2015年05月28日

◆イルカは幾ら?:消費税の使い道

MoMotarou



オークションで買ったゴッホの「ひまわり」だって、日本人じゃなかったらあの3分の1の価格で買えたと、外国ではもっぱら言われている。ーーー「無限の網」草間彌生著 芸術家 昭和4年(2929)生

                  ★

 <オークションで相手が日本人だとわかると、グルのサクラを使ってどんどん競り上げて、価格を釣り上げていくのが常識である。>(同上)

 今度はイルカ(海豚)かぁ。。色々起きてくるなぁ、というのが実感。

■イルカが札束に見える

和歌山県太地町(たいじちょう)の追い込み漁によるイルカの購入が問題に成った。水族館も「寝耳に水」であったろう。従軍慰安婦・南京大虐殺・化学兵器遺棄・Co2等、外交カード(強請ユスリの種)には事欠かない。

外務省は遊んでいたのでしょうか。お金で解決してきたから大きな損ですね。財務省は「消費税UP」には熱心ですが、この手の補助金は出し放題かと疑いたくなります。

■橋下大阪市市長辞任予定

予(かね)てより在特会を目の敵にしていた橋下市長は、住民投票での敗退を「機」に辞任する予定です。異常に「在特会」に喰って掛かったのは、大阪市在日朝鮮人等の利益団体の圧力でしょう。それぐらい大阪市自体が政治的に乗っ取られている。

和歌山県では在日朝鮮人の住民税が半額になっていた。韓国は戦後のある時期から在日の帰還を拒否。だから国外強制退去の犯罪人は「受け取らない」事になっている。犯罪人は日本に押し付けたままです。

■韓国財務部と会議

韓国が擦り寄ってきた。あの国に対しては「強腰」が有効であること。「在特会」諸君はよく頑張りました。麻生副総理はニヤニヤせずに厳しい姿勢を見せるべし。一銭も援助するな!国民は消費税UPに耐えている。日本を蔑視する国にはリベンジ(報復)をせよ。通貨スワップの話など無用!

 <麻生太郎副総理兼財務大臣と崔?煥韓国経済副総理兼企画財政部長官は、2015年5月23日に東京にて、第6回日韓財務対話を開催した。>財務省プレス・ガイドライン 第6回日韓財務対話 於:日本・東京
http://www.mof.go.jp/international_policy/convention/dialogue/20150523press_release.htm

■官僚は生き残れる

「貞観政要」を2年に亘り勉強して判ったことがあります。官僚公務員は、革命等が起きて新しい国や指導者が交代しても、「従順」であれば生き残れるということ。国家の運営に、当面必要だからです。占領期GHQが日本支配洗脳に利用しました。イラクでは米国が統治機構まで破壊してしまったからガタガタになった。

■国家意識の稀薄化

家族の解体を目指すのが「男女共同参画」の隠れた狙い。家族の解体は「国家の解体」に繋がります。男女共同参画法を作ったフェミニストは国連から影響を及ぼしました。反日サヨクは戦後70年に亘り準備をしてきました。頂点は民主党傀儡政権の3年間。

彼らが「いの一番」に強力に推し進めたのは「国籍条項」の撤廃でした。日本人でなくても日本を動かせるようにする。乗っ取り支配する。行政組織の「無国籍化」です。結果は日本人の奴隷化でしょう。

地方自治行政からやれば目立たない。東京が気がついた時には既に遅し。

■日本土人を富ませよ!

昨年4月、消費税は8%に上りました。街の大手安売り店では「外国人免税」のポスター貼ってありました。日本人には重税を課しながら、外国人には税金を安くする。違和感がある。日本は日本人の為にあるのです。

2015年05月27日

◆習近平の常務委員会の中枢は

〜王岐山と愈正声〜

宮崎 正弘 


<平成27年(2015)5月26日(火曜日)弐 通算第4552号 >

 〜そして中国共産党最高レベルの主流派がみえてきた
  習近平の常務委員会の中枢は王岐山と愈正声。これで『太子党』3人組だ〜

政権の座に就いて3年、「史上最弱の皇帝」といわれた習近平は着々と権力基盤を築いている。

王岐山はどちらかと言えば金融経済のエキスパート、まだ「救急車」という渾名があるように、リスクが出現すると、たとえば北京五輪直前の北京市長というリリーフを勤める。

米国との戦略対話も、王岐山が中国側代表だった。だから王岐山は当初、首相となって経済に専念するだろうと予測された。

ところが習近平は、この頼りがいのある兄貴分を「虎退治」の責任者に充てた。

習政権の掲げる『中国の夢』は抽象的で分かりづらいが、反腐敗キャンペーンは庶民からも喝采をあびて、腐敗分子が次々と失脚していく様子に大きな期待が集まる。

すでに高層の幹部ら400人前後が失脚した。
 
むろん、このやり方に党内の反発と上海派、守旧派の憤懣、怨念を招くが、王岐山は強行にキャンペーンを推進している。

「蠅も虎も容赦はしない」というわけである。

反腐敗は、実際上の権力闘争であり、終局の目的は江沢民率いる上海派を追い詰め、かれらが握った「鉄道」「石油」の利権を取り上げることに成功した。

次はまだ上海派が牛耳る『通信』と『金融』の利権争奪である。

また守旧派が握る『電力』の利権も、李鵬の娘、李少琳の側近等を拘束して、じわり追い込んでいる。

軍事方面では前号でも取り上げたように、副主席の氾長龍の一本釣りを試みて、軍事委員会の主流派である団派出身者と分断をはかりつつある。 また個人的に習の軍事戦略上のアドバイザーは劉源と劉亜洲で、この2人が「プライベートシンクタンク」だが、ともに太子党である。

太子党の権力基盤がしっかりと見えてきたのだ。


 ▼共産党最高権力は常務委員会だ

共産党の最高レベルは「政治局常務委員会」で、7人で構成されているが、この掌握である。

依然としてトップセブンのうち、4人が上海派だが、張徳江、劉雲山、張高麗をそれぞれ手なづけつつあり、張高麗をシルクロード構造の責任者に充てた。

宣伝担当の劉雲山には香港問題を担当させ、張徳江には厄介な北朝鮮問題を。

残る3人のうち、明確な団派は李克強首相だが、経済政策の立案という権限を半ば奪い、AIIB、BRICS、そしてシルクロード構造の3本柱は習近平の主流派が主導する体制となった。

ならば、政治局常務委員会はいかなるパワーバランスに変化しているのか。

「太子党」がトップセブンの中枢を押さえ込んだようである。つまり愈正声と王岐山は習近平と同じく太子党であり、たよりになる兄貴分たち。愈正声は上海派と見られていたが江沢民の影響力低下の流れに沿って、いつのまにか、習近平にべったりとなっていた。

やはり「太子党」という特権階級の結びつきが想像より強いということだろう。しかし反面で、太子党は党内の見えない恨みをかっていくこともまた事実であろう。

◆触れ回る韓国に米国でも“うんざり”

〜慰安婦問題〜

黒田 勝弘



先日、日本でのさる講演会で「韓国には疲れますよねえ。うんざりという感じですが、黒田さんは韓国に長くいて疲れませんか?」といわれた。日本でよく聞かれる質問だ。

韓国の執拗(しつよう)な反日現象に刺激され、日本で広がっている反韓、嫌韓感情の一端である。

安倍晋三首相の訪米に対する韓国の“妨害工作”も日本人の対韓感情をさらに悪くしたに違いない。歴史認識だろうが慰安婦問題だろうが、ともかく「日米関係になぜ韓国がしゃしゃり出て日本の足を引っ張るのか?」というのが大方の日本人の気持ちだろう。

で、先の質問に対する答えは「もちろん疲れるけれど、ぼくは韓国に住んでいて反日だけではない他の情報にも接しているので皆さんほどは疲れない。免疫もできているし。韓国人も反日だけで暮らしているわけではないし、それに日本は先進国ですから今も一方で“日本に学べ”という話が日常的には結構出ます。疲れても癒されるときがあるわけですよ」である。

ところが「韓国には疲れる」という話は実は日本だけではなく、米国でも出ているらしい。

韓国の新聞がワシントン発で伝えていたが、日本との首脳会談を拒否し関係悪化を続ける韓国に対し米当局者や研究者たちの間で「いい加減にしろ」という気分が広がっていて、それが「コリア・ファティーグ(韓国疲れ)」といわれているのだそうだ。

慰安婦問題を押し立て、日本に謝罪させようと米国で官民挙げて日本非難を触れ回っている韓国に、米国でも舞台裏では“うんざり感”が出ているというわけだ。

それでも“安倍たたき”に手ぐすね引いていた韓国マスコミは、無難に(?)終わった安倍首相の米議会演説に対して、相変わらず親韓派の米議員などを動員し批判のコメントばかり伝えていた。まるで米国全体が安倍演説を批判しているかのように。

安倍首相の訪米は日米同盟強化が最大目的だったが、韓国では米国と日本が仲良くすることが韓国の損であるかのような受け止め方がされていた。安倍首相のすることには何でも非難、反対する韓国マスコミの“安倍たたきキャンペーン”のせいだ。

日米韓協力体制の維持、強化を願う米国としてはこんな韓国の現実無視、現実歪曲(わいきょく)はさぞ頭が痛いだろう。

安倍首相訪米が終わり今度は朴槿恵(パククネ)大統領が6月中旬、米国を訪れるという。韓国マスコミの反日報道ではよく見られることだが、熱病のような日本非難が続いた後は決まって“マッチポンプ”的に冷静な声が登場する。

今回も来るべき「大統領訪米は“過去史外交戦”の舞台ではない」(16日付、朝鮮日報)「日本牽(けん)制(せい)が韓国外交の存在理由か」(18日付、中央日報)などとこれまでの歴史過剰に自己批判的な論評を出している。

朴大統領の父が決断した50年前の6月の日韓国交正常化には米国の強い勧めがあった。この6月の訪米で、もし日本のことを話題にするなら、そのあたりを想起しながら「お陰さまで韓国もここまで発展しました」と言って米国と日本の「韓国疲れ」を癒してほしい。
(ソウル駐在客員論説委員)

          産経ニュース【から(韓)くに便り】2015.5.24

                 (採録:松本市 久保田 康文)

           

◆日本サッカーの女子代表は

前田 正晶



25日に「女子代表のサッカーは何となく年々弱くなっていったかの感がある」と題して、対ニュージーランド代表との試合の感想を述べた。私は「弱くなった」か「強くなった」かは相対的なことでもあり、何を基準として、何を対象にするかが明らかでないと「弱くなった」と決めつけるのはフェアーではないのかも知れないとすら考えている。

上記の「相対的」という点では、私は残念ながら2006年7月に73歳で亡くなった日大フェニックスの監督だった篠竹幹夫氏の言われたことが忘れられない。

言うまでもないとは思うが、故篠竹氏はフェニックスを44年率いた大監督で、未だに他大学が達成できていない社会人ティームを退けて、1988〜1990年間にライスボウル(日本選手権である)の三連覇を達成されていた。

しかしながら、フェニックスの黄金時代も1990年で終わったかの感があり、それ以後は暫く大学選手権である甲子園ボウルへの出場もままならない時期があった。

その不振の時期に篠竹氏の話を聞く機会があった。彼は「フェニックスが弱くなったという声があるがそれは正しい見方ではない。うちはずっと同じ場所に止まっているだけで、その間に他所の大学がうちより強くなってきただけだ」と言われたのだ。

意外だった。あの強気で闘争心溢れる篠竹氏の言とも思えなかったからだ。しかし、良く考えれば篠竹氏は冷静に客観的な情勢を把握しておられると思わずにはいられなかった。

この頃には確かにそれまではフェニックスの敵ではないかと思われていた諸々の大学が法政大学・トマホークス等を中心にして続々と強化策を講じて、フェニックスを追い抜き始めていたのだった。

長い導入部となったが、ここまでで私が「日本の女子代表が弱くなってしまった」という論拠をお解り頂けたと思っている。即ち、澤や宮間に代表されるWは優勝組はあの頃以上には、数名の例外を除いては、成長した者が極めて少なく、混成代表ティームとしてはずっと同じ場所に止まっていた感があるのだ。言葉を換えれば、澤も宮間もディフェンスの4人も成長の頂点に達していたのではないかということだ。

