適当な外交手段を採ることが国家方針となった。ハルビンへの満洲軍の北進も「政略と一致して」という限定が付され、大山巌満洲軍総司令官へ外交状況に応じて行動するよう訓令された。これは「海洋限定戦争」への復帰であった。以降、満洲軍は守勢をとり、海戦と外交の状況進展を待った。

5月27・28日の日本海海戦の決定的勝利により、講和会議に向けた交渉が始まる。満洲では守勢をとりながら樺太や北韓地方など限定目標を奪取し日本は講和会議に臨んだ。9月5日、ポーツマス講和条約が結ばれて、日露戦争は勝利の内に終結した。

*おわりに

当時の日本に、清国やロシアという大国を打倒する実力はなかった。国力の劣る日本は、部分的な制海の中で陸軍と海軍が、限定された戦略目標に向かって努力を集中し、協力していった。この「海洋限定戦争」を堅持することにより、軍事作戦をうまく活用して有利な外交交渉を行う場を現出させたのである。

軍事作戦と外交を連結させたのは、朝鮮半島や遼東半島など海洋によって孤立化された限定目標であった。このことが、日清戦争と日露戦争を「海洋限定戦争」として成立させた理由である。

また、何度か訪れた「海洋限定戦争」逸脱の危機は、政軍指導者の巧みな政戦略によって防がれた。これにより、日本は維新以来の懸案であった確固たる独立確保を達成し、近代国家として完成したのである>(以上)

産経6/13掲載の共同電によると、尖閣諸島の周辺海域への公船派遣を繰り返している中国海警局が、浙江省温州市に大型船が停泊可能な大規模基地を建設する計画を進めている。尖閣諸島に地理的に近い温州市での拠点建設により、尖閣での監視活動を支援する態勢を強化し、領有権主張を強める構えだ。

計画中の「温州指揮総合保障基地」は敷地面積が約50万平方メートルで、岸壁の長さは約1.2キロに及ぶ。排水量1万トン級までの大型船を含む計6隻が停泊できる施設や、飛行機やヘリの格納庫、大型の訓練施設などが含まれる。

総工費は約33億4千万元(約664億円)で、全額を中央政府が負担する。基地建設の目的を「釣魚島(尖閣諸島の中国名)の海上権益を守るために常態化している巡航に有利だ」としている。

尖閣までの距離は約356キロで、温州は中国大陸で尖閣に最も近い都市とし、地理的な利点があると説明している。

中共は尖閣奪取を狙って戦争準備を進めている。日本も最西端の与那国島や宮古島、石垣島、奄美大島に部隊を常駐させる方針で、有事の際は日米台VS中共で「海洋限定戦争」が戦われるのだろう。温州や海南島の基地は真っ先に標的になるはずだ。

この衝突で中共を絶滅する必要はないが、中共が尖閣奪取に失敗すれば(敗ければ)「終わりの始まり」になる。現代のファシスト、悪の独裁帝国は数年で消滅するはずだ。撃ちてし止まむ!(2015/6/24)

◆集団的自衛権を行使しない馬鹿いるか

池田 元彦


集団的自衛権の行使は主権国家として自明の理だ。自国民、財産、領域を守る為、必要に応じて同盟・友好国の支援を、支援されることの何が問題なのか。中国の横暴、侵略戦略が誰の眼にも明らかな今日、法解釈論争をする馬鹿がいるか。集団を含む自衛権がないのは植民地だけだ。

それを何処の馬鹿が言い出したか、「権利はあるが行使出来ない」とか「座席の切符はあるが、座れない」と言った空理空論を、未だ後生大事に唱える元芳成庁長官や学者がいる。

憲法もそれに従う法律も、国際環境と現実に即して解釈を変更し、後付で法律を改訂・追加するのだ。

昨年7月自民党政府が集団的自衛権行使は合憲だとの解釈変更を閣議決定した。現在の法制化の段階で、何を騒ぐのか。国民は、自民党を民主党の4倍で支持し、解釈変更後も集団的自衛権容認が60%を超えていた。民主党はポピュリズムを楯に、社会党への先祖返りをしたいのか。

何でも反対、反対の為なら暴力行使も辞さない。普段は法律・規則を守れと煩い野党が、某委員会では委員長の入室阻止に暴力を揮い、携帯電話さえ奪った。そうでなくても、集団的自衛権行使条件の詳細を、重箱の隅を突くようにイチイチ国会で質疑し、戦争法案だと叫ぶ有様だ。

軍事の基本は一般法令の制約を一切受けつけないことだ。但し関連法令により、最低限やってはいけないことだけ「ネガリスト」で条件を定める。それ以外は、最高司令官である首相と防衛大臣の合意の下、何をするかを国際環境、軍事状況等を勘案してケースバイケースで決定するのだ。

