平井 修一
20年ほど前に、福岡での取材を終えた後、東京への途次、山口県のサンデン交通を取材することにしていた。この会社の前身は「山陽電気軌道」、略してサンデン。大正13/1924年に設立され、山口県下関市において路面電車を運行していた。路面電車の全廃後、社名はサンデン交通と改称されてバス会社となったという。
この会社の旅行部門は革新的な事業を研究していたので、「さすが維新を率いた長州藩だなあ」と感心していたのが取材動機だったが、博多から新幹線で新下関に向かったら停車しなくて慌てた。社内の公衆電話から取材ができなくなった旨を伝えたものだ。
当時、小生は「ひかり」と「こだま」が急行と鈍行であることさえ知らなかった。無知は失敗を招くが、岸〜安倍3代が在日とかなり近しい交際を続けていたことも意外だった。
ジャーナリスト・李策氏の取材・文「【日韓国交50年】岸信介から安倍晋三まで…首相一族の『在日人脈』と『金脈』」(デイリーNK)の要約から。
<■地元・山口県と韓国にまたがる「王国」を築く
手元に、1冊の写真集がある。タイトルは「関釜フェリー就航記念アルバム」。1970年に編纂された非売品だ。当時から在日本大韓民国民団(以下、民団)の活動に関わってきた下関在住の在日コリアン(以下、在日)2世の男性は、「ごく限られた人々に配布されたのでしょう。私も初めて見るものだ」と驚く。
1965年に国交正常化した日韓両国にとって、韓国・釜山との間を往復する関釜フェリーの就航は、新時代の訪れの象徴だった。アルバムの70枚を超える写真からは、当時の興奮がひしひしと伝わってくる。
その中に、山口県を地盤とする2人の政治家の姿がある。国交正常化の立役者となった元総理の岸信介、そしてその娘婿であり、安倍総理の父でもある晋太郎だ。日韓協力委員会初代会長の岸の名は、アルバム巻末の関係者名簿の筆頭に掲げられている。
岸と晋太郎、晋三は三代にわたり、朝鮮半島、そして在日の人々ときわめて密接な関わりを持ってきた。下関の街を歩くと、その縁の深さを示す手掛かりがいくつもみつかる。
JR下関駅から車で5分。関門海峡に面した所に、室町から江戸時代にかけ日本を訪れた外交使節団「朝鮮通信使」の記念碑が建っている。2001年、地元政財界の有志が建立したもので、碑の裏には晋三の名も刻まれている。「朝鮮通信使上陸俺留之地」と揮ごうした韓国の金鐘泌元首相は、岸や晋太郎と親交を結んでいた。
父親が晋太郎の支援者だったという在日2世のパチンコ店経営者は、「金元首相が下関に来たときには、私の父や地元の民団幹部が晋太郎さんといっしょに食事をしていた」と懐かしむ。
下関駅前のコリアンタウン「グリーンモール商店街」には、64年間営業を続ける食堂「アリラン」がある。晋三が常連で、店内には本人が「福」と墨書した色紙や、昭恵夫人といっしょに訪れた際の写真が飾られている。
在日1世の店主、鄭順さんは話す。
「(晋三は)奥さんとふらりとやってきて、ホルモン鍋を食べて行く。偉くなってからは、店がボディーガードであふれたこともあった。最近は忙しいからか姿を見せないけど、本当に気さくでいい人」
*韓国情報機関と旧日本軍人脈
1993年までの中選挙区時代、岸は生家のあった山口市を含む旧山口2区を、晋太郎は郷里・油谷町(現長門市)や下関市などからなる旧山口1区を選挙区としていた。
その後、小選挙区比例代表並立制に移行してからも、下関と長門(山口4区)は晋三の地元だ。
下関の地名は、在日にとって特別な響きを持っている。戦前戦中には関釜連絡船が年間200万人を運び、半島から労働力として送り込まれた人々が、後に在日コミュニティーを築いた。戦後は故郷に帰る人々を送り出す一方、朝鮮総連と民団が凄惨な抗争を繰り広げたこともあった。
現在、下関市に暮らす在日外国人のうち、韓国・朝鮮籍は約2900人。留学生なども含まれる数字だが、大多数が戦前に渡ってきた人とその子孫だ。
下関市の全人口(約27万人)に占める在日の比率は1パーセントで、全国平均(0.4%)の倍以上だ。日本国籍を取得した人とその家族を加えれば、下関の在日人口は万を超える。
