2015年06月25日

◆古代大和の玄関港 木津川@

白井 繁夫
 


「木津川」の堤には、木津川市の代表的駅『JR木津駅』から北の方に向かって歩きますと、十数分程で着きます。(木津川:上流の水源地三重県青山高原、鈴鹿山脈からと名張市の青連寺湖からの名張川も包含して淀川の三川合流地点の八幡市まで延長約90Kmの一級河川)。

今回は、明治29年の木津駅開業による鉄道交通発達以前の水上交通で栄えた「木津の浜と、その周辺の文物『泉津と上津(こうづ)遺跡(いせき)や安福寺:平重衡(たいらのしげひら)の十三重石塔.不成(ならづの)柿(かき)』」について、地元の伝承も織り交ぜて散策しました。

まず木津駅の西口から北へ約十分強歩くと「安福寺」につきます。

「安福寺」は、JRの鉄道建設に因って線路のすぐ東側のお寺となりましたが、平重衡が斬首された時のもともとの首洗い池は線路の下に没しました。(現在は線路で分断されて西側に、不成柿:成らずの柿:の処にあります)。

安福寺の山門をくぐると左手に十三重の石塔が有ります。この「石塔が平重衡」の碑です。

平重衡(平清盛の五男)は、治承四年(1180)に源氏に味方した東大寺、興福寺等を焼き討ちした平家総大将として悪名が高いですが、(伝承では、夜半に暖をとる焚火が強風に煽られて南都が大火になったという説も)その後、一の谷の戦いで源氏に敗れ虜囚となり、鎌倉の源頼朝のもとに送られました。

しかし南都衆徒の強い要請で、鎌倉から木津の地まで運ばれ、元暦二年(1185)ここ木津川の河原で斬首されたのです。

その際、道中で面会した妻に自身の髪を渡したとか、頼朝が武将の中の武将として称えたとの話があります。また重衡が斬首された時の引導仏(阿弥陀如来像)が「安福寺」の本堂(哀堂(あわんどう))に祀られています。重衡が最後に食べた柿の種を地元の人々が植え大事に育てたといわれますが、その柿は実を付けなかったため『不成柿』等と呼ばれてきました。

しかし、ときが経ち現在の柿の木は実がなっています。(哀堂:あわれ堂→地元の呼称:あわんどう)といっています。

「安福寺」の東隣の「御霊神社」の祭神は、藤原広嗣(ひろつぐ)、早良(さわら)親王、伊予親王ですが、非業の死を遂げた広嗣の御霊を鎮めると云うより、今は「木津の鬼門除け、災害.厄除けの神社」としてお参りする人が多くなってきました。

江戸時代の木津川は七年に一回の割で水害をもたらしており、特に正徳二年(1712)の大洪水の時はこの神社の鳥居の貫(ぬき)木(ぎ)まで(約4m強)水に浸かったと云われています。

さてここから本題の、「大和の北の玄関口『泉津』の話」に入りましょう。
「御霊神社」の裏側すぐの処に上津(こうづ)遺跡(いせき)公園が有ります。上津遺跡は、泉津(木津川の南岸、東西約2.6km)のほんの一部ですが、神社近隣の宅地開発の時、(昭和51年からの発掘調査において)初めて発見されたものです。

その後調査は、平成21年の第9次まで続きますが、何と日用の雑土器から祭祀用器、交易の文物、また建物の柱跡や墨書土器、役人の遺物等が出土し、木津に「官の役所」が有ったと性格付けられました。

上津遺跡は、泉津のごく一部だけしか発掘されていませんが、古代の藤原京、平城京の建設の為多くの木材が、この木津に集積されていました。(東大寺や興福寺ももちろん木津に木屋所を設置していました)。

上津遺跡から国道24号線を越えて木津川の堤を西(下流)へ約十分余歩くと、川喜(割烹
料亭)に着きます。(この料亭は江戸時代川口屋喜兵衛と云われ、港と奈良街道筋の交差点の料理旅館として、昔から数多の有名な人々が宿泊したと云われています)。

昭和28年の南山城地区の大水害でここ川喜から対岸へ架かっていた旧木津の橋は流されました。(R24号線の泉大橋と別)

古の天平時代、行基が宗教活動も兼ねて布施屋を設け、ここと対岸の泉橋寺まで木津川に掛けた橋は、この辺りよりもう少し上流とも云われています。近代では明治10年、明治天皇が京都から奈良へ行幸された時、ここの橋が流されていたので対岸からここまで川船を繋いで橋を造ったと云われています。

泉津(古代は泉津(いずみのつ)から江戸時代は木津の浜と云われました、古代から上津道、中津道、下津道を利用する大和への玄関口)は、「木津川の六カ浜」の一つですが、飛鳥時代から近江の田上山の檜を宇治川経由で藤原宮造営用として運び、特に平城京建設、天平の恭(く)仁(に)京(きょう)造営の時は、ここに役所の施設や大仏造立のための東大寺木屋所などが設置されたのです。

さらに平城京と泉津を繋ぐ官道沿いには、全国から集めた人々によって最先端の瓦窯群も建設されて大変な賑わいであったと伝えられています。

たしかに、交通の要衝としてまた大和の玄関として人・物が集まり、渡来人の往来も有るなど、当時としては最高の文化都市でしたが、そんな重要な拠点であった木津川も、流石に洪水には悩まされたようです。これは次会の中で触れたいと思います(@−終)        

次は、東西2.6kmの泉津の中ツ道(奈良街道)の出発地周辺(和泉式部の墓、重文の木津惣墓五輪塔)、下ツ道(歌姫街道)の出発地周辺(吐師の浜、重文の相楽神社など)の散策に移ります。
<郷土愛好家>

2015年06月24日

◆「侵略」という言葉が生む思想的混乱

伊勢 雅臣


〜 福田恆存『人間の生き方、ものの考え方』を読む

「侵略と言うのはなぜ悪いの?」と聞いたら、学生は困った顔をしていた。

■1.「安倍さん『侵略した』と言ってほしい」

朝日新聞デジタル版は、本年3月9日付けの記事で、次のように報じた。

「安倍さん『侵略した』と言ってほしい」 北岡座長代理

戦後70年に合わせた安倍晋三首相による「安倍談話」について検討する「21世紀構想懇談会」の座長代理で、国際大学学長の北岡伸一氏は9日、東京都内で開かれたシンポジウムに出席した。講師の一人として参加した北岡氏は首相の歴史認識に関して、「私は安倍さんに『日本は侵略した』と言ってほしい」と述べた。

北岡氏は「日本全体としては侵略して、悪い戦争をして、たくさんの中国人を殺して、誠に申し訳ないということは、日本の歴史研究者に聞けば99%そう言うと思う」と指摘した。・・・[1]

この記事を読んで、「どうもおかしい」と感じた。東大名誉教授で元国連次席大使まで務めた識者が、首相を「安倍さん」などと朝日流に呼んだり、「侵略して、悪い戦争をして、たくさんの中国人を殺して」などと、かつて「百人斬り」捏造記事を書いた本多勝一・朝日新聞記者[a]並みの粗雑な表現をするだろうか。

北岡発言に関しては、朝日から一部、訂正記事も出ているが[2]、真相は闇の中だ。しかし「安倍さん『侵略した』と言ってほしい」と思っている左傾マスコミが少なくないことは確かである。

歴史プロパガンダ「従軍慰安婦」「百人斬り」「南京大虐殺」「沖縄住民自決命令」の嘘を暴く。週刊メール入門講座「歴史プロパガンダとの戦い」開講 by 国際派日本人養成講座 http://bit.ly/1IVRk4D

■2.「侵略と言うのはなぜ悪いの?」

このニュースで、最近、読んだ本の一場面を思い出した。評論家・劇作家・演出家など多彩な活動をしていた福田恆存(つねあり)のもとに、ある学生が訪ねてきて、アメリカの侵略主義やら、帝国主義だとか、さんざん喋った時のこと。

{私もその時疲れていたので「侵略主義と君が言っているのを聞いていると、何だか悪い事みたいだね」と言ったら、呆気(あっけ)にとられた顔をして「いいことですか」と言う、「いや、いいことではないけれども、侵略と言うのはなぜ悪いの」と聞いたら困った顔をしておりました。

侵略と言うのは果たしていいのか悪いのかという価値観をよく考えないで、侵略主義などという言葉を使うところに問題があるのです。}[3,p25]

昭和37(1962)年に行われた講演だから、もう半世紀以上も前の話である。それにしても、「侵略と言うのはなぜ悪いの」などと考える事も無く、安倍首相に「侵略の反省」をさせたがる現代の左傾マスコミを見ると、半世紀前の大学生と同じレベルでしかない事が分かる。


■3.「侵略」というレッテル貼り

「侵略と言うのは果たしていいのか悪いのか」という設問に根本から取り組んだ論考が、長谷川三千子・埼玉大学名誉教授による産経新聞「正論」欄に寄せた一文である。[4]

長谷川氏は「侵略」という言葉が、第1次大戦で、戦争の原因をもっぱら敗戦国ドイツだけに負わせ、巨額の賠償を支払わせるために登場したという経緯を述べている。その後、「侵略」を客観的に定義づけしようという努力はなされたが、国際的合意には至っていない。

{つまり、「侵略」という言葉は、戦争の勝者が敗者に対して自らの要求を正当化するために負わせる罪のレッテルとして登場し、今もその本質は変わっていないというわけなのです。

この概念が今のまま通用しているかぎり、国際社会では、どんな無法な行為をしても、その戦争に勝って相手に「侵略」のレッテルを貼ってしまえばこちらのものだ、という思想が許容されることになるといえるでしょう。}[4]


敗戦国の日本を「侵略」の罪で裁くことは、第2次大戦後に行われたが、そこでは戦勝国アメリカによる原爆攻撃や、ソ連による中立条約違反かつ日本降伏後の北方領土侵攻などは不問にされている。現代においても、中国がチベットやウイグルに武力侵攻し、住民に蛮行を行っている事は「侵略」とはされていない。

要は、喧嘩に負けた方が、リンチ裁判を受けて、いつまでも「前科者」とレッテル貼りされているようなものなのである。


■4.特定の立場に立った言葉として独自の働き

福田恆存が、「侵略と言うのはなぜ悪いのか」と意地悪な質問をしたのは、次のような考えからである。

{・・・資本主義、権力、支配階級、侵略主義というような言葉が、特定の立場に立った言葉として独自の働きをもって使われていることにも注意していただきたいと思います。これらの言葉はマルクス主義というものを考えなければ出て来ない。極端な言い方をするとマルクス主義の方言であります。

ところがマルクス主義者でない、もっと一般的な人々がそのことには全く無関心にこういう言葉を使っているわけです。

マルクス主義者の言葉というのは、プロレタリア革命を起すということを前提として作られた術語であります。従ってその言葉は革命を起すのに都合のいいようにして ・・・全部こしらえてあるのです。[3,p23]


「侵略」という言葉の意味を自分自身で考えずに、「『侵略した』と言ってほしい」などと語る人間は、すでにその言葉に洗脳され、自由な思考が出来なくなっているのである}。

人間は言葉によって物事を考える。一部の言葉には、ある一定の方向に人間を誘導しようという魔術がかかっている。そんな言葉を使ったら、その人間の思考もねじ曲げられてしまう。前述の福田恆存の講演は、日本の思想的混乱を論じたものだが、それを言葉の問題から論じ始めたのは、この考え方からだ。


■5.大工道具と電動工具

福田恆存は、言葉は道具である、という説に賛成する。しかし、その道具とは、誰が使っても同様の効果が得られるもの、という意味ではない。福田は大工道具を例に、こんな経験を語る。

「これは私の子どもの時の経験ですが、私の家で普請をやって大工が鋸だの飽だのを持って参りました。職人が食事に行っている時、私はこっそりそれらの道具を使ってみたのです。ところが職人が帰って来るとそれがすぐ見つかってしまいました。

自分の手慣れた道具を、素人の子供が使えばどこかに狂いが生じる、それは職人たちが自分でそれを使ってみるとすぐにわかるのです。何も左甚五郎のような名人ではなくても、大工で飯を食っている人間なら必ずわかる筈です。