一方、思いもかけなかったアジアの代表だった我が国の代表にW杯を獲られた欧州と南米勢は「これはいけない」と奮起し、アジアで何時でも我が国を不倶戴天の敵と見なす韓国勢も黙ってはおらず、オセアニアの強豪・オーストラリアとても思いは同じだったのではないか。

そこで彼等は徹底的に我が代表のスカウティングと言うか分析を開始し、「出る杭を打とう」作戦に出てきたと私は見ている。

その端的な表れというか結果というか、あるいは成果というか、アルガルペ杯では何と彼女たちは私も予想できなかった9位という惨敗に終わったのだった。

厳しい見方をすれば、最早成長しきった中心選手になでしこリーグでの優秀選手を加えたメンバーでは「優勝以来同じ場所に止まっていた」ことになっていたのだった。他国は3年半も経てば3歳相当分も成長していたのではなかったか。

私がここでこのようなことを論じるまでもなく、協会も佐々木監督も我が代表が如何なる危機に直面しているかは先刻ご承知だろう。私は佐々木監督が1年間澤を代表から外していたのは意図的であり、後進の奮起を期待していたのか、あるいは澤を外せばどうなるかをティーム内にも自覚させようとしていたのではと疑っている。

以上述べてきたことを綜合すれば、既にお気付きの方もおられると思うが、私は現在の女子代表ティームは余程二線級が奮起して短期間に急成長しない限り、W杯二連覇どころか16強以上に上がっていくのは簡単ではないと懸念せざるを得ない。

それは、あの「11人」は既に研究し尽くされたので、諸国のそのスカウティング・ブックに詳細が載っていないかも知れぬ連中が動き回れば、欧州と南米勢を攪乱できる可能性が出てくると思うからだ。そこにチャンスが生まれる可能性を見出すのだ。

(主宰者より:前田さんから26日午後電話があり、心臓の関係で26日国立病院に緊急入院されました)

2015年05月26日

◆中国軍の実質トップに氾長龍が急浮上

宮崎 正弘 



<平成27年(2015)5月25日(月曜日)通算第4550号 >
 
〜中国軍の実質上のトップに氾長龍(副主席)が急浮上
         習近平の「軍事外交」の姿勢強調で、世界の顔になってきた〜

先週、ケリー米国務長官が訪中の折、中国人民解放軍を代表して会見したのは氾長龍だった。

氾長龍は党中央軍事委員会副主任で、形式上の主席は習近平だから、実質的には軍のトップである。

直前、モスクワの戦捷70周年軍事パレードへも、習近平に随行してロシア入りした。秋の習訪米でも、この氾長龍が随行(事実上は先乗り)することが発表されているほか、年内のインド訪問も予定されている。

彼はミャンマーも訪問しており、インド訪問は2回目となる。

氾長龍は軍事委員会副主任だから、許基亮と並んで実質的な軍のトップ、氾と許は、中央政治局委員でもある。

従来、軍の10名の軍事委員会メンバーのなかで明らかな団派は、許基亮、房峰輝ほかと考えられ、氾長龍は「中立だが、団派に近い」と拙著『中国を動かす百人』(双葉社)でも、指摘したが、過去2年の動きから、氾は最も習近平に近いことが歴然としてきた。

習近平から信頼を置かれたのは、仮令、胡錦涛による人事だったとはいえ、団派に一定の距離をおき、上海人脈の軍人とは遠い関係だったことが幸いしたといえる。

氾は1969年に入隊し、軍人として一歩一歩たたき上げ、習が福州党軍事委員会第一書記の頃からのつきあいがある。

 ▼中国人民解放軍は窯変したのだろうか?

米国国防大学の「中国軍事研究センター」フォローの黄叡雅(アレキシス・デール・ホアン)女史に拠れば「最近の中国軍は国際的な場面に頻繁に登場するようになり、そうした国際化に理解を示す軍人トップとして氾長龍が重宝され始めた」と分析している。

この黄色女史の分析は注目されている。

「軍事外交の新段階にはいった中国は外国の軍との交流(相互訪問、共同演習)を外交の根幹に位置づけており、中国の安全保障の維持に軍事外交こそが重大な役割を果たすと習近平が演説しているところからも、外交とセットになっている」

事実、中国軍の外国軍との共同軍事演習は2006年までゼロ、07年に5回行われ、2013年と14年は各々7回となった。

とくに「2014年以後は「人道支援」と「災害救助」が本格化し、MH370便の諸外国との共同捜索作戦から、アセアン、ロシア、ニュージーランドなどとの国際連携、いまでは中国軍の共同演習が、全演習の65%を占めるまでになった」(チャイナハンド、4月12日号)。

しかし、このように俄な中国人民解放軍の窯変は何時まで続くのだろうか?
 

(註 氾長龍の「氾」には草冠。黄叡雅の「叡」は「おおざと」をとる)

◆戦に備えて軍事演習花盛り

平井 修一


「戦略論」にてマキャベリ曰く――

「新しいことに直面すると、将兵たちは度を失う。それ故、将兵たちに新戦略を飲み込ませるには、小競り合いのような機会を与えてやり、慣れさせるとよい」

「予測しなかった事故は、立ち直るのに非常な困難を伴う。だが、あらかじめ考えに入れておけば、たとえ不意を襲われたとしても、容易に立ち直 れるものである」

たとえ平時でも備えあれば憂いなし、軍事演習でフォーメーションプレーを身に付けるのだ。プーチンお抱えスプートニクニュース5/15「軍人はスポーツ選手のように訓練すればいい」から。

<最近のニュースは、アジア太平洋地域の国々を含む様々な国の軍事演習についての知らせで溢れている。

韓国は、日本と領有権を争う日本海に位置する竹島(韓国名:独島)の防衛訓練を行った。伝えたところによると、14、15の両日、海軍と沿岸警備 隊が、仮想敵の船舶や航空機による領海侵犯や領空侵犯を防止するための 共同行動に関する訓練を実施した。

北朝鮮は今週、韓国との海上の境界線に近い黄海で射撃演習を実施する方針。

南シナ海では12日、日本とフィリピンが初の合同訓練を実施した。訓練には日本の駆逐艦2隻とフィリピン海軍の艦船1隻が参加し、敵の艦船との予期せぬ衝突に関する訓練が行われた。

日本とフィリピンの協力は、共同訓 練の枠内にとどまらない。フィリピンは今年末までに日本製の巡視船10隻 を受け取る予定だ。

現在、ロシア太平洋艦隊の海軍航空隊は、日本海とオホーツク海で対潜演習を実施している。訓練飛行の過程で、太平洋艦隊の艦船だけでなく、東部軍管区の航空隊や部隊、極東の治安機関との共同作戦も訓練している。

地中海では5月17−21日まで、ロシアと中国の合同演習の活発な段階である「海上協力―2015」が行われる。さらに8月には日本海で露中軍事演習が実施される。

ロシアと中国は合同演習について、他国を対象としたものではなく、いかなる地域の政治情勢にも関連していないとの声明を繰り返し表しているが、外国の専門家たちは、予定されている演習について、西側に向けられたものであるとの確信を示している。

ロシアはこのような形で米国に、米国の「努力」にもかかわらず、ロシアが国際的に孤立していないことを示し、中国はこのような形で、米国と日本の軍事協力の強化に反応している。

スポーツマンにトレーニングが必要なように、軍人にも訓練が必要だ。しかし、世界では軍事演習が増えているような印象を受ける。これは何と関連しているのだろうか?

ラジオ「スプートニク」からのこの問いに、軍事専門家で、ロシア科学アカデミー極東研究所の研究員でもあるアナトーリー・クリメンコ氏は、次のように答えている。

「これは予め定められた計画によって行われるルーティーンで、通常の軍事訓練だ。しかしこれを計画する人々は、複数の目的を追求している。

一つは、部隊、海軍の隊員、航空機の乗組員などが戦闘に近い状態で行動する訓練を行うことや、演習時に様々な国の兵士や将校たちに共同行動を教えること。

2つ目の目的は、必要な場合にこの共同行動をデモンストレーションすること、可能性を示すこと、そして訓練の質だ。これらの目的が混ざり合ったものが、様々な国と部隊によるこのような種類の合同演習の基盤となっている。

演習の頻度だが、これは世界の軍事・政治的状況が今、非常に多様であることで説明がつく。これは特に中東での出来事、米国と中国の競争、ウクライナに関する米国とロシアの対立などだ。

日本と中国の関係や、フィリピンと中国の関係には、領有権争いの要素も含まれている。この場合、日本とフィリピンはこれらの訓練で、中国に共同行動の用意があることを示しているが、これはまず政治の場においてのことだ。

ご存知のように、十分な軍事力に支えられている時、あらゆる政治行動が効果的となる。このように、これら全ての要素は、自国の国益を守るために、各国に軍事演習に大きな注意を払うことを余儀なくさせている」

19世紀のドイツの哲学者で軍事学者のクラウゼヴィッツは、「戦争とは他の手段を以ってする政治の延長である」と述べた。これは今も軍事作家や歴史学者たちによって頻繁に引用されている。

しかし、それに続く「政治的に強い相手は、戦争を必要としない。彼は、自分の目的を達成するための別の手段を知っている。軍事的優位性のゲームで勝負の決着をつけることは、政治的弱さの証拠である」という言葉を忘れている人が大勢いる。

軍人は訓練をしてもかまわない。ただ、それは、体型維持のために行えばいい>(以上)

「軍事的優位性のゲームで勝負の決着をつけることは、政治的弱さの証拠」って・・・まさにこれは東西で中露ファシストがやっていることだ。習とプーチンは総スカンを食らって四面楚歌。習・プーチンVS国際社会の構図だ。対外政治力を弱めさせており、経済も具合が悪くなってきた。弱り目に祟り目。

演習は肥満防止の体型維持や筋トレのためではない。

(米英独露中韓では軍人の肥満が大問題になっているが、ロシア軍でも将校の3分の1が肥満、4分の1が体力テストで不合格だそうだ)

抑止力、攻撃力を高め、敵が戦争を仕掛ければかなりの出血を強いられることを理解させることにある。中露のファシストとイスラム原理主義者が国際秩序をサラミ戦術で脅かしているから、各国が警戒し、戦闘能力を高めている。

パワーバランスが崩れると強い国は「自衛のために」攻撃を仕掛ける。プーチンの戦争も「ロシア語の人々を救うため」の自衛戦争だ。南シナ海で暴れる習近平も「自国領土を守るため」の自衛戦争だ。つまりは自衛かどうかということはまったく意味がない。ひたすら国益のために戦争は起きるのだ。

それにしっかり備えるために演習する。

マキャベリ曰く「優れた指揮官ならば、次のことを実行しなければならない。第一は、敵方が想像すらもできないような新手の策を考え出すこと。第二は、敵将が考えるであろう策に対して、それを見破り、それが無駄に終わるよう備えを完了しておくこと、である」。

世界は戦争前夜。まことに笹川良一氏の教える「戸締り用心 火の用心」が大切なのだ。(2015/5/16)

◆「侵略」という言葉が生む思想的混乱

伊勢 雅臣



〜 福田恆存『人間の生き方、ものの考え方』を読む

「侵略と言うのはなぜ悪いの?」と聞いたら、学生は困った顔をしていた。

■1.「安倍さん『侵略した』と言ってほしい」

朝日新聞デジタル版は、本年3月9日付けの記事で、次のように報じた。

「安倍さん『侵略した』と言ってほしい」 北岡座長代理

戦後70年に合わせた安倍晋三首相による「安倍談話」について検討する「21世紀構想懇談会」の座長代理で、国際大学学長の北岡伸一氏は9日、東京都内で開かれたシンポジウムに出席した。講師の一人として参加した北岡氏は首相の歴史認識に関して、「私は安倍さんに『日本は侵略した』と言ってほしい」と述べた。

北岡氏は「日本全体としては侵略して、悪い戦争をして、たくさんの中国人を殺して、誠に申し訳ないということは、日本の歴史研究者に聞けば99%そう言うと思う」と指摘した。・・・[1]