そんな土地柄にあって、地元選出の政治家と在日の関係が深まるのは何ら不思議なことではない。
だが、現地を取材する中で改めて見えてきたのは、岸から晋三に至る三代の政治家が、「単なる近所づきあい」ではくくれないほど、在日社会と深い因縁を結んでいる事実だった。
日韓国交正常化からこれまでの間に、韓国経済は世界でも稀に見る高度成長を遂げた。その“元手”となったのが、国交正常化に際して日本が提供した無償3億ドル・有償2億ドルの経済支援であったのは論をまたない。
1961年5月、クーデターで政権を掌握した韓国の朴正熙少将(後に大統領)は、1951年に予備会談が開始されて以来、10年以上にわたり難航していた日韓国交正常化交渉を一日も早く妥結させ、日本の賠償金で経済復興を成し遂げることを急務としていた。
交渉打開の糸口を探るため、韓国中央情報部(KCIA)が頼ったのが、海軍特務機関出身の児玉誉士夫や、戦時中に上海で「大陸新報」を発行していた、国策研究会常任幹事の矢次一夫だった。
*日韓漁業協定で繁栄した下関
満洲国の元高官だった岸は、そうした人脈の仲介でKCIA幹部の崔英沢と赤坂の料亭で面会。(岸は)ふたつ返事で協力を約束し、政界の根回しに動いた。
そういった経緯を考えれば、岸は韓国経済にとっての「大恩人」と言えるのかもしれない。
しかしその一方、岸が日韓国交正常化を踏み台に、地元・山口県と韓国にまたがる「王国」を作り上げた事実はあまり語られていない。
ある週末の夜、下関の繁華街・豊前田の通りを歩いた。飲み屋街も人影はまばらで、地元経済の衰勢は覆いようもない。
「昔はこんなんじゃなかった。漁船員や水産関係者が落とすカネだけでもたいへんなものだったし、東京や大阪からの出張客も毎日のように来ていた」(地元の料理店主)
1960年代、下関漁港の水揚げ量は日本一を誇り、地域経済は繁栄をきわめていた。そのきっかけになったのが、他ならぬ日韓国交正常化だったのだ。
韓国の初代大統領・李承晩は1952年、「海洋主権を守る」として日本海と東シナ海に一方的に軍事境界線(李承晩ライン)を引き、排他的経済水域を設定。ここに入った日本の漁船をことごとく拿捕し、約4000人もの船員を抑留した。その大部分が山口県民であり、岸の許には早期救出を求める陳情が殺到したという。
そして、国交正常化と同時に日韓漁業協定が締結され、李承晩ラインが撤廃されると、下関を母港とする漁船団の漁場は一気に拡大。山口県経済の隆盛を呼んだのだ。地元財界人が言う。
「当時、下関に本社のあった大洋漁業(現マルハニチロホールディングス)は、東大卒の新入社員を採り放題というほど勢いがあった。漁業だけでなく関連産業も潤い、巻き網やウインチの製造で世界のトップを占めた会社もある。それらの業者がことごとく岸さんの応援団になり、もちろん献金もした」
*暴力団「東声会」会長・町井久之
岸はまた、町井久之をはじめとする在日の有力者とも人脈を広げていた。町井は、本名を鄭建永という。1923年、東京に生まれた町井は戦後、在日を中心に1500人の無頼漢を糾合し、暴力団「東声会」会長として名をはせた。
政界の黒幕・児玉誉士夫とはとくに親しく、その政界人脈を足掛かりに、日韓国交正常化交渉の水面下で橋渡し役を果たした。
この時、岸と町井は児玉を介して接近。それ以降、岸は町井のパーティーにちょくちょく顔を出すようになり、町井が六本木に巨大な複合ビル「TSK・CCCターミナル」を建てると、主賓として竣工式に招かれている。
町井は愛国者であると同時に、商売にも貪欲だった。国交正常化後、ソウル市地下鉄開発など巨額の日韓ビジネスを差配していた岸は、町井が利権に食い込むための最重要パートナーであり、両者の協力関係は下関にも及んだ。
実は、冒頭で触れた「関釜フェリー就航記念アルバム」は、町井の生前の書棚に所蔵されていたものだ。しかし、巻末に記載された関係者名簿に、彼の名前を見つけることはできない。
「それでも、関釜フェリー就航が町井さんの尽力によるものだったのは間違いありません。昔のこととは言え、暴力団の親分だった町井さんが、岸さんと名前を並べるのははばかられたのでしょう」(前出・パチンコ店経営者)