それらの道具は、その機能を最もよく発揮できる状態にあった。しかし素人の私が使ったために狂いが生じたのです。すなわちその鋸がどのように使われれば最も機能的に働くかということは、その持主である大工さんが一番よく知っているし、その大工さんが使うのに一番いい状態にある事が最も機能的であるといえるわけです」。[4,p14]

熟練の大工が「手慣れた道具」を使って家を建てるように、我々は自分自身で使い込み、手に馴染んだ言葉を使って、自らの考えを組み立てねばならない。それが人間の自由な思考である。

それに比べれば、「侵略」とか「権力」、「支配階級」などという言葉はチェーンソーや電導ドリルのようなもので、未熟練工がプレハブ住宅を大量に効率よく作るには適しているが、熟練職人が腕を振るい、精魂込めて一軒の家を作るというわけにはいかない。


■6.「もったいない」という言葉に潜む文化感覚

「手慣れた道具」という意味で、福田が例に挙げているのが「倹約」という言葉である。

「私たちは子供の頃修身でよく倹約という美徳を教わりました。進歩的な考え方、ことにマルクス主義的な考え方からすると、倹約を道徳の徳目として教えるのは支配階級が自分の支配に都合のいいように、被支配階級を貧苦の内にとじこめて置く為のものだと言うことになります。

しかし私は必ずしもそういうことで片づくとは思いません。そもそも倹約とは物自体を尊ぶという事なのです。例えばよその家で出された食事を残すと「もったいない」と考える。

それは第一にその食物に食物としての本来の機能を発揮せしめなかったから「もったいない」 のです。第二にその食物を作ってくれた相手の家の人の誠意を十分に受けとめ得なかったという意味で「もったいない」わけです。

このようにすべて物質の中に何か心を見て行くというのが日本人の本来の生き方です。そういう点で、一種の美意識というか、文化感覚というか、そういうものが私たちの中に自ずからに備わっていたのです。従って私たちは物を粗末にすることに心の醜さを感じるのです」。[4,p19]

「もったいない」とは、「勿体」、すなわち物の本来の価値を十分に生かせずに申し訳ないと思う気持ちを表す。和英辞書を引くと、"wasteful"という単語が充てられているが、これは「経済的に無駄が多い」という効率性の概念で、日本語のような倫理的な罪悪感は込められていない。


■7.イタリアでの「もったいない」

イタリア在住の知人から聞いたが、あちらのレストランでは、一人前頼んでも食べきれないほど出てきて、残しては「勿体ない」ので、どう注文するのか、日本人は皆、苦労しているという。

イタリア人の客を見ると、上流のレストランでは子どもでも一人前注文し、食べきれない分は盛大に残していく。自分で金を払って注文した以上、食べるのも残すのも自分の勝手だと言う感じとの由。

その知人は、夫婦でレストランに行くと、フルコース一人分を二人で分けて食べると丁度良いのだが、そもそも一人分の皿を二人で分けて食べることがテーブルマナーに外れてるので、店の人もいい顔をしないし、単にケチなだけだと思われて、やりにくいらしい。

その知人の推察では、もともとイタリア料理は王侯貴族向けのもので、大量に振る舞い、残ったら使用人たちが勝手に食べれば良い、という伝統があるのでは、と言う。

イタリア北部のアルプスに近い地方では、うさぎを食べる習慣がある。これは民衆料理で、領主が牛や鹿など大型動物は自分たちで食べるので、民衆には食用を禁じたため、農民たちは隠れて兎を育てて食べていた。

こういう階級社会では、倹約とは「支配階級が自分の支配に都合のいいように、被支配階級を貧苦の内にとじこめて置く為のもの」という説明も、多少は頷けるのである。


■8.日本人の生き方に根ざした言葉を

それに比して、我が国では、皇室からして慎ましやかな生活を美徳とし、食べ物ても衣類でも「勿体ない」と大切に使ってきた。たとえば、明治天皇は10万首近い御製(お歌)を残されたが、それらは用済みの文書の裏などに書かれた。昭和天皇は、幼い頃、養育係だった乃木大将から「つぎのあたった服を着るのは恥ではない」と教えられて育った。[b]

現代日本人も「勿体ない」という言葉を使う事で、「物を粗末にすることに心の醜さを感じる」という先祖からの文化感覚を知らず知らずに身につけているのである。

私たちの家庭で父親や母親が話している言葉、私たちがそれを聞いて育ってきた言葉は、本来の日本人の生き方に根ざした、身についた言葉です。・・・

しかし、親と通じない言葉を使っていて、それが一体どうして身につくかという事を考えざるを得ないのです。もし自分が本当に民主主義という言葉を理解したならば、芋の煮えることにしか関心のないお婆さんにこれが話せないわけはない。[3,p36]

「勿体ないから、物を大切に使わなければ」と言ったら、お婆さんにもすぐ伝わる。環境保護活動家として初のノーベル平和賞を受賞したケニアのワンガリ・マータイ女史は、日本で「もったいない」という言葉を知り、「Mottainai」キャンペーンを展開した。こういう言葉からこそ、我々の文化感覚に根ざした思想が育ちうる。

現代日本における思想的混乱は、我々の文化感覚から絶縁した言葉を無自覚的に使っている所から来ている。福田恆存は半世紀も前から、この問題を警告していた。当時、ほとんどのマスコミが左傾している中で、福田恆存は多勢を相手に、一人で孤独な戦いを続けていたのである。

それから50年経ったが、冒頭の「安倍さん『侵略した』と言ってほしい」などという記事を見れば、思想的混乱はまだまだ続いているのは明らかである。福田恆存は、草葉の陰で「まだこの態様(ざま)か」と地団駄踏んでいるのではないか。

現代の思想的混乱は、我々国民一人ひとりが乗り越えていかねばならない課題である。そのためにも『人間の生き方、ものの考え方 学生たちへの特別講義』[4]は福田恆存が大学生を対象にした読みやすい講義録であり、絶好の入門書である。


演題 「父、福田恆存を語る ー戦後思潮の中にあってー」
講師 福田逸氏(演出家・翻訳家、明治大学教授)

第18期 第27回 国民文化講座
日時 6月13日(土)午後1時半〜4時20分
場所 靖国神社「靖国会館」
参加費 1500円、学生500円
主催 公益社団法人 国民文化研究会
電話 03−5468−6230

『人間の生き方、ものの考え方』より

《 個人も、過去というものを失ったら人格喪失者になる。・・(略)国家も過去の歴史というものを否定するようになれば、その国家がなくなったということになる。だから、革命が起って全過去が否定されると、その国家は消滅して、別の国家がそこに生じたということになる。

そうなれば、その構成員である個人も大変です。今まで過去の日本の歴史に背負われて来たわれわれは、どうしていいのか分らなくなる。個人も存立できなくなってしまう。そういうように国家と個人は密接につながって離すことができないものなのです。

過去を保持するということ、その一貫性、連続性というものによって、個人の場合には一つの人格を持ち得るのです。国家もそれを保持することによって、国柄、国体というものを保ち得るのです。これを否定したらもうすべておしまいです。諸君にしてみれば生まれる前の戦争ですが、あの戦争を境にして、この一貫性、連続性はかなり危なくなった。・・(略)

われわれの場合は、まだ過去を保持していますし、経験として過去を背負っている。あるいは過去に背負われているからいいのですが、諸君の場合は何とか努力して、過去を経験しなければだめだと思います。》
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


■リンク■

a. JOG(028) 平気でうそをつく人々 〜 「百人斬り」の虚報はいかに創作されたか
 戦前の「百人斬り競争」の虚報が戦後の「殺人ゲーム」として復活した。
http://blog.jog-net.jp/199803/article_1.html

b. JOG(792) 国史百景(4) 昭和天皇をお育てした乃木大将
 昭和天皇:「私の人格形成に最も影響のあったのは乃木希典学習院長であった」
http://blog.jog-net.jp/201303/article_8.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 朝日新聞デジタル『「安倍さん『侵略した』と言ってほしい」北岡座長代理』、H27.3.9
http://www.asahi.com/articles/ASH395JYRH39UTFK00M.html

2.GOHOO「北岡氏「侵略戦争」発言報道は不正確 朝日訂正」
http://gohoo.org/15031601/

3.長谷川三千子「歴史を見る目歪める『北岡発言』」、産経新聞、H27.3.17
http://www.sankei.com/column/news/150317/clm1503170001-n1.html

4. 福田恆存『人間の生き方、ものの考え方 学生たちへの特別講義』
★★★、H27、文藝春秋
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4163942092/japanontheg01-22/
(再掲)

2015年06月23日

◆浪花節・落語・ジャズ・歌謡曲

室 佳之



主宰者が『ラヂオ歌謡の頃』を再掲され、常連執筆者前田様が続けて『小唄・浪花節・藤本二三吉』を書かれたので、それに乗っかろうとした次第。

前田様から廣澤虎造の名前が出ました。小生が演芸に関心を持ち始めたのはフリーターで独り暮らしを始めた頃、丁度日韓W杯の年。アルバイト先で、浪花節好きな測量士が、仕事終わりに『森の石松』の『飲みねぇ、寿司食いねぇ』の有名な件を演じたものの、小生にはまるでチンプンカンプンでした。

しかし、小生以外その場にいた人たちはみんな面白がって聴き入っていたのが悔しくて悔しくて、当時住んでいた荒川区の尾久図書館で虎造のCDを片っ端から借りて聴き始めたらすっかりのめり込んでしまいました。

そのうち小生まで人前で演じたりする始末。そのうち演芸関連のCDが豊富にそろっている尾久図書館に入り浸り、いつの間にか落語のほうへどっぷりと浸かり始め、今に至っています。

昭和の名人と云われた噺家は、みんな大好きですが、なかでも小生は珍しく(?)十代目金原亭馬生が一番のお気に入り。現役ではこの10年以上、柳家小三治師を追っかけています。

廣澤虎造に話を戻すと、丁度浪花節にハマった頃、演芸評論家の吉川潮氏が書いた『江戸っ子だってねぇ―浪曲師広沢虎造一代』(新潮文庫)が出版され、夢中で読んだのを覚えています。

もうご存知だったら申し訳ありませんが、前田様に是非お勧めします。ちなみに、吉川潮氏はその後『浮かれ三亀松』など芸人一代記をいくつも手掛けています。

廣澤虎造のことはもちろん直接に知らない世代ですが、仕事やプライベートで年輩の方と時折浪花節の話で盛り上がることがあります。なかでも思い出に残っているのは、ソウルでお世話になったお粥屋のハラボジ(おじいさん)。

終戦まで東京に住んでいたハラボジに、虎造のテープを日本から持っていきプレゼントしたら大層喜んでくれました。このことは7年前の1,063号で書いたことがあります。

ジャズにのめり込んだのは、まだ10年も経ちませんが、不思議と古い時代にしか関心が持てず、昨晩も名ピアニスト秋満義孝さんの演奏を秋満さんの真後ろで聴くという幸運に恵まれました。

85歳とは思えないその軽快な弾き方にほれぼれします。他にクラリネットの北村英治さん、ドラムの猪俣猛さん、サックスの尾田悟さんなど、聴きに行く演奏家はほとんど80歳超えた方々ばかり。

仕事は同じ高齢世代のケアプランを立てる身なので、世の中不思議なものです。主宰者は願い下げと云われるかも知れませんが、前田様のジャズ雑感なども是非読んでみたいものです。

歌謡曲については、まだまだ全然知りませんが、昨年読んだ『談志絶唱昭和の歌謡曲』(大和書房)は、とても面白く2回も読んでしまいました。

春日八郎、三橋美智也、ディックミネ、淡路のり子、バタやんなどなどきりがないほどの交流秘話が載っています。

主宰者渡部様が『ラヂオ歌謡の頃』をはじめ、あの頃の歌手や歌など詳しく紹介されていて、これからもその時々で再掲していただきたいと思います。いつも楽しみに読んでおります。(むろ よしゆき)

2015年06月22日

◆「けろりの道頓」が造った街

渡部 裕明



大阪都構想が、わずかの差で否決されて1ヶ月。橋下徹さんが主役となって催した祝祭が終わり、祭りの後の気だるさが、そこかしこに漂っているのだ。

大阪と東京は約400年間にわたって、よきライバルの関係を続けてきた。大坂と江戸、西国と東国の競い合い、といってもいいだろう。

狭い日本列島ではあるが、違ったところも少なくない。それは、それぞれの地域で暮らす人々が自然に抱く感情ではないだろうか。

400年前の人工都市

現在にいたるまで、大阪の恩人といえば、やはり豊臣秀吉であろう。「山崎の合戦」や「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」によって天下人の地位を得たあと、水陸の便に恵まれたこの地を、一大城下町として整備した。