それを民間法律議論の延長戦で、何であればやっていい、といった「ポジリスト」と同じ感覚で騒ぐ低レベルの民主党議員は不勉強に加え、戦争反対のようにして安倍攻撃をするから茶番になる。

必要なのは、現存する憲法や法律の解釈とそれの適用可否ではなく、環境と世論の変化に対して、出来るだけ憲法範囲内、法律範囲内で解釈を進め、それが出来ない段階と判断した時に憲法や法令の改正をするのが筋である。それが判って反対するのだから性質が悪い野党だ。
 
尖閣を核心的利益と表現し、必要ならば武力で領土を守る用意ありと恐喝する中国等に対し、日本が自己防衛の為必要な法令整備・制定を行うのは当然であり、従来のように1案件毎に法令を作るのは愚の骨頂だ。戦争反対なら、何故野党は、中国に抗議し、批判、非難をしないのか。

それにしても、維新の党松野頼久代表の無定見さには呆れた。NHKのTV討論で、国民の8割が集団的自衛権に否定的だから云々と発言する。全くポピュリズム(衆愚政治)政治家で信念も、理念も、自らの意思もないヘタレだ。橋本顧問は、早々に松野代表を古巣民主党に帰してやれ。

日米不平等を改善した岸首相1960年安保条約前文には「両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認・・」と明言している。

当然実行を前提とした前文で、お飾りではな い。曲学阿世の憲法学者の意見を採用しなかったので今日の繁栄がある。

唯一違憲判断を下せるのは最高裁だけだ。1969年砂川事件の最高裁判決は安保条約の合憲、集団・個別に拘らず自衛権を認めている。有るが使えないと言う馬鹿な解釈の変更あるのみだ。

笑わせるのは、普段自衛隊に冷たい左向きの連中が急に自衛隊員の安否を気遣い、危険だ、戦闘での死ぬリスクがあると心配顔する。そんな暇があるなら、身勝手な軍事力行使への中国反対運動を立上げよ。左巻きの上辺だけの気遣いに、自衛隊員の内心の不愉快は相当のものだろう。

◆白い花が咲いていた

馬場 伯明



自宅からJR稲毛駅へ戸建て住宅の街を10分余歩き、総武快速で東京の職場へ向かう。途中の庭に白い花が咲いている。心が和む。

白い花にはよいイメージが多い。清楚・清潔・清純・純粋・高貴などだ。た、国の儀式・行事や冠婚葬祭で使われ、結婚や葬儀などの華麗・荘厳・神聖な場に菊や蘭などの白い花が使われてきた。

休日の土曜日。いつもの道をゆっくり歩き、寄り道をしながら、白い花が咲いている場所を巡った。立ち止り随時写真も撮らせてもらった。(ただ残念ながら、本誌メルマガには写真の添付ができない。本やWEBで同類の写真をお探しくだされば・・・)。

まず、近所の公園の「ウツギ(空木)」の白い花。「コブシ(辛夷)」が塀を覆っている。隣の「ハクモクレン(白木蓮)」の肉厚の花も見事である。雨上がりの白い「ガクアジサイ(愕紫陽花)」が美しい。

「ヤマボウシ(山法師)」が咲いている。故郷雲仙市の市木である。今頃雲仙の山は白い花の群生で埋め尽くされているだろう。畏友志賀俊紀は「白い山法師の花」を作詞した。作曲は多摩市のたまみゆきさん。普賢岳の噴火を気遣う心情を綴った東京の友からの手紙である。いい歌だ。

庭の畑のおっとりした「ネギ(葱)」ボウズの花も白い。白い「ツツジ(躑躅)」は上品な花だ。どぎつい赤紫の花よりこちらがいい。「ジャスミン」の生け垣の香が5mの風下まで流れていた。だが、あの白い花の塊も蔓の残骸となった。

空地の「オシロイバナ(白粉花)」は朝には閉じている。闇夜に開いている白い花は不気味なものだ。「ナンテン(南天)」の実は赤くなるが、小さく白い花が密集している。

第二稲丘橋の袂の文房具屋さんの玄関のプランターに紅白の「マツバボタン(松葉牡丹)」(の一種?)が溢れるように咲く。宿根だから毎年のこと。これを見ると「ああ、春も暮れる・・・」と思う。

「甘夏ミカン(蜜柑)」の白い花は小さくて可愛い。この花から大きな実ができるとは常識では想像できない。「ノギク(野菊)」の白い花は「野菊のごとき君」を思い出させる。