この記事を読んで、「どうもおかしい」と感じた。東大名誉教授で元国連次席大使まで務めた識者が、首相を「安倍さん」などと朝日流に呼んだり、「侵略して、悪い戦争をして、たくさんの中国人を殺して」などと、かつて「百人斬り」捏造記事を書いた本多勝一・朝日新聞記者[a]並みの粗雑な表現をするだろうか。

北岡発言に関しては、朝日から一部、訂正記事も出ているが[2]、真相は闇の中だ。しかし「安倍さん『侵略した』と言ってほしい」と思っている左傾マスコミが少なくないことは確かである。

歴史プロパガンダ「従軍慰安婦」「百人斬り」「南京大虐殺」「沖縄住民自決命令」の嘘を暴く。週刊メール入門講座「歴史プロパガンダとの戦い」開講 by 国際派日本人養成講座 http://bit.ly/1IVRk4D

■2.「侵略と言うのはなぜ悪いの?」

このニュースで、最近、読んだ本の一場面を思い出した。評論家・劇作家・演出家など多彩な活動をしていた福田恆存(つねあり)のもとに、ある学生が訪ねてきて、アメリカの侵略主義やら、帝国主義だとか、さんざん喋った時のこと。

{私もその時疲れていたので「侵略主義と君が言っているのを聞いていると、何だか悪い事みたいだね」と言ったら、呆気(あっけ)にとられた顔をして「いいことですか」と言う、「いや、いいことではないけれども、侵略と言うのはなぜ悪いの」と聞いたら困った顔をしておりました。

侵略と言うのは果たしていいのか悪いのかという価値観をよく考えないで、侵略主義などという言葉を使うところに問題があるのです。}[3,p25]

昭和37(1962)年に行われた講演だから、もう半世紀以上も前の話である。それにしても、「侵略と言うのはなぜ悪いの」などと考える事も無く、安倍首相に「侵略の反省」をさせたがる現代の左傾マスコミを見ると、半世紀前の大学生と同じレベルでしかない事が分かる。


■3.「侵略」というレッテル貼り

「侵略と言うのは果たしていいのか悪いのか」という設問に根本から取り組んだ論考が、長谷川三千子・埼玉大学名誉教授による産経新聞「正論」欄に寄せた一文である。[4]

長谷川氏は「侵略」という言葉が、第1次大戦で、戦争の原因をもっぱら敗戦国ドイツだけに負わせ、巨額の賠償を支払わせるために登場したという経緯を述べている。その後、「侵略」を客観的に定義づけしようという努力はなされたが、国際的合意には至っていない。

{つまり、「侵略」という言葉は、戦争の勝者が敗者に対して自らの要求を正当化するために負わせる罪のレッテルとして登場し、今もその本質は変わっていないというわけなのです。

この概念が今のまま通用しているかぎり、国際社会では、どんな無法な行為をしても、その戦争に勝って相手に「侵略」のレッテルを貼ってしまえばこちらのものだ、という思想が許容されることになるといえるでしょう。}[4]


敗戦国の日本を「侵略」の罪で裁くことは、第2次大戦後に行われたが、そこでは戦勝国アメリカによる原爆攻撃や、ソ連による中立条約違反かつ日本降伏後の北方領土侵攻などは不問にされている。現代においても、中国がチベットやウイグルに武力侵攻し、住民に蛮行を行っている事は「侵略」とはされていない。

要は、喧嘩に負けた方が、リンチ裁判を受けて、いつまでも「前科者」とレッテル貼りされているようなものなのである。


■4.特定の立場に立った言葉として独自の働き

福田恆存が、「侵略と言うのはなぜ悪いのか」と意地悪な質問をしたのは、次のような考えからである。

{・・・資本主義、権力、支配階級、侵略主義というような言葉が、特定の立場に立った言葉として独自の働きをもって使われていることにも注意していただきたいと思います。これらの言葉はマルクス主義というものを考えなければ出て来ない。極端な言い方をするとマルクス主義の方言であります。

ところがマルクス主義者でない、もっと一般的な人々がそのことには全く無関心にこういう言葉を使っているわけです。

マルクス主義者の言葉というのは、プロレタリア革命を起すということを前提として作られた術語であります。従ってその言葉は革命を起すのに都合のいいようにして ・・・全部こしらえてあるのです。[3,p23]


「侵略」という言葉の意味を自分自身で考えずに、「『侵略した』と言ってほしい」などと語る人間は、すでにその言葉に洗脳され、自由な思考が出来なくなっているのである}。

人間は言葉によって物事を考える。一部の言葉には、ある一定の方向に人間を誘導しようという魔術がかかっている。そんな言葉を使ったら、その人間の思考もねじ曲げられてしまう。前述の福田恆存の講演は、日本の思想的混乱を論じたものだが、それを言葉の問題から論じ始めたのは、この考え方からだ。


■5.大工道具と電動工具

福田恆存は、言葉は道具である、という説に賛成する。しかし、その道具とは、誰が使っても同様の効果が得られるもの、という意味ではない。福田は大工道具を例に、こんな経験を語る。

「これは私の子どもの時の経験ですが、私の家で普請をやって大工が鋸だの飽だのを持って参りました。職人が食事に行っている時、私はこっそりそれらの道具を使ってみたのです。ところが職人が帰って来るとそれがすぐ見つかってしまいました。

自分の手慣れた道具を、素人の子供が使えばどこかに狂いが生じる、それは職人たちが自分でそれを使ってみるとすぐにわかるのです。何も左甚五郎のような名人ではなくても、大工で飯を食っている人間なら必ずわかる筈です。

それらの道具は、その機能を最もよく発揮できる状態にあった。しかし素人の私が使ったために狂いが生じたのです。すなわちその鋸がどのように使われれば最も機能的に働くかということは、その持主である大工さんが一番よく知っているし、その大工さんが使うのに一番いい状態にある事が最も機能的であるといえるわけです」。[4,p14]

熟練の大工が「手慣れた道具」を使って家を建てるように、我々は自分自身で使い込み、手に馴染んだ言葉を使って、自らの考えを組み立てねばならない。それが人間の自由な思考である。

それに比べれば、「侵略」とか「権力」、「支配階級」などという言葉はチェーンソーや電導ドリルのようなもので、未熟練工がプレハブ住宅を大量に効率よく作るには適しているが、熟練職人が腕を振るい、精魂込めて一軒の家を作るというわけにはいかない。


■6.「もったいない」という言葉に潜む文化感覚

「手慣れた道具」という意味で、福田が例に挙げているのが「倹約」という言葉である。

「私たちは子供の頃修身でよく倹約という美徳を教わりました。進歩的な考え方、ことにマルクス主義的な考え方からすると、倹約を道徳の徳目として教えるのは支配階級が自分の支配に都合のいいように、被支配階級を貧苦の内にとじこめて置く為のものだと言うことになります。

しかし私は必ずしもそういうことで片づくとは思いません。そもそも倹約とは物自体を尊ぶという事なのです。例えばよその家で出された食事を残すと「もったいない」と考える。

それは第一にその食物に食物としての本来の機能を発揮せしめなかったから「もったいない」 のです。第二にその食物を作ってくれた相手の家の人の誠意を十分に受けとめ得なかったという意味で「もったいない」わけです。

このようにすべて物質の中に何か心を見て行くというのが日本人の本来の生き方です。そういう点で、一種の美意識というか、文化感覚というか、そういうものが私たちの中に自ずからに備わっていたのです。従って私たちは物を粗末にすることに心の醜さを感じるのです」。[4,p19]

「もったいない」とは、「勿体」、すなわち物の本来の価値を十分に生かせずに申し訳ないと思う気持ちを表す。和英辞書を引くと、"wasteful"という単語が充てられているが、これは「経済的に無駄が多い」という効率性の概念で、日本語のような倫理的な罪悪感は込められていない。


■7.イタリアでの「もったいない」

イタリア在住の知人から聞いたが、あちらのレストランでは、一人前頼んでも食べきれないほど出てきて、残しては「勿体ない」ので、どう注文するのか、日本人は皆、苦労しているという。

イタリア人の客を見ると、上流のレストランでは子どもでも一人前注文し、食べきれない分は盛大に残していく。自分で金を払って注文した以上、食べるのも残すのも自分の勝手だと言う感じとの由。

その知人は、夫婦でレストランに行くと、フルコース一人分を二人で分けて食べると丁度良いのだが、そもそも一人分の皿を二人で分けて食べることがテーブルマナーに外れてるので、店の人もいい顔をしないし、単にケチなだけだと思われて、やりにくいらしい。

その知人の推察では、もともとイタリア料理は王侯貴族向けのもので、大量に振る舞い、残ったら使用人たちが勝手に食べれば良い、という伝統があるのでは、と言う。

イタリア北部のアルプスに近い地方では、うさぎを食べる習慣がある。これは民衆料理で、領主が牛や鹿など大型動物は自分たちで食べるので、民衆には食用を禁じたため、農民たちは隠れて兎を育てて食べていた。

こういう階級社会では、倹約とは「支配階級が自分の支配に都合のいいように、被支配階級を貧苦の内にとじこめて置く為のもの」という説明も、多少は頷けるのである。


■8.日本人の生き方に根ざした言葉を

それに比して、我が国では、皇室からして慎ましやかな生活を美徳とし、食べ物ても衣類でも「勿体ない」と大切に使ってきた。たとえば、明治天皇は10万首近い御製(お歌)を残されたが、それらは用済みの文書の裏などに書かれた。昭和天皇は、幼い頃、養育係だった乃木大将から「つぎのあたった服を着るのは恥ではない」と教えられて育った。[b]

現代日本人も「勿体ない」という言葉を使う事で、「物を粗末にすることに心の醜さを感じる」という先祖からの文化感覚を知らず知らずに身につけているのである。

私たちの家庭で父親や母親が話している言葉、私たちがそれを聞いて育ってきた言葉は、本来の日本人の生き方に根ざした、身についた言葉です。・・・

しかし、親と通じない言葉を使っていて、それが一体どうして身につくかという事を考えざるを得ないのです。もし自分が本当に民主主義という言葉を理解したならば、芋の煮えることにしか関心のないお婆さんにこれが話せないわけはない。[3,p36]

「勿体ないから、物を大切に使わなければ」と言ったら、お婆さんにもすぐ伝わる。環境保護活動家として初のノーベル平和賞を受賞したケニアのワンガリ・マータイ女史は、日本で「もったいない」という言葉を知り、「Mottainai」キャンペーンを展開した。こういう言葉からこそ、我々の文化感覚に根ざした思想が育ちうる。

現代日本における思想的混乱は、我々の文化感覚から絶縁した言葉を無自覚的に使っている所から来ている。福田恆存は半世紀も前から、この問題を警告していた。当時、ほとんどのマスコミが左傾している中で、福田恆存は多勢を相手に、一人で孤独な戦いを続けていたのである。

それから50年経ったが、冒頭の「安倍さん『侵略した』と言ってほしい」などという記事を見れば、思想的混乱はまだまだ続いているのは明らかである。福田恆存は、草葉の陰で「まだこの態様(ざま)か」と地団駄踏んでいるのではないか。

現代の思想的混乱は、我々国民一人ひとりが乗り越えていかねばならない課題である。そのためにも『人間の生き方、ものの考え方 学生たちへの特別講義』[4]は福田恆存が大学生を対象にした読みやすい講義録であり、絶好の入門書である。


演題 「父、福田恆存を語る ー戦後思潮の中にあってー」
講師 福田逸氏(演出家・翻訳家、明治大学教授)

第18期 第27回 国民文化講座
日時 6月13日(土)午後1時半〜4時20分
場所 靖国神社「靖国会館」
参加費 1500円、学生500円
主催 公益社団法人 国民文化研究会
電話 03−5468−6230

『人間の生き方、ものの考え方』より

《 個人も、過去というものを失ったら人格喪失者になる。・・(略)国家も過去の歴史というものを否定するようになれば、その国家がなくなったということになる。だから、革命が起って全過去が否定されると、その国家は消滅して、別の国家がそこに生じたということになる。