古都の京都と違って、大胆なまちづくりが可能だったことも大きい。財力を傾けてさまざまな人材を集め、巨大な人工都市を造り上げたのである。豊臣家に代わった徳川家康も、この町の利便性に大きな魅力を感じ、将軍代行にあたる「大坂城代」を置いて引き継いだ。

町づくりに協力した人々は数多いが、現在まで名前の伝わる人物もいる。ミナミを東から西に流れる運河「道頓堀」の開削者とされる成安(なりやす)道頓(1533〜1615年)だ。

征夷大将軍・坂上田村麻呂の子、広野麻呂が平野郷(ごう)(大阪市平野区)に住み着いて始まった「七名家(しちみょうけ)」のひとつ、成安家の出身。かつては、安井道頓の名で知られていた男である。

豊臣家の協力者として

道頓堀の開削が始まったのは、慶長17(1612)年とされる。道頓が工事に取り組んだ理由は伝わらないが、慈善事業ではないだろう。彼には有力町人、ブローカーとして労働力を動員できる力があり、秀吉の大坂城築城にも協力していたとみるのが自然である。

ではなぜ、豊臣家への協力者の道頓の名が残ることになったのか。江戸幕府がどうして、それを許したのだろうか。

ひとつのヒントとなる見方がある。司馬遼太郎さんの小説「けろりの道頓」(講談社文庫『最後の伊賀者』所収)だ

産経新聞在職中の昭和35年に発表した作品で、道頓と秀吉の不思議な出会いと愛妾(あいしょう)・お藻(もう)との別れ、そして道頓堀開削事業への着手を描いた小編である。

司馬さんは作品の中で、道頓の行動を「けろり」と表現し、他人には理解しがたいが、不思議な魅力を持った人物として描いている。

大坂城下につくられた青物市場で偶然、関白秀吉に出会ったとき、道頓は女好きの秀吉にお藻を差し出してしまう。そして1年後、その返礼として道頓のもとに1匹の緋鯉(ひごい)が届けられる。しかし彼はお藻を手放ったことを深く悔い、彼女の代わりの緋鯉を泳がせるため、道頓堀を掘ったと書くのである。

史実ではあり得ないが、司馬さんならではの解釈だ。そして道頓は、大坂夏の陣が始まると「豊公には恩義がある」と言い残して城に入る。

「落ちる城」に籠もって

道頓が大坂城に籠もって亡くなったことは、事実のようだ。平野七名家のひとつ、土橋家の文書には「成安道頓は慶長20年、大坂城中で討ち死に」との注記がある(脇田修著『近世大坂の町と人』人文書院)。

大坂冬の陣(1614年)の和睦によって、天下一の大坂城も堀が埋められ、「裸城」となっていた。落城は時間の問題だった。そんな城に入ることは、明らかに死を意味する。武士でもない一介の町人がなぜ、そうまでしたのだろう。不可解というしかない。

「お藻のこともある。お藻が死んだお城なら、わるい死場所ではない」

司馬さんは、入城する道頓にこうも言わせている。

大坂の町衆は、そんな男気のある道頓を支持した。夏の陣のあと、大坂城代に就任した大和郡山藩主・松平忠明は、この堀を「道頓堀」と呼ぶことを許すしかなかった。道頓を愛する人々に対して、その名を消し去れなかったのだ。

道頓堀に代表される運河が縦横に走ったことにより、大坂は「水都」として江戸時代を通じて繁栄した。道頓堀はいま、夜ともなるとネオンが輝き、あちこちで嬌声(きょうせい)が聞こえる。

日本橋(にっぽんばし)の北詰めには、道頓の功績をたたえる石碑があるが、立ち止まって見上げる人はほとんどいない。(わたなべ ひろあき 論説委員)(再掲)

◆木津川だより 相楽神社 B

〜郷土の式内社〜
白井 繁夫



相楽神社Bを書き始める前に古い友人から、「木津川流域は古来より大水害に度々遭っていると聞くが、相楽神社の創建を含め、歴史的史料、文物など如何なっているのか?」と。

木津川流域の神社や寺院は昭和28年の大水害まで、まず全部が被害を受けており、古文書や貴重な文化財をかなり消失しています。(昭和28年以降木津川上流域には治水対策として高山ダムを始めトータル5ヶ所ダムが出来、下流域には安心安全を担保しています。)

消失した古文書や歴史資料等は、南都の諸大寺院や南山城の山間地の神社、仏閣などの古文書と遺跡などから発掘された文物などで研究されて少しずつ解明されてきています。

私は「相楽神社」@では、神社が出来たバックグラウンドの地形(木津川と交通の要衝)、地名(相楽:さがなか)の歴史、Aでは大和朝廷の発展(藤原京、平城京の玄関港として)と共に栄え、平安時代に式内社となり、重文の有形文化財を持つ神社となった事など綴りました。

今回Bは、平安京へ遷都後から江戸時代を過ぎ明治時代からの、鉄道網や交通網の変化で
郷土の式内社がどうなったかを、綴って見ようと思います。

藤原京造営以来古代大和の玄関港として栄えて来た「泉津」の西の港(吐師浜)の近隣に
佇んで来た「相楽神社」(さがなか)は、元明天皇が710年に平城京へ遷都し、新都城造営に注力したことにより、地域は更なる発展を遂げました。

桓武天皇が平安京へ遷都(794年)しましたが、大和(奈良)には藤原氏の所縁の寺院(興福寺).神社(春日大社)を始め、東大寺などの有力な神社.仏閣が残って居り、泉津(木津)は依然として、「京と大和」との重要な交通の要衝でした。

平安京への遷都に纏わり、大和の大安寺八幡が京の都の裏鬼門に当たる地、「男山(現八幡市高坊):表鬼門は比叡山(延暦寺)」へ遷座して都を守護する道中で、「相楽神社」に一行が立ち寄りました。

「相楽神社」の神主(宮守)は歓戴しその時餅をふるまったことに因み始まった祭事が、毎年2月1日に催される「餅花祭」と称されるユニークな催事なのです。
当時、地元(相楽の清水)に八幡宮が在り、男山八幡は石(いわ)清水八幡宮と名乗った、と在処では云われています。


餅花本殿縮小.jpg
巫女の舞縮小.jpg


「相楽神社」の正月行事で特に御田祭を中心とする一連の行事などには、中世的な宮座祭祀の様子が現在もよく残されており、護られてきた伝統文化なども多数あって、京都府指定民俗文化財に指定(昭和59年)されています。

<宮座の正月行事>

★豆焼: 月々の降水量を占う (1月14日夜)
   瓦の上に大豆12個(12ヶ月分)を並べて、焼き、その豆のはぜ方(筋目)から月々の降水量を占う。

★粥占(かゆうら): 早稲、中稲、晩稲の作柄を占う (1月15日朝)
   篠竹を10cm長位に切り二つに割り両端を結び、小豆粥を煮て、3本の竹筒につまった粥の状況で、早、中、晩稲の作柄を占う。

★御田祭(おんだ): 稲作の一年の農作業過程を模して豊作を祈る (1月15日昼)
   4人の宮守とソノイチ(巫女)とで行われる予祝儀礼:祝詞に始まり、鍬初め、鋤初め、苗代しめ、種まき、田植えなど、稲作過程を太鼓の素朴な拍子に合わせて4人の宮守とソノイチで太夫や早乙女役などになって、古風な種まきや、春田打ち、田植の歌など、具体的な所作を伝えております。(伝承芸能として大変貴重です)。

★餅花祭: 団子状の餅を12本の竹串に5個ずつ粘土を芯にした藁包みに差して花に見立て、トウヤ(注)が奉納する祭事 (2月1日)
   各宮座のトウヤは宮守とソノイチ以下各所属座の氏子の家にも餅花の串を配ります。
  (注)トウヤ:座中で新しく氏子(子供)が生まれた家が当番にあたる。

★水試(みずだめ): 年間の雨量を占う (旧暦1月15日)
   本殿前に祭壇を設け、棒を1本建て棒に当たる月影の長短を計り、年間の降水量を
   占う。

<「相楽神社」の大祭>

元旦祭(正月1日)、祈念祭(2月15日)、秋祭(10月17日)の年3回の大祭です。
特に、秋祭りは宮座の総集会としての最大行事でもあります。
嘗ては、小学校も休みとなり、子供神輿もありました。更に、昔に遡ると秋祭りに流鏑馬
の神事や能舞台も催行されていた時もありました。

(流鏑馬や能舞の奉納は前回少し触れましましたが、一族(帯刀を許された郷士)の勢力
減により江戸時代末には開催できなくなりました。)

現在は神社の前面(東側)は小学校の敷地になり、南面は幼稚園の敷地、北面の鎮守の森
は、国道163号に割かれました。流鏑馬や競べ馬などで活用した松並木の神聖な道は一般の道路になり、車も通れるため信号機が付いています。

鉄道など交通網の発達に伴い、「木津川の水運」も、歌姫街道も嘗ての面影は無くなり、「相楽神社」もひっそりと佇んでいるように思われます。

しかし、地元の人々に守られてきたこの神社は、古来の宮座組織や伝統行事も現在でもしっかりと受け継がれており、神社の境内は毎朝宮守さんらが清掃しておられます。

流鏑馬で華やいだ神道は現在小学生や幼稚園児の明るい声が満ち満ちています。
神社の環境を変えることなく将来へ伝わるよう、境内一帯が京都府文化財環境保全地区に
指定されています。

室町時代初期に建立された重文の相楽神社の本殿も、鎮守の森も人工的な植栽はなく自然体の状態で佇んでいます。当神社への交通機関はJR学研都市線(片町線)「西木津駅」より西へ徒歩3〜4分、近鉄京都線「山田川駅」より東へ徒歩7〜8分です。

何の飾りも諂いもない自然体の姿ですが、皆様のお立ち寄りをお待ちいたします。(了)
参考文献: 木津町史 本文篇、 史料篇 T、 木津町
      相楽の民俗  (京都民俗談話会 南山城調査会)




2015年06月19日

◆木津川だより 銭司遺跡

白井 繁夫


木津川右岸にある「恭仁宮の遺跡」(大極殿跡:山城国分寺跡)から東方約2.5km上流へR163号を行くと、「銭司遺跡:ぜずいせき」(地図Z:3番)があります。
地図Z:http://chizuz.com/map/map144914.html

実は、木津川市加茂町銭司の地区にあるこの遺跡で、「皇朝十二銭」の第1番目にあたる「和同開珎:わどうかいちん・わどうかいほう」が鋳造されていたのです。

ところが迂闊にも、木津へ移住して長年月を経ております私自身、このことに全く気付いていなかったのです。

私の日本史の知識は中学生と同等以下ですから、「和同開珎」と云えば、秩父市にある「和銅遺跡」が有名であると云う程度でした。(私は約60年前、商業高校(四国のさぬき市)へ入学し、当時は商業科目中心の為、大学受験の社会科は世界史と人文地理(独学?)の2科目をとり、日本史は中学生止まりです。)

しかし、市内を流れる木津川沿いの「恭仁京」を学んだとき、私にとって、「銭司遺跡」は真に目から鱗でした。以下、銭司地区で感じた事など混えて記述します。

加茂町銭司地区は古くから銅滓.坩堝(るつぼ).ふいご羽口.古代の瓦などが発見されており、他方、旧の地名表示から見れば、大字「銭司:鋳銭司」、小字「金鋳山、金谷、山金谷、和銅等」など、鋳造関係の地名が昔から存在しています。

ところが、最初の疑問はこの地区には銅の鉱床を持つ山など無いと思っていたのに、古代の都(平城京、恭仁京、平安京等)に近いだけで貨銭を鋳造するはずはない。何故だろうと、興味を持ったことからスタートしました。

「銭司遺跡」は小字「金鋳山」に在り、東西約100m,南北約150m の面積で、南側の木津川に向かって緩やかに傾斜している地形です。この金鋳山の各地から各種の鋳造関係の遺物が出ました。