岸が日韓国交正常化を踏み台に築いた王国と人脈は、彼の秘書官を経て政界に打って出た晋太郎にも受け継がれた。その上、晋太郎は在日とのパイプをさらに太いものに育てていく。
安倍首相の父・晋太郎は1974年、農林大臣として初入閣している。晋太郎に接近し、漁獲や水産物輸入枠の割り当てで便宜を図ってもらおうと考える水産業者は日本人にも在日にもいたという。
「実際、晋太郎さんの関係者の助力を得て、実績を大きく伸ばした在日の水産業者もいます。その会社は晋三さんの代になっても支援を続けている」(前出・政界事情通)
晋太郎はさらに内閣官房長官、通産相、外相とキャリアを重ね、権力の階段を着々と登って行った。
晋太郎が「未来の総理」として嘱望されるようになったこの時代、韓国と北朝鮮の国力には今ほど大きな差はなく、両国は冷戦の真っただ中にあって熾烈な体制間競争を繰り広げていた。
韓国では1980年5月に光州事件が発生。軍の介入によって市民に多数の犠牲者が出たことで、クーデターで権力を握った軍事政権に対し、国際社会は厳しい視線を向ける。一方、経済力で韓国に差をつけられつつあった北朝鮮も焦りを募らせていた。巻き返しが思うように行かない危機感の表れか、1983年にはラングーン爆弾テロの暴挙に打って出る。
*民団・総連の双方とパイプ
こうした本国の事情は当然、民団や朝鮮総連にも影響を与えた。日本政界のニューリーダーである晋太郎と太いパイプを持つことが、重要な課題となったのだ。
「実際、晋太郎さんは民団とも総連とも全方位で付き合っていました。下関には呂成根さんという総連の大物商工人がいたのですが、その方とも相当に親しかった」(同前)
晋太郎・晋三一家に40年余り家政婦として仕えた久保ウメは、かつて雑誌のインタビューに応え、晋太郎についてこんなことを話している。
「お棺に入れるときにあの人の骨格、あれはやっぱり日本人のものじゃないと思ったの。肩の幅から下までまっすぐに定規を引いたみたいな。これは完全に韓国の体形。自分で『僕は朝鮮だ、朝鮮だ』と言っていたけども、なるほどこれは朝鮮だなと思った。だから、あっちですごくモテたってよ」
そんな晋太郎は生前、山口県の在日の間で絶大な人気を誇ったという。
「人柄が素晴らしいんですよ。悪く言う人はひとりもいない。いまだって人気は色あせていません」(民団幹部)
■派閥政治とパチンコマネー
岸が日韓国交正常化を踏み台に、地元・山口県と韓国にまたがる形で築いた「王国」と人脈は、娘婿・晋太郎にも受け継がれた。その上、晋太郎は在日とのパイプをさらに太くしていく。
かつて晋太郎が住み、いまは晋三名義となっている敷地面積2千平方メートルの豪邸は、下関市街を見下ろす高台に建っている。
この家のかつての持ち主の名は、吉本章治という。福岡市に本社を置くパチンコ店チェーン・七洋物産の創業者で、日本に帰化した在日1世である。
晋太郎は長らく、自宅と地元事務所を七洋物産の子会社から格安で賃借していたほか、福岡事務所をタダで借り、スタッフの提供まで受けていた。自宅は後に晋太郎が購入しているが、地元事務所は現在まで借り続けている。
*“トラブル処理”に強い人脈
吉本は下関で商売を始め、地盤を九州に広げつつ成功を手にした。
数年前に80才で他界した吉本は生前にも、晋太郎については「生きる姿勢が在日と良く似ている」「本当に気のいい男だ」などと語るだけで、深い部分については容易に語ろうとしなかったという。
下関出身の在日の会社経営者によれば、吉本は地元の“トラブル処理”において、きわめて強い人脈を持っていたという。
「吉本さんは若い頃、訳あって妻子の許を離れていた時期があったんです。その間、彼の妻子の面倒を在日の鯨肉業者が良く見ていました。
その後、この業者の次女が、ある画家に嫁いだ。映画館の看板を描いていたその画家は、なかなか腕前がよく甲斐性もあったのですが、(画家の)父親が死ぬとその遺言を受けて、下関のトラブル処理に関わる“稼業”を継がねばならなくなった。
そうなって以降、商売に成功して鯨肉業者に恩義を感じていた吉本さんが、その“稼業”をバックアップしていたのです」