「ドクダミ(毒痛み)」は白い4枚の花弁である。薬草ともなるが触れると臭いので嫌われる植物である。その近くの一角に咲き誇っていた真っ白な「ユキヤナギ(雪柳)」はずっと前に散った。

白い「セイヨウアジサイ(西洋紫陽花)」の大輪が美容室前に咲いている。進めば、白い「ペチュニア」が門の前のプランターに繁る。

市道の角の家から「クチナシ(梔子)」の芳香が漂ってきた(*1)。八重の花はバラのよう。長崎の田舎の花は一重であり、子供らは二つ合わせた花に麦藁を通し水車を作り遊んだ。後に朱色の実が成った。

駅の近くに白い「サルスベリ(百日紅)」がある。好評だったアニメ映画の「百日紅」は燃えるような紅色でなければならない。原作は(故)杉浦日向子。思い通りにならない女浮世絵師の「お栄さん」の葛藤劇を観て私
は切ない気分になった。

じつは、貰った「コチョウラン(胡蝶蘭)」が1年後わが家の室内で(ついに!)咲いた。花や茎が小ぶりであっても豪華な白い花である。素人が開花させるためには、水やりと温度管理などがなかなかむずかしい。

春から夏にかけては、ご近所で「白い花」をけっこう目にする。PCのWEBサイトには花の写真や情報が溢れている。だが、それを本誌に転載(コピペ)しても無意味だ。(私が)足を運び目で見た生の花の色や形、香りなどの体験と雰囲気を届けたい。

ところで、「白い花」ではあるが話題を変える。新宿のスナックで80歳の大先輩が「白い花の咲く頃」を画面の歌詞も見ず歌った。遠い昔を偲ぶように。歌に心がこもっていた。

このNHK歌謡が発表されたのは昭和25(1950)年、作詞:寺尾智沙、作曲:田村しげる。岡本敦郎(1924-2012)のヒット曲である。音幅が狭くテンポも遅く歌いやすい。(リズム音痴の)私も歌うことができる。
白い花が咲いてた  ふるさとの遠い夢の日さよならと云ったら 黙ってうつむいてたお下げ髪悲しかったあの時の あの白い花だよ

1番の歌詞は「♪白い花が咲いていた(*2)」であるが、2番は「白い雲」、3番は「白い月」だ。お下げ髪の少女と別れた15(歳)の春。「白い」という語は二人の悲しい思い出の象徴なのだ。

では、この歌の白い花は何という花だったのか、作詞者は特定していない。お下げ髪の少女自身を白い花に擬しているとも思われるが、聴く人や歌う人が自由に想像の翼を広げてくださいということだろう。

私にも白い花の少女のような追憶があり胸の片隅に終って生きてきた。いつかは彼女に自慢話の一つでもできるかもしれないと。駄作を二首。

戦ひのさなかに生まれ育ちしに七十年は夢のひとひら 星雲の立志果てにし東京ゆ田舎人われ新たな旅へ  

それなりに大きい星雲の志を立てたが道半ばで潰えた東京から新たな旅への一歩を踏み出したいという気持ちが、今でも、ないことはない。

季節は巡り白い花には繰り返し春や夏が来る。しかし、人生は一度だけである。もはや人生の残照が残るだけになった。この先は冥土への旅しかないのだろうな・・・。(了)

追記

(*1)「クチナシ」の花は枯れてしまった。深夜の帰宅の途中でほんわり漂ってきたあのあやしい芳香が懐かしい。

(*2)「白い花の咲く頃」の2番・3番を記す。

白い雲が浮いてた  ふるさとの高いあの峰
さよならと云ったら こだまがさよならと呼んでいた
淋しかったあの時の あの白い雲だよ

白い月がないてた  ふるさとの丘の木立に
さよならと云ったら 涙の眸でじっとみつめてた
悲しかったあの時の あの白い月だよ   (2015/6/25 千葉市在住)

2015年06月26日

◆国際政治と安保に疎い長老たちの罪

櫻井よしこ



河野洋平、村山富市両氏をはじめ、山崎拓、武村正義、藤井裕久、亀井静香各氏が日本記者クラブで会見し、気勢をあげた。

財政問題では筋の通った主張を展開し、尊敬を抱いていた藤井氏も含めて、この人たちは安全保障問題になると全員が思考停止に陥るのか。

国の基盤は経済力と軍事力である。如何なる国もその2つの力の上に立って、政治を行い、外交を行う。これが常識である。にも拘らず、日本には金輪際、安全保障上の自立や一人立ちは許さないというGHQによる統治と、その落とし子としての日本国憲法を厳守せよと、この人たちは言い張る。彼らこそ、日本がまともな国になるのを阻止し続け、日本弱体化をはかる人々だ。