大字「銭司(鋳司)」の北側の山は標高200から300mで、木津川に沿って東西に走り、南の台地に約50戸の銭司集落が点在しています。

小字「金鋳山」で完形の「坩堝」が明治4年、「和同開珎」50枚が明治10(1877)年に発見され、大正時代初めの伊賀街道改修工事中、坩堝片.銅滓.古瓦片等の遺物が多数出土し、1923年(大正12)京都府史蹟勝地調査委員、(梅原末治氏)が試掘調査を実施しました。

・出土した遺物

★「坩堝:るつぼ」は3形式有り、第1式から第3式への過程は坩堝の製作技術の発展段階を示しております。
★「鞴口:ふいごくち」は2形式(第1式は筒型、第2式は朝顔形開き):筒型は坩堝の第1式、
朝顔形は第2、第3式に対応しています。

・遺跡の年代

遺跡の遺物は「長門の鋳銭」と相似ていますが、さらに進歩した器具もあり、「恭仁京」の古瓦と同一の瓦も出土しており、「恭仁京の造営」と共に鋳銭司が置かれ鋳銭が行われたと推定されています。

貨幣は、和同開珎の晩鋳より万年通宝(760年)、神功開宝(765年)天平神護の通貨まで、この地で鋳造されていました。(相楽郡岡田郷の鋳銭司は天平7年(735)から延暦元年(782)まで約50年間設置されており、その間貨幣が鋳造されたと云われています。)その後、桓武天皇の財政整理で廃止され、隆平永宝(796年)に切り替わったのです。

・この遺跡の時代背景

和銅元年(708)発行の「和同開珎」は鋳造技術、鋳造体制より量は少なく用途も古銭同様神事や仏事などにも使用されていました。

しかし、平城京.恭仁京.難波宮.平安京の造都事業や盧舎那仏の製作に多くの雇役丁が投入されその功直も銭給となり、大量の銭貨が必要になりました。

大量銭貨の鋳銭事業には、@銅鉱の存在A鋳造技術者B良質の粘土C水運の利便などが非常に重要な要素「必要条件」です。

奈良時代、ここの遺跡に「岡田の鋳銭司」が置かれた理由:即ち、@〜Cの必要条件を満たせた状況について、次回にもう少し説明させて貰いたいと思っています。

参考資料: 銭司遺跡 (加茂町文化財調査報告第1集) 1986 加茂町教育委員会
      加茂町史  第1巻 古代.中世編        加茂町

2015年06月18日

◆安保法案の「違憲」判断

中村 秀樹(弁護士)

Q1:いわゆる集団的自衛権にかかる安全保障関連法案の審議中、参考人の憲法学者3人全員が同法案を「違憲」と断じました。そのような法案を提出・審議することは、そもそも許されるの?

A1:政治的是非は別として、法的には、法案の提出・審議自体は許されると考えられます。法律等が憲法に   適合するか否かを決定する権限は最高裁判所を頂点とする司法権に属し(憲法81条)。

   国会は自ら違憲と判断するのなら、法案を否決すればよいからです。

Q2:では、あらかじめ、最高裁判所の判断をもらえば、問題を一挙に解決することができますよね?

A2:確かにそのとおりです。

   しかし、現在の日本国憲法のもとでは、このようなことはできません。
   最高裁判所を頂点とする司法権は、特定の者の具体的な権利侵害等の紛争を前提として、
   これを解決するものとされているからです。

   具体的紛争を前提とせずに一般的に法律等を有効・無効とすることは、法権の侵害になると考えられて   いるのです。
 
ちなみに、外国では、具体的紛争がなくても一般的に法律等が憲法に適合するか否かを
決定する憲法裁判所を設けている例もあります。



◆相互理解深化が日中を打開 B

浅野 勝人 (安保政策研究会理事長)
 


ところで 中でも差し迫っているのは、北京のスモッグ、PM2.5です。

TM2.5の指数が300に達したら、一日にたばこを20本吸うのと同じだそうです。こども達が、毎日、たばこを無理矢理20本吸わされたらどうなるか想像するだけで恐ろしくなります。

事実、PM2.5は、喘息や不正脈を招く恐れがあり、肺がんのリスクも指摘されています。

日本の場合も「公害列島」と呼ばれていた1960年代の大阪は、ばい煙と粉塵にまみれた「スモッグ都市」でした。

1965年当時、大阪府庁の屋上から近くの大阪城を眺めますと、天守閣がスモッグの中にぼんやり霞んで見え隠れしていました。当時は、子どもに喘息が蔓延して、生命を脅かされるほど深刻な事態となっていました。

それが20年後には、大阪城の雄姿がくっきりと見えるように改善されました。

固定発生源の対策として、工場が使う23種類の有害物質を対象に濃度規制を徹底しました。合わせて汚染物質の排出量を抑える総量規制を導入しました。こうして濃度と総量の両面から規制を強化した効果はてきめんに表れ、ばい煙と粉塵は目に見えて減りました。                          

もうひとつの移動発生源については、高速道路とバイパスの拡充、それに交差点を改良して、車の流れを出来るだけスムーズにしました。
同時に排気ガスをまき散らす燃費の悪い自動車を締め出して、低公害車、低排出ガス車への切り替えに成功した結果、大気の環境は急速に改善されました。        
       
長江は、全長6,300km 。アジアで最長、世界第3位の河川です。流域には、上海にいたるまで186の都市におよそ4億5,000万人の人が暮らしています。そして、主要都市の周辺には無数の工場が散在しています。                            
長江は、中国に必要な農畜産物から鉱工業製品まであらゆるものを生み出し、中国全土の人々の生活を支える「母なる大河」です。   
長江の滔々(とうとう)たる流れは、黄河とともに飲料水、農業用水、工業用水として、中国を世界第2位の経済大国に押し上げてきました。

しかし、同時に、生産力の急速な拡大は膨大な工場廃水を伴い、長江に流される生活汚水は果てしなく増えました。「ヨウスコウイルカ」と呼ばれ、数百万年の間、長江にだけ生息していた珍しい淡水イルカの生存は、今では1匹も確認されていません。
近年の著しい水質汚濁は、生態系を脅かし、人々の暮らしに黄色の信号を点(とも)しています。

東京の下町を流れる「隅田川」の例と比較してみます。
情緒豊かだった隅田川は、1970年頃から流域の工場の廃水と住宅密集地域からの生活排水で「死の川」と化しました。
生態系は破壊され、川魚は死に絶えました。悪臭を放つ川べりに寄りつく人は途絶え、恒例の早稲田大学と慶応大学の「早慶レガッタ」も、日本一を誇った「両国の花火大会」も中止されました。                     

まず隅田川流域に散在する大小4万9,000余りの工場に対し、濃度規制と総量規制の両面から有害な廃液を締め出しました。

次に各家庭から流れ出る汚水について、300万人の生活排水を処理する下水処理施設を24年間かけて、100%完備しました。現在のBODは、わずか「3」となり、概ね浄化に成功しました。        


流域の住民4億5,000万人の長江と300万人の隅田川とでは比較対象にならないかもしれません。しかし、今の中国の力量からみて、やろうと思って出来ない課題は何一つありません。

大事なことは、官民一体の決意と取り組み方ひとつで、問題の克服は可能です。

特に、日中が最新の技術を駆使して協力すれば、かつて日本が20年かかってことを、いまなら4〜5年で出来ます。


現在、日中両国を取り巻く情況を考えますと、双方が協力しあう好機が到来していると思います。いつまでも睨み合っているのは時間のムダです。日本の経験と技術が中国のマンパワーと一体となって取り組めば、相乗効果は計り知れません。


今から41年前、NHK政治記者の折、日本と中国の間に航空機を就航させる交渉を取材、報道するため、大平正芳外相に同行して初めて中国を訪問しました。

その時、誠に光栄なことに周恩来首相とお目にかかる機会を与えられました。端正で品格に富んだ周恩来首相は「日中両国が、相互信頼の基に、確固たる協調関係を樹立すれば、アジアの平和と繁栄に計り知れない役割を果たすことが出来る」とおっしゃいました。

以来、あの時の感動は、かけがえのない誇りとなって、私の心の中に生き続けています。


周恩来首相の教え通り、相互理解の深化が、停滞している日中関係を打開、改善します。そして、それを担うのは、清華大学の俊英の皆さんです。

熱心に聴いていただき、有難うございました。皆さんと出会えて、とても幸せでした。非常感謝!> 

この講演あと、質疑応答、30分を予定していましたが、案の定、90分経っても終わりそうもありません。担当教授が「今回はこれまで」と宣言して打ち止めとなりました。丁々発止、まさに白熱教室でした。

<学生のレベルは高い。>

北京外大の講義のおわりは「今日は、わたしの私淑する大平正芳先生ゆかりの前大平学校(現在の日本学研究センター、外大の構内にある)の講堂で、大学院生の皆さんに講義をする機会に恵まれました。天空の大平先生もご満足のことと皆さんに感謝いたします」と述べて、万雷の拍手でした。(終) (元内閣官房副長官)

2015年06月17日

◆相互理解深化が日中を打開 A

浅野 勝人 (安保政策研究会理事長)
 

それが端的に表れるのは歴史認識の食い違いです。

おおむね「植民地支配と侵略」「戦時下の慰安婦問題」「政府首脳の靖国参拝」「領土問題」に絞られます。

日本の大学でこんなやり取りがありましたので、ご紹介します。

マスコミュ二ケーション概論の授業で、日中問題に関する討論の際、複数の女子学生から同じ趣旨の質問が出ました。

「靖国神社に祀られている戦争で犠牲になった身内や知人のご冥福をお祈りすることに対して、中国や韓国から抗議を受けるのは内政干渉ではないですか。何が問題なのか理解に苦しみます。

国の命令で仕方なく戦争に行った犠牲者です。それに侵略戦争をしたのは私たちではありませんから、私たち世代の行動を制限されるのは不愉快です」 

概ねこんな趣旨の疑問です。
 
浅野教授は次のように説明しました。
まず、何が問題なのか混同しているので整理しましょう。
@ 中国も韓国も政府首脳以外の日本国民が靖国神社に参拝することについては、ひと言も文句を言っておりません。まったく自由なのは当然のことです。
A それでは、政府首脳とは誰を指すのか整理しておきます。原則として首相、外相、内閣官房長官です。現内閣では副総理も含まれると考えられます。
B なぜ、政府首脳の公式参拝に抗議するのか、祀られている側に一連の戦争を決断、決定、推進したA級戦犯14人が合祀されているからです。日本国を代表する政府首脳が、戦争責任を負う国家指導者に手を合わせることは侵略戦争を肯定すると映るからです。
C だから、政府首脳、特に総理大臣の公式参拝には、侵略を受けた中国、韓国だけでなく、多くのアジアの国々、アジア・太平洋戦争で10万人余の戦死者を出したアメリカも強い拒否反応を示します。

D イギリスは軍人約3万人、オランダは軍人2万7.600人が戦死 ( 読売新聞、「検証 戦争責任 U」) していますから、同様の見解に立っています。日本に着任したキャロライン・ケネディ大使が、靖国神社を避けて、真っ先に無名戦士をお祀りした千鳥ヶ淵戦没者墓苑に花束をもって参拝に出向いたのは重要なシグナルです。
E 昭和天皇は、戦後、毎年、靖国参拝を続けておいででしたが、1978年に戦争責任者のA級戦犯が合祀されてからは参拝を控えられました。「戦争を肯定する」と世界各国から誤解されるのを避けるご配慮であったためと思われます。89年に即位した今上天皇も昭和天皇のご判断を踏襲されて靖国神社には参拝されておりません。

F 愛国心とは、自らの国を大切に育み、他国から侵略を受けたら、命を賭して戦う決意です。他国から侵略されたら、76才の私は鉄砲を担いで最前線で戦います。おそらく何方(どなた)の決意にも負けることはありません。とても大切なことは、愛国心の中には自国が犯した過ちを率直に認める勇気が高い位置を占めている点です。

それを重く受け止めている河野談話や村山談話が、近隣アジア諸国だけでなくアメリカやヨーロッパの国々でも至極当然な日本の歴史認識として受け入れられている理由です。

この説明に学生は全員納得して異論も質問も出ませんでした。

お互いを攻撃し合う後ろ向きの議論は、もういい打ち止めにして前へ進みましょう。これは日中双方に当てはまることです。

今年(2015年)3月に来日したドイツのメルケル首相は、安倍首相との首脳街談で「過去の総括が和解の前提になっている」と述べ「断ち切るとは過去を認めること。過去を清算して初めて未来を語ることが出来る」と指摘しました。