そうなれば、その構成員である個人も大変です。今まで過去の日本の歴史に背負われて来たわれわれは、どうしていいのか分らなくなる。個人も存立できなくなってしまう。そういうように国家と個人は密接につながって離すことができないものなのです。

過去を保持するということ、その一貫性、連続性というものによって、個人の場合には一つの人格を持ち得るのです。国家もそれを保持することによって、国柄、国体というものを保ち得るのです。これを否定したらもうすべておしまいです。諸君にしてみれば生まれる前の戦争ですが、あの戦争を境にして、この一貫性、連続性はかなり危なくなった。・・(略)

われわれの場合は、まだ過去を保持していますし、経験として過去を背負っている。あるいは過去に背負われているからいいのですが、諸君の場合は何とか努力して、過去を経験しなければだめだと思います。》
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


■リンク■

a. JOG(028) 平気でうそをつく人々 〜 「百人斬り」の虚報はいかに創作されたか
 戦前の「百人斬り競争」の虚報が戦後の「殺人ゲーム」として復活した。
http://blog.jog-net.jp/199803/article_1.html

b. JOG(792) 国史百景(4) 昭和天皇をお育てした乃木大将
 昭和天皇:「私の人格形成に最も影響のあったのは乃木希典学習院長であった」
http://blog.jog-net.jp/201303/article_8.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 朝日新聞デジタル『「安倍さん『侵略した』と言ってほしい」北岡座長代理』、H27.3.9
http://www.asahi.com/articles/ASH395JYRH39UTFK00M.html

2.GOHOO「北岡氏「侵略戦争」発言報道は不正確 朝日訂正」
http://gohoo.org/15031601/

3.長谷川三千子「歴史を見る目歪める『北岡発言』」、産経新聞、H27.3.17
http://www.sankei.com/column/news/150317/clm1503170001-n1.html

4. 福田恆存『人間の生き方、ものの考え方 学生たちへの特別講義』
★★★、H27、文藝春秋
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4163942092/japanontheg01-22/


2015年05月25日

◆平和憲法は「属国憲法」の言い換え

加瀬 英明



安倍首相がうっかり口を滑らしたのか、自衛隊を「軍」といったために、国会で叩かれた。

だが、吉田首相が日本の独立回復から、3ヶ月後の昭和27年7月31日に、「保安隊は新国軍の土台となる任務を持つ」と述べた時は、国会で問題とならなかった。

吉田首相はまた翌年11月3日に、衆院予算委員会において、「自衛隊は戦力なき軍隊だ」と発言したが、野党が揚げ足をとることがなかった。

日本国民なら、誰でも自衛隊が限りなく軍に近いものだと、思っていよう。

女性議員が「八紘一宇」といったところ、国会で叩かれた。

「八紘一宇」は、『日本書紀』にでてくる言葉だ。『日本書紀』がけしからんと、いうのか。

いつ、日本の国会は韓国の国会となったのだろうか。

どうして、62年前に首相が保安隊や自衛隊を「軍」だといって、問題にならなかったのに、いまになって非難されるのだろうか。

安倍首相が戦後70周年の談話をめぐって、苦悩している。

国民の中にも、日本が先の大戦でアジアを侵略したといって、反省を繰り返すように求めている者が、少なくない。

4月に、インドネシアでアジア・アフリカ(バンドン)会議60周年を記念して、首脳会談が催された。

10年前に、小泉首相がバンドン会議の50周年を記念して催された首脳会議で、「痛烈なる反省と心からのお詫び」と、演説した。

60年前のバンドン会議の翌年の昭和31年3月8日に、鳩山一郎内閣の重光葵外相が参院予算委員会で、「太平洋戦争によって、日本は東南アジア諸国の独立に貢献した」と、述べている。

もし、岸田外相が同じ発言を行ったとしたら、どうなることだろうか。

このところ日本は、中国と韓国の顔色を窺って、戦々兢々としている。

昭和49年1月24日に、田中角栄首相は「日本の朝鮮半島統治は、韓国民には有益だった」と、発言した。国会でも国内でも、まったく異論が出な
かった。

日本では先の大戦の記憶が風化するに従って、国民が正気を失うようになっている。

日本が独立を回復した後には、まだ先の戦争の記憶が生きていたから、国民が多分に正気を保っていた。

天皇皇后両陛下が、4月にパラオに行幸啓された。

海上保安庁の巡視船にお泊りになられたが、なぜ、海上自衛隊の護衛艦をお召艦とすることができないのか。

陸海空自衛隊には「総理大臣旗」があるのに、「天皇旗」がない。どうして「総理大臣旗」があって、「天皇旗」があってはならないのだろうか。

私はこの問いに、答えられる。日本が昭和27年に対日講和条約によって、一応、独立を回復したにもかかわらず、いまだに精神的な独立を回復することができないからだ。

多くの心ない日本人が、「平和憲法」を後生大事にしている。正しくいえば、「属国憲法」だ。「軍」を「自衛隊」といっているのも、「属国」を「平和」といい替えてきたのも、同じ亡国根性によるものだ。


◆岸/安倍3代の在日人脈

平井 修一



20年ほど前に、福岡での取材を終えた後、東京への途次、山口県のサンデン交通を取材することにしていた。この会社の前身は「山陽電気軌道」、略してサンデン。大正13/1924年に設立され、山口県下関市において路面電車を運行していた。路面電車の全廃後、社名はサンデン交通と改称されてバス会社となったという。

この会社の旅行部門は革新的な事業を研究していたので、「さすが維新を率いた長州藩だなあ」と感心していたのが取材動機だったが、博多から新幹線で新下関に向かったら停車しなくて慌てた。社内の公衆電話から取材ができなくなった旨を伝えたものだ。

当時、小生は「ひかり」と「こだま」が急行と鈍行であることさえ知らなかった。無知は失敗を招くが、岸〜安倍3代が在日とかなり近しい交際を続けていたことも意外だった。

ジャーナリスト・李策氏の取材・文「【日韓国交50年】岸信介から安倍晋三まで…首相一族の『在日人脈』と『金脈』」(デイリーNK)の要約から。

<■地元・山口県と韓国にまたがる「王国」を築く

手元に、1冊の写真集がある。タイトルは「関釜フェリー就航記念アルバム」。1970年に編纂された非売品だ。当時から在日本大韓民国民団(以下、民団)の活動に関わってきた下関在住の在日コリアン(以下、在日)2世の男性は、「ごく限られた人々に配布されたのでしょう。私も初めて見るものだ」と驚く。

1965年に国交正常化した日韓両国にとって、韓国・釜山との間を往復する関釜フェリーの就航は、新時代の訪れの象徴だった。アルバムの70枚を超える写真からは、当時の興奮がひしひしと伝わってくる。

その中に、山口県を地盤とする2人の政治家の姿がある。国交正常化の立役者となった元総理の岸信介、そしてその娘婿であり、安倍総理の父でもある晋太郎だ。日韓協力委員会初代会長の岸の名は、アルバム巻末の関係者名簿の筆頭に掲げられている。

岸と晋太郎、晋三は三代にわたり、朝鮮半島、そして在日の人々ときわめて密接な関わりを持ってきた。下関の街を歩くと、その縁の深さを示す手掛かりがいくつもみつかる。

JR下関駅から車で5分。関門海峡に面した所に、室町から江戸時代にかけ日本を訪れた外交使節団「朝鮮通信使」の記念碑が建っている。2001年、地元政財界の有志が建立したもので、碑の裏には晋三の名も刻まれている。「朝鮮通信使上陸俺留之地」と揮ごうした韓国の金鐘泌元首相は、岸や晋太郎と親交を結んでいた。

父親が晋太郎の支援者だったという在日2世のパチンコ店経営者は、「金元首相が下関に来たときには、私の父や地元の民団幹部が晋太郎さんといっしょに食事をしていた」と懐かしむ。

下関駅前のコリアンタウン「グリーンモール商店街」には、64年間営業を続ける食堂「アリラン」がある。晋三が常連で、店内には本人が「福」と墨書した色紙や、昭恵夫人といっしょに訪れた際の写真が飾られている。

在日1世の店主、鄭順さんは話す。

「(晋三は)奥さんとふらりとやってきて、ホルモン鍋を食べて行く。偉くなってからは、店がボディーガードであふれたこともあった。最近は忙しいからか姿を見せないけど、本当に気さくでいい人」

*韓国情報機関と旧日本軍人脈

1993年までの中選挙区時代、岸は生家のあった山口市を含む旧山口2区を、晋太郎は郷里・油谷町(現長門市)や下関市などからなる旧山口1区を選挙区としていた。

その後、小選挙区比例代表並立制に移行してからも、下関と長門(山口4区)は晋三の地元だ。

下関の地名は、在日にとって特別な響きを持っている。戦前戦中には関釜連絡船が年間200万人を運び、半島から労働力として送り込まれた人々が、後に在日コミュニティーを築いた。戦後は故郷に帰る人々を送り出す一方、朝鮮総連と民団が凄惨な抗争を繰り広げたこともあった。

現在、下関市に暮らす在日外国人のうち、韓国・朝鮮籍は約2900人。留学生なども含まれる数字だが、大多数が戦前に渡ってきた人とその子孫だ。

下関市の全人口(約27万人)に占める在日の比率は1パーセントで、全国平均(0.4%)の倍以上だ。日本国籍を取得した人とその家族を加えれば、下関の在日人口は万を超える。

そんな土地柄にあって、地元選出の政治家と在日の関係が深まるのは何ら不思議なことではない。

だが、現地を取材する中で改めて見えてきたのは、岸から晋三に至る三代の政治家が、「単なる近所づきあい」ではくくれないほど、在日社会と深い因縁を結んでいる事実だった。

日韓国交正常化からこれまでの間に、韓国経済は世界でも稀に見る高度成長を遂げた。その“元手”となったのが、国交正常化に際して日本が提供した無償3億ドル・有償2億ドルの経済支援であったのは論をまたない。

1961年5月、クーデターで政権を掌握した韓国の朴正熙少将(後に大統領)は、1951年に予備会談が開始されて以来、10年以上にわたり難航していた日韓国交正常化交渉を一日も早く妥結させ、日本の賠償金で経済復興を成し遂げることを急務としていた。

交渉打開の糸口を探るため、韓国中央情報部(KCIA)が頼ったのが、海軍特務機関出身の児玉誉士夫や、戦時中に上海で「大陸新報」を発行していた、国策研究会常任幹事の矢次一夫だった。

*日韓漁業協定で繁栄した下関

満洲国の元高官だった岸は、そうした人脈の仲介でKCIA幹部の崔英沢と赤坂の料亭で面会。(岸は)ふたつ返事で協力を約束し、政界の根回しに動いた。

そういった経緯を考えれば、岸は韓国経済にとっての「大恩人」と言えるのかもしれない。

しかしその一方、岸が日韓国交正常化を踏み台に、地元・山口県と韓国にまたがる「王国」を作り上げた事実はあまり語られていない。

ある週末の夜、下関の繁華街・豊前田の通りを歩いた。飲み屋街も人影はまばらで、地元経済の衰勢は覆いようもない。

「昔はこんなんじゃなかった。漁船員や水産関係者が落とすカネだけでもたいへんなものだったし、東京や大阪からの出張客も毎日のように来ていた」(地元の料理店主)

1960年代、下関漁港の水揚げ量は日本一を誇り、地域経済は繁栄をきわめていた。そのきっかけになったのが、他ならぬ日韓国交正常化だったのだ。

韓国の初代大統領・李承晩は1952年、「海洋主権を守る」として日本海と東シナ海に一方的に軍事境界線(李承晩ライン)を引き、排他的経済水域を設定。ここに入った日本の漁船をことごとく拿捕し、約4000人もの船員を抑留した。その大部分が山口県民であり、岸の許には早期救出を求める陳情が殺到したという。

そして、国交正常化と同時に日韓漁業協定が締結され、李承晩ラインが撤廃されると、下関を母港とする漁船団の漁場は一気に拡大。山口県経済の隆盛を呼んだのだ。地元財界人が言う。