河野氏は安倍晋三首相の平和安全保障法制を批判する前に、自身の歴史問題発言の間違いを国民に釈明し、詫びるべきだ。

慰安婦の強制連行を世界に言明した1993年8月の記者会見での発言について、氏は批判的なメディアの取材には応じない。決して反論されない場に限って出席して自己主張を展開し、「私は安倍政権に本当に怒っている」などと言う。しかし、「本当に怒っている」のは国民であり、怒りの対象が自分であることを、河野氏は認識すべきだ。

村山氏は、安保法制のような大事な問題について、安倍政権はもっと議論すべきだと強調したが、私は反射的に氏の独裁専制振りを思い出す。

社会党党首として、自衛隊は違憲だと唱えていた村山氏が、河野氏らと組んで政権を奪取し、首相の地位を得た。首相になった村山氏は自衛隊合憲論へと身を翻したが、その時点で全国の社会党支持者に対して十分な説明や時間をかけた議論をしたのか。

モーニング姿に正装し自衛隊の観閲式などで、立派に職務を果たせと訓示したが、そのときも、社会党支持者らに十分説明したのか。

私は社会党や氏が支持者に対して十分説明したという話を寡聞にして聞かないが、少なくとも村山氏の変節がここで止まっていれば、まだ国民は救われる。しかし、氏の節操のなさには続きがあった。1年半で首相を退き、社民党党首に就いたら、氏はまたもや自衛隊はやはり違憲だと言い出した。

軍事力への忌避感

現在の社民党に繋がる日本社会党には、それなりの長い歴史と熱心な支持者が存在した。その支持者に、国の安全保障の最重要点である自衛隊と憲法の関係について、違憲から合憲へ、再び違憲へと変転し続けたことについて村山氏は一体どれ程説明したのか。

納得してもらえる議論は殆どしていないはずだ。であれば、氏は安倍首相批判などをする前に、自身の軌跡をふりかえり、独裁専制君主のような方針転換に心からの反省を示すべきだ。

“長老議員”たちは、彼らが憲法を守れと主張している間に、世界がどう変化し、それがなぜ起きたのか、考えたことがあるだろうか。

誰の目にも明らかなように、アメリカは中東、ヨーロッパ、アジア、世界各地域で影響力を低下させている。対照的に、中国は軍事的膨張を続けている。

このような変化のきっかけが中東での混乱だった。拙著『日本の敵』で詳述したが、中東でテロリスト勢力が跋扈し始めた原因は、オバマ大統領が国際政治における軍事力の意味を理解しようとせず、介入に躊躇したからである。

2010年12月、チュニジアで民主化運動が発生し、瞬く間にエジプト、リビアへと広がった。当時イラクは米軍の駐留と支援で安定を保ちながら自由選挙を行い、シーア派、スンニ派、クルド人の3勢力による政権誕生に、兎にも角にも漕ぎつけていた。

3勢力の協力関係が実現したとはいえ、イラクは危ういバランスの上にあった。にも拘らず、オバマ大統領は公約に従って11年末までにイラクからの米軍撤退を完了させた。

イラク、アフガン戦争からの撤兵を公約して大統領となったことにも見られるように、オバマ氏は歴代大統領の中で、軍事力行使に対して恐らく最も強い忌避感を抱く大統領だ。

13年9月10日、大統領はシリア問題に関連して、アメリカは世界の警察ではなく武力介入は行わないと演説した。ただでさえ難しいイラクの政権運営は不安定さを増し、マリキ首相率いる政府は少数派のスンニ派住民やクルド人への目配りが行き届かず、結果としてシーア派以外は退けられた。

マリキ政権下のイラクが直面するこうした一連の問題に、オバマ大統領は積極的に関わろうとしなかった。混乱と不満が拡大していく中で過激派が力をつけ、「イスラム国」勢力を生み出し、中東をより深い混迷に陥らせたのである。中東における混乱の主原因はオバマ大統領の無策だったのである。

日本国民の命と領土を守る力

南シナ海で中国が埋め立てを加速させたのは、この1年半、つまり、14年以降である。プーチン大統領がウクライナからクリミア半島を奪ったのが、オバマ 大統領の「アメリカは世界の警察ではない」という宣言から半年後だっ た。中国とロシアを国際法無視の蛮行に走らせたのも、オバマ大統領の武 力不介入宣言だったのである。

国家にとっての最重要の責務は、国民の命を守り、国土、領海を守り、民族が民族らしい生き方を追求する自由を守ることだ。如何なる国家にとっても、その責務は基本的に自力で担うものだ。

だが、日本には国民を守るに足る十分な自力が備わっていない。現行憲法はそのようなことを禁ずる精神で作られており、だからこそ、戦後ずっと、アメリカが日本を守る形が整えられてきた。