まるで私たちが諭されているみたいな思いがいたしました。ナチズムを全面否定し、ナチスと決別した国家指導者のことばは自信に満ちています。


理解し合うという事は、理屈や感情や立場の違いが交錯しますから、簡単なようで難しい命題です。

ちょうど男女の仲のようにすれ違うことが間々(まま)(ときどき)あります。私は、結婚して50年の金婚式を終えたのに、いまだ相互理解の途上にあって、情けなくなります。だからといって、お互いに努力を怠ってはいけません。


中国政府が直面している課題は、
徹底した汚職・腐敗の摘発と地方政府改革の抜本的断行。

一刻の猶予も許されない環境汚染の解決。

土地バブルの崩壊に伴う経済・財政・金融の構造転換。

クリーン・エネルギーの確立と食の安全。

貧富の格差、地域格差の是正と失業対策。

医療改革と高齢社会における厚生福祉政策の推進。

何れも、これまでに日本政府が取り組み、すでに解決したか、もしくは引き続き努力中の課題ばかりで、問題を共有しています。 (続く)

2015年06月16日

◆李鵬一家、取り調べの対象か

宮崎 正弘 


<平成27年(2015)6月15日(月曜日)通算第4575号>  

 〜李鵬一家、取り調べの対象か、李小琳の出国を制限
            次男の李子勇はシンガポールの国籍取得、香港に逗留〜

既報の通り、王岐山の反腐敗キャンペーンは、「大虎」狩りを中断し、その子弟らに照準を定めた気配がある。

発電利権の元締めは李鵬元首相だが、長女・李小琳の海外渡航を制限する措置をとったと博訊新聞網(2015年6月14日)が報じた。

長男の李小鵬は山西省省長だが、関連する企業「東方明珠」が炭鉱開発で3億元の赤字をかかえるスキャンダルに関与した疑惑ありとされ、すでに山西省での政治力を失った上、次男の李小勇はシンガポールのパスポートを所持し、香港に長期滞在している。

習近平・王岐山コンビは虎狩りの続編として「大虎」の子弟に焦点を絞り込んだと情報筋は観測しているらしい。 

◆戦争は「歴史の必然」

平井 修一



戦争とは何か。「戦争は一種の強制行為であり、その目的は相手の抵抗力を完全に無力化し、自らの意志を強要することである」とクラウゼヴィッツは書いている。「相手を完全に無力化」するまで戦うというのは今はなく、大体が停戦で終わるようだ。

戦争はなぜ起きるのか。いろいろな答えがあるだろう。一般的には、自分はこうしたいと思い、他者はそれに反対する。話し合いでは何の進展もない。それなら戦争に訴える、となる。

たとえば現在のウクライナとロシアの戦争。勢力図を見ると、西から欧州、ウクライナ、ロシアがある。欧州とロシアは歴史的に対立している。ウクライナは緩衝地帯になっており、その西側国境はロシアにとって「外堀」、東側国境は「内堀」だ。

ところがウクライナは欧州と一緒になりたいと、外堀を埋め立て、欧州勢力を引き入れた。ロシアは内堀でウクライナ・欧州の圧力に耐えなくてはならなくなった。そこで武力で西側へ押し出し、内堀を強化、一応の停戦になった。

これによりロシアVSウクライナ・欧州のパワーバランスは危ういながら保たれている。

戦争は我にも正義、彼にも正義のぶつかり合いで、双方ともに「自分は自衛のために侵略者と戦った」ことになる。

翻ってわが国が大負けした大東亜戦争とはなんであったのか。ウィキから――

<GHQが公職追放令を発布して間もない1946年(昭和21年)1月12日、雑誌「近代文学」の座談会「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」で小林は、出席者の本多秋五による小林の戦時中の姿勢への言及を受けて以下のような発言を行った。

「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。
大事変が終った時には、必ず、若しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。

必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起こらなかったか。

どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。

僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」

一部には、これを敗戦後に戦前とはうってかわって、「右翼的文化人」から「左翼的文化人」に変貌した当時の大多数の知識人らと比して立派であると評価する声もある。

「反省しない」という言葉を用いて、戦前の言動を正しかったとか、悪かったとか、戦後の世間一般の価値観でもって自分自身を肯定・否定しているわけではなく、戦争に負けたとたんにその立場を180度転換した戦後の世間一般の価値観でしか己の立場を決定できない人々を小林は「頭がいい人」と揶揄し、批判したのである。

戦時中は軍国青年で、戦後はすぐ左に行ってしまったと自ら回顧する吉本隆明は、敗戦の放心状態にあって小林のこの発言の一貫性について膝を打ったという旨のことを、第五次小林秀雄全集によせたインタビューで述べている。「事変に黙って処する」というのは小林の事変当初から強調した表現だった>

現代ビジネス6/14「旧日本軍の将兵たちはあの戦争をどう振り返ったか 7年の歳月をかけて戦争体験者の肉声を追った亀井宏氏に聞く」から。
<亀井宏(かめい・ひろし)氏の略歴:

1934年生まれ。'70年『弱き者は死ね』で小説現代新人賞受賞。30代半ばより太平洋戦争に関する調査を始め、戦場体験者の証言を聞くために全国をまわる。'80年『ガダルカナル戦記』で講談社ノンフィクション賞を受賞。

主な著書に『ドキュメント 太平洋戦争全史』『ミッドウェー戦記』(いずれも講談社文庫)、『東條英機』(光人社NF文庫)などがある。

亀井氏が著した戦記ドキュメンタリーは、今日では誰も成しえない、不朽の名作である。昭和40年代、旧日本軍の将兵たちがまだ存命だった頃に直接取材を果たし、書き上げたものだからだ。その亀井氏に当時の取材背景を聞いた。(構成/松木 淳)

――ガダルカナル戦は、戦闘ではなく飢えや病気による死者が多いという悲惨な戦場でした。その点から話したがらない人も多かったのではないですか。

ガダルカナルに関しては1973年の秋ごろから取材を始めたのですが、このころになって聯隊史や中隊史といった記録が私家版で出始めた。つまり、生き残った人が自ら所属していた部隊について語り始めたんです。

そんな時期に遭遇したというのも幸運でした。もちろん取材に消極的な人もいましたが、そうした人はむしろ例外で、積極的に協力してくださる方が多かったように思います。

インタビューの現場で私はほとんど言葉を発しません。インタビュー相手が1時間でも2時間でもずっと話し続けてくれるからです。なかには号泣しながら話してくれた人もいます。語っても語り尽くせない、そういうものを胸の奥底に沈めて戦後を生きてきた人たちなんですね。

例外としては、インタビューに応じてもらうのに約2年かかった人が2人います。1人は元大本営作戦参謀の瀬島龍三さん。ちょうど瀬島さんが主人公のモデルといわれた『不毛地帯』(山崎豊子著)が出たころで、それで神経質になっていたんだと思います。

如才ないというか隙がないというか、完璧に理論武装しているように、私には感じられました。だからなのか、巷間言われている話がほとんどで、目新しいことは何もおっしゃいませんでしたね。

もう1人は、私がお会いできた唯一の俘虜体験者、丹羽幼三さん。戦友同席の場で話すということを条件にようやく承諾をもらえた人です。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓を叩き込まれた元軍人が取材に応じてくれた勇気には、本当に頭が下がる思いがしました。

――『ガダルカナル戦記』には1人のコメントが20ページにわたって続くような例もありますし、方言もそのまま活字にしています。読んでいてまるで肉声を聞いているかのような気持ちになるのですが、これには何か意図があったのですか。

『ガダルカナル戦記』は生き残った人たちの証言集にしようと思ったのです。着手してから脱稿まで足掛け7年を費やしたのですが、その間にも既に取材をしたあの人が亡くなった、この人が亡くなったと連絡が入りました。今では本書に登場する方はほとんどが亡くなられていると思います。

つまりガダルカナルを体験した人の証言を得るのには、私が取材した期間が最後のチャンスだったんです。

率直に言えば、必ずしもすべての証言に私が納得しているわけではありません。記憶違いというか、自分に都合よく記憶が組み替えられているというか・・・。それでも、私の主観による取捨選択をあえてしなかったのは、あの時代の日本人がどういう考え方をしてあの戦争に対処したのかを、ありのままの証言から理解してほしいと思ったからです。判断はすべて読者にまかせようと考えたのです。

*想い出深き人々

――脱稿まで足掛け7年とはまさしく労作ですね。関心も知識もなかったテーマにそこまでのめり込んだ理由は何ですか。

それまで漠然と抱いていたイメージと実際のところが違っていて、本当はどうなのか、そこへの興味が大きな理由の一つです。

東條英機を例にお話しします。戦後の日本はそれまでの歴史を全否定することから始まったんです。私もそういう戦後民主主義教育を受けて、東京裁判を100%肯定して「東條英機は悪い奴だ」って思っていたわけです。

それが調べていくと、どうも違うなということになった。東條は首相と陸相を兼任していたんだけれども、大本営会議で陸相には発言権がないし、首相に至っては出席すらできないんですね。

のちに大本営参謀総長まで兼任するんだけど、それ以降のことはともかく参謀総長就任前の事柄まで責任を負わせるほど“大物感”を感じさせないんですよ(笑)。そうした発見がいくつもあって、次第に夢中になっていったということですね。

もう一つは取材で出会った人たちの存在です。面白い人が多かった。淵田美津雄さんは真珠湾攻撃で空襲部隊の指揮を執った人で、自宅で話を聞いたんですが、なぜか居心地が悪い。よく見ると本棚なんかが歪んでるんですね。

あとになって聞いたことなんですが、家も家具も手づくりだったそうです。海軍の軍人だった人なのに「山本五十六は凡将だ」とはっきりと言って憚らないユニークな人でした。

あと二見秋三郎さん。ガダルカナルで十七軍の参謀長を務めた方です。私が会った元軍人の多くは時代の流れとともに言葉遣いなども変わってしまっていたものですが、この人は違った。

軍人の生きた化石のような人で、私を「おまえ」と呼び、いきおい私は二見さんを「閣下」と呼ぶ。自宅で怒鳴られながら取材をしたんですが、終わったら最寄りの駅まで見送ってくれるんです。

別れ際に「俺は昔の威張る癖が治らんのだ、勘弁してくれ」と言われました。その後、線路脇の柵のところに立って電車が走り出してもその場を離れませんでした。訪れる人も少なくなって、じつのところは寂しかったんだと思います。

井本熊男さんは陸軍大臣秘書官を務めた人で、いわば東條の側近です。東條が悪の親玉だから、その秘書はどんな人物かと思って、例のごとく(取材依頼の)手紙を書いた。その際、2行くらいの質問を添えたんですが、しばらくしてそれに対する回答が封書で届きました。

封を開けてみると便箋10枚くらいにびっしりと書かれているんですね。また質問を書いて送ると同じように封書で返ってくる。誠実というか純粋というか、そうした人柄が文面から伝わるんですね。実際にお会いしても、印象は変わらなかった。

*何が起きたかを知ってほしい

――私生活を犠牲にされて書き上げた作品なのですね(平井:7年間、収入が乏しく奥さまは去ってしまった)。ところで先ほど東條英機の名前が挙がりましたが、亀井さんは戦争責任についてどう思われますか。

東條についていうなら、責任はあるけど、全責任を負うほどではないと思う。

私は「近代文學」の座談会(1946年2月)での小林秀雄の発言に共感を覚えます。彼は「この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起らなかったか・・・利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか(冒頭で紹介したもの)」と発言しています。

私も東條ら一部の人に責任を押し付けるのは間違っていると思います。

開戦前、国民は日本が朝鮮半島や満州に進出するのは当然の権利だと思っていた。メディア、といっても当時は主に新聞ですが、部数を上げたいから読者が喜びそうな記事を書く。世論が「軍は何をしてるんだ」と尻を叩いて戦争に突入していったという側面もある。

ならば国民やメディアにも責任はあるだろうと。

そんな戦争責任を負った者のなかで、いちばん悪質だと思う者をあえて挙げるとすれば、それは新聞ジャーナリズムです。小林の言う「利巧な奴」ですね。敗戦まであれだけ戦意を煽っておいて、敗戦と同時に凄まじい東條バッシング。