「当時、下関に本社のあった大洋漁業(現マルハニチロホールディングス)は、東大卒の新入社員を採り放題というほど勢いがあった。漁業だけでなく関連産業も潤い、巻き網やウインチの製造で世界のトップを占めた会社もある。それらの業者がことごとく岸さんの応援団になり、もちろん献金もした」

*暴力団「東声会」会長・町井久之

岸はまた、町井久之をはじめとする在日の有力者とも人脈を広げていた。町井は、本名を鄭建永という。1923年、東京に生まれた町井は戦後、在日を中心に1500人の無頼漢を糾合し、暴力団「東声会」会長として名をはせた。

政界の黒幕・児玉誉士夫とはとくに親しく、その政界人脈を足掛かりに、日韓国交正常化交渉の水面下で橋渡し役を果たした。

この時、岸と町井は児玉を介して接近。それ以降、岸は町井のパーティーにちょくちょく顔を出すようになり、町井が六本木に巨大な複合ビル「TSK・CCCターミナル」を建てると、主賓として竣工式に招かれている。

町井は愛国者であると同時に、商売にも貪欲だった。国交正常化後、ソウル市地下鉄開発など巨額の日韓ビジネスを差配していた岸は、町井が利権に食い込むための最重要パートナーであり、両者の協力関係は下関にも及んだ。

実は、冒頭で触れた「関釜フェリー就航記念アルバム」は、町井の生前の書棚に所蔵されていたものだ。しかし、巻末に記載された関係者名簿に、彼の名前を見つけることはできない。

「それでも、関釜フェリー就航が町井さんの尽力によるものだったのは間違いありません。昔のこととは言え、暴力団の親分だった町井さんが、岸さんと名前を並べるのははばかられたのでしょう」(前出・パチンコ店経営者)

岸が日韓国交正常化を踏み台に築いた王国と人脈は、彼の秘書官を経て政界に打って出た晋太郎にも受け継がれた。その上、晋太郎は在日とのパイプをさらに太いものに育てていく。

安倍首相の父・晋太郎は1974年、農林大臣として初入閣している。晋太郎に接近し、漁獲や水産物輸入枠の割り当てで便宜を図ってもらおうと考える水産業者は日本人にも在日にもいたという。

「実際、晋太郎さんの関係者の助力を得て、実績を大きく伸ばした在日の水産業者もいます。その会社は晋三さんの代になっても支援を続けている」(前出・政界事情通)

晋太郎はさらに内閣官房長官、通産相、外相とキャリアを重ね、権力の階段を着々と登って行った。

晋太郎が「未来の総理」として嘱望されるようになったこの時代、韓国と北朝鮮の国力には今ほど大きな差はなく、両国は冷戦の真っただ中にあって熾烈な体制間競争を繰り広げていた。

韓国では1980年5月に光州事件が発生。軍の介入によって市民に多数の犠牲者が出たことで、クーデターで権力を握った軍事政権に対し、国際社会は厳しい視線を向ける。一方、経済力で韓国に差をつけられつつあった北朝鮮も焦りを募らせていた。巻き返しが思うように行かない危機感の表れか、1983年にはラングーン爆弾テロの暴挙に打って出る。

*民団・総連の双方とパイプ

こうした本国の事情は当然、民団や朝鮮総連にも影響を与えた。日本政界のニューリーダーである晋太郎と太いパイプを持つことが、重要な課題となったのだ。

「実際、晋太郎さんは民団とも総連とも全方位で付き合っていました。下関には呂成根さんという総連の大物商工人がいたのですが、その方とも相当に親しかった」(同前)

晋太郎・晋三一家に40年余り家政婦として仕えた久保ウメは、かつて雑誌のインタビューに応え、晋太郎についてこんなことを話している。

「お棺に入れるときにあの人の骨格、あれはやっぱり日本人のものじゃないと思ったの。肩の幅から下までまっすぐに定規を引いたみたいな。これは完全に韓国の体形。自分で『僕は朝鮮だ、朝鮮だ』と言っていたけども、なるほどこれは朝鮮だなと思った。だから、あっちですごくモテたってよ」

そんな晋太郎は生前、山口県の在日の間で絶大な人気を誇ったという。

「人柄が素晴らしいんですよ。悪く言う人はひとりもいない。いまだって人気は色あせていません」(民団幹部)

■派閥政治とパチンコマネー

岸が日韓国交正常化を踏み台に、地元・山口県と韓国にまたがる形で築いた「王国」と人脈は、娘婿・晋太郎にも受け継がれた。その上、晋太郎は在日とのパイプをさらに太くしていく。

かつて晋太郎が住み、いまは晋三名義となっている敷地面積2千平方メートルの豪邸は、下関市街を見下ろす高台に建っている。

この家のかつての持ち主の名は、吉本章治という。福岡市に本社を置くパチンコ店チェーン・七洋物産の創業者で、日本に帰化した在日1世である。

晋太郎は長らく、自宅と地元事務所を七洋物産の子会社から格安で賃借していたほか、福岡事務所をタダで借り、スタッフの提供まで受けていた。自宅は後に晋太郎が購入しているが、地元事務所は現在まで借り続けている。

*“トラブル処理”に強い人脈

吉本は下関で商売を始め、地盤を九州に広げつつ成功を手にした。

数年前に80才で他界した吉本は生前にも、晋太郎については「生きる姿勢が在日と良く似ている」「本当に気のいい男だ」などと語るだけで、深い部分については容易に語ろうとしなかったという。

下関出身の在日の会社経営者によれば、吉本は地元の“トラブル処理”において、きわめて強い人脈を持っていたという。

「吉本さんは若い頃、訳あって妻子の許を離れていた時期があったんです。その間、彼の妻子の面倒を在日の鯨肉業者が良く見ていました。

その後、この業者の次女が、ある画家に嫁いだ。映画館の看板を描いていたその画家は、なかなか腕前がよく甲斐性もあったのですが、(画家の)父親が死ぬとその遺言を受けて、下関のトラブル処理に関わる“稼業”を継がねばならなくなった。

そうなって以降、商売に成功して鯨肉業者に恩義を感じていた吉本さんが、その“稼業”をバックアップしていたのです」

*「トップ当選」を果たすために

また、吉本のそうした人脈は、安倍家ともつながっていったという。

「吉本さんは、北九州地域の“トラブル処理”に強い影響力を持っていたK氏という人物とも親密でした。安倍家の人間の中には、吉本さんの奥さんやK氏の夫人と海外旅行などに出かけていた女性もいます」

興味深いのは、晋太郎が在日の支援を受けなければならなかった理由だ。

意外かもしれないが、もともと晋太郎の選挙地盤はぜい弱だった。中選挙区時代に晋太郎が立候補したのは旧山口1区だが、岸の地盤を継いだわけではなく(岸は旧山口2区)、落下傘候補に近い。実際に2回目の選挙では落選の憂き目にあっている。地元政界の事情通が話す。

「旧山口1区の定数は4議席で、3つを自民党候補が分け合い、残りを社会党が取る構図が定着していました。次期総理をねらうには単に当選するだけではダメで、トップ当選が至上命題だった。

しかも、晋太郎さんには林義郎元蔵相という強力なライバルがいました。林家は下関の三大名家のひとつで、サンデン交通や山口合同ガスといった地元大手企業のオーナー筋に当たる。それに勝つために、晋太郎さんは中小企業を幅広く糾合する必要があった。

在日の企業は資金力があり、多くの従業員を抱えていた。帰化していれば献金しても問題ないし、従業員はほとんどが日本人ですから、票集めの上でも無視できなかったはずです」

*児玉誉士夫と町井久之が号令

また、晋太郎は地元での票の取り合いに加え、中央政界での権力闘争でも勝ち抜かなければならなかった。時は、派閥政治の全盛期である。総理の座をつかむには、カネはいくらあっても足りない。

ちょうどその頃、下関では日韓国交正常化で商機をつかんだ在日の商売人が急速に力を増していた。

ある在日の水産業者は漁獲だけでなく、「副業」からも莫大な収入を得たという。

「むかし、貧しかった頃の韓国では日本製の腕時計がたいへんなステータスで、安いモノでも高く売れた。しかし普通に輸出したのでは高率の関税がかけられる。そこで、船員たちの下着に時計をいくつも縫いつける方法で密輸したんです。だから下関の時計屋は縫い子の女性をいっぱい雇っていたものです」(前出・在日の会社経営者)

水産業以外の商売でも、在日はおおいに潤った。

「下関の全盛期、漁師たちは大金を握りしめて陸に上がり、酒にオンナ、博打で湯水のように使った。在日はもともと、水産業よりそっちの商売が強かった。大きくなったパチンコ屋は、あのとき商売の土台を築いたんです」(同前)

その後、下関の水産業は乱獲のため水揚げが減少。急速にパワーを落として行った一方で、バブルの追い風を受けたパチンコマネーは拡大を続けた。

地元の在日が日々稼ぎだす膨大なキャッシュに、総理の座をうかがう政治家が魅力を感じないはずもない。

一方、在日の中からは、こんな話も聞こえる。

「岸さんが児玉さん経由で、町井さんに晋太郎さんへの支援を要請したと聞いています。民団草創期の大幹部だった町井さんは、下関にも仲間が多く、いくらでも号令をかけることはできましたから」(同前)

もっとも、町井から声がかからずとも、下関の在日が晋太郎を支援する理由はいくらでもあった。韓国と北朝鮮の国力に今ほど大きな差がなく、冷戦下で熾烈な体制間競争が繰り広げられていた時代である。「未来の総理」と親交を深めることは、韓国系の民団と北朝鮮系の朝鮮総連の双方にとって重要な課題だったのだ。

*初陣の「逆風選挙」でも在日が支援

晋三が初めて立候補したのは、自民党が下野した1993年の衆院選である。地元では晋太郎の系列だった県議が反旗を翻して対立候補となり、突然の逆風に見舞われた。

そんな中でも、父の代から安倍家を支えた在日は晋三の応援を続け、経営するホテルの従業員とともに「エイエイオー」とエールを送った経営者もいた。

「あの時は、秘書や支援者の一部も反対陣営に回った。在日の義理堅さは有難かったでしょう」(地元紙記者)

地元の在日の間で、晋三の人柄に対する評判は必ずしも悪くはない。

「孫の披露宴には、札幌から駆け付けてくれました。本当に義理堅い人です」(アリラン食堂の鄭さん)

「国籍や民族で分けへだてする人じゃありません。在日ともフランクに付き合っていますよ」(安倍事務所の関係者)

もっとも晋太郎の時代と比べると、晋三と在日の付き合い方には変化も見える。前出の在日2世のパチンコ店経営者がいう。

「晋太郎さんと父たち在日1世の時代には、政治家との付き合いに対する世間の目も大らかだったんです。外国人献金がどうのと、あまり細かいことはいわなかった。ところが今では、10万円や20万円の献金でも叩かれる」

とはいえ、晋三の周辺から、在日人脈がまったく消えてしまったわけではない。

晋三の下関にある地元事務所は、晋太郎の後援者であった在日系企業・七洋物産の子会社から今も借りているし、晋太郎の助力で業績を伸ばした在日の水産業者は、晋三の代になっても支援を続けている。

もちろん、日本に帰化していれば、彼らが献金などの形で晋三を支援することに何ら問題はない。また、下関出身のある在日の実業家は、晋三に様々な人脈をつないでいる。

*晋三の隣に立つ大物金融ブローカー

『週刊ポスト』は2012年10月26日号で、「安倍晋三『黒い交際写真』の謀略」と題する記事を掲載した。その写真は議員会館の安倍事務所内で撮られたもので、晋三をはさんで2人の男性が写っている。

晋三の右側に立ち、白い歯を見せて笑っているのは、米国の元アーカンソー州知事、マイク・ハッカビーである。共和党の大物政治家で、 2008年の大統領選(党予備選)にも出馬して善戦した。ハッカビーは同年6月に来日しており、写真はそのときに撮られたものだ。

『週刊ポスト』が「黒い交際」として問題視したのは、晋三の左側に立つ、短髪で白いスーツ姿の男性である。「山口組の金庫番」とも言われた在日2世の大物金融ブローカーで、総連にも民団にも太いパイプを持つ。男性は写真が撮られた数年後、中堅ゼネコンの架空増資事件に絡み有罪判決(貸金業法違反)を受けている。