しかし、今、アメリカが自分たちは世界の警察ではないと言っているのだ。この状況下で日本国民の命と領土を守る力を、日本国自身が身につけなければならないのは明らかだ。それを達成しようとしているのが、いま国会で議論されている安保法制である。

前出の“長老”たちは烈しく安保法制に反対したが、仮に一連の法改正がこの国会でなされなかったとすると、どういうことになるのか。それは中国に大いなる誤解を与えるだろう。しっかり自分たちを守るという日本人自身の気概が十分ではなく、実力も大したことはないと判断されれば、そのときが一番危うい。

危険な国に対しては、十分な抑止力で行動を起こさせないことが最善の防衛力につながる。こちら側に十分な力と意志があるのを見せることだ。それをしなかったために、オバマ大統領は中東のみならず世界中に混乱をひきおこした。

前述の“長老議員”らには、日本のやる気の無さが、オバマ大統領のやる気の無さと同様の構図で中国の対日侵略を招いた場合、政治家としてどう責任をとるのかを問いたいものだ。

『週刊新潮』 2015年6月25日号 日本ルネッサンス 第660回

                  (採録:松本市 久保田 康文)

◆AIIB設立を前に最後の悲鳴か?

宮崎 正弘 


<平成27年(2015)6月25日(木曜日)弐 通算第4589号 >    ♪
 
〜AIIB設立を前に中国の金融機関、最後の悲鳴か?
 個人が個人にネットで高利貸し、P2Pの詐欺も出現という末期症状〜

中国経済が金融に行き詰まって、銀行は不良債権の噴火を回避するために、理財商品を発売した。融資平台は融資残高が360兆円、理財商品は220兆円前後と見積もられる。いずれもシャドーバンキングの範ちゅうに入る。

金融政策的には預金準備率を過去二年間に数回引き下げ、つぎからつぎへと金融緩和策を講じたが、不良債権の累積は爆発的に増加した。

債務不履行、企業倒産、ゴーストタウンからゴーストシティ化がすすむ一方で、最後の博打場は株式市場への乱入となった。

 上海株式は二年で三倍となり、そして大暴落が開始された。ピークの5100から、早く15」」%程度の下落(6月24日現在)、インサイダー取引で濡れ手に粟のプロは売り逃げ、最後のババを引くのはいつものように素人の投資家、善良な預金者である。

ついに国務院所管の保険会社から資金をあつめ、「中国保険投資基金」(資金は6兆円規模)を設立し、インフラ建設の資金需要に回すほか、商業銀行法を改正して「預金残高の75%以内」と決められていた融資枠の「残高比率」を撤廃するという。

こうなるとなりふり構わぬ絶望の処方、最後の悲鳴にちかいのではないのか。

そしてP2Pの登場である。銀行が相手にしない、中小零細企業や大学生にたやすく金を貸すのが「サラ金」「街金」と言われる高利貸しだが、ネット時代ともなると、SNSをふんだんに駆使した新型の金融業が登場した。

日本で言えば「サラ金」(高利貸し)業務をネットを通じて気軽に行い、しかも仲介業者が高利を謳って投資家から巨額を集め、ドロンする。これが「P2P」の実態である。中国語で「人人貸」だが、分かりやすい日本語にすれば「ネット上の個人営業の高利貸し」だ。


▲リスクを考えないで投機する人たち

嚆矢は2006年、北京の金融総合企業「宣信」(CREDITEASE)が初めて適用し、以後雨後の竹の子の如くに類似業者が参入した。

P2P(Peer to Peer)業者は2014年8月時点の統計で1753社、貸出規模は2500」億元(5兆円)規模以上に膨らんでいると推計され
ている。

もともとネット上での消費者金融的なビジネスは「アリババ」が開始し、そのアリババ傘下の「招財宝」の成功をみて、右へ倣えとばかり、IT企業系の「捜益貸」、上場企業の系列会社では「友金所」、銀行系の「小企業e家」、保険企業系列の「陸近所」などと百花繚乱のごとく、このブームにつけ込んで詐欺師らがP2Pに参入してきたから、錯乱状況がうまれた。

平凡な主婦や小金持ち、老人から資金をつのり、高利で回転するとして、金だけをあつめてドロンするという手口。ま、日本にもよくある犯行だが、詐欺の本場=中国での規模はもっと凄い。金融機関、最後の断末魔が聞こえてくる。

◆私の「身辺雑記(233)