あれはそうしなければ「お前たちこそ日本を戦争に誘導していったじゃないか」と自分に火の粉が降りかかってきたからでしょう。ナチスに協力したドイツの新聞はすべて廃刊されていることと比較すると愕然とします。

日本人の精神性なんでしょうか、オール・オア・ナッシングとか、黒か白かとか、二元論的思考で問題を矮小化する傾向があるように思います。小林が言うように戦争は歴史の必然ならば、なぜ戦争が起きたのかはそんな単純に判断できることではない。

私の父親も陸軍の軍人でした。私が20代半ばのころ、父に向かって「日本はなぜあんな愚かな戦争を始めたのか」と突っかかっていったことがありました。父は吐き出すように一言「仕方なかったんだ」と答えました。

そのときは内心「何て言い草だ」と失望したものですが、今ならその意味がわかるような気がします。

――講談社文庫の『ミッドウェー戦記』や『ガダルカナル戦記』を手に取る人には、亀井作品に初めて触れる若い人も多いと思います。そんな読者に対してメッセージをお願いします。

『ガダルカナル戦記』には、飢えや病気に苦しむ兵隊のなかで「もう駄目だ」と口に出した者は必ず死んだという証言があります。逆に、生きて還ることに最後まで光明を感じた者が生き残ったと。戦争は人に苦難を強いますが、そもそも人が生きていくこと自体が苦難に満ちているものです。

ここに描かれている世界は戦争という非日常ですが、困難のなかに光明を見出すという姿勢は、現代人の日常にも通用するものではないでしょうか。
死線を乗り越えて生還した人々、そんな日本の先達から現代を生きる日本人へのメッセージ――そんなふうにとらえていただけたらうれしいです。

また、あの戦争で日本人がどのように考え、行動したのか、ということを知ってほしい。まずは知るということが大切です。昨今かまびすしい歴史認識問題について議論するのであれば、一部のメディアの言い分を鵜呑みにするのではなく、その前に何があったのかを自分の知見として持ち、判断してほしいと思います。私の作品がその一助になれば幸いです>(以上)

中2レベルの国民の多くは「一部のメディアの言い分を鵜呑みにする」のだが、一部どころかほとんどのメディアは自虐史観だから、もう除染はできない。本人がその気にならないのだから現代史なんぞ勉強もしないし、関心もない。そもそも紙媒体であれネットであれ、「文字を読む」ことさえしない人が増えているのではないか。つまり思考力がない。

国会ではリアリズムを無視した無意味な神学論争に明け暮れている。マキャベリ曰く――

「リヴィウスの『ローマ史』を読んで、そこからなんらかの教訓を得ようと思うならば、ローマ市民と元老院のとったすべての行動をじっくり検討する必要があるだろう。その中でも特に次のことは重要だと思う。

それは、軍隊を率いる司令官たちに、どの程度の権限を与えて送り出したか、ということである。答えははっきりしている。

古代ローマ人は、この人々を、絶大な権限を与えて送り出したのであった。

元老院は、新たな戦争を始めるときと、和平を講ずる場合の決定権しかもっていなかった。その他のことはすべて現場の指揮官たちの意志と判断に任されていたのである。

これと反対の例は、ヴェネツィアやフィレンツェでのやり方である。この二つの共和国の指揮官は、大砲を置く位置からなにから、いちいち本国政府に指示を仰がねばならない。これが現在の惨状の原因になったのであった」

六法全書を片手にもって戦争できるのか。法律守って国亡ぶ。中2坊主が中2レベルのアホ議員を国会に送ったのだ。愚の骨頂。超法規でやるしかない。

愛国者は粛々と備えを固め、練度を高め、士気を高めるだけだ。(2015/6/14)

◆私の「身辺雑記」(230)

平井 修一



■6月11日(木)、朝は室温23度、薄曇り、フル散歩。

早朝から畑ではオッサン2人が働いていた。キューリが収穫期を迎えたのだ。一方で規格外の小さなカブは放置されており、やがては堆肥にされる。

勿体ないなあ、味噌汁や漬物にしたら旨そうだなあと思うが、野菜は生産・出荷段階で10%、流通・加工段階で10%、消費段階で10%のロスが出ていると思う。

100キロ生産しても、それが90キロ、81キロ、お腹に入るのは73キロとか。結局27キロはゴミになるのだろう。飼料になるものもあるかもしれない。

<食品残さ飼料とは、食品残さを原料として加工処理されたリサイクル飼料のこと。農水省は現在の飼料自給率23%を35%へ上げていくことを目標に掲げ、行政機関、研究機関、民間事業者、畜産事業者等が連携し、研究や情報交換を進めながら、推進活動に取り組んでいる>(ウィキ)

日本ではほとんど話題になっていないが、今、ミラノ国際博覧会が開かれており、テーマは「地球に食料を、生命にエネルギーを」。日本館の案内にはこうあった。

<日本国内における年間の食品廃棄物の発生量は、食用に仕向けられる食品の量の2割にあたる約1700万トン。

そのうち、本来はまだ食べられるのに、売れ残りや規格外品、食べ残しなどによって捨てられる食品のことを「食品ロス」といいます。日本で発生する「食品ロス」は年間500万〜800万tにのぼります。

食料品店・飲食店などから発生する食品廃棄物を回収・加工し、養豚の飼料として出荷する企業があります。神奈川県相模原市に本社をおく、(株)日本フードエコロジーセンターです。

原料となる食品廃棄物は、食品メーカーの工場から出る製パンくずや製麺くず、飲食店から出る米飯や牛乳、スーパーなどの小売店から出る野菜くずなど。

近郊の工場や店舗約180カ所から専用の保冷車で回収し、リサイクル工場へと搬入します。回収した食品廃棄物は水を混ぜて殺菌・乳酸発酵を行い、リキッド発酵飼料(液状飼料)として豚舎へと出荷します>(以上)

食品ロス率が30〜50%! 想像以上だ。世界中では8人に1人が栄養不足だというのに。畑に放置された野菜を見て「欲しがる人にあげたらいいのに」と思うが、そうなると買う人が少なくなるから難しい。資本主義市場経済はムリ、ムダの多い、やっかいなシステムだ。

わが家は小生と犬が残飯処理しているからロス率は2%あるかどうかのレベルだ。工夫もしており、たとえば寄せ鍋。まずは水炊きにしてポン酢などで楽しむ。翌朝は醤油を入れてお吸い物にする。昼はうどんのタレにする。夜は味噌を入れて雑炊にする。リメイクの繰り返しだ。こうすると無駄がない。

学校や病院の給食、ホテルの宴会料理・・・ずいぶんと食べ残されるのだろう。神経質な人は賞味期限・消費期限にこだわって、それを過ぎると平気で捨てたりする。肉などはとりあえず使う分以外は冷凍にするが、冷凍にしても消費期限にうるさい異常な人、ほとんどビョーキの人もいる(潔癖症? 周囲を見ると、親がビョーキなら子供もビョーキ)。勿体ないことだ。

自分の味覚、嗅覚などで「まだ食べられる」とか判断するのが当たり前なのに、「どんどん捨てさせよう」という魂胆のメーカーの設定した賞味・消費期限に踊らされている。中2坊主、小4児童は自主的判断ができないのだ。学歴は関係ない、生きる上での知恵が足りないのだ。

そのくせに不都合があると中2テレビに煽られて「社会が悪い、政治が悪い、自民が悪い、安倍が悪い」と難癖をつける。この手のアホとも共生しなくてはならないのは人類の悲劇だ。

山本夏彦翁曰く「この世は生きるに値しない」。そう思いつつも「慣性の法則」で生きている人は結構多いだろう。実は小生を含めて皆そうだ。

■6月12日(金)、朝は室温25度、小雨、散歩不可。

夕べは長女が「23時まで会議」のために集団的子育て。会計士の婿さんは株主総会ピークの今は始発出勤/終電帰宅、休日出勤は当たり前、泊まり込みもしょっちゅうのようだ。人の3倍働いて給料は2倍。割が悪いが、まあこんなものだ。楽して金は稼げない。仕事があるうちが花だ。

弁護士も以前は花形職業だったが、今はかなりブラック商売になってしまったようだ。救いようのない斜陽業種という感じ。供給過剰なのだ。在香港キャストグループの代表弁護士・村尾龍雄氏の論考「弁護士業界の苦境」6/11にはかなり驚いた。

<弁護士である私が日本の弁護士業界の苦境を語ることは格好の良いお話ではありませんが、「その時々で気付いた問題を率直に書く」というポリシーに基づき、私見を述べます。

今後の弁護士業界の見通しについて、半永久的に苦境が継続すると考えています。これには構造的な問題がありますので、私見を支えるロジックを述べます。

まず、物の価値が需要と供給で決定されるのと同様に、人の価値も実は需要と供給で決定されます。この道理は弁護士についても同様であり、弁護士の価値はクライアントの需要とこれに応えることができる弁護士サイドの資質、能力、識見、経験等の諸要素から構成されるサービスクオリティ(以下「サービスクオリティ」)の供給との関係で決定されます。

しかし、1995年当時、1万5000人規模でしかなかった弁護士数は2015年現在、3万6000人規模にまで膨れ上がりました。

ところが、弁護士の本来的業務であるはずの民事事件(行政事件を含めます)・家事事件数は、平成18年(2006年)最高裁判決を契機として一時急増したノンバンクに対する過払い金返還請求訴訟を除けば、全く伸びを示していないばかりか、民事事件数はむしろ減少傾向を示しています。

その結果、過半数の都道府県で弁護士1人当たりの民事事件・家事事件数は10件に満たないという惨状です。

私が独立直前に先輩弁護士から聞かされたのは、訴訟と訴訟以外の相談案件が常時50件はなければ事務所維持は覚束ないということでしたが、訴訟の平均数が10件に及ばないのであれば、この水準をクリアできる弁護士は決して多くないでしょう。

そうすると、望まずして何時までも事務所から独立できないか、即独を含めて独立したとしても私が弁護士になった当時存在すらしなかったノキ弁(無給でボス弁の軒先だけ借りる弁護士)やケー弁(事務所を持たず、携帯電話だけで走り回る弁護士)という新たな類型が生まれる悲劇的な結果が生じます。

こうなりますと、貧すれば鈍するのたとえの如く、例えば交通事故の損害保険に付随する弁護士保険を悪用して、あり得ない高額請求をしようとする弁護士が急増することになるわけです(日経新聞電子版2013年10月7日記事参照)。

弁護士数が多過ぎるアメリカでは救急車を追いかけて交通事故の被害者に弁護を持ち掛けるambulance chaserという存在が私が新人弁護士の頃、弁護士としての品格を欠く最たる例として指摘されてきました。

当時この存在を「日本ではあり得ない」と苦笑していた日本の弁護士界に20年後これほど多数のこれに類する存在が生まれるとは誰も想像すらできなかったことでしょう。

供給が急増するのに需要が減少する場合、業界を問わず、このような結果が起きることは必然です。現在、急増する弁護士が過去では考えられないほど必死に営業をしているのに、需要が明らかに不足しているため、高齢の一流弁護士でも訴訟だけでは事務所維持が容易ではなくなり、社外取締役や社外監査役の仕事を求めて奔走するのは業界の苦境を端的に物語っているのです。

こうした中で生き残っていくためには「需要があるのに、それを処理できる人がほとんどいない」という高度に差別化された専門分野を身に付けるしかありません。

しかし、そのような専門分野を身に付けるには優れた師匠と難しい案件に恵まれなければ難しいですし、おまけに時期にも恵まれなければなりません。

例えば私の場合は出身母体である大江橋法律事務所の6名の師匠に恵まれ、1996年に中国に赴任した当時、上海常勤は私だけでしたから、ありとあらゆる難しい中国案件をこなす機会に恵まれました。

おまけに中国法に興味を持つ弁護士は絶無に等しかったので、時期にも大いに恵まれました。その結果、高度に差別化されたということまでできるかどうかは別として、税務顧問先などまで含めれば中国関係だけで300社を優に超える顧問先を抱えることができています。

