室 佳之
ここまで李垠・方子両殿下の足跡を小生なりに辿ってきた。本来であれば
お2人のご成婚がどのような経緯で進められたか等々も書かねばならない
のだろうが、大方関連書籍に出ており、今更とも思い、そこは触れてこな
かった。
日韓融和の象徴という、もちろんそれも期待されたのだろうが、素人の小
生がその点を何やかんや書いても詮無いことかと思う。しかしながら、李
朝王族方と日本の皇族との関係において、何人か紹介したい方々がおられる。
そもそも李垠殿下は、方子妃殿下が正式な妃となる前の、日本留学前の10
歳の頃より、閔甲完(びん・こうかん、ミン・カブァン)という将来の妃
となる方がおられた。方子妃殿下もこの方のおかれた境遇には、とりわけ
心を痛められていたことを自伝において書かれている。
許嫁となったからには、決して他の男性へ嫁げないという厳しい掟があ
り、生涯独身を貫かれた。
一方、方子妃殿下について云えば、実は、昭和天皇の妃候補の3人のうち
のお一人であった。昭和天皇と同じ年のお生まれで約半年違い。あとのお
二人が、皇后となられた久邇宮良子(くにのみやながこ)女王(香淳皇后
陛下)と一條朝子(ときこ)のちの伏見宮博義王妃殿下である。一説に方
子妃殿下は、どういう根拠だか分からないが不妊症だから昭和天皇の妃候
補から外れたという。
そうだとすれば、李垠殿下とのご成婚は、お家断絶を目論んだのかとも受
け取れる。しかし、実際は男子お二人をご出産されている。
日韓で結ばれたケースが実はもう二組ある。お一人は『その2』で紹介し
た垠殿下の異母妹『徳惠(トッケー)』姫である。垠・方子両殿下ご成婚
の際には、可愛らしく御そばにおられたそうだが、日本留学後に旧対馬藩
主である宗武志(たけゆき)に嫁ぎ、長女正惠(まさえ)をお生みになっ
たものの、今でいう統合失調症が年々悪化し、松沢病院(=古くからある
東京の精神科病院)へ入院されるほどとなった。戦後離婚しており、晩年
は韓国へ帰国され、方子妃殿下とともに過ごされた。
もうひと方は、垠殿下の異母兄(27代純宗王の異母弟でもある)『李堈
(り・こう、イ・ガン)』の長男である『李鍵(り・けん、イ・ゴン)』
公である。垠殿下の甥にあたる。李鍵公は、松平誠子(よしこ、のち佳
子)と結ばれるが、実のところ誠子妃は方子妃殿下の母方(伊都子妃)の
従姉妹という、ここにも不思議な縁がある。
李鍵公は王族身分であったが戦後は臣籍降下となり、日本人として生きる
ことを決意し『桃山虔一』となる。渋谷で屋台のお汁粉屋を営みはじめ、
それを傍からご覧になった李垠・方子両殿下が強く感銘を受けられたよう
だ。しかし、鍵・誠子は行き違いにより戦後離婚される。結果的に、3組
の日韓の家族は、2組が離婚することとなった。
これとは別に、上述の李鍵公の弟である『李鍝(り・ぐう、イ・ウー)』
公は、日本人とは結婚せず、韓国人朴賛珠(ぼく・さんじゅ、パク・チャ
ンス)と結婚された。
方子妃殿下は、自身たちのことと比較して、韓国人同士で結ばれたことを
喜ばれていた。しかし、悲劇が待っていた。陸大54期卒業で、中佐にまで
昇進し、昭和20年7月に方子妃殿下とご対面した李鍝公は、直後の8月6日
に広島で被爆死される。
側近の御付武官吉成弘は責任を取って自決された。思い返せば、昨年オバ
マ米大統領が広島訪問の際のスピーチにおいて、犠牲者にKoreansと加え
たのは、李鍝公が象徴となっていたからではないのだろうか。
以上、見てきた通り、李王族は垠・方子両殿下のみならず、その周りの
方々も大きく近現代史に左右されてきていることが分かる。
戦後、李承晩(り・しょうばん、イ・スンマン)大統領は、垠・方子両殿
下に対し実に冷たかった。李承晩は、垠殿下と同じ全州(チョンジュ)李
氏であるため、王政復古を疑い、韓国への帰国を最後まで許さなかった。
その証拠に、李承晩が来日された際、方子妃殿下がご帰国の希望を直訴さ
れたにもかかわらず、ほとんど取り合わなかった。
方子妃殿下は、ご帰国をとにかく望まれたのだが、その理由は垠殿下の体
調悪化による。脳溢血により徐々に弱っている中、何としても故郷の地へ
帰らせたいという思いがあった。ようやくその思いを汲んだのが、先日弾
劾された朴槿惠大統領の父、朴正煕である。
当時(1961年以降)朴正煕は『(垠殿下が)日本でお亡くなりになったら
民族の恥』と云い、皇室からの援助も乏しくなった両殿下を全面的に支援
する旨を宣言される。
方子妃殿下が御帰国後、韓国での福祉事業に携わる際は、朴正煕夫人の陸
英修(りく・えいしゅう、ユギョンス)女史も、度々妃殿下のことを援助
されたようだ。
余談だが、小生の手元に17年前に購入した陸英修夫人の肉声テープ(月刊
朝鮮発行)があり、テープを聴いているとその明るい話し方が国民を魅了
し、国母であったことがよくよく分かる。その陸夫人は在日朝鮮人の凶弾
に倒れ、さらに朴正煕は側近の凶弾に倒れた。形を変えて今回は、長女の
朴槿惠が弾劾という形で大統領職から引きずり降ろされた。
偶然にも今年は朴正煕生誕100年である。小生は弾劾決定の翌日、朴正煕
のソウル時代の家屋(ソウル市中區新堂洞=シンダンドン)を訪問した。
案内人は、長女槿惠弾劾を口惜しがっていたが、それとともに今年の生誕
100年祭が開かれるのか心配されていた。混乱が混乱を招き、つくづく残
念な結果を招いている韓国社会である。
李垠・方子両殿下が望まれた安寧の社会となる日はまだまだ遠いのだろう
か。ほとんど力となれていないが、両殿下のご遺志を少しでも実現すべく、
微力ながらこの先も韓国との所縁を大事にしたいと心新たにした8年ぶり
の渡韓であった。
尚、今回の拙文は、『その1』が頂門の一針に掲載されなかったので、下
記小生のブログアドレスを載せるので、ご関心あれば訪ねてみてください。
http://blogs.yahoo.co.jp/yamar5251/13692132.html