平井 修一



■6月22日(月)、朝は室温24度、晴、爽やかな風、フル散歩。

今日も集団的子育て。洗濯機を3回まわし、ベランダでは干しきれないので屋上にも干す。ついでに屋上排水口掃除。

朝の仕事を終えたら10時過ぎで、かなり疲れを覚えた。新聞をもって横になったら正午までぐっすり。

犬にオヤツをやり(いつも正午)、小生はラーメンを食べて、また横になったら4時だった。今日はNが休みの日なので、孫3人をピックアップしてきた。買い物をし、鉄板焼きを用意し、食べさせ、片づけ、翌朝の仕込みをしたら9時過ぎ。またまた爆睡。

思考停止の一日だった。

■6月23日(火)、4時前に目覚めて、朝食の仕上げをした。他人丼と味噌汁とトマトサラダ。疲労感は続き、気力も萎えている。腰回りに疲労が蓄積している感じだ。洗濯機を回して、イザ散歩へ。

朝は室温24度、晴、爽やかな風、がんばってフル散歩。

先週の土曜(20日)から長男一家4人が奄美へ行っている。イトコが多いから毎晩宴会だろう。今日あたりに帰ってくるかもしれない。

人民網6/16に「恥知らずの中共に鉄槌を!」と叫びたくなるほど愚劣な記事があった。

<海洋問題、各国は真剣な取り組みをすべき

不幸なことに、現在特定の国は何かというと南中国海問題を大げさに宣伝し、南中国海の平和と安定を破壊している。中国の理にかなった提案に歩調を合わせないだけでなく、反対に中国の貢献についてとやかく言い、ほしいままに顔に泥を塗っている。

こうした身勝手な行為は他国の正常な協力を妨げ、集団的利益を損なう。こうした国は南中国海問題をしきりに宣伝するよりも、地域の平和のために真剣な取り組みをした方がいい。海洋運命共同体構築の面で、各国には大きな協力の余地がある。

中国は建設的な提案を示した。だがこれは中国一国の努力だけで実現できるものではない。関係各国は共通認識を形成し、溝を管理・コントロールし、同じ方向に向かうべきだ>(以上)

南シナ海を不法占拠し、軍事基地を建設し、周辺国を威嚇しながら「よーゆーよ」。白を黒と言い、馬を鹿と言う。アカは昔から平気で嘘をつく。

地球から駆除しなければならないが、アカと境があいまいなリベラルという厄介者がいるから、なかなか難しい。リベラルまで駆除したら地球の人口は8割が減る。欧州はイスラム系しか残らない。

習近平や村山富市、翁長雄志のような確信犯的なアカを選別して利権もろとも潰せば、残りは多少はマトモになるか。砂糖を取り上げればアリは群れない。日共は代議士の給料に群がっているから、代議士から政党への寄付を禁止すれば3年で餓死するだろう。

小生の趣味は中共叩きだが、パイプ煙草もたしなんでいる。4年ほど前にパイプを贈っていただいたpipemanさんから以下のメールを頂いた。

<平井様の記事の愛読者の平野憲一郎です。突然の電子メールで誠に失礼いたします。

渡部亮次郎さんの「頂門の一針」の愛読者です。覚えておられるかもしれませんが、私は以前、日本パイプクラブ連盟の常任理事兼事務局長を務めておりました。現在は、後進に譲っておりますが、パイプは毎日、愛喫しております。

「頂門の一針」を、毎朝愛読しております。特に平井様の連載記事の「中共政権撲滅論」には共感というよりも快哉を叫んでおります。

私と同じ考えの平井様が、多忙を極める日々の家事の合間を縫って色々と情報を収集して、新たな知見をご提示くださるので、気分が爽快になります。

「頂門の一針」は渡部様が体調を崩され、現在、無期限休刊になっております。まことに残念です。

渡部様が恢復なされば良いのですが、渡部様ご自身がご体調を顧みて「人生の終焉を感じた」とおっしゃっておられる以上、いつ再開になるかもわかりません。愛読者として寂しい限りです。

五千部以上の部数を誇るこの優れた警世のメールマガジンが、このまま廃刊になってしまいかねないことを心より危惧しております。

常連寄稿家の方が中心となって渡部様を助ける形で「頂門の一針」を早期に復刊できないものか、と念願しております。

私に対しても、「何か、お前も力を貸せ」と仰せつかれば、微力ではございますが、私の出来る範囲で尽力致す決意で、このメールを差し上げております。

どうか、ご検討頂けないでしょうか。本来、渡部様に送るべきメールでしょうが、御体調不良の中ではご迷惑と考え、常連寄稿家の平井様にお願いする次第です。

お目にかかったこともないのに、甘えたメールをお送りして恐縮です。「一度、お前の顔を見たい」ということであれば、いつでもご指定の場所に参上してご挨拶申し上げます>(以上)