それでも現在、中国法分野で活躍する日本の弁護士は急増していますし、日本語を流暢に話す中国律師も急増しています。会計士や税理士でも優れた方々が競争者に多数います。ですから私も日々研鑽を重ねなければ、厳しい競争環境の中で到底生き残ることは不可能だという危機感を常時抱いています。

このように弁護士業界の未来は、解消が不可能な程度に乖離が拡大した需要と供給のアンバランスの構造的要因のために、過去にないほどに暗澹たるものとなっているのです。

法律家を巡る日本固有の構造的問題も弁護士業界の苦境に拍車をかけます。

日本固有の構造的問題とは、弁護士人口が1995年の約1万5000人から2015年の約3万6000人まで20年間で約2.4倍に膨れ上がったという分析は実は正しくなく、「日本で実務法曹(法律家)は何人いるのか?」と問われれば、「10万人を遥かに超えている」が回答になため、実質的な競は10万人以上の莫大な競争者が少ないパイを奪い合う構造を形成している、というものです。

すなわち、税法を取り扱う「税理士」は7万4945名(2015年5月末現在)。もともとは不動産登記や商業登記が専門のはずですが、それだけでは到底食えなくなったため、簡易裁判所の訴訟代理権を獲得し、弁護士法に抵触しない範囲の様々な法的アドバイスを行う「司法書士」は2万1658名(2015年4月1日現在)。

知的財産法全般を取り扱う「弁理士」は1万173名(2015年2月28日現在)。官公庁に提出する書類、権利義務及び事実証明に関する書類の作成代理や入国管理法マターを手掛ける「行政書士」は4万4730名(2015年4月1日現在)。

これらの実務法曹を足し算すれば15万1506名になるのです。

「えっ!彼らも実務法曹なの?」と尋ねる方がいれば、欧米人に上記資格内容を説明して、それを英語で何と訳すべきかを尋ねてみればよいと思います。諸外国で通常こうした資格に相当するものは存在せず、彼らが手掛ける業務はいずれも弁護士が弁護士の資格で実施しているから、lawyer(s)なのです。

そうすると、日本では(弁護士と合わせて)19万人近い実務法曹が今後必ず増えていくのに、国民の人口は減少し、これに合わせるかの如く中小企業数は減少の一途(中小企業数は1999年の484万から2012年の385万まで減少)を辿っているのです。

需供のアンバランスは高度に差別化されない領域ではサービスクオリティの差が決定的要因とならないために拡大する一方となり、今後実務法曹の仕事は確実に漸減し、その報酬も確実に漸減します。

日本の状況を踏まえれば、個人の法律事務所から大規模法律事務所まで苦境から逃れる術はないと予想されるのです>

以上は弁護士をめぐる客観的な状況だ。ライター稼業も「高度に差別化された専門分野を身に付けている」人には仕事が来るから、専門分野でトップ10以内にいないと飯は食えない。

これはどの業界でも言えることだろう。翻訳・通訳でも90年代あたりからはありきたりの能力では食えず、IT、医療/医薬、特許などの専門分野に通じている人以外は仕事探しに苦労する。

以下は起業や事業、人生についての村尾氏の哲学だ。

<弁護士業界が他の実務法曹と同様に半永久的に継続する苦境から逃れることはできないとするならば、個々の弁護士、法律事務所は生き残りのためにどうすればいいのでしょうか。

まず方法論を語る前に精神論で恐縮ですが、弁護士業を大好きになることこそが最も重要だと確信します。

だって、どの弁護士も苦境から逃れることはできない以上、生き残りを賭けた戦いは誰がやっても厳しいものに違いはなく、そうすると当然に苦しいはずです。

苦しいことに耐えることができるかどうかは、やっていることが大好きかどうかによって決まります。

マラソンランナーは練習も試合も過酷で苦しいはずで、まして川内優輝選手のように働きながら日本最高水準を維持する場合には常人には想像もつかないほど苦しい日々に耐えなければなりませんが、彼らは走ることが大好きで、それが天職だと思うから、それに耐えることができているわけです。(平井:村尾氏の趣味はトライアスロン)

そうすると、弁護士も弁護士業が大好きなのであれば、苦境であっても楽しみながら乗り越えていく知恵と工夫と勇気が出てくるはずです。

ちなみに私は弁護士業が大大大好きで、司法試験になかなか合格しないときにも「こんな苦しい試験に働きながら挑戦して、俺はそこまでして弁護士になりたいのか?」と何度も自問自答しましたが、答えは常にYESでしたので、よほど弁護士業に憧れていたのでしょう。

そして、実際に弁護士になった後もこれが天職だという思いを常に抱いています。

ついでに言えば、私は筋金入りの日中友好論者で、決して中国のよいところだけを見て、悪いところを見ない非科学的態度をとるつもりは毛頭ありませんが、ともかく生きている間に少しでも日中関係を良好なものにしたい、それに貢献したいと心から思い込んでおり、日中友好関係に従事することができている現状を神仏とご先祖様に心から感謝しています。ここでも中国には悪いところも変なところもあるけれど、要するに大大大好きなわけです。

こうして「弁護士業+日中友好関係への従事」がウルトラ大好きなので、日々の経営で常に課題、難題が出てきても、「俺は神仏とご先祖様から天職を授かっているのだから、これを投げ出すわけにはいかない」という思いがあって、そうすると「じゃあこの課題、難題を今回はどうやって料理しようかな〜♪」とか楽しみながら乗り越えるアイディアを出すマインドになるのです>(以上)

ビジネス、特に起業に必要なものは、まず専門知識、高い技術。これは当たり前で、さらに愛嬌、営業力、企画提案力、精神的・肉体的なタフさ、資金力、その上に接待力、忍耐力も必要だ。「この仕事は天職、ウルトラ大好き」じゃないと、とても続かない。

日本人は単純な仕事でも「道を究める」性向がある。創意工夫して最高のものにしたいという思いがある。そうしているうちに仕事が大好きになり「天職だ」と思い、艱難辛苦を乗り越えて精進する。報酬もそれにつれて上がるとは限らないが、社会に役だったという“満足感という報酬”がある。

小生は「筋金入りの反共主義者」で、中国共産党を「ウルトラ大嫌い」だが、「どうやって料理しようかな〜♪」とか楽しみながら中共殲滅の天職に努めている。

若者よ、石の上にも三年。もういいやとまったく違う分野へ行ったら、また新人だ。3年ごとに仕事を変えていたら専門分野は作れない。「これが俺の天職だ」と最初の職業で3年、6年、9年踏ん張れ。道は開けてくる。

山本夏彦翁曰く「歳をとると説教したがる。老人が敬遠されるのも故なしとは言えない」。ま、余計なことを言ってしまったか。

■6月13日(土)、朝は室温25.5度、体温36.7度、晴、フル散歩。トマト畑はナント鉄条網で囲まれていた。泥棒がいるのだ。オッサンは早朝から出張っていた。敵を憎悪し、警戒し、防備を固めないと奪われるということ。

昨日は午前中に発熱して散々だった。孫から風邪をもらったのだろう。体温計で測れば38.4度、在庫の薬(ペレックス)を飲んだら37.7度、おでこに保冷剤を巻きつけたら夕刻には37.4度、就寝前は36.8度まで下がったが、体調は良くない。それでも昨日はしっかりキッチンをやり終えた。

昨日、カミサンは仕事を終えると一旦帰宅して、弁当をピックアップして速攻で長女の2児を保育園に迎えに行き、そのまま長女宅に1泊。だから小生は是が非でも5人分の弁当を用意しなければならなかったわけ。

今朝、カミサンは2児を保育園に預けてから帰宅し、すぐに職場へ向かったが、まったく忙しい。弁当は特にお好み焼きが大好評だったという。

料理でカミサン、子・孫を支配下に置くという小生のキッチン帝国主義を守るには、体調がたとえ悪くても手抜き、妥協、譲歩はできない。

マキャベリ曰く――

「君主は、自らの権威を傷つける恐れのある妥協は、絶対にすべきでない。たとえそれに耐え抜く自信があったとしても、この種の妥協は絶対にしてはいけない。

なぜなら、譲歩に譲歩を重ねるよりも、思い切って立ち向かって行ったほうが、 たとえ失敗に終わったとしても、はるかによい結果を生むことになるのが、ほとんどの常だからである。

もしも、正面衝突を回避したい一心で譲歩策を取ったとしても、結局は回避などできないものだ。

なにしろ、譲歩に譲歩を重ねたところで相手は満足するわけでもなく、それどころか相手の敵意は、あなたへの敬意を失ったことによって、より露骨になり、より多くを奪ってやろうと思うようになるのがオチなのだ。
また、思慮もない単なる譲歩策によって示されたあなたの弱みは、味方になりえた人々をも失望させ、 彼らを冷淡にさせてしまうだろう。

反対に、もしもあなたが、相手の真意が明らかになるやただちに準備をし、たとえ力が相手に劣ろうとも反撃に出ていたら、敵といえどもあなたに敬意を払わざるを得なくなるのである。

そして、他の国々も敬意を払うようになり、結果としてあなたは味方を獲得することになる」

まさに然り。

日米開戦は不可避だったと小生は思うが、実際に戦って良かったと思う。尻尾を巻いて譲歩、妥協し、4つの島に閉じこもったら、世界の植民地から白人を追放することはできなかったろうし、戦後の、多くの民族からの日本への敬意、連合国からの日本への恐れ、多分「畏怖」もなかったはずだ。

山本夏彦翁は「国際情勢は猫の目のように変わるから、都合の良い時期を待って行動すべきだった」と言うが、原油や武器の備蓄を考えると、「今立たないと勝つチャンスはゼロになる」という切羽詰まった事情があったろう。

まあ、敗けは敗けだ。大横綱に小結が短期決戦のつもりで噛みついたが、予想に反して長期戦になってしまった。戦争の資源が空になった。

戦後、米国は「国のためには命を惜しまない」日本に武士道と武器がある限り枕を高くして眠れない、と日本を「100年間戦争のできない国」にした。

ところが今や、アジア・西太平洋においては赤匪・中共の横暴を潰すために、米国は周辺諸国との軍事協力を進めざるを得なくなった。その核心は日米同盟だ。

中共は結局、大戦略で失敗したのだ。自己・自系利益優先原理主義、ヤクザの「俺が縄張りを拡大するのはシノギのために当然。縄張りに入って来るな、接近阻止、領域拒否!」とトラブルを起こし、結局「太平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」と70年ぶりに日本を起こしてしまった。

中共の大ミス、大チョンボだ。逆に日本にとっては大当たり、宝くじの前後賞も獲得した気分で、周辺諸国と連携して対中「鉄条網」の包囲網を作れる。

一切の妥協、譲歩を拒否し、日米豪印乳アセアン+ブルネイなどのアジア版NATOで中共を体固めで押さえ込み、「シナ海は公海だ、お前の縄張りじゃあないぜ、俺らは空も海も自由航行するからな。武力での秩序破壊は許さんぞ。商売はルールに則ってやるのなら好き放題にやれ」と調教できる。

中共が言うことを聞かなければ柔道の猛者ミヤケンのように体固めで相手を窒息死させるだけだ。我が方は当然「抵抗したから絞めざるを得なかった、自衛の措置」と主張するから、国際世論はせいぜい「傷害致死罪、蟄居3年、執行猶予つき」となる。

国連は1年もすれば恩赦、3年もすればルメイに与えたように勲章をくれるだろう。強い者に皆なびく。

アジア版NATOの保安官助手は日本が務める。黒帯プーチンを抑え込んだ後の保安官助手はNATOだ。両方面での保安官はワイアット・アープしかいない。

覚悟はできたか、オバマ大将? 君のレガシーはシナ海と欧州東部戦線にあり。中露に鉄槌、ならず者を押さえ込む。OK牧場の決闘の日は間近だ。命を惜しむな、名こそ惜しめ。パーの人生でいいのか。アルバトロスを目
指すべし。

午後9時、湯上り模様のN母子来襲。「お泊りさせてくださーい」。ビールをどっさり持ってきた。

■6月14日(日)、朝は室温25度、微雨、フル散歩。体調戻る。

12日に鉄条網をめぐらした畑のオッサンに「泥棒? 大変だね」と声をかけた。土地持ちでマンションやら月極め駐車場なんて持っているから、畑はほとんど趣味の園芸的なのだろうが、それでもショックだったようだ。