尤も、件の写真が撮られた経緯は、いたって単純なものだった。晋三の関係者が話す。

「晋三さんの地元の有力後援者に、米国のハッカビー氏から『安倍さんを紹介して欲しい』と打診があり、すぐにオーケーしました。ところがハッカビー氏の到着当日、大統領選の候補者の送迎にふさわしい車両の手配が出来ていなかったんです。

そこで件の在日男性が、『タクシーに乗せるわけにもいかんだろう』と、自分のロールスロイスを出してくれた。そういう流れで本人も同行し、写真を撮っただけなんです」

*北朝鮮中枢につがなる「力道山人脈」

ちなみに、晋三にハッカビーをつないだ在日の実業家はアントニオ猪木とも親しく、北朝鮮にも複数回にわたり渡航したことがあるという。

本人に渡航の目的をただすと、「政治的な意味はありません。帰国事業で向こうへ渡った親族に会いに行っているだけ」との回答があった。

それがウソでないにせよ、この後援者が、猪木と晋三の会談の場を提供したことがあるのも、また事実だ。そして、猪木が連なる「力道山人脈」は、北朝鮮の権力中枢に近いところにいた。

ほかにも、北朝鮮や韓国に特殊な人脈を持つ在日は、晋三からそう遠くない所に少なからずいる。今のところ、晋三がそうした人脈に手を伸ばした形跡はないが、岸や晋太郎ならば存分に活用したはずだ。

今後、晋三が在日とどのように関わっていくのかはわからない。

しかしいずれにせよ、岸信介から安倍晋太郎、晋三と三代にわたる政治家一族が在日人脈を政治的な「資産」として運用し、自らのパワーに取りこんできたのは、紛れもない事実なのだ>(以上)

考えてみれば地理的に古代から下関・博多は日本/朝鮮の玄関だから、在日と政治家の関係は濃厚になる。持ちつ持たれつだ。日韓国交正常化の立役者である岸信介、その孫の安倍晋三が今の“日韓国交不正常”を再び(数年後には)正常化させることになりそうだが、まあ因縁なのだろう。

在日は南北とも日本で生計を立てながら、多かれ少なかれ反日だ。日本人は「それなら出ていけばいいのに」と思うが、どんどん日本にやってくる(支那人も)。この辺の複雑なマインドをどなたか解説してくれるとありがたい。(2015/5/23)


  

◆左遷された片桐氏の至福の月日

櫻井よしこ



「もう少し、あのとき頑張っていればよかったと、思うことがあるんです」

片桐幸雄氏は上梓したばかりの『左遷を楽しむ』(社会評論社)を前にこう語った。私は問うた。

「あのとき、精一杯やったじゃないですか。力を出しきって戦ったでしょう。もっと頑張ればよかったと言う理由は、何ですか」

片桐氏はここで言葉を濁した。

氏は、小泉内閣の下で華々しい脚光を浴びた道路関係四公団民営化推進委員会に、日本道路公団から事務局次長として出向した人物だ。

猪瀬直樹氏が民営化の旗手としてもち上げられた道路公団改革ほど、世間の耳目を集めながら壮大な失敗に終わった改革劇は他に例がない。民営化委員会は最終意見書を出すまでに分裂し、7人の委員が5人に減った。

5人の総意で提出した意見書は、小泉首相(当時、以下同)が法案作成を国交省に丸投げしたために完全に無視され、法案は意見書とは根本的に逆の、偽りの民営化法案になった。だが、猪瀬氏は改革から程遠い改悪案を改革だと主張して喧伝した。

真の改革か、偽りの改革か、そのせめぎ合いの中で、片桐氏は道路公団総裁、藤井治芳(はるほ)氏の逆鱗に触れる。片桐氏が憎まれた原因は、そもそも道路は誰のものかということに対する認識の相違から生まれている。

藤井氏らは「道路は国のもの」だと考え、片桐氏は「高速道路は私物として民営化すべき」だと考える。

その片桐氏が、小泉首相肝煎りの道路公団民営化委員会に出向したのだ。旧国鉄が民営会社のJRとして見事に生まれ変わったように、道路公団を、借金返済が可能で、未来世代へのツケ回しなしに利益をもたらす企業に生まれ変わらせるのが小泉改革の目的だったはずだ。

民営化の基礎をしっかりと築き、成功事例とするために片桐氏が職責を果たそうとしたのは当然である。だが、前述のように、その考え自体、藤井総裁及び道路公団本体の本音とは相容れなかった。

片桐氏ら改革派の不幸は、改革のスローガンを叫びポーズをとることに巧みだった小泉首相が、最終場面で改革とは正反対の方向を向いてしまったことだ。

「天の恵み」

片桐氏やその部下と目された道路公団の中堅職員らは排除され、氏は2003年6月、香川県高松市の道路公団四国支社に副支社長として出された。

「朝日新聞」は同人事を「突然の左遷で、改革派一掃人事」(03年6月1日付朝刊)と報じた。

それだけでなく、氏は藤井氏と道路公団から名誉毀損で訴えられ、公団の賞罰委員会にもかけられた。こんな状態で送られた高松での1年と半月を描いたのが、氏の新著である。

同書で氏は、他人の視線は兎も角、自分も「カミさん」も高松行きを悲観的にとらえたことはなく、楽しんだと繰り返している。淡々とした描写の中から、さぬきうどんの美味しさ、暮らしの基本である食事の安さと素朴な味わいがあたたかな人情と共に伝わってきて、嬉しい気持になる。

これでは藤井氏も左遷した甲斐がないだろうと気の毒に思う程だ。

本書で感ずるのは、片桐氏は基本的に学究の人であるという点だ。これまでの氏の著書、たとえば、『国際通貨問題の課題』(批評社)、『スラッファの謎を楽しむ』(社会評論社)などを見ても同じ思いを抱く。こんな人物だから、普通ならめげる左遷が、給料を貰って好きな書物を読み耽る至福の日々へと大変質してしまうのだ。

私は、氏が手書きの文章のよさを見直す場面にとりわけ共感した。高松で氏はコンピュータを使わずに、書物や資料を読み、手書きでカードにまとめる作業に没頭している。作業を通して「紙が圧倒的に優れている」と実感し、「『天の恵み』を感謝しなければならない」と書いた。

読みながら書き込む。書き込んでさらに考える。あちらに書いたことやこちらのメモが、深く考えさせてくれる。思考が手書き作業を通してまとまっていく。

そして突然、バラバラの情報や知識がパッと有機的につながり、深い意味での真実へと導かれる瞬間が訪れるのである。書物を読む人、資料を読む人にとって、最高の喜びの瞬間である。氏はこの至福の時間を持てたことを「天の恵み」と書いた。氏にとって高松暮らしは実に得難い日々であり、世間が考える「左遷の辛さ」や「孤独感」とは、本当に無縁だったのだ。

氏は何を読んだのか。氏の日常には須賀敦子が度々登場する。私も彼女の訳詩を声に出して、リズムを添えて読むのが好きだ。

次なる使命

氏が高松で最初に読んだのが須賀訳のウンベルト・サバの詩集だった。猪瀬氏は「片桐は藤井との権力闘争に敗れて左遷された」と的外れな指摘をしたが、そんなことは全く気にもせず、これを最初に読んだ。

私はふと思った。氏はウンベルト・サバの詩を、美しい海に面した高松で、声に出して読んだだろうかと。

あり余る時間の中で、氏は新聞を隅から隅まで読んだ。尾崎#秀実(ほつ み)に倣って、「赤と青の鉛筆でアンダーラインを引きながら、各種の新聞を一字のこさず、批判的に、しかもメモをとって読」んだそうだ。

尾崎は一高時代からの友人、羽仁五郎に勧められてこの方法を確立したと氏は書いているが、片桐氏のルーツがリベラルなのがわかる。

記者クラブ制度を作った時点で日本の新聞は半分死んだと喝破する氏に、私は同意するが、日本の各新聞は猪瀬氏を改革の旗手と持ち上げ、それは一時期、奔流のような勢いを有していた。

かつても今も、メディアには奔流現象が起きる。だが、そんなものに押し流されまいとした言論人がこの国にはいたのだ。真の自由主義者であった「信濃毎日新聞」の主筆、桐生悠々も、軍部の圧力の前でも自説を貫いた福田恆存もそうである。

そんな人々の著作が片桐氏の読書圏に入ってくればもっと面白いのにと、勝手に思った次第である。

さて、氏を追放した藤井総裁は03年10月、解任された。片桐氏への訴えは、最高裁まで争われたが、藤井氏の主張は悉く退けられた。

片桐氏は04年6月に道路公団本社に戻ったが、公団は05年10月になくなり、名ばかりの民間会社が事業を引き継いだ。猪瀬氏は都知事になり、5000万円問題を機に辞職し、最近は若い女性との写真でグラビアを賑わせた。

人の在り様も社会の在り様も変化する中で、片桐氏は道路公団改革について、原稿用紙4000枚超の資料整理を終えた。「もう少し、あのとき頑張っていれば……」と思う気持を残している氏の次なる使命は、資料を生かし、道路公団改革の「顛末といま」を書くことであろうか。氏が稀代のペテン劇の実態を抉り出すのを、私は楽しみにしている。

『週刊新潮』 2015年5月21日号  日本ルネッサンス 第655号

                      (採録:久保田 康文)


◆日韓が仲良しだった頃

平井 修一



日韓が仲良しのウィンウィン時代があったことは、今から見れば、よその国の出来事みたいだ。不思議な感じさえする。ジャーナリスト・李策氏の取材・文「【日韓国交50年】田中角栄と“ナッツ姫”祖父が残した日韓政治の闇」(デイリーNK5/22)から

■上:箱根での巨頭会談

1973年9月21日、箱根の富士屋ホテル。その1室に、日韓政財界の超大物3人が顔を揃えた。

日本側からは時の首相・田中角栄と、その“刎頚の友”と言われた政商・小佐野賢治(国際興業グループ創業者)。そして大韓航空を擁する韓国の有力財閥・韓進グループ総帥の趙重勲である。趙は、このところ話題の「ナッツ姫」の祖父に当たる人物だ。

会談の目的はただひとつ、日韓関係を揺るがせた「金大中事件」の幕引きである。

軍事政権の手を逃れて日本に滞在中だった民主化の指導者、金大中を韓国中央情報部(KCIA)が白昼に拉致。違法に国外に連れ出したこの事件は、「日本に対する重大な主権侵害」に当たるとして轟々たる非難を呼んだ。

しかし、日韓国交正常化(1965年)による巨額のジャパンマネーの韓国流入を受け、両国間に巨大な開発利権が渦巻いていた時代である。経済的利益を優先したい政財界の首脳らは“手打ち”を急ぎ、韓国側の「密使」として趙重勲に白羽の矢が立ったのである。

それにしてもなぜ、趙重勲だったのか。それは彼が率いる財閥の“育ての親”が、小佐野賢治だったからに他ならない。

*日本人から信頼

趙重勲は1920年2月、韓国・仁川に生まれた。18歳で海員養成所の機関課を卒業し、神戸の造船所での見習工を経て故郷でエンジンの修理工場の経営などに当たった。1945年に第2次大戦が終わり、朝鮮半島が日本から解放されると韓進商事を設立。トラック1台の運送会社で、社長自らハンドルを握った。趙一族を知る在日大韓民国民団の関係者が言う。

「当時の運送屋は荷馬車が主体で、トラックは珍しかったそうです。彼はその車でソウルと仁川港の間を1日に何往復もして、半島から内地へ引き揚げる日本人の家財道具を運んだ。非常に手際がよく、当時から日本人の信頼は厚かったようです」

1950年から3年続いた朝鮮戦争の期間中、趙重勲はほかの多くの韓国人事業家と同様に苦難の時を過ごす。しかし、再起は早かった。韓進は1956年、駐韓米軍(第8軍)から物資輸送を請け負い、飛躍の土台を築いていく。