小生の返信はこうだ。

<pipeman様 まったくもって同感です。先日も渡部様から電話を頂いたのですが、芳しくない様子で、「椅子に座れないからどうしようもない、ゴロゴロ寝ているしかない」と嘆いておられました。「早く復刊したい」とのことですが、腰痛の原因が不明のようで、湿布するくらいしか方法がないようです。

渡部様は左右の言論への許容度が高く(ふところが広い)のでメルマガ主宰者として適任でした。大枠は守るけれど「来る者拒まず、去る者追わず」という感じですね。こういうキャラは実は非常に希少です。

小生なんぞはすぐにカッカしちゃいますので、コンダクターとしては不向きですし、一介の物書きに過ぎません。AWACSのS氏は渡部氏の親友ですが、現役ですから忙しくて毎日のメルマガ編集は無理でしょう。

杉浦さまは癖がありそうで・・・

小生もどうしていいのか、拱手傍観の体です。ひたすら氏の快復を願うばかりですが、しばらくは様子を見るしかありません。そのうち吉報が入るといいのですが。本当に悩ましいことです>(以上)

まったくもって悩ましいことだ。神様、仏様、英霊の皆様、どうぞ渡部師匠が元気になりますよう、お力を貸してください。

■6月24日(水)、朝は室温25度、快晴、爽やかな風、フル散歩。

すごい日射し、まるで盛夏のようだ。畑では南瓜がずいぶん大きくなってきた。トウモロコシも育ってきた。このところ洗濯物が乾いてくれるので助かっている。

ブログ・Argus Akita6/24「安倍政権は独裁政権と言えるか?」から。

<少し前の国会中継の録画を見た。寺田議員の腐った味噌汁の比喩があまりピンと来ないし、応答した法制局長官の毒キノコは焼いても食えないがキモを取ったフグは食える発言も、何を言いたいのかイマイチ・・・相変わらず議論のかみ合っていない神学論争的な安保法制審議である。

憲法の絡む近年最も重要な法律の一つの議論で味噌汁だのキノコだのフグだの・・・、ホトホト呆れる話だ。品格も何も感じない。

※食えないキノコは絶対に無い。食えるのが1回だけかどうかの違いだけだ。

自民党も安全保障環境の変化を言うなら、現実に起きた尖閣領海侵犯や赤サンゴ密漁など日本に直接関係のある支那を引き合いに出せば話が明確化するものを未だに支那に遠慮している風だ。

対する民主党、社民党、共産党はそもそも『ではどうやって国、国民を守るのか』という根本的な命題に明確な答えを持っていないため、当初は『自衛官のリスクが上がる』『安全な地域』『新3要件』といった突っ込みをしていたものの、今度は憲法学者の反対意見を金科玉条のように突っ込んでいる。

学者や研究者に(スパコン世界一をめぐって)『2番じゃダメなんですか?』と突っ込んだのも民主党だったが、都合の良いときだけ『学者』の意見を取り上げる。

法案反対の議論ではなく、とにかく何が何でも法案廃止が目的の議論のため自民党と議論がかみ合うはずがないではないか。もう国民は見透かしているに違いない。

さっさと安保法案は強行採決でも何でもやってしまえと・・・。

かつて尾崎行雄が言ったように、日本に国会議事堂はなく国会表決堂だけがあるのだ。比喩の下手さは別としても国民を代表する議員という資質に欠ける連中があーじゃこーじゃ言っても時間の無駄にしか見えない。

では、安倍政権は野党やマスコミが言うように独裁政権なのか・・・。結論から言えば、他国から見たら全然そう見えないだろう。

例えばトルコだ。

先日のトルコの国会の選挙でエルドアンの率いるイスラム系与党AKP(公正発展党)の過半数割れになったようで、13年間政権を担ってきたエルドアンは大打撃を受けた格好だ。

エルドアンは超長期政権を狙う政権で選挙後に憲法改正を行いさらに大統領権限を強化しようとしていただけに今回の選挙の敗北によるカウンターアクションは少々手荒になるかもしれない。

B1MdhTmIIAAm0CEこのエルドアンは国内向けには非常に強権で、批判が続いている新築の大統領府(150,000平方m超の土地に1,000部屋の建物)は既に6億1,500万USドルが支払われたらしいが、さらに今年1億3,500万USドルの追加が予算計上された。この支払いを裁判所は禁止したが、一向に聞く耳を持たず、国民の批判を抑えるために昨年3月にはTwitterの遮断を行い、裁判所がその解除を決定しても無視といった具合だ。(こんなこと日本じゃ無理でしょう)