「明日から収穫だと思っていたら、前夜にやられた。4、5人のグループみたいだ。ナスとキュウリは大きいものから小さいものまで、根こそぎ盗まれた。40、50キロぐらいかな」

「がっかりだね。防犯灯とか防犯カメラが必要だね」

「防犯灯は川崎市にお願いしているんだけど・・・とにかくここは夜には真っ暗だからね」

「頑張ってね、お大事に・・・」

邪悪な連中は少なくない。自警団を組織し、捕えて右手を潰すくらいの制裁を加えないといけない。目には目を。過剰防衛? 甘やかすとIS、匪賊、やがては中共になる。

「芽むしり子撃ち」、然り。悪は小さなうちに叩け。社会防衛論を勉強してみよう。

それにしてもサウジの庶民の楽しみが公開処刑見物だなんて・・・米国には変わった友達がいるが、世界は国益のためには見て見ぬ振り。日本もそうだ。

リアリズム思考は正義やら道徳は関係ない。ひたすら国益。えげつないものだ。まことに「世界は腹黒い」。

今日は集団的子育てという宴会でレバニラ、焼売など。いずれも手作り、大好評。残りはお土産にしたから完売。疲れた。

■6月15日(月)、朝は室温25度、快晴、フル散歩。

12日の産経に藤本貴之氏(東洋大学総合情報学部准教授、メディア学者)の論考が載っていたが、産経のサイト「iRONNA」にオリジナル原稿があった。

<テレビを低俗なメディアと断じた大宅壮一による流行語「一億総白痴化」が生まれたのは、1957年2月のことだ。日本でのテレビ放送の開始が1953年のことであるから、テレビは誕生以来、低俗なメディアと言われ続けていることになる。

近年、「テレビの質的低下」がいくらさけばれようが、そもそも、スタートから低俗という認識だったのである(映画との比較を前提とした「質」の優劣なのだろうが)。

「テレビは低俗」「マスゴミ」と言われても、誕生から現在まで言われ続けていることと考えれば、いまさらの「マスゴミ」論は注目すべき指摘ではないだろう。

むしろ、そんなテレビであっても、インターネット上に氾濫する無数の動画や映像と比べてみれば、それが圧倒的に高いクオリティを持っていることに気づかされる。

テレビは低俗かもしれないが、インターネットの世界は、それ以上に「低俗」な世界が広がっている。「低俗」という言葉に語弊があるならば「最低限の質が保証されていない世界」と言い換えることができるかもしれない。

テレビの質が低下したと言われる今日でも、まだまだテレビのクオリティは高い。見方によってその評価・判断は別れることは承知の上でも、テレビは十分にクオリティメディアであると言えるだろう>(以上)

藤本氏は大学院レベルのオツムだろうが、基本的な認識ができていない。「テレビは低俗」、それはそうだが、「ネットはそれ以上に低俗」というのはおかしい。正確には「ネットは小1レベルから大学教授レベルまで、玉石混交だ」というのが実態だろう。

テレビは玉石混交ではない。「中2レベルのものしかない」ところが問題なのだ。それを「クオリティメディア」というのは無理がある。

新聞では「クオリティペーパー」という。「イエローペーパー」などの大衆向けの娯楽情報の7S、すなわちsex、scandal、screen、star、sports、sea、sunの情報以外を掲載する、高2レベル以上向けの論考を主体にした新聞だ。

明治のころは陸羯南の「日本」(1889/明治22年−1914/大正3年)が有名だったが、ルビを振らないから紙面は真っ白だったそうだ。一方で大衆紙はルビを振るから真っ黒。山本夏彦翁がそう言っていた。

テレビは映像は素晴らしくきれいになったが、60年たっても中身(伝えたい情報、メッセージ)は中2レベルのまま。ほとんど7Sの白痴ネタ。小生はここ4年以上はまったく見ていないが、永遠に中2レベルだから相変わらずのクソ情報だろう。

ネットでは玉石混交の情報から「これは本物だろう」というような玉を選んで「知」を積み重ねていくことができる。テレビは永遠に揮発性、オナラのような「痴」を繰り返すから、すぐに雲散霧消し何も積み上がらない。10年もたてばテレビのコンテンツは完璧にオンデマンドのネットに移行する。テレビ時代は終わりになる。めでたしめでたし。(2015/6/15)

◆相互理解深化が日中を打開 @

浅野 勝人 (安保政策研究会理事長)
  

わたしの著書「北京大学講義録 日中反目の連鎖を断とう」の中国語版「融冰之旅」(氷を融かす旅)が、今年1月出版されました。それを読んだ大学から、直接、著者の話を聞きたいという光栄な要請をいただきました。

北京大学の定期講義の機会に清華大学と北京外語大(東京外語大に相当)で、先頃、講義をいたしました。

<以下 その講義報告です。>


<清華大学のお招きをいただき、本日、皆さんとお目にかかる機会に恵まれました。清華大学は、習近平国家主席、胡錦濤前国家主席の母校と聞いております。今日は、わたしの人生にとって記念すべき日となりました。

「現在 開始 上課 吧」(それでは授業をはじめましょう)

先月22日、バンドン会議に出席するためジャカルタを訪れた安倍首相、習近平国家主席の日中首脳が、5か月ぶりに2回目の会談をしました。

北京で開かれたAPECの機会に行われた去年11月の1回目の会談は、握手をしても相手の目を見ない冷え冷えとした出会いでした。

それに比べれば、笑顔で握手を交わした今回は雰囲気が和(なご)んでいる印象を受けました。そして、双方が関係改善を推進する必要性を認め合って、アジアのリーダーとしての認識を示したことは内外の人々を安堵させました。

バンドン会議は、60年前、周恩来首相とインドのネール首相が立ち上げた国際会議です。全ての人類と国の平等を訴えた平和十原則は、東西両陣営が対立する当時の冷戦の中で、アメリカにもソビエトにも属さない平和勢力の存在を示した画期的なアピールでした。

周恩来の民族自決の原則とネールの平和主義が今も脈々と引き継がれているバンドン会議での出会いにしては、物足りない首脳会談でしたが、お互いに微笑んで握手をしたことに満足しましょう。


ちなみに、戦後70年の世界史の中で、私が尊敬する政治家は、周恩来国務院総理とユーゴスラビアのチトー大統領の二人です。

今回の会談で私が注目したのは、習近平が「一帯(イ―ダイ)一路(イールー)構想(陸と海のシルクロード経済圏)とアジアインフラ投資銀行(AIIB)設立の提案は、すでに国際社会から歓迎されている」と述べました。

これに対して、安倍晋三は「アジア地域にインフラ投資のニーズがあることは承知している。その認識に基づいてAIIBに関して詳しく検討していきたい」と応じたに止め、習近平の呼び水を拒んだ点です。

「日本も参加する」とその場で明言していたら、局面は一変して、日中関係は否応なしに安倍首相の主導権によって打開されました。

同時に、日頃からアメリカの鼻息ばかり窺(うかが)っていると思われている日本が、自らの決断を示して世界をアッと言わせるパフォーマンスになりました。

8年前、首相に就任した安倍は、最初の訪問先をワシントンを飛び越えて北京を選び、小泉時代に停滞していた日中関係を一挙に打開して中国側から「破(ポー)冰(ビン)」といわれました。

今度も踏み切っていたら、安倍晋三2度目の「破冰」となっていたのにとでも残念です。

ところで、日本政府がAIIBに参加しないのは、ガバナンスに問題があるという理由です。

発足する前から、中国は自分たちに都合のいい、いい加減な運用をするに違いないと決めつけるのは、隣国に対する礼儀を欠いているように思います。

福田康夫元首相は、
「アジアの発展途上国は、インフラ整備と人材育成に苦労しています。特に、道路、鉄道を中心とする交通網を整備して、大量輸送の手段を確保するためのインフラ投資を求めています。

インフラ整備に資金を提供しようとする試みを否定するような姿勢は、アジアの国々の共感を失うことになります。運用のガバナンスを徹底するように中国と十分話し合うことが必要です」と述べて、AIIBへの参加を政府に促しています。
私はこの見解に賛同します。

もし、ガバナンスに問題があると懸念するのなら、むしろ、AIIBに加盟して、機構の内側から組織運営の透明性を高め、融資審査や意思決定をめぐる不適切な判断を改める改革の役割を担うのが日本の中国に対する真の友情だと思います。

日米が主導するアジア開発銀行・ADBと中国が主導するAIIBは、綿密な情報交換を基礎にお互いに協力して、大切なお金を有効に使う協調の姿勢が重要です。

ですから、中国にも、日本に対してもっと真剣に説明を繰り返して、懸念を払しょくする努力が求められます。

日中両国の協力は、東南、南西アジア諸国、中央アジアから中東、トルコを通ってヨーロッパに至る一帯周辺の国々のために不可欠です。相互理解の進展を期待せずにはおられません。

あれは尖閣問題が燃え広がり、中国各地で反発が強まった頃ですから、2012年の晩秋のことです。

さまざまな反日活動を紹介する紙面の中に、上海のレストランが店頭に「日本人と犬、当店に入るべからず」という張り紙を掲示したという記事が目に止まりました。

これはあんまりだと思った私は、親しい北京の方に電話をして「こんな酷い嫌がらせは止めさせていただきたい。この種の記事は日本人の中国嫌いの感情をいっそう強めるだけです。百害あって一利なしです」と申しました。
 
この方の返事は「浅野先生のような中国の理解者でもそんな受け止め方をなさるのですか。おそらく上海のレストランの経営者は、祖父母ないしは両親から幾度も幾度も聞かされた積年の恨みを70余年ぶりに晴らしたにちがいありません。

日本軍に占領された上海では、中国人は人間扱いされませんでした。どの公園にも「シナ人と犬、入るべからず」という立て看板が立てられ、中国人は歯をくいしばって公園で遊ぶ日本人親子を見ないようにして堪え忍んでいました。

南京大屠殺(南京大虐殺の中国語)直後の長江(揚子江)は血で染まり、死体で河面(かわも)が埋まった様子を聞かされて育ちました。積年の恨みとはそうゆう意味です。浅野先生ならおわかりでしょう」
 
私は返答に窮しました。
こんな体験もあります。

外務副大臣の頃、私は内閣の方針に従って中高生の日中交流に力を注ぎました。当時の胡錦涛国家主席が全面支援をしてくれましたので大きな成果をあげました。

好評だったのは、日本を訪れた中高生が、3泊か4泊、一般家庭にホームスティをして地元の学校に体験入学する計画です。そして、帰国の直前、全員に感想文を書いてもらうのが慣わしでした。記憶に鮮やかな女子中学生の例です。

「私が訪問団に選ばれて日本に行く事が決まったことを家族に報告した時、おじいちゃんがたいへん心配しました。怖ろしい鬼がいっぱい棲んでいるところで行くのだからくれぐれも気をつけよ。町には軍人があふれている。軍服を着ているから直ぐわかる。けっして隊列を離れてはいけない。出来る限り老師のそばに居て隠れよ。お前が無事戻ってくることを祈っている」。

だから私は緊張して日本に来ました。来てみて、おじいちゃんは夢を見ていたのかと思いました。軍人はただの1人も見当たりません。日本人はみんな親切で、訪問団を心から歓迎してくれました。

私を迎えてくれて、4日間一緒に暮らした名古屋の家庭は、お父さんとお母さん、私と同じ歳の女子中学生と小学生の弟の4人家族でした。

歓迎の夕食のあと、女の子同士2人で寝ました。私は、直ぐ、何年も前から一緒に住んでいるような親しみを覚えました。やさしい4人の家族に囲まれて楽しい4日間があっという間に過ぎました。

別れの日、玄関で、お母さんは泣きながら私を抱きしめて離しませんでした。私も涙があふれて止まりませんでした。

集合場所の名古屋駅には、お父さんの運転でみんなが送ってきてくれました。いよいよ別れの時、後ろの方で涙をこぼしているお父さんの姿が目に入り、私もまた涙がこみ上げてきました。

私は、中国に戻ったら一生懸命勉強して、将来、中国と日本の掛け橋になるような仕事につきたいと思います。」

 皆さんは、この感想文をどんな思いで聞いておいででしたか。

誠に厄介なことは、このおじいちゃんと女子中学生は、どちらも間違っていないという複雑さです。日中間のperception gap 意識格差は、複雑多岐に錯綜しています。>(続く)