趙重勲は続いて、米戦略空軍のバス80台の払い下げを受け、ソウル―仁川間でバス路線を運行しようと計画した。当時の韓国で、国際港は仁川と釜山だけだった。ソウルに近い仁川は米軍関係者をはじめ人や物資の出入りが多く、バス事業がドル函となるのは間違いなかった。

ところが、バスを買うのに必要な資金が集まらない。弱っていた趙重勲に、ある男が救いの手を差し伸べる。

*米軍ビジネスで結びつく

「韓進と国際興業の関係というものは、私の方が、いまから7、8年前にあちらへ米国の第8軍が駐とんしておりましたときに、バスを私の方で軍の命令で120台ほど持っていったことがあります。そのときにいろいろの面で取引がありました」

1976年2月16日、衆院予算委員会にロッキード事件で証人喚問された際の小佐野の発言である。「7、8年前」という部分に事実との食い違いがあるが、韓国側の資料によれば小佐野は1961年、バス80台分の資金を趙重勲に用立てたのである。

趙重勲は次に、ベトナム戦争特需に目を付けた。韓国からベトナムに運ばれる米軍や韓国軍部隊の物資輸送を請け負えば、それまでとはケタ違いの利益が転がり込む。

ところが、またもや資金の問題が立ちはだかった。米軍と契約するには300万ドルの保証金を預託するとともに、数百万ドル分の装備類を自前で整えなければならない。当時の韓進にとって、このハードルは高かった。

そして、趙重勲はまたもや小佐野の支援を得て、この難題をクリアするのである。

「もちろん、小佐野氏にも思惑はありました。当時、小佐野氏は日本航空の個人筆頭株主でしたが、同社は日本の政治的事情からベトナムに物資や兵員を直接輸送することが許されなかった。そこで趙重勲氏と話をつけ、ベトナムに飛ぶ大韓航空に日航機をレンタルする形で特需をものにしたそうです」(前出・民団関係者)

それにしても、2人はいかにしてここまで密接な関係を結んだのか。小佐野が韓進のバス事業に協力した1961年は、国交正常化より4年も前のことだ。

いつ、どんなことがきっかけだったのか、具体的なことは詳らかでない。ただ、「米軍を介して知り合った」という趣旨のことは、当人たちも言っ
ている。

もとより、小佐野も朝鮮戦争特需で伸びた人物だ。朝鮮戦争とベトナム戦争という冷戦下での「熱戦」に突入する過程で、米軍がその橋頭堡たる日韓において手足のように動く政商同士を結びつけたとしても、何ら不思議ではない。

■下:「観光開発」で揃い踏み

日韓両政府は1971年8月の「第5回日韓定期閣僚会議」での合意をきっかけに、協力して済州島開発に着手する。同会議に通産相として出席したのが、後の首相・田中角栄である。

そしてその進展を受け、「ナッツ姫」の祖父・趙重勲率いる大韓航空は1976年、PR紙で次のような宣伝を打つ。

「カジノパラダイス、済州島に堂々完成! 大阪・福岡よりKAL(大韓航空)でひとっ飛び。済州島にKALホテル全三階フロア―に最高級カジノとして6月ニューオープン。楽園済州島へのお越しを……」

当時、KALホテルの建設・運営に当たっていた韓日観光開発は、KALと旧三和銀行系の日本開発の合弁会社だった。三和は“小佐野銀行”とまで言われるほど小佐野賢治と近かった。

済州島開発を巡ってはほかにも、(暴力団)東声会会長・町井久之(鄭建永)の関与が取り沙汰されていた(政界の黒幕・児玉誉士夫とはとくに親しくしていた)。

国交正常化にともなうジャパンマネーの韓国流入を受け、ソウル地下鉄開発などの大型事業を岸信介元首相らが主導する一方、小佐野―趙重勲ラインは運輸・観光分野でのビジネスで潤って行く。

当時の韓国経済において、外貨獲得に有利な観光事業は基幹産業のひとつに位置付けられていた。大韓航空を擁する韓進グループは、財閥ランキングで三星(サムスン)、楽喜(後のLG)に続く3位にあったが、外貨獲得力では他を圧倒していたとされる。

たとえば、韓進が5年間のベトナム特需で稼ぎだした外貨は1億5000万ドルに上った。この頃、韓国国民の1人当たり年間所得が200ドル前後であったことを考えると、韓進の存在がいかに大きかったかがわかる。

*「政治決着」の密命

そして、外貨に対するこうした「強さ」こそが、趙重勲が日韓政治になくてはならないキーマンとなった所以だった。

趙重勲は日韓国交正常化前の1964年7月、東京に飛ぶ。財政がひっ迫し、ジャパンマネーを待ちきれない朴正熙政権のたっての依頼を受け、2000万ドルの借款を前倒しで引き出すためだった。小佐野ラインを通じ、首尾よく田中角栄蔵相の説得に成功した趙重勲は、その後も同様の仕事を見事にこなした。

朴正熙からの絶大な信頼を得た趙重勲は1973年8月15日、青瓦台(大統領官邸)に緊急の呼び出しを受ける。拉致された金大中がソウルの自宅前で発見された2日後のことだ。

そのときの経緯について、在米韓国人ジャーナリストの文明子は『週刊ポスト』(1977年3月18日号)に、こう書いている。

《前年の、自民党総裁選に際して朴および彼の周辺は「福田優勢」と分析していたのだが、案に相違して田中が勝った結果、朴は自民党主流派に有力なパイプをもたぬことになった。そこで、田中の“刎頚の友”小佐野賢治と親しい趙重勲に「政治決着」の可能性打診と仲介を命じたわけである》

そして、趙重勲と小佐野、田中らは3回にわたり密会。最後の「箱根会談」で、実質的な政治決着が決まったという。

ここで言う政治決着が、「カネによる解決」を意味しているのは言うまでもない。そこで動いたカネの額については、米国や日本、韓国の報道などで「3億円説」と「4億円説」、「合計7億円説」と様々出ている。

ちなみに、そういった一連の報道に対し、田中や小佐野、趙重勲らが反論を行った形跡は一切ない。

いずれにせよ、当時の韓国にとって日本円で億単位の裏金をポンと積むことは簡単ではなかったはずだ。その点でも、朴正熙が趙重勲を重宝したであろうことは想像に難くない。

果たして彼らは、いったいどれほどのカネで「金大中事件」にフタをしたのだろうか>(以上)

歴史の真実はなかなか難しい。裏取引など不都合なことは当事者が黙して語らず、記録も残さずにあの世へ逝ってしまうことは多いのだろう。

韓国の経済発展に日本が(私利私欲の面もあったろうが)大きく寄与したというのは史実である。しかし、これは国民感情法・反日至上主義の有権者の支持をベースにしている今のクネ政権にとっては、絶対に承認できない史実だ。

そのようなことを言う韓国民は「親日=国賊」として社会的に抹殺される。結局、国民は史実を永遠に知らされることはないのだ。

学問とは英語で science、すなわち科学だ。ファクトでもって科学的に立証できること、立証する行為をさすだろう。韓国民はファクトを拒否する。だから現実、現状が分からない、結局はこれからどうすべきかも分からない。五里霧中の中を手探りで進んでいるようなもので、いずれ崖から落ちる。

学問がない国民、国家は衰弱し、やがて没落するはずだ。クネの国はカウントダウンが始まっているだろう。(2015/5/22)

2015年05月24日

◆戦後の日本の原罪

加瀬 英明



日本はもう半世紀以上も、国家として原罪ともいうべき、大きな咎(とが)を負ってきた。

私は筆をとるようになってから、台湾を擁護してきた。

毛沢東政権も、中国3000年のおぞましい政治文化によってつくられた、専制国家だから、心を許してはならないと、説いてきた。

私は田中角栄内閣が、日中国交正常化を強行した時に、雑誌『文芸春秋』『諸君』などの誌面をかりて、朝日新聞などが安酒に酔ったように中国熱を煽ったことを、非難した。

翌年、いま中国通の第1人者となっている宮崎正弘氏が働いていた、浪漫社から刊行した著書のなかで、「田中首相が訪中した時の新聞の『秋晴れ 北京友好の旗高く』とか、『拍手の中しっかりといま握手 とけ合う心 熱烈歓迎』という見出しをみると、日独伊3国同盟が結ばれた後に、松岡外相がベルリンの目抜き通りを、パレードした時の新聞の熱狂的な見出しのように思えて、しかたがない」(『新聞批判入門』)と、揶揄(やゆ)した。

あの時も、新聞はナチスドイツに憧れて、世論を煽り立てた。今度は、毛沢東だった。

親独派にかわって、親中派が日本の進路を危いものとした。私は日中国交を結ぶのに当たって、日台関係について中国の言い成りになったことに、憤慨した。当時、中国は中ソ戦争がいまにでも起ることに震えあがっていたから、日本を強く必要としていた。

日本の政財界も、まるで幕末の狂乱のお蔭参りの再現のように中国へ靡(なび)いて、すっかり正気を失っていた。

中国は日本と国交を樹立するのに焦る必要があったが、日本にはまったくなかった。日中は国交がなくとも、最大の貿易相手だった。

私は田中首相が北京空港に降り立った時の、朝日新聞の高熱によってうかされた譫言(うわごと)のような記事に、唖然(あぜん)とした。特派員が朝から酒でも呷(あお)っているのではないかと、疑った。

「その時の重く、鋭い静寂を、何と表現したらいいだろう。広大な北京空港に、いっさいの音を失ったような静けさがおちてきた。1972年9月25日午前11時40分、赤いじゅうたんを敷いた飛行機のタラップを、黒い服の田中首相がわずかにからだを左右に振りながら降りてきた。まぶしそうに空を見上げ、きっと口を横に一文字に結んで、周首相の前にすすんだ」

「‥‥これは夢なのか。いや夢ではない」

「実際には、その時間は1分にも満たなかったはずであった。記者団の群れにまじった欧米記者たちの不遠慮な声もしていたかもしれない。しかし、その時間は、もっと長く感じられた。

なんの物音もしなかったと思う。40年も続きに続いた痛恨の時間の流れは、このときついにとまった。その長い歳月の間に流れた日中両国民の血が涙が、あふれる陽光のなかをかげろうのようにのぼっていく――ふとめまいにさそわれそうな瞬間のなかでそんな気がした」

私は「新聞記者は、どのような状況にあっても、目まいを起こしてはならない。しっかりしてほしい。それに、日本であれ、外国であれ、記者たちはいつも『不遠慮な声』をだしているものだ」(前掲の拙著)と、叱責した。

中国はそれから40年もたたないうちに、日本へ向かって醜い牙を剥くようになった。

この時の朝日新聞の社説の「日中新時代を開く田中首相の訪中」も、憤飯
物だった。

「日中正常化は、わが国にとって、新しい外交・防衛政策の起点とならねばならない。日米安保条約によって勢力均衡の上に不安定な安全保障を求める立場から、日中間に不可侵条約を結び、さらにその環をソ連にもひろげる。あるいはアジア・極東地域に恒久的な中立地帯を設定する。そうした外交選択が可能となったのである」

日本は日台関係を絶って、台湾を放棄した。私は日台は一体だから、台湾が中国によって呑み込まれたら、日本が亡びると説いた。台湾は日本にとって、もっとも大切な隣国だ。
私は米中国交樹立を待って、日中国交を結ぶべきだったと主張した。

 アメリカは日本より7年遅れて、中華民国と断交して、米中国交を樹立した。この時、アメリカは米台間で領事関係を維持することを強く求めたが、中国側が「日本方式(ジャパン・フォームュラ)」しか認めないといい張ったので、従わざるをえなかった。50年にわたって日本国民だった、台湾人の想いを裏切った、日本の罪は重い。