*「トップ当選」を果たすために
また、吉本のそうした人脈は、安倍家ともつながっていったという。
「吉本さんは、北九州地域の“トラブル処理”に強い影響力を持っていたK氏という人物とも親密でした。安倍家の人間の中には、吉本さんの奥さんやK氏の夫人と海外旅行などに出かけていた女性もいます」
興味深いのは、晋太郎が在日の支援を受けなければならなかった理由だ。
意外かもしれないが、もともと晋太郎の選挙地盤はぜい弱だった。中選挙区時代に晋太郎が立候補したのは旧山口1区だが、岸の地盤を継いだわけではなく(岸は旧山口2区)、落下傘候補に近い。実際に2回目の選挙では落選の憂き目にあっている。地元政界の事情通が話す。
「旧山口1区の定数は4議席で、3つを自民党候補が分け合い、残りを社会党が取る構図が定着していました。次期総理をねらうには単に当選するだけではダメで、トップ当選が至上命題だった。
しかも、晋太郎さんには林義郎元蔵相という強力なライバルがいました。林家は下関の三大名家のひとつで、サンデン交通や山口合同ガスといった地元大手企業のオーナー筋に当たる。それに勝つために、晋太郎さんは中小企業を幅広く糾合する必要があった。
在日の企業は資金力があり、多くの従業員を抱えていた。帰化していれば献金しても問題ないし、従業員はほとんどが日本人ですから、票集めの上でも無視できなかったはずです」
*児玉誉士夫と町井久之が号令
また、晋太郎は地元での票の取り合いに加え、中央政界での権力闘争でも勝ち抜かなければならなかった。時は、派閥政治の全盛期である。総理の座をつかむには、カネはいくらあっても足りない。
ちょうどその頃、下関では日韓国交正常化で商機をつかんだ在日の商売人が急速に力を増していた。
ある在日の水産業者は漁獲だけでなく、「副業」からも莫大な収入を得たという。
「むかし、貧しかった頃の韓国では日本製の腕時計がたいへんなステータスで、安いモノでも高く売れた。しかし普通に輸出したのでは高率の関税がかけられる。そこで、船員たちの下着に時計をいくつも縫いつける方法で密輸したんです。だから下関の時計屋は縫い子の女性をいっぱい雇っていたものです」(前出・在日の会社経営者)
水産業以外の商売でも、在日はおおいに潤った。
「下関の全盛期、漁師たちは大金を握りしめて陸に上がり、酒にオンナ、博打で湯水のように使った。在日はもともと、水産業よりそっちの商売が強かった。大きくなったパチンコ屋は、あのとき商売の土台を築いたんです」(同前)
その後、下関の水産業は乱獲のため水揚げが減少。急速にパワーを落として行った一方で、バブルの追い風を受けたパチンコマネーは拡大を続けた。
地元の在日が日々稼ぎだす膨大なキャッシュに、総理の座をうかがう政治家が魅力を感じないはずもない。
一方、在日の中からは、こんな話も聞こえる。
「岸さんが児玉さん経由で、町井さんに晋太郎さんへの支援を要請したと聞いています。民団草創期の大幹部だった町井さんは、下関にも仲間が多く、いくらでも号令をかけることはできましたから」(同前)
もっとも、町井から声がかからずとも、下関の在日が晋太郎を支援する理由はいくらでもあった。韓国と北朝鮮の国力に今ほど大きな差がなく、冷戦下で熾烈な体制間競争が繰り広げられていた時代である。「未来の総理」と親交を深めることは、韓国系の民団と北朝鮮系の朝鮮総連の双方にとって重要な課題だったのだ。
*初陣の「逆風選挙」でも在日が支援
晋三が初めて立候補したのは、自民党が下野した1993年の衆院選である。地元では晋太郎の系列だった県議が反旗を翻して対立候補となり、突然の逆風に見舞われた。
そんな中でも、父の代から安倍家を支えた在日は晋三の応援を続け、経営するホテルの従業員とともに「エイエイオー」とエールを送った経営者もいた。
「あの時は、秘書や支援者の一部も反対陣営に回った。在日の義理堅さは有難かったでしょう」(地元紙記者)
地元の在日の間で、晋三の人柄に対する評判は必ずしも悪くはない。
「孫の披露宴には、札幌から駆け付けてくれました。本当に義理堅い人です」(アリラン食堂の鄭さん)