エルドアンは選挙演説で地方に行けなかった場合には空中に3m程のホログラムを投影し演説を行い話題になった。

まるで皇帝のように振舞っているが、象徴的なのは外国からの要人を迎える際にかつてトルコを支配した16の帝国の正装を纏った戦士16人を階段にズラッと立たせて歓迎することだ。(昨年12月のプーチン訪問時はプーチンは非常に喜んだらしい)

しかし、経済面では外交の上手さから外資の呼び込みや協力を取り付けイスタンブールは低迷するEU諸国に比べて勢いのある都市である。カスピ海からの石油パイプライン(BTCパイプライン)が代表的だが、日本などはイスタンブールの海峡横断地下鉄(マルマライプロジェクト、大成建設)や黒海側の原発(三菱重工、伊藤忠、仏アレバetc.、資金はJBIC等)ですっかりうまく利用されている(ように見える)。

このため国内経済では格差が拡大しているものの富裕層には受けがよく、長期政権を維持する条件は握っているように見える。

外交の経済面ではEU加盟を申請し続けているがEU側が『EUはキリスト教会』であると牽制していることもあり、なかなか前に進まない。しかし、安全保障ではNATOの一員でアメリカの核兵器を配備されて(B61を60発程度)西側の一員という側面もあるため弱体化しているオバマ政権に対してはシリア問題を巡って好きなことを言い不協和音を響かせている。

なかなか一筋縄でいかないのがトルコである。こんなトルコは独裁政権と言っても誰も否定しない。安倍政権は独裁政権だろうか?

それにしても、民主党政権で国防に関して武力を伴う危機的な状況が無くて本当に良かったと感じる。最終的には自衛隊の最高指揮官である首相が『国民を守るために戦って来い!』と決断・命令するわけで、民主党時代の首相アホ3人には絶対にできそうも無かった>(以上)

まったく同感だ。こういう高2レベル以上の良識人が増えれば日本は良くなる、普通の国になる。心強いことだ。

今夜も集団的子育て。ほとんど常態化している。専業主婦がいなくなった分をヂヂババが補完している感じだ。そんな家庭がかなり増えているのではないか。鶏の唐揚げは大好評だった。(2015/6/24)


◆古代大和の玄関港「木津川」A

白井 繁夫


木津の「木津川」へ行くと、港が良く解りますか?「泉津」とは何処でしょうか等の問い合わせがありました。

そこでもう少し「泉津」について記述して見ました。


A)泉津(いづみのつ)は東西2.6kmにおよぶ大河川港で古代の呼称です。

江戸時代幕府が認めた木津川の六カ浜『宇治の一口(いもあらい)から笠置(かさぎ)の浜』では、上流の上津(こうづ)から木津(こづ)の浜、下流は吐師(はぜ)の浜までを含みます。

『木津川』の呼称にまつわる記紀の物語ですが、各地の王との覇権を治め、大和王朝の確立を目指した崇神天皇の時代、四道将軍の大毘古命(おおびこのみこと)と謀叛人?建波邇安王(たけはにやすのみこと.武埴安彦)が和訶羅川(木津川)で相挑み戦った地名伝説から、『いどみかわ→いずみかわ』泉川と呼ばれるようになったと云われています。

元明天皇の平城遷都後、「泉津」から大和への三本の幹道(上津、中津、下津道)は官道として整備されました。(木津の地名:古代は『泉津』イヅミノツ、中世『泉木津』イヅミノコヅ、近世は『木津』キヅと呼ばれたと云われています。)

「泉津」は飛鳥、奈良時代から大和への木材など建築用材から官の租税などいろんな文物を取り扱って栄えてきましたが、川に憑き物の洪水にも苦しみました。

正徳二年(1712)の木津川沿岸大洪水は特に酷かったと云い伝えられています。また享和2年(1802)の洪水で川口屋(川喜)の家屋が、祝園(約4km下流)まで流されたと云われています。昭和28年の南山城の大水害も前回述べたごとく川喜(割烹料亭)の信号の処から対岸に架かっていた橋が流されました。(橋げたの跡は川の中に現在も有ります。)

その後、洪水対策を兼ねた治水事業として木津川の上流にダム建設が始まり1964年完成の高山ダム(貯水量5680万トン)から1998年完成の比奈知ダム(2080万トン)まで現在五つのダムが有り、約1.2億トン(10万トンのタンカーに換算)1千隻強を水量調整できますので、現在は洪水から解放されています。

しかし、木津の浜(中ツ道)、吐師の浜(下ツ道)の港の面影は薄れました。

五つのダム完成後、木津川の流れは穏やかになりましたが水量も減少しました。また陸上交通(鉄道、車輌)の発展とともに、水運利用はもはや考えられない状態です。

今回はご疑問に少しでもお役にたてばと思っておりますが、如何だったでしょうか。
(郷土愛好家)