しかし、アメリカ議会が台湾関係法(TRA)を制定して、政権に台湾を防衛することを義務づけた。今日まで米台関係は、台湾関係法に基く公的なものとなっている。

私は国会がアメリカ議会に見倣(みなら)って、日本版の台湾関係法を立法するべきだと、主張してきた。1日も早く、そうしてほしい。

そうすることによって、日本は原罪を償うことができる。


加瀬 英明

日本はもう半世紀以上も、国家として原罪ともいうべき、大きな咎(とが)を負ってきた。

私は筆をとるようになってから、台湾を擁護してきた。

毛沢東政権も、中国3000年のおぞましい政治文化によってつくられた、専制国家だから、心を許してはならないと、説いてきた。

私は田中角栄内閣が、日中国交正常化を強行した時に、雑誌『文芸春秋』『諸君』などの誌面をかりて、朝日新聞などが安酒に酔ったように中国熱を煽ったことを、非難した。

翌年、いま中国通の第1人者となっている宮崎正弘氏が働いていた、浪漫社から刊行した著書のなかで、「田中首相が訪中した時の新聞の『秋晴れ 北京友好の旗高く』とか、『拍手の中しっかりといま握手 とけ合う心 熱烈歓迎』という見出しをみると、日独伊3国同盟が結ばれた後に、松岡外相がベルリンの目抜き通りを、パレードした時の新聞の熱狂的な見出しのように思えて、しかたがない」(『新聞批判入門』)と、揶揄(やゆ)した。

あの時も、新聞はナチスドイツに憧れて、世論を煽り立てた。今度は、毛沢東だった。

親独派にかわって、親中派が日本の進路を危いものとした。私は日中国交を結ぶのに当たって、日台関係について中国の言い成りになったことに、憤慨した。当時、中国は中ソ戦争がいまにでも起ることに震えあがっていたから、日本を強く必要としていた。

日本の政財界も、まるで幕末の狂乱のお蔭参りの再現のように中国へ靡(なび)いて、すっかり正気を失っていた。

中国は日本と国交を樹立するのに焦る必要があったが、日本にはまったくなかった。日中は国交がなくとも、最大の貿易相手だった。

私は田中首相が北京空港に降り立った時の、朝日新聞の高熱によってうかされた譫言(うわごと)のような記事に、唖然(あぜん)とした。特派員が朝から酒でも呷(あお)っているのではないかと、疑った。

「その時の重く、鋭い静寂を、何と表現したらいいだろう。広大な北京空港に、いっさいの音を失ったような静けさがおちてきた。1972年9月25日午前11時40分、赤いじゅうたんを敷いた飛行機のタラップを、黒い服の田中首相がわずかにからだを左右に振りながら降りてきた。まぶしそうに空を見上げ、きっと口を横に一文字に結んで、周首相の前にすすんだ」

「‥‥これは夢なのか。いや夢ではない」

「実際には、その時間は1分にも満たなかったはずであった。記者団の群れにまじった欧米記者たちの不遠慮な声もしていたかもしれない。しかし、その時間は、もっと長く感じられた。

なんの物音もしなかったと思う。40年も続きに続いた痛恨の時間の流れは、このときついにとまった。その長い歳月の間に流れた日中両国民の血が涙が、あふれる陽光のなかをかげろうのようにのぼっていく――ふとめまいにさそわれそうな瞬間のなかでそんな気がした」

私は「新聞記者は、どのような状況にあっても、目まいを起こしてはならない。しっかりしてほしい。それに、日本であれ、外国であれ、記者たちはいつも『不遠慮な声』をだしているものだ」(前掲の拙著)と、叱責した。

中国はそれから40年もたたないうちに、日本へ向かって醜い牙を剥くようになった。

この時の朝日新聞の社説の「日中新時代を開く田中首相の訪中」も、憤飯
物だった。

「日中正常化は、わが国にとって、新しい外交・防衛政策の起点とならねばならない。日米安保条約によって勢力均衡の上に不安定な安全保障を求める立場から、日中間に不可侵条約を結び、さらにその環をソ連にもひろげる。あるいはアジア・極東地域に恒久的な中立地帯を設定する。そうした外交選択が可能となったのである」

日本は日台関係を絶って、台湾を放棄した。私は日台は一体だから、台湾が中国によって呑み込まれたら、日本が亡びると説いた。台湾は日本にとって、もっとも大切な隣国だ。
私は米中国交樹立を待って、日中国交を結ぶべきだったと主張した。

 アメリカは日本より7年遅れて、中華民国と断交して、米中国交を樹立した。この時、アメリカは米台間で領事関係を維持することを強く求めたが、中国側が「日本方式(ジャパン・フォームュラ)」しか認めないといい張ったので、従わざるをえなかった。50年にわたって日本国民だった、台湾人の想いを裏切った、日本の罪は重い。

しかし、アメリカ議会が台湾関係法(TRA)を制定して、政権に台湾を防衛することを義務づけた。今日まで米台関係は、台湾関係法に基く公的なものとなっている。

私は国会がアメリカ議会に見倣(みなら)って、日本版の台湾関係法を立法するべきだと、主張してきた。1日も早く、そうしてほしい。

そうすることによって、日本は原罪を償うことができる。

◆SFPTの徹底考証

Andy Chang



「嘘も100回言えば本当になる」というのはナチス・ドイツの宣伝相だったヨーゼフ・ゲッベルスの言葉だといわれているが、本当かどうかわからない。つまりこれも百回繰り返されたからゲッペルス博士の言葉と言われるようになったのかもしれない。

中国が尖閣諸島は中国の領土、南沙群島も西沙群島も俺たちの領土と繰り返し、あまつさえ南シナ海で勝手な建設を始めているが、いくら繰り返しても信じるより胸糞が悪くなる。

私はAC通信No.240でサンフランシスコ講和條約を悪用するグループのことを書いたが、米国台湾政府(USTG、別称台湾自治政府TAG)と呼ぶグループは相変わらず同じ宣伝をしているし、グループの宣伝を信じる人が私の記事に幾つかコメントを書いてきたので、長く
なるがサンフランシス条約の本文を引用して徹底考証し、彼らの主張がウソであることを証明する。

台湾自治政府(TAG)はこう主張している。

1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約で:
第2条:日本は台湾澎湖を放棄し、台湾と日本は無関係となった。
第4条:米国軍事政府USMGは台湾の分配権、処分権を有する。
第23条:米国は台湾の主要占領国である。

つまり、米国は台湾の主要占領国で処分権を有するが、米国台湾政府は米国の有する権利のもとで「政府」を創立したと言うのだ。この三つのうち第2条だけが真実で、第4条、第23条はウソである。

講和条約にはこんなこと書いていない。サンフランシスコ講和条約は英語、日本語、スペイン語とフランス語で書かれている。ここでは日本外務省条約局の「条約集第二十九集、第八十五巻」から引用する。

●SFPT第4条で米国は台湾の処分権を有するか?

第4条には「米国軍事政府USMGは台湾の分配権、処分権を有する」とは書いていない。しかも米国軍事政府(USMG)は台湾に駐屯したこともない。第4条は財産と人民の処分の条文であり、領土の処分ではない。無いのに有ると解釈、宣伝しているのである。

【引用はじめ】第4条:

第4条(a):この条の(b)の規定を保留して、日本国及びその国民の財産で第2条に掲げる地域にあるもの並びに日本国及びその国民の請求権(債権を含む)で現にこれらの地域の施政を行っている当局及びそこの住民(法人を含む)に対するものの処理並びに日本国
におけるこれらの当局び住民の財産並びに日本国及びその国民に対するこれらの当局及び住民の請求権(債権を含む)の処理は、日本国とこれらの当局との間の特別取極の主題とする。

第2条に掲げる地域にある連合国またはその国民の財産は、また変換されていない限り、施政を行っている当局が現状で返還しなければならない。

(国民という語は、この条約で用いるときはいつでも、法人を含む)第4条(b):日本国は、第2条及び第3条に掲げる地域のいずれかにある合衆国軍政府により、またはその指令に従って行われた日本国及びその国民の財産の処理の効力を承認する。

第4条(c):日本国とこの条約に従って日本国の支配から除かれる領域とを結ぶ日本所有の海底電線は、二等分され、日本国は、日本の終点施設及びこれに連なる電線の半分を保有し、分離される領域は、残りの電線及びその終点施設を保有する。【引用終わり】

間違った条文の解釈:

米国台湾政府は、第4条bで「合衆国軍政府により、またはその指令に従って行われた日本国及びその国民の財産の処理の効力を承認する」と書いてあり、台湾は(第2条が発効するまで)日本の領土だったから米国は「現在も台湾の処分権を持つ」と主張する。

この主張の間違いは、第4条bが「米国軍政府によって行われた」財産処分の効力を承認する、つまり終戦からSFPTが発効するまでの1945年から1952年の間に米国軍政府GHQ)とGHQの指令に従って「行われた」財産の効力を承認するのであり、SFPT発効後もGHQが存在し台湾の処分権を有するのではない。条文を読めば明らかである。

もう一つの証拠は第4条aにある。要約すると、「第4条bの1945-1952年間の処分は有効で、条約の発効後の財産の処理は日本国と現地の施政当局により解決する」。つまりSFPT発効後はGHQではなく、当地施政当局と日本が財産の処分を取極めるのでありGHQ(米国)は関係しない。

第4条aでは条約の発効後の財産の処分は日本と当地の施政当局が取極める。第4条bでは日本国は終戦から条約発効(1944-1952)までにGHQが処分した財産と住民の処置の効力を認める。将来も「米国は台湾の処分権を有する」とは書いてない。

●第23条:米国は台湾の主要占領国である?

【引用はじめ】第23条:

第23条(a):この条約は、日本国を含めて、これに署名する国によって批准されなければならない。この条約は、批准書が日本国により、且つ、主たる占領国としてのアメリカ合衆国を含めて、次の諸国、すなわちオーストラリア、カナダ、セイロン、フランス、イン
ドネシア、オランダ、ニュージーランド、パキスタン、フィリッピン、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国の過半数により寄託されたときに、その時に批准しているすべての国に関して効力を生ずる。

この条約は、その後これを批准する各国に関しては、その批准書の寄託の日に効力を生ずる。

第23条(b):この条約が日本国の批准書の寄託の後九個月以内に効力を生じなかったときは、これを批准した国は、日本国の批准書の寄託の日の後三年以内に日本国政府及びアメリカ合衆国政府にその旨を通告して、自国と日本国との間にこの条約の効力を生じさせる
ことが出来る。【引用終わり】

この条文をどのように解釈しても主要占領国であるアメリカが台湾の主要占領国であると主張することはできない。米軍は主要占領軍「であった」のは事実だか、領土処分は第2条で日本国が台湾澎湖の主権を放棄している。その上にSFPT第6条(a)では「すべての占
領軍は条約の発効後9日以内に日本国から撤退しなければならない」と規定してある。

たとえ強引に台湾は日本の領土であったと言っても、第6条により米軍は条約発効後90日以内に撤退しなければならない、しかも米軍が台湾に駐屯した事実はない。台湾を占領したのは中華民国である。米国は中華民国軍に顧問団を派遣したが、これは米軍(USMG)ではなく、米国顧問団(Military Army Advisory Group)別称MAAGである。

●いかさま主張の正体と矛盾

米国は終戦以来一度も台湾澎湖の主要占領国であると主張したことはない。米国にそのような権利があるなら、米国が中華民国と断交した時、米国が中華人民共和国を承認した時、台湾関係法を米国国会で通したときなど、いくらでも明確に主張する機会があったが、米国がそのような声明を発表した事実はない。

もう一度米国台湾政府(USTG)の主張を検証してみると、いかさまのからくりがわかる。つまり(1)日本は台湾の主権を放棄した、(2)だが米国は台湾の処分権を持つ、(3)その理由は米国が主要占領国だったからというのだ。この三段論法のあと、(4)だから我々
の米国台湾政府(USTG)は米国の支持があるというのである。米国がUSTGと呼ぶ政府を許可したように見せかけている。

この4段論法のウソには決定的な矛盾がある。もしもアメリカが台湾の主要占領国であるなら、米国台湾政府(USTG)は米国から正式な「台湾政府の設立を許可する証書」がなければならない。勝手に米国の国旗をあしらった徽章や旗を作り、または「Taiwan Autonomy」
の団体登録をしていかにも米国の許可があったように見せかけても証文がない。米国が許可したのではない。明らかにインチキである。

つまり、米国は台湾の主要占領国という「ウソの矛」を作って、米国の許可証文を持たない米国台湾政府(USTG)と呼ぶ「ウソの盾」を自分が作ったウソの矛で破る、滑稽な話だ。