「国籍や民族で分けへだてする人じゃありません。在日ともフランクに付き合っていますよ」(安倍事務所の関係者)
もっとも晋太郎の時代と比べると、晋三と在日の付き合い方には変化も見える。前出の在日2世のパチンコ店経営者がいう。
「晋太郎さんと父たち在日1世の時代には、政治家との付き合いに対する世間の目も大らかだったんです。外国人献金がどうのと、あまり細かいことはいわなかった。ところが今では、10万円や20万円の献金でも叩かれる」
とはいえ、晋三の周辺から、在日人脈がまったく消えてしまったわけではない。
晋三の下関にある地元事務所は、晋太郎の後援者であった在日系企業・七洋物産の子会社から今も借りているし、晋太郎の助力で業績を伸ばした在日の水産業者は、晋三の代になっても支援を続けている。
もちろん、日本に帰化していれば、彼らが献金などの形で晋三を支援することに何ら問題はない。また、下関出身のある在日の実業家は、晋三に様々な人脈をつないでいる。
*晋三の隣に立つ大物金融ブローカー
『週刊ポスト』は2012年10月26日号で、「安倍晋三『黒い交際写真』の謀略」と題する記事を掲載した。その写真は議員会館の安倍事務所内で撮られたもので、晋三をはさんで2人の男性が写っている。
晋三の右側に立ち、白い歯を見せて笑っているのは、米国の元アーカンソー州知事、マイク・ハッカビーである。共和党の大物政治家で、 2008年の大統領選(党予備選)にも出馬して善戦した。ハッカビーは同年6月に来日しており、写真はそのときに撮られたものだ。
『週刊ポスト』が「黒い交際」として問題視したのは、晋三の左側に立つ、短髪で白いスーツ姿の男性である。「山口組の金庫番」とも言われた在日2世の大物金融ブローカーで、総連にも民団にも太いパイプを持つ。男性は写真が撮られた数年後、中堅ゼネコンの架空増資事件に絡み有罪判決(貸金業法違反)を受けている。
尤も、件の写真が撮られた経緯は、いたって単純なものだった。晋三の関係者が話す。
「晋三さんの地元の有力後援者に、米国のハッカビー氏から『安倍さんを紹介して欲しい』と打診があり、すぐにオーケーしました。ところがハッカビー氏の到着当日、大統領選の候補者の送迎にふさわしい車両の手配が出来ていなかったんです。
そこで件の在日男性が、『タクシーに乗せるわけにもいかんだろう』と、自分のロールスロイスを出してくれた。そういう流れで本人も同行し、写真を撮っただけなんです」
*北朝鮮中枢につがなる「力道山人脈」
ちなみに、晋三にハッカビーをつないだ在日の実業家はアントニオ猪木とも親しく、北朝鮮にも複数回にわたり渡航したことがあるという。
本人に渡航の目的をただすと、「政治的な意味はありません。帰国事業で向こうへ渡った親族に会いに行っているだけ」との回答があった。
それがウソでないにせよ、この後援者が、猪木と晋三の会談の場を提供したことがあるのも、また事実だ。そして、猪木が連なる「力道山人脈」は、北朝鮮の権力中枢に近いところにいた。
ほかにも、北朝鮮や韓国に特殊な人脈を持つ在日は、晋三からそう遠くない所に少なからずいる。今のところ、晋三がそうした人脈に手を伸ばした形跡はないが、岸や晋太郎ならば存分に活用したはずだ。
今後、晋三が在日とどのように関わっていくのかはわからない。
しかしいずれにせよ、岸信介から安倍晋太郎、晋三と三代にわたる政治家一族が在日人脈を政治的な「資産」として運用し、自らのパワーに取りこんできたのは、紛れもない事実なのだ>(以上)
考えてみれば地理的に古代から下関・博多は日本/朝鮮の玄関だから、在日と政治家の関係は濃厚になる。持ちつ持たれつだ。日韓国交正常化の立役者である岸信介、その孫の安倍晋三が今の“日韓国交不正常”を再び(数年後には)正常化させることになりそうだが、まあ因縁なのだろう。
在日は南北とも日本で生計を立てながら、多かれ少なかれ反日だ。日本人は「それなら出ていけばいいのに」と思うが、どんどん日本にやってくる(支那人も)。この辺の複雑なマインドをどなたか解説してくれるとありがたい。(2015/5/23)